2章
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寝室の扉が閉まった音は、屋敷のどの物音よりもはっきりしていた。
外の廊下には灯りが落とされ、遠くで時計が一度だけ、鈍い鼓動のように鳴る。
レギュラスは部屋の中央にある小卓へ、手にしていたファイルを置いた。
丁寧な動作だった。乱暴に投げる必要がない。――もう逃げ場がないことを、この部屋の空気が知っている。
「座って」
命令は柔らかい声で、けれど疑問符の形を取らなかった。
アランは椅子に腰を下ろそうとして、指先が震えるのを止められない。踏まれた手の痛みが遅れて主張し、鼓動と一緒にじわじわ広がっていく。
レギュラスはランプの火を少し絞った。
暗くするほど、視線が逃げられなくなる。輪郭が溶けるほど、言葉の輪郭だけが鋭く残る。
「順番に、確認しますね」
穏やかに告げて、ファイルを開く。
中の写真は裏返しのまま、整列させられていく。まるで証拠品のように。あるいは、展示品のように。
アランの喉が鳴った。
「いつからです?」
レギュラスは顔色一つ変えない。
怒鳴らない。机を叩かない。声を荒げない。
代わりに、“答えの幅”を削ぎ落とす。
「“いつから”が難しいなら、最後に会ったのはいつです。今日の前に」
アランは唇を開いて、閉じた。
言葉が形にならない。嘘をつけば、次の瞬間に潰される。正直に言えば、その正直さが刃になる。
レギュラスは、待った。
待てる男だった。沈黙が相手を削ることを知っている。
「どうしました?」
指先で一枚の写真の角を撫でる。紙の擦れる音が、やけに大きい。
「声が出ませんか?」
アランの瞳が揺れる。
声が出ないのではない。何と言っていいかわからないのだ。
「……レギュラス、私は……」
やっと零れた声は、情けないほど薄い。
レギュラスは頷いた。理解を示す仕草だけを、わざと与える。
その直後、さらに刃を足す。
「“私は”の続きは?」
アランの胸が詰まる。
息を吸うたびに、肺が痛い。
「……わかりません」
レギュラスの口角が、ほんの僅かに上がった。笑みと呼ぶには冷たい、形だけの微笑み。
「わからない、ですか」
卓の上に並ぶ裏返しの写真たちを、指先が軽く整える。
「感心しますよ。一切を隠し通して好き放題してくれたものですね」
“好き放題”。
その言葉だけで、アランの体の奥が冷える。思い出が、恥が、幸福が、全部同じ色で汚れていく気がした。
「違います……」
言いかけた瞬間、レギュラスの視線が刺さる。
否定する言葉に、逃げ道を作らない。
「違う?」
やわらかな反復。
けれどその反復は、首を締める輪になる。
「じゃあ、言って。何が違うのか。――“どこが”違う?」
アランは言葉を失う。
違うと言いたい。けれど、何が違うのか、どこからが言い訳になるのか、区別できない。
レギュラスは椅子の背に手を置き、アランの背後に回り込んだ。
近い。吐息が髪を揺らす距離。
「アラン」
名前を呼ばれただけで、肩が跳ねる。
耳元に落ちた声は、甘いほど静かだった。
「質問を変えましょうか。簡単にします」
指先が、アランの顎に触れ、ほんの少しだけ上を向かせる。
抵抗すれば、指先の力が増す。増すことを、レギュラスはためらわない。
「今日。フロスト殿は、どこから出てきました?」
アランの瞳が大きく揺れた。
その揺れが、答えだった。
レギュラスは頷く。
“正解”を引き当てた時の、薄い満足が滲む。
「奥の部屋ですよね」
アランが震える息を吐く。
否定できない。否定すれば、次は写真を表に返される。
「そこは、あなたの部屋だ」
語尾に力を入れない。
入れないからこそ、重い。
「――そこで、何をしてたんです?」
アランの喉がきしむ。
涙が出そうになるのを、必死で引き戻す。泣けば、泣くほど惨めになる。泣けば、泣くほどこの男は冷静になる。
「……話を、していただけです」
レギュラスは、ふうっと息を吐く。笑いに近い、短い吐息。
「話」
その一語を反芻してから、机の上の写真に手を伸ばす。
裏返しのまま、一枚だけ―― アランの指先が震えるのが見える。
「話で、こんなものが増えるんですか」
言い方が淡々としている。
それがいちばん残酷だった。
「増えたのは、今日だけ?」
アランは首を振りかけて、止めた。
嘘をつけば、今日の写真だけで終わらないと悟られる。正直に言えば、死ぬ。
レギュラスは逃がさない。
「回数。言えます?」
「……」
「場所は?」
「……」
「あなたから誘った?」
「……」
「向こうから?」
「……」
質問が重なる。
一つ答えないたびに、次の質問が薄皮を剥ぐように、より核心へ滑り込む。
「子供の前では?」
アランの顔色が変わった。
アルタイルの名を出されると、世界が急に現実になる。
レギュラスはその変化を見逃さない。
「そこに線を引いているつもりなら、偉いですね」
褒めるように言って、すぐに壊す。
「でも、違う。線を引いてるのは“自分に都合のいいところ”だけです」
アランの肩が小さく震える。
手の痛みより、胸の痛みが勝ち始める。
「ごめんなさい」
気づけば、声が漏れていた。
それ以外の言葉が出ない。頭の中が白くなる。
レギュラスは、やっとアランの前へ回り込み、椅子の正面に立った。
見下ろす位置に、わざと立つ。
「“ごめんなさい”は、何に対してです?」
アランの唇がわななく。
何に、と問われた瞬間、“全部”と言えば終わりがないし、“これ”と言えば、そこから新しい問いが始まる。
「……」
「言葉にしてください」
レギュラスは微笑んだ。
慈悲の顔をして、猶予を奪う。
「あなたは、言葉が上手いでしょう。いつも正しいことを言う」
アランの目尻が濡れる。
“正しい”の中に、いつも逃げてきた。礼儀と体裁で、何度も生き延びてきた。
レギュラスは続ける。
「今も、正しいことを言って」
アランの喉が詰まった。
そして、耐えきれなくなったように椅子から滑り落ちる。膝が絨毯に沈み、自然と――跪く形になった。
「ごめんなさい、レギュラス」
声は震えて、情けなく掠れた。
それでも、言えた。言ってしまった。
レギュラスは、その姿をしばらく見下ろした。
勝利の喜びではない。怒りの爆発でもない。
ただ、呼吸ひとつ分の“静けさ”があった。
それから、指先でアランの顎を持ち上げる。
逃げる視線を許さず、翡翠の瞳を自分に向けさせる。
「いい子」
言葉は優しい。
けれど、優しい言葉ほど、今は刃になる。
「でも、まだ足りません」
アランの瞳が揺れる。
レギュラスは微笑みを崩さないまま、淡々と告げた。
「謝罪は、事実確認の後です」
そして、卓の上に並ぶ写真の一枚を、ゆっくり表に返した。
ランプの薄明かりの中に、無邪気に笑うアランが浮かび上がる。
「これはいつ。――答えて」
写真が表になった瞬間、薄い紙の一枚が、刃物よりも確かな重みを持ってアランの視界に落ちた。
灯りは絞られている。
輪郭は柔らかいのに、その中に写るものだけが異様に鮮明だった。笑っている自分。シーツの白。肌の白。空気の湿りまで、魔法写真は残酷なほど丁寧に記憶している。
アランは、喉が動くのに声が出ないことを初めて知った。
息はしている。肺は働いている。けれど言葉を形にする筋肉が、どこか別の人間のものになったみたいに、動き方を忘れている。
レギュラスはその一枚を見せたまま、ゆっくり瞬きをした。
「これはいつ」
問いは短い。
逃げ道がない問いほど、短くなる。
アランの指先が、絨毯の毛足を掴んで離せない。
爪の裏に繊維が入り込む感覚だけが現実だった。踏みつけられた手の痛みが、遅れてじんじんと波を打つ。痛みは確かにあるのに、それすらも遠い。
「……」
沈黙が落ちる。
落ちるたびに、床が深くなるような沈黙。
レギュラスは何も言わず、次の写真を表に返した。
同じ部屋、同じシーツ。近い距離。まつ毛の影まで写るほどの距離。
そしてさらにもう一枚――笑いながらカメラを奪う仕草。無邪気さが、罪そのものみたいに見えた。
「この三枚は同じ日ですか?」
アランは首を振りたいのに、首が動かない。
頷くこともできない。否定も肯定も、どちらも地獄に繋がっている。
レギュラスの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
貼り付いた陶器の表面に、髪の毛一本ほどのひびが入ったみたいに。
「……答えないと終わりませんよ」
優しい声だった。だから余計に冷える。
終わらない、と言っているのではない。終わらせない、と言っている。
「解放する気はないです。沈黙で逃げ切ろうなんて――許しません」
最後の語尾だけ、やけに丁寧に整えられていた。
