2章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
暖炉の火が、赤い舌をゆっくりと揺らしていた。
応接間の空気は熱に満たされているはずなのに、肌に触れるものだけが冷たい。磨き上げられた床の光沢さえ、ひとつの嘘のように見える。
レギュラスは椅子の背に預けたまま、微笑みの角度を変えない。
穏やかな声。礼儀正しい目。誰にでも差し出せるはずの“社交の顔”が、今は刃に研がれている。
ローランドは、真正面の壁に目を向けたまま動けなかった。
どれほど丁寧に言葉を選んでも、どれほど正しく振る舞っても、すべてがこの部屋の中心に引きずり出され、晒され、並べ替えられる。
その光景を、アランが隣で息を殺して見ている。――その事実が、胸の奥を抉った。
レギュラスは、あくまで静かに問いを重ねる。
呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。
ひとつ答えれば、次が来る。
答えなければ、答えないこと自体が罪の証明になる。
逃げ場は、最初から用意されていない。
アランの指が膝の上で白くなっていた。
爪が食い込み、皮膚が薄く波打つ。
それでも彼女は姿勢を崩さないまま、夫の視線を受け流そうとする。受け流すことで生き延びようとしている。
だが、受け流せるほど、レギュラスは甘くない。
「……ねえ、アラン」
名を呼ばれる。
それだけで、胸が小さく跳ねたのが分かった。
レギュラスの声には怒鳴り声の欠片もない。だからこそ、逃げられない。
「わからない、で通すのは好きじゃないって、言ったはずです」
優しい言い方だった。叱っているのに、撫でるみたいに言う。
そしてその優しさが、次に来るものを予感させて、アランの喉を締めつけた。
ローランドは、視線を上げられない。
上げれば、彼女の顔が見える。
あの翡翠色の瞳が――自分に向けて笑っていた頃の名残を残したまま、今は別の男の言葉で少しずつ壊されていく様を、まともに見てしまう。
耐えられなかったのは、アランのほうだった。
呼吸が乱れた。
肩が一度、小さく揺れた。まるで堤防に入った亀裂が、今にも決壊しそうに震えるみたいに。
唇を噛み、歯を食いしばっていたはずなのに、次の瞬間、彼女は椅子から滑り落ちるように立ち上がった。
そして、膝が折れた。
音がした。
膝が床に触れる乾いた音。
それだけでローランドの内側が裂けたように痛んだ。人が崩れる音だった。
アランは跪いた。
背筋はまだ崩れていない。崩れていないことが、かえって痛ましい。
礼節を捨て切れないまま、命乞いに身を投げる姿だった。
「お願い……レギュラス……もう、やめて……」
声が震え、言葉の端が掠れる。
泣き声を押し殺そうとして失敗したような、苦しい息が混じる。
「……なんでもします。あなたの望むように……なんでも……」
その言葉を言った瞬間、彼女の頬を涙が伝った。
落ちる涙は綺麗だった。綺麗で、残酷だった。
ローランドは胸がはち切れそうになった。――彼女がこうなるのは、自分のせいだと、体の奥で理解してしまう。
反射的に椅子から立ち上がりそうになる。
止めなければ、と。
謝らなければ、と。
それでも身体は動かなかった。動けば、もっと彼女を傷つける。動けば、レギュラスの“正しさ”の材料になる。動けば、彼女がここで耐えようとしている最後の自尊心を、自分が踏み潰す。
ローランドの指が震え、拳が解けてはまた固く握られた。
爪が掌に食い込み、痛みだけが現実を繋ぎ止める。
レギュラスは、その跪いた妻を見下ろしながら、表情を変えなかった。
驚きもしない。揺らぎもしない。
むしろ、ようやく望む形に落ちてきた、とでも言うように、ほんの僅かに唇の端を持ち上げる。
「……やめて、ですか」
淡々とした声が、床を這うように落ちた。
「やめたら、何が起きるんでしょう。僕が何も知らなかったことにして、あなたはまた笑って、いつも通りの妻を演じるんですか?」
問いは柔らかい。
けれど答えれば血が出る。
アランは首を振る。必死に。
涙が落ちて、床に小さな染みを作る。
その姿があまりに痛々しくて、ローランドの視界が揺れた。
「ちが……っ……違います……」
「違うなら、言ってください」
レギュラスの声は、低くも高くもならない。
ただ、決して退かない。
「“なんでもします”って言いましたよね。なら、質問に答えるだけです。簡単でしょう」
まるで、子どもに作法を教えるみたいな口ぶりだった。
“簡単”という言葉が、アランの心をさらに折った。
簡単で済むなら、こんなふうに跪いていない。
ローランドは、唇を噛みしめた。
血の味がした。
吐き気が込み上げる。
この男は、彼女の涙を“答えを引き出す道具”として扱っている。
彼女の誇りを、恐怖を、恥を、ひとつずつ並べて、正しさの名で潰している。
「レギュラス……お願い……もう、これ以上は……」
アランの声が細くなる。
身体が震え、肩が小刻みに揺れ始める。呼吸が浅くなる。
その様子を、レギュラスは落ち着いた目で観察する。――観察して、逃げ道になりそうな瞬間を塞ぐ。
「“これ以上”って、どこからです?」
質問形式の刃。
逃げ道を塞ぐ癖。
アランは答えられない。答えれば“線引き”を自分で作ることになる。その線は、レギュラスが切るためにある。
「…… アラン」
今度の呼び方だけが、やけに親密だった。
それが余計に彼女を震わせる。
優しさに見せかけて、支配を深くする呼び方。
「僕は、あなたのことを、ちゃんと理解したいだけなんです」
ローランドの胸が痛む。
理解したい、という言葉が、これほど残酷になるのを初めて見た。
理解とは名ばかりで、これは“屈服の手順”だ。
アランは、床に手をついて頭を垂れた。
長い髪が肩から落ち、涙の跡を隠してしまう。
隠れるように、逃げるように。
その小さな仕草にさえ、レギュラスは反応する。
「隠さないでください」
静かな声。
言い切り。
命令に聞こえない形で、命令する。
レギュラスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。
靴音が床を叩くたび、ローランドの喉が詰まった。
近づくな、と叫びたい。
でも叫べる立場ではない。
叫べば、アランがさらに傷つく。
レギュラスは跪く妻の前で足を止め、少しだけ屈む。
指先で、彼女の顎を持ち上げる。触れ方は乱暴ではない。むしろ丁寧だった。
