2章
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翌朝、アランが目を開けたとき、寝台の隣は冷えていた。
いつもなら、布の擦れる音や、カフスを留め直す気配が先に耳へ届く。扉の向こうで執事が小さく咳払いをして、乳母の足音が廊下を横切っていく――そういう「屋敷の日常」の輪郭が、彼の存在で縁取られているのだと、今さらのように思い知ることがある。
けれど今朝は、何もなかった。
彼の体温も、呼吸も、寝台の軋みも。
胸の奥に、ふっと薄い空気が差し込む。息が少しだけ深く吸える気がした。
最低だと自分で分かっていながら、それでも、ほんのわずかな安堵が先に立ってしまう。
――いない。
その事実が、肌の上に落ちる冷たさと同じくらい現実味をもって、アランを現実に引き戻した。
薄いガウンを羽織り、髪を指で簡単に梳く。鏡に映る自分の目元は、昨夜の名残を正直に抱えていた。泣いた痕の赤み、乾ききらない涙の跡。どれも隠しきれるものではない。
それでもここはブラック家だ。妻は、妻の顔をして階段を降りる。
アルタイルの顔が見たかった。
赤子の柔らかな頬と、まだ眠たげな瞳を見れば、きっと現実が少しだけ丸くなる。昨夜のことが全部嘘だったみたいに、体の奥が落ち着いてくれる気がした。
手すりに指を置き、一段ずつ音を殺すように降りていく。
下階へ近づくほどに、紅茶の香りが濃くなった。焼いたパンの匂いと、磨き上げられた木の匂い。いつもの朝の匂い。――だからこそ、油断した。
最後の段を踏もうとしたところで、アランの足は止まった。
声が、聞こえたからだ。
そして、その声の主が「この屋敷にいるはずがない人物」だったから。
視界の先、長いテーブルの端。
背中が少し丸く、しかし姿勢だけは崩さない男。灰色がかった髪。馴染みすぎた肩の線。
父――エドモンド・セシールが、そこにいた。
一瞬で、血の気が引いた。
足先から冷たいものが這い上がってきて、膝の関節がうまく噛み合わなくなる。瞬きの回数が増える。視界が微かに滲む。泣くまいとするほど涙腺が痛む。
斜め前には、レギュラス・ブラック。
当然のように、そこにいる。
そして――テーブルの上。
整然と並べられたものが、目に入った瞬間、アランの喉はひゅ、と音を立てて詰まった。
写真。
魔法写真の束。
紙の白が、朝の光を受けてやけに眩しい。角が揃えられ、無造作などではない。わざと「見せる」ために、置かれている。
昨夜、どれほど必死に口を開いたか。
喉が裂けそうになりながら、誇りが剥がれる音を聞きながら――「父には言わないで」と、それだけを条件に、言いたくない言葉を並べた。
あの約束は、見事に破られていた。
アランは、その場で呼吸をひとつ失った。
胸が持ち上がらない。体の中身だけが先に崩れていきそうで、手すりを掴む指に力を込める。爪の先が白くなった。
レギュラスが、ゆっくりとこちらを見上げる。
その瞳は、昨夜の鋭さを一切残していない。まるで違う男だ。朝の光の中で、上質な微笑みだけを整えた、慈愛深い夫。
「アラン。起きました?」
声も、柔らかい。
優しい、とすら言える温度だ。
それが余計に怖かった。優しさのふりをして、刃物を布で包んで差し出してくる――そんなやり方を、アランは嫌というほど知っている。
「顔を洗ってくるといいですよ。……少し、落ち着いて」
落ち着いて、という言葉が、綿のように軽く放られる。
落ち着けるわけがない。落ち着ける世界が、もうどこにも残っていない。
父が、悲しそうな顔でアランを見ていた。
怒っていない。怒鳴りもしない。問い詰めもしない。
ただ、悲しそうに――まるで、娘の痛みが自分の罪のように刻まれている人の目で。
その視線が、アランの胸を真正面から締め付けた。
「……お父さま」
声に出した瞬間、自分の声が震えているのが分かってしまって、余計に涙が滲む。喉の奥が熱くなり、酸素が足りなくなる。恥ずかしいのに、止められない。涙は、人前では最後まで隠して生きてきたはずなのに。
父は立ち上がりかけて、しかし途中で止まった。
立ち上がる資格がないとでも思っているみたいに。娘に触れてはいけないとでも思っているみたいに。
「……昨夜、ブラック殿から、少し話があると」
父の言葉は低く、かすれていた。
敬語の中に、よそよそしさがある。ここがブラック家であり、目の前の男がブラック家の人間であることを、父が痛いほど意識しているのが伝わってくる。
アランは目を閉じそうになる。
昨夜、縋った「父を呼ばないで」という願いは、潰された。
潰されたのに、父は娘を責めない。だから余計に痛い。責められた方が楽だったとさえ思う。
レギュラスが、テーブルの上の写真に指先を添えた。
触れ方が丁寧すぎて、ぞっとする。紙を乱暴に扱わない、その「品の良さ」が、むしろ残酷だった。
「セシール卿には、知っておいていただいたほうがいいと思いまして」
穏やかに言う。
善意のように言う。
父と妻のためを思う夫のように言う。
アランは、その言葉の底にあるものを想像して、胃のあたりがひゅっと縮んだ。
知っておいて、の意味が、ただの共有ではない。
これは処刑台の整備だ。逃げ道を塞ぎ、関係者全員の前で、アランの居場所を消していく準備だ。
「……約束、したでしょう」
ようやく、かすれた声が出た。
声にした途端、喉が痛んだ。昨夜の長い時間が、まだ粘つくように残っている。
レギュラスは微笑みを崩さない。
崩さずに、少しだけ首を傾けた。
「約束?」
問い返すだけ。
責める声を出さない。
その一言で、アランがどれだけ追い詰められるかを、分かっていてやっている。
アランの奥歯が震えた。
怒りも、恐怖も、恥も、全部が絡まって、うまく名前がつけられない。
父が、目を伏せた。
父は写真を見てしまったのだ。どんな顔で、どんな気持ちで、あれを見たのだろう。娘の白い肌が写る写真を。娘が笑う写真を。娘が――誰かのそばで、女の顔をしている写真を。
アランは、その想像だけで息ができなくなる。
「アラン」
父が、ようやく娘の名を呼んだ。
それだけで、アランの視界がぼやける。
名を呼ばれるだけで、幼い頃の安心が蘇ってしまう。父の研究室で、失敗して泣いた夜。深夜のランプの下で、父が黙って肩を抱いてくれた記憶。――全部が胸の奥から浮き上がってくる。
けれど、今は抱きしめられない。ここはブラック家で、アランはブラック夫人だ。
父ですら、その腕を伸ばすことを躊躇する。
レギュラスが、立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「顔を洗っていらっしゃい。すぐに戻らなくていい」
優しい夫の振る舞い。
逃がしてくれるように見える言い方。
でも、逃がす気などないことを、アランは知っている。
「戻ってきたら、きちんとお話を続けましょう。セシール卿もいらっしゃることですしね」
最後の一言が、柔らかく喉を切った。
アランは動けなかった。
階段の途中で、まるで罪人のように立ち尽くす自分がいる。
父の前で、妻の顔を作れない。娘の顔に戻りたい。でも戻れない。戻ったら、今度こそ何かが終わる。
涙が、今にも落ちそうだった。
落ちたら、父がもっと悲しむ。
落ちたら、レギュラスが“ほら”とでも言いたげに勝ち誇る。
だからアランは、唇を噛んだ。
噛んで、噛んで、血の味を感じたところで、ようやく一歩だけ足を動かした。
洗面へ向かう廊下が、やけに長い。
背中に刺さる視線は二つ――悲しみと、慈愛の仮面。
そのどちらも、今のアランには耐えがたかった。
そしてアランは理解する。
昨夜の終わりは、終わりではなかった。
今朝のこの朝食こそが、本当の始まりなのだと。
洗面所の冷たい水は、涙の熱だけを置き去りにしてくれなかった。
頬を濡らし、指先で目元を押さえても、まぶたの裏に残る光景は消えない。テーブルの上に揃えられた白い紙片の眩しさ。父の沈んだ眼差し。――そして、あまりにも穏やかな夫の声。
アランは深く息を吸って、吐いた。
息を整えるたびに、自分が「ブラック家の妻」に戻っていくのがわかった。戻らなければならない。ここで崩れれば、確実に食い尽くされる。
廊下を歩く足音が、屋敷の静けさに吸い込まれていく。
扉の前で一度だけ指先が震えた。ノックはしない。もう、促されているのだから。
朝食室へ入った瞬間、空気が変わった。
紅茶の香りは同じはずなのに、匂いの奥に鉄のような緊張が混じっている。
窓から射す冬の光が、磨かれたテーブルに淡く反射して、やけに眩しい。いつもなら美しいと感じるだけの光が、今日は白刃のように見えた。
父――エドモンド・セシールは、座ったまま背筋を伸ばしていた。
しかしその姿勢の固さは、誇りではなく、耐えるための形に見える。目の前に置かれたものを見てしまった人間の、どうしようもない沈黙。
レギュラスは、反対側にいる。
完璧に整えられた髪。軽く口角を上げた微笑み。手元のカップに添えられた指先の余裕。――昨夜あれほど荒れた部屋で、あれほど鋭い言葉を吐いた男と同一人物だとは、信じがたいほどの落ち着き。
そしてテーブルの上は、いつの間にか片づけられていた。
あの魔法写真たちは見えない。だからこそ余計に怖い。片づけられたから終わった、ではない。必要な時に、必要な形で“また出せる”ということだ。
「おかえりなさい、アラン」
レギュラスが、まるで体調を気遣う夫のように言った。
その声に、父の肩が微かに揺れるのがわかった。――父は、娘がこの男にどう呼ばれているかさえ、今朝は痛いほど鮮明に聞いてしまうのだ。
「……失礼いたしました」
