2章
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羊皮紙の端に、ペン先で小さく印を付ける。
日取りはすでに決まり、招待客の名もほとんど出揃った。
式は、粛々と、華やかに執り行われるだろう。
その中心で、自分はクラリッサの手を取る。
アランはいち招待客として、その光景を見つめる。
そのとき、胸の中にどんな痛みが生まれるのか。
それを抱えたまま生きていくことが、自分に課せられた罰なのだと、ローランドは薄々悟っていた。
隣で笑う幼い婚約者の温もりを感じながら、彼は静かに息を吐いた。
この先、自分が抱くべきは、目の前の少女であり——
過去に手放した女性は、二度と振り返って手を取ることのできない「永遠」として胸の奥に封じておくしかないのだと。
その覚悟が、まだ完全に形を成せずにいるところが、彼の苦しさそのものだった。
魔法省の大広間は、今夜も眩しいほどに光に満ちていた。
幾つものシャンデリアからこぼれる灯りが、磨き込まれた床と白い柱に反射し、淡い金色の靄となって宙を漂う。
壁際には長く伸びるビュッフェテーブルが用意され、豪奢な料理と煌びやかな酒瓶が隙間なく並べられている。
音楽室からは、絹のようになめらかな楽の音が絶えず流れ込み、ざわめきと笑い声と混じり合っていた。
魔法省の役人たちを中心に集められた宴——
政治の駆け引きが影で幾重にも交錯しながらも、表向きには「親睦会」という名目が与えられた場。
その中心にいるべき一人であるレギュラス・ブラックは、今夜、単身でその場に姿を現していた。
「ブラック卿、奥方はご一緒では?」
グラスを片手に近づいてきたのは、財務局の重鎮だった。
初老の男が、皺を刻んだ目尻をさらに細める。
「ええ、今日は屋敷で休ませております」
レギュラスは、手にしたシャンパングラスを軽く傾けるように持ち上げ、いつもの貼り付けたような柔らかな笑みを浮かべた。
「最近は随分お腹も目立ってきましてね。
長時間立ちっぱなしは、さすがに酷かと」
「それはそれは。もう、いつ生まれてもおかしくない頃合いですかな?」
同じ問いは、今夜だけで何度目になるだろう。
レギュラスは、内心でその回数を淡々と数えながら、表面には一切の退屈さを滲ませなかった。
「ヒーラー曰く、まだ少し猶予はあるそうですが。
よほどのことがない限り、無事にこのまま迎えられるだろうとのことです」
「おめでたい、実におめでたい。ブラック家にとっても、魔法界にとっても喜ばしいことですな」
繰り返される祝辞に、レギュラスは適切な微笑と相槌を返していく。
祝福の言葉は嫌いではない。
ブラック家の跡取りを待ち望む視線も、悪くない。
だが——
……物足りないものですね。
薄くグラスを揺らしながら、彼は内心で苦笑した。
アランを伴って出席する宴で向けられる視線の心地よさ——
あれを一度知ってしまえば、こうして一人で立つ夜は、どこか味気ないものに感じられる。
宝石灯の下で浮かび上がる、翡翠の瞳と黒髪。
ドレスの色ひとつで場の空気を変えてしまうほどの存在感。
そして、ブラック家の男の隣に静々と立ちながら、決して自分を誇示せず、それでも目を奪われる気品。
そうしたすべてを「自分の妻」として見せびらかせる優越感は、いまやレギュラスの愉楽のひとつになっていた。
今夜、その姿はここにいない。
それが当然だと理解しながらも、無意識に視線が空白を探してしまう自分が、少しだけ可笑しかった。
音楽が一段落し、会場のざわめきが少し落ち着いた頃。
「ブラック様」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り向けば、ローランド・フロストがいた。
その隣には、淡いクリーム色のドレスに身を包んだクラリッサ・ブラックバーン。
青い瞳を持つ青年は、いつもと変わらず整った礼節を崩さない。
一方でクラリッサは、場にふさわしい所作を守りながらも、その笑みの端々にまだ年若い天真爛漫さを覗かせていた。
「フロスト殿。それに、クラリッサ嬢」
レギュラスは穏やかに微笑む。
「お越しいただき、ありがとうございます。
お二人とも、よくお似合いですよ」
クラリッサは頬を染めて軽く頭を下げた。
「ブラック様にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ。
ねえ、ローランド様?」
「……身に余るお言葉です。ありがとうございます、ブラック様」
ローランドは、クラリッサに視線を送ってから、きっちりと一礼を添えた。
――なるほど。
レギュラスは、二人の動きの一つ一つを観察するように眺めた。
クラリッサの腕が、ごく自然にローランドの袖をつまむ。
ローランドはそれを拒むでもなく、無闇にはしゃがせまいと絶妙な距離を保ちながらも、支える立場を崩さない。
「夫婦」としての形を、彼らなりに模索し、少しずつ身にまとい始めているのだろう。
「仲睦まじいご様子で。安心いたしました」
レギュラスの言葉に、クラリッサがぱっと顔を明るくする。
「はい、とても大切にしていただいておりますわ。
ローランド様は、とても——」
「クラリッサ」
ローランドが、穏やかに彼女の名を呼んだ。
その声音には、さりげない制止と気遣いが混じる。
クラリッサは「あ」と小さく口を押さえ、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……少々、口が過ぎましたわね」
レギュラスは、そのやり取りをどこか愉快そうに眺めている。
「クラリッサ嬢、フロスト殿を困らせてはいませんか?」
わざと含みを持たせた調子で問うと、少女はふるふると首を振った。
「いいえ。困らせてなんておりませんわ。……よね? ローランド様」
「……ええ。クラリッサ様は、いつも場を明るくしてくださいます」
模範解答のような返答だった。
だが、その中にごく僅かな逡巡を感じ取ることは、レギュラスには難しくなかった。
相変わらず、真面目すぎる男だ。
クラリッサの無邪気さに、彼は慣れてきたのだろう。
それでも、その奥にある「想い」をどこまで受け止められているのか——そこまでは、さすがのレギュラスも読みきれない。
「ブラック夫人は、いかがでいらっしゃいますか」
ローランドが、ふと真面目な調子で口を開いた。
「先日、お加減が優れないと伺いましたので……。
どうか、式へのご参列はご無理なさらぬようにと」
アラン様、と名前を口に出さない。
その線引きは、徹底されている。
ローランドの青い瞳は、礼節の仮面を崩さないまま、どこか遠くを見ているようにも見えた。
レギュラスは、その視線を静かに受け止める。
「お気遣い、ありがとうございます。
妻の体調は、おかげさまで落ち着いておりますよ」
グラスを軽く揺らしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「安定期に入ってからは、ヒーラーもすこぶる順調だと太鼓判を押していましてね。
お腹も、ようやく外から見て分かるほどに膨らんできました」
そこで、彼はほんのわずかに目を細めた。
「……あなた方の式の日取りを、先日拝見しました」
ローランドの指先が、ほんの僅かに動いた。
「光栄です。ご多忙のなか、お目通しいただき——」
「きっと、その頃には生まれているでしょう」
レギュラスは、さらりと言葉を重ねる。
「ですから、できる限り——妻も連れて、お二人の晴れ舞台をお祝いできればと考えております」
クラリッサがぱっと顔を輝かせた。
「まぁ……それは、とても心強いですわ!
