2章
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朝、目を開けた瞬間にまず触れたのは、冷えた空気だった。
寝台の隣が、空っぽだ。
シーツは丁寧に伸ばされ、枕の窪みも、体温の名残も、まるで最初から誰もいなかったように消されている。夜に残るべきものが一つもない。――それが、ひどく癪に障った。
昨晩。
あの細い体を腕の中に閉じ込め、息が乱れるたびに名を呼ばせた。拒めない角度へ導き、逃げ道を奪い、最後には屈服の形を作り上げた。
なのに。朝には、いない。
「……ふざけるな」
声に出すつもりなどなかったのに、喉の奥で言葉が擦れて落ちた。
いつ起きたのかもわからないほど、音も気配も残さず、この部屋から出ていった――それがいちばん腹立たしい。わざとだ。そういう芸当ができる女だと知っている。
自分の腕の中で、どれほど激しく崩れたとしても。
翌朝には、何事もなかったように“元の場所”へ戻る。
それはまるで、心は決して屈服していないと宣言しているようだった。
弱いくせに。
弱いからこそ、強く装う。
愛されているという事実に胡座をかき、女であることを盾にして、どうせ本気で潰されることはないとでも思っているのか――問うてやりたい衝動が胸を突き上げた。
調子に乗るのも大概にしろ。
人の神経を、ここまで丁寧に逆撫でしてくるな。
寝台の縁に手をつき、起き上がる。絹の寝間着の裾が擦れて音を立てた。立ち上がっただけで床の冷たさが足裏から伝わり、眠りの残滓を無理やり剥がされていく。
視線が、無意識に枕元を探した。――いない。
腹の底に、黒いものが沈殿する。
衣を整え、階段へ向かう。
屋敷はいつもと変わらない。磨かれた床、整えられた花、静謐な気配。使用人が遠くで控える足音さえ、過不足なく穏やかだ。
その完璧さが、今朝はやけに鼻についた。世界だけが平然としている。自分の内側の荒れ模様など、屋敷は何一つ気にしていない。
一階へ降りた瞬間、柔らかな声が耳に入った。
乳母の手から受け取られた小さな体。アルタイルの丸い頬。眠そうに瞬く瞳。そこに添えられる白い指。
そして――その横に、あの女がいる。
アランは淡い朝の光をまとっていた。
髪はきちんとまとめられ、昨夜の名残など一欠片も感じさせない。頬の血色も整っていて、目元も穏やかで、まるで絵画の中の人物のように完成している。
昨夜、自分の腕の中で乱れた体温も、涙の膜も、息の切れ方も、全てが嘘だったかのように。
「おはようございます」
白々しいほど礼儀正しい挨拶だった。
角のない声。崩さない微笑み。視線はまっすぐ――けれど、どこかこちらの熱を受け止めない薄さがある。
その薄さが、火に油を注いだ。
苛立ちが、胸の内側からじりじりと燃え上がる。
返事を返すという行為すら、与えたくなかった。
無視した。
わざとだと自分でもわかるほど露骨に、視線だけを外して通り過ぎる。
なのにアランは、何もなかったかのように瞬きをして、すぐにアルタイルへ向き直った。
それが、また腹立たしい。
アランの口元が、柔らかくほどける。
「アルタイル、ほら。見ていてくださいね」
甘い言葉を、息を吹きかけるように子へ落とす。自分に向けるよりはるかに温い声音。
指先に小さな光を灯し、くるりと回す。翡翠色にも見える淡い魔法の粒が、蝶の形に整ってふわりと舞った。
アルタイルはきゃ、と声にならない歓声を上げ、小さな手を伸ばす。蝶は指先に触れる寸前で光の花弁になって散り、また新しい蝶へと生まれ変わる。
童話の挿絵のような光景。理想的な母親の振る舞い。過不足のない優しさ。
そこには一切の乱れがない。昨夜の“妻”ではなく、今朝の“母”として完璧に存在している。
――逃げ道を作っている。
母という役割の中に逃げ込めば、こちらの苛立ちも、問いも、昨夜のことも、全部薄められると知っている。
アルタイルが笑い、乳母が微笑み、使用人たちが息を殺して見守る。
屋敷の空気は穏やかで、祝福のようにあたたかい。
その中で、一人だけが冷えている。冷えて、硬くて、苛立っている。
それが自分だ。
アランは、一度もこちらを見ない。
見ないまま、完璧に振る舞う。
その完璧さが、昨夜の屈服をまるでなかったことにするようで、喉の奥が苦くなる。
昨夜は――確かに、掌の中だった。
呼ばせた。縋らせた。震えさせた。
それなのに、朝には、いない。痕跡を残さず、何も感じさせず、何食わぬ顔で階下にいて、子にだけ微笑む。
それは勝ち負けで言えば、勝っているはずなのに。
勝っているはずなのに、負けた気分にさせられる。
胸の奥で、ねじれた感情が絡み合う。
愛しているからこそ苛立つ。
苛立つからこそ、愛していることが目立ってしまう。
目立つものを、隠したくなる。隠すために、冷たくなる。冷たくなればなるほど、相手はさらに完璧に距離を取る。
――悪循環だ。
その輪を、断ち切る方法は一つしかない。
あの要塞みたいな柔らかい顔を、母の仮面ごと引き剥がすこと。
こちらを見ないでいられない状況に追い込むこと。
無表情で息を整えていられないほどに、揺さぶること。
アランが、アルタイルの額に口づける。
慈しみの証。優しい儀式。
その瞬間、胸の底で何かが“決まる”音がした。
今朝のこの無視は序章に過ぎない。
この女が、昨夜の名残を消して平然と朝を迎えるのなら。
こちらもまた、消してやる。
余裕というものを。
仮面というものを。
母という安全圏というものを。
光の蝶に向かって笑う翡翠の瞳を、必ず自分へ向けさせる。
その勝利を確信するために。
そして――その勝利でさえ満足できない自分が、どこまで貪欲かを、この女に思い知らせるために。
朝食卓は、いつもより広く感じた。
椅子と椅子の間の距離は変わらないはずなのに、空気だけがやけに張り詰めていて、呼吸のたびに胸の内側がひりつく。
レギュラスが苛立っているのは、もう感じている。
視線の刺さり方、グラスを置く音の硬さ、言葉を削ぎ落とした沈黙――どれも「機嫌がいい」とは言えない。
けれどアランは、そこに手を伸ばさなかった。気づいていないふりをした。無視する、という選択をとった。
昨夜。
確かに、自分は彼の腕の中で沈んでいった。逃げ場を失い、与えられるままに受け取って、何度も名を呼ばされた。
その響きは耳の奥にまだ残っていて、思い出すだけで身体のどこかが勝手に反応しそうになる。
――けれど、夜は夜だ。
朝に持ち込むものではない。
あんなものに屈服するつもりはない。屈服したと思われたくない。
だから、今朝は“母”の顔でいる。母である限り、ここには正しさがある。逃げ道ではなく、理由がある。
アランの膝の上にはアルタイルがいる。
最近ようやく固形のものを口にできるようになってきたばかりで、銀の小さな匙を近づけると、目を丸くして嬉しそうに口を開ける。
「アルタイル、いい子ですね。噛んで、ゆっくり」
口の端を拭ってやりながら、何度も声をかける。
「おいしい? ほら、もうひと口」
小さな舌がもごもご動き、思い切り頷く仕草が愛らしくて、胸の奥がわずかにほどける。
息子の愛らしさだけが救いだった。
この卓の上にある地獄みたいな空気を、唯一中和できるものがアルタイルの体温だけだ。
レギュラスは、対面に座っている。
薄く笑っているようで、笑っていない。
こちらが息子に向ける柔らかさを、無表情のまま見ている。
その視線が何を求めているのか、わからないふりをして、アランは匙を動かし続けた。
オリオンとヴァルブルガはまだ降りてこない。
いつもなら、この時間には気配があるのに――今朝は遅い。
もし両親が降りてくれば、レギュラスはこの苛立ちを引っ込めるだろうか。少なくとも、形だけは整えるだろうか。
そう思って、アランは言葉を差し出した。助けを求めたわけではない。空気を少しでも動かしたかっただけだ。
「……もう時期、オリオン様たちが起きていらっしゃいますよ」
レギュラスは、こちらを見もしないで返した。
「だからなんです?」
匙を持つ指が一瞬だけ止まりそうになるのを、アランは必死に押し殺した。
息子の口元を拭い、あくまで穏やかに、平坦に返す。
「あなたがいいなら、いいのです」
“あなたがいいなら”――その言葉は譲歩でも慰めでもなく、ただの事実の提示だった。
自分には、どうしようもない。
あなたがそれでいいなら、それで構わない。
それだけのはずなのに。
レギュラスの眼差しがわずかに細くなる。
次の瞬間、小さな舌打ちが、皿の縁を叩く音よりも鋭く届いた。
ちり、と耳の奥が痛む。
アランは息を吸って、吐いた。
無視した。聞こえなかったことにした。
アルタイルの頬を指でつついて、笑うふりをする。
「ふふ、付いちゃいましたね。ここ。――拭きましょうね」
アルタイルはきゃっと笑い、アランの指に小さな手を絡める。
その感触が、今は命綱みたいだった。
レギュラスの苛立ちは、机の上に落ちる影みたいに濃くなる。
彼は何も言わない。
言わないまま、圧だけが増えていく。
昨夜、名を呼ばせた口で、今は一言も余計なことを言わない。その沈黙が、まるで「逃がさない」と告げてくる。
アランは、息子に向けて言葉を尽くし続ける。
この卓の上に、会話の線を一本でも通しておかなければ、窒息しそうだった。
「アルタイル、えらいですね。ちゃんと飲み込めてる」
「もう一口いきましょう。……うん、いい子」
どこまでも丁寧に。どこまでも穏やかに。
この朝を“普通”に見せるために。
夜の余韻など、ここにはないと言い聞かせるために。
でも、わかっている。
この地獄は、まだ始まったばかりだ。
両親が降りてこない時間が伸びるほど、逃げ場はなくなる。
息子の笑い声だけが、薄いガラスみたいな平穏を支えている。
そのガラスがいつ割れるのか―― アランは、匙を動かしながらずっと数えていた。
魔法省の役員室は、いつもと変わらないはずだった。
高い天井、磨き上げられた木の机、硝子越しに差し込む淡い光。外では羽根ペンの擦れる音や、廊下を行き交う靴音が、規則正しい鼓動のように遠く響いている。
けれど、室内の空気だけが落ち着かなかった。
紙の束を整え、署名を重ね、承認印を押し――それらは身体が覚えている作業のはずなのに、指先がいつもより僅かに荒い。角が揃わない。筆跡が硬い。
その程度の乱れでさえ、自分の中の苛立ちを暴いてくるようで腹が立った。
「……こちらから折れるのは、癪なんですが」
机の上の書類から目を上げずに、レギュラスは淡々と漏らした。
言葉にした瞬間、余計に輪郭がはっきりする。癪だ。屈するのは嫌いだ。自分が折れる側に回ること自体が、理に反する。
その向かいで、バーテミウスが喉の奥で笑った。椅子に深く腰掛け、さも可笑しそうに肩を揺らす。
「それはもう、世の男が全員思っていることですよ」
軽い調子の冗談――そのはずが、妙に真実味を帯びて刺さる。
