2章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔法省の廊下は、いつ来ても独特の温度があった。石造りの壁に染みついた古い魔力と、忙しなく行き交う足音、書類の擦れる乾いた音。天井近くを漂う告知羊皮紙が、誰かの肩にぶつかりそうになって身を翻し、遠くでは自動羽根ペンが机を叩く規則的なリズムが響いている。
レギュラスは、その雑多な気配の中心を、何事もない顔で歩いた。祝福の言葉も、軽い冗談も、役人たちの過剰な敬意も、微笑みひとつで受け流せる――はずだった。
けれど、胸の奥に残っているざらつきは、最近、簡単には消えてくれない。アランの表情のほんのわずかな揺れや、息の置き方ひとつで、もう分かってしまうものがある。その分かってしまう、という事実が、静かに苛立ちへ変わっていく。
曲がり角を折れた先で、ふと視界に淡い髪色が差し込んだ。人波の隙間に、青い瞳がひとつ、まっすぐにこちらを捉える。
ローランド・フロストだった。
呼吸を整える間もなく、彼は立ち止まり、礼を欠かさない動きで頭を下げた。制服の襟元も、袖口も、どこまでもきちんとしている。彼の誠実さは、こういう場でこそ余計に浮き彫りになる――まるで、石畳に落ちた一滴の清水みたいに。
「ブラック様。おはようございます」
その声もまた、柔らかく、丁寧で、感情の角がない。だからこそ、レギュラスの内側の棘に、触れないふりをしてくるようで、妙に腹の底がむず痒い。
レギュラスは、微笑んだ。口元だけが先に形を作り、瞳が遅れて追いつく、あの“社交界の微笑み”だ。
「おはようございます、フロスト殿」
すれ違いざまに終わらせてもいい挨拶だった。形式だけなら、十分すぎる。
けれど、足は止まった。止めたのは、ただの気まぐれではない。最近、自分の中で増えてきた“退屈しのぎ”という名の衝動が、舌先に言葉を運んでくる。
ローランドが礼を崩さぬまま身を引こうとした、その一瞬に、レギュラスは声を落とす。
「ところで。クラリッサ嬢が――少し、気にしているようでしたよ」
まるで、役所の書類の一文でも読み上げるみたいに、淡々と。
言葉そのものは柔らかい。けれど、意図だけが鋭い。
ローランドの瞳が、ほんのわずかに揺れた。すぐに元の青へ戻る。その戻り方が、あまりに必死で、可笑しくなるほどだった。
「……気にしている、とは」
「些細なことです」
レギュラスは軽く首を傾け、廊下の向こうを行き交う人影を眺めるふりをした。ここで真正面から刺すのは簡単だ。簡単すぎて面白くない。
だから、“それとなく”という刃の角度を選ぶ。
「夫婦というのは――特に、若い奥方というのは。自分が置き去りにされているように感じるだけで、不安になるものですからね」
ローランドの口元が、微かに固くなる。否定も肯定もできない、逃げ道のない種類の言葉だ。
彼はきっと、クラリッサのことを大切にしているのだろう。傷つけまいとして、急がせまいとして、慎重に慎重に距離を測っている。だが――その慎重さが、時に相手を余計に不安にさせることを、彼自身が一番よく分かっているはずだった。
「ブラック様、私どもは――」
言いかけた声が、喉のあたりで止まる。言葉を慎重に選ぼうとする癖が、そのまま沈黙になる。
その沈黙を、レギュラスは許さない。
「あなたが悪いと言いたいわけではありませんよ、フロスト殿」
にこやかに、ゆっくりと。いたわりの形をした言葉で、さらに追い詰める。
「ただ、彼女はあなたを信じている。だからこそ、あなたの反応一つで、嬉しくもなるし、怖くもなる。――そういう奥方です」
ローランドの瞳に、一瞬だけ熱が灯る。反発ではない。焦りに近い。守りたいものの輪郭が、目の前で揺らされるときの顔だ。
「クラリッサは、……幼いところがあります。ですが、誠実で、善良で……」
「ええ、知っています」
レギュラスは微笑みを崩さないまま、言葉を重ねた。
「だからこそ、なおさら、ですね」
この短い一言が、どれほど残酷に響くかを、レギュラスは知っている。
善良で、誠実で、無邪気であることは、時に、相手の逃げ道を塞ぐ。受け止めなければならない、と強制する。ローランドのような男にとって、それは鎖に近い。
ローランドは視線をわずかに落とし、再び上げた。その青が、きちんと整え直されている。
「……お気遣い、痛み入ります。私からも、妻には……」
言葉の最後が曖昧に薄れる。
“何を”言うのか。どう伝えるのか。どうすれば“夫婦として当然のもの”に応えられるのか。
彼の中で絡まっている糸が、短い会話越しにも見える。
レギュラスは満足した。ほんの少しだけ。
自分の妻のことを考えるだけで苛立つ日が続くなら、こうして誰かの平穏を軽く揺らして、気を紛らわせることくらい――許されるだろう、とさえ思ってしまう。
「焦らなくていいですよ、フロスト殿」
優しい声色で、わざと告げる。ローランドの口癖を、どこかで聞いた気がした。
「けれど、放っておくのも良くない。――それだけです」
ローランドは硬直したまま、深く頭を下げた。
「承知いたしました。ブラック様」
その丁寧さが、かえって面白い。
レギュラスは、何も言わずに歩き出した。足取りは軽い。けれど胸の内側は、さっきよりもなおざらついている。
廊下のガラス窓に、淡い光が差し込む。
その光の中で、ローランドがまだ立ち尽くしている気配を背に感じながら、レギュラスは唇の端をわずかに上げた。
――ああ、これでいい。
クラリッサという若い妻。ローランドという誠実な男。
それらを“整える”ふりをして、結局は自分の手のひらの上で踊らせているだけだという感覚が、嫌になるほど甘かった。
ブラック家の屋敷の午後は、静けさの質が違った。
人の気配は確かにある。廊下の遠くで銀器が触れ合う微かな音がして、どこかの扉が音もなく閉まる。けれど、それらは決して主の生活を乱さないように調律されていて、屋敷そのものが息を潜めているように見える。
陽射しは高窓から斜めに差し込み、絹のカーテンを淡く透かして、室内の空気に薄い金粉を混ぜた。
その光の中に、アランがいた。
腕に抱かれているのは、まだ小さな赤子――アルタイル。
丸い頬は柔らかな乳白色で、まつ毛の影がうっすらと頬に落ちている。時折、夢の中で何かを掴もうとするように、小さな指が空を握りしめてはほどける。そのたび、アランの指先が自然に添えられ、落ち着かせるように背を撫でる。手つきに迷いがない。母になったという事実が、彼女の動きをいっそう洗練させていた。
苛立ちは、確かに胸の底に残っている。
いくつもの感情の澱の中に、あの廊下で見た淡い髪と青い瞳の影が、まだ薄く沈んでいる。名前を口にすることさえ、気分を悪くする。なのに、同じ屋敷の中で、目の前の妻を見ていると――その苛立ちが、別の何かに塗り替えられていくのがわかった。
やはり、美しかった。
産後であろうと、疲れていようと、隙がない。
顔立ちはもとより、伏せた睫毛の線までが整いすぎていて、ただ息をしているだけで周囲の景色が引き締まる。翡翠の瞳がふと瞬くたび、光がそこで止まり、深く沈む。見ているだけで満たされる、という言葉が安っぽくなるほどの存在感が、そこにあった。
そして何より――その美しい妻が、この屋敷の跡取りとなる息子を抱いている。
自分の血が、彼女の腕の中で眠っている。
ブラックという名が、続く。
その現実の重みが、レギュラスの背筋をわずかに震わせた。胸の奥が熱を持ち、冷たい石造りの屋敷の空気の中で、そこだけが妙に生き物らしく脈打つ。勝ち取った、という感覚は日々の中で薄れるどころか、ふとした瞬間に鋭く蘇ってくる。
掌握している――そんな言葉では足りない。
全てが、自分の手の内にあるような気がしてしまう。危ういほどに。
アランはアルタイルを揺らしながら、窓の外に視線をやっていた。
ただ、それだけのこと。けれど、その横顔が、屋敷の壁よりも頑なに見える瞬間がある。母の顔をして、柔らかく見せながら、決して踏み込ませない場所を残している。そういう刃のようなものが、彼女の美しさには混じっていた。
それが、苛立たしい。
同時に、目を離せなくなる。
レギュラスは歩み寄った。靴音は抑えられているのに、アランの肩がほんのわずかに緊張するのがわかった。気づいていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか――その境界の曖昧さが、最近はよく見える。
距離が縮まると、アルタイルの温い匂いがした。ミルクと、柔らかな布と、まだ世界に慣れていない命の匂い。
アランの髪からは、いつものほのかな香りが混じる。そこに母親としての生活の気配が微かに添えられて、以前よりも現実的で――なのに、以前よりも遠い。
そんな矛盾を押し込めるように、レギュラスは穏やかな声を作った。
「アラン。少し、こっちを向いていてくれません?」
命令ではない。命令に聞こえないように、丁寧に選んだ言い方。
けれど、その丁寧さの下に、譲らない芯があるのを、アランは知っている。
アランは一瞬だけ迷ったように瞬きをし、それからゆっくり顔をこちらへ向けた。
翡翠の瞳が、レギュラスを映す。
それだけで、胸の内側に勝利の輪郭が戻ってくる。
視線が合うだけで、今この屋敷にある全てが「確かに自分のものだ」と確認できる。自分の名、地位、家、そして――この妻。息子。すべてが、目の前で形を持つ。
何も言わずにただ見てほしかった。
言葉にしてしまえば、途端に欲の色が濃くなる。だから、黙っている。視線だけで要求する。そのやり方を、レギュラスは昔から知っている。人を動かすときと同じだ。呼吸の間を詰め、逃げ道を塞ぐ。反応を引き出す。
アランは、アルタイルの頭を支え直した。赤子の頬が彼女の胸元に柔らかく沈み、息を吸うたびに小さな背中が上下する。
その光景が、あまりにも完成されすぎていて、ひどく残酷だった。自分が欲した「家族」という形が、すでに目の前にあるのに、まだ何かが足りないと喉が渇く。
アランが先に口を開いた。困ったように、けれど丁寧に微笑んで。
「……なんでしょう。ずっと見られると、落ち着きません」
照れたように笑う、その顔が、どこまでも整っている。
頬がわずかに色づくのは、羞恥なのか、それとも単なる反射なのか。彼女は言い訳のように視線を外しかけて、しかしアルタイルがいるせいで完全には逸らせない。母としての姿勢が、彼女の逃げを遅らせる。
