2章
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屋敷の夜は、昼間の豪奢さを脱ぎ捨てて、静けさだけを残していた。
長い廊下を照らす燭台の火は、揺れるたびに壁の影を伸ばし、縮め、まるで呼吸をしているように見える。窓の外は墨を流したような闇で、遠くの木々が風に擦れる音だけが薄く届いた。
アランの部屋――今では、彼女の要塞であると同時に、アルタイルの巣でもあった。
暖炉の火は控えめに燃え、空気の端に甘い乳の匂いが滲んでいる。ベッド脇の小さな揺り籠は使われないまま、代わりに寝台の上に、母と子の体温がひとつの塊として寄り添っていた。
アランは半身を起こし、アルタイルを胸に抱いている。
赤子は驚くほど無防備で、頬を彼女の片方の胸に沈め、もう片方に小さな指を置いて――まるでそこが世界で一番安全な場所だと知っているみたいに、深く眠っていた。
アランはその寝顔を見下ろしながら、息を殺すように微笑んでいた。
起こさないように、という慎重さが肩の線をきれいに固めている。なのに、それさえも美しい。母になったせいか、どこか柔らかい光が彼女の輪郭にまとわりついて、かつての気品を損なうどころか、別の艶を足している。
扉が小さく鳴った。
レギュラスが入ってくる。ローブを脱ぎ捨てたあとで、身のこなしだけがいつも通り静かで、いつも通り、侵入者の癖を持っている。
「起きていましたか」
囁くように言いながら、寝台のそばへ。
アランは返事の代わりに、ほんのわずか頷く。声を出せば、アルタイルがほどけてしまう気がしたのだろう。
レギュラスは赤子の寝顔を一瞬だけ見て、口元を緩めた。
その笑みは優しいのに、次の瞬間にはもう、別の欲を含んだ温度に変わっている。
アルタイルの小さな指が、アランの胸元に置かれているのを見て、レギュラスは何も言わず手を伸ばした。
赤子の手首に触れないように、爪の先でそっと、ほんの少しだけ導く。眠りを壊さない絶妙な力加減で、その指をすっと下ろしてやって――代わりに、自分の手をそこに置いた。
以前より重量を増した膨らみが、掌の下で柔らかく沈む。
温度がある。命の名残のような温もりがある。ここに、彼女が母になったという現実が宿っている。
アランの視線が、じとり、と向けられた。
抗議の色を隠そうともしない。静かに、けれど確かに「やめてください」と言っている目だった。
レギュラスはそれを見ても、まるで気づかなかったかのように、何事もない顔を崩さない。
わざとだ。
その小さな抵抗を、今夜は撫でるより先に、指でつまんで確かめたかった。
「……どっちも取るのは、さすがに反則でしょう」
囁く声は柔らかいのに、言葉の刃先はきちんと立っている。
アルタイルが眠りながら独占している場所に、自分も当然のように触れているという矛盾を、堂々と楽しむみたいに。
アランは眉をわずかに寄せたまま、返す言葉を探すように唇を動かした。
けれど声にはしない。赤子の寝息が、その代わりに一定のリズムで響く。
レギュラスはその沈黙に満足し、さらに指をわずかに沈める。
そこに触れている自分の存在を、彼女の体に思い出させるように。
母の体温の中に、夫の手の温度が混じっていく。
アランの頬が、ほんの少しだけ緩んだ。
悔しさと羞恥が入り混じっているのに、呆れも混ざる。抗議の目のまま、諦めの気配を見せる、その矛盾が――この男にとっては、何より甘い。
そしてアランは、ふっと笑った。
小さく、吐息みたいな笑い。アルタイルの眠りを壊さないための笑い方。けれど確かに、レギュラスの言葉を受け取ってしまった笑いだった。
それが、レギュラスの胸の奥を静かに満たす。
勝利というほど荒々しいものではない。
けれど、確かに「自分のものがここにある」と、掌の感覚が告げてくる。
「……笑いましたね」
レギュラスが囁く。
詰めるでもなく、責めるでもなく――けれど逃がさない声で。
アランは視線を逸らし、アルタイルの髪を指先でそっと撫でた。
その仕草が、母の顔を作るための盾なのか、ただの愛情なのか、判別できない。けれどレギュラスは、どちらでも良かった。どちらにせよ、彼女はここにいる。自分の前にいる。
「……起こしますよ」
アランが小さく言う。
それは叱責の形を借りた、降参にも似ていた。
「起こしません。学びましたから」
言いながら、レギュラスは手を離さない。
むしろそこに置いたまま、指先でほんの少し、輪郭をなぞる。
アランはまた、じとりと睨む。
けれど、その目の奥にもう一度、笑いの光が浮かぶのを、レギュラスは見逃さなかった。
夜は深い。
屋敷は静かだ。
その静けさの中で、赤子が眠り、母が息をし、夫が触れている。
――どっちも取るのは反則。
そう言うと、笑った彼女の吐息が、今夜の部屋を柔らかく満たしていく。
セシール家の屋敷に通う回数を、アランはほんの少しだけ増やした。
増やした、と言っても、誰の目にも「当然」に映る範囲で――父の研究を手伝うため、という名目を崩さないまま。フクロウの便箋に添える言葉も、行き帰りの時刻も、使用人へ渡す指示も、すべてが慎重に整えられていた。
妊娠中の頃のような張り詰めた制限は、いまはない。
けれど自由になったはずの足取りは、むしろ以前より慎重だった。ひとつ間違えば、あの屋敷の空気が、きっと喉元まで押し上がってくることを知っている。
だから、あくまで少しだけ。
怪しまれないように。
長居もしない。決して、欲張らない。
それでも――セシール家の門をくぐる瞬間、胸の奥のどこかがふっと緩むのを、アランは止められなかった。
石畳の冷たさも、庭木の匂いも、窓辺にかかる淡いレースも、すべてが「戻ってきた」と囁く。戻ってきてはいけない場所だと理解しているのに、身体が先に覚えてしまっている。
研究室の扉を開けると、薬草の乾いた香りと、インクと羊皮紙の匂いが混じり合っていた。
机の上には整理された資料、半分だけ書き込まれた図式、魔法薬の瓶の列。父の几帳面さが、そのまま部屋の形になっている。
「アラン、来てくれたか」
父エドモンドは嬉しそうに顔を上げ、アランはいつも通りに微笑んで、いつも通りの返事をした。
指示された作業を受け取り、必要な文書の束を揃え、必要な薬草の比率を確かめる。そのひとつひとつを、手慣れた動作で進める。
ここでは、呼吸ができた。過剰な礼儀も、過剰な美しさも、演じなくていい。自分が自分のままで許される場所が、まだ残っている。
それからしばらくして、廊下の向こうで控えめな足音が止まった。
扉のノックは、かつてと変わらない慎重さだった。
「……失礼いたします、セシール卿」
その声に、アランの指先がほんの一瞬、止まる。
胸が、勝手に息を吸い込んでしまう。
そして次に吐き出す呼吸が、やけに遅れる。
「フロスト殿。ちょうど良いところに」
父が顔を上げる。
ローランド・フロストが入ってくる。淡い髪が光を拾い、青い瞳が室内を静かに見回して――最後に、アランの姿を見つける。
「あ……」
言葉が途中で止まりそうになって、それでも礼儀だけは崩れない。
ローランドは一度、深く頭を下げた。
「お久しぶりです、ブラック夫人」
その呼び方が、胸の奥をきゅっと締めつける。
もう戻れないのだと、丁寧に釘を打たれる呼び名。アランは微笑みを崩さず、同じだけ丁寧に返礼した。
「お久しぶりです、フロスト殿。お忙しいところを」
言いながら、アランは自分の声が震えていないことに驚く。
身体は、勝手に“母”の顔をしている。妻の顔をしている。あの屋敷で磨かれた仮面が、ここでも外れない。外してはいけないと、本能が理解している。
父とローランドは、研究の進捗についていくつか言葉を交わした。
数式が行き交い、薬理の名称が並び、認可の段取りが淡々と整えられていく。アランはその会話に必要な補足を挟み、資料の該当箇所を開き、筆記具を走らせた。
いつも通りの仕事。いつも通りの時間。――そうでなければいけない。
けれど、父が別の部屋へ取りに行くものがあると言って席を外した瞬間、空気が変わった。
急に静かになる。
暖炉の火の小さな弾ける音だけが、二人の間を埋める。
ローランドが、ほんの少しだけアランへ近づいた。
