2章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔法省の廊下は、いつだって一定の温度に保たれている。
冷えすぎもしない、暖まりすぎもしない、そういう「整い」が、今日の胸のざわつきをいっそう浮き彫りにした。
役員室へ戻る途中、足は進んでいるのに意識だけがどこか別の場所に引っかかっている。
ローランド・フロストが、目を合わせなかった。
礼節の仮面を貼りつけたまま、視線だけを巧妙に逸らし、薄く笑い、逃げるように去っていった。あれは、ただの気分や疲れではない。
――何を隠している。
――何から逃げている。
思考がそこへ触れた瞬間、口元が自分でも嫌になるほど自然に緩む。
確かめたい。確かめなければ気が済まない。
胸の奥で疼くのは、怒りではなく、もっと卑しい好奇心だった。
役員室の扉を押し開けると、バーテミウスがいつもの場所にいた。書類の束に埋もれながら、こちらの気配だけで顔を上げる。
長年の悪友は、言葉を聞く前から色の違う空気を嗅ぎ分ける。
「……何かありましたね、レギュラス」
名を呼ぶ声音は軽いのに、視線は鋭い。
レギュラスは答えの代わりに椅子へ腰を落とし、ペンを手に取った。書類へ視線を落とす――ふりだけをする。文字は読めない。脳裏を占めるのは、翡翠色の瞳でも、柔らかな黒髪でもなく、あくまで“逸らされた視線”のほうだった。
「今夜、食事を用意してください。フロスト殿を招きます」
ペン先が、紙の上で止まった。
バーテミウスは一拍置いてから、吹き出すでもなく、呆れるでもなく、ただ乾いた笑みを浮かべる。
「……何を企んでるんです?」
企み。
その語感がむしろ心地よくて、喉の奥がくすぐったくなる。
レギュラスは微笑む。いつも通りの、外向きの整った笑みだ。けれど内側には、針のようなものが折りたたまれている。
「確認です。魔法省の廊下で、フロスト殿は不自然でしたから」
「確認、ねえ」
バーテミウスは肩を竦めた。逃がす気も止める気もない、傍観者の所作。
その態度が腹立たしいはずなのに、今日はむしろありがたい。誰も止めない。止められる理由などないのだから。
椅子の背にもたれ、指先で机の縁を軽く叩く。
アランの名が、胸の奥でひとつ音を立てる。
――あの男は、何を見た。
――何を思い出した。
――そして、何を“見ないふり”した。
ふと記憶がよみがえる。セシール家の屋敷。アランの部屋。
机の上に残されていたノート、整然と束ねられた研究資料、彼女らしい几帳面な筆跡。
そして、あのアルバム。幼い彼女の笑い顔と、背丈の近い少年の隣での無邪気さ。成長とともに距離が変わり、並ぶ肩がずれていく写真。
あれは過去だ。もう戻らない。取り返せない。
そう分かっているのに、胸が焼けるように痛んだ。――嫉妬という名の、あまりに不格好な感情。
だからこそ、今夜の食事が必要だった。
書類を置き、立ち上がる。
役員室の窓からは、魔法省の中庭が見える。人々が行き交い、笑い、仕事に急ぐ。誰も知らない。誰も気づかない。
この見晴らしのいい場所で、目に見えない縄を結び、ほどき、引き締める人間がいることを。
「招待状は要りません。僕から直接伝えます」
バーテミウスが片眉を上げる。
「直接ね。……丁寧に刺す気だ」
言い当てられて、レギュラスは笑った。
刺す。そう、刺すのだ。乱暴に殴るより、薄い刃を同じ場所へ繰り返し当てたほうが、心は綺麗に割れる。
魔法省の廊下へ出る。足音は静かで、靴底が磨かれた床を撫でる。
――落ち着け。
――機嫌がいい時ほど、手は丁寧になる。
ローランド・フロストの執務室へ向かうまでの数分が、奇妙に甘い。
幼い頃、贈り物を隠しておいた場所へ向かう時のように、胸が弾む。
しかもその贈り物は、相手にとって“祝福”の形をしているのだ。断れない。拒めない。礼節が邪魔をする。
扉の前で足を止め、軽くノックをする。
返事。許可。扉が開く。
ローランド・フロストが顔を上げた。淡い髪色、青い瞳。今日もきっちり整えられた身なり。
その全てが“誠実”という言葉の形をしているのに、胸の奥でどろりとしたものが広がる。
「ブラック様。いかがなさいましたか」
丁寧な声。丁寧な礼。丁寧な距離。
その完璧さが、むしろ今は滑稽だった。昨日までと同じ仮面なのに、ひとつだけ綻びがある。視線の逃げ方が、ほんの少しだけ早い。
レギュラスは柔らかく微笑んだ。
そして、言葉を慎重に選ぶ。相手が逃げられない角度を、自然な会話のふりで組み立てる。
「今夜、よろしければ食事をご一緒に。少しお話もしたくて」
「……今夜、ですか」
わずかに間が空いた。
たったそれだけで、心が踊る。
拒む理由を探している。だが、ここは魔法省だ。上官と部下という立場は、礼節を盾にできない。
「もちろん、ご都合がつく範囲で構いません。急な話ですから」
逃げ道を与える。
――与えるふりをする。
相手が“自分で選んだ”と思うように仕向けるのは、いつもの手だ。
ローランド・フロストは一瞬だけ唇を結び、そして頷いた。
「承知いたしました。ブラック様」
受けた。
胸の奥で、勝ちの音がした。
レギュラスはそれ以上、長居をしなかった。
礼を返し、穏やかな笑みを残して扉を閉める。廊下へ出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が入ってくる。整いすぎた温度が、体の内側だけをやけに熱くする。
今夜、食事の席で――
アラン・ブラックを、この男に存分に見せる。
目を逸らすなら逸らせばいい。礼節の仮面を守れば守るほど、内側が裂ける。
何を悟られたくないのか。何に触れられたくないのか。
そして、その“触れられたくないもの”が、どこまで深いのか。
確かめる。
丁寧に、静かに。
笑みのまま、針を刺す。
今夜の卓上に並ぶのは、料理だけではない。
言葉と視線と沈黙――そのすべてが、刃になる。
黒檀のように艶めく長い食卓は、今夜も寸分の狂いなく整えられていた。銀のカトラリーは燭台の火を受けて冷たく光り、磨き上げられたグラスの縁に、揺れる炎が薄い輪郭を落とす。
その完璧さが、かえって呼吸を窮屈にした。
アランはレギュラスの隣に座っていた。背筋をまっすぐに保ち、指先の位置まで意識して、いつもと変わらない“ブラック家の夫人”の顔を作る。膝の上に預けた腕の重みが、今日の自分が母であることを静かに主張していた。アルタイルは乳母に抱かれて客席の近くに控えている。ときおり小さく息を鳴らすだけで、驚くほど静かだった。
扉が開き、ローランド・フロストが案内されて入ってくる。
礼節が、そのまま人の形をして歩いてくるようだった。
「お招きいただき、光栄でございます、ブラック様」
低く、丁寧で、揺れのない声。いつだってそうだ。相手が誰であろうと、言葉の角を丸め、礼の深さを欠かさない。
けれど、今夜のローランドは、ひとつだけ決定的におかしかった。
視線が、アランを避けている。
避けている、というより――不自然なほど“そこにないもの”として扱っている。
アランの存在を見ていないのに、椅子の位置も距離も、ぶつからないよう完璧に選んでいる。視線を落とす角度、皿に向けるタイミング、グラスを取る指先の運びまで、すべてが丁寧で、そしてどこか切迫していた。
それは、まるで。
「ここに触れるな」と自分に言い聞かせているみたいに。
レギュラスはそんなローランドを、微笑みだけで迎えた。
