2章
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宴の喧騒が遠ざかり、屋敷の廊下に戻った途端、空気が急に静かになる。
壁の燭台の炎だけが規則正しく揺れて、重たい絨毯が足音を吸い込み、今夜という一日が“終わりに向かっている”ことを、ひどく具体的に教えてくる。
レギュラスは珍しく上機嫌だった。
肩にかかるローブの襟元が少しだけ乱れていて、いつもなら指先一つで整えるはずのところを、そのままにしている。ワインの香りが、彼の呼吸に混じっているのがわかった。父――エドモンドと、幾度もグラスを重ねたのだろう。頬の白さに、ほんのり熱が差している。
「今日は誇らしい日です」
寝室の扉が閉まるより先に、彼はまたそう言った。
同じ言葉を何度も何度も、まるで祈りのように繰り返す。アランはそのたびに、胸の内側をやさしく締めつけられるような感覚に襲われる。嬉しい、というだけでは足りない。怖い、というだけでもない。どちらの名もつかない痛みが、きゅっと小さく鳴る。
レギュラスは外した手袋を無造作にサイドテーブルへ投げ、アランの方へ向き直った。
その視線の焦点がいつもより柔らかい。鋭く測るような目ではなく、ただ“見たい”と願う目だ。
「なんて素晴らしい妻をもらったんでしょうね、僕は」
囁く声が甘い。甘いのに、軽くない。
その言葉の温度が、アランの心臓のすぐ横を撫でるように触れて、胸がまた、きゅっと縮む。
「……レギュラス、そんな」
言いかけた声を、彼は言葉で遮らなかった。
代わりに、手で遮った。
アランの腰に回る指が、迷いなく引き寄せる。
重心がふわりと奪われて、気づけばアランはレギュラスの膝の上に座らされていた。背中に感じる胸板の硬さと、膝の確かな支え。腕が囲いになり、逃げ道が音もなく閉じられる。
抗議をしようと息を吸う前に、口づけが落ちてくる。
ひとつ。
そして、ふたつ。
短い呼吸を奪うだけの軽い触れ方ではなく、確かめるように、切実に、何かを伝えたいみたいに繰り返される。ワインの残り香が甘く、唇の熱がまっすぐに伝わってくる。
今夜のレギュラスの口づけは、不思議だった。
いつもみたいに勝ち誇るためではない。追い詰めるためでもない。
誇らしさと、愛しさが、そのまま滲み出てしまっている。
「…… アラン」
名前を呼ぶ声まで、どこか幼い。
あんなに冷静で、あんなに盤上の駒を正しく動かす男が――酔いのせいで、ほんの少しだけ鎧を脱いでいる。
アランは、彼の肩に指先を置いた。
押し返すためではなく、落ちないようにするために。自分の体温が、彼に伝わってしまうのが怖いのに、伝わってしまえばいいとも思ってしまう。矛盾が、静かに胸の中で折り重なる。
「レギュラス、……ベッドで寝ましょう」
思ったよりも柔らかな声が出た。
今日一日、光の中で完璧に作っていた“ブラック夫人”の声ではなく、もっと私的で、もっと人間らしい響きが混じってしまう。
アランは彼の腕の輪をほどくように、そっと手を取って立たせようとした。眠たいのだろう。酔いも回っている。今夜は、休ませてあげた方がいい。
そう思ったから――そう思っただけだった。
けれどレギュラスは、その手を離さなかった。
逆にアランの指を引き、もう一度膝の上に戻す。簡単に。まるで、そこが当然の場所だと言わんばかりに。
そして唇の端をゆるく上げて、わざとらしくもない笑みを浮かべた。
「今日は出来そうにないですよ。飲みすぎてしまいましたからね」
言い方がずるい。
優しく笑っているのに、どこか意地悪い。アランの言葉の意味を、わざと違う方向へ滑らせている。
アランは頬の熱さに気づき、視線を落とした。
その仕草すら見逃さない男だから、余計に腹が立つはずなのに、腹が立つより先に、胸がくすぐったくなる。
「……そういうつもりで言ったんじゃありません」
素直に言ってしまった瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。
誤解されたくない。けれど、誤解されるほどに自分が女として扱われたことが、どこかで嬉しくもある。
恥ずかしい。なのに、逃げたくない。
レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
その顔は、いつもの“問いで逃げ道を塞ぐ”顔ではなく、単純に満たされた男の顔だった。
「なら、何のつもりです?」
問いは問いでも、追い詰める刃がない。
むしろ、甘えるような響きがある。
アランは答えに迷う。
“寝ましょう”の中に入っていたのは、ただ休んでほしいという気遣いだけではない。
今夜、誇らしいと言い続ける彼を――その言葉の熱に少しだけ耐えられなくなっている自分を――落ち着かせたい、という願いもあったのだと、気づいてしまう。
「……眠たいんでしょう」
ようやく絞り出した声は、少し掠れていた。
レギュラスはその掠れを、きっと気に入ったのだろう。アランの顎先に指先を添え、上向かせる。逃げないように、優しく固定する。
「眠たいのは――そうですね。でも」
言葉の続きは、また口づけで途切れた。
さっきよりも長く、丁寧に。
誇らしさを確かめるように、愛しさを閉じ込めるように。
息が追いつかず、アランの肩が小さく上下する。
それでもレギュラスの腕の中は不思議と怖くない。今日だけは、怖くない。
今日だけは、“誇らしい”という言葉が、剣ではなく毛布みたいに感じられる。
やっと唇が離れたとき、レギュラスは額を軽く寄せた。
子どものような仕草だった。
「今日は本当に、誇らしい日でした」
もう一度、同じ言葉。
だけど今度は、宴の中心で言った“誇り”ではない。誰にも聞かせない、小さな声の誇りだった。
アランは、胸の痛みを隠すように目を伏せて、彼のローブの襟元を整えてやった。
乱れたものを正す。そうすることで、自分の中の揺れも、正しい場所に戻る気がした。
「……はい」
それだけで十分だと思った。
今夜は、余計な言葉を増やすほど、壊れやすい。
レギュラスは満足げに息をつき、アランの腰を抱えたまま、ようやく立ち上がった。
ふらつきはない。けれど、いつもより少しだけ重心がゆるい。
アランはその腕に手を添え、ベッドへ誘導する。
「ほら、ちゃんと横になってください」
そう言うと、レギュラスは静かに笑った。
その笑みは、勝者の笑みではなかった。
誇らしさに酔った男が、愛しいものに面倒を見られている時にだけ浮かべる、甘えた笑みだった。
「……命令ですか?」
「違います」
「お願いですか?」
子どもみたいに言う。
アランは、思わず小さく息を漏らして笑ってしまった。
「……お願いです」
その返事に、レギュラスは満足そうに目を細める。
そしてベッドに腰を下ろす前に、最後にもう一度だけ、アランの手の甲に口づけを落とした。
まるで、今日という誇らしい一日の締めくくりに、丁寧に封をするみたいに。
魔法省の役員室に差し込む午後の光は、いつもよりも柔らかかった。
窓辺の硝子に刻まれた紋章が淡く浮かび、机上に広がる書類の白さを、どこか祝福めいた色に染める。
レギュラスは羽ペンを走らせながら、ふと気づく。
——ローランド・フロストという名が、頭の中に一度も浮かんでいない。
あれほど苛立ち、あれほど確かめたくて、揺さぶって、痛めつけて、勝利を噛み締めるための材料にしていた男。
その影が、いつの間にか薄くなっている。薄くなった、というよりも——必要なくなったのだ。
机の隅には、今日も祝福のカードが積まれている。
新薬の流通が始まってから、魔法省内外の反応は雪崩のようだった。手続きの山、問い合わせ、契約、そして金の流入。
莫大な投資をした。けれど回収の速度は想像以上で、金貨は黙っていても流れ込んでくる。帳簿の数字が上向くたび、心が満たされるのではない。数字はただ、現実がこちらの掌の中にあることを証明してくれるだけだ。
何より——屋敷の中が、変わった。
夜、寝室に戻れば、アランがいる。
以前のように“別の部屋”へ引きこもって築いていた要塞は、もう形を失っていた。扉は閉ざされない。鍵の音はしない。
その代わり、寝台の端に落ちる柔らかな光と、薄い寝間着の布が擦れる音がある。
彼女は、こちらを見てくれる。
翡翠の瞳が、逃げずに自分を映す。
あの瞳に向けて、勝利を確かめる必要すらないほど、そこに当然のように“夫”としての自分がいる。
そして、息子がいる。アルタイルがいる。
朝の廊下に、乳母の足音と、赤子の小さな声が混じるようになった。
アランがアルタイルに話しかける声は柔らかく、以前のようにどこか緊張を含んだ“作り物”ではなくなっている。
その声が屋敷の空気を変える。ブラック家の重い壁が、ほんの少しだけ呼吸を許す。
「見てください、レギュラス」
ある日、アランはそう言って、アルタイルの小さな手をこちらへ向けた。
指先が自分の指を掴む。驚くほど弱い力なのに、そこに“血”がある。
自分の中に流れるものが、こうして形になっている。
その瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
誇りでも支配でもない。
ただ、満ちていく感覚だった。
——ああ、もういい。
何もかも、もういい。
欲しがっていたのは、結局これだったのかもしれない。
美しい妻が隣にいて、息子が腕の中にいて、世界が頭を下げ、金が集まり、名が広がり、誰もがこちらを見上げる。
そのすべてが“特別な出来事”ではなく、ა: 当然のように日常へ溶けていくのが、何より甘美だった。
