1章
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朝食室には、柔らかな陽光が斜めに差し込んでいた。
大きな窓辺のレース越しに、初夏の淡い光が揺れ、テーブルクロスの白い布と銀食器の縁をほのかに照らしている。
昨夜の宴の喧騒とはまるで別世界の、静かな朝だった。
長いテーブルの片側にはレギュラス・ブラックが、対面にはアラン・セシールが腰かけている。
ほどよい距離。
しかし、アランの胸には、その距離が近すぎるようにも、遠すぎるようにも感じられていた。
磨き抜かれた食器類が、給仕妖精の手によって静かに並べられていく。
白い皿の上には焼きたてのパンと卵料理、彩りのよいサラダ。
湯気を立てるポットからは、香り高い紅茶がカップに注がれていく。
「口に合いますか?」
レギュラスが、カップ越しに穏やかに問いかける。
その声音には、昨夜の流れを当然のものとして受け入れている男の余裕が混じっていた。
「……はい。とても」
アランは、視線を皿の上に落としたまま答えた。
ナイフとフォークを持つ手はきちんと安定しているのに、その指先にはわずかな力の入りすぎが見て取れる。
紅茶のカップを持ち上げる仕草も完璧で、カップの縁に触れる唇の形も美しい。
だが、彼女は一度たりとも、彼の灰色の瞳を正面から見ようとはしなかった。
レギュラスは、それを咎めようとは思わなかった。
むしろ、その不器用なまでの視線の避け方が、彼にはひどく愛らしく映る。
昨夜、あれほど自分の腕の中で、予想通りの反応を見せてくれた少女が。
朝になって、テーブルを挟んだだけでこんなにも戸惑っている。
そのギャップは、レギュラスにとってこの上ない愉悦だった。
この美しい少女を、間違いなく自分の手の内に入れた──その手応えが、まだ骨の奥にまで残っている。
ベッドの上で震えた指、掴まれたシャツ、崩れていった境界線。
彼女の口からこぼれた、婚約者の存在を示すあの爆弾のような一言さえも、今となってはどうでもいいとすら思えるほどに。
今はただ、満たされていた。
パンをちぎりながら、レギュラスは何気ないふうを装って話題を差し出す。
「そういえば、セシール家は魔法薬で富を築いた純血の名家でしたね」
ナイフにバターをすべらせながら、さりげなく続ける。
「あなたも、魔法薬は得意なんです? 調合や、理論など」
アランの手が、一瞬だけ止まった。
しかし、次の瞬間には何事もなかったかのように動きを戻し、丁寧に皿の端にサラダを寄せてから、控えめに答える。
「得意というほどではありませんが……」
カップの縁を軽くなぞりながら、静かに言葉を継ぐ。
「父の研究の手伝いは、よくしておりました。
材料の計量や記録の整理、簡単な補助の魔法薬の調合など……そういったことなら」
レギュラスは、カップを口に運ぶ手を止め、興味深そうに彼女を見た。
相変わらず、アランは目を合わせようとしない。
テーブルクロスの模様や、皿の配置、カップの縁ばかりを追っている。
しかし、その横顔には、自分の家のことを語るとき特有の誇りと慎みが、淡く滲んでいた。
「やはり、そうでしたか」
レギュラスの口元に、満足げな笑みが浮かぶ。
「セシール卿の魔法薬は、魔法省でも高く評価されています。
効能もさることながら、副作用の少なさが特に。
……あの安定性は、研究者の執念だけではなく、優秀な助手の存在あってこそ、でしょう」
アランは、ほんのわずかに肩を震わせた。
褒められ慣れていない部分を、不意に照らされたような居心地の悪さ。
しかし、その中に少しだけ、父の仕事に触れられたことへの嬉しさも混ざる。
「わたしなど、たいしたことはしておりません」
彼女は慎ましく首を振った。
「薬草の前処理や、計測、温度管理を少し……父の考案した理論を、横で見ていただけで」
「その“横で見る”役目が、一番羨ましいですね」
レギュラスは、軽く笑った。
「新しい理論や配合を、最初に目にするのはいつも家族でしょう?
セシール卿の工房に、一度でいいから立ち会ってみたいくらいです。
研究ノートも、きっと見事なものなのでしょうね」
アランは、その言葉にわずかに目を見開いた。
思わず顔を上げかけて、慌てて視線を落とす。
灰色の瞳とぶつかる寸前で、カップの紅茶に視線を逃がした。
レギュラスは、その寸前の動きを見ていた。
あと一歩で目が合うところまで来て、怖じ気づいたように逸らす。
その慎重さが、昨夜、覚悟を砕いてしまった瞬間の彼女と重なって見える。
愛らしい、と素直に思った。
食事をする所作も、驚くほど整っていた。
パンにナイフを入れる角度、フォークを持つ手首の傾き、口元へ運ぶときの姿勢。
どれをとっても、セシール家の令嬢としての教育の行き届きを感じさせた。
(ひと晩だけで、すぐに飽きが来るかもしれないと思っていたのに)
これはレギュラス自身が、かつて何度も経験してきたことだった。
容姿の美しい令嬢、気の利いた会話をする社交界の華。
夜を共にしてみれば、その多くは似たり寄ったりで、翌朝の食卓には退屈だけが残ることも珍しくなかった。
だが、目の前のアラン・セシールは違った。
視線を合わせることもままならないほど羞恥と戸惑いに揺れながら、それでも姿勢だけは正しく保っている。
昨日までと同じ淑女としての在り方を崩すまいとする意地が、その背中には確かにあった。
その硬さが、彼にはむしろ新鮮だった。
「工房では、どんな魔法薬を?」
レギュラスは、興味を隠そうともせずに問いを重ねる。
「治癒系が多いのでしょうか。それとも、強化剤や、精神安定の類いですか?」
「……ええと」
アランは少しだけ考えるように眉を寄せた。
「主には、治癒薬や、魔力循環の改善薬が多いです。
過度な負担をかけずに、魔力枯渇を防ぐことを目的としたものや、長期服用しても依存性の低い痛み止めの改良など……」
話し始めると、言葉は自然と増えていった。
父の仕事について語るときだけ、アランの声はわずかに熱を帯びる。
それでも決して自慢げではなく、あくまで淡々と、しかし誇りを隠しきれない調子で。
「なるほど」
レギュラスの灰色の瞳が、静かに光を増した。
「やはり、セシール家らしい。
……あなたの指先も、薬草や素材の色にずいぶん見慣れているのでしょうね」
アランは自分の手を見下ろす。
今は完璧に手入れされた指先がテーブルの上にあるが、工房にいるときは、確かに薬草の匂いやインクのしみが残ることもあった。
