2章
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蝋燭はもう、何本目かわからない。
芯が短くなるたび、炎は一度だけ大きく揺れて、また薄い光に戻った。寝室の空気は熱を含み、甘い香と乾いた木の匂いと、どこか鉄じみた気配が混ざり合う。窓の外は夜のまま、時間だけが進み、床に落ちた影だけが微かに形を変えていく。
アランは跪いたまま、肩で息をしていた。
髪が頬に貼りつき、指先は冷えているのに、背中だけが熱い。胸の奥が擦り切れて、言葉を吐くたびに、何かが削られていく感覚があった。守り通したかったもの――禁断の時間の輪郭は、口にした瞬間から粗末な現実へ変わってしまう。自分の中で大切に包んでいたものほど、言葉に晒されると簡単に汚れていく。
その屈辱を、レギュラスは見逃さなかった。
椅子に腰かけたまま、指でグラスの縁をなぞり、淡い微笑みを浮かべている。怒鳴りも、荒い息も、床を鳴らす靴音もない。苛烈さは、丁寧さの中に沈められている。だからこそ逃げ場がない。
この男は“裁き”を、礼節の形で行う。
「……では、続きを」
声は柔らかい。
優しい、という錯覚すら混ぜられる。――けれど、その先に刃がある。
アランは唇を噛んだ。父を呼ぶ、という言葉が頭の隅に刺さったまま抜けない。
父を守るには、答えるしかない。
それがわかってしまった瞬間から、レギュラスの問いは変質した。手綱を握り直した獣が、獲物の急所を確かめるみたいに、より深く、より確実に、痛むところへ指を差し込んでくる。
「あなたが“先に”触れたと言いましたね」
既に答えたことを、もう一度言わせる。
確認ではなく、刻印だ。
アランの喉が鳴る。頷く以外の動作が許されない気がした。
「はい……」
「なぜ?」
「……っ」
理由を言葉にすることが、いちばんつらい。
どんな言い訳を並べても、最終的に“自分が望んだ”という形に落ちるのが見えている。落ちた瞬間、誇りは砕ける。
レギュラスは焦らせない。急かさない。
それが残酷だった。逃げの呼吸を許さず、沈黙を“準備”に変えてしまう。
「“わからない”は、先ほどもう使いましたよね。……今は違うはずです。言えるはずだ」
言える――ではない。言わせる。
丁寧な言い方で、逃げ道を塞ぐ。
アランは視線を落としたまま、唇を震わせた。
「……会えなくなると思って……」
声が弱い。自分の声が、ひどく他人事に聞こえる。
レギュラスは小さく頷いた。まるで、答え合わせが済んだように。
「会えなくなる。だから、触れた」
静かな反芻。
その反芻が、アランを床に縫いつける釘になる。
「……可愛い発想ですね。必死で」
“可愛い”という言葉が、嘲りとして落ちる。
アランの睫毛の先から涙が一粒落ちた。床板に当たる音が、妙に大きく聞こえた。
「次」
レギュラスは呼吸ひとつ分も与えずに続ける。
「その男は、あなたに何と言ったんです? ――名前で呼んだのは、いつから?」
アランの肩が跳ねた。
名前で呼ぶ。呼ばれる。あの言葉だけは、本当は守りたかった。礼節の壁の内側で、二人だけが知る温度として残したかった。
けれど、父を守るための交換条件は、もう始まっている。
守りたかったものほど、差し出さなければならない。
「……部屋に……連れていかれた時に……」
「ふうん」
レギュラスは感心したように息を吐いた。
その息遣いすら、裁判官の調書に書き込まれる“音”みたいだった。
「“ アラン”」
口の中で転がすように言って、微笑む。
「――どうでした? 久しぶりに、他人の口からその名を聞いて。胸が熱くなりました?」
問いは柔らかい。けれど、内容は骨を砕きに来る。
アランは首を振ろうとして、止めた。
嘘は通じない。嘘をつけば、次は父が呼ばれる。
嘘をつかなくても、地獄は続く。それでも――父を守れるなら。
「……なりました……」
やっと出た小さな肯定に、レギュラスの目が細くなる。
「正直でよろしい」
褒め言葉の形をした、さらなる拘束。
「では、“熱くなった”あなたは、何を言いました?」
アランの指先が震えた。
口にした言葉――それは、行為そのものよりも、心の奥を晒す。
「……やめて……」
絞り出すように言った瞬間、レギュラスの笑みが薄くなる。愉しげな色が、むしろ濃くなる。
「やめないで、じゃなくて?」
言い直しを促す。
答えの形を、こちらの口で整えさせる。
正解を言わせて、それを踏み潰すために。
アランは喉を押さえた。息が苦しい。
なのに、言葉だけは止まらない。止められない。
「……やめないで……って……」
声が、泣き声に崩れた。
その崩れを、レギュラスは慈しむように眺める。残酷なほど、静かに。
「そう。やめないでね」
繰り返すだけで、アランの体が縮こまる。
繰り返された言葉は、もう“二人の秘密”ではない。ここでは“供述”だ。冷たい光の下で、第三者に陳列される。
「次。――写真」
レギュラスは視線を横へ流し、寝台の上に置かれた薄い束へ目を向けた。
紙の角が揃っていない。無造作に重ねられたそれが、ひどく不気味に見える。
「あなたは、どんな顔で笑っていました?」
アランの胃がきゅっと縮む。
笑い方を問うのは、身体ではなく、幸福を裁くためだとわかる。
幸福そのものが罪だと、認めさせるための問い。
「……普通に……」
「普通、とは?」
レギュラスが首を傾げる。
それだけで、答えは“足りない”と突きつけられる。
「……口を……大きく開けて……」
言うほどに、自分の中の何かが壊れていく。
笑ったという事実が、涙の中で汚れていく。
「へえ。そんなふうに笑うんですね」
レギュラスは、まるで初めて知ったかのように柔らかく言う。
その柔らかさが、アランの胸を裂いた。
“あなたの笑いを知らない”という刃を、わざと撫でるように当てる。
「――あなたは、こちらではそんな顔をあまり見せない」
淡々とした指摘が、血のない針になる。
アランは首を垂れたまま、泣くことさえ許されない気がした。
「次」
レギュラスは立ち上がった。足音は静かだ。
近づく気配だけで、アランの背中が硬くなる。
「その男に、触れられた時。あなたは」
一拍、わざと置く。
言葉の続きを、アラン自身の想像で先に苦しませる。
「……この寝台を、思い出しました?」
アランの呼吸が止まった。
問いは、行為の描写ではない。もっと残酷なところ――“比較”を強要する。
否定しても、肯定しても、地獄。
答えないなら、父が呼ばれる。
アランは涙をこぼしながら、ゆっくり頷いた。
「……少し……」
「少し」
レギュラスは、その曖昧さを許さない。
指先がアランの顎を持ち上げ、顔を上げさせる。翡翠の瞳が潤み、焦点が揺れている。
「“少し”で済ませるのは、あなたの癖です。……どれくらい?」
アランの視界に、レギュラスの整った口元が映る。
その口元が、裁きを言葉に変えて吐く。
「……何度も……です……」
声が、掠れた。
“何度も”という語は、誇りの破片みたいに口から落ちる。
同時に、父を守るための代償が、自分の内側を空洞にしていく感覚があった。
レギュラスは満足げに息を吐いた。
けれど、それは終わりの合図ではない。むしろ、ここからだと言っている。
「よろしい」
彼はアランの頬に、軽く指先を滑らせた。涙を拭う仕草は優しい。
優しいまま、縛る。
「あなたは、もう答えられる」
その言葉が、宣告だった。
“答えられる”と認めた瞬間、沈黙という盾は使えなくなる。今後、答えられないふりをするたびに、そのふり自体が嘘になる。
「では、最後に」
レギュラスはゆっくりとしゃがみ、アランと目線を揃えた。
距離が近い。香が濃い。呼吸が絡む。
「あなたが、父親を守りたいなら」
低く、甘い声で条件を提示する。
救いに見える形のまま、首輪を締める。
「――あなたの口で、言ってください。誰を愛しているのか」
アランの目が大きく揺れた。
それだけは、言えない。
言えば、すべてが終わる。終わるというのは、楽になるという意味ではない。戻れなくなる。心の中で守ってきた“名前の場所”が、完全に焼け落ちる。