よく訓練された貴族の微笑み――けれど今夜は、その奥に小さな愉悦が見え隠れする。わずかな欠けを見つけた宝石鑑定士のように、視線が涼しく鋭い。
「お越しいただきありがとうございます、フロスト殿。どうぞ、楽に。堅苦しい場ではありませんよ」
ローランドは「はい」とだけ答え、席に着く。
席に着いた瞬間、視線がまた逸れる。ほんの僅か、アランの方へ向きかけた眼差しが、慌てて皿の白へ落ちる。落とされた視線の跡が、そこに小さな血のような色を残した気がして、アランは胸の奥がきりきり痛んだ。
食事が始まる。
スープの湯気が立ち、ハーブの香りが静かに広がる。会話もまた、湯気のように淡く柔らかいものだけが選ばれていく――はずだった。
「アルタイル様は、お元気でいらっしゃいますか」
ローランドがそう口にした瞬間、アランは息が少しだけ止まった。
その“様”が、あまりにも丁寧で、あまりにも距離があったからだ。愛称でも親しみでもない、礼節だけで成り立つ呼び名。まるで赤子の頬に触れないための言葉。
「ええ。よく眠りますし、よく飲みます」
レギュラスが先に答える。グラスを傾ける所作まで、余裕で満ちている。
「親孝行でしょう?」
ローランドは小さく頷く。
「それは何よりでございます。……お顔立ちも、聡明なお父上に似ておいでです」
アランの指先が、ナプキンの縁をわずかに掴んだ。
褒め言葉のはずなのに、目は決してこちらに向かない。言葉だけが礼儀正しく飛んでくる。触れずに撫でるような、残酷な距離。
レギュラスは、それを見逃すはずがなかった。
ナイフで肉を切り分ける音が、静かな食堂に一度だけ走る。その音が、合図のように響いた。
「フロスト殿も、ぜひ。お世継ぎを期待されているでしょうから」
ローランドの手が一瞬、止まった。
ほんの瞬きほどの時間だったのに、アランには長く感じられた。ナイフの先が皿に触れ、かすかな金属音が鳴る。ローランドはすぐに所作を取り戻すが、その瞬間の“揺れ”だけは隠しようがない。
「……まだ、彼女には早い気がしますが」
淡い髪が燭台の光に透け、青い瞳が一度だけ伏せられる。
その声の柔らかさが、逆に苦しい。守ろうとする声だ。守ろうとしているのに、守れない場所に心がいる声。
レギュラスは微笑みを崩さない。けれど、その微笑みは慈悲ではなく、刃の薄い光だった。
「早い、ですか。――兄弟を作るのなら、早めの方がいいですよ」
さらり、と言葉を落とす。氷を水面に落とすみたいに、音も立てず、確実に温度を奪う落とし方。
そして、決定打のように続ける。
「先日僕もちょうど、妻に二人目の許可をいただいたところです」
空気が、ほんの僅かに硬くなる。
食卓の上の灯りは変わらないのに、炎が急に冷たい色を帯びた気がした。レギュラスの声はあくまで明るく、会話として自然な流れを装っている。けれどその言葉は、食卓の下で足首を絡め取る鎖のように生々しかった。
ローランドの喉が小さく鳴った。
飲み下したはずのものが、胸の奥で引っかかったような、わずかな音。
アランは、レギュラスへ視線を投げた。
やめてください、と言う代わりに。咎めるように、ただ静かに。
けれどレギュラスはそれを一瞥もせず、まるで当然の話題のようにグラスを軽く揺らすだけだった。
ローランドは、何かを言うべきなのに言葉が見つからない顔をした。
顔色が変わったわけではない。ただ、完璧な礼節の仮面に、ほんの小さな亀裂が走った。ひび割れの奥から覗くものが、熱なのか痛みなのか、それとも――抑えきれない渇きなのか。
「……ブラック様は、奥方を大切になさっているのですね」
ようやく絞り出した言葉は、丁寧すぎるほど丁寧で、だからこそ嘘のない苦しさを含んでいた。
「当然でしょう」
レギュラスは笑う。涼しく、軽やかに。
「妻ですから。――それに、僕は手に入れたものを大事にする性分なんです」
その言い方が、あまりにも露骨で。
アランは胸の奥で、小さく何かが崩れる音を聞いた気がした。
ローランドは、ますますアランを見ない。
見れば最後、礼節で縛ってきたものがほどけてしまうと知っているみたいに。青い瞳が、皿の白、銀の光、グラスの水面――触れても熱を持たない場所ばかりを彷徨う。
それなのに、アルタイルの話だけは丁寧に拾い上げる。
「アルタイル様は夜泣きは」
「アルタイル様はよく笑われますか」
「アルタイル様は――」
赤子の話題が、今夜の唯一の避難所のようだった。
触れてはいけないものから逃げるための、清潔な言葉。
レギュラスは、その逃げ道の存在すら面白がっているように見えた。
ゆっくりと、丁寧に、針を刺す。血が出ない程度に。痛みが遅れてくる深さで。
アランはただ、微笑みを崩さない。
崩せない。崩した瞬間、ここにあるすべてが“見えてしまう”から。
ローランドの逃げる視線も、レギュラスの愉悦も、自分の胸の奥に残っている熱も――見えてしまったら最後、もう二度と元には戻らない。
食卓の灯りは変わらない。
銀器は美しく光り続け、料理は完璧に供され、言葉は礼儀正しく交わされる。
なのに、その完璧さの中心で、アランの心臓だけが、うるさいほど鳴っていた。
まるでこの夜が、静かな戦場であることを、誰より自分が知っていると告げるように。
夜の屋敷は、昼間よりも音がよく響いた。
廊下を渡る足音、壁の中を走る暖炉の微かな唸り、遠い部屋で誰かが水差しを置く気配――そういうものが、闇に溶けきれずに薄い膜となって漂っている。
アランが寝室へ戻ったのは、食事の余韻が完全に消える前だった。
口元に残る香草の苦みよりも、胸の奥に引っかかったままの言葉の棘のほうが、ずっと強く彼女を縛っていた。
アルタイルはすでに乳母のもとで眠りについたと伝えられている。
その報せだけが、今夜アランの中でかろうじて形を保っている安堵だった。赤子の寝息の温かさは、今は遠い。けれど“無事に眠っている”という事実だけが、心の一部を守ってくれる。
寝室の扉が閉まる音が、やけに重かった。
燭台の火が揺れ、壁に影を作る。
結婚してから幾度も見慣れたはずの室内が、今夜はどこか違って見えた。整えられた寝台の白、磨かれた鏡の黒、香の微かな甘さ。すべてが“いつものブラック家”のはずなのに、食卓で交わされた言葉が、薄い霧のように部屋の隅へ滲み出してきて、空気を変質させている。
背後で扉が静かに開き、閉まる。
振り返らなくてもわかった。
レギュラスが入ってきた。
彼の足音は、いつも驚くほど控えめだ。にもかかわらず、アランの肩はほんの僅かに強張った。背中が、見えない圧に触れたみたいに。
レギュラスは外套を脱ぎ、手袋を外し、いつものように淡々と整える。
その所作が整えば整うほど、逆に怖かった。苛立っているときほど、この男はきれいに動く。怒りを乱雑に撒き散らさず、刃物のように研ぎ澄まして持ち歩く。
「……すごく不自然だとは思いませんでした?」
声音は柔らかい。問いかけの形をしている。
けれど、その柔らかさが、逃げ道を塞ぐために磨かれたものだとアランはもう知っていた。
アランは寝台の端に立ったまま、片手を自分の腹のあたりに添えた。癖のような仕草だった。子を産んだあとから、身体の中心に小さな重みが残ったような感覚がある。そこに手を置くと、ほんの少しだけ落ち着く気がした。
「何が、でしょうか……」
わざと曖昧に返す。
その言葉が、彼の望む答えではないこともわかっている。わかっていて、そうする。今夜、アランが守れるものはそれくらいしかなかった。
レギュラスは一歩、距離を詰めた。
燭台の火が彼の髪に淡い縁を作り、灰色の瞳が薄く光を返す。