レギュラスは笑みを崩さなかった。
けれど、その内側で、苛立ちが小さく鳴る。落ち着かない――その言葉の中に、距離がある。こちらを見ているのに、見ていない。心のどこかが、まだ別の場所を向いている気がしてならない。
それでも、視線が合っている今この瞬間だけは、許せてしまうのが腹立たしい。
アランが、翡翠の瞳で自分を映している。アルタイルが、二人の間で眠っている。完璧だ。完璧で――だからこそ、もっと欲しくなる。
レギュラスは、わずかに屈み、アルタイルの頬に触れない距離で指先を止めた。赤子がむずがる気配があると、アランがすぐ反応してしまうのが分かっているから。
触れずに、ただそこに指を置くふりをする。触れたいものを、触れないで支配する。
「落ち着かない?」
問い返しは軽い。けれど、逃がさない響きが混じる。
「……何が、です?」
アランの微笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
けれど彼女は、母の顔を崩さない。アルタイルの背を一定のリズムで撫で、呼吸を整えさせる。その手つきの落ち着きが、レギュラスの神経を逆撫でするほどに美しい。
この女は、何を失っても、品を失わない。
取り繕うことができる。沈黙で守ることができる。
そして、それができるからこそ、こちらが崩したくなる。
レギュラスは、アランの瞳の奥を覗き込むようにした。
そこに自分が映っていることを、何度でも確かめる。
「何も言わなくていいんです」
今度は、ほんとうに柔らかい声になった。
「ただ、見てくれればいい」
それはお願いの形をしている。
けれど、拒否を許さない祈りでもある。勝利の確認でもある。愛情と所有欲が区別できないまま、同じ温度で同じ言葉に溶けている。
アランは返事をしなかった。
代わりに、ふっと息を吐く。ため息に似ているのに、角がない。諦めにも見えるし、受容にも見える。どちらなのか判別できない、その曖昧さが、レギュラスを満たし、同時に苛立たせる。
けれど、翡翠の瞳は、こちらを映したままだった。
アルタイルの小さな寝息が二人の間をゆっくり満たして、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
この美しい妻と、跡取りの息子。
それを前にして、全身が震えるほどの優越感が湧き上がる。
――手に入れた。
そう確信できる瞬間が、まだ必要なのだと。
レギュラスは、そのどうしようもない渇きごと、黙って微笑んでいた。
純血貴族の屋敷が主宰する宴は、夜そのものを宝石箱に閉じ込めたようだった。
天井から垂れる幾重もの燭台は、炎というより光そのものが宙に浮かんでいるようで、金箔を施した壁面や銀の食器に反射して、会場を絶えず煌めかせている。香は甘く、しかし重すぎない。古い家の誇りと財の匂いが、空気の底に沈んでいた。
その中心に、レギュラスとアランは並んで立っていた。
黒を基調とした装いは、場の誰よりも静かで、誰よりも目を奪う。アランのドレスは華美ではない。けれど、肌の白さと髪の艶、そして翡翠の瞳がそれだけで充分に“装飾”になってしまう。産後の柔らかさが加わった輪郭は、以前よりも人の視線を引き寄せる力を持っていた。
当然のように視線が集まる。
当然のように言葉が降ってくる。
「ブラック家のご子息、いかがです? もう随分とお健やかだとか」
「夫人、まるで月日が経っていないような……」
「さすがブラック家、さすがセシール家――」
薄い笑みを貼りつけたまま、アランは礼儀正しく頷き、言葉を返す。
微笑みは崩れない。声色も乱れない。どれほど矢継ぎ早に祝福と羨望と好奇心が突き刺さってきても、彼女は“ブラック夫人”として完璧にそこにいた。
そして、その完璧さを飾り立てるように、魔法新聞の記者たちが距離を測る。
フラッシュライトが何度も焚かれた。光が弾けるたび、会場の空気が瞬間だけ白くなる。宝石みたいな眩しさの中で、二人の姿は切り取られ、明日の紙面へ運ばれていくのが目に見えるようだった。
レギュラスは微笑んで受け流す。
言葉は丁寧で、所作は余裕に満ち、視線は決して揺れない。魔法省の役員として日々“人の欲”を見慣れている男の、あまりにも自然な対応だった。祝福も嫉妬も、好意も毒も、すべて同じ盆の上に載せて扱える。
けれど――視線の海の中で、ふと一つの問いが投げ込まれた瞬間、空気の温度がわずかに変わった。
「次のお子さまは?」
とても軽い口調だった。
善意に見せかけた好奇心。血筋を重んじるこの世界では、当たり前すぎる質問。跡取りを産んだ妻に、次も、と。まるで季節の挨拶みたいに。
アランは一瞬も顔を崩さなかった。
翡翠の瞳は揺れず、口元には薄い微笑みが残り、ただ瞬きだけがほんの少しだけゆっくりになる。答えの代わりに礼節を置く――そのやり方を、彼女はいつの間にか身につけている。
レギュラスもまた、微笑んだ。
自然なことだろう。次の子。ブラックの未来。望まれて当然の言葉だ。
そう、理屈ではわかる。
だが、その問いの響きの奥で、ふいに引きずり出されるものがあった。
あの夜のことだ。
数日前から、彼女が苦しげに腹の張りを訴え、触れた指先に返ってきた硬さ。人の身体がそんなふうに限界を主張することを、レギュラスは知らなかった。柔らかいはずのものが、怖いほど張り詰めて、皮膚の下で命が動くことの奇跡が、同時に恐怖でもあると知った。
そして出産の最中。
痛みの波の合間に、アランがふっと意識を遠ざけていく瞬間。ヒーラーが「休息です」と言っても、あまりにも突然で、まるで魂が一瞬手放されるように見えて、心臓の奥が冷えた。声を上げないようにと助言され、彼女が歯を食いしばって耐える姿は、叫びよりも強烈だった。言葉も音もない分だけ、痛みだけが部屋に濃く残った。
桶に落ちる水音――いや、あれはただの水ではなかった。
耳に残る“ぼとり”という音と、空気に混じる鉄の匂い。吐き気にも似た眩暈。視界が一瞬揺らいだこと。立っているだけで、足元が遠くなるような感覚。
産まれた瞬間の歓喜は確かにあった。望み通りの男児。アルタイルという名。ヴァルブルガの歓喜。オリオンの満足げな笑み。
けれど、その幸福の縁には、確かに血の色が滲んでいた。
そして産後。
“産めば終わり”ではなかった。痛みは続き、彼女は淡々と「治ります」と言い、笑おうとすらした。なのに寝台の上で小さく眉を寄せる瞬間があり、そのたび胸の奥に、言葉にならない苛立ちが溜まった。怒りではない。悔しさに近い。どうしようもない無力さ――自分が何ひとつ代わってやれないという事実。
次の子。
自然なことだ。家のためにも。血のためにも。
けれど、もう一度、あれを。
あの時間を。あの匂いを。あの音を。あの意識が手放される瞬間を。
アランに“課す”という発想が、以前ほど平気ではなくなっている自分に気づく。
レギュラスは、微笑みを深くした。
その微笑みは、社交界が求める完璧な形のまま、ほんの少しだけ温度を帯びた。
「次の子、ですか」
周囲が耳を澄ませる気配がした。
記者のペン先が、光の下で小さく揺れる。フラッシュがもう一度焚かれ、白い眩しさが頬を撫でる。
レギュラスは肩をすくめるように、軽やかに――しかし決して崩れない声色で続けた。
「それは……妻に聞かなければ」
その場が、ふっと沸いた。
上品な笑いが波紋のように広がり、緊張の糸が一度ゆるむ。質問を投げた相手も、面子を保ったまま笑うしかない。返答としては洒落ていて、なおかつ“支配”の気配がない。むしろ、妻を立てた形にすら見える。
アランは、微笑んだままレギュラスを一瞬だけ見た。
翡翠の瞳の奥に、わずかな戸惑いと、気づかれないほどの安堵が混じる。けれどそれを表に出すことはなく、彼女はすぐに視線を戻し、礼儀の仮面を丁寧に整える。
――この場では。
この世界では。
二人は「完璧な夫婦」でなければならない。
レギュラスはその仮面の内側で、ひそかに息を整えた。
“妻に聞かなければ”という言葉は、社交のための洒落に過ぎない。そう見せるために吐いた。けれど同時に、あれは嘘ではなかった。
本当に、聞かなければならない。
もう一度、あの夜を彼女に渡していいのか。
あの身体に、あの痛みを、あの恐怖を、また刻ませていいのか。
その答えを、周囲の祝福の声に紛れさせたまま、レギュラスはただ微笑んでいた。
アランの肩に視線を添え、光の海の中で、彼女が崩れないことを確かめるように。
そして――崩れない彼女の奥にあるものを、今夜、誰にも見えない場所で確かめたい衝動を、ぎりぎりまで飲み込むように。
宴の喧騒が遠ざかったあとの屋敷は、音が減ったぶんだけ、気配が濃くなる。
廊下を渡る灯りは柔らかく、絨毯が足音を吸い込み、扉の向こうでは誰かの生活が静かに息をしている。祝福と羨望の渦の中心に立ち続けた夜の余韻が、まだ衣服の繊維の奥に残っていた。
寝室へ入ると、火の魔法は既に落ち着いた明るさに調整されていた。
金の縁取りが施されたカーテンが夜気を遮り、整えられた寝台が、そこが「夫婦の場」であることを遠慮なく主張している。香油と石鹸の匂いが混じり、寝具の白さが目に痛いほど清潔だった。
アランは部屋の端に立っていた。
宴の場で崩れなかった微笑みは、ここではほんの少しだけ緩んでいる。けれど、その緩みは安堵ではなく、役目を終えた仮面の紐をほどいた疲労に近い。翡翠の瞳は変わらず澄んでいるのに、どこか遠いところに焦点が合っている。
レギュラスは、扉の鍵が閉まる音を最後に、ゆっくりと歩み寄った。
いつもなら、言葉で追い詰める。逃げ道を塞ぐ。肯定だけを引き出す。
――そういう自分のやり方が、この屋敷では当たり前の手触りだったはずなのに。
今夜だけは、違った。
「次の子を望むかどうかは、あなたに委ねたいんですが」
自分の口から出た言葉に、ほんのわずかな違和感が走る。
選択肢を与えるようなことなど、ほとんどしたことがない。相手の望みを聞くふりをして、結局こちらの望みへ誘導するのが常だった。
だからだろう。アランが、目を丸くした。
翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを見る。驚きがそのまま光になって、瞳の奥で揺れた。
レギュラスは、それが妙に胸に刺さるのを感じた。