レギュラスは口元だけで笑い返しながら、胸の奥に沈む不快を無言で撫で潰した。
そもそもだ。
あの女が、無駄に強情すぎる。
最初からすべてをこちらに差し出し、従順な妻として隣に座っていれば――そのときは、愛して、可愛がって、惜しみなく与えたはずだ。
それは脅しでも見栄でもなく、事実として自分の中にある確信だった。
欲しいものを手に入れたなら、壊す必要はない。守るほうが楽だ。手入れしたほうが美しい。慈しんだほうが、所有はより完成する。
なのに、彼女は中途半端に反発した。
従順になりきれないくせに、反抗者の面だけを、丁寧に磨いて見せてくる。
寝室を別にと線を引き、部屋を要塞のように閉ざし、礼儀と沈黙を盾にして、こちらの手を避ける。
その“なめた真似”が、どれほど自分の神経を逆撫でしたか――あの女は、きっと理解しない。
そして最悪なのは。
理解しないふりをしているのか、本当に理解できないのか、その境界すら曖昧なまま、美しい顔で当然のようにそこに立っていることだった。
傷ついた顔も、怯えた顔も、たまに覗く僅かな棘も。
すべてが、腹立たしく、同じだけ目を離せない。
レギュラスは書類に視線を戻したまま、ペン先を一度だけ持ち替えた。
インクの色が濃く滲む。押し殺した苛立ちが、紙の上に染み出したようで、舌の奥が苦くなる。
「あなたなら折れます?」
不意に投げると、バーテミウスは待ってましたとばかりに片眉を上げた。
笑いを含ませながらも、返事だけはやけに即答だった。
「ええ。僕はもう、すぐに」
軽い。潔い。
その軽さが、さらに癪に障る。――いや、羨ましいのかもしれない。自分の中の頑固さが、そんな単純な道を許さない。
レギュラスは微笑んだ。形だけの、役員の微笑みだ。
けれど内側では、別の感情がせり上がる。苛立ちだけではない。
“折れたら負けだ”という意地と、“折らないから遠ざかる”という現実が、喉元で絡まり合っている。
「あなたは、折れても平気なんですね」
「平気ですよ。――だって折れたほうが、早いじゃないですか」
バーテミウスは肩をすくめる。
その言い方は、妻を持つ男の余裕なのか、それとも元々の性格の薄情さなのか。どちらにせよ、レギュラスには真似できない。
早い。確かに早い。
けれど、折れるという行為は“自分が譲った”という記録になる。あの女は、それを学習する。
そして次も同じように要塞を築き、こちらが折れて扉を開けるのを待つ――そんな光景が簡単に想像できる。
想像できるからこそ、なおさら癪に障る。
「……あの女に、主導権を覚えさせるのは嫌なんです」
レギュラスは静かに言った。
言いながら、気づく。
主導権の問題だけではない。
もっと単純に、もっと惨めに――自分は、あの女の表情が欲しいのだ。
折れたから見せる表情ではなく、折れなくても滲み出る表情。
“仕方なく”差し出される肯定ではなく、自分を映す翡翠の瞳の、自発的な揺れ。
勝利の形をした、あの女の“負け”が欲しい。
バーテミウスはしばらく黙って、机上の紙束を指先で軽く弾いた。
乾いた音が、やけに明るく響く。
「レギュラス。あなた、折れたくないって言いながら、折れないと落ち着かない顔してますよ」
レギュラスは目を細める。
図星を突くのが上手い男だ。腹が立つほどに。
「……人聞きが悪いですね」
「事実ですから」
笑い合う形を取りながら、室内には妙な静けさが落ちた。
魔法省の喧噪が遠い。時計の針の音がやけに近い。
その沈黙の中で、レギュラスはふと、朝食卓の光景を思い出す。自分の苛立ちを無視して、息子に話しかけ続けるアランの横顔。
白々しいほど整った所作。母の顔という名の盾。
――あれが、腹立たしくてたまらない。
なのに、見たい。
見たいから、追い詰める。
追い詰めるほど、遠ざかる。
その循環を理解しながら、止められない。
ペンを置く。指を組む。
レギュラスは薄く息を吐き、口元に微笑みを貼り直した。
「……折れませんよ。まだ」
「でしょうね」
バーテミウスは、まるで当然だという顔で頷いた。
そして、くすりと笑って、最後の針を刺す。
「折れるのが癪なら――折れたくなるように仕向けてください。あなた、そういうの得意でしょう」
その言葉に、レギュラスの胸の奥で何かがゆっくりと形を変えた。
苛立ちは消えない。
だが、苛立ちの中に、冷たい楽しさが混じる。
折れない。
その代わり、自分のやり方で、扉を開けさせる。
役員室の窓の外で、雲が流れる。
紙の匂いとインクの匂いが、静かに肺を満たした。
レギュラスの指先は、次の署名へ向けて、落ち着かないまま正確に動き始めていた。
夜更けの屋敷は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
灯りの落ちた廊下に、蝋燭の芯だけが細く息をしている。絨毯の上を踏む足音は吸い込まれ、壁の肖像画ですら眠っているように目を閉じていた。
寝室の扉が閉まる音が、やけに硬く響いた。
レギュラスは外套を脱ぎもせず、窓辺の暗がりに立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に刺さったまま抜けない棘が、昼からずっと熱を帯びている。朝の食卓で、あの女は――息子に向ける声だけは柔らかく、夫に向ける礼儀だけは完璧で、そして何もかもを「なかったこと」にする顔をしていた。
寝台の縁に腰を下ろしているアランは、淡い寝衣の上に薄いショールを羽織っている。産後の体は戻ったとはいえ、腕を抱える癖は抜けていない。守るべき場所がそこにあると、身体が覚えてしまっているようだ。
彼女の髪は結わえられ、翡翠の瞳は火の粉のような灯りを映しながらも、どこか遠い。
その遠さが、レギュラスを苛立たせる。
近づく。歩み寄る。いつもなら指先ひとつで彼女は反応をこぼすのに、今夜のアランは、最初から壁を磨いて座っていた。
何も言わない。けれど「差し出すものはない」と、姿勢そのものが告げている。
レギュラスはその前に立ち、影を落とすように屈む。
覗き込む距離で見つめられても、アランは目を逸らさない。逸らさないのに、こちらを受け入れてもいない。
だから、先に言葉を差し込んだ。
命令にしないための、薄い糖衣で包んだ刃を。
「……僕の機嫌をとっていただけません?」
部屋の静けさが、一瞬だけ音を持った気がした。
アランの睫毛がわずかに揺れ、吐息が喉の奥で引っかかる。彼女はその揺れをすぐに隠し、困惑の形だけを整えた。
「……何を望むんです?」
声は静かで、整っていた。
まるで文書の返答だ。必要な言葉だけを選び、余計な体温を落とした返し。わざとそうしているのが、レギュラスにはわかった。
そのわかりやすさが、さらに癇に障る。
レギュラスは笑ってみせた。口元だけで。
目は笑わない。笑えるほどの余裕が、今夜はない。
「欲しいものがあれば言えばいい――みたいな言い方。全然好ましくない。そういう言い方は嫌いです」
一度、言葉で殴る。
相手が痛みを見せるかどうかではなく、相手の呼吸の乱れを確かめるために。
アランは、首を少しだけ傾けた。
怒りもしない。泣きもしない。押し返しもしない。
ただ、薄い壁の向こうでこちらを測っている。
「では……」
彼女は一拍置き、丁寧に言葉を選び直した。
「何を差し出せば、あなたの機嫌を取れますか」
その瞬間、レギュラスの胸に、冷たいものが走った。
“差し出す”。
それは、彼女が最も嫌がるはずの言葉だった。なのに、彼女の口から出た。淡々と。落ち着き払って。
逃げ道を塞ぐどころか、すべてを差し出すふりをして、肝心の心だけは握らせない。
それが、今のアランの戦い方だった。
レギュラスは唇を細くする。
「そういう言い方も嫌いです」
言い捨てた声は、柔らかく整えられているのに、噛み砕く力が含まれていた。
アランは息を呑む。だが、すぐに微笑みの形を作る。――作ってしまう。貴族の娘として、妻として、完璧に“崩れない顔”を。
その微笑みが、玩具のようで、腹立たしい。
レギュラスは指を伸ばし、アランの顎に触れた。
持ち上げるほど強くはない。けれど、逃げられるほど弱くもない。
その中途半端さに、彼女の喉が小さく鳴る。
「アラン」
名を呼ぶだけで、距離が詰まる。
呼吸が一段、浅くなる。
「……そんなに取り引きの言葉を並べたいなら、僕も慣れてますよ」
魔法省の役員室で、何度も何度も繰り返してきた調子。
相手の“正しさ”を肯定しながら、望む地点へ導く、あの言い回し。
レギュラスは顎から指を離し、彼女の肩に手を置いた。
ショール越しに感じる体温が、思いのほか薄い。
抱きしめれば折れそうな、けれど折れない女。
「僕が欲しいのは、物じゃない。あなたもわかってるでしょう」
アランの睫毛が伏せられる。
まるで祈るみたいに。
けれど、それは祈りではなく、逃げだった。
レギュラスはその逃げを見逃さない。
「今日もそうでしたね。朝。……完璧に、何もなかった顔をして。僕の前で」
言葉が、ゆっくりと部屋を削る。
アランの背筋が、ほんの少し強張る。
それだけで、レギュラスの苛立ちは、醜い快感に変わり始める。
「あなたは、“平気です”って顔を作るのが上手い。母になったからですか? それとも――」
そこまで言って、レギュラスはわざと間を置いた。
余韻を残せば残すほど、相手の想像が勝手に傷を増やしていくのを知っている。
アランは、静かに顔を上げる。
翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見る。
逃げない――ように見せて、奥は見せない目だ。
「……何を、そんなにお怒りなんです」
やわらかな声。
まるで諭すみたいに。
それが、レギュラスを最も苛立たせる。
「お怒り?」
レギュラスは小さく笑った。
笑い声は薄く、鋭かった。
「僕が? そんな風に見えます?」
見えないふりをする。
“当然”の顔をする。
相手を揺らすために、わざと平坦にする。
「なら、確認しましょうか」
そう言って、レギュラスは寝台の端に膝をつき、アランの手を取った。
指先が冷えている。
握ればすぐに温まってしまうのが癪なくらい、簡単に。
「あなたは――僕の機嫌を取る気があるんですか」
質問の形をしていて、答えは一つしかない。
アランは、沈黙で抵抗する。
レギュラスはその沈黙を待たない。待てない。
「“わからない”はもう聞き飽きましたよ、アラン」
耳元で囁くと、彼女の肩がわずかに震えた。
その震えが、怖さなのか、怒りなのか、耐えるための震えなのか。
どれでもいい。反応であることが大事だった。
「あなたはいつもそうだ。答えを曖昧にして、壁を立てて、最後に母の顔を出して逃げる」
ゆっくりと指を絡める。
拒める隙間を消していく。
言葉でも、体温でも。
アランの唇が開きかけ、しかし言葉にならない。
その沈黙を、レギュラスは“折れない”と見なした。
折れないなら、折れる方向へ導けばいい。