「フロスト殿ですよ。あんなに見事に、あなたを避けて」
言葉の端に、愉快そうな響きが混じる。
“見事に”という一語が、残酷なほど明るかった。
アランの喉がきゅっと縮む。
ローランドが自分を見なかったこと。見ないことで必死に何かを守ろうとしていたこと。そこに気づいてしまった瞬間から、胸の奥がずっと疼いている。痛みは、今さら癒える種類のものではない。それでも、誰にも触れさせたくなかった。
レギュラスは、その“触れられたくなさ”を嗅ぎ当てるのが上手すぎる。
「ねえ、アラン」
呼び名が落ちる。
“セシール嬢”と呼ばれていた頃よりも、ずっと近くて、逃げにくい音。
「僕が、今日どんな話をわざとしたか。あなたならわかるでしょう?」
アランは目を伏せた。
床に落ちた自分の影が揺れている。揺れているのに、そこから動けない。
わかっている。
わかりすぎるほど、わかっている。
「二人目の許可をいただいたところです」――
あれは会話の形をした針だった。ローランドに向けて刺す針であると同時に、アランの内側の柔らかい部分へも、当然のように刺してくる針。反応を見たかったのだ。ローランドの表情の揺れを。言葉の詰まりを。そして、アランがどれほど耐えられるかを。
それだけではない。
ローランドに向けて“世継ぎを”という話題を滑らせたのも、アランの耳へ届かせるためだ。ローランドが前へ進むよう促すふりをして、こちらの心を揺さぶるための仕掛け。
本当に、どこまでも子供みたいな人だと思う。
それなのに、子供のような残酷さを、権力者の手つきで運ぶから厄介だった。
アランは静かに息を吸う。
胸の奥に溜まったものが、吐き気に変わりそうになるのを、歯の裏で押しとどめた。
「……よく、わかりません」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているように聞こえる声を作ることが、いつのまにか得意になっている。
レギュラスが、鼻で笑う。
「またそれですか」
たったそれだけの言葉なのに、皮膚の上を薄刃で撫でられたみたいだった。
痛くはない。けれど、切れている。切れたことに気づかないくらい静かに。
「あなたは、わからないと言えば守り切れると思ってる。そうやって壁を作って、綺麗な顔で」
レギュラスはゆっくりと近づき、アランの前に立った。
距離が詰まると、彼の体温が空気を変える。香の匂いと混ざって、夜の匂いが濃くなる。
「でも――僕は、あなたが“わかってる”って顔をした瞬間を、今日、何度も見ましたよ」
アランの指先が、寝台の縁を掴んだ。
絹のシーツは冷たいのに、その冷たさすら頼りにしたくなるほど、胸の中が熱かった。
「フロスト殿が、あなたを見ない理由。あなたが、その視線を追いそうになった瞬間。あなたの息が浅くなったのも」
レギュラスの声は、やけに丁寧だった。
丁寧だからこそ、逃げる隙がない。まるで尋問のように正確に、こちらの小さな破綻を拾い上げていく。
「僕が“二人目”の話をしたとき、あなたのまつげが一度だけ震えた。……あれは、何です?」
問いが落ちた。
その一語一語が、寝室の静けさに沈まずに、硬い音を立てて跳ね返る。
アランは唇を噛んだ。
ローランドの不自然さは確かにあった。けれど、もうそれを根掘り葉掘りできる立場ではない。自分が選んだ道が、そうさせない。
最後に投げられた「お元気で」という言葉が、今でも胸の底に沈んでいる。あの言葉を境に、二人の関係は終わった。終わったのだと、礼儀という名の壁で何度も塗り固めてきた。
だから――今さら、誰かに掘り返されるのが耐えられない。
思い出は、秘めた想いは、誰にも触れさせたくない。心の奥にしまって、そこだけは守りたい。
「……レギュラス」
呼びかけた声は、少しだけ弱かった。
それを悟られるのが悔しくて、アランは続けた。
「フロスト殿がどう思っているかなど……もう、私には……」
言い切る前に、喉が詰まった。
“私には関係がない”と言えばいいのに、その言葉が舌の上でうまく形にならない。関係がないふりをするほど、関係があったことを自分が知っているからだ。
レギュラスは、その詰まりを見逃さない。
「ほら。いま、息が詰まった」
まるで証拠を指差すように言う。
その顔には、苛立ちと愉悦が同居していた。手に入れた宝石の傷をなぞる子供みたいに、確かめて、確かめて、壊れる瞬間を待っている。
「僕はあなたの夫ですよ、アラン。――それなのに、あなたはフロスト殿のことで息を詰める」
アランは目を伏せたまま、首を振ることもできなかった。
否定すれば、また詰められる。肯定すれば、もっと深く刺される。どちらを選んでも、出口がない。
「……わかりません」
結局、またそれを言う。
言ってしまう自分が、情けなかった。
レギュラスは小さく息を吐いた。
その吐息が、呆れなのか、笑いなのか、怒りなのか、アランには判別がつかない。
「わからない、ですか」
語尾が静かに落ちる。
静かすぎて、逆に怖い。
「僕はね、あなたに“わからない”を言わせたいわけじゃない。……あなたの口から、ちゃんと聞きたいだけです」
アランの肩が僅かに震えた。
“ちゃんと”という言葉が、優しさのふりをしていた。けれど、それは優しさではない。拘束だ。正解を言うまで解放しない、あの男のやり方。
「今日のフロスト殿は、何から逃げていました?」
アランは、もう返せなかった。
答えを出せないのではなく、出したくなかった。出した瞬間、それがこの男の手に渡ってしまう。
過去も、想いも、最後に守りたかった小さな箱も。
沈黙が続く。
燭台の火だけが揺れ、布の擦れる音がやけに大きい。
レギュラスは、アランの顎に触れた。指先で持ち上げるように。強引ではない。強引でなくても、逆らえない触れ方だ。
アランの翡翠の瞳が、否応なく彼を映す。
「……ねえ、アラン」
その呼びかけは、さっきより低かった。
鋭さを隠した声。隠して、より深く刺す声。
「僕に嘘をつく必要はないでしょう」
アランの胸の奥で、何かがきしんだ。
嘘をついているわけではない。けれど、真実を差し出していない。それを“嘘”と呼ぶなら、この男の前では何も守れない。
「私は……」
声が震えそうになるのを堪え、アランは唇を結んだ。
代わりに、ほんの少しだけ視線を逸らす。逸らせるのは、その程度だ。逃げ道は、もうほとんど残っていない。
レギュラスは、その小さな逃避を許さないように、もう一度言った。
「わからない、で通すつもりですか」
その問いは、静かな宣告だった。
夜の寝室の中で、二人の間にあるものだけが、異様に鮮明になる。
過去の名前。いまの立場。守りたいもの。奪いたいもの。
アランは、息を整えた。
泣いてしまいそうになるのを、泣かないための礼儀で押し殺した。どんなに胸が痛んでも、顔を崩さない。崩した瞬間、彼の勝ちになる。
「……わかりません、レギュラス」
その一言が、今夜の彼女の盾だった。
盾であると同時に、自分をも切る刃だと知りながら。
レギュラスは、しばらくアランを見下ろしていた。
苛立ちが、ゆっくりと形を変えていくのがわかった。怒りが、娯楽へ変わるときの気配――あの男がいちばん残酷になる瞬間の、静かな予兆。
そして、口元だけで微笑む。
「そうですか」
優しい言葉の形をしていた。
けれど、その声は、次の一手をもう考え終えた人間のものだった。
「じゃあ……わかるまで、付き合ってもらいますね」
燭台の火が、ひときわ大きく揺れた。
アランの胸の奥で、守りたい箱の蓋が、きしむ音を立てた気がした。