「……レギュラス……」
呼びかける声が、子どものように弱くなる。
レギュラスは微笑んだ。柔らかく、そして逃げ道のない微笑み。
「――答えないなら、セシール卿を呼びます」
一言で、世界が暗転する。
父が来る。研究が汚れる。アルタイルにまで届く。
それだけは、だめだ。
アランの肩が小さく震え、喉がひくついた。
涙が止まらない。けれど声は――出る。この物語の中で、彼女は声を持っている。だからこそ、言わされる。
誇りはもう、守るための形を失っていた。
言葉にした瞬間から壊れると知っていながら、言葉にするしか守れないものがある。
アランは、ひどくゆっくりと、唇を開いた。
「……わたしは……」
声が途切れ、息が漏れる。
レギュラスの瞳が、その途切れを逃さず捉える。待っている。逃がさない。
「……わたしは……あなたの妻です……」
精一杯の抵抗。
愛の名を避け、事実に逃げる。
けれどレギュラスは、そこで笑わなかった。むしろ静かに眉を寄せる。その表情が、優しさではなく、苛立ちの予告になる。
「……それは答えではない」
声に棘が混じる。丁寧さは崩れないまま、温度だけが下がる。
「“妻”は肩書きです。――感情を聞いている」
アランの息が詰まった。
逃げ道を作るほど、問いは鋭くなる。
父を守るために答え始めた瞬間から、レギュラスは最も痛い場所へ、正確に踏み込む権利を得たのだ。
「さあ、アラン」
指先が、顎を支える。
逃げられない視線の檻の中で、彼女の誇りは、最後の形を保って震えている。
「――言ってください。あなたの口で。はっきりと」
そしてレギュラスは、囁くように追い打ちをかけた。
「答えたら、セシール卿は呼びません。……あなたが守りたいものは、守ってあげます」
救いの形で差し出される取引ほど、残酷なものはない。
アランの瞳から、また涙が落ちた。
その涙さえ、レギュラスにとっては“答えに近づく音”でしかない。
静かな寝室に、蝋燭の芯が小さく爆ぜる音がした。
その音にさえ、裁きの始まりの合図が混ざっているように思えた。
蝋燭の炎が、ふいに細くなる。
芯の黒い影が揺れて、寝室の壁に濃い線を引いた。夜は静かで、静かすぎて、布の擦れる音すらも耳に残る。
アランは跪いたまま、胸のあたりを押さえていた。息が浅い。泣いているのに、泣き声は出ない。涙は頬を伝い、顎の先で一粒ずつ落ちていく。
レギュラスはその前に立つでもなく、離れるでもなく、数歩の距離を保ったまま、彼女を見下ろしていた。視線は鋭い。けれど声は、いつも通り丁寧だった。丁寧であることが、彼にとっての“支配”の型だからだ。
「――言ってください」
柔らかい言葉に、逃げ道はない。
問いの形をしているのに、答えを要求する命令になっている。
「誰を、愛しているんです?」
“愛している”――その言葉だけが、寝室の空気を変えた。
それまでの問いは、事実確認であり、供述であり、罰だった。だがこれは違う。ここには確かに、願いのようなものが混じっている。あまりにも矛盾して、愚かで、だからこそ隠しきれないものが。
レギュラスの胸の奥に、短く痛むほどの感情があった。
この女の口から、自分の名を聞きたい。
それが正しい答えであるというだけでは足りない。正しいからではなく、感情として、心として、自分を選んでほしい。――そう願ってしまうほどに、もう手に入れているはずのものが足りない。
答えは決まっている。
彼女は妻だ。正妻だ。息子の母だ。ブラック家に迎えられ、父の研究は自分の権力で日の光を浴び、彼女の人生はこの屋敷に繋がれている。
それなのに。
アランの唇が、震えた。
視線が宙を泳ぐ。言葉を探して、見つからず、また喉で砕ける。
「……レ、……」
呼びかけが漏れる。
レギュラス――と、縋る声。
それに似た音を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに緩んだ。そうだ、それでいい。今の流れなら、彼女は“正しい答え”に辿り着く。
アランは涙をこぼしながら、必死に呼吸を整えた。
まるで“答え”を口にするための儀式のように。
言葉の形を整えようとするその必死さが、痛いほど愛らしい。自分に従うために、壊れた誇りを拾い集める姿に見えた。
「……あなたの……」
その一語に、レギュラスの指先が微かに動いた。
足元の影が揺れた。
心が、わずかに前のめりになるのがわかった。――この瞬間だけは、勝利の余韻とは違う。確かめたい、という渇きに近い。
けれど。
「……それを、“正解”として差し出すのはやめてください」
自分で、自分の期待を踏み潰すように言った。
声は穏やかで、柔らかくて、まるで諭すようだ。
だが実際は、焦りの裏返しだった。正解で満たされたくない。正解で誤魔化されたくない。
欲しいのは、折れた言葉ではなく、折れる前の心だ。
「感情を言いなさい。……あなたの本当のところを」
言いながら、口の内側が乾く。
この先に何が来るか、わかってしまっている自分がいる。
わかっているのに、止められない。止めたら、負けだ。止めたら、“欲しさ”を認めることになる。
だから、言わせる。自分の手で。
アランは、息を吸った。
吸って、吐いて、また吸って。
泣きながら、それでも答えようとする。父を守りたいのか、アルタイルを守りたいのか、あるいは――ただこの地獄を終わらせたいのか。どれも本当で、どれも彼女を動かしている。
そして、震える声で。
「……ローランド……フロスト……」
名前が落ちた。
床に落ちた一滴の涙のように、軽く、確かに、取り返しのつかない重みで。
その瞬間、レギュラスの中で何かが静かに裂けた。
怒りではない。叫びでもない。
もっと深いところで、音もなく貫かれる感覚。刃が臓腑を突き抜けていくような、冷たい痛み。
今まで握っていたはずの手綱が、指の間から滑り落ちる。
主導権を握り、追い詰め、答えを引き出した自分が――その答えひとつで、見事に“敗北”を刻まれた気がした。
まるで、この女は最後の最後で、わざと正解を外してこちらの喉元に噛みついたみたいに。
いや、違う。
わざとではない。だからこそ残酷だ。
この女の中で、それが“本当”だったというだけだ。
レギュラスは、瞬きを一度した。
呼吸が止まっていたことに、その時初めて気づく。
肺に空気が入ると、胸の内側が痛んだ。あまりにも不快で、あまりにも生々しい。
アランはまだ跪いている。泣いている。
自分の言葉で地雷を踏み抜いたことに気づいているのか、いないのか。
ただ、怯えた瞳でこちらを見上げる。その翡翠の瞳が、今は自分を映しているのに――その奥にいるのは、別の男の名だ。
レギュラスの口元が、微かに笑みの形を作りかけて、止まった。
笑うべきだ。笑って、踏み潰して、嘲って、勝利の形に戻すべきだ。
いつもならそうした。そうすることが自分のやり方だった。
けれど、その作法が、今夜はどこにも繋がらない。
怒りの熱でさえ、体の内側で迷子になる。
残るのは、冷えていく絶望だけだった。
「……そうですか」
やっと出た声は、驚くほど穏やかだった。
穏やかすぎて、恐ろしい。
怒鳴らない。物を投げない。頬を叩かない。
ただ、静かに言葉を置く。
それが、壊れた証拠だった。
レギュラスはゆっくりと膝を折り、アランの前にしゃがむ。
距離が近い。彼女の涙の匂いがする。肌の温度が伝わる。
その近さが、いっそう残酷だった。いま自分は、この女に触れられる。抱ける。組み敷ける。
それなのに、胸の奥の一点が、どうしても満たされない。
「……今の一言で」
囁くように続ける。
声は柔らかい。けれど、底に沈むものは暗い。
「あなたは、自分で自分の喉を切ったようなものだって、わかっています?」
アランの肩が小さく震える。
言葉の意味が、遅れて彼女に届いていく。
レギュラスは、彼女の顎に指先を添えた。痛くはない。優しい力だ。
優しいまま、逃がさない。
「感心しますよ」
皮肉が、静かに滑り落ちる。
「ここまで追い詰められて、それでもなお、こちらを刺す言葉を選べるんですから」
