2章
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研究室の空気は、いつもより少し甘く、少し苦かった。
煮詰められた薬草の青い香りと、蒸留器の熱が生む湿り気が、薄い霧のように室内に漂っている。ガラス器具の縁が灯りを受けて白く光り、羽根ペンの擦れる音が規則正しく続いていた。
アランは相変わらず、記録に没頭していた。
頬に付いた粉はそのまま――綺麗に整った横顔に、場違いなくらい無防備な印が残っている。
レギュラスは、その粉を“見過ごせない”という感覚だけで前に出た。
優しさの形をしているくせに、行動の芯はずっと鋭い。
「……動かないで。すぐ取れますから」
指先が頬に触れる直前、アランの睫毛が一度だけ震えた。驚きと、警戒と、慣れ。全部が混じった反射だ。
だが彼女は逆らわない。静かに顎を少し上げ、言われるままに動きを止めた。
レギュラスの指が、粉の粒子を丁寧に拭い取る。
きめ細かな皮膚の上を滑る感触が、記憶のどこかを刺激する。妻という存在を、ただの言葉ではなく体温で理解していくような――そんな不穏な満足が、胸の奥に溜まっていく。
「……ありがとうございます」
アランが息を吐く。
それは礼儀正しい言葉だったのに、距離の近さのせいで、ひどく柔らかく聞こえた。
レギュラスは返事をしない。
返事の代わりに、あまりにも自然な動作で、口づけを落とした。
音も立てない、軽いキス。
研究室の雑音に溶けてしまうほど短いのに、意味だけは濃い。指先で粉を拭った流れのまま、当然の権利として、当然の習慣として――そう見せるための動き。
アランの身体が、ほんのわずか硬くなる。
けれどすぐに、いつものように呼吸を整えた。拒絶でも、受容でもない。妻として、母として、体裁を崩さないための処理。
その“整え方”が上手くなったことさえ、レギュラスには気に入らなかった。
そして。
ローランドフロスト――が、視線を逸らした。
一瞬だった。
礼節として、配慮として、見なかったことにする――そういう種類の逸らし方にも見える。
だが、レギュラスの目には、もう一つの可能性が滑り込む。
見られない。
見たくない。
見れば、何かが溢れる。
その違いは、ほんの数拍の呼吸に滲む。
レギュラスは、そこに“棘”の根が刺さっていると確信した。
胸の奥が、静かにざわめく。
ざわめきの正体が怒りなのか、優越なのか、あるいはその両方なのか。判断する前に、もう次の手が必要だった。
この違和感を放置したまま、日常へ戻ることは出来ない。出来てしまうほど鈍くなることが、もっと嫌だ。
レギュラスは表情を崩さない。崩さないまま、声の温度だけを少し上げる。
「せっかくです。皆さんで食べましょう」
差し入れの包みを軽く掲げ、周囲の研究員たちへ視線を配る。
甘い提案に見えるように、けれど拒めない形で。
「応接間で。少し休憩を挟んでください。――セシール卿に報告をする前に、手を止める時間も必要でしょう」
“必要でしょう”という語尾が、命令ではない顔をして、命令のように響く。
研究員たちは顔を見合わせ、どこかほっとしたように頷いた。レギュラスの差し入れを断れる者など、ここにはいない。
アランも、咄嗟に何かを言いかけたが、結局飲み込んだ。
その横顔は笑っているのに、口元の筋肉がほんの少し硬い。自分の機嫌を損ねないために、どの言葉を選ぶべきか計算している。
それがまた、愛らしくもあり、憎たらしくもあった。
人が動き出す。椅子が引かれ、紙が揃えられ、ガラス器具の火が落とされる。
研究室の熱と音が、少しずつ引いていく。
――さあ、残るのは誰だ。
レギュラスの視線が、自然にフロストへ戻る。
逃げ道が塞がっていく音を、本人だけが聞いているような静けさ。
けれどフロストは、背筋を正し、丁寧に頭を下げた。
完璧な礼儀を纏ったまま、距離だけを確保するための動き。
「ブラック様、僕はこれで失礼します」
その言葉の端が、硬い。
急いでいるというより、“ここに居続ける理由を作りたくない”硬さ。
レギュラスの口元に、微笑みが浮かぶ。薄い膜のような微笑みだ。
感情を隠すためではない。感情を、もっと綺麗に刃へ変えるための形。
「それは残念ですね。お忙しいみたいで」
そう言いながら、わざと一拍置く。
“忙しい”という言葉の意味を、相手に選ばせるために。
仕事が忙しいのか。
それとも、ここに居ることが忙しいのか。
――どちらにしても、答えは相手の顔に出る。
レギュラスは、淡く首を傾げる。穏やかな仕草のまま、逃げ道だけを静かに狭める。
「……短い時間でも構いません。せっかくですから、差し入れだけでも口にしていかれては? セシール卿の研究に関わる方に、こちらの顔を立てていただけると助かります」
命令ではない。
だが“断る理由”を奪う言い方だった。
アランが、ほんの少しだけ目を伏せる。
その仕草が、祈りのようにも、諦めのようにも見える。
そしてレギュラスは、フロストがどんな顔をするのかを、呼吸すら惜しむように見つめた。
逸らした視線の意味を。
あの瞬間、胸に走った“何か”の正体を。
ここで確かめなければ、眠れない。
研究室の灯りが、ガラス越しに揺れている。
その揺れの中で、レギュラスの微笑みだけが――不思議なほど静かに、鋭く固定されていた。
研究室が空になった瞬間、空気が変わった。
さっきまでそこにあった人の気配――椅子の軋み、紙をめくる音、薬草の甘苦い香りの揺れさえ、ふっと途切れる。火を落とされたランプは芯だけが赤く残り、ガラス器具は静かに冷えはじめていた。
静寂は、礼儀正しく整えられた“休憩”の名残ではなく、何かを隠すための布のように、薄く研究室を覆っていく。
レギュラスは迷わず奥へ向かった。
躊躇というものが、最初から選択肢に入っていない足取りだった。
扉の取っ手に触れると、金属はひやりとしている。
その冷たさが、妙に現実味を増幅させた。
奥の部屋―― アランの部屋。
以前、彼女が妊娠中にここで休んでいった夜を思い出す。あの時は、疲れ切った妻がこの部屋の寝台に背を預け、短い眠りに落ちた。自分は扉の内側へ入り、彼女の本やノート、論文に触れ、そして――アルバムを見つけた。
翡翠の瞳をした少女が、ローランドフロストの隣で笑っていた。
記憶が、いまの景色と重なる。
拍子抜けするほど、何も変わっていない。
整頓された机。
本棚。
ベッド。
白いシーツ。
窓辺の淡い光と、紙の匂い。
こんな普通の部屋に。
この程度の、どこにでもあるような私室に。
――なぜ、フロストは入っていた?
その一点だけが、どうしても結びつかない。
研究の相談? 資料の確認? それなら、研究室で済む。応接間でも十分だ。わざわざ“ここ”へ入る理由が、何ひとつ合理的に立たない。
レギュラスは息を吐き、部屋の中央で立ち止まる。
冷静だった。奇妙なほどに。
胸の奥に熱がないわけではない。だがそれは燃え上がる炎ではなく、硬質な刃のように澄んでいた。
引き出しを一つ、開ける。
紙束、インク、封蝋。以前と同じ。
次。
薬草のメモ、配合比の控え。以前と同じ。
次。
古い羽根ペン。小さな記章。以前と同じ。
次々に開けていく。
雑に見えて、その動きは正確だった。
“探す”というより、“確認する”手つき。期待と失望の波すらなく、ただ事実だけを積み上げるための手。
本棚へ視線が移る。
あのアルバムでさえ、以前と同じ位置に収まっている。
――何もない。
そう判断しかけた、その時。
最後に残った引き出しへ指がかかった。
位置は低い。机の脇。影になりやすい場所。
そこだけが、妙に静かにこちらを待っている。
取っ手を引く。
木が擦れる音が、部屋に薄く響く。
開いた瞬間――レギュラスは、固まった。
呼吸の仕方を忘れた、という表現は比喩ではなかった。
肺が動かない。喉の奥が、ひどく乾く。
血の巡りが、一拍遅れて身体に戻ってくる。
そこには、魔法写真があった。
何枚も、無造作に。重ねられ、角が少し折れたものまである。
厳重に隠すでもなく、丁寧に封をするでもなく。
まるで――ここにあることが“当たり前”であるかのように。
レギュラスの目は、一枚目で理解した。
理解してしまった。
ただただ親密な男女の時間。
背景はこの部屋で、寝台で、シーツは白いまま。
そして、写っているのは―― アランとローランドフロストだった。
一枚目は、アランだけが写っている。
肩からシーツを軽くかけただけの姿で、思いがけない瞬間を切り取られたように目を丸くしている。白い肌が無防備に光を吸い、翡翠の瞳が怒りと照れと困惑で揺れている。
二枚目は、笑っている。
無邪気に、声が聞こえそうなほど大きな口を開けて。
その笑い方を、自分は知らない。
胸の奥が、一瞬だけ冷えた。知らなさが刺さる。
三枚目は、至近距離。
まつ毛の影さえ写っている。肌のきめ、頬の熱、息の湿り気――写真が“触覚”を持っているようだった。
そこまで近づける距離を許しているという事実が、無言で胸骨を叩いた。
そして別の束には、ローランドフロストが写っている。
礼儀を纏う前の、素の表情。
眉が少し緩み、目が優しく細められている。
撮ったのはアランだろう。被写体がこちらを見ていない角度の写真が混じっている。
“見つめた時間”が、そのまま印画に封じ込められていた。
レギュラスは、ゆっくりと指を伸ばす。
一枚ずつ拾い上げる。
紙は温度を持たない。
だが指先だけが、妙に熱い。
怒りで熱いのではない。むしろ、怒りは遠い。
衝撃があまりに大きいと、感情は先に崩れず、逆に整列してしまう。
“理解するための冷静”だけが残る。
拾う。
見る。
拾う。
見る。
――場所は同じ。
――寝台は同じ。
――シーツは同じ。
同じ、同じ、同じ。
それは偶然ではない。
一度でも入っただけの痕跡ではない。
積み重ねた回数と、時間と、習慣の匂いだった。
レギュラスの口元が、わずかに歪む。
笑みではない。
表情の筋肉が、どこに置けばいいのか分からず、わずかに引き攣れただけだ。
胸の奥に、静かな音がした。
薄い氷が割れるような――しかし割れたところから吹き出すのは水ではなく、乾いた風だった。
あの日。
魔法省で嗅いだ匂い。