何もかもを「わからない」で通す女が、死ぬほど腹立たしかった。
レギュラスの中で、理性だけが辛うじて形を保っている。
それがなければ――あの細い肩を揺さぶり、頬を叩き、泣くまで言葉を吐かせていた。そんな想像が、冗談でも脅しでもなく、現実味を持って胸の奥で蠢く。
それほどまでに。
この女は、手に入れてなお手に入らない。
寝室の灯りは落とされ、壁に映るのは二人の影だけだった。
薄い香が漂う。けれど今夜、その甘い匂いは何ひとつ慰めにならない。むしろ、綺麗に整えられた空気が、レギュラスの苛立ちを余計に際立たせた。
アランは寝台の傍に立ったまま、視線を落としている。
たったそれだけで――「逃げ道」を作っているのがわかる。目を合わせないことで、会話を途切れさせる。答えを差し出さない。そうすれば、世界が少しだけ安全になると信じている。
馬鹿げている。
この屋敷の中で、この男の前で、安全などあるはずがないのに。
「……また、わからないんですか」
レギュラスの声は低く、滑らかだった。
怒鳴らない。壊れたような激情を見せない。そういう粗雑なやり方は、いつでもできる。だからこそ、あえてしない。鋭い刃ほど、静かに置かれる。
アランは瞼を伏せたまま、息だけを整えた。
答えない。答えないことで、こちらを焦らす。沈黙という薄い壁を立てる。
その慎ましさが、ひどく生意気だった。
レギュラスは一歩近づき、指先でアランの顎を持ち上げる。
逆らえない角度。逆らおうとする気力さえ削ぐ、丁寧な触れ方。
翡翠の瞳が、ゆっくりとこちらを映した。
その瞬間だけで胸が満たされかける自分が、なおさら腹立たしい。愛しているくせに。愛しているからこそ。憎たらしさが同じだけ湧く。
「あなたは――僕を見ているのに、僕を見ていない」
言葉にすると幼稚だとわかる。
けれど、幼稚で何が悪い。欲しいものを欲しいと言えない世界で、欲しいと口にできる立場にいるのがレギュラスだった。
「……レギュラス」
名を呼ぶ声は静かだった。
そこに怯えが混じっていないのが、さらに苛立ちを煽る。昔のように怯えて縮こまれた方が、どれほど楽か。
「ねえ、アラン」
レギュラスは、微笑んだまま問う。
笑みの形は穏やかなのに、問いだけが容赦なく骨を探る。
「いま、誰の腕の中にいるんです?」
アランの睫毛が、ほんの僅かに揺れた。
その揺れを見逃さない。見逃せない。見逃した瞬間に、自分が負ける気がした。
「……あなたの」
返答は完璧だった。
まるで型に嵌めた宝石のように、濁りのない正解。レギュラスが望む音だけを選んで落としてくる。だからなおさら疑う。正解すぎる答えは、いつだって“心”の所在を隠すために使われる。
レギュラスの口元が、笑みのまま歪む。
「そう。僕の」
確かめるように、繰り返す。
自分のものだと口にして、耳で聞いて、胸に落とす。落とさないと、腹の底の苛立ちが燃え上がってしまう。
アランは、黙って立っている。
その沈黙が「抵抗」だと、もうわかっていた。叫びも涙もない。乱れた弁明もない。静かに、冷静に、しぶとく。こちらの欲しいところだけを外してくる。
――殴ってやりたい。
そんな感情がまた、喉の奥まで上がってくる。理性がそれを押し戻す。理性の代わりに、別の衝動が肩を叩いた。
“言葉で引きずり出せないなら、身体で確かめろ。”
レギュラスはアランの手首を取り、寝台の縁へ導く。強く引かない。強く引かなくても、抗えない距離の詰め方を知っている。
アランの呼吸が一度だけ乱れ、すぐに整う。整え直す。その仕草が、ひどく悔しかった。
「……怖いですか?」
問う声は甘いのに、優しさはない。
アランは答えない。答えないことで、自分の輪郭を守る。
レギュラスは、答えを待たない。
寝台に沈むアランの体温を、上から覆うように受け止める。今夜は、甘さも幸福も排除したかった。慰めの皮を被った交わりなど、要らない。ここにあるのは、所有の確認だけだ。
灯りが揺れ、影が絡む。
シーツの擦れる音が、静かな部屋に妙に大きく響く。
レギュラスはアランの頬に触れ、視線を逸らさせないようにした。
翡翠の瞳に自分を映させる。
映しているのに、まだ足りない。足りないから、問うことをやめられない。
胸の奥に、ローランド・フロストの名が刺さっている。
あの男の、あの青い瞳。誠実という言葉だけで出来ているような顔。そこに向けられるアランの“残り香”を想像するだけで、胃の底が熱くなる。
「……いま、誰を思っているんです?」
声が、少しだけ低くなる。
自分で自分の声の変化に気づき、笑いそうになる。みっともない。こんなにも全てを手に入れたのに、過去の影に噛みついている。
アランは唇を結び、目を逸らそうとする。
逸らさせない。逸らさないで、と言う代わりに、レギュラスは名前を呼ばせるための間合いだけを作った。
「アラン。僕を呼んで」
命令でも懇願でもない、淡々とした指示。
それがこの男の怖さだ。抵抗の余地を消し、当然のように従わせる。
アランの喉が小さく動いた。
逃げ場を探して、見つけられずに、諦めるような沈黙。
やがて、細い声が落ちた。
「……レギュラス」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい水が流れた。
怒りが消えるわけではない。嫉妬が消えるわけでもない。けれど、ほんの少しだけ――形にならない安堵が、確かにあった。
呼ばせているようなものだ。
わかっている。それでも、呼ばれた。
翡翠の瞳が、ほんの刹那だけこちらを受け入れた。
レギュラスはその刹那を逃さず、深く息を吐く。
満たされる。満たされてしまう自分が、また腹立たしい。愛している。憎たらしい。同じ量で胸を掻きむしる。
「もう一度」
囁くように言って、アランの唇に触れる。
長くはしない。長くすれば、甘さが混じる。今夜は甘さを混ぜたくない。混ぜた途端、自分が縋ってしまうから。
アランは、抵抗しない。
抵抗しないことが、抵抗だ。
彼女は泣かない。崩れない。崩れる瞬間をこちらに渡さない。冷静に、しぶとく、自分を保つ。
それが、レギュラスを狂わせる。
壊したい、と思う。
同時に、壊れる瞬間を見たくない、とも思う。自分のものが壊れるのが耐え難い。矛盾が、胸の中で暴れる。
「……ちゃんと言ってください、アラン」
声が硬くなる。
問いはまた、逃げ道のない形に研ぎ澄まされる。
「いま、僕に抱かれている。――それで合ってますね?」
アランは一瞬だけ、瞳を伏せる。
その間の短さが、答えの重さを物語っていた。
そして、静かに頷いた。
その頷きに、レギュラスはまた満たされる。
満たされるからこそ、さらに欲しくなる。もっと確かな形で、もっと逃げられない形で、この女の“今”を奪い取ってしまいたい。
今夜の行為は、甘い言葉で包むものではなかった。
幸福を語り合うための時間でもない。
ただ、確かめる。繰り返し確かめる。ここにいるのは誰か。誰のものか。誰の名を呼ぶか。
アランが、また名を呼ぶ。
そのたびに、レギュラスの胸のざらつきは少しだけ静まる。静まりきらないから、また問う。問わずにいられない。
そして――
名を呼ばせるたび、ほんの少しだけ救われている自分を、レギュラスは誰よりも嫌悪した。
それでも、やめられない。
この女が「わからない」で守ろうとするものを、いつか全部こじ開けてやりたい。
泣かせたい。吐かせたい。言わせたい。
「あなたです」と、型通りの正解ではなく。逃げ道を塞がれた末の言葉ではなく。
