2章
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産室の窓は厚手のカーテンで覆われ、外の時間はとっくに分からなくなっていた。
灯りを落とした室内には、浮かぶように淡い魔法灯だけが点り、白いシーツの上に横たわるアランの横顔と、忙しなく動き回るヒーラーたちの白衣を照らしている。
壁際には湯気を立てる湯桶や、清潔な布が山のように積まれ、薬草と消毒薬と血の混じった匂いが、空気の底に重たく滲んでいた。
「……はあ……っ……」
アランは、浅く、短く息を吐いた。
額には汗が滲み、濡れた髪が頬に張りついている。それでも喉から悲鳴を上げることはなかった。
「声を上げると、力が散ってしまいます。呼吸に集中して——そう、静かに」
ヒーラーの低い声が、何度目か分からない指示を重ねる。
アランは微かに頷き、唇を噛んだ。肩から腕にかけて、細い筋肉が必死に耐えているのが分かる。
レギュラスは、寝台の頭側に立ち、アランの手を握っていた。
握られているというよりは、握らせている——
力の入らない指を、自分の手の中に包み込んでいる感覚に近い。
ヒーラーに「始まった」と告げられてから、どれほど時間が経ったのか。
昼と夜の境界はとうに曖昧になり、時計の針の位置だけが、容赦なく途方もない時間の経過を示していた。
「……っ、……」
ふいに、アランの瞳から光がすっと抜け落ちる。
握っている手からも、一瞬、力が消えた。
「アラン」
レギュラスは思わず身を乗り出す。
「大丈夫です、旦那様」
すぐ側にいたヒーラーが、落ち着いた声で制した。
「寝ているだけです。お気になさらずに。痛みと痛みの間の、短い休息の時間ですから」
「……こんな、いきなり意識を手放すものなんですか」
自分の声が、驚くほど掠れていた。
問いかけながら、アランの閉じた瞼をじっと見つめる。
さっきまで荒く波打っていた胸が、嘘のように静かになる。
頭の横にこぼれていた髪が、微かな寝息に合わせてかすかに揺れる。
「ええ。人によっては叫び続けて一睡もしない方もいらっしゃいますし——」
ヒーラーは、アランの脈を測りながら続けた。
「夫人のように、力のいる陣痛の合間に、ぱたりと眠りに落ちる方もいます。身体が自分で休もうとしているのです。正常です」
正常——その言葉だけが救いのように耳に残る。
だが、さっきまで苦しげに息を詰めていた女が、何の前触れもなく「眠り」に落ちる様子は、どうしても安穏なものとは思えなかった。
まるで崖から足を踏み外したように、意識が奈落に落ちていく。
そんな印象さえあった。
どれほどの時間、そうしていただろう。
アランの瞼が、ぴくりと震えた。
すぐに深い翠の光が戻り、焦点の合わぬまま天井を見つめる。
「……レギュラス……」
かすれた声で呼ばれ、レギュラスは手を握り直した。
「ここにいます」
「……すみません、また……寝てしまって……」
「謝ることではありません。むしろ僕のほうが、何もできていない」
アランは、うっすらと笑おうとして、すぐに表情を歪めた。
次の波が、襲ってきたのだ。
腹のあたりが強く緊張し、肩と腕に力がこもる。
アランは歯を食いしばり、喉の奥で息を押しとどめた。
叫び声は上がらない。
ヒーラーに言われた通り、声を飲み込み、その代わりに全ての力を下腹部に落としていく。
顔色がぐっと蒼くなり、細い首筋の血管が浮き上がる。
レギュラスは、握る手に自分の親指を添え、ゆっくりと擦るように動かした。
「大丈夫です。……あと少しだと、ヒーラーが言っていました」
何度目の「あと少し」か分からない。
それでも、そう言うしかなかった。
やがて、ヒーラーの動きが変わった。
誰かが新しい桶を持ち込み、床のそばに置く。
別の者が、白い布の山をさらに積み上げる。
「旦那様」
年長のヒーラーが、寝台の足元から顔を上げた。
「ここから先は、多くの出血が伴います。立ち会いをご希望でしたが、いったん……」
部屋の外でお待ちになったほうが——と続けようとしたその言葉を、レギュラスは静かに遮った。
「いいえ。ここにいます」
ヒーラーの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「正直に申し上げます。美しい場面ではございません。奥方のお姿も——」
「承知しています」
レギュラスは、はっきりと頷いた。
「それでも、僕がここを離れる選択肢はありません。続けてください」
短い沈黙ののち、ヒーラーは息を吐いて頷いた。
「……分かりました。では、旦那様、奥様の頭側から離れないでください。決してこちらには回らないように」
「分かりました」
その忠告だけは受け入れることにする。
ヒーラーたちが布の位置を整え、呪文を唱え始める。
アランは、朦朧とした意識の中で、握られた手の温もりを確かめるように指を動かした。
「……頑張りましょう、アラン」
レギュラスは、彼女の耳元に唇を近づける。
「もう少しです。……あなたなら、必ずできます」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
その後の時間は、切れ切れの映像の連なりのようだった。
ヒーラーの短い指示。
アランの喉の奥で押し殺された呻き。
呪文の響きと、魔法灯の光が一瞬だけ強くなる瞬間。
レギュラスは、ただひたすら手を握り続けた。
乾いた掌に、汗がじわじわと滲み出してくる。
アランの指は、波が来るたびに骨が軋むほど力を込め、過ぎれば糸が切れたように力を失っていく。
その繰り返しの中で、時間の感覚は完全に壊れていた。
「……ぐっ……」
天井近く、目に見えないところで、何かの音がした——ような気がした。
だが、レギュラスの意識はもはや音を正しく区別できない。
そのとき、聞き慣れない別の音が、耳に飛び込んできた。
ぽと……ぽとん……ぼと、ぼと……。
規則的とは言えない、濡れたものが落ちる音。
レギュラスは反射的に顔を上げ、視線を音のほうへ向けてしまった。
床のそばに置かれた桶。
その中に、赤く濁った液体が溜まりつつあった。
最初は、水に滲んだインクのように思えた。
だが、目が慣れるにつれて、それが水に混じった血の色であることが、嫌でも理解させられる。
ぽとり、と、また一滴。
白かった布が、桶の縁でじわりと赤く染まっていく。
一瞬で、全身の血の気が引いた。
喉の奥がきゅっと狭まり、呼吸がうまくできない。
視界がすっと遠のき、耳鳴りがする。
頭の奥で、鈍い痛みが脈打ち始めた。
……これが、バーテミウスの言っていた……
むせ返る血の匂い——
その言葉が、ほとんどそのまま現実になっていた。
鼻腔の奥に、鉄錆に似た重たい匂いがまとわりつく。
深く息を吸うたび、胸の内側までその匂いが染み込んでくる気がした。
美しいどころか、残酷で、生々しく、荒々しい。
自分が日々見慣れているはずの「暴力」とも、戦場の血とも違う。
これは、命を絶つための血ではない。
命を産み落とすために、容赦なく流されていく血だった。
「旦那様」
思わず桶に見入っていた視線を、ヒーラーの鋭い声が引き戻す。
「こちらではなく、奥様だけをご覧ください。——手を離さないで」
レギュラスは、弾かれたようにアランの顔へと視線を戻した。
彼女は、唇を色を失わせ、額に汗を滲ませながら、それでも静かに息を整えようとしている。
瞳は薄く開いているが、焦点は合っていない。
「…… アラン」
名を呼ぶと、彼女の瞼がわずかに震えた。
「……レギュラス……?」
かすれた声が、確かに応えた。
「ここにいます。……大丈夫です、聞こえていますか」
アランは、ぎゅっと彼の手を握った。
指先が震えている。
「……全部……流れてしまいそうで……こわい……」
たどたどしく洩れた言葉に、レギュラスは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「流れません」
即座に否定した。
「あなたも、子供も。——誰にも渡しません」
そう言いながら、自分の言葉が半ば自分に向けた祈りであることを自覚していた。
美しい妻も。
子供も。
全て手に入れた——そう思っていた。
だが、その代償として、こんなにも苦しむ妻の姿を突きつけられるとは。