だからこそ、逃げられない。
「ねえ、アラン。僕の望むように、なんでもするんでしょう?」
囁きが、鎖になる。
アランは涙で濡れた睫毛を震わせ、必死に頷いた。
声が出ない。
喉の奥が痛い。
「はい」と言えない自分が、また怒りを招くと分かっているのに。
レギュラスは、それを見て微笑んだ。
微笑みは綺麗だった。貴族の顔だった。
そして、貴族の顔のまま、酷いことを言う。
「じゃあ、答えましょう。今ここで」
優しい提案みたいに。
逃げ道を示すみたいに。
けれど実際は、檻の位置を教えるだけだ。
ローランドは、胸が痛すぎて息ができなかった。
アランが跪く姿は、祈りにも似ていた。
祈りは救われるべきものなのに、この場に神はいない。いるのは、祈りを折って形を整える男だけだ。
「やめてください……」
ローランドの口から、かすれた声が漏れそうになる。
喉の奥で殺した。
言えば、すべてが悪化する。
それが分かるのに、目の前のアランが崩れていくのを止められない。
その無力さが、ローランドの胸を裂いた。
レギュラスは、ローランドの気配を一瞥もしなかった。
視線の中心にあるのは、跪く妻だけ。
まるで、第三者など最初から存在しないかのように。
「僕を見て」
レギュラスが言う。
アランは震えながら顔を上げる。
涙の跡が頬にいくつも残り、唇は噛みしめたせいで赤い。
それでも美しい。
それがまた、ローランドの心を壊した。
「……いい子ですね」
褒めるように言って、次に来る言葉が鋭い。
「じゃあ、答えてください。最初からやり直しましょう」
淡々と、容赦なく。
アランが崩れたことすら“進行の一部”に組み込まれていく。
レギュラスの声は、泣く妻に対してさえ乱れない。
「呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。……あなたが“なんでもする”と言ったんです。僕はそれを、きちんと受け取ります」
受け取る、という言葉が恐ろしかった。
慈悲ではなく、取り立てだ。
アランの涙も、誇りも、秘密も。すべて“受け取られる”。
アランは膝の上で、小さく息を吸った。
肺が痛い。
声が震える。
それでも――父を呼ばれるよりは、屋敷中に知られるよりは、アルタイルの前で壊されるよりは、と、必死に理屈を掴んで立っている。
「……レギュラス……」
名前を呼ぶだけで、声が裂けた。
懇願の形になる。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、答えを待つ。
待ちながら、その沈黙で彼女をさらに追い詰める。
応接間には暖炉の火の音だけが響く。
ローランドの胸ははち切れそうだった。
それでも世界は何事もないように美しく、整然として、ただ――跪いたアランの涙だけが、床に小さな染みを増やしていく。
そしてその染みの数を数えるみたいに、レギュラスは静かに言った。
「さあ。……答えてください」
暖炉の火は、もうずっと同じ速度で燃えている。
けれど応接間の空気だけが、どこか薄く裂けたまま戻らない。
ローランドは、椅子の縁を指先で掴んでいた。白手袋越しでも分かるほど、掌が汗ばんでいる。
正しく呼吸をしようとして、息が胸の途中で引っかかる。視線は上げない。上げれば、そこにいるのが誰かを――はっきり認めてしまう。
床に跪いたままのアランは、泣き腫れた睫毛を伏せ、肩先を小さく震わせている。彼女が必死に整えようとしている呼吸の音が、ローランドの耳には針のように刺さった。
自分が、その呼吸を乱した。
その事実が、胃の奥を掴んで離さない。
レギュラスは、椅子に背を預けたまま、グラスの水面に指先で触れる。ほんの微細な波紋が広がって、すぐに静まる。
彼の表情も同じだった。乱さない。崩さない。
乱れているのは、この部屋の他の二人だけで、それがまるで最初から予定されていた配置みたいに整っている。
「……フロスト殿」
呼ばれただけで、ローランドの喉が狭くなった。
目の前の男は穏やかに微笑んでいる。まるで、ただの談笑を続けるだけのような顔で。
「さっきの答え、少し……食い違っていましたよね」
その言葉の“少し”が残酷だった。
少し、で済むならいい。けれど現実は、少しでは済まない。
その食い違いの間に挟まれているのは、アランの尊厳で、アランの暮らしで、アランの父で、そして―― アランが必死に守ろうとしたものだった。
ローランドは、唇を噛んだ。
噛んでも、舌先に血の味が滲むだけで、何も取り戻せない。
「……ブラック様」
ようやく声を出すと、礼儀が先に立ってしまう。いまさら礼儀しか残っていない自分が、情けなくて仕方がなかった。
「……先ほどの、僕の回答が……正確ではありませんでした」
静かに告げた瞬間、床のアランの肩がびくりと跳ねた。
その反応だけで、ローランドの胸がきしむ。
レギュラスの口元が、ほんのわずかに上がる。喜びではない。ただ、“やっと来た”という合図のような笑み。
「正確ではない。……なるほど」
彼は頷き、指先でグラスの縁をなぞった。
まるで、続きを促すのが礼儀であるかのように。
「では、合わせに来てくださったんですね。……ありがたい」
礼を言われたのに、背筋が凍る。
この男の感謝は、免罪符ではなく、鎖だ。
ローランドは息を吸い直した。
頭の中では、言ってはいけない言葉が暴れている。
それでも、言わなければならない。
これ以上、アランが踏み潰されるのを見ていられない。
「誘ったのは……僕です」
口から落ちた言葉は、鈍い音を立てて床に転がったように感じた。
アランの指先が、床の絨毯を掴む。耐えるための力が入っている。
レギュラスは、あくまで丁寧に頷いた。
「へえ」
その一音が、刃だった。
「フロスト殿。では次も、確認させてください」
穏やかな声。優しい語尾。
なのに“確認”という単語が、容赦なく心臓を締め上げる。
「呼び方は?」
ローランドは一瞬、言葉に詰まった。
喉が熱くなる。あの部屋の空気が、一瞬だけ蘇りそうになって、必死に押し戻す。
唇を噛んで、目を伏せたまま答える。
「…… アラン……と」
アランが小さく息を呑む。
その音が、ローランドには悲鳴に聞こえた。
レギュラスは微笑んだまま、ゆっくりと首を傾げる。
「……なるほど。ブラック夫人、と呼ぶ口が」
そのまま言葉を切り、間を置く。
間が、苦痛を増幅させる。
ローランドの胸の奥で、何かが崩れていく音がした。