役員室の扉がノックされ、バーテミウスが顔を覗かせた。
「……相変わらず、いい顔をしてますね」
からかうような声音。けれど目は鋭い。
レギュラスは書類から視線を上げ、薄く笑った。
「そう見えます?」
「ええ。余計な刺が抜けた、みたいな」
余計な刺。
その言葉に、レギュラスは一瞬だけ思考を巡らせてから——すぐに止めた。
刺の正体を考える必要がないほど、今は満たされている。
「今日は、流通に関する追加の契約が三件です。投資の回収、もう笑えない速度ですよ」
バーテミウスが淡々と告げる。
レギュラスは羽ペンを置き、指先で契約書の角を軽く整えた。紙の手触りが、現実そのもののように確かだ。
「当然です」
言葉は淡いのに、内側に揺るがない確信がある。
自分が動けば、世界が動く。
その中心に、アランとアルタイルがいる。
バーテミウスは小さく肩をすくめた。
「……本当に、あなたは運の塊ですね」
「運だけではありませんよ」
レギュラスは微笑んで言った。
運を掴みに行った。奪い取った。整えた。
そして守りきっている——そう言わんばかりに。
夕方、屋敷へ戻る馬車の中で、レギュラスは窓の外を流れる景色を眺めた。
紫に暮れ始める空。遠くに灯る屋敷の明かり。
あの明かりの下に、アランがいる。アルタイルがいる。
扉を開けた瞬間、もうそれだけで胸が満ちた。
玄関ホールの空気は温かく、使用人たちが丁寧に頭を下げる。
奥から聞こえる赤子の声。アランの小さな笑い声。
「お帰りなさいませ、レギュラス」
アランがアルタイルを抱いたまま現れた。
その姿が——あまりにも自然で、あまりにも“この家の中心”で。
レギュラスは一瞬、言葉を失いかける。
彼女の翡翠の瞳がこちらを映す。
逃げない。揺れない。
ただ、穏やかにそこにある。
「ええ、ただいま」
自分の声まで、柔らかい。
いつもの役員としての声ではない。ブラック家の当主としての声でもない。
夫として、父としての声だった。
レギュラスはアルタイルの頬に指先を触れ、次にアランの腰へ手を添えた。
抵抗もない。受け入れられるのが当たり前になっている。
その当たり前が、嬉しくて堪らない。
——ローランド・フロストなど、もうどうでもいい。
思い出す必要がない。
彼の影に勝利を証明する必要がない。
自分はすでに、勝っている。
その勝利は、静かで、温かく、毎晩この腕の中で呼吸をしている。
アランが少しだけ眉を寄せた。
「……そんなに見つめられると、落ち着きません」
照れたように笑う。
その笑い方を、今の自分は知っている。
過去のアルバムの中でしか見られなかった笑い方ではなく、目の前で、今日の自分に向けられる笑い方だ。
「落ち着かなくて結構です」
レギュラスは静かに言い、アランの額に、短い口づけを落とした。
それだけで、満たされる。
誰もが羨むものを、すべて手に入れた。
そして何より——その“手に入れた”ものが、ようやく自分の中で、ただの所有ではなく、日常の温度になり始めている。
レギュラスはその瞬間、胸の奥で小さく笑った。
神にでもなった気分だった。
けれど神のように孤独ではない。
腕の中には、柔らかな命と、美しい妻がいる。
それで、十分すぎるほどだった。
セシール家の研究室は、いつ来ても少しだけ胸が軽くなる場所だった。
古い木の床は薬草の香りと薬液の甘苦い匂いを吸い込み、窓辺の硝子には、幾度も蒸気が触れて曇った跡が薄く残っている。昼の光が差し込むと、その曇りは柔らかな膜になって、室内のものすべてを淡く包んだ。
エドモンド・セシールが「また始めよう」と言った新たな研究は、アランにとって息をするのと同じくらい自然で、同時に——胸の奥に、怖いほど懐かしい痛みを起こすものでもあった。
父の背を追い、調合に必要な資料をまとめ、魔法省へ提出する書類の整合を取り、危険性と効能の記述を言葉の形にしていく。
それは、かつてローランドと二人で手探りで積み上げてきた日々の延長だった。
そして、そのローランド・フロストが——今も、同じ場所で同じ机に向かい、申請の手続きを手伝っている。
表向きは「補佐」。
けれど、アランの胸の内では、その言葉は薄い紙のように頼りなく、ふとした拍子に破れてしまいそうだった。
この人とまた会えることが、どれだけ救いになっているか。
どれだけ、危ういことか。
父が隣室へ移動し、扉が静かに閉まった。
研究室に残るのは、薬瓶の触れ合う乾いた音と、二人の呼吸だけになる。
その“二人きり”の空気が、胸を締め付けるほど甘く、怖かった。
「……もう、会えなくなるのかと思っていました」
ローランドの声は丁寧で、優しい。
けれどその優しさの奥に、抑えきれない切なさが滲んでいて、アランは喉がきゅっと狭まるのを感じた。
返事をしようとしても、うまく言葉が出てこない。出してしまえば——涙が一緒に落ちてしまいそうで。
研究室の隣、昔からアランが使っていた小さな部屋。
今は簡易の休憩用に整えられているそこへ、二人は自然に足を向けていた。
何度も閉じこもり、資料を広げ、薬草の乾燥束を吊り、眠い目で議論をし、そして——何度も、心を確かめ合った部屋。
寝台の端に置かれたシーツは、今はもう“隠すため”ではなく、ただの布としてそこにあった。
なのに、ローランドの視線が一瞬だけそこへ落ちたのが分かって、アランの背筋が微かに震える。
こちらもまた、同じことを考えてしまったからだ。
ローランドは黙ったまま寝台から起き上がり、棚の上に手を伸ばした。
埃を被らないように布を掛けてあった小さな箱——古い魔法カメラ。
「これ……まだ使えますかね?」
彼がカメラを抱える手つきは、懐かしいほど大切そうだった。
アランの胸に、あの頃の時間が一気に蘇る。
研究が一区切りつくたびに、ふざけた顔をして撮り合った。
失敗した日も、徹夜明けの日も。何も持たないのに、世界を手にした気になれた若さの中で。
「昔、よく撮りましたね」
アランの声は自分でも驚くほど柔らかくなった。
ローランドは小さく笑う。
「ええ。あなたの笑い方が好きで……つい」
言いかけて、言葉が止まる。
その“好き”が、今でも現在進行形だと知っているからこそ、言葉を続けるのが苦しいのだろうと、アランには分かった。
ローランドはカメラの側面を指先で撫でるようにして、そっと呪文を唱える。
古い機械が小さく震え、レンズが僅かに光を含んだ。
試しに——というように、ローランドはアランへ向けてカメラを構えた。
アランが何かを言うより先に、シャッターが軽やかな音を立てる。
ぱちり、と。
次の瞬間、アランの頬が熱くなる。
何も纏っていない肌に、肩から軽く掛けただけのシーツ。
思いがけず記録されていく感覚が、羞恥と、どうしようもない甘さを同時に呼び起こした。
「あ……ひどいわ。なんで、今の姿なの……!」
アランは反射的にシーツを握り直し、肩をすくめる。
ローランドは、悪びれた様子などひとつもなく——むしろ、苦しそうに笑った。
「とても可愛いですよ、アラン」
丁寧で優しい声が、情けないほど胸に沁みる。
可愛いだなんて、そんな言葉を今の自分が受け取っていいはずがないのに。
それでも、言われた瞬間、心がふわりと浮いた。
「……貸してください。私にも」
アランは、照れ隠しのように手を差し出した。
ローランドは驚いた顔をして、それから安心したみたいに笑い、素直にカメラを渡す。
アランが構えてローランドに向けると、彼は少しだけ姿勢を正した。
そのまま真面目な顔を作ろうとして——作り切れなくて、口元が緩む。
「笑わないでください」
「あなたがそういう顔をするからよ」
声が、自然に弾む。
“ブラック夫人”ではない。
息子の母でもない。
ただ、若かった頃のアランが、そこにいた。
ぱちり。
シャッターが切れるたび、魔法写真がふわりと空中に浮かび、淡い光の膜に包まれてから、するりと落ちる。
床に散らばる写真が増えていく。
ローランドは拾い上げるたび、写り込んだ自分の表情に呆れたように笑い、そしてアランを見て、もう一度笑った。
今度はローランドがカメラを取り戻す。
距離を詰めてくる。近い。
近すぎて、肌の質感まで分かりそうなほどで、アランは息を止めそうになる。
「少し、動かないで」
ローランドの声が低くなる。
恋人の声だ。研究者の声ではない。
その声でそう言われるだけで、アランの心は簡単に従ってしまう。
ぱちり。
ぱちり。
彼はアランの頬の角度、髪の乱れ、睫毛の影まで大切にするみたいに撮った。
笑って、と言われたわけでもないのに、アランはいつの間にか笑ってしまっている。
大きく口を開けて笑う自分を、久しぶりに見た気がした。
そんな姿を、ローランドが喜ぶのが分かってしまうから、余計に笑ってしまう。
「……本当に、綺麗になりましたね」
ローランドが呟く。
それは褒め言葉のはずなのに、どこか痛い。
磨き上げられた艶。母になった柔らかさ。別の男の隣で整えられた美しさ。
褒められるほどに、胸の奥で罪悪感が疼く。
けれどローランドは、それ以上言わない。
ただ、写真を撮る。
言葉にすると壊れてしまうものを、写真に閉じ込めるみたいに。
アランはふいにカメラを奪った。
ローランドが驚いて目を丸くするのが可笑しくて、笑いながらシャッターを切る。
「ほら、あなたも。ちゃんと笑って」
「……急がなくていいんです、アラン」
ローランドが、昔の癖のまま優しく言う。
その言葉に、アランの胸がきゅっと縮む。
“急がなくていい”——その一言の中に、彼がどれほど慎重に自分を扱ってくれているかが詰まっている。
気づけば二人でカメラを持ち、同じ瞬間を狙ってシャッターを押していた。