アランは礼儀正しく頭を下げる。声は出る。出るのに、喉が狭くて息が通らない。
父に向けて視線を上げたいのに、怖くて上げられなかった。目が合えば、そこにある悲しみを受け止めてしまう。受け止めた瞬間、自分は崩れる。
レギュラスはカップを置き、軽く指を組んだ。
その動作だけで、この場の主導権が彼にあることが分かる。言葉を選ぶための沈黙ですら、彼は武器にする。
「セシール卿。あらためて、きちんとお話を」
丁寧で、柔らかい。
けれど“拒否は想定していない”声だ。
「妻とはちゃんと話をして、もう一度やり直したいと思っているんです」
“やり直す”。
その響きがあまりにも善良で、アランは思わず奥歯を噛みしめた。
まるで自分が壊したものを、彼が寛大に拾い上げてくれているみたいな言い方。まるで彼が傷つきながらも家族を守ろうとしているみたいな語り口。
――手の内は分かっている。
分かっているのに、胸の奥が情けないほどに揺れる。
「アルタイルには母親が必要ですから」
息子の名を、当然のように置く。
それは、罪悪感の芯を正確に叩くための石だ。
アランの胸の奥に、赤子の頬の柔らかさと、夜中に起きた時の小さな指の温度が一気に蘇って、喉が痛くなる。
反論したいのに、反論すればするほど自分が“母親として失格”の立場に追い込まれる。
レギュラスはその構図を、微笑みながら作っていく。
「僕にも至らない点がありましたからね」
自分の非も認める。
その一言で、彼は“責める側”から“共に苦しむ側”へと立ち位置をずらす。誰もがその言葉に弱い。――特に、善良な人間ほど。
アランは吐き気がした。
この男は、謝罪に見えるものすら支配の道具に変える。反吐が出そうなほど巧みだ。それでも、父の前でその巧みさを暴く言葉を選べない。選べば、父が余計に傷つく。
エドモンドが、わずかに身じろいだ。
唇が震えている。言葉を選び、飲み込み、また選ぶ。
その沈黙の間に、どれだけの痛みが詰まっているか、娘であるアランは嫌というほど分かる。
「……ブラック殿」
父の声は、かすれていた。
敬称が、距離を作る。距離を作らなければ、崩れてしまうから。
「そんな事は……」
父は言いかけて、息を整え直した。
そして、信じられないほど静かに椅子を引いた。
「娘が軽率な行動をしてしまったことを――」
立ち上がった父の背中は、いつもの研究室で見る背中よりも小さく見えた。
アランの胸がぎゅっと縮む。だめだ、と頭の中で叫ぶ。そんなことをしないで、と声にしたいのに、声が間に合わない。
「詫びさせていただきたい」
エドモンドは、跪いた。
膝が床につく音は小さい。
けれどその音は、アランの中で大きく鳴り響いた。父が、自分のために守り続けてきた誇りの形が、今ここで床に落ちた音だった。
「お父さま……!」
声が、思ったより大きく出てしまった。
止めようとしたのに止められない。視界が潤み、喉の奥が焼ける。
父が跪く姿を見せられることが、こんなにも痛いなんて。
エドモンドは顔を上げない。上げられない。
娘を見る資格がないと思っているみたいに。父親として失格だと言われているみたいに。
レギュラスは――驚かない。
そのことが、何より恐ろしかった。
「セシール卿」
静かに名を呼ぶ。
止めるための声にも聞こえる。慈悲のための声にも聞こえる。
けれどアランは知っている。これは、父の跪きを“場”に固定するための声だ。今、父が立ち上がれば台無しになる“演出”がある。
「どうか、お立ちください。……そこまでなさる必要はありません」
形だけは穏やかに言う。
否定してみせることで、さらに自分を大きく見せる。――“寛容なブラック家の当主”。“妻の過ちを受け止める男”。その像が、父の前で完成していく。
アランは爪が掌に食い込むほど拳を握った。
悔しい。悔しいのに、父のために耐えるしかない。ここで暴けば、父がもっと傷つく。父は彼の権力の前で、もう逃げ場がない。
「……ですが」
レギュラスは、ほんの一拍置いた。
その一拍が、刃を研ぐ音に聞こえる。
「アルタイルのためにも、これ以上の混乱は避けたい。自分はそう思っています」
“自分は”。
主語を置くことで、意見ではなく“方針”になる。
そして、その方針に逆らう者は、“子どものため”に逆らう者になる。
父の肩が震えた。
アランは、もう泣きそうだった。父にこれ以上、何も背負わせたくない。背負わせたのは自分だ。分かっている。分かっているからこそ、ここで父が床にいるのが耐えられない。
「……お父さま、お願い。立って」
やっと絞り出した声は、頼りなく揺れた。
アランは膝を折りそうになる。父の手を引きたい。けれど、その手を伸ばす行為すら、レギュラスの目の前では「みっともない」と裁かれる気がした。
レギュラスは視線を、ゆっくりとアランに向ける。
叱るでもない。怒るでもない。
ただ、微笑んだまま――どこまでも優しい夫の顔で、逃げ道を消す。
「アラン」
名を呼ばれるだけで、胸の奥がきしむ。
彼の声は温かいのに、その温度が牢の毛布みたいに重い。
「……あなたが、きちんと向き合うんです。自分と。セシール卿と。アルタイルと」
一つずつ並べて、鎖にする。
誰も外れないように、丁寧に言葉を繋いでいく。
エドモンドが、ようやく顔を上げた。
そこには怒りも抗議もない。ただ、深い疲労と、娘への愛と、どうしようもない悔しさが混じっていた。
アランは、その目を見た瞬間、泣いてしまいそうになった。
父が守ってくれたはずの世界は、今、目の前の男の言葉一つで形を変えられている。
「……申し訳ありません」
父が低く言った。
謝罪ではなく、祈りに近かった。
レギュラスは、また微笑む。
まるで「もう十分です」とでも言いたげに。まるで「自分が許す側です」とでも言いたげに。
「いいえ」
短く、優しく。
その二文字が、逆に逃げ場を奪った。
「ここからです。――やり直すのは」
そして、彼は最後に静かに言う。
「アラン。あなたの言葉で、話してください」
逃げ切らせない。
父の前で、妻として、母として、罪人として。
言葉を差し出させることで、場の全てを掌握する。
朝の光は変わらないのに、アランには世界が暗く見えた。
父が跪いた床の冷たさが、まだ目に焼き付いたまま―― アランは唇を開くしかなかった。
朝の光は、あまりにも公平だった。
誰がどれほど傷ついていようと、窓硝子を透けて床に落ちる白い線は変わらない。磨かれた卓上に反射する淡い輝きも、紅茶の湯気の立ちのぼり方も、いつものままだ。
それが、かえって残酷だった。
アランは椅子の脇に立ったまま、膝の力が抜けそうになるのを必死に堪えていた。指先が冷えている。手を握りしめても、熱が戻らない。喉の奥が詰まっていて、息を吸うたびに胸のどこかが痛んだ。
――お父さまが、跪いている。
その事実が視界に刺さって、抜けない。
エドモンド・セシールの背中は、いつもよりずっと小さく見えた。研究室で白衣を揺らし、あれほど堂々と薬瓶を扱う手が、今は膝の上で静かに重なっている。娘のために、父が誇りを床に置いた。
その横で、レギュラスが微笑んでいる。
慈愛に満ちた夫の顔で。――誰が見ても正しい、完璧な振る舞いで。
「アラン」
その声は穏やかだった。責める響きはない。だからこそ、逃げ道がない。
「あなたの言葉で」と促された瞬間、アランの中で何かが崩れた。言葉の形を保っていた最後の支えが、細い音を立てて折れる。
アランは一歩前へ出た。
自分の足音が、朝食室の静けさにやけに大きく響いた気がした。父のそばで止まり、視線を落とす。床の模様が滲んで見える。涙が、もう溜まっている。
「……ごめんなさい、お父様」
声が震えた。
声を整えようとしても、喉の奥が痙攣して言葉が擦れる。息を吸うほど、涙が喉にせり上がってくる。
「軽率でした」
その一言が、どれほど薄っぺらいか自分がいちばん知っていた。
軽率。そんな言葉で済むはずがない。誰かの人生を奪って、家族の誇りを傷つけて、子どもを盾にされる場所まで追い込んで――それを“軽率”の四文字で括ってしまうことが、また新しい罪みたいに思えた。
それでも、言うしかない。
父の前で、娘として言える言葉を選ばなければならない。ここで本当のことを並べ立てたら、父の心が壊れる。父が跪いた意味さえ、踏みにじる。
アランは深く頭を下げた。
額が少し前髪に触れ、そこに溜まっていた涙がぽとりと落ちる。
一滴落ちれば、次は堰を切ったように止まらない。鼻の奥がつんと痛む。唇を噛んでも、涙は勝手に溢れて、顎を伝い、喉元を濡らす。
泣いていい理由にはならないのに。
泣けば泣くほど、みっともない。泣けば泣くほど、弱さを見せることになる。父にも、そして――横にいる男にも。
「……っ」
声にならない息が漏れた瞬間、すぐ隣から布の擦れる音がした。
レギュラスが動いたのだと、視界を上げなくても分かった。
そして、次の瞬間。
肩に、温かい手が置かれる。
ローブ越しに伝わる掌の重さ。軽く抱き寄せるような圧。まるで、今にも崩れ落ちそうな妻を支える“理想の夫”の仕草だった。
「大丈夫ですよ、アラン」
囁きは柔らかい。
それが余計に苦しい。優しさの形をしているのに、逃げ場を塞ぐ鎖の形をしているから。
レギュラスはもう片方の手で、アランの頬に触れた。指先が涙を掬い、そっと拭う。丁寧に、乱暴さなど微塵もなく。人前で妻の涙を拭うことが、どれほど“正しい夫の行動”として映るか――分かりきっている手つき。
アランの中に、反射的な衝動が走った。
その手を払いのけたい。触れないで、と言いたい。
涙を見せるなら父にだけにしたい。――けれど、それすら許されない。
払いのけた瞬間、何が起こる?
