2章
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次はローランド・フロストだった。
あの男だけが、何事もなかったような顔で、息を吸って歩いていく――そんな結末を、このレギュラス・ブラックが許せるはずがない。
けれど同時に、世間というものは、あまりに面倒で、あまりに繊細で、そして滑稽なほど残酷だった。
フロストの隣にはクラリッサがいる。ブラック家の遠縁、ブラックバーン家の娘。自分が“縁”として差し出し、血筋の紐を結び、家の格と体裁を整えた――その駒が、今は生きた人間としてそこにいる。
ローランド・フロストを表立って叩き潰すことは、簡単だ。
名誉も職も、人の噂も。魔法省の廊下を歩く者の息の仕方一つで、いくらでも変えられる。
だが、あまりに露骨に抹殺すれば、クラリッサの立場が崩れる。ブラックバーン家の評判が揺らぐ。揺らげば、最終的にそれは“ブラック家が見誤った縁談”という形で自分の足元に返ってくる。
――それは、癪だった。
自分の手元で、秩序は常に整っていなければならない。
復讐は、激情で振り下ろす刃ではなく、整然と並べる書類のように、美しく完璧に処理されるべきだ。余計な血が飛び散るような真似は、趣味が悪い。
何より、“負け”を見せるに等しい。
机の上に置かれた銀のインク壺の縁で、燭台の炎が小さく揺れた。夜の書斎は静かで、壁一面の本棚は黒い影の塊として沈んでいる。
窓の外には、冬の庭園が眠っていた。枝先に積もる霜が、月光に白く浮かび、噴水は凍りついたまま息を潜めている。
手袋を外し、指先を組む。
爪の間に何も挟まっていないことが、なぜか腹立たしかった。昼間のあの場面――床に散らばった魔法写真、二人が同じ温度で固まり、同じ顔で息を止めた瞬間。
あれほどまでに“事実”を突きつけても、時間が過ぎれば世間は薄まる。人は忘れる。噂は別の話題に流れる。そうやって、卑怯なほどに日常は戻ってくる。
だからこそ、戻させない。
ローランド・フロストだけは。
どうすれば、体裁を傷つけずに、魂だけを削れるのか。
どうすれば、クラリッサの無邪気な笑みを汚さずに、フロストの内部だけを徹底的に壊せるのか。
どうすれば、誰にも咎められず、誰にも同情されず、彼自身に“自分が悪い”と飲み込ませたまま、膝をつかせられるのか。
考えるほどに、胸の奥が冷えていく。冷えたものは硬く、鋭くなる。
感情が熱になって暴れるより、こうして凍りついた方が、ずっと扱いやすい。
一つ、答えが出た。
――屋敷に呼ぶ。
外で叩くのは簡単だ。だが屋敷は違う。
ブラック家の屋敷という空間そのものが、相手の背筋を正し、呼吸を浅くし、言葉を選ばせる。足音さえ綺麗に揃えたくなる場所で、ローランド・フロストは“礼節”を武器にする。
ならば、その礼節ごと、じわじわと締め上げればいい。
自分の領域で。自分の速度で。
逃げ道の幅も、沈黙の長さも、すべてこちらが決める。
ペンを取り、上質な便箋を引き寄せる。羊皮紙ではない。あくまで現代的で、格式のある紙。墨を落とす音が、静寂にやけに大きく響いた。
宛名は迷わない。
ローランド・フロスト殿。
呼称一つにも、針は仕込める。
親しみすぎず、冷たすぎず、ちょうど“断れない”温度。
文面は簡潔でいい。丁寧で、柔らかく、そして逃げ道を塞ぐように。
――“家族としての顔合わせを、改めて。”
――“先日の件で、行き違いがあったように見受けられたため。”
――“クラリッサの評判に無用な影を落としたくない。あなたも同じでしょう。”
そんな言葉を、いかにも配慮の形で並べていく。
正論は、最も美しい拘束具だ。外す理由がない。外せば、悪者になる。
ふと、扉の向こうの廊下に気配がした。使用人の足音だろう。
屋敷は常に整っている。整っているからこそ、崩れる瞬間は鮮やかで、甘美だ。
署名の最後に、さらりと一行を添える。
――“アルタイルのことも、一度ご覧になってください。あなたほど礼を心得た方なら、きっと喜んでくださる。”
息子の名を出す。
これほど万能なカードはない。子の存在は、純血社会において、祝福と義務と正当性のすべてを同時に帯びる。
ローランド・フロストは、断れない。断れば“子の祝福を拒んだ”形になる。彼が最も嫌う類の不作法だ。
ペン先を置くと、インクが乾く前に、紙面が美しく整っていることに満足が滲む。
復讐は、このくらい端正であるべきだ。
便箋を封筒に入れ、黒い封蝋で封じた。家紋の刻印が押された瞬間、熱い蝋が冷えて固まる音が、ひどく心地よい。
固まる――そう、固まればいい。彼の運命も、逃げ道も、ここで。
「フクロウを」
扉の外に声をかけると、すぐに控えめな返事が返った。
程なくして、黒い羽の大きなフクロウが、止まり木ごと運ばれてくる。黄金の瞳がこちらを見上げ、頭を小さく揺らす。
封書を足に括り付ける指先は、驚くほど落ち着いていた。
怒りで震えるのではない。喜びで跳ねるのでもない。
ただ、当然の手続きとして、次の段階へ進んでいるだけだ。
「行っておいで」
静かに言うと、フクロウは羽を広げ、夜の空へ消えた。
窓に映る自分の表情は、穏やかだった。穏やかすぎるほどに。
ローランド・フロストがこの封書を受け取り、封を切り、文面を読む時。
彼はきっと、胸の奥で“嫌な予感”を覚える。だがそれは曖昧で、言語化できず、結局は礼節に押し流される。
そして彼は来る。ブラック家の屋敷へ。自分の足で。
その時、ようやく始まる。
外から見れば、ただの食事会。家族の集まり。丁寧な挨拶と、穏やかな会話。
けれど内側では、確実に、骨の一本ずつを折っていく。
クラリッサの名誉を汚さずに。
ブラックバーン家の評判を落とさずに。
それでも、ローランド・フロストだけを、徹底的に傷つける。
――できる。
できないわけがない。
燭台の火がまた揺れた。
その揺れを見つめながら、唇の端が僅かに持ち上がるのを、自分で止める気にはなれなかった。
客人が来る、とだけ告げられた時点では―― アランは、それが誰なのかを知らされていなかった。
応接間の暖炉は火が弱く、赤い舌先が控えめに揺れている。磨き上げられた黒檀の床は、窓から差す薄い冬の光を跳ね返して、冷たく光っていた。銀のティーセットは無駄なほど完璧に整えられ、砂糖壺の蓋にさえ埃ひとつない。
「……お客様が?」
問い返す声が、自分のものとは思えないほど軽い。
胸の奥はずっと前から重く、沈んでいるのに。
レギュラスはいつものように柔らかな笑みを貼り付けたまま、アランの返事を待つでもなく、壁際の時計に視線をやった。彼の仕草は、何もかもを知っていて、何も急がず、そして何より――この屋敷の空気すら自分の指先で動かせると確信している人のものだった。
次の瞬間、扉がノックされる。
執事の声が、静かに、しかし抗えない断定を帯びて響いた。
「フロスト家より、ローランド・フロスト様がお見えでございます」
――足元が、一瞬だけ消えた。
体が落ちる感覚だけが残り、耳が遠のく。アランは呼吸を取り戻そうとするのに、肺が言うことを聞かない。
レギュラスが、穏やかに頷く。
まるで、今日の天気が予報通りだったことに満足しているみたいに。
「通して」
執事が下がり、扉が開く。
その隙間から流れ込む空気が、別の場所の匂いを連れてきた気がした。セシール家の研究室に漂っていた薬草と紙の匂い――そんな錯覚に胸が痛む。なぜここでそれを思い出すのか、自分でもわからない。
ローランド・フロストが入ってくる。
黒の礼装は寸分の乱れもなく、背筋は真っ直ぐで、表情は、礼節という鎧で覆われている。視線は丁寧に床と壁とをなぞってから、最後にレギュラスへ向いた。
「ブラック様。本日はお招きにあずかり、ありがとうございます」
声は相変わらず丁寧で、優しい。
――その優しさが、今は残酷だった。優しさの形をした刃で、自分の胸を何度も撫でられるような。
レギュラスは軽く立ち上がり、微笑む。
「わざわざありがとう、フロスト殿。どうぞ、おかけになってください」
その言葉の丁寧さが、逆に恐ろしい。
この男は怒鳴らない。壊す時ほど声が低くなる。やわらかくなる。逃げ道が綺麗に塞がれる。
ローランドがソファへ向かう気配を見せた、その瞬間だった。
レギュラスの視線が、今度はアランへ移る。
「あなたもどうぞ」
アランの肩が、わずかに跳ねた。
“あなた”と呼ばれるたび、自分は妻であることを思い出させられる。逃げられない場所に戻される。名前ではなく、役割で縛られる。
「……なぜです」
声が出たことに、自分で驚く。
拒みたいのに、声の震えがそれを裏切る。喉の奥が熱い。泣きたくないのに、涙の準備だけが勝手に始まっている。
レギュラスは首を傾げる。困ったような顔――だが、その困り方は、相手を助ける人のものではない。獲物が足掻くのを眺めて面白がる、冷たい楽しみの影が滲んでいる。
「なぜ?」
アランは唇を噛んだ。
喉元まで上がってくる言葉がある。昨夜、昨夜だけじゃない、何時間も、何度も、膝をついて、泣いて、お願いして――その末に取り付けた約束があった。
あれほど、あれほど話したのに。
もう終わりにして、と。
父には言わないで、と。
これ以上、誰も巻き込まないで、と。
「レギュラス……」
名前を呼びかけた途端、レギュラスの目が、ほんの僅かに細まった。
その小さな変化で、アランの背筋が凍った。
“その呼び方”は、助けを求める時の呼び方だと、この男は理解している。理解していて、それを踏み潰す。
「話した?」
レギュラスは、唇の端だけで笑う。声は小さい。けれど、言葉の輪郭が鋭すぎて、応接間の空気が切れる。
「何をです?」
――来る。
来るとわかっているのに、避けられない。
アランは、自分の指先が冷えきっていくのを感じながら、椅子の背に手を置いた。座るという動作が、処刑台に上がる儀式みたいだった。
レギュラスの声が続く。淡々と、丁寧に。あまりに丁寧に。
「あなたから誘ったこと?」
アランの呼吸が止まった。
ローランドの方を見ることができない。見れば、崩れる。崩れてしまったら、その瞬間この男は喜ぶ。
「――行為の回数は三回だったこと?」
言葉が床に落ちた。
硬い音がした気がした。
応接間のどこにも、逃げ込める影はない。暖炉の火でさえ、今は冷たく見える。
アランは絶句した。
口を開けても音が出ない。出ないのではなく、何を出せばいいのか脳が拒否している。
羞恥が皮膚の内側から噴き出してきて、顔が熱い。けれど同時に、指先は凍るほど冷たい。体が二つに裂けていくみたいだ。
ローランドが、小さく息を呑む音がした。
椅子の布が僅かに沈む。立ち上がろうとしたのかもしれない。あるいは、座り直しただけかもしれない。
その動きだけで、アランは胸が潰れそうになった。
「ブラック様……」
ローランドの声は、普段の丁寧さのまま――だが、そこに滲むのは明確な動揺だった。
言葉の続きを探している。弁明か、謝罪か、それとも、アランを庇う一言か。どれにしても、この場所で口にした瞬間、刃物になる。
レギュラスはそれを許さないように、指先でティーカップを軽く持ち上げた。カップとソーサーが触れる微かな音が、異様に大きい。
「失礼。驚かせましたか、フロスト殿」
驚かせた、という言い方が、あまりに優しい。
それが余計に地獄だった。
まるで、“自分は悪意で言っているのではない”と世界に向けて宣言するための言葉だ。
レギュラスは、アランの方を見た。視線が肌に触れた瞬間、アランは反射的に肩を強張らせる。
「座ってください。話をしましょう」
“話をしましょう”――その響きの中に、逃げられない時間が詰まっている。
アランは、椅子に腰を下ろした。膝が震えて、布地が擦れる。
レギュラスは、穏やかなまま続ける。
「あなたは、ちゃんと話したつもりなんでしょうね。だから今ここで、『なぜです』なんて言える」
言葉が、丁寧に、丁寧に、骨に届く。
痛みが出血しないタイプの痛みで、じわじわと内側を腐らせていく。
「でも――僕には、まだ“聞いていないこと”があるように思える」
アランの喉が鳴った。
聞いていないこと? まだ?