その記憶が、ふと胸の奥を掠める。
「……お父上のそばに、そんなふうに立っていたあなたを、一度見てみたかった」
レギュラスは、ナイフとフォークをそっと皿に置き、手を組んだ。
「夜会での姿も見事でしたが、工房で働くあなたは、きっと違う顔をしているのでしょう?」
その言葉に、アランの胸がどきりと鳴った。
見透かされたような気がして、思わず指先に力が入る。
「わたしは……」
彼女は視線を落としたまま、ゆっくりと息を整えた。
「ただ、父の仕事の邪魔にならないようにと、そう努めていただけです。
魔法薬そのものも、もちろん好きですが……父が喜ぶ顔を見るのが、いちばん嬉しかったので」
その言葉に、レギュラスは小さく目を細めた。
セシール家の魔法薬に宿る安定性と、いま目の前にいる少女の律儀さが、彼の中で静かに重なる。
ひと晩だけの相手。
興味本位で選び、満足したら次へ進む。
そんなふうに切り捨てるには、あまりにも惜しい存在だと、レギュラスははっきり自覚し始めていた。
こうしてゆっくり朝食を囲みたいと思える相手など、ほとんどいなかった。
ただ美しいだけの令嬢なら、夜だけで十分だ。
だが、彼は今、皿の上の食事が終わったあとも、まだ彼女と話していたいと思っている。
アラン・セシールという女を、もっと深く知りたい——。
その欲求は、昨夜彼女の身体を求めたときの熱と、同じ熱量で胸の中に広がっていた。
ただの征服欲ではない。
彼女の過去、彼女の家族、彼女の夢や恐れ、そういったものにまで触れてみたいという、面倒な種類の興味。
「……セシール嬢」
レギュラスは、紅茶のカップを持ち上げながら静かに名を呼ぶ。
アランはまた、びくりと肩を震わせた。
「昨日の夜会で、あなたを選んだのは、ただの思いつきではありません」
彼は淡々とした調子で続ける。
「あなたの家のことも、評判も、噂も。
もちろん、あなた自身の立場も、多少は耳にしていました」
アランは、唇を強く結んだ。
ローランドの名が、脳裏の隅で微かに揺れる。
「ですが、それよりも」
レギュラスは、カップをそっとソーサーに戻す。
「舞踏会の真ん中で、あれほど緊張しながらも礼儀を崩さなかった姿が、僕にはとても印象的だった。
……そして昨夜、腕の中で見せてくれた顔も」
アランの頬に、熱が差した。
何も言い返せない。
どんな言葉を選んでも、そこに昨夜の自分が重なってしまう。
「だから、こうして朝食をともにできて、嬉しく思っています」
レギュラスは、柔らかな笑みを浮かべた。
「昨夜だけで、終わらせたくはない」
テーブルの上の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
アランは、ナイフとフォークを揃えて皿の上に置き、深く息を吐いた。
顔はまだ上げられない。
ただ、胸の内側で、何かが静かにきしむ音だけが響いていた。
レギュラスは、その沈黙さえも楽しむように、彼女を見つめていた。
アランの中にまだ多くの抵抗と迷いがあることを知りながら、それをひとつひとつ見つけては、解きほぐしていく過程を想像する。
その作業は、きっと魔法薬の調合とよく似ているのだろう。
材料の配合を見極め、火加減を調整し、時間をかけて効能を最大限に引き出す。
焦らず、しかし確実に。
アラン・セシールという女に対するレギュラスの興味は、もう単なる「一夜の相手」へのものではなかった。
彼の中で、それは静かに、しかし確実に、長く続く研究のような熱に変わりつつあった。
馬車の扉が閉まる鈍い音がして、外界との境がひとつ増えた。
御者台へかけられる掛け声、馬の蹄が石畳を打つ響きが遠ざかり、やがて車輪がゆっくりと動き出す。
厚手のカーテンに覆われた車内は、外の光を柔らかく遮っていた。
濃い葡萄色の布地、磨かれた木の肘掛け、座面に敷かれたクッションには、ブラック家の紋章が控えめに刺繍されている。
その上に、アラン・セシールは背筋をこわばらせたまま座っていた。
手袋の内側で、指先がじっとりと汗ばんでいる。
馬車が小さく揺れるたびに、背中の筋肉まで反射的に震えた。
心臓がうるさいほどだった。
鼓動が、耳のすぐ近くで鳴っている気がする。
シートの背もたれにもたれようとしても、身体が強張って深く預けられない。
——昨夜の自分は、自分ではなかった。
心の中で、アランは何度もそう繰り返した。
そう繰り返さなければ、とても正気でいられる気がしなかった。
あの廊下、あの浴室、あの寝台。
最初は、足取りが重くてたまらなかった。
部屋の扉の前で、何度も引き返したいと思った。
シャワーの下で、震えながら「これは間違いだ」と何十回も心の中で繰り返した。
——それなのに。
「婚約している方が」と、震えながら告げた唇。
そのあと、あっさりと押し流されていった境界線。
触れられるたびに乱れた息。
拒まなければと思いながら、いつの間にか掴んでしまったシャツの布。
思い出したくなくても、断片的な記憶が容赦なく浮かんでくる。
喉がひりつき、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「昨夜だけで終わらせたくない」と、彼は言った。
朝食の席で、紅茶の香りに紛れるように落とされた言葉。
いけない、とアランは思う。
あれは、ああいう「手」なのだ。
甘い声音で、特別であるかのような言葉を選び、縛りつける。
「君だけだ」「昨夜だけではもったいない」といった響きをまとわせて、女たちの足元を崩していく。
そうして、そのままただ溺れ切ってしまい、どうしようもないほど惨めになっていった令嬢たちの噂を、彼女は幾度となく耳にしてきた。
——レギュラス・ブラックに惹かれたら終わりよ。
——あの人の「特別」ほど、あてにならないものはないわ。
酒席で囁かれる噂話。
夜会の隅で涙ぐむ少女の話を、他人事として聞いていたあの日々。
どこか軽蔑を含んで、「そんなふうにはなりたくない」と冷静に線を引いていたはずの自分。
その自分が——今や、レギュラス・ブラックの屋敷から、彼の用意した馬車で帰ろうとしている。
「……っ」
思わず、胸元をきゅっと押さえた。
ドレスの上からでもわかるほど、心臓の鼓動が早い。
身体のどこが痛いとか、疲れたとか、そういう感覚よりも先に、胸の内のざわめきだけが際立っている。
昨夜の自分は、自分ではなかった。
何かに操られていたのだ、と言い聞かせる。
そうでも言わなければ、ローランドの顔を思い浮かべることすらできない。
