2章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夜更け。フロスト家の寝室には、蝋燭の火だけが細く息をしていた。窓の外では風が庭木を撫で、葉擦れの音が遠い波のように寄せては返す。
ローランドは椅子に腰を下ろしたまま、指先で手帳の角を無意識に撫でていた。今日は——セシール家で、久しぶりにアランを見た。見てしまった。
それが、ただの「再会」で済むはずがないことを、誰より自分が知っていた。
目を閉じる。瞼の裏に、翡翠が灯る。
あの黒髪。あの瞳。
記憶の中の彼女より、確かに「今の彼女」のほうが艶やかで、柔らかくて、恐ろしいほど綺麗だった。母となったせいだろうか。あるいはブラック家という巨大な器に収まったことが、彼女の輪郭を磨き上げたのだろうか。
理由なんて、どうでもよかった。結果だけが、頭にこびりついて離れなかった。
——最悪だ。
胸の内で吐き捨てても、何も薄まらない。
視線を上げると、寝台の端にクラリッサが座っていた。夜着の上から、彼が贈った薄いショールを羽織っている。小さな肩が緊張でこわばっているのが分かるのに、それでも一生懸命に背筋を伸ばしていた。
愛情を示そうとしている。忠誠を示そうとしている。
夫に恥をかかせまいと、必死に「妻」であろうとしている。
その幼さが、いじらしくて、痛かった。
「……クラリッサ」
名を呼ぶと、彼女はぱっと顔を上げた。明るく元気なはずの瞳が、今夜は慎重に揺れている。
ローランドは笑おうとして、笑いきれなかった。喉の奥が乾いて、息が少しだけ荒くなる。
——どうして、こんな日に限って。
アランの姿が、目から離れない。
あの曲線に触れたかった。かつてのように、口づけて、抱きしめて、柔らかさを自分の中に閉じ込めたかった。
許されるはずのない願いが、今さらになって火を点ける。
そしてさらに醜いことに——その火が、目の前のクラリッサへと影を落とそうとしているのが分かってしまった。
これまで、クラリッサを「男女の行為を重ねる相手」として見ることができない、と悩んできた。幼く見えてしまうからだ。
けれど今夜、頭の中で勝手に輪郭が重なる。アランの残像が、クラリッサの肩に、髪に、息遣いに——不躾に重なろうとする。
できてしまう。
それを、脳が理解してしまう。
愕然とした。
夫婦として当然の行為。
逃げ続けるわけにはいかない義務。
そこへ、かつて愛した女を持ち込んで成立させようとする自分の醜さが、胸をねじる。
ローランドは立ち上がり、寝台に近づく。クラリッサの指先が、きゅっとシーツを握りしめた。期待と不安が同居した仕草だった。
その小さな手を見た瞬間、彼は息を止めた。
——違う。
彼女は彼女だ。
アランではない。代わりにもならない。
代わりにしてはいけない。
そう分かっているのに、今日見た翡翠色が、どうしても脳裏で揺らめいて、足元をぐらつかせる。
ローランドは、自分の手を一度握りしめ、ほどいた。ゆっくりと、誤魔化しのない速度で、クラリッサの前に膝をつく。
「怖いですか」
丁寧な声が、暗がりに落ちる。
クラリッサは小さく頷いて、でもすぐに首を横へ振った。矛盾した反応が、彼女の幼さでもあり、誠実さでもあった。
「……わたくし、妻ですもの。ローランド様の……」
言いかけた言葉が、恥ずかしさで細くなる。
ローランドは、その努力を踏みにじりたくなくて、視線を合わせた。きちんと、逃げずに。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
そう言った自分の声が、思ったより震えていないことが救いだった。
けれど、その優しさが、同時に自己弁護のようにも聞こえて胸が痛む。優しくすれば許されるのか、と。そんな簡単な話ではないのに。
クラリッサの瞳が潤み、安堵が滲む。彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、ローランドは悟ってしまう。彼女が欲しているのは、荒々しい証明ではない。置いていかれない安心で、拒まれない温度で、夫が自分を見ているという確かな目線だ。
——それなのに。
自分の内側には、今日見たアランの残像が、まだ熱を持っている。
その熱に引っ張られたくないのに、引っ張られてしまう弱さがある。
ローランドは、クラリッサの手にそっと触れた。体温が重なる。それだけで、胸の奥が軋んだ。
この手を取ったのは、自分だ。
守ると決めたのも、自分だ。
それなのに、別の女の影を持ち込もうとしている。
彼は目を閉じ、深く息を吸った。薬草ではなく、石鹸でもなく、クラリッサの髪から漂う甘い香りが胸に満ちる。
それがアランではないと、現実が静かに釘を打ってくる。
ローランドはゆっくりと瞼を開き、クラリッサの額に、祈るように口づけた。
それ以上先へ進むためではなく、彼女を「彼女として」尊重するための、短い合図だった。
「……今日は、あなたの話を聞かせてください。どんな一日だったか。何が嬉しくて、何が不安だったか」
クラリッサは驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
笑みの中に、誇らしさが混じる。妻として扱われた、と感じたのだろう。
「……はい。たくさん、お話ししますわ」
ローランドは頷いた。
胸の奥に残る翡翠色の火種を、言葉の水で鎮めるように。
それでも、完全に消えはしない。消えないことが、なおさら自分を醜く思わせる。
けれど、今夜ここでできるのは、少なくとも——目の前の少女を、誰かの影にして壊さないことだった。
ローランドは、クラリッサの話に耳を傾けながら、心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
アランは過去だ。
クラリッサは今だ。
そして自分は、その「今」を誠実に扱う義務がある。
それが、痛みを伴うほどに難しいことだとしても。
ブラック家の屋敷に、珍しく軽い足音が響いたのは、午後の光が長椅子の絹を淡く照らしはじめた頃だった。
重厚な扉が開くたび、空気そのものが格式に従って整列するような場所だというのに——今日ばかりは、そこへ春の小鳥が迷い込んだような気配がある。
「まあ……! やっぱり凄いんですね、ブラック家って……」
弾む声が先に廊下へ滑り込み、続いて現れた少女が、少し遅れて礼儀正しく裾を整えた。
クラリッサ・ブラックバーン。年若い頬に気品の紅が差し、所作はきちんとしているのに、瞳の奥だけが隠しようもなく天真爛漫に輝いている。
応接間では、銀のティーポットが静かに湯気を細く立てていた。薄いレモンの香り。磨き上げられたカップの縁。窓外の庭は、手入れの行き届いた緑が柔らかく揺れている。
その中央に座るアランは、抱いている赤子を乳母へ預けたばかりで、肩に残る重みの名残をそっと撫でるように手を膝へ戻した。
クラリッサが深く礼をし、顔を上げる。
「お久しぶりです、アラン様。……それと、レギュラス様」
呼ばれた男は、窓際の椅子で書類に目を落としていた。魔法省の役員室で見せるあの冷えた鋭さではなく、今は屋敷の当主としての穏やかな体裁で、口元に薄い微笑みを貼り付けている。
「いらっしゃい、クラリッサ。体調はどうです?」
「ええ! とっても元気ですわ。……元気、なんですけど」
そこで、クラリッサは一瞬だけ言葉を噛んだ。唇が迷い、睫毛が揺れる。幼さが顔を出したあと、意を決したようにカップを両手で包み込み、ぎゅっと背筋を伸ばした。
「わたくし……今日は、相談があって参りましたの」
アランは、微笑みを崩さないまま頷いた。
胸の奥が、ほんの少しだけ、嫌な予感で冷える。
「相談?」
「……はい。あの……」
クラリッサは周囲を見回して、まるで壁にまで聞かれたくない秘密のように声を落とす。その仕草が愛らしくて、残酷だった。
そして次の一言が、アランの内側のどこかを、ひどく正確に刺した。
「ローランド殿が……わたくしのこと、全然……相手にしてくださらないんです」
ティースプーンが皿に触れる、微かな音がした。
アランの手の震えではない。使用人が、息を殺して動いた時に生じる、屋敷のいつもの静寂の揺れ。
「……相手に、ですか」
アランは声を穏やかに保った。けれど喉の奥が、瞬く間に乾いていく。
クラリッサは頬を赤くしながらも、勢いだけは止められない。
「夜が……ないままで……。このままでは、わたくし、妻として……何をすればいいのか……」
最後の言葉が、ほとんど泣き声に近かった。
彼女は貴族の令嬢として完璧に礼節を守っているのに、その内側にある「愛されたい」という純粋さが、堰を切ったように溢れている。
アランの胸が痛んだ。胸の奥ではなく、もっと深い場所——過去に縫い付けられた感情の糸が、乱暴に引かれたような痛みだ。
同時に、別の感情が、醜いほど静かに立ち上がってくる。
——ローランドが、女として見られる相手は、いまだに。
その結論が、奇妙な安心感を伴って、心の底に沈む。
胸を締め付ける痛みのなかで、なぜか「優越」に似たものが、薄い膜のように広がった。
それを感じ取った瞬間、自分が嫌になって、さらに胸が痛くなる。
アランは視線を落とし、ティーカップの縁に口をつけた。温度が、震えを隠すのにちょうどよかった。
向かい側で、レギュラスが小さく息を含む。笑ってはいないのに、笑みの形だけが崩れない。
微笑ましそうに聞いている——その体裁のまま、アランの沈黙の重さをすくい上げるような眼差しを向けていた。
「クラリッサ」
レギュラスの声は柔らかい。だが、空気を支配する力がそこにある。
クラリッサは反射的に姿勢を正した。
「フロスト殿は真面目な方です。あなたを粗末に扱うつもりはないでしょう」
「でも……!」
「でも、という顔ですね」
