2章
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魔法省の高層階、役員室の一角は、いつになく紙の気配に満ちていた。
重厚な木製の机の上には、魔法で開閉を繰り返す祝辞付きカードが山のように積まれている。
煌びやかな金の箔押しで「ご出産おめでとうございます」「ご嫡男ご誕生を祝して」などとしたためられた文字が、ぱちぱちと光りながら浮かんでは消え、祝福の音楽を流したかと思えば、ひとりでに封を閉じて静まり返る。
「……本当に、幸運の塊のような男ですね、レギュラス」
隣の机から、バーテミウスが一枚のカードを摘まみ上げてひらひらと振ってみせた。
端整な顔にいつもの冷静な笑みを浮かべたまま、その声にはどこか呆れた色が混じっている。
レギュラスは、祝辞の山の向こうから視線を上げ、肩を竦めてみせた。
「ええ、本当に。神が降りてきたようです」
「自分で言いますか、それを」
「事実ですからね」
軽口を返しながらも、彼の瞼はかすかに重たげだった。
書類に目を落とせば、細い文字列が一瞬だけ滲み、焦点が合うまでにわずかな間が空く。
夜中、何度か起こされる。
寝室の片隅で赤子が小さな声を上げるたびに、アランが浅い眠りから引きずり出される。
その気配に、自分も半ば条件反射のように目を開け、揺りかごのほうへ足を運ぶのが習慣になっていた。
眠気は、確かにある。
書類をめくる手が止まった瞬間、不意に意識がふっと暗くなるような感覚が襲ってくる。
だが、そのたびに——
白い寝台に横たわるアランの横顔と、布に包まれて眠る小さな息子の姿が、鮮明に脳裏に浮かんだ。
産後数日の疲れを残しながら、それでも自分の腕の中で微笑もうとする翡翠の瞳。
その傍らで、細い指を握り返してくる小さな手。
思い出しただけで、口の端が緩みそうになる。
「……眠いのか、笑うのか。どちらかにしてください」
書類に視線を落としたまま、バーテミウスが淡々と言った。
「非常に不気味です、今の顔」
「失礼ですね」
レギュラスは吹き出し、額に指先をあてて、ぐっと目元を押さえた。
「夜中に何度か起きるのは、さすがに堪えます。ですが——」
「はいはい、また ‘ですが’ が始まりました」
バーテミウスは手元の羽根ペンをくるりと回しながら、わざとらしくため息をつく。
「どうせ ‘ アランの寝顔を見ればすべて帳消し’ とか ‘息子の泣き声が可愛くて仕方ない’ とか、そのあたりでしょう?」
「……いいえ」
レギュラスは真顔に戻り、わざと重々しく言った。
「もっと最低なことを考えていました」
「ほう?」
「あなたが言った ‘不気味’ という評価は、案外正しいなと」
「自己認識があるのはいいことです」
軽口を交わしながら、バーテミウスは机上のカードの束をひとつまとめて魔法で封じた。
山ほど届いた祝福のうち、直接返事を書く必要のあるものと、形式的な礼状で済むものとを仕分けていたのだ。
「しかし、寝室に赤子を置いておくとは。物好きですね、レギュラス」
ふと、バーテミウスの声色が少し砕ける。
「乳母に丸投げして自分は別の部屋へ、というほうが、よほど貴族らしいと思いますが」
「乳母には手伝ってもらっていますよ」
レギュラスは、椅子の背にもたれながら答えた。
「ですが、できる限り自分の部屋に置きたいですからね」
「よくやりますよ、本当に」
バーテミウスは、ペンを持たないほうの手をひらひらと振った。
「夜中はどうです? 泣き声で起こされるたびに、レギュラス様のお美しいお顔に新しい隈が刻まれていくのでは」
「そこまで多くはないですよ」
レギュラスは、わずかに誇らしげに笑う。
「しっかり寝るんです、あの子。親孝行な子です」
「ほう。優秀ですね」
バーテミウスは軽く目を見開く。
「それなら——乳腺炎にはご注意を」
「……今、なんと?」
あまりに唐突な単語に、レギュラスは思わず聞き返した。
「乳腺炎です」
バーテミウスはごく真面目な顔のまま、さらりと言う。
「夜中の授乳がなくなってくる頃に、急激にやってきましてね。うちの妻は高熱で見事にダウンしました。ほどほどに搾乳しておいたほうが無難ですよ」
意味の分からない助言が、淀みなく流れる。
レギュラスは一瞬ぽかんとし、それからゆっくりと瞬きをした。
「……搾乳、とは」
「そのままの意味です」
バーテミウスは淡々と答えた。
「赤子が飲む量より多く作られてしまうと、行き場をなくして詰まるんですよ。……ぱっつぱつに腫れ上がりましてね。触ると熱いわ痛いわで、見ているだけで気の毒になります」
レギュラスは、額に指をあてた。
「……詰まるんです?」
「詰まりますとも。見事に」
バーテミウスは書類から視線を上げ、自分の胸元あたりを軽く指で示してみせる。
「こう……なんといいますか、張り詰めた革袋のように。 ‘これ以上入る余地があるのか’ というくらい、ぱんぱんに」
「やめてください、具体的な比喩は不要です」
レギュラスは、心底からという風に顔をしかめた。
頭の中に、アランの白い寝巻きの胸元が、一瞬で鮮やかに思い浮かんでしまう。
産前から増していた豊かな曲線が、授乳の始まった今ではさらに存在感を増していることを、彼は知っていた。
柔らかいと思っていたものが、ぱつぱつに張り詰める——
人体の構造として理解不能だ、と先日の出産でも散々思い知らされたばかりなのに、まだ知らない領域があるのかと、内心戦慄する。
「……やたらと、でかくなりましたね」
ぽつりと漏らした一言に、バーテミウスの眉が面白そうに動いた。
「何がとは伺いませんが、まあ、そうでしょうね」
わざと話を合わせるように頷きながら、彼はにやりと口元を歪める。
「あれはそのうち、しぼみますよ」
「……そう、でしょうね」
レギュラスは、どこか名残惜しそう——というには自覚的すぎる、複雑な表情で言葉を続ける。
「元の大きさを考えると、構造上、いつまでもあのままというわけにはいかないのでしょう」
「ええ。ですから、今のうちに堪能されておくのが賢明かと」
「本当にあなたは、それしか考えないんですね」
呆れたように言いながらも、レギュラスの声には笑いが混じっていた。
「実体験に基づく忠告ですよ」
バーテミウスは肩を竦める。
「出産前から ‘妻の体調には気を配りましょう’ などと書かれた冊子は山ほど配られますがね。実際のところ一番役に立つのは、こういうどうでも良さそうな情報です」
「どうでもいいと言い切るところが、あなたらしい」
「おかげで、レギュラスは奥方に ‘無知で無神経な夫’ と思われずに済むかもしれない。感謝してほしいくらいですね」
「そうですか?」
レギュラスは、ふと視線を落とした。
「乳腺炎……でしたか。具体的な仕組みはともかく、そういう痛みがあるなら、ヒーラーに相談しておきましょう。アランには、これ以上余計な苦痛を味わわせたくありません」
その一言に、バーテミウスは一瞬だけ目を細めた。
冗談を言い合いながらも、この男は結局いつもそこへ戻っていく——
妻の痛みを、自分の采配不足のように受け止める、不器用な男だ。
「そういうところが、 ‘幸運の塊’ と呼ばれる所以かもしれませんね」
「なんです?」
「いえ。ただの感想です」
バーテミウスは軽く笑い、また視線を手元の書類へと戻した。
「ともあれ、レギュラス。奥方の胸がしぼむ頃には、きっと今とは別の悩みが出てきますよ」
「別の?」
「ええ。子供が歩き出し、走り出し、喋り出し——あなたの安眠を根本から奪っていくことでしょう」
レギュラスは、想像して、そしてやはり笑った。
「それもまた、神の悪戯というやつですかね」
「さあ。あなたの言う ‘神’ が、本当にあなたに味方しているのかどうかは、今後のお楽しみで」
役員室の窓の外には、魔法省の塔群と、その向こうに広がる冬の空が広がっている。
机の上では、ひとりでに開いた祝福のカードが、また一枚、金の火花を散らして閉じた。
レギュラスは、その光を横目で見ながら、手元の書類に視線を戻す。
眠気と、微笑と、ささやかな不安が、同じ場所で共存している。
それでも今のところ、ほんの少しだけ——微笑が優勢だった。
赤子は、オリオンによってアルタイル・ブラックと名付けられた。
ブラック家の男児にふさわしく、天に瞬く一等星の名だった。
その夜、寝台には、いつもより静かな時間が流れていた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、薄く白い線になって床をなぞり、部屋の隅では木製の揺り籠が小さくきしむ。そこからは、ときおり微かな寝息とも鼻を鳴らすような音ともつかない、アルタイルの気配が聞こえていた。
レギュラスは、アランの背後に横たわり、彼女を後ろから抱き込むように腕を回していた。
産後しばらくは、彼女の体に触れることさえためらう瞬間が多かったが、今はようやく、呼吸の速さや肩の強張りを確かめながら寄り添える程度には、互いの距離が落ち着きつつある。
腕の中で、アランの身体は、妊娠前とは明らかに違う輪郭を描いている。
細い肩と肋骨の線は変わらないのに、胸元だけが不自然なほど豊かに、重たげに膨らんでいた。
レギュラスは、そっと手を滑らせ、その膨らみに指先を添えた。
慎重に、重さと弾力だけを確かめるように。
「……痛いです?」
耳元で低く問えば、アランの肩がびくりと震えた。
「……なぜです?」
半ば振り返りかけて、けれど恥ずかしさに耐えるように再び顔を枕に伏せ、アランは小さく問い返す。
いきなり何を、と言いたいのだろう。戸惑いの色が、声の端にあらわだった。
レギュラスは、苦笑をひとつ飲み込んでから答えた。
「バーテミウスから聞きました。この胸が……ぱつぱつに張って、痛みを訴えることがある、と」
「ぱつぱつ」という妙に生々しい表現を、自分の口から出さなければならないことに、内心で少しだけ抵抗を覚える。
だが、あの男が得意げに伝授してきた知識を、多少なりとも還元しておくべきなのだろう、と理屈で納得させていた。
「……怖がらせるのはやめてください、レギュラス」
アランは枕に額を押し付けたまま、くぐもった声で言った。
耳まで赤くなっているのが、暗がりのなかでもわかるほどだ。
「本当のことですよ。あの男は、一応一児の父親ですからね」
レギュラスは苦笑混じりに続ける。
「あんな男ですが、知識面においては僕よりよほど豊富です。……すべてが役に立つとは言い難いですが」
バーテミウスが身振り手振りを交えて語った「ぱんぱんに張り上がる」「触ると熱い」などの表現が、妙に鮮やかに脳裏に蘇る。
あのときは半ば呆れながら聞き流していたが、こうして実際にアランの胸元に手を添えてみると、先日の言葉のひとつひとつが現実味を帯びて迫ってきた。
指先の下で、布越しに伝わる温度は、他のどの場所よりも高い。