自分の声が、他人のものみたいに聞こえる。
冷静に裁いているのに、内側は崩れている。
崩れたまま形だけを保つ――それが、いちばん危険だということを、自分は知っていた。
アランの瞳から、また涙が落ちる。
その涙が、レギュラスの指先に当たって、温かい。
温かいのに、心は凍る。
「……良いでしょう」
レギュラスは立ち上がった。
ゆっくりと、背筋を伸ばす。
その動作が、決意のようにも見えるし、ただの絶望の整理にも見える。
「あなたが望んだのは、“赦し”ではない。――そういうことですね」
アランは首を振ろうとする。
でも、その動きさえ、許されない空気がある。
レギュラスは彼女の髪に指を通し、頬にかかった一筋をそっと払った。
愛撫のような動作で。
そして、微笑んだ。
美しく、整った笑み。
社交界で鍛えられた、完璧な笑顔。
それが今夜、最も恐ろしい形で彼女に向けられる。
「……では」
声が落ちる。
その一語で、部屋の空気が沈む。
「立ち上がれなくなるくらいに、あなたを――潰します」
叫びではない。
決して荒々しくもない。
淡々とした宣言ほど、逃げ場のないものはない。
アランの瞳が見開かれる。
その怯えが、レギュラスの中の暗い衝動をさらに煽った。
同時に、胸の奥のどこかが痛む。痛むのに、止められない。
欲しかった名は、自分ではなかった。
それを知った瞬間、世界は静かに崩れた。
崩れた世界の中で、自分が選べる形はひとつしかない。――壊すこと。壊して、形を作り直すこと。
蝋燭の炎が、また揺れた。
その揺れが、まるでこれから起きることを黙って見届ける合図のように見えた。
扉が、音もなく開いた。
蝶番の軋みすら立てないように、魔法で手入れされた寝室の扉は――まるで、この部屋そのものが息を殺しているかのようだった。灯りは落とされ、蝋燭の芯だけがわずかに赤く残っている。暖炉の火も、いつの間にか弱い。石壁に貼りついた影が、呼吸のたびに揺れて、また沈む。
レギュラスはその暗がりに足を踏み入れ、まず寝台を見る。
そこにいるはずの妻の姿がない。
次に視線が落ちたのは、床だった。
寝台の縁から少し離れた絨毯の上に、アランが崩れるように横たわっている。膝を抱えることすらできず、半端に丸まった体勢のまま。髪はほどけ、頬には乾ききらない涙の筋が何本も残っていた。瞼のあたりは赤く腫れ、唇は噛みしめた痕が淡く色づいている。
泣き疲れて、眠ってしまったのだろう。
眠って――しまった。
その事実が、胸の奥に黒いものを生む。
自分だけが、世界でいちばん苦しいのだと主張するような顔で。
美しく涙を貼り付けたまま、眠りに落ちている。
許せなかった。
この部屋で、あれだけの言葉を浴びせられて、あれだけの時間を跪いて、それでも最後は“眠れる”ということが。
眠ってしまえば、ひとまず世界が途切れる。苦しみが一度だけ途切れる。――そんな逃げ道を、勝手に手にしているように見えた。
それが無性に腹が立った。
レギュラスは何も言わず、床の妻のそばまで歩いた。足音は柔らかい絨毯に吸われて消える。消えるからこそ、余計に残酷だった。
影がアランの頬の涙跡をなぞり、翡翠の瞳を覆う睫毛の影を濃くする。
蹴った。
躊躇のない動作だった。怒りが足先に移っただけの、短く乱暴な一撃。
柔らかな腹ではない。肋でもない。ただ、足先が当たる場所を選んだはずなのに、アランの体は驚くほど脆く跳ねた。寝息が途切れ、息が引っかかる。
「……っ」
掠れた声が漏れ、アランは飛び起きた。
眠りの底から引きずり上げられた瞳が、焦点を結ぶまでに一拍かかる。涙で濡れた頬が光る。痛みと恐怖と混乱が、遅れて押し寄せてくるのが顔に出る。
床の冷たさと、絨毯の毛足の感触。自分がどこにいて、なぜここに寝ていたのか。そこに立つ男が誰なのか。
思い出は、ゆっくりと首を締める鎖みたいに戻ってくる。
アランの喉が、もう一度小さく鳴った。痛みに息を吸い、言葉にならない声が唇の奥で崩れる。
レギュラスは、上から見下ろしたまま微笑んだ。
社交界で磨いた、薄い笑み。美しく整っているのに、温度がない。
「よく寝られますね」
声は柔らかい。柔らかいからこそ、刺さる。
「欲に忠実なあなたらしい」
アランの瞳が揺れた。
その一言が意味するものを理解して、顔色が白くなる。否定したいのに、否定の言葉を作る余力すらない。胸の奥から込み上げるものがあって、喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
「……ちが、……」
やっと絞り出した声は、頼りなく震えた。
違う、と言いたい。眠りたかったわけではない、と言いたい。逃げたかったのではない、と言いたい。
だが、そんな説明はこの男には届かない。届かせてもらえない。
レギュラスは、しゃがみ込まない。距離を詰めるのに、あえて屈まない。
床にいる妻と、立ったままの夫。
その構図が、今夜のすべてを象徴していた。
「違う? では、何なんでしょう」
問いの形をした追い込みが、すぐに続く。
「自分は泣いた。自分は傷ついた。――だから許される。だから眠れる。そういうことですか?」
語尾は丁寧だ。けれど言葉の芯が硬い。
アランの背中が、見えない棘に触れたようにこわばる。
「……ごめんなさい……」
反射的にそう言ってしまう。
それしか言えない。言ってしまえば、少しでも終わるかもしれないという、弱い祈りが口に出る。
でも、この男は“ごめんなさい”で満足する男ではない。
「謝罪の便利さに慣れましたね」
レギュラスは目を細めた。
薄い笑みが、さらに薄くなる。
「どれほど都合がいいか、身をもって学んだでしょう。言えば許されると思っている。言えば終わると思っている」
アランは首を振ろうとして、止まる。
振ったところで、何が変わるのか。
否定すれば、また問いが来る。肯定しても、また問いが来る。
逃げ場がないことだけが、はっきりしている。
レギュラスの足先が、絨毯の縁をなぞる。
小さな動きなのに、アランの視線がそこに吸い寄せられる。蹴られた痛みの記憶が、まだ皮膚の下に熱を残していた。
「床が好きなんですか?」
ふっと、あまりにも軽い調子で言う。
軽さが、残酷だった。
「寝台に上げてもらえない方が、あなたの趣味に合う? それとも――」
言葉が一瞬だけ止まる。
止まった間に、アランの心臓が縮む。次に何が来るか分かるからだ。
「どこかの部屋では、寝台の上で笑っていましたよね」
アランの瞳が、ぱっと見開かれた。
全身の血が引く。
寒気が背骨を伝って走る。
レギュラスは、ここで声を荒げない。
怒鳴りつけない。机を叩かない。
その代わり、丁寧に、静かに、確実な言葉で心臓を刺す。
「写真が、証拠だと言ったら。あなたはまた、“分からない”で通しますか?」
アランの唇が震える。
言葉が出ない。出せない。出した瞬間、もっと深いところまで切り込まれると分かっている。
「……やめて……ください……」
ようやく出た懇願は、細く、情けないほど弱い。
それが、レギュラスの癇に障る。
「やめてほしい?」
柔らかい反復。
ただし、それは同情ではない。確認でもない。
“条件”を提示する前の前触れだ。
「では、どうすればやめましょうか」
アランの喉が鳴る。
答えられない。
答えた瞬間に、“何を差し出すか”を決めさせられる。
「あなたはいつもそうですね」
レギュラスは息を吐いた。短い、乾いた吐息。
「言えない。答えられない。沈黙する。――それで、いつか相手が折れるとでも思っている」
折れるのは自分ではない、と。
その言外の傲慢さが、アランの胸をさらに締め付ける。
「……そんな、……つもりじゃ……」
「つもりじゃない、で済むと?」
レギュラスの声が、僅かに低くなる。
刃が研ぎ澄まされる音がしないのに、確かに鋭くなる。
「あなたは、自分の“つもり”で人を殺せるんですか?」
アランの目に、また涙が浮かぶ。
泣きたくない。泣けば、余計に怒らせる。けれど、泣かずにいられない。
その弱さが、床の冷たさよりも彼女を冷やした。