整えたまま圧を増すのが、この男のやり方だと、アランはもう知っている。
レギュラスはしゃがみ込み、アランと同じ目線に降りてきた。
近い。香りも息も、すぐそこにある。触れていないのに、皮膚が怯える距離。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、意外なほど静かだった。
「いつ。――言って」
アランの唇が震える。
声が出ないのではない。言葉が、意味を持つ前に崩れていく。
「……レギュラス……」
やっと零れた声は掠れて、祈りの形にしかならない。
レギュラスの目が細くなる。
「“レギュラス”の次は?」
アランは息を吸った。吸って、吐いた。
それでも続きが作れない。
「……レギュラス、お願いします……」
自分でも分かる。
それは答えじゃない。
答えの代わりの、命乞いだ。
レギュラスは一瞬、笑いそうな顔をした。
愉快だからではない。腹の底が煮えている人間ほど、笑いに近い表情をすることがある。
「お願い?」
声の温度が少しだけ下がる。
「いいですよ。聞きましょう。――何を?」
アランは視線を落とした。
落とした瞬間、指先で顎を持ち上げられる。
乱暴ではない。
乱暴ではないからこそ、拒絶の余地がない。
「何を望んでるんです? 許してほしい? 忘れてほしい? 今すぐ終わらせてほしい?」
ひとつひとつ、丁寧に言葉を並べる。
丁寧に並べて、全部否定される形に追い込む。
アランの瞳に涙が溜まっていく。落としたくない。落としたくないのに、勝手に溜まる。
「……ごめんなさい……」
それしか出ない。
それしか持っていない。
レギュラスの口角が、今度こそほんの少し歪む。微笑みではない。
「“ごめんなさい”は便利ですね」
ささやくように言って、写真を指先で軽く弾いた。
紙が鳴る。その乾いた音が、胸の奥を叩く。
「それで、どの罪も一括払いできると思ってる?」
アランは首を横に振る。やっと動く。
でもそれも答えにならない。
「じゃあ、証明して」
レギュラスが言う。
声に苛立ちが滲み始める。それでもまだ爆ぜない。爆ぜないまま、鋭くなる。
「言って。いつ。どこ。何回。誰が誘った。あなたが笑ったのは、どの瞬間です」
アランの瞳が揺れた。
“笑った”という言葉が、針みたいに刺さる。自分が笑っていた事実が、より残酷に見える。
「……レギュラス……お願いします……」
縋るしかない。
縋る言葉しかない。
レギュラスは、息を一つ吐いた。短く、浅く。
「それは答えじゃない」
そして、机の上の写真をもう一度整列させ始めた。
まるで裁判の証拠を時系列に並べ替えるように。几帳面に。容赦なく。
「あなたが黙るほど、こちらが勝手に決めていいんですよ」
アランが息を呑む。
「“数日前”。“今日”。“何度も”。“あなたから”。――そういう結論でいい?」
言葉が、勝手に形を取っていく。
アランが否定しなければ、否定できなければ、それは事実になる。
「違……」
言いかけて、声が途切れた。
否定するための言葉が続かない。
レギュラスは、その途切れを見て、わずかに目を細めた。
「ほら」
苛立ちが、今度は確かに声に混じる。
薄い刃が、声の端に触れている。
「言えるじゃないですか。――“違う”なら、何が違うのか言って」
アランの胸が上下する。
呼吸が浅い。酸素が足りない。頭が白くなる。
「……ごめんなさい……」
またそれだ。
自分でも分かっているのに、止まらない。
レギュラスは立ち上がった。
その動作だけで、空気が一段重くなる。見下ろされる形に戻るだけで、膝がさらに沈む。
「今日が終わっても、続けます」
淡々とした声。
けれど、その淡々とした宣言は、終わりのない檻だった。
「あなたが眠くなっても。泣いても。黙っても。――続けます」
レギュラスは、写真の一枚をアランのすぐ前に落とした。
ふわりと落ちたのに、落下音はやけに大きく聞こえた。
「アラン。目を逸らさないで」
命令が増えていく。
夫の声が、家の当主の声に変わっていく。
「答えて。いつです?」
アランの喉が震える。
声が出ない。出せない。出した瞬間にすべてが壊れる気がする。
「……レギュラス……お願い……」
縋る声は、擦り切れた糸みたいに弱い。
レギュラスは少しだけ黙った。
そして、低く――ほんの僅かに荒い息を吐いた。
「……その“お願い”は、聞けません」
言い切る。
優しさの形をもう取らない。
「答えなさい」
アランは、唇を噛んだ。
血の味がした。泣き声が喉の奥まで来るのに、それでも言葉にはならない。
「……ごめんなさい、レギュラス……」
それだけが、何度でも落ちる。
跪いたまま、沈黙の底で、言葉の代わりに謝罪だけが反復される。
レギュラスの声が、さらに一段冷える。
「……いいでしょう」
静かに、しかし終わりを許さない声で。
「じゃあ、謝り続けて。――答えが出るまで」
ごめんなさい、と泣きながら膝を折るアランの姿は――皮肉なほどに、絵になっていた。
灯りを落とした寝室で、彼女の白い喉が震えるたび、涙が頬を伝うたび、その翡翠の瞳が潤むたびに。
一枚の肖像画として壁に掛けてしまえそうな完成度がある。だから余計に、胸の奥のどろりとしたものが煮え立った。
数時間前、奥の部屋から出てきた男の姿が脳裏に蘇る。
ローランド・フロスト――あの礼節の仮面を被ったまま、こちらの目もまともに見ずに頭を下げ、逃げるように玄関へ向かった男。
その足が、どこから出てきたのか。
そこだけが、どうしても結びつかなかった。
結びつかなかった“はず”なのに。
引き出しの中の写真が、結びつけてしまった。
自分の知らない場所で、自分の妻が笑っている。
自分の知らない温度で、自分の妻がほどけている。
それを「見つけてしまった」という事実だけで、理性がきしむ音がする。
乱暴に何かをしたい衝動が、喉元までせり上がる。
けれどそれを選んだ瞬間、この女の体温の中に“あの男の残り香”があるのだと、自分の手で確かめてしまうことになる。
それだけは耐え難かった。
嫌悪ではない。怒りでも足りない。もっと黒く、もっと醜い、腹の底を掻き回すものだった。
だから、続けるしかない。
答えが出るまで。
この女の口から“言わせる”まで。
レギュラスは、ゆっくりと呼吸を整えた。整えなければ、声が割れる。割れた声は負けだ。
机の上に、先ほどの魔法写真を重ねて置く。紙の角を揃える動作が、やけに冷静に見えるのは分かっている。冷静でいることだけが、今の自分を保っていた。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。優しく。丁寧に。
逃げ道を塞ぐ声で。
アランは顔を上げる。上げた瞬間、また涙が溢れた。
その涙が、許しを乞う形を作るのが――腹立たしいほど上手い。
「“ごめんなさい”はもう聞きました」
言葉を切る。切り方だけで、温度を奪う。
「必要なのは、謝罪じゃない。事実です」
アランの唇が震える。
喉が鳴るのに、言葉が出ない。
「言えないんですか?」
あえて柔らかく問う。
問いの形をした命令。
「言えないなら、言えるようになるまで待ちますよ。――ここで」
“待つ”と言いながら、解放しないと宣言している。
アランの肩が小さく跳ねる。
「……レギュラス、お願い……」
その二語が、また出てくる。
自分の中で、何かが細く切れる。
レギュラスは軽く笑った。笑い声は出さない。口元だけだ。
「“お願い”の内容を、具体的に」
刺すように丁寧に言う。
「何を望むんです? 今すぐ終わらせてほしい? 見なかったことにしてほしい? それとも――あなたが選んだ“隠し方”を、こちらにも手伝わせたい?」
アランの瞳が揺れる。
図星を突かれた時の揺れ方だ。だがその揺れさえ、言葉にならない。
レギュラスは、机の端に指先を置いた。
爪が木に触れる音が、妙に大きい。
「フロスト殿は、どれくらい前からここに出入りしていました?」
一つ目。
答えやすい形に見せて、逃げ道を消していく。
アランは息を吸い込む。吐けない。
沈黙が落ちる。
「“分からない”ですか? “覚えていない”ですか?」
淡々と、選択肢を並べる。
並べた瞬間、どちらも嘘になる。
「それとも“言いたくない”?」
アランの目から、涙が落ちた。床に小さな染みができる。
レギュラスはその染みを見下ろし、冷たく続けた。
「……言いたくないなら、こちらが決めますよ」
魔法写真を一枚、指で弾く。紙が鳴る。
「“最近”。“頻繁”。“あなたから”。――この三つでいい?」
アランが小さく首を振る。
否定の動作ができるなら、言葉も出せるはずだと、意地悪く思う。
「違うなら、どこが違うのか言って」
声に、ほんの少しだけ刃が混じる。
アランの体がすくむ。