本当の意味で、自分の名を。
そう願っていることを、今夜のレギュラスは認めたくなかった。
冷えすぎもしない、暖まりすぎもしない、そういう「整い」が、今日の胸のざわつきをいっそう浮き彫りにした。
役員室へ戻る途中、足は進んでいるのに意識だけがどこか別の場所に引っかかっている。
ローランド・フロストが、目を合わせなかった。
礼節の仮面を貼りつけたまま、視線だけを巧妙に逸らし、薄く笑い、逃げるように去っていった。あれは、ただの気分や疲れではない。
――何を隠している。
――何から逃げている。
思考がそこへ触れた瞬間、口元が自分でも嫌になるほど自然に緩む。
確かめたい。確かめなければ気が済まない。
胸の奥で疼くのは、怒りではなく、もっと卑しい好奇心だった。
役員室の扉を押し開けると、バーテミウスがいつもの場所にいた。書類の束に埋もれながら、こちらの気配だけで顔を上げる。
長年の悪友は、言葉を聞く前から色の違う空気を嗅ぎ分ける。
「……何かありましたね、レギュラス」
名を呼ぶ声音は軽いのに、視線は鋭い。
レギュラスは答えの代わりに椅子へ腰を落とし、ペンを手に取った。書類へ視線を落とす――ふりだけをする。文字は読めない。脳裏を占めるのは、翡翠色の瞳でも、柔らかな黒髪でもなく、あくまで“逸らされた視線”のほうだった。
「今夜、食事を用意してください。フロスト殿を招きます」
ペン先が、紙の上で止まった。
バーテミウスは一拍置いてから、吹き出すでもなく、呆れるでもなく、ただ乾いた笑みを浮かべる。
「……何を企んでるんです?」
企み。
その語感がむしろ心地よくて、喉の奥がくすぐったくなる。
レギュラスは微笑む。いつも通りの、外向きの整った笑みだ。けれど内側には、針のようなものが折りたたまれている。
「確認です。魔法省の廊下で、フロスト殿は不自然でしたから」
「確認、ねえ」
バーテミウスは肩を竦めた。逃がす気も止める気もない、傍観者の所作。
その態度が腹立たしいはずなのに、今日はむしろありがたい。誰も止めない。止められる理由などないのだから。
椅子の背にもたれ、指先で机の縁を軽く叩く。
アランの名が、胸の奥でひとつ音を立てる。
――あの男は、何を見た。
――何を思い出した。
――そして、何を“見ないふり”した。
ふと記憶がよみがえる。セシール家の屋敷。アランの部屋。
机の上に残されていたノート、整然と束ねられた研究資料、彼女らしい几帳面な筆跡。
そして、あのアルバム。幼い彼女の笑い顔と、背丈の近い少年の隣での無邪気さ。成長とともに距離が変わり、並ぶ肩がずれていく写真。
あれは過去だ。もう戻らない。取り返せない。
そう分かっているのに、胸が焼けるように痛んだ。――嫉妬という名の、あまりに不格好な感情。
だからこそ、今夜の食事が必要だった。
書類を置き、立ち上がる。
役員室の窓からは、魔法省の中庭が見える。人々が行き交い、笑い、仕事に急ぐ。誰も知らない。誰も気づかない。
この見晴らしのいい場所で、目に見えない縄を結び、ほどき、引き締める人間がいることを。
「招待状は要りません。僕から直接伝えます」
バーテミウスが片眉を上げる。
「直接ね。……丁寧に刺す気だ」
言い当てられて、レギュラスは笑った。
刺す。そう、刺すのだ。乱暴に殴るより、薄い刃を同じ場所へ繰り返し当てたほうが、心は綺麗に割れる。
魔法省の廊下へ出る。足音は静かで、靴底が磨かれた床を撫でる。
――落ち着け。
――機嫌がいい時ほど、手は丁寧になる。
ローランド・フロストの執務室へ向かうまでの数分が、奇妙に甘い。
幼い頃、贈り物を隠しておいた場所へ向かう時のように、胸が弾む。
しかもその贈り物は、相手にとって“祝福”の形をしているのだ。断れない。拒めない。礼節が邪魔をする。
扉の前で足を止め、軽くノックをする。
返事。許可。扉が開く。
ローランド・フロストが顔を上げた。淡い髪色、青い瞳。今日もきっちり整えられた身なり。
その全てが“誠実”という言葉の形をしているのに、胸の奥でどろりとしたものが広がる。
「ブラック様。いかがなさいましたか」
丁寧な声。丁寧な礼。丁寧な距離。
その完璧さが、むしろ今は滑稽だった。昨日までと同じ仮面なのに、ひとつだけ綻びがある。視線の逃げ方が、ほんの少しだけ早い。
レギュラスは柔らかく微笑んだ。
そして、言葉を慎重に選ぶ。相手が逃げられない角度を、自然な会話のふりで組み立てる。
「今夜、よろしければ食事をご一緒に。少しお話もしたくて」
「……今夜、ですか」
わずかに間が空いた。
たったそれだけで、心が踊る。
拒む理由を探している。だが、ここは魔法省だ。上官と部下という立場は、礼節を盾にできない。
「もちろん、ご都合がつく範囲で構いません。急な話ですから」
逃げ道を与える。
――与えるふりをする。
相手が“自分で選んだ”と思うように仕向けるのは、いつもの手だ。
ローランド・フロストは一瞬だけ唇を結び、そして頷いた。
「承知いたしました。ブラック様」
受けた。
胸の奥で、勝ちの音がした。
レギュラスはそれ以上、長居をしなかった。
礼を返し、穏やかな笑みを残して扉を閉める。廊下へ出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が入ってくる。整いすぎた温度が、体の内側だけをやけに熱くする。
今夜、食事の席で――
アラン・ブラックを、この男に存分に見せる。
目を逸らすなら逸らせばいい。礼節の仮面を守れば守るほど、内側が裂ける。
何を悟られたくないのか。何に触れられたくないのか。
そして、その“触れられたくないもの”が、どこまで深いのか。
確かめる。
丁寧に、静かに。
笑みのまま、針を刺す。
今夜の卓上に並ぶのは、料理だけではない。
言葉と視線と沈黙――そのすべてが、刃になる。
黒檀のように艶めく長い食卓は、今夜も寸分の狂いなく整えられていた。銀のカトラリーは燭台の火を受けて冷たく光り、磨き上げられたグラスの縁に、揺れる炎が薄い輪郭を落とす。
その完璧さが、かえって呼吸を窮屈にした。
アランはレギュラスの隣に座っていた。背筋をまっすぐに保ち、指先の位置まで意識して、いつもと変わらない“ブラック家の夫人”の顔を作る。膝の上に預けた腕の重みが、今日の自分が母であることを静かに主張していた。アルタイルは乳母に抱かれて客席の近くに控えている。ときおり小さく息を鳴らすだけで、驚くほど静かだった。
扉が開き、ローランド・フロストが案内されて入ってくる。
礼節が、そのまま人の形をして歩いてくるようだった。
「お招きいただき、光栄でございます、ブラック様」
低く、丁寧で、揺れのない声。いつだってそうだ。相手が誰であろうと、言葉の角を丸め、礼の深さを欠かさない。
けれど、今夜のローランドは、ひとつだけ決定的におかしかった。
視線が、アランを避けている。
避けている、というより――不自然なほど“そこにないもの”として扱っている。
アランの存在を見ていないのに、椅子の位置も距離も、ぶつからないよう完璧に選んでいる。視線を落とす角度、皿に向けるタイミング、グラスを取る指先の運びまで、すべてが丁寧で、そしてどこか切迫していた。
それは、まるで。
「ここに触れるな」と自分に言い聞かせているみたいに。
レギュラスはそんなローランドを、微笑みだけで迎えた。
よく訓練された貴族の微笑み――けれど今夜は、その奥に小さな愉悦が見え隠れする。わずかな欠けを見つけた宝石鑑定士のように、視線が涼しく鋭い。
