2章
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「行かないでください」
その言葉が、部屋の空気を一瞬で変えた。
アランの身体は、目に見えるほど小さく震えた。指先から、肩から、呼吸の奥から――まるで、長い間閉じ込めてきた何かが、音もなくひび割れていくみたいに。
どうして。
なぜいまさら。
そう思うのに、問いの形にする前に、心のほうが先に痛んだ。
本当はずっと昔に欲しかった。
欲しくて、欲しくて――それを望む自分が卑しいようで、望みを口にすることすら怖くて、ただ静かに笑って、ただ静かに礼儀を守って。
ブラック家からの縁談が持ち込まれたあの日。
圧倒的すぎる条件が並べられ、父の声がわずかに弾み、言葉の端々から「受けてほしい」が滲み出ていたあの日。
もしそのとき、ローランドが――その温い優しさではなく、乱暴なくらいの必死さで言ってくれていたなら。
行かないで。
金でも地位でもなく、君が必要だと。
未来ごと引き渡してしまうような真似をしないでくれと。
それを言ってくれたら。
それだけで、アランは何もかもを敵に回してでも、踏みとどまれたのではないかと思う。
けれどローランドは違った。
「どんな決断をしても、責めることはできない」
その言葉は優しくて、正しくて、そして――冷たかった。
優しさの皮を被った突き放しだった。
最後まで「幸せに」「お元気で」で終わらせて、アランの未来を、本人の手で静かに閉じた。
なのに。
いまさら。
いまさら、こんなふうに。
アランは掴まれた手首を振りほどけなかった。
逃げるべきだと頭のどこかが叫んでいるのに、手首に触れている彼の体温が、過去の記憶と同じ場所を叩き続ける。
呼吸が浅くなる。胸が苦しい。喉の奥が熱くなる。
視界が滲んだ。
涙が、何の許可も取らずに溢れた。
一滴、二滴ではない。堰が壊れたみたいに、止められない。
ローランドも泣いていた。
顔を上げられないまま、まるで懺悔する子どものように、アランの手首を掴んだ指が震えている。
その震えが、アランの中の最後の理性をいっそう脆くした。
ここは、二人の部屋だった。
研究に追われる日々の合間に、ふっと笑ってしまうようなくだらない話をした。
机に広げた書類の上で指が触れ合って、互いに視線を逸らした。
初めて恋を知った。初めて「この人と生きたい」と思った。
背伸びするように大人になっていった、甘い痛みの全部が、この四角い空間に染みついている。
部屋は整え直されていても、匂いは変わらない。
紙とインクと、薬草の乾いた香り。
窓から差し込む光の角度まで、昔のままに感じてしまう。
まるで時間だけが、外に置き去りにされたみたいだった。
アランは、震える声で言った。
「……なぜ、いまさらなんです」
言った瞬間、胸の奥が裂けた。
怒りでも、責めでもない。
祈りに近い問いだった。
どうか否定して、どうか抱き締めて、どうか昔に戻して――そんな願いを、泣きながら形にしてしまった。
ローランドは唇を噛み、首を振った。
涙が頬を伝って、顎から落ちる。
「……すみません、アラン。僕もわからない」
声は丁寧で、優しくて、なのに今は壊れかけていた。
言葉が整う前に、感情が先に溢れている。
「なんで、こんなことを……」
ローランドは自分の胸を押さえるみたいに手を握りしめ、それでもアランの手首を離せないまま、息を吸い直した。
その呼吸に、決意のようなものが混じるのがわかった。
遅すぎる決意。言ってはいけない言葉を言う覚悟。
「……今でも、あなたが大好きです」
一瞬、世界が無音になった。
「ずっと……僕の中には、あなたしかいない」
アランの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
それはきっと、ずっと守ってきた「妻」としての形だった。
ブラック家の正妻であること、母であること、礼儀正しくあること。
それらを鎧にして、なんとか息をしてきた。
けれどその鎧が、たった今、古い鍵みたいな言葉に触れただけで、粉になる。
残ったのは、若い日の自分だった。
彼だけを見て、彼だけに触れて、彼だけの未来を信じていた頃の――翡翠の瞳の少女。
「……だめ……」
声にならない声が漏れた。
止めるはずの言葉が、止められない。
アランは一歩、そしてもう一歩、ローランドに近づいた。
手首を掴む指がほどけるより早く、彼の胸に飛び込んでしまった。
衝撃はない。
ただ、懐かしい温度が、身体の芯まで染み込む。
肩に額が当たる。
ローランドの腕が迷いながらも回って、アランを抱き締めた。
その抱擁は、思い出の通りだった。
優しくて、丁寧で、壊れものを扱うみたいに慎重で――それが余計に、涙を加速させた。
「……ローランド……」
呼んだ瞬間、喉の奥がさらに熱くなり、声が震えた。
彼の胸元から漂う匂いも、息のリズムも、指先の温度も、全部が知っているものなのに。
知っているからこそ、もう戻れないと突きつけられる。
アランは必死に息を吸った。
けれど吸うたびに、胸の中の痛みが増える。
ここで自分たちは、たくさんの思い出を重ねた。
彼に恋をして、彼と共に大人になって、彼が自分の世界の全てだった。
それを、もう二度と叶わないものとしてしまい込んだはずだったのに。
それでも身体は覚えている。
抱き締められると、安心してしまう。
泣いてしまう。
弱くなる。
ただの人間に戻ってしまう。
ローランドの腕の中で、アランは震えながら、嗚咽を噛み殺そうとした。
けれど無理だった。
背中を撫でられるたびに、涙が勝手に溢れた。
まるで、堪えてきた年月の分だけ、今ここで泣かされているみたいに。
「……ごめんなさい」
ローランドが耳元で囁いた。
謝罪の言葉は小さく、けれど心臓に直接触れるように痛かった。
アランは首を振った。
違う。謝らないで。
今さら優しくしないで。
言葉にできない感情が喉で絡まって、結局、ただ彼の胸に頬を押しつけるしかできない。
窓から差す光が、床の上で揺れていた。
机の角、古いインク染み、整えられた本棚。
すべてが過去を知っている。
この部屋だけが、若き日の世界のまま残っている。
だからこそ、抱き締められるほどに、アランは思い知る。
――ここから先へは、もう二人では進めないのだと。
それでも、今だけは。
今だけは、離れたくなかった。
アランはローランドの胸に縋りながら、涙に濡れた声で、幼い頃の自分みたいに呟いた。
「……遅いです……」
それは責めではなく、悲鳴だった。
叶わなかった未来の、最後の残響。
ローランドの腕がきつくなる。
息が詰まるほど抱き締められて、アランはまた泣いた。
懐かしい温度に、余計に――どうしようもなく、涙が止まらなかった。
数年ぶりだった。
彼に抱かれるということが、こんなにも静かで、こんなにも怖いのだと―― アランは、今さらのように知った。
ローランドの腕は、昔と変わらない。力で囲い込むのではなく、逃げ道を残したまま、丁寧に輪を作っていく。触れる指先の温度すら、問いかけの形をしていた。苦しくないか。寒くないか。息はできているか。
その気遣いが、優しさであるはずなのに、胸の奥をきりりと痛めた。なぜなら、その優しさが、かつて自分が「当たり前」だと思っていたものだからだ。
何かを奪い取るような波ではない。
レギュラスの腕の中で知った、抗えない圧のうねりとも違う。
ローランドの時間は、ゆっくりと体の輪郭をなぞり、心の縁を撫で、沈めていく。水面に浮かべていたものを一つずつほどいて、底へ連れていくような――穏やかで、深い、逃げなくていい沈み方だった。
アランは、息を吐くたびに、肩の力が抜けていくのを感じた。
自分がどれほど長い間、どれほど無意識に、固くなって生きてきたのかが分かってしまう。身体の奥に張りついていた警戒が、温もりに溶かされていく。抗おうとしない自分が怖くて、それでも、溺れるみたいに彼に縋った。