軽く押しただけで、張り詰めた弾力がはっきりと返ってきた。
「……今は、どうです?」
少しだけ手に力を込めてみせてから、レギュラスは問いを重ねた。
「痛い、ですか。それとも、重いだけです?」
アランは、短く息を呑んだ。
逃げるように腕を組み、胸元を覆い隠そうとするが、すでにレギュラスの腕の輪の中にいる以上、その動きはささやかな抵抗にしかならない。
「……重たい、だけです。少し」
観念したように、小さく答える。
「そうですか」
レギュラスは、その返事にわずかに安堵をにじませた。
「痛みが出たときは、すぐに言ってください。ヒーラーを呼びますし……できることがあるなら、何でもします」
「何でも、などと。軽く言われましても」
アランが皮肉を含ませれば、背後でレギュラスの喉が小さく鳴った。
「では、訂正しましょう。僕にできる範囲で、ですね」
そう言って、彼はそっと手のひらを広げ、張り詰めた膨らみを支えるように下から支えた。
無遠慮な触れ方ではない。重さを少しでも和らげてやるつもりの、支柱のような感触だった。
「……レギュラス」
名前を呼ぶ声には、警戒と戸惑いと、少しの情けなさが混じっていた。
自分の身体がこれほど露骨に「母親」の形に変わり、その変化をこの男に知られている、という事実が、アランの羞恥心をじくじくと刺激する。
「本当に、怖がらせるつもりはありません」
レギュラスは、彼女の耳元に顔を寄せる。
息が髪をかすめ、乳児の甘い匂いがわずかに混ざったアランの匂いがふっと鼻をくすぐった。
「あなたの体が、また別の理由で苦しむ可能性があるなら、知っておきたいだけです。……出産の時も、知らなかったからこそ、何度も無駄に怯えましたからね」
平坦な声色に潜む悔いの色を、アランは敏感に感じ取った。
あの壮絶な数時間。
桶に落ちていく血の音、汗に濡れた額を何度も拭うレギュラスの手、何をしても変えられない痛みの波——その全部を、彼は真正面から見ていた。
布団の中、背後からの腕の力が、少しだけ強くなる。
「アルタイルも、あなたも。どちらも、きちんと守っていきたいんです」
簡潔な言葉のなかに、彼なりの不器用な誓いのようなものが滲んでいた。
アランは、枕に押し付けていた額をほんの少しだけ浮かせる。
視線を後ろに向けることはできなかったが、その代わりに、自分の手をそっとレギュラスの手の上に重ねた。
「……大袈裟なのは、バーテミウス様だけで、あってほしいですね」
かすかに笑みを混ぜてつぶやく。
「ええ。本当に、あの男だけであってほしい」
レギュラスも同じように笑った。
「もし彼の言葉どおり ‘むせ返るような痛み’ などというものが訪れたら、そのときは——」
「そのときは?」
「迷わず彼を呼び出して、代わりに叩き起こしましょう。夜中に。経験者として」
「……それは少し、魅力的ですね」
アランの肩が、くすりと震えた。
小さな笑いが漏れる。それは、この数日の疲れと不安に覆われた表情の隙間から、ようやく見えた微かな光だった。
レギュラスは、彼女の笑いを胸元で受け止めながら、そっと手を引いた。
支えていた掌を外し、代わりに、肋骨の上あたりに落ち着かせる。あまり長く触れていれば、彼女の羞恥はまた強張りに変わるだろうと分かっていたからだ。
「痛くなったら、必ず言ってください。黙って我慢するのは、もうやめましょう」
「……努力します」
「努力ではなく、約束で」
わずかに強引な言い方に、アランは小さく息を吐いた。
「分かりました。……約束します、レギュラス」
そう答えたあと、彼女は背中を預ける重みをほんの少しだけ増した。
布団越しの体温が密着し、揺り籠のほうから、アルタイルの寝息がまたひとつ聞こえてくる。
天体の名を与えられた小さな命と、その命を産んだ妻と。
自分の腕の中にある温度を確かめながら、レギュラスは静かに瞼を閉じた。
バーテミウスの大袈裟な比喩も、人体構造への理解不能な驚きも、今はどうでもよかった。
この腕の中の熱と膨らみが、彼にとっての現実であり、守るべきものの重さそのものだった。
礼拝堂代わりに設えられた広間は、淡い金と白を基調とした装飾で埋め尽くされていた。
天井近くには、魔法で浮かぶ幾筋ものリースがゆっくりと回転し、白百合と淡いブルーの小花が、花粉ひとつ落とさぬまま光を受けてきらめいている。
通路の両脇には客席が並び、既に式を終えたばかりの花婿花嫁を、列席者たちが思い思いに囲んでいた。
ローランド・フロストの隣には、純白のドレスに包まれたクラリッサ・ブラックバーンが立っていた。
胸元から腰まで細やかな刺繍が施されたそのドレスは、先日アランがヴァルブルガと共に選んだものだ。
まだ幼さの残る頬を薔薇色に染め、クラリッサは腕に抱えたブーケを揺らしながら、ひとりひとりに溢れるような笑顔を向けている。
そこへ、黒の礼装に身を包んだレギュラス・ブラックが歩みを進めてきた。
その腕に軽く手を添えているのは、アラン・ブラック。
産後、まだそう長い時は経っていないはずなのに——そうは思えないほど、彼女の姿は整っていた。
選んだドレスは、花嫁のそれに比べるとよほど控えめだった。
深い濃紺のローブドレスに、襟元と袖口だけが繊細なレースで縁取られている。装飾らしい装飾といえば、左手首に巻かれた細い銀のブレスレットと、翡翠をあしらったペンダントくらいのものだ。
しかし、そのすべてを纏ったアランは、ドレスの簡素さとは裏腹に、視線をさらっていく。
腰まで落ちる黒髪はゆるやかに巻かれ、首筋のラインを美しく見せるように片側へ流してある。
出産でわずかに丸みを帯びたはずの身体は、上質なコルセットと仕立ての良い生地に包まれて、むしろ以前よりも柔らかな女らしさを強調していた。
翡翠の瞳だけが、どこか静かな水面のように、深く沈んでいる。
客席の一角から、誰かが小さく息を呑む気配がした。
花嫁を讃えるべき場で、自然と新婦ではなく黒髪の客人へと注がれてしまう視線。
それを、レギュラスは腕越しに確かに感じ取っていた。
「フロスト殿、クラリッサ嬢。ご成婚、おめでとうございます」
レギュラスが歩み寄りながら声をかける。
アランもそれに合わせて、ドレスの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「おめでとうございます、フロスト様。クラリッサ様」
クラリッサが先に顔を輝かせた。
「ブラック様、ブラック夫人……! 本日はお越しいただきありがとうございますわ!」
ふわりとスカートの裾を揺らし、クラリッサは弾む声で言う。
その隣で、ローランドはきちんと背筋を伸ばして二人に向き直った。
「ブラック様、遠いところお越しいただき痛み入ります。……そして、何より」
ローランドの青い瞳が、一瞬アランの腹部へと落ち、それから顔へ戻る。
その視線のわずかな揺れを、アランは敏感に感じ取った。
「ご嫡男ご誕生、心よりお祝い申し上げます、ブラック夫人」
こちらからの定型の挨拶を述べるより先に、祝福の言葉が重ねられた。
ローランドの声音は、いつものように落ち着いている。礼を失さない距離と、過剰にならない温度。
それなのに、その「夫人」という響きが、アランの胸に鋭く刺さった。
「……ありがとうございます、フロスト殿」
アランは微笑んだ。
完璧に整えられた社交の笑み。
けれど、翡翠の瞳の奥では、何かがぎゅっと縮こまる。
純白のドレスに包まれたクラリッサが、嬉しそうに続く。
「とても可愛らしい坊やだと伺いましたわ。アルタイル様、でしたかしら? 天体のお名前なんて、さすがブラック家ですわね」
「オリオンが、名付けました」
レギュラスが穏やかに答える。
「星々の名は、我が家の誇りですからね」
「素敵ですわ……いつかお目にかかれますこと、楽しみにしております」
クラリッサは心からの笑みを浮かべて、アランの手を軽く包んだ。
その指先は華奢で、子供っぽさの残る温度があった。
「ご体調はいかがですの? 産後は大変だと聞きますわ。……ですが、ブラック夫人、とてもそんなふうには見えません」
「恐れ入ります。おかげさまで、だいぶ落ち着いてまいりました」
アランは、受け取った手をそっと握り返す。
その瞬間、クラリッサの薬指に輝く指輪が目に入った。
滑らかな金と、小さくとも強く光を放つ宝石。それは、ローランド・フロストの妻である証だ。
胸の奥で、きゅう、と何かが軋んだ。
純白のドレスは、本来、女にとって一度きりの衣装だと言われる。
誰かの妻という立場になる、そのたった一度の瞬間に着るべきもの。
その隣に立つのは、本当なら誰であって欲しかったのか——
アランは、知っている。
浮かべた笑みを崩さないまま、その答えを心の一番深いところに押し込めた。
ローランドの頬に、僅かな朱が差しているのが見えた。
アランを真正面から見ようとしない。視線は少しずつ逸れ、彼女の肩口あたりで止まる。
「ご無理はなさらないでください、ブラック夫人。……本日は、お足をお運びいただけただけで十分です」
丁寧な言葉の一つひとつに、長年の誠実さが滲んでいた。
けれどそこには、かつて交わし合った、柔らかな親しさはない。
線引きされた距離だけが、はっきりとそこにある。
「お二人とも、本当にお似合いですよ」
アランはそう告げた。
喉の奥まで込み上げた別の言葉を、綺麗に飲み込んで。
——私が隣で、その色を纏いたかった。
そう叫ぶ代わりに、完璧な祝辞を選ぶしかなかった。
レギュラスは、アランの腕に添えた手に、ほんの僅かに力を込めた。
それは、外から見れば単なる夫としてのさりげない触れ方にしか見えない。
だが、アランにとっては、逃げ道を塞がれた感覚と、支えられた感覚が同時に押し寄せる、複雑な圧力だった。
「フロスト殿、クラリッサ嬢」
レギュラスが、穏やかな声で口を開く。
「改めて、本日はおめでとうございます。……ブラック家としても、親族としてこの日を迎えられたことを嬉しく思っています」
「身に余るお言葉でございます、ブラック様」
ローランドは深く頭を下げた。
クラリッサもそれに倣い、小さく礼をする。
周囲からは途切れなく祝福の声が聞こえてくる。
楽団の奏でる柔らかな弦の音、シャンパングラスの触れ合う澄んだ音、笑い声とささやき声。
そのすべての中で、アランは一瞬だけ、時間から置き去りにされたような感覚に陥った。
——もし、あのとき。
自分の手が取った先が、この人の腕だったなら。
同じ純白を纏っていたのは、自分だったのなら。
招待客としてではなく、花嫁として、ここに立っていたのなら——。
翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ、ローランドの青い瞳と重なった。
互いにすぐに逸らす。
挨拶の場にふさわしい、礼節に満ちた距離を保つために。