「お越しいただきありがとうございます、フロスト殿。どうぞ、楽に。堅苦しい場ではありませんよ」
ローランドは「はい」とだけ答え、席に着く。
席に着いた瞬間、視線がまた逸れる。ほんの僅か、アランの方へ向きかけた眼差しが、慌てて皿の白へ落ちる。落とされた視線の跡が、そこに小さな血のような色を残した気がして、アランは胸の奥がきりきり痛んだ。
食事が始まる。
スープの湯気が立ち、ハーブの香りが静かに広がる。会話もまた、湯気のように淡く柔らかいものだけが選ばれていく――はずだった。
「アルタイル様は、お元気でいらっしゃいますか」
ローランドがそう口にした瞬間、アランは息が少しだけ止まった。
その“様”が、あまりにも丁寧で、あまりにも距離があったからだ。愛称でも親しみでもない、礼節だけで成り立つ呼び名。まるで赤子の頬に触れないための言葉。
「ええ。よく眠りますし、よく飲みます」
レギュラスが先に答える。グラスを傾ける所作まで、余裕で満ちている。
「親孝行でしょう?」
ローランドは小さく頷く。
「それは何よりでございます。……お顔立ちも、聡明なお父上に似ておいでです」
アランの指先が、ナプキンの縁をわずかに掴んだ。
褒め言葉のはずなのに、目は決してこちらに向かない。言葉だけが礼儀正しく飛んでくる。触れずに撫でるような、残酷な距離。
レギュラスは、それを見逃すはずがなかった。
ナイフで肉を切り分ける音が、静かな食堂に一度だけ走る。その音が、合図のように響いた。
「フロスト殿も、ぜひ。お世継ぎを期待されているでしょうから」
ローランドの手が一瞬、止まった。
ほんの瞬きほどの時間だったのに、アランには長く感じられた。ナイフの先が皿に触れ、かすかな金属音が鳴る。ローランドはすぐに所作を取り戻すが、その瞬間の“揺れ”だけは隠しようがない。
「……まだ、彼女には早い気がしますが」
淡い髪が燭台の光に透け、青い瞳が一度だけ伏せられる。
その声の柔らかさが、逆に苦しい。守ろうとする声だ。守ろうとしているのに、守れない場所に心がいる声。
レギュラスは微笑みを崩さない。けれど、その微笑みは慈悲ではなく、刃の薄い光だった。
「早い、ですか。――兄弟を作るのなら、早めの方がいいですよ」
さらり、と言葉を落とす。氷を水面に落とすみたいに、音も立てず、確実に温度を奪う落とし方。
そして、決定打のように続ける。
「先日僕もちょうど、妻に二人目の許可をいただいたところです」
空気が、ほんの僅かに硬くなる。
食卓の上の灯りは変わらないのに、炎が急に冷たい色を帯びた気がした。レギュラスの声はあくまで明るく、会話として自然な流れを装っている。けれどその言葉は、食卓の下で足首を絡め取る鎖のように生々しかった。
ローランドの喉が小さく鳴った。
飲み下したはずのものが、胸の奥で引っかかったような、わずかな音。
アランは、レギュラスへ視線を投げた。
やめてください、と言う代わりに。咎めるように、ただ静かに。
けれどレギュラスはそれを一瞥もせず、まるで当然の話題のようにグラスを軽く揺らすだけだった。
ローランドは、何かを言うべきなのに言葉が見つからない顔をした。
顔色が変わったわけではない。ただ、完璧な礼節の仮面に、ほんの小さな亀裂が走った。ひび割れの奥から覗くものが、熱なのか痛みなのか、それとも――抑えきれない渇きなのか。
「……ブラック様は、奥方を大切になさっているのですね」
ようやく絞り出した言葉は、丁寧すぎるほど丁寧で、だからこそ嘘のない苦しさを含んでいた。
「当然でしょう」
レギュラスは笑う。涼しく、軽やかに。
「妻ですから。――それに、僕は手に入れたものを大事にする性分なんです」
その言い方が、あまりにも露骨で。
アランは胸の奥で、小さく何かが崩れる音を聞いた気がした。
ローランドは、ますますアランを見ない。
見れば最後、礼節で縛ってきたものがほどけてしまうと知っているみたいに。青い瞳が、皿の白、銀の光、グラスの水面――触れても熱を持たない場所ばかりを彷徨う。
それなのに、アルタイルの話だけは丁寧に拾い上げる。
「アルタイル様は夜泣きは」
「アルタイル様はよく笑われますか」
「アルタイル様は――」
赤子の話題が、今夜の唯一の避難所のようだった。
触れてはいけないものから逃げるための、清潔な言葉。
レギュラスは、その逃げ道の存在すら面白がっているように見えた。
ゆっくりと、丁寧に、針を刺す。血が出ない程度に。痛みが遅れてくる深さで。
アランはただ、微笑みを崩さない。
崩せない。崩した瞬間、ここにあるすべてが“見えてしまう”から。
ローランドの逃げる視線も、レギュラスの愉悦も、自分の胸の奥に残っている熱も――見えてしまったら最後、もう二度と元には戻らない。
食卓の灯りは変わらない。
銀器は美しく光り続け、料理は完璧に供され、言葉は礼儀正しく交わされる。
なのに、その完璧さの中心で、アランの心臓だけが、うるさいほど鳴っていた。
まるでこの夜が、静かな戦場であることを、誰より自分が知っていると告げるように。
夜の屋敷は、昼間よりも音がよく響いた。
廊下を渡る足音、壁の中を走る暖炉の微かな唸り、遠い部屋で誰かが水差しを置く気配――そういうものが、闇に溶けきれずに薄い膜となって漂っている。
アランが寝室へ戻ったのは、食事の余韻が完全に消える前だった。
口元に残る香草の苦みよりも、胸の奥に引っかかったままの言葉の棘のほうが、ずっと強く彼女を縛っていた。
アルタイルはすでに乳母のもとで眠りについたと伝えられている。
その報せだけが、今夜アランの中でかろうじて形を保っている安堵だった。赤子の寝息の温かさは、今は遠い。けれど“無事に眠っている”という事実だけが、心の一部を守ってくれる。
寝室の扉が閉まる音が、やけに重かった。
燭台の火が揺れ、壁に影を作る。
結婚してから幾度も見慣れたはずの室内が、今夜はどこか違って見えた。整えられた寝台の白、磨かれた鏡の黒、香の微かな甘さ。すべてが“いつものブラック家”のはずなのに、食卓で交わされた言葉が、薄い霧のように部屋の隅へ滲み出してきて、空気を変質させている。
背後で扉が静かに開き、閉まる。
振り返らなくてもわかった。
レギュラスが入ってきた。
彼の足音は、いつも驚くほど控えめだ。にもかかわらず、アランの肩はほんの僅かに強張った。背中が、見えない圧に触れたみたいに。
レギュラスは外套を脱ぎ、手袋を外し、いつものように淡々と整える。
その所作が整えば整うほど、逆に怖かった。苛立っているときほど、この男はきれいに動く。怒りを乱雑に撒き散らさず、刃物のように研ぎ澄まして持ち歩く。
「……すごく不自然だとは思いませんでした?」
声音は柔らかい。問いかけの形をしている。
けれど、その柔らかさが、逃げ道を塞ぐために磨かれたものだとアランはもう知っていた。
アランは寝台の端に立ったまま、片手を自分の腹のあたりに添えた。癖のような仕草だった。子を産んだあとから、身体の中心に小さな重みが残ったような感覚がある。そこに手を置くと、ほんの少しだけ落ち着く気がした。
「何が、でしょうか……」
わざと曖昧に返す。
その言葉が、彼の望む答えではないこともわかっている。わかっていて、そうする。今夜、アランが守れるものはそれくらいしかなかった。
レギュラスは一歩、距離を詰めた。
燭台の火が彼の髪に淡い縁を作り、灰色の瞳が薄く光を返す。
「フロスト殿ですよ。あんなに見事に、あなたを避けて」
言葉の端に、愉快そうな響きが混じる。