近づいたと言っても、礼節を壊す距離ではない。ただ、同じ机の端を共有できるくらいの――それだけの距離。
「……お変わりありませんか」
言葉はいつも通り丁寧で、優しい。
優しいのに、その優しさが、いまはとても危うい。触れられたくない場所を、言葉だけで撫でられる。
「ええ。おかげさまで」
アランはそう答えて、資料に視線を落とす。
その瞬間、ローランドの瞳がほんのわずか揺れたのを、アランは見逃さなかった。
「……本当に」
ローランドの声が、少しだけ柔らかくなる。
昔の呼び方が喉元まで上がってきて、そこで踏みとどまるような間がある。
「本当に、綺麗になりましたね、アラン」
その名前が、胸の奥に落ちてくる。
一度だけ、世界が若返る。
研究室の窓から差す光が、十代の頃の午後みたいに思えてしまう。
アランは笑ってしまいそうになって、でも笑い方を忘れていないことに気づいて、唇の端をそっと上げた。
「……あなたもよ、ローランド」
言った瞬間、取り返しがつかない気がして、心臓が強く鳴る。
けれどローランドは、咎めるどころか、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情は、かつてアランだけが知っていたものだった。
「変わっていないと思っていました。……でも、違う」
ローランドは慎重に言葉を選ぶ。
触れたい気持ちを、触れないために言葉へ畳むように。
「以前のあなたは、綺麗でした。今のあなたは……綺麗で、強くて、柔らかい。そういうものが……一緒に見えます」
アランは返事を探しながら、息を吸った。
強い、と言われることが、どうしてこんなに痛いのか分からない。
強くなったのではない。ただ、崩れない顔を覚えただけだ。崩れれば、牙が来ると知っただけだ。
けれど今、この数時間だけは、壊れてもいい気がした。
壊れてはいけないのに。
「……母になったからでしょうか」
アランがそう言うと、ローランドは頷きかけて、止めた。
母という言葉を口にすると、現実が増す。現実は、二人の間に壁を立てる。だからローランドは、その壁を不用意に押さない。
「きっと、それも。……でも、それだけじゃない気がします」
ローランドは視線を落とし、机の端に置かれたアランの指先を見た。
触れられる距離にあるのに、触れない。その誠実さが、むしろ胸を苦しくする。
「研究室にこうして立っているあなたを見ていると……昔と同じだと思ってしまいます」
アランは小さく笑った。
笑うことが許される空気。許される相手。
その錯覚だけで、胸の奥がほどけていく。
「昔の私は、もっと……あなたの前でよく笑っていたわね」
「ええ。よく笑っていました」
ローランドも、ほんの少しだけ笑った。
その笑みが、たまらなく懐かしい。
十代の頃に戻れたような幻想の中で、二人は呼吸をしている。扉の向こうに現実が控えていることを知りながら、あえてそこを見ないふりをして。
父が戻るまでの時間は、長くはない。
けれど、短いからこそ、夢みたいに濃くなる。
ローランドは、研究の話をひとつ、わざと簡単な言葉で尋ねた。
アランは、わざと丁寧に答えた。
互いの言葉に、互いの昔が滲む。
他愛もないはずの会話なのに、ひとつひとつが宝石みたいに大切で、落としたら割れてしまいそうだった。
「……あの屋敷では」
ローランドが、言いかけて、飲み込む。
“幸せですか”と問う資格など、どこにもないことを知っているから。
“苦しくありませんか”と問えば、自分が耐えられないことも知っているから。
アランはその未完成の言葉を受け止めて、静かに首を振った。
「ここでは、そういう話はやめましょう」
ローランドの瞳が、ひどく優しく揺れた。
そして、きちんと頷く。
「……はい。急がなくていいんです」
その言い方が、昔と変わらない。
変わらないからこそ、胸が詰まる。
アランは、視線を落として、紙に指を滑らせた。自分の手元にある現実へ戻るために。
父の足音が廊下に近づく。
夢の終わりが、音を伴ってやってくる。
ローランドは、ほんの少しだけ距離を取り直した。
丁寧に、完璧に、線を引く。
それでも、その線の内側で交わされた言葉が、アランの胸の奥に残る。
数時間だけ。
それだけでいい。
その夢のような幸福があるからこそ、あの息の詰まる屋敷の中で、アランはまた完璧な妻の顔を作れる。
父が扉を開けて戻ってきた瞬間、アランはもう、いつも通りに笑っていた。
そしてローランドもまた、いつも通りに礼儀正しく、穏やかな顔で資料を受け取った。
けれど二人の胸の内だけは、若き日に戻れたような幻想の余韻を、まだ確かに抱えたままだった。
あの日――慣れ親しんだ部屋で、彼女を抱いた夜から。
ローランドは、あれほど自分を汚していた夢を見なくなった。
眠りに落ちるたび、胸の奥を掻きむしるように現れていた、手の届かないはずの幻。
叶わないからこそ過剰に甘く、罪悪感の棘で喉を裂くような夢。
それが、ぴたりと途切れた。
現実の温度を、いちど知ってしまったからだ。
指先に残る体温。唇の柔らかさ。抱き締めたときに確かに返ってきた重み。
それらが「夢の代用品」ではなく、現実の記憶として身体の底に沈んでしまうと、もう夢は居場所を失うのだと知った。
だからローランドは、少しずつ――ほんの少しずつ、セシール家へ向かう回数を増やした。
アランに会えるように。
表向きは、研究がようやく“表に出せる形”になりつつあるエドモンド・セシールの補佐のため。
魔法省へ提出する資料の確認、認可に向けた条文の整備、実証の手順の擦り合わせ。どれも理由として十分すぎるほど正当だった。
屋敷へ向かう道中、馬車の窓越しに景色を眺めながら、ローランドはいつも同じことを繰り返し自分に言い聞かせる。
礼節を守れ。
線を越えるな。
彼女はブラック夫人だ。
――そう、何度も。
けれど、門をくぐり、石畳を踏み、あの研究室の扉が見える頃には、胸の奥の理性はどこか薄くなっていく。
代わりに浮かび上がるのは、あのひとつの部屋の匂いだ。インクと薬草と、長年染みついた紙の匂い。
そして、扉が開き、翡翠の瞳がこちらを向く瞬間。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
言葉は丁寧で、距離のある呼び方で、完璧なはずだった。
けれど、その完璧さこそが苦しくて、ローランドは一瞬だけ視線を落とす。
正面から見つめてしまえば、過去も現在もいっぺんに溢れて、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。
エドモンドの前では、二人は徹底していた。
父と客人。研究者と補佐。
言葉の選び方も、立ち位置も、視線の高さも、決して触れない距離を守り続ける。
アランもまた、何事もない顔で資料を揃え、丁寧に茶を出し、必要な報告だけを淡々と述べた。
その姿は、痛いほど“ブラック家の夫人”だった。
美しく整った所作と、柔らかい微笑みと、崩れない背筋。
それを見ているだけで、ローランドは胸の奥が切なくなる。――守らなければならないものが、彼女をこんな形にしたのだと突きつけられるから。
けれど、父が席を外した瞬間。
研究室の空気が、ほんのわずかに緩む。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
そのたった数秒で、二人の間の世界が変わる。
ローランドは、声を出す前にアランの手を取ってしまう。
慎重で、丁寧で、それでも抑えきれない速さだった。
握るというより、確かめるように。ここにいるのだと、互いの熱で証明するように。
アランの指先がわずかに震え、次の瞬間、その震えが落ち着く。
まるで“戻ってきた”みたいに、するりとローランドの手に馴染んでしまうのが怖かった。
懐かしさが、罪を薄めてしまう。
だからこそ、ローランドは唇を噛みしめる。
「…… アラン」
呼び名が、自然に溢れる。
フロスト殿でもなく、ブラック夫人でもない。
昔、幾度も研究室の窓辺で呼んだ、呼ばれた、あの名前。
アランは、ほんの少しだけ目を伏せる。
そのまま瞼を上げ、翡翠の瞳でローランドをまっすぐに映した。