「あなたのその沈黙が、フロスト殿を守るためのものなら――感心します」
心にもない賞賛を、丁寧に差し出す。
差し出してから、容赦なく潰す。
「でも、こちらが欲しいのは“守り”じゃない」
一歩近づく。
触れない距離で止まる。
「こちらが欲しいのは、あなたの口から出る“事実”です」
アランは顔を伏せたまま、嗚咽を堪えるように息を震わせる。
その必死さが、さらに腹を立てさせる。
必死で隠したのだ。必死で、こちらを欺いたのだ。必死で、こちらの目の前で“完璧な妻”を演じたのだ。
「……ねえ、アラン」
呼びかけが、急に優しくなる。
優しくなる時ほど、この男は危ない。
「あなたは賢い。だから分かるでしょう?」
言葉を柔らかい布で包む。中身は石だ。
「答えが出ないまま時間が過ぎれば、こちらは“確認”のために動くしかない」
アランが息を呑む。
「セシール卿に聞く? フロスト殿を呼ぶ? それとも――あなたのその部屋を、もう一度、隅から隅まで“整理”しましょうか」
“整理”という言葉に、全ての脅しが含まれている。
アランの瞳が、恐怖と羞恥で濁る。
「……やめて……」
やっと出た声は、か細い。
ようやく声が出るのなら、とレギュラスは思う。最初から出せばよかったのに。
「やめてほしいなら、答えて」
即座に返す。優しく、逃げ道を塞ぐ。
「フロスト殿は、あの部屋で何をしていました?」
“何を”の中身は言わない。
言わなくても、二人には分かる。分かるから黙る。
黙るから、追い詰める。
アランは唇を噛んだ。
血が滲んだのか、口元が赤く見えた。
「……レギュラス……ごめんなさい……」
またそれだ。
また、その場しのぎの、扉のない言葉。
レギュラスは、静かに頷いた。
「いいでしょう。じゃあ、続けます」
淡々と宣言する。
この淡々とした声が、どれほど残酷かを自分が一番知っている。
「“ごめんなさい”を言うのは簡単です。泣くのも簡単です。跪くのも、きっと――あなたは上手い」
言葉が、ゆっくりと刺さる。
刺したあとに抜かない。刺したまま、重さを足していく。
「でも、こちらが欲しいのは“上手い演技”じゃない」
机の上の写真を、もう一度指で撫でた。
自分の指が触れているだけで、紙が汚れる気がした。汚れたのは紙じゃない。頭の中だ。
「あなたが笑った理由を言って」
アランの顔が歪む。
「……それが言えないなら」
レギュラスはゆっくり息を吐く。
吐いた息が、やけに冷たい。
「次は、あなたが“笑えなくなる質問”をします」
そして、まるで雑談のように、整った声で。
「ねえ、アラン。――フロスト殿は、あなたを今も“ アラン”と呼びましたか?」
その瞬間、アランの肩が震えた。
呼称という、たった一つの小さな事実。
けれどそれは、二人だけの過去の鍵で、扉で、許されない親密の証だった。
レギュラスは微笑む。
微笑みの形を保ったまま、確信だけを深めていく。
「……答えて」
短く。
逃げられない声で。
「答えが出るまで、終わりませんよ」
アランの喉が震える。涙が落ちる。
それでも沈黙が続くなら――
その沈黙ごと、丁寧に、壊していくだけだった。
何時間が経ったのか、寝室の空気そのものが曖昧になっていた。
蝋燭は幾度か短くなり、香の甘さは熱に溶けて重たく沈む。窓の外は黒々として、屋敷のどこかで板が鳴るたび、それさえも遠い世界の音に聞こえた。
アランは――よく粘った。
涙の跡が乾きかけても、呼吸を整えても、言葉は決定的なところで途切れる。喉が潰れてしまうほど泣き叫ぶわけでもなく、かといって冷たく突き放すでもない。
ただ、答えない。答えられないのではない。答えないという形で、最後の一線を死守している。
レギュラスはその頑なさを、感心と呼ぶにはあまりに不快な感触で見下ろしていた。
強情な女だ――その言葉が、甘い餌のように舌の上を転がり、同時に砂を噛む。こちらがどれだけ丁寧に、どれだけ逃げ道を塞ぎながら問いを重ねても、肝心な核だけを掴ませない。
まるで、指先をすり抜ける薄い刃だ。
寝台の縁で、アランは膝を折ったまま俯いていた。
髪が乱れて頬にかかり、指先は冷えきっている。ローブの裾に落ちた涙が小さな点になって残り、そこだけが、過去数時間の現実を主張していた。
その時――控えめなノックが響いた。
「失礼いたします。……アルタイル様の授乳を」
乳母の声は、扉の向こうから慎重に差し込まれる。
屋敷の規律がそのまま声になったような、礼儀正しい響き。だが今の空気には、あまりに異物だった。
アランの肩がびくりと震えた。
それは反射だった。救いに手を伸ばすような、薄い光に縋るような動き。彼女は思わず立ち上がろうとする。膝が床を擦り、布が微かに鳴る。
「……」
レギュラスは、その動きを見逃さなかった。
声を荒げる必要はない。怒号は、感情の敗北だ。
彼はただ、静かに一歩踏み出し、アランの前に影を落とした。
行けない、と告げる代わりに、行ける余地を消す。
アランの視線が上がる。翡翠の瞳が、怯えと縋りの間で揺れた。
その揺れに、胸の奥がじり、と嫌な音を立てる。
レギュラスは何も言わず、扉の方へ向かった。
足音は一定で、整っている。乱れているのは内側だけだと、誰にも悟らせないために。
扉を開けると、乳母が丁寧に頭を下げた。薄い灯りの廊下に、白いエプロンが浮かぶ。
「奥様、いかがで……」
「母親の体調がすぐれませんから」
レギュラスは穏やかに言い切った。柔らかいが、覆らない声。
「今夜は粉ミルクで寝かしつけてください。――アルタイルには、そう伝えて」
乳母は一瞬だけ戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに礼節に戻った。
「承知いたしました。では、粉ミルクをご用意いたします」
扉が閉まる。
廊下の気配が遠ざかり、再び寝室だけの、濃密で逃げ場のない空間が戻ってくる。
レギュラスは背を向けたまま、一拍だけ呼吸を整えた。
胸の中で膨れ上がっていく苛立ちが、喉元まで迫っている。だが、それを声に乗せた瞬間に、こちらが負ける。
ゆっくり振り返る。
アランは、扉の方を見たまま固まっていた。
逃げ道が閉ざされたことを、身体が先に理解している。唇がかすかに開き、けれど音にならない。
彼女が“母”という肩書きに縋ろうとしたのが、余計に腹立たしかった。
レギュラスは微笑んだ。
形だけの、薄い微笑みだ。
「逃げられると思いました?」
言葉は静かで、丁寧で、だからこそ冷たかった。
アランが小さく首を振る。否定なのか、懇願なのか、自分でも分からないほど頼りない動き。
「……レギュラス……お願い……」
その言葉が出た瞬間、苛立ちはさらに芯を持つ。
お願い。謝罪。お願い。
それだけを繰り返して、核心を避ける。これ以上こちらを、愚弄するつもりなのか。
レギュラスは寝台脇の机に視線を落とす。
そこに重ねて置いたままの写真。動かしていないのに、存在だけで部屋の温度が一段下がる。
それを見れば、苛立ちが怒りへ、怒りが冷徹へと変換される。自分はそれを、何度も知っていた。
「いいでしょう」
言い方は優しい。内容は刃だ。
「セシール卿を呼びましょうか。――彼に聞きましょう。彼なら、分かるかもしれませんしね」
その瞬間、アランの顔から血の気が引いた。
父の名が出ただけで、恐怖が目に可視化される。
彼女は反射のように立ち上がり、ふらつきながらレギュラスへ縋りついた。ローブの胸元を両手で掴む。指が震え、布を歪ませる。
「お願い、レギュラス……それだけは……」
声が掠れている。息が絡まり、言葉が崩れる。
その必死さが、苛立ちを煽る一方で――どうしようもなく、愉悦に近いものを呼び起こす。
自分の言葉ひとつで、この女の世界が揺れる。守りたいものがあるなら、こちらの掌の上に乗せられる。
レギュラスはアランの手首を掴んで引き剥がすのではなく、逆にその指をそっと包み込んだ。
優しい仕草で、逃げ道を更に塞ぐ。
「……なら、言ってください」
低い声。甘い声音。けれど、要求は揺るがない。
「質問に、一つずつ答えてください。――そうすれば、セシール卿を巻き込む必要はない」
アランの瞳が揺れる。
涙が溢れ、頬を伝い、彼の手に落ちる。温かいはずの雫が、なぜか冷たく感じた。
「答えて、アラン」
名前を呼ぶだけで、鎖になる。
アランは小さく頷いた。頷くしかない。呼吸が破れ、唇が震える。逃げるためではなく、守るために、彼女はその場に縛り付けられる。
レギュラスは微笑みを崩さないまま、次の言葉を整えた。
怒鳴らない。乱さない。取り乱した方が負ける。
「まず一つ目。――フロスト殿は、あの部屋にどれくらい前から出入りしていました?」
丁寧に。柔らかく。
そして確実に、喉元へ刃を当てるように。