父の前で、夫の手を拒む妻。慈愛を拒む女。
レギュラスは何も言わずに微笑んだままでも、その瞬間に空気は“妻の不出来”として完成してしまう。父はさらに頭を下げるだろう。娘のせいで、もう一度。
指先が震えて、拳が握れない。
握れないまま、アランはただ、喉の奥を押し殺すように呼吸を続けた。泣き声を立てれば、また罪になる気がした。
「……お父さま」
アランはもう一度言った。
言葉を重ねることでしか、自分を立たせられなかった。
「どうか……顔を、上げてください」
父に向けたつもりの言葉なのに、声は自分の中で折れて消えそうだった。
エドモンドはゆっくりと顔を上げる。目元は赤い。怒りはない。ただ、深い悲しみと、娘を案じる優しさがそこにある。どこまでも父だった。
その視線を受けた瞬間、アランは耐えきれなかった。
涙がまた溢れる。視界が白く滲む。胸の奥が焼けて、息ができない。
レギュラスの手が、さらに優しく肩を抱き寄せる。
“守る”という形で、アランを自分の側へ引き寄せる。
「セシール卿」
レギュラスが父に向けて言った。
声は穏やかで、落ち着いていて、まるで場を整えるためだけに選ばれた音だった。
「あなたの娘は僕が支えます。――ですから、どうかお立ちください。家族として、ここから先を」
正しすぎる。
その正しさが、刃物みたいにアランの胸を抉った。
支える。家族。ここから先。
どれも、誰も否定できない言葉。否定すれば、自分が悪になる。父がさらに傷つく。
アランは、唇を噛みしめた。
血の味が少しした。泣き止まない頬を、レギュラスの指がまたそっと拭う。まるで宝物に触れるみたいに優しい。
――その優しさの下に、何があるか知っている。
それでも、この場でそれを言葉にできない自分が、どうしようもなく惨めだった。
「……ごめんなさい」
アランはもう一度、父に向けて頭を下げた。
涙が落ちるたび、床が遠くなる。自分が壊れていく気がする。
レギュラスの腕の中で、慈愛の形に包まれたまま。
アランは、払いのけたい手を払いのけられず、ただ泣き続けた。
泣くことが赦される理由なんてどこにもないのに。
泣けば泣くほど、すべてが“夫に守られる弱い妻”として正しく整っていく。
それが、いちばん苦しかった。
父を玄関まで見送るあいだ、レギュラスは最後まで“正しい夫”だった。
外気の冷たさが屋敷の奥まで入り込み、重い扉が開くたびに蝋燭の炎がわずかに揺れる。執事がコートを差し出し、エドモンドはそれを受け取る手を一瞬だけ迷わせた。娘の顔を、まともに見られないまま。
「……セシール卿。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
レギュラスは微笑みながら、深々と頭を下げた。形式の中に、わずかな温度まで混ぜた礼だった。
エドモンドは苦しげに頷き、掠れる声で応じる。
「……こちらこそ。どうか、娘を……」
言いかけて、言葉が喉で折れる。
父親としての願いが、夫婦の間に挟まれた刃に触れた瞬間の、あの躊躇い。
「もちろんです。アルタイルの母ですから」
レギュラスは当然のように、息子の名を口にした。
その瞬間、アランの背筋がわずかに強張るのが分かった。けれど彼女は口を噤み、ただ美しい表情だけを保ったまま、父に小さく礼をする。
「お気をつけて……お父さま」
やっと絞り出した声は、丁寧で、礼儀正しくて、どこにも綻びがない。
それが余計に痛々しい。娘の涙の跡だけが、朝の光にまだ消えきらず、頬に淡い影を残している。
エドモンドはそれ以上何も言えず、扉の向こうへ消えた。
馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかり、やがて屋敷は静けさを取り戻す。
扉が完全に閉まった、その瞬間だった。
アランが、振り向きざまにレギュラスへ歩み寄った。
足取りは優雅さの殻を剥ぎ取ったように速く、息が乱れているのが分かる。翡翠の瞳だけが、怒りと屈辱で濡れたまま鋭く光っていた。
「……どうして」
低い声だった。噛みつく前の獣みたいに、喉の奥で唸りが鳴っている。
「どうしてお父様を呼んだんです。――約束したでしょう」
“約束”。
その単語が、アランの中で最後の糸だったのだろう。指先が震え、ローブの裾を掴みそうになって、けれど寸前で堪えている。掴めば、もう後戻りできないと知っている。
レギュラスは一拍置いた。
玄関ホールの高い天井に、二人の呼吸だけが吸い込まれていく。使用人たちは視線を伏せ、見えていないふりをした。見てはならないものを見た時の、完璧な沈黙。
「約束?」
レギュラスは首を傾げた。柔らかな笑みのまま。
問いかける形で、逃げ道を塞ぐ癖が、そのまま出る。
「どの約束のことでしょう。あなたが“どうか言わないで”と懇願した、あの約束ですか」
アランの喉が詰まったように動いた。否定も肯定もできない。
言葉を探す間に、レギュラスが続ける。
「あなたは、条件を提示しました。父を守りたいから、と。――だからあなたは話した。だから僕は、あなたの口から、聞きたくもない事実を一つずつ聞いた」
声は穏やかなのに、言葉の角だけが鋭い。
アランは一歩踏み出した。耐えきれない、という足だった。
「違う……そうじゃない……!」
抗議の勢いが、もう噛みつく寸前のそれだった。
頬の筋肉が引きつり、涙の跡が新しい熱で滲む。
「お父様の前で……あんなふうに、私を……っ」
言葉が途切れたのは、羞恥のせいではない。
あの卓上に並べられた写真の四角い輪郭が、視界に蘇ったからだ。父の悲しそうな目が、胸の奥でまだ痛んだからだ。
レギュラスは、微笑みを崩さなかった。
むしろ、ほんの少しだけ口元を緩めた。慈悲のように見える角度で。
「“あんなふうに”?」
もう一度、問い返す。
アランが自分で言葉にしてしまえば、それは“事実”になる。逃げられない形になる。レギュラスはそれを分かっていて、分かっていてやる。
アランの唇が震えた。言えない。
「言ってください。何が嫌でした? 父に知られたこと? それとも――父の前で、妻としての顔が崩れたことですか」
「……!」
アランの瞳が一瞬だけ、殺意に近い光を宿した。
怒りが、喉元までせり上がっている。けれど次の瞬間、それが別の感情に押し流される。恐怖だ。理解しているからだ。この男は、怒りで押せば押すほど、もっと冷静に、もっと残酷に、追い詰め方を選ぶ。
「……あなたは、最低です」
声は震えながらも、はっきりと出た。
それが、今のアランの精一杯の反撃だった。母としての仮面を剥いで、ただ一人の女として突きつけた刃。
レギュラスは小さく目を細めた。
その刃を、指先でつまんで折るみたいに。
「最低」
ゆっくり復唱し、品のあるため息を落とす。
「では、質問を変えましょう。――あなたは、父を守りたかった。そうでしょう?」
アランは反射的に頷きかけて、止めた。
頷けば、次が来る。分かっている。けれど止められない。
「守りたいから、黙っていた。守りたいから、嘘をついた。守りたいから、笑った。守りたいから、ここまで器用にやった」
レギュラスが一歩近づく。距離が詰まるだけで、空気が冷える。
アランは後ろへ下がりたいのに、足が動かない。玄関ホールの大理石が、足裏を冷たく吸い付かせる。
「父を守りたいなら、あなたが最初に守るべきものは何でした?」
レギュラスの声はあくまで静かだった。
その静けさが、刃の厚みになる。
「――自分の夫でしょう。自分の子でしょう。自分の家でしょう。あなたは順番を間違えたんですか? それとも、“間違えたふり”をして、都合のいいところだけ守った?」
アランの呼吸が乱れた。
言い返そうとした言葉が、喉で詰まる。言い返せば、もっと深く刺される。答えれば答えるほど、逃げ道が狭くなる。分かっているのに、噛みつきたい衝動が止まらない。
「……あなたが……っ」
声が割れそうになる。
「あなたが、私から、全部奪ったから……! 最初から、私の意思なんて――!」
言いかけた瞬間、レギュラスの表情から、ふっと温度が抜けた。
笑みはある。けれどそれは、光のない硝子みたいに冷たい。
「最初から、意思がなかった?」
アランの言葉を、丁寧に拾い、丁寧にねじる。
「では、あなたは“意思のないまま”――あの部屋へ行き、あの男の手を取り、あの男のために写真を隠し、そして――」
言葉が一瞬だけ途切れる。
“そして”の先に何が続くか、アランの体が先に理解してしまって、顔色が変わった。
「……やめて」
喉の奥から絞った声だった。
止めて、と言えば止まる相手ではないと知っているのに、それでも出てしまった懇願。
レギュラスは、そこで初めて声の角度を変えた。
穏やかさの中に、命令形の刃を忍ばせる。
「やめてほしいなら、最初からやらないことです」
短い。けれど、重い。
アランの肩が小さく震えた。怒りが、屈辱が、そして理解不能なほどの絶望が、同時に押し寄せる。
「あなたが父を守りたいと言うから、父を呼びました」
レギュラスは言った。まるで、理屈の説明をするみたいに。
「父に知られたくない? もちろん。あなたの願いは分かっている。――でもね、アラン。父が何も知らないまま、あなたが壊れていくのを黙って見ているのが、父親にとって本当の救いだと思いますか」
アランは息を呑んだ。
救い。父。正しさ。
その単語が、胸の柔らかいところに直接刺さる。
「あなたは父を盾にして、自分の罪を“二人だけの秘密”にしようとした。違いますか」
「違う……!」
声が反射で飛び出す。
けれど、否定の言葉の形が整う前に、レギュラスがさらに畳みかけた。
「では、何ですか。――あなたは何を守りたかった?」
レギュラスの問いは、逃げ道を残さない。
“答え”を出させるまで終わらない。アランがいちばん嫌う、そしていちばん怖い追い詰め方。
「父の名誉? あなたの名誉? それとも――」
レギュラスの視線が、アランの胸元ではなく、もっと奥へ向かった。心臓の裏側に届くように。