宴の最中、あらゆる視線と祝福を受け止め、笑い、返し、場を回し続けた自分が、たった一人の妻の「驚いた目」ひとつで、足元の感覚を変えられてしまう。
アランは一拍、呼吸を整えた。
いつもなら、言葉を選ぶ前に身構える。逃げ道の有無を探るような間が生まれる。けれど今夜のアランは、その間を作らない。まるで、最適解を既に掌の中に持っているように。
「あなたの妻ですから。あなたの望む通りにします」
澱みのない声だった。
正しい、としか言いようのない返答。ブラック家の正妻として、当主の妻として、そして何より――レギュラスという男が何を喜ぶかを理解したうえで放たれた言葉。
レギュラスは、口元を緩めた。
胸の奥で、満たされる音がする。勝利の甘さとは少し違う。もっと静かで、もっと深い場所を撫でられるような満足だ。
「随分と、僕好みの回答ですね」
軽い調子に装いながら、視線はアランから外れなかった。
アランは、ほんの少しだけ微笑んだ。控えめで、慎み深いのに、形そのものが完璧に整っている。宴で見せた“社交の微笑み”ではない。屋敷の内側で、夫に向けてしまった、逃げきれない柔らかさ。
それが、たまらなく美しい。
レギュラスは、言葉を続ける代わりに手を伸ばした。
指先が触れた肩は温かく、薄い布越しに鼓動が伝わる。逃げる気配はない。拒むほどの硬さもない。けれど、受け入れるだけの従順さとも違う。アランは、静かに立っている。自分の意思を消しきらないまま、こちらの腕の中へ収まる術を覚えてしまった生き物みたいに。
その距離が、さらに自分を満たした。
口づけは、最初は軽く触れるだけだった。
確かめるように、息の境目を探るように。けれど、アランがほんのわずかに瞼を伏せた瞬間、レギュラスの中の“続きを望むもの”が抑えを失った。
深くなる。
抱き寄せる腕に力がこもり、背中の線が指先に沿って確かになる。言葉ではなく、熱で意思を伝えるやり方に、アランはもう驚かない。受け止める。受け止めてしまう。
レギュラスは、アランの微かな呼吸の乱れを感じ取って、わずかに口づけをほどいた。
離れきらない距離で、囁くように言う。
「……今夜は、あなたに選ばせるつもりで言ったんです」
けれどその言い方は、優しさだけで出来ていなかった。
選ばせると言いながら、選ぶ先を見せる。逃げ道のない未来を、甘い形で差し出す。そういう男であることを、自分が一番知っている。
アランの瞳が揺れる。
けれど彼女は、逸らさない。逸らさずに、その揺れを隠すように、また微笑んだ。
「……わたしは、あなたの妻です」
その言葉だけで十分だった。
レギュラスの胸に、静かな確信が落ちる。自分が望んだ通りに、世界が形を整えていく感覚。なのに今夜のそれは、いつもの“勝利”ほど鋭くない。もっと柔らかくて、もっと重い。抱きしめる腕の内側に、守るべきものが増えた重さだ。
レギュラスは、もう一度、丁寧に口づけた。
急かさない。奪い取らない。けれど、終わらせもしない。
今夜の続きを望む意志だけを、熱と呼吸の中に混ぜて、静かに伝えていく。
そしてアランは、拒まなかった。
拒めないのではなく、拒まないという形で。
瞳の中に映る自分を受け入れるように、レギュラスの腕の中へ身を預けていった。
その瞬間、レギュラスは思った。
――選択肢を与えるふりをしたのは、結局自分のためだ。
それでも、彼女が自分の言葉を受け取り、自分の形で返したことが、今夜はひどく嬉しかった。
寝室の灯りは変わらず柔らかい。
外の世界がどれほど騒がしくとも、ここだけは静かに、確かに、二人の呼吸のリズムへと塗り替えられていく。
レギュラスの声が、耳の奥にまだ残っていた。
淡く笑って、当たり前のことのように――「悪い話ではないでしょう」と言ったあの調子。そこに「親族として、アランを支えてくだされば」と付け加えた瞬間、胸の内側に鈍い棘が刺さったまま抜けない。
支える。
その言葉が、何より残酷だった。
フロスト家の屋敷の寝室は、夜の気配を丁寧に抱え込んでいた。魔法灯は明るすぎず、蝋の香りと洗い立てのリネンの匂いが混じる。窓の外では樹々が風に擦れ、静かな音だけが規則正しく繰り返される。屋敷は眠りへ向かう準備を整えているのに、ローランドの心だけが眠り方を忘れていた。
寝台の端に腰掛けたクラリッサは、いつもより大人しく見えた。
昼間の天真爛漫さや、無邪気なわがままは影を潜め、膝の上で指を組み、ほどけない結び目を作るようにぎゅっと握っている。きちんと整えられた髪。品のあるナイトドレス。令嬢としての所作は、最初から備わっている。けれど、視線だけが不安に揺れていた。
「……ローランド様」
呼ばれて、胸がひくりと痛む。
その痛みは彼女のせいではない。むしろ、彼女がこんなにも自分を信じて寄り添おうとしてくれることが、ローランドの中の醜さを浮き彫りにする。
ローランドは息を吸って、ゆっくり吐いた。
言葉を選ぶためではなく、心を静めるために。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
いつもと同じ、丁寧な声。優しく、と自分に言い聞かせる声。
クラリッサは小さく頷いたが、その頷きが「わたしは待てます」ではなく、「待ってばかりで怖い」と言っているようにも見えて、胸が締めつけられた。
夫婦として当然のこと。
家のためのこと。
誰もが口に出さず前提にしている義務。
それを、ローランドはずっと“正しさ”という名の盾で先送りにしてきた。彼女が若いから。まだ幼く見えるから。自分が慣れていないから。――どれも言い訳の形をしている。言葉にした瞬間、余計に卑怯になる。
だから今夜、ローランドは一歩を踏み出すと決めた。
レギュラスに言われたからではない。言われたことで、自分がどれだけ逃げ続けてきたかを突きつけられたからだ。
「……もし、怖かったら、言ってください。途中でも、やめます」
クラリッサは驚いたように目を瞬き、それから少しだけ笑った。
その笑みの健気さが、刃のように胸へ入る。
「はい。……ローランド様に、合わせます」
合わせる、という言い方が、彼女の小ささを際立たせる。
それなのに、その小さな人が、自分の妻として隣に座っている現実がある。
ローランドは、そっと手を差し出した。
指先を重ねるだけのことが、ひどく重く感じた。拒まれないことが、許されていることの証なのに、その許しの温度が熱すぎて、手のひらが震えそうになる。
クラリッサの手は、温かかった。
人の体温だ。生きている温度だ。
その当たり前を確かめるように、ローランドは一度だけ深く息を吸い、そして彼女を寝台の奥へ導いた。
滞りなく、進んだ。
形だけを言えば、何の問題もない。夫婦として、穏やかに、慎重に。クラリッサは痛みを訴えず、戸惑いながらも懸命に応じようとしてくれる。ローランドの言葉に従い、呼吸に合わせ、ぎこちないながらも、彼女なりの優しさで触れてくる。
――だからこそ。
罪悪感が、静かに増殖した。
目を閉じた瞬間、そこに浮かぶのはクラリッサではなかった。
先日目にしてしまった、アラン・ブラックの姿だった。
産後とは思えないほど整えられた美しさ。
華美ではないドレスのはずなのに、花嫁を容易く凌駕してしまう存在感。柔らかさの奥に艶があり、曲線に陰影が生まれ、ただ“美しい”のではなく、人の理性を奪う種類の美しさになっていた。
最後に抱きしめた記憶より、ずっと、豊かで。
ずっと、遠かった。
――あれに、レギュラス・ブラックが毎晩触れているのか。
喉の奥がひりつき、胸の内側が焼ける。
気が狂いそうになる。
それでも礼節という鎖を噛ませて、耐えてきた。会えば挨拶をし、目を逸らし、言葉を整え、幸せを祈るふりをしてきた。自分の姿勢が正しいのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
なのに、あの姿を見てしまった。
見てしまえば、想像の中ではどこまでも自由で、なんだってできた。
触れて、抱きしめて、かつてのように口づけて、あの柔らかさを自分の中に閉じ込めたかった。届かないものほど、頭の中で輪郭が鮮やかになる。禁じられているものほど、甘く見える。
それが、今夜は最悪の形で噴き出した。
クラリッサを抱きながら。
心はアランへ向かっていた。
自分の中の醜さが、声を持って囁く。
クラリッサの温かさを、アランで塗り替えてしまえば、楽になれると。
卑怯な逃げ道を、当然のように差し出してくる。
ローランドは、奥歯を噛んだ。
痛みで現実へ戻ろうとした。戻らなければならなかった。目の前にいるのは、自分を信じてくれる妻だ。何も知らず、ただ“夫”に寄り添おうとしている少女だ。
なのに――心は、言うことを聞かない。
どこまでも、アランを呼ぶ。
終わったあと、クラリッサは小さく息をつき、頬を赤くしてローランドの胸元に額を寄せた。
ほっとしたような、誇らしげな、少し泣きそうな顔だった。ようやく“妻”としての役目を果たせたとでも言うように。
その顔を見た瞬間、ローランドは胸の底が冷えるのを感じた。
自分は、いま何をした。
誰を抱いた。
誰を思っていた。
抱きしめ返す腕が、遅れた。
遅れたことに気づいて、慌てて力を込めた。けれど、その抱擁には、クラリッサを包む温度と同時に、自分の罪を隠す必死さが混じってしまう。
「……大丈夫ですか」
声は、優しい形のままだった。
優しさの形を崩さないことだけが、最後に残った礼節だった。
「はい……ローランド様」
クラリッサが安心したように頷く。
その頷きが、ローランドを許してしまうみたいで、胃の奥が苦しくなる。
窓の外で、風がまた木々を擦った。
夜は何も知らない顔で続いていく。屋敷は静かで、寝室は温かくて、妻の体温は腕の中にある。――それなのに、ローランドの胸の中だけが荒れていた。
目を閉じれば、アランがいる。
目を開ければ、クラリッサがいる。
そしてそのどちらにも、正しい顔で向き合えていない自分がいる。
ローランドは、クラリッサの髪をそっと撫でた。
罪悪感を消すためではない。消えないとわかっている。
ただ、今夜の自分がどれほど醜くても、彼女を傷つける男にだけはならないと、遅すぎる誓いを胸の中で結び直すために。
「……おやすみなさい、クラリッサ」
優しい声で言いながら、喉の奥では別の名前が暴れていた。
それを口にしないために、ローランドは微笑み、呼吸を整え、目を開けたまま天井の闇を見つめ続けた。