この男は、どれだけ奪えば気が済むのだろう。過去も、誇りも、秘密も、そして今この瞬間の呼吸さえも。
ローランドが、視線を上げかけて、すぐ逸らした。
その仕草が、アランをさらに追い詰めた。
見ないでほしい、見ていてほしい、どちらも地獄で、どちらも救いにならない。
レギュラスは微笑む。
優しい顔だ。誰が見ても“良き夫”の顔だ。
だからこそ、アランの中にある何かが、ひどく乱暴に引き裂かれていく。
「さあ。フロスト殿も、どうぞお茶を」
その声に、命令形の刃はない。
――けれど、逆らう余地がない。
この場には、礼節がある。格式がある。
そして、そのすべてを操る人間がいる。
アランは、カップに触れることもできないまま、ただ座っていた。
心臓だけが、肋骨の内側で暴れている。
泣きたい。叫びたい。床に沈みたい。どれも許されない。許されないとわかっているから、涙は喉の奥に溜まり、言葉は歯の裏側で凍った。
レギュラスは、静かに視線を巡らせる。
アランと、ローランドと、そしてその間に落ちた“言葉”の死体を、丹念に眺めるように。
「――では、始めましょうか」
その一言で、応接間の空気が完全に閉じた。
地獄が、きちんと形を整えて、席についた。応接間の空気は、もう“客をもてなすためのもの”ではなかった。
銀のティーセットは整然と並んでいるのに、湯気の白さだけが妙に冷たく見える。暖炉の火は静かに揺れている。けれど、その揺らぎはぬくもりではなく、裁きの始まりを告げる合図のようだった。
レギュラスはソファの背に軽く身を預け、指先でカップの縁を一度だけなぞった。
視線は柔らかい。声も穏やかだ。けれど、その穏やかさは、逃げ道を一枚ずつ剥がすための丁寧さだった。
「フロスト殿」
名前を呼ばれた瞬間、ローランドの背筋が僅かに硬くなる。
礼節の鎧を纏ったまま、きっちりと顔を上げる。その目は、アランを見ない。見れば壊れると知っているような避け方だった。
「はい、ブラック様」
レギュラスは笑みを崩さないまま頷く。
そして、まるでただの事務的な確認をするかのように、言葉を置いた。
「妻の口から語られたものと、あなたの語るものの整合性があるかを確認したくて」
その“妻”という単語が、アランの胸を刺した。
身体の奥で、何かが小さく裂ける音がした気がする。
アランは口を開きかけて、閉じた。声はある。声はあるのに、出せる言葉がない。出した瞬間、この男はそれを利用してさらに深く切り込む――それを、この短い時間で学びすぎていた。
レギュラスは続ける。
「質問に答えていただきたいんですが、ご協力いただけます?」
丁寧な口調。礼儀正しい言い回し。
それなのに、断れない。断るという選択肢そのものが、最初から用意されていない。
ローランドは小さく息を吸う。
呼吸の音が、やけに大きい。
その目が一瞬だけ、床に落ちた。磨き上げられた黒檀の床板が、無慈悲に光を返す。そこに映る自分の影が、ひどく薄汚れて見えたのかもしれない。
「……承知いたしました」
言葉は整っていた。けれど、声がわずかに揺れた。
その揺れを、レギュラスは見逃さない。
「ありがとうございます。――では」
レギュラスはアランへ視線を向けない。
向けないまま、わざとらしいほど公平に、淡々と進める。
「先ほど妻にも同じことを聞きました。ですから、あなたにも同じ質問をします」
“同じ”という言い方に、アランの喉が詰まる。
昨夜から今日にかけて浴びせられた、あの容赦のない問いが、皮膚の裏側から蘇る。
言葉を吐かされるたびに、誇りが削られていく感覚。守りたかったものが、見世物のように広げられていく恐怖。
ローランドも、それを察したのだろう。
ほんの僅かに、拳が握られる。白い手袋越しでも分かるほど、指が強く折り曲げられた。
レギュラスは、最初の一問を選ぶ。
最初は必ず、逃げやすいように見える問いから。
逃げやすいように見せて、逃げた瞬間に捕まえるために。
「――いつからです?」
静かな問い。
だが、その問いが置かれた瞬間、部屋の温度が確実に下がった。
ローランドの視線が揺れた。
口を開けば、アランの名誉が裂ける。
口を閉ざせば、レギュラスは笑いながら次の刃を出す。
アランは、ローランドの横顔を見てしまいそうになるのを必死で堪えた。見れば、縋りたくなる。縋った瞬間、それは“罪の証明”に変わる。
レギュラスは待つ。
待ち方が上手い。沈黙が膨らむのを、わざと許す。
沈黙はすぐに“罪”の形を取り始めるからだ。
「……」
ローランドは答えない。
答えられない。
口元が小さく震えた。言葉の形になりかけたものが、喉の奥で砕けた。
「なるほど」
レギュラスの声には苛立ちがない。
むしろ、興味深そうにすら聞こえる。
それが一番残酷だった。
「では、次。どちらからです?」
アランが息を飲む。
心臓が、身体の外に飛び出そうなほど鳴る。
“あなたから誘ったこと?”――さっきこの男は、平然とそう言った。
同じ刃が、今度はローランドに向けられる。
ローランドの唇が、わずかに開く。
けれど音にならない。
“どちらから”など、言った瞬間に終わる。誰が悪い、誰が汚した、誰が堕とした――そういう単純で下品な結論に、彼女が引きずり込まれる。
ローランドの肩が、ほんの僅かに震えた。
それは恐怖ではない。
懺悔にも似た痛みと、守れない現実への無力感の震えだった。
「ブラック様……」
ようやく出た声は、丁寧で、弱かった。
レギュラスは微笑む。まるで、優しい教師が生徒の言い淀みを励ますように。
「はい。続けてください」
背中を押す言葉なのに、崖へ突き落とす手つきだ。
ローランドは、喉を鳴らした。
視線が宙を彷徨い、そして――ほんの一瞬、アランの方へ寄りかけて、寸前で逸らされた。
その“寄りかけた”という事実だけで、アランの胸に痛みが走る。寄ることすら許されない距離。寄れば殺される距離。
「……それは」
ローランドが言いかけた言葉を、レギュラスは切らない。
切らない。
切らずに、黙って待つ。
待つことで、言葉を“言わせる”。
「……」
ローランドは結局、続けられない。
沈黙が落ちる。
沈黙が、床に落ちて割れる。
レギュラスは、カップを置いた。音が小さく響いた。
それは怒りの音ではない。
判決文のページをめくる音だった。
「言えないんですね」
穏やかな声。
優しい言葉。
なのに、胸の内臓を指で掴まれるような冷たさがある。
「アランの名誉がある、という顔をしていますが」
アランの肩が強張る。
その“名誉”という言葉が、いまこの場では鎖になる。守るための名誉が、縛るための名誉になる。
レギュラスは少しだけ身体を前に傾けた。
笑みは崩さない。
けれど眼差しの奥に、刃の角度が見えた。
「――でも、名誉を守りたいなら、最初から触れなければよかった」
静かに言い切った。
それだけで、ローランドの顔色が変わる。
羞恥と怒りではない。自分の中の“正しさ”が崩れ落ちる音がした顔だった。
アランは、反射的に声を出しかけた。やめて、と。
けれど言葉が喉で止まる。言えば、この男はそれを“答え”として採用する。
レギュラスは、次の問いへ移る。
丁寧に。逃げ道がないように。
あくまで礼儀正しく。
「場所はどこです?セシール家の屋敷で間違いないですね」
ローランドの瞳が、僅かに見開かれる。
“知っている”――その事実が、もう詰みだった。
レギュラスは答えを聞きたいのではない。答えさせたいのだ。口にさせて、形にして、戻れない場所へ固定したいのだ。
ローランドは唇を結び直す。
喉仏が上下する。
だが、それでも言葉が出ない。
「……」
沈黙。
レギュラスは頷く。
頷き方が、あまりに穏やかで、恐ろしい。
「では、回数」
その一語で、アランの視界が白くなる。
“行為の回数は三回だったこと?”――その冷酷な事務処理のような言い方が蘇る。
ここで数字が口にされた瞬間、二人が共有した“禁断の時間”は、ただの記録になる。裁きのための記録。晒しものの記録。
ローランドの喉が、ひくりと動く。
答えれば、アランを汚す。
答えなければ、レギュラスが“代わりに”語る。
そしてその“代わりに”が、どれほど残酷に誇張され、歪められ、刃に変わるか――この男は、それを平然とやる。
アランは、息を吸った。
言ってはいけない。
ローランドを守るためではない。自分を守るためでもない。
ただ、アルタイルの母として、ここで崩れたら終わると知っているからだ。
レギュラスは、あくまで柔らかく促す。
「正確に。整合性のためです」
整合性。
その言葉が、吐き気がするほど冷たい。
愛も、罪も、後悔も、泣き崩れた夜も、全部“整合性”のための材料に変えられていく。
ローランドは、ついに言葉を探して唇を動かす。
けれど――出たのは、答えではなかった。
「ブラック様。……お願いです」
その声音は丁寧なまま、崩れていた。
礼節の鎧の隙間から、必死さが滲む。
レギュラスは、目を細める。
微笑みは薄いまま、鋭さだけが増す。
「何をお願いするんです?」
問い返しが、優しい。
優しいからこそ、絶望的だ。
ローランドは言葉を続けられない。
アランの名誉がある。
その名誉が、彼の舌を縛る。
同時に、アランの胸も締め上げる。守られているはずの名誉が、いまは“言えない”という形で二人を追い詰めていく。
レギュラスは、椅子の背にまた身を預けた。
その動作は、余裕そのものだった。
すべての主導権が手の内にある人間の、静かな楽しみの仕草。
「わかりました。では――答えられる質問からにしましょうか」
逃がす気はない。
慈悲もない。
ただ、順番を変えるだけだ。
「フロスト殿。あなたは、妻―― アランを、どう呼びました?」
アランの指先が震える。
名前。
呼び名。
そんな些細なものさえ、今は首輪になる。
ローランドの喉が詰まる。
彼の口から“ アラン”という名が出たら、それだけで世界が崩れる。
“ブラック夫人”と言えば、それはそれで、距離を装った嘘になる。
