2章
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屋敷へ戻る馬車は、行きよりもずっと静かだった。
外はすでに陽が落ち、薄闇の中をランプの光が揺れながら進んでいく。馬蹄の規則的な音と、車輪が石畳を噛む振動だけが、閉ざされた空間の床を伝っていた。
向かい合わせに座るアランは、姿勢だけは教本の挿絵のように端正だった。背筋を伸ばし、膝をそろえ、ドレスの裾を乱さぬように両手を重ねて乗せている。
その完璧な所作が、今のレギュラスには妙に癇に障った。
どう考えても、いつも通りではない。
式の最中からずっと、彼女の翡翠の瞳はどこか遠くに焦点を結び、時おり視線の行き先を必死に隠すように揺れていた。
ローランド・フロストに向けられる一瞬の眼差し。
ローランドがクラリッサへ向ける柔らかな視線。
すべて、見えていないと思っているのだろうか。
帰り際、馬車に乗り込む前のわずかな隙に——
アランが、会場の隅でひとり立ち尽くし、誰も見ていないと思っている場所で、頬を濡らした瞬間も、レギュラスはきちんと見ていた。
にもかかわらず、今こうして真正面に座る彼女は、なにもなかったような顔をしている。
レギュラスは指先でそっと手袋の縁を押し上げた。
馬車の揺れに紛れるように足を組み替え、わざと窓の外へ一度視線を流してから、何気ない風を装って口を開く。
「……フロスト殿と、何を話されてたんです」
抑えた声音だった。
怒りや詰問を隠そうとするあまり、かえって滑らかすぎるほどよく整った声になった。
アランは一瞬だけ肩を震わせ、すぐに小さく息を吸い込む。
顔を上げるときも、決してまっすぐレギュラスの灰色の瞳を見ようとはしない。視線はそのあたり——ネクタイの結び目とシャツの襟の境目、いつもの逃げ道へ落ち着いた。
「……祝福を述べました」
その答えは、教本に載せても差し支えのないほど完璧だった。
抑揚も、間も、まったく乱れていない。
レギュラスは、思わず笑いそうになった。
——祝福、ね。
あの男の前で、礼儀正しく「おめでとうございます」と告げたあと、背を向けた彼の姿を、今にも縋りつくのではないかという目で見送っていたくせに。
自分で「どうかお幸せに」ととどめのような言葉まで投げておいて、その数分後には、誰にも見られまいとして宴の隅で涙を拭っていたくせに。
「祝福を述べました」で済ませるのだから、たいしたものだ。
「それだけですか」
わずかに口角を持ち上げる。笑みとも皮肉ともつかない形で。
アランは息を詰まらせたように眉を揺らし、それでも頑として言葉を変えなかった。
「……それ以上のことは、何も」
「そうですか」
レギュラスは視線を彼女から外し、馬車の天井を仰ぎ見るようにした。
揺れる灯りの影が、革張りの壁に長く伸びては縮んでいく。
まさか——と、心のどこかで苦笑していた。
子を産み、母になってまで、まだこれほど分かりやすくローランド・フロストの存在に揺れるとは思ってもいなかった。
アルタイルを腕に抱いて眠るとき。
自分の部屋で、ごく自然に腕を枕にして身を委ねるとき。
見慣れた日々の仕草から、彼女は少しずつ「ブラック家の妻」として形を整えつつあるように思えていたのに。
——あの男と目を合わせただけで、これだ。
胸の奥で、苛立ちと可笑しさの入り交じった熱が広がっていく。
おかしくてたまらないのに、笑ってしまえば負けのような気がして、喉の奥で押し殺す。
「よく祝福できますね、あなたは」
ふと、そんな言葉が零れた。
思案を巡らせた末に選んだ台詞ではない。目の前の女の「完璧な回答」が、単純に気に入らなかった。
アランの睫毛がかすかに震える。
翡翠の瞳が、まばたきの一瞬だけ揺れて、すぐに伏せられた。
「……それが、礼ですから」
「礼」
レギュラスは繰り返し、ふっと鼻で笑う。
「礼、ですか。
では、あの隅で涙を拭っていたのも、礼の一環だったと?」
アランの肩がびくりと大きく跳ねた。
彼女はすぐさま首を振ろうとして、しかし途中で動きを止める。
否定の言葉が喉まで上っているのが、向かい側からでもはっきりと分かった。
「……見て、いらしたんですね」
掠れた声だった。
言い訳を並べることはせず、ただ事実だけを確認する。
「ええ。僕の妻が、人の式場で何をしているのかを見ておくのは、夫の務めでしょう」
抑えた毒を含ませて告げると、アランは言葉を失った。
胸元に重ねていた両手の指が、きゅっと布地を摘まむように力を込める。
本気で責め立てようとは思っていない。
あの涙は、自分が打った布石の結果でもあるのだから。
フロストとの縁談を整えたのは誰か。
クラリッサのドレスを選ばせたのは誰か。
彼の婚礼に、妻を連れて参列したのは誰か。
すべて、レギュラス・ブラック自身の手だ。
だからこそ、今目の前で黙り込んでいる女を、滑稽なほど「無力で可愛い」とも思う。
どうしようもなく、愚かで、どうしようもなく、自分の思い描いた通りに揺れてくれる。
窓の外をかすめる街灯の光が、アランの頬に一瞬だけ陰影を落とした。
その一瞬だけ、泣き腫らした痕跡のわずかな赤みが浮かび上がる。
レギュラスは、それを見逃さない。
「……まあ、いいです」
小さく息を吐き、肩の力をわずかに抜く。
「あなたが何を思おうと、今夜フロスト殿の隣に立っていたのはクラリッサ嬢で、あなたの隣にいたのは僕です。
そこだけは、揺るぎようがない」
それは、慰めでもなければ、優しさでもない。
ただ事実を確認し、その事実に対する自分の優越をさらりと述べているだけの言葉だった。
「……はい」
アランは、かすかな声で頷いた。
視線はいまだにレギュラスの胸元辺りから動かない。
その従順な返事が、かえって彼の苛立ちを刺激する。
素直に従ってみせるのなら、最初からあの男を目で追うな、と喉まで出かかった言葉を、レギュラスは飲み込んだ。
——まだ揺れるのか。
母になっても、ブラック家の妻になっても。
そう思う自分の心こそが、予想外だった。
ここまで長く、しつこく、ひとりの女の過去に苛立ち続けるとは、レギュラス自身思っていなかった。
馬車が小さく揺れる。
窓の外には、ブラック家の門の灯りが見え始めていた。
「帰ったら、アルタイルの顔を見に行きましょう」
唐突に話題を変えると、アランが驚いたように瞬く。
その戸惑いを無視して、レギュラスは続けた。
「あなたが泣いても笑っても、あの子には関係ありませんからね。母親の顔を見せてあげてください」
そう告げながら、レギュラスはふっと目を細める。
まさか——と自嘲混じりに思う。
子を産み、母になってまで、なおローランドに揺れるこの女から、完全に手を離せない自分こそが、一番滑稽なのだと。
それでも、馬車が止まる頃には、さっきまで胸の奥で暴れていた苛立ちは、不思議と少し落ち着いていた。
アルタイルの寝顔と、妻の乱れた感情の両方を、まとめて自分のものとして抱え込めるという事実が、レギュラス・ブラックの優越感をまた静かに満たしていくのだった。
産後の夜、久しぶりに二人だけになった寝室は、いつもより静かだった。
カーテンの向こうでは、ブラック家の屋敷を包む夜気が、しんと落ち着いている。
窓辺のランプに灯された淡い光が、天蓋のレースと白いシーツの縁を柔らかくなぞり、寝台の上の影を薄く揺らしていた。
レギュラスの指先は、その光の輪郭をなぞるような速度でアランに触れた。
乱暴でも、急いてもいない。
まるで、壊れやすいものに触れる手を、そのまま形にしたような動きだった。
肩に置かれた手が、様子を確かめるようにゆっくりと滑っていく。
鎖骨のあたりで一度指が止まり、そこで圧を変え、また少しだけ移動する。
それはかつてアランが知っている誰かの気配によく似ていた。
——ローランド。
名前を心の中で呼んだ瞬間、胸の奥がざわつく。
喉の奥が詰まるような感覚に襲われて、アランは無意識に息を飲み込んだ。
レギュラス・ブラックは、ローランドがどのように自分を抱いたかなど知るはずもない。
どこからどう手を伸ばし、どこで一度止まり、どんな言葉を添えてきたかなど、知る機会すらないはずだ。
それなのに——今、肩から腕へ、腕から腰へと慎重に辿っていくその手つきは、あまりにもよく似ていた。
まるで、昔の記憶をなぞるために用意された手順書でも読んでいるかのように。
