1章
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インクの匂いがほのかに漂う執務室で、ローランド・フロストは静かにペンを走らせていた。
魔法省の若手研修官として与えられた机は、まだどこか仮のもののように小さく、壁際に寄せられている。
周囲では、先輩官僚たちが書類をやり取りし、時おり低い声で議論を交わしていたが、彼の意識はほとんど紙面に向けられていた。
『──近いうちに、またお会いできれば嬉しく思います。
セシール家の庭も、そろそろ夏の花に入れ替わる頃でしょうか。』
そう書きつけたところで、ローランドは手を止める。
いつもと同じ結びの文句。
手紙の最後には、ほとんど必ず「近いうちに会いたい」という一文が入ってしまう。
ありきたりだろうか、と一瞬思う。
だが、他の言葉ではどうしても落ち着かなかった。
彼にとって、それがもっとも素直な願いをそのまま書き表した言葉だった。
初めてその一文を添えたのは、まだ互いに学生だった頃だ。
試験期間で忙しく、しばらく顔を合わせられない日々が続いたとき、何となく筆がそちらへ流れた。
それ以来、アランに宛てる手紙の結びには、自然と同じ願いが書かれるようになっていた。
近いうちに会いたい。
変わらない距離で、変わらないように笑っていてほしい。
それはローランドにとって、日々がどれほど変化しても揺らぎたくないひとつの基準のようなものだった。
封をし、蝋でフロスト家の紋章を押す。
昼休みの鐘が鳴るころ、ローランドはその手紙を局内のフクロウ便の窓口へ預けた。
──けれど、その日の彼は、いつも以上に落ち着かなかった。
手紙だけでは足りない。
言葉だけでは届かない何かがあるような気がして、午後の仕事をこなすあいだじゅう、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さっていた。
理由はうまく言葉にできない。
ただ、ここ最近、アランから届く返事の文面の端々に、微かな翳りを感じていた。
礼儀正しく、丁寧で、いつものアランらしい文体。
しかし、行間に滲む疲労と、言葉の選び方の慎重さが増している気がする。
「大丈夫です」と書かれるほどに、大丈夫ではないのではないかと疑ってしまうような、妙な静けさ。
日が傾き始めるころ、ローランドは決心したように立ち上がった。
「本日の分の報告は、すべて提出済みです」
上司にそう告げ、半休の許可を得ると、その足で魔法省を後にする。
向かった先は、もちろんセシール家の屋敷だった。
セシール家の門は、いつもと変わらず端然としていた。
重厚な鉄製の門扉と、蔦の絡まる石造りの塀。
門番の魔法使いに名乗ると、すぐに屋敷へ伝令のフクロウが飛んでいく。
やがて通されたのは、庭園に面したサロンだった。
大きな窓からは、手入れの行き届いた庭が見える。
薬草と観賞用の花が規則正しく並ぶ一角は、アランの父が特に気に入っている場所だと聞いていた。
ローランドは、控えめな花束をひとつ持参していた。
華美になりすぎないよう、白と淡い紫を基調とした小ぶりのもの。
花屋に選ぶのを任せることもできたが、自分で一本一本色を確かめて束ねさせた。
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
「ローランド様がお見えです、お嬢様」
使用人の声に続いて、アランが姿を現す。
淡い色のドレスに身を包み、黒髪を後ろで緩くまとめている。
翡翠の瞳が一瞬こちらを捉えたあと、すぐに視線が逸らされた。
「……ローランド」
呼びかける声は、いつもどおり穏やかで、少し控えめだった。
だが、ローランドはその中にわずかな硬さを感じ取る。
「アラン」
彼は立ち上がり、小さく会釈をした。
そして、持参した花束を差し出す。
「忙しいところ、突然すまない。
先日、こちらのお庭に合う花を見つけた気がしてね。押しつけにならなければいいのだけれど」
アランは、胸の前で両手を揃えて花を受け取った。
白と淡い紫の小さな花々が、彼女の黒髪と翡翠の瞳を優しく引き立てている。
「……とても、きれいです。ありがとうございます」
そう言いながらも、瞳は花束か、その少し下あたりに固定されたままだった。
真正面から彼の目を見ることを、どこかためらっている。
ローランドは、その不自然さを見逃さなかった。
しかし、問い詰めるような真似はしない。
彼はいつもそうだ。相手が言葉にできるまで、無理に扉を開けさせることをしない。
「最近、手紙で『疲れているようだ』と感じてしまってね」
彼は控えめな笑みを浮かべ、テーブルを挟んで向かい合うように座った。
「だから、近いうちに会いたいなどと書くだけでは足りない気がした。
……こうして顔を見て話すのが、一番だと思ったんだ」
アランの胸の内で、何かが痛んだ。
いつも手紙の最後に書かれていた「近いうちに会いたい」の一文。
優しい調子で書かれたその言葉を読むたび、胸の奥が穏やかに温かくなるのを感じていた。
それが今は、鋭い棘のように突き刺さる。
「ごめんなさい。返事が、遅れてしまったりして」
アランは、膝の上で手を組んだ。
「少し、父の研究の手伝いが立て込んでいて……」
嘘ではない。
けれど、それがすべてではないことも自分でよく分かっていた。
ローランドは、ふわりと首を振る。
「謝ることではないよ」
穏やかな声だった。
「君は、いつも誠実に返事をくれる。
少し遅れたくらいで、不安になるような関係だとは思っていないから」
その言い方が、酷く優しかった。
信頼している。
疑っていない。
君はそういう人だと、心から思っている。
そう言われているように感じられて、アランは喉がきゅっと締め付けられる思いがした。
「……ローランドは、変わりませんね」
どうにか言葉を絞り出す。
「いつも、わたしに甘いです」
「甘いかな」
ローランドは少しだけ考えるような表情をした。
「君には、厳しいことを言う必要が、あまりないからかもしれない」
彼の瞳は穏やかな青色をしている。
そこには責める色は一つもなく、ただ長年の信頼と親しみが宿っている。
アランは、その瞳を真正面から見つめられず、視線をテーブルの上に落とした。
陶器のティーカップの縁が、やけに鮮明に目に入る。
「魔法省の研修は、お忙しいのでは?」
話題を変えるように問いかける。
「わざわざ、こんなところまで……」
「近くまで来ていたから、少し足を伸ばしただけだよ」
ローランドは、いつもの調子で嘘とも本当ともつかない軽い冗談を返した。
「君の屋敷の方向に用事があるのは、都合がいいことだと思っている。
……あまり頻繁に来ては、セシール卿に迷惑かもしれないけれど」
アランの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
完全な笑顔には届かない、薄く震える微笑み。
「父は、ローランドのことを嫌がったことなどありません。
むしろ、いつも感謝しています。フロスト家との関係を大切にしていると」
「それは光栄だな」
ローランドは、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「実は、先日少しだけ……父とも話をしてね」
アランは、顔を上げかけて、途中で動きを止めた。
「……どんな、お話を?」
「まだ、何かを決めたわけではない」
ローランドは慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、フロスト家としても、セシール家との結びつきを、これから先も大切にしたいと。
そのために、僕にできることがあるなら、全てするつもりだと伝えた」
暖炉の火の前で交わした会話が、彼の脳裏に蘇る。
父は、じっと彼の話を聞き、しばらく黙ってから「時期を見て、正式な話として整えよう」とだけ答えた。
ローランドは、それ以上を急がなかった。
大切なことほど、慎重に運ぶべきだと知っているからだ。
「アラン」
彼はゆっくりと彼女の名を呼ぶ。
「無理をしているときは、ちゃんと言ってほしい。
君の家のことも、父上の研究も、魔法省の仕事も、どれも大事だろうけれど……」
そこまで言って、ひと呼吸置いた。