アランは息を吸った。
その吸い込んだ空気が、次の答えにならなければ――
レギュラスは、今度こそ本気で苛立ちを滲ませるだろう。
微笑みのまま、もっと深く、もっと静かに、彼女の逃げ場を消していく。
寝室の空気は、もう“夜”という言葉ひとつでは括れなかった。
蝋燭の芯が短くなり、甘い香が熱で重たく沈み、窓の外の闇は濃いまま動かない。時間だけが削れていくのに、ここだけが取り残されているようだった。
アランは膝をついたまま、レギュラスのローブを掴んでいた。指先が白くなるほど強く。
それが縋りであり、同時に――これ以上、何も失わないための最後の柵だった。
「お願い、レギュラス……父だけは……」
声が掠れて、言葉の端が崩れた。
泣き声に近いのに、決して叫びにはならない。彼女は叫ばない。叫ぶ余裕も、叫んでしまう怖さも、知っている。
レギュラスは彼女の手を乱暴に振り払わなかった。
むしろ、包み込むように指を重ね、そのままゆっくりと指先をほどいていく。優しい仕草で、逃げ道を奪う。
「……なら、答えてください」
声は柔らかい。丁寧だ。
だからこそ、拒否の余地がない。
「簡潔に。余計な飾りはいりません。――一つずつ」
アランの喉が上下した。
ここで“わからない”を通せば、扉の向こうへフクロウが飛ぶ。父が呼ばれる。
この寝室の地獄が、研究室へ、家族へ、アルタイルへ――ひろがってしまう。
それだけは、だめだった。
アランは涙を吸い込むように息を吸い、震える唇を必死に整えた。
それでも声が出るまでに、ほんの僅かな間が必要だった。
「……出入りは……最近です」
言えた。たったそれだけ。
けれど言えた瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。自分で自分を裏切ったみたいに。
レギュラスは微笑んだ。感心したように。
「“最近”。便利な言葉ですね。あなたらしい」
刃は、笑みの中にある。
アランは顔を上げられない。上げれば、その微笑みに映る自分が、あまりに惨めだから。
「どれくらい」
「……数週間……です」
「へえ」
短い感嘆は、褒め言葉ではない。
“その程度の期間で、ここまで仕上げたのか”とでも言いたげな響きがあった。
アランの肩が小さく震えた。
それでも、言葉を止めない。止めれば父が呼ばれる。
「頻度は」
「……毎回では……ありません。私が、研究を手伝いに……来た時に……」
「なるほど。セシール家へ通う回数が増えた理由は、説明がつきますね」
淡々とした声。淡々とした結論。
それが、彼女の喉を締め上げる。逃げ道が、ひとつずつ塞がれていく。
「次」
レギュラスは間を与えない。
アランが“息を整える”という名の沈黙に逃げるのを、許さない。
「……誰が、先に、触れました?」
その質問の仕方が、残酷だった。
“何をしたか”より先に、“どちらが始めたか”を問う。罪の配分を、こちらの口で決めさせる。
アランは反射的に首を振りかけて、止めた。
否定はできない。否定すれば――彼は次の札を切る。父を呼ぶ。アルタイルの名を出す。屋敷に戻る道さえ潰す。
「……私です」
言った瞬間、胃の奥がひっくり返りそうになった。
恥ずかしさより、もっと深いところ。自分が“その選択をした”という事実が、熱を持って突き刺さる。
レギュラスの口角が、ほんの僅かに上がった。
「――賢い」
それは称賛ではなく、宣告だった。
“あなたは自分で泥を選んだ”と、判を押されたようなものだ。
「あなたが?」
「……はい……」
「恋人ごっこですね。随分と」
“ごっこ”という一言が、アランの心を乱暴に踏みにじった。
甘かった時間が、どれほど必死で守ったものだったかを、理解されるはずもない。それをわざと、軽く呼ぶ。
アランは唇を噛んだ。血の味がした。
「……写真は」
次の質問が来る。
アランの背筋が強張る。あの引き出しに入れられていた無造作な幸福。眩しいほど無防備な笑い。
それが今、凶器として床に散らばった。
「……彼が……魔法カメラを……」
「“彼”」
レギュラスが、わざと咎めるように繰り返す。
「フロスト殿、と言いなさい。あなたはまだ、礼儀を忘れていないふりをするんでしょう?」
アランは目を閉じた。涙が睫毛に絡む。
「……フロスト殿が……撮りました」
「あなたは?」
「……私も……」
声が小さくなる。
その弱さが、許しを乞う形になってしまうのが悔しいのに、止められない。
レギュラスは、そこで一息ついた。
怒鳴らない。机を叩かない。感情を撒き散らさない。
その静けさが、いちばん怖い。
「どこで撮った」
「……奥の部屋です」
答えた瞬間、の全身が冷えた。
口にしただけで、寝室の空気が一段重くなる。
屋敷の寝台でレギュラスに触れられている感触と、セシール家のベッドに残るシーツの記憶が、胸の中でねじれていく。
「……その部屋で。あなたは。笑っていた」
レギュラスが、まるで写真を一枚ずつ撫でるような口調で言った。
「よくあんなふうに笑えますね。――自分の妻が」
“自分の妻”の部分だけが、妙に丁寧だった。
所有の言葉ほど、丁寧に言う。逃げ場が消える。
の喉から、嗚咽が漏れかける。
けれど、嗚咽は答えではない。
「……すみません……」
「謝罪は聞いていません」
即座に遮られる。
それでも声は穏やかで、慈悲深いふりさえしている。
「次。――何回?」
アランは硬直した。
回数を数えるなんて、そんなこと――できるはずがない。数えた瞬間、幸福まで汚れてしまうから。
だから彼女は、ずっと数えないようにしてきた。覚えないようにしてきた。忘れているふりをしてきた。
でも今、数えないことは“嘘”になる。
嘘は、父を呼ばせる。
アランは震えながら唇を開いた。
「……数回……」
「“数回”」
レギュラスは笑わなかった。
その代わり、静かに首を傾げる。
「あなたは研究者なのに、随分と曖昧な表現が好きなんですね。――数字は?」
アランの息が詰まる。
答えを出せない自分が、幼い子どものように思えた。
それでも――父を守るために。
「……三、回……くらい……」
言った。
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥が音を立てて崩れた気がした。ひとつ言葉を出すたびに、何かが剥がれて、床に落ちていく。
レギュラスは、その“くらい”を拾って弄ぶ。
「“くらい”。あなたの中では、三回も四回も誤差ですか?」
アランは首を振る。涙が頬を滑った。
「……違います……」
「では、正確に」
追い詰め方が、容赦ない。
答えの形を整えるまで、終わらせない。
「……三回……です」
やっと、言い切った。
言い切らされた。
レギュラスは小さく頷いた。
それは“進んだ”という合図でしかない。救いではない。
「いい子ですね」
優しい言葉の皮を被った、残酷。
「――次。最後に会ったのは、今日ですか?」
アランの肩が跳ねた。
“今日”という一語が、写真の散らばった玄関の冷たさを連れてくる。
粉のついた頬、ふいに落ちたキス、目を逸らしたローランド。すべてが、今この寝室に結びついてくる。
「……はい……」
声が、かすれた。
けれど、答えられた。言葉にした。
レギュラスは、そこで初めて、ほんの僅かに息を吐いた。
満足ではない。
“確認が取れた”というだけだ。
「そう」
静かに、冷ややかに。
「――つまり、あなたは今日、わざわざここに戻ってきて、何もなかった顔で、いつもの妻のふりをするつもりだったと」
言葉が途中で止まる。
止めることで、続きをアランの想像に委ねる。想像は、現実より残酷になる。
「よくできましたね」
褒めるように言う。
それが、最悪だった。
アランは俯いたまま、小さく震えた。自分が“褒められるように”答えている形が、もう耐えられない。
「……レギュラス……お願い……」
また、それしか言えない。
それでも今度は、“お願い”の中身が違った。父を守りたい。アルタイルを守りたい。自分の残骸だけで済むなら、それでいい。
レギュラスは、膝を折ったアランの顎に指先を添えた。
乱暴ではない。けれど逆らえない力で、顔を上げさせる。
翡翠の瞳が濡れている。
その濡れが、許しではなく、追い詰められた結果であることを、彼女自身がいちばん知っている。
「――続けましょう」
微笑みは薄いまま。声は優しいまま。
そのまま、終わりを見せない。
「あなたが答える限り、セシール卿は呼びません。……だから」
指先が、涙の跡をなぞる。
慰めるふりをして、鎖を締める。
「ちゃんと、言葉にして。アラン」
次の質問は、もう彼の舌の上に用意されていた。
どこまでも丁寧に、どこまでも残酷に――彼女が隠してきたものを、ひとつずつ“形”にしていくために。