「……痛みがあれば、言ってくださいね」
耳元で落とされた声は低く、驚くほど柔らかかった。
レギュラスなりに最大限に気遣っているのだということは、言われなくても分かる。
妊娠中も、出産のときも、そして産後の今も。
彼は医師の言葉に耳を傾け、自分の知識の足りなさを埋めるように質問を繰り返し、アランの身体がどう変わっていくのかを懸命に理解しようとしてきた。
その延長線上にある、今の慎重さなのだろう。
わかっている。
その誠実さを、アラン自身が誰よりも認めている。
それでも苦しかった。
胸の奥で、今と昔が混ざっていく。
ローランドの手が、恐る恐る自分の肌に触れた夜。
初めての痛みを怖がる自分に、「大丈夫?」と何度も問いかけてくれた声。
どこかで「ここでやめてもいい」といつでも引き返しの道を残してくれていた気配。
目の前の男は、レギュラスだ。
魔法省の役員であり、ブラック家の嫡男であり、夫であり、アルタイルの父親である男。
それなのに、触れ方の一つ一つが、どこまでもローランドを思い出させる。
肩に置かれた手の重さも、髪を払う時の慎重さも、額に触れてくる指の温度も。
「……レギュラス」
自分でも驚くくらい掠れた声が出た。
呼びかけるように名を口にしたつもりが、確かめるような響きになっていた。
レギュラスは、彼女の顔を覗き込む。
翡翠の瞳に灯る不安を敏く感じ取ったのか、動きをそこで一度、はっきりと止めた。
「どこか、痛みますか?」
問う声に焦りはない。
だが、わずかに緊張を含んでいるのが分かる。
「……いいえ」
アランは首を振る。
肉体的な痛みではない、ということだけははっきりしていた。
むしろ、レギュラスの触れ方は驚くほど丁寧で、繊細で、優しくて——
それがかえって、過去と今の境界線をあいまいにしてくる。
ローランドの腕の中で、初めての恐怖を塗り替えていった優しい時間。
今はもう戻れない夜の断片が、いちいち蘇る。
その記憶の上に、レギュラスの姿が重なる。
自分の髪に指を沈めてくる男の横顔が、一瞬だけ、別の人影と重なって見えた。
——違う。
アランは、心の中で無理やりその像を振り払う。
目の前にいるのはレギュラス・ブラックだ。
自分が妻として隣に立つことを選んだ男であり、今夜こうして時間をかけて自分の身体を気遣いながら触れてくる男。
それなのに、胸のざわつきは収まらない。
背に回された腕に、そっと力がこもる。
レギュラスは、急がなかった。
唇を重ねるときも、迷うように一度頬に触れ、額に短く口づけてから、ようやく口元へと辿り着く。
——そんなところまで似せなくていいのに。
心のどこかで、ひどく意地の悪い感想が浮かぶ。
ローランドもまた、最初の夜には同じ順序で自分に触れたのだ。
頬から、額へ。
まるで「ここまで来たけれど、ここでやめてもいい」と言うかのように、回り道をしながら。
レギュラスは、ローランドのことなど知らない。
知らないはずなのに、なぜここまでよく似た進め方ができてしまうのか。
唇が触れ合う。
そこには、以前のような強引さも、奪うような激しさもなかった。
柔らかく、様子を伺うように、重なり方を確かめる。
アランは、どう反応すればいいのか分からなかった。
ローランドの記憶に縋ってしまえば、裏切りだ。
レギュラスの優しさだけを見ようとすれば、自分のなかの痛みをごまかすことになる。
身体は、産後のまだ不安定な状態にもかかわらず、温度を思い出していく。
長く断たれていた距離が、ゆっくりと埋まっていくときに生まれる、あのどうしようもない昂ぶりと緊張。
けれど同時に、それはもう「ローランドと二人で手探りした夜」ではないのだと、残酷なほど突きつけてくる。
「……本当に、痛くないですか」
唇を離したレギュラスが、もう一度確かめるように問う。
アランは、小さく頷いた。
「ええ……大丈夫、です」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
心がこんなにも乱れているのに、外側だけはうまく繕えてしまう。
レギュラスの指が、彼女の手を探し当てる。
絡めとるように握り込むと、そのまま強くも弱くもない力加減で握り返した。
「何かあれば、すぐに言ってください。
今日は無理をする夜じゃありませんから」
低く落とされたその一言が、またローランドの記憶を刺激する。
「嫌なら、いくらでもやめていい」という、あの人の口癖のような気遣いと、あまりにもよく似ていた。
アランは、目を閉じた。
涙は出なかったが、胸の奥でなにかがぎゅっと縮む。
違う。
目の前にいるのはローランドではない。
ローランドであってほしいと願うのは、弱さであり、逃避であり、裏切りだ。
分かっているのに、心は勝手に重ねてしまう。
同じような優しさを、別の男から向けられることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
それでも、レギュラスの手は離れない。
絡めた指の間から伝わる体温は、揺れるアランの心を、現実へと引き戻してくる。
——今、ここで自分に触れているのは、この人だ。
アルタイルの父であり、自分の人生を大きく書き換えてしまった男。
どれだけ苦くても、どれだけ痛くても、その現実だけは変えようがない。
静かに息を吸い込むと、アランは握られた手に、ほんのわずかに力を込めて握り返した。
それは、肯定とも諦めともつかない、ささやかな応答だった。
レギュラスは、それをきちんと受け取ったのか、わずかに表情を緩める。
彼の動きは最後まで丁寧で、慎重で、どこまでも優しかった。
だからこそ、アランの胸のざわめきは最後まで収まらなかった。
ローランド・フロストと重なってしまうその優しさを、拒むことも出来ず、完全に受け容れることも出来ないまま——
彼女は、姿なき誰かの影と、今目の前にいる夫とのあいだで引き裂かれるような痛みを抱えながら、静かにその夜をやり過ごしていくしかなかった。
産後初めて迎えた夜、レギュラスは、寝台に腰を下ろした瞬間から、いつものそれとはまるで違う種類の緊張を覚えていた。
天蓋のカーテンは半分ほど閉じられ、ランプの灯りが淡く揺れている。
隣では、ゆっくりと身を横たえたアランがシーツの皺の上に細い指を置き、喉元までかかった掛け布を、落ち着かなげに摘まんでいた。
アルタイルの寝室からは、かすかな寝息だけが届いてくる。
泣き声もせず、よく眠る子だと皆が口を揃えたその赤子が、今この瞬間も静かに夢の中にいる。
その事実が、かえってこの寝室の密度を上げていた。
——今夜は、いつものようにはできない。
そうわかっていた。
わかっていたからこそ、レギュラスの指先は慎重だった。
触れればすぐに、あのざらつきが蘇る。
昼間、ローランドとアランが向け合っていた視線。
祝福の笑みの裏側に流れる、互いにしか分からない歴史の温度。
胸に残ったその棘を、乱暴に上塗りすることは簡単だ。
いつも通り、強引に、息の余裕さえ与えないほどに抱けばいい。
だが、それでは何も変わらない。
欲を吐き出して終わらせるための行為に、今夜だけはしたくなかった。
あの男とその妻の白い式服の余韻も、アランの瞳に残る翳りも、すべて穏やかに均してしまいたかった。
——アルタイルの父と母として。
この屋敷の、ひと組の夫婦としての場所に、静かに戻せればそれでいい。
レギュラスは、ゆっくりと手を伸ばした。
躊躇うように、一度アランの頬のすぐ近くで止まり、それからようやく肌に触れる。
「痛みがあれば、すぐに言ってくださいね」
昼間ヒーラーから聞かされた説明が、頭の片隅で何度も反芻される。
産後の身体がどれほど脆く、どれほど予測がつかないものか。
バーテミウスが「やめておいた方が無難です」と笑いながら忠告してきた言葉も、珍しく真剣に思い出していた。
見違えるほど変わった胸元に指先が触れたとき、一瞬だけ息を呑む。
そこに、一切の性的な感情が混じらないはずもない。
柔らかさと張りと、その存在感。
男としての本能が、そこにばかり集中しようとする。
——だが、違う。
自分の中で膨らみかけた熱に、レギュラスは静かに水を差す。
優先すべきものを間違えるつもりはなかった。
ここには、アルタイルの母がいる。
命を張って子を産み、その痛みの余韻をまだ身体のどこかに抱えている女が、眠りかけた目で自分を見上げている。