「君自身が、いちばん後回しになってしまうのは、見ていて少し心配になる」
アランは、胸の奥が震えるのを感じた。
レギュラスに向けて発した「婚約している方が」と震える声。
それを思えば、今向かい合っている男の言葉は、あまりにもまっすぐで、あまりにも誠実だった。
彼は自分の都合や欲望を押しつけてこない。
ただ、見守り、待ち、支えようとしてくれる。
その優しさを、昨夜、自分は裏切った。
「……大丈夫です」
それでもアランは、そう答えるしかなかった。
自分の声が、ひどく遠くに聞こえる。
「父も、母も、ローランドも。
わたしには、もったいないくらいによくしてくださいます。
それなのに……」
言いかけて、言葉が途切れた。
喉の奥につかえた感情が、どう形にしていいかわからない。
「それなのに?」
ローランドは急かすことなく、ただ問い返す。
責める色は、一切ない。
アランは、ゆっくり首を振った。
「いいえ……少し、疲れているだけです」
無難な言葉の後ろに、本当の理由を隠す。
「少し休めば、すぐに元に戻りますから」
ローランドは、しばらく彼女を見つめていた。
青い瞳の奥で、何かを量るように。
しかし最後には、小さく頷く。
「そうか」
短く、それだけを言った。
「ならば、君の言葉を信じるよ」
それが、彼のやり方だった。
信頼とは、相手の言葉を疑わないことだと、彼は本気で思っている。
「もし、近いうちに時間ができたら」
ローランドは、すこしだけ表情を和らげて言った。
「また一緒に庭を歩こう。
子どもの頃のように、薬草の名前を教えてもらいたい。
僕は、いまだに君ほど詳しくないからね」
アランの胸に、古い記憶が浮かぶ。
まだ背丈の低かった頃、庭の一角で膝をつき、並んで薬草を見て回った日のこと。
ローランドは、難しい名前を何度も聞き返しながら、それでも根気よく覚えようとしていた。
あの頃の世界は、もっと単純で、もっと明るかった気がする。
「……はい」
アランは、小さく頷いた。
「近いうちに、必ず」
そう答えながら、自分の言葉がどれほど危うい約束を含んでいるかを、痛いほど理解していた。
レギュラス・ブラックが告げた「昨夜だけで終わらせたくない」という言葉。
ローランド・フロストがいつも書き添えてくれる「近いうちに会いたい」という言葉。
二つの言葉が、胸の中で絡まり合い、ほどけなくなっていく。
ローランドは、その絡まりを知らずに、穏やかな笑みをたたえていた。
優しさと誠実さ、そのどちらも疑いようのない眼差しで、アランを見つめている。
アランは、その視線を真正面から受け止めることができなかった。
ティーカップの縁に指を添え、揺らぐ紅茶の表面だけを見つめ続ける。
今にも溢れそうな罪悪感を、どうにか飲み込むように。
セシール家の屋敷は、夕刻の静けさに包まれていた。
長い廊下の壁には、代々の当主たちの肖像画が並び、その眼差しが客人の出入りを見守っている。
重厚な扉の向こう、当主エドモンド・セシールの書斎には、魔法薬の理論書や研究ノートが隙間なく並んでいた。
そこに、黒いローブの男がひとり、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。
レギュラス・ブラック。
魔法省の若き役員であり、ブラック家の次期当主と目される男。
灰色の瞳は穏やかに笑っているが、その奥には鋭い光が宿っている。
向かいに座るエドモンド・セシールは、細身の指で椅子の肘掛けをそっとなぞっていた。
白髪に近い銀の髪、切れ長の瞳には研究者特有の観察の色がある。
魔法薬学の権威として名高い一方で、一人娘アランに対しては誰よりも甘く、慎重な男だった。
「……それで、ブラック殿」
エドモンドは、慎重に口を開いた。
「本日は、いかなるご用件で、わざわざ我が家まで?」
レギュラスは、姿勢を崩さないまま微笑を深めた。
机上には、彼が持ち込んだ封筒が数通。
どれも、通常の社交上の挨拶状とは比べ物にならない重みを感じさせる封蝋が押されている。
「単刀直入に申し上げます、セシール卿」
柔らかな声だが、言葉は淀みがない。
「僕は、アラン・セシール嬢との婚姻を望んでいます」
空気が、わずかに揺れたように感じられた。
エドモンドの指先がぴたりと止まる。
いつも落ち着いた瞳が、一瞬だけ見開かれた。
「……娘と、ですか」
ようやく絞り出した声は、かすかに掠れていた。
「ブラック殿と、アランが?」
「はい」
レギュラスは迷いなく頷いた。
「先日の夜会にてお目にかかり、その後、お近づきになる機会を得ました。
それを踏まえての申し出です」
エドモンドは、胸の内側がざわつくのを感じた。
夜会。
その言葉の中にどんな意味が含まれているかを、本能的に悟るだけの経験が彼にはある。
しかし、今ここでそれを問いただすことは、自ら娘の名誉を傷つけることにもなりかねない。
沈黙したままの当主に構わず、レギュラスはゆっくりと封筒のひとつを開いた。
「僕の申し出が、あまりに唐突であることは承知しています」
落ち着いた動作で羊皮紙を広げる。
「ですから、僕の個人的な感情だけでなく、セシール家にとっての利益も、きちんとお示しするべきだと考えました」
机の上に広げられた羊皮紙には、きれいな文字でびっしりと条件が書き込まれていた。
エドモンドは思わず身を乗り出す。
「まず、魔法薬研究に関する費用の全面的なサポートです」
レギュラスは淡々と読み上げる。
「セシール卿の研究室維持費、材料費、実験設備の増設費用。
それらをすべて、ブラック家の資産と、魔法省役員としての僕の権限の範囲で支援いたします」
エドモンドの視線が、羊皮紙を追うにつれて揺れた。
材料費だけではない。
希少な魔法生物から採取される高価な部位、国外からの輸入が必要な薬草、長期保存のための特別な保管設備。
それらに関する具体的な予算案まで記されている。
「加えて」
レギュラスは、別の一枚を指先で押さえた。
「セシール卿の研究成果を、魔法省公認の魔法薬として流通させるためのルートを、こちらで整えます。
登録申請や安全性試験、認可審査の簡略化。
それらについて、僕が責任を持って後押しいたします」
魔法省の認可。
それは、どれほど優れた魔法薬であっても、簡単には得られないものだ。
審査は長く、煩雑で、時に政治的な駆け引きさえ必要とされる。
それを「僕が責任を持って」と言い切る若者を、エドモンドは複雑な思いで見つめた。
「さらに、ブラック家の財産分与の件ですが」
レギュラスは、少しだけ口角を上げた。
「アラン嬢が僕の妻となった暁には──」
そこで、羊皮紙を指で軽く叩く。
「ブラック家が所有する不動産の一部、具体的にはロンドンのタウンハウス一棟と、別荘地二つを、セシール家の名義で譲渡します。
また、グリンゴッツに預けているブラック家の金庫から、毎年一定額の分配金を、アランの持参金とは別枠でお約束します」
エドモンドは、思わず息を飲んだ。
ロンドンのタウンハウス。
別荘地。
ブラック家の金庫からの分配金。
それらは、ただの「裕福さ」をはるかに超えたものだ。
社会的な影響力、発言権、家としての格そのものに直結する。
「……ブラック殿」
エドモンドはようやく声を絞り出した。
「あなたのご厚意は、非常にありがたい。
しかし、あまりに急なことで、こちらとしても困惑しております」
ローランド・フロストの顔が脳裏を過る。
あの誠実な青年は、時間をかけて少しずつ距離を詰め、正式な婚約の話を切り出そうとしていた。
セシール家としても、フロスト家との縁談は悪くないと考えていたはずだった。
そこへ、いきなりブラック家からの、この圧倒的な条件を携えた申し出。
「娘の意向も、きちんと確かめねばなりません」
エドモンドは続ける。
「我々親の勝手だけで決めてよい話ではない。
それに……ローランド・フロストとの関係も、全くの白紙というわけでは」
「承知しています」
レギュラスは遮らない。
むしろ、もう聞き及んでいると言わんばかりの落ち着きを見せていた。
「フロスト家の長男。
魔法省の研修官。
真面目で、誠実なお方だと伺っています」
そこまで言って、レギュラスは目を細めた。
「しかし、そのご関係がまだ“正式な書面”になっていないことも、確認済みです。