外の廊下には灯りが落とされ、遠くで時計が一度だけ、鈍い鼓動のように鳴る。
レギュラスは部屋の中央にある小卓へ、手にしていたファイルを置いた。
丁寧な動作だった。乱暴に投げる必要がない。――もう逃げ場がないことを、この部屋の空気が知っている。
「座って」
命令は柔らかい声で、けれど疑問符の形を取らなかった。
アランは椅子に腰を下ろそうとして、指先が震えるのを止められない。踏まれた手の痛みが遅れて主張し、鼓動と一緒にじわじわ広がっていく。
レギュラスはランプの火を少し絞った。
暗くするほど、視線が逃げられなくなる。輪郭が溶けるほど、言葉の輪郭だけが鋭く残る。
「順番に、確認しますね」
穏やかに告げて、ファイルを開く。
中の写真は裏返しのまま、整列させられていく。まるで証拠品のように。あるいは、展示品のように。
アランの喉が鳴った。
「いつからです?」
レギュラスは顔色一つ変えない。
怒鳴らない。机を叩かない。声を荒げない。
代わりに、“答えの幅”を削ぎ落とす。
「“いつから”が難しいなら、最後に会ったのはいつです。今日の前に」
アランは唇を開いて、閉じた。
言葉が形にならない。嘘をつけば、次の瞬間に潰される。正直に言えば、その正直さが刃になる。
レギュラスは、待った。
待てる男だった。沈黙が相手を削ることを知っている。
「どうしました?」
指先で一枚の写真の角を撫でる。紙の擦れる音が、やけに大きい。
「声が出ませんか?」
アランの瞳が揺れる。
声が出ないのではない。何と言っていいかわからないのだ。
「……レギュラス、私は……」
やっと零れた声は、情けないほど薄い。
レギュラスは頷いた。理解を示す仕草だけを、わざと与える。
その直後、さらに刃を足す。
「“私は”の続きは?」
アランの胸が詰まる。
息を吸うたびに、肺が痛い。
「……わかりません」
レギュラスの口角が、ほんの僅かに上がった。笑みと呼ぶには冷たい、形だけの微笑み。
「わからない、ですか」
卓の上に並ぶ裏返しの写真たちを、指先が軽く整える。
「感心しますよ。一切を隠し通して好き放題してくれたものですね」
“好き放題”。
その言葉だけで、アランの体の奥が冷える。思い出が、恥が、幸福が、全部同じ色で汚れていく気がした。
「違います……」
言いかけた瞬間、レギュラスの視線が刺さる。
否定する言葉に、逃げ道を作らない。
「違う?」
やわらかな反復。
けれどその反復は、首を締める輪になる。
「じゃあ、言って。何が違うのか。――“どこが”違う?」
アランは言葉を失う。
違うと言いたい。けれど、何が違うのか、どこからが言い訳になるのか、区別できない。
レギュラスは椅子の背に手を置き、アランの背後に回り込んだ。
近い。吐息が髪を揺らす距離。
「アラン」
名前を呼ばれただけで、肩が跳ねる。
耳元に落ちた声は、甘いほど静かだった。
「質問を変えましょうか。簡単にします」
指先が、アランの顎に触れ、ほんの少しだけ上を向かせる。
抵抗すれば、指先の力が増す。増すことを、レギュラスはためらわない。
「今日。フロスト殿は、どこから出てきました?」
アランの瞳が大きく揺れた。
その揺れが、答えだった。
レギュラスは頷く。
“正解”を引き当てた時の、薄い満足が滲む。
「奥の部屋ですよね」
アランが震える息を吐く。
否定できない。否定すれば、次は写真を表に返される。
「そこは、あなたの部屋だ」
語尾に力を入れない。
入れないからこそ、重い。
「――そこで、何をしてたんです?」
アランの喉がきしむ。
涙が出そうになるのを、必死で引き戻す。泣けば、泣くほど惨めになる。泣けば、泣くほどこの男は冷静になる。
「……話を、していただけです」
レギュラスは、ふうっと息を吐く。笑いに近い、短い吐息。
「話」
その一語を反芻してから、机の上の写真に手を伸ばす。
裏返しのまま、一枚だけ―― アランの指先が震えるのが見える。
「話で、こんなものが増えるんですか」
言い方が淡々としている。
それがいちばん残酷だった。
「増えたのは、今日だけ?」
アランは首を振りかけて、止めた。
嘘をつけば、今日の写真だけで終わらないと悟られる。正直に言えば、死ぬ。
レギュラスは逃がさない。
「回数。言えます?」
「……」
「場所は?」
「……」
「あなたから誘った?」
「……」
「向こうから?」
「……」
質問が重なる。
一つ答えないたびに、次の質問が薄皮を剥ぐように、より核心へ滑り込む。
「子供の前では?」
アランの顔色が変わった。
アルタイルの名を出されると、世界が急に現実になる。
レギュラスはその変化を見逃さない。
「そこに線を引いているつもりなら、偉いですね」
褒めるように言って、すぐに壊す。
「でも、違う。線を引いてるのは“自分に都合のいいところ”だけです」
アランの肩が小さく震える。
手の痛みより、胸の痛みが勝ち始める。
「ごめんなさい」
気づけば、声が漏れていた。
それ以外の言葉が出ない。頭の中が白くなる。
レギュラスは、やっとアランの前へ回り込み、椅子の正面に立った。
見下ろす位置に、わざと立つ。
「“ごめんなさい”は、何に対してです?」
アランの唇がわななく。
何に、と問われた瞬間、“全部”と言えば終わりがないし、“これ”と言えば、そこから新しい問いが始まる。
「……」
「言葉にしてください」
レギュラスは微笑んだ。
慈悲の顔をして、猶予を奪う。
「あなたは、言葉が上手いでしょう。いつも正しいことを言う」
アランの目尻が濡れる。
“正しい”の中に、いつも逃げてきた。礼儀と体裁で、何度も生き延びてきた。
レギュラスは続ける。
「今も、正しいことを言って」
アランの喉が詰まった。
そして、耐えきれなくなったように椅子から滑り落ちる。膝が絨毯に沈み、自然と――跪く形になった。
「ごめんなさい、レギュラス」
声は震えて、情けなく掠れた。
それでも、言えた。言ってしまった。
レギュラスは、その姿をしばらく見下ろした。
勝利の喜びではない。怒りの爆発でもない。
ただ、呼吸ひとつ分の“静けさ”があった。
それから、指先でアランの顎を持ち上げる。
逃げる視線を許さず、翡翠の瞳を自分に向けさせる。
「いい子」
言葉は優しい。
けれど、優しい言葉ほど、今は刃になる。
「でも、まだ足りません」
アランの瞳が揺れる。
レギュラスは微笑みを崩さないまま、淡々と告げた。
「謝罪は、事実確認の後です」
そして、卓の上に並ぶ写真の一枚を、ゆっくり表に返した。
ランプの薄明かりの中に、無邪気に笑うアランが浮かび上がる。
「これはいつ。――答えて」
写真が表になった瞬間、薄い紙の一枚が、刃物よりも確かな重みを持ってアランの視界に落ちた。
灯りは絞られている。
輪郭は柔らかいのに、その中に写るものだけが異様に鮮明だった。笑っている自分。シーツの白。肌の白。空気の湿りまで、魔法写真は残酷なほど丁寧に記憶している。
アランは、喉が動くのに声が出ないことを初めて知った。
息はしている。肺は働いている。けれど言葉を形にする筋肉が、どこか別の人間のものになったみたいに、動き方を忘れている。
レギュラスはその一枚を見せたまま、ゆっくり瞬きをした。
「これはいつ」
問いは短い。
逃げ道がない問いほど、短くなる。
アランの指先が、絨毯の毛足を掴んで離せない。
爪の裏に繊維が入り込む感覚だけが現実だった。踏みつけられた手の痛みが、遅れてじんじんと波を打つ。痛みは確かにあるのに、それすらも遠い。
「……」
沈黙が落ちる。
落ちるたびに、床が深くなるような沈黙。
レギュラスは何も言わず、次の写真を表に返した。
同じ部屋、同じシーツ。近い距離。まつ毛の影まで写るほどの距離。
そしてさらにもう一枚――笑いながらカメラを奪う仕草。無邪気さが、罪そのものみたいに見えた。
「この三枚は同じ日ですか?」
アランは首を振りたいのに、首が動かない。
頷くこともできない。否定も肯定も、どちらも地獄に繋がっている。
レギュラスの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
貼り付いた陶器の表面に、髪の毛一本ほどのひびが入ったみたいに。
「……答えないと終わりませんよ」
優しい声だった。だから余計に冷える。
終わらない、と言っているのではない。終わらせない、と言っている。
「解放する気はないです。沈黙で逃げ切ろうなんて――許しません」
最後の語尾だけ、やけに丁寧に整えられていた。
整えたまま圧を増すのが、この男のやり方だと、アランはもう知っている。
レギュラスはしゃがみ込み、アランと同じ目線に降りてきた。