眠りは、来なかった。
代わりに、胸の中で何度も何度も、同じ問いが繰り返される。
――自分は、いつまで、アランを手放せないのだろう。
翌朝の光は、残酷なほど澄んでいた。
夜の罪は闇の中でだけ形を持つのだと、どこかで勝手に信じていたのかもしれない。けれど現実は違う。朝は何も赦してくれない。眠れぬまま迎えた白い時間は、ただ静かに、昨夜の自分をそのまま連れてくる。
ローランドは身支度を整えながら、鏡の中の自分に視線を合わせられなかった。
丁寧に結んだネクタイも、整えた髪も、貴族の青年としての端正な外見も、内側で腐ったものを隠してくれるわけではない。礼節は鎧のように見えて、いざという時に剥がれてしまう薄い膜だと知ってしまった。
昨夜。
腕の中にはクラリッサがいた。温かく、健気で、信じきった瞳がそこにあった。
それなのに、心が向いた先は―― アランだった。
思い出すだけで喉が乾く。
いまさら何を、と自分で自分を叱りつけたくなる。けれど、抑えようとすればするほど、昨夜の“想像”が、逆に輪郭を持って迫ってくる。欲しかったのは、触れたかったのは、取り戻したかったのは、ひとりの女の温度だったのだと、朝になってもなお認めさせられる。
そして、その“温度”が。
今日、目の前に現れてしまう。
魔法省の廊下はいつも通り忙しく、人の気配が波のように行き交っていた。石造りの壁はひんやりとして、天井の高い空間に足音が反響する。書類の束を抱えた役人たちが早足で通り過ぎ、金色の魔法灯が昼間のように明るい光を落としている。
ローランドは、少しだけ歩幅を乱した。
遠くで、ざわめきが一瞬だけ変質するのがわかった。視線の流れが一方向へ寄り、空気に微かな張りが走る。誰かの息が、ほんのわずか上向く。
それが、彼女の到来を告げていた。
レギュラス・ブラックが歩いてくる。
その隣に、アラン・ブラックがいる。
――胸が鳴った。
自分の喉が、無意識に唾を飲み込む音さえ拾いそうだった。
昨夜、喉から手が出るほどに触れたかった体が、いま目の前にある。触れられない距離。触れてはならない距離。なのに、視界の中に入っただけで、身体が勝手に理解してしまう。
アランは、産後の艶を纏ったまま、恐ろしいほど整っていた。
華美な装いではない。けれど、だからこそ余計に目に痛い。静かな布地の落ち方ひとつ、歩くたびに揺れる髪の艶ひとつが、見る者の心を傷つける種類の美しさになっている。身体の曲線は以前よりもはっきりしていて、柔らかさが輪郭を持ったように見えた。
それを見た瞬間。
ローランドは、自分が“最も遠いところ”に立たされている気がした。
彼女の美しさは変わらないのに。
自分だけが、そこへ届く資格を完全に失ったのだと突きつけられる。
視線を合わせてはいけない。
合わせたら、昨夜の醜さが顔に出る。合わせたら、言葉が崩れる。
それでも、礼節だけは残っている。残していなければ、彼女に向き合う形さえ保てない。
ローランドは、ほんの僅か頭を下げた。
視線は彼女の瞳ではなく、胸元でもなく、ただ床の光の線へ逃げる。
「こんにちは、フロスト殿」
レギュラスの声は、いつも通り柔らかい。
けれどその柔らかさの奥に、鋭い刃が仕込まれているのを、ローランドはもう知っている。すべてを持ち、奪う側として生きてきた男の余裕がそこにある。
アランは、レギュラスの隣で静かに礼をした。
あの翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけこちらに向いた気がして、ローランドの呼吸が詰まる。
声が出る前に、レギュラスが言葉を継いだ。
「先日は、お疲れのところお付き合いいただきありがとうございました。……奥方も元気そうで」
奥方。クラリッサのことだ。
たったそれだけの言葉が、ローランドの胸を抉る。昨夜の記憶が、熱ではなく冷たさになって指先から這い上がってきた。
「……お心遣い、痛み入ります。ブラック様」
声は丁寧に、丁寧に。
余計な震えが混じらないように、言葉の端を磨く。磨けば磨くほど、内側に濁りが溜まる。
アランも口を開く。
「……ご無沙汰しております、フロスト殿」
その呼び方が、礼儀の形をしているのに、昔を知るローランドの胸には刺さる。
かつて彼女は、自分に向かってこんな距離のある声を出さなかった。名前を呼ぶだけで、未来の形がそこにあった。今は――ただの“挨拶”だ。
「……ブラック夫人」
ローランドは、あえてそう呼んだ。
自分で自分を縛るために。余計な感情が飛び出さないように、肩書きで壁を作るために。
アランの微笑みは崩れない。
その崩れなさが、なおさら苦しい。彼女の感情がわからないからではない。わかってしまいそうで怖いからだ。もし、あの瞳の奥に昔の温度がまだ残っていたら。もし、残っていないのなら――それはそれで、耐えられない。
レギュラスは、当たり前の顔でアランの隣に立っている。
それが世界の正しさであるかのように。
ローランドは、ほんの数言だけ交わした。業務の話。式の日取りの確認。必要書類の提出時期。誰にでもできる、誰の心も損なわない会話。
けれど、その“誰にでもできる”という安全さが、逆にローランドを追い詰めた。自分は今、彼女と二度と“誰か特別”として話すことはできないのだと、冷たく理解させられるからだ。
アランの横顔が視界に入るたびに、喉が鳴りそうになる。
香りがある気がする。肌の温度がある気がする。昨夜の妄執が、朝の現実に貼り付いて剥がれない。
限界だった。
「……失礼いたします。次の予定がございますので」
逃げるように言った。
礼を取り繕う手つきが、少しだけ早い。気づかれていないふりをしたかった。気づかれても、気づかれないふりをしてほしかった。
レギュラスは微笑んだままだった。
アランも微笑みを崩さず、静かに頷いた。
「ええ。お忙しいところ、呼び止めてしまってすみませんね、フロスト殿」
その声が、どこまでも穏やかで。
ローランドの中の何かが、ゆっくり崩れた。
ローランドは背を向けた。
歩幅を乱さないように。足音を大きくしないように。廊下の人波に紛れるように。
けれど、心は紛れない。背中に突き刺さるように、あの美しさが残る。目を閉じても、瞼の裏で彼女が立っている。
これ以上見ていられなかった。
見ていれば、自分がどこまで堕ちた人間か、際限なく思い知らされる。
美しいものの前では、醜いものは息ができない。
角を曲がったところで、ローランドはようやく息を吐いた。
肺に溜めていた息が、遅れて喉を震わせる。声にはならなかった。なるはずがない。
――逃げた。
そう自覚した瞬間、昨夜の罪悪感が、朝の光の中でさらに重くなる。
それでも。
あの翡翠の瞳を、これ以上見ていたら。
礼節という最後の糸さえ、きっと切れてしまっていた。
ローランド・フロストが背を向けた瞬間、廊下の空気がふっと軽くなったように感じた。
人の波は相変わらず流れているのに、そこだけが妙に空白になった――そんな錯覚が残る。礼儀だけを置き去りにして、本人だけが逃げるように消えていった。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、その背中を見送った。
見送りながら、胸の奥に小さな棘が刺さる。
おかしい。
フロスト殿は真面目で、慎重で、礼節という枠から絶対に外れない男だ。ならば、今のあれは何だ。目を合わせない。言葉を短く畳む。距離を取るというより、最初から自分をこの場に“置かない”ように振る舞う――あれは、礼儀の皮をかぶった退避だ。
レギュラスの視線が、自然とアランへと移る。
彼女は、何事もなかったかのように歩調を保っていた。柔らかな布地が足元で静かに揺れ、翡翠の瞳は落ち着いた光を湛えている。あの男が崩れたのに、彼女は崩れていない。
それが、余計に引っかかった。
レギュラスは歩きながら、声の高さを変えずに問う。あくまで、何でもない会話の延長として。
「……何かありました?」
隣を歩く妻に向けた言葉は穏やかだ。けれど、内側の温度は違う。
この問いは確認ではない。探りだ。
自分の知らない場所で、何かが動いたのではないか。アランが、フロスト殿と接触していたのではないか。そうであっても不思議ではない。彼女はセシール家へも通っている。研究の書類をまとめるため魔法省にも出入りする。偶然はいくらでも起こる。
アランは、ほんの一拍だけ呼吸を置いた。
頬の筋肉がわずかに緊張し、唇が形を作る。あの一瞬の遅れを、レギュラスは見逃さない。
「……いえ、一度も」
澱みのない、正しい答えだった。
嘘を吐いている、と決めつけるには綺麗すぎる返答。けれど、正しすぎる答えは、時に毒を含む。人は“何もない”時ほど、説明を足すものだ。――少なくとも、レギュラスの周囲にいる人間はそうだ。
レギュラスは、表情を崩さない。笑みも同じ形のまま、声も同じ温度のまま。
だからこそ、問いの刃だけが静かに研がれていく。
「そうですか」
軽く頷いてみせながら、レギュラスは心の中でその答えを転がす。
一度もない。
ならば、フロスト殿は何に怯えた? 何に罪悪感を抱えた? 何を見た?
―― アランを見たのか。
それなら、今さらだ。あの男は式の日に参列した。産後のアランの美しさも見ている。
ならば、今日の“視線を合わせない”という拒絶は、別の理由だ。
レギュラスは、ふと立ち止まるほどでもない違和感を、胸の奥へ押し込んだまま歩く。
廊下の窓から差す光が、アランの髪に淡い縁取りを与える。肩の線、首筋、うなじ。彼女はどこを切り取っても整っていて、静かな気品がある。見ているだけで満たされるはずなのに――今は満たされきらない。
「……フロスト殿は、いつもあんなふうではありませんね」
レギュラスは、独り言のように言った。
責めるでもなく、決めつけるでもなく。ただ事実を並べる声音。けれどその中には、“あなたもそう思うでしょう?”という誘導が混じっている。
アランは、視線を前に固定したまま、曖昧に微笑んだ。
いつもの、あの流す微笑み。母になってから身につけた、波風を立てないための表情。
それが、レギュラスの神経を逆撫でする。
知らないふりをする。
気づいていないふりをする。
何も堪えていないような顔で、必要な答えだけを差し出す。
その “上手さ” は、いつからだ。
――ローランド・フロストの前で、あなたはこんなふうに器用だったか?