レギュラスは、アランの前に少しだけ身を屈めた。
覗き込む距離。息が触れそうなほど近い距離。
それでも触れない。触れてやらない。
触れないことが、支配になると知っている。
「……眠っていた顔、綺麗でしたよ」
囁きが、柔らかく落ちる。
褒め言葉の形をしているのに、呪いみたいだった。
「泣いて、疲れて、倒れて。そうして“可哀想な自分”で終われる。あなたはそれが好きなんでしょう」
アランの瞳が濡れたまま、必死に首を振る。
違う、と言いたい。そんな風に思っていない、と言いたい。
でも声が追いつかない。喉が、胸が、痛い。
レギュラスは微笑んだまま、最後に言葉を落とす。
「可哀想なあなたに、可哀想なまま眠る権利があると思っているなら」
一拍置く。
その間に、部屋の静けさがさらに深くなる。蝋燭の芯がぱちりと鳴った。
「――今夜は、その幻想を剥がします」
穏やかな声だった。
それが、いちばん恐ろしかった。
アランは床に座ったまま、逃げようともしない。逃げる気力がない。
ただ、濡れた頬を震わせながら、目の前の男を見上げる。
その翡翠の瞳に映った自分の姿を見て、レギュラスはわずかに満足した。
勝利ではない。
むしろ、喉の奥に残る苦いものを、無理やり飲み下すための儀式みたいな満足だ。
「立ってください、アラン」
丁寧な命令が、静かに突き刺さる。
床で眠ることも、床で泣くことも、もう許さないと言外に告げながら。
「――眠るなら、せめて。“誰の部屋で、誰の妻として眠るのか”くらいは、きちんと自覚してもらわないと」
その夜のことを、あとから思い返すと――情けなさだけが、骨の奥に残った。
寝室の灯りは落とされ、暖炉の火だけがゆるやかに揺れていた。炎が呼吸するたび、部屋の陰影が僅かに濃くなり、また薄くなる。静かなはずの空間に、自分の胸の内側だけが騒がしく音を立てていた。
アランは寝台の上にいた。
濡れた睫毛の影が頬に落ちて、泣き疲れの余韻がまだ皮膚に残っている。あんなにも追い詰め、言葉を砕き、誇りを削り取ったというのに――目の前の女は、恐ろしく美しいままだった。
その美しさが、今夜は毒だった。
聞きたくない。
知りたくない。
比較などしたくない。自分は、そんな浅ましい男ではない――そう思いたい。
けれど、口を開いた瞬間にこぼれたのは、願いではなく、醜い問いだった。
「……どんなふうに、抱かれていました?」
自分の声が、やけに丁寧に聞こえて腹が立った。丁寧さは余裕の証のはずなのに、今のそれは、上品に見せかけた惨めな縋りつきだった。
アランの瞳が揺れる。
一瞬、息が止まり、言葉を探して唇が震えた。
「……分かりません、レギュラス……」
分からない。
またそれだ。
答えないことで、守ろうとしている。自分にこれ以上、触れさせないようにしている。あの部屋の温度も、あの男の触れ方も、二人だけの記憶も――“自分の手の届かない場所”に置いて、鍵をかけている。
それを理解できるからこそ、余計に腹が立った。
「分からないで済むと思っているんですか」
言いながら、自分でも分かっている。済むはずがない。済ませられるはずがない。
本当は、答えなんて聞きたくないのに。聞けば聞くほど自分が壊れるだけなのに。
それでも言わせたかった。
比べられたくないのに、自分のほうが良いと言わせたい。
惨めな意地と、くたびれた誇りが、喉の奥で取っ組み合いをしていた。
アランは、答えない。答えられない。
けれど――逃げもしなかった。
指先が縋るようにこちらを探し、見つけた瞬間、しがみついてくる。その仕草は弱々しいのに、妙に強情だ。口は閉ざしたまま、身体だけが“慣れ”で反応してしまう。憎らしいほど素直に、こちらの導きに沿って崩れていく。
その「素直さ」が、今夜は救いにならなかった。
“何度も沈めてきた女の乱れ方”――
自分の中に、汚い言葉が浮かぶ。勝利の証のはずのものが、今は何の慰めにもならない。
それは満足ではなく、ただの反射に見えた。
自分の腕の中で崩れても、心は別の場所にいるように思えてしまう。
だから、また聞く。
「――名前は、呼びました?」
呼ばせたい。
自分の名で、今夜のすべてを上書きさせたい。
そうすれば、少しは救われる気がした。救われないと分かっているのに。
アランは、喉を鳴らし、視線を逸らした。
その逸らし方が、致命的だった。
配慮でも羞恥でもなく、守りたいものを隠すような動きに見えてしまう。
「レギュラス……お願い……」
声が細い。縋りつく声。
その声だけが、今夜いちばん残酷だった。
お願い。
――何を?
終わらせて、というお願いなのか。
触れないで、というお願いなのか。
それとも、自分から逃げさせて、というお願いなのか。
自分の中の何かが、嫌な音を立てて軋んだ。
「お願い、ですか」
笑ってしまいそうになる。
こんなにも手の内にいるのに、こんなにも追い詰めたのに、まだ“お願い”で逃げようとする。
そのくせ、こちらが本当に欲しい言葉――「あなたが一番だ」という一言だけは、どうしてもくれない。
「……あなたはずるい」
ぽつりと落ちた声は、責めというより、自分への吐き気に近かった。
アランが、しがみついたまま、首を振る。
違う、と言うのではない。
ただ、否定の形を作るだけで精一杯の動きだ。
「ずるいのは、どちらです」
問いが、尖る。
言わせたい。吐かせたい。
“自分のほうが上だ”と、口にさせたい。
「……分からない……」
またその言葉。
同じ場所を何度も殴られているような気分になる。
そして気づく。
自分は今夜、彼女を抱きながら、彼女を抱けていない。
見ているのはアランではなく、アランの向こうにいるローランド・フロストの影だ。
殴りたいのはアランではなく、その影だ。
でも殴れないから、目の前の女に問いをぶつける。
情けない。
情けなさが、止まらない。
アランは、答えたくないのだろう。
けれど、縋る腕はほどけない。
逃げない。拒まない。
“妻として”そこにいることを、身体のほうが先に受け入れてしまう。
その矛盾が、さらに自分を荒らした。
「言いなさい」
声が低くなる。
命令という形を借りないと、立っていられない。
「比べて。どちらが、――」
言いかけて、唇が噛み締められる。
言葉にした瞬間、自分が本当に壊れると思った。
こんな問いを口にする男に、なりたくない。
なりたくないのに、なってしまっている。
アランは、震えた息を吐いて、必死にこちらを見上げる。
翡翠の瞳に涙が溜まって、今にも零れそうなのに、零さない。
泣けば終わると思っていない顔。泣くことで逃げたくない顔。
その強さが、今夜はさらに自分を惨めにした。
「レギュラス……」
名を呼ばれる。
呼ばれてしまう。
それだけで一瞬、胸の奥が緩む。――安堵が走る。
言わせたのだと思ってしまう。
勝ち取ったのだと錯覚してしまう。
けれど次の瞬間、空虚が押し寄せる。
呼ばれたのは、今夜のあなたではないかもしれない。
呼ばれたのは、逃げ道としての名かもしれない。
“この場をやり過ごすため”の名かもしれない。
そんな疑いが、蛇みたいに絡みつく。
だからまた、言葉で刺す。
「今、誰を思っているんです」
言いながら、心のどこかで理解している。
答えを聞いたら、終わる。
聞かなければ、永遠に苦しい。
どちらに転んでも、自分は救われない。
そして――
その夜の終わりに残ったのは、満足ではなかった。
勝利でもなかった。
ただ、疲れだけが、鈍い鉛みたいに体の内側へ沈んでいった。
アランは息を整えようとして、けれど整え切れず、静かに目を伏せる。
その横顔が、あまりにも整っていて。
泣き腫れたはずなのに、美しいままで。
その美しさが、今夜は自分を満たさない。
むしろ、冷たく照らす。
「……結局、何ひとつ」
喉の奥で、声にならない呟きが崩れる。
何度も抱いて、何度も名を呼ばせて、何度も沈めた。
それなのに、自分の中の空洞は埋まらなかった。
――彼女の身体は、ここにある。
――彼女の反応も、ここにある。
――それでも、彼女の“いちばん大事なもの”だけが、どこにもない。