「……ローランド」
それだけで、胸がいっぱいになる。
言葉は少なくていい。
むしろ言葉にしてしまえば壊れてしまうから、二人は何度も同じことを繰り返した。
手を握る。指を絡める。短い口付けを落とす。
それだけで、息が整いそうになって――整うはずがなくて、さらに深く求めてしまう。
「急がなくていいんです」
ローランドはそう言いながら、矛盾している自分を自覚する。
急がなくていい、と言いながら、手は離せない。
触れた途端、足りなくなる。
アランは笑うように、泣きそうに、唇だけをほんの少しゆるめた。
「急がないと……時間が、なくなるわ」
その言葉に、ローランドの胸がきゅっと縮む。
二人の時間が、常に“借り物”である現実。扉の向こうで、戻ってくる足音を待ち構えている現実。
幸せの輪郭が、いつも切なさの縁で縫われている。
それでも二人は、少しずつ上手くなっていった。
若い頃のように、ただ勢いに任せて確かめ合うのではない。
大人になった自分たちの触れ方で。
互いが何を怖がり、どこで息を吐き、何に安心するのかを――言葉ではなく、沈黙と体温で覚え直していく。
そして、あの部屋へ。
研究室の奥にある、慣れ親しんだ小さな空間。
机の角、窓の位置、床板の軋み。
かつて課題を広げ、研究ノートを積み、夜更けまで灯りを落とさなかった場所。
手を繋いだ場所。背中を預けた場所。初めて唇を重ねた場所。
若き日の時間が、まだそのまま残っている部屋。
扉を閉めると、外の世界が遠くなる。
遠くなった分だけ、心臓の音が大きくなる。
ローランドは、アランの頬に触れて、額を寄せた。
そこにいるだけで、もう満たされるのに――満たされるほど、さらに欲しくなる。
「……切ないですね」
呟いた声が、自分でも掠れているのがわかる。
切ない、と言ってしまえば、きっと彼女を縛る。
でも言わずにはいられなかった。
アランは、その言葉に小さく首を振った。
「切ないのに、幸せなの。……だから、やめられない」
その言い方が、ローランドの胸を壊した。
抱き締める腕に、ほんの少し力がこもる。
二人が重ねた時間は、甘かった。
甘いのに、必ず胸の奥が痛んだ。
幸せが濃くなるほど、戻らなければならない場所の冷たさを知ってしまうからだ。
けれど、それでも。
あの屋敷で息を殺し、完璧な妻を演じ続ける彼女にとって、この数時間は“息ができる場所”だった。
ローランドにとっても同じだった。誰かの夫として、誰かの親族として、誰かの部下として、整え続ける世界の外で、ただ“ アランを愛している自分”でいられる場所。
静かな時間の中で、二人は互いの熱を確かめ合い、言葉にならない想いを重ねた。
キスは何度も落ち、手は何度も絡み、呼吸は何度も乱れ、そしてまた整え直された。
丁寧に、慎重に、けれどどうしようもなく切実に。
「愛している」
アランの唇から溢れたその言葉は、重たくない。
むしろ羽のように軽く、自然に落ちた。
その自然さが、ローランドをいっそう苦しくさせる。――ずっと、彼女の中ではこれが真実だったのだと知ってしまうから。
「僕もです。ずっと、ずっと」
ローランドの返答は震えた。
泣きたいのに、泣けば終わってしまう気がして、喉の奥で必死に堪える。
けれど、堪えた分だけ抱き締める腕が強くなる。
二人で手繰り寄せた幸福は、眩しいほど甘く、同じくらい残酷だった。
扉の向こうで待つ現実が、いつだってそれを奪いに来ると知っているから。
それでも、アランはその部屋で、ほんの少しだけ顔を崩した。
ローランドもまた、ほんの少しだけ理性を緩めた。
そしてまた、何もなかったかのように研究室へ戻り、父の前では線を引く。
完璧な距離を守り、完璧な礼節を纏い、完璧な言葉を交わす。
――その繰り返しの中に、二人だけが知る甘い秘密が増えていった。
切なくて、甘くて、幸せで。
そして、幸せであるほどに、胸が痛む。
ローランドは、痛みごと抱えたままでも、セシール家へ向かうのをやめられなくなっていった。
屋敷へ戻れば、アランは“ブラック家の妻”へと、迷いなく姿を切り替えた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間から、空気が変わる。
石と木と、磨かれ続けた床に染みついた古い香。
使用人たちの視線が、ほんの一拍遅れて自分を追う――それを肌で感じながら、背筋を自然に伸ばす。
ローブの裾を整え、息を整え、口角の角度を決める。
その一連の動作が、驚くほど滑らかになっていた。
以前は、この屋敷の空気に触れるだけで胸の奥が硬くなって、喉の奥に鉄の塊が詰まったような感覚に襲われたのに。
――慣れたのだ。
慣れてしまったのだ、と、どこか他人事のように思う。
ローランドと過ごす時間が増えるほど、屋敷での“演技”は、むしろ巧くなった。
罪悪感からか。
それとも、幸福の余韻が心を満たし、余計な抵抗を鈍らせているのか。
彼と数時間、息をするように笑い、触れ、愛を確かめたあとで。
この屋敷へ戻り、レギュラスの隣に立つことが、以前よりも“容易い”のだ。
皮肉なほどに。
レギュラスとの間にあった棘だらけの言葉は、いつの間にか減っていた。
刃のように鋭い空気も、噛み合わない会話も、追い詰める問いも。
――ゼロになったわけではない。
けれど、少なくとも今は、刃が鞘に納められている時間が増えている。
その理由を、アランはよく知っていた。
受け入れる回数が増えた。
夫婦の時間として、求められるまま寝台に沈む夜が増えた。
それは“屈服”でも“敗北”でもない、と自分に言い聞かせながら。
あくまで、妻としての義務。
あくまで、家の秩序。
あくまで――そう、あくまでだ。
けれど、胸のどこかで、別の計算も働いていた。
レギュラスは、夜のあとに目覚めた寝台が空であることを、耐えられない。
それがどれほど彼を苛立たせ、疑念を育て、刃を引き抜かせる合図になるのか。
アランはすでに身をもって知っている。
だから選ぶ。
行為のあった翌朝は、起きない。
起き上がらない。
起こされるまで、寝台の中に沈んだままでいる。
疲れ果てて、無防備に眠っている妻。
乱れた髪が枕に散り、睫毛が薄い影を落としたまま、何も考えていないように眠っている妻。
その姿を見れば、レギュラスは満たされる。
確かめるような視線を向けても、疑いの矛先を鋭くすることは少ない。
――少なくとも、“いなくなっている”よりは、はるかにいい。
それは、アランが彼に差し出せる最も手堅い鎮静剤だった。
朝の薄明かりが、厚いカーテンの縁から滲む。
寝室の空気はまだ夜の名残を持ち、肌に残る熱がじわじわと現実へ引き戻してくる。
アランは目を閉じたまま、呼吸をゆっくり整えた。
起きてしまえば、演技が必要になる。
目を開けた瞬間から、言葉の選び方、表情の角度、手の置き場所――すべてが判断になる。
そして何より、起き上がってしまえば、ふとした拍子に“別の名前”が喉までせり上がる危険がある。
ローランド。
呼べば終わる。
呼ばなくても、瞳の揺れでバレる。
そんな恐怖が、まだ身体の芯にこびりついている。
だから、眠る。
眠ったふりでもいい。
とにかく、起きない。
その選択が、結果としてレギュラスを満たすのだから、なおさら都合がいい。
自分のためであり、彼のためでもある――そういう形を作れる。
ふいに寝台がきしむ。
重みが近づき、布が擦れる音がする。
柔らかな呼気が、耳の近くに落ちた。
「……まだ眠っているんですか」
低い声。
機嫌の悪さを孕ませる日もある。
どこか甘い苛立ちを含む日もある。
今朝のそれは、穏やかに整えられていた。
アランは、すぐに反応しない。
呼吸のリズムを崩さず、まぶたの裏に薄い影を泳がせるだけにする。
“無防備”は、もっとも強い盾になる。
指先が頬に触れ、髪を梳くように滑る。
その手の重さが、所有を確かめる癖の名残であることを、アランは知っている。
けれど今は、その癖が疑念へ変わらないように、手渡してやる。
少し遅れて、アランはようやく瞳を開く。
眠たげに瞬きをひとつ。
目覚めきらないふりをして、視線の焦点をゆっくり合わせる。
レギュラスがそこにいる。
整った顔。