レギュラスは微笑む。外から見れば、ただの夫婦だ。
けれど胸の奥では、別の計算が回り始めていた。見落としている何かがある。自分の掌の上にあるはずのものが、知らないところで小さく動いている。
それが許せない。
許せないというより、落ち着かない。――自分の世界の“隙”が、そこに見えるからだ。
レギュラスは、歩く速度をほんの少しだけ落とし、アランの顔を覗き込む角度を取った。
柔らかな声のまま、しかし逃げ道を与えない距離で。
「……本当に?」
言葉は短い。短いほど、圧が乗る。
アランが反射的にこちらを見返す。その翡翠の瞳が、ほんのわずか揺れる――揺れた気がする。
レギュラスはその揺れを、甘い毒のように味わいながら、笑みの形を変えずに続けた。
「あなたがそう言うなら、それでいいです。……ただ」
“ただ” の一言が、空気を締める。
廊下の喧騒が遠のき、二人の間に薄い膜が張られる。
「僕が知らないところで、あなたが何かを抱えているのなら――それは、僕の領分ですから」
宣告に近い口調だった。
怒鳴らない。責めない。けれど、支配の輪郭だけをはっきりさせる。魔法省で日々取引をし、人を測り、奪う側の鋭さが、そのまま言葉になっている。
アランの微笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
それを見て、レギュラスの胸の奥の棘が、ようやく形を持った。
やはり、何かある。
どこかで何かが、動いている。
レギュラスは、その答えを今ここで無理に引きずり出すことはしなかった。
――まだ、遊べる。追い詰める順番は選べる。
彼は穏やかに笑い、何事もなかったかのように歩き出す。
アランもまた、それに従う。完璧に、従順に。
けれど、レギュラスの内側だけは違った。
滑らかな表情の下で、鋭い視線が、いつの間にか“狩り”の形に変わっていた。
レギュラスは、その雑多な気配の中心を、何事もない顔で歩いた。祝福の言葉も、軽い冗談も、役人たちの過剰な敬意も、微笑みひとつで受け流せる――はずだった。
けれど、胸の奥に残っているざらつきは、最近、簡単には消えてくれない。アランの表情のほんのわずかな揺れや、息の置き方ひとつで、もう分かってしまうものがある。その分かってしまう、という事実が、静かに苛立ちへ変わっていく。
曲がり角を折れた先で、ふと視界に淡い髪色が差し込んだ。人波の隙間に、青い瞳がひとつ、まっすぐにこちらを捉える。
ローランド・フロストだった。
呼吸を整える間もなく、彼は立ち止まり、礼を欠かさない動きで頭を下げた。制服の襟元も、袖口も、どこまでもきちんとしている。彼の誠実さは、こういう場でこそ余計に浮き彫りになる――まるで、石畳に落ちた一滴の清水みたいに。
「ブラック様。おはようございます」
その声もまた、柔らかく、丁寧で、感情の角がない。だからこそ、レギュラスの内側の棘に、触れないふりをしてくるようで、妙に腹の底がむず痒い。
レギュラスは、微笑んだ。口元だけが先に形を作り、瞳が遅れて追いつく、あの“社交界の微笑み”だ。
「おはようございます、フロスト殿」
すれ違いざまに終わらせてもいい挨拶だった。形式だけなら、十分すぎる。
けれど、足は止まった。止めたのは、ただの気まぐれではない。最近、自分の中で増えてきた“退屈しのぎ”という名の衝動が、舌先に言葉を運んでくる。
ローランドが礼を崩さぬまま身を引こうとした、その一瞬に、レギュラスは声を落とす。
「ところで。クラリッサ嬢が――少し、気にしているようでしたよ」
まるで、役所の書類の一文でも読み上げるみたいに、淡々と。
言葉そのものは柔らかい。けれど、意図だけが鋭い。
ローランドの瞳が、ほんのわずかに揺れた。すぐに元の青へ戻る。その戻り方が、あまりに必死で、可笑しくなるほどだった。
「……気にしている、とは」
「些細なことです」
レギュラスは軽く首を傾け、廊下の向こうを行き交う人影を眺めるふりをした。ここで真正面から刺すのは簡単だ。簡単すぎて面白くない。
だから、“それとなく”という刃の角度を選ぶ。
「夫婦というのは――特に、若い奥方というのは。自分が置き去りにされているように感じるだけで、不安になるものですからね」
ローランドの口元が、微かに固くなる。否定も肯定もできない、逃げ道のない種類の言葉だ。
彼はきっと、クラリッサのことを大切にしているのだろう。傷つけまいとして、急がせまいとして、慎重に慎重に距離を測っている。だが――その慎重さが、時に相手を余計に不安にさせることを、彼自身が一番よく分かっているはずだった。
「ブラック様、私どもは――」
言いかけた声が、喉のあたりで止まる。言葉を慎重に選ぼうとする癖が、そのまま沈黙になる。
その沈黙を、レギュラスは許さない。
「あなたが悪いと言いたいわけではありませんよ、フロスト殿」
にこやかに、ゆっくりと。いたわりの形をした言葉で、さらに追い詰める。
「ただ、彼女はあなたを信じている。だからこそ、あなたの反応一つで、嬉しくもなるし、怖くもなる。――そういう奥方です」
ローランドの瞳に、一瞬だけ熱が灯る。反発ではない。焦りに近い。守りたいものの輪郭が、目の前で揺らされるときの顔だ。
「クラリッサは、……幼いところがあります。ですが、誠実で、善良で……」
「ええ、知っています」
レギュラスは微笑みを崩さないまま、言葉を重ねた。
「だからこそ、なおさら、ですね」
この短い一言が、どれほど残酷に響くかを、レギュラスは知っている。
善良で、誠実で、無邪気であることは、時に、相手の逃げ道を塞ぐ。受け止めなければならない、と強制する。ローランドのような男にとって、それは鎖に近い。
ローランドは視線をわずかに落とし、再び上げた。その青が、きちんと整え直されている。
「……お気遣い、痛み入ります。私からも、妻には……」
言葉の最後が曖昧に薄れる。
“何を”言うのか。どう伝えるのか。どうすれば“夫婦として当然のもの”に応えられるのか。
彼の中で絡まっている糸が、短い会話越しにも見える。
レギュラスは満足した。ほんの少しだけ。
自分の妻のことを考えるだけで苛立つ日が続くなら、こうして誰かの平穏を軽く揺らして、気を紛らわせることくらい――許されるだろう、とさえ思ってしまう。
「焦らなくていいですよ、フロスト殿」
優しい声色で、わざと告げる。ローランドの口癖を、どこかで聞いた気がした。
「けれど、放っておくのも良くない。――それだけです」
ローランドは硬直したまま、深く頭を下げた。
「承知いたしました。ブラック様」
その丁寧さが、かえって面白い。
レギュラスは、何も言わずに歩き出した。足取りは軽い。けれど胸の内側は、さっきよりもなおざらついている。
廊下のガラス窓に、淡い光が差し込む。
その光の中で、ローランドがまだ立ち尽くしている気配を背に感じながら、レギュラスは唇の端をわずかに上げた。
――ああ、これでいい。
クラリッサという若い妻。ローランドという誠実な男。
それらを“整える”ふりをして、結局は自分の手のひらの上で踊らせているだけだという感覚が、嫌になるほど甘かった。
ブラック家の屋敷の午後は、静けさの質が違った。
人の気配は確かにある。廊下の遠くで銀器が触れ合う微かな音がして、どこかの扉が音もなく閉まる。けれど、それらは決して主の生活を乱さないように調律されていて、屋敷そのものが息を潜めているように見える。
陽射しは高窓から斜めに差し込み、絹のカーテンを淡く透かして、室内の空気に薄い金粉を混ぜた。
その光の中に、アランがいた。
腕に抱かれているのは、まだ小さな赤子――アルタイル。
丸い頬は柔らかな乳白色で、まつ毛の影がうっすらと頬に落ちている。時折、夢の中で何かを掴もうとするように、小さな指が空を握りしめてはほどける。そのたび、アランの指先が自然に添えられ、落ち着かせるように背を撫でる。手つきに迷いがない。母になったという事実が、彼女の動きをいっそう洗練させていた。
苛立ちは、確かに胸の底に残っている。
いくつもの感情の澱の中に、あの廊下で見た淡い髪と青い瞳の影が、まだ薄く沈んでいる。名前を口にすることさえ、気分を悪くする。なのに、同じ屋敷の中で、目の前の妻を見ていると――その苛立ちが、別の何かに塗り替えられていくのがわかった。
やはり、美しかった。
産後であろうと、疲れていようと、隙がない。
顔立ちはもとより、伏せた睫毛の線までが整いすぎていて、ただ息をしているだけで周囲の景色が引き締まる。翡翠の瞳がふと瞬くたび、光がそこで止まり、深く沈む。見ているだけで満たされる、という言葉が安っぽくなるほどの存在感が、そこにあった。
そして何より――その美しい妻が、この屋敷の跡取りとなる息子を抱いている。
自分の血が、彼女の腕の中で眠っている。
ブラックという名が、続く。
その現実の重みが、レギュラスの背筋をわずかに震わせた。胸の奥が熱を持ち、冷たい石造りの屋敷の空気の中で、そこだけが妙に生き物らしく脈打つ。勝ち取った、という感覚は日々の中で薄れるどころか、ふとした瞬間に鋭く蘇ってくる。
掌握している――そんな言葉では足りない。
全てが、自分の手の内にあるような気がしてしまう。危ういほどに。
アランはアルタイルを揺らしながら、窓の外に視線をやっていた。
ただ、それだけのこと。けれど、その横顔が、屋敷の壁よりも頑なに見える瞬間がある。母の顔をして、柔らかく見せながら、決して踏み込ませない場所を残している。そういう刃のようなものが、彼女の美しさには混じっていた。
それが、苛立たしい。
同時に、目を離せなくなる。
レギュラスは歩み寄った。靴音は抑えられているのに、アランの肩がほんのわずかに緊張するのがわかった。気づいていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか――その境界の曖昧さが、最近はよく見える。
距離が縮まると、アルタイルの温い匂いがした。ミルクと、柔らかな布と、まだ世界に慣れていない命の匂い。
アランの髪からは、いつものほのかな香りが混じる。そこに母親としての生活の気配が微かに添えられて、以前よりも現実的で――なのに、以前よりも遠い。
そんな矛盾を押し込めるように、レギュラスは穏やかな声を作った。
「アラン。少し、こっちを向いていてくれません?」
命令ではない。命令に聞こえないように、丁寧に選んだ言い方。
けれど、その丁寧さの下に、譲らない芯があるのを、アランは知っている。
アランは一瞬だけ迷ったように瞬きをし、それからゆっくり顔をこちらへ向けた。
翡翠の瞳が、レギュラスを映す。
それだけで、胸の内側に勝利の輪郭が戻ってくる。
視線が合うだけで、今この屋敷にある全てが「確かに自分のものだ」と確認できる。自分の名、地位、家、そして――この妻。息子。すべてが、目の前で形を持つ。
何も言わずにただ見てほしかった。
言葉にしてしまえば、途端に欲の色が濃くなる。だから、黙っている。視線だけで要求する。そのやり方を、レギュラスは昔から知っている。人を動かすときと同じだ。呼吸の間を詰め、逃げ道を塞ぐ。反応を引き出す。