ローランド・フロスト。
穏やかで、真面目で、誠実な男。
幼いころから一緒に過ごし、指切りを交わし、少しずつ「将来」の形を共有してきた相手。
父と母に正式な婚約の話を持ちかけてくれるはずだった人。
暖炉の前で、慎重に言葉を選びながら笑った横顔が思い浮かぶ。
「君のご両親に、話をしたいと思っている」と告げたときの、あの少し照れた目の光。
その全てを——昨夜、レギュラス・ブラックの腕の中で、自分は踏みにじってしまった。
誰に強制されたわけでもない。
誰かの呪文で意志を奪われたわけでもない。
怖かった。
嫌だった。
けれど、その恐怖に甘さが混じり始めた瞬間を、自分自身の内側で、はっきりと感じてしまったのも事実だった。
ローランドの優しさ。
彼の触れ方、彼の呼吸、彼のためらいがちなキス。
それら全てを知っていながら、別の男の腕の中で、別の熱に溺れてしまった。
「ひどいことでもしましたか?」と、冗談めかして言ったレギュラスの声が、また耳の奥に蘇る。
ひどいことをしたのは誰なのか。
レギュラスなのか、自分なのか。
答えはひとつに絞れないまま、胸の奥で痛みだけが増していく。
馬車の窓の外では、景色がゆっくりと流れていた。
石畳の道が途切れ、土の道に変わる。
木々の緑が増え、朝の光が葉の間からちらちらと差し込む。
アランはカーテンを少しだけ持ち上げ、外を覗こうとして——すぐにやめた。
いつもの通い慣れた道さえ、今はまともに見ていられない。
視線を落とすと、手首のあたりにうっすらと赤い跡が残っているのが見えた。
昨夜、掴まれた場所。
強すぎる力ではなかったはずなのに、繊細な肌には簡単に痕がつく。
すぐに袖口を引き下ろし、隠す。
父と母に、何と説明すればいいのか。
「ブラック家のご厚意で泊まらせていただきました」と言えば、それだけで十分なのか。
それとも、余計な詮索を招くのか。
母は、敏い。
髪の乱れや瞳の陰り、わずかな変化をすぐに見抜いてしまう。
父は口数は少ないが、その分、沈黙の眼差しが重い。
何も知られたくない。
けれど、何もなかった顔をして帰る自信もない。
昨夜、レギュラスは「昨夜だけで終わらせたくない」と言った。
あの灰色の瞳で、当たり前のように。
それが、どれほど危険な言葉か。
彼にとっては数多ある言葉のうちの一つでしかないのかもしれない。
しかし、言われた側の女にとっては、人生を大きく狂わせるほどの重みを持つこともある。
——溺れ切って、惨めになった女たち。
噂の中の「誰か」を、心のどこかで冷静に分析していたはずの自分。
その「誰か」に、自分が限りなく近いところまで来てしまっているのだという現実に、アランは耐えきれない思いを覚えた。
「……ローランド」
声には出さず、心の中だけで名を呼ぶ。
胸が締めつけられて、少しだけ前屈みになった。
彼は知っているのだろうか。
自分が昨夜どこで、誰と、どのように過ごしていたかを。
知るはずがない。
知られたくもない。
けれど、知られずにいることが、かえって残酷に思える瞬間もあった。
彼の誠実さ。
約束を守ることに迷いのない性格。
どれほど慎重に距離を詰めてくれていたか。
そのすべてを、踏みにじったのは自分自身だ。
罪悪感に、胸が裂けそうだった。
涙は出なかった。
泣いてしまえばすべてが壊れてしまう気がして、逆に涙はどこか遠くに追いやられていた。
その代わり、胸の奥で石を抱え込んだような重さだけが増えていく。
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
車輪が土から再び石に戻る感触。
窓の外から、見慣れた門扉の気配が伝わってくる。
セシール家の屋敷だ。
アランは、深く息を吸った。
震えそうになる指先を、手袋越しにきつく握りしめる。
頬に残る熱を、どうにか内側へ押し戻そうとする。
ここから先は、セシール家の令嬢としての顔に戻らなければならない。
ローランドに対しても、父と母に対しても、これまでと変わらないアラン・セシールを演じなくてはならない。
馬車が止まり、御者が扉を叩く小さな音がした。
扉が開けば、いつもの玄関、いつもの使用人たち、いつもの世界が広がっている。
昨夜、自分がどこで何をしていたのかなど、誰も知らない。
知らないはずだ。
そうであるべきだ。
それなのに、アランには、自分の足音のひとつひとつが、罪悪感の音として廊下に響いていくように思えた。
翌日の午後、魔法省の役員フロアには、昼下がり特有の静けさが漂っていた。
窓の外に吊るされた魔法灯が、曇り気味の空を補うように白い光を落とし、廊下には革靴の足音と書類を運ぶ気配だけが規則正しく行き来している。
その一角にあるレギュラス・ブラックの執務室は、他の役員室と比べてもとりわけ整然としていた。
磨き込まれた黒檀の机の上には、封印された羊皮紙と、仕分け済みの書類束が幾つか積まれている。
壁には、魔法省とブラック家に関わる系譜や法案の系統図が、簡潔な額装でいくつか掛けられていた。
その机の奥で、レギュラスは背もたれにもたれ、指先でペンを弄んでいた。
唇の端に、抑えきれない微かな笑みが浮かんでいる。
「……随分と、気に入りましたね」
穏やかな報告口調で声をかけたのは、バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
茶色の書類束を脇に抱え、扉の前で一礼してから部屋の奥へ進む。
無駄のない身のこなしと、冷静な眼差しは、ここが戦場ではなく官庁であることを忘れさせるほど鋭かった。
レギュラスは、くすりと小さく笑う。
「そう見えますか?」
「ええ。情報収集の指示が、いつもよりいささか早かったので」
バーテミウスは机の上に書類をそっと置きながら、淡々と続ける。
皮肉にも挑発にもならない、ただ事実を指摘する声音。
レギュラスは、ペンを指の間で一度転がし、それをインク壺の横に置いてから、椅子の背にもたれ直した。
「確かに。気にいりました」
そこで一拍、意図的な沈黙を挟む。
自分の口からあっさりとその言葉が出たことに、自分自身が少しだけ驚いていた。
「全てが……狂おしいほどに、ですね」
灰色の瞳が、静かに笑う。
容姿も、家柄も、立ち居振る舞いも。
そして昨夜、腕の中で見せたあらゆる反応も。
もっと深いところまで、完全に掌握してしまいたい。
その欲は、抑えようとして抑えられる種類のものではなかった。
「で、昨夜の“空気を壊された瞬間”とやらは?」