「アラン」
耳元で、レギュラスが低く名を呼んだ。
それだけで、現実の床が足元に戻ってくる。
「そろそろ、他のお席にもご挨拶に伺いましょう」
「……はい、レギュラス」
アランはもう一度、花婿花嫁に向き直り、丁寧に礼をした。
「本日は、本当におめでとうございます。どうか、お二人で幸せな家庭を築かれますように」
「ありがとうございます、ブラック夫人」
「ありがとうございますわ」
ローランドとクラリッサの声が重なる。
その響きを背中に受けながら、アランはレギュラスの腕に再び自分の指を絡めた。
指先に、彼の体温が絡みつく。
自分の人生は、もうこの男と、その名を継ぐ子供の方へと深く縛り付けられている。
頭では理解している。
それでも、純白のドレスと指輪と「妻」という呼び名が、胸の奥で別の痛みを呼び起こしていた。
羨望は、消えない。
ローランドの隣で、その白を纏うことを夢見ていた少女の心は、どこかにまだ残っている。
その残滓を抱えたまま、アランは、完璧な「ブラック夫人」として、祝宴の中へと歩みを戻っていった。
久しぶりに、この種類のざわめきを自分の内側に感じていた。
レギュラスは、披露宴会場の一角でグラスを指先に転がしながら、横に立つアランへと集まる視線を眺めていた。
白と薄い金を基調とした会場は、そもそも今日の主役である新郎新婦のために整えられた空間のはずだった。
だが、現実には、花嫁の純白と同じくらいの頻度で、黒髪の客人—— アラン・ブラックへ視線が吸い寄せられている。
濃紺のドレスは、花嫁と競うことのないよう慎ましく選ばれたはずだった。
それでも、光を受けてささやかに艶めく布地と、そこからのぞく細い首筋と肩の線、揺れる黒髪と翡翠の瞳——その一つひとつが、意図もなく視線の矛先をさらっていく。
会場の隅から、ひそやかなささやきが聞こえた。
「……あれがブラック夫人?」「産後だなんて信じられないわ」
その手の声は、もう数え切れないほど耳にしてきた種類のものだ。
若い頃から「ブラック家の御曹司」として社交界に放り込まれ、女たちの興味と憧憬の視線を浴びることは、レギュラスにとって日常に近かった。
けれど今、その矢面に立っているのは自分ではない。
自分の「妻」だ。
その事実が、胸の奥をくすぐるような満足感を運んでくる。
アランの指が、礼儀正しく自分の腕に添えられている。
その軽い重みを感じるたびに、レギュラスは目に見えない印章を見せつけているような心地になった。
どれほどの視線がアランを舐めるように眺めようと、肩書きも、名も、指に残る感触も——そのすべては「ブラック夫人」である証として、自分のものに繋がっている。
久しく忘れていた種類の優越感だった。
アルタイルの誕生と、寝不足を抱えながらの子育ての日々のなかで、彼の意識は自然と「守るべきもの」へと向けられていた。
妻を盾にして誇示するのではなく、寝台の上で苦しむ彼女の額から汗を拭き、赤子の泣き声に目をこすりながら起き上がり、体調や魔力の戻り具合を気にかける——そういう、地に足のついた感情ばかりを傍らに置いていた。
ところが今、煌びやかな会場の真ん中で、アランが誰かの視線の的になっている様を目にした瞬間、その感情は別の形に変わる。
彼女に注がれる羨望と嫉妬と、計りかねた観察の眼差し。それをひとまとめにして、胸の奥にぐっと引き寄せるような感覚。
——やはり、悪くない。
自嘲気味に唇の端を上げたところで、とある瞬間が視界に飛び込んだ。
アランの視線が、ほんの一瞬だけ、会場の向こう側に向けられる。
視線の先には、クラリッサに寄り添うローランド・フロストの姿があった。
柔らかな青の瞳が、あの男の横顔を追っていた。
時間にして数秒もない。その程度のはずだったが、レギュラスには、妙に長く見えた。
その直後、ローランドもまた、こちらへ視線を向ける。
目が合ったのかどうか、外からでは判断しづらいほどの、わずかな揺れ。
だが、レギュラスの目はごまかせなかった。アランの横顔の硬さの変化も、ローランドの瞳に一瞬差した痛みのような影も、確かにそこにあった。
胸の奥に、どくりと重たいものが落ちた。
それは、あまりにも久しぶりに感じる感情だった。
名前をつけるなら、嫉妬だろう。
ただの所有欲とも違う、黒い棘を含んだ感情。
アルタイルが生まれてからというもの、レギュラスの世界は大きく形を変えていた。
妻の腹が張ったと怯え、産声を上げるまではらはらと見守り、夜中の小さな寝息に安堵して眠る——そんな日々のなかで、かつて周囲の男たちに向けていたような嫉妬や警戒心は、自然と影を薄くしていた。
フロスト家との縁談を取り決めた時も、たしかに愉快さはあったが、それは計画の一部として組み込んだ冷静な満足であって、今感じているような、生々しい苛立ちとは違う。
その苛立ちが、すべてローランド・フロストの視線から来ているのだと自覚するまでに、そう時間はかからなかった。
——まだ、そういう目で見るんですね。
心の中で淡々とつぶやきながら、レギュラスはグラスを唇に運んだ。
泡立つ酒が舌に弾ける感覚を、意識してゆっくり味わう。
アランが向ける視線も、ローランドが返す視線も。
それらは礼節という薄い膜で覆われているが、その膜一枚の下には、かつてのぬくもりが、まだ完全には消えていないのだと雄弁に物語っていた。
それを、苛立ちとして受け取る自分自身に、レギュラスは少し驚いていた。
——処理の仕方を、忘れましたね。
昔なら、もっと簡単だった。
気に入らない男がいれば社交界の場でさりげなく立場を削り、女が他所に心を寄せているなら、より徹底的に自分へ依存させるよう仕向ける。
そうやって「調整」してきた。
勝敗を数字で計れる取引のように、人の感情も、自分の思う形へねじ曲げることができると、どこかで信じていた。
けれど今、アルタイルという名の小さな星を抱えた生活に慣れたせいか、その感情はどこか鈍っている。
嫉妬をどう処理していたのか、その感覚が久しぶりすぎて手元から滑り落ちそうなのだ。
腕に添えられたアランの指先が、ふっと力を弱めた。
何かに耐えるときの、あのわずかな緊張。
「アラン」
レギュラスは、低めの声で名を呼んだ。
彼女が振り向く前に、もう一度グラスを傾け、唇の端に僅かな笑みを貼り付ける。
「少し、疲れましたか?」
「……いいえ、大丈夫です。レギュラス」
翡翠の瞳は、いつも通りの、穏やかな淀みをたたえていた。
しかし、その底に沈んでいるものが何かは、彼にはわかる。
羨望。
後悔。
そして、自分自身への怒り。
それらが渦を巻いていることを、レギュラスは知っていた。
だからこそ、ローランドに向けられた視線の熱が鬱陶しくもあり、同時に「そこまで深く共有してきたものがあるのか」と胸の奥で知らされるような、負けに似た感覚もあった。
——それでも。
視線をローランドに戻す。
クラリッサが、無邪気に彼の袖を引き、何かをねだっている。
ローランドはそのたびに、少し困ったような、それでも優しい笑みを浮かべて応じている。
あの男の胸の片隅にも、まだアランがいるのだろう。
それは容易に想像できた。
だが、現実は変わらない。
ローランドの腕を取るのはクラリッサであり、アランの腕を取るのは自分だ。
アルタイルの父親も、自分だ。
嫉妬と優越感が、互いの輪郭を溶かしあいながら混ざり合っていく。
ひどく扱いづらい感情だった。
だが同時に、「まだこんなにも、この女を手放したくないと思っているのか」と、己の執着の温度を再確認させられる瞬間でもあった。
「……レギュラス?」
アランが呼びかける声に、レギュラスは意識を戻した。
ひとつ息を吐き、滑らかに微笑む。
「少し、空気が熱いですね。ワインのせいかもしれません」
冗談めかして肩をすくめてみせながら、腕に添えられたアランの手を、ほんのわずかに握り込む。
それは、第三者から見れば愛情深い夫のささやかな仕草だろう。
しかし、レギュラスにとっては、「ここにいる」という印を自分自身に刻み直す行為でもあった。
この美しい妻は、今、確かに自分の隣に立っている。
ローランドの視線がどうあれ、アランの心の奥にどれほど過去が残っていようと。
現実は、何度でも同じ一点へと収束する。
——だからといって、あの男の目の熱を、許せるかどうかは別問題だが。
胸の内側で、さらりと毒を吐いて、レギュラスはまたグラスを傾けた。
泡のはじける音が、嫉妬と優越感の境界線を曖昧にしながら、喉の奥へと落ちていく。
久しく抱いていなかった感情たちが、再び目を覚ました。
扱い方を忘れかけていたそれを、これからどう調整していくのか——レギュラス自身もまだ知らない。
ただ一つ確かなのは、その矛先の中心に、いつだって変わらずアランがいる、ということだけだった。
楽団の音が、少しだけ遠くなっていた。
披露宴会場の隅——壁際に並べられた観葉植物の影で、アランとローランドは、ほんのわずかな空白を挟んで立っていた。
中央では、クラリッサが友人たちに囲まれて笑っている。
白いドレスの裾が揺れ、その度に歓声と笑い声が上がる。
レギュラス・ブラックの姿は今は見えない。別の来賓に捕まり、談笑しているのだろう。
そんな喧騒から一歩だけ外れた場所で、アランは正面からローランドを見上げた。
翡翠の瞳に、灯り取りの魔法灯が柔らかく映り込んでいる。
「おめでとうございます、フロスト殿」
改めて告げられた祝福の言葉は、完璧に整えられた礼節の響きだった。
声も、微笑みも、どこにも乱れはない。
それなのに、ローランドの胸はひどく痛んだ。
「……恐れ入ります、ブラック夫人」
形式通りの言葉で返しながら、喉の奥がきゅうと締め付けられる。
口にするたび、彼女の変わってしまった呼び名が、自分と彼女のあいだに引かれた線をなぞってくる。
産後、まだそう長くは経っていないはずだ。
それでも目の前のアランは、信じられないほど「仕上がって」いた。
深い濃紺のドレスに包まれた身体は、以前よりも少しだけ柔らかな線を帯びている。
けれど、その変化すらも彼女に新たな艶を与えていて、翡翠の瞳は、あの頃と同じ色で。
黒髪は品よくまとめられ、首筋には淡い光を放つ翡翠のペンダント——ブラック家の妻としての上質が、細部にまで行き渡っていた。
産後こんな短い期間で、ここまで整えられるものなのだろうかと考えると、胸が苦しくなる。
どれだけの疲労を押し込め、どれだけの気持ちを飲み込んで、こうして「ブラック夫人」として立っているのか——想像してしまうからだ。
「お身体は……本当に大丈夫なのですか?」
それでも口にできるのは、在り来たりな言葉だけだった。
「ご心配をありがとうございます。まだ本調子とはいえませんが……少しずつ、慣れてきました」
アランは、静かに微笑む。
その笑みは、かつて自分だけに向けられていた、柔らかなものとよく似ている気がした。