近い。香りも息も、すぐそこにある。触れていないのに、皮膚が怯える距離。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、意外なほど静かだった。
「いつ。――言って」
アランの唇が震える。
声が出ないのではない。言葉が、意味を持つ前に崩れていく。
「……レギュラス……」
やっと零れた声は掠れて、祈りの形にしかならない。
レギュラスの目が細くなる。
「“レギュラス”の次は?」
アランは息を吸った。吸って、吐いた。
それでも続きが作れない。
「……レギュラス、お願いします……」
自分でも分かる。
それは答えじゃない。
答えの代わりの、命乞いだ。
レギュラスは一瞬、笑いそうな顔をした。
愉快だからではない。腹の底が煮えている人間ほど、笑いに近い表情をすることがある。
「お願い?」
声の温度が少しだけ下がる。
「いいですよ。聞きましょう。――何を?」
アランは視線を落とした。
落とした瞬間、指先で顎を持ち上げられる。
乱暴ではない。
乱暴ではないからこそ、拒絶の余地がない。
「何を望んでるんです? 許してほしい? 忘れてほしい? 今すぐ終わらせてほしい?」
ひとつひとつ、丁寧に言葉を並べる。
丁寧に並べて、全部否定される形に追い込む。
アランの瞳に涙が溜まっていく。落としたくない。落としたくないのに、勝手に溜まる。
「……ごめんなさい……」
それしか出ない。
それしか持っていない。
レギュラスの口角が、今度こそほんの少し歪む。微笑みではない。
「“ごめんなさい”は便利ですね」
ささやくように言って、写真を指先で軽く弾いた。
紙が鳴る。その乾いた音が、胸の奥を叩く。
「それで、どの罪も一括払いできると思ってる?」
アランは首を横に振る。やっと動く。
でもそれも答えにならない。
「じゃあ、証明して」
レギュラスが言う。
声に苛立ちが滲み始める。それでもまだ爆ぜない。爆ぜないまま、鋭くなる。
「言って。いつ。どこ。何回。誰が誘った。あなたが笑ったのは、どの瞬間です」
アランの瞳が揺れた。
“笑った”という言葉が、針みたいに刺さる。自分が笑っていた事実が、より残酷に見える。
「……レギュラス……お願いします……」
縋るしかない。
縋る言葉しかない。
レギュラスは、息を一つ吐いた。短く、浅く。
「それは答えじゃない」
そして、机の上の写真をもう一度整列させ始めた。
まるで裁判の証拠を時系列に並べ替えるように。几帳面に。容赦なく。
「あなたが黙るほど、こちらが勝手に決めていいんですよ」
アランが息を呑む。
「“数日前”。“今日”。“何度も”。“あなたから”。――そういう結論でいい?」
言葉が、勝手に形を取っていく。
アランが否定しなければ、否定できなければ、それは事実になる。
「違……」
言いかけて、声が途切れた。
否定するための言葉が続かない。
レギュラスは、その途切れを見て、わずかに目を細めた。
「ほら」
苛立ちが、今度は確かに声に混じる。
薄い刃が、声の端に触れている。
「言えるじゃないですか。――“違う”なら、何が違うのか言って」
アランの胸が上下する。
呼吸が浅い。酸素が足りない。頭が白くなる。
「……ごめんなさい……」
またそれだ。
自分でも分かっているのに、止まらない。
レギュラスは立ち上がった。
その動作だけで、空気が一段重くなる。見下ろされる形に戻るだけで、膝がさらに沈む。
「今日が終わっても、続けます」
淡々とした声。
けれど、その淡々とした宣言は、終わりのない檻だった。
「あなたが眠くなっても。泣いても。黙っても。――続けます」
レギュラスは、写真の一枚をアランのすぐ前に落とした。
ふわりと落ちたのに、落下音はやけに大きく聞こえた。
「アラン。目を逸らさないで」
命令が増えていく。
夫の声が、家の当主の声に変わっていく。
「答えて。いつです?」
アランの喉が震える。
声が出ない。出せない。出した瞬間にすべてが壊れる気がする。
「……レギュラス……お願い……」
縋る声は、擦り切れた糸みたいに弱い。
レギュラスは少しだけ黙った。
そして、低く――ほんの僅かに荒い息を吐いた。
「……その“お願い”は、聞けません」
言い切る。
優しさの形をもう取らない。
「答えなさい」
アランは、唇を噛んだ。
血の味がした。泣き声が喉の奥まで来るのに、それでも言葉にはならない。
「……ごめんなさい、レギュラス……」
それだけが、何度でも落ちる。
跪いたまま、沈黙の底で、言葉の代わりに謝罪だけが反復される。
レギュラスの声が、さらに一段冷える。
「……いいでしょう」
静かに、しかし終わりを許さない声で。
「じゃあ、謝り続けて。――答えが出るまで」
ごめんなさい、と泣きながら膝を折るアランの姿は――皮肉なほどに、絵になっていた。
灯りを落とした寝室で、彼女の白い喉が震えるたび、涙が頬を伝うたび、その翡翠の瞳が潤むたびに。
一枚の肖像画として壁に掛けてしまえそうな完成度がある。だから余計に、胸の奥のどろりとしたものが煮え立った。
数時間前、奥の部屋から出てきた男の姿が脳裏に蘇る。
ローランド・フロスト――あの礼節の仮面を被ったまま、こちらの目もまともに見ずに頭を下げ、逃げるように玄関へ向かった男。
その足が、どこから出てきたのか。
そこだけが、どうしても結びつかなかった。
結びつかなかった“はず”なのに。
引き出しの中の写真が、結びつけてしまった。
自分の知らない場所で、自分の妻が笑っている。
自分の知らない温度で、自分の妻がほどけている。
それを「見つけてしまった」という事実だけで、理性がきしむ音がする。
乱暴に何かをしたい衝動が、喉元までせり上がる。
けれどそれを選んだ瞬間、この女の体温の中に“あの男の残り香”があるのだと、自分の手で確かめてしまうことになる。
それだけは耐え難かった。
嫌悪ではない。怒りでも足りない。もっと黒く、もっと醜い、腹の底を掻き回すものだった。
だから、続けるしかない。
答えが出るまで。
この女の口から“言わせる”まで。
レギュラスは、ゆっくりと呼吸を整えた。整えなければ、声が割れる。割れた声は負けだ。
机の上に、先ほどの魔法写真を重ねて置く。紙の角を揃える動作が、やけに冷静に見えるのは分かっている。冷静でいることだけが、今の自分を保っていた。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。優しく。丁寧に。
逃げ道を塞ぐ声で。
アランは顔を上げる。上げた瞬間、また涙が溢れた。
その涙が、許しを乞う形を作るのが――腹立たしいほど上手い。
「“ごめんなさい”はもう聞きました」
言葉を切る。切り方だけで、温度を奪う。
「必要なのは、謝罪じゃない。事実です」
アランの唇が震える。
喉が鳴るのに、言葉が出ない。
「言えないんですか?」
あえて柔らかく問う。
問いの形をした命令。
「言えないなら、言えるようになるまで待ちますよ。――ここで」
“待つ”と言いながら、解放しないと宣言している。
アランの肩が小さく跳ねる。
「……レギュラス、お願い……」
その二語が、また出てくる。
自分の中で、何かが細く切れる。
レギュラスは軽く笑った。笑い声は出さない。口元だけだ。
「“お願い”の内容を、具体的に」
刺すように丁寧に言う。
「何を望むんです? 今すぐ終わらせてほしい? 見なかったことにしてほしい? それとも――あなたが選んだ“隠し方”を、こちらにも手伝わせたい?」
アランの瞳が揺れる。
図星を突かれた時の揺れ方だ。だがその揺れさえ、言葉にならない。
レギュラスは、机の端に指先を置いた。
爪が木に触れる音が、妙に大きい。
「フロスト殿は、どれくらい前からここに出入りしていました?」
一つ目。
答えやすい形に見せて、逃げ道を消していく。
アランは息を吸い込む。吐けない。
沈黙が落ちる。
「“分からない”ですか? “覚えていない”ですか?」
淡々と、選択肢を並べる。
並べた瞬間、どちらも嘘になる。
「それとも“言いたくない”?」
アランの目から、涙が落ちた。床に小さな染みができる。
レギュラスはその染みを見下ろし、冷たく続けた。
「……言いたくないなら、こちらが決めますよ」
魔法写真を一枚、指で弾く。紙が鳴る。
「“最近”。“頻繁”。“あなたから”。――この三つでいい?」
アランが小さく首を振る。
否定の動作ができるなら、言葉も出せるはずだと、意地悪く思う。
「違うなら、どこが違うのか言って」
声に、ほんの少しだけ刃が混じる。
アランの体がすくむ。
「あなたのその沈黙が、フロスト殿を守るためのものなら――感心します」
心にもない賞賛を、丁寧に差し出す。
差し出してから、容赦なく潰す。