肩が触れる。
指が重なる。
それだけで、心臓が跳ね上がる。
できあがった写真を拾い集め、床に座って並べる。
魔法写真の中で、アランが笑い、ローランドが笑い、時折ふざけてポーズを取って、また笑う。
写真の中の二人は、世界に何も奪われていない。
何も背負っていない。
ただ、互いを好きでいることだけで満ちている。
「……変ですね」
アランが小さく言う。
「何がです?」
「こんなふうに笑えるのが……まだ、残ってる」
ローランドは写真を見つめたまま、静かに頷いた。
そして、ほんの少しだけ視線を上げてアランを見る。
その青い瞳は、誠実すぎるほど真っ直ぐで、余計に胸を苦しくさせた。
「残っていてくれて、よかった」
それだけ言って、ローランドは笑う。
優しく、丁寧に。
泣きそうなほど穏やかに。
アランは、写真の束を胸に抱きしめた。
紙の冷たさが、心の熱を受け止めるみたいだった。
幸福だった。
切なくて、甘くて、危ういほど幸福だった。
この数時間があるから、またブラック家へ戻っても、完璧な妻の顔を作れるのだと思う。
息が詰まるほど整えられた日常の中で、ここだけが、息をしていい場所だった。
ローランドが、最後にもう一枚、と言ってカメラを持ち上げる。
アランは笑いながら顔を背け、シーツを肩に引き上げる。
「もう、やめて」
「やめません。……あなたが可愛すぎるので」
ローランドの言葉に、アランは思わず笑い声を漏らした。
その声にローランドも釣られて笑う。
ぱちり。
シャッターの音が、部屋の甘い空気に溶けていく。
床に散らばる魔法写真たちは、いつまでも小さく動き続けていた。
まるでこの幸福が、止まらないでほしいと願うみたいに。
綻びというほど大げさなものではない。
ただ、絹の袖口に爪を引っかけた時のような——見えない糸が、ふと指先に触れる感覚。
ブラック家の屋敷に戻れば、日常は相変わらず整っていた。
銀器は曇りなく磨かれ、廊下の蝋燭は等間隔に灯り、窓の外の庭は風ひとつ乱れない。
その中心にいるアランも、同じだった。
美しい。
ただそこにいるだけで、目を奪い、満たされる。
アルタイルを抱く腕の角度、髪をまとめる指先、使用人に向ける礼の声色——すべてが“正しい妻”として整っている。
けれど、その「正しさ」が、ある日から少しだけ……過剰になった。
魔法省での執務を終え、レギュラスが屋敷のローブを脱ぎながら居間に入ると、アランはアルタイルを胸に抱いたまま、いつもより少し早く顔を上げた。
「お帰りなさい、レギュラス」
声は柔らかい。温度もある。
けれど、息を吸う間が微かに短い。
言葉が先に出て、呼吸が追いかけてくるような——ほんの僅かな“急ぎ”が混じっていた。
「戻りました、アラン」
レギュラスは歩み寄り、赤子の頬に触れ、次いでアランのこめかみに口づけようとする。
アランは自然に顔を寄せた。受け入れが滑らかすぎるくらいに。
それが、ひっかかった。
拒絶でも戸惑いでもない。むしろ反対だ。
あまりに淀みなく受け入れられると、まるで“先に用意していた動作”みたいに見えてしまう。
「今日は、セシール家へ?」
何気なく投げた問いだった。
アランは頷き、アルタイルの背をあやす手を止めない。
「ええ。父の資料の整理を少し。申請書類の最終確認も」
「忙しいですね」
「……今、形にしないといけませんから」
声が、ほんの僅かに硬い。
“忙しい”という言葉に、わずかな棘が立つ。
誰に向けた棘なのか、アラン自身にも分からないような、短い反射。
レギュラスは笑みを崩さずに、アランの手元に目を落とした。
指先に、淡く銀色の粉が残っている。
薬剤の痕にも見えるが、薬草や羊皮紙の匂いとは違う、微かな金属の匂いが混じっていた。
「指、汚れてますよ」
指先にそっと触れると、アランは反射的に手を引きかけた。
すぐに引くのをやめ、何事もなかったように微笑む。
「……薬品棚の整理をしたので。大丈夫です」
大丈夫。
よく聞く言葉だ。屋敷でも、魔法省でも、誰もが使う便利な返答。
けれど、アランが“あまり使わないはずの温度”でそれを言った気がした。
夕餉の席では、さらに整っていた。
アランはアルタイルに小さく話しかけ、食べやすいように匙を運び、こちらにも丁寧に取り分ける。
レギュラスが手を伸ばすより先に、必要なものが差し出される。
「ありがとうございます、レギュラス」
礼の言い方が、少しだけよそよそしい。
屋敷の女主人として“外側”を着込む時の声音に近い。
夫婦の寝室で聞く、あの無防備な呼吸とは別の声。
レギュラスはグラスを傾けながら、アランの横顔を見た。
笑っている。穏やかに。完璧に。
完璧すぎて、笑みの端がどこにも引っかからない。
その夜、寝室でも同じだった。
灯りを落とし、アルタイルを乳母に預け、二人きりの静けさが降りる。
レギュラスが背後から抱けば、アランは肩を硬くすることなく体を預けてくる。
名前を呼べば、すぐに返る。
……すぐに、返る。
「疲れてます?」
問いかけると、アランは一拍だけ置いた。
その一拍が、奇妙に長い。
言葉を探しているのではなく、正解を選んでいるような間だった。
「少しだけ。でも、平気です」
また、平気。
その言葉が、今夜は妙に胸に残った。
レギュラスはアランの髪に指を通し、首筋に触れた。
そこに、いつもと違う香りが微かに混ざっている。
屋敷の香油ではない。薬草でもない。紙でもない。
——“人”の匂いに近いもの。
確証ではない。
違和感と言い切れるほどの強さでもない。
ただ、指先に刺さるほど小さな棘が、抜けずに残る。
「アラン」
名前を呼ぶと、アランは目を上げる。
翡翠の瞳がこちらを映す。その瞬間、確かに満たされる。
勝利が、静かに脈を打つ。
なのに同時に、胸の奥のどこかが——冷たくなる。
アランの瞳の奥に、こちらだけが映っていない気がした。
目の前の男に合わせて、完璧に微笑み、完璧に応じ、完璧に眠る。
その完璧さの“向こう”に、もう一つの小さな部屋が隠れているような気配がする。
レギュラスは笑みを崩さず、アランの額に口づけた。
アランは静かに目を閉じる。従順で、柔らかい。
「……いい子ですね」
褒め言葉の形をした言葉が、喉の奥で少しだけ尖った。
アランは薄く笑う。
「子どもみたいに言わないでください、レギュラス」
その返しは自然だった。
自然すぎて、また引っかかった。
自然に笑えるほど、今日一日が“満ちていた”のだろうか。
それとも——満ちていたふりをする練習が、上手くなっただけなのか。
レギュラスはアランを抱いたまま、暗がりの天井を見つめた。
指先に残る銀の粉。
微かな金属の匂い。
滑らかすぎる受け入れ。
選ばれたような一拍の間。
どれも小さくて、取るに足らない。
だからこそ厄介だ。
大きな破綻なら、すぐに叩き潰せる。
けれどこの程度の“ひっかかり”は、心の奥で育つ。
レギュラスは、アランの寝息を確かめるように腕を締め直した。
眠りに落ちた妻は、今夜も美しい。
守るべきものは、きちんとこの腕の中にある。
——そう思いたいのに。
胸の奥に、細い糸が一本だけ残ったまま、静かに引かれていく。
どこへ繋がっているのかは、まだ見えない。
けれど一度引っかかった糸は、もう見ないふりができなかった。
魔法省の廊下は、いつ来ても奇妙な静けさを湛えている。
大理石の床は磨き抜かれ、足音は吸い込まれるように鈍く響き、壁に掛けられた肖像画だけが——仕事のない者のように、気ままに口を挟んだり欠伸をしたりしていた。
役員室を出て、書類の束を片腕に抱えたまま歩く。
行き交う役人たちは相変わらず礼儀正しく頭を下げ、祝福の言葉を投げかけてくる者もいる。自分の口元はいつも通りの形に整えられ、微笑みは滑らかに返された。
——その名を、最近ほとんど思い出していなかった。
角を曲がった先、逆光の中に淡い髪が揺れた。
青い瞳がこちらを捉えた瞬間、相手が足を止める。背筋は真っ直ぐで、襟元の乱れひとつない。あくまで官僚としての姿勢を崩さないまま、男は丁寧に礼をした。
「お久しぶりですね、フロスト殿」
レギュラスの声は柔らかい。柔らかいまま、相手に逃げ道を与えない温度が混じるのは、いつもの癖だった。
ローランド・フロストは一拍で返礼を整え、視線を落としすぎず、持ち上げすぎず、正確な角度で口を開く。
「ご無沙汰しております。ブラック様」
“様”と呼ぶ距離。
それが今の二人の間にあるものを、そのまま形にしたようで、妙に整いすぎていて、かえって鼻についた。
「忙しそうですね。相変わらず手堅い」
「恐れ入ります。……役目を果たしているだけです」
抑揚の少ない言葉。真面目で、律儀で、どこまでも丁寧だ。
かつてこの男を意識していた頃なら、その「丁寧さ」の裏に何があるのか、何を隠しているのかと、暇つぶしに針を刺しにいっただろう。
だが今は違う。自分の手の内にあるものが多すぎて、わざわざ彼の反応に一喜一憂する必要がなかった。
そう、必要がないはずだった。
すれ違う距離に近づいた、その瞬間——
ふっと、匂いがした。
ローブの繊維に染みついた羊皮紙や、廊下に漂うインクの乾いた匂いではない。
香水というほど主張は強くなく、汗の匂いでもない。
ただ、ほんの一瞬だけ、風に混じって滑り込んでくる——
数日前、アランの髪から一瞬だけ香ったものと、同じ系統の匂い。
胸の奥が、冷たい指で軽く撫でられたように縮む。
レギュラスの足取りは乱れない。表情も崩れない。
なのに、指先だけがわずかに強張り、抱えている書類の端が、ほんの少し折れた。
自分は、今なにを嗅いだ?