どちらにしても、地獄。
レギュラスは微笑んだまま、静かに、確実に、追い込んでいく。
応接間の火が揺れる。
銀のカップが冷たく光る。
そして、言葉にならない沈黙だけが、きちんと整列して、次の質問を待っていた。
応接間の空気は、薄いガラスの膜のように張り詰めていた。
暖炉の火が小さく爆ぜ、赤い舌が一瞬だけ跳ねる。その音さえ、今は誰かの呼吸を乱す刃に聞こえる。銀のティースプーンが受け皿に触れれば、余計な罪を告白したように響いてしまいそうで――誰も指先を動かせない。
レギュラスは背筋を正しすぎることもなく、ゆったりとソファに身を預けた。
その姿勢が、すでに支配だった。力で押さえつけるのではない。逃げ道のない位置に、相手を静かに座らせる。声を荒らげる必要がないほど、場の形が整っている。
向かいに座るローランドは、礼節という鎧を丁寧に着込んだまま、微動だにしない。視線は、決してアランに触れない。触れた瞬間に、何かが決定的に崩れると知っている者の避け方だった。
アランは、レギュラスの指定した席に座っていた。座らされていた、と言ったほうが正しい。
手を膝の上で組み、背筋を伸ばし、唇を結び――「ブラック夫人」として、正しい形を保つ。そうしなければ、この男の刃はもっと容赦なくなる。そう理解してしまうほど、彼のやり方に慣れた自分が悔しい。
レギュラスはカップの縁を一度だけ指先でなぞり、静かに言った。
「フロスト殿。先ほどの質問に戻りましょう」
声は柔らかい。
それだけで、ローランドの喉がわずかに動く。
「――あなたは、妻を。…… アランを、どう呼びました?」
呼び名。たったそれだけのことが、ここでは首輪になる。
アランの胸の奥で、熱いものが縮む。
ローランドの唇がほんの少し開いた。だが、音にならない。
沈黙。
レギュラスは急かさない。
沈黙が“罪”の形を取り始めるまで待つ。待つことで相手の内側を焦がし、耐えられなくさせる。
「答えられないんですね」
その言い方が、まるで相手を責めているようでいて、責めていない。
ただ事実を確かめているだけだという顔で、レギュラスは微笑む。微笑みが薄いほど、奥の冷たさが際立つ。
ローランドは息を整えようとする。
礼節のために。理性のために。
しかし理性は、いま必死に守っているもの―― アランの名誉や、彼女の立場や、彼女の父の顔や、そして何より彼女の未来――それらを守るためにこそ、ここでは弱点になる。
レギュラスは、カップを置いた。音は小さい。だが、合図としては十分だった。
「フロスト殿。あなたが答えてくれないと」
そこで、レギュラスは“妻”という単語を、あまりにも自然に差し込んだ。
まるで、相手の心の柔らかい場所を知っていることを誇示するように。
「妻はまた、僕に――ボロボロになるまで責められますよ」
穏やかに告げられた言葉が、応接間の空気を一段深く冷やした。
アランの指先が、膝の上でわずかに震える。
その震えを、レギュラスは見ている。見ているのに、慈悲のために止めない。むしろ、その震えが目的であるかのように、言葉を整えていく。
ローランドの顔色が変わった。
怒りではない。恐怖でもない。
自分が何を守ろうとしているのか、まざまざと思い知らされた顔だった。
「ブラック様……」
掠れた声が漏れる。
それ以上は続かない。
レギュラスは首を傾げるだけで、理解を示すような仕草をした。
「責められるのは妻だけではありません。あなたも同じです。――ただ、順番が違うだけ」
淡々とした言い回しが、かえって残酷だった。
“順番”という言葉で、痛みが制度化される。誰が先に壊され、誰が次に壊されるのか。彼の中で、それはもう予定表のように整列している。
レギュラスは、もう一度、同じ問いを口にした。
「どう呼びました? フロスト殿」
ローランドは俯いたまま、拳を握る。
息を吸って、吐く。
それでも言葉にならない。
レギュラスは、視線を今度はアランに向けた。
向けた瞬間、アランの背筋が反射的に固まる。
灰色の瞳が、どこまでも静かで、どこまでも逃がさない。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、胸が痛む。
レギュラスは優しくもなく、荒々しくもなく、ただ“当然の権利”のように妻の名を呼ぶ。
「疲れましたか?」
問いは、気遣いの形をしている。
だが、その言葉の裏に透けて見えるのは、再開の宣言だった。――今ここで答えが出なければ、夜が繰り返される。あの寝室で、あの距離で、あの鋭い声で。
アランは、首を横に振ることも、肯定することもできない。
口を開けば、どちらの言葉も“利用される”。
だからただ、息を整えようとした。美しい形を保つために。母として、妻として、崩れないために。
その沈黙を、レギュラスは楽しむように受け取った。
「ねえ、フロスト殿」
声がさらに柔らかくなる。
柔らかいほど、刃の角度が変わる。
「あなたが黙っているせいで、妻がここから解放されない。……それでもあなたは、礼節ですか? 名誉ですか?」
ローランドの唇が震える。
その震えの理由を、アランは痛いほど知っていた。
彼は優しい。あまりにも優しい。だからこそ、いまこの場で最も弱い。守りたいものが多すぎる男は、脅しがよく効く。
レギュラスは視線だけで、アランを“引き合い”に出した。
言葉にしなくても伝わる。“また”の意味が、骨の髄に沁みている。
ローランドは、ついに顔を上げた。
アランを見ない。見られない。
それでも、言うしかない顔だった。
「……呼び方は」
声が途切れた。
喉に何かが詰まり、痛みが走る。
レギュラスは微笑む。頷く。促す。
言わせるための、完璧な合図。
「はい」
「……ブラック夫人、と」
ローランドがようやく吐き出した言葉は、丁寧で、よそよそしく、そして――嘘のように冷たかった。
アランの胸が、きゅっと縮む。
本当は知っている。彼がそんな呼び方をしなくてはならない距離に追い込まれていることを。けれどそれでも、耳で聞かされると痛い。切り傷に塩を擦り込まれるように、ちくちくと痛む。
レギュラスは満足したふうでもなく、失望したふうでもなく、ただ“記録”を進める。
「なるほど。では次」
そして、矛先は滑るように移る。
逃げ場のない速度で。
「どちらから誘いました?」
その問いを口にした瞬間、アランの胃が沈んだ。
ローランドの肩が僅かに揺れる。
レギュラスは、相手が沈黙で逃げようとする可能性を最初から潰すように、静かに補足した。
「答えてください。答えないなら――妻に続きをさせます」
“続きをさせます”。
そこに具体的な描写はないのに、アランの身体が思い出してしまう。言葉を吐かされる痛み。羞恥の熱。逃げ場のない時間。
視界の端で、ローランドの手が震えた。
彼はそれを想像したのだ。あるいは、想像させられたのだ。レギュラスの言葉は、いつだって相手の中に勝手に地獄を建てさせる。
ローランドは、息を吸い、吐き、そして――口を開いた。
「……誘ったのは」
一瞬、声が掠れる。
喉が拒む。
けれど、拒みきれない。
「……私です」
その言葉が落ちた瞬間、アランの胸の奥で何かが砕けた。
守りたかった誇りが、守られたようで、守られなかった。
彼が自分を庇うために言ったのだと分かるのに、庇われる形が、あまりに痛い。
“私が誘った”。その一言で、二人の罪がひとつの形に固められてしまう。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
喜びではない。
怒りでもない。
ただ、期待していた“崩れ方”が、きちんと目の前で起きたことへの確認。
「そうですか」
淡々とした声が、逆に恐ろしい。
怒鳴らない。壊さない。
壊すなら、もっと丁寧に、もっと長く、もっと逃げられない形で――そういう男の静けさだった。
「あなたから」
レギュラスは繰り返す。
一度言わせた言葉を、もう一度言わせる。逃げ道を塞ぐために。記録を深く刻むために。
「あなたが、妻を誘った。そういうことですね、フロスト殿」
ローランドの顔が僅かに歪む。
否定したい。正したい。
“違う”と言えたら、どれほど楽か。
けれど、違うと言えば、レギュラスは“妻”に戻る。妻を“続きを”させる。
ローランドの唇が震えたまま、やがて小さく頷いた。
「……はい」
その頷きが、アランの心を締め付ける。
彼が自分を守るために、自分を汚した。
自分が彼を守りたいのに、守られてしまう。
守られることで、より深い罪悪感に沈む。
レギュラスは、ようやく“優しい”ふりをするように息をついた。
「協力してくださって助かります」
その言葉が、どこまでも嘘くさい。
“助かった”のは誰なのか。
助けられたのは誰なのか。
――答えは、灰色の瞳の奥にしかない。
レギュラスは、次の質問のために、もう一度カップを手に取った。
湯気が立ちのぼる。その白さが、なぜか葬列の煙のように見える。
「では、続けましょうか」
静かに、穏やかに、丁寧に。
逃げ道のない“続き”が、今ここから始まるのだと――それだけが、はっきりと伝わった。
暖炉の火は変わらず穏やかに揺れているのに、応接間だけが冬の底に沈んだように冷えていった。
香の立つ紅茶の湯気が細い糸のように昇り、天井でほどけて消える。その消え方までが、何かの言い訳みたいで、腹の底が静かにざらつく。
レギュラスはローランドの返答を聞いたあとも、表情をほとんど動かさなかった。
笑みの形は崩さない。崩さないことで、崩れているのは相手のほうだと示す。
「ありがとうございます、フロスト殿」
礼を言う声は丁寧で、まるで儀礼の一部だ。
けれど次の瞬間、言葉は刃物の角度で差し込まれる。
「ただ……ひとつ、困りましたね」
ローランドの喉が小さく鳴る。
アランは膝の上で指を組み直し、組み直したことさえ“見られている”気がして、呼吸を浅くする。視線はレギュラスに向けられない。向ければ捕まると知っている。