「でも、こちらが欲しいのは“守り”じゃない」
一歩近づく。
触れない距離で止まる。
「こちらが欲しいのは、あなたの口から出る“事実”です」
アランは顔を伏せたまま、嗚咽を堪えるように息を震わせる。
その必死さが、さらに腹を立てさせる。
必死で隠したのだ。必死で、こちらを欺いたのだ。必死で、こちらの目の前で“完璧な妻”を演じたのだ。
「……ねえ、アラン」
呼びかけが、急に優しくなる。
優しくなる時ほど、この男は危ない。
「あなたは賢い。だから分かるでしょう?」
言葉を柔らかい布で包む。中身は石だ。
「答えが出ないまま時間が過ぎれば、こちらは“確認”のために動くしかない」
アランが息を呑む。
「セシール卿に聞く? フロスト殿を呼ぶ? それとも――あなたのその部屋を、もう一度、隅から隅まで“整理”しましょうか」
“整理”という言葉に、全ての脅しが含まれている。
アランの瞳が、恐怖と羞恥で濁る。
「……やめて……」
やっと出た声は、か細い。
ようやく声が出るのなら、とレギュラスは思う。最初から出せばよかったのに。
「やめてほしいなら、答えて」
即座に返す。優しく、逃げ道を塞ぐ。
「フロスト殿は、あの部屋で何をしていました?」
“何を”の中身は言わない。
言わなくても、二人には分かる。分かるから黙る。
黙るから、追い詰める。
アランは唇を噛んだ。
血が滲んだのか、口元が赤く見えた。
「……レギュラス……ごめんなさい……」
またそれだ。
また、その場しのぎの、扉のない言葉。
レギュラスは、静かに頷いた。
「いいでしょう。じゃあ、続けます」
淡々と宣言する。
この淡々とした声が、どれほど残酷かを自分が一番知っている。
「“ごめんなさい”を言うのは簡単です。泣くのも簡単です。跪くのも、きっと――あなたは上手い」
言葉が、ゆっくりと刺さる。
刺したあとに抜かない。刺したまま、重さを足していく。
「でも、こちらが欲しいのは“上手い演技”じゃない」
机の上の写真を、もう一度指で撫でた。
自分の指が触れているだけで、紙が汚れる気がした。汚れたのは紙じゃない。頭の中だ。
「あなたが笑った理由を言って」
アランの顔が歪む。
「……それが言えないなら」
レギュラスはゆっくり息を吐く。
吐いた息が、やけに冷たい。
「次は、あなたが“笑えなくなる質問”をします」
そして、まるで雑談のように、整った声で。
「ねえ、アラン。――フロスト殿は、あなたを今も“ アラン”と呼びましたか?」
その瞬間、アランの肩が震えた。
呼称という、たった一つの小さな事実。
けれどそれは、二人だけの過去の鍵で、扉で、許されない親密の証だった。
レギュラスは微笑む。
微笑みの形を保ったまま、確信だけを深めていく。
「……答えて」
短く。
逃げられない声で。
「答えが出るまで、終わりませんよ」
アランの喉が震える。涙が落ちる。
それでも沈黙が続くなら――
その沈黙ごと、丁寧に、壊していくだけだった。
何時間が経ったのか、寝室の空気そのものが曖昧になっていた。
蝋燭は幾度か短くなり、香の甘さは熱に溶けて重たく沈む。窓の外は黒々として、屋敷のどこかで板が鳴るたび、それさえも遠い世界の音に聞こえた。
アランは――よく粘った。
涙の跡が乾きかけても、呼吸を整えても、言葉は決定的なところで途切れる。喉が潰れてしまうほど泣き叫ぶわけでもなく、かといって冷たく突き放すでもない。
ただ、答えない。答えられないのではない。答えないという形で、最後の一線を死守している。
レギュラスはその頑なさを、感心と呼ぶにはあまりに不快な感触で見下ろしていた。
強情な女だ――その言葉が、甘い餌のように舌の上を転がり、同時に砂を噛む。こちらがどれだけ丁寧に、どれだけ逃げ道を塞ぎながら問いを重ねても、肝心な核だけを掴ませない。
まるで、指先をすり抜ける薄い刃だ。
寝台の縁で、アランは膝を折ったまま俯いていた。
髪が乱れて頬にかかり、指先は冷えきっている。ローブの裾に落ちた涙が小さな点になって残り、そこだけが、過去数時間の現実を主張していた。
その時――控えめなノックが響いた。
「失礼いたします。……アルタイル様の授乳を」
乳母の声は、扉の向こうから慎重に差し込まれる。
屋敷の規律がそのまま声になったような、礼儀正しい響き。だが今の空気には、あまりに異物だった。
アランの肩がびくりと震えた。
それは反射だった。救いに手を伸ばすような、薄い光に縋るような動き。彼女は思わず立ち上がろうとする。膝が床を擦り、布が微かに鳴る。
「……」
レギュラスは、その動きを見逃さなかった。
声を荒げる必要はない。怒号は、感情の敗北だ。
彼はただ、静かに一歩踏み出し、アランの前に影を落とした。
行けない、と告げる代わりに、行ける余地を消す。
アランの視線が上がる。翡翠の瞳が、怯えと縋りの間で揺れた。
その揺れに、胸の奥がじり、と嫌な音を立てる。
レギュラスは何も言わず、扉の方へ向かった。
足音は一定で、整っている。乱れているのは内側だけだと、誰にも悟らせないために。
扉を開けると、乳母が丁寧に頭を下げた。薄い灯りの廊下に、白いエプロンが浮かぶ。
「奥様、いかがで……」
「母親の体調がすぐれませんから」
レギュラスは穏やかに言い切った。柔らかいが、覆らない声。
「今夜は粉ミルクで寝かしつけてください。――アルタイルには、そう伝えて」
乳母は一瞬だけ戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに礼節に戻った。
「承知いたしました。では、粉ミルクをご用意いたします」
扉が閉まる。
廊下の気配が遠ざかり、再び寝室だけの、濃密で逃げ場のない空間が戻ってくる。
レギュラスは背を向けたまま、一拍だけ呼吸を整えた。
胸の中で膨れ上がっていく苛立ちが、喉元まで迫っている。だが、それを声に乗せた瞬間に、こちらが負ける。
ゆっくり振り返る。
アランは、扉の方を見たまま固まっていた。
逃げ道が閉ざされたことを、身体が先に理解している。唇がかすかに開き、けれど音にならない。
彼女が“母”という肩書きに縋ろうとしたのが、余計に腹立たしかった。
レギュラスは微笑んだ。
形だけの、薄い微笑みだ。
「逃げられると思いました?」
言葉は静かで、丁寧で、だからこそ冷たかった。
アランが小さく首を振る。否定なのか、懇願なのか、自分でも分からないほど頼りない動き。
「……レギュラス……お願い……」
その言葉が出た瞬間、苛立ちはさらに芯を持つ。
お願い。謝罪。お願い。
それだけを繰り返して、核心を避ける。これ以上こちらを、愚弄するつもりなのか。
レギュラスは寝台脇の机に視線を落とす。
そこに重ねて置いたままの写真。動かしていないのに、存在だけで部屋の温度が一段下がる。
それを見れば、苛立ちが怒りへ、怒りが冷徹へと変換される。自分はそれを、何度も知っていた。
「いいでしょう」
言い方は優しい。内容は刃だ。
「セシール卿を呼びましょうか。――彼に聞きましょう。彼なら、分かるかもしれませんしね」
その瞬間、アランの顔から血の気が引いた。
父の名が出ただけで、恐怖が目に可視化される。
彼女は反射のように立ち上がり、ふらつきながらレギュラスへ縋りついた。ローブの胸元を両手で掴む。指が震え、布を歪ませる。
「お願い、レギュラス……それだけは……」
声が掠れている。息が絡まり、言葉が崩れる。
その必死さが、苛立ちを煽る一方で――どうしようもなく、愉悦に近いものを呼び起こす。
自分の言葉ひとつで、この女の世界が揺れる。守りたいものがあるなら、こちらの掌の上に乗せられる。
レギュラスはアランの手首を掴んで引き剥がすのではなく、逆にその指をそっと包み込んだ。
優しい仕草で、逃げ道を更に塞ぐ。
「……なら、言ってください」
低い声。甘い声音。けれど、要求は揺るがない。
「質問に、一つずつ答えてください。――そうすれば、セシール卿を巻き込む必要はない」
アランの瞳が揺れる。
涙が溢れ、頬を伝い、彼の手に落ちる。温かいはずの雫が、なぜか冷たく感じた。
「答えて、アラン」
名前を呼ぶだけで、鎖になる。
アランは小さく頷いた。頷くしかない。呼吸が破れ、唇が震える。逃げるためではなく、守るために、彼女はその場に縛り付けられる。
レギュラスは微笑みを崩さないまま、次の言葉を整えた。
怒鳴らない。乱さない。取り乱した方が負ける。
「まず一つ目。――フロスト殿は、あの部屋にどれくらい前から出入りしていました?」
丁寧に。柔らかく。
そして確実に、喉元へ刃を当てるように。
アランは息を吸った。
その吸い込んだ空気が、次の答えにならなければ――
レギュラスは、今度こそ本気で苛立ちを滲ませるだろう。
