2章
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レギュラスは、ふと先日の夜を思い出す。
セシール家の屋敷。
眠るアランの枕元から離れ、部屋を見て回ったときに見つけたアルバム。
あの中に詰め込まれていた、幼い日からのアランとローランドの時間。
翡翠の瞳の少女が、淡い髪の少年の隣ではじめての薬草採集をしている写真。
制服姿で、肩を並べて研究室の机に向かっている写真。
彼の肩より少し小さな背丈で、アランが笑っている写真。
この青年の部屋にも、きっと似たようなアルバムがあるのだろう。
表紙の色は違っても、同じ場面を別の角度から切り取ったような魔法写真が、いくつもいくつも並んでいるに違いない。
そう思った瞬間、喉の奥に、押し殺していた何かがふっと浮かび上がる。
抑え込んだはずのものが、また性懲りもなく顔を出してくる。
「クラリッサ嬢とは、いかがです」
エレベーターの壁に軽く背を預けながら、レギュラスは何気ない風を装って問いかけた。
かすかに揺れる箱の中、質問だけが空気を切り取るように響く。
ローランドの視線が、一度だけ足元へ落ち、すぐに正面に戻った。
「……ええ。少し元気すぎるところがありますが」
そこで一度、言葉を選ぶように息を整えた。
「日々、穏やかに過ごしております」
それは、嘘ではないのだろう。
少なくとも、ローランドが「穏やか」と定義する範囲の中に、クラリッサとの生活は収まっている。
クラリッサ・ブラックバーン——
礼儀正しく、気品を備えた純血令嬢。
だが、まだ幼く、天真爛漫で、わがままも多い娘。
レギュラスは、わずかに笑みを深めた。
「お若い令嬢ですので。多少のことは、どうぞ多めに見てくださると幸いです」
その言い方は、あくまで「親族として」のものだった。
クラリッサの後見人として、彼女を託した者として、婿となる青年にかける言葉。
——だが、そこに混じるニュアンスは一つではない。
多めに見てくれ。
わが家の娘の幼さも無邪気さも、受け止めてくれ。
そして、同じ血筋の女—— アラン・ブラックの過去も、今も、全部含めて支え続けろ。
そう命じているのと同じだと、レギュラス自身は分かっていた。
「もちろんです」
ローランドは即座に頷いた。
「クラリッサ嬢は、大変素直で……。
まだ慣れないことも多いようですが、その分、私が支えて差し上げるべきだと思っております」
言いながら、その青い瞳に、一瞬だけ影が差した。
ほんの一瞬。魔法エレベーターの明かりが揺らいだせいと言われれば、それでも通る程度のもの。
けれど、レギュラスの目は、そのわずかな揺れを見逃さない。
沈黙が、一拍だけ降りた。
エレベーターは、数階を一気に上昇する。
金属的な音ではなく、魔力の軋みが、耳の奥をくぐもらせた。
「フロスト殿」
レギュラスは、何でもない雑談の続きを紡ぐような声色で口を開いた。
「セシール家の屋敷では、お変わりありませんでしたか」
特に、と言いたくなる問いだった。
だが、ローランドは安易にそうは答えなかった。
「……ブラック夫人も、セシール卿も、お変わりなく」
言葉を選びながら返す。
「研究も順調のようでした。先日は、調合表の整理をお手伝いさせていただきました」
アランのいる研究室。
薬草の匂い。
紙の擦れる音とインクのかすれ。
レギュラスは一度まぶたを伏せ、アルバムの中の光景と、現実に起きた出来事とを重ね合わせる。
ローランドは、かつてと同じように、アランの父の研究を手伝っている。
肩を並べてではない。
今はもう「夫」ではなく、ブラック家の親族として、彼女の父の仕事を支える一人の男として。
それでも、そこには必ずアランの存在が影のように寄り添っている。
「そうですか」
レギュラスは、声の抑揚を最小限に抑えた。
「セシール家は、あなたのような真面目な協力者を得て幸いですね」
それは皮肉ではなかった。
事実としても評価としても、正しい言葉だ。
同時に、胸の奥で微かに疼く何かが、彼自身にはっきりと自覚される。
——この男が、アランの人生に占めてきた時間の長さ。
アルバムのページに刻まれた年代を、レギュラスは正確に思い出していた。
幼少期、学齢期、青年期。
そのどれもに、ローランド・フロストという名前が添えられていた。
自分がそこに割り込んだのは、ずっと後になってからだ。
未来はすべて手に入れた。
妻として、子の母として、アラン・ブラックという女のこれからの時間は、例外なくレギュラス・ブラックの隣にある。
それでも、過去のアルバムに映る笑顔の数だけ、この男はアランの「一部」だった。
その事実が、今さらながら煩わしい。
魔法エレベーターが、目的の階に近づいてきた。
光る文字が、ひとつずつ数字を変えていく。
「……家族の縁を結んでいるのに、そんなに畏まらないでください」
先ほどと同じ言葉を、レギュラスはもう一度繰り返した。
今度は、少しだけ意味を変えて。
「あなたは、これからもブラック家と深く関わることになる。
僕にとっても、アランにとっても、避けようのないことです」
一瞬、ローランドの肩がこわばった。
アラン——
その名前が、この密閉された箱の中ではっきりと響いたことに、彼の呼吸がごく僅かに乱れる。
レギュラスは、その変化を楽しむような笑みを見せることはしなかった。
代わりに、ごく穏やかな表情で続ける。
「だからこそ、礼だけでなく、どうか……彼女のことも、これまで通り気にかけていてください」
それは、表向きには、穏当すぎるほど穏当な言葉だった。
アランの父の研究を支え、親族として家族ぐるみの付き合いを続けること。
ブラック家とフロスト家が、今後も健全な関係であり続けること。
レギュラスは、それを望んでいる——そう聞こえるように、声の調子を整える。
だが、その奥には別の響きが隠れていた。
お前は、彼女の過去を誰よりも知っている。
アルバムのページを増やしてきた年月の長さを、誰よりも知っている。
だからこそ、その「証人」として、これからも側にいろ。
自分が勝者であることを、何度でも胸に刻ませるために。
「……もちろんです」
ローランドは、静かに頭を垂れた。
「ブラック夫人—— アランのことを、粗末に扱うつもりは毛頭ございません。
たとえ立場が変わろうとも、尊敬すべき方であることに変わりはありませんので」
その言葉に、偽りはない。
アランを愛している。
それでも、彼女が選んだ道と家がブラック家である以上、自分はその選択を尊重し続けるしかない。
ローランド・フロストの行く先は、そうやって静かに「正しさ」に縛られている。
エレベーターが、やっと目的階に到達した。
軽い揺れとともに、扉が開く。
「では、失礼いたします、ブラック様」
ローランドが降りる前に、もう一度礼をした。
レギュラスは、視線だけでその背中を追う。
淡い髪。
真っ直ぐな背筋。
ポケットからはみ出した、きっちり折り畳まれた書類の端。
あの背中を追いかけていた小さな翡翠の瞳を、レギュラスはアルバムの中で見ている。
過去は、そちらのものです
心の中で、誰にも聞こえない声が囁く。
ですが——
扉が閉まりかけた瞬間、レギュラスはふっと口元を吊り上げた。
「フロスト殿」
その名を呼ぶ声に、ローランドが振り返る。
「クラリッサ嬢を、どうかよろしくお願いいたします」
ひと呼吸置いて、言葉を継いだ。
「それと—— アランを祝福してくださったこと、改めて礼を。彼女も、きっと感謝しているはずです」
その「彼女」という言葉に込められたものを、ローランドはどこまで読み取っただろうか。
青い瞳がわずかに揺れ、やがて静かに頷く。
「……身に余るお言葉です。
失礼いたします、ブラック様」
扉が静かに閉じた。
魔法エレベーターは再び上昇を始める。
狭い箱の中には、レギュラス一人だけが残された。
胸の奥に、まだ燻るものがある。
アルバムを閉じた夜と同じように、簡単には消えない火種。
それでも彼は、微笑を崩さない。
「……これから先のページは、全部僕の名で埋めていきますよ、フロスト殿」
誰にも聞こえない独白が、狭い箱の中で静かに溶けていった。
安定期、という言葉は、あまりにも穏やかで、耳に心地よかった。
ヒーラーの説明は、いつも通り冷静で事務的だった。
魔力の揺らぎも落ち着いていること。
胎児の成長は順調であること。
極端な無理をしない限り、これまでより自由に動いて構わないこと。
レギュラスは、細かい数値や診断用語を一通り聞き終えたあと、形ばかりの質問をいくつか投げた。