軽い言い方なのに、逃げ道がない。クラリッサの唇がきゅっと結ばれる。
レギュラスは、そこまでで一度言葉を切った。わざとだ。相手の焦りが形になるのを待っている。
アランは、その「待ち方」を知っている。
気づかぬふりをしていても、気づかされる。どこまでも。
クラリッサが耐えきれずに口を開いた。
「わたくし、夫に嫌われているのでしょうか……? わたくし、まだ……幼いから……」
その瞬間、アランの胸の奥の優越が、音もなく崩れた。
代わりに浮かんだのは、ローランドがかつてアランへ向けていた、あの慎重で丁寧な優しさだった。
好きだからこそ、壊したくない。怖がらせたくない。
それが「拒絶」に見えることがあるのだと、アランは知っていた。
口を開きかけて、閉じる。
どんな言葉も、今の自分には汚れてしまいそうだった。
レギュラスが先に答えた。
「嫌っているわけではないと思いますよ。……ただ、あなたが思うほど簡単に“慣れ”るものでもない」
さらりと、ひどく核心に触れる言い方をする。
クラリッサは目を見開いたまま固まった。アランも、息を止めた。
レギュラスは続ける。口調は変わらないのに、視線だけが一瞬、アランへ滑った。
まるで「あなたは分かるでしょう」とでも言うように。
「夫婦の時間というのは、義務で押し開けるものではありません。……フロスト殿は、あなたを怖がらせたくないのかもしれない」
クラリッサの瞳が揺れる。次第に、涙が溜まり、けれど必死にこらえる。
「わたくし、怖がってなんか……」
「本当に?」
レギュラスの問いは優しい形をしているくせに、鋭い。
クラリッサは言葉を失い、視線を彷徨わせた。それでも、次の瞬間には小さく頷いた。ほんの僅かに、正直が漏れた。
「……少しだけ」
その一言が、アランの胸をまた締め付けた。
ローランドは——きっと、クラリッサのその「少し」を見抜いて、止まっている。
止まることができる男だ。誠実すぎるほどに。
アランは笑みを保ったまま、指先を膝の上で重ね直した。
自分の中に湧いた安心も優越も、今は苦くて、喉に引っかかる。
クラリッサは、堪えきれずにアランのほうを見た。助けを求めるように。
「アラン様は……どうされていたのです? その、ブラック家では……」
その言葉が、まるで刃だった。
アランは息を吸う。胸が痛い。痛いのに、同時に、あの「奇妙な安心」がまた顔を出すのが分かってしまって、自分が嫌になる。
レギュラスは、気づいている。
アランのまつげが僅かに震えたことも、視線が一拍遅れて戻ったことも。
微笑みのまま、何も言わず、ただアランの横顔を見ている。
それが、慰めにも、所有の確認にも見えた。
アランは、ようやく口を開いた。
「……クラリッサ嬢。あなたは、とても大切にされているのだと思います」
それしか言えなかった。
本当は、その先を言いたい。言えない。
ローランドは、いまだに自分だけを——そんな優越に似た妄想を、口にする資格がどこにある。
クラリッサの肩が落ち、それでも、少しだけ救われたように頷く。
「……大切に、ですか」
「ええ。……ただ、あなたも、焦らないで。急いでしまうと、あなた自身が苦しくなってしまいます」
言いながら、アランは思う。
これはクラリッサのための言葉であるはずなのに、どこか自分にも向けている。
焦らないで。急がないで。
過去に引き裂かれたままの心を、無理に縫い合わせようとしないで。
クラリッサは涙を拭い、精一杯の礼節で微笑んだ。
「……ありがとうございます、アラン様。わたくし、頑張りますわ」
その「頑張ります」が、幼くて、痛々しくて、胸に刺さる。
アランは笑みを返しながら、指先が冷えていくのを感じた。
レギュラスが静かに紅茶を口に運ぶ。
カップの縁を離したあと、何でもないことのように言った。
「フロスト殿には、僕からもそれとなく伝えておきましょう。あなたが悩んでいると」
「えっ……!」
クラリッサが慌てる。
アランも、息を呑んだ。ローランドに直接それを伝えるだなんて——どんな顔をさせるつもりなのか。
そして、その瞬間、自分の中の優越がまた、冷たい火として灯るのが分かった。
レギュラスは、相変わらず微笑んだまま、アランのほうを見もしない。
「心配しないで。恥をかかせるような言い方はしません。……僕は礼儀をわきまえていますからね」
“礼儀”。
その言葉が、どうしてこうも脅しに似て響くのか。
アランは返事ができず、ただカップを持つ手に力を込めた。
微笑ましい客人の相談。
穏やかな午後の紅茶。
けれどアランの胸の内だけは、静かにぐちゃぐちゃに濁っていく。
救われたい少女の純粋さと、過去に縛られた自分の醜さと、そして——それらをすべて見抜いた顔で微笑む夫の眼差し。
その全部が、同じ部屋にあった。
クラリッサが去ったあとの応接間は、ひどく静かだった。
香りの残る紅茶も、磨き上げられた銀器も、さっきまでの「来客用の優しい空気」を名残として漂わせているのに——その薄い膜だけが、ぽつりと置き去りにされていた。
アランはカップを受け皿に戻し、指先を膝の上できちんと重ねる。
動きはいつも通り。視線も、笑みも、声の温度も。
母になった女の、覚えた処世術。波風を立てないための、丁寧すぎるほどの平坦さ。
それが、レギュラスには腹立たしかった。
内側がどれほど騒いでいるのか。どれほど複雑に濁っているのか。
すでに読み切っているからこそ、なおさら。
「……クラリッサに」
何気ない調子で切り出して、レギュラスはソファの背へ身体を預けた。組んだ脚の先が、微かに揺れる。落ち着こうとしている動きではない。
それを隠そうともしない。
「優越感でも感じているつもりですか?」
言葉だけが、氷片のように落ちた。
アランの睫毛が一度だけ震え、しかし表情は崩れない。崩さない。
その一拍の沈黙が答えのようにも見えて、レギュラスの胸の奥がざらついた。
アランは微笑みを保ったまま、視線を少しだけずらし、ゆりかごのほうを見た。
そこにはアルタイルが、乳母の腕のなかで眠りかけている。ふわりとした産毛。丸い手。小さな呼吸が、部屋の静けさの中心にある。
「アルタイル、眠いのね」
あえて赤子に話しかける声。
あえてそこへ、意識を移す仕草。
鋭い刃物を、柔らかな布で包んで棚へ押し込むような、慣れた逃げ方。
——スルーする技術が上がっている。
——母になったからか。
——流すことを覚えたからか。
それが、なおさら苛立たしかった。
レギュラスは呼び鈴を鳴らす。
扉が開き、乳母が静かに頭を下げた。
「アルタイルを部屋へ。少し眠らせてください」
「かしこまりました」
乳母が抱き上げると、アルタイルは小さく身じろぎし、眠りの端でかすかに口を動かした。
アランの視線が追う。反射で立ち上がりかける。
「私も——」
言い終わる前に、レギュラスの声がかぶせた。
「あなたはここに」
それだけ。
優しくもない。乱暴でもない。
ただ「当然」の形をした命令だった。
アランの動きが止まる。
ほんの短い逡巡。乳母の足音が遠ざかっていくあいだ、アランの指先がスカートの布地をきゅっと掴んだ。
それから、静かに頷く。
「……はい」
頷かせた事実が、満足ではなく、逆にレギュラスの苛立ちを増やした。
従うからこそ、心がどこにもいないのが分かる。
扉が閉まった。
応接間に残ったのは、二人分の呼吸と、冷えはじめる紅茶の香りだけ。
レギュラスは、カップに触れもせずに言った。
「安心してるんです?」
アランの視線が戻る。戻ってはくるが、深いところまでは来ない。
「フロスト殿が、クラリッサを相手にしないことを」
言葉の先端が、狙い澄ましたように鋭い。
吐かせなければ気が済まない。追い詰めて、形にして、目に見える答えにしなければ——このざらつきが収まらない。
アランは、呼吸を一度整えた。
頬に微かな血の気が差す。それでも、表情を壊さない。
「……何をそんなにお怒りなんです?」
声は穏やかで、丁寧で、——母の声だ。
そして、次の言葉で、逃げ道を作る。
「アルタイルが感じとります」
その瞬間、レギュラスの中で何かがきしんだ。
怒りを鎮めろと諭されているのではない。
“夫婦の問題”を“母子の領域”へすり替えられた感覚。
母の顔を盾にして、これ以上踏み込ませないという線引き。
——母になってもなお、いや、母になったからこそ強固になった境界線。
どうしようもなく、むかついた。
「……都合がいい」
レギュラスは、薄く笑った。笑みの形だけで、温度はない。
アランの目が、ほんの一瞬だけ揺れる。そこへ、さらに押し込む。
「その言葉を出せば、僕は引くと思ってる」
ゆっくりと立ち上がり、ソファの背を回り込む。
アランの背後に影が落ちる。
距離が詰まるだけで、空気の圧が変わる。
「優しい夫を演じていた頃なら、きっと引きましたね」
肩越しに落とされる声は、耳に近い。
アランの背筋が僅かに強張る。
それでも、振り返らない。振り返れば、視線が絡まる。絡まれば、心が読まれる——そう知っている。
レギュラスはその横顔を見下ろしながら、ひどく冷静に、ひどく意地悪く言った。
「答えてください」
逃がさないための、短い命令。
「安心してるんですか?」
アランの喉が、小さく動いた。
否定すべきだ。そんなはずはないと。
けれど否定の言葉は、嘘になる。
そして嘘をつけば、その嘘の匂いにレギュラスがさらに苛立つことも、もう分かっている。
アランは視線を落とし、指先を組み直した。
その指が、ほんの少しだけ震えている。
「……安心、では」
言葉が途切れる。
レギュラスは待たない。待てない。
「では何です?」
畳みかける声。刃のように薄く、逃げ道を削る。
アランの呼吸が浅くなる。
「……私は、母として」
「母として、で逃げるのはやめてください」
レギュラスの声が低く落ちた。