「――ローランド・フロストという男の名誉ですか」
アランの顔から、血の気が引いた。
その反応だけで、レギュラスには十分だった。
「……沈黙で答えるんですね」
軽い嘲りが混ざる。
アランは唇を開いて、何かを言おうとする。言わなければ終わらない。けれど言えば、どこかが決定的に折れる。
「……あなたは」
やっと出た声は、掠れていた。
怒鳴りたいのに、声が出ない。強く言いたいのに、喉が震える。自分の情けなさが、また涙を呼ぶ。
「あなたは……人の心を……」
「ええ」
レギュラスは、あっさり認めた。
その潔さが、アランの足元をさらに崩す。
「人の心を掌握するのが得意です。あなたは今まで、それを何度も見てきた。――それなのに、どうして自分だけは例外だと思ったんです?」
アランの睫毛が震え、涙がまた滲む。
怒りの涙なのか、悔しさなのか、恐怖なのか、分からない。ただ、視界が滲む。
レギュラスは、ほんの少しだけ顔を近づけた。
囁きの距離。外から見れば、夫が妻を宥めているようにしか見えない距離。
「この家の中で、あなたが守られているのは――“僕が守っているから”です」
静かな宣告だった。
優しさの衣を着た、支配の事実確認。
「その守りを、どこに向けるか。誰に向けるか。――それをあなたが勝手に選び替えるなら、亀裂は“あなたのせい”になる。分かりますね?」
アランの喉が鳴った。
返事ができない。息が浅くなる。
「……あなたは、私を脅している」
ようやく出た言葉は、震えながらも核心だった。
レギュラスは微笑んだまま、首を僅かに傾けた。
肯定とも否定とも取れない、あの逃げ道のない仕草。
「確認しているだけです」
冷たく言い切る。
その瞬間、アランの中で何かが決定的に切れた。繋ぎ止めていた“夫婦”という細い糸が、音もなく断たれる。
「……もう、信じられない」
アランはそう言った。
小さな声だった。けれど、これまでのどんな叫びよりも重い。
「あなたを、信じる場所が……どこにもない」
レギュラスの瞳の奥で、一瞬だけ何かが揺れた。
怒りか、痛みか、あるいは別の名のない感情か。けれどすぐに、いつもの微笑みがそれを覆い隠す。
「信じる場所がない?」
レギュラスは問い返す。
そして、ゆっくりと、言葉を選びながら――選び抜いた刃を、最も効くところへ落とした。
「だったら、あなたはどこへ行くつもりですか。――アルタイルを連れて?」
アランの瞳が大きく見開かれる。
身体が硬直し、次の呼吸が止まる。母としての本能が、全身を凍らせる。
レギュラスは、優しい声のまま続けた。
「あなたが亀裂を作るなら、こちらは亀裂の“向こう側”を選びます。あなたがこの家の妻である限り、あなたの居場所はここにある。――それを壊すなら、壊れたものの責任は、壊した側にある」
アランは言葉を失った。
怒りの牙は、喉元で折れた。反論しようとした唇が震え、何も出てこない。
レギュラスは、黙ったアランを見下ろしながら、微笑みを保った。
その微笑みは、勝利の形ではない。もっと冷たく、もっと暗い――“もう戻れない場所”を示す形だった。
「さあ、アラン」
低い声で、しかし丁寧に。
「今のあなたの抗議を、もう一度言ってください。噛みつく勢いで。――こちらが、どれだけの威力で返せるか、あなたはもう知ったはずですから」
アランは唇を開いた。
けれど、出たのは言葉ではなく、かすかな息だけだった。
玄関ホールの蝋燭が、また小さく揺れた。
朝の光は変わらず床に落ちているのに、二人の間の空気だけが、決定的に冷えきっていた。
扉が閉まって、馬車の音が完全に遠のいた瞬間から。
アランの中で“夫婦”という言葉は、ただの形式に堕ちた。
玄関ホールにはまだ朝の光が残っている。磨かれた大理石に淡い影が伸び、壁の肖像画たちは何も見ていないふりをして静止していた。さっきまでそこにあった父の気配だけが、消え残りの煙のように薄く漂っている。
肩を抱こうとしてきたレギュラスの手を、アランは払った。
ぱし、と乾いた音がして、指先がほんの少し震えた。
その震えが恐怖なのか、怒りなのか、もう区別がつかない。
ただ、彼に触れられることが、吐き気の種みたいに胸の奥へ落ちていく。
「……もう、結構です」
声は自分の耳にも冷たく聞こえた。礼儀の殻すら被らない、剥き出しの嫌悪。
アランは踵を返し、廊下へ出た。自室へ。自分の扉の向こうへ。息ができる場所へ。
階段の手すりに手を添えると、金属の冷たさが指に刺さる。
足音が響く。自分の。――そして、少し遅れてもう一つ。
追ってくる気配は早い。迷いがない。
それが、いちばん腹立たしかった。自分の気持ちがどうであれ、この男は“そうすべき”形を、当たり前に選び続ける。いまも。
「アラン」
名前が背中に落ちる。柔らかい呼び方。あまりに、いつも通り。
アランは振り向かない。振り向けば、彼の“正しさ”にまた飲み込まれる気がした。
階段を上がり切り、廊下の角を曲がる。自室の扉が見えた。
木目の落ち着いた扉。真鍮の取っ手。――そこが、いつだって最後の砦だった。
手を伸ばした、その瞬間。
肘のあたりを、ぎゅっと掴まれた。骨に届くほどの力。
アランの体が反射で跳ねる。
「やめて……!」
振り払おうと腕をぶんぶん振る。けれど掴んでいる手は微動だにしない。まるで、抵抗すること自体が滑稽だと言うみたいに。
レギュラスの声が、すぐ耳元で落ち着き払って響いた。
「いまさら、あなたに許される権利があると思いますか?」
言葉が、痛みのように皮膚の内側へ染みた。
許す権利。――その単語を、どうしてここで、そんな顔で言えるのか。
「……離して。触らないで……っ」
アランが声を絞った瞬間、掴む力がさらに強まった。
次の動きは、あまりにも速い。
もう片方の手が、首元へ。襟の近く、喉の脇に添えられる。
触れられた皮膚がぞわりと粟立つより先に、背中が壁へ押し付けられた。
鈍い音。石の冷たさ。視界が一瞬揺れる。
「っ――!」
短い悲鳴が漏れた。自分でも驚くほど幼い音だった。
息が詰まり、心臓が跳ねる。喉の奥がかすかに痺れる。首にかかった手は、締めるためではなく、逃げ道を塞ぐための位置だった。逃げる方向も、呼吸のリズムも、この男の手のひらに回収されていく。
目の前に、灰色の瞳があった。
硝子みたいに冷たくて、底が見えなくて――そして、確かに怒っているのに、声だけは静かなままだった。
アランは、初めて理解した。
この男は“理性があるから暴力を選ばない”のではない。
理性があるからこそ、必要なら迷わず“最短で効く形”を選べるのだと。
その事実が、背筋を凍らせる。
「……初めてでしょう」
レギュラスの声が、ごく低く落ちた。責めるでも、慰めるでもない。
ただ確認するみたいに。
「男に、こんなふうに止められたのは」
アランは歯を食いしばった。悔しさが喉に詰まる。
目を逸らしたくないのに、瞳が勝手に揺れる。怖いと思ってしまう自分が、さらに嫌だった。
「……あなたは、最低……」
掠れた声で吐き捨てた。
口にした途端、血の気が引く。火に油を注いだのだと、分かってしまったから。
けれどレギュラスは笑わなかった。
笑わないまま、指先だけをわずかに動かして、喉の脇の骨を確かめるみたいに触れた。
「朝から苛立たせないでもらえます?」
丁寧な言い方だった。
だからこそ、ぞっとした。
“苛立ち”。
この男がそう言う時、そこに含まれるのは単なる気分ではない。処理すべき不快のラベルだ。処理されるのは、いつだって自分の方だ。
アランは息を吸おうとして、うまく吸えない。胸が小さく上下する。
壁の冷たさが背中にじわじわと広がっていく。
目の端に、自室の取っ手が見えた。ほんの腕一本分先にあるのに、そこへ届く道は切り落とされている。
「……部屋に戻るだけです。逃げるわけじゃない」
言い訳のような言葉が、勝手に出た。
自分でも情けない。逃げない?――逃げたいに決まっている。息ができる場所へ行きたい。自分の心を守るための扉を閉めたい。
レギュラスのまなざしが、ほんの少しだけ細くなる。
その変化が、刃を研ぐ音みたいに感じられた。
「逃げない?」
ゆっくり、問い返される。
アランの答えの脆さを、丁寧に指でなぞって壊す口調。
「なら、ここで立っていてください。こちらが“逃がす理由”を、今のあなたが持っているとでも?」
首元の手が、皮膚に熱を残す。
掴まれた腕の骨が痛む。けれど痛みより、屈辱のほうが強くて、涙が出そうになる。
その涙を見せたくなくて、アランは睨み返した。
嫌悪を隠す余裕など、もうどこにもない。
「……あなたの顔を見ると、息ができない」
口から出た瞬間、しまったと思った。
言い過ぎた――そういう理屈での後悔ではない。
この男が“息ができない”という言葉を、どんなふうに利用するか想像できてしまったからだ。
案の定、レギュラスの口元がわずかに緩む。
それは優しさではない。愉しみを含んだ、冷たい形。
「息ができない?」
耳元に、低い声が近づく。
首元に添えられた手が、さらに逃げられない位置へ導くように動いた。締めるのではなく、逃げるという概念そのものを消すみたいに。
「では、あなたはどうやって生きていくつもりです。――この家で。母として。妻として」
言葉が、一つずつ釘のように打ち込まれる。
母。妻。家。
その全部が、アランの弱いところを正確に叩く。痛い場所だけを選んで。
廊下の奥から、遠く、乳母が赤子に歌いかける声が微かに聞こえた。
アルタイルの気配。
それだけが、アランを今ここにつなぎ止める鎖だった。
レギュラスの瞳が、ほんの僅かにその方向をかすめて、すぐ戻る。
気づいている。アランの弱点がどこにあるか。
そしてそれを、いつでも握れる位置にいることを、見せつけてくる。
アランは唇を噛んだ。血の味がした。
視界の端で、自室の扉が揺らいで見える。要塞は目の前にあるのに、入れない。
それがどんなに残酷か、この男は分かっていてやる。
レギュラスは、静かに言った。