こちらが折れるのは癪だ。だから――彼女に折れさせる。
「僕が欲しいのは、あなたが“差し出すもの”じゃない」
レギュラスは彼女の手の甲に、軽く口づけた。
丁寧で、礼儀正しく、残酷な仕草。
「あなたが、自分の意思で僕の方へ寄ってくることです」
アランの頬が、ほんのりと熱を帯びる。
その色の変化が、見えないほど微細なのに、レギュラスには眩しい。
「……あなたは」
アランがやっと言葉を探し当てる。
「私に、何を……」
「簡単ですよ」
レギュラスは穏やかな声を作った。
その穏やかさが、命令より恐ろしいと知っていながら。
「僕を見てください。僕の言葉を、きちんと受け取ってください。逃げないで」
“逃げるな”と言っているのは、アランではなく、こちら自身にも聞こえた。
だがレギュラスは、それを認めない。認めるものか。
アランは視線を落とした。
落とした先には、取られた手。絡められた指。
逃げ道は、もう狭い。
「……私は、あなたの妻です」
彼女は静かに言う。
「あなたの望む通りにします」
完璧だ。
正解だ。
けれど、その“正解”が腹立たしい。
レギュラスは、その言葉を祝福として受け取らない。
試されている。そう感じた。
“望む通りに”と言いながら、望みの核心には触れない。
これ以上求めるなら、あなたが悪い、と言外に刺してくる。
レギュラスは目を細め、微笑んだ。
今度は、微笑みの中に甘さを混ぜる。相手が警戒を解くように。
「随分と僕好みの回答ですね」
そして、そのままアランの口元へ指を滑らせる。
言葉が出る前に、唇を塞いだ。
拒む暇を与えない深さで、舌を絡め取る。
続きを許してくれ、と告げるのではない。続きを“当然”にする。
アランの喉が小さく震え、息が乱れる。
けれど彼女は、抵抗より先に、礼儀を忘れない。
押し返す力を失い、代わりに受け止める形になっていく。
その瞬間、レギュラスの胸に、奇妙な勝利の灯が点る。
折れたのは、こちらではない。
彼女の方だ――そう思いたい。
唇を離すと、アランは一拍遅れて息を吸った。
その息が、微かに震えている。
それだけで、レギュラスは満たされそうになる。
だが、満たされるたびに、次が欲しくなるのが自分だ。
「……機嫌は、取れましたか」
アランが、小さく問う。
胸の奥の刃を隠して、顔だけは美しいまま。
レギュラスは、その問いに、あえてすぐ答えない。
代わりに、アランの頬を撫で、瞳を覗き込む。
「まだです」
柔らかく告げた声には、甘さよりも、確かな力があった。
命令でもない。懇願でもない。
“当然ここに居る”という、揺るがない宣言。
「あなたが何も感じていないふりをしている限り、僕は機嫌なんて直りませんよ」
アランの瞳が揺れる。
揺れを隠そうとして、さらに整える。
その往復が、レギュラスには愛おしくも腹立たしい。
「……眠りましょう」
アランが言う。
逃げの言葉を、日常の言葉に見せかけて。
レギュラスは笑って、彼女の腰に腕を回した。
逃がさない。
けれど無理に壊しもしない。
壊すより、折れる瞬間を自分の手のひらで味わいたい。
「ええ。眠りましょう、アラン」
耳元で囁く。
「ただし――僕の腕の中で」
寝台に引き寄せると、アランの体は一度だけ硬くなり、それから諦めたように力を抜いた。
その“諦め”の形が、屈服なのか、譲歩なのか、あるいはただの疲労なのか。
どれでもいい。今夜、自分が折れていないことだけが大切だった。
薄暗い寝室で、レギュラスはアランの髪に唇を落とす。
抱きしめた腕の内側に、彼女の呼吸が触れている。
それだけで、胸の棘が少しだけ眠りに近づいた。
けれど眠りの手前、ふと彼女が小さく身じろぎをした。
そのわずかな動きにすら、レギュラスは反応してしまう。
――やはり、まだだ。
まだ、この女は、心のどこかで自分を拒んでいる。
それが、腹立たしい。
そして、欲しい。
だから今夜も、折れない。
折れるのは、彼女の方だと信じるために。
夜が、更けていくほどに――ローランド・フロストの内側は、静かに壊れていった。
寝台に身を沈めるたび、まぶたの裏に浮かぶのは、ひとつの輪郭だった。
白いシーツの皺のように、消えては寄り、寄ってはほどける。肌の熱、吐息の重さ、触れた指先の記憶。そこにいるはずのない人の気配が、夜の闇にだけは、あまりにも易々と戻ってきてしまう。
―― アラン。
名を呼ぶだけで、喉の奥が痛む。
今はもう口にしてはいけない名だと分かっているのに、夢は礼節を知らない。
あの夜、クラリッサを抱きながら、胸の奥の底が一度だけ揺らいだ。揺らいだ瞬間を、ローランドは忘れられなかった。忘れようとするほど、夢は執拗になった。
最初は、ただ目が覚めた。
何かに追い立てられたように息が荒く、手のひらが汗ばんでいる。胸の内側に、燃え残りの炭が落ちているような熱。寝室の暗闇の中で、己の鼓動だけがやけに大きく響いた。
次の夜も、その次の夜も。
夢の中で、彼女はいつも美しかった。
学生の頃、まだ不器用だった自分の手を受け止めてくれた、あの柔らかな微笑みのまま。研究室の机に散らばる羊皮紙の上で、インクの匂いに紛れて、ふいに顔を上げる。翡翠の瞳がこちらを見て、ほんの少しだけ笑う。
それだけで十分だったはずなのに、夢はそこから先へ進もうとする。
夢の中の自分は、信じがたいほどに貪欲で、恥を知らない。
理性の鎖が外れた指が、彼女の輪郭を確かめようとしてしまう。指先が触れる寸前で、ローランドは目を覚ます。胸が苦しくて、吐き気がするほどに。
――自分は、いったい何をしているのだ。
起き上がり、枕元の水を飲む。冷たいはずの水が、喉を通るころにはぬるく感じる。
窓の外はまだ夜の色で、屋敷は眠っている。廊下の燭台の灯りさえ、遠慮がちに揺れている。
その静けさが、余計に罪を浮かび上がらせた。
セシール家へ行くことが、怖くなった。
研究の進捗を確認し、必要な書類を整え、魔法省へ提出する――そのために足を運ぶのは当然だ。けれど、あの屋敷の門をくぐった瞬間、エドモンド・セシール卿の視線に耐えられる気がしなかった。
彼は、何も知らない。
知らないからこそ、礼を尽くしてくれる。穏やかに、誠実に、いつも通りに。
その「いつも通り」が、ローランドには刃だった。
自分だけが汚れている。自分だけが後ろめたさに沈んでいる。
アラン――いや、ブラック夫人を、心の中でさえ正しく呼べない自分が、彼女の父の前で「研究の話」をしてよいはずがない。
若かった頃を思い出す。
学生の頃、初めて彼女を抱いた夜。
あの夜も緊張はした。怖かった。壊してしまいそうで、息の仕方すら分からない気がした。けれど、後ろめたさはなかった。
互いに手探りで、互いに確かめるように、慎重に歩幅を揃えていった。幸福というものが、こんなふうに胸に積もるのかと知った。
それなのに今、自分は――同じ「夜」の中に、罪を持ち込んでいる。
あれほど清いと思っていたものを、思い出すたび汚してしまう。
夢の中で彼女を呼び、現実で妻の顔を見る。
この矛盾が、毎朝、ローランドの背筋を冷たくした。
「……ローランド様?」
眠りの浅い気配を察したのだろう。
隣の寝台から、小さな影が身を起こす。夜着の上に羽織ったガウンの襟をきゅっと握りしめたクラリッサが、心配そうに覗き込んでくる。燭台の明かりが、彼女の頬の産毛を淡く照らし、まだあどけなさの残る瞳を潤ませていた。
ローランドは、笑おうとした。
大丈夫だと、いつも通りに言おうとした。
けれど、口元がうまく動かない。
息を吸うだけで、胸の奥に針が刺さるようだった。
「……ちょっと疲れが出たようです」
やっとの思いでそれだけ告げると、クラリッサはほっとしたように、けれど納得しきれない顔で眉を寄せる。
「あまり無理をなさらないでくださいね。最近、ずっと顔色が……」
彼女は言いながら、そっとローランドの手の甲に触れる。
小さな体温がそこに落ちるだけで、ローランドは胸の奥がひりついた。自分の手が、汚れているように感じた。握り返すことさえ、ためらわれる。
それでも、拒めない。拒んではいけない。
彼女は、今の自分の妻なのだから。
ローランドは指先に力を入れ、彼女の手を包む。
包みながら、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
――急がなくていいんです、クラリッサ。
――でも、どうか、こちらを見ないでほしい。
その視線が真っ直ぐであるほど、申し訳なさが増す。
誠意に誠意で返せない己の卑しさが、彼女の無垢を傷つけてしまいそうで怖かった。
「すみません。少し、眠りが浅いだけです」
ローランドがそう言うと、クラリッサは小さく頷き、安心させようとするように笑った。
その笑みは愛らしい。守るべきものだと思う。そう思うべきだと、分かっている。
なのに――
まぶたを閉じると、また翡翠の瞳が浮かぶ。
あの瞳が、夢の中でだけ自分を見つめ返してくる。
ローランドは息を整えながら、必死に現実へ縋りついた。
隣にいる妻の体温。屋敷の夜の静けさ。遠くで鳴る時計の音。
それでも、胸の底で、ひとつの名が、しつこく形を持つ。
口には出さない。出せるはずがない。
けれど、眠りの縁に落ちるたび――ローランドはまた、あの夜へ引き戻されていく。
後ろめたさのない幸福を知っていたからこそ。
今の自分の卑しさは、いっそう骨に沁みた。
そしてローランドは、気づいてしまっていた。
夢がふしだらなのではない。自分が、もう既に、ふしだらなのだと。
セシール家の研究室は、季節の境目の匂いがした。
乾いた羊皮紙の甘さ、煮詰めた魔法薬のほろ苦い揮発、薬草を刻んだ木の台の青い香り――それらが混じり合い、いつもならローランドの心を落ち着かせるはずの「慣れた空気」だった。
けれど今日は、その空気そのものが喉を締めつけた。
昨晩の夢が、まだ皮膚の裏に貼りついている。
眠りの底で勝手に作り上げられた輪郭が、目を開けた今も、視界の端に残像として揺れている。
思い出してはいけない。思い出す資格がない。
そう思うほどに、脳裏は意地悪に鮮明になった。
研究室の扉を押し開ける指先が震えているのが、自分でもわかる。
蝶番の小さな音が、やけに大きく感じた。
「――お久しぶりです、セシール卿」
挨拶の声は、辛うじて整っていた。
形式だけは守れる。礼節だけは、手放してはいけない。
そのはずなのに、視線だけがどうしても定まらない。机の上の器具、壁の棚、窓辺の採光……逃げ道のように物を追ってしまう。
そして、いる。
当たり前にそこにいる。
白い手袋ではなく、薬草の粉がつきそうな素手で、手元のノートを押さえている女。
黒髪をきっちりとまとめて、肩先に落ちる一筋すら几帳面に留めた女。
研究室の明るい光の中でさえ、翡翠の瞳だけが静かな深みをたたえている――ブラック夫人。
ローランドは、喉の奥がひくりと痙攣するのを感じた。
胸の内側が、遅れてぐらりと揺れる。胃が持ち上がるような感覚。