怒鳴っていないのに、壁際まで追い詰められたような圧がある。
「僕が聞いているのは、妻のあなたです」
アランの肩が、ほんのわずかに震えた。
泣きそうな顔をすることもできない。泣けば慰められると知ってしまっているから。
だから、ただ平静を装う。
その装いが、いちばん腹立たしい。
レギュラスは、アランの顎に触れそうな距離まで身を屈めた。触れない。
触れないことで、余計に意識を縛る。
「フロスト殿が、あなたをまだ女として見ているとでも?」
その言葉は、針だった。
アランの瞳が、反射で大きくなる。
レギュラスは、そこを見逃さない。
「……やはり」
小さく笑う。勝ち誇る笑いではなく、確信した者の、乾いた笑い。
「僕の妻は、まだ彼の手の中にいるんですね」
「……違います」
やっと出た否定は、かすれていた。
レギュラスは首を傾ける。
「どこが?」
穏やかに問うふりをして、実際には問いではない。
宣告の形をした追及だ。
アランは唇を噛み、息を吸う。
母の顔を保とうとして、またその言葉へ逃げそうになる。
けれどレギュラスの眼差しが、それを許さない。
「……アルタイルの前で、こんな話は」
「アルタイルはもういない」
即答だった。容赦のない切断。
アランの言い訳の枝が、音もなく折れる。
沈黙が落ちた。
紅茶の香りが、冷えて苦くなる。
レギュラスは、苛立ちを隠さず、けれど醜くは見せないまま、整った声で言う。
「あなたが何を感じたか、僕は分かっています」
アランの喉が鳴る。
視線が逃げる。
その逃げ道を、レギュラスは言葉で塞ぐ。
「胸が痛んだ。——でも、安心した。——そして、優越した」
ひとつずつ、丁寧に並べる。
まるで証拠品の提示だ。
アランの顔色が変わった。
その変化を、レギュラスは待っていた。
待っていたから、満たされるはずだった。
なのに、満たされるどころか、胸のざらつきは増えるばかりで、レギュラスは自分の感情の扱い方が分からなくなる。
——嫉妬だと認めたくない。
——けれどそれ以外の名が見当たらない。
アランは、小さく息を吐いた。
そして、また逃げようとする。赤子のいない空気に、なお母の顔を貼り付けて。
「……私がどう感じたかより、今は、クラリッサ嬢のことを——」
「僕は、あなたのことを話しています」
切り捨てるような一言。
アランの瞳が揺れる。
レギュラスは、揺れたものを拾い上げるように、さらに低く言った。
「僕の前で、母を盾にしないでください」
その瞬間、アランの平静が、ほんのひび割れた。
唇が震える。目尻が熱を帯びる。
それでも泣かない。泣けない。
レギュラスは、その必死さがたまらなく愛おしくて、同時に憎たらしくて、胸が痛むほどだった。
「……あなたは、僕の妻です」
優しい言葉に聞こえかねないのに、そこに温度はない。
力だけがある。
「僕の家で、僕の子を産んで、僕の名前を名乗って……それでも、まだ彼の影で揺れる」
言いながら、自分がどれほど醜いことを言っているか分かっている。
分かっているのに止められない。
アランは、やっと顔を上げた。
翡翠の瞳が、湿って光る。
その光が、レギュラスの苛立ちを煽るように、胸の奥を撫でるように、同時に突き刺さる。
「……レギュラス」
静かな呼び声。
それが、拒絶でもなく、受容でもなく、ただの「現実」だった。
「……怒っているのは、私にですか。それとも、ご自身の気持ちにですか」
たった一言で、刃が返ってくる。
それでも声は柔らかい。
母になった女の、流すための柔らかさではなく、——夫を傷つけずに核心へ触れるための柔らかさ。
レギュラスの喉が、一瞬詰まった。
苛立ちの矛先が、どこに向いているのか。
分かりたくないのに、分かってしまう。
答えを出したくなくて、レギュラスは笑った。
笑うしかなかった。
「……意地悪ですね、あなたも」
アランは何も返さない。
ただ、目を逸らさないでいる。
それだけで、レギュラスの胸のざらつきは、少しだけ形を変えた。
けれど、止められなかった。
追い詰めて吐かせたい衝動が、まだ熱を持っている。
愛おしさと苛立ちが、同じ場所で絡まって、ほどけない。
レギュラスは、アランの頬に触れ——触れた指先の温度だけで、最後にもう一度だけ、低く問う。
「……安心したんですか。答えてください」
その問いは、勝ちたいからではない。
自分が救われたいからだと、レギュラス自身がいちばん理解していた。
応接間の空気は、いまだ温い紅茶の香りをまとったまま、どこかひやりとした緊張を孕んでいた。乳母がアルタイルを連れて行ってから、部屋の中心から柔らかな呼吸音が消え、残るものは二人の間に張られた見えない糸だけになった。
レギュラスは、その糸を指先で弄ぶのが上手かった。
触れもしないのに、触れたように揺らす。
声を荒げるでもなく、微笑みを崩すでもなく——ただ、逃げ道をひとつずつ塞ぎ、最後に「答え」だけを残す。
アランは、そのやり方に慣れてきてしまっていた。
昔なら、視線を落として、息を飲んで、言葉が喉で固まって、ただ黙るしかなかった。
けれど今は違う。
流すことを覚えた。あしらうことも覚えた。ときには小さく反撃して、相手の刃先を鈍らせる術も。
——母になったからだろうか。
——この屋敷で生きるために、そうならざるを得なかったのだろうか。
「……安心したんですか」
レギュラスの問いは、同じ形で何度も返ってくる。
まるで呪文のように。
答えを得るためというより、揺れたところを確かめて、自分の手のひらの上で転がる感触を楽しむために。
アランは、膝の上で重ねた指をほどき、また重ね直した。指先が少し冷たい。室内は暖かいはずなのに、胸の奥だけが凍っている。
「どうでしょう」
声は丁寧で、静かだった。
昔のように震えもしない。
それが自分でも不思議で、少し怖い。
「自分の気持ちが、私にもわかりません」
わざと曖昧にした言葉は、刃に対する布だった。
きっぱり否定すれば、レギュラスは喜ぶか苛立つかして、もっと深く切り込んでくる。
肯定すれば——何を肯定したのか分からないまま、何かを差し出すことになる。
だから、そのどちらも選ばない。
——ここで終わらせるための、逃げの言葉。
レギュラスは鼻で笑った。
それは「答え」ではない、と言うように。
期待していたものではない、と告げるように。
けれど同時に、その曖昧さを面白がっているのがわかる。攻略のしがいがある玩具を見つけた目をしている。
「……便利ですね」
薄く笑った口元が、そのまま冷たく固定される。
アランは目を逸らさない。逸らさないと決めた。
逸らせば、またそこをつけ込まれる。
自分の弱い場所を、いつまでもこの男の娯楽にしてしまう。
視線を受け止めながら、アランの内側で、別の感情が静かに膨らんでいく。
羞恥でも恐怖でもない。
疲労と、諦めと、それでも消えきらない反発。
——こんなにも何もかも持っているくせに。
——どうして、まだ足りない顔をするの。
権力も、血も、名も、財も。
魔法省の廊下を歩くだけで祝福が降り注ぎ、屋敷に戻れば、誰もが膝を折る。
自分の意志ひとつで、家同士の縁談さえ編み直し、誰かの未来を別の方向へ押し流してしまえる男。
それなのに。
この男は、アランの胸の奥に残った影——ローランドという名前の残響に、いつまでも指を伸ばしてくる。
触れたくてたまらないように。
壊したくてたまらないように。
それを壊せたと確信して、勝利を味わいたいように。
アランは、喉の奥が少し苦くなるのを感じた。
言葉にすれば、きっとこの場はさらにこじれる。
それでも胸の内に溜まりすぎたものが、静かに押し上がってくる。
——望む通り、婚姻を受け入れた。
——あなたを許容した。
——愛に似たものを返した。
——子を産み落とした。しかも、望み通りの男児を。
これ以上何が欲しいのか。
こっちこそ問い詰めてやりたいくらいだった。
けれど問い詰めたところで、この男は笑うのだろう。
それすら自分の愉しみに変えて、また次の刃を用意してくる。
アランは息を吸う。胸の奥の怒りが、熱くならないように。熱くなれば負ける。
冷たいまま、形だけ整えた言葉で返す。
「……私の答えが、そんなに必要ですか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
言い終えた瞬間、心臓が跳ねる。応戦したのだと、身体が遅れて理解する。
レギュラスの目が細くなる。怒ったのではない。
面白がった。
獲物がこちらを向いた瞬間の、愉悦に近い光。
「必要ですよ」
あっさりと、当然のように。
「あなたは僕の妻です。僕の子を産んだ。——それでいて、心のどこかをまだ僕に渡していない」
言葉は柔らかいのに、内容は鎖だった。
“それが当然だ”という顔で、こちらの内側を所有しようとする。
アランは唇を閉じ、噛みしめる。
そうしていないと、胸の奥の言葉が溢れ出てしまいそうだった。
——何が欲しいのか。
——どこまで奪えば満足するのか。
——あなたの「足りない」は、いったいどこに穴が空いているのか。
レギュラスは微笑む。
その微笑みが、うっとりするほど整っていることが、なおさら厄介だった。
美しいものは正しいように見える。
正しいように見えるから、拒む自分が悪者になる。
「僕は貪欲なんです」
まるで誇りのように言う。
そして、その貪欲さを咎められると思っていない声色で続ける。
「あなたが、僕のものだと——あなた自身の口から聞きたい」
アランの胸が、ぎゅっと縮む。
“もう十分与えた”と思う自分と、“まだ渡していない”と言われてしまう現実。
その間で、何かが擦れて、痛む。
アランは、目を伏せた。
これ以上向き合えば、心の奥の言葉が溢れてしまう。
溢れた瞬間、レギュラスはきっと勝った顔をする。
それが悔しくて、怖くて、そして——ついていけないほど疲れていた。
「……レギュラス」