「嫌悪しても構いません。――ただ、勝手に閉じこもるのは許しません」
声は柔らかい。
なのに、首元の手と、壁の冷たさと、逃げられない距離が、そこに“命令”を刻む。
アランの胸の奥で、何かがひどく音を立てて軋んだ。
怒りが燃え上がり、恐怖がそれに水を差し、屈辱が灰を撒く。
それでも嫌悪だけは、消えなかった。
むしろ、はっきりと形になってしまった。
灰色の瞳を見上げたまま、アランは震える声で言う。
「……あなたが、いちばん怖い」
その一言に、レギュラスの指が一瞬だけ止まった。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように、穏やかな微笑みが戻る。
「ええ。そうでしょうね」
肯定する声が、あまりにも静かで。
アランの背中を這う寒気は、さらに深くなった。
いつもなら、布の擦れる音や、カフスを留め直す気配が先に耳へ届く。扉の向こうで執事が小さく咳払いをして、乳母の足音が廊下を横切っていく――そういう「屋敷の日常」の輪郭が、彼の存在で縁取られているのだと、今さらのように思い知ることがある。
けれど今朝は、何もなかった。
彼の体温も、呼吸も、寝台の軋みも。
胸の奥に、ふっと薄い空気が差し込む。息が少しだけ深く吸える気がした。
最低だと自分で分かっていながら、それでも、ほんのわずかな安堵が先に立ってしまう。
――いない。
その事実が、肌の上に落ちる冷たさと同じくらい現実味をもって、アランを現実に引き戻した。
薄いガウンを羽織り、髪を指で簡単に梳く。鏡に映る自分の目元は、昨夜の名残を正直に抱えていた。泣いた痕の赤み、乾ききらない涙の跡。どれも隠しきれるものではない。
それでもここはブラック家だ。妻は、妻の顔をして階段を降りる。
アルタイルの顔が見たかった。
赤子の柔らかな頬と、まだ眠たげな瞳を見れば、きっと現実が少しだけ丸くなる。昨夜のことが全部嘘だったみたいに、体の奥が落ち着いてくれる気がした。
手すりに指を置き、一段ずつ音を殺すように降りていく。
下階へ近づくほどに、紅茶の香りが濃くなった。焼いたパンの匂いと、磨き上げられた木の匂い。いつもの朝の匂い。――だからこそ、油断した。
最後の段を踏もうとしたところで、アランの足は止まった。
声が、聞こえたからだ。
そして、その声の主が「この屋敷にいるはずがない人物」だったから。
視界の先、長いテーブルの端。
背中が少し丸く、しかし姿勢だけは崩さない男。灰色がかった髪。馴染みすぎた肩の線。
父――エドモンド・セシールが、そこにいた。
一瞬で、血の気が引いた。
足先から冷たいものが這い上がってきて、膝の関節がうまく噛み合わなくなる。瞬きの回数が増える。視界が微かに滲む。泣くまいとするほど涙腺が痛む。
斜め前には、レギュラス・ブラック。
当然のように、そこにいる。
そして――テーブルの上。
整然と並べられたものが、目に入った瞬間、アランの喉はひゅ、と音を立てて詰まった。
写真。
魔法写真の束。
紙の白が、朝の光を受けてやけに眩しい。角が揃えられ、無造作などではない。わざと「見せる」ために、置かれている。
昨夜、どれほど必死に口を開いたか。
喉が裂けそうになりながら、誇りが剥がれる音を聞きながら――「父には言わないで」と、それだけを条件に、言いたくない言葉を並べた。
あの約束は、見事に破られていた。
アランは、その場で呼吸をひとつ失った。
胸が持ち上がらない。体の中身だけが先に崩れていきそうで、手すりを掴む指に力を込める。爪の先が白くなった。
レギュラスが、ゆっくりとこちらを見上げる。
その瞳は、昨夜の鋭さを一切残していない。まるで違う男だ。朝の光の中で、上質な微笑みだけを整えた、慈愛深い夫。
「アラン。起きました?」
声も、柔らかい。
優しい、とすら言える温度だ。
それが余計に怖かった。優しさのふりをして、刃物を布で包んで差し出してくる――そんなやり方を、アランは嫌というほど知っている。
「顔を洗ってくるといいですよ。……少し、落ち着いて」
落ち着いて、という言葉が、綿のように軽く放られる。
落ち着けるわけがない。落ち着ける世界が、もうどこにも残っていない。
父が、悲しそうな顔でアランを見ていた。
怒っていない。怒鳴りもしない。問い詰めもしない。
ただ、悲しそうに――まるで、娘の痛みが自分の罪のように刻まれている人の目で。
その視線が、アランの胸を真正面から締め付けた。
「……お父さま」
声に出した瞬間、自分の声が震えているのが分かってしまって、余計に涙が滲む。喉の奥が熱くなり、酸素が足りなくなる。恥ずかしいのに、止められない。涙は、人前では最後まで隠して生きてきたはずなのに。
父は立ち上がりかけて、しかし途中で止まった。
立ち上がる資格がないとでも思っているみたいに。娘に触れてはいけないとでも思っているみたいに。
「……昨夜、ブラック殿から、少し話があると」
父の言葉は低く、かすれていた。
敬語の中に、よそよそしさがある。ここがブラック家であり、目の前の男がブラック家の人間であることを、父が痛いほど意識しているのが伝わってくる。
アランは目を閉じそうになる。
昨夜、縋った「父を呼ばないで」という願いは、潰された。
潰されたのに、父は娘を責めない。だから余計に痛い。責められた方が楽だったとさえ思う。
レギュラスが、テーブルの上の写真に指先を添えた。
触れ方が丁寧すぎて、ぞっとする。紙を乱暴に扱わない、その「品の良さ」が、むしろ残酷だった。
「セシール卿には、知っておいていただいたほうがいいと思いまして」
穏やかに言う。
善意のように言う。
父と妻のためを思う夫のように言う。
アランは、その言葉の底にあるものを想像して、胃のあたりがひゅっと縮んだ。
知っておいて、の意味が、ただの共有ではない。
これは処刑台の整備だ。逃げ道を塞ぎ、関係者全員の前で、アランの居場所を消していく準備だ。
「……約束、したでしょう」
ようやく、かすれた声が出た。
声にした途端、喉が痛んだ。昨夜の長い時間が、まだ粘つくように残っている。
レギュラスは微笑みを崩さない。
崩さずに、少しだけ首を傾けた。
「約束?」
問い返すだけ。
責める声を出さない。
その一言で、アランがどれだけ追い詰められるかを、分かっていてやっている。
アランの奥歯が震えた。
怒りも、恐怖も、恥も、全部が絡まって、うまく名前がつけられない。
父が、目を伏せた。
父は写真を見てしまったのだ。どんな顔で、どんな気持ちで、あれを見たのだろう。娘の白い肌が写る写真を。娘が笑う写真を。娘が――誰かのそばで、女の顔をしている写真を。
アランは、その想像だけで息ができなくなる。
「アラン」
父が、ようやく娘の名を呼んだ。
それだけで、アランの視界がぼやける。
名を呼ばれるだけで、幼い頃の安心が蘇ってしまう。父の研究室で、失敗して泣いた夜。深夜のランプの下で、父が黙って肩を抱いてくれた記憶。――全部が胸の奥から浮き上がってくる。
けれど、今は抱きしめられない。ここはブラック家で、アランはブラック夫人だ。
父ですら、その腕を伸ばすことを躊躇する。
レギュラスが、立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「顔を洗っていらっしゃい。すぐに戻らなくていい」
優しい夫の振る舞い。
逃がしてくれるように見える言い方。
でも、逃がす気などないことを、アランは知っている。
「戻ってきたら、きちんとお話を続けましょう。セシール卿もいらっしゃることですしね」
最後の一言が、柔らかく喉を切った。
アランは動けなかった。
階段の途中で、まるで罪人のように立ち尽くす自分がいる。
父の前で、妻の顔を作れない。娘の顔に戻りたい。でも戻れない。戻ったら、今度こそ何かが終わる。
涙が、今にも落ちそうだった。
落ちたら、父がもっと悲しむ。
落ちたら、レギュラスが“ほら”とでも言いたげに勝ち誇る。
だからアランは、唇を噛んだ。
噛んで、噛んで、血の味を感じたところで、ようやく一歩だけ足を動かした。
洗面へ向かう廊下が、やけに長い。
背中に刺さる視線は二つ――悲しみと、慈愛の仮面。
そのどちらも、今のアランには耐えがたかった。
そしてアランは理解する。
昨夜の終わりは、終わりではなかった。
今朝のこの朝食こそが、本当の始まりなのだと。
洗面所の冷たい水は、涙の熱だけを置き去りにしてくれなかった。
頬を濡らし、指先で目元を押さえても、まぶたの裏に残る光景は消えない。テーブルの上に揃えられた白い紙片の眩しさ。父の沈んだ眼差し。――そして、あまりにも穏やかな夫の声。
アランは深く息を吸って、吐いた。
息を整えるたびに、自分が「ブラック家の妻」に戻っていくのがわかった。戻らなければならない。ここで崩れれば、確実に食い尽くされる。
廊下を歩く足音が、屋敷の静けさに吸い込まれていく。
扉の前で一度だけ指先が震えた。ノックはしない。もう、促されているのだから。
朝食室へ入った瞬間、空気が変わった。
紅茶の香りは同じはずなのに、匂いの奥に鉄のような緊張が混じっている。
窓から射す冬の光が、磨かれたテーブルに淡く反射して、やけに眩しい。いつもなら美しいと感じるだけの光が、今日は白刃のように見えた。
父――エドモンド・セシールは、座ったまま背筋を伸ばしていた。
しかしその姿勢の固さは、誇りではなく、耐えるための形に見える。目の前に置かれたものを見てしまった人間の、どうしようもない沈黙。
レギュラスは、反対側にいる。
完璧に整えられた髪。軽く口角を上げた微笑み。手元のカップに添えられた指先の余裕。――昨夜あれほど荒れた部屋で、あれほど鋭い言葉を吐いた男と同一人物だとは、信じがたいほどの落ち着き。
そしてテーブルの上は、いつの間にか片づけられていた。
あの魔法写真たちは見えない。だからこそ余計に怖い。片づけられたから終わった、ではない。必要な時に、必要な形で“また出せる”ということだ。