「地獄」という言葉は大げさだと、かつては思っていた。けれど今日ばかりは、他に適切な語が見当たらなかった。
顔を合わせたくない。
視界に入れたくない。
一歩でも後ろへ退きたい。逃げたい。――なのに逃げられない。
研究の確認に来たのは自分だ。
ここに立っているのは自分の意思だ。
それを突きつけられるたびに、息が浅くなる。
「フロスト殿?」
やわらかな声が、すぐ傍で落ちた。
ローランドは、反射で頷きそうになって、首の筋がこわばる。
呼びかけられたその瞬間に、夢の中の声が重なってしまった。
昨晩、ありもしない触れ方で、ありもしない温度で、ありもしない言葉を囁いた自分が――まるでこの場に混じり込もうとする。
「顔色が優れないようですが」
アラン――ブラック夫人の言葉は丁寧で、他人行儀で、正しい距離を保ったままだった。
その距離が、逆にローランドの足元を崩す。
近づいてはいけない。触れてはいけない。
分かっているのに、夢だけが勝手に境界線を踏み越える。
「……平気、です」
言い切る前に、喉の奥から熱がせり上がった。
胃が、拒絶の波を作って押し戻してくる。
口元を手で押さえるより早く、えづく音が漏れた。
「っ……」
情けなさで視界が滲む。
研究室の床が一瞬遠のき、背中に冷たい汗が走った。
「無理をなさらないで」
椅子を引く音。
次いで、背中にそっと手のひらが触れた。
驚くほど優しい圧だった。
押し付けるのではなく、支えるための手。
かつて自分が知っていた彼女の触れ方に、どこか似ていて――だからこそ、胸の奥が壊れた。
背中をさする指先が、ゆっくり上下する。
その動きに合わせて、ローランドの呼吸が乱れる。
そして、ふわり、と。
彼女の匂いがした。
魔法薬のほのかな甘さではない。研究室の薬草でもない。
日常のなかで自然に纏われた、清潔な布と肌の匂い。
誰かの寝台の匂いが混じっている――そう思っただけで、胃が再び大きく波打った。
昨晩の夢が、音もなく蘇る。
触れたくて、抱きしめたくて、口づけたくて。
夢の中で何度も何度も、許されない形で彼女を「思い出して」しまった自分が、背後から肩を掴んでくる。
ローランドは、顔を上げられなかった。
彼女の翡翠の瞳に、自分の今の顔を映したくなかった。
汚いものを見せたくなかった。
それでも、背中に触れているその手だけが、現実として確かで――それが最悪だった。
「フロスト殿、少し……こちらへ」
アランはそう言って、薬棚の陰、視線の届きにくい場所へ彼を誘導した。
薬瓶の列が、ガラス越しに鈍い光を返す。揺れる明かりが、どこか水底のように見えた。
「水を」
彼女が短く告げると、使用人が小さなグラスを差し出す。
ローランドは受け取ろうとして指が空を掴み、二度目でようやく握った。
水を喉に流し込むと、冷たさが一瞬だけ胃の焼ける感覚を押し戻した。
「……失礼をいたしました。体調管理が行き届かず……」
言葉を選ぶほど、喉が痛む。
謝罪が、研究のための謝罪に聞こえるように。礼節として整うように。
必死に言葉を磨く。磨けば磨くほど、胸の底にある本当の理由が、より黒々と浮かび上がる。
アランは、否定もしない。責めもしない。
ただ背中から手を離し、控えめに距離を置いた。
「……無理はなさらないでください。最近、お忙しいのでしょう」
その気遣いが、ローランドを救うのではなく、刺した。
彼女が優しいほどに、自分の醜さが際立つ。
ローランドは、視線を机の角に落とした。
そこには古い試薬の染みがあり、アランが筆記した文字が端正に並んでいた。
彼女の手は、こうしていつも研究のために動いてきた。
その手を、夢の中で自分は何に使った。何を求めた。
「ありがとうございます、ブラック夫人」
ようやく口にした呼び名は、正しく冷たかった。
けれど胸の奥では、昨晩の夢が同じ口で別の名を呼んでいる気がして、ローランドはまた吐き気に喉を締められた。
逃げたい。
ここにいてはいけない。
彼女の匂いを吸い込んではいけない。
なのに――背中に触れていた手の温度だけが、まだ皮膚に残っている。
それが、消えない。
ローランドは水のグラスを持つ指に力を込めて、揺れを止めようとした。
この研究室で、礼節を守って、何事もなかった顔をして立っていなければならない。
それが、今の自分に残された唯一の「正しさ」だった。
セシール家の廊下は、昔のままの静けさを残していた。
研究室から少し離れた場所にある客間――いや、かつては客間などではなく、彼女のためだけに用意された「部屋」へ向かう足音が、絨毯に吸われて鈍く消える。
ローランドの意識は、半分だけ現実に残っていた。
胃の底に残る不快な熱、舌の裏に溜まった苦さ、喉の奥で断続的に波打つ吐き気。
それなのに、アランが歩くたびに揺れる裾と、その背中の線ばかりを追ってしまう。
「こちらです。……少し、横になれますか」
アランの声は、いつもの「ブラック夫人」の声だった。
整っていて、慎み深く、余計な温度を含ませない。
その声に救われるはずなのに――救われるほどに、ローランドは自分が酷く惨めになるのを感じた。
扉が開く。
ふわり、と空気が変わった。
薬草の青さではなく、紙と布と、長い時間そこに積もった「生活」の匂い。
窓辺のカーテンは淡い光を透かし、壁際の本棚には背表紙が隙間なく並び、机の角にはインク染みの古い影が残っている。
今は整頓され、客用に整え直されたはずなのに、ローランドには見えてしまう。
ここで彼女が眉を寄せていた姿、椅子の背に掛けたショール、無意識に唇を噛む癖、焦れた夜の息遣い――。
何時間も閉じこもって、研究に明け暮れた。
課題を抱えて、互いのノートを交換し合った。
窓の外が暗くなり、蝋燭の火が短くなるまで、二人はここで「未来」を語った。
そして――ここで手を繋いだ。
ここで唇を重ねた。
それ以上のことも、もう引き返せないところまで、確かめ合うように重ねた。
彼女の部屋は、ローランドにとって「過去」ではなく、いまも身体のどこかで生き続けている現在だった。
ローランドは椅子に座らされ、背を預ける。
アランは慣れた手つきで水を用意し、毛布を肩に掛ける。
その所作が、あまりにも自然で――かつての彼女のままだった。
「少しお休みになって……落ち着かれてから、帰られてください」
言い終えたアランが、丁寧に頭を下げた。
それは礼儀であり、距離であり、線引きだった。
彼女はそのまま部屋を出ようとした。
扉へ向けて身を翻した瞬間、ローランドの内側で、何かがぷつりと切れた。
思考より先に腕が伸びた。
指先が、布越しではなく、彼女の手首をつかむ。
骨の細さが掌に当たって、ぞっとするほど懐かしい感触が走った。
掴んだまま、離せない。
離したくない。
離したら、二度と戻れない気がした。
アランの体が、はっと止まる。
振り返る翡翠の瞳が、驚きに大きく開かれた。
「……フロスト殿?」
名を、役目の呼び名で呼ばれたことが、逆に胸を裂いた。
ローランドの喉がきしむ。声が出るのかもわからない。
それでも言葉が、押し出されてしまう。
「行かないでください」
部屋の空気が、凍ったように静まった。
自分で言ってしまったと気づくより早く、喉の奥が熱くなり、視界が揺れる。
アランの瞳が、ほんのわずか震えた。
その揺れに、ローランドは息を呑んだ。
掴まれた手首を、アランは引き抜こうとしなかった。
ただ困ったように、戸惑ったように、静かに彼を見下ろしている。
礼儀正しい仮面の裏で、何かが動いたのがわかる。
それが、ローランドをさらに追い詰めた。
ローランドは、掴んだ指先の力を緩められないまま、唇を震わせた。
言ってはいけない。触れてはいけない。
今さら。今さら、何を望む資格がある。
それでも、名前だけが――どうしても。
「…… アラン」
呼び親しんだ音が、部屋の中に落ちた。
それは罪だった。祈りだった。
ローランドの胸の奥で絡まってほどけなかった糸を、無理矢理に引き裂く音でもあった。
アランの喉が小さく鳴った。
彼女の唇がわずかに開き、息が漏れる。
そして、ほとんど声にならないほどの小さな声で――。
「……ローランド……?」
その呼び方だけで、ローランドの堪えが崩れた。
涙が、何の前触れもなく溢れた。
恥ずかしい。情けない。今さら何を。
そんな言葉は、涙の速度に追いつかない。
ローランドは俯き、掴んだ手を額に押し当てるようにして、必死に呼吸を探した。
肩が震える。呼吸が乱れる。
声を殺そうとしても、喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。
手を離したのは自分だった。
守るべき礼節を選んだのも自分だった。
彼女が別の姓を名乗るようになったことを、受け入れたふりをしたのも自分だった。
それなのに心だけが、ずっと縛られたままだった。
どこにも行けない。
どんなに整った言葉で自分を包んでも、結局、視線は彼女を探してしまう。
「……ごめんなさい」
絞り出した声は、弱々しく掠れていた。
謝罪の形をとりながら、謝罪だけでは終われない。
「こんなことを言う資格がないのは……わかっています。わかっているのに……」
ローランドは顔を上げられないまま、アランの手を掴む指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
頼っていいわけがないのに、縋る以外の方法を知らないみたいに。
「……今も、あなたを見てしまうんです」
言葉が落ちた瞬間、アランの呼吸が止まったのがわかった。
翡翠の瞳が、さざ波のように揺れる。
それでも彼女は、手を振り払わない。
ローランドは、泣きながら笑う寸前の顔で、喉の奥を押さえつけた。
笑ってはいけない。泣いてもいけない。
どちらもみっともない。けれどもう、取り繕うための余力が残っていなかった。
「……行かないでください」
もう一度言ってしまった。
同じ言葉なのに、二度目はさらに醜く、さらに切実だった。
アランは、その場に立ち尽くしたまま、ローランドを見下ろしている。
その沈黙が、拒絶なのか、迷いなのか、哀れみなのか――ローランドには判別できない。
ただ一つだけ確かなのは、この部屋に満ちている過去が、今の二人を容赦なく照らしているということだった。
ローランドの涙は止まらなかった。
掴んだ手は離せなかった。
離せば、きっと自分はまた「正しいふり」をして、彼女から遠ざかる。
そしてその正しさの中で、今夜もまた――彼女を夢にしてしまう。
ローランドは、震える息の合間に、かすかな声で言った。
「……一度だけでいい。……ここで、あなたに……置いていかれたくない」
アランの指先が、ほんのわずかに動いた。
掴まれたままの手が、逃げるのではなく、僅かに――ローランドの指に触れ返すように、震えた。
その小さな反応だけで、ローランドの胸はさらに痛くなった。
美しすぎる翡翠の瞳が、自分を映している。