セシール家との間に、公的な婚約書は存在しない。
両家の間で文書が交わされた記録もない。
そうですね?」
エドモンドの指先に、力がこもった。
表情には出さないよう努めたが、その指の白さが内心を物語っている。
「……それは、確かにその通りです。
ですが、それはローランド殿が軽々しい方だからではなく……」
「もちろんです」
レギュラスは、彼の言葉を遮らずに頷いた。
「僕も、彼を軽んじるつもりはありません。
ただ、事実として、まだ紙一枚にもなっていないというだけです」
事実。
その言葉が、書斎の空気を冷たく締めつける。
「セシール卿」
レギュラスは、椅子からわずかに前のめりになった。
灰色の瞳が、正面から当主を捉える。
「僕は、取引をしに来たつもりです」
声は穏やかだが、その芯は揺るがない。
「あなたの大切な娘を、ブラック家に迎える。
その見返りとして、魔法薬研究に必要なものは、すべてこちらが負担する。
財産も、地位も、コネクションも。
できる限りのものを、包み隠さずお見せしているつもりです」
エドモンドは、返す言葉を一瞬失った。
ここまでの条件を前に、「娘をやるのは惜しい」とすら口にできない圧迫感があった。
魔法薬研究は金がかかる。
優れた研究であっても、資金が尽きれば継続できない。
貴族であるセシール家といえども、無尽蔵に資金を注ぎ続けられるほど余裕があるわけではない。
この申し出は、セシール家にとってほとんど「救済」に近いものだった。
「エドモンド・セシール卿」
レギュラスは、相手の名をきちんと呼んだ。
「他にも、必要なものがあればおっしゃってください」
静まり返った書斎に、その声だけが澄んで響く。
「研究に関することであろうと、家のことに関することであろうと。
僕に用意できるものであれば、全てご用意して差し上げます」
それは一見、柔らかな申し出だった。
しかし、その実際の響きは、ほとんど「宣告」に近い。
圧倒的すぎる条件。
断る理由を、一枚一枚はがされていく感覚。
これだけのものを提示されてなお「ブラック家との縁談を断った」という事実は、セシール家にとって重い影を落とす。
魔法省内での立場、今後の研究資金の獲得、社交界での評価。
どれも、無傷では済まないだろう。
レギュラスの表情には、一片の焦りもなかった。
勝ちを確信している者の余裕が、そこにはあった。
取引の形をしていながら、これはもはや取引ではない。
「選択肢」のように提示された条件は、その実、ひとつの道にしかつながっていない。
エドモンドは、自分の喉が乾いていることに気づいた。
テーブルの端に置かれた水差しに手を伸ばしかけて、それを引っ込める。
「……ブラック殿」
慎重に言葉を選ぶ。
「娘の件は、本人の意向を確かめた上で、改めてご返答申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
レギュラスは、すぐに頷いた。
「僕は、アラン嬢の意志を無視してまで話を進めたいとは思いません。
ただし──」
ほんの一瞬、言葉を区切る。
「彼女の選択を、できる限り“こちら側”に傾ける努力は、惜しまないつもりです」
その「努力」とやらが、具体的に何を意味するのか。
エドモンドは、あえて問いたださなかった。
魔法省役員としての影響力。
ブラック家の名。
娘の名誉。
そして、ローランド・フロストという青年の立場。
それら全てを天秤にかけたとき、どちらに傾くか。
答えはあまりにも、残酷なまでに明白だった。
レギュラスは椅子から立ち上がると、きちんと一礼した。
「本日は、お忙しいところ時間をいただき、ありがとうございました、セシール卿。
ご返答は急ぎませんが──あまり遅くない方がよいだろうとは、個人的に思っています」
書斎の扉が閉まるまで、エドモンドは動けなかった。
レギュラスの黒い背中が廊下の向こうに消えていく足音だけが、妙に長く耳に残る。
机の上には、羊皮紙の束が残されていた。
魔法薬研究者としての彼の夢を、どこまでも加速させてくれるだろう約束の書類。
同時に、一人の父親としての選択を、容赦なく追い詰める書類でもあった。
圧倒的すぎる待遇に、セシール卿はただ黙って固まるしかなかった。
この申し出を、本当に断ることができるのか。
それとも、娘の人生を、ブラック家の未来に捧げる道を選ぶべきなのか。
答えを出さねばならないのは分かっている。
しかし、その答えが何であるかも、ほとんど分かってしまっている。
書斎の静寂の中で、エドモンドはゆっくりと目を閉じた。
娘の笑顔と、ローランド・フロストの誠実な瞳と、今しがた部屋を出て行った若きブラック家当主候補の灰色の瞳が、交互に浮かんでは消えていった。
魔法省の執務フロアは、午後のひとときを迎えていた。
壁に掛けられた時計の針がゆっくりと時を刻み、行き交う職員たちのローブが廊下で静かな風を起こす。
書類を抱えた若い魔法使いたちが足早に行き交い、その合間を縫うように、黒いローブの男がひとり、迷いのない足取りで歩いていた。
レギュラス・ブラック。
役員フロアでもひときわ目を引く存在でありながら、本人はそれを当然のこととして受け入れている男だった。
角を曲がった先、窓際の書類棚の前で、一人の青年が整理をしていた。
淡い色の髪に、真面目さを宿した青い瞳。
ローランド・フロスト。
研修官として、黙々と与えられた仕事をこなしながらも、周囲への気配りを欠かさない青年だ。
レギュラスは、足音をわざと抑え、すぐ背後まで近づいてから声をかけた。
「フロスト殿」
穏やかな呼びかけに、ローランドは振り返る。
目の前に現れた人物を認識した瞬間、その瞳がわずかに見開かれた。
「……ブラック様」
予期しなかった相手だった。
自分のような下級職員に、わざわざ声をかけてくるような立場の男ではない。
ローランドは慌てて書類を整え、胸の前で揃えてから一礼した。
「お声がけいただき恐れ入ります。
何か、ご用件でしょうか」
「少し、お時間をいただけますか」
レギュラスの声音は柔らかいが、拒む余地を与えない調子だった。
「この廊下では落ち着きませんからね。
会議室を借りました。すぐそこです」
指し示された先には、小会議室と書かれた扉がある。
ローランドは一瞬だけ逡巡したものの、断る理由を見つけられなかった。
「……承知しました」
中に入ると、こぢんまりとした部屋だった。
楕円形のテーブルと椅子がいくつか、壁際には簡潔な本棚。
窓からは、魔法省の中庭が見える。
「どうぞ、お掛けください」
レギュラスの促しに従い、ローランドはテーブルの向かい側に座った。
背筋が自然と伸びる。
役員と対面することに慣れているわけではないが、それでも礼儀だけは外したくなかった。
レギュラスは、椅子に腰かけると、指先でテーブルをそっと一度たたいた。
それだけで、部屋の扉にささやかな防音とプライバシー保護の呪文がかかる。
「ここなら、話が漏れる心配はありません」
彼は微笑んだ。
「安心してください、フロスト殿。
これは、あなたの勤務態度への叱責ではない」
ローランドの肩に入った緊張が、ほんの少しだけほどける。
「それなら、良かったです。
ただ、やはり少し驚いています。
ブラック様が、僕のような者に直接お声をかけられるとは……」
「あなたとは、いずれ話をしておくべきだと思っていました」
レギュラスは静かに言った。
「セシール家に関する件で」
ローランドの指先から、わずかに力が抜けた。
心臓が一瞬、その鼓動を跳ね上げる。
アランの名は出されていない。
それでも、その名を示しているのは明らかだった。
「先日」
レギュラスは、まるで業務報告でもするかのように淡々と続ける。
「僕はセシール家の当主、エドモンド・セシール卿と面会しました。
正式に、アラン・セシール嬢との婚姻を申し出るためです」
ローランドは、言葉を失った。
喉の奥に何かが貼りついて、呼吸だけが浅く早くなる。
瞬きも忘れたように、ローランドはレギュラスの顔を見つめていた。
その灰色の瞳は、冗談を言っているようには見えない。
いつもの冷静で整った表情のまま、あまりにもさらりと重大な事実を告げている。
「……アランと、ですか」
かろうじて声が出た。