アランの髪から、ほんの一瞬香ったもの。
フロスト殿の衣服から立ったものと同じ匂い。
点が、線になる。
線が、形になる。
レギュラスは、写真を握りしめない。
力を入れれば、紙が傷む。
――紙を傷めることに、価値はない。
代わりに、丁寧に揃える。
端を揃え、重ね直し、手のひらで軽く押さえる。
まるで書類を整えるように。
まるで“証拠”を扱うように。
冷静だった。
驚くほどに。
だがその冷静の底で、別のものが育っていく。
怒りよりも深く、嫉妬よりも重く、侮辱よりも鋭い。
自分の“所有”が――自分の“勝利”が――笑い話のように脆かったのではないか、という感覚。
レギュラスは、最後に一枚を拾う。
白い肌にシーツをかけただけのアラン。
不意打ちを取られたような表情。
こちらを責めるように眉を寄せ、それでも笑いが零れそうな、あの“若い頃の空気”を纏った顔。
その顔を見た瞬間、ようやく胸の奥で何かが動いた。
痛みでも、怒りでもない。
ただ、ひどく静かな確信。
――ここまで来たら、もう戻れない。
レギュラスは写真の束を手に持ったまま、引き出しを閉めない。
部屋の空気が、やけに薄い。
ランプの残り火が、ガラスの縁で小さく揺れている。
そして、唇だけが、ほんの少し動いた。
「……なるほど」
声は低く、柔らかい。
けれどその柔らかさは、氷の表面のように滑らかで、冷たかった。
怒りを通り越して冷静――それは、許したという意味ではない。
むしろその逆だ。
感情を爆発させるより先に、次の手が整い始めている。
レギュラスは、もう一度写真を見下ろす。
視線の中に、慈悲はない。
ただ、すべてを突き詰める執念だけが、静かに燃えていた。
レギュラスは研究室を出た。
扉の向こうに残したのは、硝子器具の余熱と、薬草の香りと、沈黙の重さだけ。廊下に足を踏み出した瞬間、空気の質が変わる。屋敷の古い木材が抱え込んだ、甘い蝋の匂い。磨き上げられた床の冷たさ。どこか遠くで鳴る時計の、規則正しい音。
そして――応接間の方から、笑い声が聞こえた。
何の飾り気もなく、息を弾ませたような笑い。会話の端々に、親しみが滲む。客を迎えるために整えられた部屋に、今だけ“昔の気配”が戻っている。
視線を向けずとも、状況がありありと浮かぶ。
アランがいて、ローランド・フロストがいて、誰にも邪魔されない程度の距離があって――その距離の中で、二人は、何事もなかったかのように呼吸を重ねている。
喉の奥が冷たく乾く。だが歩調は乱れない。
玄関の方へ向かう足音があった。応接間の笑いが遠のき、代わりに扉の開閉の気配、衣擦れ、フクロウ便の鈴のような微かな音。見送りのために立つ気配が、空気を整える。
玄関ホールに出ると、ちょうど二人がそこにいた。
ローランド・フロストは外套を整え、手袋の指先まできっちりと揃えている。いつも通りの、礼節の化身のような男。
アランは少し後ろ、距離を保ったまま見送ろうとしていた。声の調子も、表情も、完璧に“ブラック家の妻”として整っている――ように見える。
けれど、ほんのわずかな揺らぎがある。目元の柔らかさが、いつもより一段だけ緩い。頬の血色が、妙に生きている。
それを見つけた瞬間、胸の奥で何かが小さく割れた。痛みではなく、確認だ。
レギュラスは二人のそばへ寄った。足音を忍ばせる必要はない。むしろ、気づかせるために歩く。
「――お忘れものですよ、フロスト殿」
声は穏やかで、場を壊さない。呼吸に乗る微笑みも、社交のものと寸分違わない。
ローランド・フロストは振り返り、自分の姿を捉えると即座に背筋を正し、丁寧に頭を下げた。
「ブラック様。……恐れ入ります」
どこまでも真面目で、どこまでも律儀だ。
その姿が、かえって可笑しい。笑ってしまいそうになる。
この男は、礼節を盾にしてきた。礼節を鎧にして、どんな感情も奥へ押し込み、誰にも触れさせまいとしてきた。
そのくせ――自分の知らないところで。
ブラック家の妻を、好き勝手に抱き締め、笑わせ、写真に閉じ込めていた。
随分といい根性をしている。
そう思った途端、口角がほんの少しだけ上がる。人に見せるための微笑みと、内側で生まれた薄い嘲りが、同じ形に重なった。
レギュラスは手にしたファイルを、書類を渡すようにローランドへ差し出した。紙の重みが、妙に軽い。
「こちら」
ローランド・フロストは受け取り、わずかに眉を寄せる。困惑を顔に出すのは下品だと知っている男の、ぎりぎりの礼儀の表情だった。
「……これは、何でしょうか」
「開けてみてください」
促す声は柔らかい。
それが余計に、逃げ道を塞ぐ。
アランの視線が、ほんの一瞬だけファイルへ落ちる。次いで、すぐに戻される。戻したはずなのに、瞳の奥の光がわずかに揺れた。
その揺れを見落とすほど、レギュラスは鈍くない。
ローランド・フロストはファイルを開いた。
中には、裏返しになった四角いものが複数枚、無造作に収まっている。最初はただの紙束に見える。だが、紙ではない。魔法写真特有の、微かな体温のようなものが、開けた瞬間にふわりと立った。
ローランド・フロストの指が一枚を摘まむ。
裏返す。
その瞬間――玄関ホールの空気が、凍った。
色が抜ける、という言葉の意味を、初めて確かに理解できるほどに。ローランド・フロストの顔から血の気が引いた。目が見開かれ、瞳孔が揺れ、呼吸が浅くなる。
そして何より、手が震えた。あの、どんな場でも揺らがない指先が。
「……っ」
声にならない音が、喉の奥で潰れた。
震える手がファイルを取り落とす。
床に当たった音が、ひどく大きく響いた。開いたままのファイルから、写真が溢れ、散らばる。白い床の上に、色と影がばら撒かれる。魔法写真は紙より軽く、空気にひらりと舞って、ゆっくり落ちた。
落ちた先で、動いた。
笑うアラン。
近づいた距離で見つめ返すアラン。
不意打ちを受けたようにシーツを肩に掛けただけのアラン。
そして、素の顔のローランド・フロスト。
一枚が床の上で、くるりと回り、もう一枚が風に煽られたように端を揺らす。写真の中のアランが瞬きをし、ローランド・フロストが小さく息を吐いた。
生きているような幸福が、玄関ホールの冷たい空気に晒され、滑稽なくらい鮮やかに踊る。
アランがそれに気づいたのは、遅くなかった。
一歩、動きかけた。
しかし足が止まる。
呼吸が止まる。
唇が僅かに開いたまま固まり、瞳が床へ釘付けになる。翡翠の光が揺れ、次の瞬間には、すべてを押し込めるように瞼が震えた。
まるで、同じ温度で、同じ顔をして固まっている。二人の男女が、同じ罪に触れた瞬間の、同じ硬さで。
レギュラスは、その様子を見ていた。
驚きはない。
怒鳴り声もない。
ただ、丁寧に整えられた微笑みのまま、二人を観察する。
ローランド・フロストは膝が折れそうになりながら、散らばった写真に手を伸ばす。だが拾えない。指が震えて、掴めない。紙の端を押さえたつもりが、するりと逃げていく。
あの礼節の男が、床に散らばる“証拠”の前で、礼節を保つことすら出来ない。
アランは動けない。
視線だけが、写真とレギュラスの間を彷徨う。顔は崩さない。崩せない。
けれど、崩したくても崩せないほどに、心の芯が締め付けられているのが見える。
玄関ホールには、扉の隙間から差す外の光が斜めに入っていた。磨かれた床に光が線を引き、散らばった写真の角がその線を反射する。
あまりにも静かで、あまりにも美しい光景だった。残酷なほどに。
レギュラスは穏やかな声を落とす。
相手の逃げ道を塞ぐ時の、あの柔らかさのまま。
「……落ち着いてください、フロスト殿」
優しさに聞こえるように。だが、優しさではない。
それは、首輪の鈴の音だ。
ローランド・フロストの喉が鳴った。
視線が、ようやくレギュラスへ戻る。何か言おうとして言葉が出ない。口を開くが、声が乗らない。誠実の仮面が、剥がれ落ちたまま戻せない。
アランもまた、息を吸う。
何かを言わなければならない、と理解している顔だった。妻として、家の人間として、ここを穏便に収める言葉を探している。
だがその言葉は、喉の奥に引っかかって出てこない。出せば、すべてが決定的になる。
レギュラスはそれを待ってやる気がなかった。
床に散らばる写真の一枚に視線を落とす。
そこには、笑うアランがいる。眩しいほど無防備で、撮る相手を疑いもしない笑い方で。
その“知らないアラン”が、胸の奥を刺す。
そして、次の瞬間、笑いが胸の底で冷たく形を成す。
これほど見事な答えが揃っているのに、まだ何を迷う必要があるのか。
レギュラスは、変わらぬ微笑みのまま顔を上げた。
二人に向けて、静かに視線を配る。
ローランド・フロストの震え。
アランの沈黙。
床に散らばる、動く写真。
外の光。
屋敷の静けさ。
すべてが、ひとつの舞台装置のように整っている。
そして、その中心に立っているのは――自分だった。
口元の微笑みだけを、ほんの少し深くする。
声も、温度も、崩さない。
だが、その穏やかさの内側には、刃がある。
磨き上げられた刃が、二人の逃げ道をゆっくり削っていく。
「――さて」
その一言が落ちた瞬間、玄関ホールの空気がさらに一段、冷えた。
誰が拾うのか。
誰が言い訳をするのか。
誰が最初に、言葉を吐くのか。
答えを出すのは、もう二人の番だった。
玄関ホールの床に散らばった魔法写真は、まるで“まだ笑うことを許されている”かのように、微かな動きで光を跳ね返していた。
白い床に落ちた影がゆらぎ、写真の端がわずかに浮いては沈む。笑っているアランの口元だけが、悪意も知らないまま、何度も同じ形を繰り返す。
そこに立つ三人の呼吸だけが、場の温度を決めていた。
ローランド・フロストの手は震え続け、拾うべきものが目の前にあるのに指先が空を掻く。
アランは動けずにいた。視線は床に縛られ、次に上げればレギュラスの顔がそこにあると分かっているから、上げられない。
そしてレギュラスは――微笑みを壊さないまま、それらを眺めていた。
人の顔が崩れる瞬間は、美しいものではない。
けれど崩れる直前の、取り繕いだけが残った表情は、ひどく興味深い。
レギュラスはひとつ、息を吐いた。吐息は熱を帯びず、ただ形だけが音になった。
「……拾わないんですか?」
穏やかで、社交の延長のような声だった。