窓の外は暗いのに、部屋の中はやわらかな光が残っていた。
机の上の書類の端が微かに揺れ、薬草の乾いた匂いとインクの香りが、記憶の層を剥がしていく。ここは、二人が大人になった部屋だ。手を繋いで、名前を呼んで、未来を語って、馬鹿みたいに笑って――そうして全部を置いてきた場所だ。
その場所で、ローランドはアランを急かさない。
どこまでも誠実に、どこまでも優しく、彼女の返事を待つ。
彼女が少しでも迷えば、その迷いごと抱き留めるように手を止める。まるで、「やめる」という選択肢も最初から愛しているみたいに。
その優しさが、天にのぼれるように心地よかった。
同時に、泣きたくなるほど残酷だった。
こんなふうに大切にされるたび、アランは思い知ってしまうのだ。自分が本当は、何を望んでいたのか。誰の腕の中で、どんなふうに呼吸をしたかったのか。
熱が、胸の奥から静かに満ちていく。
声にするつもりなどなかったのに、言葉は勝手に唇から零れた。
「……愛してる」
あまりに自然で、あまりに無防備で。
自分でも驚くほど、澱みのない言葉だった。
レギュラスの前では一度も呟けなかった、呟くべきではないと押し込めてきた言葉が――ローランドの前では、呼吸と同じくらい簡単にほどけてしまう。
ローランドの腕が、わずかに震えた。
そして、耳元に落とされる声は、昔と同じ丁寧さのまま、今は壊れそうに熱を帯びていた。
「僕もです。……ずっと。ずっと」
その言葉が、胸の奥を直に撫でた。
アランは目を閉じ、彼の胸に頬を寄せる。心臓の鼓動が、掌の下で規則正しく鳴っている。懐かしい音だった。自分が世界の中心だと錯覚していた頃の、あの安心の音。
ローランドは、優しく、けれど逃がさない強さでアランを抱き締めた。
急かさないまま、離さない。
大切にするまま、手放さない。
アランは、今だけは考えないことを選んだ。
帰る場所のことも、名前の重さも、背徳の輪郭も。
ただ、目の前の温もりに身を委ねる。胸の奥に溜め込んできたものを、息と一緒に少しずつ吐き出していく。
幸福は、鋭い刃にも似ていた。
甘いのに痛い。痛いのに、止められない。
「……ローランド……」
呼びかける声が震えると、ローランドは短く息を吸い、まるで祈るみたいに額を寄せてきた。
「急がなくていいんです、アラン。……今日は、ただ……ここにいてください」
その言葉だけで、アランの喉が詰まった。
返事の代わりに、彼の胸元をぎゅっと掴む。
縋る指先に、ローランドはそっと口づけるような仕草で応え、もう一度、同じ言葉を落とした。
「愛しています」
静かで、確かな声だった。
その確かさが、アランの中の何かを決定的に崩した。
もう一度、言葉が溢れる。今度は、祈りのように。
「……愛してる。ずっと……」
ローランドの腕が、さらに強くなる。
二人の呼吸が重なって、部屋の空気がゆっくりと温まっていく。
外の世界が遠くなり、記憶と現実の境目が溶ける。
その夜、アランは久しぶりに――「選べる優しさ」の中で、心ごと沈んだ。
甘く、苦しく、そして、あまりにも気持ちのいい時間の底で。
ブラック家の屋敷に戻った瞬間、空気が変わった。
門をくぐると同時に、馬車の揺れでほどけかけていた心が、再びきちんと“形”を取り戻していく。廊下に敷かれた絨毯の厚み、蝋燭の火の匂い、静かな足音――この屋敷は、いつだって感情を許さない。アランは自分の呼吸を、わずかに浅く整えた。
何もなかった顔。
何も、起きていない顔。
それを作らなければと身構えたはずなのに、不思議なほど自然に、それができた。
身体のどこかが熱を持っているのに、表情は崩れない。むしろ、アルタイルの母として日々していることと同じように、穏やかな動作が勝手に出る。玄関で外套を受け取り、手袋を外し、使用人に短く礼を言う。声の調子まで、あまりに整っていて、アラン自身が一瞬だけ戸惑うほどだった。
「お帰りなさいませ」
誰かの声が背中に落ちる。アランは微笑み、頷いて返す。廊下の先、乳母の部屋からは小さな寝息が聞こえた気がした。アルタイルが眠っている――その事実だけが、胸の奥に薄い膜を張ってくれる。
寝室に入ると、さらに静けさが濃くなる。扉が閉まる音が、やけに大きかった。
レギュラスはローブの前を外しながら、いつものように何でもない所作で室内を横切った。濃い影をまとった背中が、燭台の光に縁取られる。あの人の部屋に戻ってきたのだ、と視界がはっきり認識するまでにほんの瞬きほどかかった。
アランは自然に手を伸ばした。
差し出されたローブを受け取る。布地の重みが掌に沈み、指先に微かな温度が残る。まるで、それが“帰属”の証のようで、背筋が冷える。けれど手は止まらない。止めれば、目が向く。目が向けば、見抜かれる。
ローブを丁寧に畳み、椅子の背に掛ける。次に、彼がカフスに指をかけたのを見て、アランは一歩寄った。
「……こちらを」
ネクタイの結び目に指を添える。硬い布がほどけていく感触は、奇妙なくらい慣れていた。以前は、この距離に息が詰まった。けれど今は、呼吸が乱れない。乱れないことが、かえって怖い。
レギュラスは、カフスを外す手を止めずに、横目だけでアランを見た。灰色の瞳が、燭火の下で薄く光る。
「機嫌が良さそうですね」
その一言は、柔らかい声で作られているのに、針が入っていた。褒め言葉の形をした確認。アランは結び目をほどき切った指先を、ほんの一拍遅らせて離す。遅らせたのは、動揺を隠すためではない。呼吸の調子を、いつもの“母の顔”へ戻すためだった。
「父の研究は、もう佳境に入っていますので」
口から出た声は滑らかで、上品に整っていた。自分で自分の声が他人のもののように聞こえて、アランは内側だけで唇を噛みたくなる。噛まない。噛めない。噛む必要のない顔を、作れるからだ。
レギュラスの口元がわずかに緩む。満足の形だ。権力者のそれではなく、所有者のそれに近い。
「それを聞いて、僕も嬉しく思いますよ。魔法省側の認可は即下ろしますので、ご安心を」
“即”という言葉が、軽いのに重い。彼の手の中で、認可も許可も、紙切れのように動くのだと改めて突きつけられる。アランは、頭を下げる角度まで丁寧に計った。
「心強い限りです」
礼儀正しさが、盾になる。
礼儀正しさが、檻にもなる。
レギュラスはシャツの袖を整え、外したカフスを掌で転がした。金属が小さく鳴る。その音が、部屋の静けさに刺さる。アランは、ネクタイを畳みながら、その音を聞いていた。耳が冴えすぎている。何でもない音に、意味を与えたくないのに、身体が勝手に拾ってしまう。
「今日、随分と落ち着いている」
レギュラスの声が背後に落ちる。近い。振り返る前に、肩に影がかかる。アランは、ネクタイを引き出しに収める所作を崩さず、そっと振り返った。目を合わせることも、避けない。避けない方が安全だと、もう学んでいる。
「アルタイルが……今日は機嫌が良かったので」
咄嗟に出た言葉は、嘘でも真実でもあった。アルタイルの名を口にすると、レギュラスの視線が一瞬だけ柔らかくなる。そこに逃げ道がある。母の顔を持ち出すことで、あらゆる質問が“家庭”の話に変わる。アランはそのことを、言葉ではなく皮膚で理解していた。
レギュラスは、アランの顎に指先を添えるでもなく、ただ距離を詰めた。視線が、目元から唇へ落ちる。触れないのに触れられているような、あの独特の圧が戻ってくる。
「そう。……なら、なおさらいい」
優しい言い方だった。けれど、優しさはいつも彼の側の都合で形を変える。アランは微笑みを崩さないまま、静かに息を吸い直した。胸の奥に残る熱や、さっきまで別の温度に
寝室の灯りは、いつもより柔らかく見えた。
それは照明のせいだけではない。アランの内側が、今夜だけは“形”を作っていたからだ。
戻ってきた屋敷の空気も、レギュラスの指先の気配も、どれも知っている。知っているからこそ、誤魔化し方も知ってしまっている。妻として、正しい仕草で、正しい距離で、正しい顔で――望まれるままに整えて差し出す。そうすれば、疑いは生まれにくい。