ブラック夫人にお越しいただけたら、わたくし、本当に嬉しいです。ねえ、ローランド様?」
「……ブラック様に、そうおっしゃっていただけるだけで十分です」
ローランドは、わずかに視線を落とした。
礼節を崩さない表情の奥で、何かが固く握りしめられている。
アランが、自分の式に現れる。
自分が彼女の式に立ち会ったときと同じように。
今度は、アランは「ブラック夫人」として。
自分は「フロスト家当主としての新郎」として。
その構図を思い描いた瞬間、胸の奥で鈍い痛みが走った。
レギュラスは、その微かな変化を見逃さない。
気づかないふりをして、淡々と会話を続けることもできた。
だが、彼の性質はそれを良しとしない。
「アランも、あなた方のことを案じていましたよ」
何気ない風を装って、そう告げる。
ローランドの肩が、ほんの僅かにこわばった。
「『どうか、フロスト殿の負担にならないように』とね。……相変わらず、自分の心配より他人の心配が先に出てくる人です」
そこでレギュラスは、わざと少しだけ口元を和らげた。
「ですから、フロスト殿。どうか安心してください。
妻もきっと、あなた方の門出を祝福するでしょう」
ローランドは、黙って頭を下げた。
祝福されることが、これほど苦しいこともあるのか。
そんな言葉を口に出すことはない。
ただ、貴族の青年として正しい返答を選び取る。
「……ありがたきお言葉、痛み入ります」
レギュラスは、満足げにグラスを傾けた。
クラリッサは、事情を知らない無垢さで微笑んでいる。
「ブラック様も、奥方もお越しくださるなんて、本当に心強いですわ。
わたくし、お色直しのドレスももっとしっかり選ばなければ。ブラック夫人に笑われてしまいますもの」
「アランが、クラリッサ嬢を笑うことなどありませんよ」
レギュラスは即座に否定した。
「きっと、誰よりも優しく見守るはずです。……ああいう人ですからね」
「よく知っている」と告げる声音。
ローランドの胸に、鋭く突き刺さる。
周囲では、別の役人たちが談笑を続けている。
政治の話題、最新の法案、魔法産業の動向、子どもの進学先。
そのざわめきの中心で、たった三人の会話だけが、異なる温度を孕んでいた。
レギュラスは、表面上いささかの波立ちも見せない。
クラリッサは、ただ未来の式を思い描いて楽しげに頬を染める。
ローランドは、その全てを受け止めながら、胸の内側に去来するものを押し殺していた。
レギュラスは、その構図を内心で眺めながら、ふとグラスを口元に運んだ。
アランを連れぬ夜は、やはりどこか物足りない。
だが——こうして遠くで、見えないところで、それぞれの心を揺らしている糸があると思えば、それはそれで悪くない。
さて、どんな顔をするでしょうか。
アランが、ローランドとクラリッサの式を目にしたとき。
ローランドが、アランの視線に触れたとき。
その瞬間を思い浮かべると、レギュラスの胸の奥で、わずかな高揚が静かに波紋を広げた。
「では、フロスト殿。クラリッサ嬢」
レギュラスは、二人に向き直る。
「今夜はどうぞ、存分に楽しんでください。
式の前に、こうしてゆっくりお話しできたのは良い機会でした」
「こちらこそ、お声をかけていただき光栄です、ブラック様」
「ありがとうございましたわ、ブラック様。またドレスのご相談に乗ってくださいませね」
「ええ。妻も、きっと喜ぶでしょう」
そう告げて、レギュラスは軽く会釈し、再び人の波の中へと姿を消していった。
残されたローランドは、グラスを持つ手に力を込めないよう注意しながら、静かに息を吐く。
胸の内で揺れ続けるものを、誰にも悟られぬよう、微笑の仮面をもう一度しっかりと被り直して。
その夜、屋敷の空気は妙に落ち着かなかった。
嵐が来るわけでもないのに、窓の外で揺れる樹々の影がやけに大きく見える。
寝室の魔法灯は落としてあり、代わりに暖炉の火だけが低く揺れていた。
赤と橙の光が、ベッド脇の床にゆらゆらと不規則な模様を描き、その中央に、アランの横たわる影が細く長く伸びている。
「……また、張るのですね」
シーツの上からでも分かるほど、腹の輪郭が固く浮かび上がっていた。
アランは横向きに寝て、片手で腹を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。
「……ええ……少し、だけ」
声は震えてはいない。
だが、その言葉の合間に挟まれる沈黙が、痛みの深さを物語っていた。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、ためらいがちに手を伸ばす。
いつもなら、触れる前に一言断るところだが、今はそんな余裕もなかった。
「触れても?」
小さく頷く気配を感じてから、手のひらをそっと腹部に載せる。
——硬い。
最初にそう思った。
柔らかく、温かく、掌を受け止めてくれていたはずの肌が、今は張り詰めた弦のように固くなっている。
弾力というよりは、限界まで膨らんだ球体に触れているような、異様な張力。
「……これは……」
言葉が喉の奥で途切れる。
皮膚というものは、ここまで張り詰めていいものなのか。
人間の身体の構造が、今まさに限界点を突きつけられているような気さえした。
「正常なんですか、これは」
思わず、ヒーラーに問いただしたときと同じ言葉が口から零れる。
アランに向けたというより、自分自身に向けた確認のような響きだった。
アランは、薄く汗ばむ額にかかった髪を揺らしながら、かすかに息を吸う。
「……ヒーラーは……そう、おっしゃっていました……前駆陣痛……というものだそうです……」
言葉の途中で、アランの指先がぎゅっとシーツを掴んだ。
張りの波が強まったのだろう。
喉の奥で押し殺された息が、かすれた吐息となって漏れる。
レギュラスは、全身を硬くするのを自覚した。
目の前で、確かに痛みに耐えている女がいる。
自分の子を宿し、自分の姓を名乗る妻が。
それなのに、できることといえば、硬くなった腹の上に掌を添え、背中をさすることくらいだった。
数分ほどだった。
だが、レギュラスには、永遠にも等しい時間に感じられた。
張りつめた腹の下で、筋肉がぎりぎりと強ばっているのが分かる。
アランの呼吸は浅く、肩で小刻みに空気を飲み込んでいた。
「…… アラン、息を止めないでください」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「少しずつ……吸って、吐いて……そう、ゆっくり」
指先で、彼女の背中をゆっくりと撫でる。
魔法も呪文も介さない、ただの人間の動き。
アランは、その声に従うように、喉の奥で震えながらも呼吸を整えようとした。
胸郭に合わせて、腹の張りもわずかに上下する。
それでも固さはしつこく残り、レギュラスは掌に伝わる緊張を、どうすることもできなかった。
「……やがて、収まりますから……」
アランの声が、ようやくかすかに戻ってくる。
「……いつも、そうでした……。数分だけ、我慢すれば……」
慰めるような口調だった。
本来、慰められるべきは彼女のほうだというのに。
レギュラスは、胸の奥で何かがきしむ音を聞いた気がした。
とうとう、張りの波が緩み始める。
掌の下で、固く張り詰めていた腹部が、少しずつ柔らかさを取り戻していく。
極限まで張った帆が、風を逃がしてしぼんでいくように。
アランの指先も、シーツを掴む力を緩めた。
深く息を吐き、まぶたを閉じる。
額に浮いた汗が、暖炉の火を受けて光った。
「……落ち着きました?」
「……はい。……もう、大丈夫です……」
アランはそう答えたが、その声には疲労が濃く滲んでいた。
波が引いただけで、身体は確かに削られている。
レギュラスは、手を腹の上に残したまま、じっと見つめる。
さっきまで石のように固かった場所が、再び柔らかくなる。
その柔らかさの奥を、今度は別の力が内側から軽くつついた。