ヒーラーの答えを一つ残らず理解したうえで、しかしその頭の片隅では、別のことを考え始めていた。
——夜。
——寝室。
——安定期。
この三つの言葉が、ひどく都合よく並ぶ。
もともと、悪阻の期間がひどいと分かった時点で、アランを自室に戻した判断は、理性的には正しいものだった。
彼女の体調を優先することは、夫としても、魔法省役員としても、当然の判断だ。
だが、当然であることと、面白くないこととは両立する。
夜、冷えたシーツの片側に誰も横たわらない日々が何日も続くうちに、レギュラスは、自分で思っていた以上にその「不在」に苛立っていた。
その苛立ちが、今ヒーラーの告げた一言で、綺麗に理由を得たような気がした。
…そろそろ、いいでしょう
もう少し安静に、と言われるなら従ってやるつもりもあった。
だが、ヒーラーの口から出たのは「順調」という言葉だけだ。
ならば、とレギュラスは心の中で結論を下した。
その日の午後、屋敷の空気は柔らかな陽光に満ちていた。
ブラック家のサロンには、春先の薄い日差しが大きな窓から流れ込み、淡いカーテン越しに床へと落ちている。
アランは、窓際のソファに腰をかけ、膝に薄い毛布をかけたまま、魔法薬の論文を読んでいた。
翡翠の瞳は文字を追っているが、その動きは、時折小さく止まる。
つわりの鋭さが引いてからも、体はまだ本調子とは言い難いのだろう。
それでも、彼女は書類を捨てなかった。
父の研究の補助も、ブラック家として取り組むべき案件も、手放せないまま抱きかかえている。
レギュラスは、サロンへ入る前に一度だけ足を止めた。
扉越しに聞こえるのは、紙の擦れる音と、暖炉の火が静かにはぜる音だけ。
彼はノックをする代わりに、静かに扉を押し開けた。
「アラン」
名を呼ぶ声に、彼女が顔を上げる。
柔らかなローブに包まれた身体は、以前よりわずかにふっくらとしてきていた。
まだお腹が目に見えて大きくなったわけではない。
それでも、レギュラスには分かる。
かつて腕に抱いたときよりも、たしかな重みがそこにあるであろうことが。
「レギュラス」
アランが立ち上がろうとして、レギュラスは首を振った。
「座っていてください。ヒーラーに叱られてしまいますからね」
冗談めかして言いながら、彼はソファの向かいではなく、アランの隣に腰を下ろした。
距離は、肩がかすかに触れるかどうかというところ。
以前よりは自然に、しかし逃げ場がないことをさりげなく教える位置だった。
「先ほど、ヒーラーから報告がありましたよ」
アランの指先が、膝の上の論文の端をぎゅっと掴む。
「……何か、問題でも……?」
声には、かすかな緊張が滲んでいた。
レギュラスは、そこでようやく笑みを浮かべる。
「いいえ。むしろ、反対です。
順調だと。魔力の状態も安定しているし、今のところ危険な兆候もないと、丁寧にお墨付きをいただきました」
アランの肩から、すっと力が抜けた。
「……そう、ですか」
胸の奥で小さな安堵が弾けたのが、表情にこぼれ出る。
彼女にとって「安定期」という言葉は、自分の体よりも、腹の中の命の状態を測る指標だ。
レギュラスにとっては——その意味すべてが、同じように単純ではなかった。
「そこで、ひとつ」
レギュラスは、軽く指先を組んだ。
「ヒーラーからの報告を踏まえて、提案があるのですが」
アランが、不安と好奇心を半分ずつ抱えたような目で見返す。
「提案……?」
「そう、提案です」
彼は、言葉の選び方だけは柔らかくした。
命令ではないと示すための装い。
だが、内側にある意図は、命令とほとんど変わらない。
「そろそろ——僕の部屋に、寝室を移してくださってもいいのではないでしょうか」
アランの瞳が、大きく揺れた。
驚きが、隠しもせず浮かぶ。
細い指が、膝の上でさらに強く論文の端を握りしめる。
「……え、」
言葉にならない声が漏れた。
夜のあいだ中、別々の部屋で眠る日々。
つわりがひどかった時期には、その隔たりが必然の壁のように感じられた。
ヒーラーからは安静を求められ、アラン自身も、夜中に何度も吐き気で目を覚ますたび、自分の寝台から動けなかった。
だから、レギュラスの部屋に足を運ばない口実は、いくらでもあった。
彼女は、自分の部屋を「要塞」のように感じている。
そうレギュラスが気づいたのは、扉の内側に閉じこもるように暮らす妻の姿を遠目に見たときだった。
その要塞へ、彼は何度も足を運び、少しずつ時間をかけて中へ入り込み、その奥にいる彼女と距離を縮めてきた。
つわりにかこつけて夜の訪問が途絶えていたこの数週間は、彼女にとっては平穏だったかもしれない。
けれど——レギュラスにとっては、退屈とも言える空白だった。
今、それを埋める機会が訪れた。
「それは……」
アランは、真っ直ぐには言葉を続けられなかった。
視線が宙を彷徨う。
ソファの肘掛け、膝に置かれた論文の文字、自分の指先。
どこを見ても、答えは書いていない。
「まだ、その……体調も完全ではありませんし……」
「だから、安定期だとヒーラーが言ったのですよ?」
レギュラスは、決して責めるような声色にしない。
あくまで、穏やかに、理を積み上げる。
「無理をさせるつもりはありません。
あなたがしんどい夜には、今まで通りひとりで休めばいい。ただ——」
そこで言葉を切り、アランの横顔を覗き込むようにして、わざと少しだけ距離を詰める。
「お腹の子の父親を、あまり寂しくさせないでください」
甘えるような響きを、意図的に含ませた。
「父親は、思ったより寂しがりなのですよ」
アランの睫毛が、びくりと震える。
父親——
その言葉に、アランの胸の奥で何かが鳴った。
レギュラスの子。
ブラック家の跡取りになるかもしれない命。
その父親が、寂しいと口にする。
責められているわけではない。
むしろ、甘えるような、それでいて巧みに「断れない理由」を差し出されている。
「……レギュラスは、いつもそうして、言葉で……」
呟きかけた声は、最後まで続かなかった。
レギュラスが静かに首をかしげる。
「言葉で?」
「いえ……その……」
アランの頬に、うっすらと色が差す。
つわりで顔色を悪くする日は多かったが、こうやって赤みが戻るのは久しぶりだった。
責めたいわけではない。
それでも、彼女の中にある「拒否」の言葉を、二言目で封じ込めるのは、レギュラスにはあまりにも容易い。
「僕は、ただ本音を言っているだけです」
レギュラスは少し肩をすくめてみせた。
「あなたが僕の寝室からいなくなって以来、ベッドの片側はひどく寒々しい。
せっかくこんなに大きな寝台を用意しているのに、半分以上無駄になっているのですからね」
軽口の形をとりながら、その一言の中に、「それだけあなたを待っていた」という事実を滑り込ませる。
アランは、膝の上の論文からそっと手を離した。
指先が、ローブの端をつまむ。
「……わたしの寝台は、そこまで広くございませんが」
ようやく絞り出した言葉は、僅かな反論であり、同時に諦めに似た響きでもあった。
「十分です。あなた一人が眠るには」
「そうでしょうね」
レギュラスは静かに微笑んだ。
「ですが、僕にとっては足りません。
あなたと子どもが、僕の隣で息をしている場所でなければ——満ち足りないのです」
言葉は甘く、響きは真剣だった。
アランは、その視線から逃げるように窓の外を見やった。
庭の木々が風に揺れる。
春先の光が、遠くで煌めいている。
ローランドと夢見た未来が、別の形で目の前に現れている。
そのことを思うと、胸がぎゅっと縮んだ。
けれど同時に、腹の中で静かに息づく小さな命が、彼女を現実へ引き戻す。
この子の父親は、レギュラス・ブラックだ。
その事実だけは、どうあっても変えられない。
「……少し、考えさせていただいても、よろしいでしょうか」
アランが、かろうじてそう口にした。
レギュラスは、即座に首を横に振る——ことはしなかった。
代わりに、わずかに微笑を深める。
「もちろん。今すぐ荷物を運べなどとは言いません」
安心させるような言い方で、しかし彼は続ける。
「ただ、安定期を迎えた今だからこそ言ったんです。僕は、あなたと子どもを、これまで以上に近くに感じていたい。
それは夫として、そして父親としての、正直な望みです」
アランの喉が、ごくりと鳴る。
肯定の言葉を、彼は求めている。
そのことは、痛いほど分かっていた。
彼女の沈黙を責めるような視線ではない。
けれど、逃げ道の少ない柔らかな網で、そっと包み込まれているような感覚があった。
「……すぐに、とは言いません」
レギュラスは、最後にもう一度だけ言い添える。