その穏やかさが、むしろ刃のように耳を裂く。
アランの肩がびくりと跳ねた。
条件反射のように身体が動く。母としての顔でも、妻としての顔でもなく、ただ“その場を収めたい”という切迫だけが彼女を押し出した。
「……す、すみません、私が――」
声は出るのに、言葉が整わない。
アランは膝を折り、床にしゃがみ込んだ。絹の裾が波打ち、磨かれた床に触れて音もなく沈む。
両手が伸びる。写真を掴み、重ね、隠す。とにかく視界から消してしまいたいという焦りが、指先を忙しなくさせる。
その姿は、あまりに必死で――あまりに、みずぼらしかった。
玄関ホールという、客を迎えるための場所で。
ブラック家の妻が。
膝を床につけ、息を乱し、罪を掻き集めるように手を動かしている。
レギュラスの胸の奥に、笑いにも似たものが湧いた。愉快さではない。冷たく澄んだ何か。
この女は、ここまで追い込まれても、なお整えようとする。取り繕おうとする。言葉で説明しようとする前に、まず“片付け”で無かったことにしようとする。
そういうところが、腹立たしい。
レギュラスは一歩、アランのそばへ寄った。
革靴の底が床を鳴らす。その音だけで、アランの背筋が硬くなる。
それでも手は止まらない。写真を拾う指先は震え、爪が床を掠め、白い光を掻く。
「レギュラス……っ、お願い、これは――」
言い訳の形を取る前の声だった。
許しを乞うのか、時間を乞うのか、自分でも分からないままの音。
レギュラスは答えない。
視線は、アランの手に落ちていた。
研究のために薬草を潰し、記録を取り、魔法薬の論文を紡いできた指。細く、白く、繊細で、あまりにも“守られることを前提にした手”。
――その手が、今は床を這い、罪を拾っている。
躊躇はなかった。
レギュラスの足が、アランの手の甲を踏みつけた。
重みが落ちる。
骨の悲鳴までは聞こえない。ただ、肉と床の間に挟まれた柔らかいものが、逃げ場を失う鈍い感覚だけが伝わる。
「……っ!」
アランの声が漏れる。短く、喉の奥で切れる声。
指が反射的に引かれようとして、引けない。足の下で小さく震える。
「――レギュラス……!」
呼び方が乱れ、敬称が痛みの形になる。
アランの瞳に翡翠の光が浮かぶ。涙ではない。まだ泣く暇さえ与えられていない。ただ痛みと恐怖と羞恥が、目の表面を薄く濡らした。
レギュラスは顔色を変えなかった。
研究者の指だろうがどうでもいい、という結論が、心の中で静かに確定している。
守る価値があるとすれば、それは“この女が自分のものである”という事実だけだ。守るべきは指ではない。秩序だ。所有だ。自分の顔だ。
「拾うのは、誰のためです?」
問いは優しい形をしていた。
逃げ道を塞ぐための問いだった。
その瞬間、ローランド・フロストが動いた。
まるで遅れて落ちた雷の音に追いつくように、男は急にしゃがみ込む。
外套の裾が床に触れ、膝が折れ、手が散らばった写真へ伸びる。
丁寧に整えてきた礼節が、いま床の上で無意味になる。
「……っ、ブラック様……!」
声は掠れていた。
拾おうとする。隠そうとする。拾い集めれば、すべてが元の場所に戻るとでも信じているように。
けれど指先は震え、写真は指の間から滑り、魔法写真の中のアランが笑うたびに、現実の空気がさらに冷える。
レギュラスは、足の下のアランの手を踏んだまま、ローランド・フロストを見下ろした。
礼節の男。誠実の男。
その仮面が、床に落ちている。
「フロスト殿」
名を呼ぶ声は、穏やかだった。
穏やかすぎて、残酷だった。
ローランド・フロストが顔を上げる。
目が合わない。合わせられない。けれど視線を逃がす先にあるのは、散らばった写真と、踏みつけられたアランの手と、レギュラスの靴だけだ。
アランは、足の下で息を殺していた。
痛みよりも、そこにいるローランド・フロストの気配が、心をえぐる。
この場で――この形で――再び三人が揃ってしまったことが、悪夢のようだった。
レギュラスは、微笑んだまま、足の圧をわずかに強める。
アランの喉が震える。声が出そうになり、出ない。
母として叫びたいのに、妻として叫ぶことすら許されない。
「……今、拾っているものは」
レギュラスの声が静かに落ちる。
玄関ホールの光が、散らばった写真の角を煌めかせる。そこに映る肌が、白い。シーツが揺れる。笑い声が動く。
「――紙ですか? それとも」
言葉が途切れる。
途切れたままの空白が、答えを強いる。
ローランド・フロストの喉が鳴った。
アランの睫毛が震えた。
床の上で、魔法写真がまたひとつ、くるりと回った。
地獄のような沈黙の中で。
誰もが、分かっていた。
拾い集めても終わらない。
隠しても無かったことにならない。
この瞬間から、三人の関係は“戻れない場所”へ踏み出してしまったのだと。
玄関ホールの空気は、ひどく静かだった。
静かすぎて、床に散った魔法写真がかすかに擦れ合う音や、誰かの喉が乾いて鳴る音が、やけに大きく聞こえる。
レギュラスは、踏みつけたままの足に力を込め直すことはしなかった。
ただ――逃がさない、という意思だけをその重みに残したまま、涼しい顔でそこに立っていた。
アランは動けない。
ローランド・フロストは拾い集める手を止められない。
二人とも、まるで“早く片付ければ何も起きなかったことにできる”と信じているみたいに、必死に、哀れなほどに、目の前の現実を紙切れの形へ押し込めようとしていた。
それが、腹立たしい。
「――フロスト殿」
呼びかけは柔らかい。
なのに逃げ場がない。声そのものが、ゆっくりと首を絞める輪のようだった。
ローランド・フロストは顔を上げられないまま、喉の奥で息を詰まらせた。
礼節という鎧を着ている男が、床の上で膝をついたまま、それでも礼節を手放せずにいる。
レギュラスはその滑稽さを、表情ひとつ変えずに眺める。
「先ほど、これで失礼しますと仰いましたね」
事実を並べるだけの言葉。
否定の余地のない順番で、淡々と積み上げられていく。
ローランドの指が止まった。止まった指先が震える。
その震えに気づかないふりをして、レギュラスは続ける。
「……お忙しいのに、奥の部屋から出てこられた。どうしてです?」
問いは穏やかで、当たり前の顔をしている。
まるで“説明できて当然でしょう?”とでも言うように。
ローランドは唇を開く。けれど音が出ない。
言葉を探すというより、言葉が許される場所を探している目だった。
レギュラスは待たない。待つ必要がない。
「答えられないなら、別の質問にしましょうか」
微笑みがほんの少しだけ深くなる。
救済の形をした追い込みだった。
「――この部屋で、何をしていました?」
空気が変わった。
アランの肩が、息を吸う動きすら忘れたみたいに固まる。
ローランドの背中がわずかに波打つ。
膝の下の床が冷たいのか、それとも胸の内側が冷えたのか、分からない。
アランは、踏まれている手を引こうとした。引けない。
痛みよりも、次に来る言葉の方が怖かった。
「レギュラス……それは、違うの。お願い、ここで――」
頼む、という言葉が口を滑った瞬間、レギュラスの視線がアランへ移った。
その視線は、責めるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ“確認”だった。
「ここで、が嫌ですか?」
問いの形をしているのに、答えの選択肢がない。
アランは言葉を飲み込む。
“ここで”が嫌なのだ。ここで言えば、ここで終わらなくなる。ここで認めれば、ここから先の人生のどこにも逃げ場所がなくなる。
だから黙る。黙って、息を整えようとしてしまう。
レギュラスは、その沈黙の意味を、あまりに正確に受け取った。
「――なるほど」
たった一言が、氷のように落ちた。
そして、足を上げた。
踏みつけていた重みが消える。
アランは、遅れて痛みに反応するように手を胸に引き寄せた。
手の甲が赤く熱い。指が震える。けれど、そんなことはどうでもいい。
今この場で、本当に壊れるのは手ではないと、分かってしまっているから。
レギュラスはしゃがみ込まない。
床に落ちたものを拾って“収める”役を、誰にも与えない。
「拾わなくて結構です」
穏やかな声。
その穏やかさが、逆に残酷だった。
「それは――もう、拾ったところで意味がありませんから」
ローランド・フロストの顔色が変わる。
拾う行為が唯一の救いだったのに、その救いを奪われる。
レギュラスは一歩、ローランドの前へ寄る。距離が詰まる。
しかし乱暴に近づくのではない。礼儀正しく、優雅に、当然のように。
「フロスト殿。ひとつだけ確認します」
また確認。
“確認”という名の、逃げ道の封鎖。
「これは、フロスト殿のものですか? それとも―― アランのものですか?」
その問いに、答えは二つあるようで、実際は一つしかない。
どちらだと答えても、同じ場所に辿り着く。
ローランドの喉が震える。
「ブラック様……」と声が出かけて、消える。
アランは、息を吸った。
自分が答えれば、ローランドを守れるかもしれない。
けれど答えれば、レギュラスが何をするか分からない。
その迷いが見えた瞬間、レギュラスの口元が、わずかに上がった。
迷いは、支配できる。
迷いは、潰せる。
「アラン」
呼び捨てが、ひどく自然に落ちる。
“あなた”ではない。逃げ道を与えない呼び方。
「何か言いたいことがあるなら、今言ってください」
穏やかに促すふりをして、期限を決める。
今。ここで。今しかない。
アランの唇が震える。
言えば終わる。言わなければ、もっと終わる。
「……違うの。違わないけれど、違うの」
言葉が崩れる。
理屈より先に感情が漏れてしまう。
レギュラスは頷かない。慰めない。
ただ、淡々と次の質問を重ねる。
「違わない、というのは何がです?」
アランの顔から血の気が引く。
言葉を切り分けられる。隠したい曖昧さを、丁寧に解体されていく。
ローランド・フロストが、耐えきれないように声を出す。
「ブラック様……っ、すべて、僕が――」
レギュラスの視線が、ゆっくりローランドへ移った。
その移動だけで、ローランドの声が止まる。
「フロスト殿。今、誰を守ろうとしました?」
穏やかな声。