バーテミウスが書類を整えながら、わずかに興味を滲ませる。
「ご報告どおり、なかなか“面白い令嬢”のようですが」
レギュラスは、あきれとも笑いともつかない息を吐いた。
「……脱がせるところまで進んでおいて、ですよ」
指先で机を軽く叩きながら言う。
「『待ってください、私、婚約している方がいまして』と」
バーテミウスの肩が、わずかに揺れた。
次の瞬間、抑えきれなかった笑いが低く漏れ出す。
「それは……」
彼は口元に手をあて、笑いを収めようとしながら続けた。
「確かに、なかなか聞いたことがありませんね。
よりにもよって、そのタイミングで、ですか」
「初めて言われましたよ」
レギュラスは苦笑しながらも、どこか楽しげだった。
「服を脱がせる直前に、婚約のカミングアウトだなんて。
おかげで一瞬、空気が冷えました」
「それで諦めてお帰しになった……というわけではなさそうですね」
バーテミウスの視線が、机の端に置かれた一枚のメモに滑る。
そこには、アラン・セシールの名と、セシール家の家系図の一部が簡潔に記されていた。
レギュラスは、肩を竦めた。
「……あれで諦めるくらいなら、最初から手を出しませんよ」
声の調子は軽いが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。
「考えれば考えるほど腹立たしくはありましたけどね。
ただ、それも含めて、アラン・セシールらしいと思えてきました」
限界まで距離を取りながら、最後の瞬間まで矜持を守ろうとする。
それでも最終的には境界線を越えてしまう、その不器用さと危うさ。
あの美しい女を、今後、永遠に自分の隣に置くことができたなら——。
レギュラスは、ふと視線を窓の外に向けた。
魔法省の高い窓から見下ろした魔法界の街並みは、今日も変わらぬ喧騒を続けている。
そのなかで、ブラック家の名を知らぬ者はいない。
レギュラス・ブラックの所有物として、セシール家の令嬢を世間に見せて回る。
魔法薬の名家の一人娘であり、翡翠の瞳を持つ美しい妻。
舞踏会の中央、役員の晩餐会、魔法省の公式行事。
どの場面でも、彼女は目を引くだろう。
その度に飛び交うであろう羨望と、称賛と、嫉妬の視線。
想像するだけで、口元が自然と緩んだ。
「では、こちらが昨夜ご指示いただいた件です」
バーテミウスが、机に置いた書類の束を軽く叩く。
「セシール家および、その周辺人物に関する基礎情報。
それから、件の“婚約者らしき人物”についても」
「早いですね」
「あなたが“早く”動かれたので、こちらも合わせたまでです」
淡々とした口調のなかに、わずかな皮肉と忠誠が同居している。
レギュラスは書類束の一番上をめくり、流し読みを始めた。
セシール家の系譜、屋敷の所在地、父親の研究分野。
いくつかはすでに知っている情報だが、官庁の記録から引き出されたそれは、噂や印象よりもずっと正確で整理されている。
数枚めくったところで、ある名前が視界に留まった。
「……ローランド・フロスト」
レギュラスが小さく読み上げると、バーテミウスが頷いた。
「フロスト家の長男です。
古くから魔法省に官僚を多く輩出している家系。
血統も純血で、決して悪くはありませんが……」
彼は、ちらりとレギュラスを見た。
「頂点に君臨するブラック家と比べれば、どうしても見劣りはしますね」
レギュラスは、薄く笑いを深める。
「彼女の口ぶりでは、随分と誠実な男のようでしたよ。
幼い頃から共に育ち、将来を誓い合った……などと」
「書類上は、正式な婚約の記録は見当たりません」
バーテミウスは淡々と告げる。
「家同士の合意文書も、婚約を公的に届け出た形跡もなし。
おそらく、現時点では“両家の好意的な期待”と“当人同士の口約束”の域を出ていないと思われます」
レギュラスは、指先で軽く羊皮紙を弾いた。
「つまり、あの“婚約しています”という必死の言葉は……」
「まだ紙一枚にもなっていない、ということです」
バーテミウスの声には、どこか冷淡な切れ味があった。
「中身が伴っているかどうかは別として、少なくとも、法的な拘束力は皆無と言っていいでしょう」
レギュラスは愉快そうに息を吐く。
「それなら、なおさらですね」
婚約者だと告げた震える声。
最後の防波堤のように差し出された、その一言。
彼女にとっては必死の盾だったのかもしれないが——実際のところ、その盾は紙よりも薄く、法の上では存在すらしていないに等しい。
「そんなもの」
レギュラスの唇に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「いくらでも簡単に吹き飛ばしてやれます。
それこそ……息を吹きかけるより簡単に」
魔法省の役員としての立場。
ブラック家としての権威。
セシール家にとっての利害。
フロスト家の現状と将来性。
それらを天秤にかければ、どちらの側に傾くかなど、想像するまでもない。
「あなたが本気で動けば、フロスト家の長男が入り込む余地は、さほど多くはありませんね」
バーテミウスの声音はあくまで中立的だが、その指摘は現実的だった。
「セシール卿にとっても、ブラック家からの縁談は悪くない話です。
魔法省内の影響力を考えれば、むしろ歓迎される可能性が高い」
「そうでしょうね」
レギュラスは、書類束をぱたりと閉じた。
「彼女さえ、納得してくれれば」
灰色の瞳に、ふと昨夜の翡翠色がよぎる。
震えながらも抵抗しようとした瞳。
最後には縋るように自分を掴んだ瞳。
あの光を、自分だけのものにしたい。
ローランド・フロストの影を、完全に消し去ったうえで。
もっと深いところまで。
彼女の過去も、家族も、夢も、罪悪感も——全てひっくるめて、掌の上に載せてしまいたい。
「引き続き、セシール家とフロスト家の動きは追ってください」
レギュラスは、何事でもないように指示を出した。
「特に、フロスト家の長男。
彼の勤務先や交友関係、魔法省内での立ち位置は、正確に把握しておきたい」
「承知しました」
バーテミウスは短く頭を下げる。
「必要とあらば、こちらから“別の選択肢”を提示する準備もしておきましょう」
「お願いします、バーテミウス」
レギュラスは、穏やかな口調で言った。
「僕が欲しいと決めたものを、取り逃がすのは好きではありませんから」
執務室の窓の向こうで、魔法省の塔にかかる雲がゆっくりと形を変えていく。