——とん、と。
小さな、しかし確かな蹴り。
胎動。
数日前、アランが照れくさそうに「今、動きました」と言って彼の手をとったときの感触と同じだった。
掌の下で、命が自己主張する。
まだ姿も見せないくせに、自分はここにいると主張する、ひどく強情な動き。
その時のレギュラスは、ただ驚きと温かさに満たされていた。
妙にこそばゆい幸福感が、胸の奥でふわりと広がったのを覚えている。
——だが、今は違った。
同じ命の気配が、まるで別のもののように感じられる。
腹を蹴る力強さも。
皮膚を内側から押し上げる膨張も。
すべてが、アランの身体にとってどれほど苛烈なものなのか、否応なく突きつけてくる。
「……ヒーラーは、本当に、これを正常だと言うのですね」
思わず、もう一度口にしていた。
すでに何度も確認した内容だ。
寸分違わぬ返答が返ってくることも分かっている。
それでも、問わずにはいられなかった。
「ええ……。お産が近づくと、誰しもこうなるのだと……」
アランは、申し訳なさそうに笑う。
「……心配を、おかけしてしまいますね」
「心配をかけているのは、どちらだと思っているのです」
皮肉めいた言葉を選ぶ余裕は、今はなかった。
レギュラスは腹から手を離さずに言う。
その指先には、僅かな震えが混じっていた。
「僕は……魔法省で、どれだけ人間を追い詰めようと、どれだけ追い込もうと……。常に、条件を提示し、出口を用意してきたつもりです」
取引には勝ち負けがある。
だが、そこには必ず理屈があり、比例する見返りがある。
「苦しめる必要があれば、その分の利益を与えてきた。
奪うのであれば、納得させるだけの理由を添えてきたつもりです」
それが、彼のやり方だった。
だが今目の前にあるのは、理屈の通じない現象だ。
腹が張る。
痛む。
数分続く。
やがて収まる。
その繰り返しに、取引条件も、出口も用意されていない。
「……けれど、これは違う」
苦さを含んだ吐息が漏れる。
「僕がどれだけ魔法を覚えようと、どれだけ地位を積み上げようと、あなたの代わりにその張りを引き受けることはできない」
暴力であれば、盾になればいい。
政治的な攻撃であれば、前に立って矢面に立てばいい。
だが、この痛みは。
誰も代わってやることができない。
たとえ、世界中の治癒魔法を集めてきたとしても。
アランは、枕の上でそっと顔を横に向けた。
暖炉の火が、レギュラスの横顔を照らし出す。
整った輪郭も、冷静さを装う灰色の瞳も。
いつもなら、感情を悟らせないように貼り付けている微笑みが、今はどこにもない。
ただ、真っ直ぐに、自分の腹と、その中にいる子どもを見ていた。
「レギュラス……」
アランは、小さな声で呼ぶ。
彼は、ようやく彼女の顔を見た。
「……こんなに、落ち着かないあなたを見るのは……初めてです」
言われてみれば、そうかもしれない。
戦場であれ、政治の場であれ、レギュラスはいつも冷静でいようと努めてきた。
たとえ内側がどれほど荒れていようと、それを外に漏らすことは無意味だと知っているからだ。
だが今、ベッド脇で拳を握りしめている自分の姿は、どう取り繕っても冷静とは言い難かった。
「……僕は、あなたに怖がられるほどのことをしてきた男ですよ」
レギュラスは、半ば自嘲のように言った。
「なのにいざ、あなたが苦しむのを見ると……これほどまでに落ち着かない」
こんな感情は、初めてだ。
怒りでも、嫉妬でも、優越感でもない。
支配欲ですらない。
ただ、願うことしかできない感情。
どうか、この女が。
できる限り、苦しまないように。
できることなら痛みの半分を奪い取り、息の詰まりそうな張りを引き受けてやりたいと思う。
だが、それが叶わない現実。
「レギュラス」
アランの指先が、そっと彼の手を探した。
驚いて視線を落とすと、白く細い指が、レギュラスの手の甲を弱々しく撫でている。
「……大丈夫です。……これくらいなら、耐えられます」
そう言って、笑おうとする。
ひどく心許ない笑みだった。
「あなたが……側にいてくださるぶんだけ、前よりも……ずっと、楽ですから」
その言葉に、レギュラスは一瞬、息を呑んだ。
何の役にも立っていない、と心のどこかで思っていた。
魔法を使って痛みを取り除くこともできず。
代わりに苦しむこともできず。
ただ、張りの波が過ぎ去るのを見届けることしかできていない。
それでも。
彼女は「側にいるだけで楽だ」と言った。
取引ではない。
条件でも、損得でもない。
ただの、存在そのものが、支えになる。
そんな当たり前のことに、レギュラスは今さら気づかされていた。
張りの波が完全に引き、アランの呼吸が落ち着きを取り戻す頃には、レギュラスの肩にも、いつの間にか疲労が重くのしかかっていた。
アランは瞼を半ば閉じ、薄く口元を綻ばせている。
痛みの合間に襲ってくる眠気に、身体が負けつつあるのだろう。
「眠っても構いませんよ」
レギュラスは、ベッドの端からそっと身を乗り出し、アランの髪を撫でる。
「また張ったら、すぐ教えてください。そのときは……」
言葉を選びかけて、やめる。
そのときはどうするのか。
結局、できることは同じかもしれない。
それでも、側にいる。
それだけは決めていた。
アランは、瞼の下で視線を揺らしながら、小さく頷く。
「……ありがとうございます……レギュラス」
静かな寝息が、やがて部屋に満ちていく。
暖炉の火がぱちりと弾けた。
レギュラスは、ベッドの脇から離れなかった。
椅子に座ることもせず、腹の上にまだ片手を置いたまま、微かな動きや呼吸の乱れを見逃すまいとする。
魔法省では、いかなる局面でも「手を打てる」立場にいた。
だが今夜ばかりは、世界で最も慈悲のない事実を突きつけられているようだった。
——こんなにも、自分は無力なのか。
その無力さを噛みしめながら、それでも彼は、掌の下に感じる温もりを手放さなかった。
そこに宿るものが、アランの命と痛みを賭して生まれてくるのだという事実を、決して逸らさないように。
法務部の一角——魔法省役員専用の執務室は、いつものように静まり返っていた。
高い天井から下がる魔法灯は、昼夜の別なく同じ明るさで部屋を照らし出している。
壁に並ぶ書棚には、古い法令集や条約の写しがぎっしりと詰め込まれ、黒檀の机の上には、今日裁かれるべき案件の書類が束となって積まれていた。
レギュラス・ブラックは、その一番上の書類に視線を落としたまま、ペン先を紙の上で止めていた。
二行目までは、問題なく読み進めたはずだ。
だが三行目から先が、どうしても頭に入ってこない。
文字は理解できる。
そこに書かれている条文の趣旨も、判例も、論点も。
だが、そのすべてが薄い膜を隔てた先にあるような感覚で、現実感を伴わなかった。
黒光りするペン先が、紙の上で微かに震える。
——そのとき、ノックもなく扉が開いた。
「レギュラス」
慣れた声だった。
振り向くと、書類の束を小脇に抱えたバーテミウス・クラウチ・ジュニアが、いつもの如く軽い足取りで入ってくる。
「今、お時間は?」
「ありますよ。仕事は山ほどありますがね」
バーテミウスは肩をすくめ、対面の椅子に腰を下ろした。
書類の束を机に置く前に、レギュラスの手元にある書類へと目をやる。
「その案件、さっきから三行目から進んでいませんよ」
レギュラスは、わずかに眉をひそめた。
「……見ていたんですか」
「ええ。十分ほど前から、ずっと同じページを眺めていらしたので。
さすがの僕でも不安になります」
揶揄とも、本気ともつかない口調。
だが、その灰色の瞳は、レギュラスの落ち着かなさを正確に測っていた。
「そろそろ、生まれるのでは?」
バーテミウスは、書類を机に置きながら何気ない調子で口にする。
レギュラスは、手にしていたペンをようやく紙から離し、細く息を吐いた。
「ええ。ヒーラーは、いつ始まってもおかしくないと言っていました。知らせが来れば、すぐに帰ります」