けれど今、それは誰が見ていてもおかしくない「夫人」の微笑みとして、完璧に整っている。
——産後こんなに早く動かされて。
——それでも、レギュラス・ブラックの隣で完璧な美しさを誇って。
そう心の中で並べた言葉が、喉の奥に詰まる。
彼女の身体を本当は一番知っているはずの自分が、今は何ひとつ触れることも、支えることもできない。
「アルタイル様は、よくお眠りになりますか」
話題を探すように、ローランドは問いかけた。
本当は、こんなことを聞きたいのではないと分かっていながら。
「ええ……レギュラスが“親孝行な子だ”と仰るくらいには」
アランはひと呼吸置いてから、少しだけ目元を和らげる。
その一瞬の緩みだけが、彼女が本当に心を寄せている場所を示しているようで、胸が締め付けられた。
——屋敷で、赤子をあやしているのだろう。
穏やかな揺り椅子の上で、薄い毛布に包まれた子を抱き、眠たげに瞬く翡翠の瞳で笑っている。
腕のなかで小さな体温を感じながら、低く囁きかける姿が目に浮かぶ。
まだ青く幼かった自分たちの「いつか」の話——
ともに考えた名の候補や、どちらに似てほしいかを語り合った、穏やかな時間の記憶が胸を刺す。
そこに自分は、もういない。
「……本当に、おめでとうございます」
さきほどと同じ言葉が、再び口をついて出る。
アランは少し驚いたように瞬きをしてから、そのまま静かに頷いた。
「ありがとうございます、フロスト殿。……そして、改めて。ご結婚、おめでとうございます」
「恐れ入ります」
礼儀正しい言葉のやり取りが、ひどく味気なく感じられる。
けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。
――会いたかった。
そんな言葉は、決して口にはできない。
彼女は今、別の男の妻であり、ひとりの母親なのだから。
手を伸ばせば、触れられる距離だった。
ほんの少し腕を動かせば、以前のようにその指先に触れ、翡翠の瞳の揺れを間近に確かめることができる。
だが、当然できるはずもなかった。
アランの薬指には、ブラック家の紋章を刻んだ指輪が光っている。
自分の指には、クラリッサと結ばれた証がある。
彼女の隣に立つべきだったのは誰なのか——そんな問いを抱えたまま、それぞれ違う名前の重みを指先に感じている。
「ブラック夫人」
思わず、名前を呼びそうになって、寸前で言い直した。
片時も忘れたことのない名が、舌の裏側で渦を巻いている。
「どうか……あまりご無理はなさらないでください。式へのご出席も、きっとお疲れになったでしょう」
「フロスト殿こそ。……長い時間、お疲れでしょう」
アランは穏やかに返す。
かつて、自分のためだけに注がれていた気遣いの言葉。その響きを思い出して、胸の奥がざわついた。
「私は……そうですね。少し、疲れました」
正直にそう言ってしまってから、ローランドはかすかに口元を歪めた。
「ですが、それ以上に——ありがたい日でもあります」
それが、今この場で口にできる、本心のぎりぎりの境界だった。
「クラリッサ様は、とても素敵な方ですわ」
アランの言葉に、ローランドは一度だけ目を伏せた。
クラリッサの無邪気な笑顔、甘えるように袖を引く手、幼さの残る声。
そのすべてが、向けられているのは自分に対してだ。
「……ええ。とても、良い人です」
短く答える。
そこに「愛している」という言葉を続けられない自分に、ひどい嫌悪感を覚えた。
本当は、目の前の女だけしか知らない。
女の細やかな感情の揺れを、どうすれば和らげ、どうすれば支えられるのか——それを学んだのは、ただ一人、この人とだけだった。
「フロスト殿」
アランが、静かに呼びかける。
彼女の翡翠の瞳は、何かを言いかけて、結局飲み込むような揺れを見せた。
「……どうか、幸せになってください」
それは、かつて自分が彼女に向けて願った言葉と、同じ響きだった。
今度は、それが自分に返ってきている。
ローランドは胸の奥で何かが崩れる音を聞きながら、それでも微笑んだ。
「ブラック夫人こそ。……どうか、どうか、お幸せに」
言葉にするたび、喉が焼けるように痛かった。
それでも、これ以外のどんな言葉も許されないと分かっているから、最後まで礼節の衣を剥がさなかった。
楽団の音が、ふたたび大きくなる。
遠くでクラリッサが名前を呼ぶ声がした。
「失礼いたします。そろそろ、新郎の役目に戻らなければなりませんので」
「ええ……行ってらっしゃいませ、フロスト殿」
深く頭を下げ、踵を返す。
背を向けた瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、どっと重力を持って沈んでいくのを感じた。
——産後こんなに早く動かされるアランも。
——ブラックの腕に寄り添いながら、完璧な美しさで立つアランも。
——屋敷で、アルタイルをあやしているのだろうアランも。
そのどれを思い浮かべても、涙が出そうだった。
手を伸ばせば届いてしまう距離にいながら、触れることを許されない現実が、これほどまでに残酷だとは思わなかった。
ローランドは、一度だけ振り返りたい衝動を必死に抑え込み、そのままクラリッサの待つ輪の中へと戻っていった。
背後に残してきた翡翠の視線を、決して確かめないままに。
「どうか、お幸せに」
その言葉が自分の口からこぼれた瞬間、アランは胸の奥をきつく締め付けられたような感覚に襲われた。
自分で自分を刺したと理解するより早く、胸の内側で鈍い痛みが膨らんでいく。
——言ってしまった。
目の前のローランドは、少し固い微笑みを浮かべて「ブラック夫人こそ」と返してきた。
礼節そのものの声音で、決してそれ以上も、それ以下も踏み込んではこない。
昔を知る者の響きだけが、そこに微かに残っていた。
かつての彼は、本当に、自分以外を見ようとしない人だった。
セシール家の庭で魔法薬の教材を広げていた頃も、図書室で書物の山に埋もれていた頃も、学園の廊下で肩を並べて歩いた頃も。
翡翠の瞳に映った彼の青は、いつだってまっすぐ自分だけに注がれていた。
誰かを羨んだ記憶がなかった。
嫉妬という感情を、きちんとしたかたちで知らないまま大人になった。
ローランドという男の誠実さを、そのまま自分の安全な足場として信じて疑わなかったからだ。
今、彼の視線は、白いドレスの少女へ向けられている。
壇上近くで友人たちに囲まれて笑うクラリッサに、ローランドは優しく寄り添い、何度もその名を呼んでいる。
——当たり前だ、と頭では分かる。
伴侶なのだから、視線も、言葉も、これから先の未来も、彼はクラリッサに向けて生きていく。
その当たり前を、心がどうしても飲み込めない。
胸の奥のどこか、手放し損ねた場所がじわりと疼き、その中心から何かが静かに溶け出していく。
泣きそうだと自覚したのは、視界の端がわずかに滲んだ時だった。
頬をつたう前に、それを指先で押さえる。
白い手袋の腹で、そっと。
乱暴に拭ってしまえば、化粧が崩れてしまう。
レギュラスの隣に立つ「ブラック夫人」としての顔を、こんなところで台無しにするわけにはいかない。
指先が濡れている。
涙は、一筋だけだった。
それでも、自分の中では堤防が崩れ落ちたかのような衝撃だった。
誰にも見つからないうちに、とアランは小さく息を吸い込むと、そっと踵を返す。
会場の隅——人の往来が少ない方へと歩を進める。
壁際には背の高い観葉植物と、銀の燭台に灯された魔法の火が揺れていた。
中央の喧騒から一歩分だけ距離を取るだけで、楽団の音は少し遠くなり、笑い声もかすんでいく。
柱の陰まで辿り着くと、アランは背中をそっと付けるように立ち止まった。
薄いコルセットに締め付けられた胸元が、急に苦しくなる。
産後の身体には少しきついはずのドレスを、今日はどうしても着ざるを得なかった。
ブラック家の妻として、ローランドの式に参列する以上、中途半端な身なりは許されないと分かっていたからだ。
胸の奥で、先ほど自分が口にした「どうかお幸せに」という言葉が、何度も反響する。
祝福の形をとって放ったその言葉は、まるで刃のように自分へ戻ってきて、同じ場所を繰り返し切りつけていく。
——彼はきっと、幸せになってくれる。
それがローランドなのだと分かっている。
クラリッサの明るさも、幼さも、いつかは愛おしさに変えてしまえるだろう。
細やかな気遣いを、惜しみなく注ぎ続けることができる人だからだ。
そこに自分がいない未来を、頭ではもう何度も受け止めてきたはずだった。
婚姻を受け入れ、ブラック家に嫁いだ日から、その覚悟は何度となく自分に言い聞かせてきた。
それでも、式場の真ん中で彼がクラリッサの手を取るのを、この目で見てしまうと、身体のどこかがついていけない。
穏やかな現実としてではなく、一枚の鮮明な絵として突きつけられる。
自分のなかで、時間が歪んでいった。
セシール家の庭で、日差しに目を細めながら並んで座った日。
ぎこちない初めての口付けを交わし、互いに顔を真っ赤にして笑った夜。
研究室の片隅で、疲れた手を取り合いながら、いつか生まれてくる子どもの名前を語り合った静かな夕方。
全てが、今日この日の「おめでとうございます」によって、遠くへ押し流されていく。
ローランドの瞳は、今、若く愛らしい少女を妻として見る。
それは彼にとって正しい在り方であり、自分が選ばなかった道の、正当な続きだった。
アランは、ゆっくりと息を吐く。
深呼吸を一つするだけで、胸を締め付けていた痛みが少しだけ和らぐ気がした。
宴の中心へ視線を向けると、人々の輪の中で笑うクラリッサと、その隣で穏やかに微笑むローランドが見える。
その姿は、誰が見てもお似合いの夫婦に映るだろう。
その光景に嫉妬を覚えないと言えば嘘になる。
けれど、嫉妬よりも先に込み上げてくるのは、自分自身への悔しさだった。
——こんなもののために。
政治的な取引の一つとして扱われた婚姻。
セシール家を守るため、父の研究を守るため、未来の安定を守るために差し出した、自分の人生。
その代償として手放したのは、誰よりも誠実だった一人の男の視線だった。
自分だけを写していた、あの真っ直ぐな青い瞳。
肩を震わせそうになり、アランは慌てて首を横に振る。
涙腺が緩むたびに、アルタイルの顔が浮かぶ。
あの子の存在がある限り、自分はここで崩れ落ちるわけにはいかない。
胸元の翡翠のペンダントにそっと指先を添えた。
ブラック家の妻としての証であり、同時に、自分がもう戻れない場所を象徴する重みでもある。
誰にも気づかれないよう、ゆっくりと目を閉じる。
薄く唇を結び、また宴のざわめきの方へと顔を向ける。
涙は、もう拭った。
あとは、何事もなかったように、レギュラスの隣へ戻るだけだ。
先ほど自分が放った「どうかお幸せに」という言葉は、もう取り消せない。