欲の行き先としての女ではなく、妻として、母として、そして何より一人の人間として。
彼女が今ここで、これ以上傷つかないように、恐れないように、過去の痛みを思い出さないように——そのことだけを軸にしたかった。
唇を重ねるときも、レギュラスは深追いしなかった。
角度を変え、圧を確かめ、呼吸の速さを測りながら、まるで様子を伺うように。
いつもなら、相手の反応を確かめてから一気に畳み掛けるところを、今夜はわざと崩さない。
アランのまつげが震え、細い吐息が混じる。
それでも「やめてほしい」とは言わない。
痛みを訴える気配もない。
レギュラスは、胸の奥に湧いてきた衝動の手綱を、何度も握り直した。
もっと深く口付ければ、この女はすぐにいつものように身体を熱で満たしてくれるだろう。
背に回された腕に力がこもれば、それだけで頭の中のざらつきは、甘美な快楽に上書きされていくに違いない。
その未来が、手を伸ばせば届く場所にあるとわかっていながら、あえてそこへ飛び込まない。
今夜だけは、そう決めていた。
抱き寄せる腕も、いつもよりわずかに緩くする。
体重を預けすぎれば、まだ完全には癒えていない部分に負担がかかる。
彼女の呼吸の深さを読み取りながら、その都度、触れ方を調整していく。
物足りない——と、どこかで思った。
自分らしくないと、苦笑したくなる瞬間もあった。
それでも、不思議と満たされていく。
この寝台に、再び二人で横になっているという事実。
初めて夜を共にしたあの日とも、婚礼直後の激しさとも、妊娠前の馴染んだ熱とも違う、静かな重み。
アルタイルの母を、自分の妻を。
「行為」と呼ぶにはあまりにも慎重な時間の中で、再び腕に抱いたという一点だけで、胸の内側は驚くほど満ちていった。
乱暴に奪い合った快感ではない。
支配の証として刻みつける快楽でもない。
ただ、再び繋がったという感覚。
昼間、ざらつきとなって残ったフロスト夫妻の姿が、少しずつ遠のいていく。
アランの指がシーツの皺を摘まんでいたところから、いつの間にかレギュラスの寝衣の袖口を掴む形に変わっているのに気づき、胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。
——これでいい。
もっと求められることも、もっと与えることもできる。
だが、今夜はここで止めることに意味がある。
アルタイルの父として。
ブラック家の夫として。
そして、この女の夫として。
彼女の息が少しずつ落ち着き、瞼が重くなっていくのを感じながら、レギュラスはゆっくりとその髪を撫でた。
喉元に軽く口づけを落とし、耳元で短く囁く。
「……ありがとうございます、アラン」
礼を言われるようなことではないだろう。
それでも、今夜この時間を共にしてくれたことが、彼にはどうしようもなく嬉しかった。
欲を吐き出すための夜ではない。
ざらついた心を、彼女の体温で静かに均していく夜。
やがてアランの呼吸が完全に眠りのリズムへと変わる頃には、レギュラスの胸の中にも、昼間抱いた苛立ちの棘はほとんど残っていなかった。
腕の中にいるのは、アルタイルの母であり、ブラック家の妻であり——
何より、自分がどうしようもなく手放せなくなった女だ。
物足りないはずの夜が、奇妙なほど心地よい満足感で満ちていくのを感じながら、レギュラスは静かに目を閉じた。
翌朝、寝室のカーテンは半分ほど開けられていて、まだ柔らかい朝の光が、寝台の上に淡く差し込んでいた。
天蓋のレース越しに揺れる光の粒が、白いシーツと、その上に座るアランの横顔を薄く縁取っている。
レギュラスは、寝台のすぐそばの椅子に腰を下ろし、両腕の中に小さなアルタイルを抱いていた。
ぐっすりと眠っているのか、赤子のまぶたはきっちりと閉じられ、時折もぞりと指を動かすだけだ。
「……本当に、大丈夫ですか?」
朝一番にかけられた言葉は、それだった。
一度聞いたきりではない。すでに三度目に近い。
アランは枕元に背を預け、胸元まで掛けられた布を指先で整えながら、視線だけをレギュラスに向ける。
「ええ、大丈夫ですわ。レギュラス」
「痛みは? 歩くときなど、まだ辛くはありませんか」
「少しは……ありますけれど、耐えられないほどではございません」
「昨夜、無理をさせてしまいましたか?」
その問いに、アランの指がぴたりと止まる。
首筋まで一気に熱が昇っていくのが自分でもわかった。
どうしてその話題を、今、アルタイルを抱きながら口にできるのか。
この男の羞恥心の所在は、未だによく分からない。
アランは思わず視線を逸らした。
寝台の上の皺のよったシーツや、自分の膝の上に載せた薄手のブランケットの端を、必要もないのに整え直す。
「……とくに、問題はございません」
できるだけ淡々と答えたつもりだったが、声の端に混じったわずかな震えは、自分の耳でもはっきりと聞き取れた。
レギュラスはと言えば、その震えを聞き逃すはずもなく、腕の中のアルタイルを少しあやしながら、穏やかに微笑んでいる。
「本当に? 遠慮しているだけでは」
「遠慮などでは……」
「ヒーラーは、産後の行為は慎重にと言っていましたからね。
僕のせいで、負担になっていないかと、どうしても気になりまして」
言いながら、アルタイルの頬を指先でそっと撫でる。
その仕草自体は、父親らしい優しさに満ちているのに、話題が話題なだけに、アランはどうにも落ち着かなかった。
こんなふうに。
自分の体調と、昨夜のことを、赤子を腕に抱きながら平然と口にされるなんて、想像したこともない。
「レギュラスこそ、眠れていらっしゃるのですか?」
話題を変えたい一心で、アランは問いを返した。
自分のことを問われるより、相手の様子を聞く方が、まだましだった。
「僕ですか? ええ、アルタイルは親孝行ですからね。よく眠ってくれています」
そう言いながらも、目の下にはほんのかすかな陰がある。
夜中に何度か乳母と共に起き出しているのは知っている。
アランが目を覚ましたとき、寝台の端で本を閉じる気配を感じたことも、一度や二度ではない。
「昨夜も……その、途中でお疲れになっていないかと」
言ってから、アランは言葉を選び間違えたと悟った。
ますます話題がそこに縛りつけられてしまう。
案の定、レギュラスは楽しげに目を細める。
「僕の心配は不要ですよ、アラン。
疲れたとしても、あなたと一緒にいる時間なら、いくらでも代償になります」
さらりと、劇の台詞のようなことを言ってのける。
アランは返す言葉に詰まり、息を吸うだけで終わってしまった。
羞恥と困惑と、どうしようもない照れが胸の奥で渦を巻く。
産後でなければ、こんな話など聞こえないふりをして部屋を出ていたかもしれない。
今は寝台から立ち上がることすら憚られるから、逃げ場はない。
「……レギュラスこそ、お身体を大事になさってくださいませ。
魔法省のお仕事もお忙しいでしょうし」
「ええ。ですから、そのためにも確認が必要なんです」
真顔で返されて、アランは瞬きを繰り返した。
「確認、とは?」
「あなたの体調が万全であること。
アルタイルの母が健やかでいてくれることは、僕の仕事にとってもなにより重要ですからね」
冗談めかした口調で終わらせながらも、その瞳の奥には、昨夜と同じ真剣さがわずかに宿っている。
ただからかっているわけではないのだと分かってしまうから、余計に困る。
「昨夜、痛みが増したり、眠れなくなったりはしていませんか?」
「……しておりません」
「なら、よかった」
その一言に、レギュラスは心からほっとしたように息を吐いた。
アルタイルを抱えたまま身を乗り出し、寝台の端に腰をかけると、空いている手でアランの髪をそっと撫でる。
あまりにも自然な仕草に、胸がきゅっと縮まる。
そこには、支配でも命令でもない、ただの「夫」としての重みしか感じられなかった。
「……そんなに、何度も気になさることではありませんわ」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも柔らかかった。
拒絶ではなく、戸惑いの混ざった控えめな抗議。
「気になりますよ。初めてですからね、僕も」
アランが顔を上げると、レギュラスはわずかに照れたような、それでもどこか誇らしげな表情を浮かべていた。