「ですが、近いうちに——あなたの口から『そちらへ行く』と聞けたなら、これほど嬉しいことはありませんよ」
甘えるように、しかし確実に「肯定」を引き出す言葉だった。
アランは、視線を落としたまま、指先をぎゅっと握りしめた。
ローランドを思えば、胸は痛む。
あの人なら、決してこんなふうに言葉で追い詰めることはしなかっただろう。
けれど、レギュラスにも、彼なりの優しさがある。
それは、時に残酷さと隣り合いながらも、今こうして「父親」としての顔を堂々と見せている。
腹の奥で、小さな命が静かに揺れる。
「……前向きに、考えさせていただきます」
それが、今の彼女に言える精一杯の言葉だった。
レギュラスは、その答えに満足げに目を細める。
「ええ、それで十分です」
そう言って、アランの指先にそっと自分の手を重ねた。
逃げ場を完全には奪わず、しかし、逃げ道の先に自分の部屋を用意しておくような手の置き方だった。
「楽しみに、待たせていただきますよ」
静かなサロンに、その一言が落ちる。
アランの胸の中で、要塞として守ってきた自室が、ゆっくりと揺らぎ始めていた。
それからのレギュラスは、本当に何かの「たが」が外れたかのようだった。
朝、階段を降りてくるときも。
廊下で行き違うときも。
使用人たちが控えていようと、執事が一礼していようと、お構いなしだった。
アランがサロンへ入ると、すでに新聞を広げていたレギュラスが顔を上げる。
アーマチェアから立ち上がる動作に、一切の淀みがない。
「おはようございます、アラン」
そう言うなり、当然のような手つきで彼女の腰を引き寄せる。
翡翠の瞳がふっと見開かれた。
視界の端で、ポッター家に長く仕えてきた執事が、気まずさを悟らせぬように一礼し、静かに部屋を後にする。
若いメイドが、そっと目を伏せたままテーブルに紅茶を置き、気配を消すように下がっていく。
「体調はいかがです?」
レギュラスの声は、甘やかすように低かった。
「昨夜は、あまり気分が優れない様子でしたが……まだ酷いようなら、今日はセシール卿のところへは行かせませんよ」
彼の指先が、ローブ越しにアランの背中を軽く撫でる。
ほんのわずかに揺れる、その細い肩。
「……大丈夫です。今朝はずいぶん楽ですから」
アランは、できるだけ平静に答えた。
声色に生々しい疲労が滲まないよう、喉の奥で慎重に整える。
「そうですか。それは何よりですね」
レギュラスは満足げに頷くと、視線をゆっくりと彼女の腹部へ落とした。
「子どもの胎動が分かるようになったら、真っ先に僕に教えてくださいね」
何気ない風を装った言葉。
「……真っ先に、ですか?」
「ええ。母親より後に知らされるなんて、父親としてはあまりにも寂しいでしょう?」
冗談めかして言いながらも、その瞳にはわずかな本気が宿っている。
アランは短く息を呑み、返答を飲み込んだ。
肯定以外の言葉は、きっと望まれていない。
「……分かりました。分かったときには、お伝えいたします」
「約束ですよ」
レギュラスの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
彼の腕の中で、アランの背筋がほんのわずかにこわばり、そのこわばりを彼の手が当たり前のように受け止めていた。
食堂の空気も、少しずつ変わっていった。
以前は、アランはヴァルブルガとオリオンの向かいに座り、レギュラスは斜め端に位置していた。
貴族らしい距離感を保った、整った配置。
だが最近は——レギュラスが当然のようにアランの隣へ腰を下ろす。
テーブルには銀器が整然と並び、皿には季節の料理が美しく盛られている。
湯気を立てるスープ、香草を散らした肉料理、彩り豊かな温野菜、切り分けられた果物。
アランが何かに手を伸ばそうとすると、レギュラスの手が先に伸びる。
さりげなく、しかし迷いなく。
「あ、それは僕が」
銀のサーバーを取り、彼女の皿に適量をよそいながら微笑む。
「これはどうです? 今朝の肉は少し脂が軽いようですよ。匂いも気にならないはずです」
「……自分で取れます」
思わず漏れた小さな反論は、声になった途端に頼りなくほどけた。
「もちろん、取れるでしょうね」
レギュラスはあっさりと認める。
「ですが、今は僕が取りたい気分なので。たまには夫のしたいようにさせてください」
軽い口調だった。
だが、断りを入れる余地はない。
アランの前の皿には、彼が選んだ料理がひとつ、またひとつと増えていく。
「子どものためにも、好き嫌いなく食べてくださいね」
半ば冗談めかして添えられた一言が、ナイフとフォークよりも重く響いた。
「……嫌いではありません。ただ、今は……」
「匂いがきついものは控えましょう。ヒーラーにもそう言われましたからね。
でも、今のこれは大丈夫でしょう? 調理場には十分指示してあります」
彼は、アランの表情を観察するように見つめた。
ナイフを握る手に力が入る。
フォークの先端が、皿の上でほんの僅かに音を立てた。
「……はい、いただきます」
それ以外に言葉は紡げなかった。
ヴァルブルガは、笑みを浮かべながらその様子を眺めている。
息子夫婦の仲睦まじさに目を細める母の視線。
オリオンは新聞をめくる手を止めず、時折「よいことだ」とでも言いたげに喉の奥で小さく笑った。
そのどれもが、アランには遠いところから聞こえてくる音のように感じられた。
魔法省へ向かう朝の見送りの時間が、屋敷の日課として定着して久しい。
広いロビーには磨き込まれた大理石の床が広がり、壁にはブラック家の紋章が誇らしげに掲げられている。
暖炉には淡く火が入り、外から差し込む光と混ざり合って、室内に柔らかな明るさを与えていた。
アランは、黒を基調としたローブの上に淡いショールを羽織った姿で、入り口の少し手前に立っていた。
使用人たちが適切な距離を保ちながら控えている。
玄関扉の前には、すでに馬車が待機している。
御者が手綱を握り、馬が落ち着いた様子で蹄を鳴らした。
「では、行ってまいります」
レギュラスがロビーに現れると、それだけで空気がわずかに引き締まる。
黒のローブに身を包み、灰色の瞳はいつものように冷静だった。
しかし、アランを見るときだけ、その目にわずかな柔らかさが差す。
「今日も戻りは遅くなります。案件が重なっておりましてね」
「お仕事……どうか、ご無理はなさいませんよう」
形式的な言葉。
だが、アランの声には、心配と距離感の両方が混ざっていた。
「心配してくださるのですね。ありがたいことです」
レギュラスは、軽く笑ってみせると、ふいに一歩近づいた。
使用人の視線が、ぴんと張り詰める。
しかし誰ひとり、顔色ひとつ変えない。
それが仕える家の「当主」と「夫人」に対する礼儀だ。
「……?」
アランが戸惑いの色を浮かべた瞬間、レギュラスは彼女の頬に指先を添えた。
そのまま、ごく自然な流れで顔を近づける。
「レギュラス——」
名前を呼ぶ声は、驚きと制止の境目で掠れた。
レギュラスは、構わず続ける。
「行ってくる前に、ひとつお願いがあるのですが」
瞳が、真っ直ぐにアランだけを捉えていた。
「……お願い、ですか」
「ええ」
わずかに口元が上がる。
「あなたのキス一つで、頑張れるというのに。
それすらいただけませんか?」
言葉を弄んでいるわけではない。
それでいて、あまりにも巧みだった。
「夫を励ます妻」という役割を、穏当に突きつける一文。
拒めば、彼を冷たく扱う妻のように見えてしまう。
受け入れれば、屋敷中に「仲睦まじい夫婦」の姿を見せることになる。
アランは、一瞬目を閉じた。
長い睫毛が震える。
ため息にも似た息が、胸の奥でひとつ落ちる。
肩で小さく息を整えると、彼女はほんのわずかに背伸びをした。
「……いってらっしゃいませ、レギュラス」
言葉と同時に、レギュラスの頬に手を添え、唇を寄せる。
触れるだけの、軽い口づけ。
しかし、それは紛れもない「自分から差し出した」形だった。
ロビーの空気が、瞬きひとつ分だけ静止する。
次の瞬間、レギュラスは彼女の頬を指先でそっとなぞり、満足げに微笑んだ。
「……ええ。これで今日一日、十分に戦えそうです」
耳元で落とされた低い声が、アランの肌に残る。
彼は振り返り、玄関へと歩いていった。
執事が扉を開ける。
冷たい外気が、屋敷の中へと流れ込む。
レギュラスの背中が、その向こう側へ消えていくまで、アランはその場から動けなかった。
扉が閉じ、ひときわ強く風が吹き抜けたあとで、ようやくアランは息を吐いた。
胸の奥で、小さく脈打つものがある。
それが子どもの鼓動なのか、自分自身の動揺なのか、判別がつかない。