拒む理由など、最初から持っていない。
夫の望むことを拒むほうが不自然で、危うい。特に、彼が望むのであればなおさら。
何も思うところがないわけじゃない。むしろ、思うところだらけだ。
それでもアランは、今夜の自分を“妻らしく”仕立て上げた。頬に微笑みを乗せ、視線の高さを整え、息の乱れさえ計算して――最大限の演技を仕込む。
レギュラスは、その変化をすぐに嗅ぎ取る。
「今日は随分、可愛いですね」
機嫌良さげに告げられたその声に、アランの胸の奥がほどけそうになる。
穏やかだ。落ち着いている。どこにも、疑いの目を向けていない――少なくとも、そう聞こえる。そう見える。だからこそ、今夜は息ができた。
「……そうですか」
わざとらしくならない程度に、少しだけ笑う。
自分で作った笑みが、ぎりぎりで“自然”に見える角度を知っていることが、少しだけ悲しかった。
レギュラスが近づく。距離が詰まるたび、空気が重くなるのに、今夜のアランは崩れない。崩れないように、崩れない筋肉の使い方で立っている。彼の目に映る自分が、正しく整っているのを、胸の奥で確かめるように。
そして、触れられる。
指先が頬を掬い、視線が確かめるように落ちる。これから先が分かり切っているのに、アランは身を引かない。引けないのではなく、引かないことを選ぶ。選ぶことにした、と自分に言い聞かせる。
唇が重なる。
深く沈められるようなものではなく、今は優しく触れるだけの口付けが、いくつも落ちてくる。まるで確認するみたいに。まるで、褒美を与えるみたいに。
その合間に、レギュラスが囁く。
「そんなに良かったです?」
普段なら――この問いは嫌いだった。
何がいいのか。どこがいいのか。どう言えば正解なのか。
問われるたび、羞恥と屈辱が同時に湧き上がり、心のどこかが擦り切れていく。答えを出せば負ける気がして、黙れば追い詰められる。いつもの夜は、そういう綱引きだった。
けれど今日は、違う。違うふりができる。
アランは、微笑んで返した。
唇の端をほんの少しだけ上げる――“妻の余裕”の形を借りて。
「ええ。すごく」
短い言葉なのに、レギュラスの目が緩む。
その瞬間、アランはほっとしてしまった。胸の奥の硬い塊が、ほんの僅かだけ溶ける。疑われていない。疑われていない声だ。疑われていない目だ。今夜はそれだけで、救いになる。
「……そう」
レギュラスは微笑む。
勝者の笑みではなく、満たされて機嫌が良い男の笑み――そう見える微笑みを、丁寧に貼り付けるのが上手い。
「いい子ですね、アラン」
その言い方が、優しいようでいて、どこまでも所有の言葉だと分かっている。分かっているのに、アランは否定しない。否定しないほうが、今日の自分には楽だった。楽であってしまうことが、怖かった。
レギュラスの手が、アランの指を取る。
指先を撫で、腕を引き、寝台へと導く。その導き方が“当然”の顔をしているから、アランもまた“当然”の顔で従う。寝台の縁に触れ、シーツの冷たさが肌に移り、すぐに体温が塗り替えていく。
灯りの中で、レギュラスの横顔が穏やかに見える。
その穏やかさが本物かどうかを考えるのを、アランはやめた。考えた瞬間、どこかが崩れる気がする。
だから、今夜はただ“妻”として、与えられるものを受け取った。
応えるべきところで頷き、求められたところで微笑み、触れられたところで目を閉じる。心は遠くに置いたまま、身体と表情だけをこの部屋に残す。――そんなやり方が、いつの間にか上手くなっている。
レギュラスは、その上手さに満足しているのだろう。
少し嬉しそうに、何度も優しい口付けを落としてくる。触れては離れ、離れてはまた触れる。甘やかすみたいに、餌付けするみたいに。
「本当に……今日は可愛い」
もう一度言われたとき、アランは思った。
この一言で、彼は“疑い”よりも“満足”を選んでくれている――そう見える。だからアランは、息を吐くように、淡く頷いてしまう。
その頷きの小ささまで、レギュラスは見逃さない。
見逃さないまま、咎めず、今夜はただ満たされる方へ流れていく。
寝室の灯りが揺れる。
屋敷のどこかで時計が時を刻む。遠い廊下の静けさが、夜の厚みを増していく。
そしてアランは、最後まで崩さなかった。
崩さないことで守れたものが、確かにあった。
――守れたものが何なのか、朝になっても自分で分からないままでも。
夜明けは、いつもより遅く、厚い布で覆われているように感じられた。
窓辺のカーテンの隙間から差し込む光は確かに朝の色なのに、寝台の上に落ちるそれは柔らかすぎて、輪郭というものを持っていない。
アランは目を開けたまま、起き上がれなかった。
起き上がれない――というより、起き上がる理由を、身体がうまく見つけられない。瞼が重い。四肢が鉛のようにだるい。昨夜の余韻が、肌のあちこちに薄い膜のように残っていて、触れれば破れてしまいそうで触れたくない。呼吸をするたびに、胸の奥に何かが沈んでいく。
たった一日のうちに、二度。
違う男の体温が、違う気配が、違う言葉が――重なってしまったせいだと、理屈では分かっている。けれど理屈を立てた瞬間、胸の底から冷たいものが湧いてくる。罪悪感というほど明確な形にはならない。ただ、重い。鈍い。寝返りを打つだけで、心が遅れてついてくる。
「……起きないと」
口にしてみても、声はかすれて、寝室の空気に溶けた。
結局アランは、枕に頬を沈めたまま、ほんの少し目を閉じる。閉じた瞬間に眠りに落ちてしまいそうで、怖いのに。眠ってしまえば、思い出さなくて済むことが増えるのが分かっているのに。
扉が、静かに開く音がした。
屋敷の朝はいつだって整っている。足音も、衣擦れも、必要以上に響かないように躾けられている。その整い方が、今のアランにはありがたくもあり、息苦しくもあった。
次いで、柔らかな重みが近づいてくる。
抱き上げられた小さな命の気配――アルタイルの、まだ乳の匂いがする温かさ。
レギュラスの声が、朝の空気を切り裂かないまま、ふわりと落ちてきた。
「おはようございます、アラン」
いつもと変わらない、穏やかな音色。
その穏やかさに、アランは喉がきゅ、と縮むのを感じた。昨夜の何もかもが嘘のように、彼は“朝”を運んでくる。まるで当たり前みたいに。
レギュラスは笑いながら、アルタイルを少し持ち上げて見せる。赤子は機嫌よく、小さな指を宙にさまよわせた。
「ほら、アルタイル。お母様は眠たいそうですよ」
その言い方が、冗談めいているのに妙に優しい。
幼い子に語りかける声は、鋭さを隠すのが上手い男の、別の顔だった。
アランはようやく上体を起こそうとして、失敗した。
身体が笑ってしまうほど言うことを聞かない。腹の底から力が抜けて、寝台に押し戻される。情けない、と感じるより先に、眠気が勝つ。
「……すみません」
かろうじて出した言葉は、謝罪の形をしていた。
謝るべきことが何なのか分からないのに、謝ってしまう。そうするほうが安全だと、身体が覚えている。
レギュラスは枕元に腰掛け、アルタイルを片腕に抱いたまま、アランの顔を覗き込んだ。
その視線が、翡翠の瞳に触れる。触れた瞬間に、胸の奥がひやりとする。見透かされるのではないかという怖さが、反射みたいに走る。
けれどレギュラスは、笑った。機嫌が良さげな笑みだった。
昨日の夜の延長線上にあるような、どこか満ち足りた色。
「昨日のあなたが可愛すぎましたから。無理をさせたのかもしれませんね」
歯が浮くような台詞だった。
劇の台本みたいに滑らかで、恥ずかしいほど真っ直ぐで、それを平然と口にできるところが――この男の恐ろしさでもある。
アランは息を飲みそうになり、代わりに唇の端をゆっくり上げた。
微笑む。いつものように。いつもの形で。いつもの速度で。
そうすることで、何もかもが正しい場所に、正しい形で収まっていく気がした。