その現実は、勝利の陶酔など一瞬で吹き飛ばすほどの、地獄に近いものだった。
「さあ、ここが正念場ですよ、夫人」
ヒーラーの声が、少しだけ高くなる。
「今まで通り、声は飲み込んで結構。ただし、ここからは——」
説明の言葉は、レギュラスの耳にはほとんど届かなかった。
握る手の感触だけが、現実につなぎとめている唯一のものだった。
ぽと、ぽと、と、なおも水音は続く。
血の匂いは強まるばかりだ。
それでもレギュラスは、決して目を逸らさなかった。
桶からではない。
アランから。
彼女の額の汗を、指先でそっと拭いながら、何度も何度も名前を呼ぶ。
「アラン、あと少しです」
「……一緒に……いて、ください……」
かろうじて絞り出された願い。
「もちろんです」
即答だった。
「あなたが眠ろうと、叫ぼうと、どれだけ時間がかかろうと——ここから動きません」
その言葉が、自分に課した誓いでもあった。
むせ返る血の匂いに酔いそうになりながらも、レギュラスはただひたすら、彼女の手を握り続けた。
これほどまでに、自分の無力さを突きつけられたことは一度もなかった。
同時に、どれほどの権力や財があっても変えられない瞬間が、この場所に凝縮されていることを、痛いほど理解させられていた。
——まだ、産声は聞こえない。
その瞬間を待ちながら、レギュラスは地獄の淵に立たされたような心地で、ただ一人の女と、その身に宿る小さな命の、苛烈な戦いを見守り続けていた。
産声は、思いのほか細く、高く、震えていた。
しかしその一声が、どれほど張り詰めていた空気を一気にほどいたか——部屋の中にいた誰もが、息を吐くようにしてそれを悟った。
ヒーラーの腕の中で、高々と抱き上げられた赤子は、まだしわくちゃな肌を赤く染め、ぎゅっと目を閉じて泣き叫んでいる。
小さな指が空を掴むように開いては閉じ、薄い唇が震えながら、世界に対する最初の抗議を続けていた。
「……男児です」
年長のヒーラーが告げる。
その一言に、部屋の隅で待機していた看護師たちすら、ほっと肩の力を抜いた。
扉の向こうで待っていたヴァルブルガ・ブラックは、その報せを聞くなり、抑えきれない勢いで部屋になだれ込んできた。
「男の子……? 本当に?」
魔法灯の光が揺れるほどの勢いで近づいてくる。
白いローブの裾がひらめき、華奢な身体に似合わぬほどの熱を宿した視線が、ヒーラーの腕の中の赤子に吸い寄せられる。
オリオンも、その後ろからゆっくりと姿を現した。
いつもの厳格な表情はわずかに崩れ、口元にははっきりと笑みが浮かんでいる。
胸の前で腕を組んだまま、それでも目だけは赤子から離そうとしない。
「……よくやったな、レギュラス」
短く、それだけ。
しかし、レギュラスはその言葉の重みを痛いほど理解していた。
ブラック家の次代を担う男児。
望まれ続けてきた「跡継ぎ」が、ついにこの世に姿を現した。
神の加護という言葉が、馬鹿げた比喩ではなく、現実に形を伴ってそこにあるような気がした。
——神にでもなったようだと、つい先日冗談めかしてバーテミウスに言ったばかりだった。
いま、その感覚は冗談の域を越えて、現実の手触りを持ちはじめていた。
「アラン」
レギュラスは、寝台の上の女へと目を向けた。
アランは、枕に頭を預け、かすかに開いた唇から浅い呼吸を繰り返している。
長い黒髪は汗で頬に張りつき、首筋へと流れている。
顔色はまだ白く、睫毛の影だけがくっきりとした線を描いていた。
「……レギュラス……?」
名を呼ぶように視線を落とすと、薄く開いた翡翠の瞳がゆっくりと彼を捉えた。
レギュラスは、その枕元に膝をつき、そっと彼女の手を取る。
先ほどまで自分の掌を潰さんばかりに握り続けていた手は、いまは力が抜け、指先だけがかすかに震えていた。
「アラン、よく頑張りましたね」
声が自然に柔らかくなる。
「本当に……よく……」
言葉を続けようとして、喉の奥で何かが詰まる。
あれほど血の匂いに酔いそうになっていたのに、今は目の奥が熱くなり、涙の気配がそこまできていた。
アランは、弱々しく、けれど確かな意思のこもった眼差しでレギュラスを見上げると、かすかに唇の端を持ち上げた。
静かな、しかしこの上なく美しい笑みだった。
「……おめでとうございます、レギュラス」
掠れた声がそう告げる。
彼女が、自分自身にではなく、「レギュラス」に向けて最初に発した言葉が祝福であることが、胸の奥深くに響いた。
その瞬間、レギュラスはようやく、長い長い戦いが終わったのだと理解した。
彼女の戦いが。
そして、自分が何もできないまま見守るしかなかった時間が。
「……ありがとう。アラン」
そう返す声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「まあ、見てごらんなさい、この顔立ち……」
ヴァルブルガは、ヒーラーから赤子を受け取ると、まるで宝石を扱うかのように腕の中に抱き込んだ。
白いレースの産着に包まれた小さな身体が、彼女の胸の前でかすかに身じろぎをする。
「ブラック家の子以外の何者でもありませんね。……この額、この目の形。オリオン、見なさいな」
「ふむ……」
オリオンは、ヴァルブルガの肩越しに覗き込み、珍しく目尻を緩める。
「眉のあたりはお前に似ているが、輪郭はレギュラスに近いか。……よい。実に、よい」
赤子は、抱き上げられた高さが変わったのが不満なのか、再びか細い声で泣き出した。
その度に、ヴァルブルガは抱き方を少し変え、あやすように揺れる。
「よしよし、泣き声も元気で結構。……これならすぐに、この家を賑やかにしてくれそうだこと」
オリオンは、妻の腕に収まる孫を見つめながら、何度か頷いた。
口数は少ないが、その表情からは満足と安堵が隠しきれない。
「アラン、本当によくやってくださいました」
ヴァルブルガは、赤子を抱いたまま寝台に近づき、珍しく柔らかな声をかけた。
「ありがとうございます奥様……」
アランは、わずかに首を動かして応える。
その表情には、安堵と疲労とが入り混じっていたが、義母の腕の中の赤子から目を離すことができなかった。
——あれが、自分の腹の中にいた子だ。
そう思うだけで、現実感と非現実感がないまぜになり、視界がじんと滲む。
「レギュラス、抱くといいわ」
ヴァルブルガは、赤子をそっと持ち上げなおし、息子に向き直った。
「せっかくの男の子ですもの。父親が一番に抱いてやらないと」
レギュラスは、一瞬だけ躊躇した。
腕を伸ばせば、すぐそこに自分の「跡継ぎ」がいる。
望んでやまなかったものが、自分の掌の中に収まるのだ。
だが、視線を少しだけ動かせば、寝台の上で静かに呼吸を刻むアランの姿が目に入る。
顔色はまだ戻り切っていない。
唇は血の気が薄く、髪は汗で頬に張りついたままだ。
シーツの上には、先ほどまでの戦いの痕跡が残り、身体のあちこちが疲労と痛みに支配されているのが一目で分かった。
「レギュラス?」
ヴァルブルガが、訝しげに首を傾げる。
「いえ……」
レギュラスは、ふっと息を吐き、ヴァルブルガの腕の中の赤子に視線を落とした。
ほんの一瞬だけ、その頬に指を触れさせる。
想像していたよりもずっと柔らかく、温かい。
胸の奥が大きく揺れたが、それ以上にどうしようもなく気になるものが、すぐ後ろにある。
——今、この状態のアランを、この場に長く晒しておきたくない。
喜びに沸き立つ両親の気配は理解できる。
自分自身も、本来ならその輪に飛び込み、赤子を抱き、笑っていたはずだ。
だが、薄いシーツ一枚に守られただけの彼女の身体が、義父母の視線のもとに置かれ続けることに、どうしようもなく居心地の悪さを覚えた。
彼女が最も無防備で、最も傷つきやすい状態にある、この一瞬だけは——
せめて、自分と彼女だけのものにしておきたかった。
レギュラスはそっと身を屈め、寝台脇にいたヒーラーの耳元に顔を寄せる。
「……父と母を、一度部屋から出していただけますか」
囁くような声だったが、その調子にはいつものような「お願い」ではなく、「指示」の色が滲んでいた。
ヒーラーは、驚いたように目を瞬かせる。
「旦那様?」
「アランを休ませたいのです。これ以上、この状態を人目に晒すつもりはありません」
短く、しかし明確に言い切る。