「おかえりなさい、アラン」
レギュラスが、まるで体調を気遣う夫のように言った。
その声に、父の肩が微かに揺れるのがわかった。――父は、娘がこの男にどう呼ばれているかさえ、今朝は痛いほど鮮明に聞いてしまうのだ。
「……失礼いたしました」
アランは礼儀正しく頭を下げる。声は出る。出るのに、喉が狭くて息が通らない。
父に向けて視線を上げたいのに、怖くて上げられなかった。目が合えば、そこにある悲しみを受け止めてしまう。受け止めた瞬間、自分は崩れる。
レギュラスはカップを置き、軽く指を組んだ。
その動作だけで、この場の主導権が彼にあることが分かる。言葉を選ぶための沈黙ですら、彼は武器にする。
「セシール卿。あらためて、きちんとお話を」
丁寧で、柔らかい。
けれど“拒否は想定していない”声だ。
「妻とはちゃんと話をして、もう一度やり直したいと思っているんです」
“やり直す”。
その響きがあまりにも善良で、アランは思わず奥歯を噛みしめた。
まるで自分が壊したものを、彼が寛大に拾い上げてくれているみたいな言い方。まるで彼が傷つきながらも家族を守ろうとしているみたいな語り口。
――手の内は分かっている。
分かっているのに、胸の奥が情けないほどに揺れる。
「アルタイルには母親が必要ですから」
息子の名を、当然のように置く。
それは、罪悪感の芯を正確に叩くための石だ。
アランの胸の奥に、赤子の頬の柔らかさと、夜中に起きた時の小さな指の温度が一気に蘇って、喉が痛くなる。
反論したいのに、反論すればするほど自分が“母親として失格”の立場に追い込まれる。
レギュラスはその構図を、微笑みながら作っていく。
「僕にも至らない点がありましたからね」
自分の非も認める。
その一言で、彼は“責める側”から“共に苦しむ側”へと立ち位置をずらす。誰もがその言葉に弱い。――特に、善良な人間ほど。
アランは吐き気がした。
この男は、謝罪に見えるものすら支配の道具に変える。反吐が出そうなほど巧みだ。それでも、父の前でその巧みさを暴く言葉を選べない。選べば、父が余計に傷つく。
エドモンドが、わずかに身じろいだ。
唇が震えている。言葉を選び、飲み込み、また選ぶ。
その沈黙の間に、どれだけの痛みが詰まっているか、娘であるアランは嫌というほど分かる。
「……ブラック殿」
父の声は、かすれていた。
敬称が、距離を作る。距離を作らなければ、崩れてしまうから。
「そんな事は……」
父は言いかけて、息を整え直した。
そして、信じられないほど静かに椅子を引いた。
「娘が軽率な行動をしてしまったことを――」
立ち上がった父の背中は、いつもの研究室で見る背中よりも小さく見えた。
アランの胸がぎゅっと縮む。だめだ、と頭の中で叫ぶ。そんなことをしないで、と声にしたいのに、声が間に合わない。
「詫びさせていただきたい」
エドモンドは、跪いた。
膝が床につく音は小さい。
けれどその音は、アランの中で大きく鳴り響いた。父が、自分のために守り続けてきた誇りの形が、今ここで床に落ちた音だった。
「お父さま……!」
声が、思ったより大きく出てしまった。
止めようとしたのに止められない。視界が潤み、喉の奥が焼ける。
父が跪く姿を見せられることが、こんなにも痛いなんて。
エドモンドは顔を上げない。上げられない。
娘を見る資格がないと思っているみたいに。父親として失格だと言われているみたいに。
レギュラスは――驚かない。
そのことが、何より恐ろしかった。
「セシール卿」
静かに名を呼ぶ。
止めるための声にも聞こえる。慈悲のための声にも聞こえる。
けれどアランは知っている。これは、父の跪きを“場”に固定するための声だ。今、父が立ち上がれば台無しになる“演出”がある。
「どうか、お立ちください。……そこまでなさる必要はありません」
形だけは穏やかに言う。
否定してみせることで、さらに自分を大きく見せる。――“寛容なブラック家の当主”。“妻の過ちを受け止める男”。その像が、父の前で完成していく。
アランは爪が掌に食い込むほど拳を握った。
悔しい。悔しいのに、父のために耐えるしかない。ここで暴けば、父がもっと傷つく。父は彼の権力の前で、もう逃げ場がない。
「……ですが」
レギュラスは、ほんの一拍置いた。
その一拍が、刃を研ぐ音に聞こえる。
「アルタイルのためにも、これ以上の混乱は避けたい。自分はそう思っています」
“自分は”。
主語を置くことで、意見ではなく“方針”になる。
そして、その方針に逆らう者は、“子どものため”に逆らう者になる。
父の肩が震えた。
アランは、もう泣きそうだった。父にこれ以上、何も背負わせたくない。背負わせたのは自分だ。分かっている。分かっているからこそ、ここで父が床にいるのが耐えられない。
「……お父さま、お願い。立って」
やっと絞り出した声は、頼りなく揺れた。
アランは膝を折りそうになる。父の手を引きたい。けれど、その手を伸ばす行為すら、レギュラスの目の前では「みっともない」と裁かれる気がした。
レギュラスは視線を、ゆっくりとアランに向ける。
叱るでもない。怒るでもない。
ただ、微笑んだまま――どこまでも優しい夫の顔で、逃げ道を消す。
「アラン」
名を呼ばれるだけで、胸の奥がきしむ。
彼の声は温かいのに、その温度が牢の毛布みたいに重い。
「……あなたが、きちんと向き合うんです。自分と。セシール卿と。アルタイルと」
一つずつ並べて、鎖にする。
誰も外れないように、丁寧に言葉を繋いでいく。
エドモンドが、ようやく顔を上げた。
そこには怒りも抗議もない。ただ、深い疲労と、娘への愛と、どうしようもない悔しさが混じっていた。
アランは、その目を見た瞬間、泣いてしまいそうになった。
父が守ってくれたはずの世界は、今、目の前の男の言葉一つで形を変えられている。
「……申し訳ありません」
父が低く言った。
謝罪ではなく、祈りに近かった。
レギュラスは、また微笑む。
まるで「もう十分です」とでも言いたげに。まるで「自分が許す側です」とでも言いたげに。
「いいえ」
短く、優しく。
その二文字が、逆に逃げ場を奪った。
「ここからです。――やり直すのは」
そして、彼は最後に静かに言う。
「アラン。あなたの言葉で、話してください」
逃げ切らせない。
父の前で、妻として、母として、罪人として。
言葉を差し出させることで、場の全てを掌握する。
朝の光は変わらないのに、アランには世界が暗く見えた。
父が跪いた床の冷たさが、まだ目に焼き付いたまま―― アランは唇を開くしかなかった。
朝の光は、あまりにも公平だった。
誰がどれほど傷ついていようと、窓硝子を透けて床に落ちる白い線は変わらない。磨かれた卓上に反射する淡い輝きも、紅茶の湯気の立ちのぼり方も、いつものままだ。
それが、かえって残酷だった。
アランは椅子の脇に立ったまま、膝の力が抜けそうになるのを必死に堪えていた。指先が冷えている。手を握りしめても、熱が戻らない。喉の奥が詰まっていて、息を吸うたびに胸のどこかが痛んだ。
――お父さまが、跪いている。
その事実が視界に刺さって、抜けない。
エドモンド・セシールの背中は、いつもよりずっと小さく見えた。研究室で白衣を揺らし、あれほど堂々と薬瓶を扱う手が、今は膝の上で静かに重なっている。娘のために、父が誇りを床に置いた。
その横で、レギュラスが微笑んでいる。
慈愛に満ちた夫の顔で。――誰が見ても正しい、完璧な振る舞いで。
「アラン」
その声は穏やかだった。責める響きはない。だからこそ、逃げ道がない。
「あなたの言葉で」と促された瞬間、アランの中で何かが崩れた。言葉の形を保っていた最後の支えが、細い音を立てて折れる。
アランは一歩前へ出た。
自分の足音が、朝食室の静けさにやけに大きく響いた気がした。父のそばで止まり、視線を落とす。床の模様が滲んで見える。涙が、もう溜まっている。
「……ごめんなさい、お父様」
声が震えた。
声を整えようとしても、喉の奥が痙攣して言葉が擦れる。息を吸うほど、涙が喉にせり上がってくる。
「軽率でした」
その一言が、どれほど薄っぺらいか自分がいちばん知っていた。
軽率。そんな言葉で済むはずがない。誰かの人生を奪って、家族の誇りを傷つけて、子どもを盾にされる場所まで追い込んで――それを“軽率”の四文字で括ってしまうことが、また新しい罪みたいに思えた。
それでも、言うしかない。
父の前で、娘として言える言葉を選ばなければならない。ここで本当のことを並べ立てたら、父の心が壊れる。父が跪いた意味さえ、踏みにじる。
アランは深く頭を下げた。
額が少し前髪に触れ、そこに溜まっていた涙がぽとりと落ちる。
一滴落ちれば、次は堰を切ったように止まらない。鼻の奥がつんと痛む。唇を噛んでも、涙は勝手に溢れて、顎を伝い、喉元を濡らす。
泣いていい理由にはならないのに。
泣けば泣くほど、みっともない。泣けば泣くほど、弱さを見せることになる。父にも、そして――横にいる男にも。
「……っ」
声にならない息が漏れた瞬間、すぐ隣から布の擦れる音がした。
レギュラスが動いたのだと、視界を上げなくても分かった。
そして、次の瞬間。
肩に、温かい手が置かれる。
ローブ越しに伝わる掌の重さ。軽く抱き寄せるような圧。まるで、今にも崩れ落ちそうな妻を支える“理想の夫”の仕草だった。
「大丈夫ですよ、アラン」
囁きは柔らかい。
それが余計に苦しい。優しさの形をしているのに、逃げ場を塞ぐ鎖の形をしているから。
レギュラスはもう片方の手で、アランの頬に触れた。指先が涙を掬い、そっと拭う。丁寧に、乱暴さなど微塵もなく。人前で妻の涙を拭うことが、どれほど“正しい夫の行動”として映るか――分かりきっている手つき。
アランの中に、反射的な衝動が走った。
その手を払いのけたい。触れないで、と言いたい。
涙を見せるなら父にだけにしたい。――けれど、それすら許されない。
払いのけた瞬間、何が起こる?