「アルタイルの父親としても、あなたの夫としても。
こういうことは、慣れるほど経験していいものとは思いませんし。
だからこそ、一つ一つ確かめたくなるんです」
正面からそんなことを言われてしまえば、反論などできるはずがなかった。
羞恥と困惑でどうしようもないのに、胸のどこかがじんわりと温かくなる。
それを悟られたくなくて、アランは視線を逃し、アルタイルの小さな手を見つめた。
赤子の指が、空気を掴むようにもぞりと動く。
それに合わせて、レギュラスの腕がほんの少しだけ揺れ、その動きがおおげさなくらい慎重に制御される。
「……本当に、大丈夫ですのに」
もう一度だけ、そう呟く。
それは、これ以上同じ問いを続けないでほしいという小さな願いと、何度でも気にかけてくる彼への照れ隠しが、入り混じった言葉だった。
レギュラスは、それ以上は追及しなかった。
ただ、「そうですか」と短く頷き、アランの前にアルタイルの額をそっと差し出す。
「では、安心のために。
アルタイルにも、母上の声を聞かせてやってください。今日は機嫌がいい」
強引なようで、逃げ道を残した優しさ。
アランは、胸の奥のわずかな苦笑いを押し隠しながら、赤子の額にそっと口づける。
「……おはようございます、アルタイル」
囁くような声が、静かな寝室に溶けていく。
レギュラスは満足げに目を細め、その様子を見つめながら、もう一度だけアランの体調を確かめたい衝動を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
どうしようもない羞恥と困惑のなかで——
それでも、こうして気遣われてしまう自分の立場を、アランは少しずつ受け入れていくしかなかった。
セシール家の屋敷に足を踏み入れた瞬間、鼻腔に覚えのある薬草と蒸気の匂いが満ちた。
幾度となく出入りしてきた場所だ。廊下の軋む位置も、窓から差し込む光の角度も、目を閉じていても思い描けるほどに馴染んでいるはずなのに——今日は、妙に胸の奥がざわついていた。
エドモンド・セシールと研究の進捗について言葉を交わし、頼まれていた書類の確認を終える。
応接室から廊下に出たところで、ふいに、微かな衣擦れの音がした。
振り向いた先に、彼女がいた。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
自分の口からその呼び名が滑り出るたび、どこか遠くから他人の声を聞いているような感覚になる。
けれど、礼節を欠くわけにはいかない。
それが今の、互いの立場だった。
アランは、静かに立ち止まり、微笑を添えて会釈をした。
「お久しゅうございます、フロスト殿」
その声の柔らかさに、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
以前より——美しい。
そう思ってしまったことを、自分で認めたくなくて、一瞬視線をさまよわせる。
だが、否定はできなかった。
レギュラス・ブラックの隣で磨き上げられた艶なのか。
母となったことで宿った、輪郭の柔らかさなのか。
どちらとも判然としない、幾重もの要素が折り重なって、目の前の女を別物にしていた。
黒髪は以前よりも長く、ゆるやかな波を描いて肩から背へと流れ落ちている。
頬の線にはわずかな丸みが加わり、その分、翡翠色の瞳の輝きがいっそう際立って見えた。
そして——何よりも変わったのは、身体のラインだった。
ほどよく絞られた腰から、女性らしく丸みを帯びた腰回りへと続く曲線。
薄布のドレス越しにさえ分かる、控えめでありながら確かに主張する凹凸。
胸元の膨らみは、かつて若い二人で手探りに抱き合っていた頃よりも明らかに豊かで、それが母となった証でもあるのだと理解しているくせに——視線がそこに吸い寄せられそうになる。
暴力的、とさえ思った。
美しさが、攻撃のように感じられることがあるのだと、初めて知った。
見てはならないと思うほど、目をそらせなくなる。
慌てて、ローランドは意識的に視線を上へと引き上げた。
喉の奥が、乾いて息苦しい。
「お父上から、研究の経過を伺っているところです」
なんとか平静を装って言葉を紡ぐ。
アランは、ほっとしたように、ほんの少し肩から力を抜いた。
「そうでしたのですね。いつも、父がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。……その」
一拍、言葉が途切れる。
余計な一言が喉元までこみ上げてきたが、必死に飲み込んだ。
——やはり、お綺麗になられました。などと、口にできるはずもない。
「……もうじき、完成しそうですね」
話題を、強引に研究へ戻す。
それがいちばん安全圏だと、身体が覚え込んでいた。
アランの瞳が、ふっと和らぐ。
「はい。ようやくです。――ようやく、形になりますね」
「ようやく」を二度繰り返した声音には、長い年月と、幾つもの試行錯誤が折り込まれていた。
フラスコを並べ、失敗作の蒸気にむせながら、二人で笑い合っていた日々が、否応なく蘇る。
何度温度を変えれば良いのか、どの分量で沈殿が起きるのか。
アランが真剣な顔でノートに書き込み、ローランドがその横で補助呪文をかける。
気に入らない結果が出れば、彼女はわずかに唇を尖らせ、すぐさま別の配合を試した。
その姿が好きだった。
頬に飛んだ薬液を拭いもせず、夢中で魔法陣に向き合っている横顔が。
「……フロスト殿のお力添えがあったからこそ、ここまで辿り着けましたわ」
アランの言葉に、ローランドは首を振る。
「光栄ですが、功績の大半はセシール卿と……ブラック夫人のお力です。
私は、ほんの一部をお手伝いしただけですよ」
どこまでも教科書通りのやり取り。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、そんな形式ばった言葉の裏側で、胸の奥はひどく騒いでいた。
——以前より、美しくなった。
それは、間違いなかった。
レギュラス・ブラックの妻として、ブラック家の一員として、磨かれた立ち居振る舞い。
母としての柔らかさが、彼女の輪郭を一回り大きく包み込んでいる。
それでも、とローランドは思う。
笑うときの瞳のかすかな揺れ方や、研究の話になると少し早口になる癖は、何一つ変わっていなかった。
「ご体調の方は……いかがですか」
問いかける声が、思ったよりも低く響いた。
アランが一瞬だけ眉尻を下げ、それから穏やかに微笑む。
「おかげさまで。もうだいぶ落ち着いております。――アルタイルも、よく眠る子ですから」
名前を口にするときの、甘い響き。
それを聞いた瞬間、胸の奥に、熱とも痛みともつかないものが広がった。
自分が夢に見ていたはずの情景だった。
彼女が、自分の隣で、 「いつか生まれてくる子どもの名前」を楽しげに語ってくれていた日々。
その夢の残骸が、静かに、しかし確実に疼きだす。
——今、その未来は別の男と共有されている。
視線を落とせば、再び胸元の曲線が視界に入ってしまうと分かっていて、ローランドは必死にアランの瞳だけを見るよう努めた。
翡翠色のその瞳は、どこか遠くを映しながらも、きちんとこちらと向き合ってくれている。
そこに、自分の姿が映っているのだと思うだけで、息が詰まりそうだった。
「……完成の暁には、ぜひ、またご協力を仰ぐことになるかもしれません」
アランの言葉に、ローランドはわずかに笑みを返した。
「そのときは、喜んで。
セシール卿の研究は、魔法界にとって大きな礎になりますから」
形式ばった返事。
しかし、その中に込めた敬意は、決して偽りではない。
彼女と、その父と、自分が共に積み重ねてきた時間が、ようやく「形」になるのだ。
たとえ今、彼女が自分のものではなくなってしまったとしても——その成果だけは、偽ることなく誇れると感じていた。
「それでは、私はこれで失礼いたします。お身体、ご自愛ください、ブラック夫人」
深く頭を下げる。
「アラン様」と呼びかけたい衝動を、喉の奥で押し潰しながら。
背を向けて廊下を歩き出したあとも、背中に彼女の存在感がまとわりついて離れなかった。
振り返れば、きっとまだそこに立っているのだろうと分かっているのに、それだけはしてはならないと思った。
だから、歩みを止めずに進む。