微笑みのまま、もっと深く、もっと静かに、彼女の逃げ場を消していく。
寝室の空気は、もう“夜”という言葉ひとつでは括れなかった。
蝋燭の芯が短くなり、甘い香が熱で重たく沈み、窓の外の闇は濃いまま動かない。時間だけが削れていくのに、ここだけが取り残されているようだった。
アランは膝をついたまま、レギュラスのローブを掴んでいた。指先が白くなるほど強く。
それが縋りであり、同時に――これ以上、何も失わないための最後の柵だった。
「お願い、レギュラス……父だけは……」
声が掠れて、言葉の端が崩れた。
泣き声に近いのに、決して叫びにはならない。彼女は叫ばない。叫ぶ余裕も、叫んでしまう怖さも、知っている。
レギュラスは彼女の手を乱暴に振り払わなかった。
むしろ、包み込むように指を重ね、そのままゆっくりと指先をほどいていく。優しい仕草で、逃げ道を奪う。
「……なら、答えてください」
声は柔らかい。丁寧だ。
だからこそ、拒否の余地がない。
「簡潔に。余計な飾りはいりません。――一つずつ」
アランの喉が上下した。
ここで“わからない”を通せば、扉の向こうへフクロウが飛ぶ。父が呼ばれる。
この寝室の地獄が、研究室へ、家族へ、アルタイルへ――ひろがってしまう。
それだけは、だめだった。
アランは涙を吸い込むように息を吸い、震える唇を必死に整えた。
それでも声が出るまでに、ほんの僅かな間が必要だった。
「……出入りは……最近です」
言えた。たったそれだけ。
けれど言えた瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。自分で自分を裏切ったみたいに。
レギュラスは微笑んだ。感心したように。
「“最近”。便利な言葉ですね。あなたらしい」
刃は、笑みの中にある。
アランは顔を上げられない。上げれば、その微笑みに映る自分が、あまりに惨めだから。
「どれくらい」
「……数週間……です」
「へえ」
短い感嘆は、褒め言葉ではない。
“その程度の期間で、ここまで仕上げたのか”とでも言いたげな響きがあった。
アランの肩が小さく震えた。
それでも、言葉を止めない。止めれば父が呼ばれる。
「頻度は」
「……毎回では……ありません。私が、研究を手伝いに……来た時に……」
「なるほど。セシール家へ通う回数が増えた理由は、説明がつきますね」
淡々とした声。淡々とした結論。
それが、彼女の喉を締め上げる。逃げ道が、ひとつずつ塞がれていく。
「次」
レギュラスは間を与えない。
アランが“息を整える”という名の沈黙に逃げるのを、許さない。
「……誰が、先に、触れました?」
その質問の仕方が、残酷だった。
“何をしたか”より先に、“どちらが始めたか”を問う。罪の配分を、こちらの口で決めさせる。
アランは反射的に首を振りかけて、止めた。
否定はできない。否定すれば――彼は次の札を切る。父を呼ぶ。アルタイルの名を出す。屋敷に戻る道さえ潰す。
「……私です」
言った瞬間、胃の奥がひっくり返りそうになった。
恥ずかしさより、もっと深いところ。自分が“その選択をした”という事実が、熱を持って突き刺さる。
レギュラスの口角が、ほんの僅かに上がった。
「――賢い」
それは称賛ではなく、宣告だった。
“あなたは自分で泥を選んだ”と、判を押されたようなものだ。
「あなたが?」
「……はい……」
「恋人ごっこですね。随分と」
“ごっこ”という一言が、アランの心を乱暴に踏みにじった。
甘かった時間が、どれほど必死で守ったものだったかを、理解されるはずもない。それをわざと、軽く呼ぶ。
アランは唇を噛んだ。血の味がした。
「……写真は」
次の質問が来る。
アランの背筋が強張る。あの引き出しに入れられていた無造作な幸福。眩しいほど無防備な笑い。
それが今、凶器として床に散らばった。
「……彼が……魔法カメラを……」
「“彼”」
レギュラスが、わざと咎めるように繰り返す。
「フロスト殿、と言いなさい。あなたはまだ、礼儀を忘れていないふりをするんでしょう?」
アランは目を閉じた。涙が睫毛に絡む。
「……フロスト殿が……撮りました」
「あなたは?」
「……私も……」
声が小さくなる。
その弱さが、許しを乞う形になってしまうのが悔しいのに、止められない。
レギュラスは、そこで一息ついた。
怒鳴らない。机を叩かない。感情を撒き散らさない。
その静けさが、いちばん怖い。
「どこで撮った」
「……奥の部屋です」
答えた瞬間、の全身が冷えた。
口にしただけで、寝室の空気が一段重くなる。
屋敷の寝台でレギュラスに触れられている感触と、セシール家のベッドに残るシーツの記憶が、胸の中でねじれていく。
「……その部屋で。あなたは。笑っていた」
レギュラスが、まるで写真を一枚ずつ撫でるような口調で言った。
「よくあんなふうに笑えますね。――自分の妻が」
“自分の妻”の部分だけが、妙に丁寧だった。
所有の言葉ほど、丁寧に言う。逃げ場が消える。
の喉から、嗚咽が漏れかける。
けれど、嗚咽は答えではない。
「……すみません……」
「謝罪は聞いていません」
即座に遮られる。
それでも声は穏やかで、慈悲深いふりさえしている。
「次。――何回?」
アランは硬直した。
回数を数えるなんて、そんなこと――できるはずがない。数えた瞬間、幸福まで汚れてしまうから。
だから彼女は、ずっと数えないようにしてきた。覚えないようにしてきた。忘れているふりをしてきた。
でも今、数えないことは“嘘”になる。
嘘は、父を呼ばせる。
アランは震えながら唇を開いた。
「……数回……」
「“数回”」
レギュラスは笑わなかった。
その代わり、静かに首を傾げる。
「あなたは研究者なのに、随分と曖昧な表現が好きなんですね。――数字は?」
アランの息が詰まる。
答えを出せない自分が、幼い子どものように思えた。
それでも――父を守るために。
「……三、回……くらい……」
言った。
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥が音を立てて崩れた気がした。ひとつ言葉を出すたびに、何かが剥がれて、床に落ちていく。
レギュラスは、その“くらい”を拾って弄ぶ。
「“くらい”。あなたの中では、三回も四回も誤差ですか?」
アランは首を振る。涙が頬を滑った。
「……違います……」
「では、正確に」
追い詰め方が、容赦ない。
答えの形を整えるまで、終わらせない。
「……三回……です」
やっと、言い切った。
言い切らされた。
レギュラスは小さく頷いた。
それは“進んだ”という合図でしかない。救いではない。
「いい子ですね」
優しい言葉の皮を被った、残酷。
「――次。最後に会ったのは、今日ですか?」
アランの肩が跳ねた。
“今日”という一語が、写真の散らばった玄関の冷たさを連れてくる。
粉のついた頬、ふいに落ちたキス、目を逸らしたローランド。すべてが、今この寝室に結びついてくる。
「……はい……」
声が、かすれた。
けれど、答えられた。言葉にした。
レギュラスは、そこで初めて、ほんの僅かに息を吐いた。
満足ではない。
“確認が取れた”というだけだ。
「そう」
静かに、冷ややかに。
「――つまり、あなたは今日、わざわざここに戻ってきて、何もなかった顔で、いつもの妻のふりをするつもりだったと」
言葉が途中で止まる。
止めることで、続きをアランの想像に委ねる。想像は、現実より残酷になる。
「よくできましたね」
褒めるように言う。
それが、最悪だった。
アランは俯いたまま、小さく震えた。自分が“褒められるように”答えている形が、もう耐えられない。
「……レギュラス……お願い……」
また、それしか言えない。
それでも今度は、“お願い”の中身が違った。父を守りたい。アルタイルを守りたい。自分の残骸だけで済むなら、それでいい。
レギュラスは、膝を折ったアランの顎に指先を添えた。
乱暴ではない。けれど逆らえない力で、顔を上げさせる。
翡翠の瞳が濡れている。
その濡れが、許しではなく、追い詰められた結果であることを、彼女自身がいちばん知っている。
「――続けましょう」
微笑みは薄いまま。声は優しいまま。
そのまま、終わりを見せない。
「あなたが答える限り、セシール卿は呼びません。……だから」
指先が、涙の跡をなぞる。
慰めるふりをして、鎖を締める。
「ちゃんと、言葉にして。アラン」
次の質問は、もう彼の舌の上に用意されていた。
どこまでも丁寧に、どこまでも残酷に――彼女が隠してきたものを、ひとつずつ“形”にしていくために。
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