「仕事を放り出して?」
からかうような声音に、レギュラスは肩をわずかに持ち上げる。
「当然でしょう。あの女を一人で戦場に立たせる気にはなれませんから」
「戦場、ですか」
バーテミウスは苦笑して、手をひらひらと振った。
「まあ、表現としては間違っていないかもしれませんがね」
机上に積まれた書類をぱらぱらとめくりながら、視線だけをレギュラスに向ける。
「ですが、ひとつ申し上げておきます。……生まれてから帰っても、何も遅くはありませんよ」
「どういう意味です?」
「初産は長引きます」
経験者らしい、妙に落ち着いた言い方だった。
「始まったと知らされてから、終わるまで。
とんでもなく待たされます。朝だろうが夜だろうが関係なく。こちらの都合など一切お構いなしに進みますからね」
バーテミウスは、軽く溜息をつきながら続ける。
「正直なところ、仕事でもしていたほうが気が紛れます。
僕はそうでした。あなたも、そのほうが楽かもしれませんよ」
レギュラスは、手元のペンを指先で転がした。
書類を裁く手の動きが、さっきから微妙に乱れている。
普段なら、一つの案件を読み込みながら、次に処理すべきものを既に頭の中で組み立てているはずだ。
だが今は、目の前の文字列さえまともに追えない。
「……待つだけ、というのは性に合いません」
ペンを机に置き、レギュラスは正面からバーテミウスを見た。
「魔法省でも戦場でも、僕は常に手を打つ側でありたい。
状況を見て、次の一手を講じ、相手を追い詰める役割です」
「ええ、存じています」
バーテミウスは素直に頷く。
「あなたは待たれる側であって、待つ側には向いていない」
「ですから、待つだけの場所より、せめて側にいた方がまだ幾分かましでしょう。
何もできないのだとしても、少なくとも彼女は一人ではない」
その口調には、いつもの余裕めいた響きがなかった。
「まさか、本気で立ち会う気ですか?」
ペンを弄ぶ手を見ながら、バーテミウスが問いかける。
「僕が何度もヒーラーに確認しているのを見ていたでしょう」
「見ていましたよ」
バーテミウスはゆっくり椅子にもたれかかる。
「だからこそ忠告しているんです。やめておいた方が無難です、レギュラス。そんな美しいものではありませんから」
言って、彼は片手をひらひらと振った。
「あなたの好む優雅さや調和とは、ほど遠い光景です。
血の匂いがむせ返るほど立ち込めて、ヒーラーたちの呪文と指示が飛び交って。夫の顔を見ている余裕なんて、妻の側にはほとんどない」
少し前の記憶をたぐるように、バーテミウスはほんのわずかに眉間に皺を寄せた。
「僕だって、一人目のときは立ち会いました。
生涯で二度と嗅ぎたくないと思ったくらいですよ、あの血の匂いは。……あなたが想像しているのが、温かい光に包まれた奇跡の瞬間だとしたら、ぜひその幻想は捨てていただきたい」
「あなたにしては、ずいぶん正直な物言いですね」
「経験者の言葉は重いでしょう?」
バーテミウスは肩をすくめる。
「奥方が叫ぶ声を聞き続け、自分は何一つ代わってやれず、ただその場に立ち尽くす。正直なところ、僕は二度とごめんです」
冗談めかした語尾の裏に、微かな本音が滲んでいた。
レギュラスは、静かに目を伏せた。
アランが腹の張りに苦しんでいた夜の光景が、脳裏によみがえる。
背中をさすることしかできず、張りが引く瞬間をただ見届けることしかできなかった感覚。
あれが何時間、何十時間と続くのだとしたら。
「……それでも、僕は行きます」
沈黙を破るように、レギュラスが口を開いた。
「立ち会うことが、彼女の苦痛を軽減するとは思いません。
僕がいたからといって、張りは弱まらないし、痛みが消えることもないでしょう」
ペンを持たないほうの手が、机の縁をかすかに掴む。
「でも、彼女が後になって、『あの時、一人だった』と思い起こすことがあれば——それは、僕には耐えがたい」
バーテミウスは、じっと彼を見つめた。
この男が、ここまで言い切るのを聞くのは珍しかった。
いつもなら、もっと打算的で冷静な言葉を選ぶ。
「妻の精神状態を考慮して」とか、「周囲の目もある」とか、いくらでももっともらしい理由を並べられる。
だが今、レギュラスが口にしているのは、本当に個人的な感情だけだった。
「アラン嬢とて、人間の体なんですよ」
バーテミウスは、あえて「夫人」ではなく、これまでの呼び方を選んだ。
「例外ではありません。魔法界きっての絶世の美女であろうと、ブラック家の妻であろうと。
出産で命を落とす者だっている」
その言葉に、室内の空気が、わずかに重くなる。
「嘘は言いません。……やめておいた方が無難です、レギュラス。
あなたが今まで築いてきた、彼女へのイメージの一部は、確実に壊れます」
血と汗と涙にまみれ、必死に息を吸って吐く姿。
美しいドレスに身を包んだ、完璧な淑女ではないアランの姿。
「美しいものだけを見ていたいなら、扉の外で待つべきです」
それが、経験者の正直な忠告だった。
レギュラスは、すぐに返事をしなかった。
机の上の書類に視線を落とし、しばらく何かを噛みしめるように沈黙する。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は、美しいものだけを見ていたいと思ったことはありませんよ、バーテミウス」
「……そうでしたか?」
「僕が見てきたものは、もっと醜い」
魔法省の裏側。
法務の名のもとに行われる取引や、血で書かれたような契約。
「美しい部分だけを眺めて、心地よく酔っているなんて、そんな贅沢な生き方はしていないつもりです」
静かな声音だった。
「それに——」
レギュラスは、机の上で組んだ指をゆっくりほどいた。
「血の匂いごと愛せるかどうかを、僕は今、試されている気がします」
バーテミウスの眉が、ほんの少しだけ上がる。
「彼女が、僕の子供を産むために流す血を。
僕は汚いものとして目を背けるのか。……それとも、そのすべてを引き受ける覚悟を持つのか」
レギュラスは薄く笑った。
「あなたの言う通り、美しいものではないのでしょう。
ですが、僕にとっては、そうやって血まみれになってでも『生まれてこようとする存在』も含めて、すべてが愛おしいと思いたい」
それは、彼らしくないほど生々しい感情だった。
バーテミウスは、しばしの間、何も言わなかった。
机の上、いつもなら整然と並ぶ書類の端が、わずかに乱れている。
レギュラスの手が、先ほど無意識にそこを掴んだせいだ。
少し前まで、この男が父親になる姿を真剣に想像したことはなかった。
その執着と支配欲で、妻と子をどこまでも囲い込む姿は、容易に想像できたが——
こうして、落ち着きなく書類をめくる姿もあるわけですか。
そんなことを思う。
「……分かりました」
バーテミウスは、書類を一束、レギュラスの前からさっと引き寄せた。
「ならば、せめて今のうちに片付けられるものは片付けてしまいましょう。
立ち会うにせよ、扉の外で待つにせよ、仕事を中途半端に残したまま行かれるのはご勘弁願いたい」
「それは僕の台詞だと思っていましたが」
「たまには役割を入れ替えましょう」
バーテミウスは淡く笑い、手際よく書類を仕分け始める。
「アラン嬢と、あなたの子供が戻ってくる場所を、きちんと整えておくのも、僕の仕事でしょう」
レギュラスは、短く息を吐いた。
それは、ささくれ立っていた心のどこかを、少しだけ落ち着かせる音だった。
「……忠告は、ありがたく受け取っておきますよ、バーテミウス」
「聞き入れるとは言っていませんね?」
「ええ。聞き入れる気はあまりありません」
やっと、いつもの皮肉めいた調子が戻る。
それを確認してから、バーテミウスは満足したように書類を一枚レギュラスの前に滑らせた。
「では、せめて三行目以降を読めるくらいには、意識を戻していただきましょう。