呼びかけた声は、祈りのようでもあり、ため息のようでもあった。
「私には、もう十分すぎます」
言い切る直前、喉が熱くなる。
涙ではない。怒りでもない。
長い間飲み込んできたものが、ようやく形になりかけているだけだ。
「……これ以上、何を望むのですか」
それは問いだった。
けれど同時に、堪えきれない疲労の告白だった。
レギュラスは、また鼻で笑う。
けれど今度の笑いには、少しだけ棘が混じっていた。
自分の欲を否定されたというより、欲を理解されない苛立ち。
そして、理解させてやりたいという執着。
「それを、あなたに教えてもらうんですよ」
あまりにも身勝手で、あまりにも当然の顔で。
アランは、胸の奥で小さく息を詰めた。
この男は、世界のすべてを手に入れてもなお、足りないと言うのだ。
足りない穴を埋める材料に、自分の感情を選ぶのだ。
——ついていけない。
——でも、ここで拒めば、また別の形で追い詰められる。
——応じれば、また何かが削られる。
アランは、静かに視線を上げた。
翡翠の瞳が、疲れた光を宿している。
それでも、崩れない。崩さない。
母として、妻として、そして生き延びるために。
レギュラスはその瞳を見つめ、満足と不満が入り混じったまま、微笑みの形を整えた。
——逃げない。
——怯えない。
——流しながら、ときどき噛みつく。
その変化が、レギュラスを苛立たせ、同時に昂らせていることを、アランはもう薄々理解していた。
応接間の空気は、先ほどまで揺れていた乳母の足音が消えてから、いっそう密度を増していた。火鉢の赤はまだ穏やかに燃えているのに、そこから立つ熱が、二人の間の冷えを溶かせない。磨かれた木の床に、窓から差し込む午後の光が細く横たわり、金の縁取りのように、アランの輪郭だけを静かに際立たせていた。
アランは、たやすく崩れない。
崩れないからこそ、余計に腹が立つ。
レギュラスはその姿を見て、噛み砕けない骨を口に含んだような苛立ちを覚えた。けれど同時に、歯の奥で舌が疼くような快感も混じる。壊れないものを壊すときの感覚を、もう知ってしまっているからだ。
彼女は、時折——ほんの時折、目の前の現実を諦めていない証拠のように、刃を見せる。
声を荒げるでもなく、睨むでもなく。
ただ、よく整った唇の端を微かに引き、礼儀の衣を着せた言葉の中に、針ほどの棘を忍ばせる。
その棘が、苦い。
だからこそ、舐めて確かめたくなる。
アランの睫毛がゆっくりと伏せられ、また上がる。視線は逃げない。逃げないまま、胸の内だけを隠す。母になった女の強さというより、要塞の門を内側から固く閉める術を身につけた囚人のそれだった。
レギュラスは、その「閉め方」が気に入らなかった。
気に入らないのに、目が離せない。
彼女が口を開く。そこに焦りも震えもない。それが、腹立たしいほど美しい。
「……アルタイルのもとに戻ります」
言葉は丁寧で、正しい。
どこにも非の打ちどころがない。
だからこそ、ひどく不愉快だった。
まるで——この場を終わらせる決定権が、彼女の手の内にあるかのように。
まるで——自分の前から去る理由が「母」であれば、すべて免罪されると知っているかのように。
アランは立ち上がる。ドレスの裾が擦れる音すら控えめで、所作だけが完璧に滑る。首筋の線が、いつも通り白い。そこにわずかな汗も迷いも見えないことが、レギュラスの胸をさらにざらつかせた。
都合よく母に代わろうとする素振り。
それを武器にして、話を断ち切る気配。
その図々しさが、おかしくてたまらない。
レギュラスは、笑いそうになった。実際、唇の端が上がる。だがその笑みは温度を持たない。氷の表面に薄く刻まれた形だけの曲線だ。
「そうですか」
短く言い、視線を彼女の手元に落とす。指先がショールの端を整えようとしている。ほんの僅か、布が引かれた。呼吸の間に、針のように小さい揺れ。アランは自覚していないふりをする。あるいは、自覚しているのに見せない。
その「見せない」が、刃だった。
レギュラスは椅子から立ち上がらないまま、声だけを滑らせた。
「便利ですね。母という言葉は」
アランの動きが、一拍だけ止まる。止まったのは足ではなく、空気だった。彼女は振り返らない。振り返らないという選択に、少しの抵抗と、少しの賢さが滲む。
「……必要なことです」
返答は穏やかだ。優等生の答えだ。
けれどその穏やかさの中に、こちらを諦めている響きがある。
レギュラスの胸に、苛立ちが薄く燃えた。炎ではない。火種だ。指先で捻れば、いくらでも広がる種類の。
彼女が扉へ向かう。
レギュラスの視線は、その背を追う。背中に沿う線。肩甲骨の静かな起伏。産後の柔らかさが残る輪郭。それらが、他人のように遠い。自分の妻であるはずの女が、自分の部屋から抜け出すように去っていく。
——逃げる。
——また、その小さな要塞へ戻る。
そう思った瞬間、レギュラスの中で何かが、軽く音を立てて噛み合った。
ねじ伏せて潰しがいのある玩具を手に入れたような心地。
掌の中で暴れるものほど、形を変えた瞬間に甘くなる。
壊れる寸前で踏みとどまる誇りがあるなら、その誇りごと折ってやればいい。
彼女が生意気にもそうくるなら。
こちらはいくらでも手の内を持っている。
礼儀も、規律も、家の掟も、母という立場も。どれも鎖に変えられる。鎖を鎖として見せないやり方も知っている。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。笑みが消えないまま、声だけがさらに柔らかくなる。柔らかい声ほど、逃げ道を塞ぐのに向いている。
「待ってください、アラン」
名を呼ぶ。
それだけで、彼女の背中がまた一拍止まる。振り返らない。振り返らないまま、返事を探す気配だけが漂う。
レギュラスは続ける。語尾に棘を仕込まない。棘は、内容に入れる。
「アルタイルのもとへ行くのは結構です。母親ですからね。——ただ、その前に一つ」
アランがようやく振り返る。翡翠の瞳が、冷静な水面のように光る。けれど、底は見せない。見せないまま、こちらを見ている。
その瞳の美しさが、また苛立ちを煽る。
美しいものは、必死に守られる。守られるものほど、奪う価値がある。
「何でしょう、レギュラス」
丁寧に、綺麗に、間違いなく。
それが、彼女の盾だ。
レギュラスは椅子の肘掛けに指を置き、指先で木目をなぞった。まるで考えているような仕草を見せながら、答えはもう決まっている。こういう場では、迷ったふりが一番効く。
「さっきから、随分と落ち着いていらっしゃる」
言葉は褒める形をしている。
だが、褒め言葉の皮の内側で、問い詰めが牙を剥く。
「何も堪えていないような顔をするのが上手になりましたね」
アランの睫毛が揺れる。ほんの僅かな影が頬に落ちる。彼女はそれを隠すように視線を下げない。下げると負けると知っているからだ。
「……母になりましたから」
答えは、また母だ。
また、その言葉の傘を差してくる。
レギュラスの喉の奥で笑いが鳴る。乾いた音だ。面白い。たまらなく面白い。何度も同じ傘を差すなら、その傘ごと折る手順を考えるだけだ。
「母、ですか」
ゆっくりと繰り返す。
まるで味見をするみたいに。
「では、母として——夫の前で、何を隠しているんです?」
アランの表情が、少しだけ固くなる。
固くなるのに、美しい。
その美しさが、レギュラスをさらに満たす。苛立ちが、愉悦にすり替わる。
アランは言葉を選ぶ。選びながら、逃げ道を探す。探しているのがわかる。
それがもう、掌の上だ。
「……隠してなど」
「隠していますよ」
被せる。迷いなく。
言い終えるより先に切る。逃げ道を作らせない。
その瞬間、アランの瞳が少しだけ大きくなる。驚きの形。反射の形。彼女はすぐに整え直すが、整える時間が必要だったという事実だけが残る。
レギュラスはその残り香に満足し、さらに続けた。
「隠しているから、母に逃げる。隠しているから、綺麗な顔のまま僕の前から去ろうとする」
言葉が刃になる。刃を見せるのではなく、布の下に忍ばせたまま押し当てる。
アランは一瞬、唇を噛みかけて、止める。噛めば弱さが漏れると知っている。
その自制もまた、玩具のようで可愛い。
可愛いから、もっと潰したくなる。
レギュラスは静かに言う。
「戻っていいですよ。アルタイルのところへ。——ただし」
そこで、ほんの少しだけ間を置いた。
アランの心臓が、目に見えない音を立てる。
「僕が“戻っていい”と言ったら、です」
空気が薄くなる。
アランは息を吸う。吸った息が喉で引っかかるのが、こちらにはわかる。
彼女は、母の顔で耐えようとする。母の顔は強い。強いが、万能ではない。
レギュラスの手の内には、母の顔を剥がす道具がいくつもある。
レギュラスは笑みを崩さず、穏やかに告げる。
「“母”を盾にするなら、僕は“夫”を使います。公平でしょう?」
公平という言葉が、どれほど不公平な刃になるかを知った上で。
その言葉の美しさで、相手の口を塞ぐ。
アランの肩が、ほんの少し落ちる。負けたのではない。堪え直したのだ。
その堪え直しがまた、レギュラスの中の娯楽を刺激する。
この女は、賢い。
賢いから、折れたときの音が綺麗だ。
レギュラスは、ゆっくりと立ち上がった。距離が詰まる。足音は柔らかい。けれど、逃げ道は固い。影がアランに重なる。彼女は一歩も引かない——引かないふりをする。けれど呼吸がわずかに浅くなる。
その浅さが、答えだった。
レギュラスは、目の前の翡翠に向けて、優しく言った。
「さあ、アラン。戻りたいなら、戻ればいい」
そして、続ける。
優しさのまま、首輪を見せる。
「——僕が、許せばね」
その瞬間に生まれた沈黙は、痛いほど濃かった。
アランの顔は美しいまま、動かない。
けれどその美しさの奥で、確かに何かが揺れている。
揺れた。