レギュラスはカップを受け皿に置いた。音は控えめだったが、合図としては完璧だった。
「昨夜、妻から聞いた話と――あなたの話が、いくつか食い違っています」
言いながら、視線だけをアランへ滑らせる。
責めるでも、慰めるでもない。ただ“確認”の目だ。
アランの胸がきゅっと縮み、唇が震えそうになるのを必死で押さえる。
「まず、呼び方」
穏やかな声で、穏やかでない部分を切り出す。
「フロスト殿は今、『ブラック夫人』と呼んだとおっしゃった。――では昨夜、妻は何と言ったと思います?」
ローランドの肩がわずかに強張る。
答えなくてもいいはずの問いなのに、答えさせるための問いだと分かる。答えさせる相手はローランドではない。アランだ。
レギュラスは微笑んだまま、続ける。
「妻はね、『彼は私を……“ アラン”と呼んだ』と言いました」
言葉が落ちるだけで、空気の密度が増した。
ローランドの目が一瞬だけ泳ぎ、すぐに伏せられる。
アランの心臓が冷たい水に沈む。昨夜――追い詰められ、耐えきれず、言葉を選ぶ余裕すらなくなったあの時間の発言が、こうして“並べられる”だけで、体温が奪われる。
レギュラスは静かに首を傾げる。
「どちらが正しいんでしょう。……ねえ、フロスト殿。あなたは、妻を“ブラック夫人”と呼び続けている。その礼節が、急に剥がれる瞬間があったんですか?」
柔らかい口調で、答えの逃げ道を削る。
“急に剥がれる瞬間”。それはつまり、礼節を捨てるほどの親密さがあったという告白に近い。
ローランドの唇が開く。閉じる。開く。
言葉が見つからない。
レギュラスは待たない。
「次。誘ったのはあなた、と言いましたね」
そこで、視線が今度はアランへ向く。
アランの肩が僅かに揺れた。けれどすぐに動きを殺す。
母として、妻として、理性の鎧を着る。
「昨夜、妻は違うことを言いました。――『誘ったのは私だ』と」
レギュラスは“妻”という言葉をあえて丁寧に発音した。
その丁寧さが、容赦のなさを際立たせる。
「面白いですね。呼び方も、誘った方も、揃って反対です。――フロスト殿」
名前を呼ぶだけで、ローランドの背が震える。
レギュラスは穏やかに笑っている。まるで、難しい算術の矛盾を見つけた学者のように。
「……どちらかが嘘をついている。あるいは、どちらも嘘をついている」
ゆっくりと言い切ったあと、視線をアランへと落とす。
その目は冷たいのに、焦点は妙に優しい。優しいふりをする冷たさほど、人を壊す。
「ねえ、アラン。昨夜のあなたは、そう言いましたよね」
名を呼ばれる。
それだけで、首筋が熱を帯びる。
アランは答えない。答えれば“ここ”で正しさを奪われる。答えなければ“夜”が戻る。
レギュラスはその沈黙すら、整然と記録に組み込むように頷いた。
「……構いません。今はフロスト殿に聞きます」
逃がさない。逃がさないと言い切らないことで、逃げられない形を作る。
「会っていた時間」
レギュラスは指先で、目に見えない目盛りをなぞる仕草をした。
「あなたは『短い時間だった』という趣旨で言いました。……一方で妻は、『数時間だけ』と言いました。しかも――定期的に」
ローランドの眉がわずかに動く。
定期的。
その言葉は、単なる一度の逸脱ではなく“生活”を示す。
アランの喉が詰まる。息が吸えない。
レギュラスは、淡々とした声のまま問いを重ねる。
「何時に来て、何時に出ました? 曖昧で結構です。……ただ、あなたの『短い』が、妻の『数時間』と一致するかどうかだけ知りたい」
聞き方は丁寧。
けれど答えた瞬間、相手は自分の首に縄をかける。
答えない瞬間、縄はアランのほうに掛け直される。
ローランドは何か言いかけて、飲み込んだ。
その逡巡を、レギュラスは見逃さない。
「……答えられない。なるほど」
声が少しだけ低くなる。冷たさが濃くなる。
「回数も同じです」
ここで、レギュラスは“まとめて”いった。
一つずつではない。逃げる余裕を与えないために、矛盾を束にして突きつける。
「昨夜、妻は『三回』と言いました。あなたは今、頷きましたか? 首を振りましたか? ――どちらでもいい」
意地悪な言い方だった。
“どちらでもいい”という言葉が、どちらでも地獄に落とせるという宣言になる。
「三回で合っていますか、フロスト殿」
ローランドの喉が上下する。
礼節を守ろうとするほど、顔が青ざめていく。
アランは、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返す。――お願いだから、ここで崩れないで。お願いだから、彼の言葉に乗らないで。
けれど崩れないほど、レギュラスは崩したくなる。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
落胆でも、怒りでもない。むしろ確信に近い吐息だった。
「……分かりました」
その声色が変わった瞬間、アランの背筋に冷たい汗が浮く。
「あなたと妻は、お互いを守ろうとしている」
言い切る。
それは“推測”ではなく、“判決”だった。
「呼び方も、誘った方も、会っていた時間も、回数も。全部、昨夜の妻の発言と異なっている」
ひとつひとつを数え上げるように、言葉が落とされる。
数えるたび、床に小石が積み上がる。逃げ道の床が、ごつごつと歩けなくなる。
レギュラスは笑わなかった。
笑わないほうが怖いのを、二人とも知っている。
「意図的に答えを変えたんでしょう。――あなたは妻を守りたい。妻はあなたを守りたい」
優しい言葉の形をしているのに、胸の中を引き裂くような言い方だった。
守りたい、という気持ちさえ“罪”として握りつぶされる。
レギュラスはそこで、ゆっくりと身を乗り出した。
距離が縮まるだけで、空気が圧迫される。
「ねえ、フロスト殿」
柔らかく呼びかける。
それだけでローランドの指先が震えた。
「あなたが守ろうとしているのは、誰の何です?」
一拍。
その“間”が、答えを選ぶ時間ではないことが分かる。
間は、恐怖を育てるために置かれている。
「妻の名誉ですか。あなた自身の保身ですか。……それとも」
レギュラスの視線が、アランの喉元に触れるように滑った。
アランは反射的に息を止める。止めたことすら見透かされる。
「――“二人の秘密”ですか?」
言葉が、応接間の中心に落ちた。
暖炉の火が小さく爆ぜた。まるで合図のように。
ローランドの唇が白くなる。
アランの視界の端が滲む。
それでも泣いてはいけない。泣いたら、レギュラスは“正しい夫”の顔で優しくしてくる。優しさの形で、もっと深く刺してくる。
レギュラスはその沈黙の味を確かめるように、ゆっくりと言った。
「いいですよ。守り合うのは結構です」
一瞬、救いのように聞こえる。
けれど次の一言で、それが錯覚だと分かる。
「――ただ、その守り方は、僕の前では通用しない」
声は柔らかい。
柔らかいまま、逃げ道を塞ぐ。
「整合性が取れないなら、取れるまで揃えましょう。どちらかに合わせる必要はありません。……“事実”に合わせるだけでいい」
レギュラスはカップに手を伸ばし、紅茶を一口含んだ。
その仕草が、あまりにも落ち着いていて――余計に残酷だった。
息をするように追い詰める人間の余裕。
「フロスト殿。もう一度聞きます」
淡々と、繰り返す。
繰り返すことで、相手の心を削る。
「呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。――今度は、どれから答えます?」
選択肢を与える形で、選択肢を奪う。
どれからでも地獄だ。
どれを選んでも、次が来る。
そして答えた分だけ、戻れない。
アランは、喉の奥で声が震えそうになるのを必死で押さえた。
ローランドは、視線を上げられないまま、拳を握り締める。
レギュラスはただ、微笑みを崩さない。
壊れるまで、丁寧に。
美しい形のまま、残酷に。
あの男だけが、何事もなかったような顔で、息を吸って歩いていく――そんな結末を、このレギュラス・ブラックが許せるはずがない。
けれど同時に、世間というものは、あまりに面倒で、あまりに繊細で、そして滑稽なほど残酷だった。
フロストの隣にはクラリッサがいる。ブラック家の遠縁、ブラックバーン家の娘。自分が“縁”として差し出し、血筋の紐を結び、家の格と体裁を整えた――その駒が、今は生きた人間としてそこにいる。
ローランド・フロストを表立って叩き潰すことは、簡単だ。
名誉も職も、人の噂も。魔法省の廊下を歩く者の息の仕方一つで、いくらでも変えられる。
だが、あまりに露骨に抹殺すれば、クラリッサの立場が崩れる。ブラックバーン家の評判が揺らぐ。揺らげば、最終的にそれは“ブラック家が見誤った縁談”という形で自分の足元に返ってくる。
――それは、癪だった。
自分の手元で、秩序は常に整っていなければならない。
復讐は、激情で振り下ろす刃ではなく、整然と並べる書類のように、美しく完璧に処理されるべきだ。余計な血が飛び散るような真似は、趣味が悪い。
何より、“負け”を見せるに等しい。
机の上に置かれた銀のインク壺の縁で、燭台の炎が小さく揺れた。夜の書斎は静かで、壁一面の本棚は黒い影の塊として沈んでいる。
窓の外には、冬の庭園が眠っていた。枝先に積もる霜が、月光に白く浮かび、噴水は凍りついたまま息を潜めている。
手袋を外し、指先を組む。
爪の間に何も挟まっていないことが、なぜか腹立たしかった。昼間のあの場面――床に散らばった魔法写真、二人が同じ温度で固まり、同じ顔で息を止めた瞬間。
あれほどまでに“事実”を突きつけても、時間が過ぎれば世間は薄まる。人は忘れる。噂は別の話題に流れる。そうやって、卑怯なほどに日常は戻ってくる。
だからこそ、戻させない。
ローランド・フロストだけは。
どうすれば、体裁を傷つけずに、魂だけを削れるのか。
どうすれば、クラリッサの無邪気な笑みを汚さずに、フロストの内部だけを徹底的に壊せるのか。