アランは、アルタイルの頭を支え直した。赤子の頬が彼女の胸元に柔らかく沈み、息を吸うたびに小さな背中が上下する。
その光景が、あまりにも完成されすぎていて、ひどく残酷だった。自分が欲した「家族」という形が、すでに目の前にあるのに、まだ何かが足りないと喉が渇く。
アランが先に口を開いた。困ったように、けれど丁寧に微笑んで。
「……なんでしょう。ずっと見られると、落ち着きません」
照れたように笑う、その顔が、どこまでも整っている。
頬がわずかに色づくのは、羞恥なのか、それとも単なる反射なのか。彼女は言い訳のように視線を外しかけて、しかしアルタイルがいるせいで完全には逸らせない。母としての姿勢が、彼女の逃げを遅らせる。
レギュラスは笑みを崩さなかった。
けれど、その内側で、苛立ちが小さく鳴る。落ち着かない――その言葉の中に、距離がある。こちらを見ているのに、見ていない。心のどこかが、まだ別の場所を向いている気がしてならない。
それでも、視線が合っている今この瞬間だけは、許せてしまうのが腹立たしい。
アランが、翡翠の瞳で自分を映している。アルタイルが、二人の間で眠っている。完璧だ。完璧で――だからこそ、もっと欲しくなる。
レギュラスは、わずかに屈み、アルタイルの頬に触れない距離で指先を止めた。赤子がむずがる気配があると、アランがすぐ反応してしまうのが分かっているから。
触れずに、ただそこに指を置くふりをする。触れたいものを、触れないで支配する。
「落ち着かない?」
問い返しは軽い。けれど、逃がさない響きが混じる。
「……何が、です?」
アランの微笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
けれど彼女は、母の顔を崩さない。アルタイルの背を一定のリズムで撫で、呼吸を整えさせる。その手つきの落ち着きが、レギュラスの神経を逆撫でするほどに美しい。
この女は、何を失っても、品を失わない。
取り繕うことができる。沈黙で守ることができる。
そして、それができるからこそ、こちらが崩したくなる。
レギュラスは、アランの瞳の奥を覗き込むようにした。
そこに自分が映っていることを、何度でも確かめる。
「何も言わなくていいんです」
今度は、ほんとうに柔らかい声になった。
「ただ、見てくれればいい」
それはお願いの形をしている。
けれど、拒否を許さない祈りでもある。勝利の確認でもある。愛情と所有欲が区別できないまま、同じ温度で同じ言葉に溶けている。
アランは返事をしなかった。
代わりに、ふっと息を吐く。ため息に似ているのに、角がない。諦めにも見えるし、受容にも見える。どちらなのか判別できない、その曖昧さが、レギュラスを満たし、同時に苛立たせる。
けれど、翡翠の瞳は、こちらを映したままだった。
アルタイルの小さな寝息が二人の間をゆっくり満たして、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
この美しい妻と、跡取りの息子。
それを前にして、全身が震えるほどの優越感が湧き上がる。
――手に入れた。
そう確信できる瞬間が、まだ必要なのだと。
レギュラスは、そのどうしようもない渇きごと、黙って微笑んでいた。
純血貴族の屋敷が主宰する宴は、夜そのものを宝石箱に閉じ込めたようだった。
天井から垂れる幾重もの燭台は、炎というより光そのものが宙に浮かんでいるようで、金箔を施した壁面や銀の食器に反射して、会場を絶えず煌めかせている。香は甘く、しかし重すぎない。古い家の誇りと財の匂いが、空気の底に沈んでいた。
その中心に、レギュラスとアランは並んで立っていた。
黒を基調とした装いは、場の誰よりも静かで、誰よりも目を奪う。アランのドレスは華美ではない。けれど、肌の白さと髪の艶、そして翡翠の瞳がそれだけで充分に“装飾”になってしまう。産後の柔らかさが加わった輪郭は、以前よりも人の視線を引き寄せる力を持っていた。
当然のように視線が集まる。
当然のように言葉が降ってくる。
「ブラック家のご子息、いかがです? もう随分とお健やかだとか」
「夫人、まるで月日が経っていないような……」
「さすがブラック家、さすがセシール家――」
薄い笑みを貼りつけたまま、アランは礼儀正しく頷き、言葉を返す。
微笑みは崩れない。声色も乱れない。どれほど矢継ぎ早に祝福と羨望と好奇心が突き刺さってきても、彼女は“ブラック夫人”として完璧にそこにいた。
そして、その完璧さを飾り立てるように、魔法新聞の記者たちが距離を測る。
フラッシュライトが何度も焚かれた。光が弾けるたび、会場の空気が瞬間だけ白くなる。宝石みたいな眩しさの中で、二人の姿は切り取られ、明日の紙面へ運ばれていくのが目に見えるようだった。
レギュラスは微笑んで受け流す。
言葉は丁寧で、所作は余裕に満ち、視線は決して揺れない。魔法省の役員として日々“人の欲”を見慣れている男の、あまりにも自然な対応だった。祝福も嫉妬も、好意も毒も、すべて同じ盆の上に載せて扱える。
けれど――視線の海の中で、ふと一つの問いが投げ込まれた瞬間、空気の温度がわずかに変わった。
「次のお子さまは?」
とても軽い口調だった。
善意に見せかけた好奇心。血筋を重んじるこの世界では、当たり前すぎる質問。跡取りを産んだ妻に、次も、と。まるで季節の挨拶みたいに。
アランは一瞬も顔を崩さなかった。
翡翠の瞳は揺れず、口元には薄い微笑みが残り、ただ瞬きだけがほんの少しだけゆっくりになる。答えの代わりに礼節を置く――そのやり方を、彼女はいつの間にか身につけている。
レギュラスもまた、微笑んだ。
自然なことだろう。次の子。ブラックの未来。望まれて当然の言葉だ。
そう、理屈ではわかる。
だが、その問いの響きの奥で、ふいに引きずり出されるものがあった。
あの夜のことだ。
数日前から、彼女が苦しげに腹の張りを訴え、触れた指先に返ってきた硬さ。人の身体がそんなふうに限界を主張することを、レギュラスは知らなかった。柔らかいはずのものが、怖いほど張り詰めて、皮膚の下で命が動くことの奇跡が、同時に恐怖でもあると知った。
そして出産の最中。
痛みの波の合間に、アランがふっと意識を遠ざけていく瞬間。ヒーラーが「休息です」と言っても、あまりにも突然で、まるで魂が一瞬手放されるように見えて、心臓の奥が冷えた。声を上げないようにと助言され、彼女が歯を食いしばって耐える姿は、叫びよりも強烈だった。言葉も音もない分だけ、痛みだけが部屋に濃く残った。
桶に落ちる水音――いや、あれはただの水ではなかった。
耳に残る“ぼとり”という音と、空気に混じる鉄の匂い。吐き気にも似た眩暈。視界が一瞬揺らいだこと。立っているだけで、足元が遠くなるような感覚。
産まれた瞬間の歓喜は確かにあった。望み通りの男児。アルタイルという名。ヴァルブルガの歓喜。オリオンの満足げな笑み。
けれど、その幸福の縁には、確かに血の色が滲んでいた。
そして産後。
“産めば終わり”ではなかった。痛みは続き、彼女は淡々と「治ります」と言い、笑おうとすらした。なのに寝台の上で小さく眉を寄せる瞬間があり、そのたび胸の奥に、言葉にならない苛立ちが溜まった。怒りではない。悔しさに近い。どうしようもない無力さ――自分が何ひとつ代わってやれないという事実。
次の子。
自然なことだ。家のためにも。血のためにも。
けれど、もう一度、あれを。
あの時間を。あの匂いを。あの音を。あの意識が手放される瞬間を。
アランに“課す”という発想が、以前ほど平気ではなくなっている自分に気づく。
レギュラスは、微笑みを深くした。
その微笑みは、社交界が求める完璧な形のまま、ほんの少しだけ温度を帯びた。
「次の子、ですか」
周囲が耳を澄ませる気配がした。
記者のペン先が、光の下で小さく揺れる。フラッシュがもう一度焚かれ、白い眩しさが頬を撫でる。
レギュラスは肩をすくめるように、軽やかに――しかし決して崩れない声色で続けた。
「それは……妻に聞かなければ」
その場が、ふっと沸いた。
上品な笑いが波紋のように広がり、緊張の糸が一度ゆるむ。質問を投げた相手も、面子を保ったまま笑うしかない。返答としては洒落ていて、なおかつ“支配”の気配がない。むしろ、妻を立てた形にすら見える。
アランは、微笑んだままレギュラスを一瞬だけ見た。
翡翠の瞳の奥に、わずかな戸惑いと、気づかれないほどの安堵が混じる。けれどそれを表に出すことはなく、彼女はすぐに視線を戻し、礼儀の仮面を丁寧に整える。
――この場では。
この世界では。
二人は「完璧な夫婦」でなければならない。
レギュラスはその仮面の内側で、ひそかに息を整えた。
“妻に聞かなければ”という言葉は、社交のための洒落に過ぎない。そう見せるために吐いた。けれど同時に、あれは嘘ではなかった。
本当に、聞かなければならない。
もう一度、あの夜を彼女に渡していいのか。
あの身体に、あの痛みを、あの恐怖を、また刻ませていいのか。
その答えを、周囲の祝福の声に紛れさせたまま、レギュラスはただ微笑んでいた。
アランの肩に視線を添え、光の海の中で、彼女が崩れないことを確かめるように。
そして――崩れない彼女の奥にあるものを、今夜、誰にも見えない場所で確かめたい衝動を、ぎりぎりまで飲み込むように。
宴の喧騒が遠ざかったあとの屋敷は、音が減ったぶんだけ、気配が濃くなる。
廊下を渡る灯りは柔らかく、絨毯が足音を吸い込み、扉の向こうでは誰かの生活が静かに息をしている。祝福と羨望の渦の中心に立ち続けた夜の余韻が、まだ衣服の繊維の奥に残っていた。
寝室へ入ると、火の魔法は既に落ち着いた明るさに調整されていた。
金の縁取りが施されたカーテンが夜気を遮り、整えられた寝台が、そこが「夫婦の場」であることを遠慮なく主張している。香油と石鹸の匂いが混じり、寝具の白さが目に痛いほど清潔だった。
アランは部屋の端に立っていた。
宴の場で崩れなかった微笑みは、ここではほんの少しだけ緩んでいる。けれど、その緩みは安堵ではなく、役目を終えた仮面の紐をほどいた疲労に近い。翡翠の瞳は変わらず澄んでいるのに、どこか遠いところに焦点が合っている。
レギュラスは、扉の鍵が閉まる音を最後に、ゆっくりと歩み寄った。
いつもなら、言葉で追い詰める。逃げ道を塞ぐ。肯定だけを引き出す。
――そういう自分のやり方が、この屋敷では当たり前の手触りだったはずなのに。
今夜だけは、違った。
「次の子を望むかどうかは、あなたに委ねたいんですが」
自分の口から出た言葉に、ほんのわずかな違和感が走る。
選択肢を与えるようなことなど、ほとんどしたことがない。相手の望みを聞くふりをして、結局こちらの望みへ誘導するのが常だった。
だからだろう。アランが、目を丸くした。
翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを見る。驚きがそのまま光になって、瞳の奥で揺れた。
レギュラスは、それが妙に胸に刺さるのを感じた。
宴の最中、あらゆる視線と祝福を受け止め、笑い、返し、場を回し続けた自分が、たった一人の妻の「驚いた目」ひとつで、足元の感覚を変えられてしまう。
アランは一拍、呼吸を整えた。