妻は微笑み、夫は満足し、子は温かい腕の中にいる。屋敷は静かで、朝は整っている。そこに余計な揺らぎを持ち込まないことが、今の自分にできる唯一の防衛だ。
「……レギュラス、そんな……」
言葉は続かなかった。続ければ、余計なものが滲み出る。
アランは微笑みのまま視線を伏せ、アルタイルに目を向けた。赤子は何も知らない顔で、母のほうへ手を伸ばしている。その小さな指先が、あまりにも無垢で、胸が痛む。
レギュラスはその様子を見て、少しだけ声を落とした。
「抱きます?」
問いかけは柔らかい。けれど、“断る理由”を薄く削ぐような、いつもの癖が混じっている。
アランは頷こうとして、また眠気に引かれた。うまく動かない身体に苛立ちかけて、しかし――苛立つ気力さえない。
「……はい。少しだけ」
やっとのことで言う。
その返事が出た瞬間、レギュラスの表情が、微細に満足の形へ整うのが分かった。分かってしまうのが、怖い。
アルタイルが、アランの胸元へそっと渡される。
温かい重みが腕の内側に収まった途端、胸のどこかがふっと緩んだ。守るべきものの輪郭だけが、はっきりする。――守るべきものがあるから、笑える。笑わなければならない。
アランはアルタイルの額に頬を寄せる。
乳の匂いと、眠りの匂いと、生命の匂い。そこには嘘がない。昨日の夜がどれほど歪でも、どれほど取り返しがつかなくても、この子だけは、現実として腕の中にいる。
レギュラスが、アランの髪を軽く梳いた。指先の動きが、驚くほど丁寧だ。
まるで慈しんでいるみたいに。――慈しんでいるのだろう。自分のものとして。
「今日は、無理をしないで。……と言いたいところですが」
そこでわざと間を置く。
アランの呼吸が、無意識に浅くなる。
レギュラスは笑みを崩さないまま、続けた。
「あなたが起きるまで、こちらは待てます。ね、アルタイル」
赤子に語りかける形を取って、結局アランに刺す。
そのやり方が、彼らしい。朝から容赦がないのに、声はどこまでも穏やかだ。
アランは微笑みを崩さずに、目を伏せた。
崩さないことが、今日の自分を守る。崩した瞬間に、昨日という一日が、たちまちこの寝室にまで流れ込んでくる気がした。
「……ありがとうございます」
礼儀正しい言葉が、するりと出る。
それが正しい場所に収まるための言葉だと分かっていながら。
レギュラスは、その返答を受け取って満足したように、もう一度だけアランを見た。
翡翠の瞳が自分を映す――それだけで、彼は勝利を確信できるのだろう。
アランはその視線の重さを、笑みで包み、アルタイルの温かさで押し留めた。
起き上がれない朝は、ただ眠いだけではない。
崩れないために、眠りが必要だった。
魔法省の役員室は、昼の喧噪が引いたあとの潮がまだ残っていた。
羊皮紙の匂い、インクの渋み、封蝋の甘い煙。窓の外では、雲が低く流れている。世界は忙しく動いているのに、この部屋だけが別の時間の膜で覆われているようだった。
机の上には、祝福のカードがまた増えていた。
金箔の縁取り、家紋の浮き彫り、やけに丁寧な万年筆の筆圧。祝辞の文面はどれも似たり寄ったりで、けれど自分の名と「ブラック家」と「跡取り」を繰り返し飾り立てるたび、そこに確かに現実があるのだと突きつけてくる。
それなのに。
今日の記憶が、呼吸のたびに戻ってくる。
あの強情な女が――あの、こちらの言葉を受けても受けても、決して中心を渡さなかった女が。
昨夜は、驚くほどに素直で、驚くほどに可愛らしかった。
思い出の輪郭は、必要以上に鮮明だった。
手触りの熱、ふと緩む肩、言葉の端を噛みしめる癖。こちらが問いを投げる前に、ほんのわずかに頷いてしまう、そのタイミングの遅れさえ愛おしい。
――あれが、演技だったとしても。
否、と自分の内側が笑う。演技の巧拙ではない。こちらが欲しいのは“正解”ではなく、“崩れた瞬間”だ。自分のために、ほんの少し理性がほどけたという事実。それだけで十分なのだ。
口元が勝手に緩む。
自覚して、指先で唇の端を押さえた。だが、抑えたところで、目尻に残るものまで消せはしない。
「……眠いのか、笑うのか、どちらかにしてください」
乾いた声が、紙の山を切って飛んできた。
視線を上げると、バーテミウスが、椅子にだらしなく腰を預けたままこちらを見ている。いつも通りの軽さ。いつも通りの、不躾な観察者の目。
自分は肩をすくめるように笑い、カードを一枚指で弾いた。紙が、かすかな音を立てて跳ねる。
「失礼。どちらに見えました?」
「両方です。しかも最悪な割合で」
「人聞きが悪いですね、あなたは」
バーテミウスは鼻で笑い、視線を祝福の束に落とした。
そして、愉快そうに言う。
「無事に折れる方が折れておさまったようで。安心しましたよ、レギュラス」
その呼び名が耳に触れた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
――折れた、という言葉が。
まるでこちらが何かを奪い取っただけのようで、まるであの女が負けたまま終わっただけのようで。そんな単純な話にしてほしくない、と、反射的に思ってしまう。
だが反論は、出てこなかった。
返す言葉を探すより先に、昨夜の“声のない肯定”が、脈の裏で跳ねたからだ。
自分は紙束を整え直しながら、淡く息を吐いた。
インクの匂いの中に、ふと、肌の記憶が混じる。バーテミウスの軽口に、苛立つべきなのに、苛立てない。むしろ、内側が満たされている。
「皮肉ですか?」
「祝福ですよ。……怖いくらい、あなたの思い通りですね」
その言葉に、自分の指先が一瞬だけ止まる。
思い通り――たしかに、そうだ。
美しい妻。望み通りの息子。家の歓喜。世間の称賛。役員としての座。
積み上がる書類すら、思い通りに裁ける。
だが、あの女の心だけは。
いつだって、ほんの一枚、薄い硝子みたいにこちらの手をすり抜ける。
だからこそ昨夜の一滴が甘い。
甘すぎて、頭が酔う。
たった一晩で崩れたわけではない。積み上げた日々が、ようやく形になった――そう思えば、なおさら笑みが止まらない。
自分はわざとペン先を整え、書類に目を落とすふりをした。
だが視界の端で、バーテミウスが呆れたように首を振る。
「返さないんですか?」
「何をです?」
「いつもの“口の刃”。今日はやけに大人しい」
言われて初めて、自分が黙っていることに気づいた。
皮肉を返す気力がないのではない。返してしまうと、この満ち足りた温度に亀裂が入る気がした。
自分は紙の端を揃えたまま、静かに言った。
「……今は、余計な言葉で崩したくないだけです」
その瞬間、バーテミウスの表情が、ほんの少しだけ柔らぐ。
笑うというより、わずかに目を細める。長年の右腕の顔だ。
「ふうん。つまり、本当に可愛かった、と」
「あなた、余計なことしか言いませんね」
「仕事ですから」
自分は短く息を吐いて、机上のカードを一枚選び、封を切った。
中の文字は端正で、無駄に美しい筆致で祝辞が並んでいる。
それを読みながら――ふと、あの女の、昨夜の微笑みが浮かぶ。
あれほど強情で、あれほど冷静で。
こちらの問いに、いつも「わかりません」と言って逃げ道を残すくせに。
昨夜は、逃げ道の作り方が、少しだけ不器用だった。
その不器用さが、堪らなかった。
「……レギュラス?」
バーテミウスが名を呼ぶ。
自分は視線を上げ、微笑みだけで応えた。言葉を返す必要がないと、今は思えた。
机の上の祝福の山は、魔法界そのものみたいに眩しい。
だが本当に欲しいのは、紙の上の祝辞ではない。
昨夜のように、何もかもが整って見える朝ではなく。
ほんの少しだけ乱れた、あの女の息遣いと、あの瞳の揺れ。
自分を映してしまった翡翠色の一瞬――それだけで、世界が確かに自分の側に傾く。
自分はまた、笑ってしまいそうになり、ペンを取り直した。
書類に目を落としながら、心の中でひとつだけ確信する。
――折れたのではない。
折らせたのでもない。
ただ、自分の腕の中で“こちらの名を選んだ”。