その代わり、その言葉が刺さり続ける胸の痛みごと、は静かに飲み込むしかなかった。
重厚な木製の机の上には、魔法で開閉を繰り返す祝辞付きカードが山のように積まれている。
煌びやかな金の箔押しで「ご出産おめでとうございます」「ご嫡男ご誕生を祝して」などとしたためられた文字が、ぱちぱちと光りながら浮かんでは消え、祝福の音楽を流したかと思えば、ひとりでに封を閉じて静まり返る。
「……本当に、幸運の塊のような男ですね、レギュラス」
隣の机から、バーテミウスが一枚のカードを摘まみ上げてひらひらと振ってみせた。
端整な顔にいつもの冷静な笑みを浮かべたまま、その声にはどこか呆れた色が混じっている。
レギュラスは、祝辞の山の向こうから視線を上げ、肩を竦めてみせた。
「ええ、本当に。神が降りてきたようです」
「自分で言いますか、それを」
「事実ですからね」
軽口を返しながらも、彼の瞼はかすかに重たげだった。
書類に目を落とせば、細い文字列が一瞬だけ滲み、焦点が合うまでにわずかな間が空く。
夜中、何度か起こされる。
寝室の片隅で赤子が小さな声を上げるたびに、アランが浅い眠りから引きずり出される。
その気配に、自分も半ば条件反射のように目を開け、揺りかごのほうへ足を運ぶのが習慣になっていた。
眠気は、確かにある。
書類をめくる手が止まった瞬間、不意に意識がふっと暗くなるような感覚が襲ってくる。
だが、そのたびに——
白い寝台に横たわるアランの横顔と、布に包まれて眠る小さな息子の姿が、鮮明に脳裏に浮かんだ。
産後数日の疲れを残しながら、それでも自分の腕の中で微笑もうとする翡翠の瞳。
その傍らで、細い指を握り返してくる小さな手。
思い出しただけで、口の端が緩みそうになる。
「……眠いのか、笑うのか。どちらかにしてください」
書類に視線を落としたまま、バーテミウスが淡々と言った。
「非常に不気味です、今の顔」
「失礼ですね」
レギュラスは吹き出し、額に指先をあてて、ぐっと目元を押さえた。
「夜中に何度か起きるのは、さすがに堪えます。ですが——」
「はいはい、また ‘ですが’ が始まりました」
バーテミウスは手元の羽根ペンをくるりと回しながら、わざとらしくため息をつく。
「どうせ ‘ アランの寝顔を見ればすべて帳消し’ とか ‘息子の泣き声が可愛くて仕方ない’ とか、そのあたりでしょう?」
「……いいえ」
レギュラスは真顔に戻り、わざと重々しく言った。
「もっと最低なことを考えていました」
「ほう?」
「あなたが言った ‘不気味’ という評価は、案外正しいなと」
「自己認識があるのはいいことです」
軽口を交わしながら、バーテミウスは机上のカードの束をひとつまとめて魔法で封じた。
山ほど届いた祝福のうち、直接返事を書く必要のあるものと、形式的な礼状で済むものとを仕分けていたのだ。
「しかし、寝室に赤子を置いておくとは。物好きですね、レギュラス」
ふと、バーテミウスの声色が少し砕ける。
「乳母に丸投げして自分は別の部屋へ、というほうが、よほど貴族らしいと思いますが」
「乳母には手伝ってもらっていますよ」
レギュラスは、椅子の背にもたれながら答えた。
「ですが、できる限り自分の部屋に置きたいですからね」
「よくやりますよ、本当に」
バーテミウスは、ペンを持たないほうの手をひらひらと振った。
「夜中はどうです? 泣き声で起こされるたびに、レギュラス様のお美しいお顔に新しい隈が刻まれていくのでは」
「そこまで多くはないですよ」
レギュラスは、わずかに誇らしげに笑う。
「しっかり寝るんです、あの子。親孝行な子です」
「ほう。優秀ですね」
バーテミウスは軽く目を見開く。
「それなら——乳腺炎にはご注意を」
「……今、なんと?」
あまりに唐突な単語に、レギュラスは思わず聞き返した。
「乳腺炎です」
バーテミウスはごく真面目な顔のまま、さらりと言う。
「夜中の授乳がなくなってくる頃に、急激にやってきましてね。うちの妻は高熱で見事にダウンしました。ほどほどに搾乳しておいたほうが無難ですよ」
意味の分からない助言が、淀みなく流れる。
レギュラスは一瞬ぽかんとし、それからゆっくりと瞬きをした。
「……搾乳、とは」
「そのままの意味です」
バーテミウスは淡々と答えた。
「赤子が飲む量より多く作られてしまうと、行き場をなくして詰まるんですよ。……ぱっつぱつに腫れ上がりましてね。触ると熱いわ痛いわで、見ているだけで気の毒になります」
レギュラスは、額に指をあてた。
「……詰まるんです?」
「詰まりますとも。見事に」
バーテミウスは書類から視線を上げ、自分の胸元あたりを軽く指で示してみせる。
「こう……なんといいますか、張り詰めた革袋のように。 ‘これ以上入る余地があるのか’ というくらい、ぱんぱんに」
「やめてください、具体的な比喩は不要です」
レギュラスは、心底からという風に顔をしかめた。
頭の中に、アランの白い寝巻きの胸元が、一瞬で鮮やかに思い浮かんでしまう。
産前から増していた豊かな曲線が、授乳の始まった今ではさらに存在感を増していることを、彼は知っていた。
柔らかいと思っていたものが、ぱつぱつに張り詰める——
人体の構造として理解不能だ、と先日の出産でも散々思い知らされたばかりなのに、まだ知らない領域があるのかと、内心戦慄する。
「……やたらと、でかくなりましたね」
ぽつりと漏らした一言に、バーテミウスの眉が面白そうに動いた。
「何がとは伺いませんが、まあ、そうでしょうね」
わざと話を合わせるように頷きながら、彼はにやりと口元を歪める。
「あれはそのうち、しぼみますよ」
「……そう、でしょうね」
レギュラスは、どこか名残惜しそう——というには自覚的すぎる、複雑な表情で言葉を続ける。
「元の大きさを考えると、構造上、いつまでもあのままというわけにはいかないのでしょう」
「ええ。ですから、今のうちに堪能されておくのが賢明かと」
「本当にあなたは、それしか考えないんですね」
呆れたように言いながらも、レギュラスの声には笑いが混じっていた。
「実体験に基づく忠告ですよ」
バーテミウスは肩を竦める。
「出産前から ‘妻の体調には気を配りましょう’ などと書かれた冊子は山ほど配られますがね。実際のところ一番役に立つのは、こういうどうでも良さそうな情報です」
「どうでもいいと言い切るところが、あなたらしい」
「おかげで、レギュラスは奥方に ‘無知で無神経な夫’ と思われずに済むかもしれない。感謝してほしいくらいですね」
「そうですか?」
レギュラスは、ふと視線を落とした。
「乳腺炎……でしたか。具体的な仕組みはともかく、そういう痛みがあるなら、ヒーラーに相談しておきましょう。アランには、これ以上余計な苦痛を味わわせたくありません」
その一言に、バーテミウスは一瞬だけ目を細めた。
冗談を言い合いながらも、この男は結局いつもそこへ戻っていく——
妻の痛みを、自分の采配不足のように受け止める、不器用な男だ。
「そういうところが、 ‘幸運の塊’ と呼ばれる所以かもしれませんね」
「なんです?」
「いえ。ただの感想です」
バーテミウスは軽く笑い、また視線を手元の書類へと戻した。
「ともあれ、レギュラス。奥方の胸がしぼむ頃には、きっと今とは別の悩みが出てきますよ」
「別の?」
「ええ。子供が歩き出し、走り出し、喋り出し——あなたの安眠を根本から奪っていくことでしょう」
レギュラスは、想像して、そしてやはり笑った。
「それもまた、神の悪戯というやつですかね」
「さあ。あなたの言う ‘神’ が、本当にあなたに味方しているのかどうかは、今後のお楽しみで」
役員室の窓の外には、魔法省の塔群と、その向こうに広がる冬の空が広がっている。
机の上では、ひとりでに開いた祝福のカードが、また一枚、金の火花を散らして閉じた。
レギュラスは、その光を横目で見ながら、手元の書類に視線を戻す。
眠気と、微笑と、ささやかな不安が、同じ場所で共存している。
それでも今のところ、ほんの少しだけ——微笑が優勢だった。
赤子は、オリオンによってアルタイル・ブラックと名付けられた。
ブラック家の男児にふさわしく、天に瞬く一等星の名だった。
その夜、寝台には、いつもより静かな時間が流れていた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、薄く白い線になって床をなぞり、部屋の隅では木製の揺り籠が小さくきしむ。そこからは、ときおり微かな寝息とも鼻を鳴らすような音ともつかない、アルタイルの気配が聞こえていた。
レギュラスは、アランの背後に横たわり、彼女を後ろから抱き込むように腕を回していた。
産後しばらくは、彼女の体に触れることさえためらう瞬間が多かったが、今はようやく、呼吸の速さや肩の強張りを確かめながら寄り添える程度には、互いの距離が落ち着きつつある。
腕の中で、アランの身体は、妊娠前とは明らかに違う輪郭を描いている。
細い肩と肋骨の線は変わらないのに、胸元だけが不自然なほど豊かに、重たげに膨らんでいた。
レギュラスは、そっと手を滑らせ、その膨らみに指先を添えた。
慎重に、重さと弾力だけを確かめるように。
「……痛いです?」
耳元で低く問えば、アランの肩がびくりと震えた。
「……なぜです?」
半ば振り返りかけて、けれど恥ずかしさに耐えるように再び顔を枕に伏せ、アランは小さく問い返す。
いきなり何を、と言いたいのだろう。戸惑いの色が、声の端にあらわだった。
レギュラスは、苦笑をひとつ飲み込んでから答えた。
「バーテミウスから聞きました。この胸が……ぱつぱつに張って、痛みを訴えることがある、と」
「ぱつぱつ」という妙に生々しい表現を、自分の口から出さなければならないことに、内心で少しだけ抵抗を覚える。
だが、あの男が得意げに伝授してきた知識を、多少なりとも還元しておくべきなのだろう、と理屈で納得させていた。
「……怖がらせるのはやめてください、レギュラス」
アランは枕に額を押し付けたまま、くぐもった声で言った。
耳まで赤くなっているのが、暗がりのなかでもわかるほどだ。
「本当のことですよ。あの男は、一応一児の父親ですからね」
レギュラスは苦笑混じりに続ける。
「あんな男ですが、知識面においては僕よりよほど豊富です。……すべてが役に立つとは言い難いですが」
バーテミウスが身振り手振りを交えて語った「ぱんぱんに張り上がる」「触ると熱い」などの表現が、妙に鮮やかに脳裏に蘇る。
あのときは半ば呆れながら聞き流していたが、こうして実際にアランの胸元に手を添えてみると、先日の言葉のひとつひとつが現実味を帯びて迫ってきた。
指先の下で、布越しに伝わる温度は、他のどの場所よりも高い。
軽く押しただけで、張り詰めた弾力がはっきりと返ってきた。
「……今は、どうです?」