使用人たちは、何事もなかったかのように各々の持ち場へ散っていく。
「ブラック家の夫婦は仲が良い」という印象だけが、静かに屋敷の中へ浸透していった。
アランは、自分の唇に残る感触をそっと指先でなぞった。
その仕草さえ、誰かに見られている気がして、慌てて手を下ろす。
レギュラスの容赦のなさは、優しさの衣をまとっていた。
体調を気遣い、子どもを案じる言葉を添えながら——その実、アランの動きも、表情も、逃げ道も、少しずつ削り取っていく。
それがどれほど巧妙で、どれほど甘く、どれほど息苦しいものなのか。
彼女の胸だけが、知っていた。
ローランド・フロストは、書斎の机の上に広げられた書類から目を離せなかった。
上質な羊皮紙に記された、式の日取りと招待客のリスト。
ところどころにインクの濃淡が揺れているのは、何度も目を通し、書き足し、削り、また書き直した痕跡だった。
ペン先で日付の部分をなぞる。
その動きに意味はない。ただ、意識を現実に留めておくための、ささやかな儀式のようなものだった。
「ローランド様、さっきと同じところを見ていらっしゃいますわよ」
肩にかかった小さな重みが、楽しげな声とともに揺れる。
横から覗き込んでいる少女——
クラリッサ・ブラックバーンは、上目づかいに彼を見上げ、悪戯めいた笑みを浮かべていた。
柔らかな金茶色の髪が波打つように肩の上で揺れ、その一房がローランドの腕にかかる。
香水ではなく、まだ少女らしい石鹸の匂いが、微かに鼻先をくすぐった。
「そう見えますか」
ローランドは、苦笑に似た微笑みを浮かべた。
本当は、その通りだった。
同じ行を、何度も何度も読み返しているだけで、内容はとうに頭に入っている。
それでも手放せずにいるのは、視線を落としていないと、別のものが目の前に浮かび上がってきてしまうからだった。
「見えますわ。だって、さっきも『ここにこの方を追加しよう』って仰って、そのあとずっと同じところにペンを置いたままでしたもの」
クラリッサは、悪気の欠片もない声音で言う。
歳相応に高い声。
その無邪気さを、愛らしいと感じるべきなのだろう。
——愛らしい。と思う。
そう思うべきだと、ローランドは自分に言い聞かせた。
羊皮紙の真ん中あたり。
招待客の欄には、整った筆跡で「セシール家」「ブラック家一同」「その親族」と記されている。
そこまでは、貴族の式としてごく当然の顔ぶれだ。
問題は、その字面の裏側にある。
セシール家の一人娘。
今はブラック家の正妻として、堂々と「ブラック夫人」の名を冠するはずの女性。
アラン——と、心の中だけで呼びかけた瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。
彼女もまた、この式に来る。
自分が、彼女の結婚式に参列したように。
あの日の情景が、まざまざと蘇る。
祭壇の前、レギュラス・ブラックの隣に立ったアランのドレス姿。
ヴァルブルガが選び抜いた布とレースが重ねられた純白の衣装は、完璧だった。
けれど、それ以上に完璧だったのは、それを身にまとう彼女自身だった。
美しいと、心から思った。
息が詰まるほどに。
同時に、手が届かないところへ行ってしまったのだと、骨の髄まで理解させられた。
祝福の拍手を送りながら、指先が震えた感覚を、今でも忘れられない。
笑みを崩さぬように噛みしめた内側の頬の痛みまで、まだ鮮やかに残っている。
今度は自分が、祭壇の側に立つ番だ。
隣に立つのは、アランではない。
クラリッサ・ブラックバーン——まだ幼さを残した、愛らしい少女。
アランは、その光景を、どんな目で見るのだろう。
遠くから静かに見つめるのか。
視線を逸らすのか。
それとも、何も感じていないふりをして、きちんと微笑むのか。
そのどれを想像しても、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「ローランド様?」
クラリッサの声が、現実に引き戻す。
彼女はいつの間にか椅子の背凭れとローランドの肩の間に体を滑り込ませ、ほとんどくっつくような姿勢で腰掛けていた。
細い腕を彼の腕に絡め、書類の上を覗き込んでいる。
彼女にとってそれは、ごく自然な甘え方なのだろう。
ローランドは、肩に乗った軽さを意識しないように、ペンを再び走らせた。
「クラリッサ、お座りになる椅子がなくなってしまいますよ」
「いいではありませんか。今はわたくしだけの時間なのですもの。
式の打ち合わせのときにはいつもどなたか来てしまいますでしょう? バーテミウス様とか、ブラック様とか」
ブラック様——
その名を聞いた瞬間、別の記憶が浮かぶ。
『どうか、クラリッサをお願いいたします』
魔法省の廊下で、あるいは応接室で。
何度か聞かされた、レギュラス・ブラックの声音。
ブラック家の遠縁に当たる令嬢として、クラリッサをフロスト家に迎えるという話を持ち出された日のこと。
レギュラスは穏やかに笑い、淡々と条件を並べたあと、最後にそれだけを言った。
『彼女はまだ若く、世間知らずな部分もありますから。
フロスト殿、どうかよろしくお願いいたします。…… アランを支えてくださるように』
その時、胸に走った痛みを、今も上手く言語化できない。
頼まれたのは、クラリッサを「妻として」支えること。
同時に、ブラック家の親族として、アラン——ブラック夫人を支えること。
レギュラスはいつも、そうやって穏やかな言葉のなかに、逃げ場のない責任を滑り込ませてくる。
クラリッサは、ペンを握るローランドの手を、そっと両手で包んだ。
「そんな難しいお顔をなさらなくても、きっと皆さま喜んでくださいますわ。
ブラック夫人も、きっとお祝いの言葉をくださるに決まっています」
無邪気にそう言う彼女は、何も知らない。
知る必要もない、とローランドは思った。
アランを、今では「アラン様」と呼ばなければならないこと。
彼女が「ブラック夫人」として自分の前に立つたびに、胸のどこかがじわりと軋むこと。
それでも、彼女の選んだ道を否定することは決してできないと分かっていること。
そんなものを、この幼い肩に負わせるわけにはいかなかった。
「……クラリッサ」
ローランドは、できるだけ柔らかく名を呼んだ。
「あなたのおっしゃる通りです。
皆さま、きっと喜んでくださるでしょう」
それが正しい答えであることくらい、理解している。
招待客リストの「ブラック家」の文字を見つめたまま、ローランドは胸の奥で問いを繰り返した。
—— アランは、自分をどう見るのか。
アランのドレスを選んだヴァルブルガが、今度はクラリッサのドレスを選び、自分はその隣に立つ。
アランは、祝福の拍手を送る側に立つ。
アランがいいと夢見た未来の位置に、今、クラリッサがいる。
自分は、その現実にどう向き合えばいいのか。
誰に相談すべき問題なのかも分からなかった。
友人に語るにはあまりにも私的で、家族に話すには生々しすぎる。
レギュラスブラックに打ち明けることなど、論外だ。
……愚かなことを考えている
自嘲めいた思いが頭をよぎる。
視線が、クラリッサへと吸い寄せられる。
彼女は、机の端に乗せられた菓子皿からマカロンをひとつつまみ、ローランドの口元へ差し出していた。
「ローランド様も、一つ召し上がってくださいな。
お顔色が少し硬うございますわ」
「いえ、クラリッサがどうぞ——」
「わたくしはもう二つもいただきましたもの。ほら、口を開けて」
冗談半分に差し出される菓子。
ローランドは、一瞬だけためらい、それから静かに口を開いた。
甘い味が舌に広がる。
—— アランも、甘いものは好きだった。
研究室で夜更けまで調合を続けた日、疲れをにじませた顔で、父エドモンドが用意してくれた焼き菓子を二人で半分こした。
粉砂糖が指先に付いて、笑いながら舐め合ったこともある。
あの頃のアランは、今よりずっと自由だった。
表情も、笑い声も、肌に触れる手も。
彼女と過ごした時間のなかで、ローランドは初めて「男女の行為」というものを知った。
慎重に。
恐る恐る。
互いを傷つけないように、探るように。
手を伸ばせば、彼女も手を伸ばしてくれた。
触れれば、触れ返してくれた。
重ね合った唇も、震えながら辿った肌の感触も。
全てが、二人だけで手探りで築いていったひとつの道だった。
幸福だったと、胸を張って言える。
それを、今でも忘れられない自分がいる。
今ローランドの隣にいるのは、まったく別の少女だ。
クラリッサ・ブラックバーン。
礼儀は身に付いており、気品もある。