何もかもを手に入れた男の余裕を、朝の光の中でまとっている。
「……おはようございます、レギュラス」
声は柔らかく。
丁寧で、余韻を滲ませる程度に低く。
それだけで、彼の目の奥がわずかに緩むのがわかった。
疑いの芽が、ほんの少し引っ込む。
満たされた気配が、空気の密度を変える。
「昨日のあなたは……随分、可愛らしかった」
そう言うのが、彼の癖だ。
褒めることで囲い、囲うことで確かめ、確かめたうえで安心する。
そして安心したら、次の欲を作りにいく。
アランは微笑む。
心が伴わない笑みではない。
ただ、心の置き場所が“正しく整っている”笑みだ。
ここで揺れれば終わる。
揺れなければ、今日も日常が続く。
「……疲れていただけです。少し、眠ってしまいました」
わざと曖昧に。
それでも否定はしない。
肯定も過剰にしない。
“ちょうどいい温度”を、彼に渡す。
レギュラスは満足げに息を吐く。
そのまま、アランの額に口付ける。
深くはない。
けれど、印をつけるには十分だ。
アランは、目を閉じた。
――うまくやっている。
そう思う。
ここまで来た。
自分は壊れずに、うまく、やれている。
ローランドと重ねた甘い時間が、胸の奥に灯のように残っているから。
その灯を抱いたままでも、この屋敷で完璧な顔ができる。
それが救いであり、同時に罪でもあった。
けれど、今のアランは知っている。
罪悪感であれ、幸福であれ。
感情そのものは、ここでは武器にも毒にもなる。
だから使い方を覚えた。
眠るふりをして、起こされるまで起きない。
無防備を演じ、安心を与える。
微笑みを落とし、疑念を遠ざける。
――そうして今日も、ブラック家の妻としての一日が、静かに始まっていく。
魔法省の認可は、驚くほど早かった。
書類は山のように積まれ、承認の判が押されるまでには、通常なら幾晩も議論が要る。治験の記録、反応の経過、危険性の洗い出し、流通の管理、価格の規定――誰もが“責任”という言葉で身を守るからだ。
けれど、今回は違った。
レギュラス・ブラックの名が署名欄に置かれた瞬間、紙束はただの紙束に変わった。
躊躇が、制度の内側でほどけていく音がした。
新薬の発表に合わせ、一般流通への道筋も整えられた。
聖マンゴの担当ヒーラーとの連携、薬剤師会への通達、薬の取扱いに関する誓約書。面倒で、厄介で、誰かが踏み込まなければ動かない工程を、彼はまるで盤上の駒を並べ替えるように片づけていった。
そして――発表の宴。
会場は魔法省の大広間だった。古い石壁が磨き上げられ、天井には星のような魔法灯がいくつも浮かぶ。シャンデリアの雫が、光を集めて、床に細かな波紋を落としていた。
白いクロスの上には銀の食器が整然と並び、グラスは一息でも触れれば澄んだ音を立てそうなほど薄い。壁沿いには、セシール家の紋が刺繍された深緑の垂れ幕が掲げられ、その隣にブラック家の黒が、揺るぎない輪郭で並んでいる。
招かれたのは、役人たちだけではない。
貴族の家々、製薬を扱う家、治療院の代表者、新聞の記者。視線は全方位から集まり、ひそひそとした声が、泡のように会場を漂う。
その中心に、エドモンド・セシールが立っていた。
年を重ねた男の背に、誇りの張りが戻っている。かつて研究に閉じこもり、世から隠れるように生きていた人とは思えないほど、今は壇上の光が似合っていた。
そして、その隣―― アラン・ブラック。
彼女の微笑みは、完璧だった。
目元の柔らかさ、口角の角度、視線を受け止める時間。すべてが礼節に沿っていて、誰ひとり“隙”を見つけられない。
けれど、その完璧さの奥で、胸のどこかが、針で撫でられているように痛んだ。
レギュラスが、グラスを掲げる。
「今夜は、セシール卿の新薬を祝う夜です。――そして、セシール家の叡智が、ようやく正当に評価される夜でもある」
声は柔らかく、場を掌握する温度だけを正確に保っている。
笑みも、拍手の間合いも、彼の一言で整っていった。
「この薬は、治療の現場を救います。必要な人の手に届くよう、魔法省として責任をもって流通を整えました。……遅れて届く“正しさ”ほど残酷なものはありませんからね」
どこか冗談めいた口調で言って、会場に薄い笑いが走る。
だが笑っている者たちも、彼が言っていることが冗談ではないと理解している。レギュラス・ブラックが“責任”を口にする時、それは守りではなく、支配の宣言だった。
レギュラスは続ける。
「そして――この研究には、セシール卿だけでなく、アランの貢献もありました。ご存知の方もいるでしょう。彼女はかつて魔法薬の論文で賞を獲っています。あの論文の着眼点がなければ、ここまでの精度に辿り着くのはもっと先だったはずです」
アランの名が、会場の空気に乗る。
注がれる視線が、熱を帯びた。
誇らしげだった。
レギュラスが父を、そして妻を褒め称える姿は、誰が見ても“愛”に見える。
誇示ではなく、誇り。
所有ではなく、称賛。
――少なくとも、そう見せることに長けた男だった。
エドモンドが困ったように笑う。
「やめてください、レギュラス殿。ほとんど私の功績です。娘は、せいぜい――夜更かしを叱ってくれたくらいですよ」
会場に、また小さな笑いが弾ける。
アランも微笑む。父の冗談に、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
その瞬間、レギュラスの視線が、柔らかく彼女に触れた。
――その目に映るのは、たぶん“妻の顔”だ。
誇らしく、従順で、誰に見せても恥じない“ブラック家の正妻”。
胸の奥が、ちくりと疼く。
感謝は、確かにある。
抱えきれないほどに。
父の研究が、こうして日の光を浴びることができたのは。
長い間、黙殺されてきた成果が、ようやく世の仕組みに乗ったのは。
この男が、魔法省の中枢にいて、認可を即座に下ろせるだけの力を持っていたからだ。
彼がいなければ――たぶん、父はまた同じ薄暗い研究室に戻っていただろう。
世界が必要としているものを抱えたまま、誰にも届かない場所で、静かに朽ちていったかもしれない。
アランはグラスを持つ指に、わずかに力を込めた。
透明なガラスが、体温を受けて温かい。
誇らしさがある。
父の背中が光に映えることが、嬉しい。
自分の手が、ほんの少しでも役に立ったのなら、それも嬉しい。
それなのに。
拍手の中で、アランの胸は、別の記憶を引きずり出してしまう。
圧倒的な条件。
逃げ道のない言葉。
“婚姻”という制度で首元を締め、未来を奪い取るように迫ってきた男の顔。
ローランド・フロストと、並んで見るはずだった景色。
彼の隣で笑って、父の成果を世に出していくはずだった日々。
それらを、同じ手で、同じ声で、同じ微笑みで奪った男が――今は、その成果を祝っている。
それが、胸を痛ませた。
矛盾だ。
感謝と、恨み。
誇りと、喪失。
相反するものが同じ場所に同居して、どちらも嘘ではないまま息をしている。
レギュラスが、壇上から一歩降りて、アランの隣に戻る。
すぐ近くで見ると、彼の表情はさらに柔らかく、周囲に向ける笑みよりも少しだけ私的だった。
「誇らしいですね」
低い声が、耳の近くに落ちる。
それは褒め言葉であり、確認であり、彼自身の満足の吐息だった。
アランは視線を上げる。翡翠の瞳を、整えたまま彼に向ける。
その瞳が彼を映せば、彼は勝利を確信する。――いつもと同じ。
「……父が、ようやく報われました。あなたのお力添えのおかげです」
正しい言葉だった。
正しい順序で、正しい温度で言った。
レギュラスは満足げに頷く。
その仕草ひとつで、会場の視線が「夫婦」を再確認するのが分かった。
アランは微笑む。
その微笑みが、痛みを覆い隠すことを知っている。
完璧であることが、今夜の自分に許された唯一の鎧だということも。
拍手が続く。グラスが触れ合う音が重なり、魔法灯が星屑のように揺れる。
父は人々に囲まれ、次々と握手を求められる。
アランもまた、祝福の言葉を受け取り、丁寧に返し続ける。
その中心で、レギュラス・ブラックは笑っていた。
自分が整えた舞台の中心に、セシール家と、アラン・ブラックを置いて。
彼の手のひらの上で、世界が滑らかに回転している。