それが、死ぬほど腹立たしかった。
そして同じだけ、情けなかった。
芯が短くなるたび、炎は一度だけ大きく揺れて、また薄い光に戻った。寝室の空気は熱を含み、甘い香と乾いた木の匂いと、どこか鉄じみた気配が混ざり合う。窓の外は夜のまま、時間だけが進み、床に落ちた影だけが微かに形を変えていく。
アランは跪いたまま、肩で息をしていた。
髪が頬に貼りつき、指先は冷えているのに、背中だけが熱い。胸の奥が擦り切れて、言葉を吐くたびに、何かが削られていく感覚があった。守り通したかったもの――禁断の時間の輪郭は、口にした瞬間から粗末な現実へ変わってしまう。自分の中で大切に包んでいたものほど、言葉に晒されると簡単に汚れていく。
その屈辱を、レギュラスは見逃さなかった。
椅子に腰かけたまま、指でグラスの縁をなぞり、淡い微笑みを浮かべている。怒鳴りも、荒い息も、床を鳴らす靴音もない。苛烈さは、丁寧さの中に沈められている。だからこそ逃げ場がない。
この男は“裁き”を、礼節の形で行う。
「……では、続きを」
声は柔らかい。
優しい、という錯覚すら混ぜられる。――けれど、その先に刃がある。
アランは唇を噛んだ。父を呼ぶ、という言葉が頭の隅に刺さったまま抜けない。
父を守るには、答えるしかない。
それがわかってしまった瞬間から、レギュラスの問いは変質した。手綱を握り直した獣が、獲物の急所を確かめるみたいに、より深く、より確実に、痛むところへ指を差し込んでくる。
「あなたが“先に”触れたと言いましたね」
既に答えたことを、もう一度言わせる。
確認ではなく、刻印だ。
アランの喉が鳴る。頷く以外の動作が許されない気がした。
「はい……」
「なぜ?」
「……っ」
理由を言葉にすることが、いちばんつらい。
どんな言い訳を並べても、最終的に“自分が望んだ”という形に落ちるのが見えている。落ちた瞬間、誇りは砕ける。
レギュラスは焦らせない。急かさない。
それが残酷だった。逃げの呼吸を許さず、沈黙を“準備”に変えてしまう。
「“わからない”は、先ほどもう使いましたよね。……今は違うはずです。言えるはずだ」
言える――ではない。言わせる。
丁寧な言い方で、逃げ道を塞ぐ。
アランは視線を落としたまま、唇を震わせた。
「……会えなくなると思って……」
声が弱い。自分の声が、ひどく他人事に聞こえる。
レギュラスは小さく頷いた。まるで、答え合わせが済んだように。
「会えなくなる。だから、触れた」
静かな反芻。
その反芻が、アランを床に縫いつける釘になる。
「……可愛い発想ですね。必死で」
“可愛い”という言葉が、嘲りとして落ちる。
アランの睫毛の先から涙が一粒落ちた。床板に当たる音が、妙に大きく聞こえた。
「次」
レギュラスは呼吸ひとつ分も与えずに続ける。
「その男は、あなたに何と言ったんです? ――名前で呼んだのは、いつから?」
アランの肩が跳ねた。
名前で呼ぶ。呼ばれる。あの言葉だけは、本当は守りたかった。礼節の壁の内側で、二人だけが知る温度として残したかった。
けれど、父を守るための交換条件は、もう始まっている。
守りたかったものほど、差し出さなければならない。
「……部屋に……連れていかれた時に……」
「ふうん」
レギュラスは感心したように息を吐いた。
その息遣いすら、裁判官の調書に書き込まれる“音”みたいだった。
「“ アラン”」
口の中で転がすように言って、微笑む。
「――どうでした? 久しぶりに、他人の口からその名を聞いて。胸が熱くなりました?」
問いは柔らかい。けれど、内容は骨を砕きに来る。
アランは首を振ろうとして、止めた。
嘘は通じない。嘘をつけば、次は父が呼ばれる。
嘘をつかなくても、地獄は続く。それでも――父を守れるなら。
「……なりました……」
やっと出た小さな肯定に、レギュラスの目が細くなる。
「正直でよろしい」
褒め言葉の形をした、さらなる拘束。
「では、“熱くなった”あなたは、何を言いました?」
アランの指先が震えた。
口にした言葉――それは、行為そのものよりも、心の奥を晒す。
「……やめて……」
絞り出すように言った瞬間、レギュラスの笑みが薄くなる。愉しげな色が、むしろ濃くなる。
「やめないで、じゃなくて?」
言い直しを促す。
答えの形を、こちらの口で整えさせる。
正解を言わせて、それを踏み潰すために。
アランは喉を押さえた。息が苦しい。
なのに、言葉だけは止まらない。止められない。
「……やめないで……って……」
声が、泣き声に崩れた。
その崩れを、レギュラスは慈しむように眺める。残酷なほど、静かに。
「そう。やめないでね」
繰り返すだけで、アランの体が縮こまる。
繰り返された言葉は、もう“二人の秘密”ではない。ここでは“供述”だ。冷たい光の下で、第三者に陳列される。
「次。――写真」
レギュラスは視線を横へ流し、寝台の上に置かれた薄い束へ目を向けた。
紙の角が揃っていない。無造作に重ねられたそれが、ひどく不気味に見える。
「あなたは、どんな顔で笑っていました?」
アランの胃がきゅっと縮む。
笑い方を問うのは、身体ではなく、幸福を裁くためだとわかる。
幸福そのものが罪だと、認めさせるための問い。
「……普通に……」
「普通、とは?」
レギュラスが首を傾げる。
それだけで、答えは“足りない”と突きつけられる。
「……口を……大きく開けて……」
言うほどに、自分の中の何かが壊れていく。
笑ったという事実が、涙の中で汚れていく。
「へえ。そんなふうに笑うんですね」
レギュラスは、まるで初めて知ったかのように柔らかく言う。
その柔らかさが、アランの胸を裂いた。
“あなたの笑いを知らない”という刃を、わざと撫でるように当てる。
「――あなたは、こちらではそんな顔をあまり見せない」
淡々とした指摘が、血のない針になる。
アランは首を垂れたまま、泣くことさえ許されない気がした。
「次」
レギュラスは立ち上がった。足音は静かだ。
近づく気配だけで、アランの背中が硬くなる。
「その男に、触れられた時。あなたは」
一拍、わざと置く。
言葉の続きを、アラン自身の想像で先に苦しませる。
「……この寝台を、思い出しました?」
アランの呼吸が止まった。
問いは、行為の描写ではない。もっと残酷なところ――“比較”を強要する。
否定しても、肯定しても、地獄。
答えないなら、父が呼ばれる。
アランは涙をこぼしながら、ゆっくり頷いた。
「……少し……」
「少し」
レギュラスは、その曖昧さを許さない。
指先がアランの顎を持ち上げ、顔を上げさせる。翡翠の瞳が潤み、焦点が揺れている。
「“少し”で済ませるのは、あなたの癖です。……どれくらい?」
アランの視界に、レギュラスの整った口元が映る。
その口元が、裁きを言葉に変えて吐く。
「……何度も……です……」
声が、掠れた。
“何度も”という語は、誇りの破片みたいに口から落ちる。
同時に、父を守るための代償が、自分の内側を空洞にしていく感覚があった。
レギュラスは満足げに息を吐いた。
けれど、それは終わりの合図ではない。むしろ、ここからだと言っている。
「よろしい」
彼はアランの頬に、軽く指先を滑らせた。涙を拭う仕草は優しい。
優しいまま、縛る。
「あなたは、もう答えられる」
その言葉が、宣告だった。
“答えられる”と認めた瞬間、沈黙という盾は使えなくなる。今後、答えられないふりをするたびに、そのふり自体が嘘になる。
「では、最後に」
レギュラスはゆっくりとしゃがみ、アランと目線を揃えた。
距離が近い。香が濃い。呼吸が絡む。
「あなたが、父親を守りたいなら」
低く、甘い声で条件を提示する。
救いに見える形のまま、首輪を締める。
「――あなたの口で、言ってください。誰を愛しているのか」
アランの目が大きく揺れた。
それだけは、言えない。
言えば、すべてが終わる。終わるというのは、楽になるという意味ではない。戻れなくなる。心の中で守ってきた“名前の場所”が、完全に焼け落ちる。
「……レギュラス……」
呼びかける声が、子どものように弱くなる。