いつもなら、言葉を選ぶ前に身構える。逃げ道の有無を探るような間が生まれる。けれど今夜のアランは、その間を作らない。まるで、最適解を既に掌の中に持っているように。
「あなたの妻ですから。あなたの望む通りにします」
澱みのない声だった。
正しい、としか言いようのない返答。ブラック家の正妻として、当主の妻として、そして何より――レギュラスという男が何を喜ぶかを理解したうえで放たれた言葉。
レギュラスは、口元を緩めた。
胸の奥で、満たされる音がする。勝利の甘さとは少し違う。もっと静かで、もっと深い場所を撫でられるような満足だ。
「随分と、僕好みの回答ですね」
軽い調子に装いながら、視線はアランから外れなかった。
アランは、ほんの少しだけ微笑んだ。控えめで、慎み深いのに、形そのものが完璧に整っている。宴で見せた“社交の微笑み”ではない。屋敷の内側で、夫に向けてしまった、逃げきれない柔らかさ。
それが、たまらなく美しい。
レギュラスは、言葉を続ける代わりに手を伸ばした。
指先が触れた肩は温かく、薄い布越しに鼓動が伝わる。逃げる気配はない。拒むほどの硬さもない。けれど、受け入れるだけの従順さとも違う。アランは、静かに立っている。自分の意思を消しきらないまま、こちらの腕の中へ収まる術を覚えてしまった生き物みたいに。
その距離が、さらに自分を満たした。
口づけは、最初は軽く触れるだけだった。
確かめるように、息の境目を探るように。けれど、アランがほんのわずかに瞼を伏せた瞬間、レギュラスの中の“続きを望むもの”が抑えを失った。
深くなる。
抱き寄せる腕に力がこもり、背中の線が指先に沿って確かになる。言葉ではなく、熱で意思を伝えるやり方に、アランはもう驚かない。受け止める。受け止めてしまう。
レギュラスは、アランの微かな呼吸の乱れを感じ取って、わずかに口づけをほどいた。
離れきらない距離で、囁くように言う。
「……今夜は、あなたに選ばせるつもりで言ったんです」
けれどその言い方は、優しさだけで出来ていなかった。
選ばせると言いながら、選ぶ先を見せる。逃げ道のない未来を、甘い形で差し出す。そういう男であることを、自分が一番知っている。
アランの瞳が揺れる。
けれど彼女は、逸らさない。逸らさずに、その揺れを隠すように、また微笑んだ。
「……わたしは、あなたの妻です」
その言葉だけで十分だった。
レギュラスの胸に、静かな確信が落ちる。自分が望んだ通りに、世界が形を整えていく感覚。なのに今夜のそれは、いつもの“勝利”ほど鋭くない。もっと柔らかくて、もっと重い。抱きしめる腕の内側に、守るべきものが増えた重さだ。
レギュラスは、もう一度、丁寧に口づけた。
急かさない。奪い取らない。けれど、終わらせもしない。
今夜の続きを望む意志だけを、熱と呼吸の中に混ぜて、静かに伝えていく。
そしてアランは、拒まなかった。
拒めないのではなく、拒まないという形で。
瞳の中に映る自分を受け入れるように、レギュラスの腕の中へ身を預けていった。
その瞬間、レギュラスは思った。
――選択肢を与えるふりをしたのは、結局自分のためだ。
それでも、彼女が自分の言葉を受け取り、自分の形で返したことが、今夜はひどく嬉しかった。
寝室の灯りは変わらず柔らかい。
外の世界がどれほど騒がしくとも、ここだけは静かに、確かに、二人の呼吸のリズムへと塗り替えられていく。
レギュラスの声が、耳の奥にまだ残っていた。
淡く笑って、当たり前のことのように――「悪い話ではないでしょう」と言ったあの調子。そこに「親族として、アランを支えてくだされば」と付け加えた瞬間、胸の内側に鈍い棘が刺さったまま抜けない。
支える。
その言葉が、何より残酷だった。
フロスト家の屋敷の寝室は、夜の気配を丁寧に抱え込んでいた。魔法灯は明るすぎず、蝋の香りと洗い立てのリネンの匂いが混じる。窓の外では樹々が風に擦れ、静かな音だけが規則正しく繰り返される。屋敷は眠りへ向かう準備を整えているのに、ローランドの心だけが眠り方を忘れていた。
寝台の端に腰掛けたクラリッサは、いつもより大人しく見えた。
昼間の天真爛漫さや、無邪気なわがままは影を潜め、膝の上で指を組み、ほどけない結び目を作るようにぎゅっと握っている。きちんと整えられた髪。品のあるナイトドレス。令嬢としての所作は、最初から備わっている。けれど、視線だけが不安に揺れていた。
「……ローランド様」
呼ばれて、胸がひくりと痛む。
その痛みは彼女のせいではない。むしろ、彼女がこんなにも自分を信じて寄り添おうとしてくれることが、ローランドの中の醜さを浮き彫りにする。
ローランドは息を吸って、ゆっくり吐いた。
言葉を選ぶためではなく、心を静めるために。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
いつもと同じ、丁寧な声。優しく、と自分に言い聞かせる声。
クラリッサは小さく頷いたが、その頷きが「わたしは待てます」ではなく、「待ってばかりで怖い」と言っているようにも見えて、胸が締めつけられた。
夫婦として当然のこと。
家のためのこと。
誰もが口に出さず前提にしている義務。
それを、ローランドはずっと“正しさ”という名の盾で先送りにしてきた。彼女が若いから。まだ幼く見えるから。自分が慣れていないから。――どれも言い訳の形をしている。言葉にした瞬間、余計に卑怯になる。
だから今夜、ローランドは一歩を踏み出すと決めた。
レギュラスに言われたからではない。言われたことで、自分がどれだけ逃げ続けてきたかを突きつけられたからだ。
「……もし、怖かったら、言ってください。途中でも、やめます」
クラリッサは驚いたように目を瞬き、それから少しだけ笑った。
その笑みの健気さが、刃のように胸へ入る。
「はい。……ローランド様に、合わせます」
合わせる、という言い方が、彼女の小ささを際立たせる。
それなのに、その小さな人が、自分の妻として隣に座っている現実がある。
ローランドは、そっと手を差し出した。
指先を重ねるだけのことが、ひどく重く感じた。拒まれないことが、許されていることの証なのに、その許しの温度が熱すぎて、手のひらが震えそうになる。
クラリッサの手は、温かかった。
人の体温だ。生きている温度だ。
その当たり前を確かめるように、ローランドは一度だけ深く息を吸い、そして彼女を寝台の奥へ導いた。
滞りなく、進んだ。
形だけを言えば、何の問題もない。夫婦として、穏やかに、慎重に。クラリッサは痛みを訴えず、戸惑いながらも懸命に応じようとしてくれる。ローランドの言葉に従い、呼吸に合わせ、ぎこちないながらも、彼女なりの優しさで触れてくる。
――だからこそ。
罪悪感が、静かに増殖した。
目を閉じた瞬間、そこに浮かぶのはクラリッサではなかった。
先日目にしてしまった、アラン・ブラックの姿だった。
産後とは思えないほど整えられた美しさ。
華美ではないドレスのはずなのに、花嫁を容易く凌駕してしまう存在感。柔らかさの奥に艶があり、曲線に陰影が生まれ、ただ“美しい”のではなく、人の理性を奪う種類の美しさになっていた。
最後に抱きしめた記憶より、ずっと、豊かで。
ずっと、遠かった。
――あれに、レギュラス・ブラックが毎晩触れているのか。
喉の奥がひりつき、胸の内側が焼ける。
気が狂いそうになる。
それでも礼節という鎖を噛ませて、耐えてきた。会えば挨拶をし、目を逸らし、言葉を整え、幸せを祈るふりをしてきた。自分の姿勢が正しいのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
なのに、あの姿を見てしまった。
見てしまえば、想像の中ではどこまでも自由で、なんだってできた。
触れて、抱きしめて、かつてのように口づけて、あの柔らかさを自分の中に閉じ込めたかった。届かないものほど、頭の中で輪郭が鮮やかになる。禁じられているものほど、甘く見える。
それが、今夜は最悪の形で噴き出した。
クラリッサを抱きながら。
心はアランへ向かっていた。
自分の中の醜さが、声を持って囁く。
クラリッサの温かさを、アランで塗り替えてしまえば、楽になれると。
卑怯な逃げ道を、当然のように差し出してくる。
ローランドは、奥歯を噛んだ。
痛みで現実へ戻ろうとした。戻らなければならなかった。目の前にいるのは、自分を信じてくれる妻だ。何も知らず、ただ“夫”に寄り添おうとしている少女だ。
なのに――心は、言うことを聞かない。
どこまでも、アランを呼ぶ。
終わったあと、クラリッサは小さく息をつき、頬を赤くしてローランドの胸元に額を寄せた。
ほっとしたような、誇らしげな、少し泣きそうな顔だった。ようやく“妻”としての役目を果たせたとでも言うように。
その顔を見た瞬間、ローランドは胸の底が冷えるのを感じた。
自分は、いま何をした。
誰を抱いた。
誰を思っていた。
抱きしめ返す腕が、遅れた。
遅れたことに気づいて、慌てて力を込めた。けれど、その抱擁には、クラリッサを包む温度と同時に、自分の罪を隠す必死さが混じってしまう。
「……大丈夫ですか」
声は、優しい形のままだった。
優しさの形を崩さないことだけが、最後に残った礼節だった。
「はい……ローランド様」
クラリッサが安心したように頷く。
その頷きが、ローランドを許してしまうみたいで、胃の奥が苦しくなる。
窓の外で、風がまた木々を擦った。
夜は何も知らない顔で続いていく。屋敷は静かで、寝室は温かくて、妻の体温は腕の中にある。――それなのに、ローランドの胸の中だけが荒れていた。
目を閉じれば、アランがいる。
目を開ければ、クラリッサがいる。
そしてそのどちらにも、正しい顔で向き合えていない自分がいる。
ローランドは、クラリッサの髪をそっと撫でた。
罪悪感を消すためではない。消えないとわかっている。
ただ、今夜の自分がどれほど醜くても、彼女を傷つける男にだけはならないと、遅すぎる誓いを胸の中で結び直すために。
「……おやすみなさい、クラリッサ」
優しい声で言いながら、喉の奥では別の名前が暴れていた。
それを口にしないために、ローランドは微笑み、呼吸を整え、目を開けたまま天井の闇を見つめ続けた。
眠りは、来なかった。
代わりに、胸の中で何度も何度も、同じ問いが繰り返される。
――自分は、いつまで、アランを手放せないのだろう。
翌朝の光は、残酷なほど澄んでいた。
夜の罪は闇の中でだけ形を持つのだと、どこかで勝手に信じていたのかもしれない。けれど現実は違う。朝は何も赦してくれない。眠れぬまま迎えた白い時間は、ただ静かに、昨夜の自分をそのまま連れてくる。
ローランドは身支度を整えながら、鏡の中の自分に視線を合わせられなかった。
丁寧に結んだネクタイも、整えた髪も、貴族の青年としての端正な外見も、内側で腐ったものを隠してくれるわけではない。礼節は鎧のように見えて、いざという時に剥がれてしまう薄い膜だと知ってしまった。
昨夜。
腕の中にはクラリッサがいた。温かく、健気で、信じきった瞳がそこにあった。
それなのに、心が向いた先は―― アランだった。
思い出すだけで喉が乾く。