――この光の中で。
アランの胸の痛みだけが、誰にも見えないまま、ひっそりと呼吸を続けていた。
長い廊下を照らす燭台の火は、揺れるたびに壁の影を伸ばし、縮め、まるで呼吸をしているように見える。窓の外は墨を流したような闇で、遠くの木々が風に擦れる音だけが薄く届いた。
アランの部屋――今では、彼女の要塞であると同時に、アルタイルの巣でもあった。
暖炉の火は控えめに燃え、空気の端に甘い乳の匂いが滲んでいる。ベッド脇の小さな揺り籠は使われないまま、代わりに寝台の上に、母と子の体温がひとつの塊として寄り添っていた。
アランは半身を起こし、アルタイルを胸に抱いている。
赤子は驚くほど無防備で、頬を彼女の片方の胸に沈め、もう片方に小さな指を置いて――まるでそこが世界で一番安全な場所だと知っているみたいに、深く眠っていた。
アランはその寝顔を見下ろしながら、息を殺すように微笑んでいた。
起こさないように、という慎重さが肩の線をきれいに固めている。なのに、それさえも美しい。母になったせいか、どこか柔らかい光が彼女の輪郭にまとわりついて、かつての気品を損なうどころか、別の艶を足している。
扉が小さく鳴った。
レギュラスが入ってくる。ローブを脱ぎ捨てたあとで、身のこなしだけがいつも通り静かで、いつも通り、侵入者の癖を持っている。
「起きていましたか」
囁くように言いながら、寝台のそばへ。
アランは返事の代わりに、ほんのわずか頷く。声を出せば、アルタイルがほどけてしまう気がしたのだろう。
レギュラスは赤子の寝顔を一瞬だけ見て、口元を緩めた。
その笑みは優しいのに、次の瞬間にはもう、別の欲を含んだ温度に変わっている。
アルタイルの小さな指が、アランの胸元に置かれているのを見て、レギュラスは何も言わず手を伸ばした。
赤子の手首に触れないように、爪の先でそっと、ほんの少しだけ導く。眠りを壊さない絶妙な力加減で、その指をすっと下ろしてやって――代わりに、自分の手をそこに置いた。
以前より重量を増した膨らみが、掌の下で柔らかく沈む。
温度がある。命の名残のような温もりがある。ここに、彼女が母になったという現実が宿っている。
アランの視線が、じとり、と向けられた。
抗議の色を隠そうともしない。静かに、けれど確かに「やめてください」と言っている目だった。
レギュラスはそれを見ても、まるで気づかなかったかのように、何事もない顔を崩さない。
わざとだ。
その小さな抵抗を、今夜は撫でるより先に、指でつまんで確かめたかった。
「……どっちも取るのは、さすがに反則でしょう」
囁く声は柔らかいのに、言葉の刃先はきちんと立っている。
アルタイルが眠りながら独占している場所に、自分も当然のように触れているという矛盾を、堂々と楽しむみたいに。
アランは眉をわずかに寄せたまま、返す言葉を探すように唇を動かした。
けれど声にはしない。赤子の寝息が、その代わりに一定のリズムで響く。
レギュラスはその沈黙に満足し、さらに指をわずかに沈める。
そこに触れている自分の存在を、彼女の体に思い出させるように。
母の体温の中に、夫の手の温度が混じっていく。
アランの頬が、ほんの少しだけ緩んだ。
悔しさと羞恥が入り混じっているのに、呆れも混ざる。抗議の目のまま、諦めの気配を見せる、その矛盾が――この男にとっては、何より甘い。
そしてアランは、ふっと笑った。
小さく、吐息みたいな笑い。アルタイルの眠りを壊さないための笑い方。けれど確かに、レギュラスの言葉を受け取ってしまった笑いだった。
それが、レギュラスの胸の奥を静かに満たす。
勝利というほど荒々しいものではない。
けれど、確かに「自分のものがここにある」と、掌の感覚が告げてくる。
「……笑いましたね」
レギュラスが囁く。
詰めるでもなく、責めるでもなく――けれど逃がさない声で。
アランは視線を逸らし、アルタイルの髪を指先でそっと撫でた。
その仕草が、母の顔を作るための盾なのか、ただの愛情なのか、判別できない。けれどレギュラスは、どちらでも良かった。どちらにせよ、彼女はここにいる。自分の前にいる。
「……起こしますよ」
アランが小さく言う。
それは叱責の形を借りた、降参にも似ていた。
「起こしません。学びましたから」
言いながら、レギュラスは手を離さない。
むしろそこに置いたまま、指先でほんの少し、輪郭をなぞる。
アランはまた、じとりと睨む。
けれど、その目の奥にもう一度、笑いの光が浮かぶのを、レギュラスは見逃さなかった。
夜は深い。
屋敷は静かだ。
その静けさの中で、赤子が眠り、母が息をし、夫が触れている。
――どっちも取るのは反則。
そう言うと、笑った彼女の吐息が、今夜の部屋を柔らかく満たしていく。
セシール家の屋敷に通う回数を、アランはほんの少しだけ増やした。
増やした、と言っても、誰の目にも「当然」に映る範囲で――父の研究を手伝うため、という名目を崩さないまま。フクロウの便箋に添える言葉も、行き帰りの時刻も、使用人へ渡す指示も、すべてが慎重に整えられていた。
妊娠中の頃のような張り詰めた制限は、いまはない。
けれど自由になったはずの足取りは、むしろ以前より慎重だった。ひとつ間違えば、あの屋敷の空気が、きっと喉元まで押し上がってくることを知っている。
だから、あくまで少しだけ。
怪しまれないように。
長居もしない。決して、欲張らない。
それでも――セシール家の門をくぐる瞬間、胸の奥のどこかがふっと緩むのを、アランは止められなかった。
石畳の冷たさも、庭木の匂いも、窓辺にかかる淡いレースも、すべてが「戻ってきた」と囁く。戻ってきてはいけない場所だと理解しているのに、身体が先に覚えてしまっている。
研究室の扉を開けると、薬草の乾いた香りと、インクと羊皮紙の匂いが混じり合っていた。
机の上には整理された資料、半分だけ書き込まれた図式、魔法薬の瓶の列。父の几帳面さが、そのまま部屋の形になっている。
「アラン、来てくれたか」
父エドモンドは嬉しそうに顔を上げ、アランはいつも通りに微笑んで、いつも通りの返事をした。
指示された作業を受け取り、必要な文書の束を揃え、必要な薬草の比率を確かめる。そのひとつひとつを、手慣れた動作で進める。
ここでは、呼吸ができた。過剰な礼儀も、過剰な美しさも、演じなくていい。自分が自分のままで許される場所が、まだ残っている。
それからしばらくして、廊下の向こうで控えめな足音が止まった。
扉のノックは、かつてと変わらない慎重さだった。
「……失礼いたします、セシール卿」
その声に、アランの指先がほんの一瞬、止まる。
胸が、勝手に息を吸い込んでしまう。
そして次に吐き出す呼吸が、やけに遅れる。
「フロスト殿。ちょうど良いところに」
父が顔を上げる。
ローランド・フロストが入ってくる。淡い髪が光を拾い、青い瞳が室内を静かに見回して――最後に、アランの姿を見つける。
「あ……」
言葉が途中で止まりそうになって、それでも礼儀だけは崩れない。
ローランドは一度、深く頭を下げた。
「お久しぶりです、ブラック夫人」
その呼び方が、胸の奥をきゅっと締めつける。
もう戻れないのだと、丁寧に釘を打たれる呼び名。アランは微笑みを崩さず、同じだけ丁寧に返礼した。
「お久しぶりです、フロスト殿。お忙しいところを」
言いながら、アランは自分の声が震えていないことに驚く。
身体は、勝手に“母”の顔をしている。妻の顔をしている。あの屋敷で磨かれた仮面が、ここでも外れない。外してはいけないと、本能が理解している。
父とローランドは、研究の進捗についていくつか言葉を交わした。
数式が行き交い、薬理の名称が並び、認可の段取りが淡々と整えられていく。アランはその会話に必要な補足を挟み、資料の該当箇所を開き、筆記具を走らせた。
いつも通りの仕事。いつも通りの時間。――そうでなければいけない。
けれど、父が別の部屋へ取りに行くものがあると言って席を外した瞬間、空気が変わった。
急に静かになる。
暖炉の火の小さな弾ける音だけが、二人の間を埋める。
ローランドが、ほんの少しだけアランへ近づいた。
近づいたと言っても、礼節を壊す距離ではない。ただ、同じ机の端を共有できるくらいの――それだけの距離。