その下で、アラン・セシールはまだ、自分の世界がどれほど静かに、しかし確実にレギュラスの手の中に組み替えられつつあるかを知る由もなかった。
大きな窓辺のレース越しに、初夏の淡い光が揺れ、テーブルクロスの白い布と銀食器の縁をほのかに照らしている。
昨夜の宴の喧騒とはまるで別世界の、静かな朝だった。
長いテーブルの片側にはレギュラス・ブラックが、対面にはアラン・セシールが腰かけている。
ほどよい距離。
しかし、アランの胸には、その距離が近すぎるようにも、遠すぎるようにも感じられていた。
磨き抜かれた食器類が、給仕妖精の手によって静かに並べられていく。
白い皿の上には焼きたてのパンと卵料理、彩りのよいサラダ。
湯気を立てるポットからは、香り高い紅茶がカップに注がれていく。
「口に合いますか?」
レギュラスが、カップ越しに穏やかに問いかける。
その声音には、昨夜の流れを当然のものとして受け入れている男の余裕が混じっていた。
「……はい。とても」
アランは、視線を皿の上に落としたまま答えた。
ナイフとフォークを持つ手はきちんと安定しているのに、その指先にはわずかな力の入りすぎが見て取れる。
紅茶のカップを持ち上げる仕草も完璧で、カップの縁に触れる唇の形も美しい。
だが、彼女は一度たりとも、彼の灰色の瞳を正面から見ようとはしなかった。
レギュラスは、それを咎めようとは思わなかった。
むしろ、その不器用なまでの視線の避け方が、彼にはひどく愛らしく映る。
昨夜、あれほど自分の腕の中で、予想通りの反応を見せてくれた少女が。
朝になって、テーブルを挟んだだけでこんなにも戸惑っている。
そのギャップは、レギュラスにとってこの上ない愉悦だった。
この美しい少女を、間違いなく自分の手の内に入れた──その手応えが、まだ骨の奥にまで残っている。
ベッドの上で震えた指、掴まれたシャツ、崩れていった境界線。
彼女の口からこぼれた、婚約者の存在を示すあの爆弾のような一言さえも、今となってはどうでもいいとすら思えるほどに。
今はただ、満たされていた。
パンをちぎりながら、レギュラスは何気ないふうを装って話題を差し出す。
「そういえば、セシール家は魔法薬で富を築いた純血の名家でしたね」
ナイフにバターをすべらせながら、さりげなく続ける。
「あなたも、魔法薬は得意なんです? 調合や、理論など」
アランの手が、一瞬だけ止まった。
しかし、次の瞬間には何事もなかったかのように動きを戻し、丁寧に皿の端にサラダを寄せてから、控えめに答える。
「得意というほどではありませんが……」
カップの縁を軽くなぞりながら、静かに言葉を継ぐ。
「父の研究の手伝いは、よくしておりました。
材料の計量や記録の整理、簡単な補助の魔法薬の調合など……そういったことなら」
レギュラスは、カップを口に運ぶ手を止め、興味深そうに彼女を見た。
相変わらず、アランは目を合わせようとしない。
テーブルクロスの模様や、皿の配置、カップの縁ばかりを追っている。
しかし、その横顔には、自分の家のことを語るとき特有の誇りと慎みが、淡く滲んでいた。
「やはり、そうでしたか」
レギュラスの口元に、満足げな笑みが浮かぶ。
「セシール卿の魔法薬は、魔法省でも高く評価されています。
効能もさることながら、副作用の少なさが特に。
……あの安定性は、研究者の執念だけではなく、優秀な助手の存在あってこそ、でしょう」
アランは、ほんのわずかに肩を震わせた。
褒められ慣れていない部分を、不意に照らされたような居心地の悪さ。
しかし、その中に少しだけ、父の仕事に触れられたことへの嬉しさも混ざる。
「わたしなど、たいしたことはしておりません」
彼女は慎ましく首を振った。
「薬草の前処理や、計測、温度管理を少し……父の考案した理論を、横で見ていただけで」
「その“横で見る”役目が、一番羨ましいですね」
レギュラスは、軽く笑った。
「新しい理論や配合を、最初に目にするのはいつも家族でしょう?
セシール卿の工房に、一度でいいから立ち会ってみたいくらいです。
研究ノートも、きっと見事なものなのでしょうね」
アランは、その言葉にわずかに目を見開いた。
思わず顔を上げかけて、慌てて視線を落とす。
灰色の瞳とぶつかる寸前で、カップの紅茶に視線を逃がした。
レギュラスは、その寸前の動きを見ていた。
あと一歩で目が合うところまで来て、怖じ気づいたように逸らす。
その慎重さが、昨夜、覚悟を砕いてしまった瞬間の彼女と重なって見える。
愛らしい、と素直に思った。
食事をする所作も、驚くほど整っていた。
パンにナイフを入れる角度、フォークを持つ手首の傾き、口元へ運ぶときの姿勢。
どれをとっても、セシール家の令嬢としての教育の行き届きを感じさせた。
(ひと晩だけで、すぐに飽きが来るかもしれないと思っていたのに)
これはレギュラス自身が、かつて何度も経験してきたことだった。
容姿の美しい令嬢、気の利いた会話をする社交界の華。
夜を共にしてみれば、その多くは似たり寄ったりで、翌朝の食卓には退屈だけが残ることも珍しくなかった。
だが、目の前のアラン・セシールは違った。
視線を合わせることもままならないほど羞恥と戸惑いに揺れながら、それでも姿勢だけは正しく保っている。
昨日までと同じ淑女としての在り方を崩すまいとする意地が、その背中には確かにあった。
その硬さが、彼にはむしろ新鮮だった。
「工房では、どんな魔法薬を?」
レギュラスは、興味を隠そうともせずに問いを重ねる。
「治癒系が多いのでしょうか。それとも、強化剤や、精神安定の類いですか?」
「……ええと」
アランは少しだけ考えるように眉を寄せた。
「主には、治癒薬や、魔力循環の改善薬が多いです。
過度な負担をかけずに、魔力枯渇を防ぐことを目的としたものや、長期服用しても依存性の低い痛み止めの改良など……」
話し始めると、言葉は自然と増えていった。
父の仕事について語るときだけ、アランの声はわずかに熱を帯びる。
それでも決して自慢げではなく、あくまで淡々と、しかし誇りを隠しきれない調子で。
「なるほど」
レギュラスの灰色の瞳が、静かに光を増した。
「やはり、セシール家らしい。
……あなたの指先も、薬草や素材の色にずいぶん見慣れているのでしょうね」
アランは自分の手を見下ろす。
今は完璧に手入れされた指先がテーブルの上にあるが、工房にいるときは、確かに薬草の匂いやインクのしみが残ることもあった。
その記憶が、ふと胸の奥を掠める。
「……お父上のそばに、そんなふうに立っていたあなたを、一度見てみたかった」