それが救いであり、罰であることを、ローランドは今さらのように思い知っていた。
寝台の隣が、空っぽだ。
シーツは丁寧に伸ばされ、枕の窪みも、体温の名残も、まるで最初から誰もいなかったように消されている。夜に残るべきものが一つもない。――それが、ひどく癪に障った。
昨晩。
あの細い体を腕の中に閉じ込め、息が乱れるたびに名を呼ばせた。拒めない角度へ導き、逃げ道を奪い、最後には屈服の形を作り上げた。
なのに。朝には、いない。
「……ふざけるな」
声に出すつもりなどなかったのに、喉の奥で言葉が擦れて落ちた。
いつ起きたのかもわからないほど、音も気配も残さず、この部屋から出ていった――それがいちばん腹立たしい。わざとだ。そういう芸当ができる女だと知っている。
自分の腕の中で、どれほど激しく崩れたとしても。
翌朝には、何事もなかったように“元の場所”へ戻る。
それはまるで、心は決して屈服していないと宣言しているようだった。
弱いくせに。
弱いからこそ、強く装う。
愛されているという事実に胡座をかき、女であることを盾にして、どうせ本気で潰されることはないとでも思っているのか――問うてやりたい衝動が胸を突き上げた。
調子に乗るのも大概にしろ。
人の神経を、ここまで丁寧に逆撫でしてくるな。
寝台の縁に手をつき、起き上がる。絹の寝間着の裾が擦れて音を立てた。立ち上がっただけで床の冷たさが足裏から伝わり、眠りの残滓を無理やり剥がされていく。
視線が、無意識に枕元を探した。――いない。
腹の底に、黒いものが沈殿する。
衣を整え、階段へ向かう。
屋敷はいつもと変わらない。磨かれた床、整えられた花、静謐な気配。使用人が遠くで控える足音さえ、過不足なく穏やかだ。
その完璧さが、今朝はやけに鼻についた。世界だけが平然としている。自分の内側の荒れ模様など、屋敷は何一つ気にしていない。
一階へ降りた瞬間、柔らかな声が耳に入った。
乳母の手から受け取られた小さな体。アルタイルの丸い頬。眠そうに瞬く瞳。そこに添えられる白い指。
そして――その横に、あの女がいる。
アランは淡い朝の光をまとっていた。
髪はきちんとまとめられ、昨夜の名残など一欠片も感じさせない。頬の血色も整っていて、目元も穏やかで、まるで絵画の中の人物のように完成している。
昨夜、自分の腕の中で乱れた体温も、涙の膜も、息の切れ方も、全てが嘘だったかのように。
「おはようございます」
白々しいほど礼儀正しい挨拶だった。
角のない声。崩さない微笑み。視線はまっすぐ――けれど、どこかこちらの熱を受け止めない薄さがある。
その薄さが、火に油を注いだ。
苛立ちが、胸の内側からじりじりと燃え上がる。
返事を返すという行為すら、与えたくなかった。
無視した。
わざとだと自分でもわかるほど露骨に、視線だけを外して通り過ぎる。
なのにアランは、何もなかったかのように瞬きをして、すぐにアルタイルへ向き直った。
それが、また腹立たしい。
アランの口元が、柔らかくほどける。
「アルタイル、ほら。見ていてくださいね」
甘い言葉を、息を吹きかけるように子へ落とす。自分に向けるよりはるかに温い声音。
指先に小さな光を灯し、くるりと回す。翡翠色にも見える淡い魔法の粒が、蝶の形に整ってふわりと舞った。
アルタイルはきゃ、と声にならない歓声を上げ、小さな手を伸ばす。蝶は指先に触れる寸前で光の花弁になって散り、また新しい蝶へと生まれ変わる。
童話の挿絵のような光景。理想的な母親の振る舞い。過不足のない優しさ。
そこには一切の乱れがない。昨夜の“妻”ではなく、今朝の“母”として完璧に存在している。
――逃げ道を作っている。
母という役割の中に逃げ込めば、こちらの苛立ちも、問いも、昨夜のことも、全部薄められると知っている。
アルタイルが笑い、乳母が微笑み、使用人たちが息を殺して見守る。
屋敷の空気は穏やかで、祝福のようにあたたかい。
その中で、一人だけが冷えている。冷えて、硬くて、苛立っている。
それが自分だ。
アランは、一度もこちらを見ない。
見ないまま、完璧に振る舞う。
その完璧さが、昨夜の屈服をまるでなかったことにするようで、喉の奥が苦くなる。
昨夜は――確かに、掌の中だった。
呼ばせた。縋らせた。震えさせた。
それなのに、朝には、いない。痕跡を残さず、何も感じさせず、何食わぬ顔で階下にいて、子にだけ微笑む。
それは勝ち負けで言えば、勝っているはずなのに。
勝っているはずなのに、負けた気分にさせられる。
胸の奥で、ねじれた感情が絡み合う。
愛しているからこそ苛立つ。
苛立つからこそ、愛していることが目立ってしまう。
目立つものを、隠したくなる。隠すために、冷たくなる。冷たくなればなるほど、相手はさらに完璧に距離を取る。
――悪循環だ。
その輪を、断ち切る方法は一つしかない。
あの要塞みたいな柔らかい顔を、母の仮面ごと引き剥がすこと。
こちらを見ないでいられない状況に追い込むこと。
無表情で息を整えていられないほどに、揺さぶること。
アランが、アルタイルの額に口づける。
慈しみの証。優しい儀式。
その瞬間、胸の底で何かが“決まる”音がした。
今朝のこの無視は序章に過ぎない。
この女が、昨夜の名残を消して平然と朝を迎えるのなら。
こちらもまた、消してやる。
余裕というものを。
仮面というものを。
母という安全圏というものを。
光の蝶に向かって笑う翡翠の瞳を、必ず自分へ向けさせる。
その勝利を確信するために。
そして――その勝利でさえ満足できない自分が、どこまで貪欲かを、この女に思い知らせるために。
朝食卓は、いつもより広く感じた。
椅子と椅子の間の距離は変わらないはずなのに、空気だけがやけに張り詰めていて、呼吸のたびに胸の内側がひりつく。
レギュラスが苛立っているのは、もう感じている。
視線の刺さり方、グラスを置く音の硬さ、言葉を削ぎ落とした沈黙――どれも「機嫌がいい」とは言えない。
けれどアランは、そこに手を伸ばさなかった。気づいていないふりをした。無視する、という選択をとった。
昨夜。
確かに、自分は彼の腕の中で沈んでいった。逃げ場を失い、与えられるままに受け取って、何度も名を呼ばされた。
その響きは耳の奥にまだ残っていて、思い出すだけで身体のどこかが勝手に反応しそうになる。
――けれど、夜は夜だ。
朝に持ち込むものではない。
あんなものに屈服するつもりはない。屈服したと思われたくない。
だから、今朝は“母”の顔でいる。母である限り、ここには正しさがある。逃げ道ではなく、理由がある。
アランの膝の上にはアルタイルがいる。
最近ようやく固形のものを口にできるようになってきたばかりで、銀の小さな匙を近づけると、目を丸くして嬉しそうに口を開ける。
「アルタイル、いい子ですね。噛んで、ゆっくり」
口の端を拭ってやりながら、何度も声をかける。
「おいしい? ほら、もうひと口」
小さな舌がもごもご動き、思い切り頷く仕草が愛らしくて、胸の奥がわずかにほどける。
息子の愛らしさだけが救いだった。
この卓の上にある地獄みたいな空気を、唯一中和できるものがアルタイルの体温だけだ。
レギュラスは、対面に座っている。
薄く笑っているようで、笑っていない。
こちらが息子に向ける柔らかさを、無表情のまま見ている。
その視線が何を求めているのか、わからないふりをして、アランは匙を動かし続けた。
オリオンとヴァルブルガはまだ降りてこない。
いつもなら、この時間には気配があるのに――今朝は遅い。
もし両親が降りてくれば、レギュラスはこの苛立ちを引っ込めるだろうか。少なくとも、形だけは整えるだろうか。
そう思って、アランは言葉を差し出した。助けを求めたわけではない。空気を少しでも動かしたかっただけだ。
「……もう時期、オリオン様たちが起きていらっしゃいますよ」
レギュラスは、こちらを見もしないで返した。
「だからなんです?」
匙を持つ指が一瞬だけ止まりそうになるのを、アランは必死に押し殺した。
息子の口元を拭い、あくまで穏やかに、平坦に返す。
「あなたがいいなら、いいのです」
“あなたがいいなら”――その言葉は譲歩でも慰めでもなく、ただの事実の提示だった。
自分には、どうしようもない。
あなたがそれでいいなら、それで構わない。
それだけのはずなのに。
レギュラスの眼差しがわずかに細くなる。
次の瞬間、小さな舌打ちが、皿の縁を叩く音よりも鋭く届いた。
ちり、と耳の奥が痛む。
アランは息を吸って、吐いた。
無視した。聞こえなかったことにした。
アルタイルの頬を指でつついて、笑うふりをする。
「ふふ、付いちゃいましたね。ここ。――拭きましょうね」
アルタイルはきゃっと笑い、アランの指に小さな手を絡める。
その感触が、今は命綱みたいだった。
レギュラスの苛立ちは、机の上に落ちる影みたいに濃くなる。
彼は何も言わない。
言わないまま、圧だけが増えていく。
昨夜、名を呼ばせた口で、今は一言も余計なことを言わない。その沈黙が、まるで「逃がさない」と告げてくる。
アランは、息子に向けて言葉を尽くし続ける。
この卓の上に、会話の線を一本でも通しておかなければ、窒息しそうだった。
「アルタイル、えらいですね。ちゃんと飲み込めてる」
「もう一口いきましょう。……うん、いい子」
どこまでも丁寧に。どこまでも穏やかに。
この朝を“普通”に見せるために。
夜の余韻など、ここにはないと言い聞かせるために。
でも、わかっている。
この地獄は、まだ始まったばかりだ。
両親が降りてこない時間が伸びるほど、逃げ場はなくなる。
息子の笑い声だけが、薄いガラスみたいな平穏を支えている。
そのガラスがいつ割れるのか―― アランは、匙を動かしながらずっと数えていた。
魔法省の役員室は、いつもと変わらないはずだった。
高い天井、磨き上げられた木の机、硝子越しに差し込む淡い光。外では羽根ペンの擦れる音や、廊下を行き交う靴音が、規則正しい鼓動のように遠く響いている。
けれど、室内の空気だけが落ち着かなかった。
紙の束を整え、署名を重ね、承認印を押し――それらは身体が覚えている作業のはずなのに、指先がいつもより僅かに荒い。角が揃わない。筆跡が硬い。
その程度の乱れでさえ、自分の中の苛立ちを暴いてくるようで腹が立った。
「……こちらから折れるのは、癪なんですが」
机の上の書類から目を上げずに、レギュラスは淡々と漏らした。
言葉にした瞬間、余計に輪郭がはっきりする。癪だ。屈するのは嫌いだ。自分が折れる側に回ること自体が、理に反する。
その向かいで、バーテミウスが喉の奥で笑った。椅子に深く腰掛け、さも可笑しそうに肩を揺らす。
「それはもう、世の男が全員思っていることですよ」
軽い調子の冗談――そのはずが、妙に真実味を帯びて刺さる。
レギュラスは口元だけで笑い返しながら、胸の奥に沈む不快を無言で撫で潰した。
そもそもだ。
あの女が、無駄に強情すぎる。