「“ アラン”と呼んだ」
レギュラスはやわらかく確認した。
丁寧な確認。丁寧な断罪。
「時間は?」
「……短い時間です。研究の合間に……」
「“短い”とは、何分です? 何時間です?」
追い立てない。声を荒げない。
ただ、逃げるために使われる曖昧さを一つずつ剥がす。
ローランドは、歯を食いしばった。
「……数時間です。……数回、でした」
レギュラスは、軽く頷いた。
「回数は?」
ローランドは息を吐き、声を絞り出す。
「……三回です」
床のアランが、指先を震わせた。
あれほど守ろうとした“数字”を、別の口から言われていく。彼女がどんな顔でそれを聞いているのか、ローランドは見られない。見れば壊れる。
レギュラスは、そこで初めて、椅子の背から身体をわずかに起こした。
目が、少しだけ細くなる。
「そう」
一言。
それだけで、部屋の温度が変わる。
そして、彼は次の質問を投げた。まるで柔らかな布を掛けるみたいに、残酷な言葉を選ぶ。
「どうでした? 僕の妻は」
ローランドの顔から血の気が引く。
“妻”という二文字が、鉄のように重い。
答えろ、と言われている。
答えれば、アランが壊れる。
答えなければ、またアランが壊される。
ローランドは喉を鳴らし、震える息を飲み込んだ。
「……ブラック夫人は……」
呼び名を戻すのが精一杯だった。
それでもレギュラスは許さない。小さな笑みを崩さないまま、さらに指先で追い込む。
「よかったです?」
軽い口調。
軽いのに、胸を抉る。
ローランドの唇が、わななく。
返せる言葉がない。
“よかった”と断言できるほど、卑劣に振る舞えない。
“よくなかった”と言えば、彼女の価値を汚す。
沈黙は長く感じた。暖炉の火がぱちりと鳴って、ローランドはその音に救われた気がした。
だが救いはなかった。
レギュラスは、まるで一緒に考えてあげるように、囁く。
「クラリッサ嬢は抱けず、人のものは抱けるとは」
ローランドの身体が硬直する。
その名が出た瞬間、罪悪感が鋭く腹を裂いた。
自分の屋敷で、無邪気に寄り添う妻の顔が浮かぶ。
優しい声で「急がなくていいんです、クラリッサ」と言い聞かせた夜のことが、胸の奥でひどく痛む。
「……っ……」
声にならない音だけが漏れた。
レギュラスは、その反応を見逃さない。見逃さず、笑いもしない。
ただ、静かに“次”を落とす。
「アルタイルを褒め称えてくれた口が」
そこで、わずかに視線が床のアランへ落ちる。
アランは、息を止めたまま動かない。
息を止めることで、今にも崩れそうな自分を必死に繋いでいる。
レギュラスは、またローランドに視線を戻す。
「人の妻に愛を囁いていたとは」
ローランドの喉が、ひくりと引きつった。
“愛”という言葉が、喉に刺さる。
囁いた。確かに。
囁いた瞬間、アランの瞳が揺れ、彼女が涙を零して、抱きついてきた。
その記憶が、今は泥のように重くまとわりつく。
ローランドは、ようやく顔を上げかけた。
けれど視線はレギュラスに届かない。届く前に、アランの輪郭が視界の端に入りそうで、恐ろしくて止めた。
「……ブラック様……」
言葉の先が続かない。
謝罪でも弁解でもない。
ただの呼びかけ。助けを求めるみたいな呼びかけ。
それがどれほど無様か、ローランド自身が一番分かっている。
レギュラスは、微笑んだまま、ゆっくりと首を傾ける。
「困りますね。合わせに来てくださったんでしょう?」
丁寧な声が、容赦なく縫い付ける。
「さっきの“食い違い”を、綺麗に揃えてください。……ひとつずつ」
それは命令ではなく、作業の指示だった。
二人の過去も、罪も、情も、全部を“整合性”に変換する。
そうやって、アランを、ローランドを、“逃げられない形”に整える。
ローランドは目を閉じた。
瞼の裏が熱い。泣く理由などないのに、涙が滲みそうになる。
この場で泣けるのはアランだけだ。泣く権利があるのもアランだけだ。
自分はただ、答えなければならない。彼女がこれ以上壊されないために。
「……はい」
小さな返事が落ちた。
その瞬間、床のアランが、震える声で掠れた懇願を漏らした。
「……お願い……レギュラス……」
もうやめて、と言いかけたのだろう。
けれど言葉にならないまま、喉で潰れる。
彼女の涙がまた落ちる。
レギュラスは、その声に振り向かない。
振り向かずに、ただ穏やかに言う。
「黙っていてください、アラン」
優しいのに冷たい。
優しいから冷たい。
「フロスト殿。では、続けましょう」
その声が、次の地獄の合図だった。
ローランドは息を吸い、震える唇を開く。
答えるたびにアランが傷つくのが分かっているのに、答えなければ彼女はもっと傷つく。
暖炉の火は、相変わらず同じ速度で燃えていた。
この部屋だけが世界の中心で、誰も助けに来ない。
そしてレギュラスの声だけが、静かに、丁寧に、確実に、二人を同じ場所へ追い詰めていく。
ローランドは、ひとつ答えるたびに、胸の内側が一枚ずつ剥がされていくのを感じていた。
皮膚ではなく、もっと奥――言葉にならない羞恥や、守りたかったものの輪郭そのものが、丁寧に、爪先で削られていく。
レギュラスの声は終始変わらない。荒げもしない。怒鳴りもしない。
だからこそ逃げ場がない。感情の温度でぶつけられる暴力ではなく、正しい体裁を纏った冷たい手続きとして、質問が降ってくる。
「いつ、どこで」
「どのくらいの時間」
「あなたから触れた? 彼女から?」
――その“彼女”という呼び方が、ローランドの喉を絞めた。
アラン、と呼びたいのに呼べない。ブラック夫人、と呼ぶべきなのに、その二文字ですら舌が拒む。
呼称ひとつが、もう罰の形をしている。
口を開けば、乾いた息が先に漏れた。唇の端が切れるほど噛みしめて、それでも言わされる。
言わされている、と認めた瞬間に、もっと深く沈むのが分かっているのに。
「……研究室の奥、です」
やっと絞り出した声は、自分のものではないみたいに聞こえた。
応接間の空気が微かに震え、すぐに静まる。暖炉の火がぱちりと小さく弾けた。それが、まるで合図のように聞こえる。
床に跪いたアランが、かすかに肩を揺らした。
見ないでおこうと決めていたのに、視界の端で、それが分かってしまう。
泣くのを堪える呼吸の乱れ。喉の奥で押し殺す嗚咽。指先が絨毯を掴む力。
彼女が、ここまで追い詰められた姿を――自分は初めて見る。
いや、違う。