けれど、その問いは残酷だ。守ろうとした瞬間を、罪として固定する。
「僕は、事実を聞いているだけです」
“だけ”という言葉が、嘘みたいに冷たい。
「誰が主導したか。どちらが誘ったか。そういう細部を、今ここで語らせるほど趣味は悪くない」
一見、慈悲に聞こえる。
けれど次の瞬間、それが慈悲ではないと分かる。
「――ただ、何があったかを把握すれば十分です」
把握。
それは、所有の宣言だった。
レギュラスは、床に落ちた魔法写真のうち一枚を、靴先でそっと裏返した。
指で触れない。拾わない。
ただ、見える形にする。
そこに映るアランの笑顔は、残酷なほど無邪気だった。
ローランド・フロストの目が、その笑顔に刺さって抜けなくなる。
「綺麗ですね」
レギュラスが言う。
褒め言葉なのに、葬送のようだった。
「自分の妻が、こんな顔をするとは知りませんでした」
アランの喉が鳴る。
涙が出そうになるのを堪える。泣けば、正直になる。正直になれば、終わる。
レギュラスは、その堪え方すら見逃さない。
「――泣かないでください」
命令ではなく、忠告の形。
けれど、実質は命令だった。
「泣けば、同情が必要な弱い立場に戻ってしまうでしょう。アランはそれが嫌いなはずです」
当てられる。
核心を、優しい声で刺される。
アランは唇を噛んだ。
血の味がする。
レギュラスは笑わない。怒鳴らない。
ただ、淡々と、着実に、出口を塞いでいく。
「フロスト殿」
再びローランドへ。
「ここで一度だけ答えてください。はい、か、いいえ、だけで」
最後の慈悲のように見せて、逃げ道を完全に潰すやり方。
「――妻に触れましたか?」
ローランド・フロストの全身が硬直した。
呼吸が止まり、次の瞬間、苦し紛れに息を吐く。
その沈黙だけで十分だった。
“答え”は、もう出ている。
レギュラスは頷く。
うん、でも、いいえ、でもない。
ただ理解したという頷き。
「ありがとうございます」
礼を言う声が、あまりにも丁寧で、あまりにも冷たい。
そして最後に、アランへ視線を戻す。
「アラン。次は―― アランの番です」
声色は変わらない。
けれど空気が、完全に“裁き”へ移っていた。
「屋敷に戻りましょう」
帰宅の提案みたいに聞こえる。
でもそれは“連行”だった。
「ここで話すと、セシール卿の耳にも入ります。アランはそれを望みませんよね」
望まない。
望まないからこそ、首を縦に振らざるを得ない。
アランの喉が震えた。
頷くしかない現実が、喉の奥を締め付ける。
レギュラスはその頷きを見届けると、初めてローランド・フロストへ微笑んだ。
「フロスト殿は……ご自分の帰り道を選べます」
優しい言葉。
選べる、と言いながら、選択肢の中身を言わない。
「ただし」
一拍置く。
その一拍が、刃の光だった。
「今日のことを“なかったこと”にするつもりなら――」
レギュラスはゆっくりと、床に散った写真を見下ろした。
「その努力は、もう不要です。こちらが“把握”しましたから」
把握した。
その一言で、すべてが終わる。
アランは、膝が笑いそうになるのを必死で堪えた。
ローランド・フロストは、床の上で息をすることすら難しそうに、喉を鳴らした。
レギュラスは何も取り乱さない。
静かに冷静に、けれど確実に、二人の世界の逃げ道だけを潰していく。
そして最後に、柔らかな声で結論を落とす。
「――さあ。帰りますよ、アラン」
それは夫の言葉だった。
けれど同時に、狩人が獲物へ与える合図でもあった。
レギュラスは、床に散らばった写真から視線を外さないまま、アランの手首を掴んだ。
つい先ほど踏みつけた手――赤く火照って、指先がわずかに震えている方を、選び取るように。
「立てますか」
問いかけは穏やかだった。
けれどそれは、労りではなく確認だ。立てるかどうかなど、答えの種類ではない。立たせるだけだ。
アランは息を飲んで、ゆっくりと立ち上がる。
痛みで顔を歪めることも、涙をこぼすことも、できるだけ避けた。ここで崩れれば、もっと酷いものを引き寄せると分かっている。
「……はい、レギュラス」
呼び方が、いつもより少しだけ硬い。
その“少し”を、レギュラスは聞き逃さない。
「いい返事です」
褒める声音が、恐ろしいほど柔らかい。
玄関ホールを抜ける間、誰もが息を殺した。
使用人たちの視線が背中に刺さる。見てはいけないものを見る目だ。けれど見ないでいられない目でもある。
アランは背筋を伸ばした。癖のように、礼儀の仮面をかぶる。そうしないと、足が崩れる。
外気が頬を刺した。
夜の冷気は、火傷のように熱い。手首を掴むレギュラスの指先だけが、逆に温度を持っている気がして、そこが余計に怖かった。
馬車が待っていた。
扉が開かれ、暗い車内に灯る小さなランプが、絹の内装と金具の光をぼんやり浮かび上がらせる。
いつもなら、落ち着くはずの“帰るための箱”だった。
今夜は棺のようだった。
レギュラスはアランを先に乗せない。
自分が先に乗り込み、座り、逃げ道を塞いでから、手を引いて中へ連れ込む。
それだけで、アランの胸が詰まる。
扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
馬車が動き出す。車輪の揺れが、アランの指先の痛みを揺り起こす。
手を膝の上に置こうとした瞬間、レギュラスの指がそれを許さず、手首を掴んだまま引き寄せた。
逃がさない。
「……痛みますか?」
アランは反射で頷きかけて、寸前で止めた。
痛いと言えば、何が起きるか分からない。痛いと言わなければ、痛みを理由にできない。
沈黙が落ちる。
レギュラスは小さく笑った。
笑ったというより、“理解した”という合図みたいに口角が動いた。
「さっきの、あの笑顔」
唐突に、言葉が刺さる。
アランの瞳が揺れた。
馬車の暗さの中でも分かるほど、瞬きの回数が増える。呼吸が浅くなる。
レギュラスは、アランの反応を待たない。
「いい笑顔ですね」
優しい声だ。
褒め言葉の形をしている。だからこそ、残酷だった。
「こんな風に笑ってくれたこと、ありました?」
アランの喉が鳴る。
脳裏に、引き出しの中の写真が蘇る。自分の無邪気な顔。肩からシーツをかけただけの姿。笑っている自分。
あれは――違う。違う、と叫びたい。あれはただの遊びで、昔の癖で、カメラの悪戯で。何も。
でも“何も”で済ませるには、写真はあまりに雄弁だった。
「……レギュラス、お願いです」
頼む声が漏れた。
“やめて”と言えない。言った瞬間に、さらに酷い何かを呼ぶ。
レギュラスは、お願いの言葉だけを拾って、すべてを無視した。
「お願い、と言うんですね」
ゆっくりと繰り返す。
唇の上で転がすように。味わうように。
「その声、覚えておきます。いいですね」
アランの背筋に冷たいものが走る。
覚えておく、という言葉が、罰の予告にしか聞こえなかった。
馬車が石畳を踏むたびに、揺れが増す。
その揺れの中で、レギュラスはアランの手を離さない。痛めつけるほど強くは握らない。
ただ、握ったまま、逃げ道がないことを徹底してくる。
「僕たちの寝室に飾ります?」
唐突に、軽い調子で言う。
宴の話題でも振るみたいな、社交辞令の温度で。
アランの息が止まった。
「……やめてください」
ようやく出た拒絶の言葉は、祈りみたいに弱い。
その弱さを、レギュラスは愉しむ。
「どうして?」
一言。短い。
けれど答えを出すまで終わらない。
アランは唇を噛む。
どうして、と言われても、どうしてもだ。あんなものを寝室に置かれたら、自分は毎晩そこから逃げられない。
それに――それは、レギュラスの勝利の飾りになる。自分の恥が、夫婦の装飾になる。
「……恥ずかしいからです」
苦しくて、吐き出すように言う。
レギュラスは、満足げに目を細めた。
“恥ずかしい”という言葉を、ようやく引きずり出した。
「恥ずかしい?」
繰り返す声が甘い。
「妻が恥ずかしいって言うの、可愛いですね」
可愛い、という言葉が、容赦のない刃になる。
アランは目を伏せた。視線を合わせれば、もっと切られる。
「でも、飾るのはやめませんよ」
アランが顔を上げる。
驚きと恐怖で、瞳が大きく開く。
レギュラスは静かに微笑んだまま、言葉を続けた。
「――だって、僕の妻ですから」
その一言で、すべてが終わる。
所有の宣言。抗弁の余地のない結論。
「あなたがどんな顔をして、誰の前で笑って、誰の手で撮られたとしても」
レギュラスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
言葉そのものが針であることを分かっていて、丁寧に刺していく。
「今は、僕のものですよね」
問いかけの形。
けれど答えは一つしかない。
アランは、震える息のまま、かすかに頷いた。
頷きたくなかった。
けれど、頷かないという選択肢を、この男は与えない。
レギュラスの指が、アランの手首の内側をなぞった。
脈の音が、そこに跳ねている。怖いほど正直に。
「いい子です」
褒められて、アランの胃がきりきりと痛む。
褒め言葉が救いにならない世界があるのだと、身体が覚えてしまった。
馬車の窓の外を、夜の街灯が流れていく。
あの光の一つ一つが、帰る場所を示しているはずなのに、今は“戻るしかない”という現実を照らすだけだった。
レギュラスはふっと息をつく。
怒りで荒れているわけではない。むしろ落ち着き払っている。だからこそ怖い。
「帰ったら、話しましょう」
“話”という言葉が、もう拷問の別名に聞こえる。
「あなたが何をして、何を隠して、何を守ろうとしているのか」
淡々と、丁寧に、順番を並べる。
「ちゃんと、言葉で聞かせてくださいね。アラン」
最後に名前を落とす。
優しく呼ぶ。けれど、その優しさの中に、逃がさないという決意が混じっている。
アランは、返事ができなかった。
返事をすれば、それは同意になる。
黙れば、また責められる。
どちらに転んでも、地獄は待っている。
レギュラスはその沈黙を見て、少しだけ笑った。
アランの指先が冷えきっていくのを、握ったまま感じ取りながら。
「――大丈夫。壊さないようにします」
その言葉が、慰めではなく宣告だと分かるから、アランの背中は震えた。
馬車はブラック家へ向かって走り続ける。