最初からすべてをこちらに差し出し、従順な妻として隣に座っていれば――そのときは、愛して、可愛がって、惜しみなく与えたはずだ。
それは脅しでも見栄でもなく、事実として自分の中にある確信だった。
欲しいものを手に入れたなら、壊す必要はない。守るほうが楽だ。手入れしたほうが美しい。慈しんだほうが、所有はより完成する。
なのに、彼女は中途半端に反発した。
従順になりきれないくせに、反抗者の面だけを、丁寧に磨いて見せてくる。
寝室を別にと線を引き、部屋を要塞のように閉ざし、礼儀と沈黙を盾にして、こちらの手を避ける。
その“なめた真似”が、どれほど自分の神経を逆撫でしたか――あの女は、きっと理解しない。
そして最悪なのは。
理解しないふりをしているのか、本当に理解できないのか、その境界すら曖昧なまま、美しい顔で当然のようにそこに立っていることだった。
傷ついた顔も、怯えた顔も、たまに覗く僅かな棘も。
すべてが、腹立たしく、同じだけ目を離せない。
レギュラスは書類に視線を戻したまま、ペン先を一度だけ持ち替えた。
インクの色が濃く滲む。押し殺した苛立ちが、紙の上に染み出したようで、舌の奥が苦くなる。
「あなたなら折れます?」
不意に投げると、バーテミウスは待ってましたとばかりに片眉を上げた。
笑いを含ませながらも、返事だけはやけに即答だった。
「ええ。僕はもう、すぐに」
軽い。潔い。
その軽さが、さらに癪に障る。――いや、羨ましいのかもしれない。自分の中の頑固さが、そんな単純な道を許さない。
レギュラスは微笑んだ。形だけの、役員の微笑みだ。
けれど内側では、別の感情がせり上がる。苛立ちだけではない。
“折れたら負けだ”という意地と、“折らないから遠ざかる”という現実が、喉元で絡まり合っている。
「あなたは、折れても平気なんですね」
「平気ですよ。――だって折れたほうが、早いじゃないですか」
バーテミウスは肩をすくめる。
その言い方は、妻を持つ男の余裕なのか、それとも元々の性格の薄情さなのか。どちらにせよ、レギュラスには真似できない。
早い。確かに早い。
けれど、折れるという行為は“自分が譲った”という記録になる。あの女は、それを学習する。
そして次も同じように要塞を築き、こちらが折れて扉を開けるのを待つ――そんな光景が簡単に想像できる。
想像できるからこそ、なおさら癪に障る。
「……あの女に、主導権を覚えさせるのは嫌なんです」
レギュラスは静かに言った。
言いながら、気づく。
主導権の問題だけではない。
もっと単純に、もっと惨めに――自分は、あの女の表情が欲しいのだ。
折れたから見せる表情ではなく、折れなくても滲み出る表情。
“仕方なく”差し出される肯定ではなく、自分を映す翡翠の瞳の、自発的な揺れ。
勝利の形をした、あの女の“負け”が欲しい。
バーテミウスはしばらく黙って、机上の紙束を指先で軽く弾いた。
乾いた音が、やけに明るく響く。
「レギュラス。あなた、折れたくないって言いながら、折れないと落ち着かない顔してますよ」
レギュラスは目を細める。
図星を突くのが上手い男だ。腹が立つほどに。
「……人聞きが悪いですね」
「事実ですから」
笑い合う形を取りながら、室内には妙な静けさが落ちた。
魔法省の喧噪が遠い。時計の針の音がやけに近い。
その沈黙の中で、レギュラスはふと、朝食卓の光景を思い出す。自分の苛立ちを無視して、息子に話しかけ続けるアランの横顔。
白々しいほど整った所作。母の顔という名の盾。
――あれが、腹立たしくてたまらない。
なのに、見たい。
見たいから、追い詰める。
追い詰めるほど、遠ざかる。
その循環を理解しながら、止められない。
ペンを置く。指を組む。
レギュラスは薄く息を吐き、口元に微笑みを貼り直した。
「……折れませんよ。まだ」
「でしょうね」
バーテミウスは、まるで当然だという顔で頷いた。
そして、くすりと笑って、最後の針を刺す。
「折れるのが癪なら――折れたくなるように仕向けてください。あなた、そういうの得意でしょう」
その言葉に、レギュラスの胸の奥で何かがゆっくりと形を変えた。
苛立ちは消えない。
だが、苛立ちの中に、冷たい楽しさが混じる。
折れない。
その代わり、自分のやり方で、扉を開けさせる。
役員室の窓の外で、雲が流れる。
紙の匂いとインクの匂いが、静かに肺を満たした。
レギュラスの指先は、次の署名へ向けて、落ち着かないまま正確に動き始めていた。
夜更けの屋敷は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
灯りの落ちた廊下に、蝋燭の芯だけが細く息をしている。絨毯の上を踏む足音は吸い込まれ、壁の肖像画ですら眠っているように目を閉じていた。
寝室の扉が閉まる音が、やけに硬く響いた。
レギュラスは外套を脱ぎもせず、窓辺の暗がりに立ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に刺さったまま抜けない棘が、昼からずっと熱を帯びている。朝の食卓で、あの女は――息子に向ける声だけは柔らかく、夫に向ける礼儀だけは完璧で、そして何もかもを「なかったこと」にする顔をしていた。
寝台の縁に腰を下ろしているアランは、淡い寝衣の上に薄いショールを羽織っている。産後の体は戻ったとはいえ、腕を抱える癖は抜けていない。守るべき場所がそこにあると、身体が覚えてしまっているようだ。
彼女の髪は結わえられ、翡翠の瞳は火の粉のような灯りを映しながらも、どこか遠い。
その遠さが、レギュラスを苛立たせる。
近づく。歩み寄る。いつもなら指先ひとつで彼女は反応をこぼすのに、今夜のアランは、最初から壁を磨いて座っていた。
何も言わない。けれど「差し出すものはない」と、姿勢そのものが告げている。
レギュラスはその前に立ち、影を落とすように屈む。
覗き込む距離で見つめられても、アランは目を逸らさない。逸らさないのに、こちらを受け入れてもいない。
だから、先に言葉を差し込んだ。
命令にしないための、薄い糖衣で包んだ刃を。
「……僕の機嫌をとっていただけません?」
部屋の静けさが、一瞬だけ音を持った気がした。
アランの睫毛がわずかに揺れ、吐息が喉の奥で引っかかる。彼女はその揺れをすぐに隠し、困惑の形だけを整えた。
「……何を望むんです?」
声は静かで、整っていた。
まるで文書の返答だ。必要な言葉だけを選び、余計な体温を落とした返し。わざとそうしているのが、レギュラスにはわかった。
そのわかりやすさが、さらに癇に障る。
レギュラスは笑ってみせた。口元だけで。
目は笑わない。笑えるほどの余裕が、今夜はない。
「欲しいものがあれば言えばいい――みたいな言い方。全然好ましくない。そういう言い方は嫌いです」
一度、言葉で殴る。
相手が痛みを見せるかどうかではなく、相手の呼吸の乱れを確かめるために。
アランは、首を少しだけ傾けた。
怒りもしない。泣きもしない。押し返しもしない。
ただ、薄い壁の向こうでこちらを測っている。
「では……」
彼女は一拍置き、丁寧に言葉を選び直した。
「何を差し出せば、あなたの機嫌を取れますか」
その瞬間、レギュラスの胸に、冷たいものが走った。
“差し出す”。
それは、彼女が最も嫌がるはずの言葉だった。なのに、彼女の口から出た。淡々と。落ち着き払って。
逃げ道を塞ぐどころか、すべてを差し出すふりをして、肝心の心だけは握らせない。
それが、今のアランの戦い方だった。
レギュラスは唇を細くする。
「そういう言い方も嫌いです」
言い捨てた声は、柔らかく整えられているのに、噛み砕く力が含まれていた。
アランは息を呑む。だが、すぐに微笑みの形を作る。――作ってしまう。貴族の娘として、妻として、完璧に“崩れない顔”を。
その微笑みが、玩具のようで、腹立たしい。
レギュラスは指を伸ばし、アランの顎に触れた。
持ち上げるほど強くはない。けれど、逃げられるほど弱くもない。
その中途半端さに、彼女の喉が小さく鳴る。
「アラン」
名を呼ぶだけで、距離が詰まる。
呼吸が一段、浅くなる。
「……そんなに取り引きの言葉を並べたいなら、僕も慣れてますよ」
魔法省の役員室で、何度も何度も繰り返してきた調子。
相手の“正しさ”を肯定しながら、望む地点へ導く、あの言い回し。
レギュラスは顎から指を離し、彼女の肩に手を置いた。
ショール越しに感じる体温が、思いのほか薄い。
抱きしめれば折れそうな、けれど折れない女。
「僕が欲しいのは、物じゃない。あなたもわかってるでしょう」
アランの睫毛が伏せられる。
まるで祈るみたいに。
けれど、それは祈りではなく、逃げだった。
レギュラスはその逃げを見逃さない。
「今日もそうでしたね。朝。……完璧に、何もなかった顔をして。僕の前で」
言葉が、ゆっくりと部屋を削る。
アランの背筋が、ほんの少し強張る。
それだけで、レギュラスの苛立ちは、醜い快感に変わり始める。
「あなたは、“平気です”って顔を作るのが上手い。母になったからですか? それとも――」
そこまで言って、レギュラスはわざと間を置いた。
余韻を残せば残すほど、相手の想像が勝手に傷を増やしていくのを知っている。
アランは、静かに顔を上げる。
翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見る。
逃げない――ように見せて、奥は見せない目だ。
「……何を、そんなにお怒りなんです」
やわらかな声。
まるで諭すみたいに。
それが、レギュラスを最も苛立たせる。
「お怒り?」
レギュラスは小さく笑った。
笑い声は薄く、鋭かった。
「僕が? そんな風に見えます?」
見えないふりをする。
“当然”の顔をする。
相手を揺らすために、わざと平坦にする。
「なら、確認しましょうか」
そう言って、レギュラスは寝台の端に膝をつき、アランの手を取った。
指先が冷えている。
握ればすぐに温まってしまうのが癪なくらい、簡単に。
「あなたは――僕の機嫌を取る気があるんですか」
質問の形をしていて、答えは一つしかない。
アランは、沈黙で抵抗する。
レギュラスはその沈黙を待たない。待てない。
「“わからない”はもう聞き飽きましたよ、アラン」
耳元で囁くと、彼女の肩がわずかに震えた。
その震えが、怖さなのか、怒りなのか、耐えるための震えなのか。
どれでもいい。反応であることが大事だった。
「あなたはいつもそうだ。答えを曖昧にして、壁を立てて、最後に母の顔を出して逃げる」
ゆっくりと指を絡める。
拒める隙間を消していく。
言葉でも、体温でも。
アランの唇が開きかけ、しかし言葉にならない。
その沈黙を、レギュラスは“折れない”と見なした。
折れないなら、折れる方向へ導けばいい。
こちらが折れるのは癪だ。だから――彼女に折れさせる。
「僕が欲しいのは、あなたが“差し出すもの”じゃない」