レギュラスは微笑んだ。柔らかく、そして逃げ道のない微笑み。
「――答えないなら、セシール卿を呼びます」
一言で、世界が暗転する。
父が来る。研究が汚れる。アルタイルにまで届く。
それだけは、だめだ。
アランの肩が小さく震え、喉がひくついた。
涙が止まらない。けれど声は――出る。この物語の中で、彼女は声を持っている。だからこそ、言わされる。
誇りはもう、守るための形を失っていた。
言葉にした瞬間から壊れると知っていながら、言葉にするしか守れないものがある。
アランは、ひどくゆっくりと、唇を開いた。
「……わたしは……」
声が途切れ、息が漏れる。
レギュラスの瞳が、その途切れを逃さず捉える。待っている。逃がさない。
「……わたしは……あなたの妻です……」
精一杯の抵抗。
愛の名を避け、事実に逃げる。
けれどレギュラスは、そこで笑わなかった。むしろ静かに眉を寄せる。その表情が、優しさではなく、苛立ちの予告になる。
「……それは答えではない」
声に棘が混じる。丁寧さは崩れないまま、温度だけが下がる。
「“妻”は肩書きです。――感情を聞いている」
アランの息が詰まった。
逃げ道を作るほど、問いは鋭くなる。
父を守るために答え始めた瞬間から、レギュラスは最も痛い場所へ、正確に踏み込む権利を得たのだ。
「さあ、アラン」
指先が、顎を支える。
逃げられない視線の檻の中で、彼女の誇りは、最後の形を保って震えている。
「――言ってください。あなたの口で。はっきりと」
そしてレギュラスは、囁くように追い打ちをかけた。
「答えたら、セシール卿は呼びません。……あなたが守りたいものは、守ってあげます」
救いの形で差し出される取引ほど、残酷なものはない。
アランの瞳から、また涙が落ちた。
その涙さえ、レギュラスにとっては“答えに近づく音”でしかない。
静かな寝室に、蝋燭の芯が小さく爆ぜる音がした。
その音にさえ、裁きの始まりの合図が混ざっているように思えた。
蝋燭の炎が、ふいに細くなる。
芯の黒い影が揺れて、寝室の壁に濃い線を引いた。夜は静かで、静かすぎて、布の擦れる音すらも耳に残る。
アランは跪いたまま、胸のあたりを押さえていた。息が浅い。泣いているのに、泣き声は出ない。涙は頬を伝い、顎の先で一粒ずつ落ちていく。
レギュラスはその前に立つでもなく、離れるでもなく、数歩の距離を保ったまま、彼女を見下ろしていた。視線は鋭い。けれど声は、いつも通り丁寧だった。丁寧であることが、彼にとっての“支配”の型だからだ。
「――言ってください」
柔らかい言葉に、逃げ道はない。
問いの形をしているのに、答えを要求する命令になっている。
「誰を、愛しているんです?」
“愛している”――その言葉だけが、寝室の空気を変えた。
それまでの問いは、事実確認であり、供述であり、罰だった。だがこれは違う。ここには確かに、願いのようなものが混じっている。あまりにも矛盾して、愚かで、だからこそ隠しきれないものが。
レギュラスの胸の奥に、短く痛むほどの感情があった。
この女の口から、自分の名を聞きたい。
それが正しい答えであるというだけでは足りない。正しいからではなく、感情として、心として、自分を選んでほしい。――そう願ってしまうほどに、もう手に入れているはずのものが足りない。
答えは決まっている。
彼女は妻だ。正妻だ。息子の母だ。ブラック家に迎えられ、父の研究は自分の権力で日の光を浴び、彼女の人生はこの屋敷に繋がれている。
それなのに。
アランの唇が、震えた。
視線が宙を泳ぐ。言葉を探して、見つからず、また喉で砕ける。
「……レ、……」
呼びかけが漏れる。
レギュラス――と、縋る声。
それに似た音を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに緩んだ。そうだ、それでいい。今の流れなら、彼女は“正しい答え”に辿り着く。
アランは涙をこぼしながら、必死に呼吸を整えた。
まるで“答え”を口にするための儀式のように。
言葉の形を整えようとするその必死さが、痛いほど愛らしい。自分に従うために、壊れた誇りを拾い集める姿に見えた。
「……あなたの……」
その一語に、レギュラスの指先が微かに動いた。
足元の影が揺れた。
心が、わずかに前のめりになるのがわかった。――この瞬間だけは、勝利の余韻とは違う。確かめたい、という渇きに近い。
けれど。
「……それを、“正解”として差し出すのはやめてください」
自分で、自分の期待を踏み潰すように言った。
声は穏やかで、柔らかくて、まるで諭すようだ。
だが実際は、焦りの裏返しだった。正解で満たされたくない。正解で誤魔化されたくない。
欲しいのは、折れた言葉ではなく、折れる前の心だ。
「感情を言いなさい。……あなたの本当のところを」
言いながら、口の内側が乾く。
この先に何が来るか、わかってしまっている自分がいる。
わかっているのに、止められない。止めたら、負けだ。止めたら、“欲しさ”を認めることになる。
だから、言わせる。自分の手で。
アランは、息を吸った。
吸って、吐いて、また吸って。
泣きながら、それでも答えようとする。父を守りたいのか、アルタイルを守りたいのか、あるいは――ただこの地獄を終わらせたいのか。どれも本当で、どれも彼女を動かしている。
そして、震える声で。
「……ローランド……フロスト……」
名前が落ちた。
床に落ちた一滴の涙のように、軽く、確かに、取り返しのつかない重みで。
その瞬間、レギュラスの中で何かが静かに裂けた。
怒りではない。叫びでもない。
もっと深いところで、音もなく貫かれる感覚。刃が臓腑を突き抜けていくような、冷たい痛み。
今まで握っていたはずの手綱が、指の間から滑り落ちる。
主導権を握り、追い詰め、答えを引き出した自分が――その答えひとつで、見事に“敗北”を刻まれた気がした。
まるで、この女は最後の最後で、わざと正解を外してこちらの喉元に噛みついたみたいに。
いや、違う。
わざとではない。だからこそ残酷だ。
この女の中で、それが“本当”だったというだけだ。
レギュラスは、瞬きを一度した。
呼吸が止まっていたことに、その時初めて気づく。
肺に空気が入ると、胸の内側が痛んだ。あまりにも不快で、あまりにも生々しい。
アランはまだ跪いている。泣いている。
自分の言葉で地雷を踏み抜いたことに気づいているのか、いないのか。
ただ、怯えた瞳でこちらを見上げる。その翡翠の瞳が、今は自分を映しているのに――その奥にいるのは、別の男の名だ。
レギュラスの口元が、微かに笑みの形を作りかけて、止まった。
笑うべきだ。笑って、踏み潰して、嘲って、勝利の形に戻すべきだ。
いつもならそうした。そうすることが自分のやり方だった。
けれど、その作法が、今夜はどこにも繋がらない。
怒りの熱でさえ、体の内側で迷子になる。
残るのは、冷えていく絶望だけだった。
「……そうですか」
やっと出た声は、驚くほど穏やかだった。
穏やかすぎて、恐ろしい。
怒鳴らない。物を投げない。頬を叩かない。
ただ、静かに言葉を置く。
それが、壊れた証拠だった。
レギュラスはゆっくりと膝を折り、アランの前にしゃがむ。
距離が近い。彼女の涙の匂いがする。肌の温度が伝わる。
その近さが、いっそう残酷だった。いま自分は、この女に触れられる。抱ける。組み敷ける。
それなのに、胸の奥の一点が、どうしても満たされない。
「……今の一言で」
囁くように続ける。
声は柔らかい。けれど、底に沈むものは暗い。
「あなたは、自分で自分の喉を切ったようなものだって、わかっています?」
アランの肩が小さく震える。
言葉の意味が、遅れて彼女に届いていく。
レギュラスは、彼女の顎に指先を添えた。痛くはない。優しい力だ。
優しいまま、逃がさない。
「感心しますよ」
皮肉が、静かに滑り落ちる。
「ここまで追い詰められて、それでもなお、こちらを刺す言葉を選べるんですから」
自分の声が、他人のものみたいに聞こえる。