どうすれば、誰にも咎められず、誰にも同情されず、彼自身に“自分が悪い”と飲み込ませたまま、膝をつかせられるのか。
考えるほどに、胸の奥が冷えていく。冷えたものは硬く、鋭くなる。
感情が熱になって暴れるより、こうして凍りついた方が、ずっと扱いやすい。
一つ、答えが出た。
――屋敷に呼ぶ。
外で叩くのは簡単だ。だが屋敷は違う。
ブラック家の屋敷という空間そのものが、相手の背筋を正し、呼吸を浅くし、言葉を選ばせる。足音さえ綺麗に揃えたくなる場所で、ローランド・フロストは“礼節”を武器にする。
ならば、その礼節ごと、じわじわと締め上げればいい。
自分の領域で。自分の速度で。
逃げ道の幅も、沈黙の長さも、すべてこちらが決める。
ペンを取り、上質な便箋を引き寄せる。羊皮紙ではない。あくまで現代的で、格式のある紙。墨を落とす音が、静寂にやけに大きく響いた。
宛名は迷わない。
ローランド・フロスト殿。
呼称一つにも、針は仕込める。
親しみすぎず、冷たすぎず、ちょうど“断れない”温度。
文面は簡潔でいい。丁寧で、柔らかく、そして逃げ道を塞ぐように。
――“家族としての顔合わせを、改めて。”
――“先日の件で、行き違いがあったように見受けられたため。”
――“クラリッサの評判に無用な影を落としたくない。あなたも同じでしょう。”
そんな言葉を、いかにも配慮の形で並べていく。
正論は、最も美しい拘束具だ。外す理由がない。外せば、悪者になる。
ふと、扉の向こうの廊下に気配がした。使用人の足音だろう。
屋敷は常に整っている。整っているからこそ、崩れる瞬間は鮮やかで、甘美だ。
署名の最後に、さらりと一行を添える。
――“アルタイルのことも、一度ご覧になってください。あなたほど礼を心得た方なら、きっと喜んでくださる。”
息子の名を出す。
これほど万能なカードはない。子の存在は、純血社会において、祝福と義務と正当性のすべてを同時に帯びる。
ローランド・フロストは、断れない。断れば“子の祝福を拒んだ”形になる。彼が最も嫌う類の不作法だ。
ペン先を置くと、インクが乾く前に、紙面が美しく整っていることに満足が滲む。
復讐は、このくらい端正であるべきだ。
便箋を封筒に入れ、黒い封蝋で封じた。家紋の刻印が押された瞬間、熱い蝋が冷えて固まる音が、ひどく心地よい。
固まる――そう、固まればいい。彼の運命も、逃げ道も、ここで。
「フクロウを」
扉の外に声をかけると、すぐに控えめな返事が返った。
程なくして、黒い羽の大きなフクロウが、止まり木ごと運ばれてくる。黄金の瞳がこちらを見上げ、頭を小さく揺らす。
封書を足に括り付ける指先は、驚くほど落ち着いていた。
怒りで震えるのではない。喜びで跳ねるのでもない。
ただ、当然の手続きとして、次の段階へ進んでいるだけだ。
「行っておいで」
静かに言うと、フクロウは羽を広げ、夜の空へ消えた。
窓に映る自分の表情は、穏やかだった。穏やかすぎるほどに。
ローランド・フロストがこの封書を受け取り、封を切り、文面を読む時。
彼はきっと、胸の奥で“嫌な予感”を覚える。だがそれは曖昧で、言語化できず、結局は礼節に押し流される。
そして彼は来る。ブラック家の屋敷へ。自分の足で。
その時、ようやく始まる。
外から見れば、ただの食事会。家族の集まり。丁寧な挨拶と、穏やかな会話。
けれど内側では、確実に、骨の一本ずつを折っていく。
クラリッサの名誉を汚さずに。
ブラックバーン家の評判を落とさずに。
それでも、ローランド・フロストだけを、徹底的に傷つける。
――できる。
できないわけがない。
燭台の火がまた揺れた。
その揺れを見つめながら、唇の端が僅かに持ち上がるのを、自分で止める気にはなれなかった。
客人が来る、とだけ告げられた時点では―― アランは、それが誰なのかを知らされていなかった。
応接間の暖炉は火が弱く、赤い舌先が控えめに揺れている。磨き上げられた黒檀の床は、窓から差す薄い冬の光を跳ね返して、冷たく光っていた。銀のティーセットは無駄なほど完璧に整えられ、砂糖壺の蓋にさえ埃ひとつない。
「……お客様が?」
問い返す声が、自分のものとは思えないほど軽い。
胸の奥はずっと前から重く、沈んでいるのに。
レギュラスはいつものように柔らかな笑みを貼り付けたまま、アランの返事を待つでもなく、壁際の時計に視線をやった。彼の仕草は、何もかもを知っていて、何も急がず、そして何より――この屋敷の空気すら自分の指先で動かせると確信している人のものだった。
次の瞬間、扉がノックされる。
執事の声が、静かに、しかし抗えない断定を帯びて響いた。
「フロスト家より、ローランド・フロスト様がお見えでございます」
――足元が、一瞬だけ消えた。
体が落ちる感覚だけが残り、耳が遠のく。アランは呼吸を取り戻そうとするのに、肺が言うことを聞かない。
レギュラスが、穏やかに頷く。
まるで、今日の天気が予報通りだったことに満足しているみたいに。
「通して」
執事が下がり、扉が開く。
その隙間から流れ込む空気が、別の場所の匂いを連れてきた気がした。セシール家の研究室に漂っていた薬草と紙の匂い――そんな錯覚に胸が痛む。なぜここでそれを思い出すのか、自分でもわからない。
ローランド・フロストが入ってくる。
黒の礼装は寸分の乱れもなく、背筋は真っ直ぐで、表情は、礼節という鎧で覆われている。視線は丁寧に床と壁とをなぞってから、最後にレギュラスへ向いた。
「ブラック様。本日はお招きにあずかり、ありがとうございます」
声は相変わらず丁寧で、優しい。
――その優しさが、今は残酷だった。優しさの形をした刃で、自分の胸を何度も撫でられるような。
レギュラスは軽く立ち上がり、微笑む。
「わざわざありがとう、フロスト殿。どうぞ、おかけになってください」
その言葉の丁寧さが、逆に恐ろしい。
この男は怒鳴らない。壊す時ほど声が低くなる。やわらかくなる。逃げ道が綺麗に塞がれる。
ローランドがソファへ向かう気配を見せた、その瞬間だった。
レギュラスの視線が、今度はアランへ移る。
「あなたもどうぞ」
アランの肩が、わずかに跳ねた。
“あなた”と呼ばれるたび、自分は妻であることを思い出させられる。逃げられない場所に戻される。名前ではなく、役割で縛られる。
「……なぜです」
声が出たことに、自分で驚く。
拒みたいのに、声の震えがそれを裏切る。喉の奥が熱い。泣きたくないのに、涙の準備だけが勝手に始まっている。
レギュラスは首を傾げる。困ったような顔――だが、その困り方は、相手を助ける人のものではない。獲物が足掻くのを眺めて面白がる、冷たい楽しみの影が滲んでいる。
「なぜ?」
アランは唇を噛んだ。
喉元まで上がってくる言葉がある。昨夜、昨夜だけじゃない、何時間も、何度も、膝をついて、泣いて、お願いして――その末に取り付けた約束があった。
あれほど、あれほど話したのに。
もう終わりにして、と。
父には言わないで、と。
これ以上、誰も巻き込まないで、と。
「レギュラス……」
名前を呼びかけた途端、レギュラスの目が、ほんの僅かに細まった。
その小さな変化で、アランの背筋が凍った。
“その呼び方”は、助けを求める時の呼び方だと、この男は理解している。理解していて、それを踏み潰す。
「話した?」
レギュラスは、唇の端だけで笑う。声は小さい。けれど、言葉の輪郭が鋭すぎて、応接間の空気が切れる。
「何をです?」
――来る。
来るとわかっているのに、避けられない。
アランは、自分の指先が冷えきっていくのを感じながら、椅子の背に手を置いた。座るという動作が、処刑台に上がる儀式みたいだった。
レギュラスの声が続く。淡々と、丁寧に。あまりに丁寧に。
「あなたから誘ったこと?」
アランの呼吸が止まった。
ローランドの方を見ることができない。見れば、崩れる。崩れてしまったら、その瞬間この男は喜ぶ。
「――行為の回数は三回だったこと?」
言葉が床に落ちた。
硬い音がした気がした。
応接間のどこにも、逃げ込める影はない。暖炉の火でさえ、今は冷たく見える。
アランは絶句した。
口を開けても音が出ない。出ないのではなく、何を出せばいいのか脳が拒否している。
羞恥が皮膚の内側から噴き出してきて、顔が熱い。けれど同時に、指先は凍るほど冷たい。体が二つに裂けていくみたいだ。
ローランドが、小さく息を呑む音がした。
椅子の布が僅かに沈む。立ち上がろうとしたのかもしれない。あるいは、座り直しただけかもしれない。
その動きだけで、アランは胸が潰れそうになった。
「ブラック様……」
ローランドの声は、普段の丁寧さのまま――だが、そこに滲むのは明確な動揺だった。
言葉の続きを探している。弁明か、謝罪か、それとも、アランを庇う一言か。どれにしても、この場所で口にした瞬間、刃物になる。
レギュラスはそれを許さないように、指先でティーカップを軽く持ち上げた。カップとソーサーが触れる微かな音が、異様に大きい。
「失礼。驚かせましたか、フロスト殿」
驚かせた、という言い方が、あまりに優しい。
それが余計に地獄だった。
まるで、“自分は悪意で言っているのではない”と世界に向けて宣言するための言葉だ。
レギュラスは、アランの方を見た。視線が肌に触れた瞬間、アランは反射的に肩を強張らせる。
「座ってください。話をしましょう」
“話をしましょう”――その響きの中に、逃げられない時間が詰まっている。
アランは、椅子に腰を下ろした。膝が震えて、布地が擦れる。
レギュラスは、穏やかなまま続ける。
「あなたは、ちゃんと話したつもりなんでしょうね。だから今ここで、『なぜです』なんて言える」
言葉が、丁寧に、丁寧に、骨に届く。
痛みが出血しないタイプの痛みで、じわじわと内側を腐らせていく。
「でも――僕には、まだ“聞いていないこと”があるように思える」
アランの喉が鳴った。
聞いていないこと? まだ?