知らせが来るまでは、いつものあなたでいてください。……奥方と、お子さんのためにも」
部屋の中には、再びペンの走る音が響き始める。
それでも、レギュラスの胸の奥底では、静かなざわめきが消えなかった。
遠く離れた屋敷で、アランの腹はまた張っているのかもしれない。
次に届くフクロウが、どんな言葉を運んでくるのか。
落ち着かない感情を抱えたまま、それでも彼は、今できる役割——魔法省役員としての仕事に、再び手を伸ばした。
日取りはすでに決まり、招待客の名もほとんど出揃った。
式は、粛々と、華やかに執り行われるだろう。
その中心で、自分はクラリッサの手を取る。
アランはいち招待客として、その光景を見つめる。
そのとき、胸の中にどんな痛みが生まれるのか。
それを抱えたまま生きていくことが、自分に課せられた罰なのだと、ローランドは薄々悟っていた。
隣で笑う幼い婚約者の温もりを感じながら、彼は静かに息を吐いた。
この先、自分が抱くべきは、目の前の少女であり——
過去に手放した女性は、二度と振り返って手を取ることのできない「永遠」として胸の奥に封じておくしかないのだと。
その覚悟が、まだ完全に形を成せずにいるところが、彼の苦しさそのものだった。
魔法省の大広間は、今夜も眩しいほどに光に満ちていた。
幾つものシャンデリアからこぼれる灯りが、磨き込まれた床と白い柱に反射し、淡い金色の靄となって宙を漂う。
壁際には長く伸びるビュッフェテーブルが用意され、豪奢な料理と煌びやかな酒瓶が隙間なく並べられている。
音楽室からは、絹のようになめらかな楽の音が絶えず流れ込み、ざわめきと笑い声と混じり合っていた。
魔法省の役人たちを中心に集められた宴——
政治の駆け引きが影で幾重にも交錯しながらも、表向きには「親睦会」という名目が与えられた場。
その中心にいるべき一人であるレギュラス・ブラックは、今夜、単身でその場に姿を現していた。
「ブラック卿、奥方はご一緒では?」
グラスを片手に近づいてきたのは、財務局の重鎮だった。
初老の男が、皺を刻んだ目尻をさらに細める。
「ええ、今日は屋敷で休ませております」
レギュラスは、手にしたシャンパングラスを軽く傾けるように持ち上げ、いつもの貼り付けたような柔らかな笑みを浮かべた。
「最近は随分お腹も目立ってきましてね。
長時間立ちっぱなしは、さすがに酷かと」
「それはそれは。もう、いつ生まれてもおかしくない頃合いですかな?」
同じ問いは、今夜だけで何度目になるだろう。
レギュラスは、内心でその回数を淡々と数えながら、表面には一切の退屈さを滲ませなかった。
「ヒーラー曰く、まだ少し猶予はあるそうですが。
よほどのことがない限り、無事にこのまま迎えられるだろうとのことです」
「おめでたい、実におめでたい。ブラック家にとっても、魔法界にとっても喜ばしいことですな」
繰り返される祝辞に、レギュラスは適切な微笑と相槌を返していく。
祝福の言葉は嫌いではない。
ブラック家の跡取りを待ち望む視線も、悪くない。
だが——
……物足りないものですね。
薄くグラスを揺らしながら、彼は内心で苦笑した。
アランを伴って出席する宴で向けられる視線の心地よさ——
あれを一度知ってしまえば、こうして一人で立つ夜は、どこか味気ないものに感じられる。
宝石灯の下で浮かび上がる、翡翠の瞳と黒髪。
ドレスの色ひとつで場の空気を変えてしまうほどの存在感。
そして、ブラック家の男の隣に静々と立ちながら、決して自分を誇示せず、それでも目を奪われる気品。
そうしたすべてを「自分の妻」として見せびらかせる優越感は、いまやレギュラスの愉楽のひとつになっていた。
今夜、その姿はここにいない。
それが当然だと理解しながらも、無意識に視線が空白を探してしまう自分が、少しだけ可笑しかった。
音楽が一段落し、会場のざわめきが少し落ち着いた頃。
「ブラック様」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り向けば、ローランド・フロストがいた。
その隣には、淡いクリーム色のドレスに身を包んだクラリッサ・ブラックバーン。
青い瞳を持つ青年は、いつもと変わらず整った礼節を崩さない。
一方でクラリッサは、場にふさわしい所作を守りながらも、その笑みの端々にまだ年若い天真爛漫さを覗かせていた。
「フロスト殿。それに、クラリッサ嬢」
レギュラスは穏やかに微笑む。
「お越しいただき、ありがとうございます。
お二人とも、よくお似合いですよ」
クラリッサは頬を染めて軽く頭を下げた。
「ブラック様にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ。
ねえ、ローランド様?」
「……身に余るお言葉です。ありがとうございます、ブラック様」
ローランドは、クラリッサに視線を送ってから、きっちりと一礼を添えた。
――なるほど。
レギュラスは、二人の動きの一つ一つを観察するように眺めた。
クラリッサの腕が、ごく自然にローランドの袖をつまむ。
ローランドはそれを拒むでもなく、無闇にはしゃがせまいと絶妙な距離を保ちながらも、支える立場を崩さない。
「夫婦」としての形を、彼らなりに模索し、少しずつ身にまとい始めているのだろう。
「仲睦まじいご様子で。安心いたしました」
レギュラスの言葉に、クラリッサがぱっと顔を明るくする。
「はい、とても大切にしていただいておりますわ。
ローランド様は、とても——」
「クラリッサ」
ローランドが、穏やかに彼女の名を呼んだ。
その声音には、さりげない制止と気遣いが混じる。
クラリッサは「あ」と小さく口を押さえ、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……少々、口が過ぎましたわね」
レギュラスは、そのやり取りをどこか愉快そうに眺めている。
「クラリッサ嬢、フロスト殿を困らせてはいませんか?」
わざと含みを持たせた調子で問うと、少女はふるふると首を振った。
「いいえ。困らせてなんておりませんわ。……よね? ローランド様」
「……ええ。クラリッサ様は、いつも場を明るくしてくださいます」
模範解答のような返答だった。
だが、その中にごく僅かな逡巡を感じ取ることは、レギュラスには難しくなかった。
相変わらず、真面目すぎる男だ。
クラリッサの無邪気さに、彼は慣れてきたのだろう。
それでも、その奥にある「想い」をどこまで受け止められているのか——そこまでは、さすがのレギュラスも読みきれない。
「ブラック夫人は、いかがでいらっしゃいますか」
ローランドが、ふと真面目な調子で口を開いた。
「先日、お加減が優れないと伺いましたので……。
どうか、式へのご参列はご無理なさらぬようにと」
アラン様、と名前を口に出さない。
その線引きは、徹底されている。
ローランドの青い瞳は、礼節の仮面を崩さないまま、どこか遠くを見ているようにも見えた。
レギュラスは、その視線を静かに受け止める。
「お気遣い、ありがとうございます。
妻の体調は、おかげさまで落ち着いておりますよ」
グラスを軽く揺らしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「安定期に入ってからは、ヒーラーもすこぶる順調だと太鼓判を押していましてね。
お腹も、ようやく外から見て分かるほどに膨らんできました」
そこで、彼はほんのわずかに目を細めた。
「……あなた方の式の日取りを、先日拝見しました」
ローランドの指先が、ほんの僅かに動いた。
「光栄です。ご多忙のなか、お目通しいただき——」
「きっと、その頃には生まれているでしょう」
レギュラスは、さらりと言葉を重ねる。
「ですから、できる限り——妻も連れて、お二人の晴れ舞台をお祝いできればと考えております」
クラリッサがぱっと顔を輝かせた。
「まぁ……それは、とても心強いですわ!