“見事に”という一語が、残酷なほど明るかった。
アランの喉がきゅっと縮む。
ローランドが自分を見なかったこと。見ないことで必死に何かを守ろうとしていたこと。そこに気づいてしまった瞬間から、胸の奥がずっと疼いている。痛みは、今さら癒える種類のものではない。それでも、誰にも触れさせたくなかった。
レギュラスは、その“触れられたくなさ”を嗅ぎ当てるのが上手すぎる。
「ねえ、アラン」
呼び名が落ちる。
“セシール嬢”と呼ばれていた頃よりも、ずっと近くて、逃げにくい音。
「僕が、今日どんな話をわざとしたか。あなたならわかるでしょう?」
アランは目を伏せた。
床に落ちた自分の影が揺れている。揺れているのに、そこから動けない。
わかっている。
わかりすぎるほど、わかっている。
「二人目の許可をいただいたところです」――
あれは会話の形をした針だった。ローランドに向けて刺す針であると同時に、アランの内側の柔らかい部分へも、当然のように刺してくる針。反応を見たかったのだ。ローランドの表情の揺れを。言葉の詰まりを。そして、アランがどれほど耐えられるかを。
それだけではない。
ローランドに向けて“世継ぎを”という話題を滑らせたのも、アランの耳へ届かせるためだ。ローランドが前へ進むよう促すふりをして、こちらの心を揺さぶるための仕掛け。
本当に、どこまでも子供みたいな人だと思う。
それなのに、子供のような残酷さを、権力者の手つきで運ぶから厄介だった。
アランは静かに息を吸う。
胸の奥に溜まったものが、吐き気に変わりそうになるのを、歯の裏で押しとどめた。
「……よく、わかりません」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているように聞こえる声を作ることが、いつのまにか得意になっている。
レギュラスが、鼻で笑う。
「またそれですか」
たったそれだけの言葉なのに、皮膚の上を薄刃で撫でられたみたいだった。
痛くはない。けれど、切れている。切れたことに気づかないくらい静かに。
「あなたは、わからないと言えば守り切れると思ってる。そうやって壁を作って、綺麗な顔で」
レギュラスはゆっくりと近づき、アランの前に立った。
距離が詰まると、彼の体温が空気を変える。香の匂いと混ざって、夜の匂いが濃くなる。
「でも――僕は、あなたが“わかってる”って顔をした瞬間を、今日、何度も見ましたよ」
アランの指先が、寝台の縁を掴んだ。
絹のシーツは冷たいのに、その冷たさすら頼りにしたくなるほど、胸の中が熱かった。
「フロスト殿が、あなたを見ない理由。あなたが、その視線を追いそうになった瞬間。あなたの息が浅くなったのも」
レギュラスの声は、やけに丁寧だった。
丁寧だからこそ、逃げる隙がない。まるで尋問のように正確に、こちらの小さな破綻を拾い上げていく。
「僕が“二人目”の話をしたとき、あなたのまつげが一度だけ震えた。……あれは、何です?」
問いが落ちた。
その一語一語が、寝室の静けさに沈まずに、硬い音を立てて跳ね返る。
アランは唇を噛んだ。
ローランドの不自然さは確かにあった。けれど、もうそれを根掘り葉掘りできる立場ではない。自分が選んだ道が、そうさせない。
最後に投げられた「お元気で」という言葉が、今でも胸の底に沈んでいる。あの言葉を境に、二人の関係は終わった。終わったのだと、礼儀という名の壁で何度も塗り固めてきた。
だから――今さら、誰かに掘り返されるのが耐えられない。
思い出は、秘めた想いは、誰にも触れさせたくない。心の奥にしまって、そこだけは守りたい。
「……レギュラス」
呼びかけた声は、少しだけ弱かった。
それを悟られるのが悔しくて、アランは続けた。
「フロスト殿がどう思っているかなど……もう、私には……」
言い切る前に、喉が詰まった。
“私には関係がない”と言えばいいのに、その言葉が舌の上でうまく形にならない。関係がないふりをするほど、関係があったことを自分が知っているからだ。
レギュラスは、その詰まりを見逃さない。
「ほら。いま、息が詰まった」
まるで証拠を指差すように言う。
その顔には、苛立ちと愉悦が同居していた。手に入れた宝石の傷をなぞる子供みたいに、確かめて、確かめて、壊れる瞬間を待っている。
「僕はあなたの夫ですよ、アラン。――それなのに、あなたはフロスト殿のことで息を詰める」
アランは目を伏せたまま、首を振ることもできなかった。
否定すれば、また詰められる。肯定すれば、もっと深く刺される。どちらを選んでも、出口がない。
「……わかりません」
結局、またそれを言う。
言ってしまう自分が、情けなかった。
レギュラスは小さく息を吐いた。
その吐息が、呆れなのか、笑いなのか、怒りなのか、アランには判別がつかない。
「わからない、ですか」
語尾が静かに落ちる。
静かすぎて、逆に怖い。
「僕はね、あなたに“わからない”を言わせたいわけじゃない。……あなたの口から、ちゃんと聞きたいだけです」
アランの肩が僅かに震えた。
“ちゃんと”という言葉が、優しさのふりをしていた。けれど、それは優しさではない。拘束だ。正解を言うまで解放しない、あの男のやり方。
「今日のフロスト殿は、何から逃げていました?」
アランは、もう返せなかった。
答えを出せないのではなく、出したくなかった。出した瞬間、それがこの男の手に渡ってしまう。
過去も、想いも、最後に守りたかった小さな箱も。
沈黙が続く。
燭台の火だけが揺れ、布の擦れる音がやけに大きい。
レギュラスは、アランの顎に触れた。指先で持ち上げるように。強引ではない。強引でなくても、逆らえない触れ方だ。
アランの翡翠の瞳が、否応なく彼を映す。
「……ねえ、アラン」
その呼びかけは、さっきより低かった。
鋭さを隠した声。隠して、より深く刺す声。
「僕に嘘をつく必要はないでしょう」
アランの胸の奥で、何かがきしんだ。
嘘をついているわけではない。けれど、真実を差し出していない。それを“嘘”と呼ぶなら、この男の前では何も守れない。
「私は……」
声が震えそうになるのを堪え、アランは唇を結んだ。
代わりに、ほんの少しだけ視線を逸らす。逸らせるのは、その程度だ。逃げ道は、もうほとんど残っていない。
レギュラスは、その小さな逃避を許さないように、もう一度言った。
「わからない、で通すつもりですか」
その問いは、静かな宣告だった。
夜の寝室の中で、二人の間にあるものだけが、異様に鮮明になる。
過去の名前。いまの立場。守りたいもの。奪いたいもの。
アランは、息を整えた。
泣いてしまいそうになるのを、泣かないための礼儀で押し殺した。どんなに胸が痛んでも、顔を崩さない。崩した瞬間、彼の勝ちになる。
「……わかりません、レギュラス」
その一言が、今夜の彼女の盾だった。
盾であると同時に、自分をも切る刃だと知りながら。
レギュラスは、しばらくアランを見下ろしていた。
苛立ちが、ゆっくりと形を変えていくのがわかった。怒りが、娯楽へ変わるときの気配――あの男がいちばん残酷になる瞬間の、静かな予兆。
そして、口元だけで微笑む。
「そうですか」
優しい言葉の形をしていた。
けれど、その声は、次の一手をもう考え終えた人間のものだった。
「じゃあ……わかるまで、付き合ってもらいますね」
燭台の火が、ひときわ大きく揺れた。
アランの胸の奥で、守りたい箱の蓋が、きしむ音を立てた気がした。
何もかもを「わからない」で通す女が、死ぬほど腹立たしかった。