この男は、どれだけ奪えば気が済むのだろう。過去も、誇りも、秘密も、そして今この瞬間の呼吸さえも。
ローランドが、視線を上げかけて、すぐ逸らした。
その仕草が、アランをさらに追い詰めた。
見ないでほしい、見ていてほしい、どちらも地獄で、どちらも救いにならない。
レギュラスは微笑む。
優しい顔だ。誰が見ても“良き夫”の顔だ。
だからこそ、アランの中にある何かが、ひどく乱暴に引き裂かれていく。
「さあ。フロスト殿も、どうぞお茶を」
その声に、命令形の刃はない。
――けれど、逆らう余地がない。
この場には、礼節がある。格式がある。
そして、そのすべてを操る人間がいる。
アランは、カップに触れることもできないまま、ただ座っていた。
心臓だけが、肋骨の内側で暴れている。
泣きたい。叫びたい。床に沈みたい。どれも許されない。許されないとわかっているから、涙は喉の奥に溜まり、言葉は歯の裏側で凍った。
レギュラスは、静かに視線を巡らせる。
アランと、ローランドと、そしてその間に落ちた“言葉”の死体を、丹念に眺めるように。
「――では、始めましょうか」
その一言で、応接間の空気が完全に閉じた。
地獄が、きちんと形を整えて、席についた。応接間の空気は、もう“客をもてなすためのもの”ではなかった。
銀のティーセットは整然と並んでいるのに、湯気の白さだけが妙に冷たく見える。暖炉の火は静かに揺れている。けれど、その揺らぎはぬくもりではなく、裁きの始まりを告げる合図のようだった。
レギュラスはソファの背に軽く身を預け、指先でカップの縁を一度だけなぞった。
視線は柔らかい。声も穏やかだ。けれど、その穏やかさは、逃げ道を一枚ずつ剥がすための丁寧さだった。
「フロスト殿」
名前を呼ばれた瞬間、ローランドの背筋が僅かに硬くなる。
礼節の鎧を纏ったまま、きっちりと顔を上げる。その目は、アランを見ない。見れば壊れると知っているような避け方だった。
「はい、ブラック様」
レギュラスは笑みを崩さないまま頷く。
そして、まるでただの事務的な確認をするかのように、言葉を置いた。
「妻の口から語られたものと、あなたの語るものの整合性があるかを確認したくて」
その“妻”という単語が、アランの胸を刺した。
身体の奥で、何かが小さく裂ける音がした気がする。
アランは口を開きかけて、閉じた。声はある。声はあるのに、出せる言葉がない。出した瞬間、この男はそれを利用してさらに深く切り込む――それを、この短い時間で学びすぎていた。
レギュラスは続ける。
「質問に答えていただきたいんですが、ご協力いただけます?」
丁寧な口調。礼儀正しい言い回し。
それなのに、断れない。断るという選択肢そのものが、最初から用意されていない。
ローランドは小さく息を吸う。
呼吸の音が、やけに大きい。
その目が一瞬だけ、床に落ちた。磨き上げられた黒檀の床板が、無慈悲に光を返す。そこに映る自分の影が、ひどく薄汚れて見えたのかもしれない。
「……承知いたしました」
言葉は整っていた。けれど、声がわずかに揺れた。
その揺れを、レギュラスは見逃さない。
「ありがとうございます。――では」
レギュラスはアランへ視線を向けない。
向けないまま、わざとらしいほど公平に、淡々と進める。
「先ほど妻にも同じことを聞きました。ですから、あなたにも同じ質問をします」
“同じ”という言い方に、アランの喉が詰まる。
昨夜から今日にかけて浴びせられた、あの容赦のない問いが、皮膚の裏側から蘇る。
言葉を吐かされるたびに、誇りが削られていく感覚。守りたかったものが、見世物のように広げられていく恐怖。
ローランドも、それを察したのだろう。
ほんの僅かに、拳が握られる。白い手袋越しでも分かるほど、指が強く折り曲げられた。
レギュラスは、最初の一問を選ぶ。
最初は必ず、逃げやすいように見える問いから。
逃げやすいように見せて、逃げた瞬間に捕まえるために。
「――いつからです?」
静かな問い。
だが、その問いが置かれた瞬間、部屋の温度が確実に下がった。
ローランドの視線が揺れた。
口を開けば、アランの名誉が裂ける。
口を閉ざせば、レギュラスは笑いながら次の刃を出す。
アランは、ローランドの横顔を見てしまいそうになるのを必死で堪えた。見れば、縋りたくなる。縋った瞬間、それは“罪の証明”に変わる。
レギュラスは待つ。
待ち方が上手い。沈黙が膨らむのを、わざと許す。
沈黙はすぐに“罪”の形を取り始めるからだ。
「……」
ローランドは答えない。
答えられない。
口元が小さく震えた。言葉の形になりかけたものが、喉の奥で砕けた。
「なるほど」
レギュラスの声には苛立ちがない。
むしろ、興味深そうにすら聞こえる。
それが一番残酷だった。
「では、次。どちらからです?」
アランが息を飲む。
心臓が、身体の外に飛び出そうなほど鳴る。
“あなたから誘ったこと?”――さっきこの男は、平然とそう言った。
同じ刃が、今度はローランドに向けられる。
ローランドの唇が、わずかに開く。
けれど音にならない。
“どちらから”など、言った瞬間に終わる。誰が悪い、誰が汚した、誰が堕とした――そういう単純で下品な結論に、彼女が引きずり込まれる。
ローランドの肩が、ほんの僅かに震えた。
それは恐怖ではない。
懺悔にも似た痛みと、守れない現実への無力感の震えだった。
「ブラック様……」
ようやく出た声は、丁寧で、弱かった。
レギュラスは微笑む。まるで、優しい教師が生徒の言い淀みを励ますように。
「はい。続けてください」
背中を押す言葉なのに、崖へ突き落とす手つきだ。
ローランドは、喉を鳴らした。
視線が宙を彷徨い、そして――ほんの一瞬、アランの方へ寄りかけて、寸前で逸らされた。
その“寄りかけた”という事実だけで、アランの胸に痛みが走る。寄ることすら許されない距離。寄れば殺される距離。
「……それは」
ローランドが言いかけた言葉を、レギュラスは切らない。
切らない。
切らずに、黙って待つ。
待つことで、言葉を“言わせる”。
「……」
ローランドは結局、続けられない。
沈黙が落ちる。
沈黙が、床に落ちて割れる。
レギュラスは、カップを置いた。音が小さく響いた。
それは怒りの音ではない。
判決文のページをめくる音だった。
「言えないんですね」
穏やかな声。
優しい言葉。
なのに、胸の内臓を指で掴まれるような冷たさがある。
「アランの名誉がある、という顔をしていますが」
アランの肩が強張る。
その“名誉”という言葉が、いまこの場では鎖になる。守るための名誉が、縛るための名誉になる。
レギュラスは少しだけ身体を前に傾けた。
笑みは崩さない。
けれど眼差しの奥に、刃の角度が見えた。
「――でも、名誉を守りたいなら、最初から触れなければよかった」
静かに言い切った。
それだけで、ローランドの顔色が変わる。
羞恥と怒りではない。自分の中の“正しさ”が崩れ落ちる音がした顔だった。
アランは、反射的に声を出しかけた。やめて、と。
けれど言葉が喉で止まる。言えば、この男はそれを“答え”として採用する。
レギュラスは、次の問いへ移る。
丁寧に。逃げ道がないように。
あくまで礼儀正しく。
「場所はどこです?セシール家の屋敷で間違いないですね」
ローランドの瞳が、僅かに見開かれる。
“知っている”――その事実が、もう詰みだった。
レギュラスは答えを聞きたいのではない。答えさせたいのだ。口にさせて、形にして、戻れない場所へ固定したいのだ。
ローランドは唇を結び直す。
喉仏が上下する。
だが、それでも言葉が出ない。
「……」
沈黙。
レギュラスは頷く。
頷き方が、あまりに穏やかで、恐ろしい。
「では、回数」
その一語で、アランの視界が白くなる。
“行為の回数は三回だったこと?”――その冷酷な事務処理のような言い方が蘇る。
ここで数字が口にされた瞬間、二人が共有した“禁断の時間”は、ただの記録になる。裁きのための記録。晒しものの記録。
ローランドの喉が、ひくりと動く。
答えれば、アランを汚す。
答えなければ、レギュラスが“代わりに”語る。
そしてその“代わりに”が、どれほど残酷に誇張され、歪められ、刃に変わるか――この男は、それを平然とやる。
アランは、息を吸った。
言ってはいけない。
ローランドを守るためではない。自分を守るためでもない。
ただ、アルタイルの母として、ここで崩れたら終わると知っているからだ。
レギュラスは、あくまで柔らかく促す。
「正確に。整合性のためです」
整合性。
その言葉が、吐き気がするほど冷たい。
愛も、罪も、後悔も、泣き崩れた夜も、全部“整合性”のための材料に変えられていく。
ローランドは、ついに言葉を探して唇を動かす。
けれど――出たのは、答えではなかった。
「ブラック様。……お願いです」
その声音は丁寧なまま、崩れていた。
礼節の鎧の隙間から、必死さが滲む。
レギュラスは、目を細める。
微笑みは薄いまま、鋭さだけが増す。
「何をお願いするんです?」
問い返しが、優しい。
優しいからこそ、絶望的だ。
ローランドは言葉を続けられない。
アランの名誉がある。
その名誉が、彼の舌を縛る。