冷静に裁いているのに、内側は崩れている。
崩れたまま形だけを保つ――それが、いちばん危険だということを、自分は知っていた。
アランの瞳から、また涙が落ちる。
その涙が、レギュラスの指先に当たって、温かい。
温かいのに、心は凍る。
「……良いでしょう」
レギュラスは立ち上がった。
ゆっくりと、背筋を伸ばす。
その動作が、決意のようにも見えるし、ただの絶望の整理にも見える。
「あなたが望んだのは、“赦し”ではない。――そういうことですね」
アランは首を振ろうとする。
でも、その動きさえ、許されない空気がある。
レギュラスは彼女の髪に指を通し、頬にかかった一筋をそっと払った。
愛撫のような動作で。
そして、微笑んだ。
美しく、整った笑み。
社交界で鍛えられた、完璧な笑顔。
それが今夜、最も恐ろしい形で彼女に向けられる。
「……では」
声が落ちる。
その一語で、部屋の空気が沈む。
「立ち上がれなくなるくらいに、あなたを――潰します」
叫びではない。
決して荒々しくもない。
淡々とした宣言ほど、逃げ場のないものはない。
アランの瞳が見開かれる。
その怯えが、レギュラスの中の暗い衝動をさらに煽った。
同時に、胸の奥のどこかが痛む。痛むのに、止められない。
欲しかった名は、自分ではなかった。
それを知った瞬間、世界は静かに崩れた。
崩れた世界の中で、自分が選べる形はひとつしかない。――壊すこと。壊して、形を作り直すこと。
蝋燭の炎が、また揺れた。
その揺れが、まるでこれから起きることを黙って見届ける合図のように見えた。
扉が、音もなく開いた。
蝶番の軋みすら立てないように、魔法で手入れされた寝室の扉は――まるで、この部屋そのものが息を殺しているかのようだった。灯りは落とされ、蝋燭の芯だけがわずかに赤く残っている。暖炉の火も、いつの間にか弱い。石壁に貼りついた影が、呼吸のたびに揺れて、また沈む。
レギュラスはその暗がりに足を踏み入れ、まず寝台を見る。
そこにいるはずの妻の姿がない。
次に視線が落ちたのは、床だった。
寝台の縁から少し離れた絨毯の上に、アランが崩れるように横たわっている。膝を抱えることすらできず、半端に丸まった体勢のまま。髪はほどけ、頬には乾ききらない涙の筋が何本も残っていた。瞼のあたりは赤く腫れ、唇は噛みしめた痕が淡く色づいている。
泣き疲れて、眠ってしまったのだろう。
眠って――しまった。
その事実が、胸の奥に黒いものを生む。
自分だけが、世界でいちばん苦しいのだと主張するような顔で。
美しく涙を貼り付けたまま、眠りに落ちている。
許せなかった。
この部屋で、あれだけの言葉を浴びせられて、あれだけの時間を跪いて、それでも最後は“眠れる”ということが。
眠ってしまえば、ひとまず世界が途切れる。苦しみが一度だけ途切れる。――そんな逃げ道を、勝手に手にしているように見えた。
それが無性に腹が立った。
レギュラスは何も言わず、床の妻のそばまで歩いた。足音は柔らかい絨毯に吸われて消える。消えるからこそ、余計に残酷だった。
影がアランの頬の涙跡をなぞり、翡翠の瞳を覆う睫毛の影を濃くする。
蹴った。
躊躇のない動作だった。怒りが足先に移っただけの、短く乱暴な一撃。
柔らかな腹ではない。肋でもない。ただ、足先が当たる場所を選んだはずなのに、アランの体は驚くほど脆く跳ねた。寝息が途切れ、息が引っかかる。
「……っ」
掠れた声が漏れ、アランは飛び起きた。
眠りの底から引きずり上げられた瞳が、焦点を結ぶまでに一拍かかる。涙で濡れた頬が光る。痛みと恐怖と混乱が、遅れて押し寄せてくるのが顔に出る。
床の冷たさと、絨毯の毛足の感触。自分がどこにいて、なぜここに寝ていたのか。そこに立つ男が誰なのか。
思い出は、ゆっくりと首を締める鎖みたいに戻ってくる。
アランの喉が、もう一度小さく鳴った。痛みに息を吸い、言葉にならない声が唇の奥で崩れる。
レギュラスは、上から見下ろしたまま微笑んだ。
社交界で磨いた、薄い笑み。美しく整っているのに、温度がない。
「よく寝られますね」
声は柔らかい。柔らかいからこそ、刺さる。
「欲に忠実なあなたらしい」
アランの瞳が揺れた。
その一言が意味するものを理解して、顔色が白くなる。否定したいのに、否定の言葉を作る余力すらない。胸の奥から込み上げるものがあって、喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
「……ちが、……」
やっと絞り出した声は、頼りなく震えた。
違う、と言いたい。眠りたかったわけではない、と言いたい。逃げたかったのではない、と言いたい。
だが、そんな説明はこの男には届かない。届かせてもらえない。
レギュラスは、しゃがみ込まない。距離を詰めるのに、あえて屈まない。
床にいる妻と、立ったままの夫。
その構図が、今夜のすべてを象徴していた。
「違う? では、何なんでしょう」
問いの形をした追い込みが、すぐに続く。
「自分は泣いた。自分は傷ついた。――だから許される。だから眠れる。そういうことですか?」
語尾は丁寧だ。けれど言葉の芯が硬い。
アランの背中が、見えない棘に触れたようにこわばる。
「……ごめんなさい……」
反射的にそう言ってしまう。
それしか言えない。言ってしまえば、少しでも終わるかもしれないという、弱い祈りが口に出る。
でも、この男は“ごめんなさい”で満足する男ではない。
「謝罪の便利さに慣れましたね」
レギュラスは目を細めた。
薄い笑みが、さらに薄くなる。
「どれほど都合がいいか、身をもって学んだでしょう。言えば許されると思っている。言えば終わると思っている」
アランは首を振ろうとして、止まる。
振ったところで、何が変わるのか。
否定すれば、また問いが来る。肯定しても、また問いが来る。
逃げ場がないことだけが、はっきりしている。
レギュラスの足先が、絨毯の縁をなぞる。
小さな動きなのに、アランの視線がそこに吸い寄せられる。蹴られた痛みの記憶が、まだ皮膚の下に熱を残していた。
「床が好きなんですか?」
ふっと、あまりにも軽い調子で言う。
軽さが、残酷だった。
「寝台に上げてもらえない方が、あなたの趣味に合う? それとも――」
言葉が一瞬だけ止まる。
止まった間に、アランの心臓が縮む。次に何が来るか分かるからだ。
「どこかの部屋では、寝台の上で笑っていましたよね」
アランの瞳が、ぱっと見開かれた。
全身の血が引く。
寒気が背骨を伝って走る。
レギュラスは、ここで声を荒げない。
怒鳴りつけない。机を叩かない。
その代わり、丁寧に、静かに、確実な言葉で心臓を刺す。
「写真が、証拠だと言ったら。あなたはまた、“分からない”で通しますか?」
アランの唇が震える。
言葉が出ない。出せない。出した瞬間、もっと深いところまで切り込まれると分かっている。
「……やめて……ください……」
ようやく出た懇願は、細く、情けないほど弱い。
それが、レギュラスの癇に障る。
「やめてほしい?」
柔らかい反復。
ただし、それは同情ではない。確認でもない。
“条件”を提示する前の前触れだ。
「では、どうすればやめましょうか」
アランの喉が鳴る。
答えられない。
答えた瞬間に、“何を差し出すか”を決めさせられる。
「あなたはいつもそうですね」
レギュラスは息を吐いた。短い、乾いた吐息。
「言えない。答えられない。沈黙する。――それで、いつか相手が折れるとでも思っている」
折れるのは自分ではない、と。
その言外の傲慢さが、アランの胸をさらに締め付ける。
「……そんな、……つもりじゃ……」
「つもりじゃない、で済むと?」
レギュラスの声が、僅かに低くなる。
刃が研ぎ澄まされる音がしないのに、確かに鋭くなる。
「あなたは、自分の“つもり”で人を殺せるんですか?」
アランの目に、また涙が浮かぶ。
泣きたくない。泣けば、余計に怒らせる。けれど、泣かずにいられない。
その弱さが、床の冷たさよりも彼女を冷やした。
レギュラスは、アランの前に少しだけ身を屈めた。
覗き込む距離。息が触れそうなほど近い距離。