社交界に出せば、きっと誰もが「よく育てられた令嬢だ」と口を揃えるだろう。
ただ、その内側には、年相応の無邪気さが溢れている。
嬉しければそのまま顔に出し、寂しければ迷わず袖をつまむ。
「嫌」と思えば遠慮なく口にし、「好き」と思えば躊躇なく飛び込んでくる。
彼女の信頼は、疑うことを知らない。
そのことが、ローランドには重かった。
夫として、彼女の手を取らなければならない。
伴侶として、彼女を受け入れなければならない。
それが、自分に課せられた役割だ。
だが——
クラリッサに向けられる無垢な好意を、そのまま男女の行為へと繋げることができなかった。
どうしても、自分の意識のどこかが拒む。
彼女の笑顔は、愛らしい。
そう思うべきだと分かっている。
けれど、その手を取って寝台へと導く光景を想像すると、喉の奥が固くなってしまうのだ。
まだ幼い。
あまりにも、幼い。
もちろん年齢的に問題があるわけではない。
貴族の世界では、これくらいの歳で嫁ぎ、子を産む者は珍しくない。
しかしローランドの中では、どうしても「子どもを手籠めにしているような」感覚が拭えなかった。
自分の男女の経験は、アランがすべてだった。
他の女を抱いたことなど、一度もない。
アランと二人で、慎ましく、恐る恐る、優しさを確かめ合うように重ねた夜。
その記憶だけが、ローランドの中にある「行為」のすべてだ。
その行為を、クラリッサと重ねる──
その考えが、苦痛だった。
クラリッサの無邪気な笑顔が、あの夜のアランの震える笑みと重なることはない。
だが、もし重ねてしまったなら、自分は取り返しのつかない裏切りを犯すような気がする。
アランのためにも。
クラリッサのためにも。
決して、誰にも口に出すことのない懺悔だった。
「ローランド様?」
クラリッサの指先が、彼の袖をちょん、と引いた。
「どうかなさいましたの? さっきから、難しいお顔を……。もしかして、わたくし、何かいけないことを申し上げました?」
「いいえ。クラリッサは、何も悪くありません」
ローランドは、慌てて首を振った。
それが本心であることだけは確かだった。
「少し、考えごとをしていただけです。
式の段取りを間違えないように、どうやって皆さまをお迎えするべきかと」
「まぁ……まじめなのですね、ローランド様は」
クラリッサは嬉しそうに笑った。
「そんなにお考えにならなくても、皆さまきっと祝福してくださいますわ。
ねぇ、わたくし、ブラック夫人にお会いするのが楽しみですの。ドレスのとき、とても優しくしてくださったでしょう? またいろいろお話を伺いたいですわ」
アラン様。
その名を、クラリッサは自然に口にする。
憧れと敬意を込めた声音で。
ローランドは、胸の内でそっと息を詰めた。
—— アランは、この少女をどう見るのだろう。
かつて自分が立ってほしかった位置に立つ女として。
それとも、ただの親族として。
その答えを知るのが怖くて仕方がないのに、それでも当日、視線を探してしまう自分の姿が、容易に想像できた。
「……そうですね」
ローランドは、ようやく搾り出すように言った。
「きっと、ブラック夫人も喜ばれます」
それが、正しい未来であることを祈るような気持ちで。
セシール家の屋敷。
眠るアランの枕元から離れ、部屋を見て回ったときに見つけたアルバム。
あの中に詰め込まれていた、幼い日からのアランとローランドの時間。
翡翠の瞳の少女が、淡い髪の少年の隣ではじめての薬草採集をしている写真。
制服姿で、肩を並べて研究室の机に向かっている写真。
彼の肩より少し小さな背丈で、アランが笑っている写真。
この青年の部屋にも、きっと似たようなアルバムがあるのだろう。
表紙の色は違っても、同じ場面を別の角度から切り取ったような魔法写真が、いくつもいくつも並んでいるに違いない。
そう思った瞬間、喉の奥に、押し殺していた何かがふっと浮かび上がる。
抑え込んだはずのものが、また性懲りもなく顔を出してくる。
「クラリッサ嬢とは、いかがです」
エレベーターの壁に軽く背を預けながら、レギュラスは何気ない風を装って問いかけた。
かすかに揺れる箱の中、質問だけが空気を切り取るように響く。
ローランドの視線が、一度だけ足元へ落ち、すぐに正面に戻った。
「……ええ。少し元気すぎるところがありますが」
そこで一度、言葉を選ぶように息を整えた。
「日々、穏やかに過ごしております」
それは、嘘ではないのだろう。
少なくとも、ローランドが「穏やか」と定義する範囲の中に、クラリッサとの生活は収まっている。
クラリッサ・ブラックバーン——
礼儀正しく、気品を備えた純血令嬢。
だが、まだ幼く、天真爛漫で、わがままも多い娘。
レギュラスは、わずかに笑みを深めた。
「お若い令嬢ですので。多少のことは、どうぞ多めに見てくださると幸いです」
その言い方は、あくまで「親族として」のものだった。
クラリッサの後見人として、彼女を託した者として、婿となる青年にかける言葉。
——だが、そこに混じるニュアンスは一つではない。
多めに見てくれ。
わが家の娘の幼さも無邪気さも、受け止めてくれ。
そして、同じ血筋の女—— アラン・ブラックの過去も、今も、全部含めて支え続けろ。
そう命じているのと同じだと、レギュラス自身は分かっていた。
「もちろんです」
ローランドは即座に頷いた。
「クラリッサ嬢は、大変素直で……。
まだ慣れないことも多いようですが、その分、私が支えて差し上げるべきだと思っております」
言いながら、その青い瞳に、一瞬だけ影が差した。
ほんの一瞬。魔法エレベーターの明かりが揺らいだせいと言われれば、それでも通る程度のもの。
けれど、レギュラスの目は、そのわずかな揺れを見逃さない。
沈黙が、一拍だけ降りた。
エレベーターは、数階を一気に上昇する。
金属的な音ではなく、魔力の軋みが、耳の奥をくぐもらせた。
「フロスト殿」
レギュラスは、何でもない雑談の続きを紡ぐような声色で口を開いた。
「セシール家の屋敷では、お変わりありませんでしたか」
特に、と言いたくなる問いだった。
だが、ローランドは安易にそうは答えなかった。
「……ブラック夫人も、セシール卿も、お変わりなく」
言葉を選びながら返す。
「研究も順調のようでした。先日は、調合表の整理をお手伝いさせていただきました」
アランのいる研究室。
薬草の匂い。
紙の擦れる音とインクのかすれ。
レギュラスは一度まぶたを伏せ、アルバムの中の光景と、現実に起きた出来事とを重ね合わせる。
ローランドは、かつてと同じように、アランの父の研究を手伝っている。
肩を並べてではない。
今はもう「夫」ではなく、ブラック家の親族として、彼女の父の仕事を支える一人の男として。
それでも、そこには必ずアランの存在が影のように寄り添っている。
「そうですか」
レギュラスは、声の抑揚を最小限に抑えた。
「セシール家は、あなたのような真面目な協力者を得て幸いですね」
それは皮肉ではなかった。
事実としても評価としても、正しい言葉だ。
同時に、胸の奥で微かに疼く何かが、彼自身にはっきりと自覚される。
——この男が、アランの人生に占めてきた時間の長さ。
アルバムのページに刻まれた年代を、レギュラスは正確に思い出していた。
幼少期、学齢期、青年期。
そのどれもに、ローランド・フロストという名前が添えられていた。
自分がそこに割り込んだのは、ずっと後になってからだ。
未来はすべて手に入れた。
妻として、子の母として、アラン・ブラックという女のこれからの時間は、例外なくレギュラス・ブラックの隣にある。
それでも、過去のアルバムに映る笑顔の数だけ、この男はアランの「一部」だった。
その事実が、今さらながら煩わしい。
魔法エレベーターが、目的の階に近づいてきた。
光る文字が、ひとつずつ数字を変えていく。
「……家族の縁を結んでいるのに、そんなに畏まらないでください」
先ほどと同じ言葉を、レギュラスはもう一度繰り返した。
今度は、少しだけ意味を変えて。
「あなたは、これからもブラック家と深く関わることになる。
僕にとっても、アランにとっても、避けようのないことです」
一瞬、ローランドの肩がこわばった。
アラン——
その名前が、この密閉された箱の中ではっきりと響いたことに、彼の呼吸がごく僅かに乱れる。
レギュラスは、その変化を楽しむような笑みを見せることはしなかった。
代わりに、ごく穏やかな表情で続ける。
「だからこそ、礼だけでなく、どうか……彼女のことも、これまで通り気にかけていてください」
それは、表向きには、穏当すぎるほど穏当な言葉だった。