ブラック夫人にお越しいただけたら、わたくし、本当に嬉しいです。ねえ、ローランド様?」
「……ブラック様に、そうおっしゃっていただけるだけで十分です」
ローランドは、わずかに視線を落とした。
礼節を崩さない表情の奥で、何かが固く握りしめられている。
アランが、自分の式に現れる。
自分が彼女の式に立ち会ったときと同じように。
今度は、アランは「ブラック夫人」として。
自分は「フロスト家当主としての新郎」として。
その構図を思い描いた瞬間、胸の奥で鈍い痛みが走った。
レギュラスは、その微かな変化を見逃さない。
気づかないふりをして、淡々と会話を続けることもできた。
だが、彼の性質はそれを良しとしない。
「アランも、あなた方のことを案じていましたよ」
何気ない風を装って、そう告げる。
ローランドの肩が、ほんの僅かにこわばった。
「『どうか、フロスト殿の負担にならないように』とね。……相変わらず、自分の心配より他人の心配が先に出てくる人です」
そこでレギュラスは、わざと少しだけ口元を和らげた。
「ですから、フロスト殿。どうか安心してください。
妻もきっと、あなた方の門出を祝福するでしょう」
ローランドは、黙って頭を下げた。
祝福されることが、これほど苦しいこともあるのか。
そんな言葉を口に出すことはない。
ただ、貴族の青年として正しい返答を選び取る。
「……ありがたきお言葉、痛み入ります」
レギュラスは、満足げにグラスを傾けた。
クラリッサは、事情を知らない無垢さで微笑んでいる。
「ブラック様も、奥方もお越しくださるなんて、本当に心強いですわ。
わたくし、お色直しのドレスももっとしっかり選ばなければ。ブラック夫人に笑われてしまいますもの」
「アランが、クラリッサ嬢を笑うことなどありませんよ」
レギュラスは即座に否定した。
「きっと、誰よりも優しく見守るはずです。……ああいう人ですからね」
「よく知っている」と告げる声音。
ローランドの胸に、鋭く突き刺さる。
周囲では、別の役人たちが談笑を続けている。
政治の話題、最新の法案、魔法産業の動向、子どもの進学先。
そのざわめきの中心で、たった三人の会話だけが、異なる温度を孕んでいた。
レギュラスは、表面上いささかの波立ちも見せない。
クラリッサは、ただ未来の式を思い描いて楽しげに頬を染める。
ローランドは、その全てを受け止めながら、胸の内側に去来するものを押し殺していた。
レギュラスは、その構図を内心で眺めながら、ふとグラスを口元に運んだ。
アランを連れぬ夜は、やはりどこか物足りない。
だが——こうして遠くで、見えないところで、それぞれの心を揺らしている糸があると思えば、それはそれで悪くない。
さて、どんな顔をするでしょうか。
アランが、ローランドとクラリッサの式を目にしたとき。
ローランドが、アランの視線に触れたとき。
その瞬間を思い浮かべると、レギュラスの胸の奥で、わずかな高揚が静かに波紋を広げた。
「では、フロスト殿。クラリッサ嬢」
レギュラスは、二人に向き直る。
「今夜はどうぞ、存分に楽しんでください。
式の前に、こうしてゆっくりお話しできたのは良い機会でした」
「こちらこそ、お声をかけていただき光栄です、ブラック様」
「ありがとうございましたわ、ブラック様。またドレスのご相談に乗ってくださいませね」
「ええ。妻も、きっと喜ぶでしょう」
そう告げて、レギュラスは軽く会釈し、再び人の波の中へと姿を消していった。
残されたローランドは、グラスを持つ手に力を込めないよう注意しながら、静かに息を吐く。
胸の内で揺れ続けるものを、誰にも悟られぬよう、微笑の仮面をもう一度しっかりと被り直して。
その夜、屋敷の空気は妙に落ち着かなかった。
嵐が来るわけでもないのに、窓の外で揺れる樹々の影がやけに大きく見える。
寝室の魔法灯は落としてあり、代わりに暖炉の火だけが低く揺れていた。
赤と橙の光が、ベッド脇の床にゆらゆらと不規則な模様を描き、その中央に、アランの横たわる影が細く長く伸びている。
「……また、張るのですね」
シーツの上からでも分かるほど、腹の輪郭が固く浮かび上がっていた。
アランは横向きに寝て、片手で腹を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。
「……ええ……少し、だけ」
声は震えてはいない。
だが、その言葉の合間に挟まれる沈黙が、痛みの深さを物語っていた。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、ためらいがちに手を伸ばす。
いつもなら、触れる前に一言断るところだが、今はそんな余裕もなかった。
「触れても?」
小さく頷く気配を感じてから、手のひらをそっと腹部に載せる。
——硬い。
最初にそう思った。
柔らかく、温かく、掌を受け止めてくれていたはずの肌が、今は張り詰めた弦のように固くなっている。
弾力というよりは、限界まで膨らんだ球体に触れているような、異様な張力。
「……これは……」
言葉が喉の奥で途切れる。
皮膚というものは、ここまで張り詰めていいものなのか。
人間の身体の構造が、今まさに限界点を突きつけられているような気さえした。
「正常なんですか、これは」
思わず、ヒーラーに問いただしたときと同じ言葉が口から零れる。
アランに向けたというより、自分自身に向けた確認のような響きだった。
アランは、薄く汗ばむ額にかかった髪を揺らしながら、かすかに息を吸う。
「……ヒーラーは……そう、おっしゃっていました……前駆陣痛……というものだそうです……」
言葉の途中で、アランの指先がぎゅっとシーツを掴んだ。
張りの波が強まったのだろう。
喉の奥で押し殺された息が、かすれた吐息となって漏れる。
レギュラスは、全身を硬くするのを自覚した。
目の前で、確かに痛みに耐えている女がいる。
自分の子を宿し、自分の姓を名乗る妻が。
それなのに、できることといえば、硬くなった腹の上に掌を添え、背中をさすることくらいだった。
数分ほどだった。
だが、レギュラスには、永遠にも等しい時間に感じられた。
張りつめた腹の下で、筋肉がぎりぎりと強ばっているのが分かる。
アランの呼吸は浅く、肩で小刻みに空気を飲み込んでいた。
「…… アラン、息を止めないでください」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「少しずつ……吸って、吐いて……そう、ゆっくり」
指先で、彼女の背中をゆっくりと撫でる。
魔法も呪文も介さない、ただの人間の動き。
アランは、その声に従うように、喉の奥で震えながらも呼吸を整えようとした。
胸郭に合わせて、腹の張りもわずかに上下する。
それでも固さはしつこく残り、レギュラスは掌に伝わる緊張を、どうすることもできなかった。
「……やがて、収まりますから……」
アランの声が、ようやくかすかに戻ってくる。
「……いつも、そうでした……。数分だけ、我慢すれば……」
慰めるような口調だった。
本来、慰められるべきは彼女のほうだというのに。
レギュラスは、胸の奥で何かがきしむ音を聞いた気がした。
とうとう、張りの波が緩み始める。
掌の下で、固く張り詰めていた腹部が、少しずつ柔らかさを取り戻していく。
極限まで張った帆が、風を逃がしてしぼんでいくように。
アランの指先も、シーツを掴む力を緩めた。
深く息を吐き、まぶたを閉じる。
額に浮いた汗が、暖炉の火を受けて光った。
「……落ち着きました?」
「……はい。……もう、大丈夫です……」
アランはそう答えたが、その声には疲労が濃く滲んでいた。
波が引いただけで、身体は確かに削られている。
レギュラスは、手を腹の上に残したまま、じっと見つめる。
さっきまで石のように固かった場所が、再び柔らかくなる。
その柔らかさの奥を、今度は別の力が内側から軽くつついた。
——とん、と。
小さな、しかし確かな蹴り。
胎動。
数日前、アランが照れくさそうに「今、動きました」と言って彼の手をとったときの感触と同じだった。