初めて“見る”だけで、きっとこれは、彼女にとっては“初めてではない”。
そう思った瞬間、胸がひどく痛んだ。
こんな風に、なじられたのだろうか。
昨日だって、いや、もっと前から。
泣き腫らした目で、それでも涙を止められず。
答えられないと追われ、答えればまた追われ。
跪いて、懇願して、頭を下げて――それでも許されず。
想像しただけで吐き気がした。
吐き気がするのに、責める資格もない。
自分が、その地獄の原因なのだから。
「……続けてください」
レギュラスの声音には、苛立ちすら混じっていない。
淡々としている。綺麗な礼儀の殻で出来た言葉が、ローランドの背骨を一本ずつ折っていく。
「あなたは、どういう言葉で彼女を呼びました?」
ローランドは息を止めた。
喉の奥がひくりと引き攣る。
言えば、彼女の心に残していたものまで、外に引きずり出してしまう気がした。
言わなければ、彼女がまた傷つく――それはもう見たくない。
「……名前で」
「“ アラン”と?」
問いの形は確認なのに、刃物だった。
肯定した瞬間、すべてが確定する。
確定したものは、二度と戻らない。
ローランドは小さく頷いた。頷くしかなかった。
アランの小さな吸い込みが聞こえた気がして、胸の奥が割れそうになる。
レギュラスは、わずかに笑った。笑ったというより、口元の形を変えただけだ。
「……素晴らしいですね」
褒めているように聞こえるのが、余計に残酷だった。
「ブラック夫人、と呼ぶその口で。僕のいないところでは、ずいぶん親密に」
ローランドの視界が一瞬白くなる。
その言葉の中には、糾弾だけではなく、嘲りと、そして何か――もっと湿った感情が混ざっている気がした。
けれどローランドには、それを測る余裕などない。ただ膝の上で握った指が痺れていく。
「次です」
レギュラスは容赦なく続ける。
「彼女は、嫌がっていましたか?」
その質問だけは、ローランドの中で何かを暴れさせた。
嫌がっていたか。
答え方を間違えたら、彼女の尊厳を踏み抜く。
でも曖昧に逃げたら、またアランが責められる。
ローランドの唇が震えた。
言葉を選んでいるつもりでも、選ぶたびに傷が増える。
「……嫌がって、いません」
言ってしまった瞬間、心臓が一段落ちた。
床にいるアランの呼吸が止まる。止まったまま、細く震える。
レギュラスは頷いた。
「なるほど。なら、あなたは“正しいこと”をしたつもりで?」
ローランドは首を振りたかった。違う、と。正しくなどない、と。
けれど否定の言葉は、自分を庇う言葉になってしまう。
庇う資格などない。
「……違います」
ようやくそれだけ言うと、レギュラスはまた静かに言葉を重ねる。
「違うなら、どういうつもりでした?」
逃げられない。
問いは、心の奥に釘を打つように正確で、しかも外側には礼儀を纏っている。
“無礼だ”と怒ることすら許されない。怒った瞬間に、こちらが悪者になる構造が完成している。
ローランドは、唇の内側を噛んだ。鉄の味が滲む。
それでも答えるしかない。
答えることでしか、アランがもう一度責められるのを止められない。
「……会いたかったんです」
声が掠れた。
こんな場で言うべき言葉ではない。言ってはいけない。
分かっているのに、出てしまった。
レギュラスが目を細める。
その眼差しは、酷く静かだった。静かなのに、見られているだけで喉が乾く。
「会いたかった」
ゆっくりと反芻されるだけで、ローランドは恥辱に焼かれる。
そしてレギュラスは、淡い微笑みのまま続けた。
「……その結果、何をしました?」
ローランドの視界の端で、アランが小さく首を振った。
やめて、と言いたいのだろう。でも声にならない。
喉の奥に詰まった涙が、言葉を塞いでいる。
ローランドの胸が、ぎゅっと縮む。
彼女を守るために口を開いているのに、口を開くたびに彼女が壊れていく。
矛盾が、肺を握りつぶす。
「……触れました」
それはもう、告白というより、処刑台の上の報告だった。
レギュラスは頷く。
「どこに?」
ローランドの背筋が反射的に硬直した。
その問いが、ただの確認ではないことが分かる。
わざとだ。意図的に、細部へと追い込んでいく。
細部にするほど、人は息ができなくなる。息ができなくなるほど、屈服が早くなる。
ローランドは喉を鳴らし、限界まで言葉を削った。
「……手を」
「手を、どこへ」
「……肩に」
答えるたびに、レギュラスの口元が、ほんのわずかに上がる。
それが“楽しんでいる”のか、“確かめている”のか、ローランドには分からない。
けれど分かることがひとつだけある。
この男は、止まらない。止まる理由がない。
アランが床で、肩をすくめて泣いている。
それが、ローランドの胸を裂く。
――こんな姿を、彼女は昨夜も見せたのだろうか。
いや、昨夜だけではない。
レギュラスの問いに耐え、逃げ道を塞がれ、泣いても許されず、跪いても終わらず。
何度も何度も、繰り返したのだろう。
ローランドの知らないところで。
ローランドのいない場所で。
「……もう、やめてください」
気づけば口から漏れていた。
懇願に近い声だった。
レギュラスに対して懇願するなど、自分がどれほど滑稽か理解しているのに。
レギュラスは、少しだけ首を傾げた。
「やめる理由が、どこにあります?」
その言葉は静かで、残酷で、あまりに正しかった。
ローランドは唇を噛みしめ、視線を落とす。
「あなたが答えないと、妻はまた責められますよ」
その一文が、決定打だった。
ローランドの中の何かが崩れ、抵抗の仕方が変わった。
自分のために耐えるのではない。アランのために、全部を差し出す。
そうしなければ、この場で彼女が壊れてしまう。
ローランドは、震える手で膝を押さえ、言葉を選ぶのをやめた。
選べば選ぶほど、刃が増えるだけだ。
なら、ただ事実だけを、息が続く限り吐き出すしかない。
「……三回です」
「……数時間です」
「……奥の部屋で」
「……名前を呼びました」
言うたびに、アランが小さく縮む。
縮んで、泣いて、呼吸が乱れて、それでも声を出さない。
声を出せば、またレギュラスの刃が増えるのを知っているからだ。
ローランドは拳を握りしめた。
自分の爪が皮膚に食い込む痛みが、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。
そして、レギュラスは最後に、淡い微笑みを浮かべたまま言った。
「……どうでした? 僕の妻は」