アランの父の研究を支え、親族として家族ぐるみの付き合いを続けること。
ブラック家とフロスト家が、今後も健全な関係であり続けること。
レギュラスは、それを望んでいる——そう聞こえるように、声の調子を整える。
だが、その奥には別の響きが隠れていた。
お前は、彼女の過去を誰よりも知っている。
アルバムのページを増やしてきた年月の長さを、誰よりも知っている。
だからこそ、その「証人」として、これからも側にいろ。
自分が勝者であることを、何度でも胸に刻ませるために。
「……もちろんです」
ローランドは、静かに頭を垂れた。
「ブラック夫人—— アランのことを、粗末に扱うつもりは毛頭ございません。
たとえ立場が変わろうとも、尊敬すべき方であることに変わりはありませんので」
その言葉に、偽りはない。
アランを愛している。
それでも、彼女が選んだ道と家がブラック家である以上、自分はその選択を尊重し続けるしかない。
ローランド・フロストの行く先は、そうやって静かに「正しさ」に縛られている。
エレベーターが、やっと目的階に到達した。
軽い揺れとともに、扉が開く。
「では、失礼いたします、ブラック様」
ローランドが降りる前に、もう一度礼をした。
レギュラスは、視線だけでその背中を追う。
淡い髪。
真っ直ぐな背筋。
ポケットからはみ出した、きっちり折り畳まれた書類の端。
あの背中を追いかけていた小さな翡翠の瞳を、レギュラスはアルバムの中で見ている。
過去は、そちらのものです
心の中で、誰にも聞こえない声が囁く。
ですが——
扉が閉まりかけた瞬間、レギュラスはふっと口元を吊り上げた。
「フロスト殿」
その名を呼ぶ声に、ローランドが振り返る。
「クラリッサ嬢を、どうかよろしくお願いいたします」
ひと呼吸置いて、言葉を継いだ。
「それと—— アランを祝福してくださったこと、改めて礼を。彼女も、きっと感謝しているはずです」
その「彼女」という言葉に込められたものを、ローランドはどこまで読み取っただろうか。
青い瞳がわずかに揺れ、やがて静かに頷く。
「……身に余るお言葉です。
失礼いたします、ブラック様」
扉が静かに閉じた。
魔法エレベーターは再び上昇を始める。
狭い箱の中には、レギュラス一人だけが残された。
胸の奥に、まだ燻るものがある。
アルバムを閉じた夜と同じように、簡単には消えない火種。
それでも彼は、微笑を崩さない。
「……これから先のページは、全部僕の名で埋めていきますよ、フロスト殿」
誰にも聞こえない独白が、狭い箱の中で静かに溶けていった。
安定期、という言葉は、あまりにも穏やかで、耳に心地よかった。
ヒーラーの説明は、いつも通り冷静で事務的だった。
魔力の揺らぎも落ち着いていること。
胎児の成長は順調であること。
極端な無理をしない限り、これまでより自由に動いて構わないこと。
レギュラスは、細かい数値や診断用語を一通り聞き終えたあと、形ばかりの質問をいくつか投げた。
ヒーラーの答えを一つ残らず理解したうえで、しかしその頭の片隅では、別のことを考え始めていた。
——夜。
——寝室。
——安定期。
この三つの言葉が、ひどく都合よく並ぶ。
もともと、悪阻の期間がひどいと分かった時点で、アランを自室に戻した判断は、理性的には正しいものだった。
彼女の体調を優先することは、夫としても、魔法省役員としても、当然の判断だ。
だが、当然であることと、面白くないこととは両立する。
夜、冷えたシーツの片側に誰も横たわらない日々が何日も続くうちに、レギュラスは、自分で思っていた以上にその「不在」に苛立っていた。
その苛立ちが、今ヒーラーの告げた一言で、綺麗に理由を得たような気がした。
…そろそろ、いいでしょう
もう少し安静に、と言われるなら従ってやるつもりもあった。
だが、ヒーラーの口から出たのは「順調」という言葉だけだ。
ならば、とレギュラスは心の中で結論を下した。
その日の午後、屋敷の空気は柔らかな陽光に満ちていた。
ブラック家のサロンには、春先の薄い日差しが大きな窓から流れ込み、淡いカーテン越しに床へと落ちている。
アランは、窓際のソファに腰をかけ、膝に薄い毛布をかけたまま、魔法薬の論文を読んでいた。
翡翠の瞳は文字を追っているが、その動きは、時折小さく止まる。
つわりの鋭さが引いてからも、体はまだ本調子とは言い難いのだろう。
それでも、彼女は書類を捨てなかった。
父の研究の補助も、ブラック家として取り組むべき案件も、手放せないまま抱きかかえている。
レギュラスは、サロンへ入る前に一度だけ足を止めた。
扉越しに聞こえるのは、紙の擦れる音と、暖炉の火が静かにはぜる音だけ。
彼はノックをする代わりに、静かに扉を押し開けた。
「アラン」
名を呼ぶ声に、彼女が顔を上げる。
柔らかなローブに包まれた身体は、以前よりわずかにふっくらとしてきていた。
まだお腹が目に見えて大きくなったわけではない。
それでも、レギュラスには分かる。
かつて腕に抱いたときよりも、たしかな重みがそこにあるであろうことが。
「レギュラス」
アランが立ち上がろうとして、レギュラスは首を振った。
「座っていてください。ヒーラーに叱られてしまいますからね」
冗談めかして言いながら、彼はソファの向かいではなく、アランの隣に腰を下ろした。
距離は、肩がかすかに触れるかどうかというところ。
以前よりは自然に、しかし逃げ場がないことをさりげなく教える位置だった。
「先ほど、ヒーラーから報告がありましたよ」
アランの指先が、膝の上の論文の端をぎゅっと掴む。
「……何か、問題でも……?」
声には、かすかな緊張が滲んでいた。
レギュラスは、そこでようやく笑みを浮かべる。
「いいえ。むしろ、反対です。
順調だと。魔力の状態も安定しているし、今のところ危険な兆候もないと、丁寧にお墨付きをいただきました」
アランの肩から、すっと力が抜けた。
「……そう、ですか」
胸の奥で小さな安堵が弾けたのが、表情にこぼれ出る。
彼女にとって「安定期」という言葉は、自分の体よりも、腹の中の命の状態を測る指標だ。
レギュラスにとっては——その意味すべてが、同じように単純ではなかった。
「そこで、ひとつ」
レギュラスは、軽く指先を組んだ。
「ヒーラーからの報告を踏まえて、提案があるのですが」
アランが、不安と好奇心を半分ずつ抱えたような目で見返す。
「提案……?」
「そう、提案です」
彼は、言葉の選び方だけは柔らかくした。
命令ではないと示すための装い。
だが、内側にある意図は、命令とほとんど変わらない。
「そろそろ——僕の部屋に、寝室を移してくださってもいいのではないでしょうか」
アランの瞳が、大きく揺れた。
驚きが、隠しもせず浮かぶ。
細い指が、膝の上でさらに強く論文の端を握りしめる。
「……え、」
言葉にならない声が漏れた。
夜のあいだ中、別々の部屋で眠る日々。
つわりがひどかった時期には、その隔たりが必然の壁のように感じられた。
ヒーラーからは安静を求められ、アラン自身も、夜中に何度も吐き気で目を覚ますたび、自分の寝台から動けなかった。
だから、レギュラスの部屋に足を運ばない口実は、いくらでもあった。
彼女は、自分の部屋を「要塞」のように感じている。
そうレギュラスが気づいたのは、扉の内側に閉じこもるように暮らす妻の姿を遠目に見たときだった。
その要塞へ、彼は何度も足を運び、少しずつ時間をかけて中へ入り込み、その奥にいる彼女と距離を縮めてきた。
つわりにかこつけて夜の訪問が途絶えていたこの数週間は、彼女にとっては平穏だったかもしれない。
けれど——レギュラスにとっては、退屈とも言える空白だった。
今、それを埋める機会が訪れた。
「それは……」
アランは、真っ直ぐには言葉を続けられなかった。
視線が宙を彷徨う。
ソファの肘掛け、膝に置かれた論文の文字、自分の指先。
どこを見ても、答えは書いていない。
「まだ、その……体調も完全ではありませんし……」
「だから、安定期だとヒーラーが言ったのですよ?」
レギュラスは、決して責めるような声色にしない。
あくまで、穏やかに、理を積み上げる。
「無理をさせるつもりはありません。
あなたがしんどい夜には、今まで通りひとりで休めばいい。ただ——」
そこで言葉を切り、アランの横顔を覗き込むようにして、わざと少しだけ距離を詰める。
「お腹の子の父親を、あまり寂しくさせないでください」
甘えるような響きを、意図的に含ませた。
「父親は、思ったより寂しがりなのですよ」
アランの睫毛が、びくりと震える。
父親——
その言葉に、アランの胸の奥で何かが鳴った。