掌の下で、命が自己主張する。
まだ姿も見せないくせに、自分はここにいると主張する、ひどく強情な動き。
その時のレギュラスは、ただ驚きと温かさに満たされていた。
妙にこそばゆい幸福感が、胸の奥でふわりと広がったのを覚えている。
——だが、今は違った。
同じ命の気配が、まるで別のもののように感じられる。
腹を蹴る力強さも。
皮膚を内側から押し上げる膨張も。
すべてが、アランの身体にとってどれほど苛烈なものなのか、否応なく突きつけてくる。
「……ヒーラーは、本当に、これを正常だと言うのですね」
思わず、もう一度口にしていた。
すでに何度も確認した内容だ。
寸分違わぬ返答が返ってくることも分かっている。
それでも、問わずにはいられなかった。
「ええ……。お産が近づくと、誰しもこうなるのだと……」
アランは、申し訳なさそうに笑う。
「……心配を、おかけしてしまいますね」
「心配をかけているのは、どちらだと思っているのです」
皮肉めいた言葉を選ぶ余裕は、今はなかった。
レギュラスは腹から手を離さずに言う。
その指先には、僅かな震えが混じっていた。
「僕は……魔法省で、どれだけ人間を追い詰めようと、どれだけ追い込もうと……。常に、条件を提示し、出口を用意してきたつもりです」
取引には勝ち負けがある。
だが、そこには必ず理屈があり、比例する見返りがある。
「苦しめる必要があれば、その分の利益を与えてきた。
奪うのであれば、納得させるだけの理由を添えてきたつもりです」
それが、彼のやり方だった。
だが今目の前にあるのは、理屈の通じない現象だ。
腹が張る。
痛む。
数分続く。
やがて収まる。
その繰り返しに、取引条件も、出口も用意されていない。
「……けれど、これは違う」
苦さを含んだ吐息が漏れる。
「僕がどれだけ魔法を覚えようと、どれだけ地位を積み上げようと、あなたの代わりにその張りを引き受けることはできない」
暴力であれば、盾になればいい。
政治的な攻撃であれば、前に立って矢面に立てばいい。
だが、この痛みは。
誰も代わってやることができない。
たとえ、世界中の治癒魔法を集めてきたとしても。
アランは、枕の上でそっと顔を横に向けた。
暖炉の火が、レギュラスの横顔を照らし出す。
整った輪郭も、冷静さを装う灰色の瞳も。
いつもなら、感情を悟らせないように貼り付けている微笑みが、今はどこにもない。
ただ、真っ直ぐに、自分の腹と、その中にいる子どもを見ていた。
「レギュラス……」
アランは、小さな声で呼ぶ。
彼は、ようやく彼女の顔を見た。
「……こんなに、落ち着かないあなたを見るのは……初めてです」
言われてみれば、そうかもしれない。
戦場であれ、政治の場であれ、レギュラスはいつも冷静でいようと努めてきた。
たとえ内側がどれほど荒れていようと、それを外に漏らすことは無意味だと知っているからだ。
だが今、ベッド脇で拳を握りしめている自分の姿は、どう取り繕っても冷静とは言い難かった。
「……僕は、あなたに怖がられるほどのことをしてきた男ですよ」
レギュラスは、半ば自嘲のように言った。
「なのにいざ、あなたが苦しむのを見ると……これほどまでに落ち着かない」
こんな感情は、初めてだ。
怒りでも、嫉妬でも、優越感でもない。
支配欲ですらない。
ただ、願うことしかできない感情。
どうか、この女が。
できる限り、苦しまないように。
できることなら痛みの半分を奪い取り、息の詰まりそうな張りを引き受けてやりたいと思う。
だが、それが叶わない現実。
「レギュラス」
アランの指先が、そっと彼の手を探した。
驚いて視線を落とすと、白く細い指が、レギュラスの手の甲を弱々しく撫でている。
「……大丈夫です。……これくらいなら、耐えられます」
そう言って、笑おうとする。
ひどく心許ない笑みだった。
「あなたが……側にいてくださるぶんだけ、前よりも……ずっと、楽ですから」
その言葉に、レギュラスは一瞬、息を呑んだ。
何の役にも立っていない、と心のどこかで思っていた。
魔法を使って痛みを取り除くこともできず。
代わりに苦しむこともできず。
ただ、張りの波が過ぎ去るのを見届けることしかできていない。
それでも。
彼女は「側にいるだけで楽だ」と言った。
取引ではない。
条件でも、損得でもない。
ただの、存在そのものが、支えになる。
そんな当たり前のことに、レギュラスは今さら気づかされていた。
張りの波が完全に引き、アランの呼吸が落ち着きを取り戻す頃には、レギュラスの肩にも、いつの間にか疲労が重くのしかかっていた。
アランは瞼を半ば閉じ、薄く口元を綻ばせている。
痛みの合間に襲ってくる眠気に、身体が負けつつあるのだろう。
「眠っても構いませんよ」
レギュラスは、ベッドの端からそっと身を乗り出し、アランの髪を撫でる。
「また張ったら、すぐ教えてください。そのときは……」
言葉を選びかけて、やめる。
そのときはどうするのか。
結局、できることは同じかもしれない。
それでも、側にいる。
それだけは決めていた。
アランは、瞼の下で視線を揺らしながら、小さく頷く。
「……ありがとうございます……レギュラス」
静かな寝息が、やがて部屋に満ちていく。
暖炉の火がぱちりと弾けた。
レギュラスは、ベッドの脇から離れなかった。
椅子に座ることもせず、腹の上にまだ片手を置いたまま、微かな動きや呼吸の乱れを見逃すまいとする。
魔法省では、いかなる局面でも「手を打てる」立場にいた。
だが今夜ばかりは、世界で最も慈悲のない事実を突きつけられているようだった。
——こんなにも、自分は無力なのか。
その無力さを噛みしめながら、それでも彼は、掌の下に感じる温もりを手放さなかった。
そこに宿るものが、アランの命と痛みを賭して生まれてくるのだという事実を、決して逸らさないように。
法務部の一角——魔法省役員専用の執務室は、いつものように静まり返っていた。
高い天井から下がる魔法灯は、昼夜の別なく同じ明るさで部屋を照らし出している。
壁に並ぶ書棚には、古い法令集や条約の写しがぎっしりと詰め込まれ、黒檀の机の上には、今日裁かれるべき案件の書類が束となって積まれていた。
レギュラス・ブラックは、その一番上の書類に視線を落としたまま、ペン先を紙の上で止めていた。
二行目までは、問題なく読み進めたはずだ。
だが三行目から先が、どうしても頭に入ってこない。
文字は理解できる。
そこに書かれている条文の趣旨も、判例も、論点も。
だが、そのすべてが薄い膜を隔てた先にあるような感覚で、現実感を伴わなかった。
黒光りするペン先が、紙の上で微かに震える。
——そのとき、ノックもなく扉が開いた。
「レギュラス」
慣れた声だった。
振り向くと、書類の束を小脇に抱えたバーテミウス・クラウチ・ジュニアが、いつもの如く軽い足取りで入ってくる。
「今、お時間は?」
「ありますよ。仕事は山ほどありますがね」
バーテミウスは肩をすくめ、対面の椅子に腰を下ろした。
書類の束を机に置く前に、レギュラスの手元にある書類へと目をやる。
「その案件、さっきから三行目から進んでいませんよ」
レギュラスは、わずかに眉をひそめた。
「……見ていたんですか」
「ええ。十分ほど前から、ずっと同じページを眺めていらしたので。
さすがの僕でも不安になります」
揶揄とも、本気ともつかない口調。
だが、その灰色の瞳は、レギュラスの落ち着かなさを正確に測っていた。
「そろそろ、生まれるのでは?」
バーテミウスは、書類を机に置きながら何気ない調子で口にする。
レギュラスは、手にしていたペンをようやく紙から離し、細く息を吐いた。
「ええ。ヒーラーは、いつ始まってもおかしくないと言っていました。知らせが来れば、すぐに帰ります」
「仕事を放り出して?」
からかうような声音に、レギュラスは肩をわずかに持ち上げる。
「当然でしょう。あの女を一人で戦場に立たせる気にはなれませんから」
「戦場、ですか」
バーテミウスは苦笑して、手をひらひらと振った。