「……お変わりありませんか」
言葉はいつも通り丁寧で、優しい。
優しいのに、その優しさが、いまはとても危うい。触れられたくない場所を、言葉だけで撫でられる。
「ええ。おかげさまで」
アランはそう答えて、資料に視線を落とす。
その瞬間、ローランドの瞳がほんのわずか揺れたのを、アランは見逃さなかった。
「……本当に」
ローランドの声が、少しだけ柔らかくなる。
昔の呼び方が喉元まで上がってきて、そこで踏みとどまるような間がある。
「本当に、綺麗になりましたね、アラン」
その名前が、胸の奥に落ちてくる。
一度だけ、世界が若返る。
研究室の窓から差す光が、十代の頃の午後みたいに思えてしまう。
アランは笑ってしまいそうになって、でも笑い方を忘れていないことに気づいて、唇の端をそっと上げた。
「……あなたもよ、ローランド」
言った瞬間、取り返しがつかない気がして、心臓が強く鳴る。
けれどローランドは、咎めるどころか、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情は、かつてアランだけが知っていたものだった。
「変わっていないと思っていました。……でも、違う」
ローランドは慎重に言葉を選ぶ。
触れたい気持ちを、触れないために言葉へ畳むように。
「以前のあなたは、綺麗でした。今のあなたは……綺麗で、強くて、柔らかい。そういうものが……一緒に見えます」
アランは返事を探しながら、息を吸った。
強い、と言われることが、どうしてこんなに痛いのか分からない。
強くなったのではない。ただ、崩れない顔を覚えただけだ。崩れれば、牙が来ると知っただけだ。
けれど今、この数時間だけは、壊れてもいい気がした。
壊れてはいけないのに。
「……母になったからでしょうか」
アランがそう言うと、ローランドは頷きかけて、止めた。
母という言葉を口にすると、現実が増す。現実は、二人の間に壁を立てる。だからローランドは、その壁を不用意に押さない。
「きっと、それも。……でも、それだけじゃない気がします」
ローランドは視線を落とし、机の端に置かれたアランの指先を見た。
触れられる距離にあるのに、触れない。その誠実さが、むしろ胸を苦しくする。
「研究室にこうして立っているあなたを見ていると……昔と同じだと思ってしまいます」
アランは小さく笑った。
笑うことが許される空気。許される相手。
その錯覚だけで、胸の奥がほどけていく。
「昔の私は、もっと……あなたの前でよく笑っていたわね」
「ええ。よく笑っていました」
ローランドも、ほんの少しだけ笑った。
その笑みが、たまらなく懐かしい。
十代の頃に戻れたような幻想の中で、二人は呼吸をしている。扉の向こうに現実が控えていることを知りながら、あえてそこを見ないふりをして。
父が戻るまでの時間は、長くはない。
けれど、短いからこそ、夢みたいに濃くなる。
ローランドは、研究の話をひとつ、わざと簡単な言葉で尋ねた。
アランは、わざと丁寧に答えた。
互いの言葉に、互いの昔が滲む。
他愛もないはずの会話なのに、ひとつひとつが宝石みたいに大切で、落としたら割れてしまいそうだった。
「……あの屋敷では」
ローランドが、言いかけて、飲み込む。
“幸せですか”と問う資格など、どこにもないことを知っているから。
“苦しくありませんか”と問えば、自分が耐えられないことも知っているから。
アランはその未完成の言葉を受け止めて、静かに首を振った。
「ここでは、そういう話はやめましょう」
ローランドの瞳が、ひどく優しく揺れた。
そして、きちんと頷く。
「……はい。急がなくていいんです」
その言い方が、昔と変わらない。
変わらないからこそ、胸が詰まる。
アランは、視線を落として、紙に指を滑らせた。自分の手元にある現実へ戻るために。
父の足音が廊下に近づく。
夢の終わりが、音を伴ってやってくる。
ローランドは、ほんの少しだけ距離を取り直した。
丁寧に、完璧に、線を引く。
それでも、その線の内側で交わされた言葉が、アランの胸の奥に残る。
数時間だけ。
それだけでいい。
その夢のような幸福があるからこそ、あの息の詰まる屋敷の中で、アランはまた完璧な妻の顔を作れる。
父が扉を開けて戻ってきた瞬間、アランはもう、いつも通りに笑っていた。
そしてローランドもまた、いつも通りに礼儀正しく、穏やかな顔で資料を受け取った。
けれど二人の胸の内だけは、若き日に戻れたような幻想の余韻を、まだ確かに抱えたままだった。
あの日――慣れ親しんだ部屋で、彼女を抱いた夜から。
ローランドは、あれほど自分を汚していた夢を見なくなった。
眠りに落ちるたび、胸の奥を掻きむしるように現れていた、手の届かないはずの幻。
叶わないからこそ過剰に甘く、罪悪感の棘で喉を裂くような夢。
それが、ぴたりと途切れた。
現実の温度を、いちど知ってしまったからだ。
指先に残る体温。唇の柔らかさ。抱き締めたときに確かに返ってきた重み。
それらが「夢の代用品」ではなく、現実の記憶として身体の底に沈んでしまうと、もう夢は居場所を失うのだと知った。
だからローランドは、少しずつ――ほんの少しずつ、セシール家へ向かう回数を増やした。
アランに会えるように。
表向きは、研究がようやく“表に出せる形”になりつつあるエドモンド・セシールの補佐のため。
魔法省へ提出する資料の確認、認可に向けた条文の整備、実証の手順の擦り合わせ。どれも理由として十分すぎるほど正当だった。
屋敷へ向かう道中、馬車の窓越しに景色を眺めながら、ローランドはいつも同じことを繰り返し自分に言い聞かせる。
礼節を守れ。
線を越えるな。
彼女はブラック夫人だ。
――そう、何度も。
けれど、門をくぐり、石畳を踏み、あの研究室の扉が見える頃には、胸の奥の理性はどこか薄くなっていく。
代わりに浮かび上がるのは、あのひとつの部屋の匂いだ。インクと薬草と、長年染みついた紙の匂い。
そして、扉が開き、翡翠の瞳がこちらを向く瞬間。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
言葉は丁寧で、距離のある呼び方で、完璧なはずだった。
けれど、その完璧さこそが苦しくて、ローランドは一瞬だけ視線を落とす。
正面から見つめてしまえば、過去も現在もいっぺんに溢れて、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。
エドモンドの前では、二人は徹底していた。
父と客人。研究者と補佐。
言葉の選び方も、立ち位置も、視線の高さも、決して触れない距離を守り続ける。
アランもまた、何事もない顔で資料を揃え、丁寧に茶を出し、必要な報告だけを淡々と述べた。
その姿は、痛いほど“ブラック家の夫人”だった。
美しく整った所作と、柔らかい微笑みと、崩れない背筋。
それを見ているだけで、ローランドは胸の奥が切なくなる。――守らなければならないものが、彼女をこんな形にしたのだと突きつけられるから。
けれど、父が席を外した瞬間。
研究室の空気が、ほんのわずかに緩む。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
そのたった数秒で、二人の間の世界が変わる。
ローランドは、声を出す前にアランの手を取ってしまう。
慎重で、丁寧で、それでも抑えきれない速さだった。
握るというより、確かめるように。ここにいるのだと、互いの熱で証明するように。
アランの指先がわずかに震え、次の瞬間、その震えが落ち着く。
まるで“戻ってきた”みたいに、するりとローランドの手に馴染んでしまうのが怖かった。
懐かしさが、罪を薄めてしまう。
だからこそ、ローランドは唇を噛みしめる。
「…… アラン」
呼び名が、自然に溢れる。
フロスト殿でもなく、ブラック夫人でもない。
昔、幾度も研究室の窓辺で呼んだ、呼ばれた、あの名前。
アランは、ほんの少しだけ目を伏せる。
そのまま瞼を上げ、翡翠の瞳でローランドをまっすぐに映した。
「……ローランド」
それだけで、胸がいっぱいになる。
言葉は少なくていい。