「後継の誕生を喜んでいるのは分かります。ですが、妻の体は限界です」
ヒーラーは、寝台の上のアランに一瞥を送り、その顔色を改めて確認した。
彼女の胸は浅く上下し、目蓋は重く閉じられかけている。
すぐに状況を理解し、ヒーラーは小さく頷いた。
「承知いたしました。……では、私からお伝えいたします」
ヒーラーはヴァルブルガとオリオンの方へ歩み寄り、穏やかな声で言葉をかけた。
「レディ・ブラック、ブラック卿。夫人のお体がたいへん消耗しておられます。大変申し訳ありませんが、一度お部屋を出ていただき、少し休息を——」
「まあ……そうね」
ヴァルブルガは、腕の中の赤子を見下ろし、名残惜しそうにそっと頬を擦り寄せた。
「いつまでも抱いていたいところですけれど、アランを休ませないといけませんわね。……ほら、オリオン」
赤子をオリオンに一度だけ預ける。
オリオンもまた、ほんの短い時間、腕の中の重みを感じ取ると、ヒーラーに抱き返した。
「アランに、我々からの感謝を伝えておいてくれ」
オリオンの低い声が、寝台のほうへ投げられる。
「はい……ありがとうございます」
アランは、まぶたの重さに抗いながらも、なんとか一言だけ返した。
それを聞き届けたヴァルブルガは、満足げに微笑み、レギュラスのほうへと視線を移す。
「レギュラス、少ししたらまた顔を出しますわ。……いい顔をしていること」
「ええ。ありがとうございます」
扉が開き、閉じる。
足音が遠ざかり、部屋の中は再び静寂に包まれた。
残ったのは、アランと、レギュラスと、ヒーラー数名と——
小さな産声をあげる赤子だけだった。
ヒーラーが赤子を簡潔に整え、再び布で包み直す。
血の気を帯びていた肌が、少しずつ穏やかな色合いに変わっていく。
「旦那様」
ヒーラーが、そっと問いかけるように赤子を差し出した。
「奥様の横にお連れしても?」
レギュラスは、アランの顔と、ヒーラーの腕の中の小さな存在を交互に見た。
そして、ゆっくりと頷く。
「……ええ。アランのそばに」
寝台の脇に設けられた小さなスペースに、ヒーラーが赤子を慎重に置く。
アランの手を、ほんの少しだけ伸ばせば届く距離だった。
「アラン」
レギュラスは、彼女の手をそっと取って導き、赤子の包まれた布の上に触れさせた。
「……あたたかいですね……」
アランの唇から、呟きがこぼれる。
指先に伝わる、小さく、それでも確かに感じられる鼓動。
布越しなのに、柔らかな重みが存在を主張していた。
「……僕たちの子です」
レギュラスは、静かに言った。
「ブラック家の跡継ぎであり……あなたの、息子です」
アランは、うっすらと目を開け直し、布の中の小さな顔を覗き込んだ。
その顔はまだ誰にも似ていないようであり、同時に、レギュラスやオリオン、ヴァルブルガの面影が混ざり合っているようにも見えた。
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
奪われたものも、手放したものも、戻らないものもたくさんある。
それでも、この小さな存在が、確かに自分の身体を通ってこの世に出てきたのだという事実だけは、揺るぎようがなかった。
「……ようこそ」
アランは、息を吐くように呟いた。
「ブラック家へ……わたしたちのところへ」
レギュラスは、その言葉を聞きながら、優しく彼女の髪を撫でた。
すべてを手にしたと傲慢に思ったこともある。
金も、地位も、家名も、権力も、美しい妻も、男児も。
だが今、目の前にあるのは——
生まれたばかりの祈りのような命と、命を削ってそれを産み落とした女と。
ただそれだけだった。
それだけで十分すぎるほどに、胸が満たされていた。
出産から、まだ幾日も経っていなかった。
窓辺には厚手のカーテンが半ばだけ引かれ、冬の光が柔らかく滲んでいる。
レギュラスの寝室——いつの間にか、その中央に据えられた大きな寝台が、アランの安静の場になっていた。
部屋の隅には、揺りかごがひとつ。
魔法でゆるやかに揺れるその中から、ときおり赤子の小さな声が聞こえてくる。泣き声というにはあまりにも心許なく、かすれた吐息のような、世界とまだうまく折り合えない生き物の、頼りない抗議の声。
アランは、枕元を少し高くし、上体を起こしたまま横たわっていた。
背中には幾枚もの柔らかなクッションが当てられているが、それでも姿勢を変えるたびに、下腹部が鈍く痛む。
「……っ」
ほんの少し寝返りを打とうとしただけで、腹の奥がぎゅう、と締めつけられる。
咄嗟に息を呑み、シーツを握りしめた指先に力がこもった。
その仕草を、レギュラスは見逃さなかった。
寝台の傍らの椅子に腰掛け、書類も持たずにただ座っていた彼は、小さく眉をひそめて身を乗り出す。
「……また痛みますか」
「……少しだけです、レギュラス」
アランは、なんでもないふりをしようと、微かに首を振った。
それでも顔色は正直で、唇はわずかに血の気を失い、睫毛の影が深く落ちている。
レギュラスは、その様子を見つめながら、しばし言葉を選ぶように沈黙した。
「どうして……お産が終わったあとも、まだ痛むんです?」
ぽつりと漏れた問いは、責めでも苛立ちでもない、純粋な無知からくるものだった。
戦場を知り、拷問も尋問も、暴力も血も見てきた男が——
目の前の女の痛みに関しては、驚くほど何も知らない。
「産めば解放されるものだと、どこかで思っていました。あなたが苦しむのは、せいぜいあの長い一夜だけだと……」
言いながら、苦く笑う。
「ですが、こうして見ていると……終わったはずの戦いの痛みが、まだ残っているように見えます」
アランは、一瞬だけ戸惑ったように瞬きをした。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……平気です。治りますから」
いつものように、自分のことは軽く扱う言葉だった。
それを聞いても、レギュラスは納得した顔をしない。
「平気そうには、とても見えませんが」
指先で、シーツの皺をなぞる。
握りしめたままのアランの手の、青白い指がかすかに震えているのを視線で追う。
「ヒーラーは、よくあることだと?」
「ええ……子宮が元の大きさに戻ろうとしているだけだと。しばらくは、そういう痛みが続くのだと説明を受けました」
言葉にするのもどこか気恥ずかしくて、アランは視線を伏せた。
レギュラスの寝室で、自分の身体の内側について淡々と語らなければならないという状況に、頬の内側でそっと歯を立てる。
レギュラスは、その視線の揺れを見て、ようやく少しだけ理解したような顔をした。
「……つまり、あれだけ膨らんだものが、無理やり元に戻されている、というわけですか」
「無理やり、というほどでは……」
アランは、困ったように笑みをこぼす。
「身体が自然に、元に戻ろうとしているだけです」
「自然に、という言葉は便利ですね」
レギュラスは、穏やかながら皮肉を含んだ口調で呟いた。
「人が脳を潰されて死ぬのも、血を流して命を落とすのも、本来は自然なことなのでしょう。ですが、あなたが顔を歪めるのを見ていると、とても身体が ‘ただ自然に’ しているだけだとは思えない」
アランは言葉を失い、苦笑ともため息ともつかぬ息を漏らした。
「……レギュラス、あなたは、ずるい言い方をなさいます」
「ずるいですか?」
彼は首を傾げる。その仕草だけは、いつもの余裕ある青年貴族そのものだった。
「ずるいと思います」
アランは、枕に頭を預けたまま、天井を見上げる。
少しだけ呼吸を整え、痛みが引いていくのを待ちながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「痛いと申し上げれば、きっとレギュラスは、どうにかしようとなさるでしょう。ヒーラーを呼び寄せて、薬を増やして、魔法をかけて……。でも、これは、そういうものではなくて」
短い沈黙。
「……産んだあとまで、引っ張るものだとは、私も思っていませんでした。だから、お産が終われば解放されると思ってしまっていたのは、きっとレギュラスと同じです」
自嘲めいた笑みが、唇に浮かぶ。
「でも現実は、身体のほうが、私の思惑よりずっと時間をかけて回復しようとしているようで。……それだけのことだと思います」
レギュラスは、その言葉を黙って聞きながら、視線をアランの腹部へと落とした。