それがどれほどの意味を持つのかを、あの女はまだ知らない。
その言葉が、部屋の空気を一瞬で変えた。
アランの身体は、目に見えるほど小さく震えた。指先から、肩から、呼吸の奥から――まるで、長い間閉じ込めてきた何かが、音もなくひび割れていくみたいに。
どうして。
なぜいまさら。
そう思うのに、問いの形にする前に、心のほうが先に痛んだ。
本当はずっと昔に欲しかった。
欲しくて、欲しくて――それを望む自分が卑しいようで、望みを口にすることすら怖くて、ただ静かに笑って、ただ静かに礼儀を守って。
ブラック家からの縁談が持ち込まれたあの日。
圧倒的すぎる条件が並べられ、父の声がわずかに弾み、言葉の端々から「受けてほしい」が滲み出ていたあの日。
もしそのとき、ローランドが――その温い優しさではなく、乱暴なくらいの必死さで言ってくれていたなら。
行かないで。
金でも地位でもなく、君が必要だと。
未来ごと引き渡してしまうような真似をしないでくれと。
それを言ってくれたら。
それだけで、アランは何もかもを敵に回してでも、踏みとどまれたのではないかと思う。
けれどローランドは違った。
「どんな決断をしても、責めることはできない」
その言葉は優しくて、正しくて、そして――冷たかった。
優しさの皮を被った突き放しだった。
最後まで「幸せに」「お元気で」で終わらせて、アランの未来を、本人の手で静かに閉じた。
なのに。
いまさら。
いまさら、こんなふうに。
アランは掴まれた手首を振りほどけなかった。
逃げるべきだと頭のどこかが叫んでいるのに、手首に触れている彼の体温が、過去の記憶と同じ場所を叩き続ける。
呼吸が浅くなる。胸が苦しい。喉の奥が熱くなる。
視界が滲んだ。
涙が、何の許可も取らずに溢れた。
一滴、二滴ではない。堰が壊れたみたいに、止められない。
ローランドも泣いていた。
顔を上げられないまま、まるで懺悔する子どものように、アランの手首を掴んだ指が震えている。
その震えが、アランの中の最後の理性をいっそう脆くした。
ここは、二人の部屋だった。
研究に追われる日々の合間に、ふっと笑ってしまうようなくだらない話をした。
机に広げた書類の上で指が触れ合って、互いに視線を逸らした。
初めて恋を知った。初めて「この人と生きたい」と思った。
背伸びするように大人になっていった、甘い痛みの全部が、この四角い空間に染みついている。
部屋は整え直されていても、匂いは変わらない。
紙とインクと、薬草の乾いた香り。
窓から差し込む光の角度まで、昔のままに感じてしまう。
まるで時間だけが、外に置き去りにされたみたいだった。
アランは、震える声で言った。
「……なぜ、いまさらなんです」
言った瞬間、胸の奥が裂けた。
怒りでも、責めでもない。
祈りに近い問いだった。
どうか否定して、どうか抱き締めて、どうか昔に戻して――そんな願いを、泣きながら形にしてしまった。
ローランドは唇を噛み、首を振った。
涙が頬を伝って、顎から落ちる。
「……すみません、アラン。僕もわからない」
声は丁寧で、優しくて、なのに今は壊れかけていた。
言葉が整う前に、感情が先に溢れている。
「なんで、こんなことを……」
ローランドは自分の胸を押さえるみたいに手を握りしめ、それでもアランの手首を離せないまま、息を吸い直した。
その呼吸に、決意のようなものが混じるのがわかった。
遅すぎる決意。言ってはいけない言葉を言う覚悟。
「……今でも、あなたが大好きです」
一瞬、世界が無音になった。
「ずっと……僕の中には、あなたしかいない」
アランの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
それはきっと、ずっと守ってきた「妻」としての形だった。
ブラック家の正妻であること、母であること、礼儀正しくあること。
それらを鎧にして、なんとか息をしてきた。
けれどその鎧が、たった今、古い鍵みたいな言葉に触れただけで、粉になる。
残ったのは、若い日の自分だった。
彼だけを見て、彼だけに触れて、彼だけの未来を信じていた頃の――翡翠の瞳の少女。
「……だめ……」
声にならない声が漏れた。
止めるはずの言葉が、止められない。
アランは一歩、そしてもう一歩、ローランドに近づいた。
手首を掴む指がほどけるより早く、彼の胸に飛び込んでしまった。
衝撃はない。
ただ、懐かしい温度が、身体の芯まで染み込む。
肩に額が当たる。
ローランドの腕が迷いながらも回って、アランを抱き締めた。
その抱擁は、思い出の通りだった。
優しくて、丁寧で、壊れものを扱うみたいに慎重で――それが余計に、涙を加速させた。
「……ローランド……」
呼んだ瞬間、喉の奥がさらに熱くなり、声が震えた。
彼の胸元から漂う匂いも、息のリズムも、指先の温度も、全部が知っているものなのに。
知っているからこそ、もう戻れないと突きつけられる。
アランは必死に息を吸った。
けれど吸うたびに、胸の中の痛みが増える。
ここで自分たちは、たくさんの思い出を重ねた。
彼に恋をして、彼と共に大人になって、彼が自分の世界の全てだった。
それを、もう二度と叶わないものとしてしまい込んだはずだったのに。
それでも身体は覚えている。
抱き締められると、安心してしまう。
泣いてしまう。
弱くなる。
ただの人間に戻ってしまう。
ローランドの腕の中で、アランは震えながら、嗚咽を噛み殺そうとした。
けれど無理だった。
背中を撫でられるたびに、涙が勝手に溢れた。
まるで、堪えてきた年月の分だけ、今ここで泣かされているみたいに。
「……ごめんなさい」
ローランドが耳元で囁いた。
謝罪の言葉は小さく、けれど心臓に直接触れるように痛かった。
アランは首を振った。
違う。謝らないで。
今さら優しくしないで。
言葉にできない感情が喉で絡まって、結局、ただ彼の胸に頬を押しつけるしかできない。
窓から差す光が、床の上で揺れていた。
机の角、古いインク染み、整えられた本棚。
すべてが過去を知っている。
この部屋だけが、若き日の世界のまま残っている。
だからこそ、抱き締められるほどに、アランは思い知る。
――ここから先へは、もう二人では進めないのだと。
それでも、今だけは。
今だけは、離れたくなかった。
アランはローランドの胸に縋りながら、涙に濡れた声で、幼い頃の自分みたいに呟いた。
「……遅いです……」
それは責めではなく、悲鳴だった。
叶わなかった未来の、最後の残響。
ローランドの腕がきつくなる。
息が詰まるほど抱き締められて、アランはまた泣いた。
懐かしい温度に、余計に――どうしようもなく、涙が止まらなかった。
数年ぶりだった。
彼に抱かれるということが、こんなにも静かで、こんなにも怖いのだと―― アランは、今さらのように知った。
ローランドの腕は、昔と変わらない。力で囲い込むのではなく、逃げ道を残したまま、丁寧に輪を作っていく。触れる指先の温度すら、問いかけの形をしていた。苦しくないか。寒くないか。息はできているか。
その気遣いが、優しさであるはずなのに、胸の奥をきりりと痛めた。なぜなら、その優しさが、かつて自分が「当たり前」だと思っていたものだからだ。
何かを奪い取るような波ではない。
レギュラスの腕の中で知った、抗えない圧のうねりとも違う。
ローランドの時間は、ゆっくりと体の輪郭をなぞり、心の縁を撫で、沈めていく。水面に浮かべていたものを一つずつほどいて、底へ連れていくような――穏やかで、深い、逃げなくていい沈み方だった。
アランは、息を吐くたびに、肩の力が抜けていくのを感じた。
自分がどれほど長い間、どれほど無意識に、固くなって生きてきたのかが分かってしまう。身体の奥に張りついていた警戒が、温もりに溶かされていく。抗おうとしない自分が怖くて、それでも、溺れるみたいに彼に縋った。
窓の外は暗いのに、部屋の中はやわらかな光が残っていた。