揺れたから、レギュラスの胸の内は満ちる。
潰し方を考えるのも娯楽だった。
それを娯楽として楽しめる自分に、少しだけ酔いながら——レギュラスは、彼女の次の一言を待った。
ローランドは椅子に腰を下ろしたまま、指先で手帳の角を無意識に撫でていた。今日は——セシール家で、久しぶりにアランを見た。見てしまった。
それが、ただの「再会」で済むはずがないことを、誰より自分が知っていた。
目を閉じる。瞼の裏に、翡翠が灯る。
あの黒髪。あの瞳。
記憶の中の彼女より、確かに「今の彼女」のほうが艶やかで、柔らかくて、恐ろしいほど綺麗だった。母となったせいだろうか。あるいはブラック家という巨大な器に収まったことが、彼女の輪郭を磨き上げたのだろうか。
理由なんて、どうでもよかった。結果だけが、頭にこびりついて離れなかった。
——最悪だ。
胸の内で吐き捨てても、何も薄まらない。
視線を上げると、寝台の端にクラリッサが座っていた。夜着の上から、彼が贈った薄いショールを羽織っている。小さな肩が緊張でこわばっているのが分かるのに、それでも一生懸命に背筋を伸ばしていた。
愛情を示そうとしている。忠誠を示そうとしている。
夫に恥をかかせまいと、必死に「妻」であろうとしている。
その幼さが、いじらしくて、痛かった。
「……クラリッサ」
名を呼ぶと、彼女はぱっと顔を上げた。明るく元気なはずの瞳が、今夜は慎重に揺れている。
ローランドは笑おうとして、笑いきれなかった。喉の奥が乾いて、息が少しだけ荒くなる。
——どうして、こんな日に限って。
アランの姿が、目から離れない。
あの曲線に触れたかった。かつてのように、口づけて、抱きしめて、柔らかさを自分の中に閉じ込めたかった。
許されるはずのない願いが、今さらになって火を点ける。
そしてさらに醜いことに——その火が、目の前のクラリッサへと影を落とそうとしているのが分かってしまった。
これまで、クラリッサを「男女の行為を重ねる相手」として見ることができない、と悩んできた。幼く見えてしまうからだ。
けれど今夜、頭の中で勝手に輪郭が重なる。アランの残像が、クラリッサの肩に、髪に、息遣いに——不躾に重なろうとする。
できてしまう。
それを、脳が理解してしまう。
愕然とした。
夫婦として当然の行為。
逃げ続けるわけにはいかない義務。
そこへ、かつて愛した女を持ち込んで成立させようとする自分の醜さが、胸をねじる。
ローランドは立ち上がり、寝台に近づく。クラリッサの指先が、きゅっとシーツを握りしめた。期待と不安が同居した仕草だった。
その小さな手を見た瞬間、彼は息を止めた。
——違う。
彼女は彼女だ。
アランではない。代わりにもならない。
代わりにしてはいけない。
そう分かっているのに、今日見た翡翠色が、どうしても脳裏で揺らめいて、足元をぐらつかせる。
ローランドは、自分の手を一度握りしめ、ほどいた。ゆっくりと、誤魔化しのない速度で、クラリッサの前に膝をつく。
「怖いですか」
丁寧な声が、暗がりに落ちる。
クラリッサは小さく頷いて、でもすぐに首を横へ振った。矛盾した反応が、彼女の幼さでもあり、誠実さでもあった。
「……わたくし、妻ですもの。ローランド様の……」
言いかけた言葉が、恥ずかしさで細くなる。
ローランドは、その努力を踏みにじりたくなくて、視線を合わせた。きちんと、逃げずに。
「急がなくていいんです、クラリッサ」
そう言った自分の声が、思ったより震えていないことが救いだった。
けれど、その優しさが、同時に自己弁護のようにも聞こえて胸が痛む。優しくすれば許されるのか、と。そんな簡単な話ではないのに。
クラリッサの瞳が潤み、安堵が滲む。彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、ローランドは悟ってしまう。彼女が欲しているのは、荒々しい証明ではない。置いていかれない安心で、拒まれない温度で、夫が自分を見ているという確かな目線だ。
——それなのに。
自分の内側には、今日見たアランの残像が、まだ熱を持っている。
その熱に引っ張られたくないのに、引っ張られてしまう弱さがある。
ローランドは、クラリッサの手にそっと触れた。体温が重なる。それだけで、胸の奥が軋んだ。
この手を取ったのは、自分だ。
守ると決めたのも、自分だ。
それなのに、別の女の影を持ち込もうとしている。
彼は目を閉じ、深く息を吸った。薬草ではなく、石鹸でもなく、クラリッサの髪から漂う甘い香りが胸に満ちる。
それがアランではないと、現実が静かに釘を打ってくる。
ローランドはゆっくりと瞼を開き、クラリッサの額に、祈るように口づけた。
それ以上先へ進むためではなく、彼女を「彼女として」尊重するための、短い合図だった。
「……今日は、あなたの話を聞かせてください。どんな一日だったか。何が嬉しくて、何が不安だったか」
クラリッサは驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
笑みの中に、誇らしさが混じる。妻として扱われた、と感じたのだろう。
「……はい。たくさん、お話ししますわ」
ローランドは頷いた。
胸の奥に残る翡翠色の火種を、言葉の水で鎮めるように。
それでも、完全に消えはしない。消えないことが、なおさら自分を醜く思わせる。
けれど、今夜ここでできるのは、少なくとも——目の前の少女を、誰かの影にして壊さないことだった。
ローランドは、クラリッサの話に耳を傾けながら、心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
アランは過去だ。
クラリッサは今だ。
そして自分は、その「今」を誠実に扱う義務がある。
それが、痛みを伴うほどに難しいことだとしても。
ブラック家の屋敷に、珍しく軽い足音が響いたのは、午後の光が長椅子の絹を淡く照らしはじめた頃だった。
重厚な扉が開くたび、空気そのものが格式に従って整列するような場所だというのに——今日ばかりは、そこへ春の小鳥が迷い込んだような気配がある。
「まあ……! やっぱり凄いんですね、ブラック家って……」
弾む声が先に廊下へ滑り込み、続いて現れた少女が、少し遅れて礼儀正しく裾を整えた。
クラリッサ・ブラックバーン。年若い頬に気品の紅が差し、所作はきちんとしているのに、瞳の奥だけが隠しようもなく天真爛漫に輝いている。
応接間では、銀のティーポットが静かに湯気を細く立てていた。薄いレモンの香り。磨き上げられたカップの縁。窓外の庭は、手入れの行き届いた緑が柔らかく揺れている。
その中央に座るアランは、抱いている赤子を乳母へ預けたばかりで、肩に残る重みの名残をそっと撫でるように手を膝へ戻した。
クラリッサが深く礼をし、顔を上げる。
「お久しぶりです、アラン様。……それと、レギュラス様」
呼ばれた男は、窓際の椅子で書類に目を落としていた。魔法省の役員室で見せるあの冷えた鋭さではなく、今は屋敷の当主としての穏やかな体裁で、口元に薄い微笑みを貼り付けている。
「いらっしゃい、クラリッサ。体調はどうです?」
「ええ! とっても元気ですわ。……元気、なんですけど」
そこで、クラリッサは一瞬だけ言葉を噛んだ。唇が迷い、睫毛が揺れる。幼さが顔を出したあと、意を決したようにカップを両手で包み込み、ぎゅっと背筋を伸ばした。
「わたくし……今日は、相談があって参りましたの」
アランは、微笑みを崩さないまま頷いた。
胸の奥が、ほんの少しだけ、嫌な予感で冷える。
「相談?」
「……はい。あの……」
クラリッサは周囲を見回して、まるで壁にまで聞かれたくない秘密のように声を落とす。その仕草が愛らしくて、残酷だった。
そして次の一言が、アランの内側のどこかを、ひどく正確に刺した。
「ローランド殿が……わたくしのこと、全然……相手にしてくださらないんです」
ティースプーンが皿に触れる、微かな音がした。
アランの手の震えではない。使用人が、息を殺して動いた時に生じる、屋敷のいつもの静寂の揺れ。
「……相手に、ですか」
アランは声を穏やかに保った。けれど喉の奥が、瞬く間に乾いていく。
クラリッサは頬を赤くしながらも、勢いだけは止められない。
「夜が……ないままで……。このままでは、わたくし、妻として……何をすればいいのか……」
最後の言葉が、ほとんど泣き声に近かった。
彼女は貴族の令嬢として完璧に礼節を守っているのに、その内側にある「愛されたい」という純粋さが、堰を切ったように溢れている。
アランの胸が痛んだ。胸の奥ではなく、もっと深い場所——過去に縫い付けられた感情の糸が、乱暴に引かれたような痛みだ。
同時に、別の感情が、醜いほど静かに立ち上がってくる。
——ローランドが、女として見られる相手は、いまだに。
その結論が、奇妙な安心感を伴って、心の底に沈む。
胸を締め付ける痛みのなかで、なぜか「優越」に似たものが、薄い膜のように広がった。
それを感じ取った瞬間、自分が嫌になって、さらに胸が痛くなる。
アランは視線を落とし、ティーカップの縁に口をつけた。温度が、震えを隠すのにちょうどよかった。
向かい側で、レギュラスが小さく息を含む。笑ってはいないのに、笑みの形だけが崩れない。
微笑ましそうに聞いている——その体裁のまま、アランの沈黙の重さをすくい上げるような眼差しを向けていた。
「クラリッサ」
レギュラスの声は柔らかい。だが、空気を支配する力がそこにある。
クラリッサは反射的に姿勢を正した。
「フロスト殿は真面目な方です。あなたを粗末に扱うつもりはないでしょう」
「でも……!」
「でも、という顔ですね」
軽い言い方なのに、逃げ道がない。クラリッサの唇がきゅっと結ばれる。
レギュラスは、そこまでで一度言葉を切った。わざとだ。相手の焦りが形になるのを待っている。