自分の耳にも、酷く頼りない声に聞こえる。
「セシール家の……アラン・セシール嬢と」
「ええ」
レギュラスは頷く。
「僕は、彼女を妻に迎えるつもりです。
そのために、セシール卿に条件を提示しました」
ローランドの脳裏で、アランの姿が浮かんでは消えていく。
庭園で笑った横顔、魔法薬の瓶を抱えて真剣に話す姿、手紙の端に描かれた小さな花の落書き。
それら全てが、今この瞬間、遠く引き離されるように感じられた。
「……条件とは」
自分でも、よくこの言葉が出たと思う。
恐ろしくて聞きたくない。
しかし、聞かずにいることはもっとできなかった。
レギュラスは、少しだけ目を細めた。
相手が質問をしてきたことで、この会話を一歩進める許可を得たかのようだった。
「まず、魔法薬研究の費用を全面的にサポートします」
淡々とした口調のまま、彼は語り出す。
「セシール卿の研究室維持費、実験設備の更新、希少な材料の仕入れ。
それらにかかる費用を、ブラック家と僕個人が、できる限り負担することを約束しました」
ローランドは、アランの父の顔を思い浮かべる。
寡黙で、いつも研究のことを考えている男。
資金の苦労を、それとなく娘に漏らしていたことがあった。
「また、セシール卿の研究成果を魔法省公認の魔法薬として流通させるためのルートも、僕が整えます」
レギュラスは続ける。
「審査の簡略化、適切な部署との連携、流通先との橋渡し。
それらは、役員としての僕の立場を使えば難しいことではありません」
事務的な説明にすら聞こえるその調子が、かえって現実味を帯びさせる。
ローランドは拳を膝の上で握りしめた。
自分には、とても約束できないような事柄ばかりだ。
「財産に関しても、多少のことはしています」
レギュラスは言葉を選ぶ様子もなく、さらりと続けた。
「ブラック家が所有するロンドンのタウンハウスの一棟と、いくつかの別荘地を、セシール家名義に譲渡する予定です。
さらに、グリンゴッツの金庫からの分配金を、アラン嬢の持参金とは別枠でお渡しする。」
ローランドは、手のひらから血の気が引いていくのを感じた。
フロスト家も、それなりに名の知れた純血だ。
だが、ブラック家は格が違う。
その財産と影響力を、ここまであからさまな形で提示されては、自家の立場が霞んで見える。
「……あまりにも」
喉の奥から、ようやく出た声は掠れていた。
「ブラック様、それは……あまりにも、一方的なご負担では」
「僕にとっては、必要だと思ったことをしただけですよ」
レギュラスは、あっさりと言った。
「アラン嬢を迎える価値は、それ以上にあると考えていますから」
彼の表情には、誇張も謙遜もなかった。
ただ、事実を述べているだけの顔。
ローランドは目を閉じたい衝動に駆られた。
しかし、目を閉じればアランの姿がより鮮明に浮かんでしまうことが分かっていたので、敢えて視線をテーブルの木目に落とすにとどめる。
「フロスト殿」
レギュラスが、静かに名を呼んだ。
ローランドは顔を上げる。
「あなたが、アラン嬢と親しい関係にあることは、承知しています」
責める調子はない。
事実を確認するような声音だった。
「幼いころから共に育ち、将来を誓い合ったのでしょう?」
胸の奥を、鋭い針で刺されたような感覚が走る。
誰にも話していない言葉が、勝手に口外されたかのようだった。
「ですが、その約束はまだ“紙”になっていない」
レギュラスは淡々と続ける。
「婚約書も、正式な届け出も存在しない。
あなた方お二人と、ご家族の間での暗黙の了解にとどまっている」
ローランドは、反論できなかった。
それは、その通りだったからだ。
フロスト家の父は、タイミングを見計らっていた。
セシール家の事情、アランの年頃、魔法省内での自分の立場。
それらを整えてから、正式な婚約として形にしようとしていた。
その慎重さが、今、踏み込む隙を与えてしまったのだとしたら——。
「僕は、あなたを蔑ろにしたいわけではありません」
レギュラスの声は、妙に優しかった。
「むしろ、誠実なお方だと聞いています。
アラン嬢も、あなたのことを悪く言ったことはない」
ローランドの喉が鳴る。
それは痛みと誇らしさが混じった音だった。
「だからこそ、はっきりとお伝えしておくべきだと思いました」
レギュラスの灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。
「これは、あなたとの競争に勝っただの負けただのという次元の話ではありません」
言葉を区切り、少しだけ声を落とす。
「アラン嬢のためにも、セシール家のためにも。
そして、あなた自身のためにも。
今、最も懸命な選択をするべきだと、僕は考えています」
「……懸命な、選択」
ローランドは繰り返した。
それが何を意味するのか、問い返さなくても分かっていた。
「あなたが、このまま“何も知らなかったふり”をして、セシール家との縁談を進めようとすることもできるでしょう」
レギュラスの口調はあくまで穏やかだ。
「ですが、その場合、セシール卿は、ブラック家からの申し出を断った当主として、魔法省内で微妙な位置に置かれることになります」
淡々とした言葉が、重く積み上がっていく。
「魔法薬研究の資金は、今後も不足し続けるかもしれない。
あなたが将来、どれほど優秀な官僚になっても、ブラック家ほどの後押しをすることは難しい。
そして何より、アラン嬢は、あなたと僕との間で板挟みになるでしょう」
ローランドの拳が、膝の上で固く握り締められた。
爪が掌に食い込み、じわりと痛みが広がる。
「僕の提案は」
レギュラスは言葉を重ねる。
「あなたから見れば、非常に不愉快なものかもしれません。
あなたの立場と感情を踏みにじるものだと、そう感じるのも当然です」
そこで、一度だけ深く息を吸った。
「それでもなお、僕はこう言います。
フロスト殿。
どうか、賢明であってください」
その言葉には、決して高圧的な響きはなかった。
しかし、逃げ道をふさぐような静かな力が宿っていた。
「あなたは誠実な青年だ。
自分の大切な人を、より良い未来へ送り出すためなら、自ら一歩引くこともできる方だと、僕は信じています」
ローランドは顔を上げる。
青い瞳が、痛みと悔しさと、自分でも持て余すほどの無力感で揺れていた。
「……ブラック様」
声はかすれ、低く落ちた。
「もし、僕がここで身を引くことが、アランにとって本当に最善だと言えるでしょうか」
「少なくとも」
レギュラスは即答した。
「セシール家の未来にとっては、ほぼ間違いなく最善でしょう。
アラン嬢は、父上の研究が守られることを望んでいる。
それを、あなたもご存じですね」
ローランドは、沈黙で肯定した。
アランが父の研究をどれほど誇りに思い、支えたいと願っているかを、彼は一番よく知っている。
「僕は、あなたに“諦めろ”と言いたいわけではありません」
レギュラスは、最後に少しだけ声を柔らかくした。
「ただ、現実を見ていただきたいのです。
あなたがこれから何十年とかけて積み上げるかもしれないものを、僕は今、この場で提示できます」
それがどういう意味を持つのか、言葉にしなくても伝わる。
「アラン嬢が、どちらを選ぶのが幸せか。
セシール家にとって、どちらがより良い未来か。
そしてあなた自身にとって、どの選択が、もっとも誇り高くいられる道か」
レギュラスの言葉は、棘ではなく、静かに押し寄せる水のようだった。
拒めば拒むほど、足元からじわじわと浸食してくる。
「あなたの答えを、今ここで出せとは言いません」
彼は椅子から立ち上がる。
「ですが、近いうちに、必ず自分なりの結論を出すことになるでしょう。
そのとき、僕の言葉を思い出していただければ、それで十分です」
ローランドは、何も返せなかった。
喉が固く閉ざされ、声が出ない。
レギュラスは、彼の沈黙を責めなかった。
ただ静かに一礼し、扉へ向かう。
「フロスト殿」
去り際に、もう一度だけ名前を呼ぶ。
「あなたの誠実さが、アラン嬢の未来を守ると、僕は信じています」
扉が閉まり、小会議室にひとりきりになった瞬間、ローランドはようやく息を吐いた。
胸の奥に沈んでいく重い石を、どう扱えばいいのか分からない。
アランの笑顔と、レギュラスの灰色の瞳と、セシール家の研究室と——すべてが絡まり合い、ほどけなくなっている。