またその問いだ。
逃げられない問い。
答えれば汚す。答えなければ壊される。
応接間の空気は熱に満たされているはずなのに、肌に触れるものだけが冷たい。磨き上げられた床の光沢さえ、ひとつの嘘のように見える。
レギュラスは椅子の背に預けたまま、微笑みの角度を変えない。
穏やかな声。礼儀正しい目。誰にでも差し出せるはずの“社交の顔”が、今は刃に研がれている。
ローランドは、真正面の壁に目を向けたまま動けなかった。
どれほど丁寧に言葉を選んでも、どれほど正しく振る舞っても、すべてがこの部屋の中心に引きずり出され、晒され、並べ替えられる。
その光景を、アランが隣で息を殺して見ている。――その事実が、胸の奥を抉った。
レギュラスは、あくまで静かに問いを重ねる。
呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。
ひとつ答えれば、次が来る。
答えなければ、答えないこと自体が罪の証明になる。
逃げ場は、最初から用意されていない。
アランの指が膝の上で白くなっていた。
爪が食い込み、皮膚が薄く波打つ。
それでも彼女は姿勢を崩さないまま、夫の視線を受け流そうとする。受け流すことで生き延びようとしている。
だが、受け流せるほど、レギュラスは甘くない。
「……ねえ、アラン」
名を呼ばれる。
それだけで、胸が小さく跳ねたのが分かった。
レギュラスの声には怒鳴り声の欠片もない。だからこそ、逃げられない。
「わからない、で通すのは好きじゃないって、言ったはずです」
優しい言い方だった。叱っているのに、撫でるみたいに言う。
そしてその優しさが、次に来るものを予感させて、アランの喉を締めつけた。
ローランドは、視線を上げられない。
上げれば、彼女の顔が見える。
あの翡翠色の瞳が――自分に向けて笑っていた頃の名残を残したまま、今は別の男の言葉で少しずつ壊されていく様を、まともに見てしまう。
耐えられなかったのは、アランのほうだった。
呼吸が乱れた。
肩が一度、小さく揺れた。まるで堤防に入った亀裂が、今にも決壊しそうに震えるみたいに。
唇を噛み、歯を食いしばっていたはずなのに、次の瞬間、彼女は椅子から滑り落ちるように立ち上がった。
そして、膝が折れた。
音がした。
膝が床に触れる乾いた音。
それだけでローランドの内側が裂けたように痛んだ。人が崩れる音だった。
アランは跪いた。
背筋はまだ崩れていない。崩れていないことが、かえって痛ましい。
礼節を捨て切れないまま、命乞いに身を投げる姿だった。
「お願い……レギュラス……もう、やめて……」
声が震え、言葉の端が掠れる。
泣き声を押し殺そうとして失敗したような、苦しい息が混じる。
「……なんでもします。あなたの望むように……なんでも……」
その言葉を言った瞬間、彼女の頬を涙が伝った。
落ちる涙は綺麗だった。綺麗で、残酷だった。
ローランドは胸がはち切れそうになった。――彼女がこうなるのは、自分のせいだと、体の奥で理解してしまう。
反射的に椅子から立ち上がりそうになる。
止めなければ、と。
謝らなければ、と。
それでも身体は動かなかった。動けば、もっと彼女を傷つける。動けば、レギュラスの“正しさ”の材料になる。動けば、彼女がここで耐えようとしている最後の自尊心を、自分が踏み潰す。
ローランドの指が震え、拳が解けてはまた固く握られた。
爪が掌に食い込み、痛みだけが現実を繋ぎ止める。
レギュラスは、その跪いた妻を見下ろしながら、表情を変えなかった。
驚きもしない。揺らぎもしない。
むしろ、ようやく望む形に落ちてきた、とでも言うように、ほんの僅かに唇の端を持ち上げる。
「……やめて、ですか」
淡々とした声が、床を這うように落ちた。
「やめたら、何が起きるんでしょう。僕が何も知らなかったことにして、あなたはまた笑って、いつも通りの妻を演じるんですか?」
問いは柔らかい。
けれど答えれば血が出る。
アランは首を振る。必死に。
涙が落ちて、床に小さな染みを作る。
その姿があまりに痛々しくて、ローランドの視界が揺れた。
「ちが……っ……違います……」
「違うなら、言ってください」
レギュラスの声は、低くも高くもならない。
ただ、決して退かない。
「“なんでもします”って言いましたよね。なら、質問に答えるだけです。簡単でしょう」
まるで、子どもに作法を教えるみたいな口ぶりだった。
“簡単”という言葉が、アランの心をさらに折った。
簡単で済むなら、こんなふうに跪いていない。
ローランドは、唇を噛みしめた。
血の味がした。
吐き気が込み上げる。
この男は、彼女の涙を“答えを引き出す道具”として扱っている。
彼女の誇りを、恐怖を、恥を、ひとつずつ並べて、正しさの名で潰している。
「レギュラス……お願い……もう、これ以上は……」
アランの声が細くなる。
身体が震え、肩が小刻みに揺れ始める。呼吸が浅くなる。
その様子を、レギュラスは落ち着いた目で観察する。――観察して、逃げ道になりそうな瞬間を塞ぐ。
「“これ以上”って、どこからです?」
質問形式の刃。
逃げ道を塞ぐ癖。
アランは答えられない。答えれば“線引き”を自分で作ることになる。その線は、レギュラスが切るためにある。
「…… アラン」
今度の呼び方だけが、やけに親密だった。
それが余計に彼女を震わせる。
優しさに見せかけて、支配を深くする呼び方。
「僕は、あなたのことを、ちゃんと理解したいだけなんです」
ローランドの胸が痛む。
理解したい、という言葉が、これほど残酷になるのを初めて見た。
理解とは名ばかりで、これは“屈服の手順”だ。
アランは、床に手をついて頭を垂れた。
長い髪が肩から落ち、涙の跡を隠してしまう。
隠れるように、逃げるように。
その小さな仕草にさえ、レギュラスは反応する。
「隠さないでください」
静かな声。
言い切り。
命令に聞こえない形で、命令する。
レギュラスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。
靴音が床を叩くたび、ローランドの喉が詰まった。
近づくな、と叫びたい。
でも叫べる立場ではない。
叫べば、アランがさらに傷つく。
レギュラスは跪く妻の前で足を止め、少しだけ屈む。
指先で、彼女の顎を持ち上げる。触れ方は乱暴ではない。むしろ丁寧だった。
だからこそ、逃げられない。
「ねえ、アラン。僕の望むように、なんでもするんでしょう?」