レギュラスは彼女の手の甲に、軽く口づけた。
丁寧で、礼儀正しく、残酷な仕草。
「あなたが、自分の意思で僕の方へ寄ってくることです」
アランの頬が、ほんのりと熱を帯びる。
その色の変化が、見えないほど微細なのに、レギュラスには眩しい。
「……あなたは」
アランがやっと言葉を探し当てる。
「私に、何を……」
「簡単ですよ」
レギュラスは穏やかな声を作った。
その穏やかさが、命令より恐ろしいと知っていながら。
「僕を見てください。僕の言葉を、きちんと受け取ってください。逃げないで」
“逃げるな”と言っているのは、アランではなく、こちら自身にも聞こえた。
だがレギュラスは、それを認めない。認めるものか。
アランは視線を落とした。
落とした先には、取られた手。絡められた指。
逃げ道は、もう狭い。
「……私は、あなたの妻です」
彼女は静かに言う。
「あなたの望む通りにします」
完璧だ。
正解だ。
けれど、その“正解”が腹立たしい。
レギュラスは、その言葉を祝福として受け取らない。
試されている。そう感じた。
“望む通りに”と言いながら、望みの核心には触れない。
これ以上求めるなら、あなたが悪い、と言外に刺してくる。
レギュラスは目を細め、微笑んだ。
今度は、微笑みの中に甘さを混ぜる。相手が警戒を解くように。
「随分と僕好みの回答ですね」
そして、そのままアランの口元へ指を滑らせる。
言葉が出る前に、唇を塞いだ。
拒む暇を与えない深さで、舌を絡め取る。
続きを許してくれ、と告げるのではない。続きを“当然”にする。
アランの喉が小さく震え、息が乱れる。
けれど彼女は、抵抗より先に、礼儀を忘れない。
押し返す力を失い、代わりに受け止める形になっていく。
その瞬間、レギュラスの胸に、奇妙な勝利の灯が点る。
折れたのは、こちらではない。
彼女の方だ――そう思いたい。
唇を離すと、アランは一拍遅れて息を吸った。
その息が、微かに震えている。
それだけで、レギュラスは満たされそうになる。
だが、満たされるたびに、次が欲しくなるのが自分だ。
「……機嫌は、取れましたか」
アランが、小さく問う。
胸の奥の刃を隠して、顔だけは美しいまま。
レギュラスは、その問いに、あえてすぐ答えない。
代わりに、アランの頬を撫で、瞳を覗き込む。
「まだです」
柔らかく告げた声には、甘さよりも、確かな力があった。
命令でもない。懇願でもない。
“当然ここに居る”という、揺るがない宣言。
「あなたが何も感じていないふりをしている限り、僕は機嫌なんて直りませんよ」
アランの瞳が揺れる。
揺れを隠そうとして、さらに整える。
その往復が、レギュラスには愛おしくも腹立たしい。
「……眠りましょう」
アランが言う。
逃げの言葉を、日常の言葉に見せかけて。
レギュラスは笑って、彼女の腰に腕を回した。
逃がさない。
けれど無理に壊しもしない。
壊すより、折れる瞬間を自分の手のひらで味わいたい。
「ええ。眠りましょう、アラン」
耳元で囁く。
「ただし――僕の腕の中で」
寝台に引き寄せると、アランの体は一度だけ硬くなり、それから諦めたように力を抜いた。
その“諦め”の形が、屈服なのか、譲歩なのか、あるいはただの疲労なのか。
どれでもいい。今夜、自分が折れていないことだけが大切だった。
薄暗い寝室で、レギュラスはアランの髪に唇を落とす。
抱きしめた腕の内側に、彼女の呼吸が触れている。
それだけで、胸の棘が少しだけ眠りに近づいた。
けれど眠りの手前、ふと彼女が小さく身じろぎをした。
そのわずかな動きにすら、レギュラスは反応してしまう。
――やはり、まだだ。
まだ、この女は、心のどこかで自分を拒んでいる。
それが、腹立たしい。
そして、欲しい。
だから今夜も、折れない。
折れるのは、彼女の方だと信じるために。
夜が、更けていくほどに――ローランド・フロストの内側は、静かに壊れていった。
寝台に身を沈めるたび、まぶたの裏に浮かぶのは、ひとつの輪郭だった。
白いシーツの皺のように、消えては寄り、寄ってはほどける。肌の熱、吐息の重さ、触れた指先の記憶。そこにいるはずのない人の気配が、夜の闇にだけは、あまりにも易々と戻ってきてしまう。
―― アラン。
名を呼ぶだけで、喉の奥が痛む。
今はもう口にしてはいけない名だと分かっているのに、夢は礼節を知らない。
あの夜、クラリッサを抱きながら、胸の奥の底が一度だけ揺らいだ。揺らいだ瞬間を、ローランドは忘れられなかった。忘れようとするほど、夢は執拗になった。
最初は、ただ目が覚めた。
何かに追い立てられたように息が荒く、手のひらが汗ばんでいる。胸の内側に、燃え残りの炭が落ちているような熱。寝室の暗闇の中で、己の鼓動だけがやけに大きく響いた。
次の夜も、その次の夜も。
夢の中で、彼女はいつも美しかった。
学生の頃、まだ不器用だった自分の手を受け止めてくれた、あの柔らかな微笑みのまま。研究室の机に散らばる羊皮紙の上で、インクの匂いに紛れて、ふいに顔を上げる。翡翠の瞳がこちらを見て、ほんの少しだけ笑う。
それだけで十分だったはずなのに、夢はそこから先へ進もうとする。
夢の中の自分は、信じがたいほどに貪欲で、恥を知らない。
理性の鎖が外れた指が、彼女の輪郭を確かめようとしてしまう。指先が触れる寸前で、ローランドは目を覚ます。胸が苦しくて、吐き気がするほどに。
――自分は、いったい何をしているのだ。
起き上がり、枕元の水を飲む。冷たいはずの水が、喉を通るころにはぬるく感じる。
窓の外はまだ夜の色で、屋敷は眠っている。廊下の燭台の灯りさえ、遠慮がちに揺れている。
その静けさが、余計に罪を浮かび上がらせた。
セシール家へ行くことが、怖くなった。
研究の進捗を確認し、必要な書類を整え、魔法省へ提出する――そのために足を運ぶのは当然だ。けれど、あの屋敷の門をくぐった瞬間、エドモンド・セシール卿の視線に耐えられる気がしなかった。
彼は、何も知らない。
知らないからこそ、礼を尽くしてくれる。穏やかに、誠実に、いつも通りに。
その「いつも通り」が、ローランドには刃だった。
自分だけが汚れている。自分だけが後ろめたさに沈んでいる。
アラン――いや、ブラック夫人を、心の中でさえ正しく呼べない自分が、彼女の父の前で「研究の話」をしてよいはずがない。
若かった頃を思い出す。
学生の頃、初めて彼女を抱いた夜。
あの夜も緊張はした。怖かった。壊してしまいそうで、息の仕方すら分からない気がした。けれど、後ろめたさはなかった。
互いに手探りで、互いに確かめるように、慎重に歩幅を揃えていった。幸福というものが、こんなふうに胸に積もるのかと知った。
それなのに今、自分は――同じ「夜」の中に、罪を持ち込んでいる。
あれほど清いと思っていたものを、思い出すたび汚してしまう。
夢の中で彼女を呼び、現実で妻の顔を見る。
この矛盾が、毎朝、ローランドの背筋を冷たくした。
「……ローランド様?」
眠りの浅い気配を察したのだろう。
隣の寝台から、小さな影が身を起こす。夜着の上に羽織ったガウンの襟をきゅっと握りしめたクラリッサが、心配そうに覗き込んでくる。燭台の明かりが、彼女の頬の産毛を淡く照らし、まだあどけなさの残る瞳を潤ませていた。
ローランドは、笑おうとした。
大丈夫だと、いつも通りに言おうとした。
けれど、口元がうまく動かない。
息を吸うだけで、胸の奥に針が刺さるようだった。
「……ちょっと疲れが出たようです」
やっとの思いでそれだけ告げると、クラリッサはほっとしたように、けれど納得しきれない顔で眉を寄せる。
「あまり無理をなさらないでくださいね。最近、ずっと顔色が……」
彼女は言いながら、そっとローランドの手の甲に触れる。
小さな体温がそこに落ちるだけで、ローランドは胸の奥がひりついた。自分の手が、汚れているように感じた。握り返すことさえ、ためらわれる。
それでも、拒めない。拒んではいけない。
彼女は、今の自分の妻なのだから。
ローランドは指先に力を入れ、彼女の手を包む。
包みながら、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
――急がなくていいんです、クラリッサ。
――でも、どうか、こちらを見ないでほしい。
その視線が真っ直ぐであるほど、申し訳なさが増す。
誠意に誠意で返せない己の卑しさが、彼女の無垢を傷つけてしまいそうで怖かった。
「すみません。少し、眠りが浅いだけです」
ローランドがそう言うと、クラリッサは小さく頷き、安心させようとするように笑った。
その笑みは愛らしい。守るべきものだと思う。そう思うべきだと、分かっている。
なのに――
まぶたを閉じると、また翡翠の瞳が浮かぶ。
あの瞳が、夢の中でだけ自分を見つめ返してくる。
ローランドは息を整えながら、必死に現実へ縋りついた。
隣にいる妻の体温。屋敷の夜の静けさ。遠くで鳴る時計の音。
それでも、胸の底で、ひとつの名が、しつこく形を持つ。
口には出さない。出せるはずがない。
けれど、眠りの縁に落ちるたび――ローランドはまた、あの夜へ引き戻されていく。
後ろめたさのない幸福を知っていたからこそ。
今の自分の卑しさは、いっそう骨に沁みた。
そしてローランドは、気づいてしまっていた。
夢がふしだらなのではない。自分が、もう既に、ふしだらなのだと。
セシール家の研究室は、季節の境目の匂いがした。
乾いた羊皮紙の甘さ、煮詰めた魔法薬のほろ苦い揮発、薬草を刻んだ木の台の青い香り――それらが混じり合い、いつもならローランドの心を落ち着かせるはずの「慣れた空気」だった。
けれど今日は、その空気そのものが喉を締めつけた。
昨晩の夢が、まだ皮膚の裏に貼りついている。
眠りの底で勝手に作り上げられた輪郭が、目を開けた今も、視界の端に残像として揺れている。
思い出してはいけない。思い出す資格がない。
そう思うほどに、脳裏は意地悪に鮮明になった。
研究室の扉を押し開ける指先が震えているのが、自分でもわかる。
蝶番の小さな音が、やけに大きく感じた。
「――お久しぶりです、セシール卿」
挨拶の声は、辛うじて整っていた。
形式だけは守れる。礼節だけは、手放してはいけない。
そのはずなのに、視線だけがどうしても定まらない。机の上の器具、壁の棚、窓辺の採光……逃げ道のように物を追ってしまう。
そして、いる。
当たり前にそこにいる。
白い手袋ではなく、薬草の粉がつきそうな素手で、手元のノートを押さえている女。
黒髪をきっちりとまとめて、肩先に落ちる一筋すら几帳面に留めた女。
研究室の明るい光の中でさえ、翡翠の瞳だけが静かな深みをたたえている――ブラック夫人。
ローランドは、喉の奥がひくりと痙攣するのを感じた。
胸の内側が、遅れてぐらりと揺れる。胃が持ち上がるような感覚。
「地獄」という言葉は大げさだと、かつては思っていた。けれど今日ばかりは、他に適切な語が見当たらなかった。