レギュラスの子。
ブラック家の跡取りになるかもしれない命。
その父親が、寂しいと口にする。
責められているわけではない。
むしろ、甘えるような、それでいて巧みに「断れない理由」を差し出されている。
「……レギュラスは、いつもそうして、言葉で……」
呟きかけた声は、最後まで続かなかった。
レギュラスが静かに首をかしげる。
「言葉で?」
「いえ……その……」
アランの頬に、うっすらと色が差す。
つわりで顔色を悪くする日は多かったが、こうやって赤みが戻るのは久しぶりだった。
責めたいわけではない。
それでも、彼女の中にある「拒否」の言葉を、二言目で封じ込めるのは、レギュラスにはあまりにも容易い。
「僕は、ただ本音を言っているだけです」
レギュラスは少し肩をすくめてみせた。
「あなたが僕の寝室からいなくなって以来、ベッドの片側はひどく寒々しい。
せっかくこんなに大きな寝台を用意しているのに、半分以上無駄になっているのですからね」
軽口の形をとりながら、その一言の中に、「それだけあなたを待っていた」という事実を滑り込ませる。
アランは、膝の上の論文からそっと手を離した。
指先が、ローブの端をつまむ。
「……わたしの寝台は、そこまで広くございませんが」
ようやく絞り出した言葉は、僅かな反論であり、同時に諦めに似た響きでもあった。
「十分です。あなた一人が眠るには」
「そうでしょうね」
レギュラスは静かに微笑んだ。
「ですが、僕にとっては足りません。
あなたと子どもが、僕の隣で息をしている場所でなければ——満ち足りないのです」
言葉は甘く、響きは真剣だった。
アランは、その視線から逃げるように窓の外を見やった。
庭の木々が風に揺れる。
春先の光が、遠くで煌めいている。
ローランドと夢見た未来が、別の形で目の前に現れている。
そのことを思うと、胸がぎゅっと縮んだ。
けれど同時に、腹の中で静かに息づく小さな命が、彼女を現実へ引き戻す。
この子の父親は、レギュラス・ブラックだ。
その事実だけは、どうあっても変えられない。
「……少し、考えさせていただいても、よろしいでしょうか」
アランが、かろうじてそう口にした。
レギュラスは、即座に首を横に振る——ことはしなかった。
代わりに、わずかに微笑を深める。
「もちろん。今すぐ荷物を運べなどとは言いません」
安心させるような言い方で、しかし彼は続ける。
「ただ、安定期を迎えた今だからこそ言ったんです。僕は、あなたと子どもを、これまで以上に近くに感じていたい。
それは夫として、そして父親としての、正直な望みです」
アランの喉が、ごくりと鳴る。
肯定の言葉を、彼は求めている。
そのことは、痛いほど分かっていた。
彼女の沈黙を責めるような視線ではない。
けれど、逃げ道の少ない柔らかな網で、そっと包み込まれているような感覚があった。
「……すぐに、とは言いません」
レギュラスは、最後にもう一度だけ言い添える。
「ですが、近いうちに——あなたの口から『そちらへ行く』と聞けたなら、これほど嬉しいことはありませんよ」
甘えるように、しかし確実に「肯定」を引き出す言葉だった。
アランは、視線を落としたまま、指先をぎゅっと握りしめた。
ローランドを思えば、胸は痛む。
あの人なら、決してこんなふうに言葉で追い詰めることはしなかっただろう。
けれど、レギュラスにも、彼なりの優しさがある。
それは、時に残酷さと隣り合いながらも、今こうして「父親」としての顔を堂々と見せている。
腹の奥で、小さな命が静かに揺れる。
「……前向きに、考えさせていただきます」
それが、今の彼女に言える精一杯の言葉だった。
レギュラスは、その答えに満足げに目を細める。
「ええ、それで十分です」
そう言って、アランの指先にそっと自分の手を重ねた。
逃げ場を完全には奪わず、しかし、逃げ道の先に自分の部屋を用意しておくような手の置き方だった。
「楽しみに、待たせていただきますよ」
静かなサロンに、その一言が落ちる。
アランの胸の中で、要塞として守ってきた自室が、ゆっくりと揺らぎ始めていた。
それからのレギュラスは、本当に何かの「たが」が外れたかのようだった。
朝、階段を降りてくるときも。
廊下で行き違うときも。
使用人たちが控えていようと、執事が一礼していようと、お構いなしだった。
アランがサロンへ入ると、すでに新聞を広げていたレギュラスが顔を上げる。
アーマチェアから立ち上がる動作に、一切の淀みがない。
「おはようございます、アラン」
そう言うなり、当然のような手つきで彼女の腰を引き寄せる。
翡翠の瞳がふっと見開かれた。
視界の端で、ポッター家に長く仕えてきた執事が、気まずさを悟らせぬように一礼し、静かに部屋を後にする。
若いメイドが、そっと目を伏せたままテーブルに紅茶を置き、気配を消すように下がっていく。
「体調はいかがです?」
レギュラスの声は、甘やかすように低かった。
「昨夜は、あまり気分が優れない様子でしたが……まだ酷いようなら、今日はセシール卿のところへは行かせませんよ」
彼の指先が、ローブ越しにアランの背中を軽く撫でる。
ほんのわずかに揺れる、その細い肩。
「……大丈夫です。今朝はずいぶん楽ですから」
アランは、できるだけ平静に答えた。
声色に生々しい疲労が滲まないよう、喉の奥で慎重に整える。
「そうですか。それは何よりですね」
レギュラスは満足げに頷くと、視線をゆっくりと彼女の腹部へ落とした。
「子どもの胎動が分かるようになったら、真っ先に僕に教えてくださいね」
何気ない風を装った言葉。
「……真っ先に、ですか?」
「ええ。母親より後に知らされるなんて、父親としてはあまりにも寂しいでしょう?」
冗談めかして言いながらも、その瞳にはわずかな本気が宿っている。
アランは短く息を呑み、返答を飲み込んだ。
肯定以外の言葉は、きっと望まれていない。
「……分かりました。分かったときには、お伝えいたします」
「約束ですよ」
レギュラスの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
彼の腕の中で、アランの背筋がほんのわずかにこわばり、そのこわばりを彼の手が当たり前のように受け止めていた。
食堂の空気も、少しずつ変わっていった。
以前は、アランはヴァルブルガとオリオンの向かいに座り、レギュラスは斜め端に位置していた。
貴族らしい距離感を保った、整った配置。
だが最近は——レギュラスが当然のようにアランの隣へ腰を下ろす。
テーブルには銀器が整然と並び、皿には季節の料理が美しく盛られている。
湯気を立てるスープ、香草を散らした肉料理、彩り豊かな温野菜、切り分けられた果物。
アランが何かに手を伸ばそうとすると、レギュラスの手が先に伸びる。
さりげなく、しかし迷いなく。
「あ、それは僕が」
銀のサーバーを取り、彼女の皿に適量をよそいながら微笑む。
「これはどうです? 今朝の肉は少し脂が軽いようですよ。匂いも気にならないはずです」
「……自分で取れます」
思わず漏れた小さな反論は、声になった途端に頼りなくほどけた。
「もちろん、取れるでしょうね」
レギュラスはあっさりと認める。
「ですが、今は僕が取りたい気分なので。たまには夫のしたいようにさせてください」
軽い口調だった。
だが、断りを入れる余地はない。
アランの前の皿には、彼が選んだ料理がひとつ、またひとつと増えていく。
「子どものためにも、好き嫌いなく食べてくださいね」
半ば冗談めかして添えられた一言が、ナイフとフォークよりも重く響いた。
「……嫌いではありません。ただ、今は……」
「匂いがきついものは控えましょう。ヒーラーにもそう言われましたからね。
でも、今のこれは大丈夫でしょう? 調理場には十分指示してあります」
彼は、アランの表情を観察するように見つめた。
ナイフを握る手に力が入る。
フォークの先端が、皿の上でほんの僅かに音を立てた。
「……はい、いただきます」
それ以外に言葉は紡げなかった。
ヴァルブルガは、笑みを浮かべながらその様子を眺めている。
息子夫婦の仲睦まじさに目を細める母の視線。
オリオンは新聞をめくる手を止めず、時折「よいことだ」とでも言いたげに喉の奥で小さく笑った。
そのどれもが、アランには遠いところから聞こえてくる音のように感じられた。
魔法省へ向かう朝の見送りの時間が、屋敷の日課として定着して久しい。
広いロビーには磨き込まれた大理石の床が広がり、壁にはブラック家の紋章が誇らしげに掲げられている。