机の木目に落ちた視線は、しばらくそこから動かなかった。
魔法省の若手研修官として与えられた机は、まだどこか仮のもののように小さく、壁際に寄せられている。
周囲では、先輩官僚たちが書類をやり取りし、時おり低い声で議論を交わしていたが、彼の意識はほとんど紙面に向けられていた。
『──近いうちに、またお会いできれば嬉しく思います。
セシール家の庭も、そろそろ夏の花に入れ替わる頃でしょうか。』
そう書きつけたところで、ローランドは手を止める。
いつもと同じ結びの文句。
手紙の最後には、ほとんど必ず「近いうちに会いたい」という一文が入ってしまう。
ありきたりだろうか、と一瞬思う。
だが、他の言葉ではどうしても落ち着かなかった。
彼にとって、それがもっとも素直な願いをそのまま書き表した言葉だった。
初めてその一文を添えたのは、まだ互いに学生だった頃だ。
試験期間で忙しく、しばらく顔を合わせられない日々が続いたとき、何となく筆がそちらへ流れた。
それ以来、アランに宛てる手紙の結びには、自然と同じ願いが書かれるようになっていた。
近いうちに会いたい。
変わらない距離で、変わらないように笑っていてほしい。
それはローランドにとって、日々がどれほど変化しても揺らぎたくないひとつの基準のようなものだった。
封をし、蝋でフロスト家の紋章を押す。
昼休みの鐘が鳴るころ、ローランドはその手紙を局内のフクロウ便の窓口へ預けた。
──けれど、その日の彼は、いつも以上に落ち着かなかった。
手紙だけでは足りない。
言葉だけでは届かない何かがあるような気がして、午後の仕事をこなすあいだじゅう、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さっていた。
理由はうまく言葉にできない。
ただ、ここ最近、アランから届く返事の文面の端々に、微かな翳りを感じていた。
礼儀正しく、丁寧で、いつものアランらしい文体。
しかし、行間に滲む疲労と、言葉の選び方の慎重さが増している気がする。
「大丈夫です」と書かれるほどに、大丈夫ではないのではないかと疑ってしまうような、妙な静けさ。
日が傾き始めるころ、ローランドは決心したように立ち上がった。
「本日の分の報告は、すべて提出済みです」
上司にそう告げ、半休の許可を得ると、その足で魔法省を後にする。
向かった先は、もちろんセシール家の屋敷だった。
セシール家の門は、いつもと変わらず端然としていた。
重厚な鉄製の門扉と、蔦の絡まる石造りの塀。
門番の魔法使いに名乗ると、すぐに屋敷へ伝令のフクロウが飛んでいく。
やがて通されたのは、庭園に面したサロンだった。
大きな窓からは、手入れの行き届いた庭が見える。
薬草と観賞用の花が規則正しく並ぶ一角は、アランの父が特に気に入っている場所だと聞いていた。
ローランドは、控えめな花束をひとつ持参していた。
華美になりすぎないよう、白と淡い紫を基調とした小ぶりのもの。
花屋に選ぶのを任せることもできたが、自分で一本一本色を確かめて束ねさせた。
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
「ローランド様がお見えです、お嬢様」
使用人の声に続いて、アランが姿を現す。
淡い色のドレスに身を包み、黒髪を後ろで緩くまとめている。
翡翠の瞳が一瞬こちらを捉えたあと、すぐに視線が逸らされた。
「……ローランド」
呼びかける声は、いつもどおり穏やかで、少し控えめだった。
だが、ローランドはその中にわずかな硬さを感じ取る。
「アラン」
彼は立ち上がり、小さく会釈をした。
そして、持参した花束を差し出す。
「忙しいところ、突然すまない。
先日、こちらのお庭に合う花を見つけた気がしてね。押しつけにならなければいいのだけれど」
アランは、胸の前で両手を揃えて花を受け取った。
白と淡い紫の小さな花々が、彼女の黒髪と翡翠の瞳を優しく引き立てている。
「……とても、きれいです。ありがとうございます」
そう言いながらも、瞳は花束か、その少し下あたりに固定されたままだった。
真正面から彼の目を見ることを、どこかためらっている。
ローランドは、その不自然さを見逃さなかった。
しかし、問い詰めるような真似はしない。
彼はいつもそうだ。相手が言葉にできるまで、無理に扉を開けさせることをしない。
「最近、手紙で『疲れているようだ』と感じてしまってね」
彼は控えめな笑みを浮かべ、テーブルを挟んで向かい合うように座った。
「だから、近いうちに会いたいなどと書くだけでは足りない気がした。
……こうして顔を見て話すのが、一番だと思ったんだ」
アランの胸の内で、何かが痛んだ。
いつも手紙の最後に書かれていた「近いうちに会いたい」の一文。
優しい調子で書かれたその言葉を読むたび、胸の奥が穏やかに温かくなるのを感じていた。
それが今は、鋭い棘のように突き刺さる。
「ごめんなさい。返事が、遅れてしまったりして」
アランは、膝の上で手を組んだ。
「少し、父の研究の手伝いが立て込んでいて……」
嘘ではない。
けれど、それがすべてではないことも自分でよく分かっていた。
ローランドは、ふわりと首を振る。
「謝ることではないよ」
穏やかな声だった。
「君は、いつも誠実に返事をくれる。
少し遅れたくらいで、不安になるような関係だとは思っていないから」
その言い方が、酷く優しかった。
信頼している。
疑っていない。
君はそういう人だと、心から思っている。
そう言われているように感じられて、アランは喉がきゅっと締め付けられる思いがした。
「……ローランドは、変わりませんね」
どうにか言葉を絞り出す。
「いつも、わたしに甘いです」
「甘いかな」
ローランドは少しだけ考えるような表情をした。
「君には、厳しいことを言う必要が、あまりないからかもしれない」
彼の瞳は穏やかな青色をしている。
そこには責める色は一つもなく、ただ長年の信頼と親しみが宿っている。
アランは、その瞳を真正面から見つめられず、視線をテーブルの上に落とした。
陶器のティーカップの縁が、やけに鮮明に目に入る。
「魔法省の研修は、お忙しいのでは?」
話題を変えるように問いかける。
「わざわざ、こんなところまで……」
「近くまで来ていたから、少し足を伸ばしただけだよ」
ローランドは、いつもの調子で嘘とも本当ともつかない軽い冗談を返した。
「君の屋敷の方向に用事があるのは、都合がいいことだと思っている。
……あまり頻繁に来ては、セシール卿に迷惑かもしれないけれど」
アランの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
完全な笑顔には届かない、薄く震える微笑み。
「父は、ローランドのことを嫌がったことなどありません。
むしろ、いつも感謝しています。フロスト家との関係を大切にしていると」
「それは光栄だな」
ローランドは、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「実は、先日少しだけ……父とも話をしてね」
アランは、顔を上げかけて、途中で動きを止めた。
「……どんな、お話を?」
「まだ、何かを決めたわけではない」
ローランドは慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、フロスト家としても、セシール家との結びつきを、これから先も大切にしたいと。
そのために、僕にできることがあるなら、全てするつもりだと伝えた」
暖炉の火の前で交わした会話が、彼の脳裏に蘇る。
父は、じっと彼の話を聞き、しばらく黙ってから「時期を見て、正式な話として整えよう」とだけ答えた。
ローランドは、それ以上を急がなかった。
大切なことほど、慎重に運ぶべきだと知っているからだ。
「アラン」
彼はゆっくりと彼女の名を呼ぶ。
「無理をしているときは、ちゃんと言ってほしい。
君の家のことも、父上の研究も、魔法省の仕事も、どれも大事だろうけれど……」
そこまで言って、ひと呼吸置いた。
「君自身が、いちばん後回しになってしまうのは、見ていて少し心配になる」