机の上の書類の端が微かに揺れ、薬草の乾いた匂いとインクの香りが、記憶の層を剥がしていく。ここは、二人が大人になった部屋だ。手を繋いで、名前を呼んで、未来を語って、馬鹿みたいに笑って――そうして全部を置いてきた場所だ。
その場所で、ローランドはアランを急かさない。
どこまでも誠実に、どこまでも優しく、彼女の返事を待つ。
彼女が少しでも迷えば、その迷いごと抱き留めるように手を止める。まるで、「やめる」という選択肢も最初から愛しているみたいに。
その優しさが、天にのぼれるように心地よかった。
同時に、泣きたくなるほど残酷だった。
こんなふうに大切にされるたび、アランは思い知ってしまうのだ。自分が本当は、何を望んでいたのか。誰の腕の中で、どんなふうに呼吸をしたかったのか。
熱が、胸の奥から静かに満ちていく。
声にするつもりなどなかったのに、言葉は勝手に唇から零れた。
「……愛してる」
あまりに自然で、あまりに無防備で。
自分でも驚くほど、澱みのない言葉だった。
レギュラスの前では一度も呟けなかった、呟くべきではないと押し込めてきた言葉が――ローランドの前では、呼吸と同じくらい簡単にほどけてしまう。
ローランドの腕が、わずかに震えた。
そして、耳元に落とされる声は、昔と同じ丁寧さのまま、今は壊れそうに熱を帯びていた。
「僕もです。……ずっと。ずっと」
その言葉が、胸の奥を直に撫でた。
アランは目を閉じ、彼の胸に頬を寄せる。心臓の鼓動が、掌の下で規則正しく鳴っている。懐かしい音だった。自分が世界の中心だと錯覚していた頃の、あの安心の音。
ローランドは、優しく、けれど逃がさない強さでアランを抱き締めた。
急かさないまま、離さない。
大切にするまま、手放さない。
アランは、今だけは考えないことを選んだ。
帰る場所のことも、名前の重さも、背徳の輪郭も。
ただ、目の前の温もりに身を委ねる。胸の奥に溜め込んできたものを、息と一緒に少しずつ吐き出していく。
幸福は、鋭い刃にも似ていた。
甘いのに痛い。痛いのに、止められない。
「……ローランド……」
呼びかける声が震えると、ローランドは短く息を吸い、まるで祈るみたいに額を寄せてきた。
「急がなくていいんです、アラン。……今日は、ただ……ここにいてください」
その言葉だけで、アランの喉が詰まった。
返事の代わりに、彼の胸元をぎゅっと掴む。
縋る指先に、ローランドはそっと口づけるような仕草で応え、もう一度、同じ言葉を落とした。
「愛しています」
静かで、確かな声だった。
その確かさが、アランの中の何かを決定的に崩した。
もう一度、言葉が溢れる。今度は、祈りのように。
「……愛してる。ずっと……」
ローランドの腕が、さらに強くなる。
二人の呼吸が重なって、部屋の空気がゆっくりと温まっていく。
外の世界が遠くなり、記憶と現実の境目が溶ける。
その夜、アランは久しぶりに――「選べる優しさ」の中で、心ごと沈んだ。
甘く、苦しく、そして、あまりにも気持ちのいい時間の底で。
ブラック家の屋敷に戻った瞬間、空気が変わった。
門をくぐると同時に、馬車の揺れでほどけかけていた心が、再びきちんと“形”を取り戻していく。廊下に敷かれた絨毯の厚み、蝋燭の火の匂い、静かな足音――この屋敷は、いつだって感情を許さない。アランは自分の呼吸を、わずかに浅く整えた。
何もなかった顔。
何も、起きていない顔。
それを作らなければと身構えたはずなのに、不思議なほど自然に、それができた。
身体のどこかが熱を持っているのに、表情は崩れない。むしろ、アルタイルの母として日々していることと同じように、穏やかな動作が勝手に出る。玄関で外套を受け取り、手袋を外し、使用人に短く礼を言う。声の調子まで、あまりに整っていて、アラン自身が一瞬だけ戸惑うほどだった。
「お帰りなさいませ」
誰かの声が背中に落ちる。アランは微笑み、頷いて返す。廊下の先、乳母の部屋からは小さな寝息が聞こえた気がした。アルタイルが眠っている――その事実だけが、胸の奥に薄い膜を張ってくれる。
寝室に入ると、さらに静けさが濃くなる。扉が閉まる音が、やけに大きかった。
レギュラスはローブの前を外しながら、いつものように何でもない所作で室内を横切った。濃い影をまとった背中が、燭台の光に縁取られる。あの人の部屋に戻ってきたのだ、と視界がはっきり認識するまでにほんの瞬きほどかかった。
アランは自然に手を伸ばした。
差し出されたローブを受け取る。布地の重みが掌に沈み、指先に微かな温度が残る。まるで、それが“帰属”の証のようで、背筋が冷える。けれど手は止まらない。止めれば、目が向く。目が向けば、見抜かれる。
ローブを丁寧に畳み、椅子の背に掛ける。次に、彼がカフスに指をかけたのを見て、アランは一歩寄った。
「……こちらを」
ネクタイの結び目に指を添える。硬い布がほどけていく感触は、奇妙なくらい慣れていた。以前は、この距離に息が詰まった。けれど今は、呼吸が乱れない。乱れないことが、かえって怖い。
レギュラスは、カフスを外す手を止めずに、横目だけでアランを見た。灰色の瞳が、燭火の下で薄く光る。
「機嫌が良さそうですね」
その一言は、柔らかい声で作られているのに、針が入っていた。褒め言葉の形をした確認。アランは結び目をほどき切った指先を、ほんの一拍遅らせて離す。遅らせたのは、動揺を隠すためではない。呼吸の調子を、いつもの“母の顔”へ戻すためだった。
「父の研究は、もう佳境に入っていますので」
口から出た声は滑らかで、上品に整っていた。自分で自分の声が他人のもののように聞こえて、アランは内側だけで唇を噛みたくなる。噛まない。噛めない。噛む必要のない顔を、作れるからだ。
レギュラスの口元がわずかに緩む。満足の形だ。権力者のそれではなく、所有者のそれに近い。
「それを聞いて、僕も嬉しく思いますよ。魔法省側の認可は即下ろしますので、ご安心を」
“即”という言葉が、軽いのに重い。彼の手の中で、認可も許可も、紙切れのように動くのだと改めて突きつけられる。アランは、頭を下げる角度まで丁寧に計った。
「心強い限りです」
礼儀正しさが、盾になる。
礼儀正しさが、檻にもなる。
レギュラスはシャツの袖を整え、外したカフスを掌で転がした。金属が小さく鳴る。その音が、部屋の静けさに刺さる。アランは、ネクタイを畳みながら、その音を聞いていた。耳が冴えすぎている。何でもない音に、意味を与えたくないのに、身体が勝手に拾ってしまう。
「今日、随分と落ち着いている」
レギュラスの声が背後に落ちる。近い。振り返る前に、肩に影がかかる。アランは、ネクタイを引き出しに収める所作を崩さず、そっと振り返った。目を合わせることも、避けない。避けない方が安全だと、もう学んでいる。
「アルタイルが……今日は機嫌が良かったので」
咄嗟に出た言葉は、嘘でも真実でもあった。アルタイルの名を口にすると、レギュラスの視線が一瞬だけ柔らかくなる。そこに逃げ道がある。母の顔を持ち出すことで、あらゆる質問が“家庭”の話に変わる。アランはそのことを、言葉ではなく皮膚で理解していた。
レギュラスは、アランの顎に指先を添えるでもなく、ただ距離を詰めた。視線が、目元から唇へ落ちる。触れないのに触れられているような、あの独特の圧が戻ってくる。
「そう。……なら、なおさらいい」
優しい言い方だった。けれど、優しさはいつも彼の側の都合で形を変える。アランは微笑みを崩さないまま、静かに息を吸い直した。胸の奥に残る熱や、さっきまで別の温度に
寝室の灯りは、いつもより柔らかく見えた。
それは照明のせいだけではない。アランの内側が、今夜だけは“形”を作っていたからだ。
戻ってきた屋敷の空気も、レギュラスの指先の気配も、どれも知っている。知っているからこそ、誤魔化し方も知ってしまっている。妻として、正しい仕草で、正しい距離で、正しい顔で――望まれるままに整えて差し出す。そうすれば、疑いは生まれにくい。