ローランド・フロストが、わずかに視線を逸らす。
ほんの一瞬の動きだった。廊下の肖像画の方を見たようにも、遠くの掲示板に目を向けたようにも見える程度。
けれど、匂いの記憶が残っているうちに見るその仕草は、余計に不自然だった。
「……セシール卿の件、順調ですか」
レギュラスはあくまで軽く、世間話の体裁で言葉を置いた。
反応が欲しいわけではない。そう思い込もうとしている自分がいる。
ただ、確かめずにはいられなかった。
ローランドは一瞬、呼吸を止めたように見えた。
すぐに整える。すぐに、いつもの丁寧さを被り直す。
「ええ。非常に……順調かと存じます。提出物も揃い始めております」
「それは結構」
淡々とした応答のはずなのに、胸の奥に薄い棘が残った。
言葉の選び方が、整いすぎている。
完璧な返答は、ときに真実の匂いを消す。
レギュラスは微笑みを深くしない。浅く、上品に固定する。
相手を咎めるような視線にはしない。
その代わり、匂いの残り香を探るように、ローランドのローブの襟元、袖口、髪の揺れ方を、さりげなく目で追った。
やはり、同じだ。
確信と言えるほど強くはない。
けれど、アランに感じた「あのひっかかり」と同じ種類のものが、目の前にいる。
廊下の先で、魔法のエレベーターが到着を告げる鈴を鳴らした。
人の流れが少し変わり、空気が揺れる。その揺れに乗って、匂いはふっと遠ざかる。
「では、失礼いたします」
ローランドは頭を下げ、引き際まで正しい。
その正しさが、いまはやけに薄気味悪い。
「ええ。ご苦労さまです、フロスト殿」
自分の声は最後まで穏やかだった。
穏やかなまま、相手の背中を見送る。
ローランドが人波に紛れる直前、もう一度だけ空気が動いた。
匂いは、確かにそこにあった。
一瞬で、消える。証拠も残さない。
レギュラスは立ち止まらない。
けれど、廊下を進む靴音の内側で、何かが静かに軋んでいた。
——ほとんど忘れていた名が、今は喉の奥に引っかかっている。
忘れていたはずの男が、忘れたはずの匂いと一緒に、突然こちらへ戻ってきた。
微笑みは崩さないまま、レギュラスは手元の書類を整え直した。
紙の端についた小さな折れ目が、ひどく目についた。
それはまるで、完璧に縫い合わせた布に生まれた、ほんの一本のほつれのようだった。
セシール家の屋敷へ向かう道すがら、自分の胸に残った“ひっかかり”を、レギュラスは何度も噛み砕こうとしていた。
違和感などと言うほど大袈裟ではない。けれど、指の腹に刺さった極細の棘のように、無視しようとするほど存在感だけが増していく。
魔法省の廊下ですれ違ったローランドフロスト――いや、あの男の衣服から、ほんの一瞬だけ立ちのぼった香り。
それは、昨夜、ふとアランの髪が頬をかすめた瞬間に鼻先を撫でたものと同じだった。
あり得ない、と切り捨てるには、あまりに同じ温度で胸に残ってしまった。
だからこそ、足が勝手にセシール家へ向かった。
差し入れを口実にすればいい。顔を出すのは自然だ。――そう理屈を並べながら、心の底では、確かめずにいられない自分の幼さを、ひどく冷ややかに笑っていた。
屋敷は、いつ来ても静かだった。
石造りの廊下に靴音が落ちるたび、遠い記憶のように反響して戻ってくる。壁の絵画も、磨き抜かれた床も、すべてが“血筋”と“研究”の匂いを纏っている。セシール家はそういう家だ。
そして、その中心にいるのが―― アランだった。
案内された研究室は、薬草と蒸留の甘苦い匂いで満ちていた。ガラス器具が淡い光を反射し、細い炎の上で液体が静かに揺れている。紙の擦れる音、羽根ペンのかすかな走り。
そこに、彼女がいた。
白衣の袖を肘まで捲り、髪は簡単にまとめられている。頬には粉がひと筋――いや、点々と、無邪気に付着していた。
それがどうしようもなく可笑しくて、同時に胸の奥が締まるほど愛おしかった。
「……美しい顔が台無しです」
口をついて出た言葉は、意地でも甘やかしでもなく、ただの事実として落ちたはずだった。
けれどアランは、はっと顔を上げ、瞳を丸くした。翡翠の色が、驚きの光を含んで揺れる。
「どうされたんです、こんなところまで」
声は落ち着いている。けれど指先だけが、記録紙の端を無意識に押さえつけているのが見えた。
――来てほしくなかったのか。来てほしかったのか。
その判断がつかない“間”こそが、レギュラスの神経を逆撫でする。
「セシール卿は新しい研究にまた没頭されているようですので。少しばかり差し入れを」
自分の声は、驚くほど穏やかだった。穏やかに出来た、ではない。そう振る舞うことが最も“正しい”と知っているから、自然とその形になっただけだ。
アランは一度だけ唇を結び、そして礼儀正しく微笑んだ。
「……ありがとうございます。父も、喜びます」
その微笑みを見た瞬間、あの棘は少しだけ痛みを増した。
“完璧な妻”の顔。
それは本来、こちらが誇らしく思うべきものなのに――今は、薄い膜の向こうに彼女が隠れてしまったようで、妙に腹立たしかった。
そのときだった。
研究室の奥、棚とカーテンの陰になったあたりから、足音がひとつ。
控えめで、しかし迷いのない、律儀な足取り。
出てきた影を見た瞬間、レギュラスは視線だけで理解した。
ローランドフロスト。
淡い髪色に、青い瞳。彼はいつも通りの端正さで、こちらに向き直る前から姿勢を整えていた。
そして、口を開いた。
「ブラック様。――本日は」
その呼び方が、やけに耳に残った。
丁寧で、正しくて、距離を測り切った響き。かつての“フロスト殿”という呼称とは違う、明確に一段深い線引き。
それが、礼節であると同時に――何かを隠すための壁にも聞こえた。
「先日ぶりですね、フロスト殿」
レギュラスは微笑んだ。完璧な、社交の微笑み。
ただ、その内側で、齧られるような思考が音を立てた。
――今、どこから出てきた?