顔を合わせたくない。
視界に入れたくない。
一歩でも後ろへ退きたい。逃げたい。――なのに逃げられない。
研究の確認に来たのは自分だ。
ここに立っているのは自分の意思だ。
それを突きつけられるたびに、息が浅くなる。
「フロスト殿?」
やわらかな声が、すぐ傍で落ちた。
ローランドは、反射で頷きそうになって、首の筋がこわばる。
呼びかけられたその瞬間に、夢の中の声が重なってしまった。
昨晩、ありもしない触れ方で、ありもしない温度で、ありもしない言葉を囁いた自分が――まるでこの場に混じり込もうとする。
「顔色が優れないようですが」
アラン――ブラック夫人の言葉は丁寧で、他人行儀で、正しい距離を保ったままだった。
その距離が、逆にローランドの足元を崩す。
近づいてはいけない。触れてはいけない。
分かっているのに、夢だけが勝手に境界線を踏み越える。
「……平気、です」
言い切る前に、喉の奥から熱がせり上がった。
胃が、拒絶の波を作って押し戻してくる。
口元を手で押さえるより早く、えづく音が漏れた。
「っ……」
情けなさで視界が滲む。
研究室の床が一瞬遠のき、背中に冷たい汗が走った。
「無理をなさらないで」
椅子を引く音。
次いで、背中にそっと手のひらが触れた。
驚くほど優しい圧だった。
押し付けるのではなく、支えるための手。
かつて自分が知っていた彼女の触れ方に、どこか似ていて――だからこそ、胸の奥が壊れた。
背中をさする指先が、ゆっくり上下する。
その動きに合わせて、ローランドの呼吸が乱れる。
そして、ふわり、と。
彼女の匂いがした。
魔法薬のほのかな甘さではない。研究室の薬草でもない。
日常のなかで自然に纏われた、清潔な布と肌の匂い。
誰かの寝台の匂いが混じっている――そう思っただけで、胃が再び大きく波打った。
昨晩の夢が、音もなく蘇る。
触れたくて、抱きしめたくて、口づけたくて。
夢の中で何度も何度も、許されない形で彼女を「思い出して」しまった自分が、背後から肩を掴んでくる。
ローランドは、顔を上げられなかった。
彼女の翡翠の瞳に、自分の今の顔を映したくなかった。
汚いものを見せたくなかった。
それでも、背中に触れているその手だけが、現実として確かで――それが最悪だった。
「フロスト殿、少し……こちらへ」
アランはそう言って、薬棚の陰、視線の届きにくい場所へ彼を誘導した。
薬瓶の列が、ガラス越しに鈍い光を返す。揺れる明かりが、どこか水底のように見えた。
「水を」
彼女が短く告げると、使用人が小さなグラスを差し出す。
ローランドは受け取ろうとして指が空を掴み、二度目でようやく握った。
水を喉に流し込むと、冷たさが一瞬だけ胃の焼ける感覚を押し戻した。
「……失礼をいたしました。体調管理が行き届かず……」
言葉を選ぶほど、喉が痛む。
謝罪が、研究のための謝罪に聞こえるように。礼節として整うように。
必死に言葉を磨く。磨けば磨くほど、胸の底にある本当の理由が、より黒々と浮かび上がる。
アランは、否定もしない。責めもしない。
ただ背中から手を離し、控えめに距離を置いた。
「……無理はなさらないでください。最近、お忙しいのでしょう」
その気遣いが、ローランドを救うのではなく、刺した。
彼女が優しいほどに、自分の醜さが際立つ。
ローランドは、視線を机の角に落とした。
そこには古い試薬の染みがあり、アランが筆記した文字が端正に並んでいた。
彼女の手は、こうしていつも研究のために動いてきた。
その手を、夢の中で自分は何に使った。何を求めた。
「ありがとうございます、ブラック夫人」
ようやく口にした呼び名は、正しく冷たかった。
けれど胸の奥では、昨晩の夢が同じ口で別の名を呼んでいる気がして、ローランドはまた吐き気に喉を締められた。
逃げたい。
ここにいてはいけない。
彼女の匂いを吸い込んではいけない。
なのに――背中に触れていた手の温度だけが、まだ皮膚に残っている。
それが、消えない。
ローランドは水のグラスを持つ指に力を込めて、揺れを止めようとした。
この研究室で、礼節を守って、何事もなかった顔をして立っていなければならない。
それが、今の自分に残された唯一の「正しさ」だった。
セシール家の廊下は、昔のままの静けさを残していた。
研究室から少し離れた場所にある客間――いや、かつては客間などではなく、彼女のためだけに用意された「部屋」へ向かう足音が、絨毯に吸われて鈍く消える。
ローランドの意識は、半分だけ現実に残っていた。
胃の底に残る不快な熱、舌の裏に溜まった苦さ、喉の奥で断続的に波打つ吐き気。
それなのに、アランが歩くたびに揺れる裾と、その背中の線ばかりを追ってしまう。
「こちらです。……少し、横になれますか」
アランの声は、いつもの「ブラック夫人」の声だった。
整っていて、慎み深く、余計な温度を含ませない。
その声に救われるはずなのに――救われるほどに、ローランドは自分が酷く惨めになるのを感じた。
扉が開く。
ふわり、と空気が変わった。
薬草の青さではなく、紙と布と、長い時間そこに積もった「生活」の匂い。
窓辺のカーテンは淡い光を透かし、壁際の本棚には背表紙が隙間なく並び、机の角にはインク染みの古い影が残っている。
今は整頓され、客用に整え直されたはずなのに、ローランドには見えてしまう。
ここで彼女が眉を寄せていた姿、椅子の背に掛けたショール、無意識に唇を噛む癖、焦れた夜の息遣い――。
何時間も閉じこもって、研究に明け暮れた。
課題を抱えて、互いのノートを交換し合った。
窓の外が暗くなり、蝋燭の火が短くなるまで、二人はここで「未来」を語った。
そして――ここで手を繋いだ。
ここで唇を重ねた。
それ以上のことも、もう引き返せないところまで、確かめ合うように重ねた。
彼女の部屋は、ローランドにとって「過去」ではなく、いまも身体のどこかで生き続けている現在だった。
ローランドは椅子に座らされ、背を預ける。
アランは慣れた手つきで水を用意し、毛布を肩に掛ける。
その所作が、あまりにも自然で――かつての彼女のままだった。
「少しお休みになって……落ち着かれてから、帰られてください」
言い終えたアランが、丁寧に頭を下げた。
それは礼儀であり、距離であり、線引きだった。
彼女はそのまま部屋を出ようとした。
扉へ向けて身を翻した瞬間、ローランドの内側で、何かがぷつりと切れた。
思考より先に腕が伸びた。
指先が、布越しではなく、彼女の手首をつかむ。
骨の細さが掌に当たって、ぞっとするほど懐かしい感触が走った。
掴んだまま、離せない。
離したくない。
離したら、二度と戻れない気がした。
アランの体が、はっと止まる。
振り返る翡翠の瞳が、驚きに大きく開かれた。
「……フロスト殿?」
名を、役目の呼び名で呼ばれたことが、逆に胸を裂いた。
ローランドの喉がきしむ。声が出るのかもわからない。
それでも言葉が、押し出されてしまう。
「行かないでください」
部屋の空気が、凍ったように静まった。
自分で言ってしまったと気づくより早く、喉の奥が熱くなり、視界が揺れる。
アランの瞳が、ほんのわずか震えた。
その揺れに、ローランドは息を呑んだ。
掴まれた手首を、アランは引き抜こうとしなかった。
ただ困ったように、戸惑ったように、静かに彼を見下ろしている。
礼儀正しい仮面の裏で、何かが動いたのがわかる。
それが、ローランドをさらに追い詰めた。
ローランドは、掴んだ指先の力を緩められないまま、唇を震わせた。
言ってはいけない。触れてはいけない。
今さら。今さら、何を望む資格がある。
それでも、名前だけが――どうしても。
「…… アラン」
呼び親しんだ音が、部屋の中に落ちた。
それは罪だった。祈りだった。
ローランドの胸の奥で絡まってほどけなかった糸を、無理矢理に引き裂く音でもあった。
アランの喉が小さく鳴った。
彼女の唇がわずかに開き、息が漏れる。
そして、ほとんど声にならないほどの小さな声で――。
「……ローランド……?」
その呼び方だけで、ローランドの堪えが崩れた。
涙が、何の前触れもなく溢れた。
恥ずかしい。情けない。今さら何を。
そんな言葉は、涙の速度に追いつかない。
ローランドは俯き、掴んだ手を額に押し当てるようにして、必死に呼吸を探した。
肩が震える。呼吸が乱れる。
声を殺そうとしても、喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。
手を離したのは自分だった。
守るべき礼節を選んだのも自分だった。
彼女が別の姓を名乗るようになったことを、受け入れたふりをしたのも自分だった。
それなのに心だけが、ずっと縛られたままだった。
どこにも行けない。
どんなに整った言葉で自分を包んでも、結局、視線は彼女を探してしまう。
「……ごめんなさい」
絞り出した声は、弱々しく掠れていた。
謝罪の形をとりながら、謝罪だけでは終われない。
「こんなことを言う資格がないのは……わかっています。わかっているのに……」
ローランドは顔を上げられないまま、アランの手を掴む指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
頼っていいわけがないのに、縋る以外の方法を知らないみたいに。
「……今も、あなたを見てしまうんです」
言葉が落ちた瞬間、アランの呼吸が止まったのがわかった。
翡翠の瞳が、さざ波のように揺れる。
それでも彼女は、手を振り払わない。
ローランドは、泣きながら笑う寸前の顔で、喉の奥を押さえつけた。
笑ってはいけない。泣いてもいけない。
どちらもみっともない。けれどもう、取り繕うための余力が残っていなかった。
「……行かないでください」
もう一度言ってしまった。
同じ言葉なのに、二度目はさらに醜く、さらに切実だった。
アランは、その場に立ち尽くしたまま、ローランドを見下ろしている。
その沈黙が、拒絶なのか、迷いなのか、哀れみなのか――ローランドには判別できない。
ただ一つだけ確かなのは、この部屋に満ちている過去が、今の二人を容赦なく照らしているということだった。
ローランドの涙は止まらなかった。
掴んだ手は離せなかった。
離せば、きっと自分はまた「正しいふり」をして、彼女から遠ざかる。
そしてその正しさの中で、今夜もまた――彼女を夢にしてしまう。
ローランドは、震える息の合間に、かすかな声で言った。
「……一度だけでいい。……ここで、あなたに……置いていかれたくない」
アランの指先が、ほんのわずかに動いた。
掴まれたままの手が、逃げるのではなく、僅かに――ローランドの指に触れ返すように、震えた。
その小さな反応だけで、ローランドの胸はさらに痛くなった。
美しすぎる翡翠の瞳が、自分を映している。
それが救いであり、罰であることを、ローランドは今さらのように思い知っていた。