アランは、胸の奥が震えるのを感じた。
レギュラスに向けて発した「婚約している方が」と震える声。
それを思えば、今向かい合っている男の言葉は、あまりにもまっすぐで、あまりにも誠実だった。
彼は自分の都合や欲望を押しつけてこない。
ただ、見守り、待ち、支えようとしてくれる。
その優しさを、昨夜、自分は裏切った。
「……大丈夫です」
それでもアランは、そう答えるしかなかった。
自分の声が、ひどく遠くに聞こえる。
「父も、母も、ローランドも。
わたしには、もったいないくらいによくしてくださいます。
それなのに……」
言いかけて、言葉が途切れた。
喉の奥につかえた感情が、どう形にしていいかわからない。
「それなのに?」
ローランドは急かすことなく、ただ問い返す。
責める色は、一切ない。
アランは、ゆっくり首を振った。
「いいえ……少し、疲れているだけです」
無難な言葉の後ろに、本当の理由を隠す。
「少し休めば、すぐに元に戻りますから」
ローランドは、しばらく彼女を見つめていた。
青い瞳の奥で、何かを量るように。
しかし最後には、小さく頷く。
「そうか」
短く、それだけを言った。
「ならば、君の言葉を信じるよ」
それが、彼のやり方だった。
信頼とは、相手の言葉を疑わないことだと、彼は本気で思っている。
「もし、近いうちに時間ができたら」
ローランドは、すこしだけ表情を和らげて言った。
「また一緒に庭を歩こう。
子どもの頃のように、薬草の名前を教えてもらいたい。
僕は、いまだに君ほど詳しくないからね」
アランの胸に、古い記憶が浮かぶ。
まだ背丈の低かった頃、庭の一角で膝をつき、並んで薬草を見て回った日のこと。
ローランドは、難しい名前を何度も聞き返しながら、それでも根気よく覚えようとしていた。
あの頃の世界は、もっと単純で、もっと明るかった気がする。
「……はい」
アランは、小さく頷いた。
「近いうちに、必ず」
そう答えながら、自分の言葉がどれほど危うい約束を含んでいるかを、痛いほど理解していた。
レギュラス・ブラックが告げた「昨夜だけで終わらせたくない」という言葉。
ローランド・フロストがいつも書き添えてくれる「近いうちに会いたい」という言葉。
二つの言葉が、胸の中で絡まり合い、ほどけなくなっていく。
ローランドは、その絡まりを知らずに、穏やかな笑みをたたえていた。
優しさと誠実さ、そのどちらも疑いようのない眼差しで、アランを見つめている。
アランは、その視線を真正面から受け止めることができなかった。
ティーカップの縁に指を添え、揺らぐ紅茶の表面だけを見つめ続ける。
今にも溢れそうな罪悪感を、どうにか飲み込むように。
セシール家の屋敷は、夕刻の静けさに包まれていた。
長い廊下の壁には、代々の当主たちの肖像画が並び、その眼差しが客人の出入りを見守っている。
重厚な扉の向こう、当主エドモンド・セシールの書斎には、魔法薬の理論書や研究ノートが隙間なく並んでいた。
そこに、黒いローブの男がひとり、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。
レギュラス・ブラック。
魔法省の若き役員であり、ブラック家の次期当主と目される男。
灰色の瞳は穏やかに笑っているが、その奥には鋭い光が宿っている。
向かいに座るエドモンド・セシールは、細身の指で椅子の肘掛けをそっとなぞっていた。
白髪に近い銀の髪、切れ長の瞳には研究者特有の観察の色がある。
魔法薬学の権威として名高い一方で、一人娘アランに対しては誰よりも甘く、慎重な男だった。
「……それで、ブラック殿」
エドモンドは、慎重に口を開いた。
「本日は、いかなるご用件で、わざわざ我が家まで?」
レギュラスは、姿勢を崩さないまま微笑を深めた。
机上には、彼が持ち込んだ封筒が数通。
どれも、通常の社交上の挨拶状とは比べ物にならない重みを感じさせる封蝋が押されている。
「単刀直入に申し上げます、セシール卿」
柔らかな声だが、言葉は淀みがない。
「僕は、アラン・セシール嬢との婚姻を望んでいます」
空気が、わずかに揺れたように感じられた。
エドモンドの指先がぴたりと止まる。
いつも落ち着いた瞳が、一瞬だけ見開かれた。
「……娘と、ですか」
ようやく絞り出した声は、かすかに掠れていた。
「ブラック殿と、アランが?」
「はい」
レギュラスは迷いなく頷いた。
「先日の夜会にてお目にかかり、その後、お近づきになる機会を得ました。
それを踏まえての申し出です」
エドモンドは、胸の内側がざわつくのを感じた。
夜会。
その言葉の中にどんな意味が含まれているかを、本能的に悟るだけの経験が彼にはある。
しかし、今ここでそれを問いただすことは、自ら娘の名誉を傷つけることにもなりかねない。
沈黙したままの当主に構わず、レギュラスはゆっくりと封筒のひとつを開いた。
「僕の申し出が、あまりに唐突であることは承知しています」
落ち着いた動作で羊皮紙を広げる。
「ですから、僕の個人的な感情だけでなく、セシール家にとっての利益も、きちんとお示しするべきだと考えました」
机の上に広げられた羊皮紙には、きれいな文字でびっしりと条件が書き込まれていた。
エドモンドは思わず身を乗り出す。
「まず、魔法薬研究に関する費用の全面的なサポートです」
レギュラスは淡々と読み上げる。
「セシール卿の研究室維持費、材料費、実験設備の増設費用。
それらをすべて、ブラック家の資産と、魔法省役員としての僕の権限の範囲で支援いたします」
エドモンドの視線が、羊皮紙を追うにつれて揺れた。
材料費だけではない。
希少な魔法生物から採取される高価な部位、国外からの輸入が必要な薬草、長期保存のための特別な保管設備。
それらに関する具体的な予算案まで記されている。
「加えて」
レギュラスは、別の一枚を指先で押さえた。
「セシール卿の研究成果を、魔法省公認の魔法薬として流通させるためのルートを、こちらで整えます。
登録申請や安全性試験、認可審査の簡略化。
それらについて、僕が責任を持って後押しいたします」
魔法省の認可。
それは、どれほど優れた魔法薬であっても、簡単には得られないものだ。
審査は長く、煩雑で、時に政治的な駆け引きさえ必要とされる。
それを「僕が責任を持って」と言い切る若者を、エドモンドは複雑な思いで見つめた。
「さらに、ブラック家の財産分与の件ですが」
レギュラスは、少しだけ口角を上げた。
「アラン嬢が僕の妻となった暁には──」
そこで、羊皮紙を指で軽く叩く。
「ブラック家が所有する不動産の一部、具体的にはロンドンのタウンハウス一棟と、別荘地二つを、セシール家の名義で譲渡します。
また、グリンゴッツに預けているブラック家の金庫から、毎年一定額の分配金を、アランの持参金とは別枠でお約束します」
エドモンドは、思わず息を飲んだ。
ロンドンのタウンハウス。
別荘地。
ブラック家の金庫からの分配金。
それらは、ただの「裕福さ」をはるかに超えたものだ。
社会的な影響力、発言権、家としての格そのものに直結する。
「……ブラック殿」
エドモンドはようやく声を絞り出した。
「あなたのご厚意は、非常にありがたい。
しかし、あまりに急なことで、こちらとしても困惑しております」
ローランド・フロストの顔が脳裏を過る。
あの誠実な青年は、時間をかけて少しずつ距離を詰め、正式な婚約の話を切り出そうとしていた。
セシール家としても、フロスト家との縁談は悪くないと考えていたはずだった。
そこへ、いきなりブラック家からの、この圧倒的な条件を携えた申し出。
「娘の意向も、きちんと確かめねばなりません」
エドモンドは続ける。
「我々親の勝手だけで決めてよい話ではない。
それに……ローランド・フロストとの関係も、全くの白紙というわけでは」
「承知しています」
レギュラスは遮らない。
むしろ、もう聞き及んでいると言わんばかりの落ち着きを見せていた。
「フロスト家の長男。
魔法省の研修官。
真面目で、誠実なお方だと伺っています」
そこまで言って、レギュラスは目を細めた。
「しかし、そのご関係がまだ“正式な書面”になっていないことも、確認済みです。
セシール家との間に、公的な婚約書は存在しない。
両家の間で文書が交わされた記録もない。