アランは、その「待ち方」を知っている。
気づかぬふりをしていても、気づかされる。どこまでも。
クラリッサが耐えきれずに口を開いた。
「わたくし、夫に嫌われているのでしょうか……? わたくし、まだ……幼いから……」
その瞬間、アランの胸の奥の優越が、音もなく崩れた。
代わりに浮かんだのは、ローランドがかつてアランへ向けていた、あの慎重で丁寧な優しさだった。
好きだからこそ、壊したくない。怖がらせたくない。
それが「拒絶」に見えることがあるのだと、アランは知っていた。
口を開きかけて、閉じる。
どんな言葉も、今の自分には汚れてしまいそうだった。
レギュラスが先に答えた。
「嫌っているわけではないと思いますよ。……ただ、あなたが思うほど簡単に“慣れ”るものでもない」
さらりと、ひどく核心に触れる言い方をする。
クラリッサは目を見開いたまま固まった。アランも、息を止めた。
レギュラスは続ける。口調は変わらないのに、視線だけが一瞬、アランへ滑った。
まるで「あなたは分かるでしょう」とでも言うように。
「夫婦の時間というのは、義務で押し開けるものではありません。……フロスト殿は、あなたを怖がらせたくないのかもしれない」
クラリッサの瞳が揺れる。次第に、涙が溜まり、けれど必死にこらえる。
「わたくし、怖がってなんか……」
「本当に?」
レギュラスの問いは優しい形をしているくせに、鋭い。
クラリッサは言葉を失い、視線を彷徨わせた。それでも、次の瞬間には小さく頷いた。ほんの僅かに、正直が漏れた。
「……少しだけ」
その一言が、アランの胸をまた締め付けた。
ローランドは——きっと、クラリッサのその「少し」を見抜いて、止まっている。
止まることができる男だ。誠実すぎるほどに。
アランは笑みを保ったまま、指先を膝の上で重ね直した。
自分の中に湧いた安心も優越も、今は苦くて、喉に引っかかる。
クラリッサは、堪えきれずにアランのほうを見た。助けを求めるように。
「アラン様は……どうされていたのです? その、ブラック家では……」
その言葉が、まるで刃だった。
アランは息を吸う。胸が痛い。痛いのに、同時に、あの「奇妙な安心」がまた顔を出すのが分かってしまって、自分が嫌になる。
レギュラスは、気づいている。
アランのまつげが僅かに震えたことも、視線が一拍遅れて戻ったことも。
微笑みのまま、何も言わず、ただアランの横顔を見ている。
それが、慰めにも、所有の確認にも見えた。
アランは、ようやく口を開いた。
「……クラリッサ嬢。あなたは、とても大切にされているのだと思います」
それしか言えなかった。
本当は、その先を言いたい。言えない。
ローランドは、いまだに自分だけを——そんな優越に似た妄想を、口にする資格がどこにある。
クラリッサの肩が落ち、それでも、少しだけ救われたように頷く。
「……大切に、ですか」
「ええ。……ただ、あなたも、焦らないで。急いでしまうと、あなた自身が苦しくなってしまいます」
言いながら、アランは思う。
これはクラリッサのための言葉であるはずなのに、どこか自分にも向けている。
焦らないで。急がないで。
過去に引き裂かれたままの心を、無理に縫い合わせようとしないで。
クラリッサは涙を拭い、精一杯の礼節で微笑んだ。
「……ありがとうございます、アラン様。わたくし、頑張りますわ」
その「頑張ります」が、幼くて、痛々しくて、胸に刺さる。
アランは笑みを返しながら、指先が冷えていくのを感じた。
レギュラスが静かに紅茶を口に運ぶ。
カップの縁を離したあと、何でもないことのように言った。
「フロスト殿には、僕からもそれとなく伝えておきましょう。あなたが悩んでいると」
「えっ……!」
クラリッサが慌てる。
アランも、息を呑んだ。ローランドに直接それを伝えるだなんて——どんな顔をさせるつもりなのか。
そして、その瞬間、自分の中の優越がまた、冷たい火として灯るのが分かった。
レギュラスは、相変わらず微笑んだまま、アランのほうを見もしない。
「心配しないで。恥をかかせるような言い方はしません。……僕は礼儀をわきまえていますからね」
“礼儀”。
その言葉が、どうしてこうも脅しに似て響くのか。
アランは返事ができず、ただカップを持つ手に力を込めた。
微笑ましい客人の相談。
穏やかな午後の紅茶。
けれどアランの胸の内だけは、静かにぐちゃぐちゃに濁っていく。
救われたい少女の純粋さと、過去に縛られた自分の醜さと、そして——それらをすべて見抜いた顔で微笑む夫の眼差し。
その全部が、同じ部屋にあった。
クラリッサが去ったあとの応接間は、ひどく静かだった。
香りの残る紅茶も、磨き上げられた銀器も、さっきまでの「来客用の優しい空気」を名残として漂わせているのに——その薄い膜だけが、ぽつりと置き去りにされていた。
アランはカップを受け皿に戻し、指先を膝の上できちんと重ねる。
動きはいつも通り。視線も、笑みも、声の温度も。
母になった女の、覚えた処世術。波風を立てないための、丁寧すぎるほどの平坦さ。
それが、レギュラスには腹立たしかった。
内側がどれほど騒いでいるのか。どれほど複雑に濁っているのか。
すでに読み切っているからこそ、なおさら。
「……クラリッサに」
何気ない調子で切り出して、レギュラスはソファの背へ身体を預けた。組んだ脚の先が、微かに揺れる。落ち着こうとしている動きではない。
それを隠そうともしない。
「優越感でも感じているつもりですか?」
言葉だけが、氷片のように落ちた。
アランの睫毛が一度だけ震え、しかし表情は崩れない。崩さない。
その一拍の沈黙が答えのようにも見えて、レギュラスの胸の奥がざらついた。
アランは微笑みを保ったまま、視線を少しだけずらし、ゆりかごのほうを見た。
そこにはアルタイルが、乳母の腕のなかで眠りかけている。ふわりとした産毛。丸い手。小さな呼吸が、部屋の静けさの中心にある。
「アルタイル、眠いのね」
あえて赤子に話しかける声。
あえてそこへ、意識を移す仕草。
鋭い刃物を、柔らかな布で包んで棚へ押し込むような、慣れた逃げ方。
——スルーする技術が上がっている。
——母になったからか。
——流すことを覚えたからか。
それが、なおさら苛立たしかった。
レギュラスは呼び鈴を鳴らす。
扉が開き、乳母が静かに頭を下げた。
「アルタイルを部屋へ。少し眠らせてください」
「かしこまりました」
乳母が抱き上げると、アルタイルは小さく身じろぎし、眠りの端でかすかに口を動かした。
アランの視線が追う。反射で立ち上がりかける。
「私も——」
言い終わる前に、レギュラスの声がかぶせた。
「あなたはここに」
それだけ。
優しくもない。乱暴でもない。
ただ「当然」の形をした命令だった。
アランの動きが止まる。
ほんの短い逡巡。乳母の足音が遠ざかっていくあいだ、アランの指先がスカートの布地をきゅっと掴んだ。
それから、静かに頷く。
「……はい」
頷かせた事実が、満足ではなく、逆にレギュラスの苛立ちを増やした。
従うからこそ、心がどこにもいないのが分かる。
扉が閉まった。
応接間に残ったのは、二人分の呼吸と、冷えはじめる紅茶の香りだけ。
レギュラスは、カップに触れもせずに言った。
「安心してるんです?」
アランの視線が戻る。戻ってはくるが、深いところまでは来ない。
「フロスト殿が、クラリッサを相手にしないことを」
言葉の先端が、狙い澄ましたように鋭い。
吐かせなければ気が済まない。追い詰めて、形にして、目に見える答えにしなければ——このざらつきが収まらない。
アランは、呼吸を一度整えた。
頬に微かな血の気が差す。それでも、表情を壊さない。
「……何をそんなにお怒りなんです?」
声は穏やかで、丁寧で、——母の声だ。
そして、次の言葉で、逃げ道を作る。
「アルタイルが感じとります」
その瞬間、レギュラスの中で何かがきしんだ。
怒りを鎮めろと諭されているのではない。
“夫婦の問題”を“母子の領域”へすり替えられた感覚。
母の顔を盾にして、これ以上踏み込ませないという線引き。
——母になってもなお、いや、母になったからこそ強固になった境界線。
どうしようもなく、むかついた。
「……都合がいい」
レギュラスは、薄く笑った。笑みの形だけで、温度はない。
アランの目が、ほんの一瞬だけ揺れる。そこへ、さらに押し込む。
「その言葉を出せば、僕は引くと思ってる」
ゆっくりと立ち上がり、ソファの背を回り込む。
アランの背後に影が落ちる。
距離が詰まるだけで、空気の圧が変わる。
「優しい夫を演じていた頃なら、きっと引きましたね」
肩越しに落とされる声は、耳に近い。
アランの背筋が僅かに強張る。
それでも、振り返らない。振り返れば、視線が絡まる。絡まれば、心が読まれる——そう知っている。
レギュラスはその横顔を見下ろしながら、ひどく冷静に、ひどく意地悪く言った。
「答えてください」
逃がさないための、短い命令。
「安心してるんですか?」
アランの喉が、小さく動いた。
否定すべきだ。そんなはずはないと。
けれど否定の言葉は、嘘になる。
そして嘘をつけば、その嘘の匂いにレギュラスがさらに苛立つことも、もう分かっている。
アランは視線を落とし、指先を組み直した。
その指が、ほんの少しだけ震えている。
「……安心、では」
言葉が途切れる。
レギュラスは待たない。待てない。
「では何です?」
畳みかける声。刃のように薄く、逃げ道を削る。
アランの呼吸が浅くなる。
「……私は、母として」
「母として、で逃げるのはやめてください」
レギュラスの声が低く落ちた。
怒鳴っていないのに、壁際まで追い詰められたような圧がある。
「僕が聞いているのは、妻のあなたです」
アランの肩が、ほんのわずかに震えた。
泣きそうな顔をすることもできない。泣けば慰められると知ってしまっているから。