囁きが、鎖になる。
アランは涙で濡れた睫毛を震わせ、必死に頷いた。
声が出ない。
喉の奥が痛い。
「はい」と言えない自分が、また怒りを招くと分かっているのに。
レギュラスは、それを見て微笑んだ。
微笑みは綺麗だった。貴族の顔だった。
そして、貴族の顔のまま、酷いことを言う。
「じゃあ、答えましょう。今ここで」
優しい提案みたいに。
逃げ道を示すみたいに。
けれど実際は、檻の位置を教えるだけだ。
ローランドは、胸が痛すぎて息ができなかった。
アランが跪く姿は、祈りにも似ていた。
祈りは救われるべきものなのに、この場に神はいない。いるのは、祈りを折って形を整える男だけだ。
「やめてください……」
ローランドの口から、かすれた声が漏れそうになる。
喉の奥で殺した。
言えば、すべてが悪化する。
それが分かるのに、目の前のアランが崩れていくのを止められない。
その無力さが、ローランドの胸を裂いた。
レギュラスは、ローランドの気配を一瞥もしなかった。
視線の中心にあるのは、跪く妻だけ。
まるで、第三者など最初から存在しないかのように。
「僕を見て」
レギュラスが言う。
アランは震えながら顔を上げる。
涙の跡が頬にいくつも残り、唇は噛みしめたせいで赤い。
それでも美しい。
それがまた、ローランドの心を壊した。
「……いい子ですね」
褒めるように言って、次に来る言葉が鋭い。
「じゃあ、答えてください。最初からやり直しましょう」
淡々と、容赦なく。
アランが崩れたことすら“進行の一部”に組み込まれていく。
レギュラスの声は、泣く妻に対してさえ乱れない。
「呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。……あなたが“なんでもする”と言ったんです。僕はそれを、きちんと受け取ります」
受け取る、という言葉が恐ろしかった。
慈悲ではなく、取り立てだ。
アランの涙も、誇りも、秘密も。すべて“受け取られる”。
アランは膝の上で、小さく息を吸った。
肺が痛い。
声が震える。
それでも――父を呼ばれるよりは、屋敷中に知られるよりは、アルタイルの前で壊されるよりは、と、必死に理屈を掴んで立っている。
「……レギュラス……」
名前を呼ぶだけで、声が裂けた。
懇願の形になる。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、答えを待つ。
待ちながら、その沈黙で彼女をさらに追い詰める。
応接間には暖炉の火の音だけが響く。
ローランドの胸ははち切れそうだった。
それでも世界は何事もないように美しく、整然として、ただ――跪いたアランの涙だけが、床に小さな染みを増やしていく。
そしてその染みの数を数えるみたいに、レギュラスは静かに言った。
「さあ。……答えてください」
暖炉の火は、もうずっと同じ速度で燃えている。
けれど応接間の空気だけが、どこか薄く裂けたまま戻らない。
ローランドは、椅子の縁を指先で掴んでいた。白手袋越しでも分かるほど、掌が汗ばんでいる。
正しく呼吸をしようとして、息が胸の途中で引っかかる。視線は上げない。上げれば、そこにいるのが誰かを――はっきり認めてしまう。
床に跪いたままのアランは、泣き腫れた睫毛を伏せ、肩先を小さく震わせている。彼女が必死に整えようとしている呼吸の音が、ローランドの耳には針のように刺さった。
自分が、その呼吸を乱した。
その事実が、胃の奥を掴んで離さない。
レギュラスは、椅子に背を預けたまま、グラスの水面に指先で触れる。ほんの微細な波紋が広がって、すぐに静まる。
彼の表情も同じだった。乱さない。崩さない。
乱れているのは、この部屋の他の二人だけで、それがまるで最初から予定されていた配置みたいに整っている。
「……フロスト殿」
呼ばれただけで、ローランドの喉が狭くなった。
目の前の男は穏やかに微笑んでいる。まるで、ただの談笑を続けるだけのような顔で。
「さっきの答え、少し……食い違っていましたよね」
その言葉の“少し”が残酷だった。
少し、で済むならいい。けれど現実は、少しでは済まない。
その食い違いの間に挟まれているのは、アランの尊厳で、アランの暮らしで、アランの父で、そして―― アランが必死に守ろうとしたものだった。
ローランドは、唇を噛んだ。
噛んでも、舌先に血の味が滲むだけで、何も取り戻せない。
「……ブラック様」
ようやく声を出すと、礼儀が先に立ってしまう。いまさら礼儀しか残っていない自分が、情けなくて仕方がなかった。
「……先ほどの、僕の回答が……正確ではありませんでした」
静かに告げた瞬間、床のアランの肩がびくりと跳ねた。
その反応だけで、ローランドの胸がきしむ。
レギュラスの口元が、ほんのわずかに上がる。喜びではない。ただ、“やっと来た”という合図のような笑み。
「正確ではない。……なるほど」
彼は頷き、指先でグラスの縁をなぞった。
まるで、続きを促すのが礼儀であるかのように。
「では、合わせに来てくださったんですね。……ありがたい」
礼を言われたのに、背筋が凍る。
この男の感謝は、免罪符ではなく、鎖だ。
ローランドは息を吸い直した。
頭の中では、言ってはいけない言葉が暴れている。
それでも、言わなければならない。
これ以上、アランが踏み潰されるのを見ていられない。
「誘ったのは……僕です」
口から落ちた言葉は、鈍い音を立てて床に転がったように感じた。
アランの指先が、床の絨毯を掴む。耐えるための力が入っている。
レギュラスは、あくまで丁寧に頷いた。
「へえ」
その一音が、刃だった。
「フロスト殿。では次も、確認させてください」
穏やかな声。優しい語尾。
なのに“確認”という単語が、容赦なく心臓を締め上げる。
「呼び方は?」
ローランドは一瞬、言葉に詰まった。
喉が熱くなる。あの部屋の空気が、一瞬だけ蘇りそうになって、必死に押し戻す。
唇を噛んで、目を伏せたまま答える。
「…… アラン……と」
アランが小さく息を呑む。
その音が、ローランドには悲鳴に聞こえた。
レギュラスは微笑んだまま、ゆっくりと首を傾げる。
「……なるほど。ブラック夫人、と呼ぶ口が」
そのまま言葉を切り、間を置く。
間が、苦痛を増幅させる。
ローランドの胸の奥で、何かが崩れていく音がした。
「“ アラン”と呼んだ」
レギュラスはやわらかく確認した。