薬草の匂いと、古い木材の軋む音に紛れて、さっき見たばかりの曲線と、翡翠の瞳の残像だけが、いつまでも胸の奥に焼きついていた。
外はすでに陽が落ち、薄闇の中をランプの光が揺れながら進んでいく。馬蹄の規則的な音と、車輪が石畳を噛む振動だけが、閉ざされた空間の床を伝っていた。
向かい合わせに座るアランは、姿勢だけは教本の挿絵のように端正だった。背筋を伸ばし、膝をそろえ、ドレスの裾を乱さぬように両手を重ねて乗せている。
その完璧な所作が、今のレギュラスには妙に癇に障った。
どう考えても、いつも通りではない。
式の最中からずっと、彼女の翡翠の瞳はどこか遠くに焦点を結び、時おり視線の行き先を必死に隠すように揺れていた。
ローランド・フロストに向けられる一瞬の眼差し。
ローランドがクラリッサへ向ける柔らかな視線。
すべて、見えていないと思っているのだろうか。
帰り際、馬車に乗り込む前のわずかな隙に——
アランが、会場の隅でひとり立ち尽くし、誰も見ていないと思っている場所で、頬を濡らした瞬間も、レギュラスはきちんと見ていた。
にもかかわらず、今こうして真正面に座る彼女は、なにもなかったような顔をしている。
レギュラスは指先でそっと手袋の縁を押し上げた。
馬車の揺れに紛れるように足を組み替え、わざと窓の外へ一度視線を流してから、何気ない風を装って口を開く。
「……フロスト殿と、何を話されてたんです」
抑えた声音だった。
怒りや詰問を隠そうとするあまり、かえって滑らかすぎるほどよく整った声になった。
アランは一瞬だけ肩を震わせ、すぐに小さく息を吸い込む。
顔を上げるときも、決してまっすぐレギュラスの灰色の瞳を見ようとはしない。視線はそのあたり——ネクタイの結び目とシャツの襟の境目、いつもの逃げ道へ落ち着いた。
「……祝福を述べました」
その答えは、教本に載せても差し支えのないほど完璧だった。
抑揚も、間も、まったく乱れていない。
レギュラスは、思わず笑いそうになった。
——祝福、ね。
あの男の前で、礼儀正しく「おめでとうございます」と告げたあと、背を向けた彼の姿を、今にも縋りつくのではないかという目で見送っていたくせに。
自分で「どうかお幸せに」ととどめのような言葉まで投げておいて、その数分後には、誰にも見られまいとして宴の隅で涙を拭っていたくせに。
「祝福を述べました」で済ませるのだから、たいしたものだ。
「それだけですか」
わずかに口角を持ち上げる。笑みとも皮肉ともつかない形で。
アランは息を詰まらせたように眉を揺らし、それでも頑として言葉を変えなかった。
「……それ以上のことは、何も」
「そうですか」
レギュラスは視線を彼女から外し、馬車の天井を仰ぎ見るようにした。
揺れる灯りの影が、革張りの壁に長く伸びては縮んでいく。
まさか——と、心のどこかで苦笑していた。
子を産み、母になってまで、まだこれほど分かりやすくローランド・フロストの存在に揺れるとは思ってもいなかった。
アルタイルを腕に抱いて眠るとき。
自分の部屋で、ごく自然に腕を枕にして身を委ねるとき。
見慣れた日々の仕草から、彼女は少しずつ「ブラック家の妻」として形を整えつつあるように思えていたのに。
——あの男と目を合わせただけで、これだ。
胸の奥で、苛立ちと可笑しさの入り交じった熱が広がっていく。
おかしくてたまらないのに、笑ってしまえば負けのような気がして、喉の奥で押し殺す。
「よく祝福できますね、あなたは」
ふと、そんな言葉が零れた。
思案を巡らせた末に選んだ台詞ではない。目の前の女の「完璧な回答」が、単純に気に入らなかった。
アランの睫毛がかすかに震える。
翡翠の瞳が、まばたきの一瞬だけ揺れて、すぐに伏せられた。
「……それが、礼ですから」
「礼」
レギュラスは繰り返し、ふっと鼻で笑う。
「礼、ですか。
では、あの隅で涙を拭っていたのも、礼の一環だったと?」
アランの肩がびくりと大きく跳ねた。
彼女はすぐさま首を振ろうとして、しかし途中で動きを止める。
否定の言葉が喉まで上っているのが、向かい側からでもはっきりと分かった。
「……見て、いらしたんですね」
掠れた声だった。
言い訳を並べることはせず、ただ事実だけを確認する。
「ええ。僕の妻が、人の式場で何をしているのかを見ておくのは、夫の務めでしょう」
抑えた毒を含ませて告げると、アランは言葉を失った。
胸元に重ねていた両手の指が、きゅっと布地を摘まむように力を込める。
本気で責め立てようとは思っていない。
あの涙は、自分が打った布石の結果でもあるのだから。
フロストとの縁談を整えたのは誰か。
クラリッサのドレスを選ばせたのは誰か。
彼の婚礼に、妻を連れて参列したのは誰か。
すべて、レギュラス・ブラック自身の手だ。
だからこそ、今目の前で黙り込んでいる女を、滑稽なほど「無力で可愛い」とも思う。
どうしようもなく、愚かで、どうしようもなく、自分の思い描いた通りに揺れてくれる。
窓の外をかすめる街灯の光が、アランの頬に一瞬だけ陰影を落とした。
その一瞬だけ、泣き腫らした痕跡のわずかな赤みが浮かび上がる。
レギュラスは、それを見逃さない。
「……まあ、いいです」
小さく息を吐き、肩の力をわずかに抜く。
「あなたが何を思おうと、今夜フロスト殿の隣に立っていたのはクラリッサ嬢で、あなたの隣にいたのは僕です。
そこだけは、揺るぎようがない」
それは、慰めでもなければ、優しさでもない。
ただ事実を確認し、その事実に対する自分の優越をさらりと述べているだけの言葉だった。
「……はい」
アランは、かすかな声で頷いた。
視線はいまだにレギュラスの胸元辺りから動かない。
その従順な返事が、かえって彼の苛立ちを刺激する。
素直に従ってみせるのなら、最初からあの男を目で追うな、と喉まで出かかった言葉を、レギュラスは飲み込んだ。
——まだ揺れるのか。
母になっても、ブラック家の妻になっても。
そう思う自分の心こそが、予想外だった。
ここまで長く、しつこく、ひとりの女の過去に苛立ち続けるとは、レギュラス自身思っていなかった。
馬車が小さく揺れる。
窓の外には、ブラック家の門の灯りが見え始めていた。
「帰ったら、アルタイルの顔を見に行きましょう」
唐突に話題を変えると、アランが驚いたように瞬く。
その戸惑いを無視して、レギュラスは続けた。
「あなたが泣いても笑っても、あの子には関係ありませんからね。母親の顔を見せてあげてください」
そう告げながら、レギュラスはふっと目を細める。
まさか——と自嘲混じりに思う。
子を産み、母になってまで、なおローランドに揺れるこの女から、完全に手を離せない自分こそが、一番滑稽なのだと。
それでも、馬車が止まる頃には、さっきまで胸の奥で暴れていた苛立ちは、不思議と少し落ち着いていた。
アルタイルの寝顔と、妻の乱れた感情の両方を、まとめて自分のものとして抱え込めるという事実が、レギュラス・ブラックの優越感をまた静かに満たしていくのだった。
産後の夜、久しぶりに二人だけになった寝室は、いつもより静かだった。
カーテンの向こうでは、ブラック家の屋敷を包む夜気が、しんと落ち着いている。
窓辺のランプに灯された淡い光が、天蓋のレースと白いシーツの縁を柔らかくなぞり、寝台の上の影を薄く揺らしていた。
レギュラスの指先は、その光の輪郭をなぞるような速度でアランに触れた。
乱暴でも、急いてもいない。
まるで、壊れやすいものに触れる手を、そのまま形にしたような動きだった。
肩に置かれた手が、様子を確かめるようにゆっくりと滑っていく。
鎖骨のあたりで一度指が止まり、そこで圧を変え、また少しだけ移動する。
それはかつてアランが知っている誰かの気配によく似ていた。
——ローランド。
名前を心の中で呼んだ瞬間、胸の奥がざわつく。
喉の奥が詰まるような感覚に襲われて、アランは無意識に息を飲み込んだ。
レギュラス・ブラックは、ローランドがどのように自分を抱いたかなど知るはずもない。
どこからどう手を伸ばし、どこで一度止まり、どんな言葉を添えてきたかなど、知る機会すらないはずだ。
それなのに——今、肩から腕へ、腕から腰へと慎重に辿っていくその手つきは、あまりにもよく似ていた。
まるで、昔の記憶をなぞるために用意された手順書でも読んでいるかのように。
「……痛みがあれば、言ってくださいね」
耳元で落とされた声は低く、驚くほど柔らかかった。