研究室の奥には、アランの部屋がある。
一度だけ入ったことのある場所。論文や本が整然と並び、受賞の証が静かに飾られ、そして――写真のアルバムが置かれていた部屋。
その扉の向こう側から、わざわざ彼が出てきた。
偶然だ、と言い切るには、胸がうるさすぎる。
差し入れの箱を持つ指先に、力がわずかにこもるのが自分でも分かった。
アランが、ほんの一瞬だけ息を止めた。
その気配が、視界の端で確かに揺れた。
“しまった”でも、“困った”でもない。もっと微細な、反射のような緊張。――レギュラスの目には、そう映った。
フロストは礼儀正しく続けた。
「セシール卿に、ご確認いただく資料がありまして。少しお時間を頂戴しておりました」
言葉は筋が通っている。何もおかしくない。
だが、完璧な言葉ほど、聞く側の疑念を刺激することがある。
レギュラスは、アランへ視線を滑らせた。粉のついた頬。羽根ペンを握りしめた指。翡翠の瞳。
彼女は微笑んでいる。――微笑むだけで、何も語らない。
「そうですか」
それだけ告げて、微笑みの形は崩さない。
崩さずにいられる自分が、逆に恐ろしいと思った。
確かめたい。
しかし、ここで剥き出しの牙を見せるのは愚かだ。
この場はセシール家の研究室で、アランは“父の娘”としてそこにいる。自分は“支援者”であり“夫”である以前に、魔法界の目に晒される立場だ。
だからこそ、静かに、丁寧に、針を刺す。
「差し入れは、研究室の皆さんに。―― アラン、少しだけ手を休めて。頬の粉を取って差し上げます」
優しさの体裁を纏わせながら、距離を詰める。
アランの反応を、フロストの目の前で確かめるために。
指先が彼女の頬に触れる直前、レギュラスは思う。
あの香りの棘は、まだ抜けていない。
そして、いまこの場には――棘の根を探るための材料が、揃いすぎるほど揃っていた。
壁の燭台の炎だけが規則正しく揺れて、重たい絨毯が足音を吸い込み、今夜という一日が“終わりに向かっている”ことを、ひどく具体的に教えてくる。
レギュラスは珍しく上機嫌だった。
肩にかかるローブの襟元が少しだけ乱れていて、いつもなら指先一つで整えるはずのところを、そのままにしている。ワインの香りが、彼の呼吸に混じっているのがわかった。父――エドモンドと、幾度もグラスを重ねたのだろう。頬の白さに、ほんのり熱が差している。
「今日は誇らしい日です」
寝室の扉が閉まるより先に、彼はまたそう言った。
同じ言葉を何度も何度も、まるで祈りのように繰り返す。アランはそのたびに、胸の内側をやさしく締めつけられるような感覚に襲われる。嬉しい、というだけでは足りない。怖い、というだけでもない。どちらの名もつかない痛みが、きゅっと小さく鳴る。
レギュラスは外した手袋を無造作にサイドテーブルへ投げ、アランの方へ向き直った。
その視線の焦点がいつもより柔らかい。鋭く測るような目ではなく、ただ“見たい”と願う目だ。
「なんて素晴らしい妻をもらったんでしょうね、僕は」
囁く声が甘い。甘いのに、軽くない。
その言葉の温度が、アランの心臓のすぐ横を撫でるように触れて、胸がまた、きゅっと縮む。
「……レギュラス、そんな」
言いかけた声を、彼は言葉で遮らなかった。
代わりに、手で遮った。
アランの腰に回る指が、迷いなく引き寄せる。
重心がふわりと奪われて、気づけばアランはレギュラスの膝の上に座らされていた。背中に感じる胸板の硬さと、膝の確かな支え。腕が囲いになり、逃げ道が音もなく閉じられる。
抗議をしようと息を吸う前に、口づけが落ちてくる。
ひとつ。
そして、ふたつ。
短い呼吸を奪うだけの軽い触れ方ではなく、確かめるように、切実に、何かを伝えたいみたいに繰り返される。ワインの残り香が甘く、唇の熱がまっすぐに伝わってくる。
今夜のレギュラスの口づけは、不思議だった。
いつもみたいに勝ち誇るためではない。追い詰めるためでもない。
誇らしさと、愛しさが、そのまま滲み出てしまっている。
「…… アラン」
名前を呼ぶ声まで、どこか幼い。
あんなに冷静で、あんなに盤上の駒を正しく動かす男が――酔いのせいで、ほんの少しだけ鎧を脱いでいる。
アランは、彼の肩に指先を置いた。
押し返すためではなく、落ちないようにするために。自分の体温が、彼に伝わってしまうのが怖いのに、伝わってしまえばいいとも思ってしまう。矛盾が、静かに胸の中で折り重なる。
「レギュラス、……ベッドで寝ましょう」
思ったよりも柔らかな声が出た。
今日一日、光の中で完璧に作っていた“ブラック夫人”の声ではなく、もっと私的で、もっと人間らしい響きが混じってしまう。
アランは彼の腕の輪をほどくように、そっと手を取って立たせようとした。眠たいのだろう。酔いも回っている。今夜は、休ませてあげた方がいい。
そう思ったから――そう思っただけだった。
けれどレギュラスは、その手を離さなかった。
逆にアランの指を引き、もう一度膝の上に戻す。簡単に。まるで、そこが当然の場所だと言わんばかりに。
そして唇の端をゆるく上げて、わざとらしくもない笑みを浮かべた。
「今日は出来そうにないですよ。飲みすぎてしまいましたからね」
言い方がずるい。
優しく笑っているのに、どこか意地悪い。アランの言葉の意味を、わざと違う方向へ滑らせている。
アランは頬の熱さに気づき、視線を落とした。
その仕草すら見逃さない男だから、余計に腹が立つはずなのに、腹が立つより先に、胸がくすぐったくなる。
「……そういうつもりで言ったんじゃありません」
素直に言ってしまった瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。
誤解されたくない。けれど、誤解されるほどに自分が女として扱われたことが、どこかで嬉しくもある。
恥ずかしい。なのに、逃げたくない。
レギュラスは一瞬だけ目を細めた。
その顔は、いつもの“問いで逃げ道を塞ぐ”顔ではなく、単純に満たされた男の顔だった。
「なら、何のつもりです?」
問いは問いでも、追い詰める刃がない。
むしろ、甘えるような響きがある。
アランは答えに迷う。
“寝ましょう”の中に入っていたのは、ただ休んでほしいという気遣いだけではない。
今夜、誇らしいと言い続ける彼を――その言葉の熱に少しだけ耐えられなくなっている自分を――落ち着かせたい、という願いもあったのだと、気づいてしまう。
「……眠たいんでしょう」
ようやく絞り出した声は、少し掠れていた。
レギュラスはその掠れを、きっと気に入ったのだろう。アランの顎先に指先を添え、上向かせる。逃げないように、優しく固定する。
「眠たいのは――そうですね。でも」
言葉の続きは、また口づけで途切れた。
さっきよりも長く、丁寧に。
誇らしさを確かめるように、愛しさを閉じ込めるように。
息が追いつかず、アランの肩が小さく上下する。
それでもレギュラスの腕の中は不思議と怖くない。今日だけは、怖くない。
今日だけは、“誇らしい”という言葉が、剣ではなく毛布みたいに感じられる。
やっと唇が離れたとき、レギュラスは額を軽く寄せた。
子どものような仕草だった。
「今日は本当に、誇らしい日でした」
もう一度、同じ言葉。
だけど今度は、宴の中心で言った“誇り”ではない。誰にも聞かせない、小さな声の誇りだった。
アランは、胸の痛みを隠すように目を伏せて、彼のローブの襟元を整えてやった。
乱れたものを正す。そうすることで、自分の中の揺れも、正しい場所に戻る気がした。
「……はい」
それだけで十分だと思った。
今夜は、余計な言葉を増やすほど、壊れやすい。
レギュラスは満足げに息をつき、アランの腰を抱えたまま、ようやく立ち上がった。
ふらつきはない。けれど、いつもより少しだけ重心がゆるい。
アランはその腕に手を添え、ベッドへ誘導する。
「ほら、ちゃんと横になってください」
そう言うと、レギュラスは静かに笑った。
その笑みは、勝者の笑みではなかった。
誇らしさに酔った男が、愛しいものに面倒を見られている時にだけ浮かべる、甘えた笑みだった。
「……命令ですか?」
「違います」
「お願いですか?」
子どもみたいに言う。
アランは、思わず小さく息を漏らして笑ってしまった。
「……お願いです」
その返事に、レギュラスは満足そうに目を細める。
そしてベッドに腰を下ろす前に、最後にもう一度だけ、アランの手の甲に口づけを落とした。
まるで、今日という誇らしい一日の締めくくりに、丁寧に封をするみたいに。
魔法省の役員室に差し込む午後の光は、いつもよりも柔らかかった。
窓辺の硝子に刻まれた紋章が淡く浮かび、机上に広がる書類の白さを、どこか祝福めいた色に染める。
レギュラスは羽ペンを走らせながら、ふと気づく。
——ローランド・フロストという名が、頭の中に一度も浮かんでいない。
あれほど苛立ち、あれほど確かめたくて、揺さぶって、痛めつけて、勝利を噛み締めるための材料にしていた男。
その影が、いつの間にか薄くなっている。薄くなった、というよりも——必要なくなったのだ。
机の隅には、今日も祝福のカードが積まれている。
新薬の流通が始まってから、魔法省内外の反応は雪崩のようだった。手続きの山、問い合わせ、契約、そして金の流入。
莫大な投資をした。けれど回収の速度は想像以上で、金貨は黙っていても流れ込んでくる。帳簿の数字が上向くたび、心が満たされるのではない。数字はただ、現実がこちらの掌の中にあることを証明してくれるだけだ。
何より——屋敷の中が、変わった。
夜、寝室に戻れば、アランがいる。
以前のように“別の部屋”へ引きこもって築いていた要塞は、もう形を失っていた。扉は閉ざされない。鍵の音はしない。
その代わり、寝台の端に落ちる柔らかな光と、薄い寝間着の布が擦れる音がある。
彼女は、こちらを見てくれる。
翡翠の瞳が、逃げずに自分を映す。
あの瞳に向けて、勝利を確かめる必要すらないほど、そこに当然のように“夫”としての自分がいる。
そして、息子がいる。アルタイルがいる。
朝の廊下に、乳母の足音と、赤子の小さな声が混じるようになった。