少しだけ手に力を込めてみせてから、レギュラスは問いを重ねた。
「痛い、ですか。それとも、重いだけです?」
アランは、短く息を呑んだ。
逃げるように腕を組み、胸元を覆い隠そうとするが、すでにレギュラスの腕の輪の中にいる以上、その動きはささやかな抵抗にしかならない。
「……重たい、だけです。少し」
観念したように、小さく答える。
「そうですか」
レギュラスは、その返事にわずかに安堵をにじませた。
「痛みが出たときは、すぐに言ってください。ヒーラーを呼びますし……できることがあるなら、何でもします」
「何でも、などと。軽く言われましても」
アランが皮肉を含ませれば、背後でレギュラスの喉が小さく鳴った。
「では、訂正しましょう。僕にできる範囲で、ですね」
そう言って、彼はそっと手のひらを広げ、張り詰めた膨らみを支えるように下から支えた。
無遠慮な触れ方ではない。重さを少しでも和らげてやるつもりの、支柱のような感触だった。
「……レギュラス」
名前を呼ぶ声には、警戒と戸惑いと、少しの情けなさが混じっていた。
自分の身体がこれほど露骨に「母親」の形に変わり、その変化をこの男に知られている、という事実が、アランの羞恥心をじくじくと刺激する。
「本当に、怖がらせるつもりはありません」
レギュラスは、彼女の耳元に顔を寄せる。
息が髪をかすめ、乳児の甘い匂いがわずかに混ざったアランの匂いがふっと鼻をくすぐった。
「あなたの体が、また別の理由で苦しむ可能性があるなら、知っておきたいだけです。……出産の時も、知らなかったからこそ、何度も無駄に怯えましたからね」
平坦な声色に潜む悔いの色を、アランは敏感に感じ取った。
あの壮絶な数時間。
桶に落ちていく血の音、汗に濡れた額を何度も拭うレギュラスの手、何をしても変えられない痛みの波——その全部を、彼は真正面から見ていた。
布団の中、背後からの腕の力が、少しだけ強くなる。
「アルタイルも、あなたも。どちらも、きちんと守っていきたいんです」
簡潔な言葉のなかに、彼なりの不器用な誓いのようなものが滲んでいた。
アランは、枕に押し付けていた額をほんの少しだけ浮かせる。
視線を後ろに向けることはできなかったが、その代わりに、自分の手をそっとレギュラスの手の上に重ねた。
「……大袈裟なのは、バーテミウス様だけで、あってほしいですね」
かすかに笑みを混ぜてつぶやく。
「ええ。本当に、あの男だけであってほしい」
レギュラスも同じように笑った。
「もし彼の言葉どおり ‘むせ返るような痛み’ などというものが訪れたら、そのときは——」
「そのときは?」
「迷わず彼を呼び出して、代わりに叩き起こしましょう。夜中に。経験者として」
「……それは少し、魅力的ですね」
アランの肩が、くすりと震えた。
小さな笑いが漏れる。それは、この数日の疲れと不安に覆われた表情の隙間から、ようやく見えた微かな光だった。
レギュラスは、彼女の笑いを胸元で受け止めながら、そっと手を引いた。
支えていた掌を外し、代わりに、肋骨の上あたりに落ち着かせる。あまり長く触れていれば、彼女の羞恥はまた強張りに変わるだろうと分かっていたからだ。
「痛くなったら、必ず言ってください。黙って我慢するのは、もうやめましょう」
「……努力します」
「努力ではなく、約束で」
わずかに強引な言い方に、アランは小さく息を吐いた。
「分かりました。……約束します、レギュラス」
そう答えたあと、彼女は背中を預ける重みをほんの少しだけ増した。
布団越しの体温が密着し、揺り籠のほうから、アルタイルの寝息がまたひとつ聞こえてくる。
天体の名を与えられた小さな命と、その命を産んだ妻と。
自分の腕の中にある温度を確かめながら、レギュラスは静かに瞼を閉じた。
バーテミウスの大袈裟な比喩も、人体構造への理解不能な驚きも、今はどうでもよかった。
この腕の中の熱と膨らみが、彼にとっての現実であり、守るべきものの重さそのものだった。
礼拝堂代わりに設えられた広間は、淡い金と白を基調とした装飾で埋め尽くされていた。
天井近くには、魔法で浮かぶ幾筋ものリースがゆっくりと回転し、白百合と淡いブルーの小花が、花粉ひとつ落とさぬまま光を受けてきらめいている。
通路の両脇には客席が並び、既に式を終えたばかりの花婿花嫁を、列席者たちが思い思いに囲んでいた。
ローランド・フロストの隣には、純白のドレスに包まれたクラリッサ・ブラックバーンが立っていた。
胸元から腰まで細やかな刺繍が施されたそのドレスは、先日アランがヴァルブルガと共に選んだものだ。
まだ幼さの残る頬を薔薇色に染め、クラリッサは腕に抱えたブーケを揺らしながら、ひとりひとりに溢れるような笑顔を向けている。
そこへ、黒の礼装に身を包んだレギュラス・ブラックが歩みを進めてきた。
その腕に軽く手を添えているのは、アラン・ブラック。
産後、まだそう長い時は経っていないはずなのに——そうは思えないほど、彼女の姿は整っていた。
選んだドレスは、花嫁のそれに比べるとよほど控えめだった。
深い濃紺のローブドレスに、襟元と袖口だけが繊細なレースで縁取られている。装飾らしい装飾といえば、左手首に巻かれた細い銀のブレスレットと、翡翠をあしらったペンダントくらいのものだ。
しかし、そのすべてを纏ったアランは、ドレスの簡素さとは裏腹に、視線をさらっていく。
腰まで落ちる黒髪はゆるやかに巻かれ、首筋のラインを美しく見せるように片側へ流してある。
出産でわずかに丸みを帯びたはずの身体は、上質なコルセットと仕立ての良い生地に包まれて、むしろ以前よりも柔らかな女らしさを強調していた。
翡翠の瞳だけが、どこか静かな水面のように、深く沈んでいる。
客席の一角から、誰かが小さく息を呑む気配がした。
花嫁を讃えるべき場で、自然と新婦ではなく黒髪の客人へと注がれてしまう視線。
それを、レギュラスは腕越しに確かに感じ取っていた。
「フロスト殿、クラリッサ嬢。ご成婚、おめでとうございます」
レギュラスが歩み寄りながら声をかける。
アランもそれに合わせて、ドレスの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「おめでとうございます、フロスト様。クラリッサ様」
クラリッサが先に顔を輝かせた。
「ブラック様、ブラック夫人……! 本日はお越しいただきありがとうございますわ!」
ふわりとスカートの裾を揺らし、クラリッサは弾む声で言う。
その隣で、ローランドはきちんと背筋を伸ばして二人に向き直った。
「ブラック様、遠いところお越しいただき痛み入ります。……そして、何より」
ローランドの青い瞳が、一瞬アランの腹部へと落ち、それから顔へ戻る。
その視線のわずかな揺れを、アランは敏感に感じ取った。
「ご嫡男ご誕生、心よりお祝い申し上げます、ブラック夫人」
こちらからの定型の挨拶を述べるより先に、祝福の言葉が重ねられた。
ローランドの声音は、いつものように落ち着いている。礼を失さない距離と、過剰にならない温度。
それなのに、その「夫人」という響きが、アランの胸に鋭く刺さった。
「……ありがとうございます、フロスト殿」
アランは微笑んだ。
完璧に整えられた社交の笑み。
けれど、翡翠の瞳の奥では、何かがぎゅっと縮こまる。
純白のドレスに包まれたクラリッサが、嬉しそうに続く。
「とても可愛らしい坊やだと伺いましたわ。アルタイル様、でしたかしら? 天体のお名前なんて、さすがブラック家ですわね」
「オリオンが、名付けました」
レギュラスが穏やかに答える。
「星々の名は、我が家の誇りですからね」
「素敵ですわ……いつかお目にかかれますこと、楽しみにしております」
クラリッサは心からの笑みを浮かべて、アランの手を軽く包んだ。
その指先は華奢で、子供っぽさの残る温度があった。
「ご体調はいかがですの? 産後は大変だと聞きますわ。……ですが、ブラック夫人、とてもそんなふうには見えません」
「恐れ入ります。おかげさまで、だいぶ落ち着いてまいりました」
アランは、受け取った手をそっと握り返す。
その瞬間、クラリッサの薬指に輝く指輪が目に入った。
滑らかな金と、小さくとも強く光を放つ宝石。それは、ローランド・フロストの妻である証だ。
胸の奥で、きゅう、と何かが軋んだ。
純白のドレスは、本来、女にとって一度きりの衣装だと言われる。
誰かの妻という立場になる、そのたった一度の瞬間に着るべきもの。
その隣に立つのは、本当なら誰であって欲しかったのか——
アランは、知っている。
浮かべた笑みを崩さないまま、その答えを心の一番深いところに押し込めた。
ローランドの頬に、僅かな朱が差しているのが見えた。
アランを真正面から見ようとしない。視線は少しずつ逸れ、彼女の肩口あたりで止まる。
「ご無理はなさらないでください、ブラック夫人。……本日は、お足をお運びいただけただけで十分です」
丁寧な言葉の一つひとつに、長年の誠実さが滲んでいた。
けれどそこには、かつて交わし合った、柔らかな親しさはない。
線引きされた距離だけが、はっきりとそこにある。
「お二人とも、本当にお似合いですよ」
アランはそう告げた。
喉の奥まで込み上げた別の言葉を、綺麗に飲み込んで。
——私が隣で、その色を纏いたかった。
そう叫ぶ代わりに、完璧な祝辞を選ぶしかなかった。
レギュラスは、アランの腕に添えた手に、ほんの僅かに力を込めた。
それは、外から見れば単なる夫としてのさりげない触れ方にしか見えない。
だが、アランにとっては、逃げ道を塞がれた感覚と、支えられた感覚が同時に押し寄せる、複雑な圧力だった。
「フロスト殿、クラリッサ嬢」
レギュラスが、穏やかな声で口を開く。
「改めて、本日はおめでとうございます。……ブラック家としても、親族としてこの日を迎えられたことを嬉しく思っています」
「身に余るお言葉でございます、ブラック様」
ローランドは深く頭を下げた。
クラリッサもそれに倣い、小さく礼をする。
周囲からは途切れなく祝福の声が聞こえてくる。
楽団の奏でる柔らかな弦の音、シャンパングラスの触れ合う澄んだ音、笑い声とささやき声。
そのすべての中で、アランは一瞬だけ、時間から置き去りにされたような感覚に陥った。
——もし、あのとき。
自分の手が取った先が、この人の腕だったなら。
同じ純白を纏っていたのは、自分だったのなら。
招待客としてではなく、花嫁として、ここに立っていたのなら——。
翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ、ローランドの青い瞳と重なった。
互いにすぐに逸らす。
挨拶の場にふさわしい、礼節に満ちた距離を保つために。
「アラン」
耳元で、レギュラスが低く名を呼んだ。
それだけで、現実の床が足元に戻ってくる。