同時に、アランの胸も締め上げる。守られているはずの名誉が、いまは“言えない”という形で二人を追い詰めていく。
レギュラスは、椅子の背にまた身を預けた。
その動作は、余裕そのものだった。
すべての主導権が手の内にある人間の、静かな楽しみの仕草。
「わかりました。では――答えられる質問からにしましょうか」
逃がす気はない。
慈悲もない。
ただ、順番を変えるだけだ。
「フロスト殿。あなたは、妻―― アランを、どう呼びました?」
アランの指先が震える。
名前。
呼び名。
そんな些細なものさえ、今は首輪になる。
ローランドの喉が詰まる。
彼の口から“ アラン”という名が出たら、それだけで世界が崩れる。
“ブラック夫人”と言えば、それはそれで、距離を装った嘘になる。
どちらにしても、地獄。
レギュラスは微笑んだまま、静かに、確実に、追い込んでいく。
応接間の火が揺れる。
銀のカップが冷たく光る。
そして、言葉にならない沈黙だけが、きちんと整列して、次の質問を待っていた。
応接間の空気は、薄いガラスの膜のように張り詰めていた。
暖炉の火が小さく爆ぜ、赤い舌が一瞬だけ跳ねる。その音さえ、今は誰かの呼吸を乱す刃に聞こえる。銀のティースプーンが受け皿に触れれば、余計な罪を告白したように響いてしまいそうで――誰も指先を動かせない。
レギュラスは背筋を正しすぎることもなく、ゆったりとソファに身を預けた。
その姿勢が、すでに支配だった。力で押さえつけるのではない。逃げ道のない位置に、相手を静かに座らせる。声を荒らげる必要がないほど、場の形が整っている。
向かいに座るローランドは、礼節という鎧を丁寧に着込んだまま、微動だにしない。視線は、決してアランに触れない。触れた瞬間に、何かが決定的に崩れると知っている者の避け方だった。
アランは、レギュラスの指定した席に座っていた。座らされていた、と言ったほうが正しい。
手を膝の上で組み、背筋を伸ばし、唇を結び――「ブラック夫人」として、正しい形を保つ。そうしなければ、この男の刃はもっと容赦なくなる。そう理解してしまうほど、彼のやり方に慣れた自分が悔しい。
レギュラスはカップの縁を一度だけ指先でなぞり、静かに言った。
「フロスト殿。先ほどの質問に戻りましょう」
声は柔らかい。
それだけで、ローランドの喉がわずかに動く。
「――あなたは、妻を。…… アランを、どう呼びました?」
呼び名。たったそれだけのことが、ここでは首輪になる。
アランの胸の奥で、熱いものが縮む。
ローランドの唇がほんの少し開いた。だが、音にならない。
沈黙。
レギュラスは急かさない。
沈黙が“罪”の形を取り始めるまで待つ。待つことで相手の内側を焦がし、耐えられなくさせる。
「答えられないんですね」
その言い方が、まるで相手を責めているようでいて、責めていない。
ただ事実を確かめているだけだという顔で、レギュラスは微笑む。微笑みが薄いほど、奥の冷たさが際立つ。
ローランドは息を整えようとする。
礼節のために。理性のために。
しかし理性は、いま必死に守っているもの―― アランの名誉や、彼女の立場や、彼女の父の顔や、そして何より彼女の未来――それらを守るためにこそ、ここでは弱点になる。
レギュラスは、カップを置いた。音は小さい。だが、合図としては十分だった。
「フロスト殿。あなたが答えてくれないと」
そこで、レギュラスは“妻”という単語を、あまりにも自然に差し込んだ。
まるで、相手の心の柔らかい場所を知っていることを誇示するように。
「妻はまた、僕に――ボロボロになるまで責められますよ」
穏やかに告げられた言葉が、応接間の空気を一段深く冷やした。
アランの指先が、膝の上でわずかに震える。
その震えを、レギュラスは見ている。見ているのに、慈悲のために止めない。むしろ、その震えが目的であるかのように、言葉を整えていく。
ローランドの顔色が変わった。
怒りではない。恐怖でもない。
自分が何を守ろうとしているのか、まざまざと思い知らされた顔だった。
「ブラック様……」
掠れた声が漏れる。
それ以上は続かない。
レギュラスは首を傾げるだけで、理解を示すような仕草をした。
「責められるのは妻だけではありません。あなたも同じです。――ただ、順番が違うだけ」
淡々とした言い回しが、かえって残酷だった。
“順番”という言葉で、痛みが制度化される。誰が先に壊され、誰が次に壊されるのか。彼の中で、それはもう予定表のように整列している。
レギュラスは、もう一度、同じ問いを口にした。
「どう呼びました? フロスト殿」
ローランドは俯いたまま、拳を握る。
息を吸って、吐く。
それでも言葉にならない。
レギュラスは、視線を今度はアランに向けた。
向けた瞬間、アランの背筋が反射的に固まる。
灰色の瞳が、どこまでも静かで、どこまでも逃がさない。
「…… アラン」
名を呼ばれるだけで、胸が痛む。
レギュラスは優しくもなく、荒々しくもなく、ただ“当然の権利”のように妻の名を呼ぶ。
「疲れましたか?」
問いは、気遣いの形をしている。
だが、その言葉の裏に透けて見えるのは、再開の宣言だった。――今ここで答えが出なければ、夜が繰り返される。あの寝室で、あの距離で、あの鋭い声で。
アランは、首を横に振ることも、肯定することもできない。
口を開けば、どちらの言葉も“利用される”。
だからただ、息を整えようとした。美しい形を保つために。母として、妻として、崩れないために。
その沈黙を、レギュラスは楽しむように受け取った。
「ねえ、フロスト殿」
声がさらに柔らかくなる。
柔らかいほど、刃の角度が変わる。
「あなたが黙っているせいで、妻がここから解放されない。……それでもあなたは、礼節ですか? 名誉ですか?」
ローランドの唇が震える。
その震えの理由を、アランは痛いほど知っていた。
彼は優しい。あまりにも優しい。だからこそ、いまこの場で最も弱い。守りたいものが多すぎる男は、脅しがよく効く。
レギュラスは視線だけで、アランを“引き合い”に出した。
言葉にしなくても伝わる。“また”の意味が、骨の髄に沁みている。
ローランドは、ついに顔を上げた。
アランを見ない。見られない。
それでも、言うしかない顔だった。
「……呼び方は」
声が途切れた。
喉に何かが詰まり、痛みが走る。
レギュラスは微笑む。頷く。促す。
言わせるための、完璧な合図。
「はい」
「……ブラック夫人、と」
ローランドがようやく吐き出した言葉は、丁寧で、よそよそしく、そして――嘘のように冷たかった。
アランの胸が、きゅっと縮む。
本当は知っている。彼がそんな呼び方をしなくてはならない距離に追い込まれていることを。けれどそれでも、耳で聞かされると痛い。切り傷に塩を擦り込まれるように、ちくちくと痛む。
レギュラスは満足したふうでもなく、失望したふうでもなく、ただ“記録”を進める。
「なるほど。では次」
そして、矛先は滑るように移る。
逃げ場のない速度で。
「どちらから誘いました?」
その問いを口にした瞬間、アランの胃が沈んだ。
ローランドの肩が僅かに揺れる。
レギュラスは、相手が沈黙で逃げようとする可能性を最初から潰すように、静かに補足した。
「答えてください。答えないなら――妻に続きをさせます」
“続きをさせます”。
そこに具体的な描写はないのに、アランの身体が思い出してしまう。言葉を吐かされる痛み。羞恥の熱。逃げ場のない時間。
視界の端で、ローランドの手が震えた。
彼はそれを想像したのだ。あるいは、想像させられたのだ。レギュラスの言葉は、いつだって相手の中に勝手に地獄を建てさせる。
ローランドは、息を吸い、吐き、そして――口を開いた。
「……誘ったのは」
一瞬、声が掠れる。
喉が拒む。
けれど、拒みきれない。
「……私です」
その言葉が落ちた瞬間、アランの胸の奥で何かが砕けた。
守りたかった誇りが、守られたようで、守られなかった。
彼が自分を庇うために言ったのだと分かるのに、庇われる形が、あまりに痛い。
“私が誘った”。その一言で、二人の罪がひとつの形に固められてしまう。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
喜びではない。
怒りでもない。
ただ、期待していた“崩れ方”が、きちんと目の前で起きたことへの確認。
「そうですか」
淡々とした声が、逆に恐ろしい。
怒鳴らない。壊さない。
壊すなら、もっと丁寧に、もっと長く、もっと逃げられない形で――そういう男の静けさだった。
「あなたから」
レギュラスは繰り返す。
一度言わせた言葉を、もう一度言わせる。逃げ道を塞ぐために。記録を深く刻むために。
「あなたが、妻を誘った。そういうことですね、フロスト殿」
ローランドの顔が僅かに歪む。
否定したい。正したい。
“違う”と言えたら、どれほど楽か。
けれど、違うと言えば、レギュラスは“妻”に戻る。妻を“続きを”させる。
ローランドの唇が震えたまま、やがて小さく頷いた。
「……はい」
その頷きが、アランの心を締め付ける。
彼が自分を守るために、自分を汚した。
自分が彼を守りたいのに、守られてしまう。