拒む理由など、最初から持っていない。
夫の望むことを拒むほうが不自然で、危うい。特に、彼が望むのであればなおさら。
何も思うところがないわけじゃない。むしろ、思うところだらけだ。
それでもアランは、今夜の自分を“妻らしく”仕立て上げた。頬に微笑みを乗せ、視線の高さを整え、息の乱れさえ計算して――最大限の演技を仕込む。
レギュラスは、その変化をすぐに嗅ぎ取る。
「今日は随分、可愛いですね」
機嫌良さげに告げられたその声に、アランの胸の奥がほどけそうになる。
穏やかだ。落ち着いている。どこにも、疑いの目を向けていない――少なくとも、そう聞こえる。そう見える。だからこそ、今夜は息ができた。
「……そうですか」
わざとらしくならない程度に、少しだけ笑う。
自分で作った笑みが、ぎりぎりで“自然”に見える角度を知っていることが、少しだけ悲しかった。
レギュラスが近づく。距離が詰まるたび、空気が重くなるのに、今夜のアランは崩れない。崩れないように、崩れない筋肉の使い方で立っている。彼の目に映る自分が、正しく整っているのを、胸の奥で確かめるように。
そして、触れられる。
指先が頬を掬い、視線が確かめるように落ちる。これから先が分かり切っているのに、アランは身を引かない。引けないのではなく、引かないことを選ぶ。選ぶことにした、と自分に言い聞かせる。
唇が重なる。
深く沈められるようなものではなく、今は優しく触れるだけの口付けが、いくつも落ちてくる。まるで確認するみたいに。まるで、褒美を与えるみたいに。
その合間に、レギュラスが囁く。
「そんなに良かったです?」
普段なら――この問いは嫌いだった。
何がいいのか。どこがいいのか。どう言えば正解なのか。
問われるたび、羞恥と屈辱が同時に湧き上がり、心のどこかが擦り切れていく。答えを出せば負ける気がして、黙れば追い詰められる。いつもの夜は、そういう綱引きだった。
けれど今日は、違う。違うふりができる。
アランは、微笑んで返した。
唇の端をほんの少しだけ上げる――“妻の余裕”の形を借りて。
「ええ。すごく」
短い言葉なのに、レギュラスの目が緩む。
その瞬間、アランはほっとしてしまった。胸の奥の硬い塊が、ほんの僅かだけ溶ける。疑われていない。疑われていない声だ。疑われていない目だ。今夜はそれだけで、救いになる。
「……そう」
レギュラスは微笑む。
勝者の笑みではなく、満たされて機嫌が良い男の笑み――そう見える微笑みを、丁寧に貼り付けるのが上手い。
「いい子ですね、アラン」
その言い方が、優しいようでいて、どこまでも所有の言葉だと分かっている。分かっているのに、アランは否定しない。否定しないほうが、今日の自分には楽だった。楽であってしまうことが、怖かった。
レギュラスの手が、アランの指を取る。
指先を撫で、腕を引き、寝台へと導く。その導き方が“当然”の顔をしているから、アランもまた“当然”の顔で従う。寝台の縁に触れ、シーツの冷たさが肌に移り、すぐに体温が塗り替えていく。
灯りの中で、レギュラスの横顔が穏やかに見える。
その穏やかさが本物かどうかを考えるのを、アランはやめた。考えた瞬間、どこかが崩れる気がする。
だから、今夜はただ“妻”として、与えられるものを受け取った。
応えるべきところで頷き、求められたところで微笑み、触れられたところで目を閉じる。心は遠くに置いたまま、身体と表情だけをこの部屋に残す。――そんなやり方が、いつの間にか上手くなっている。
レギュラスは、その上手さに満足しているのだろう。
少し嬉しそうに、何度も優しい口付けを落としてくる。触れては離れ、離れてはまた触れる。甘やかすみたいに、餌付けするみたいに。
「本当に……今日は可愛い」
もう一度言われたとき、アランは思った。
この一言で、彼は“疑い”よりも“満足”を選んでくれている――そう見える。だからアランは、息を吐くように、淡く頷いてしまう。
その頷きの小ささまで、レギュラスは見逃さない。
見逃さないまま、咎めず、今夜はただ満たされる方へ流れていく。
寝室の灯りが揺れる。
屋敷のどこかで時計が時を刻む。遠い廊下の静けさが、夜の厚みを増していく。
そしてアランは、最後まで崩さなかった。
崩さないことで守れたものが、確かにあった。
――守れたものが何なのか、朝になっても自分で分からないままでも。
夜明けは、いつもより遅く、厚い布で覆われているように感じられた。
窓辺のカーテンの隙間から差し込む光は確かに朝の色なのに、寝台の上に落ちるそれは柔らかすぎて、輪郭というものを持っていない。
アランは目を開けたまま、起き上がれなかった。
起き上がれない――というより、起き上がる理由を、身体がうまく見つけられない。瞼が重い。四肢が鉛のようにだるい。昨夜の余韻が、肌のあちこちに薄い膜のように残っていて、触れれば破れてしまいそうで触れたくない。呼吸をするたびに、胸の奥に何かが沈んでいく。
たった一日のうちに、二度。
違う男の体温が、違う気配が、違う言葉が――重なってしまったせいだと、理屈では分かっている。けれど理屈を立てた瞬間、胸の底から冷たいものが湧いてくる。罪悪感というほど明確な形にはならない。ただ、重い。鈍い。寝返りを打つだけで、心が遅れてついてくる。
「……起きないと」
口にしてみても、声はかすれて、寝室の空気に溶けた。
結局アランは、枕に頬を沈めたまま、ほんの少し目を閉じる。閉じた瞬間に眠りに落ちてしまいそうで、怖いのに。眠ってしまえば、思い出さなくて済むことが増えるのが分かっているのに。
扉が、静かに開く音がした。
屋敷の朝はいつだって整っている。足音も、衣擦れも、必要以上に響かないように躾けられている。その整い方が、今のアランにはありがたくもあり、息苦しくもあった。
次いで、柔らかな重みが近づいてくる。
抱き上げられた小さな命の気配――アルタイルの、まだ乳の匂いがする温かさ。
レギュラスの声が、朝の空気を切り裂かないまま、ふわりと落ちてきた。
「おはようございます、アラン」
いつもと変わらない、穏やかな音色。
その穏やかさに、アランは喉がきゅ、と縮むのを感じた。昨夜の何もかもが嘘のように、彼は“朝”を運んでくる。まるで当たり前みたいに。
レギュラスは笑いながら、アルタイルを少し持ち上げて見せる。赤子は機嫌よく、小さな指を宙にさまよわせた。
「ほら、アルタイル。お母様は眠たいそうですよ」
その言い方が、冗談めいているのに妙に優しい。
幼い子に語りかける声は、鋭さを隠すのが上手い男の、別の顔だった。
アランはようやく上体を起こそうとして、失敗した。
身体が笑ってしまうほど言うことを聞かない。腹の底から力が抜けて、寝台に押し戻される。情けない、と感じるより先に、眠気が勝つ。
「……すみません」
かろうじて出した言葉は、謝罪の形をしていた。
謝るべきことが何なのか分からないのに、謝ってしまう。そうするほうが安全だと、身体が覚えている。
レギュラスは枕元に腰掛け、アルタイルを片腕に抱いたまま、アランの顔を覗き込んだ。
その視線が、翡翠の瞳に触れる。触れた瞬間に、胸の奥がひやりとする。見透かされるのではないかという怖さが、反射みたいに走る。
けれどレギュラスは、笑った。機嫌が良さげな笑みだった。
昨日の夜の延長線上にあるような、どこか満ち足りた色。
「昨日のあなたが可愛すぎましたから。無理をさせたのかもしれませんね」
歯が浮くような台詞だった。
劇の台本みたいに滑らかで、恥ずかしいほど真っ直ぐで、それを平然と口にできるところが――この男の恐ろしさでもある。
アランは息を飲みそうになり、代わりに唇の端をゆっくり上げた。
微笑む。いつものように。いつもの形で。いつもの速度で。
そうすることで、何もかもが正しい場所に、正しい形で収まっていく気がした。
妻は微笑み、夫は満足し、子は温かい腕の中にいる。屋敷は静かで、朝は整っている。そこに余計な揺らぎを持ち込まないことが、今の自分にできる唯一の防衛だ。