そうですね?」
エドモンドの指先に、力がこもった。
表情には出さないよう努めたが、その指の白さが内心を物語っている。
「……それは、確かにその通りです。
ですが、それはローランド殿が軽々しい方だからではなく……」
「もちろんです」
レギュラスは、彼の言葉を遮らずに頷いた。
「僕も、彼を軽んじるつもりはありません。
ただ、事実として、まだ紙一枚にもなっていないというだけです」
事実。
その言葉が、書斎の空気を冷たく締めつける。
「セシール卿」
レギュラスは、椅子からわずかに前のめりになった。
灰色の瞳が、正面から当主を捉える。
「僕は、取引をしに来たつもりです」
声は穏やかだが、その芯は揺るがない。
「あなたの大切な娘を、ブラック家に迎える。
その見返りとして、魔法薬研究に必要なものは、すべてこちらが負担する。
財産も、地位も、コネクションも。
できる限りのものを、包み隠さずお見せしているつもりです」
エドモンドは、返す言葉を一瞬失った。
ここまでの条件を前に、「娘をやるのは惜しい」とすら口にできない圧迫感があった。
魔法薬研究は金がかかる。
優れた研究であっても、資金が尽きれば継続できない。
貴族であるセシール家といえども、無尽蔵に資金を注ぎ続けられるほど余裕があるわけではない。
この申し出は、セシール家にとってほとんど「救済」に近いものだった。
「エドモンド・セシール卿」
レギュラスは、相手の名をきちんと呼んだ。
「他にも、必要なものがあればおっしゃってください」
静まり返った書斎に、その声だけが澄んで響く。
「研究に関することであろうと、家のことに関することであろうと。
僕に用意できるものであれば、全てご用意して差し上げます」
それは一見、柔らかな申し出だった。
しかし、その実際の響きは、ほとんど「宣告」に近い。
圧倒的すぎる条件。
断る理由を、一枚一枚はがされていく感覚。
これだけのものを提示されてなお「ブラック家との縁談を断った」という事実は、セシール家にとって重い影を落とす。
魔法省内での立場、今後の研究資金の獲得、社交界での評価。
どれも、無傷では済まないだろう。
レギュラスの表情には、一片の焦りもなかった。
勝ちを確信している者の余裕が、そこにはあった。
取引の形をしていながら、これはもはや取引ではない。
「選択肢」のように提示された条件は、その実、ひとつの道にしかつながっていない。
エドモンドは、自分の喉が乾いていることに気づいた。
テーブルの端に置かれた水差しに手を伸ばしかけて、それを引っ込める。
「……ブラック殿」
慎重に言葉を選ぶ。
「娘の件は、本人の意向を確かめた上で、改めてご返答申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
レギュラスは、すぐに頷いた。
「僕は、アラン嬢の意志を無視してまで話を進めたいとは思いません。
ただし──」
ほんの一瞬、言葉を区切る。
「彼女の選択を、できる限り“こちら側”に傾ける努力は、惜しまないつもりです」
その「努力」とやらが、具体的に何を意味するのか。
エドモンドは、あえて問いたださなかった。
魔法省役員としての影響力。
ブラック家の名。
娘の名誉。
そして、ローランド・フロストという青年の立場。
それら全てを天秤にかけたとき、どちらに傾くか。
答えはあまりにも、残酷なまでに明白だった。
レギュラスは椅子から立ち上がると、きちんと一礼した。
「本日は、お忙しいところ時間をいただき、ありがとうございました、セシール卿。
ご返答は急ぎませんが──あまり遅くない方がよいだろうとは、個人的に思っています」
書斎の扉が閉まるまで、エドモンドは動けなかった。
レギュラスの黒い背中が廊下の向こうに消えていく足音だけが、妙に長く耳に残る。
机の上には、羊皮紙の束が残されていた。
魔法薬研究者としての彼の夢を、どこまでも加速させてくれるだろう約束の書類。
同時に、一人の父親としての選択を、容赦なく追い詰める書類でもあった。
圧倒的すぎる待遇に、セシール卿はただ黙って固まるしかなかった。
この申し出を、本当に断ることができるのか。
それとも、娘の人生を、ブラック家の未来に捧げる道を選ぶべきなのか。
答えを出さねばならないのは分かっている。
しかし、その答えが何であるかも、ほとんど分かってしまっている。
書斎の静寂の中で、エドモンドはゆっくりと目を閉じた。
娘の笑顔と、ローランド・フロストの誠実な瞳と、今しがた部屋を出て行った若きブラック家当主候補の灰色の瞳が、交互に浮かんでは消えていった。
魔法省の執務フロアは、午後のひとときを迎えていた。
壁に掛けられた時計の針がゆっくりと時を刻み、行き交う職員たちのローブが廊下で静かな風を起こす。
書類を抱えた若い魔法使いたちが足早に行き交い、その合間を縫うように、黒いローブの男がひとり、迷いのない足取りで歩いていた。
レギュラス・ブラック。
役員フロアでもひときわ目を引く存在でありながら、本人はそれを当然のこととして受け入れている男だった。
角を曲がった先、窓際の書類棚の前で、一人の青年が整理をしていた。
淡い色の髪に、真面目さを宿した青い瞳。
ローランド・フロスト。
研修官として、黙々と与えられた仕事をこなしながらも、周囲への気配りを欠かさない青年だ。
レギュラスは、足音をわざと抑え、すぐ背後まで近づいてから声をかけた。
「フロスト殿」
穏やかな呼びかけに、ローランドは振り返る。
目の前に現れた人物を認識した瞬間、その瞳がわずかに見開かれた。
「……ブラック様」
予期しなかった相手だった。
自分のような下級職員に、わざわざ声をかけてくるような立場の男ではない。
ローランドは慌てて書類を整え、胸の前で揃えてから一礼した。
「お声がけいただき恐れ入ります。
何か、ご用件でしょうか」
「少し、お時間をいただけますか」
レギュラスの声音は柔らかいが、拒む余地を与えない調子だった。
「この廊下では落ち着きませんからね。
会議室を借りました。すぐそこです」
指し示された先には、小会議室と書かれた扉がある。
ローランドは一瞬だけ逡巡したものの、断る理由を見つけられなかった。
「……承知しました」
中に入ると、こぢんまりとした部屋だった。
楕円形のテーブルと椅子がいくつか、壁際には簡潔な本棚。
窓からは、魔法省の中庭が見える。
「どうぞ、お掛けください」
レギュラスの促しに従い、ローランドはテーブルの向かい側に座った。
背筋が自然と伸びる。
役員と対面することに慣れているわけではないが、それでも礼儀だけは外したくなかった。
レギュラスは、椅子に腰かけると、指先でテーブルをそっと一度たたいた。
それだけで、部屋の扉にささやかな防音とプライバシー保護の呪文がかかる。
「ここなら、話が漏れる心配はありません」
彼は微笑んだ。
「安心してください、フロスト殿。
これは、あなたの勤務態度への叱責ではない」
ローランドの肩に入った緊張が、ほんの少しだけほどける。
「それなら、良かったです。
ただ、やはり少し驚いています。
ブラック様が、僕のような者に直接お声をかけられるとは……」
「あなたとは、いずれ話をしておくべきだと思っていました」
レギュラスは静かに言った。
「セシール家に関する件で」
ローランドの指先から、わずかに力が抜けた。
心臓が一瞬、その鼓動を跳ね上げる。
アランの名は出されていない。
それでも、その名を示しているのは明らかだった。
「先日」
レギュラスは、まるで業務報告でもするかのように淡々と続ける。
「僕はセシール家の当主、エドモンド・セシール卿と面会しました。
正式に、アラン・セシール嬢との婚姻を申し出るためです」
ローランドは、言葉を失った。
喉の奥に何かが貼りついて、呼吸だけが浅く早くなる。
瞬きも忘れたように、ローランドはレギュラスの顔を見つめていた。
その灰色の瞳は、冗談を言っているようには見えない。
いつもの冷静で整った表情のまま、あまりにもさらりと重大な事実を告げている。
「……アランと、ですか」
かろうじて声が出た。
自分の耳にも、酷く頼りない声に聞こえる。
「セシール家の……アラン・セシール嬢と」
「ええ」
レギュラスは頷く。