アランがアルタイルに話しかける声は柔らかく、以前のようにどこか緊張を含んだ“作り物”ではなくなっている。
その声が屋敷の空気を変える。ブラック家の重い壁が、ほんの少しだけ呼吸を許す。
「見てください、レギュラス」
ある日、アランはそう言って、アルタイルの小さな手をこちらへ向けた。
指先が自分の指を掴む。驚くほど弱い力なのに、そこに“血”がある。
自分の中に流れるものが、こうして形になっている。
その瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
誇りでも支配でもない。
ただ、満ちていく感覚だった。
——ああ、もういい。
何もかも、もういい。
欲しがっていたのは、結局これだったのかもしれない。
美しい妻が隣にいて、息子が腕の中にいて、世界が頭を下げ、金が集まり、名が広がり、誰もがこちらを見上げる。
そのすべてが“特別な出来事”ではなく、ა: 当然のように日常へ溶けていくのが、何より甘美だった。
役員室の扉がノックされ、バーテミウスが顔を覗かせた。
「……相変わらず、いい顔をしてますね」
からかうような声音。けれど目は鋭い。
レギュラスは書類から視線を上げ、薄く笑った。
「そう見えます?」
「ええ。余計な刺が抜けた、みたいな」
余計な刺。
その言葉に、レギュラスは一瞬だけ思考を巡らせてから——すぐに止めた。
刺の正体を考える必要がないほど、今は満たされている。
「今日は、流通に関する追加の契約が三件です。投資の回収、もう笑えない速度ですよ」
バーテミウスが淡々と告げる。
レギュラスは羽ペンを置き、指先で契約書の角を軽く整えた。紙の手触りが、現実そのもののように確かだ。
「当然です」
言葉は淡いのに、内側に揺るがない確信がある。
自分が動けば、世界が動く。
その中心に、アランとアルタイルがいる。
バーテミウスは小さく肩をすくめた。
「……本当に、あなたは運の塊ですね」
「運だけではありませんよ」
レギュラスは微笑んで言った。
運を掴みに行った。奪い取った。整えた。
そして守りきっている——そう言わんばかりに。
夕方、屋敷へ戻る馬車の中で、レギュラスは窓の外を流れる景色を眺めた。
紫に暮れ始める空。遠くに灯る屋敷の明かり。
あの明かりの下に、アランがいる。アルタイルがいる。
扉を開けた瞬間、もうそれだけで胸が満ちた。
玄関ホールの空気は温かく、使用人たちが丁寧に頭を下げる。
奥から聞こえる赤子の声。アランの小さな笑い声。
「お帰りなさいませ、レギュラス」
アランがアルタイルを抱いたまま現れた。
その姿が——あまりにも自然で、あまりにも“この家の中心”で。
レギュラスは一瞬、言葉を失いかける。
彼女の翡翠の瞳がこちらを映す。
逃げない。揺れない。
ただ、穏やかにそこにある。
「ええ、ただいま」
自分の声まで、柔らかい。
いつもの役員としての声ではない。ブラック家の当主としての声でもない。
夫として、父としての声だった。
レギュラスはアルタイルの頬に指先を触れ、次にアランの腰へ手を添えた。
抵抗もない。受け入れられるのが当たり前になっている。
その当たり前が、嬉しくて堪らない。
——ローランド・フロストなど、もうどうでもいい。
思い出す必要がない。
彼の影に勝利を証明する必要がない。
自分はすでに、勝っている。
その勝利は、静かで、温かく、毎晩この腕の中で呼吸をしている。
アランが少しだけ眉を寄せた。
「……そんなに見つめられると、落ち着きません」
照れたように笑う。
その笑い方を、今の自分は知っている。
過去のアルバムの中でしか見られなかった笑い方ではなく、目の前で、今日の自分に向けられる笑い方だ。
「落ち着かなくて結構です」
レギュラスは静かに言い、アランの額に、短い口づけを落とした。
それだけで、満たされる。
誰もが羨むものを、すべて手に入れた。
そして何より——その“手に入れた”ものが、ようやく自分の中で、ただの所有ではなく、日常の温度になり始めている。
レギュラスはその瞬間、胸の奥で小さく笑った。
神にでもなった気分だった。
けれど神のように孤独ではない。
腕の中には、柔らかな命と、美しい妻がいる。
それで、十分すぎるほどだった。
セシール家の研究室は、いつ来ても少しだけ胸が軽くなる場所だった。
古い木の床は薬草の香りと薬液の甘苦い匂いを吸い込み、窓辺の硝子には、幾度も蒸気が触れて曇った跡が薄く残っている。昼の光が差し込むと、その曇りは柔らかな膜になって、室内のものすべてを淡く包んだ。
エドモンド・セシールが「また始めよう」と言った新たな研究は、アランにとって息をするのと同じくらい自然で、同時に——胸の奥に、怖いほど懐かしい痛みを起こすものでもあった。
父の背を追い、調合に必要な資料をまとめ、魔法省へ提出する書類の整合を取り、危険性と効能の記述を言葉の形にしていく。
それは、かつてローランドと二人で手探りで積み上げてきた日々の延長だった。
そして、そのローランド・フロストが——今も、同じ場所で同じ机に向かい、申請の手続きを手伝っている。
表向きは「補佐」。
けれど、アランの胸の内では、その言葉は薄い紙のように頼りなく、ふとした拍子に破れてしまいそうだった。
この人とまた会えることが、どれだけ救いになっているか。
どれだけ、危ういことか。
父が隣室へ移動し、扉が静かに閉まった。
研究室に残るのは、薬瓶の触れ合う乾いた音と、二人の呼吸だけになる。
その“二人きり”の空気が、胸を締め付けるほど甘く、怖かった。
「……もう、会えなくなるのかと思っていました」
ローランドの声は丁寧で、優しい。
けれどその優しさの奥に、抑えきれない切なさが滲んでいて、アランは喉がきゅっと狭まるのを感じた。
返事をしようとしても、うまく言葉が出てこない。出してしまえば——涙が一緒に落ちてしまいそうで。
研究室の隣、昔からアランが使っていた小さな部屋。
今は簡易の休憩用に整えられているそこへ、二人は自然に足を向けていた。
何度も閉じこもり、資料を広げ、薬草の乾燥束を吊り、眠い目で議論をし、そして——何度も、心を確かめ合った部屋。
寝台の端に置かれたシーツは、今はもう“隠すため”ではなく、ただの布としてそこにあった。
なのに、ローランドの視線が一瞬だけそこへ落ちたのが分かって、アランの背筋が微かに震える。
こちらもまた、同じことを考えてしまったからだ。
ローランドは黙ったまま寝台から起き上がり、棚の上に手を伸ばした。
埃を被らないように布を掛けてあった小さな箱——古い魔法カメラ。
「これ……まだ使えますかね?」
彼がカメラを抱える手つきは、懐かしいほど大切そうだった。
アランの胸に、あの頃の時間が一気に蘇る。
研究が一区切りつくたびに、ふざけた顔をして撮り合った。
失敗した日も、徹夜明けの日も。何も持たないのに、世界を手にした気になれた若さの中で。
「昔、よく撮りましたね」
アランの声は自分でも驚くほど柔らかくなった。
ローランドは小さく笑う。
「ええ。あなたの笑い方が好きで……つい」
言いかけて、言葉が止まる。
その“好き”が、今でも現在進行形だと知っているからこそ、言葉を続けるのが苦しいのだろうと、アランには分かった。
ローランドはカメラの側面を指先で撫でるようにして、そっと呪文を唱える。
古い機械が小さく震え、レンズが僅かに光を含んだ。
試しに——というように、ローランドはアランへ向けてカメラを構えた。
アランが何かを言うより先に、シャッターが軽やかな音を立てる。
ぱちり、と。
次の瞬間、アランの頬が熱くなる。
何も纏っていない肌に、肩から軽く掛けただけのシーツ。
思いがけず記録されていく感覚が、羞恥と、どうしようもない甘さを同時に呼び起こした。
「あ……ひどいわ。なんで、今の姿なの……!」
アランは反射的にシーツを握り直し、肩をすくめる。
ローランドは、悪びれた様子などひとつもなく——むしろ、苦しそうに笑った。
「とても可愛いですよ、アラン」
丁寧で優しい声が、情けないほど胸に沁みる。
可愛いだなんて、そんな言葉を今の自分が受け取っていいはずがないのに。
それでも、言われた瞬間、心がふわりと浮いた。
「……貸してください。私にも」
アランは、照れ隠しのように手を差し出した。
ローランドは驚いた顔をして、それから安心したみたいに笑い、素直にカメラを渡す。
アランが構えてローランドに向けると、彼は少しだけ姿勢を正した。
そのまま真面目な顔を作ろうとして——作り切れなくて、口元が緩む。
「笑わないでください」
「あなたがそういう顔をするからよ」
声が、自然に弾む。
“ブラック夫人”ではない。
息子の母でもない。
ただ、若かった頃のアランが、そこにいた。
ぱちり。
シャッターが切れるたび、魔法写真がふわりと空中に浮かび、淡い光の膜に包まれてから、するりと落ちる。
床に散らばる写真が増えていく。
ローランドは拾い上げるたび、写り込んだ自分の表情に呆れたように笑い、そしてアランを見て、もう一度笑った。
今度はローランドがカメラを取り戻す。
距離を詰めてくる。近い。
近すぎて、肌の質感まで分かりそうなほどで、アランは息を止めそうになる。
「少し、動かないで」
ローランドの声が低くなる。
恋人の声だ。研究者の声ではない。
その声でそう言われるだけで、アランの心は簡単に従ってしまう。
ぱちり。
ぱちり。
彼はアランの頬の角度、髪の乱れ、睫毛の影まで大切にするみたいに撮った。
笑って、と言われたわけでもないのに、アランはいつの間にか笑ってしまっている。
大きく口を開けて笑う自分を、久しぶりに見た気がした。
そんな姿を、ローランドが喜ぶのが分かってしまうから、余計に笑ってしまう。
「……本当に、綺麗になりましたね」
ローランドが呟く。
それは褒め言葉のはずなのに、どこか痛い。
磨き上げられた艶。母になった柔らかさ。別の男の隣で整えられた美しさ。
褒められるほどに、胸の奥で罪悪感が疼く。
けれどローランドは、それ以上言わない。
ただ、写真を撮る。