「……レギュラス、そんな……」
言葉は続かなかった。続ければ、余計なものが滲み出る。
アランは微笑みのまま視線を伏せ、アルタイルに目を向けた。赤子は何も知らない顔で、母のほうへ手を伸ばしている。その小さな指先が、あまりにも無垢で、胸が痛む。
レギュラスはその様子を見て、少しだけ声を落とした。
「抱きます?」
問いかけは柔らかい。けれど、“断る理由”を薄く削ぐような、いつもの癖が混じっている。
アランは頷こうとして、また眠気に引かれた。うまく動かない身体に苛立ちかけて、しかし――苛立つ気力さえない。
「……はい。少しだけ」
やっとのことで言う。
その返事が出た瞬間、レギュラスの表情が、微細に満足の形へ整うのが分かった。分かってしまうのが、怖い。
アルタイルが、アランの胸元へそっと渡される。
温かい重みが腕の内側に収まった途端、胸のどこかがふっと緩んだ。守るべきものの輪郭だけが、はっきりする。――守るべきものがあるから、笑える。笑わなければならない。
アランはアルタイルの額に頬を寄せる。
乳の匂いと、眠りの匂いと、生命の匂い。そこには嘘がない。昨日の夜がどれほど歪でも、どれほど取り返しがつかなくても、この子だけは、現実として腕の中にいる。
レギュラスが、アランの髪を軽く梳いた。指先の動きが、驚くほど丁寧だ。
まるで慈しんでいるみたいに。――慈しんでいるのだろう。自分のものとして。
「今日は、無理をしないで。……と言いたいところですが」
そこでわざと間を置く。
アランの呼吸が、無意識に浅くなる。
レギュラスは笑みを崩さないまま、続けた。
「あなたが起きるまで、こちらは待てます。ね、アルタイル」
赤子に語りかける形を取って、結局アランに刺す。
そのやり方が、彼らしい。朝から容赦がないのに、声はどこまでも穏やかだ。
アランは微笑みを崩さずに、目を伏せた。
崩さないことが、今日の自分を守る。崩した瞬間に、昨日という一日が、たちまちこの寝室にまで流れ込んでくる気がした。
「……ありがとうございます」
礼儀正しい言葉が、するりと出る。
それが正しい場所に収まるための言葉だと分かっていながら。
レギュラスは、その返答を受け取って満足したように、もう一度だけアランを見た。
翡翠の瞳が自分を映す――それだけで、彼は勝利を確信できるのだろう。
アランはその視線の重さを、笑みで包み、アルタイルの温かさで押し留めた。
起き上がれない朝は、ただ眠いだけではない。
崩れないために、眠りが必要だった。
魔法省の役員室は、昼の喧噪が引いたあとの潮がまだ残っていた。
羊皮紙の匂い、インクの渋み、封蝋の甘い煙。窓の外では、雲が低く流れている。世界は忙しく動いているのに、この部屋だけが別の時間の膜で覆われているようだった。
机の上には、祝福のカードがまた増えていた。
金箔の縁取り、家紋の浮き彫り、やけに丁寧な万年筆の筆圧。祝辞の文面はどれも似たり寄ったりで、けれど自分の名と「ブラック家」と「跡取り」を繰り返し飾り立てるたび、そこに確かに現実があるのだと突きつけてくる。
それなのに。
今日の記憶が、呼吸のたびに戻ってくる。
あの強情な女が――あの、こちらの言葉を受けても受けても、決して中心を渡さなかった女が。
昨夜は、驚くほどに素直で、驚くほどに可愛らしかった。
思い出の輪郭は、必要以上に鮮明だった。
手触りの熱、ふと緩む肩、言葉の端を噛みしめる癖。こちらが問いを投げる前に、ほんのわずかに頷いてしまう、そのタイミングの遅れさえ愛おしい。
――あれが、演技だったとしても。
否、と自分の内側が笑う。演技の巧拙ではない。こちらが欲しいのは“正解”ではなく、“崩れた瞬間”だ。自分のために、ほんの少し理性がほどけたという事実。それだけで十分なのだ。
口元が勝手に緩む。
自覚して、指先で唇の端を押さえた。だが、抑えたところで、目尻に残るものまで消せはしない。
「……眠いのか、笑うのか、どちらかにしてください」
乾いた声が、紙の山を切って飛んできた。
視線を上げると、バーテミウスが、椅子にだらしなく腰を預けたままこちらを見ている。いつも通りの軽さ。いつも通りの、不躾な観察者の目。
自分は肩をすくめるように笑い、カードを一枚指で弾いた。紙が、かすかな音を立てて跳ねる。
「失礼。どちらに見えました?」
「両方です。しかも最悪な割合で」
「人聞きが悪いですね、あなたは」
バーテミウスは鼻で笑い、視線を祝福の束に落とした。
そして、愉快そうに言う。
「無事に折れる方が折れておさまったようで。安心しましたよ、レギュラス」
その呼び名が耳に触れた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
――折れた、という言葉が。
まるでこちらが何かを奪い取っただけのようで、まるであの女が負けたまま終わっただけのようで。そんな単純な話にしてほしくない、と、反射的に思ってしまう。
だが反論は、出てこなかった。
返す言葉を探すより先に、昨夜の“声のない肯定”が、脈の裏で跳ねたからだ。
自分は紙束を整え直しながら、淡く息を吐いた。
インクの匂いの中に、ふと、肌の記憶が混じる。バーテミウスの軽口に、苛立つべきなのに、苛立てない。むしろ、内側が満たされている。
「皮肉ですか?」
「祝福ですよ。……怖いくらい、あなたの思い通りですね」
その言葉に、自分の指先が一瞬だけ止まる。
思い通り――たしかに、そうだ。
美しい妻。望み通りの息子。家の歓喜。世間の称賛。役員としての座。
積み上がる書類すら、思い通りに裁ける。
だが、あの女の心だけは。
いつだって、ほんの一枚、薄い硝子みたいにこちらの手をすり抜ける。
だからこそ昨夜の一滴が甘い。
甘すぎて、頭が酔う。
たった一晩で崩れたわけではない。積み上げた日々が、ようやく形になった――そう思えば、なおさら笑みが止まらない。
自分はわざとペン先を整え、書類に目を落とすふりをした。
だが視界の端で、バーテミウスが呆れたように首を振る。
「返さないんですか?」
「何をです?」
「いつもの“口の刃”。今日はやけに大人しい」
言われて初めて、自分が黙っていることに気づいた。
皮肉を返す気力がないのではない。返してしまうと、この満ち足りた温度に亀裂が入る気がした。
自分は紙の端を揃えたまま、静かに言った。
「……今は、余計な言葉で崩したくないだけです」
その瞬間、バーテミウスの表情が、ほんの少しだけ柔らぐ。
笑うというより、わずかに目を細める。長年の右腕の顔だ。
「ふうん。つまり、本当に可愛かった、と」
「あなた、余計なことしか言いませんね」
「仕事ですから」
自分は短く息を吐いて、机上のカードを一枚選び、封を切った。
中の文字は端正で、無駄に美しい筆致で祝辞が並んでいる。
それを読みながら――ふと、あの女の、昨夜の微笑みが浮かぶ。
あれほど強情で、あれほど冷静で。
こちらの問いに、いつも「わかりません」と言って逃げ道を残すくせに。
昨夜は、逃げ道の作り方が、少しだけ不器用だった。
その不器用さが、堪らなかった。
「……レギュラス?」
バーテミウスが名を呼ぶ。
自分は視線を上げ、微笑みだけで応えた。言葉を返す必要がないと、今は思えた。
机の上の祝福の山は、魔法界そのものみたいに眩しい。
だが本当に欲しいのは、紙の上の祝辞ではない。
昨夜のように、何もかもが整って見える朝ではなく。
ほんの少しだけ乱れた、あの女の息遣いと、あの瞳の揺れ。
自分を映してしまった翡翠色の一瞬――それだけで、世界が確かに自分の側に傾く。
自分はまた、笑ってしまいそうになり、ペンを取り直した。
書類に目を落としながら、心の中でひとつだけ確信する。
――折れたのではない。
折らせたのでもない。
ただ、自分の腕の中で“こちらの名を選んだ”。
それがどれほどの意味を持つのかを、あの女はまだ知らない。