だから、ただ平静を装う。
その装いが、いちばん腹立たしい。
レギュラスは、アランの顎に触れそうな距離まで身を屈めた。触れない。
触れないことで、余計に意識を縛る。
「フロスト殿が、あなたをまだ女として見ているとでも?」
その言葉は、針だった。
アランの瞳が、反射で大きくなる。
レギュラスは、そこを見逃さない。
「……やはり」
小さく笑う。勝ち誇る笑いではなく、確信した者の、乾いた笑い。
「僕の妻は、まだ彼の手の中にいるんですね」
「……違います」
やっと出た否定は、かすれていた。
レギュラスは首を傾ける。
「どこが?」
穏やかに問うふりをして、実際には問いではない。
宣告の形をした追及だ。
アランは唇を噛み、息を吸う。
母の顔を保とうとして、またその言葉へ逃げそうになる。
けれどレギュラスの眼差しが、それを許さない。
「……アルタイルの前で、こんな話は」
「アルタイルはもういない」
即答だった。容赦のない切断。
アランの言い訳の枝が、音もなく折れる。
沈黙が落ちた。
紅茶の香りが、冷えて苦くなる。
レギュラスは、苛立ちを隠さず、けれど醜くは見せないまま、整った声で言う。
「あなたが何を感じたか、僕は分かっています」
アランの喉が鳴る。
視線が逃げる。
その逃げ道を、レギュラスは言葉で塞ぐ。
「胸が痛んだ。——でも、安心した。——そして、優越した」
ひとつずつ、丁寧に並べる。
まるで証拠品の提示だ。
アランの顔色が変わった。
その変化を、レギュラスは待っていた。
待っていたから、満たされるはずだった。
なのに、満たされるどころか、胸のざらつきは増えるばかりで、レギュラスは自分の感情の扱い方が分からなくなる。
——嫉妬だと認めたくない。
——けれどそれ以外の名が見当たらない。
アランは、小さく息を吐いた。
そして、また逃げようとする。赤子のいない空気に、なお母の顔を貼り付けて。
「……私がどう感じたかより、今は、クラリッサ嬢のことを——」
「僕は、あなたのことを話しています」
切り捨てるような一言。
アランの瞳が揺れる。
レギュラスは、揺れたものを拾い上げるように、さらに低く言った。
「僕の前で、母を盾にしないでください」
その瞬間、アランの平静が、ほんのひび割れた。
唇が震える。目尻が熱を帯びる。
それでも泣かない。泣けない。
レギュラスは、その必死さがたまらなく愛おしくて、同時に憎たらしくて、胸が痛むほどだった。
「……あなたは、僕の妻です」
優しい言葉に聞こえかねないのに、そこに温度はない。
力だけがある。
「僕の家で、僕の子を産んで、僕の名前を名乗って……それでも、まだ彼の影で揺れる」
言いながら、自分がどれほど醜いことを言っているか分かっている。
分かっているのに止められない。
アランは、やっと顔を上げた。
翡翠の瞳が、湿って光る。
その光が、レギュラスの苛立ちを煽るように、胸の奥を撫でるように、同時に突き刺さる。
「……レギュラス」
静かな呼び声。
それが、拒絶でもなく、受容でもなく、ただの「現実」だった。
「……怒っているのは、私にですか。それとも、ご自身の気持ちにですか」
たった一言で、刃が返ってくる。
それでも声は柔らかい。
母になった女の、流すための柔らかさではなく、——夫を傷つけずに核心へ触れるための柔らかさ。
レギュラスの喉が、一瞬詰まった。
苛立ちの矛先が、どこに向いているのか。
分かりたくないのに、分かってしまう。
答えを出したくなくて、レギュラスは笑った。
笑うしかなかった。
「……意地悪ですね、あなたも」
アランは何も返さない。
ただ、目を逸らさないでいる。
それだけで、レギュラスの胸のざらつきは、少しだけ形を変えた。
けれど、止められなかった。
追い詰めて吐かせたい衝動が、まだ熱を持っている。
愛おしさと苛立ちが、同じ場所で絡まって、ほどけない。
レギュラスは、アランの頬に触れ——触れた指先の温度だけで、最後にもう一度だけ、低く問う。
「……安心したんですか。答えてください」
その問いは、勝ちたいからではない。
自分が救われたいからだと、レギュラス自身がいちばん理解していた。
応接間の空気は、いまだ温い紅茶の香りをまとったまま、どこかひやりとした緊張を孕んでいた。乳母がアルタイルを連れて行ってから、部屋の中心から柔らかな呼吸音が消え、残るものは二人の間に張られた見えない糸だけになった。
レギュラスは、その糸を指先で弄ぶのが上手かった。
触れもしないのに、触れたように揺らす。
声を荒げるでもなく、微笑みを崩すでもなく——ただ、逃げ道をひとつずつ塞ぎ、最後に「答え」だけを残す。
アランは、そのやり方に慣れてきてしまっていた。
昔なら、視線を落として、息を飲んで、言葉が喉で固まって、ただ黙るしかなかった。
けれど今は違う。
流すことを覚えた。あしらうことも覚えた。ときには小さく反撃して、相手の刃先を鈍らせる術も。
——母になったからだろうか。
——この屋敷で生きるために、そうならざるを得なかったのだろうか。
「……安心したんですか」
レギュラスの問いは、同じ形で何度も返ってくる。
まるで呪文のように。
答えを得るためというより、揺れたところを確かめて、自分の手のひらの上で転がる感触を楽しむために。
アランは、膝の上で重ねた指をほどき、また重ね直した。指先が少し冷たい。室内は暖かいはずなのに、胸の奥だけが凍っている。
「どうでしょう」
声は丁寧で、静かだった。
昔のように震えもしない。
それが自分でも不思議で、少し怖い。
「自分の気持ちが、私にもわかりません」
わざと曖昧にした言葉は、刃に対する布だった。
きっぱり否定すれば、レギュラスは喜ぶか苛立つかして、もっと深く切り込んでくる。
肯定すれば——何を肯定したのか分からないまま、何かを差し出すことになる。
だから、そのどちらも選ばない。
——ここで終わらせるための、逃げの言葉。
レギュラスは鼻で笑った。
それは「答え」ではない、と言うように。
期待していたものではない、と告げるように。
けれど同時に、その曖昧さを面白がっているのがわかる。攻略のしがいがある玩具を見つけた目をしている。
「……便利ですね」
薄く笑った口元が、そのまま冷たく固定される。
アランは目を逸らさない。逸らさないと決めた。
逸らせば、またそこをつけ込まれる。
自分の弱い場所を、いつまでもこの男の娯楽にしてしまう。
視線を受け止めながら、アランの内側で、別の感情が静かに膨らんでいく。
羞恥でも恐怖でもない。
疲労と、諦めと、それでも消えきらない反発。
——こんなにも何もかも持っているくせに。
——どうして、まだ足りない顔をするの。
権力も、血も、名も、財も。
魔法省の廊下を歩くだけで祝福が降り注ぎ、屋敷に戻れば、誰もが膝を折る。
自分の意志ひとつで、家同士の縁談さえ編み直し、誰かの未来を別の方向へ押し流してしまえる男。
それなのに。
この男は、アランの胸の奥に残った影——ローランドという名前の残響に、いつまでも指を伸ばしてくる。
触れたくてたまらないように。
壊したくてたまらないように。
それを壊せたと確信して、勝利を味わいたいように。
アランは、喉の奥が少し苦くなるのを感じた。
言葉にすれば、きっとこの場はさらにこじれる。
それでも胸の内に溜まりすぎたものが、静かに押し上がってくる。
——望む通り、婚姻を受け入れた。
——あなたを許容した。
——愛に似たものを返した。
——子を産み落とした。しかも、望み通りの男児を。
これ以上何が欲しいのか。
こっちこそ問い詰めてやりたいくらいだった。
けれど問い詰めたところで、この男は笑うのだろう。
それすら自分の愉しみに変えて、また次の刃を用意してくる。
アランは息を吸う。胸の奥の怒りが、熱くならないように。熱くなれば負ける。
冷たいまま、形だけ整えた言葉で返す。
「……私の答えが、そんなに必要ですか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
言い終えた瞬間、心臓が跳ねる。応戦したのだと、身体が遅れて理解する。
レギュラスの目が細くなる。怒ったのではない。
面白がった。
獲物がこちらを向いた瞬間の、愉悦に近い光。
「必要ですよ」
あっさりと、当然のように。
「あなたは僕の妻です。僕の子を産んだ。——それでいて、心のどこかをまだ僕に渡していない」
言葉は柔らかいのに、内容は鎖だった。
“それが当然だ”という顔で、こちらの内側を所有しようとする。
アランは唇を閉じ、噛みしめる。
そうしていないと、胸の奥の言葉が溢れ出てしまいそうだった。
——何が欲しいのか。
——どこまで奪えば満足するのか。
——あなたの「足りない」は、いったいどこに穴が空いているのか。
レギュラスは微笑む。
その微笑みが、うっとりするほど整っていることが、なおさら厄介だった。
美しいものは正しいように見える。
正しいように見えるから、拒む自分が悪者になる。
「僕は貪欲なんです」
まるで誇りのように言う。
そして、その貪欲さを咎められると思っていない声色で続ける。
「あなたが、僕のものだと——あなた自身の口から聞きたい」
アランの胸が、ぎゅっと縮む。
“もう十分与えた”と思う自分と、“まだ渡していない”と言われてしまう現実。
その間で、何かが擦れて、痛む。
アランは、目を伏せた。
これ以上向き合えば、心の奥の言葉が溢れてしまう。
溢れた瞬間、レギュラスはきっと勝った顔をする。
それが悔しくて、怖くて、そして——ついていけないほど疲れていた。
「……レギュラス」
呼びかけた声は、祈りのようでもあり、ため息のようでもあった。
「私には、もう十分すぎます」
言い切る直前、喉が熱くなる。
涙ではない。怒りでもない。