言葉にすると壊れてしまうものを、写真に閉じ込めるみたいに。
アランはふいにカメラを奪った。
ローランドが驚いて目を丸くするのが可笑しくて、笑いながらシャッターを切る。
「ほら、あなたも。ちゃんと笑って」
「……急がなくていいんです、アラン」
ローランドが、昔の癖のまま優しく言う。
その言葉に、アランの胸がきゅっと縮む。
“急がなくていい”——その一言の中に、彼がどれほど慎重に自分を扱ってくれているかが詰まっている。
気づけば二人でカメラを持ち、同じ瞬間を狙ってシャッターを押していた。
肩が触れる。
指が重なる。
それだけで、心臓が跳ね上がる。
できあがった写真を拾い集め、床に座って並べる。
魔法写真の中で、アランが笑い、ローランドが笑い、時折ふざけてポーズを取って、また笑う。
写真の中の二人は、世界に何も奪われていない。
何も背負っていない。
ただ、互いを好きでいることだけで満ちている。
「……変ですね」
アランが小さく言う。
「何がです?」
「こんなふうに笑えるのが……まだ、残ってる」
ローランドは写真を見つめたまま、静かに頷いた。
そして、ほんの少しだけ視線を上げてアランを見る。
その青い瞳は、誠実すぎるほど真っ直ぐで、余計に胸を苦しくさせた。
「残っていてくれて、よかった」
それだけ言って、ローランドは笑う。
優しく、丁寧に。
泣きそうなほど穏やかに。
アランは、写真の束を胸に抱きしめた。
紙の冷たさが、心の熱を受け止めるみたいだった。
幸福だった。
切なくて、甘くて、危ういほど幸福だった。
この数時間があるから、またブラック家へ戻っても、完璧な妻の顔を作れるのだと思う。
息が詰まるほど整えられた日常の中で、ここだけが、息をしていい場所だった。
ローランドが、最後にもう一枚、と言ってカメラを持ち上げる。
アランは笑いながら顔を背け、シーツを肩に引き上げる。
「もう、やめて」
「やめません。……あなたが可愛すぎるので」
ローランドの言葉に、アランは思わず笑い声を漏らした。
その声にローランドも釣られて笑う。
ぱちり。
シャッターの音が、部屋の甘い空気に溶けていく。
床に散らばる魔法写真たちは、いつまでも小さく動き続けていた。
まるでこの幸福が、止まらないでほしいと願うみたいに。
綻びというほど大げさなものではない。
ただ、絹の袖口に爪を引っかけた時のような——見えない糸が、ふと指先に触れる感覚。
ブラック家の屋敷に戻れば、日常は相変わらず整っていた。
銀器は曇りなく磨かれ、廊下の蝋燭は等間隔に灯り、窓の外の庭は風ひとつ乱れない。
その中心にいるアランも、同じだった。
美しい。
ただそこにいるだけで、目を奪い、満たされる。
アルタイルを抱く腕の角度、髪をまとめる指先、使用人に向ける礼の声色——すべてが“正しい妻”として整っている。
けれど、その「正しさ」が、ある日から少しだけ……過剰になった。
魔法省での執務を終え、レギュラスが屋敷のローブを脱ぎながら居間に入ると、アランはアルタイルを胸に抱いたまま、いつもより少し早く顔を上げた。
「お帰りなさい、レギュラス」
声は柔らかい。温度もある。
けれど、息を吸う間が微かに短い。
言葉が先に出て、呼吸が追いかけてくるような——ほんの僅かな“急ぎ”が混じっていた。
「戻りました、アラン」
レギュラスは歩み寄り、赤子の頬に触れ、次いでアランのこめかみに口づけようとする。
アランは自然に顔を寄せた。受け入れが滑らかすぎるくらいに。
それが、ひっかかった。
拒絶でも戸惑いでもない。むしろ反対だ。
あまりに淀みなく受け入れられると、まるで“先に用意していた動作”みたいに見えてしまう。
「今日は、セシール家へ?」
何気なく投げた問いだった。
アランは頷き、アルタイルの背をあやす手を止めない。
「ええ。父の資料の整理を少し。申請書類の最終確認も」
「忙しいですね」
「……今、形にしないといけませんから」
声が、ほんの僅かに硬い。
“忙しい”という言葉に、わずかな棘が立つ。
誰に向けた棘なのか、アラン自身にも分からないような、短い反射。
レギュラスは笑みを崩さずに、アランの手元に目を落とした。
指先に、淡く銀色の粉が残っている。
薬剤の痕にも見えるが、薬草や羊皮紙の匂いとは違う、微かな金属の匂いが混じっていた。
「指、汚れてますよ」
指先にそっと触れると、アランは反射的に手を引きかけた。
すぐに引くのをやめ、何事もなかったように微笑む。
「……薬品棚の整理をしたので。大丈夫です」
大丈夫。
よく聞く言葉だ。屋敷でも、魔法省でも、誰もが使う便利な返答。
けれど、アランが“あまり使わないはずの温度”でそれを言った気がした。
夕餉の席では、さらに整っていた。
アランはアルタイルに小さく話しかけ、食べやすいように匙を運び、こちらにも丁寧に取り分ける。
レギュラスが手を伸ばすより先に、必要なものが差し出される。
「ありがとうございます、レギュラス」
礼の言い方が、少しだけよそよそしい。
屋敷の女主人として“外側”を着込む時の声音に近い。
夫婦の寝室で聞く、あの無防備な呼吸とは別の声。
レギュラスはグラスを傾けながら、アランの横顔を見た。
笑っている。穏やかに。完璧に。
完璧すぎて、笑みの端がどこにも引っかからない。
その夜、寝室でも同じだった。
灯りを落とし、アルタイルを乳母に預け、二人きりの静けさが降りる。
レギュラスが背後から抱けば、アランは肩を硬くすることなく体を預けてくる。
名前を呼べば、すぐに返る。
……すぐに、返る。
「疲れてます?」
問いかけると、アランは一拍だけ置いた。
その一拍が、奇妙に長い。
言葉を探しているのではなく、正解を選んでいるような間だった。
「少しだけ。でも、平気です」
また、平気。
その言葉が、今夜は妙に胸に残った。
レギュラスはアランの髪に指を通し、首筋に触れた。
そこに、いつもと違う香りが微かに混ざっている。
屋敷の香油ではない。薬草でもない。紙でもない。
——“人”の匂いに近いもの。
確証ではない。
違和感と言い切れるほどの強さでもない。
ただ、指先に刺さるほど小さな棘が、抜けずに残る。
「アラン」
名前を呼ぶと、アランは目を上げる。
翡翠の瞳がこちらを映す。その瞬間、確かに満たされる。
勝利が、静かに脈を打つ。
なのに同時に、胸の奥のどこかが——冷たくなる。
アランの瞳の奥に、こちらだけが映っていない気がした。
目の前の男に合わせて、完璧に微笑み、完璧に応じ、完璧に眠る。
その完璧さの“向こう”に、もう一つの小さな部屋が隠れているような気配がする。
レギュラスは笑みを崩さず、アランの額に口づけた。
アランは静かに目を閉じる。従順で、柔らかい。
「……いい子ですね」
褒め言葉の形をした言葉が、喉の奥で少しだけ尖った。
アランは薄く笑う。
「子どもみたいに言わないでください、レギュラス」
その返しは自然だった。
自然すぎて、また引っかかった。
自然に笑えるほど、今日一日が“満ちていた”のだろうか。
それとも——満ちていたふりをする練習が、上手くなっただけなのか。
レギュラスはアランを抱いたまま、暗がりの天井を見つめた。
指先に残る銀の粉。
微かな金属の匂い。
滑らかすぎる受け入れ。
選ばれたような一拍の間。
どれも小さくて、取るに足らない。
だからこそ厄介だ。
大きな破綻なら、すぐに叩き潰せる。
けれどこの程度の“ひっかかり”は、心の奥で育つ。
レギュラスは、アランの寝息を確かめるように腕を締め直した。
眠りに落ちた妻は、今夜も美しい。
守るべきものは、きちんとこの腕の中にある。
——そう思いたいのに。
胸の奥に、細い糸が一本だけ残ったまま、静かに引かれていく。
どこへ繋がっているのかは、まだ見えない。
けれど一度引っかかった糸は、もう見ないふりができなかった。
魔法省の廊下は、いつ来ても奇妙な静けさを湛えている。
大理石の床は磨き抜かれ、足音は吸い込まれるように鈍く響き、壁に掛けられた肖像画だけが——仕事のない者のように、気ままに口を挟んだり欠伸をしたりしていた。
役員室を出て、書類の束を片腕に抱えたまま歩く。
行き交う役人たちは相変わらず礼儀正しく頭を下げ、祝福の言葉を投げかけてくる者もいる。自分の口元はいつも通りの形に整えられ、微笑みは滑らかに返された。
——その名を、最近ほとんど思い出していなかった。
角を曲がった先、逆光の中に淡い髪が揺れた。
青い瞳がこちらを捉えた瞬間、相手が足を止める。背筋は真っ直ぐで、襟元の乱れひとつない。あくまで官僚としての姿勢を崩さないまま、男は丁寧に礼をした。
「お久しぶりですね、フロスト殿」
レギュラスの声は柔らかい。柔らかいまま、相手に逃げ道を与えない温度が混じるのは、いつもの癖だった。
ローランド・フロストは一拍で返礼を整え、視線を落としすぎず、持ち上げすぎず、正確な角度で口を開く。
「ご無沙汰しております。ブラック様」
“様”と呼ぶ距離。
それが今の二人の間にあるものを、そのまま形にしたようで、妙に整いすぎていて、かえって鼻についた。
「忙しそうですね。相変わらず手堅い」
「恐れ入ります。……役目を果たしているだけです」
抑揚の少ない言葉。真面目で、律儀で、どこまでも丁寧だ。
かつてこの男を意識していた頃なら、その「丁寧さ」の裏に何があるのか、何を隠しているのかと、暇つぶしに針を刺しにいっただろう。
だが今は違う。自分の手の内にあるものが多すぎて、わざわざ彼の反応に一喜一憂する必要がなかった。
そう、必要がないはずだった。
すれ違う距離に近づいた、その瞬間——
ふっと、匂いがした。
ローブの繊維に染みついた羊皮紙や、廊下に漂うインクの乾いた匂いではない。
香水というほど主張は強くなく、汗の匂いでもない。
ただ、ほんの一瞬だけ、風に混じって滑り込んでくる——
数日前、アランの髪から一瞬だけ香ったものと、同じ系統の匂い。
胸の奥が、冷たい指で軽く撫でられたように縮む。
レギュラスの足取りは乱れない。表情も崩れない。
なのに、指先だけがわずかに強張り、抱えている書類の端が、ほんの少し折れた。
自分は、今なにを嗅いだ?