「そろそろ、他のお席にもご挨拶に伺いましょう」
「……はい、レギュラス」
アランはもう一度、花婿花嫁に向き直り、丁寧に礼をした。
「本日は、本当におめでとうございます。どうか、お二人で幸せな家庭を築かれますように」
「ありがとうございます、ブラック夫人」
「ありがとうございますわ」
ローランドとクラリッサの声が重なる。
その響きを背中に受けながら、アランはレギュラスの腕に再び自分の指を絡めた。
指先に、彼の体温が絡みつく。
自分の人生は、もうこの男と、その名を継ぐ子供の方へと深く縛り付けられている。
頭では理解している。
それでも、純白のドレスと指輪と「妻」という呼び名が、胸の奥で別の痛みを呼び起こしていた。
羨望は、消えない。
ローランドの隣で、その白を纏うことを夢見ていた少女の心は、どこかにまだ残っている。
その残滓を抱えたまま、アランは、完璧な「ブラック夫人」として、祝宴の中へと歩みを戻っていった。
久しぶりに、この種類のざわめきを自分の内側に感じていた。
レギュラスは、披露宴会場の一角でグラスを指先に転がしながら、横に立つアランへと集まる視線を眺めていた。
白と薄い金を基調とした会場は、そもそも今日の主役である新郎新婦のために整えられた空間のはずだった。
だが、現実には、花嫁の純白と同じくらいの頻度で、黒髪の客人—— アラン・ブラックへ視線が吸い寄せられている。
濃紺のドレスは、花嫁と競うことのないよう慎ましく選ばれたはずだった。
それでも、光を受けてささやかに艶めく布地と、そこからのぞく細い首筋と肩の線、揺れる黒髪と翡翠の瞳——その一つひとつが、意図もなく視線の矛先をさらっていく。
会場の隅から、ひそやかなささやきが聞こえた。
「……あれがブラック夫人?」「産後だなんて信じられないわ」
その手の声は、もう数え切れないほど耳にしてきた種類のものだ。
若い頃から「ブラック家の御曹司」として社交界に放り込まれ、女たちの興味と憧憬の視線を浴びることは、レギュラスにとって日常に近かった。
けれど今、その矢面に立っているのは自分ではない。
自分の「妻」だ。
その事実が、胸の奥をくすぐるような満足感を運んでくる。
アランの指が、礼儀正しく自分の腕に添えられている。
その軽い重みを感じるたびに、レギュラスは目に見えない印章を見せつけているような心地になった。
どれほどの視線がアランを舐めるように眺めようと、肩書きも、名も、指に残る感触も——そのすべては「ブラック夫人」である証として、自分のものに繋がっている。
久しく忘れていた種類の優越感だった。
アルタイルの誕生と、寝不足を抱えながらの子育ての日々のなかで、彼の意識は自然と「守るべきもの」へと向けられていた。
妻を盾にして誇示するのではなく、寝台の上で苦しむ彼女の額から汗を拭き、赤子の泣き声に目をこすりながら起き上がり、体調や魔力の戻り具合を気にかける——そういう、地に足のついた感情ばかりを傍らに置いていた。
ところが今、煌びやかな会場の真ん中で、アランが誰かの視線の的になっている様を目にした瞬間、その感情は別の形に変わる。
彼女に注がれる羨望と嫉妬と、計りかねた観察の眼差し。それをひとまとめにして、胸の奥にぐっと引き寄せるような感覚。
——やはり、悪くない。
自嘲気味に唇の端を上げたところで、とある瞬間が視界に飛び込んだ。
アランの視線が、ほんの一瞬だけ、会場の向こう側に向けられる。
視線の先には、クラリッサに寄り添うローランド・フロストの姿があった。
柔らかな青の瞳が、あの男の横顔を追っていた。
時間にして数秒もない。その程度のはずだったが、レギュラスには、妙に長く見えた。
その直後、ローランドもまた、こちらへ視線を向ける。
目が合ったのかどうか、外からでは判断しづらいほどの、わずかな揺れ。
だが、レギュラスの目はごまかせなかった。アランの横顔の硬さの変化も、ローランドの瞳に一瞬差した痛みのような影も、確かにそこにあった。
胸の奥に、どくりと重たいものが落ちた。
それは、あまりにも久しぶりに感じる感情だった。
名前をつけるなら、嫉妬だろう。
ただの所有欲とも違う、黒い棘を含んだ感情。
アルタイルが生まれてからというもの、レギュラスの世界は大きく形を変えていた。
妻の腹が張ったと怯え、産声を上げるまではらはらと見守り、夜中の小さな寝息に安堵して眠る——そんな日々のなかで、かつて周囲の男たちに向けていたような嫉妬や警戒心は、自然と影を薄くしていた。
フロスト家との縁談を取り決めた時も、たしかに愉快さはあったが、それは計画の一部として組み込んだ冷静な満足であって、今感じているような、生々しい苛立ちとは違う。
その苛立ちが、すべてローランド・フロストの視線から来ているのだと自覚するまでに、そう時間はかからなかった。
——まだ、そういう目で見るんですね。
心の中で淡々とつぶやきながら、レギュラスはグラスを唇に運んだ。
泡立つ酒が舌に弾ける感覚を、意識してゆっくり味わう。
アランが向ける視線も、ローランドが返す視線も。
それらは礼節という薄い膜で覆われているが、その膜一枚の下には、かつてのぬくもりが、まだ完全には消えていないのだと雄弁に物語っていた。
それを、苛立ちとして受け取る自分自身に、レギュラスは少し驚いていた。
——処理の仕方を、忘れましたね。
昔なら、もっと簡単だった。
気に入らない男がいれば社交界の場でさりげなく立場を削り、女が他所に心を寄せているなら、より徹底的に自分へ依存させるよう仕向ける。
そうやって「調整」してきた。
勝敗を数字で計れる取引のように、人の感情も、自分の思う形へねじ曲げることができると、どこかで信じていた。
けれど今、アルタイルという名の小さな星を抱えた生活に慣れたせいか、その感情はどこか鈍っている。
嫉妬をどう処理していたのか、その感覚が久しぶりすぎて手元から滑り落ちそうなのだ。
腕に添えられたアランの指先が、ふっと力を弱めた。
何かに耐えるときの、あのわずかな緊張。
「アラン」
レギュラスは、低めの声で名を呼んだ。
彼女が振り向く前に、もう一度グラスを傾け、唇の端に僅かな笑みを貼り付ける。
「少し、疲れましたか?」
「……いいえ、大丈夫です。レギュラス」
翡翠の瞳は、いつも通りの、穏やかな淀みをたたえていた。
しかし、その底に沈んでいるものが何かは、彼にはわかる。
羨望。
後悔。
そして、自分自身への怒り。
それらが渦を巻いていることを、レギュラスは知っていた。
だからこそ、ローランドに向けられた視線の熱が鬱陶しくもあり、同時に「そこまで深く共有してきたものがあるのか」と胸の奥で知らされるような、負けに似た感覚もあった。
——それでも。
視線をローランドに戻す。
クラリッサが、無邪気に彼の袖を引き、何かをねだっている。
ローランドはそのたびに、少し困ったような、それでも優しい笑みを浮かべて応じている。
あの男の胸の片隅にも、まだアランがいるのだろう。
それは容易に想像できた。
だが、現実は変わらない。
ローランドの腕を取るのはクラリッサであり、アランの腕を取るのは自分だ。
アルタイルの父親も、自分だ。
嫉妬と優越感が、互いの輪郭を溶かしあいながら混ざり合っていく。
ひどく扱いづらい感情だった。
だが同時に、「まだこんなにも、この女を手放したくないと思っているのか」と、己の執着の温度を再確認させられる瞬間でもあった。
「……レギュラス?」
アランが呼びかける声に、レギュラスは意識を戻した。
ひとつ息を吐き、滑らかに微笑む。
「少し、空気が熱いですね。ワインのせいかもしれません」
冗談めかして肩をすくめてみせながら、腕に添えられたアランの手を、ほんのわずかに握り込む。
それは、第三者から見れば愛情深い夫のささやかな仕草だろう。
しかし、レギュラスにとっては、「ここにいる」という印を自分自身に刻み直す行為でもあった。
この美しい妻は、今、確かに自分の隣に立っている。
ローランドの視線がどうあれ、アランの心の奥にどれほど過去が残っていようと。
現実は、何度でも同じ一点へと収束する。
——だからといって、あの男の目の熱を、許せるかどうかは別問題だが。
胸の内側で、さらりと毒を吐いて、レギュラスはまたグラスを傾けた。
泡のはじける音が、嫉妬と優越感の境界線を曖昧にしながら、喉の奥へと落ちていく。
久しく抱いていなかった感情たちが、再び目を覚ました。
扱い方を忘れかけていたそれを、これからどう調整していくのか——レギュラス自身もまだ知らない。
ただ一つ確かなのは、その矛先の中心に、いつだって変わらずアランがいる、ということだけだった。
楽団の音が、少しだけ遠くなっていた。
披露宴会場の隅——壁際に並べられた観葉植物の影で、アランとローランドは、ほんのわずかな空白を挟んで立っていた。
中央では、クラリッサが友人たちに囲まれて笑っている。
白いドレスの裾が揺れ、その度に歓声と笑い声が上がる。
レギュラス・ブラックの姿は今は見えない。別の来賓に捕まり、談笑しているのだろう。
そんな喧騒から一歩だけ外れた場所で、アランは正面からローランドを見上げた。
翡翠の瞳に、灯り取りの魔法灯が柔らかく映り込んでいる。
「おめでとうございます、フロスト殿」
改めて告げられた祝福の言葉は、完璧に整えられた礼節の響きだった。
声も、微笑みも、どこにも乱れはない。
それなのに、ローランドの胸はひどく痛んだ。
「……恐れ入ります、ブラック夫人」
形式通りの言葉で返しながら、喉の奥がきゅうと締め付けられる。
口にするたび、彼女の変わってしまった呼び名が、自分と彼女のあいだに引かれた線をなぞってくる。
産後、まだそう長くは経っていないはずだ。
それでも目の前のアランは、信じられないほど「仕上がって」いた。
深い濃紺のドレスに包まれた身体は、以前よりも少しだけ柔らかな線を帯びている。
けれど、その変化すらも彼女に新たな艶を与えていて、翡翠の瞳は、あの頃と同じ色で。
黒髪は品よくまとめられ、首筋には淡い光を放つ翡翠のペンダント——ブラック家の妻としての上質が、細部にまで行き渡っていた。
産後こんな短い期間で、ここまで整えられるものなのだろうかと考えると、胸が苦しくなる。
どれだけの疲労を押し込め、どれだけの気持ちを飲み込んで、こうして「ブラック夫人」として立っているのか——想像してしまうからだ。
「お身体は……本当に大丈夫なのですか?」
それでも口にできるのは、在り来たりな言葉だけだった。
「ご心配をありがとうございます。まだ本調子とはいえませんが……少しずつ、慣れてきました」
アランは、静かに微笑む。
その笑みは、かつて自分だけに向けられていた、柔らかなものとよく似ている気がした。
けれど今、それは誰が見ていてもおかしくない「夫人」の微笑みとして、完璧に整っている。