車輪の音が一定であるほど、逃げ道のないことだけが、静かに確定していった。
煮詰められた薬草の青い香りと、蒸留器の熱が生む湿り気が、薄い霧のように室内に漂っている。ガラス器具の縁が灯りを受けて白く光り、羽根ペンの擦れる音が規則正しく続いていた。
アランは相変わらず、記録に没頭していた。
頬に付いた粉はそのまま――綺麗に整った横顔に、場違いなくらい無防備な印が残っている。
レギュラスは、その粉を“見過ごせない”という感覚だけで前に出た。
優しさの形をしているくせに、行動の芯はずっと鋭い。
「……動かないで。すぐ取れますから」
指先が頬に触れる直前、アランの睫毛が一度だけ震えた。驚きと、警戒と、慣れ。全部が混じった反射だ。
だが彼女は逆らわない。静かに顎を少し上げ、言われるままに動きを止めた。
レギュラスの指が、粉の粒子を丁寧に拭い取る。
きめ細かな皮膚の上を滑る感触が、記憶のどこかを刺激する。妻という存在を、ただの言葉ではなく体温で理解していくような――そんな不穏な満足が、胸の奥に溜まっていく。
「……ありがとうございます」
アランが息を吐く。
それは礼儀正しい言葉だったのに、距離の近さのせいで、ひどく柔らかく聞こえた。
レギュラスは返事をしない。
返事の代わりに、あまりにも自然な動作で、口づけを落とした。
音も立てない、軽いキス。
研究室の雑音に溶けてしまうほど短いのに、意味だけは濃い。指先で粉を拭った流れのまま、当然の権利として、当然の習慣として――そう見せるための動き。
アランの身体が、ほんのわずか硬くなる。
けれどすぐに、いつものように呼吸を整えた。拒絶でも、受容でもない。妻として、母として、体裁を崩さないための処理。
その“整え方”が上手くなったことさえ、レギュラスには気に入らなかった。
そして。
ローランドフロスト――が、視線を逸らした。
一瞬だった。
礼節として、配慮として、見なかったことにする――そういう種類の逸らし方にも見える。
だが、レギュラスの目には、もう一つの可能性が滑り込む。
見られない。
見たくない。
見れば、何かが溢れる。
その違いは、ほんの数拍の呼吸に滲む。
レギュラスは、そこに“棘”の根が刺さっていると確信した。
胸の奥が、静かにざわめく。
ざわめきの正体が怒りなのか、優越なのか、あるいはその両方なのか。判断する前に、もう次の手が必要だった。
この違和感を放置したまま、日常へ戻ることは出来ない。出来てしまうほど鈍くなることが、もっと嫌だ。
レギュラスは表情を崩さない。崩さないまま、声の温度だけを少し上げる。
「せっかくです。皆さんで食べましょう」
差し入れの包みを軽く掲げ、周囲の研究員たちへ視線を配る。
甘い提案に見えるように、けれど拒めない形で。
「応接間で。少し休憩を挟んでください。――セシール卿に報告をする前に、手を止める時間も必要でしょう」
“必要でしょう”という語尾が、命令ではない顔をして、命令のように響く。
研究員たちは顔を見合わせ、どこかほっとしたように頷いた。レギュラスの差し入れを断れる者など、ここにはいない。
アランも、咄嗟に何かを言いかけたが、結局飲み込んだ。
その横顔は笑っているのに、口元の筋肉がほんの少し硬い。自分の機嫌を損ねないために、どの言葉を選ぶべきか計算している。
それがまた、愛らしくもあり、憎たらしくもあった。
人が動き出す。椅子が引かれ、紙が揃えられ、ガラス器具の火が落とされる。
研究室の熱と音が、少しずつ引いていく。
――さあ、残るのは誰だ。
レギュラスの視線が、自然にフロストへ戻る。
逃げ道が塞がっていく音を、本人だけが聞いているような静けさ。
けれどフロストは、背筋を正し、丁寧に頭を下げた。
完璧な礼儀を纏ったまま、距離だけを確保するための動き。
「ブラック様、僕はこれで失礼します」
その言葉の端が、硬い。
急いでいるというより、“ここに居続ける理由を作りたくない”硬さ。
レギュラスの口元に、微笑みが浮かぶ。薄い膜のような微笑みだ。
感情を隠すためではない。感情を、もっと綺麗に刃へ変えるための形。
「それは残念ですね。お忙しいみたいで」
そう言いながら、わざと一拍置く。
“忙しい”という言葉の意味を、相手に選ばせるために。
仕事が忙しいのか。
それとも、ここに居ることが忙しいのか。
――どちらにしても、答えは相手の顔に出る。
レギュラスは、淡く首を傾げる。穏やかな仕草のまま、逃げ道だけを静かに狭める。
「……短い時間でも構いません。せっかくですから、差し入れだけでも口にしていかれては? セシール卿の研究に関わる方に、こちらの顔を立てていただけると助かります」
命令ではない。
だが“断る理由”を奪う言い方だった。
アランが、ほんの少しだけ目を伏せる。
その仕草が、祈りのようにも、諦めのようにも見える。
そしてレギュラスは、フロストがどんな顔をするのかを、呼吸すら惜しむように見つめた。
逸らした視線の意味を。
あの瞬間、胸に走った“何か”の正体を。
ここで確かめなければ、眠れない。
研究室の灯りが、ガラス越しに揺れている。
その揺れの中で、レギュラスの微笑みだけが――不思議なほど静かに、鋭く固定されていた。
研究室が空になった瞬間、空気が変わった。
さっきまでそこにあった人の気配――椅子の軋み、紙をめくる音、薬草の甘苦い香りの揺れさえ、ふっと途切れる。火を落とされたランプは芯だけが赤く残り、ガラス器具は静かに冷えはじめていた。
静寂は、礼儀正しく整えられた“休憩”の名残ではなく、何かを隠すための布のように、薄く研究室を覆っていく。
レギュラスは迷わず奥へ向かった。
躊躇というものが、最初から選択肢に入っていない足取りだった。
扉の取っ手に触れると、金属はひやりとしている。
その冷たさが、妙に現実味を増幅させた。
奥の部屋―― アランの部屋。
以前、彼女が妊娠中にここで休んでいった夜を思い出す。あの時は、疲れ切った妻がこの部屋の寝台に背を預け、短い眠りに落ちた。自分は扉の内側へ入り、彼女の本やノート、論文に触れ、そして――アルバムを見つけた。
翡翠の瞳をした少女が、ローランドフロストの隣で笑っていた。
記憶が、いまの景色と重なる。
拍子抜けするほど、何も変わっていない。
整頓された机。
本棚。
ベッド。
白いシーツ。
窓辺の淡い光と、紙の匂い。
こんな普通の部屋に。
この程度の、どこにでもあるような私室に。
――なぜ、フロストは入っていた?
その一点だけが、どうしても結びつかない。
研究の相談? 資料の確認? それなら、研究室で済む。応接間でも十分だ。わざわざ“ここ”へ入る理由が、何ひとつ合理的に立たない。
レギュラスは息を吐き、部屋の中央で立ち止まる。
冷静だった。奇妙なほどに。
胸の奥に熱がないわけではない。だがそれは燃え上がる炎ではなく、硬質な刃のように澄んでいた。
引き出しを一つ、開ける。
紙束、インク、封蝋。以前と同じ。
次。
薬草のメモ、配合比の控え。以前と同じ。
次。
古い羽根ペン。小さな記章。以前と同じ。
次々に開けていく。
雑に見えて、その動きは正確だった。
“探す”というより、“確認する”手つき。期待と失望の波すらなく、ただ事実だけを積み上げるための手。
本棚へ視線が移る。
あのアルバムでさえ、以前と同じ位置に収まっている。
――何もない。
そう判断しかけた、その時。
最後に残った引き出しへ指がかかった。
位置は低い。机の脇。影になりやすい場所。
そこだけが、妙に静かにこちらを待っている。
取っ手を引く。
木が擦れる音が、部屋に薄く響く。
開いた瞬間――レギュラスは、固まった。
呼吸の仕方を忘れた、という表現は比喩ではなかった。
肺が動かない。喉の奥が、ひどく乾く。
血の巡りが、一拍遅れて身体に戻ってくる。
そこには、魔法写真があった。
何枚も、無造作に。重ねられ、角が少し折れたものまである。
厳重に隠すでもなく、丁寧に封をするでもなく。
まるで――ここにあることが“当たり前”であるかのように。
レギュラスの目は、一枚目で理解した。
理解してしまった。
ただただ親密な男女の時間。
背景はこの部屋で、寝台で、シーツは白いまま。
そして、写っているのは―― アランとローランドフロストだった。
一枚目は、アランだけが写っている。
肩からシーツを軽くかけただけの姿で、思いがけない瞬間を切り取られたように目を丸くしている。白い肌が無防備に光を吸い、翡翠の瞳が怒りと照れと困惑で揺れている。
二枚目は、笑っている。
無邪気に、声が聞こえそうなほど大きな口を開けて。
その笑い方を、自分は知らない。
胸の奥が、一瞬だけ冷えた。知らなさが刺さる。
三枚目は、至近距離。
まつ毛の影さえ写っている。肌のきめ、頬の熱、息の湿り気――写真が“触覚”を持っているようだった。
そこまで近づける距離を許しているという事実が、無言で胸骨を叩いた。
そして別の束には、ローランドフロストが写っている。
礼儀を纏う前の、素の表情。
眉が少し緩み、目が優しく細められている。
撮ったのはアランだろう。被写体がこちらを見ていない角度の写真が混じっている。
“見つめた時間”が、そのまま印画に封じ込められていた。
レギュラスは、ゆっくりと指を伸ばす。
一枚ずつ拾い上げる。
紙は温度を持たない。
だが指先だけが、妙に熱い。
怒りで熱いのではない。むしろ、怒りは遠い。
衝撃があまりに大きいと、感情は先に崩れず、逆に整列してしまう。
“理解するための冷静”だけが残る。
拾う。
見る。
拾う。
見る。
――場所は同じ。
――寝台は同じ。
――シーツは同じ。
同じ、同じ、同じ。
それは偶然ではない。
一度でも入っただけの痕跡ではない。
積み重ねた回数と、時間と、習慣の匂いだった。
レギュラスの口元が、わずかに歪む。
笑みではない。
表情の筋肉が、どこに置けばいいのか分からず、わずかに引き攣れただけだ。
胸の奥に、静かな音がした。
薄い氷が割れるような――しかし割れたところから吹き出すのは水ではなく、乾いた風だった。
あの日。
魔法省で嗅いだ匂い。
アランの髪から、ほんの一瞬香ったもの。
フロスト殿の衣服から立ったものと同じ匂い。
点が、線になる。