「まあ、表現としては間違っていないかもしれませんがね」
机上に積まれた書類をぱらぱらとめくりながら、視線だけをレギュラスに向ける。
「ですが、ひとつ申し上げておきます。……生まれてから帰っても、何も遅くはありませんよ」
「どういう意味です?」
「初産は長引きます」
経験者らしい、妙に落ち着いた言い方だった。
「始まったと知らされてから、終わるまで。
とんでもなく待たされます。朝だろうが夜だろうが関係なく。こちらの都合など一切お構いなしに進みますからね」
バーテミウスは、軽く溜息をつきながら続ける。
「正直なところ、仕事でもしていたほうが気が紛れます。
僕はそうでした。あなたも、そのほうが楽かもしれませんよ」
レギュラスは、手元のペンを指先で転がした。
書類を裁く手の動きが、さっきから微妙に乱れている。
普段なら、一つの案件を読み込みながら、次に処理すべきものを既に頭の中で組み立てているはずだ。
だが今は、目の前の文字列さえまともに追えない。
「……待つだけ、というのは性に合いません」
ペンを机に置き、レギュラスは正面からバーテミウスを見た。
「魔法省でも戦場でも、僕は常に手を打つ側でありたい。
状況を見て、次の一手を講じ、相手を追い詰める役割です」
「ええ、存じています」
バーテミウスは素直に頷く。
「あなたは待たれる側であって、待つ側には向いていない」
「ですから、待つだけの場所より、せめて側にいた方がまだ幾分かましでしょう。
何もできないのだとしても、少なくとも彼女は一人ではない」
その口調には、いつもの余裕めいた響きがなかった。
「まさか、本気で立ち会う気ですか?」
ペンを弄ぶ手を見ながら、バーテミウスが問いかける。
「僕が何度もヒーラーに確認しているのを見ていたでしょう」
「見ていましたよ」
バーテミウスはゆっくり椅子にもたれかかる。
「だからこそ忠告しているんです。やめておいた方が無難です、レギュラス。そんな美しいものではありませんから」
言って、彼は片手をひらひらと振った。
「あなたの好む優雅さや調和とは、ほど遠い光景です。
血の匂いがむせ返るほど立ち込めて、ヒーラーたちの呪文と指示が飛び交って。夫の顔を見ている余裕なんて、妻の側にはほとんどない」
少し前の記憶をたぐるように、バーテミウスはほんのわずかに眉間に皺を寄せた。
「僕だって、一人目のときは立ち会いました。
生涯で二度と嗅ぎたくないと思ったくらいですよ、あの血の匂いは。……あなたが想像しているのが、温かい光に包まれた奇跡の瞬間だとしたら、ぜひその幻想は捨てていただきたい」
「あなたにしては、ずいぶん正直な物言いですね」
「経験者の言葉は重いでしょう?」
バーテミウスは肩をすくめる。
「奥方が叫ぶ声を聞き続け、自分は何一つ代わってやれず、ただその場に立ち尽くす。正直なところ、僕は二度とごめんです」
冗談めかした語尾の裏に、微かな本音が滲んでいた。
レギュラスは、静かに目を伏せた。
アランが腹の張りに苦しんでいた夜の光景が、脳裏によみがえる。
背中をさすることしかできず、張りが引く瞬間をただ見届けることしかできなかった感覚。
あれが何時間、何十時間と続くのだとしたら。
「……それでも、僕は行きます」
沈黙を破るように、レギュラスが口を開いた。
「立ち会うことが、彼女の苦痛を軽減するとは思いません。
僕がいたからといって、張りは弱まらないし、痛みが消えることもないでしょう」
ペンを持たないほうの手が、机の縁をかすかに掴む。
「でも、彼女が後になって、『あの時、一人だった』と思い起こすことがあれば——それは、僕には耐えがたい」
バーテミウスは、じっと彼を見つめた。
この男が、ここまで言い切るのを聞くのは珍しかった。
いつもなら、もっと打算的で冷静な言葉を選ぶ。
「妻の精神状態を考慮して」とか、「周囲の目もある」とか、いくらでももっともらしい理由を並べられる。
だが今、レギュラスが口にしているのは、本当に個人的な感情だけだった。
「アラン嬢とて、人間の体なんですよ」
バーテミウスは、あえて「夫人」ではなく、これまでの呼び方を選んだ。
「例外ではありません。魔法界きっての絶世の美女であろうと、ブラック家の妻であろうと。
出産で命を落とす者だっている」
その言葉に、室内の空気が、わずかに重くなる。
「嘘は言いません。……やめておいた方が無難です、レギュラス。
あなたが今まで築いてきた、彼女へのイメージの一部は、確実に壊れます」
血と汗と涙にまみれ、必死に息を吸って吐く姿。
美しいドレスに身を包んだ、完璧な淑女ではないアランの姿。
「美しいものだけを見ていたいなら、扉の外で待つべきです」
それが、経験者の正直な忠告だった。
レギュラスは、すぐに返事をしなかった。
机の上の書類に視線を落とし、しばらく何かを噛みしめるように沈黙する。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は、美しいものだけを見ていたいと思ったことはありませんよ、バーテミウス」
「……そうでしたか?」
「僕が見てきたものは、もっと醜い」
魔法省の裏側。
法務の名のもとに行われる取引や、血で書かれたような契約。
「美しい部分だけを眺めて、心地よく酔っているなんて、そんな贅沢な生き方はしていないつもりです」
静かな声音だった。
「それに——」
レギュラスは、机の上で組んだ指をゆっくりほどいた。
「血の匂いごと愛せるかどうかを、僕は今、試されている気がします」
バーテミウスの眉が、ほんの少しだけ上がる。
「彼女が、僕の子供を産むために流す血を。
僕は汚いものとして目を背けるのか。……それとも、そのすべてを引き受ける覚悟を持つのか」
レギュラスは薄く笑った。
「あなたの言う通り、美しいものではないのでしょう。
ですが、僕にとっては、そうやって血まみれになってでも『生まれてこようとする存在』も含めて、すべてが愛おしいと思いたい」
それは、彼らしくないほど生々しい感情だった。
バーテミウスは、しばしの間、何も言わなかった。
机の上、いつもなら整然と並ぶ書類の端が、わずかに乱れている。
レギュラスの手が、先ほど無意識にそこを掴んだせいだ。
少し前まで、この男が父親になる姿を真剣に想像したことはなかった。
その執着と支配欲で、妻と子をどこまでも囲い込む姿は、容易に想像できたが——
こうして、落ち着きなく書類をめくる姿もあるわけですか。
そんなことを思う。
「……分かりました」
バーテミウスは、書類を一束、レギュラスの前からさっと引き寄せた。
「ならば、せめて今のうちに片付けられるものは片付けてしまいましょう。
立ち会うにせよ、扉の外で待つにせよ、仕事を中途半端に残したまま行かれるのはご勘弁願いたい」
「それは僕の台詞だと思っていましたが」
「たまには役割を入れ替えましょう」
バーテミウスは淡く笑い、手際よく書類を仕分け始める。
「アラン嬢と、あなたの子供が戻ってくる場所を、きちんと整えておくのも、僕の仕事でしょう」
レギュラスは、短く息を吐いた。
それは、ささくれ立っていた心のどこかを、少しだけ落ち着かせる音だった。
「……忠告は、ありがたく受け取っておきますよ、バーテミウス」
「聞き入れるとは言っていませんね?」
「ええ。聞き入れる気はあまりありません」
やっと、いつもの皮肉めいた調子が戻る。
それを確認してから、バーテミウスは満足したように書類を一枚レギュラスの前に滑らせた。
「では、せめて三行目以降を読めるくらいには、意識を戻していただきましょう。
知らせが来るまでは、いつものあなたでいてください。……奥方と、お子さんのためにも」
部屋の中には、再びペンの走る音が響き始める。
それでも、レギュラスの胸の奥底では、静かなざわめきが消えなかった。
遠く離れた屋敷で、アランの腹はまた張っているのかもしれない。
次に届くフクロウが、どんな言葉を運んでくるのか。
落ち着かない感情を抱えたまま、それでも彼は、今できる役割——魔法省役員としての仕事に、再び手を伸ばした。