父の前で、夫の手を拒む妻。慈愛を拒む女。
レギュラスは何も言わずに微笑んだままでも、その瞬間に空気は“妻の不出来”として完成してしまう。父はさらに頭を下げるだろう。娘のせいで、もう一度。
指先が震えて、拳が握れない。
握れないまま、アランはただ、喉の奥を押し殺すように呼吸を続けた。泣き声を立てれば、また罪になる気がした。
「……お父さま」
アランはもう一度言った。
言葉を重ねることでしか、自分を立たせられなかった。
「どうか……顔を、上げてください」
父に向けたつもりの言葉なのに、声は自分の中で折れて消えそうだった。
エドモンドはゆっくりと顔を上げる。目元は赤い。怒りはない。ただ、深い悲しみと、娘を案じる優しさがそこにある。どこまでも父だった。
その視線を受けた瞬間、アランは耐えきれなかった。
涙がまた溢れる。視界が白く滲む。胸の奥が焼けて、息ができない。
レギュラスの手が、さらに優しく肩を抱き寄せる。
“守る”という形で、アランを自分の側へ引き寄せる。
「セシール卿」
レギュラスが父に向けて言った。
声は穏やかで、落ち着いていて、まるで場を整えるためだけに選ばれた音だった。
「あなたの娘は僕が支えます。――ですから、どうかお立ちください。家族として、ここから先を」
正しすぎる。
その正しさが、刃物みたいにアランの胸を抉った。
支える。家族。ここから先。
どれも、誰も否定できない言葉。否定すれば、自分が悪になる。父がさらに傷つく。
アランは、唇を噛みしめた。
血の味が少しした。泣き止まない頬を、レギュラスの指がまたそっと拭う。まるで宝物に触れるみたいに優しい。
――その優しさの下に、何があるか知っている。
それでも、この場でそれを言葉にできない自分が、どうしようもなく惨めだった。
「……ごめんなさい」
アランはもう一度、父に向けて頭を下げた。
涙が落ちるたび、床が遠くなる。自分が壊れていく気がする。
レギュラスの腕の中で、慈愛の形に包まれたまま。
アランは、払いのけたい手を払いのけられず、ただ泣き続けた。
泣くことが赦される理由なんてどこにもないのに。
泣けば泣くほど、すべてが“夫に守られる弱い妻”として正しく整っていく。
それが、いちばん苦しかった。
父を玄関まで見送るあいだ、レギュラスは最後まで“正しい夫”だった。
外気の冷たさが屋敷の奥まで入り込み、重い扉が開くたびに蝋燭の炎がわずかに揺れる。執事がコートを差し出し、エドモンドはそれを受け取る手を一瞬だけ迷わせた。娘の顔を、まともに見られないまま。
「……セシール卿。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
レギュラスは微笑みながら、深々と頭を下げた。形式の中に、わずかな温度まで混ぜた礼だった。
エドモンドは苦しげに頷き、掠れる声で応じる。
「……こちらこそ。どうか、娘を……」
言いかけて、言葉が喉で折れる。
父親としての願いが、夫婦の間に挟まれた刃に触れた瞬間の、あの躊躇い。
「もちろんです。アルタイルの母ですから」
レギュラスは当然のように、息子の名を口にした。
その瞬間、アランの背筋がわずかに強張るのが分かった。けれど彼女は口を噤み、ただ美しい表情だけを保ったまま、父に小さく礼をする。
「お気をつけて……お父さま」
やっと絞り出した声は、丁寧で、礼儀正しくて、どこにも綻びがない。
それが余計に痛々しい。娘の涙の跡だけが、朝の光にまだ消えきらず、頬に淡い影を残している。
エドモンドはそれ以上何も言えず、扉の向こうへ消えた。
馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかり、やがて屋敷は静けさを取り戻す。
扉が完全に閉まった、その瞬間だった。
アランが、振り向きざまにレギュラスへ歩み寄った。
足取りは優雅さの殻を剥ぎ取ったように速く、息が乱れているのが分かる。翡翠の瞳だけが、怒りと屈辱で濡れたまま鋭く光っていた。
「……どうして」
低い声だった。噛みつく前の獣みたいに、喉の奥で唸りが鳴っている。
「どうしてお父様を呼んだんです。――約束したでしょう」
“約束”。
その単語が、アランの中で最後の糸だったのだろう。指先が震え、ローブの裾を掴みそうになって、けれど寸前で堪えている。掴めば、もう後戻りできないと知っている。
レギュラスは一拍置いた。
玄関ホールの高い天井に、二人の呼吸だけが吸い込まれていく。使用人たちは視線を伏せ、見えていないふりをした。見てはならないものを見た時の、完璧な沈黙。
「約束?」
レギュラスは首を傾げた。柔らかな笑みのまま。
問いかける形で、逃げ道を塞ぐ癖が、そのまま出る。
「どの約束のことでしょう。あなたが“どうか言わないで”と懇願した、あの約束ですか」
アランの喉が詰まったように動いた。否定も肯定もできない。
言葉を探す間に、レギュラスが続ける。
「あなたは、条件を提示しました。父を守りたいから、と。――だからあなたは話した。だから僕は、あなたの口から、聞きたくもない事実を一つずつ聞いた」
声は穏やかなのに、言葉の角だけが鋭い。
アランは一歩踏み出した。耐えきれない、という足だった。
「違う……そうじゃない……!」
抗議の勢いが、もう噛みつく寸前のそれだった。
頬の筋肉が引きつり、涙の跡が新しい熱で滲む。
「お父様の前で……あんなふうに、私を……っ」
言葉が途切れたのは、羞恥のせいではない。
あの卓上に並べられた写真の四角い輪郭が、視界に蘇ったからだ。父の悲しそうな目が、胸の奥でまだ痛んだからだ。
レギュラスは、微笑みを崩さなかった。
むしろ、ほんの少しだけ口元を緩めた。慈悲のように見える角度で。
「“あんなふうに”?」
もう一度、問い返す。
アランが自分で言葉にしてしまえば、それは“事実”になる。逃げられない形になる。レギュラスはそれを分かっていて、分かっていてやる。
アランの唇が震えた。言えない。
「言ってください。何が嫌でした? 父に知られたこと? それとも――父の前で、妻としての顔が崩れたことですか」
「……!」
アランの瞳が一瞬だけ、殺意に近い光を宿した。
怒りが、喉元までせり上がっている。けれど次の瞬間、それが別の感情に押し流される。恐怖だ。理解しているからだ。この男は、怒りで押せば押すほど、もっと冷静に、もっと残酷に、追い詰め方を選ぶ。
「……あなたは、最低です」
声は震えながらも、はっきりと出た。
それが、今のアランの精一杯の反撃だった。母としての仮面を剥いで、ただ一人の女として突きつけた刃。
レギュラスは小さく目を細めた。
その刃を、指先でつまんで折るみたいに。
「最低」
ゆっくり復唱し、品のあるため息を落とす。
「では、質問を変えましょう。――あなたは、父を守りたかった。そうでしょう?」
アランは反射的に頷きかけて、止めた。
頷けば、次が来る。分かっている。けれど止められない。
「守りたいから、黙っていた。守りたいから、嘘をついた。守りたいから、笑った。守りたいから、ここまで器用にやった」
レギュラスが一歩近づく。距離が詰まるだけで、空気が冷える。
アランは後ろへ下がりたいのに、足が動かない。玄関ホールの大理石が、足裏を冷たく吸い付かせる。
「父を守りたいなら、あなたが最初に守るべきものは何でした?」
レギュラスの声はあくまで静かだった。
その静けさが、刃の厚みになる。
「――自分の夫でしょう。自分の子でしょう。自分の家でしょう。あなたは順番を間違えたんですか? それとも、“間違えたふり”をして、都合のいいところだけ守った?」
アランの呼吸が乱れた。
言い返そうとした言葉が、喉で詰まる。言い返せば、もっと深く刺される。答えれば答えるほど、逃げ道が狭くなる。分かっているのに、噛みつきたい衝動が止まらない。
「……あなたが……っ」
声が割れそうになる。
「あなたが、私から、全部奪ったから……! 最初から、私の意思なんて――!」
言いかけた瞬間、レギュラスの表情から、ふっと温度が抜けた。
笑みはある。けれどそれは、光のない硝子みたいに冷たい。
「最初から、意思がなかった?」
アランの言葉を、丁寧に拾い、丁寧にねじる。
「では、あなたは“意思のないまま”――あの部屋へ行き、あの男の手を取り、あの男のために写真を隠し、そして――」
言葉が一瞬だけ途切れる。
“そして”の先に何が続くか、アランの体が先に理解してしまって、顔色が変わった。
「……やめて」
喉の奥から絞った声だった。
止めて、と言えば止まる相手ではないと知っているのに、それでも出てしまった懇願。
レギュラスは、そこで初めて声の角度を変えた。
穏やかさの中に、命令形の刃を忍ばせる。
「やめてほしいなら、最初からやらないことです」
短い。けれど、重い。
アランの肩が小さく震えた。怒りが、屈辱が、そして理解不能なほどの絶望が、同時に押し寄せる。
「あなたが父を守りたいと言うから、父を呼びました」
レギュラスは言った。まるで、理屈の説明をするみたいに。
「父に知られたくない? もちろん。あなたの願いは分かっている。――でもね、アラン。父が何も知らないまま、あなたが壊れていくのを黙って見ているのが、父親にとって本当の救いだと思いますか」
アランは息を呑んだ。
救い。父。正しさ。
その単語が、胸の柔らかいところに直接刺さる。
「あなたは父を盾にして、自分の罪を“二人だけの秘密”にしようとした。違いますか」
「違う……!」
声が反射で飛び出す。
けれど、否定の言葉の形が整う前に、レギュラスがさらに畳みかけた。
「では、何ですか。――あなたは何を守りたかった?」
レギュラスの問いは、逃げ道を残さない。
“答え”を出させるまで終わらない。アランがいちばん嫌う、そしていちばん怖い追い詰め方。
「父の名誉? あなたの名誉? それとも――」
レギュラスの視線が、アランの胸元ではなく、もっと奥へ向かった。心臓の裏側に届くように。
「――ローランド・フロストという男の名誉ですか」
アランの顔から、血の気が引いた。
その反応だけで、レギュラスには十分だった。
「……沈黙で答えるんですね」
軽い嘲りが混ざる。
アランは唇を開いて、何かを言おうとする。言わなければ終わらない。けれど言えば、どこかが決定的に折れる。
「……あなたは」
やっと出た声は、掠れていた。