いまさら何を、と自分で自分を叱りつけたくなる。けれど、抑えようとすればするほど、昨夜の“想像”が、逆に輪郭を持って迫ってくる。欲しかったのは、触れたかったのは、取り戻したかったのは、ひとりの女の温度だったのだと、朝になってもなお認めさせられる。
そして、その“温度”が。
今日、目の前に現れてしまう。
魔法省の廊下はいつも通り忙しく、人の気配が波のように行き交っていた。石造りの壁はひんやりとして、天井の高い空間に足音が反響する。書類の束を抱えた役人たちが早足で通り過ぎ、金色の魔法灯が昼間のように明るい光を落としている。
ローランドは、少しだけ歩幅を乱した。
遠くで、ざわめきが一瞬だけ変質するのがわかった。視線の流れが一方向へ寄り、空気に微かな張りが走る。誰かの息が、ほんのわずか上向く。
それが、彼女の到来を告げていた。
レギュラス・ブラックが歩いてくる。
その隣に、アラン・ブラックがいる。
――胸が鳴った。
自分の喉が、無意識に唾を飲み込む音さえ拾いそうだった。
昨夜、喉から手が出るほどに触れたかった体が、いま目の前にある。触れられない距離。触れてはならない距離。なのに、視界の中に入っただけで、身体が勝手に理解してしまう。
アランは、産後の艶を纏ったまま、恐ろしいほど整っていた。
華美な装いではない。けれど、だからこそ余計に目に痛い。静かな布地の落ち方ひとつ、歩くたびに揺れる髪の艶ひとつが、見る者の心を傷つける種類の美しさになっている。身体の曲線は以前よりもはっきりしていて、柔らかさが輪郭を持ったように見えた。
それを見た瞬間。
ローランドは、自分が“最も遠いところ”に立たされている気がした。
彼女の美しさは変わらないのに。
自分だけが、そこへ届く資格を完全に失ったのだと突きつけられる。
視線を合わせてはいけない。
合わせたら、昨夜の醜さが顔に出る。合わせたら、言葉が崩れる。
それでも、礼節だけは残っている。残していなければ、彼女に向き合う形さえ保てない。
ローランドは、ほんの僅か頭を下げた。
視線は彼女の瞳ではなく、胸元でもなく、ただ床の光の線へ逃げる。
「こんにちは、フロスト殿」
レギュラスの声は、いつも通り柔らかい。
けれどその柔らかさの奥に、鋭い刃が仕込まれているのを、ローランドはもう知っている。すべてを持ち、奪う側として生きてきた男の余裕がそこにある。
アランは、レギュラスの隣で静かに礼をした。
あの翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけこちらに向いた気がして、ローランドの呼吸が詰まる。
声が出る前に、レギュラスが言葉を継いだ。
「先日は、お疲れのところお付き合いいただきありがとうございました。……奥方も元気そうで」
奥方。クラリッサのことだ。
たったそれだけの言葉が、ローランドの胸を抉る。昨夜の記憶が、熱ではなく冷たさになって指先から這い上がってきた。
「……お心遣い、痛み入ります。ブラック様」
声は丁寧に、丁寧に。
余計な震えが混じらないように、言葉の端を磨く。磨けば磨くほど、内側に濁りが溜まる。
アランも口を開く。
「……ご無沙汰しております、フロスト殿」
その呼び方が、礼儀の形をしているのに、昔を知るローランドの胸には刺さる。
かつて彼女は、自分に向かってこんな距離のある声を出さなかった。名前を呼ぶだけで、未来の形がそこにあった。今は――ただの“挨拶”だ。
「……ブラック夫人」
ローランドは、あえてそう呼んだ。
自分で自分を縛るために。余計な感情が飛び出さないように、肩書きで壁を作るために。
アランの微笑みは崩れない。
その崩れなさが、なおさら苦しい。彼女の感情がわからないからではない。わかってしまいそうで怖いからだ。もし、あの瞳の奥に昔の温度がまだ残っていたら。もし、残っていないのなら――それはそれで、耐えられない。
レギュラスは、当たり前の顔でアランの隣に立っている。
それが世界の正しさであるかのように。
ローランドは、ほんの数言だけ交わした。業務の話。式の日取りの確認。必要書類の提出時期。誰にでもできる、誰の心も損なわない会話。
けれど、その“誰にでもできる”という安全さが、逆にローランドを追い詰めた。自分は今、彼女と二度と“誰か特別”として話すことはできないのだと、冷たく理解させられるからだ。
アランの横顔が視界に入るたびに、喉が鳴りそうになる。
香りがある気がする。肌の温度がある気がする。昨夜の妄執が、朝の現実に貼り付いて剥がれない。
限界だった。
「……失礼いたします。次の予定がございますので」
逃げるように言った。
礼を取り繕う手つきが、少しだけ早い。気づかれていないふりをしたかった。気づかれても、気づかれないふりをしてほしかった。
レギュラスは微笑んだままだった。
アランも微笑みを崩さず、静かに頷いた。
「ええ。お忙しいところ、呼び止めてしまってすみませんね、フロスト殿」
その声が、どこまでも穏やかで。
ローランドの中の何かが、ゆっくり崩れた。
ローランドは背を向けた。
歩幅を乱さないように。足音を大きくしないように。廊下の人波に紛れるように。
けれど、心は紛れない。背中に突き刺さるように、あの美しさが残る。目を閉じても、瞼の裏で彼女が立っている。
これ以上見ていられなかった。
見ていれば、自分がどこまで堕ちた人間か、際限なく思い知らされる。
美しいものの前では、醜いものは息ができない。
角を曲がったところで、ローランドはようやく息を吐いた。
肺に溜めていた息が、遅れて喉を震わせる。声にはならなかった。なるはずがない。
――逃げた。
そう自覚した瞬間、昨夜の罪悪感が、朝の光の中でさらに重くなる。
それでも。
あの翡翠の瞳を、これ以上見ていたら。
礼節という最後の糸さえ、きっと切れてしまっていた。
ローランド・フロストが背を向けた瞬間、廊下の空気がふっと軽くなったように感じた。
人の波は相変わらず流れているのに、そこだけが妙に空白になった――そんな錯覚が残る。礼儀だけを置き去りにして、本人だけが逃げるように消えていった。
レギュラスは、微笑みを崩さないまま、その背中を見送った。
見送りながら、胸の奥に小さな棘が刺さる。
おかしい。
フロスト殿は真面目で、慎重で、礼節という枠から絶対に外れない男だ。ならば、今のあれは何だ。目を合わせない。言葉を短く畳む。距離を取るというより、最初から自分をこの場に“置かない”ように振る舞う――あれは、礼儀の皮をかぶった退避だ。
レギュラスの視線が、自然とアランへと移る。
彼女は、何事もなかったかのように歩調を保っていた。柔らかな布地が足元で静かに揺れ、翡翠の瞳は落ち着いた光を湛えている。あの男が崩れたのに、彼女は崩れていない。
それが、余計に引っかかった。
レギュラスは歩きながら、声の高さを変えずに問う。あくまで、何でもない会話の延長として。
「……何かありました?」
隣を歩く妻に向けた言葉は穏やかだ。けれど、内側の温度は違う。
この問いは確認ではない。探りだ。
自分の知らない場所で、何かが動いたのではないか。アランが、フロスト殿と接触していたのではないか。そうであっても不思議ではない。彼女はセシール家へも通っている。研究の書類をまとめるため魔法省にも出入りする。偶然はいくらでも起こる。
アランは、ほんの一拍だけ呼吸を置いた。
頬の筋肉がわずかに緊張し、唇が形を作る。あの一瞬の遅れを、レギュラスは見逃さない。
「……いえ、一度も」
澱みのない、正しい答えだった。
嘘を吐いている、と決めつけるには綺麗すぎる返答。けれど、正しすぎる答えは、時に毒を含む。人は“何もない”時ほど、説明を足すものだ。――少なくとも、レギュラスの周囲にいる人間はそうだ。
レギュラスは、表情を崩さない。笑みも同じ形のまま、声も同じ温度のまま。
だからこそ、問いの刃だけが静かに研がれていく。
「そうですか」
軽く頷いてみせながら、レギュラスは心の中でその答えを転がす。
一度もない。
ならば、フロスト殿は何に怯えた? 何に罪悪感を抱えた? 何を見た?
―― アランを見たのか。
それなら、今さらだ。あの男は式の日に参列した。産後のアランの美しさも見ている。
ならば、今日の“視線を合わせない”という拒絶は、別の理由だ。
レギュラスは、ふと立ち止まるほどでもない違和感を、胸の奥へ押し込んだまま歩く。
廊下の窓から差す光が、アランの髪に淡い縁取りを与える。肩の線、首筋、うなじ。彼女はどこを切り取っても整っていて、静かな気品がある。見ているだけで満たされるはずなのに――今は満たされきらない。
「……フロスト殿は、いつもあんなふうではありませんね」
レギュラスは、独り言のように言った。
責めるでもなく、決めつけるでもなく。ただ事実を並べる声音。けれどその中には、“あなたもそう思うでしょう?”という誘導が混じっている。
アランは、視線を前に固定したまま、曖昧に微笑んだ。
いつもの、あの流す微笑み。母になってから身につけた、波風を立てないための表情。
それが、レギュラスの神経を逆撫でする。
知らないふりをする。
気づいていないふりをする。
何も堪えていないような顔で、必要な答えだけを差し出す。
その “上手さ” は、いつからだ。
――ローランド・フロストの前で、あなたはこんなふうに器用だったか?
レギュラスは微笑む。外から見れば、ただの夫婦だ。
けれど胸の奥では、別の計算が回り始めていた。見落としている何かがある。自分の掌の上にあるはずのものが、知らないところで小さく動いている。
それが許せない。
許せないというより、落ち着かない。――自分の世界の“隙”が、そこに見えるからだ。
レギュラスは、歩く速度をほんの少しだけ落とし、アランの顔を覗き込む角度を取った。
柔らかな声のまま、しかし逃げ道を与えない距離で。
「……本当に?」
言葉は短い。短いほど、圧が乗る。
アランが反射的にこちらを見返す。その翡翠の瞳が、ほんのわずか揺れる――揺れた気がする。
レギュラスはその揺れを、甘い毒のように味わいながら、笑みの形を変えずに続けた。
「あなたがそう言うなら、それでいいです。……ただ」
“ただ” の一言が、空気を締める。
廊下の喧騒が遠のき、二人の間に薄い膜が張られる。
「僕が知らないところで、あなたが何かを抱えているのなら――それは、僕の領分ですから」
宣告に近い口調だった。
怒鳴らない。責めない。けれど、支配の輪郭だけをはっきりさせる。魔法省で日々取引をし、人を測り、奪う側の鋭さが、そのまま言葉になっている。
アランの微笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
それを見て、レギュラスの胸の奥の棘が、ようやく形を持った。
やはり、何かある。
どこかで何かが、動いている。
レギュラスは、その答えを今ここで無理に引きずり出すことはしなかった。
――まだ、遊べる。追い詰める順番は選べる。
彼は穏やかに笑い、何事もなかったかのように歩き出す。
アランもまた、それに従う。完璧に、従順に。
けれど、レギュラスの内側だけは違った。
滑らかな表情の下で、鋭い視線が、いつの間にか“狩り”の形に変わっていた。