——産後こんなに早く動かされて。
——それでも、レギュラス・ブラックの隣で完璧な美しさを誇って。
そう心の中で並べた言葉が、喉の奥に詰まる。
彼女の身体を本当は一番知っているはずの自分が、今は何ひとつ触れることも、支えることもできない。
「アルタイル様は、よくお眠りになりますか」
話題を探すように、ローランドは問いかけた。
本当は、こんなことを聞きたいのではないと分かっていながら。
「ええ……レギュラスが“親孝行な子だ”と仰るくらいには」
アランはひと呼吸置いてから、少しだけ目元を和らげる。
その一瞬の緩みだけが、彼女が本当に心を寄せている場所を示しているようで、胸が締め付けられた。
——屋敷で、赤子をあやしているのだろう。
穏やかな揺り椅子の上で、薄い毛布に包まれた子を抱き、眠たげに瞬く翡翠の瞳で笑っている。
腕のなかで小さな体温を感じながら、低く囁きかける姿が目に浮かぶ。
まだ青く幼かった自分たちの「いつか」の話——
ともに考えた名の候補や、どちらに似てほしいかを語り合った、穏やかな時間の記憶が胸を刺す。
そこに自分は、もういない。
「……本当に、おめでとうございます」
さきほどと同じ言葉が、再び口をついて出る。
アランは少し驚いたように瞬きをしてから、そのまま静かに頷いた。
「ありがとうございます、フロスト殿。……そして、改めて。ご結婚、おめでとうございます」
「恐れ入ります」
礼儀正しい言葉のやり取りが、ひどく味気なく感じられる。
けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。
――会いたかった。
そんな言葉は、決して口にはできない。
彼女は今、別の男の妻であり、ひとりの母親なのだから。
手を伸ばせば、触れられる距離だった。
ほんの少し腕を動かせば、以前のようにその指先に触れ、翡翠の瞳の揺れを間近に確かめることができる。
だが、当然できるはずもなかった。
アランの薬指には、ブラック家の紋章を刻んだ指輪が光っている。
自分の指には、クラリッサと結ばれた証がある。
彼女の隣に立つべきだったのは誰なのか——そんな問いを抱えたまま、それぞれ違う名前の重みを指先に感じている。
「ブラック夫人」
思わず、名前を呼びそうになって、寸前で言い直した。
片時も忘れたことのない名が、舌の裏側で渦を巻いている。
「どうか……あまりご無理はなさらないでください。式へのご出席も、きっとお疲れになったでしょう」
「フロスト殿こそ。……長い時間、お疲れでしょう」
アランは穏やかに返す。
かつて、自分のためだけに注がれていた気遣いの言葉。その響きを思い出して、胸の奥がざわついた。
「私は……そうですね。少し、疲れました」
正直にそう言ってしまってから、ローランドはかすかに口元を歪めた。
「ですが、それ以上に——ありがたい日でもあります」
それが、今この場で口にできる、本心のぎりぎりの境界だった。
「クラリッサ様は、とても素敵な方ですわ」
アランの言葉に、ローランドは一度だけ目を伏せた。
クラリッサの無邪気な笑顔、甘えるように袖を引く手、幼さの残る声。
そのすべてが、向けられているのは自分に対してだ。
「……ええ。とても、良い人です」
短く答える。
そこに「愛している」という言葉を続けられない自分に、ひどい嫌悪感を覚えた。
本当は、目の前の女だけしか知らない。
女の細やかな感情の揺れを、どうすれば和らげ、どうすれば支えられるのか——それを学んだのは、ただ一人、この人とだけだった。
「フロスト殿」
アランが、静かに呼びかける。
彼女の翡翠の瞳は、何かを言いかけて、結局飲み込むような揺れを見せた。
「……どうか、幸せになってください」
それは、かつて自分が彼女に向けて願った言葉と、同じ響きだった。
今度は、それが自分に返ってきている。
ローランドは胸の奥で何かが崩れる音を聞きながら、それでも微笑んだ。
「ブラック夫人こそ。……どうか、どうか、お幸せに」
言葉にするたび、喉が焼けるように痛かった。
それでも、これ以外のどんな言葉も許されないと分かっているから、最後まで礼節の衣を剥がさなかった。
楽団の音が、ふたたび大きくなる。
遠くでクラリッサが名前を呼ぶ声がした。
「失礼いたします。そろそろ、新郎の役目に戻らなければなりませんので」
「ええ……行ってらっしゃいませ、フロスト殿」
深く頭を下げ、踵を返す。
背を向けた瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、どっと重力を持って沈んでいくのを感じた。
——産後こんなに早く動かされるアランも。
——ブラックの腕に寄り添いながら、完璧な美しさで立つアランも。
——屋敷で、アルタイルをあやしているのだろうアランも。
そのどれを思い浮かべても、涙が出そうだった。
手を伸ばせば届いてしまう距離にいながら、触れることを許されない現実が、これほどまでに残酷だとは思わなかった。
ローランドは、一度だけ振り返りたい衝動を必死に抑え込み、そのままクラリッサの待つ輪の中へと戻っていった。
背後に残してきた翡翠の視線を、決して確かめないままに。
「どうか、お幸せに」
その言葉が自分の口からこぼれた瞬間、アランは胸の奥をきつく締め付けられたような感覚に襲われた。
自分で自分を刺したと理解するより早く、胸の内側で鈍い痛みが膨らんでいく。
——言ってしまった。
目の前のローランドは、少し固い微笑みを浮かべて「ブラック夫人こそ」と返してきた。
礼節そのものの声音で、決してそれ以上も、それ以下も踏み込んではこない。
昔を知る者の響きだけが、そこに微かに残っていた。
かつての彼は、本当に、自分以外を見ようとしない人だった。
セシール家の庭で魔法薬の教材を広げていた頃も、図書室で書物の山に埋もれていた頃も、学園の廊下で肩を並べて歩いた頃も。
翡翠の瞳に映った彼の青は、いつだってまっすぐ自分だけに注がれていた。
誰かを羨んだ記憶がなかった。
嫉妬という感情を、きちんとしたかたちで知らないまま大人になった。
ローランドという男の誠実さを、そのまま自分の安全な足場として信じて疑わなかったからだ。
今、彼の視線は、白いドレスの少女へ向けられている。
壇上近くで友人たちに囲まれて笑うクラリッサに、ローランドは優しく寄り添い、何度もその名を呼んでいる。
——当たり前だ、と頭では分かる。
伴侶なのだから、視線も、言葉も、これから先の未来も、彼はクラリッサに向けて生きていく。
その当たり前を、心がどうしても飲み込めない。
胸の奥のどこか、手放し損ねた場所がじわりと疼き、その中心から何かが静かに溶け出していく。
泣きそうだと自覚したのは、視界の端がわずかに滲んだ時だった。
頬をつたう前に、それを指先で押さえる。
白い手袋の腹で、そっと。
乱暴に拭ってしまえば、化粧が崩れてしまう。
レギュラスの隣に立つ「ブラック夫人」としての顔を、こんなところで台無しにするわけにはいかない。
指先が濡れている。
涙は、一筋だけだった。
それでも、自分の中では堤防が崩れ落ちたかのような衝撃だった。
誰にも見つからないうちに、とアランは小さく息を吸い込むと、そっと踵を返す。
会場の隅——人の往来が少ない方へと歩を進める。
壁際には背の高い観葉植物と、銀の燭台に灯された魔法の火が揺れていた。
中央の喧騒から一歩分だけ距離を取るだけで、楽団の音は少し遠くなり、笑い声もかすんでいく。
柱の陰まで辿り着くと、アランは背中をそっと付けるように立ち止まった。
薄いコルセットに締め付けられた胸元が、急に苦しくなる。
産後の身体には少しきついはずのドレスを、今日はどうしても着ざるを得なかった。
ブラック家の妻として、ローランドの式に参列する以上、中途半端な身なりは許されないと分かっていたからだ。
胸の奥で、先ほど自分が口にした「どうかお幸せに」という言葉が、何度も反響する。
祝福の形をとって放ったその言葉は、まるで刃のように自分へ戻ってきて、同じ場所を繰り返し切りつけていく。
——彼はきっと、幸せになってくれる。
それがローランドなのだと分かっている。
クラリッサの明るさも、幼さも、いつかは愛おしさに変えてしまえるだろう。
細やかな気遣いを、惜しみなく注ぎ続けることができる人だからだ。
そこに自分がいない未来を、頭ではもう何度も受け止めてきたはずだった。
婚姻を受け入れ、ブラック家に嫁いだ日から、その覚悟は何度となく自分に言い聞かせてきた。
それでも、式場の真ん中で彼がクラリッサの手を取るのを、この目で見てしまうと、身体のどこかがついていけない。
穏やかな現実としてではなく、一枚の鮮明な絵として突きつけられる。
自分のなかで、時間が歪んでいった。
セシール家の庭で、日差しに目を細めながら並んで座った日。
ぎこちない初めての口付けを交わし、互いに顔を真っ赤にして笑った夜。
研究室の片隅で、疲れた手を取り合いながら、いつか生まれてくる子どもの名前を語り合った静かな夕方。
全てが、今日この日の「おめでとうございます」によって、遠くへ押し流されていく。
ローランドの瞳は、今、若く愛らしい少女を妻として見る。
それは彼にとって正しい在り方であり、自分が選ばなかった道の、正当な続きだった。
アランは、ゆっくりと息を吐く。
深呼吸を一つするだけで、胸を締め付けていた痛みが少しだけ和らぐ気がした。
宴の中心へ視線を向けると、人々の輪の中で笑うクラリッサと、その隣で穏やかに微笑むローランドが見える。
その姿は、誰が見てもお似合いの夫婦に映るだろう。
その光景に嫉妬を覚えないと言えば嘘になる。
けれど、嫉妬よりも先に込み上げてくるのは、自分自身への悔しさだった。
——こんなもののために。
政治的な取引の一つとして扱われた婚姻。
セシール家を守るため、父の研究を守るため、未来の安定を守るために差し出した、自分の人生。
その代償として手放したのは、誰よりも誠実だった一人の男の視線だった。
自分だけを写していた、あの真っ直ぐな青い瞳。
肩を震わせそうになり、アランは慌てて首を横に振る。
涙腺が緩むたびに、アルタイルの顔が浮かぶ。
あの子の存在がある限り、自分はここで崩れ落ちるわけにはいかない。
胸元の翡翠のペンダントにそっと指先を添えた。
ブラック家の妻としての証であり、同時に、自分がもう戻れない場所を象徴する重みでもある。
誰にも気づかれないよう、ゆっくりと目を閉じる。
薄く唇を結び、また宴のざわめきの方へと顔を向ける。
涙は、もう拭った。
あとは、何事もなかったように、レギュラスの隣へ戻るだけだ。
先ほど自分が放った「どうかお幸せに」という言葉は、もう取り消せない。
その代わり、その言葉が刺さり続ける胸の痛みごと、は静かに飲み込むしかなかった。