線が、形になる。
レギュラスは、写真を握りしめない。
力を入れれば、紙が傷む。
――紙を傷めることに、価値はない。
代わりに、丁寧に揃える。
端を揃え、重ね直し、手のひらで軽く押さえる。
まるで書類を整えるように。
まるで“証拠”を扱うように。
冷静だった。
驚くほどに。
だがその冷静の底で、別のものが育っていく。
怒りよりも深く、嫉妬よりも重く、侮辱よりも鋭い。
自分の“所有”が――自分の“勝利”が――笑い話のように脆かったのではないか、という感覚。
レギュラスは、最後に一枚を拾う。
白い肌にシーツをかけただけのアラン。
不意打ちを取られたような表情。
こちらを責めるように眉を寄せ、それでも笑いが零れそうな、あの“若い頃の空気”を纏った顔。
その顔を見た瞬間、ようやく胸の奥で何かが動いた。
痛みでも、怒りでもない。
ただ、ひどく静かな確信。
――ここまで来たら、もう戻れない。
レギュラスは写真の束を手に持ったまま、引き出しを閉めない。
部屋の空気が、やけに薄い。
ランプの残り火が、ガラスの縁で小さく揺れている。
そして、唇だけが、ほんの少し動いた。
「……なるほど」
声は低く、柔らかい。
けれどその柔らかさは、氷の表面のように滑らかで、冷たかった。
怒りを通り越して冷静――それは、許したという意味ではない。
むしろその逆だ。
感情を爆発させるより先に、次の手が整い始めている。
レギュラスは、もう一度写真を見下ろす。
視線の中に、慈悲はない。
ただ、すべてを突き詰める執念だけが、静かに燃えていた。
レギュラスは研究室を出た。
扉の向こうに残したのは、硝子器具の余熱と、薬草の香りと、沈黙の重さだけ。廊下に足を踏み出した瞬間、空気の質が変わる。屋敷の古い木材が抱え込んだ、甘い蝋の匂い。磨き上げられた床の冷たさ。どこか遠くで鳴る時計の、規則正しい音。
そして――応接間の方から、笑い声が聞こえた。
何の飾り気もなく、息を弾ませたような笑い。会話の端々に、親しみが滲む。客を迎えるために整えられた部屋に、今だけ“昔の気配”が戻っている。
視線を向けずとも、状況がありありと浮かぶ。
アランがいて、ローランド・フロストがいて、誰にも邪魔されない程度の距離があって――その距離の中で、二人は、何事もなかったかのように呼吸を重ねている。
喉の奥が冷たく乾く。だが歩調は乱れない。
玄関の方へ向かう足音があった。応接間の笑いが遠のき、代わりに扉の開閉の気配、衣擦れ、フクロウ便の鈴のような微かな音。見送りのために立つ気配が、空気を整える。
玄関ホールに出ると、ちょうど二人がそこにいた。
ローランド・フロストは外套を整え、手袋の指先まできっちりと揃えている。いつも通りの、礼節の化身のような男。
アランは少し後ろ、距離を保ったまま見送ろうとしていた。声の調子も、表情も、完璧に“ブラック家の妻”として整っている――ように見える。
けれど、ほんのわずかな揺らぎがある。目元の柔らかさが、いつもより一段だけ緩い。頬の血色が、妙に生きている。
それを見つけた瞬間、胸の奥で何かが小さく割れた。痛みではなく、確認だ。
レギュラスは二人のそばへ寄った。足音を忍ばせる必要はない。むしろ、気づかせるために歩く。
「――お忘れものですよ、フロスト殿」
声は穏やかで、場を壊さない。呼吸に乗る微笑みも、社交のものと寸分違わない。
ローランド・フロストは振り返り、自分の姿を捉えると即座に背筋を正し、丁寧に頭を下げた。
「ブラック様。……恐れ入ります」
どこまでも真面目で、どこまでも律儀だ。
その姿が、かえって可笑しい。笑ってしまいそうになる。
この男は、礼節を盾にしてきた。礼節を鎧にして、どんな感情も奥へ押し込み、誰にも触れさせまいとしてきた。
そのくせ――自分の知らないところで。
ブラック家の妻を、好き勝手に抱き締め、笑わせ、写真に閉じ込めていた。
随分といい根性をしている。
そう思った途端、口角がほんの少しだけ上がる。人に見せるための微笑みと、内側で生まれた薄い嘲りが、同じ形に重なった。
レギュラスは手にしたファイルを、書類を渡すようにローランドへ差し出した。紙の重みが、妙に軽い。
「こちら」
ローランド・フロストは受け取り、わずかに眉を寄せる。困惑を顔に出すのは下品だと知っている男の、ぎりぎりの礼儀の表情だった。
「……これは、何でしょうか」
「開けてみてください」
促す声は柔らかい。
それが余計に、逃げ道を塞ぐ。
アランの視線が、ほんの一瞬だけファイルへ落ちる。次いで、すぐに戻される。戻したはずなのに、瞳の奥の光がわずかに揺れた。
その揺れを見落とすほど、レギュラスは鈍くない。
ローランド・フロストはファイルを開いた。
中には、裏返しになった四角いものが複数枚、無造作に収まっている。最初はただの紙束に見える。だが、紙ではない。魔法写真特有の、微かな体温のようなものが、開けた瞬間にふわりと立った。
ローランド・フロストの指が一枚を摘まむ。
裏返す。
その瞬間――玄関ホールの空気が、凍った。
色が抜ける、という言葉の意味を、初めて確かに理解できるほどに。ローランド・フロストの顔から血の気が引いた。目が見開かれ、瞳孔が揺れ、呼吸が浅くなる。
そして何より、手が震えた。あの、どんな場でも揺らがない指先が。
「……っ」
声にならない音が、喉の奥で潰れた。
震える手がファイルを取り落とす。
床に当たった音が、ひどく大きく響いた。開いたままのファイルから、写真が溢れ、散らばる。白い床の上に、色と影がばら撒かれる。魔法写真は紙より軽く、空気にひらりと舞って、ゆっくり落ちた。
落ちた先で、動いた。
笑うアラン。
近づいた距離で見つめ返すアラン。
不意打ちを受けたようにシーツを肩に掛けただけのアラン。
そして、素の顔のローランド・フロスト。
一枚が床の上で、くるりと回り、もう一枚が風に煽られたように端を揺らす。写真の中のアランが瞬きをし、ローランド・フロストが小さく息を吐いた。
生きているような幸福が、玄関ホールの冷たい空気に晒され、滑稽なくらい鮮やかに踊る。
アランがそれに気づいたのは、遅くなかった。
一歩、動きかけた。
しかし足が止まる。
呼吸が止まる。
唇が僅かに開いたまま固まり、瞳が床へ釘付けになる。翡翠の光が揺れ、次の瞬間には、すべてを押し込めるように瞼が震えた。
まるで、同じ温度で、同じ顔をして固まっている。二人の男女が、同じ罪に触れた瞬間の、同じ硬さで。
レギュラスは、その様子を見ていた。
驚きはない。
怒鳴り声もない。
ただ、丁寧に整えられた微笑みのまま、二人を観察する。
ローランド・フロストは膝が折れそうになりながら、散らばった写真に手を伸ばす。だが拾えない。指が震えて、掴めない。紙の端を押さえたつもりが、するりと逃げていく。
あの礼節の男が、床に散らばる“証拠”の前で、礼節を保つことすら出来ない。
アランは動けない。
視線だけが、写真とレギュラスの間を彷徨う。顔は崩さない。崩せない。
けれど、崩したくても崩せないほどに、心の芯が締め付けられているのが見える。
玄関ホールには、扉の隙間から差す外の光が斜めに入っていた。磨かれた床に光が線を引き、散らばった写真の角がその線を反射する。
あまりにも静かで、あまりにも美しい光景だった。残酷なほどに。
レギュラスは穏やかな声を落とす。
相手の逃げ道を塞ぐ時の、あの柔らかさのまま。
「……落ち着いてください、フロスト殿」
優しさに聞こえるように。だが、優しさではない。
それは、首輪の鈴の音だ。
ローランド・フロストの喉が鳴った。
視線が、ようやくレギュラスへ戻る。何か言おうとして言葉が出ない。口を開くが、声が乗らない。誠実の仮面が、剥がれ落ちたまま戻せない。
アランもまた、息を吸う。
何かを言わなければならない、と理解している顔だった。妻として、家の人間として、ここを穏便に収める言葉を探している。
だがその言葉は、喉の奥に引っかかって出てこない。出せば、すべてが決定的になる。
レギュラスはそれを待ってやる気がなかった。
床に散らばる写真の一枚に視線を落とす。
そこには、笑うアランがいる。眩しいほど無防備で、撮る相手を疑いもしない笑い方で。
その“知らないアラン”が、胸の奥を刺す。
そして、次の瞬間、笑いが胸の底で冷たく形を成す。
これほど見事な答えが揃っているのに、まだ何を迷う必要があるのか。
レギュラスは、変わらぬ微笑みのまま顔を上げた。
二人に向けて、静かに視線を配る。
ローランド・フロストの震え。
アランの沈黙。
床に散らばる、動く写真。
外の光。
屋敷の静けさ。
すべてが、ひとつの舞台装置のように整っている。
そして、その中心に立っているのは――自分だった。
口元の微笑みだけを、ほんの少し深くする。
声も、温度も、崩さない。
だが、その穏やかさの内側には、刃がある。
磨き上げられた刃が、二人の逃げ道をゆっくり削っていく。
「――さて」
その一言が落ちた瞬間、玄関ホールの空気がさらに一段、冷えた。
誰が拾うのか。
誰が言い訳をするのか。
誰が最初に、言葉を吐くのか。
答えを出すのは、もう二人の番だった。
玄関ホールの床に散らばった魔法写真は、まるで“まだ笑うことを許されている”かのように、微かな動きで光を跳ね返していた。
白い床に落ちた影がゆらぎ、写真の端がわずかに浮いては沈む。笑っているアランの口元だけが、悪意も知らないまま、何度も同じ形を繰り返す。
そこに立つ三人の呼吸だけが、場の温度を決めていた。
ローランド・フロストの手は震え続け、拾うべきものが目の前にあるのに指先が空を掻く。
アランは動けずにいた。視線は床に縛られ、次に上げればレギュラスの顔がそこにあると分かっているから、上げられない。
そしてレギュラスは――微笑みを壊さないまま、それらを眺めていた。
人の顔が崩れる瞬間は、美しいものではない。
けれど崩れる直前の、取り繕いだけが残った表情は、ひどく興味深い。
レギュラスはひとつ、息を吐いた。吐息は熱を帯びず、ただ形だけが音になった。
「……拾わないんですか?」
穏やかで、社交の延長のような声だった。
その穏やかさが、むしろ刃のように耳を裂く。
アランの肩がびくりと跳ねた。