レギュラスは、ナイフとフォークをそっと皿に置き、手を組んだ。
「夜会での姿も見事でしたが、工房で働くあなたは、きっと違う顔をしているのでしょう?」
その言葉に、アランの胸がどきりと鳴った。
見透かされたような気がして、思わず指先に力が入る。
「わたしは……」
彼女は視線を落としたまま、ゆっくりと息を整えた。
「ただ、父の仕事の邪魔にならないようにと、そう努めていただけです。
魔法薬そのものも、もちろん好きですが……父が喜ぶ顔を見るのが、いちばん嬉しかったので」
その言葉に、レギュラスは小さく目を細めた。
セシール家の魔法薬に宿る安定性と、いま目の前にいる少女の律儀さが、彼の中で静かに重なる。
ひと晩だけの相手。
興味本位で選び、満足したら次へ進む。
そんなふうに切り捨てるには、あまりにも惜しい存在だと、レギュラスははっきり自覚し始めていた。
こうしてゆっくり朝食を囲みたいと思える相手など、ほとんどいなかった。
ただ美しいだけの令嬢なら、夜だけで十分だ。
だが、彼は今、皿の上の食事が終わったあとも、まだ彼女と話していたいと思っている。
アラン・セシールという女を、もっと深く知りたい——。
その欲求は、昨夜彼女の身体を求めたときの熱と、同じ熱量で胸の中に広がっていた。
ただの征服欲ではない。
彼女の過去、彼女の家族、彼女の夢や恐れ、そういったものにまで触れてみたいという、面倒な種類の興味。
「……セシール嬢」
レギュラスは、紅茶のカップを持ち上げながら静かに名を呼ぶ。
アランはまた、びくりと肩を震わせた。
「昨日の夜会で、あなたを選んだのは、ただの思いつきではありません」
彼は淡々とした調子で続ける。
「あなたの家のことも、評判も、噂も。
もちろん、あなた自身の立場も、多少は耳にしていました」
アランは、唇を強く結んだ。
ローランドの名が、脳裏の隅で微かに揺れる。
「ですが、それよりも」
レギュラスは、カップをそっとソーサーに戻す。
「舞踏会の真ん中で、あれほど緊張しながらも礼儀を崩さなかった姿が、僕にはとても印象的だった。
……そして昨夜、腕の中で見せてくれた顔も」
アランの頬に、熱が差した。
何も言い返せない。
どんな言葉を選んでも、そこに昨夜の自分が重なってしまう。
「だから、こうして朝食をともにできて、嬉しく思っています」
レギュラスは、柔らかな笑みを浮かべた。
「昨夜だけで、終わらせたくはない」
テーブルの上の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
アランは、ナイフとフォークを揃えて皿の上に置き、深く息を吐いた。
顔はまだ上げられない。
ただ、胸の内側で、何かが静かにきしむ音だけが響いていた。
レギュラスは、その沈黙さえも楽しむように、彼女を見つめていた。
アランの中にまだ多くの抵抗と迷いがあることを知りながら、それをひとつひとつ見つけては、解きほぐしていく過程を想像する。
その作業は、きっと魔法薬の調合とよく似ているのだろう。
材料の配合を見極め、火加減を調整し、時間をかけて効能を最大限に引き出す。
焦らず、しかし確実に。
アラン・セシールという女に対するレギュラスの興味は、もう単なる「一夜の相手」へのものではなかった。
彼の中で、それは静かに、しかし確実に、長く続く研究のような熱に変わりつつあった。
馬車の扉が閉まる鈍い音がして、外界との境がひとつ増えた。
御者台へかけられる掛け声、馬の蹄が石畳を打つ響きが遠ざかり、やがて車輪がゆっくりと動き出す。
厚手のカーテンに覆われた車内は、外の光を柔らかく遮っていた。
濃い葡萄色の布地、磨かれた木の肘掛け、座面に敷かれたクッションには、ブラック家の紋章が控えめに刺繍されている。
その上に、アラン・セシールは背筋をこわばらせたまま座っていた。
手袋の内側で、指先がじっとりと汗ばんでいる。
馬車が小さく揺れるたびに、背中の筋肉まで反射的に震えた。
心臓がうるさいほどだった。
鼓動が、耳のすぐ近くで鳴っている気がする。
シートの背もたれにもたれようとしても、身体が強張って深く預けられない。
——昨夜の自分は、自分ではなかった。
心の中で、アランは何度もそう繰り返した。
そう繰り返さなければ、とても正気でいられる気がしなかった。
あの廊下、あの浴室、あの寝台。
最初は、足取りが重くてたまらなかった。
部屋の扉の前で、何度も引き返したいと思った。
シャワーの下で、震えながら「これは間違いだ」と何十回も心の中で繰り返した。
——それなのに。
「婚約している方が」と、震えながら告げた唇。
そのあと、あっさりと押し流されていった境界線。
触れられるたびに乱れた息。
拒まなければと思いながら、いつの間にか掴んでしまったシャツの布。
思い出したくなくても、断片的な記憶が容赦なく浮かんでくる。
喉がひりつき、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「昨夜だけで終わらせたくない」と、彼は言った。
朝食の席で、紅茶の香りに紛れるように落とされた言葉。
いけない、とアランは思う。
あれは、ああいう「手」なのだ。
甘い声音で、特別であるかのような言葉を選び、縛りつける。
「君だけだ」「昨夜だけではもったいない」といった響きをまとわせて、女たちの足元を崩していく。
そうして、そのままただ溺れ切ってしまい、どうしようもないほど惨めになっていった令嬢たちの噂を、彼女は幾度となく耳にしてきた。
——レギュラス・ブラックに惹かれたら終わりよ。
——あの人の「特別」ほど、あてにならないものはないわ。
酒席で囁かれる噂話。
夜会の隅で涙ぐむ少女の話を、他人事として聞いていたあの日々。
どこか軽蔑を含んで、「そんなふうにはなりたくない」と冷静に線を引いていたはずの自分。
その自分が——今や、レギュラス・ブラックの屋敷から、彼の用意した馬車で帰ろうとしている。
「……っ」
思わず、胸元をきゅっと押さえた。
ドレスの上からでもわかるほど、心臓の鼓動が早い。
身体のどこが痛いとか、疲れたとか、そういう感覚よりも先に、胸の内のざわめきだけが際立っている。
昨夜の自分は、自分ではなかった。
何かに操られていたのだ、と言い聞かせる。
そうでも言わなければ、ローランドの顔を思い浮かべることすらできない。
ローランド・フロスト。
穏やかで、真面目で、誠実な男。