つい数日前まで、張り詰めるほど膨らんでいた場所は、今もまだ元には程遠い形をしている。
ヒーラーは「順調です」と口を揃える。
だが、アランが少し動いただけで苦痛に息を詰まらせる様子を目にしてしまうと、その言葉をそのまま信じて良いのか、不安になる。
「……僕は」
レギュラスは、しばし遠くを見つめるような目をしたあと、低く続けた。
「産ませて終わりだと思っていたのかもしれません」
アランが、わずかに瞳を見開く。
「子供が無事に生まれてしまえば、すべてが ‘良い話’ で完結すると。ブラック家の跡継ぎも得られ、父も母も満足し、この屋敷は安泰で——」
そこで言葉を切る。
「……そのために、あなたがどれだけ長く痛みに付き合わされることになるのかを、真面目に想像していなかった」
アランは、ふと微笑んだ。
それは、責めるでも労わるでもなく、どこか諦念と優しさが混じった笑みだった。
「きっと、どこかで皆、そうなのでしょうね」
「皆?」
「ええ。男の人も、子供のいない人も。……もしかしたら、以前の私も」
小さく息を吸い込んで、アランは続ける。
「誰かが子供を産むたびに、 ‘おめでとう’ とか、 ‘よく頑張ったわね’ とか、言ってきました。でも、その ‘頑張り’ が、どれくらい続くものなのか、ちゃんと考えたことなんてありませんでした」
自分の指先を見下ろす。
細い指には、出産の最中にシーツを掴みすぎたせいでできた小さな傷が残っている。
「いざ自分がその立場になってみると、驚くことばかりで……。痛みも、疲れも、まだ終わらないのかと、少し呆れています」
冗談めかして言いながらも、その声にはわずかな震えがあった。
レギュラスは、それを誤魔化さなかった。
「呆れていいと思います」
率直な口調だった。
「僕も、呆れています。神か何か知りませんが、人の身体をこういう仕組みにしたものに対して」
アランは思わず吹き出しかけ、すぐに腹の痛みに顔を歪めた。
「……レギュラス……そんなことを仰っては、罰が当たります」
「もう十分当たっている気がしますが」
レギュラスは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「望んだ通りの男児も授かり、父と母も喜び、僕も祝福を山ほど浴びせられました。その代わりに、あなたがこうしてしばらくまともに眠ることも動くこともできないのだとしたら——」
そこで少しだけ言葉を切り、彼女の目をまっすぐに見た。
「……割に合っているのかどうか、自信がありません」
アランは、目を瞬かせる。
次の瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。
彼は、レギュラス・ブラックは、こういうところがあった。
支配者として、夫として、魔法省の役人として、冷徹な判断を下す一方で——ときおり、ふいにこうして、すべての計算を脇に置いた言葉を落とす。
それが、ずるいと思う理由のひとつでもあった。
「……私は、割に合っていると思いますよ」
アランは、ゆっくりと瞬きをしながら言った。
「痛いですし、苦しいですし、眠りたくても眠れない夜もあります。でも……」
視線を、寝室の隅の揺りかごへと向ける。
静かに魔法の揺りが続いているその中で、小さな影が丸くなっていた。
たまにぴくりと手足を動かし、小さな口が何かをしゃぶるようにすぼまる。
「あの子が生まれてきてくれたことは……どれだけ痛くても、帳消しにしてしまえるくらい、嬉しかったですから」
言いながら、自分で言葉の甘さに気づき、頬が熱を帯びる。
レギュラスは、その横顔を見つめたまま、ふっと息を吐いた。
「やはり、あなたは強い」
「強くなんて……」
「強いですよ」
かぶせるような声音だったが、そこに責めはない。
「僕なら、同じことは言えません。血の匂いを思い出すだけで吐き気がするのに、それを ‘帳消し’ にしてしまえると断言できるほど、できた人間ではない」
「レギュラスは、十分すぎるほど ‘できた人’ だと思いますけれど」
アランは、苦笑しながら返す。
「少なくとも……あの夜、部屋から出て行かず、最後までそばにいてくださったことは、私は忘れません」
レギュラスは一瞬、視線を逸らした。
そのときだけ、魔法省の役人でもブラック家の次期当主でもない、ひとりの若い男の顔になった。
「出て行けと言われても、出て行かなかったと思います」
「ヒーラーの言うことも聞かない、困ったご主人様ですね」
「ええ。あなたの夫ですから」
静かなやり取りのあと、ふと、部屋の空気が和らいだ。
揺りかごのほうから、小さな声がもぞ、と漏れた。
アランがそちらを見ようとした途端、腹の奥がまたきゅう、と締めつけられる。
顔を顰める様子に気づき、レギュラスはすぐに椅子から立ち上がった。
「僕が行きます。あなたは動かないで」
柔らかくそう言って、揺りかごへ向かう。
布をめくり、小さな顔を覗き込むと、薄く目を開けた赤子が、不満げに口を尖らせていた。
「……起きましたか、坊や」
レギュラスは、慣れない手つきでそっと抱き上げた。
腕の中の重みは軽い。しかし、その軽さの中に、どうしようもなく大きなものが詰まっているのを感じる。
眠そうに瞬きをする小さな目元は、自分にも、アランにも、どこか似ている気がした。
寝台のほうへ戻り、アランのそばに立つ。
「見ますか?」
問いかけると、アランは疲れの滲んだ瞳のまま、しかしはっきりと頷いた。
「……はい」
レギュラスは、彼女が上体を起こそうとするのを見て、すぐに制した。
「動かなくていい。——ほら」
赤子を腕に抱いたまま、寝台の縁に腰掛け、アランの視線の高さまでそっと身体を傾ける。
小さな顔が、アランの目の前に近づいた。
「……」
アランは、かすかに震える指先を伸ばした。
赤子の頬に触れないよう、布の上をそっと撫でる。
「やっぱり……レギュラスに似ています」
「そうですか?」
「ええ……ここが……」
指先で、おでこの形をなぞる。
それから、とても小さな声で付け加えた。
「……でも、指先は少し、私に似ている気がします」
「それは羨ましいですね」
レギュラスは、おどけたように言った。
「僕に似ているところは放っておいても構いませんが、あなたに似ているところは、ちゃんと大事に見ておかないと」
アランは、思わず笑いかけて——ほんの少しだけ眉を寄せた。
腹の奥で、また短い痛みが走ったのだ。
レギュラスは、その表情を見逃さなかった。
「……やはり、まだ痛みますか」
「大丈夫です。本当に、少しだけですから」
「 ‘少し’ という言葉も、便利ですね」
先ほどと同じ言い方で返され、アランは困ったように視線を泳がせる。
レギュラスは、赤子を片腕に抱いたまま、空いたほうの手でアランの髪をそっと撫でた。
「僕はまだ、不慣れです」
「何に、でしょうか」
「夫としても、父親としても」
淡々とした声だった。
「だから、あなたの ‘平気です’ という言葉を、どこまで信じて良いのか分からない。……信じたい半分と、信じてはいけない半分が、いつもせめぎ合っています」
は、その告白に、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
「……では、こう言えばよろしいでしょうか」
「聞かせてください」
「痛いです。けれど、耐えられないほどではありません。……それに、あなたがそばにいてくださるなら、少しは楽になります」
言い終えた瞬間、自分の言葉の甘さを自覚して、アランは慌てて視線を外した。
頬が熱を帯びてゆくのが分かる。
レギュラスは、一拍の沈黙のあと、小さく笑った。
「それは、努力のしがいがありますね」
赤子を抱いた腕の重みが、いまは心地よい。
「支配でも命令でも、劣情でもなく……ただ、あなたとこの子のそばにいることだけは、きっと僕にも許されているでしょうから」
その言葉に、はゆっくりと目を閉じた。
痛みは、まだ消えない。
眠りも浅く、身体は思うように動かない。
それでも、寝台の片側には、産まれたばかりの小さな命が揺りかごから移されて眠り、もう片側には、不器用な手つきで抱きかかえる男がいる。
――こんな形でなら、まだしばらく続く痛みとも、付き合っていけるかもしれない。