条件反射のように身体が動く。母としての顔でも、妻としての顔でもなく、ただ“その場を収めたい”という切迫だけが彼女を押し出した。
「……す、すみません、私が――」
声は出るのに、言葉が整わない。
アランは膝を折り、床にしゃがみ込んだ。絹の裾が波打ち、磨かれた床に触れて音もなく沈む。
両手が伸びる。写真を掴み、重ね、隠す。とにかく視界から消してしまいたいという焦りが、指先を忙しなくさせる。
その姿は、あまりに必死で――あまりに、みずぼらしかった。
玄関ホールという、客を迎えるための場所で。
ブラック家の妻が。
膝を床につけ、息を乱し、罪を掻き集めるように手を動かしている。
レギュラスの胸の奥に、笑いにも似たものが湧いた。愉快さではない。冷たく澄んだ何か。
この女は、ここまで追い込まれても、なお整えようとする。取り繕おうとする。言葉で説明しようとする前に、まず“片付け”で無かったことにしようとする。
そういうところが、腹立たしい。
レギュラスは一歩、アランのそばへ寄った。
革靴の底が床を鳴らす。その音だけで、アランの背筋が硬くなる。
それでも手は止まらない。写真を拾う指先は震え、爪が床を掠め、白い光を掻く。
「レギュラス……っ、お願い、これは――」
言い訳の形を取る前の声だった。
許しを乞うのか、時間を乞うのか、自分でも分からないままの音。
レギュラスは答えない。
視線は、アランの手に落ちていた。
研究のために薬草を潰し、記録を取り、魔法薬の論文を紡いできた指。細く、白く、繊細で、あまりにも“守られることを前提にした手”。
――その手が、今は床を這い、罪を拾っている。
躊躇はなかった。
レギュラスの足が、アランの手の甲を踏みつけた。
重みが落ちる。
骨の悲鳴までは聞こえない。ただ、肉と床の間に挟まれた柔らかいものが、逃げ場を失う鈍い感覚だけが伝わる。
「……っ!」
アランの声が漏れる。短く、喉の奥で切れる声。
指が反射的に引かれようとして、引けない。足の下で小さく震える。
「――レギュラス……!」
呼び方が乱れ、敬称が痛みの形になる。
アランの瞳に翡翠の光が浮かぶ。涙ではない。まだ泣く暇さえ与えられていない。ただ痛みと恐怖と羞恥が、目の表面を薄く濡らした。
レギュラスは顔色を変えなかった。
研究者の指だろうがどうでもいい、という結論が、心の中で静かに確定している。
守る価値があるとすれば、それは“この女が自分のものである”という事実だけだ。守るべきは指ではない。秩序だ。所有だ。自分の顔だ。
「拾うのは、誰のためです?」
問いは優しい形をしていた。
逃げ道を塞ぐための問いだった。
その瞬間、ローランド・フロストが動いた。
まるで遅れて落ちた雷の音に追いつくように、男は急にしゃがみ込む。
外套の裾が床に触れ、膝が折れ、手が散らばった写真へ伸びる。
丁寧に整えてきた礼節が、いま床の上で無意味になる。
「……っ、ブラック様……!」
声は掠れていた。
拾おうとする。隠そうとする。拾い集めれば、すべてが元の場所に戻るとでも信じているように。
けれど指先は震え、写真は指の間から滑り、魔法写真の中のアランが笑うたびに、現実の空気がさらに冷える。
レギュラスは、足の下のアランの手を踏んだまま、ローランド・フロストを見下ろした。
礼節の男。誠実の男。
その仮面が、床に落ちている。
「フロスト殿」
名を呼ぶ声は、穏やかだった。
穏やかすぎて、残酷だった。
ローランド・フロストが顔を上げる。
目が合わない。合わせられない。けれど視線を逃がす先にあるのは、散らばった写真と、踏みつけられたアランの手と、レギュラスの靴だけだ。
アランは、足の下で息を殺していた。
痛みよりも、そこにいるローランド・フロストの気配が、心をえぐる。
この場で――この形で――再び三人が揃ってしまったことが、悪夢のようだった。
レギュラスは、微笑んだまま、足の圧をわずかに強める。
アランの喉が震える。声が出そうになり、出ない。
母として叫びたいのに、妻として叫ぶことすら許されない。
「……今、拾っているものは」
レギュラスの声が静かに落ちる。
玄関ホールの光が、散らばった写真の角を煌めかせる。そこに映る肌が、白い。シーツが揺れる。笑い声が動く。
「――紙ですか? それとも」
言葉が途切れる。
途切れたままの空白が、答えを強いる。
ローランド・フロストの喉が鳴った。
アランの睫毛が震えた。
床の上で、魔法写真がまたひとつ、くるりと回った。
地獄のような沈黙の中で。
誰もが、分かっていた。
拾い集めても終わらない。
隠しても無かったことにならない。
この瞬間から、三人の関係は“戻れない場所”へ踏み出してしまったのだと。
玄関ホールの空気は、ひどく静かだった。
静かすぎて、床に散った魔法写真がかすかに擦れ合う音や、誰かの喉が乾いて鳴る音が、やけに大きく聞こえる。
レギュラスは、踏みつけたままの足に力を込め直すことはしなかった。
ただ――逃がさない、という意思だけをその重みに残したまま、涼しい顔でそこに立っていた。
アランは動けない。
ローランド・フロストは拾い集める手を止められない。
二人とも、まるで“早く片付ければ何も起きなかったことにできる”と信じているみたいに、必死に、哀れなほどに、目の前の現実を紙切れの形へ押し込めようとしていた。
それが、腹立たしい。
「――フロスト殿」
呼びかけは柔らかい。
なのに逃げ場がない。声そのものが、ゆっくりと首を絞める輪のようだった。
ローランド・フロストは顔を上げられないまま、喉の奥で息を詰まらせた。
礼節という鎧を着ている男が、床の上で膝をついたまま、それでも礼節を手放せずにいる。
レギュラスはその滑稽さを、表情ひとつ変えずに眺める。
「先ほど、これで失礼しますと仰いましたね」
事実を並べるだけの言葉。
否定の余地のない順番で、淡々と積み上げられていく。
ローランドの指が止まった。止まった指先が震える。
その震えに気づかないふりをして、レギュラスは続ける。
「……お忙しいのに、奥の部屋から出てこられた。どうしてです?」
問いは穏やかで、当たり前の顔をしている。
まるで“説明できて当然でしょう?”とでも言うように。
ローランドは唇を開く。けれど音が出ない。
言葉を探すというより、言葉が許される場所を探している目だった。
レギュラスは待たない。待つ必要がない。
「答えられないなら、別の質問にしましょうか」
微笑みがほんの少しだけ深くなる。
救済の形をした追い込みだった。
「――この部屋で、何をしていました?」
空気が変わった。
アランの肩が、息を吸う動きすら忘れたみたいに固まる。
ローランドの背中がわずかに波打つ。
膝の下の床が冷たいのか、それとも胸の内側が冷えたのか、分からない。
アランは、踏まれている手を引こうとした。引けない。
痛みよりも、次に来る言葉の方が怖かった。
「レギュラス……それは、違うの。お願い、ここで――」
頼む、という言葉が口を滑った瞬間、レギュラスの視線がアランへ移った。
その視線は、責めるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ“確認”だった。
「ここで、が嫌ですか?」
問いの形をしているのに、答えの選択肢がない。
アランは言葉を飲み込む。
“ここで”が嫌なのだ。ここで言えば、ここで終わらなくなる。ここで認めれば、ここから先の人生のどこにも逃げ場所がなくなる。
だから黙る。黙って、息を整えようとしてしまう。
レギュラスは、その沈黙の意味を、あまりに正確に受け取った。
「――なるほど」
たった一言が、氷のように落ちた。
そして、足を上げた。
踏みつけていた重みが消える。
アランは、遅れて痛みに反応するように手を胸に引き寄せた。
手の甲が赤く熱い。指が震える。けれど、そんなことはどうでもいい。
今この場で、本当に壊れるのは手ではないと、分かってしまっているから。
レギュラスはしゃがみ込まない。
床に落ちたものを拾って“収める”役を、誰にも与えない。
「拾わなくて結構です」
穏やかな声。
その穏やかさが、逆に残酷だった。
「それは――もう、拾ったところで意味がありませんから」
ローランド・フロストの顔色が変わる。
拾う行為が唯一の救いだったのに、その救いを奪われる。
レギュラスは一歩、ローランドの前へ寄る。距離が詰まる。
しかし乱暴に近づくのではない。礼儀正しく、優雅に、当然のように。
「フロスト殿。ひとつだけ確認します」
また確認。
“確認”という名の、逃げ道の封鎖。
「これは、フロスト殿のものですか? それとも―― アランのものですか?」
その問いに、答えは二つあるようで、実際は一つしかない。
どちらだと答えても、同じ場所に辿り着く。
ローランドの喉が震える。
「ブラック様……」と声が出かけて、消える。
アランは、息を吸った。
自分が答えれば、ローランドを守れるかもしれない。
けれど答えれば、レギュラスが何をするか分からない。
その迷いが見えた瞬間、レギュラスの口元が、わずかに上がった。
迷いは、支配できる。
迷いは、潰せる。
「アラン」
呼び捨てが、ひどく自然に落ちる。
“あなた”ではない。逃げ道を与えない呼び方。
「何か言いたいことがあるなら、今言ってください」
穏やかに促すふりをして、期限を決める。
今。ここで。今しかない。
アランの唇が震える。
言えば終わる。言わなければ、もっと終わる。
「……違うの。違わないけれど、違うの」
言葉が崩れる。
理屈より先に感情が漏れてしまう。
レギュラスは頷かない。慰めない。
ただ、淡々と次の質問を重ねる。
「違わない、というのは何がです?」
アランの顔から血の気が引く。
言葉を切り分けられる。隠したい曖昧さを、丁寧に解体されていく。
ローランド・フロストが、耐えきれないように声を出す。
「ブラック様……っ、すべて、僕が――」
レギュラスの視線が、ゆっくりローランドへ移った。
その移動だけで、ローランドの声が止まる。
「フロスト殿。今、誰を守ろうとしました?」
穏やかな声。
けれど、その問いは残酷だ。守ろうとした瞬間を、罪として固定する。
「僕は、事実を聞いているだけです」