幼いころから一緒に過ごし、指切りを交わし、少しずつ「将来」の形を共有してきた相手。
父と母に正式な婚約の話を持ちかけてくれるはずだった人。
暖炉の前で、慎重に言葉を選びながら笑った横顔が思い浮かぶ。
「君のご両親に、話をしたいと思っている」と告げたときの、あの少し照れた目の光。
その全てを——昨夜、レギュラス・ブラックの腕の中で、自分は踏みにじってしまった。
誰に強制されたわけでもない。
誰かの呪文で意志を奪われたわけでもない。
怖かった。
嫌だった。
けれど、その恐怖に甘さが混じり始めた瞬間を、自分自身の内側で、はっきりと感じてしまったのも事実だった。
ローランドの優しさ。
彼の触れ方、彼の呼吸、彼のためらいがちなキス。
それら全てを知っていながら、別の男の腕の中で、別の熱に溺れてしまった。
「ひどいことでもしましたか?」と、冗談めかして言ったレギュラスの声が、また耳の奥に蘇る。
ひどいことをしたのは誰なのか。
レギュラスなのか、自分なのか。
答えはひとつに絞れないまま、胸の奥で痛みだけが増していく。
馬車の窓の外では、景色がゆっくりと流れていた。
石畳の道が途切れ、土の道に変わる。
木々の緑が増え、朝の光が葉の間からちらちらと差し込む。
アランはカーテンを少しだけ持ち上げ、外を覗こうとして——すぐにやめた。
いつもの通い慣れた道さえ、今はまともに見ていられない。
視線を落とすと、手首のあたりにうっすらと赤い跡が残っているのが見えた。
昨夜、掴まれた場所。
強すぎる力ではなかったはずなのに、繊細な肌には簡単に痕がつく。
すぐに袖口を引き下ろし、隠す。
父と母に、何と説明すればいいのか。
「ブラック家のご厚意で泊まらせていただきました」と言えば、それだけで十分なのか。
それとも、余計な詮索を招くのか。
母は、敏い。
髪の乱れや瞳の陰り、わずかな変化をすぐに見抜いてしまう。
父は口数は少ないが、その分、沈黙の眼差しが重い。
何も知られたくない。
けれど、何もなかった顔をして帰る自信もない。
昨夜、レギュラスは「昨夜だけで終わらせたくない」と言った。
あの灰色の瞳で、当たり前のように。
それが、どれほど危険な言葉か。
彼にとっては数多ある言葉のうちの一つでしかないのかもしれない。
しかし、言われた側の女にとっては、人生を大きく狂わせるほどの重みを持つこともある。
——溺れ切って、惨めになった女たち。
噂の中の「誰か」を、心のどこかで冷静に分析していたはずの自分。
その「誰か」に、自分が限りなく近いところまで来てしまっているのだという現実に、アランは耐えきれない思いを覚えた。
「……ローランド」
声には出さず、心の中だけで名を呼ぶ。
胸が締めつけられて、少しだけ前屈みになった。
彼は知っているのだろうか。
自分が昨夜どこで、誰と、どのように過ごしていたかを。
知るはずがない。
知られたくもない。
けれど、知られずにいることが、かえって残酷に思える瞬間もあった。
彼の誠実さ。
約束を守ることに迷いのない性格。
どれほど慎重に距離を詰めてくれていたか。
そのすべてを、踏みにじったのは自分自身だ。
罪悪感に、胸が裂けそうだった。
涙は出なかった。
泣いてしまえばすべてが壊れてしまう気がして、逆に涙はどこか遠くに追いやられていた。
その代わり、胸の奥で石を抱え込んだような重さだけが増えていく。
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
車輪が土から再び石に戻る感触。
窓の外から、見慣れた門扉の気配が伝わってくる。
セシール家の屋敷だ。
アランは、深く息を吸った。
震えそうになる指先を、手袋越しにきつく握りしめる。
頬に残る熱を、どうにか内側へ押し戻そうとする。
ここから先は、セシール家の令嬢としての顔に戻らなければならない。
ローランドに対しても、父と母に対しても、これまでと変わらないアラン・セシールを演じなくてはならない。
馬車が止まり、御者が扉を叩く小さな音がした。
扉が開けば、いつもの玄関、いつもの使用人たち、いつもの世界が広がっている。
昨夜、自分がどこで何をしていたのかなど、誰も知らない。
知らないはずだ。
そうであるべきだ。
それなのに、アランには、自分の足音のひとつひとつが、罪悪感の音として廊下に響いていくように思えた。
翌日の午後、魔法省の役員フロアには、昼下がり特有の静けさが漂っていた。
窓の外に吊るされた魔法灯が、曇り気味の空を補うように白い光を落とし、廊下には革靴の足音と書類を運ぶ気配だけが規則正しく行き来している。
その一角にあるレギュラス・ブラックの執務室は、他の役員室と比べてもとりわけ整然としていた。
磨き込まれた黒檀の机の上には、封印された羊皮紙と、仕分け済みの書類束が幾つか積まれている。
壁には、魔法省とブラック家に関わる系譜や法案の系統図が、簡潔な額装でいくつか掛けられていた。
その机の奥で、レギュラスは背もたれにもたれ、指先でペンを弄んでいた。
唇の端に、抑えきれない微かな笑みが浮かんでいる。
「……随分と、気に入りましたね」
穏やかな報告口調で声をかけたのは、バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
茶色の書類束を脇に抱え、扉の前で一礼してから部屋の奥へ進む。
無駄のない身のこなしと、冷静な眼差しは、ここが戦場ではなく官庁であることを忘れさせるほど鋭かった。
レギュラスは、くすりと小さく笑う。
「そう見えますか?」
「ええ。情報収集の指示が、いつもよりいささか早かったので」
バーテミウスは机の上に書類をそっと置きながら、淡々と続ける。
皮肉にも挑発にもならない、ただ事実を指摘する声音。
レギュラスは、ペンを指の間で一度転がし、それをインク壺の横に置いてから、椅子の背にもたれ直した。
「確かに。気にいりました」
そこで一拍、意図的な沈黙を挟む。
自分の口からあっさりとその言葉が出たことに、自分自身が少しだけ驚いていた。
「全てが……狂おしいほどに、ですね」
灰色の瞳が、静かに笑う。
容姿も、家柄も、立ち居振る舞いも。
そして昨夜、腕の中で見せたあらゆる反応も。
もっと深いところまで、完全に掌握してしまいたい。
その欲は、抑えようとして抑えられる種類のものではなかった。
「で、昨夜の“空気を壊された瞬間”とやらは?」
バーテミウスが書類を整えながら、わずかに興味を滲ませる。