そう思いながら、は静かにまぶたを開け、レギュラスと、その腕の中の子を見つめ続けた。
灯りを落とした室内には、浮かぶように淡い魔法灯だけが点り、白いシーツの上に横たわるアランの横顔と、忙しなく動き回るヒーラーたちの白衣を照らしている。
壁際には湯気を立てる湯桶や、清潔な布が山のように積まれ、薬草と消毒薬と血の混じった匂いが、空気の底に重たく滲んでいた。
「……はあ……っ……」
アランは、浅く、短く息を吐いた。
額には汗が滲み、濡れた髪が頬に張りついている。それでも喉から悲鳴を上げることはなかった。
「声を上げると、力が散ってしまいます。呼吸に集中して——そう、静かに」
ヒーラーの低い声が、何度目か分からない指示を重ねる。
アランは微かに頷き、唇を噛んだ。肩から腕にかけて、細い筋肉が必死に耐えているのが分かる。
レギュラスは、寝台の頭側に立ち、アランの手を握っていた。
握られているというよりは、握らせている——
力の入らない指を、自分の手の中に包み込んでいる感覚に近い。
ヒーラーに「始まった」と告げられてから、どれほど時間が経ったのか。
昼と夜の境界はとうに曖昧になり、時計の針の位置だけが、容赦なく途方もない時間の経過を示していた。
「……っ、……」
ふいに、アランの瞳から光がすっと抜け落ちる。
握っている手からも、一瞬、力が消えた。
「アラン」
レギュラスは思わず身を乗り出す。
「大丈夫です、旦那様」
すぐ側にいたヒーラーが、落ち着いた声で制した。
「寝ているだけです。お気になさらずに。痛みと痛みの間の、短い休息の時間ですから」
「……こんな、いきなり意識を手放すものなんですか」
自分の声が、驚くほど掠れていた。
問いかけながら、アランの閉じた瞼をじっと見つめる。
さっきまで荒く波打っていた胸が、嘘のように静かになる。
頭の横にこぼれていた髪が、微かな寝息に合わせてかすかに揺れる。
「ええ。人によっては叫び続けて一睡もしない方もいらっしゃいますし——」
ヒーラーは、アランの脈を測りながら続けた。
「夫人のように、力のいる陣痛の合間に、ぱたりと眠りに落ちる方もいます。身体が自分で休もうとしているのです。正常です」
正常——その言葉だけが救いのように耳に残る。
だが、さっきまで苦しげに息を詰めていた女が、何の前触れもなく「眠り」に落ちる様子は、どうしても安穏なものとは思えなかった。
まるで崖から足を踏み外したように、意識が奈落に落ちていく。
そんな印象さえあった。
どれほどの時間、そうしていただろう。
アランの瞼が、ぴくりと震えた。
すぐに深い翠の光が戻り、焦点の合わぬまま天井を見つめる。
「……レギュラス……」
かすれた声で呼ばれ、レギュラスは手を握り直した。
「ここにいます」
「……すみません、また……寝てしまって……」
「謝ることではありません。むしろ僕のほうが、何もできていない」
アランは、うっすらと笑おうとして、すぐに表情を歪めた。
次の波が、襲ってきたのだ。
腹のあたりが強く緊張し、肩と腕に力がこもる。
アランは歯を食いしばり、喉の奥で息を押しとどめた。
叫び声は上がらない。
ヒーラーに言われた通り、声を飲み込み、その代わりに全ての力を下腹部に落としていく。
顔色がぐっと蒼くなり、細い首筋の血管が浮き上がる。
レギュラスは、握る手に自分の親指を添え、ゆっくりと擦るように動かした。
「大丈夫です。……あと少しだと、ヒーラーが言っていました」
何度目の「あと少し」か分からない。
それでも、そう言うしかなかった。
やがて、ヒーラーの動きが変わった。
誰かが新しい桶を持ち込み、床のそばに置く。
別の者が、白い布の山をさらに積み上げる。
「旦那様」
年長のヒーラーが、寝台の足元から顔を上げた。
「ここから先は、多くの出血が伴います。立ち会いをご希望でしたが、いったん……」
部屋の外でお待ちになったほうが——と続けようとしたその言葉を、レギュラスは静かに遮った。
「いいえ。ここにいます」
ヒーラーの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「正直に申し上げます。美しい場面ではございません。奥方のお姿も——」
「承知しています」
レギュラスは、はっきりと頷いた。
「それでも、僕がここを離れる選択肢はありません。続けてください」
短い沈黙ののち、ヒーラーは息を吐いて頷いた。
「……分かりました。では、旦那様、奥様の頭側から離れないでください。決してこちらには回らないように」
「分かりました」
その忠告だけは受け入れることにする。
ヒーラーたちが布の位置を整え、呪文を唱え始める。
アランは、朦朧とした意識の中で、握られた手の温もりを確かめるように指を動かした。
「……頑張りましょう、アラン」
レギュラスは、彼女の耳元に唇を近づける。
「もう少しです。……あなたなら、必ずできます」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
その後の時間は、切れ切れの映像の連なりのようだった。
ヒーラーの短い指示。
アランの喉の奥で押し殺された呻き。
呪文の響きと、魔法灯の光が一瞬だけ強くなる瞬間。
レギュラスは、ただひたすら手を握り続けた。
乾いた掌に、汗がじわじわと滲み出してくる。
アランの指は、波が来るたびに骨が軋むほど力を込め、過ぎれば糸が切れたように力を失っていく。
その繰り返しの中で、時間の感覚は完全に壊れていた。
「……ぐっ……」
天井近く、目に見えないところで、何かの音がした——ような気がした。
だが、レギュラスの意識はもはや音を正しく区別できない。
そのとき、聞き慣れない別の音が、耳に飛び込んできた。
ぽと……ぽとん……ぼと、ぼと……。
規則的とは言えない、濡れたものが落ちる音。
レギュラスは反射的に顔を上げ、視線を音のほうへ向けてしまった。
床のそばに置かれた桶。
その中に、赤く濁った液体が溜まりつつあった。
最初は、水に滲んだインクのように思えた。
だが、目が慣れるにつれて、それが水に混じった血の色であることが、嫌でも理解させられる。
ぽとり、と、また一滴。
白かった布が、桶の縁でじわりと赤く染まっていく。
一瞬で、全身の血の気が引いた。
喉の奥がきゅっと狭まり、呼吸がうまくできない。
視界がすっと遠のき、耳鳴りがする。
頭の奥で、鈍い痛みが脈打ち始めた。
……これが、バーテミウスの言っていた……
むせ返る血の匂い——
その言葉が、ほとんどそのまま現実になっていた。
鼻腔の奥に、鉄錆に似た重たい匂いがまとわりつく。
深く息を吸うたび、胸の内側までその匂いが染み込んでくる気がした。
美しいどころか、残酷で、生々しく、荒々しい。
自分が日々見慣れているはずの「暴力」とも、戦場の血とも違う。
これは、命を絶つための血ではない。
命を産み落とすために、容赦なく流されていく血だった。
「旦那様」
思わず桶に見入っていた視線を、ヒーラーの鋭い声が引き戻す。
「こちらではなく、奥様だけをご覧ください。——手を離さないで」
レギュラスは、弾かれたようにアランの顔へと視線を戻した。
彼女は、唇を色を失わせ、額に汗を滲ませながら、それでも静かに息を整えようとしている。
瞳は薄く開いているが、焦点は合っていない。
「…… アラン」
名を呼ぶと、彼女の瞼がわずかに震えた。
「……レギュラス……?」
かすれた声が、確かに応えた。
「ここにいます。……大丈夫です、聞こえていますか」
アランは、ぎゅっと彼の手を握った。
指先が震えている。
「……全部……流れてしまいそうで……こわい……」
たどたどしく洩れた言葉に、レギュラスは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「流れません」
即座に否定した。
「あなたも、子供も。——誰にも渡しません」
そう言いながら、自分の言葉が半ば自分に向けた祈りであることを自覚していた。
美しい妻も。
子供も。
全て手に入れた——そう思っていた。
だが、その代償として、こんなにも苦しむ妻の姿を突きつけられるとは。
その現実は、勝利の陶酔など一瞬で吹き飛ばすほどの、地獄に近いものだった。
「さあ、ここが正念場ですよ、夫人」