丁寧な確認。丁寧な断罪。
「時間は?」
「……短い時間です。研究の合間に……」
「“短い”とは、何分です? 何時間です?」
追い立てない。声を荒げない。
ただ、逃げるために使われる曖昧さを一つずつ剥がす。
ローランドは、歯を食いしばった。
「……数時間です。……数回、でした」
レギュラスは、軽く頷いた。
「回数は?」
ローランドは息を吐き、声を絞り出す。
「……三回です」
床のアランが、指先を震わせた。
あれほど守ろうとした“数字”を、別の口から言われていく。彼女がどんな顔でそれを聞いているのか、ローランドは見られない。見れば壊れる。
レギュラスは、そこで初めて、椅子の背から身体をわずかに起こした。
目が、少しだけ細くなる。
「そう」
一言。
それだけで、部屋の温度が変わる。
そして、彼は次の質問を投げた。まるで柔らかな布を掛けるみたいに、残酷な言葉を選ぶ。
「どうでした? 僕の妻は」
ローランドの顔から血の気が引く。
“妻”という二文字が、鉄のように重い。
答えろ、と言われている。
答えれば、アランが壊れる。
答えなければ、またアランが壊される。
ローランドは喉を鳴らし、震える息を飲み込んだ。
「……ブラック夫人は……」
呼び名を戻すのが精一杯だった。
それでもレギュラスは許さない。小さな笑みを崩さないまま、さらに指先で追い込む。
「よかったです?」
軽い口調。
軽いのに、胸を抉る。
ローランドの唇が、わななく。
返せる言葉がない。
“よかった”と断言できるほど、卑劣に振る舞えない。
“よくなかった”と言えば、彼女の価値を汚す。
沈黙は長く感じた。暖炉の火がぱちりと鳴って、ローランドはその音に救われた気がした。
だが救いはなかった。
レギュラスは、まるで一緒に考えてあげるように、囁く。
「クラリッサ嬢は抱けず、人のものは抱けるとは」
ローランドの身体が硬直する。
その名が出た瞬間、罪悪感が鋭く腹を裂いた。
自分の屋敷で、無邪気に寄り添う妻の顔が浮かぶ。
優しい声で「急がなくていいんです、クラリッサ」と言い聞かせた夜のことが、胸の奥でひどく痛む。
「……っ……」
声にならない音だけが漏れた。
レギュラスは、その反応を見逃さない。見逃さず、笑いもしない。
ただ、静かに“次”を落とす。
「アルタイルを褒め称えてくれた口が」
そこで、わずかに視線が床のアランへ落ちる。
アランは、息を止めたまま動かない。
息を止めることで、今にも崩れそうな自分を必死に繋いでいる。
レギュラスは、またローランドに視線を戻す。
「人の妻に愛を囁いていたとは」
ローランドの喉が、ひくりと引きつった。
“愛”という言葉が、喉に刺さる。
囁いた。確かに。
囁いた瞬間、アランの瞳が揺れ、彼女が涙を零して、抱きついてきた。
その記憶が、今は泥のように重くまとわりつく。
ローランドは、ようやく顔を上げかけた。
けれど視線はレギュラスに届かない。届く前に、アランの輪郭が視界の端に入りそうで、恐ろしくて止めた。
「……ブラック様……」
言葉の先が続かない。
謝罪でも弁解でもない。
ただの呼びかけ。助けを求めるみたいな呼びかけ。
それがどれほど無様か、ローランド自身が一番分かっている。
レギュラスは、微笑んだまま、ゆっくりと首を傾ける。
「困りますね。合わせに来てくださったんでしょう?」
丁寧な声が、容赦なく縫い付ける。
「さっきの“食い違い”を、綺麗に揃えてください。……ひとつずつ」
それは命令ではなく、作業の指示だった。
二人の過去も、罪も、情も、全部を“整合性”に変換する。
そうやって、アランを、ローランドを、“逃げられない形”に整える。
ローランドは目を閉じた。
瞼の裏が熱い。泣く理由などないのに、涙が滲みそうになる。
この場で泣けるのはアランだけだ。泣く権利があるのもアランだけだ。
自分はただ、答えなければならない。彼女がこれ以上壊されないために。
「……はい」
小さな返事が落ちた。
その瞬間、床のアランが、震える声で掠れた懇願を漏らした。
「……お願い……レギュラス……」
もうやめて、と言いかけたのだろう。
けれど言葉にならないまま、喉で潰れる。
彼女の涙がまた落ちる。
レギュラスは、その声に振り向かない。
振り向かずに、ただ穏やかに言う。
「黙っていてください、アラン」
優しいのに冷たい。
優しいから冷たい。
「フロスト殿。では、続けましょう」
その声が、次の地獄の合図だった。
ローランドは息を吸い、震える唇を開く。
答えるたびにアランが傷つくのが分かっているのに、答えなければ彼女はもっと傷つく。
暖炉の火は、相変わらず同じ速度で燃えていた。
この部屋だけが世界の中心で、誰も助けに来ない。
そしてレギュラスの声だけが、静かに、丁寧に、確実に、二人を同じ場所へ追い詰めていく。
ローランドは、ひとつ答えるたびに、胸の内側が一枚ずつ剥がされていくのを感じていた。
皮膚ではなく、もっと奥――言葉にならない羞恥や、守りたかったものの輪郭そのものが、丁寧に、爪先で削られていく。
レギュラスの声は終始変わらない。荒げもしない。怒鳴りもしない。
だからこそ逃げ場がない。感情の温度でぶつけられる暴力ではなく、正しい体裁を纏った冷たい手続きとして、質問が降ってくる。
「いつ、どこで」
「どのくらいの時間」
「あなたから触れた? 彼女から?」
――その“彼女”という呼び方が、ローランドの喉を絞めた。
アラン、と呼びたいのに呼べない。ブラック夫人、と呼ぶべきなのに、その二文字ですら舌が拒む。
呼称ひとつが、もう罰の形をしている。
口を開けば、乾いた息が先に漏れた。唇の端が切れるほど噛みしめて、それでも言わされる。
言わされている、と認めた瞬間に、もっと深く沈むのが分かっているのに。
「……研究室の奥、です」
やっと絞り出した声は、自分のものではないみたいに聞こえた。
応接間の空気が微かに震え、すぐに静まる。暖炉の火がぱちりと小さく弾けた。それが、まるで合図のように聞こえる。
床に跪いたアランが、かすかに肩を揺らした。
見ないでおこうと決めていたのに、視界の端で、それが分かってしまう。
泣くのを堪える呼吸の乱れ。喉の奥で押し殺す嗚咽。指先が絨毯を掴む力。
彼女が、ここまで追い詰められた姿を――自分は初めて見る。
いや、違う。
初めて“見る”だけで、きっとこれは、彼女にとっては“初めてではない”。
そう思った瞬間、胸がひどく痛んだ。