レギュラスなりに最大限に気遣っているのだということは、言われなくても分かる。
妊娠中も、出産のときも、そして産後の今も。
彼は医師の言葉に耳を傾け、自分の知識の足りなさを埋めるように質問を繰り返し、アランの身体がどう変わっていくのかを懸命に理解しようとしてきた。
その延長線上にある、今の慎重さなのだろう。
わかっている。
その誠実さを、アラン自身が誰よりも認めている。
それでも苦しかった。
胸の奥で、今と昔が混ざっていく。
ローランドの手が、恐る恐る自分の肌に触れた夜。
初めての痛みを怖がる自分に、「大丈夫?」と何度も問いかけてくれた声。
どこかで「ここでやめてもいい」といつでも引き返しの道を残してくれていた気配。
目の前の男は、レギュラスだ。
魔法省の役員であり、ブラック家の嫡男であり、夫であり、アルタイルの父親である男。
それなのに、触れ方の一つ一つが、どこまでもローランドを思い出させる。
肩に置かれた手の重さも、髪を払う時の慎重さも、額に触れてくる指の温度も。
「……レギュラス」
自分でも驚くくらい掠れた声が出た。
呼びかけるように名を口にしたつもりが、確かめるような響きになっていた。
レギュラスは、彼女の顔を覗き込む。
翡翠の瞳に灯る不安を敏く感じ取ったのか、動きをそこで一度、はっきりと止めた。
「どこか、痛みますか?」
問う声に焦りはない。
だが、わずかに緊張を含んでいるのが分かる。
「……いいえ」
アランは首を振る。
肉体的な痛みではない、ということだけははっきりしていた。
むしろ、レギュラスの触れ方は驚くほど丁寧で、繊細で、優しくて——
それがかえって、過去と今の境界線をあいまいにしてくる。
ローランドの腕の中で、初めての恐怖を塗り替えていった優しい時間。
今はもう戻れない夜の断片が、いちいち蘇る。
その記憶の上に、レギュラスの姿が重なる。
自分の髪に指を沈めてくる男の横顔が、一瞬だけ、別の人影と重なって見えた。
——違う。
アランは、心の中で無理やりその像を振り払う。
目の前にいるのはレギュラス・ブラックだ。
自分が妻として隣に立つことを選んだ男であり、今夜こうして時間をかけて自分の身体を気遣いながら触れてくる男。
それなのに、胸のざわつきは収まらない。
背に回された腕に、そっと力がこもる。
レギュラスは、急がなかった。
唇を重ねるときも、迷うように一度頬に触れ、額に短く口づけてから、ようやく口元へと辿り着く。
——そんなところまで似せなくていいのに。
心のどこかで、ひどく意地の悪い感想が浮かぶ。
ローランドもまた、最初の夜には同じ順序で自分に触れたのだ。
頬から、額へ。
まるで「ここまで来たけれど、ここでやめてもいい」と言うかのように、回り道をしながら。
レギュラスは、ローランドのことなど知らない。
知らないはずなのに、なぜここまでよく似た進め方ができてしまうのか。
唇が触れ合う。
そこには、以前のような強引さも、奪うような激しさもなかった。
柔らかく、様子を伺うように、重なり方を確かめる。
アランは、どう反応すればいいのか分からなかった。
ローランドの記憶に縋ってしまえば、裏切りだ。
レギュラスの優しさだけを見ようとすれば、自分のなかの痛みをごまかすことになる。
身体は、産後のまだ不安定な状態にもかかわらず、温度を思い出していく。
長く断たれていた距離が、ゆっくりと埋まっていくときに生まれる、あのどうしようもない昂ぶりと緊張。
けれど同時に、それはもう「ローランドと二人で手探りした夜」ではないのだと、残酷なほど突きつけてくる。
「……本当に、痛くないですか」
唇を離したレギュラスが、もう一度確かめるように問う。
アランは、小さく頷いた。
「ええ……大丈夫、です」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
心がこんなにも乱れているのに、外側だけはうまく繕えてしまう。
レギュラスの指が、彼女の手を探し当てる。
絡めとるように握り込むと、そのまま強くも弱くもない力加減で握り返した。
「何かあれば、すぐに言ってください。
今日は無理をする夜じゃありませんから」
低く落とされたその一言が、またローランドの記憶を刺激する。
「嫌なら、いくらでもやめていい」という、あの人の口癖のような気遣いと、あまりにもよく似ていた。
アランは、目を閉じた。
涙は出なかったが、胸の奥でなにかがぎゅっと縮む。
違う。
目の前にいるのはローランドではない。
ローランドであってほしいと願うのは、弱さであり、逃避であり、裏切りだ。
分かっているのに、心は勝手に重ねてしまう。
同じような優しさを、別の男から向けられることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
それでも、レギュラスの手は離れない。
絡めた指の間から伝わる体温は、揺れるアランの心を、現実へと引き戻してくる。
——今、ここで自分に触れているのは、この人だ。
アルタイルの父であり、自分の人生を大きく書き換えてしまった男。
どれだけ苦くても、どれだけ痛くても、その現実だけは変えようがない。
静かに息を吸い込むと、アランは握られた手に、ほんのわずかに力を込めて握り返した。
それは、肯定とも諦めともつかない、ささやかな応答だった。
レギュラスは、それをきちんと受け取ったのか、わずかに表情を緩める。
彼の動きは最後まで丁寧で、慎重で、どこまでも優しかった。
だからこそ、アランの胸のざわめきは最後まで収まらなかった。
ローランド・フロストと重なってしまうその優しさを、拒むことも出来ず、完全に受け容れることも出来ないまま——
彼女は、姿なき誰かの影と、今目の前にいる夫とのあいだで引き裂かれるような痛みを抱えながら、静かにその夜をやり過ごしていくしかなかった。
産後初めて迎えた夜、レギュラスは、寝台に腰を下ろした瞬間から、いつものそれとはまるで違う種類の緊張を覚えていた。
天蓋のカーテンは半分ほど閉じられ、ランプの灯りが淡く揺れている。
隣では、ゆっくりと身を横たえたアランがシーツの皺の上に細い指を置き、喉元までかかった掛け布を、落ち着かなげに摘まんでいた。
アルタイルの寝室からは、かすかな寝息だけが届いてくる。
泣き声もせず、よく眠る子だと皆が口を揃えたその赤子が、今この瞬間も静かに夢の中にいる。
その事実が、かえってこの寝室の密度を上げていた。
——今夜は、いつものようにはできない。
そうわかっていた。
わかっていたからこそ、レギュラスの指先は慎重だった。
触れればすぐに、あのざらつきが蘇る。
昼間、ローランドとアランが向け合っていた視線。
祝福の笑みの裏側に流れる、互いにしか分からない歴史の温度。
胸に残ったその棘を、乱暴に上塗りすることは簡単だ。
いつも通り、強引に、息の余裕さえ与えないほどに抱けばいい。
だが、それでは何も変わらない。
欲を吐き出して終わらせるための行為に、今夜だけはしたくなかった。
あの男とその妻の白い式服の余韻も、アランの瞳に残る翳りも、すべて穏やかに均してしまいたかった。
——アルタイルの父と母として。
この屋敷の、ひと組の夫婦としての場所に、静かに戻せればそれでいい。
レギュラスは、ゆっくりと手を伸ばした。
躊躇うように、一度アランの頬のすぐ近くで止まり、それからようやく肌に触れる。
「痛みがあれば、すぐに言ってくださいね」
昼間ヒーラーから聞かされた説明が、頭の片隅で何度も反芻される。
産後の身体がどれほど脆く、どれほど予測がつかないものか。
バーテミウスが「やめておいた方が無難です」と笑いながら忠告してきた言葉も、珍しく真剣に思い出していた。
見違えるほど変わった胸元に指先が触れたとき、一瞬だけ息を呑む。
そこに、一切の性的な感情が混じらないはずもない。
柔らかさと張りと、その存在感。
男としての本能が、そこにばかり集中しようとする。
——だが、違う。
自分の中で膨らみかけた熱に、レギュラスは静かに水を差す。
優先すべきものを間違えるつもりはなかった。
ここには、アルタイルの母がいる。
命を張って子を産み、その痛みの余韻をまだ身体のどこかに抱えている女が、眠りかけた目で自分を見上げている。
欲の行き先としての女ではなく、妻として、母として、そして何より一人の人間として。