ヒーラーの声が、少しだけ高くなる。
「今まで通り、声は飲み込んで結構。ただし、ここからは——」
説明の言葉は、レギュラスの耳にはほとんど届かなかった。
握る手の感触だけが、現実につなぎとめている唯一のものだった。
ぽと、ぽと、と、なおも水音は続く。
血の匂いは強まるばかりだ。
それでもレギュラスは、決して目を逸らさなかった。
桶からではない。
アランから。
彼女の額の汗を、指先でそっと拭いながら、何度も何度も名前を呼ぶ。
「アラン、あと少しです」
「……一緒に……いて、ください……」
かろうじて絞り出された願い。
「もちろんです」
即答だった。
「あなたが眠ろうと、叫ぼうと、どれだけ時間がかかろうと——ここから動きません」
その言葉が、自分に課した誓いでもあった。
むせ返る血の匂いに酔いそうになりながらも、レギュラスはただひたすら、彼女の手を握り続けた。
これほどまでに、自分の無力さを突きつけられたことは一度もなかった。
同時に、どれほどの権力や財があっても変えられない瞬間が、この場所に凝縮されていることを、痛いほど理解させられていた。
——まだ、産声は聞こえない。
その瞬間を待ちながら、レギュラスは地獄の淵に立たされたような心地で、ただ一人の女と、その身に宿る小さな命の、苛烈な戦いを見守り続けていた。
産声は、思いのほか細く、高く、震えていた。
しかしその一声が、どれほど張り詰めていた空気を一気にほどいたか——部屋の中にいた誰もが、息を吐くようにしてそれを悟った。
ヒーラーの腕の中で、高々と抱き上げられた赤子は、まだしわくちゃな肌を赤く染め、ぎゅっと目を閉じて泣き叫んでいる。
小さな指が空を掴むように開いては閉じ、薄い唇が震えながら、世界に対する最初の抗議を続けていた。
「……男児です」
年長のヒーラーが告げる。
その一言に、部屋の隅で待機していた看護師たちすら、ほっと肩の力を抜いた。
扉の向こうで待っていたヴァルブルガ・ブラックは、その報せを聞くなり、抑えきれない勢いで部屋になだれ込んできた。
「男の子……? 本当に?」
魔法灯の光が揺れるほどの勢いで近づいてくる。
白いローブの裾がひらめき、華奢な身体に似合わぬほどの熱を宿した視線が、ヒーラーの腕の中の赤子に吸い寄せられる。
オリオンも、その後ろからゆっくりと姿を現した。
いつもの厳格な表情はわずかに崩れ、口元にははっきりと笑みが浮かんでいる。
胸の前で腕を組んだまま、それでも目だけは赤子から離そうとしない。
「……よくやったな、レギュラス」
短く、それだけ。
しかし、レギュラスはその言葉の重みを痛いほど理解していた。
ブラック家の次代を担う男児。
望まれ続けてきた「跡継ぎ」が、ついにこの世に姿を現した。
神の加護という言葉が、馬鹿げた比喩ではなく、現実に形を伴ってそこにあるような気がした。
——神にでもなったようだと、つい先日冗談めかしてバーテミウスに言ったばかりだった。
いま、その感覚は冗談の域を越えて、現実の手触りを持ちはじめていた。
「アラン」
レギュラスは、寝台の上の女へと目を向けた。
アランは、枕に頭を預け、かすかに開いた唇から浅い呼吸を繰り返している。
長い黒髪は汗で頬に張りつき、首筋へと流れている。
顔色はまだ白く、睫毛の影だけがくっきりとした線を描いていた。
「……レギュラス……?」
名を呼ぶように視線を落とすと、薄く開いた翡翠の瞳がゆっくりと彼を捉えた。
レギュラスは、その枕元に膝をつき、そっと彼女の手を取る。
先ほどまで自分の掌を潰さんばかりに握り続けていた手は、いまは力が抜け、指先だけがかすかに震えていた。
「アラン、よく頑張りましたね」
声が自然に柔らかくなる。
「本当に……よく……」
言葉を続けようとして、喉の奥で何かが詰まる。
あれほど血の匂いに酔いそうになっていたのに、今は目の奥が熱くなり、涙の気配がそこまできていた。
アランは、弱々しく、けれど確かな意思のこもった眼差しでレギュラスを見上げると、かすかに唇の端を持ち上げた。
静かな、しかしこの上なく美しい笑みだった。
「……おめでとうございます、レギュラス」
掠れた声がそう告げる。
彼女が、自分自身にではなく、「レギュラス」に向けて最初に発した言葉が祝福であることが、胸の奥深くに響いた。
その瞬間、レギュラスはようやく、長い長い戦いが終わったのだと理解した。
彼女の戦いが。
そして、自分が何もできないまま見守るしかなかった時間が。
「……ありがとう。アラン」
そう返す声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「まあ、見てごらんなさい、この顔立ち……」
ヴァルブルガは、ヒーラーから赤子を受け取ると、まるで宝石を扱うかのように腕の中に抱き込んだ。
白いレースの産着に包まれた小さな身体が、彼女の胸の前でかすかに身じろぎをする。
「ブラック家の子以外の何者でもありませんね。……この額、この目の形。オリオン、見なさいな」
「ふむ……」
オリオンは、ヴァルブルガの肩越しに覗き込み、珍しく目尻を緩める。
「眉のあたりはお前に似ているが、輪郭はレギュラスに近いか。……よい。実に、よい」
赤子は、抱き上げられた高さが変わったのが不満なのか、再びか細い声で泣き出した。
その度に、ヴァルブルガは抱き方を少し変え、あやすように揺れる。
「よしよし、泣き声も元気で結構。……これならすぐに、この家を賑やかにしてくれそうだこと」
オリオンは、妻の腕に収まる孫を見つめながら、何度か頷いた。
口数は少ないが、その表情からは満足と安堵が隠しきれない。
「アラン、本当によくやってくださいました」
ヴァルブルガは、赤子を抱いたまま寝台に近づき、珍しく柔らかな声をかけた。
「ありがとうございます奥様……」
アランは、わずかに首を動かして応える。
その表情には、安堵と疲労とが入り混じっていたが、義母の腕の中の赤子から目を離すことができなかった。
——あれが、自分の腹の中にいた子だ。
そう思うだけで、現実感と非現実感がないまぜになり、視界がじんと滲む。
「レギュラス、抱くといいわ」
ヴァルブルガは、赤子をそっと持ち上げなおし、息子に向き直った。
「せっかくの男の子ですもの。父親が一番に抱いてやらないと」
レギュラスは、一瞬だけ躊躇した。
腕を伸ばせば、すぐそこに自分の「跡継ぎ」がいる。
望んでやまなかったものが、自分の掌の中に収まるのだ。
だが、視線を少しだけ動かせば、寝台の上で静かに呼吸を刻むアランの姿が目に入る。
顔色はまだ戻り切っていない。
唇は血の気が薄く、髪は汗で頬に張りついたままだ。
シーツの上には、先ほどまでの戦いの痕跡が残り、身体のあちこちが疲労と痛みに支配されているのが一目で分かった。
「レギュラス?」
ヴァルブルガが、訝しげに首を傾げる。
「いえ……」
レギュラスは、ふっと息を吐き、ヴァルブルガの腕の中の赤子に視線を落とした。
ほんの一瞬だけ、その頬に指を触れさせる。
想像していたよりもずっと柔らかく、温かい。
胸の奥が大きく揺れたが、それ以上にどうしようもなく気になるものが、すぐ後ろにある。
——今、この状態のアランを、この場に長く晒しておきたくない。
喜びに沸き立つ両親の気配は理解できる。
自分自身も、本来ならその輪に飛び込み、赤子を抱き、笑っていたはずだ。
だが、薄いシーツ一枚に守られただけの彼女の身体が、義父母の視線のもとに置かれ続けることに、どうしようもなく居心地の悪さを覚えた。
彼女が最も無防備で、最も傷つきやすい状態にある、この一瞬だけは——
せめて、自分と彼女だけのものにしておきたかった。
レギュラスはそっと身を屈め、寝台脇にいたヒーラーの耳元に顔を寄せる。
「……父と母を、一度部屋から出していただけますか」
囁くような声だったが、その調子にはいつものような「お願い」ではなく、「指示」の色が滲んでいた。
ヒーラーは、驚いたように目を瞬かせる。
「旦那様?」
「アランを休ませたいのです。これ以上、この状態を人目に晒すつもりはありません」
短く、しかし明確に言い切る。
「後継の誕生を喜んでいるのは分かります。ですが、妻の体は限界です」
ヒーラーは、寝台の上のアランに一瞥を送り、その顔色を改めて確認した。