守られることで、より深い罪悪感に沈む。
レギュラスは、ようやく“優しい”ふりをするように息をついた。
「協力してくださって助かります」
その言葉が、どこまでも嘘くさい。
“助かった”のは誰なのか。
助けられたのは誰なのか。
――答えは、灰色の瞳の奥にしかない。
レギュラスは、次の質問のために、もう一度カップを手に取った。
湯気が立ちのぼる。その白さが、なぜか葬列の煙のように見える。
「では、続けましょうか」
静かに、穏やかに、丁寧に。
逃げ道のない“続き”が、今ここから始まるのだと――それだけが、はっきりと伝わった。
暖炉の火は変わらず穏やかに揺れているのに、応接間だけが冬の底に沈んだように冷えていった。
香の立つ紅茶の湯気が細い糸のように昇り、天井でほどけて消える。その消え方までが、何かの言い訳みたいで、腹の底が静かにざらつく。
レギュラスはローランドの返答を聞いたあとも、表情をほとんど動かさなかった。
笑みの形は崩さない。崩さないことで、崩れているのは相手のほうだと示す。
「ありがとうございます、フロスト殿」
礼を言う声は丁寧で、まるで儀礼の一部だ。
けれど次の瞬間、言葉は刃物の角度で差し込まれる。
「ただ……ひとつ、困りましたね」
ローランドの喉が小さく鳴る。
アランは膝の上で指を組み直し、組み直したことさえ“見られている”気がして、呼吸を浅くする。視線はレギュラスに向けられない。向ければ捕まると知っている。
レギュラスはカップを受け皿に置いた。音は控えめだったが、合図としては完璧だった。
「昨夜、妻から聞いた話と――あなたの話が、いくつか食い違っています」
言いながら、視線だけをアランへ滑らせる。
責めるでも、慰めるでもない。ただ“確認”の目だ。
アランの胸がきゅっと縮み、唇が震えそうになるのを必死で押さえる。
「まず、呼び方」
穏やかな声で、穏やかでない部分を切り出す。
「フロスト殿は今、『ブラック夫人』と呼んだとおっしゃった。――では昨夜、妻は何と言ったと思います?」
ローランドの肩がわずかに強張る。
答えなくてもいいはずの問いなのに、答えさせるための問いだと分かる。答えさせる相手はローランドではない。アランだ。
レギュラスは微笑んだまま、続ける。
「妻はね、『彼は私を……“ アラン”と呼んだ』と言いました」
言葉が落ちるだけで、空気の密度が増した。
ローランドの目が一瞬だけ泳ぎ、すぐに伏せられる。
アランの心臓が冷たい水に沈む。昨夜――追い詰められ、耐えきれず、言葉を選ぶ余裕すらなくなったあの時間の発言が、こうして“並べられる”だけで、体温が奪われる。
レギュラスは静かに首を傾げる。
「どちらが正しいんでしょう。……ねえ、フロスト殿。あなたは、妻を“ブラック夫人”と呼び続けている。その礼節が、急に剥がれる瞬間があったんですか?」
柔らかい口調で、答えの逃げ道を削る。
“急に剥がれる瞬間”。それはつまり、礼節を捨てるほどの親密さがあったという告白に近い。
ローランドの唇が開く。閉じる。開く。
言葉が見つからない。
レギュラスは待たない。
「次。誘ったのはあなた、と言いましたね」
そこで、視線が今度はアランへ向く。
アランの肩が僅かに揺れた。けれどすぐに動きを殺す。
母として、妻として、理性の鎧を着る。
「昨夜、妻は違うことを言いました。――『誘ったのは私だ』と」
レギュラスは“妻”という言葉をあえて丁寧に発音した。
その丁寧さが、容赦のなさを際立たせる。
「面白いですね。呼び方も、誘った方も、揃って反対です。――フロスト殿」
名前を呼ぶだけで、ローランドの背が震える。
レギュラスは穏やかに笑っている。まるで、難しい算術の矛盾を見つけた学者のように。
「……どちらかが嘘をついている。あるいは、どちらも嘘をついている」
ゆっくりと言い切ったあと、視線をアランへと落とす。
その目は冷たいのに、焦点は妙に優しい。優しいふりをする冷たさほど、人を壊す。
「ねえ、アラン。昨夜のあなたは、そう言いましたよね」
名を呼ばれる。
それだけで、首筋が熱を帯びる。
アランは答えない。答えれば“ここ”で正しさを奪われる。答えなければ“夜”が戻る。
レギュラスはその沈黙すら、整然と記録に組み込むように頷いた。
「……構いません。今はフロスト殿に聞きます」
逃がさない。逃がさないと言い切らないことで、逃げられない形を作る。
「会っていた時間」
レギュラスは指先で、目に見えない目盛りをなぞる仕草をした。
「あなたは『短い時間だった』という趣旨で言いました。……一方で妻は、『数時間だけ』と言いました。しかも――定期的に」
ローランドの眉がわずかに動く。
定期的。
その言葉は、単なる一度の逸脱ではなく“生活”を示す。
アランの喉が詰まる。息が吸えない。
レギュラスは、淡々とした声のまま問いを重ねる。
「何時に来て、何時に出ました? 曖昧で結構です。……ただ、あなたの『短い』が、妻の『数時間』と一致するかどうかだけ知りたい」
聞き方は丁寧。
けれど答えた瞬間、相手は自分の首に縄をかける。
答えない瞬間、縄はアランのほうに掛け直される。
ローランドは何か言いかけて、飲み込んだ。
その逡巡を、レギュラスは見逃さない。
「……答えられない。なるほど」
声が少しだけ低くなる。冷たさが濃くなる。
「回数も同じです」
ここで、レギュラスは“まとめて”いった。
一つずつではない。逃げる余裕を与えないために、矛盾を束にして突きつける。
「昨夜、妻は『三回』と言いました。あなたは今、頷きましたか? 首を振りましたか? ――どちらでもいい」
意地悪な言い方だった。
“どちらでもいい”という言葉が、どちらでも地獄に落とせるという宣言になる。
「三回で合っていますか、フロスト殿」
ローランドの喉が上下する。
礼節を守ろうとするほど、顔が青ざめていく。
アランは、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返す。――お願いだから、ここで崩れないで。お願いだから、彼の言葉に乗らないで。
けれど崩れないほど、レギュラスは崩したくなる。
レギュラスは、静かに息を吐いた。
落胆でも、怒りでもない。むしろ確信に近い吐息だった。
「……分かりました」
その声色が変わった瞬間、アランの背筋に冷たい汗が浮く。
「あなたと妻は、お互いを守ろうとしている」
言い切る。
それは“推測”ではなく、“判決”だった。
「呼び方も、誘った方も、会っていた時間も、回数も。全部、昨夜の妻の発言と異なっている」
ひとつひとつを数え上げるように、言葉が落とされる。
数えるたび、床に小石が積み上がる。逃げ道の床が、ごつごつと歩けなくなる。
レギュラスは笑わなかった。
笑わないほうが怖いのを、二人とも知っている。
「意図的に答えを変えたんでしょう。――あなたは妻を守りたい。妻はあなたを守りたい」
優しい言葉の形をしているのに、胸の中を引き裂くような言い方だった。
守りたい、という気持ちさえ“罪”として握りつぶされる。
レギュラスはそこで、ゆっくりと身を乗り出した。
距離が縮まるだけで、空気が圧迫される。
「ねえ、フロスト殿」
柔らかく呼びかける。
それだけでローランドの指先が震えた。
「あなたが守ろうとしているのは、誰の何です?」
一拍。
その“間”が、答えを選ぶ時間ではないことが分かる。
間は、恐怖を育てるために置かれている。
「妻の名誉ですか。あなた自身の保身ですか。……それとも」
レギュラスの視線が、アランの喉元に触れるように滑った。
アランは反射的に息を止める。止めたことすら見透かされる。
「――“二人の秘密”ですか?」
言葉が、応接間の中心に落ちた。
暖炉の火が小さく爆ぜた。まるで合図のように。
ローランドの唇が白くなる。
アランの視界の端が滲む。
それでも泣いてはいけない。泣いたら、レギュラスは“正しい夫”の顔で優しくしてくる。優しさの形で、もっと深く刺してくる。
レギュラスはその沈黙の味を確かめるように、ゆっくりと言った。
「いいですよ。守り合うのは結構です」
一瞬、救いのように聞こえる。
けれど次の一言で、それが錯覚だと分かる。
「――ただ、その守り方は、僕の前では通用しない」
声は柔らかい。
柔らかいまま、逃げ道を塞ぐ。
「整合性が取れないなら、取れるまで揃えましょう。どちらかに合わせる必要はありません。……“事実”に合わせるだけでいい」
レギュラスはカップに手を伸ばし、紅茶を一口含んだ。
その仕草が、あまりにも落ち着いていて――余計に残酷だった。
息をするように追い詰める人間の余裕。
「フロスト殿。もう一度聞きます」
淡々と、繰り返す。
繰り返すことで、相手の心を削る。
「呼び方。誘った方。会っていた時間。回数。――今度は、どれから答えます?」
選択肢を与える形で、選択肢を奪う。
どれからでも地獄だ。
どれを選んでも、次が来る。
そして答えた分だけ、戻れない。
アランは、喉の奥で声が震えそうになるのを必死で押さえた。
ローランドは、視線を上げられないまま、拳を握り締める。
レギュラスはただ、微笑みを崩さない。
壊れるまで、丁寧に。
美しい形のまま、残酷に。