彼女が今ここで、これ以上傷つかないように、恐れないように、過去の痛みを思い出さないように——そのことだけを軸にしたかった。
唇を重ねるときも、レギュラスは深追いしなかった。
角度を変え、圧を確かめ、呼吸の速さを測りながら、まるで様子を伺うように。
いつもなら、相手の反応を確かめてから一気に畳み掛けるところを、今夜はわざと崩さない。
アランのまつげが震え、細い吐息が混じる。
それでも「やめてほしい」とは言わない。
痛みを訴える気配もない。
レギュラスは、胸の奥に湧いてきた衝動の手綱を、何度も握り直した。
もっと深く口付ければ、この女はすぐにいつものように身体を熱で満たしてくれるだろう。
背に回された腕に力がこもれば、それだけで頭の中のざらつきは、甘美な快楽に上書きされていくに違いない。
その未来が、手を伸ばせば届く場所にあるとわかっていながら、あえてそこへ飛び込まない。
今夜だけは、そう決めていた。
抱き寄せる腕も、いつもよりわずかに緩くする。
体重を預けすぎれば、まだ完全には癒えていない部分に負担がかかる。
彼女の呼吸の深さを読み取りながら、その都度、触れ方を調整していく。
物足りない——と、どこかで思った。
自分らしくないと、苦笑したくなる瞬間もあった。
それでも、不思議と満たされていく。
この寝台に、再び二人で横になっているという事実。
初めて夜を共にしたあの日とも、婚礼直後の激しさとも、妊娠前の馴染んだ熱とも違う、静かな重み。
アルタイルの母を、自分の妻を。
「行為」と呼ぶにはあまりにも慎重な時間の中で、再び腕に抱いたという一点だけで、胸の内側は驚くほど満ちていった。
乱暴に奪い合った快感ではない。
支配の証として刻みつける快楽でもない。
ただ、再び繋がったという感覚。
昼間、ざらつきとなって残ったフロスト夫妻の姿が、少しずつ遠のいていく。
アランの指がシーツの皺を摘まんでいたところから、いつの間にかレギュラスの寝衣の袖口を掴む形に変わっているのに気づき、胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。
——これでいい。
もっと求められることも、もっと与えることもできる。
だが、今夜はここで止めることに意味がある。
アルタイルの父として。
ブラック家の夫として。
そして、この女の夫として。
彼女の息が少しずつ落ち着き、瞼が重くなっていくのを感じながら、レギュラスはゆっくりとその髪を撫でた。
喉元に軽く口づけを落とし、耳元で短く囁く。
「……ありがとうございます、アラン」
礼を言われるようなことではないだろう。
それでも、今夜この時間を共にしてくれたことが、彼にはどうしようもなく嬉しかった。
欲を吐き出すための夜ではない。
ざらついた心を、彼女の体温で静かに均していく夜。
やがてアランの呼吸が完全に眠りのリズムへと変わる頃には、レギュラスの胸の中にも、昼間抱いた苛立ちの棘はほとんど残っていなかった。
腕の中にいるのは、アルタイルの母であり、ブラック家の妻であり——
何より、自分がどうしようもなく手放せなくなった女だ。
物足りないはずの夜が、奇妙なほど心地よい満足感で満ちていくのを感じながら、レギュラスは静かに目を閉じた。
翌朝、寝室のカーテンは半分ほど開けられていて、まだ柔らかい朝の光が、寝台の上に淡く差し込んでいた。
天蓋のレース越しに揺れる光の粒が、白いシーツと、その上に座るアランの横顔を薄く縁取っている。
レギュラスは、寝台のすぐそばの椅子に腰を下ろし、両腕の中に小さなアルタイルを抱いていた。
ぐっすりと眠っているのか、赤子のまぶたはきっちりと閉じられ、時折もぞりと指を動かすだけだ。
「……本当に、大丈夫ですか?」
朝一番にかけられた言葉は、それだった。
一度聞いたきりではない。すでに三度目に近い。
アランは枕元に背を預け、胸元まで掛けられた布を指先で整えながら、視線だけをレギュラスに向ける。
「ええ、大丈夫ですわ。レギュラス」
「痛みは? 歩くときなど、まだ辛くはありませんか」
「少しは……ありますけれど、耐えられないほどではございません」
「昨夜、無理をさせてしまいましたか?」
その問いに、アランの指がぴたりと止まる。
首筋まで一気に熱が昇っていくのが自分でもわかった。
どうしてその話題を、今、アルタイルを抱きながら口にできるのか。
この男の羞恥心の所在は、未だによく分からない。
アランは思わず視線を逸らした。
寝台の上の皺のよったシーツや、自分の膝の上に載せた薄手のブランケットの端を、必要もないのに整え直す。
「……とくに、問題はございません」
できるだけ淡々と答えたつもりだったが、声の端に混じったわずかな震えは、自分の耳でもはっきりと聞き取れた。
レギュラスはと言えば、その震えを聞き逃すはずもなく、腕の中のアルタイルを少しあやしながら、穏やかに微笑んでいる。
「本当に? 遠慮しているだけでは」
「遠慮などでは……」
「ヒーラーは、産後の行為は慎重にと言っていましたからね。
僕のせいで、負担になっていないかと、どうしても気になりまして」
言いながら、アルタイルの頬を指先でそっと撫でる。
その仕草自体は、父親らしい優しさに満ちているのに、話題が話題なだけに、アランはどうにも落ち着かなかった。
こんなふうに。
自分の体調と、昨夜のことを、赤子を腕に抱きながら平然と口にされるなんて、想像したこともない。
「レギュラスこそ、眠れていらっしゃるのですか?」
話題を変えたい一心で、アランは問いを返した。
自分のことを問われるより、相手の様子を聞く方が、まだましだった。
「僕ですか? ええ、アルタイルは親孝行ですからね。よく眠ってくれています」
そう言いながらも、目の下にはほんのかすかな陰がある。
夜中に何度か乳母と共に起き出しているのは知っている。
アランが目を覚ましたとき、寝台の端で本を閉じる気配を感じたことも、一度や二度ではない。
「昨夜も……その、途中でお疲れになっていないかと」
言ってから、アランは言葉を選び間違えたと悟った。
ますます話題がそこに縛りつけられてしまう。
案の定、レギュラスは楽しげに目を細める。
「僕の心配は不要ですよ、アラン。
疲れたとしても、あなたと一緒にいる時間なら、いくらでも代償になります」
さらりと、劇の台詞のようなことを言ってのける。
アランは返す言葉に詰まり、息を吸うだけで終わってしまった。
羞恥と困惑と、どうしようもない照れが胸の奥で渦を巻く。
産後でなければ、こんな話など聞こえないふりをして部屋を出ていたかもしれない。
今は寝台から立ち上がることすら憚られるから、逃げ場はない。
「……レギュラスこそ、お身体を大事になさってくださいませ。
魔法省のお仕事もお忙しいでしょうし」
「ええ。ですから、そのためにも確認が必要なんです」
真顔で返されて、アランは瞬きを繰り返した。
「確認、とは?」
「あなたの体調が万全であること。
アルタイルの母が健やかでいてくれることは、僕の仕事にとってもなにより重要ですからね」
冗談めかした口調で終わらせながらも、その瞳の奥には、昨夜と同じ真剣さがわずかに宿っている。
ただからかっているわけではないのだと分かってしまうから、余計に困る。
「昨夜、痛みが増したり、眠れなくなったりはしていませんか?」
「……しておりません」
「なら、よかった」
その一言に、レギュラスは心からほっとしたように息を吐いた。
アルタイルを抱えたまま身を乗り出し、寝台の端に腰をかけると、空いている手でアランの髪をそっと撫でる。
あまりにも自然な仕草に、胸がきゅっと縮まる。
そこには、支配でも命令でもない、ただの「夫」としての重みしか感じられなかった。
「……そんなに、何度も気になさることではありませんわ」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも柔らかかった。
拒絶ではなく、戸惑いの混ざった控えめな抗議。
「気になりますよ。初めてですからね、僕も」
アランが顔を上げると、レギュラスはわずかに照れたような、それでもどこか誇らしげな表情を浮かべていた。
「アルタイルの父親としても、あなたの夫としても。
こういうことは、慣れるほど経験していいものとは思いませんし。