彼女の胸は浅く上下し、目蓋は重く閉じられかけている。
すぐに状況を理解し、ヒーラーは小さく頷いた。
「承知いたしました。……では、私からお伝えいたします」
ヒーラーはヴァルブルガとオリオンの方へ歩み寄り、穏やかな声で言葉をかけた。
「レディ・ブラック、ブラック卿。夫人のお体がたいへん消耗しておられます。大変申し訳ありませんが、一度お部屋を出ていただき、少し休息を——」
「まあ……そうね」
ヴァルブルガは、腕の中の赤子を見下ろし、名残惜しそうにそっと頬を擦り寄せた。
「いつまでも抱いていたいところですけれど、アランを休ませないといけませんわね。……ほら、オリオン」
赤子をオリオンに一度だけ預ける。
オリオンもまた、ほんの短い時間、腕の中の重みを感じ取ると、ヒーラーに抱き返した。
「アランに、我々からの感謝を伝えておいてくれ」
オリオンの低い声が、寝台のほうへ投げられる。
「はい……ありがとうございます」
アランは、まぶたの重さに抗いながらも、なんとか一言だけ返した。
それを聞き届けたヴァルブルガは、満足げに微笑み、レギュラスのほうへと視線を移す。
「レギュラス、少ししたらまた顔を出しますわ。……いい顔をしていること」
「ええ。ありがとうございます」
扉が開き、閉じる。
足音が遠ざかり、部屋の中は再び静寂に包まれた。
残ったのは、アランと、レギュラスと、ヒーラー数名と——
小さな産声をあげる赤子だけだった。
ヒーラーが赤子を簡潔に整え、再び布で包み直す。
血の気を帯びていた肌が、少しずつ穏やかな色合いに変わっていく。
「旦那様」
ヒーラーが、そっと問いかけるように赤子を差し出した。
「奥様の横にお連れしても?」
レギュラスは、アランの顔と、ヒーラーの腕の中の小さな存在を交互に見た。
そして、ゆっくりと頷く。
「……ええ。アランのそばに」
寝台の脇に設けられた小さなスペースに、ヒーラーが赤子を慎重に置く。
アランの手を、ほんの少しだけ伸ばせば届く距離だった。
「アラン」
レギュラスは、彼女の手をそっと取って導き、赤子の包まれた布の上に触れさせた。
「……あたたかいですね……」
アランの唇から、呟きがこぼれる。
指先に伝わる、小さく、それでも確かに感じられる鼓動。
布越しなのに、柔らかな重みが存在を主張していた。
「……僕たちの子です」
レギュラスは、静かに言った。
「ブラック家の跡継ぎであり……あなたの、息子です」
アランは、うっすらと目を開け直し、布の中の小さな顔を覗き込んだ。
その顔はまだ誰にも似ていないようであり、同時に、レギュラスやオリオン、ヴァルブルガの面影が混ざり合っているようにも見えた。
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
奪われたものも、手放したものも、戻らないものもたくさんある。
それでも、この小さな存在が、確かに自分の身体を通ってこの世に出てきたのだという事実だけは、揺るぎようがなかった。
「……ようこそ」
アランは、息を吐くように呟いた。
「ブラック家へ……わたしたちのところへ」
レギュラスは、その言葉を聞きながら、優しく彼女の髪を撫でた。
すべてを手にしたと傲慢に思ったこともある。
金も、地位も、家名も、権力も、美しい妻も、男児も。
だが今、目の前にあるのは——
生まれたばかりの祈りのような命と、命を削ってそれを産み落とした女と。
ただそれだけだった。
それだけで十分すぎるほどに、胸が満たされていた。
出産から、まだ幾日も経っていなかった。
窓辺には厚手のカーテンが半ばだけ引かれ、冬の光が柔らかく滲んでいる。
レギュラスの寝室——いつの間にか、その中央に据えられた大きな寝台が、アランの安静の場になっていた。
部屋の隅には、揺りかごがひとつ。
魔法でゆるやかに揺れるその中から、ときおり赤子の小さな声が聞こえてくる。泣き声というにはあまりにも心許なく、かすれた吐息のような、世界とまだうまく折り合えない生き物の、頼りない抗議の声。
アランは、枕元を少し高くし、上体を起こしたまま横たわっていた。
背中には幾枚もの柔らかなクッションが当てられているが、それでも姿勢を変えるたびに、下腹部が鈍く痛む。
「……っ」
ほんの少し寝返りを打とうとしただけで、腹の奥がぎゅう、と締めつけられる。
咄嗟に息を呑み、シーツを握りしめた指先に力がこもった。
その仕草を、レギュラスは見逃さなかった。
寝台の傍らの椅子に腰掛け、書類も持たずにただ座っていた彼は、小さく眉をひそめて身を乗り出す。
「……また痛みますか」
「……少しだけです、レギュラス」
アランは、なんでもないふりをしようと、微かに首を振った。
それでも顔色は正直で、唇はわずかに血の気を失い、睫毛の影が深く落ちている。
レギュラスは、その様子を見つめながら、しばし言葉を選ぶように沈黙した。
「どうして……お産が終わったあとも、まだ痛むんです?」
ぽつりと漏れた問いは、責めでも苛立ちでもない、純粋な無知からくるものだった。
戦場を知り、拷問も尋問も、暴力も血も見てきた男が——
目の前の女の痛みに関しては、驚くほど何も知らない。
「産めば解放されるものだと、どこかで思っていました。あなたが苦しむのは、せいぜいあの長い一夜だけだと……」
言いながら、苦く笑う。
「ですが、こうして見ていると……終わったはずの戦いの痛みが、まだ残っているように見えます」
アランは、一瞬だけ戸惑ったように瞬きをした。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……平気です。治りますから」
いつものように、自分のことは軽く扱う言葉だった。
それを聞いても、レギュラスは納得した顔をしない。
「平気そうには、とても見えませんが」
指先で、シーツの皺をなぞる。
握りしめたままのアランの手の、青白い指がかすかに震えているのを視線で追う。
「ヒーラーは、よくあることだと?」
「ええ……子宮が元の大きさに戻ろうとしているだけだと。しばらくは、そういう痛みが続くのだと説明を受けました」
言葉にするのもどこか気恥ずかしくて、アランは視線を伏せた。
レギュラスの寝室で、自分の身体の内側について淡々と語らなければならないという状況に、頬の内側でそっと歯を立てる。
レギュラスは、その視線の揺れを見て、ようやく少しだけ理解したような顔をした。
「……つまり、あれだけ膨らんだものが、無理やり元に戻されている、というわけですか」
「無理やり、というほどでは……」
アランは、困ったように笑みをこぼす。
「身体が自然に、元に戻ろうとしているだけです」
「自然に、という言葉は便利ですね」
レギュラスは、穏やかながら皮肉を含んだ口調で呟いた。
「人が脳を潰されて死ぬのも、血を流して命を落とすのも、本来は自然なことなのでしょう。ですが、あなたが顔を歪めるのを見ていると、とても身体が ‘ただ自然に’ しているだけだとは思えない」
アランは言葉を失い、苦笑ともため息ともつかぬ息を漏らした。
「……レギュラス、あなたは、ずるい言い方をなさいます」
「ずるいですか?」
彼は首を傾げる。その仕草だけは、いつもの余裕ある青年貴族そのものだった。
「ずるいと思います」
アランは、枕に頭を預けたまま、天井を見上げる。
少しだけ呼吸を整え、痛みが引いていくのを待ちながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「痛いと申し上げれば、きっとレギュラスは、どうにかしようとなさるでしょう。ヒーラーを呼び寄せて、薬を増やして、魔法をかけて……。でも、これは、そういうものではなくて」
短い沈黙。
「……産んだあとまで、引っ張るものだとは、私も思っていませんでした。だから、お産が終われば解放されると思ってしまっていたのは、きっとレギュラスと同じです」
自嘲めいた笑みが、唇に浮かぶ。
「でも現実は、身体のほうが、私の思惑よりずっと時間をかけて回復しようとしているようで。……それだけのことだと思います」
レギュラスは、その言葉を黙って聞きながら、視線をアランの腹部へと落とした。
つい数日前まで、張り詰めるほど膨らんでいた場所は、今もまだ元には程遠い形をしている。