レギュラスの中で、理性だけが辛うじて形を保っている。
それがなければ――あの細い肩を揺さぶり、頬を叩き、泣くまで言葉を吐かせていた。そんな想像が、冗談でも脅しでもなく、現実味を持って胸の奥で蠢く。
それほどまでに。
この女は、手に入れてなお手に入らない。
寝室の灯りは落とされ、壁に映るのは二人の影だけだった。
薄い香が漂う。けれど今夜、その甘い匂いは何ひとつ慰めにならない。むしろ、綺麗に整えられた空気が、レギュラスの苛立ちを余計に際立たせた。
アランは寝台の傍に立ったまま、視線を落としている。
たったそれだけで――「逃げ道」を作っているのがわかる。目を合わせないことで、会話を途切れさせる。答えを差し出さない。そうすれば、世界が少しだけ安全になると信じている。
馬鹿げている。
この屋敷の中で、この男の前で、安全などあるはずがないのに。
「……また、わからないんですか」
レギュラスの声は低く、滑らかだった。
怒鳴らない。壊れたような激情を見せない。そういう粗雑なやり方は、いつでもできる。だからこそ、あえてしない。鋭い刃ほど、静かに置かれる。
アランは瞼を伏せたまま、息だけを整えた。
答えない。答えないことで、こちらを焦らす。沈黙という薄い壁を立てる。
その慎ましさが、ひどく生意気だった。
レギュラスは一歩近づき、指先でアランの顎を持ち上げる。
逆らえない角度。逆らおうとする気力さえ削ぐ、丁寧な触れ方。
翡翠の瞳が、ゆっくりとこちらを映した。
その瞬間だけで胸が満たされかける自分が、なおさら腹立たしい。愛しているくせに。愛しているからこそ。憎たらしさが同じだけ湧く。
「あなたは――僕を見ているのに、僕を見ていない」
言葉にすると幼稚だとわかる。
けれど、幼稚で何が悪い。欲しいものを欲しいと言えない世界で、欲しいと口にできる立場にいるのがレギュラスだった。
「……レギュラス」
名を呼ぶ声は静かだった。
そこに怯えが混じっていないのが、さらに苛立ちを煽る。昔のように怯えて縮こまれた方が、どれほど楽か。
「ねえ、アラン」
レギュラスは、微笑んだまま問う。
笑みの形は穏やかなのに、問いだけが容赦なく骨を探る。
「いま、誰の腕の中にいるんです?」
アランの睫毛が、ほんの僅かに揺れた。
その揺れを見逃さない。見逃せない。見逃した瞬間に、自分が負ける気がした。
「……あなたの」
返答は完璧だった。
まるで型に嵌めた宝石のように、濁りのない正解。レギュラスが望む音だけを選んで落としてくる。だからなおさら疑う。正解すぎる答えは、いつだって“心”の所在を隠すために使われる。
レギュラスの口元が、笑みのまま歪む。
「そう。僕の」
確かめるように、繰り返す。
自分のものだと口にして、耳で聞いて、胸に落とす。落とさないと、腹の底の苛立ちが燃え上がってしまう。
アランは、黙って立っている。
その沈黙が「抵抗」だと、もうわかっていた。叫びも涙もない。乱れた弁明もない。静かに、冷静に、しぶとく。こちらの欲しいところだけを外してくる。
――殴ってやりたい。
そんな感情がまた、喉の奥まで上がってくる。理性がそれを押し戻す。理性の代わりに、別の衝動が肩を叩いた。
“言葉で引きずり出せないなら、身体で確かめろ。”
レギュラスはアランの手首を取り、寝台の縁へ導く。強く引かない。強く引かなくても、抗えない距離の詰め方を知っている。
アランの呼吸が一度だけ乱れ、すぐに整う。整え直す。その仕草が、ひどく悔しかった。
「……怖いですか?」
問う声は甘いのに、優しさはない。
アランは答えない。答えないことで、自分の輪郭を守る。
レギュラスは、答えを待たない。
寝台に沈むアランの体温を、上から覆うように受け止める。今夜は、甘さも幸福も排除したかった。慰めの皮を被った交わりなど、要らない。ここにあるのは、所有の確認だけだ。
灯りが揺れ、影が絡む。
シーツの擦れる音が、静かな部屋に妙に大きく響く。
レギュラスはアランの頬に触れ、視線を逸らさせないようにした。
翡翠の瞳に自分を映させる。
映しているのに、まだ足りない。足りないから、問うことをやめられない。
胸の奥に、ローランド・フロストの名が刺さっている。
あの男の、あの青い瞳。誠実という言葉だけで出来ているような顔。そこに向けられるアランの“残り香”を想像するだけで、胃の底が熱くなる。
「……いま、誰を思っているんです?」
声が、少しだけ低くなる。
自分で自分の声の変化に気づき、笑いそうになる。みっともない。こんなにも全てを手に入れたのに、過去の影に噛みついている。
アランは唇を結び、目を逸らそうとする。
逸らさせない。逸らさないで、と言う代わりに、レギュラスは名前を呼ばせるための間合いだけを作った。
「アラン。僕を呼んで」
命令でも懇願でもない、淡々とした指示。
それがこの男の怖さだ。抵抗の余地を消し、当然のように従わせる。
アランの喉が小さく動いた。
逃げ場を探して、見つけられずに、諦めるような沈黙。
やがて、細い声が落ちた。
「……レギュラス」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい水が流れた。
怒りが消えるわけではない。嫉妬が消えるわけでもない。けれど、ほんの少しだけ――形にならない安堵が、確かにあった。
呼ばせているようなものだ。
わかっている。それでも、呼ばれた。
翡翠の瞳が、ほんの刹那だけこちらを受け入れた。
レギュラスはその刹那を逃さず、深く息を吐く。
満たされる。満たされてしまう自分が、また腹立たしい。愛している。憎たらしい。同じ量で胸を掻きむしる。
「もう一度」
囁くように言って、アランの唇に触れる。
長くはしない。長くすれば、甘さが混じる。今夜は甘さを混ぜたくない。混ぜた途端、自分が縋ってしまうから。
アランは、抵抗しない。
抵抗しないことが、抵抗だ。
彼女は泣かない。崩れない。崩れる瞬間をこちらに渡さない。冷静に、しぶとく、自分を保つ。
それが、レギュラスを狂わせる。
壊したい、と思う。
同時に、壊れる瞬間を見たくない、とも思う。自分のものが壊れるのが耐え難い。矛盾が、胸の中で暴れる。
「……ちゃんと言ってください、アラン」
声が硬くなる。
問いはまた、逃げ道のない形に研ぎ澄まされる。
「いま、僕に抱かれている。――それで合ってますね?」
アランは一瞬だけ、瞳を伏せる。
その間の短さが、答えの重さを物語っていた。
そして、静かに頷いた。
その頷きに、レギュラスはまた満たされる。
満たされるからこそ、さらに欲しくなる。もっと確かな形で、もっと逃げられない形で、この女の“今”を奪い取ってしまいたい。
今夜の行為は、甘い言葉で包むものではなかった。
幸福を語り合うための時間でもない。
ただ、確かめる。繰り返し確かめる。ここにいるのは誰か。誰のものか。誰の名を呼ぶか。
アランが、また名を呼ぶ。
そのたびに、レギュラスの胸のざらつきは少しだけ静まる。静まりきらないから、また問う。問わずにいられない。
そして――
名を呼ばせるたび、ほんの少しだけ救われている自分を、レギュラスは誰よりも嫌悪した。
それでも、やめられない。
この女が「わからない」で守ろうとするものを、いつか全部こじ開けてやりたい。
泣かせたい。吐かせたい。言わせたい。
「あなたです」と、型通りの正解ではなく。逃げ道を塞がれた末の言葉ではなく。
本当の意味で、自分の名を。
そう願っていることを、今夜のレギュラスは認めたくなかった。