“だけ”という言葉が、嘘みたいに冷たい。
「誰が主導したか。どちらが誘ったか。そういう細部を、今ここで語らせるほど趣味は悪くない」
一見、慈悲に聞こえる。
けれど次の瞬間、それが慈悲ではないと分かる。
「――ただ、何があったかを把握すれば十分です」
把握。
それは、所有の宣言だった。
レギュラスは、床に落ちた魔法写真のうち一枚を、靴先でそっと裏返した。
指で触れない。拾わない。
ただ、見える形にする。
そこに映るアランの笑顔は、残酷なほど無邪気だった。
ローランド・フロストの目が、その笑顔に刺さって抜けなくなる。
「綺麗ですね」
レギュラスが言う。
褒め言葉なのに、葬送のようだった。
「自分の妻が、こんな顔をするとは知りませんでした」
アランの喉が鳴る。
涙が出そうになるのを堪える。泣けば、正直になる。正直になれば、終わる。
レギュラスは、その堪え方すら見逃さない。
「――泣かないでください」
命令ではなく、忠告の形。
けれど、実質は命令だった。
「泣けば、同情が必要な弱い立場に戻ってしまうでしょう。アランはそれが嫌いなはずです」
当てられる。
核心を、優しい声で刺される。
アランは唇を噛んだ。
血の味がする。
レギュラスは笑わない。怒鳴らない。
ただ、淡々と、着実に、出口を塞いでいく。
「フロスト殿」
再びローランドへ。
「ここで一度だけ答えてください。はい、か、いいえ、だけで」
最後の慈悲のように見せて、逃げ道を完全に潰すやり方。
「――妻に触れましたか?」
ローランド・フロストの全身が硬直した。
呼吸が止まり、次の瞬間、苦し紛れに息を吐く。
その沈黙だけで十分だった。
“答え”は、もう出ている。
レギュラスは頷く。
うん、でも、いいえ、でもない。
ただ理解したという頷き。
「ありがとうございます」
礼を言う声が、あまりにも丁寧で、あまりにも冷たい。
そして最後に、アランへ視線を戻す。
「アラン。次は―― アランの番です」
声色は変わらない。
けれど空気が、完全に“裁き”へ移っていた。
「屋敷に戻りましょう」
帰宅の提案みたいに聞こえる。
でもそれは“連行”だった。
「ここで話すと、セシール卿の耳にも入ります。アランはそれを望みませんよね」
望まない。
望まないからこそ、首を縦に振らざるを得ない。
アランの喉が震えた。
頷くしかない現実が、喉の奥を締め付ける。
レギュラスはその頷きを見届けると、初めてローランド・フロストへ微笑んだ。
「フロスト殿は……ご自分の帰り道を選べます」
優しい言葉。
選べる、と言いながら、選択肢の中身を言わない。
「ただし」
一拍置く。
その一拍が、刃の光だった。
「今日のことを“なかったこと”にするつもりなら――」
レギュラスはゆっくりと、床に散った写真を見下ろした。
「その努力は、もう不要です。こちらが“把握”しましたから」
把握した。
その一言で、すべてが終わる。
アランは、膝が笑いそうになるのを必死で堪えた。
ローランド・フロストは、床の上で息をすることすら難しそうに、喉を鳴らした。
レギュラスは何も取り乱さない。
静かに冷静に、けれど確実に、二人の世界の逃げ道だけを潰していく。
そして最後に、柔らかな声で結論を落とす。
「――さあ。帰りますよ、アラン」
それは夫の言葉だった。
けれど同時に、狩人が獲物へ与える合図でもあった。
レギュラスは、床に散らばった写真から視線を外さないまま、アランの手首を掴んだ。
つい先ほど踏みつけた手――赤く火照って、指先がわずかに震えている方を、選び取るように。
「立てますか」
問いかけは穏やかだった。
けれどそれは、労りではなく確認だ。立てるかどうかなど、答えの種類ではない。立たせるだけだ。
アランは息を飲んで、ゆっくりと立ち上がる。
痛みで顔を歪めることも、涙をこぼすことも、できるだけ避けた。ここで崩れれば、もっと酷いものを引き寄せると分かっている。
「……はい、レギュラス」
呼び方が、いつもより少しだけ硬い。
その“少し”を、レギュラスは聞き逃さない。
「いい返事です」
褒める声音が、恐ろしいほど柔らかい。
玄関ホールを抜ける間、誰もが息を殺した。
使用人たちの視線が背中に刺さる。見てはいけないものを見る目だ。けれど見ないでいられない目でもある。
アランは背筋を伸ばした。癖のように、礼儀の仮面をかぶる。そうしないと、足が崩れる。
外気が頬を刺した。
夜の冷気は、火傷のように熱い。手首を掴むレギュラスの指先だけが、逆に温度を持っている気がして、そこが余計に怖かった。
馬車が待っていた。
扉が開かれ、暗い車内に灯る小さなランプが、絹の内装と金具の光をぼんやり浮かび上がらせる。
いつもなら、落ち着くはずの“帰るための箱”だった。
今夜は棺のようだった。
レギュラスはアランを先に乗せない。
自分が先に乗り込み、座り、逃げ道を塞いでから、手を引いて中へ連れ込む。
それだけで、アランの胸が詰まる。
扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
馬車が動き出す。車輪の揺れが、アランの指先の痛みを揺り起こす。
手を膝の上に置こうとした瞬間、レギュラスの指がそれを許さず、手首を掴んだまま引き寄せた。
逃がさない。
「……痛みますか?」
アランは反射で頷きかけて、寸前で止めた。
痛いと言えば、何が起きるか分からない。痛いと言わなければ、痛みを理由にできない。
沈黙が落ちる。
レギュラスは小さく笑った。
笑ったというより、“理解した”という合図みたいに口角が動いた。
「さっきの、あの笑顔」
唐突に、言葉が刺さる。
アランの瞳が揺れた。
馬車の暗さの中でも分かるほど、瞬きの回数が増える。呼吸が浅くなる。
レギュラスは、アランの反応を待たない。
「いい笑顔ですね」
優しい声だ。
褒め言葉の形をしている。だからこそ、残酷だった。
「こんな風に笑ってくれたこと、ありました?」
アランの喉が鳴る。
脳裏に、引き出しの中の写真が蘇る。自分の無邪気な顔。肩からシーツをかけただけの姿。笑っている自分。
あれは――違う。違う、と叫びたい。あれはただの遊びで、昔の癖で、カメラの悪戯で。何も。
でも“何も”で済ませるには、写真はあまりに雄弁だった。
「……レギュラス、お願いです」
頼む声が漏れた。
“やめて”と言えない。言った瞬間に、さらに酷い何かを呼ぶ。
レギュラスは、お願いの言葉だけを拾って、すべてを無視した。
「お願い、と言うんですね」
ゆっくりと繰り返す。
唇の上で転がすように。味わうように。
「その声、覚えておきます。いいですね」
アランの背筋に冷たいものが走る。
覚えておく、という言葉が、罰の予告にしか聞こえなかった。
馬車が石畳を踏むたびに、揺れが増す。
その揺れの中で、レギュラスはアランの手を離さない。痛めつけるほど強くは握らない。
ただ、握ったまま、逃げ道がないことを徹底してくる。
「僕たちの寝室に飾ります?」
唐突に、軽い調子で言う。
宴の話題でも振るみたいな、社交辞令の温度で。
アランの息が止まった。
「……やめてください」
ようやく出た拒絶の言葉は、祈りみたいに弱い。
その弱さを、レギュラスは愉しむ。
「どうして?」
一言。短い。
けれど答えを出すまで終わらない。
アランは唇を噛む。
どうして、と言われても、どうしてもだ。あんなものを寝室に置かれたら、自分は毎晩そこから逃げられない。
それに――それは、レギュラスの勝利の飾りになる。自分の恥が、夫婦の装飾になる。
「……恥ずかしいからです」
苦しくて、吐き出すように言う。
レギュラスは、満足げに目を細めた。
“恥ずかしい”という言葉を、ようやく引きずり出した。
「恥ずかしい?」
繰り返す声が甘い。
「妻が恥ずかしいって言うの、可愛いですね」
可愛い、という言葉が、容赦のない刃になる。
アランは目を伏せた。視線を合わせれば、もっと切られる。
「でも、飾るのはやめませんよ」
アランが顔を上げる。
驚きと恐怖で、瞳が大きく開く。
レギュラスは静かに微笑んだまま、言葉を続けた。
「――だって、僕の妻ですから」
その一言で、すべてが終わる。
所有の宣言。抗弁の余地のない結論。
「あなたがどんな顔をして、誰の前で笑って、誰の手で撮られたとしても」
レギュラスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
言葉そのものが針であることを分かっていて、丁寧に刺していく。
「今は、僕のものですよね」
問いかけの形。
けれど答えは一つしかない。
アランは、震える息のまま、かすかに頷いた。
頷きたくなかった。
けれど、頷かないという選択肢を、この男は与えない。
レギュラスの指が、アランの手首の内側をなぞった。
脈の音が、そこに跳ねている。怖いほど正直に。
「いい子です」
褒められて、アランの胃がきりきりと痛む。
褒め言葉が救いにならない世界があるのだと、身体が覚えてしまった。
馬車の窓の外を、夜の街灯が流れていく。
あの光の一つ一つが、帰る場所を示しているはずなのに、今は“戻るしかない”という現実を照らすだけだった。
レギュラスはふっと息をつく。
怒りで荒れているわけではない。むしろ落ち着き払っている。だからこそ怖い。
「帰ったら、話しましょう」
“話”という言葉が、もう拷問の別名に聞こえる。
「あなたが何をして、何を隠して、何を守ろうとしているのか」
淡々と、丁寧に、順番を並べる。
「ちゃんと、言葉で聞かせてくださいね。アラン」
最後に名前を落とす。
優しく呼ぶ。けれど、その優しさの中に、逃がさないという決意が混じっている。
アランは、返事ができなかった。
返事をすれば、それは同意になる。
黙れば、また責められる。
どちらに転んでも、地獄は待っている。
レギュラスはその沈黙を見て、少しだけ笑った。
アランの指先が冷えきっていくのを、握ったまま感じ取りながら。
「――大丈夫。壊さないようにします」
その言葉が、慰めではなく宣告だと分かるから、アランの背中は震えた。
馬車はブラック家へ向かって走り続ける。
車輪の音が一定であるほど、逃げ道のないことだけが、静かに確定していった。