「ご報告どおり、なかなか“面白い令嬢”のようですが」
レギュラスは、あきれとも笑いともつかない息を吐いた。
「……脱がせるところまで進んでおいて、ですよ」
指先で机を軽く叩きながら言う。
「『待ってください、私、婚約している方がいまして』と」
バーテミウスの肩が、わずかに揺れた。
次の瞬間、抑えきれなかった笑いが低く漏れ出す。
「それは……」
彼は口元に手をあて、笑いを収めようとしながら続けた。
「確かに、なかなか聞いたことがありませんね。
よりにもよって、そのタイミングで、ですか」
「初めて言われましたよ」
レギュラスは苦笑しながらも、どこか楽しげだった。
「服を脱がせる直前に、婚約のカミングアウトだなんて。
おかげで一瞬、空気が冷えました」
「それで諦めてお帰しになった……というわけではなさそうですね」
バーテミウスの視線が、机の端に置かれた一枚のメモに滑る。
そこには、アラン・セシールの名と、セシール家の家系図の一部が簡潔に記されていた。
レギュラスは、肩を竦めた。
「……あれで諦めるくらいなら、最初から手を出しませんよ」
声の調子は軽いが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。
「考えれば考えるほど腹立たしくはありましたけどね。
ただ、それも含めて、アラン・セシールらしいと思えてきました」
限界まで距離を取りながら、最後の瞬間まで矜持を守ろうとする。
それでも最終的には境界線を越えてしまう、その不器用さと危うさ。
あの美しい女を、今後、永遠に自分の隣に置くことができたなら——。
レギュラスは、ふと視線を窓の外に向けた。
魔法省の高い窓から見下ろした魔法界の街並みは、今日も変わらぬ喧騒を続けている。
そのなかで、ブラック家の名を知らぬ者はいない。
レギュラス・ブラックの所有物として、セシール家の令嬢を世間に見せて回る。
魔法薬の名家の一人娘であり、翡翠の瞳を持つ美しい妻。
舞踏会の中央、役員の晩餐会、魔法省の公式行事。
どの場面でも、彼女は目を引くだろう。
その度に飛び交うであろう羨望と、称賛と、嫉妬の視線。
想像するだけで、口元が自然と緩んだ。
「では、こちらが昨夜ご指示いただいた件です」
バーテミウスが、机に置いた書類の束を軽く叩く。
「セシール家および、その周辺人物に関する基礎情報。
それから、件の“婚約者らしき人物”についても」
「早いですね」
「あなたが“早く”動かれたので、こちらも合わせたまでです」
淡々とした口調のなかに、わずかな皮肉と忠誠が同居している。
レギュラスは書類束の一番上をめくり、流し読みを始めた。
セシール家の系譜、屋敷の所在地、父親の研究分野。
いくつかはすでに知っている情報だが、官庁の記録から引き出されたそれは、噂や印象よりもずっと正確で整理されている。
数枚めくったところで、ある名前が視界に留まった。
「……ローランド・フロスト」
レギュラスが小さく読み上げると、バーテミウスが頷いた。
「フロスト家の長男です。
古くから魔法省に官僚を多く輩出している家系。
血統も純血で、決して悪くはありませんが……」
彼は、ちらりとレギュラスを見た。
「頂点に君臨するブラック家と比べれば、どうしても見劣りはしますね」
レギュラスは、薄く笑いを深める。
「彼女の口ぶりでは、随分と誠実な男のようでしたよ。
幼い頃から共に育ち、将来を誓い合った……などと」
「書類上は、正式な婚約の記録は見当たりません」
バーテミウスは淡々と告げる。
「家同士の合意文書も、婚約を公的に届け出た形跡もなし。
おそらく、現時点では“両家の好意的な期待”と“当人同士の口約束”の域を出ていないと思われます」
レギュラスは、指先で軽く羊皮紙を弾いた。
「つまり、あの“婚約しています”という必死の言葉は……」
「まだ紙一枚にもなっていない、ということです」
バーテミウスの声には、どこか冷淡な切れ味があった。
「中身が伴っているかどうかは別として、少なくとも、法的な拘束力は皆無と言っていいでしょう」
レギュラスは愉快そうに息を吐く。
「それなら、なおさらですね」
婚約者だと告げた震える声。
最後の防波堤のように差し出された、その一言。
彼女にとっては必死の盾だったのかもしれないが——実際のところ、その盾は紙よりも薄く、法の上では存在すらしていないに等しい。
「そんなもの」
レギュラスの唇に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「いくらでも簡単に吹き飛ばしてやれます。
それこそ……息を吹きかけるより簡単に」
魔法省の役員としての立場。
ブラック家としての権威。
セシール家にとっての利害。
フロスト家の現状と将来性。
それらを天秤にかければ、どちらの側に傾くかなど、想像するまでもない。
「あなたが本気で動けば、フロスト家の長男が入り込む余地は、さほど多くはありませんね」
バーテミウスの声音はあくまで中立的だが、その指摘は現実的だった。
「セシール卿にとっても、ブラック家からの縁談は悪くない話です。
魔法省内の影響力を考えれば、むしろ歓迎される可能性が高い」
「そうでしょうね」
レギュラスは、書類束をぱたりと閉じた。
「彼女さえ、納得してくれれば」
灰色の瞳に、ふと昨夜の翡翠色がよぎる。
震えながらも抵抗しようとした瞳。
最後には縋るように自分を掴んだ瞳。
あの光を、自分だけのものにしたい。
ローランド・フロストの影を、完全に消し去ったうえで。
もっと深いところまで。
彼女の過去も、家族も、夢も、罪悪感も——全てひっくるめて、掌の上に載せてしまいたい。
「引き続き、セシール家とフロスト家の動きは追ってください」
レギュラスは、何事でもないように指示を出した。
「特に、フロスト家の長男。
彼の勤務先や交友関係、魔法省内での立ち位置は、正確に把握しておきたい」
「承知しました」
バーテミウスは短く頭を下げる。
「必要とあらば、こちらから“別の選択肢”を提示する準備もしておきましょう」
「お願いします、バーテミウス」
レギュラスは、穏やかな口調で言った。
「僕が欲しいと決めたものを、取り逃がすのは好きではありませんから」
執務室の窓の向こうで、魔法省の塔にかかる雲がゆっくりと形を変えていく。
その下で、アラン・セシールはまだ、自分の世界がどれほど静かに、しかし確実にレギュラスの手の中に組み替えられつつあるかを知る由もなかった。