むしろ言葉にしてしまえば壊れてしまうから、二人は何度も同じことを繰り返した。
手を握る。指を絡める。短い口付けを落とす。
それだけで、息が整いそうになって――整うはずがなくて、さらに深く求めてしまう。
「急がなくていいんです」
ローランドはそう言いながら、矛盾している自分を自覚する。
急がなくていい、と言いながら、手は離せない。
触れた途端、足りなくなる。
アランは笑うように、泣きそうに、唇だけをほんの少しゆるめた。
「急がないと……時間が、なくなるわ」
その言葉に、ローランドの胸がきゅっと縮む。
二人の時間が、常に“借り物”である現実。扉の向こうで、戻ってくる足音を待ち構えている現実。
幸せの輪郭が、いつも切なさの縁で縫われている。
それでも二人は、少しずつ上手くなっていった。
若い頃のように、ただ勢いに任せて確かめ合うのではない。
大人になった自分たちの触れ方で。
互いが何を怖がり、どこで息を吐き、何に安心するのかを――言葉ではなく、沈黙と体温で覚え直していく。
そして、あの部屋へ。
研究室の奥にある、慣れ親しんだ小さな空間。
机の角、窓の位置、床板の軋み。
かつて課題を広げ、研究ノートを積み、夜更けまで灯りを落とさなかった場所。
手を繋いだ場所。背中を預けた場所。初めて唇を重ねた場所。
若き日の時間が、まだそのまま残っている部屋。
扉を閉めると、外の世界が遠くなる。
遠くなった分だけ、心臓の音が大きくなる。
ローランドは、アランの頬に触れて、額を寄せた。
そこにいるだけで、もう満たされるのに――満たされるほど、さらに欲しくなる。
「……切ないですね」
呟いた声が、自分でも掠れているのがわかる。
切ない、と言ってしまえば、きっと彼女を縛る。
でも言わずにはいられなかった。
アランは、その言葉に小さく首を振った。
「切ないのに、幸せなの。……だから、やめられない」
その言い方が、ローランドの胸を壊した。
抱き締める腕に、ほんの少し力がこもる。
二人が重ねた時間は、甘かった。
甘いのに、必ず胸の奥が痛んだ。
幸せが濃くなるほど、戻らなければならない場所の冷たさを知ってしまうからだ。
けれど、それでも。
あの屋敷で息を殺し、完璧な妻を演じ続ける彼女にとって、この数時間は“息ができる場所”だった。
ローランドにとっても同じだった。誰かの夫として、誰かの親族として、誰かの部下として、整え続ける世界の外で、ただ“ アランを愛している自分”でいられる場所。
静かな時間の中で、二人は互いの熱を確かめ合い、言葉にならない想いを重ねた。
キスは何度も落ち、手は何度も絡み、呼吸は何度も乱れ、そしてまた整え直された。
丁寧に、慎重に、けれどどうしようもなく切実に。
「愛している」
アランの唇から溢れたその言葉は、重たくない。
むしろ羽のように軽く、自然に落ちた。
その自然さが、ローランドをいっそう苦しくさせる。――ずっと、彼女の中ではこれが真実だったのだと知ってしまうから。
「僕もです。ずっと、ずっと」
ローランドの返答は震えた。
泣きたいのに、泣けば終わってしまう気がして、喉の奥で必死に堪える。
けれど、堪えた分だけ抱き締める腕が強くなる。
二人で手繰り寄せた幸福は、眩しいほど甘く、同じくらい残酷だった。
扉の向こうで待つ現実が、いつだってそれを奪いに来ると知っているから。
それでも、アランはその部屋で、ほんの少しだけ顔を崩した。
ローランドもまた、ほんの少しだけ理性を緩めた。
そしてまた、何もなかったかのように研究室へ戻り、父の前では線を引く。
完璧な距離を守り、完璧な礼節を纏い、完璧な言葉を交わす。
――その繰り返しの中に、二人だけが知る甘い秘密が増えていった。
切なくて、甘くて、幸せで。
そして、幸せであるほどに、胸が痛む。
ローランドは、痛みごと抱えたままでも、セシール家へ向かうのをやめられなくなっていった。
屋敷へ戻れば、アランは“ブラック家の妻”へと、迷いなく姿を切り替えた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間から、空気が変わる。
石と木と、磨かれ続けた床に染みついた古い香。
使用人たちの視線が、ほんの一拍遅れて自分を追う――それを肌で感じながら、背筋を自然に伸ばす。
ローブの裾を整え、息を整え、口角の角度を決める。
その一連の動作が、驚くほど滑らかになっていた。
以前は、この屋敷の空気に触れるだけで胸の奥が硬くなって、喉の奥に鉄の塊が詰まったような感覚に襲われたのに。
――慣れたのだ。
慣れてしまったのだ、と、どこか他人事のように思う。
ローランドと過ごす時間が増えるほど、屋敷での“演技”は、むしろ巧くなった。
罪悪感からか。
それとも、幸福の余韻が心を満たし、余計な抵抗を鈍らせているのか。
彼と数時間、息をするように笑い、触れ、愛を確かめたあとで。
この屋敷へ戻り、レギュラスの隣に立つことが、以前よりも“容易い”のだ。
皮肉なほどに。
レギュラスとの間にあった棘だらけの言葉は、いつの間にか減っていた。
刃のように鋭い空気も、噛み合わない会話も、追い詰める問いも。
――ゼロになったわけではない。
けれど、少なくとも今は、刃が鞘に納められている時間が増えている。
その理由を、アランはよく知っていた。
受け入れる回数が増えた。
夫婦の時間として、求められるまま寝台に沈む夜が増えた。
それは“屈服”でも“敗北”でもない、と自分に言い聞かせながら。
あくまで、妻としての義務。
あくまで、家の秩序。
あくまで――そう、あくまでだ。
けれど、胸のどこかで、別の計算も働いていた。
レギュラスは、夜のあとに目覚めた寝台が空であることを、耐えられない。
それがどれほど彼を苛立たせ、疑念を育て、刃を引き抜かせる合図になるのか。
アランはすでに身をもって知っている。
だから選ぶ。
行為のあった翌朝は、起きない。
起き上がらない。
起こされるまで、寝台の中に沈んだままでいる。
疲れ果てて、無防備に眠っている妻。
乱れた髪が枕に散り、睫毛が薄い影を落としたまま、何も考えていないように眠っている妻。
その姿を見れば、レギュラスは満たされる。
確かめるような視線を向けても、疑いの矛先を鋭くすることは少ない。
――少なくとも、“いなくなっている”よりは、はるかにいい。
それは、アランが彼に差し出せる最も手堅い鎮静剤だった。
朝の薄明かりが、厚いカーテンの縁から滲む。
寝室の空気はまだ夜の名残を持ち、肌に残る熱がじわじわと現実へ引き戻してくる。
アランは目を閉じたまま、呼吸をゆっくり整えた。
起きてしまえば、演技が必要になる。
目を開けた瞬間から、言葉の選び方、表情の角度、手の置き場所――すべてが判断になる。
そして何より、起き上がってしまえば、ふとした拍子に“別の名前”が喉までせり上がる危険がある。
ローランド。
呼べば終わる。
呼ばなくても、瞳の揺れでバレる。
そんな恐怖が、まだ身体の芯にこびりついている。
だから、眠る。
眠ったふりでもいい。
とにかく、起きない。
その選択が、結果としてレギュラスを満たすのだから、なおさら都合がいい。
自分のためであり、彼のためでもある――そういう形を作れる。
ふいに寝台がきしむ。
重みが近づき、布が擦れる音がする。
柔らかな呼気が、耳の近くに落ちた。
「……まだ眠っているんですか」
低い声。
機嫌の悪さを孕ませる日もある。
どこか甘い苛立ちを含む日もある。
今朝のそれは、穏やかに整えられていた。
アランは、すぐに反応しない。
呼吸のリズムを崩さず、まぶたの裏に薄い影を泳がせるだけにする。
“無防備”は、もっとも強い盾になる。
指先が頬に触れ、髪を梳くように滑る。
その手の重さが、所有を確かめる癖の名残であることを、アランは知っている。
けれど今は、その癖が疑念へ変わらないように、手渡してやる。
少し遅れて、アランはようやく瞳を開く。
眠たげに瞬きをひとつ。
目覚めきらないふりをして、視線の焦点をゆっくり合わせる。
レギュラスがそこにいる。
整った顔。
何もかもを手に入れた男の余裕を、朝の光の中でまとっている。
「……おはようございます、レギュラス」