それでも触れない。触れてやらない。
触れないことが、支配になると知っている。
「……眠っていた顔、綺麗でしたよ」
囁きが、柔らかく落ちる。
褒め言葉の形をしているのに、呪いみたいだった。
「泣いて、疲れて、倒れて。そうして“可哀想な自分”で終われる。あなたはそれが好きなんでしょう」
アランの瞳が濡れたまま、必死に首を振る。
違う、と言いたい。そんな風に思っていない、と言いたい。
でも声が追いつかない。喉が、胸が、痛い。
レギュラスは微笑んだまま、最後に言葉を落とす。
「可哀想なあなたに、可哀想なまま眠る権利があると思っているなら」
一拍置く。
その間に、部屋の静けさがさらに深くなる。蝋燭の芯がぱちりと鳴った。
「――今夜は、その幻想を剥がします」
穏やかな声だった。
それが、いちばん恐ろしかった。
アランは床に座ったまま、逃げようともしない。逃げる気力がない。
ただ、濡れた頬を震わせながら、目の前の男を見上げる。
その翡翠の瞳に映った自分の姿を見て、レギュラスはわずかに満足した。
勝利ではない。
むしろ、喉の奥に残る苦いものを、無理やり飲み下すための儀式みたいな満足だ。
「立ってください、アラン」
丁寧な命令が、静かに突き刺さる。
床で眠ることも、床で泣くことも、もう許さないと言外に告げながら。
「――眠るなら、せめて。“誰の部屋で、誰の妻として眠るのか”くらいは、きちんと自覚してもらわないと」
その夜のことを、あとから思い返すと――情けなさだけが、骨の奥に残った。
寝室の灯りは落とされ、暖炉の火だけがゆるやかに揺れていた。炎が呼吸するたび、部屋の陰影が僅かに濃くなり、また薄くなる。静かなはずの空間に、自分の胸の内側だけが騒がしく音を立てていた。
アランは寝台の上にいた。
濡れた睫毛の影が頬に落ちて、泣き疲れの余韻がまだ皮膚に残っている。あんなにも追い詰め、言葉を砕き、誇りを削り取ったというのに――目の前の女は、恐ろしく美しいままだった。
その美しさが、今夜は毒だった。
聞きたくない。
知りたくない。
比較などしたくない。自分は、そんな浅ましい男ではない――そう思いたい。
けれど、口を開いた瞬間にこぼれたのは、願いではなく、醜い問いだった。
「……どんなふうに、抱かれていました?」
自分の声が、やけに丁寧に聞こえて腹が立った。丁寧さは余裕の証のはずなのに、今のそれは、上品に見せかけた惨めな縋りつきだった。
アランの瞳が揺れる。
一瞬、息が止まり、言葉を探して唇が震えた。
「……分かりません、レギュラス……」
分からない。
またそれだ。
答えないことで、守ろうとしている。自分にこれ以上、触れさせないようにしている。あの部屋の温度も、あの男の触れ方も、二人だけの記憶も――“自分の手の届かない場所”に置いて、鍵をかけている。
それを理解できるからこそ、余計に腹が立った。
「分からないで済むと思っているんですか」
言いながら、自分でも分かっている。済むはずがない。済ませられるはずがない。
本当は、答えなんて聞きたくないのに。聞けば聞くほど自分が壊れるだけなのに。
それでも言わせたかった。
比べられたくないのに、自分のほうが良いと言わせたい。
惨めな意地と、くたびれた誇りが、喉の奥で取っ組み合いをしていた。
アランは、答えない。答えられない。
けれど――逃げもしなかった。
指先が縋るようにこちらを探し、見つけた瞬間、しがみついてくる。その仕草は弱々しいのに、妙に強情だ。口は閉ざしたまま、身体だけが“慣れ”で反応してしまう。憎らしいほど素直に、こちらの導きに沿って崩れていく。
その「素直さ」が、今夜は救いにならなかった。
“何度も沈めてきた女の乱れ方”――
自分の中に、汚い言葉が浮かぶ。勝利の証のはずのものが、今は何の慰めにもならない。
それは満足ではなく、ただの反射に見えた。
自分の腕の中で崩れても、心は別の場所にいるように思えてしまう。
だから、また聞く。
「――名前は、呼びました?」
呼ばせたい。
自分の名で、今夜のすべてを上書きさせたい。
そうすれば、少しは救われる気がした。救われないと分かっているのに。
アランは、喉を鳴らし、視線を逸らした。
その逸らし方が、致命的だった。
配慮でも羞恥でもなく、守りたいものを隠すような動きに見えてしまう。
「レギュラス……お願い……」
声が細い。縋りつく声。
その声だけが、今夜いちばん残酷だった。
お願い。
――何を?
終わらせて、というお願いなのか。
触れないで、というお願いなのか。
それとも、自分から逃げさせて、というお願いなのか。
自分の中の何かが、嫌な音を立てて軋んだ。
「お願い、ですか」
笑ってしまいそうになる。
こんなにも手の内にいるのに、こんなにも追い詰めたのに、まだ“お願い”で逃げようとする。
そのくせ、こちらが本当に欲しい言葉――「あなたが一番だ」という一言だけは、どうしてもくれない。
「……あなたはずるい」
ぽつりと落ちた声は、責めというより、自分への吐き気に近かった。
アランが、しがみついたまま、首を振る。
違う、と言うのではない。
ただ、否定の形を作るだけで精一杯の動きだ。
「ずるいのは、どちらです」
問いが、尖る。
言わせたい。吐かせたい。
“自分のほうが上だ”と、口にさせたい。
「……分からない……」
またその言葉。
同じ場所を何度も殴られているような気分になる。
そして気づく。
自分は今夜、彼女を抱きながら、彼女を抱けていない。
見ているのはアランではなく、アランの向こうにいるローランド・フロストの影だ。
殴りたいのはアランではなく、その影だ。
でも殴れないから、目の前の女に問いをぶつける。
情けない。
情けなさが、止まらない。
アランは、答えたくないのだろう。
けれど、縋る腕はほどけない。
逃げない。拒まない。
“妻として”そこにいることを、身体のほうが先に受け入れてしまう。
その矛盾が、さらに自分を荒らした。
「言いなさい」
声が低くなる。
命令という形を借りないと、立っていられない。
「比べて。どちらが、――」
言いかけて、唇が噛み締められる。
言葉にした瞬間、自分が本当に壊れると思った。
こんな問いを口にする男に、なりたくない。
なりたくないのに、なってしまっている。
アランは、震えた息を吐いて、必死にこちらを見上げる。
翡翠の瞳に涙が溜まって、今にも零れそうなのに、零さない。
泣けば終わると思っていない顔。泣くことで逃げたくない顔。
その強さが、今夜はさらに自分を惨めにした。
「レギュラス……」
名を呼ばれる。
呼ばれてしまう。
それだけで一瞬、胸の奥が緩む。――安堵が走る。
言わせたのだと思ってしまう。
勝ち取ったのだと錯覚してしまう。
けれど次の瞬間、空虚が押し寄せる。
呼ばれたのは、今夜のあなたではないかもしれない。
呼ばれたのは、逃げ道としての名かもしれない。
“この場をやり過ごすため”の名かもしれない。
そんな疑いが、蛇みたいに絡みつく。
だからまた、言葉で刺す。
「今、誰を思っているんです」
言いながら、心のどこかで理解している。
答えを聞いたら、終わる。
聞かなければ、永遠に苦しい。
どちらに転んでも、自分は救われない。
そして――
その夜の終わりに残ったのは、満足ではなかった。
勝利でもなかった。
ただ、疲れだけが、鈍い鉛みたいに体の内側へ沈んでいった。
アランは息を整えようとして、けれど整え切れず、静かに目を伏せる。
その横顔が、あまりにも整っていて。
泣き腫れたはずなのに、美しいままで。
その美しさが、今夜は自分を満たさない。
むしろ、冷たく照らす。
「……結局、何ひとつ」
喉の奥で、声にならない呟きが崩れる。
何度も抱いて、何度も名を呼ばせて、何度も沈めた。
それなのに、自分の中の空洞は埋まらなかった。
――彼女の身体は、ここにある。
――彼女の反応も、ここにある。
――それでも、彼女の“いちばん大事なもの”だけが、どこにもない。
それが、死ぬほど腹立たしかった。
そして同じだけ、情けなかった。