こんな風に、なじられたのだろうか。
昨日だって、いや、もっと前から。
泣き腫らした目で、それでも涙を止められず。
答えられないと追われ、答えればまた追われ。
跪いて、懇願して、頭を下げて――それでも許されず。
想像しただけで吐き気がした。
吐き気がするのに、責める資格もない。
自分が、その地獄の原因なのだから。
「……続けてください」
レギュラスの声音には、苛立ちすら混じっていない。
淡々としている。綺麗な礼儀の殻で出来た言葉が、ローランドの背骨を一本ずつ折っていく。
「あなたは、どういう言葉で彼女を呼びました?」
ローランドは息を止めた。
喉の奥がひくりと引き攣る。
言えば、彼女の心に残していたものまで、外に引きずり出してしまう気がした。
言わなければ、彼女がまた傷つく――それはもう見たくない。
「……名前で」
「“ アラン”と?」
問いの形は確認なのに、刃物だった。
肯定した瞬間、すべてが確定する。
確定したものは、二度と戻らない。
ローランドは小さく頷いた。頷くしかなかった。
アランの小さな吸い込みが聞こえた気がして、胸の奥が割れそうになる。
レギュラスは、わずかに笑った。笑ったというより、口元の形を変えただけだ。
「……素晴らしいですね」
褒めているように聞こえるのが、余計に残酷だった。
「ブラック夫人、と呼ぶその口で。僕のいないところでは、ずいぶん親密に」
ローランドの視界が一瞬白くなる。
その言葉の中には、糾弾だけではなく、嘲りと、そして何か――もっと湿った感情が混ざっている気がした。
けれどローランドには、それを測る余裕などない。ただ膝の上で握った指が痺れていく。
「次です」
レギュラスは容赦なく続ける。
「彼女は、嫌がっていましたか?」
その質問だけは、ローランドの中で何かを暴れさせた。
嫌がっていたか。
答え方を間違えたら、彼女の尊厳を踏み抜く。
でも曖昧に逃げたら、またアランが責められる。
ローランドの唇が震えた。
言葉を選んでいるつもりでも、選ぶたびに傷が増える。
「……嫌がって、いません」
言ってしまった瞬間、心臓が一段落ちた。
床にいるアランの呼吸が止まる。止まったまま、細く震える。
レギュラスは頷いた。
「なるほど。なら、あなたは“正しいこと”をしたつもりで?」
ローランドは首を振りたかった。違う、と。正しくなどない、と。
けれど否定の言葉は、自分を庇う言葉になってしまう。
庇う資格などない。
「……違います」
ようやくそれだけ言うと、レギュラスはまた静かに言葉を重ねる。
「違うなら、どういうつもりでした?」
逃げられない。
問いは、心の奥に釘を打つように正確で、しかも外側には礼儀を纏っている。
“無礼だ”と怒ることすら許されない。怒った瞬間に、こちらが悪者になる構造が完成している。
ローランドは、唇の内側を噛んだ。鉄の味が滲む。
それでも答えるしかない。
答えることでしか、アランがもう一度責められるのを止められない。
「……会いたかったんです」
声が掠れた。
こんな場で言うべき言葉ではない。言ってはいけない。
分かっているのに、出てしまった。
レギュラスが目を細める。
その眼差しは、酷く静かだった。静かなのに、見られているだけで喉が乾く。
「会いたかった」
ゆっくりと反芻されるだけで、ローランドは恥辱に焼かれる。
そしてレギュラスは、淡い微笑みのまま続けた。
「……その結果、何をしました?」
ローランドの視界の端で、アランが小さく首を振った。
やめて、と言いたいのだろう。でも声にならない。
喉の奥に詰まった涙が、言葉を塞いでいる。
ローランドの胸が、ぎゅっと縮む。
彼女を守るために口を開いているのに、口を開くたびに彼女が壊れていく。
矛盾が、肺を握りつぶす。
「……触れました」
それはもう、告白というより、処刑台の上の報告だった。
レギュラスは頷く。
「どこに?」
ローランドの背筋が反射的に硬直した。
その問いが、ただの確認ではないことが分かる。
わざとだ。意図的に、細部へと追い込んでいく。
細部にするほど、人は息ができなくなる。息ができなくなるほど、屈服が早くなる。
ローランドは喉を鳴らし、限界まで言葉を削った。
「……手を」
「手を、どこへ」
「……肩に」
答えるたびに、レギュラスの口元が、ほんのわずかに上がる。
それが“楽しんでいる”のか、“確かめている”のか、ローランドには分からない。
けれど分かることがひとつだけある。
この男は、止まらない。止まる理由がない。
アランが床で、肩をすくめて泣いている。
それが、ローランドの胸を裂く。
――こんな姿を、彼女は昨夜も見せたのだろうか。
いや、昨夜だけではない。
レギュラスの問いに耐え、逃げ道を塞がれ、泣いても許されず、跪いても終わらず。
何度も何度も、繰り返したのだろう。
ローランドの知らないところで。
ローランドのいない場所で。
「……もう、やめてください」
気づけば口から漏れていた。
懇願に近い声だった。
レギュラスに対して懇願するなど、自分がどれほど滑稽か理解しているのに。
レギュラスは、少しだけ首を傾げた。
「やめる理由が、どこにあります?」
その言葉は静かで、残酷で、あまりに正しかった。
ローランドは唇を噛みしめ、視線を落とす。
「あなたが答えないと、妻はまた責められますよ」
その一文が、決定打だった。
ローランドの中の何かが崩れ、抵抗の仕方が変わった。
自分のために耐えるのではない。アランのために、全部を差し出す。
そうしなければ、この場で彼女が壊れてしまう。
ローランドは、震える手で膝を押さえ、言葉を選ぶのをやめた。
選べば選ぶほど、刃が増えるだけだ。
なら、ただ事実だけを、息が続く限り吐き出すしかない。
「……三回です」
「……数時間です」
「……奥の部屋で」
「……名前を呼びました」
言うたびに、アランが小さく縮む。
縮んで、泣いて、呼吸が乱れて、それでも声を出さない。
声を出せば、またレギュラスの刃が増えるのを知っているからだ。
ローランドは拳を握りしめた。
自分の爪が皮膚に食い込む痛みが、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。
そして、レギュラスは最後に、淡い微笑みを浮かべたまま言った。
「……どうでした? 僕の妻は」
またその問いだ。
逃げられない問い。
答えれば汚す。答えなければ壊される。
26/26ページ