ヒーラーは「順調です」と口を揃える。
だが、アランが少し動いただけで苦痛に息を詰まらせる様子を目にしてしまうと、その言葉をそのまま信じて良いのか、不安になる。
「……僕は」
レギュラスは、しばし遠くを見つめるような目をしたあと、低く続けた。
「産ませて終わりだと思っていたのかもしれません」
アランが、わずかに瞳を見開く。
「子供が無事に生まれてしまえば、すべてが ‘良い話’ で完結すると。ブラック家の跡継ぎも得られ、父も母も満足し、この屋敷は安泰で——」
そこで言葉を切る。
「……そのために、あなたがどれだけ長く痛みに付き合わされることになるのかを、真面目に想像していなかった」
アランは、ふと微笑んだ。
それは、責めるでも労わるでもなく、どこか諦念と優しさが混じった笑みだった。
「きっと、どこかで皆、そうなのでしょうね」
「皆?」
「ええ。男の人も、子供のいない人も。……もしかしたら、以前の私も」
小さく息を吸い込んで、アランは続ける。
「誰かが子供を産むたびに、 ‘おめでとう’ とか、 ‘よく頑張ったわね’ とか、言ってきました。でも、その ‘頑張り’ が、どれくらい続くものなのか、ちゃんと考えたことなんてありませんでした」
自分の指先を見下ろす。
細い指には、出産の最中にシーツを掴みすぎたせいでできた小さな傷が残っている。
「いざ自分がその立場になってみると、驚くことばかりで……。痛みも、疲れも、まだ終わらないのかと、少し呆れています」
冗談めかして言いながらも、その声にはわずかな震えがあった。
レギュラスは、それを誤魔化さなかった。
「呆れていいと思います」
率直な口調だった。
「僕も、呆れています。神か何か知りませんが、人の身体をこういう仕組みにしたものに対して」
アランは思わず吹き出しかけ、すぐに腹の痛みに顔を歪めた。
「……レギュラス……そんなことを仰っては、罰が当たります」
「もう十分当たっている気がしますが」
レギュラスは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「望んだ通りの男児も授かり、父と母も喜び、僕も祝福を山ほど浴びせられました。その代わりに、あなたがこうしてしばらくまともに眠ることも動くこともできないのだとしたら——」
そこで少しだけ言葉を切り、彼女の目をまっすぐに見た。
「……割に合っているのかどうか、自信がありません」
アランは、目を瞬かせる。
次の瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。
彼は、レギュラス・ブラックは、こういうところがあった。
支配者として、夫として、魔法省の役人として、冷徹な判断を下す一方で——ときおり、ふいにこうして、すべての計算を脇に置いた言葉を落とす。
それが、ずるいと思う理由のひとつでもあった。
「……私は、割に合っていると思いますよ」
アランは、ゆっくりと瞬きをしながら言った。
「痛いですし、苦しいですし、眠りたくても眠れない夜もあります。でも……」
視線を、寝室の隅の揺りかごへと向ける。
静かに魔法の揺りが続いているその中で、小さな影が丸くなっていた。
たまにぴくりと手足を動かし、小さな口が何かをしゃぶるようにすぼまる。
「あの子が生まれてきてくれたことは……どれだけ痛くても、帳消しにしてしまえるくらい、嬉しかったですから」
言いながら、自分で言葉の甘さに気づき、頬が熱を帯びる。
レギュラスは、その横顔を見つめたまま、ふっと息を吐いた。
「やはり、あなたは強い」
「強くなんて……」
「強いですよ」
かぶせるような声音だったが、そこに責めはない。
「僕なら、同じことは言えません。血の匂いを思い出すだけで吐き気がするのに、それを ‘帳消し’ にしてしまえると断言できるほど、できた人間ではない」
「レギュラスは、十分すぎるほど ‘できた人’ だと思いますけれど」
アランは、苦笑しながら返す。
「少なくとも……あの夜、部屋から出て行かず、最後までそばにいてくださったことは、私は忘れません」
レギュラスは一瞬、視線を逸らした。
そのときだけ、魔法省の役人でもブラック家の次期当主でもない、ひとりの若い男の顔になった。
「出て行けと言われても、出て行かなかったと思います」
「ヒーラーの言うことも聞かない、困ったご主人様ですね」
「ええ。あなたの夫ですから」
静かなやり取りのあと、ふと、部屋の空気が和らいだ。
揺りかごのほうから、小さな声がもぞ、と漏れた。
アランがそちらを見ようとした途端、腹の奥がまたきゅう、と締めつけられる。
顔を顰める様子に気づき、レギュラスはすぐに椅子から立ち上がった。
「僕が行きます。あなたは動かないで」
柔らかくそう言って、揺りかごへ向かう。
布をめくり、小さな顔を覗き込むと、薄く目を開けた赤子が、不満げに口を尖らせていた。
「……起きましたか、坊や」
レギュラスは、慣れない手つきでそっと抱き上げた。
腕の中の重みは軽い。しかし、その軽さの中に、どうしようもなく大きなものが詰まっているのを感じる。
眠そうに瞬きをする小さな目元は、自分にも、アランにも、どこか似ている気がした。
寝台のほうへ戻り、アランのそばに立つ。
「見ますか?」
問いかけると、アランは疲れの滲んだ瞳のまま、しかしはっきりと頷いた。
「……はい」
レギュラスは、彼女が上体を起こそうとするのを見て、すぐに制した。
「動かなくていい。——ほら」
赤子を腕に抱いたまま、寝台の縁に腰掛け、アランの視線の高さまでそっと身体を傾ける。
小さな顔が、アランの目の前に近づいた。
「……」
アランは、かすかに震える指先を伸ばした。
赤子の頬に触れないよう、布の上をそっと撫でる。
「やっぱり……レギュラスに似ています」
「そうですか?」
「ええ……ここが……」
指先で、おでこの形をなぞる。
それから、とても小さな声で付け加えた。
「……でも、指先は少し、私に似ている気がします」
「それは羨ましいですね」
レギュラスは、おどけたように言った。
「僕に似ているところは放っておいても構いませんが、あなたに似ているところは、ちゃんと大事に見ておかないと」
アランは、思わず笑いかけて——ほんの少しだけ眉を寄せた。
腹の奥で、また短い痛みが走ったのだ。
レギュラスは、その表情を見逃さなかった。
「……やはり、まだ痛みますか」
「大丈夫です。本当に、少しだけですから」
「 ‘少し’ という言葉も、便利ですね」
先ほどと同じ言い方で返され、アランは困ったように視線を泳がせる。
レギュラスは、赤子を片腕に抱いたまま、空いたほうの手でアランの髪をそっと撫でた。
「僕はまだ、不慣れです」
「何に、でしょうか」
「夫としても、父親としても」
淡々とした声だった。
「だから、あなたの ‘平気です’ という言葉を、どこまで信じて良いのか分からない。……信じたい半分と、信じてはいけない半分が、いつもせめぎ合っています」
は、その告白に、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
「……では、こう言えばよろしいでしょうか」
「聞かせてください」
「痛いです。けれど、耐えられないほどではありません。……それに、あなたがそばにいてくださるなら、少しは楽になります」
言い終えた瞬間、自分の言葉の甘さを自覚して、アランは慌てて視線を外した。
頬が熱を帯びてゆくのが分かる。
レギュラスは、一拍の沈黙のあと、小さく笑った。
「それは、努力のしがいがありますね」
赤子を抱いた腕の重みが、いまは心地よい。
「支配でも命令でも、劣情でもなく……ただ、あなたとこの子のそばにいることだけは、きっと僕にも許されているでしょうから」
その言葉に、はゆっくりと目を閉じた。
痛みは、まだ消えない。
眠りも浅く、身体は思うように動かない。
それでも、寝台の片側には、産まれたばかりの小さな命が揺りかごから移されて眠り、もう片側には、不器用な手つきで抱きかかえる男がいる。
――こんな形でなら、まだしばらく続く痛みとも、付き合っていけるかもしれない。
そう思いながら、は静かにまぶたを開け、レギュラスと、その腕の中の子を見つめ続けた。