だからこそ、一つ一つ確かめたくなるんです」
正面からそんなことを言われてしまえば、反論などできるはずがなかった。
羞恥と困惑でどうしようもないのに、胸のどこかがじんわりと温かくなる。
それを悟られたくなくて、アランは視線を逃し、アルタイルの小さな手を見つめた。
赤子の指が、空気を掴むようにもぞりと動く。
それに合わせて、レギュラスの腕がほんの少しだけ揺れ、その動きがおおげさなくらい慎重に制御される。
「……本当に、大丈夫ですのに」
もう一度だけ、そう呟く。
それは、これ以上同じ問いを続けないでほしいという小さな願いと、何度でも気にかけてくる彼への照れ隠しが、入り混じった言葉だった。
レギュラスは、それ以上は追及しなかった。
ただ、「そうですか」と短く頷き、アランの前にアルタイルの額をそっと差し出す。
「では、安心のために。
アルタイルにも、母上の声を聞かせてやってください。今日は機嫌がいい」
強引なようで、逃げ道を残した優しさ。
アランは、胸の奥のわずかな苦笑いを押し隠しながら、赤子の額にそっと口づける。
「……おはようございます、アルタイル」
囁くような声が、静かな寝室に溶けていく。
レギュラスは満足げに目を細め、その様子を見つめながら、もう一度だけアランの体調を確かめたい衝動を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
どうしようもない羞恥と困惑のなかで——
それでも、こうして気遣われてしまう自分の立場を、アランは少しずつ受け入れていくしかなかった。
セシール家の屋敷に足を踏み入れた瞬間、鼻腔に覚えのある薬草と蒸気の匂いが満ちた。
幾度となく出入りしてきた場所だ。廊下の軋む位置も、窓から差し込む光の角度も、目を閉じていても思い描けるほどに馴染んでいるはずなのに——今日は、妙に胸の奥がざわついていた。
エドモンド・セシールと研究の進捗について言葉を交わし、頼まれていた書類の確認を終える。
応接室から廊下に出たところで、ふいに、微かな衣擦れの音がした。
振り向いた先に、彼女がいた。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
自分の口からその呼び名が滑り出るたび、どこか遠くから他人の声を聞いているような感覚になる。
けれど、礼節を欠くわけにはいかない。
それが今の、互いの立場だった。
アランは、静かに立ち止まり、微笑を添えて会釈をした。
「お久しゅうございます、フロスト殿」
その声の柔らかさに、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
以前より——美しい。
そう思ってしまったことを、自分で認めたくなくて、一瞬視線をさまよわせる。
だが、否定はできなかった。
レギュラス・ブラックの隣で磨き上げられた艶なのか。
母となったことで宿った、輪郭の柔らかさなのか。
どちらとも判然としない、幾重もの要素が折り重なって、目の前の女を別物にしていた。
黒髪は以前よりも長く、ゆるやかな波を描いて肩から背へと流れ落ちている。
頬の線にはわずかな丸みが加わり、その分、翡翠色の瞳の輝きがいっそう際立って見えた。
そして——何よりも変わったのは、身体のラインだった。
ほどよく絞られた腰から、女性らしく丸みを帯びた腰回りへと続く曲線。
薄布のドレス越しにさえ分かる、控えめでありながら確かに主張する凹凸。
胸元の膨らみは、かつて若い二人で手探りに抱き合っていた頃よりも明らかに豊かで、それが母となった証でもあるのだと理解しているくせに——視線がそこに吸い寄せられそうになる。
暴力的、とさえ思った。
美しさが、攻撃のように感じられることがあるのだと、初めて知った。
見てはならないと思うほど、目をそらせなくなる。
慌てて、ローランドは意識的に視線を上へと引き上げた。
喉の奥が、乾いて息苦しい。
「お父上から、研究の経過を伺っているところです」
なんとか平静を装って言葉を紡ぐ。
アランは、ほっとしたように、ほんの少し肩から力を抜いた。
「そうでしたのですね。いつも、父がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。……その」
一拍、言葉が途切れる。
余計な一言が喉元までこみ上げてきたが、必死に飲み込んだ。
——やはり、お綺麗になられました。などと、口にできるはずもない。
「……もうじき、完成しそうですね」
話題を、強引に研究へ戻す。
それがいちばん安全圏だと、身体が覚え込んでいた。
アランの瞳が、ふっと和らぐ。
「はい。ようやくです。――ようやく、形になりますね」
「ようやく」を二度繰り返した声音には、長い年月と、幾つもの試行錯誤が折り込まれていた。
フラスコを並べ、失敗作の蒸気にむせながら、二人で笑い合っていた日々が、否応なく蘇る。
何度温度を変えれば良いのか、どの分量で沈殿が起きるのか。
アランが真剣な顔でノートに書き込み、ローランドがその横で補助呪文をかける。
気に入らない結果が出れば、彼女はわずかに唇を尖らせ、すぐさま別の配合を試した。
その姿が好きだった。
頬に飛んだ薬液を拭いもせず、夢中で魔法陣に向き合っている横顔が。
「……フロスト殿のお力添えがあったからこそ、ここまで辿り着けましたわ」
アランの言葉に、ローランドは首を振る。
「光栄ですが、功績の大半はセシール卿と……ブラック夫人のお力です。
私は、ほんの一部をお手伝いしただけですよ」
どこまでも教科書通りのやり取り。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、そんな形式ばった言葉の裏側で、胸の奥はひどく騒いでいた。
——以前より、美しくなった。
それは、間違いなかった。
レギュラス・ブラックの妻として、ブラック家の一員として、磨かれた立ち居振る舞い。
母としての柔らかさが、彼女の輪郭を一回り大きく包み込んでいる。
それでも、とローランドは思う。
笑うときの瞳のかすかな揺れ方や、研究の話になると少し早口になる癖は、何一つ変わっていなかった。
「ご体調の方は……いかがですか」
問いかける声が、思ったよりも低く響いた。
アランが一瞬だけ眉尻を下げ、それから穏やかに微笑む。
「おかげさまで。もうだいぶ落ち着いております。――アルタイルも、よく眠る子ですから」
名前を口にするときの、甘い響き。
それを聞いた瞬間、胸の奥に、熱とも痛みともつかないものが広がった。
自分が夢に見ていたはずの情景だった。
彼女が、自分の隣で、 「いつか生まれてくる子どもの名前」を楽しげに語ってくれていた日々。
その夢の残骸が、静かに、しかし確実に疼きだす。
——今、その未来は別の男と共有されている。
視線を落とせば、再び胸元の曲線が視界に入ってしまうと分かっていて、ローランドは必死にアランの瞳だけを見るよう努めた。
翡翠色のその瞳は、どこか遠くを映しながらも、きちんとこちらと向き合ってくれている。
そこに、自分の姿が映っているのだと思うだけで、息が詰まりそうだった。
「……完成の暁には、ぜひ、またご協力を仰ぐことになるかもしれません」
アランの言葉に、ローランドはわずかに笑みを返した。
「そのときは、喜んで。
セシール卿の研究は、魔法界にとって大きな礎になりますから」
形式ばった返事。
しかし、その中に込めた敬意は、決して偽りではない。
彼女と、その父と、自分が共に積み重ねてきた時間が、ようやく「形」になるのだ。
たとえ今、彼女が自分のものではなくなってしまったとしても——その成果だけは、偽ることなく誇れると感じていた。
「それでは、私はこれで失礼いたします。お身体、ご自愛ください、ブラック夫人」
深く頭を下げる。
「アラン様」と呼びかけたい衝動を、喉の奥で押し潰しながら。
背を向けて廊下を歩き出したあとも、背中に彼女の存在感がまとわりついて離れなかった。
振り返れば、きっとまだそこに立っているのだろうと分かっているのに、それだけはしてはならないと思った。
だから、歩みを止めずに進む。
薬草の匂いと、古い木材の軋む音に紛れて、さっき見たばかりの曲線と、翡翠の瞳の残像だけが、いつまでも胸の奥に焼きついていた。