ローランド・フロストが、わずかに視線を逸らす。
ほんの一瞬の動きだった。廊下の肖像画の方を見たようにも、遠くの掲示板に目を向けたようにも見える程度。
けれど、匂いの記憶が残っているうちに見るその仕草は、余計に不自然だった。
「……セシール卿の件、順調ですか」
レギュラスはあくまで軽く、世間話の体裁で言葉を置いた。
反応が欲しいわけではない。そう思い込もうとしている自分がいる。
ただ、確かめずにはいられなかった。
ローランドは一瞬、呼吸を止めたように見えた。
すぐに整える。すぐに、いつもの丁寧さを被り直す。
「ええ。非常に……順調かと存じます。提出物も揃い始めております」
「それは結構」
淡々とした応答のはずなのに、胸の奥に薄い棘が残った。
言葉の選び方が、整いすぎている。
完璧な返答は、ときに真実の匂いを消す。
レギュラスは微笑みを深くしない。浅く、上品に固定する。
相手を咎めるような視線にはしない。
その代わり、匂いの残り香を探るように、ローランドのローブの襟元、袖口、髪の揺れ方を、さりげなく目で追った。
やはり、同じだ。
確信と言えるほど強くはない。
けれど、アランに感じた「あのひっかかり」と同じ種類のものが、目の前にいる。
廊下の先で、魔法のエレベーターが到着を告げる鈴を鳴らした。
人の流れが少し変わり、空気が揺れる。その揺れに乗って、匂いはふっと遠ざかる。
「では、失礼いたします」
ローランドは頭を下げ、引き際まで正しい。
その正しさが、いまはやけに薄気味悪い。
「ええ。ご苦労さまです、フロスト殿」
自分の声は最後まで穏やかだった。
穏やかなまま、相手の背中を見送る。
ローランドが人波に紛れる直前、もう一度だけ空気が動いた。
匂いは、確かにそこにあった。
一瞬で、消える。証拠も残さない。
レギュラスは立ち止まらない。
けれど、廊下を進む靴音の内側で、何かが静かに軋んでいた。
——ほとんど忘れていた名が、今は喉の奥に引っかかっている。
忘れていたはずの男が、忘れたはずの匂いと一緒に、突然こちらへ戻ってきた。
微笑みは崩さないまま、レギュラスは手元の書類を整え直した。
紙の端についた小さな折れ目が、ひどく目についた。
それはまるで、完璧に縫い合わせた布に生まれた、ほんの一本のほつれのようだった。
セシール家の屋敷へ向かう道すがら、自分の胸に残った“ひっかかり”を、レギュラスは何度も噛み砕こうとしていた。
違和感などと言うほど大袈裟ではない。けれど、指の腹に刺さった極細の棘のように、無視しようとするほど存在感だけが増していく。
魔法省の廊下ですれ違ったローランドフロスト――いや、あの男の衣服から、ほんの一瞬だけ立ちのぼった香り。
それは、昨夜、ふとアランの髪が頬をかすめた瞬間に鼻先を撫でたものと同じだった。
あり得ない、と切り捨てるには、あまりに同じ温度で胸に残ってしまった。
だからこそ、足が勝手にセシール家へ向かった。
差し入れを口実にすればいい。顔を出すのは自然だ。――そう理屈を並べながら、心の底では、確かめずにいられない自分の幼さを、ひどく冷ややかに笑っていた。
屋敷は、いつ来ても静かだった。
石造りの廊下に靴音が落ちるたび、遠い記憶のように反響して戻ってくる。壁の絵画も、磨き抜かれた床も、すべてが“血筋”と“研究”の匂いを纏っている。セシール家はそういう家だ。
そして、その中心にいるのが―― アランだった。
案内された研究室は、薬草と蒸留の甘苦い匂いで満ちていた。ガラス器具が淡い光を反射し、細い炎の上で液体が静かに揺れている。紙の擦れる音、羽根ペンのかすかな走り。
そこに、彼女がいた。
白衣の袖を肘まで捲り、髪は簡単にまとめられている。頬には粉がひと筋――いや、点々と、無邪気に付着していた。
それがどうしようもなく可笑しくて、同時に胸の奥が締まるほど愛おしかった。
「……美しい顔が台無しです」
口をついて出た言葉は、意地でも甘やかしでもなく、ただの事実として落ちたはずだった。
けれどアランは、はっと顔を上げ、瞳を丸くした。翡翠の色が、驚きの光を含んで揺れる。
「どうされたんです、こんなところまで」
声は落ち着いている。けれど指先だけが、記録紙の端を無意識に押さえつけているのが見えた。
――来てほしくなかったのか。来てほしかったのか。
その判断がつかない“間”こそが、レギュラスの神経を逆撫でする。
「セシール卿は新しい研究にまた没頭されているようですので。少しばかり差し入れを」
自分の声は、驚くほど穏やかだった。穏やかに出来た、ではない。そう振る舞うことが最も“正しい”と知っているから、自然とその形になっただけだ。
アランは一度だけ唇を結び、そして礼儀正しく微笑んだ。
「……ありがとうございます。父も、喜びます」
その微笑みを見た瞬間、あの棘は少しだけ痛みを増した。
“完璧な妻”の顔。
それは本来、こちらが誇らしく思うべきものなのに――今は、薄い膜の向こうに彼女が隠れてしまったようで、妙に腹立たしかった。
そのときだった。
研究室の奥、棚とカーテンの陰になったあたりから、足音がひとつ。
控えめで、しかし迷いのない、律儀な足取り。
出てきた影を見た瞬間、レギュラスは視線だけで理解した。
ローランドフロスト。
淡い髪色に、青い瞳。彼はいつも通りの端正さで、こちらに向き直る前から姿勢を整えていた。
そして、口を開いた。
「ブラック様。――本日は」
その呼び方が、やけに耳に残った。
丁寧で、正しくて、距離を測り切った響き。かつての“フロスト殿”という呼称とは違う、明確に一段深い線引き。
それが、礼節であると同時に――何かを隠すための壁にも聞こえた。
「先日ぶりですね、フロスト殿」
レギュラスは微笑んだ。完璧な、社交の微笑み。
ただ、その内側で、齧られるような思考が音を立てた。
――今、どこから出てきた?
研究室の奥には、アランの部屋がある。
一度だけ入ったことのある場所。論文や本が整然と並び、受賞の証が静かに飾られ、そして――写真のアルバムが置かれていた部屋。
その扉の向こう側から、わざわざ彼が出てきた。
偶然だ、と言い切るには、胸がうるさすぎる。
差し入れの箱を持つ指先に、力がわずかにこもるのが自分でも分かった。
アランが、ほんの一瞬だけ息を止めた。
その気配が、視界の端で確かに揺れた。
“しまった”でも、“困った”でもない。もっと微細な、反射のような緊張。――レギュラスの目には、そう映った。
フロストは礼儀正しく続けた。
「セシール卿に、ご確認いただく資料がありまして。少しお時間を頂戴しておりました」
言葉は筋が通っている。何もおかしくない。
だが、完璧な言葉ほど、聞く側の疑念を刺激することがある。
レギュラスは、アランへ視線を滑らせた。粉のついた頬。羽根ペンを握りしめた指。翡翠の瞳。
彼女は微笑んでいる。――微笑むだけで、何も語らない。
「そうですか」
それだけ告げて、微笑みの形は崩さない。
崩さずにいられる自分が、逆に恐ろしいと思った。
確かめたい。
しかし、ここで剥き出しの牙を見せるのは愚かだ。
この場はセシール家の研究室で、アランは“父の娘”としてそこにいる。自分は“支援者”であり“夫”である以前に、魔法界の目に晒される立場だ。
だからこそ、静かに、丁寧に、針を刺す。
「差し入れは、研究室の皆さんに。―― アラン、少しだけ手を休めて。頬の粉を取って差し上げます」
優しさの体裁を纏わせながら、距離を詰める。
アランの反応を、フロストの目の前で確かめるために。
指先が彼女の頬に触れる直前、レギュラスは思う。
あの香りの棘は、まだ抜けていない。
そして、いまこの場には――棘の根を探るための材料が、揃いすぎるほど揃っていた。