長い間飲み込んできたものが、ようやく形になりかけているだけだ。
「……これ以上、何を望むのですか」
それは問いだった。
けれど同時に、堪えきれない疲労の告白だった。
レギュラスは、また鼻で笑う。
けれど今度の笑いには、少しだけ棘が混じっていた。
自分の欲を否定されたというより、欲を理解されない苛立ち。
そして、理解させてやりたいという執着。
「それを、あなたに教えてもらうんですよ」
あまりにも身勝手で、あまりにも当然の顔で。
アランは、胸の奥で小さく息を詰めた。
この男は、世界のすべてを手に入れてもなお、足りないと言うのだ。
足りない穴を埋める材料に、自分の感情を選ぶのだ。
——ついていけない。
——でも、ここで拒めば、また別の形で追い詰められる。
——応じれば、また何かが削られる。
アランは、静かに視線を上げた。
翡翠の瞳が、疲れた光を宿している。
それでも、崩れない。崩さない。
母として、妻として、そして生き延びるために。
レギュラスはその瞳を見つめ、満足と不満が入り混じったまま、微笑みの形を整えた。
——逃げない。
——怯えない。
——流しながら、ときどき噛みつく。
その変化が、レギュラスを苛立たせ、同時に昂らせていることを、アランはもう薄々理解していた。
応接間の空気は、先ほどまで揺れていた乳母の足音が消えてから、いっそう密度を増していた。火鉢の赤はまだ穏やかに燃えているのに、そこから立つ熱が、二人の間の冷えを溶かせない。磨かれた木の床に、窓から差し込む午後の光が細く横たわり、金の縁取りのように、アランの輪郭だけを静かに際立たせていた。
アランは、たやすく崩れない。
崩れないからこそ、余計に腹が立つ。
レギュラスはその姿を見て、噛み砕けない骨を口に含んだような苛立ちを覚えた。けれど同時に、歯の奥で舌が疼くような快感も混じる。壊れないものを壊すときの感覚を、もう知ってしまっているからだ。
彼女は、時折——ほんの時折、目の前の現実を諦めていない証拠のように、刃を見せる。
声を荒げるでもなく、睨むでもなく。
ただ、よく整った唇の端を微かに引き、礼儀の衣を着せた言葉の中に、針ほどの棘を忍ばせる。
その棘が、苦い。
だからこそ、舐めて確かめたくなる。
アランの睫毛がゆっくりと伏せられ、また上がる。視線は逃げない。逃げないまま、胸の内だけを隠す。母になった女の強さというより、要塞の門を内側から固く閉める術を身につけた囚人のそれだった。
レギュラスは、その「閉め方」が気に入らなかった。
気に入らないのに、目が離せない。
彼女が口を開く。そこに焦りも震えもない。それが、腹立たしいほど美しい。
「……アルタイルのもとに戻ります」
言葉は丁寧で、正しい。
どこにも非の打ちどころがない。
だからこそ、ひどく不愉快だった。
まるで——この場を終わらせる決定権が、彼女の手の内にあるかのように。
まるで——自分の前から去る理由が「母」であれば、すべて免罪されると知っているかのように。
アランは立ち上がる。ドレスの裾が擦れる音すら控えめで、所作だけが完璧に滑る。首筋の線が、いつも通り白い。そこにわずかな汗も迷いも見えないことが、レギュラスの胸をさらにざらつかせた。
都合よく母に代わろうとする素振り。
それを武器にして、話を断ち切る気配。
その図々しさが、おかしくてたまらない。
レギュラスは、笑いそうになった。実際、唇の端が上がる。だがその笑みは温度を持たない。氷の表面に薄く刻まれた形だけの曲線だ。
「そうですか」
短く言い、視線を彼女の手元に落とす。指先がショールの端を整えようとしている。ほんの僅か、布が引かれた。呼吸の間に、針のように小さい揺れ。アランは自覚していないふりをする。あるいは、自覚しているのに見せない。
その「見せない」が、刃だった。
レギュラスは椅子から立ち上がらないまま、声だけを滑らせた。
「便利ですね。母という言葉は」
アランの動きが、一拍だけ止まる。止まったのは足ではなく、空気だった。彼女は振り返らない。振り返らないという選択に、少しの抵抗と、少しの賢さが滲む。
「……必要なことです」
返答は穏やかだ。優等生の答えだ。
けれどその穏やかさの中に、こちらを諦めている響きがある。
レギュラスの胸に、苛立ちが薄く燃えた。炎ではない。火種だ。指先で捻れば、いくらでも広がる種類の。
彼女が扉へ向かう。
レギュラスの視線は、その背を追う。背中に沿う線。肩甲骨の静かな起伏。産後の柔らかさが残る輪郭。それらが、他人のように遠い。自分の妻であるはずの女が、自分の部屋から抜け出すように去っていく。
——逃げる。
——また、その小さな要塞へ戻る。
そう思った瞬間、レギュラスの中で何かが、軽く音を立てて噛み合った。
ねじ伏せて潰しがいのある玩具を手に入れたような心地。
掌の中で暴れるものほど、形を変えた瞬間に甘くなる。
壊れる寸前で踏みとどまる誇りがあるなら、その誇りごと折ってやればいい。
彼女が生意気にもそうくるなら。
こちらはいくらでも手の内を持っている。
礼儀も、規律も、家の掟も、母という立場も。どれも鎖に変えられる。鎖を鎖として見せないやり方も知っている。
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。笑みが消えないまま、声だけがさらに柔らかくなる。柔らかい声ほど、逃げ道を塞ぐのに向いている。
「待ってください、アラン」
名を呼ぶ。
それだけで、彼女の背中がまた一拍止まる。振り返らない。振り返らないまま、返事を探す気配だけが漂う。
レギュラスは続ける。語尾に棘を仕込まない。棘は、内容に入れる。
「アルタイルのもとへ行くのは結構です。母親ですからね。——ただ、その前に一つ」
アランがようやく振り返る。翡翠の瞳が、冷静な水面のように光る。けれど、底は見せない。見せないまま、こちらを見ている。
その瞳の美しさが、また苛立ちを煽る。
美しいものは、必死に守られる。守られるものほど、奪う価値がある。
「何でしょう、レギュラス」
丁寧に、綺麗に、間違いなく。
それが、彼女の盾だ。
レギュラスは椅子の肘掛けに指を置き、指先で木目をなぞった。まるで考えているような仕草を見せながら、答えはもう決まっている。こういう場では、迷ったふりが一番効く。
「さっきから、随分と落ち着いていらっしゃる」
言葉は褒める形をしている。
だが、褒め言葉の皮の内側で、問い詰めが牙を剥く。
「何も堪えていないような顔をするのが上手になりましたね」
アランの睫毛が揺れる。ほんの僅かな影が頬に落ちる。彼女はそれを隠すように視線を下げない。下げると負けると知っているからだ。
「……母になりましたから」
答えは、また母だ。
また、その言葉の傘を差してくる。
レギュラスの喉の奥で笑いが鳴る。乾いた音だ。面白い。たまらなく面白い。何度も同じ傘を差すなら、その傘ごと折る手順を考えるだけだ。
「母、ですか」
ゆっくりと繰り返す。
まるで味見をするみたいに。
「では、母として——夫の前で、何を隠しているんです?」
アランの表情が、少しだけ固くなる。
固くなるのに、美しい。
その美しさが、レギュラスをさらに満たす。苛立ちが、愉悦にすり替わる。
アランは言葉を選ぶ。選びながら、逃げ道を探す。探しているのがわかる。
それがもう、掌の上だ。
「……隠してなど」
「隠していますよ」
被せる。迷いなく。
言い終えるより先に切る。逃げ道を作らせない。
その瞬間、アランの瞳が少しだけ大きくなる。驚きの形。反射の形。彼女はすぐに整え直すが、整える時間が必要だったという事実だけが残る。
レギュラスはその残り香に満足し、さらに続けた。
「隠しているから、母に逃げる。隠しているから、綺麗な顔のまま僕の前から去ろうとする」
言葉が刃になる。刃を見せるのではなく、布の下に忍ばせたまま押し当てる。
アランは一瞬、唇を噛みかけて、止める。噛めば弱さが漏れると知っている。
その自制もまた、玩具のようで可愛い。
可愛いから、もっと潰したくなる。
レギュラスは静かに言う。
「戻っていいですよ。アルタイルのところへ。——ただし」
そこで、ほんの少しだけ間を置いた。
アランの心臓が、目に見えない音を立てる。
「僕が“戻っていい”と言ったら、です」
空気が薄くなる。
アランは息を吸う。吸った息が喉で引っかかるのが、こちらにはわかる。
彼女は、母の顔で耐えようとする。母の顔は強い。強いが、万能ではない。
レギュラスの手の内には、母の顔を剥がす道具がいくつもある。
レギュラスは笑みを崩さず、穏やかに告げる。
「“母”を盾にするなら、僕は“夫”を使います。公平でしょう?」
公平という言葉が、どれほど不公平な刃になるかを知った上で。
その言葉の美しさで、相手の口を塞ぐ。
アランの肩が、ほんの少し落ちる。負けたのではない。堪え直したのだ。
その堪え直しがまた、レギュラスの中の娯楽を刺激する。
この女は、賢い。
賢いから、折れたときの音が綺麗だ。
レギュラスは、ゆっくりと立ち上がった。距離が詰まる。足音は柔らかい。けれど、逃げ道は固い。影がアランに重なる。彼女は一歩も引かない——引かないふりをする。けれど呼吸がわずかに浅くなる。
その浅さが、答えだった。
レギュラスは、目の前の翡翠に向けて、優しく言った。
「さあ、アラン。戻りたいなら、戻ればいい」
そして、続ける。
優しさのまま、首輪を見せる。
「——僕が、許せばね」
その瞬間に生まれた沈黙は、痛いほど濃かった。
アランの顔は美しいまま、動かない。
けれどその美しさの奥で、確かに何かが揺れている。
揺れた。
揺れたから、レギュラスの胸の内は満ちる。
潰し方を考えるのも娯楽だった。
それを娯楽として楽しめる自分に、少しだけ酔いながら——レギュラスは、彼女の次の一言を待った。