声は柔らかく。
丁寧で、余韻を滲ませる程度に低く。
それだけで、彼の目の奥がわずかに緩むのがわかった。
疑いの芽が、ほんの少し引っ込む。
満たされた気配が、空気の密度を変える。
「昨日のあなたは……随分、可愛らしかった」
そう言うのが、彼の癖だ。
褒めることで囲い、囲うことで確かめ、確かめたうえで安心する。
そして安心したら、次の欲を作りにいく。
アランは微笑む。
心が伴わない笑みではない。
ただ、心の置き場所が“正しく整っている”笑みだ。
ここで揺れれば終わる。
揺れなければ、今日も日常が続く。
「……疲れていただけです。少し、眠ってしまいました」
わざと曖昧に。
それでも否定はしない。
肯定も過剰にしない。
“ちょうどいい温度”を、彼に渡す。
レギュラスは満足げに息を吐く。
そのまま、アランの額に口付ける。
深くはない。
けれど、印をつけるには十分だ。
アランは、目を閉じた。
――うまくやっている。
そう思う。
ここまで来た。
自分は壊れずに、うまく、やれている。
ローランドと重ねた甘い時間が、胸の奥に灯のように残っているから。
その灯を抱いたままでも、この屋敷で完璧な顔ができる。
それが救いであり、同時に罪でもあった。
けれど、今のアランは知っている。
罪悪感であれ、幸福であれ。
感情そのものは、ここでは武器にも毒にもなる。
だから使い方を覚えた。
眠るふりをして、起こされるまで起きない。
無防備を演じ、安心を与える。
微笑みを落とし、疑念を遠ざける。
――そうして今日も、ブラック家の妻としての一日が、静かに始まっていく。
魔法省の認可は、驚くほど早かった。
書類は山のように積まれ、承認の判が押されるまでには、通常なら幾晩も議論が要る。治験の記録、反応の経過、危険性の洗い出し、流通の管理、価格の規定――誰もが“責任”という言葉で身を守るからだ。
けれど、今回は違った。
レギュラス・ブラックの名が署名欄に置かれた瞬間、紙束はただの紙束に変わった。
躊躇が、制度の内側でほどけていく音がした。
新薬の発表に合わせ、一般流通への道筋も整えられた。
聖マンゴの担当ヒーラーとの連携、薬剤師会への通達、薬の取扱いに関する誓約書。面倒で、厄介で、誰かが踏み込まなければ動かない工程を、彼はまるで盤上の駒を並べ替えるように片づけていった。
そして――発表の宴。
会場は魔法省の大広間だった。古い石壁が磨き上げられ、天井には星のような魔法灯がいくつも浮かぶ。シャンデリアの雫が、光を集めて、床に細かな波紋を落としていた。
白いクロスの上には銀の食器が整然と並び、グラスは一息でも触れれば澄んだ音を立てそうなほど薄い。壁沿いには、セシール家の紋が刺繍された深緑の垂れ幕が掲げられ、その隣にブラック家の黒が、揺るぎない輪郭で並んでいる。
招かれたのは、役人たちだけではない。
貴族の家々、製薬を扱う家、治療院の代表者、新聞の記者。視線は全方位から集まり、ひそひそとした声が、泡のように会場を漂う。
その中心に、エドモンド・セシールが立っていた。
年を重ねた男の背に、誇りの張りが戻っている。かつて研究に閉じこもり、世から隠れるように生きていた人とは思えないほど、今は壇上の光が似合っていた。
そして、その隣―― アラン・ブラック。
彼女の微笑みは、完璧だった。
目元の柔らかさ、口角の角度、視線を受け止める時間。すべてが礼節に沿っていて、誰ひとり“隙”を見つけられない。
けれど、その完璧さの奥で、胸のどこかが、針で撫でられているように痛んだ。
レギュラスが、グラスを掲げる。
「今夜は、セシール卿の新薬を祝う夜です。――そして、セシール家の叡智が、ようやく正当に評価される夜でもある」
声は柔らかく、場を掌握する温度だけを正確に保っている。
笑みも、拍手の間合いも、彼の一言で整っていった。
「この薬は、治療の現場を救います。必要な人の手に届くよう、魔法省として責任をもって流通を整えました。……遅れて届く“正しさ”ほど残酷なものはありませんからね」
どこか冗談めいた口調で言って、会場に薄い笑いが走る。
だが笑っている者たちも、彼が言っていることが冗談ではないと理解している。レギュラス・ブラックが“責任”を口にする時、それは守りではなく、支配の宣言だった。
レギュラスは続ける。
「そして――この研究には、セシール卿だけでなく、アランの貢献もありました。ご存知の方もいるでしょう。彼女はかつて魔法薬の論文で賞を獲っています。あの論文の着眼点がなければ、ここまでの精度に辿り着くのはもっと先だったはずです」
アランの名が、会場の空気に乗る。
注がれる視線が、熱を帯びた。
誇らしげだった。
レギュラスが父を、そして妻を褒め称える姿は、誰が見ても“愛”に見える。
誇示ではなく、誇り。
所有ではなく、称賛。
――少なくとも、そう見せることに長けた男だった。
エドモンドが困ったように笑う。
「やめてください、レギュラス殿。ほとんど私の功績です。娘は、せいぜい――夜更かしを叱ってくれたくらいですよ」
会場に、また小さな笑いが弾ける。
アランも微笑む。父の冗談に、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
その瞬間、レギュラスの視線が、柔らかく彼女に触れた。
――その目に映るのは、たぶん“妻の顔”だ。
誇らしく、従順で、誰に見せても恥じない“ブラック家の正妻”。
胸の奥が、ちくりと疼く。
感謝は、確かにある。
抱えきれないほどに。
父の研究が、こうして日の光を浴びることができたのは。
長い間、黙殺されてきた成果が、ようやく世の仕組みに乗ったのは。
この男が、魔法省の中枢にいて、認可を即座に下ろせるだけの力を持っていたからだ。
彼がいなければ――たぶん、父はまた同じ薄暗い研究室に戻っていただろう。
世界が必要としているものを抱えたまま、誰にも届かない場所で、静かに朽ちていったかもしれない。
アランはグラスを持つ指に、わずかに力を込めた。
透明なガラスが、体温を受けて温かい。
誇らしさがある。
父の背中が光に映えることが、嬉しい。
自分の手が、ほんの少しでも役に立ったのなら、それも嬉しい。
それなのに。
拍手の中で、アランの胸は、別の記憶を引きずり出してしまう。
圧倒的な条件。
逃げ道のない言葉。
“婚姻”という制度で首元を締め、未来を奪い取るように迫ってきた男の顔。
ローランド・フロストと、並んで見るはずだった景色。
彼の隣で笑って、父の成果を世に出していくはずだった日々。
それらを、同じ手で、同じ声で、同じ微笑みで奪った男が――今は、その成果を祝っている。
それが、胸を痛ませた。
矛盾だ。
感謝と、恨み。
誇りと、喪失。
相反するものが同じ場所に同居して、どちらも嘘ではないまま息をしている。
レギュラスが、壇上から一歩降りて、アランの隣に戻る。
すぐ近くで見ると、彼の表情はさらに柔らかく、周囲に向ける笑みよりも少しだけ私的だった。
「誇らしいですね」
低い声が、耳の近くに落ちる。
それは褒め言葉であり、確認であり、彼自身の満足の吐息だった。
アランは視線を上げる。翡翠の瞳を、整えたまま彼に向ける。
その瞳が彼を映せば、彼は勝利を確信する。――いつもと同じ。
「……父が、ようやく報われました。あなたのお力添えのおかげです」
正しい言葉だった。
正しい順序で、正しい温度で言った。
レギュラスは満足げに頷く。
その仕草ひとつで、会場の視線が「夫婦」を再確認するのが分かった。
アランは微笑む。
その微笑みが、痛みを覆い隠すことを知っている。
完璧であることが、今夜の自分に許された唯一の鎧だということも。
拍手が続く。グラスが触れ合う音が重なり、魔法灯が星屑のように揺れる。
父は人々に囲まれ、次々と握手を求められる。
アランもまた、祝福の言葉を受け取り、丁寧に返し続ける。
その中心で、レギュラス・ブラックは笑っていた。
自分が整えた舞台の中心に、セシール家と、アラン・ブラックを置いて。
彼の手のひらの上で、世界が滑らかに回転している。
――この光の中で。
アランの胸の痛みだけが、誰にも見えないまま、ひっそりと呼吸を続けていた。