怒鳴りたいのに、声が出ない。強く言いたいのに、喉が震える。自分の情けなさが、また涙を呼ぶ。
「あなたは……人の心を……」
「ええ」
レギュラスは、あっさり認めた。
その潔さが、アランの足元をさらに崩す。
「人の心を掌握するのが得意です。あなたは今まで、それを何度も見てきた。――それなのに、どうして自分だけは例外だと思ったんです?」
アランの睫毛が震え、涙がまた滲む。
怒りの涙なのか、悔しさなのか、恐怖なのか、分からない。ただ、視界が滲む。
レギュラスは、ほんの少しだけ顔を近づけた。
囁きの距離。外から見れば、夫が妻を宥めているようにしか見えない距離。
「この家の中で、あなたが守られているのは――“僕が守っているから”です」
静かな宣告だった。
優しさの衣を着た、支配の事実確認。
「その守りを、どこに向けるか。誰に向けるか。――それをあなたが勝手に選び替えるなら、亀裂は“あなたのせい”になる。分かりますね?」
アランの喉が鳴った。
返事ができない。息が浅くなる。
「……あなたは、私を脅している」
ようやく出た言葉は、震えながらも核心だった。
レギュラスは微笑んだまま、首を僅かに傾けた。
肯定とも否定とも取れない、あの逃げ道のない仕草。
「確認しているだけです」
冷たく言い切る。
その瞬間、アランの中で何かが決定的に切れた。繋ぎ止めていた“夫婦”という細い糸が、音もなく断たれる。
「……もう、信じられない」
アランはそう言った。
小さな声だった。けれど、これまでのどんな叫びよりも重い。
「あなたを、信じる場所が……どこにもない」
レギュラスの瞳の奥で、一瞬だけ何かが揺れた。
怒りか、痛みか、あるいは別の名のない感情か。けれどすぐに、いつもの微笑みがそれを覆い隠す。
「信じる場所がない?」
レギュラスは問い返す。
そして、ゆっくりと、言葉を選びながら――選び抜いた刃を、最も効くところへ落とした。
「だったら、あなたはどこへ行くつもりですか。――アルタイルを連れて?」
アランの瞳が大きく見開かれる。
身体が硬直し、次の呼吸が止まる。母としての本能が、全身を凍らせる。
レギュラスは、優しい声のまま続けた。
「あなたが亀裂を作るなら、こちらは亀裂の“向こう側”を選びます。あなたがこの家の妻である限り、あなたの居場所はここにある。――それを壊すなら、壊れたものの責任は、壊した側にある」
アランは言葉を失った。
怒りの牙は、喉元で折れた。反論しようとした唇が震え、何も出てこない。
レギュラスは、黙ったアランを見下ろしながら、微笑みを保った。
その微笑みは、勝利の形ではない。もっと冷たく、もっと暗い――“もう戻れない場所”を示す形だった。
「さあ、アラン」
低い声で、しかし丁寧に。
「今のあなたの抗議を、もう一度言ってください。噛みつく勢いで。――こちらが、どれだけの威力で返せるか、あなたはもう知ったはずですから」
アランは唇を開いた。
けれど、出たのは言葉ではなく、かすかな息だけだった。
玄関ホールの蝋燭が、また小さく揺れた。
朝の光は変わらず床に落ちているのに、二人の間の空気だけが、決定的に冷えきっていた。
扉が閉まって、馬車の音が完全に遠のいた瞬間から。
アランの中で“夫婦”という言葉は、ただの形式に堕ちた。
玄関ホールにはまだ朝の光が残っている。磨かれた大理石に淡い影が伸び、壁の肖像画たちは何も見ていないふりをして静止していた。さっきまでそこにあった父の気配だけが、消え残りの煙のように薄く漂っている。
肩を抱こうとしてきたレギュラスの手を、アランは払った。
ぱし、と乾いた音がして、指先がほんの少し震えた。
その震えが恐怖なのか、怒りなのか、もう区別がつかない。
ただ、彼に触れられることが、吐き気の種みたいに胸の奥へ落ちていく。
「……もう、結構です」
声は自分の耳にも冷たく聞こえた。礼儀の殻すら被らない、剥き出しの嫌悪。
アランは踵を返し、廊下へ出た。自室へ。自分の扉の向こうへ。息ができる場所へ。
階段の手すりに手を添えると、金属の冷たさが指に刺さる。
足音が響く。自分の。――そして、少し遅れてもう一つ。
追ってくる気配は早い。迷いがない。
それが、いちばん腹立たしかった。自分の気持ちがどうであれ、この男は“そうすべき”形を、当たり前に選び続ける。いまも。
「アラン」
名前が背中に落ちる。柔らかい呼び方。あまりに、いつも通り。
アランは振り向かない。振り向けば、彼の“正しさ”にまた飲み込まれる気がした。
階段を上がり切り、廊下の角を曲がる。自室の扉が見えた。
木目の落ち着いた扉。真鍮の取っ手。――そこが、いつだって最後の砦だった。
手を伸ばした、その瞬間。
肘のあたりを、ぎゅっと掴まれた。骨に届くほどの力。
アランの体が反射で跳ねる。
「やめて……!」
振り払おうと腕をぶんぶん振る。けれど掴んでいる手は微動だにしない。まるで、抵抗すること自体が滑稽だと言うみたいに。
レギュラスの声が、すぐ耳元で落ち着き払って響いた。
「いまさら、あなたに許される権利があると思いますか?」
言葉が、痛みのように皮膚の内側へ染みた。
許す権利。――その単語を、どうしてここで、そんな顔で言えるのか。
「……離して。触らないで……っ」
アランが声を絞った瞬間、掴む力がさらに強まった。
次の動きは、あまりにも速い。
もう片方の手が、首元へ。襟の近く、喉の脇に添えられる。
触れられた皮膚がぞわりと粟立つより先に、背中が壁へ押し付けられた。
鈍い音。石の冷たさ。視界が一瞬揺れる。
「っ――!」
短い悲鳴が漏れた。自分でも驚くほど幼い音だった。
息が詰まり、心臓が跳ねる。喉の奥がかすかに痺れる。首にかかった手は、締めるためではなく、逃げ道を塞ぐための位置だった。逃げる方向も、呼吸のリズムも、この男の手のひらに回収されていく。
目の前に、灰色の瞳があった。
硝子みたいに冷たくて、底が見えなくて――そして、確かに怒っているのに、声だけは静かなままだった。
アランは、初めて理解した。
この男は“理性があるから暴力を選ばない”のではない。
理性があるからこそ、必要なら迷わず“最短で効く形”を選べるのだと。
その事実が、背筋を凍らせる。
「……初めてでしょう」
レギュラスの声が、ごく低く落ちた。責めるでも、慰めるでもない。
ただ確認するみたいに。
「男に、こんなふうに止められたのは」
アランは歯を食いしばった。悔しさが喉に詰まる。
目を逸らしたくないのに、瞳が勝手に揺れる。怖いと思ってしまう自分が、さらに嫌だった。
「……あなたは、最低……」
掠れた声で吐き捨てた。
口にした途端、血の気が引く。火に油を注いだのだと、分かってしまったから。
けれどレギュラスは笑わなかった。
笑わないまま、指先だけをわずかに動かして、喉の脇の骨を確かめるみたいに触れた。
「朝から苛立たせないでもらえます?」
丁寧な言い方だった。
だからこそ、ぞっとした。
“苛立ち”。
この男がそう言う時、そこに含まれるのは単なる気分ではない。処理すべき不快のラベルだ。処理されるのは、いつだって自分の方だ。
アランは息を吸おうとして、うまく吸えない。胸が小さく上下する。
壁の冷たさが背中にじわじわと広がっていく。
目の端に、自室の取っ手が見えた。ほんの腕一本分先にあるのに、そこへ届く道は切り落とされている。
「……部屋に戻るだけです。逃げるわけじゃない」
言い訳のような言葉が、勝手に出た。
自分でも情けない。逃げない?――逃げたいに決まっている。息ができる場所へ行きたい。自分の心を守るための扉を閉めたい。
レギュラスのまなざしが、ほんの少しだけ細くなる。
その変化が、刃を研ぐ音みたいに感じられた。
「逃げない?」
ゆっくり、問い返される。
アランの答えの脆さを、丁寧に指でなぞって壊す口調。
「なら、ここで立っていてください。こちらが“逃がす理由”を、今のあなたが持っているとでも?」
首元の手が、皮膚に熱を残す。
掴まれた腕の骨が痛む。けれど痛みより、屈辱のほうが強くて、涙が出そうになる。
その涙を見せたくなくて、アランは睨み返した。
嫌悪を隠す余裕など、もうどこにもない。
「……あなたの顔を見ると、息ができない」
口から出た瞬間、しまったと思った。
言い過ぎた――そういう理屈での後悔ではない。
この男が“息ができない”という言葉を、どんなふうに利用するか想像できてしまったからだ。
案の定、レギュラスの口元がわずかに緩む。
それは優しさではない。愉しみを含んだ、冷たい形。
「息ができない?」
耳元に、低い声が近づく。
首元に添えられた手が、さらに逃げられない位置へ導くように動いた。締めるのではなく、逃げるという概念そのものを消すみたいに。
「では、あなたはどうやって生きていくつもりです。――この家で。母として。妻として」
言葉が、一つずつ釘のように打ち込まれる。
母。妻。家。
その全部が、アランの弱いところを正確に叩く。痛い場所だけを選んで。
廊下の奥から、遠く、乳母が赤子に歌いかける声が微かに聞こえた。
アルタイルの気配。
それだけが、アランを今ここにつなぎ止める鎖だった。
レギュラスの瞳が、ほんの僅かにその方向をかすめて、すぐ戻る。
気づいている。アランの弱点がどこにあるか。
そしてそれを、いつでも握れる位置にいることを、見せつけてくる。
アランは唇を噛んだ。血の味がした。
視界の端で、自室の扉が揺らいで見える。要塞は目の前にあるのに、入れない。
それがどんなに残酷か、この男は分かっていてやる。
レギュラスは、静かに言った。
「嫌悪しても構いません。――ただ、勝手に閉じこもるのは許しません」
声は柔らかい。
なのに、首元の手と、壁の冷たさと、逃げられない距離が、そこに“命令”を刻む。
アランの胸の奥で、何かがひどく音を立てて軋んだ。
怒りが燃え上がり、恐怖がそれに水を差し、屈辱が灰を撒く。
それでも嫌悪だけは、消えなかった。
むしろ、はっきりと形になってしまった。
灰色の瞳を見上げたまま、アランは震える声で言う。
「……あなたが、いちばん怖い」
その一言に、レギュラスの指が一瞬だけ止まった。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように、穏やかな微笑みが戻る。
「ええ。そうでしょうね」
肯定する声が、あまりにも静かで。
アランの背中を這う寒気は、さらに深くなった。