「僕は、彼女を妻に迎えるつもりです。
そのために、セシール卿に条件を提示しました」
ローランドの脳裏で、アランの姿が浮かんでは消えていく。
庭園で笑った横顔、魔法薬の瓶を抱えて真剣に話す姿、手紙の端に描かれた小さな花の落書き。
それら全てが、今この瞬間、遠く引き離されるように感じられた。
「……条件とは」
自分でも、よくこの言葉が出たと思う。
恐ろしくて聞きたくない。
しかし、聞かずにいることはもっとできなかった。
レギュラスは、少しだけ目を細めた。
相手が質問をしてきたことで、この会話を一歩進める許可を得たかのようだった。
「まず、魔法薬研究の費用を全面的にサポートします」
淡々とした口調のまま、彼は語り出す。
「セシール卿の研究室維持費、実験設備の更新、希少な材料の仕入れ。
それらにかかる費用を、ブラック家と僕個人が、できる限り負担することを約束しました」
ローランドは、アランの父の顔を思い浮かべる。
寡黙で、いつも研究のことを考えている男。
資金の苦労を、それとなく娘に漏らしていたことがあった。
「また、セシール卿の研究成果を魔法省公認の魔法薬として流通させるためのルートも、僕が整えます」
レギュラスは続ける。
「審査の簡略化、適切な部署との連携、流通先との橋渡し。
それらは、役員としての僕の立場を使えば難しいことではありません」
事務的な説明にすら聞こえるその調子が、かえって現実味を帯びさせる。
ローランドは拳を膝の上で握りしめた。
自分には、とても約束できないような事柄ばかりだ。
「財産に関しても、多少のことはしています」
レギュラスは言葉を選ぶ様子もなく、さらりと続けた。
「ブラック家が所有するロンドンのタウンハウスの一棟と、いくつかの別荘地を、セシール家名義に譲渡する予定です。
さらに、グリンゴッツの金庫からの分配金を、アラン嬢の持参金とは別枠でお渡しする。」
ローランドは、手のひらから血の気が引いていくのを感じた。
フロスト家も、それなりに名の知れた純血だ。
だが、ブラック家は格が違う。
その財産と影響力を、ここまであからさまな形で提示されては、自家の立場が霞んで見える。
「……あまりにも」
喉の奥から、ようやく出た声は掠れていた。
「ブラック様、それは……あまりにも、一方的なご負担では」
「僕にとっては、必要だと思ったことをしただけですよ」
レギュラスは、あっさりと言った。
「アラン嬢を迎える価値は、それ以上にあると考えていますから」
彼の表情には、誇張も謙遜もなかった。
ただ、事実を述べているだけの顔。
ローランドは目を閉じたい衝動に駆られた。
しかし、目を閉じればアランの姿がより鮮明に浮かんでしまうことが分かっていたので、敢えて視線をテーブルの木目に落とすにとどめる。
「フロスト殿」
レギュラスが、静かに名を呼んだ。
ローランドは顔を上げる。
「あなたが、アラン嬢と親しい関係にあることは、承知しています」
責める調子はない。
事実を確認するような声音だった。
「幼いころから共に育ち、将来を誓い合ったのでしょう?」
胸の奥を、鋭い針で刺されたような感覚が走る。
誰にも話していない言葉が、勝手に口外されたかのようだった。
「ですが、その約束はまだ“紙”になっていない」
レギュラスは淡々と続ける。
「婚約書も、正式な届け出も存在しない。
あなた方お二人と、ご家族の間での暗黙の了解にとどまっている」
ローランドは、反論できなかった。
それは、その通りだったからだ。
フロスト家の父は、タイミングを見計らっていた。
セシール家の事情、アランの年頃、魔法省内での自分の立場。
それらを整えてから、正式な婚約として形にしようとしていた。
その慎重さが、今、踏み込む隙を与えてしまったのだとしたら——。
「僕は、あなたを蔑ろにしたいわけではありません」
レギュラスの声は、妙に優しかった。
「むしろ、誠実なお方だと聞いています。
アラン嬢も、あなたのことを悪く言ったことはない」
ローランドの喉が鳴る。
それは痛みと誇らしさが混じった音だった。
「だからこそ、はっきりとお伝えしておくべきだと思いました」
レギュラスの灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。
「これは、あなたとの競争に勝っただの負けただのという次元の話ではありません」
言葉を区切り、少しだけ声を落とす。
「アラン嬢のためにも、セシール家のためにも。
そして、あなた自身のためにも。
今、最も懸命な選択をするべきだと、僕は考えています」
「……懸命な、選択」
ローランドは繰り返した。
それが何を意味するのか、問い返さなくても分かっていた。
「あなたが、このまま“何も知らなかったふり”をして、セシール家との縁談を進めようとすることもできるでしょう」
レギュラスの口調はあくまで穏やかだ。
「ですが、その場合、セシール卿は、ブラック家からの申し出を断った当主として、魔法省内で微妙な位置に置かれることになります」
淡々とした言葉が、重く積み上がっていく。
「魔法薬研究の資金は、今後も不足し続けるかもしれない。
あなたが将来、どれほど優秀な官僚になっても、ブラック家ほどの後押しをすることは難しい。
そして何より、アラン嬢は、あなたと僕との間で板挟みになるでしょう」
ローランドの拳が、膝の上で固く握り締められた。
爪が掌に食い込み、じわりと痛みが広がる。
「僕の提案は」
レギュラスは言葉を重ねる。
「あなたから見れば、非常に不愉快なものかもしれません。
あなたの立場と感情を踏みにじるものだと、そう感じるのも当然です」
そこで、一度だけ深く息を吸った。
「それでもなお、僕はこう言います。
フロスト殿。
どうか、賢明であってください」
その言葉には、決して高圧的な響きはなかった。
しかし、逃げ道をふさぐような静かな力が宿っていた。
「あなたは誠実な青年だ。
自分の大切な人を、より良い未来へ送り出すためなら、自ら一歩引くこともできる方だと、僕は信じています」
ローランドは顔を上げる。
青い瞳が、痛みと悔しさと、自分でも持て余すほどの無力感で揺れていた。
「……ブラック様」
声はかすれ、低く落ちた。
「もし、僕がここで身を引くことが、アランにとって本当に最善だと言えるでしょうか」
「少なくとも」
レギュラスは即答した。
「セシール家の未来にとっては、ほぼ間違いなく最善でしょう。
アラン嬢は、父上の研究が守られることを望んでいる。
それを、あなたもご存じですね」
ローランドは、沈黙で肯定した。
アランが父の研究をどれほど誇りに思い、支えたいと願っているかを、彼は一番よく知っている。
「僕は、あなたに“諦めろ”と言いたいわけではありません」
レギュラスは、最後に少しだけ声を柔らかくした。
「ただ、現実を見ていただきたいのです。
あなたがこれから何十年とかけて積み上げるかもしれないものを、僕は今、この場で提示できます」
それがどういう意味を持つのか、言葉にしなくても伝わる。
「アラン嬢が、どちらを選ぶのが幸せか。
セシール家にとって、どちらがより良い未来か。
そしてあなた自身にとって、どの選択が、もっとも誇り高くいられる道か」
レギュラスの言葉は、棘ではなく、静かに押し寄せる水のようだった。
拒めば拒むほど、足元からじわじわと浸食してくる。
「あなたの答えを、今ここで出せとは言いません」
彼は椅子から立ち上がる。
「ですが、近いうちに、必ず自分なりの結論を出すことになるでしょう。
そのとき、僕の言葉を思い出していただければ、それで十分です」
ローランドは、何も返せなかった。
喉が固く閉ざされ、声が出ない。
レギュラスは、彼の沈黙を責めなかった。
ただ静かに一礼し、扉へ向かう。
「フロスト殿」
去り際に、もう一度だけ名前を呼ぶ。
「あなたの誠実さが、アラン嬢の未来を守ると、僕は信じています」
扉が閉まり、小会議室にひとりきりになった瞬間、ローランドはようやく息を吐いた。
胸の奥に沈んでいく重い石を、どう扱えばいいのか分からない。
アランの笑顔と、レギュラスの灰色の瞳と、セシール家の研究室と——すべてが絡まり合い、ほどけなくなっている。
机の木目に落ちた視線は、しばらくそこから動かなかった。