暖炉には淡く火が入り、外から差し込む光と混ざり合って、室内に柔らかな明るさを与えていた。
アランは、黒を基調としたローブの上に淡いショールを羽織った姿で、入り口の少し手前に立っていた。
使用人たちが適切な距離を保ちながら控えている。
玄関扉の前には、すでに馬車が待機している。
御者が手綱を握り、馬が落ち着いた様子で蹄を鳴らした。
「では、行ってまいります」
レギュラスがロビーに現れると、それだけで空気がわずかに引き締まる。
黒のローブに身を包み、灰色の瞳はいつものように冷静だった。
しかし、アランを見るときだけ、その目にわずかな柔らかさが差す。
「今日も戻りは遅くなります。案件が重なっておりましてね」
「お仕事……どうか、ご無理はなさいませんよう」
形式的な言葉。
だが、アランの声には、心配と距離感の両方が混ざっていた。
「心配してくださるのですね。ありがたいことです」
レギュラスは、軽く笑ってみせると、ふいに一歩近づいた。
使用人の視線が、ぴんと張り詰める。
しかし誰ひとり、顔色ひとつ変えない。
それが仕える家の「当主」と「夫人」に対する礼儀だ。
「……?」
アランが戸惑いの色を浮かべた瞬間、レギュラスは彼女の頬に指先を添えた。
そのまま、ごく自然な流れで顔を近づける。
「レギュラス——」
名前を呼ぶ声は、驚きと制止の境目で掠れた。
レギュラスは、構わず続ける。
「行ってくる前に、ひとつお願いがあるのですが」
瞳が、真っ直ぐにアランだけを捉えていた。
「……お願い、ですか」
「ええ」
わずかに口元が上がる。
「あなたのキス一つで、頑張れるというのに。
それすらいただけませんか?」
言葉を弄んでいるわけではない。
それでいて、あまりにも巧みだった。
「夫を励ます妻」という役割を、穏当に突きつける一文。
拒めば、彼を冷たく扱う妻のように見えてしまう。
受け入れれば、屋敷中に「仲睦まじい夫婦」の姿を見せることになる。
アランは、一瞬目を閉じた。
長い睫毛が震える。
ため息にも似た息が、胸の奥でひとつ落ちる。
肩で小さく息を整えると、彼女はほんのわずかに背伸びをした。
「……いってらっしゃいませ、レギュラス」
言葉と同時に、レギュラスの頬に手を添え、唇を寄せる。
触れるだけの、軽い口づけ。
しかし、それは紛れもない「自分から差し出した」形だった。
ロビーの空気が、瞬きひとつ分だけ静止する。
次の瞬間、レギュラスは彼女の頬を指先でそっとなぞり、満足げに微笑んだ。
「……ええ。これで今日一日、十分に戦えそうです」
耳元で落とされた低い声が、アランの肌に残る。
彼は振り返り、玄関へと歩いていった。
執事が扉を開ける。
冷たい外気が、屋敷の中へと流れ込む。
レギュラスの背中が、その向こう側へ消えていくまで、アランはその場から動けなかった。
扉が閉じ、ひときわ強く風が吹き抜けたあとで、ようやくアランは息を吐いた。
胸の奥で、小さく脈打つものがある。
それが子どもの鼓動なのか、自分自身の動揺なのか、判別がつかない。
使用人たちは、何事もなかったかのように各々の持ち場へ散っていく。
「ブラック家の夫婦は仲が良い」という印象だけが、静かに屋敷の中へ浸透していった。
アランは、自分の唇に残る感触をそっと指先でなぞった。
その仕草さえ、誰かに見られている気がして、慌てて手を下ろす。
レギュラスの容赦のなさは、優しさの衣をまとっていた。
体調を気遣い、子どもを案じる言葉を添えながら——その実、アランの動きも、表情も、逃げ道も、少しずつ削り取っていく。
それがどれほど巧妙で、どれほど甘く、どれほど息苦しいものなのか。
彼女の胸だけが、知っていた。
ローランド・フロストは、書斎の机の上に広げられた書類から目を離せなかった。
上質な羊皮紙に記された、式の日取りと招待客のリスト。
ところどころにインクの濃淡が揺れているのは、何度も目を通し、書き足し、削り、また書き直した痕跡だった。
ペン先で日付の部分をなぞる。
その動きに意味はない。ただ、意識を現実に留めておくための、ささやかな儀式のようなものだった。
「ローランド様、さっきと同じところを見ていらっしゃいますわよ」
肩にかかった小さな重みが、楽しげな声とともに揺れる。
横から覗き込んでいる少女——
クラリッサ・ブラックバーンは、上目づかいに彼を見上げ、悪戯めいた笑みを浮かべていた。
柔らかな金茶色の髪が波打つように肩の上で揺れ、その一房がローランドの腕にかかる。
香水ではなく、まだ少女らしい石鹸の匂いが、微かに鼻先をくすぐった。
「そう見えますか」
ローランドは、苦笑に似た微笑みを浮かべた。
本当は、その通りだった。
同じ行を、何度も何度も読み返しているだけで、内容はとうに頭に入っている。
それでも手放せずにいるのは、視線を落としていないと、別のものが目の前に浮かび上がってきてしまうからだった。
「見えますわ。だって、さっきも『ここにこの方を追加しよう』って仰って、そのあとずっと同じところにペンを置いたままでしたもの」
クラリッサは、悪気の欠片もない声音で言う。
歳相応に高い声。
その無邪気さを、愛らしいと感じるべきなのだろう。
——愛らしい。と思う。
そう思うべきだと、ローランドは自分に言い聞かせた。
羊皮紙の真ん中あたり。
招待客の欄には、整った筆跡で「セシール家」「ブラック家一同」「その親族」と記されている。
そこまでは、貴族の式としてごく当然の顔ぶれだ。
問題は、その字面の裏側にある。
セシール家の一人娘。
今はブラック家の正妻として、堂々と「ブラック夫人」の名を冠するはずの女性。
アラン——と、心の中だけで呼びかけた瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。
彼女もまた、この式に来る。
自分が、彼女の結婚式に参列したように。
あの日の情景が、まざまざと蘇る。
祭壇の前、レギュラス・ブラックの隣に立ったアランのドレス姿。
ヴァルブルガが選び抜いた布とレースが重ねられた純白の衣装は、完璧だった。
けれど、それ以上に完璧だったのは、それを身にまとう彼女自身だった。
美しいと、心から思った。
息が詰まるほどに。
同時に、手が届かないところへ行ってしまったのだと、骨の髄まで理解させられた。
祝福の拍手を送りながら、指先が震えた感覚を、今でも忘れられない。
笑みを崩さぬように噛みしめた内側の頬の痛みまで、まだ鮮やかに残っている。
今度は自分が、祭壇の側に立つ番だ。
隣に立つのは、アランではない。
クラリッサ・ブラックバーン——まだ幼さを残した、愛らしい少女。
アランは、その光景を、どんな目で見るのだろう。
遠くから静かに見つめるのか。
視線を逸らすのか。
それとも、何も感じていないふりをして、きちんと微笑むのか。
そのどれを想像しても、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「ローランド様?」
クラリッサの声が、現実に引き戻す。
彼女はいつの間にか椅子の背凭れとローランドの肩の間に体を滑り込ませ、ほとんどくっつくような姿勢で腰掛けていた。
細い腕を彼の腕に絡め、書類の上を覗き込んでいる。
彼女にとってそれは、ごく自然な甘え方なのだろう。
ローランドは、肩に乗った軽さを意識しないように、ペンを再び走らせた。
「クラリッサ、お座りになる椅子がなくなってしまいますよ」
「いいではありませんか。今はわたくしだけの時間なのですもの。
式の打ち合わせのときにはいつもどなたか来てしまいますでしょう? バーテミウス様とか、ブラック様とか」
ブラック様——
その名を聞いた瞬間、別の記憶が浮かぶ。
『どうか、クラリッサをお願いいたします』
魔法省の廊下で、あるいは応接室で。
何度か聞かされた、レギュラス・ブラックの声音。
ブラック家の遠縁に当たる令嬢として、クラリッサをフロスト家に迎えるという話を持ち出された日のこと。
レギュラスは穏やかに笑い、淡々と条件を並べたあと、最後にそれだけを言った。
『彼女はまだ若く、世間知らずな部分もありますから。
フロスト殿、どうかよろしくお願いいたします。…… アランを支えてくださるように』
その時、胸に走った痛みを、今も上手く言語化できない。
頼まれたのは、クラリッサを「妻として」支えること。
同時に、ブラック家の親族として、アラン——ブラック夫人を支えること。
レギュラスはいつも、そうやって穏やかな言葉のなかに、逃げ場のない責任を滑り込ませてくる。
クラリッサは、ペンを握るローランドの手を、そっと両手で包んだ。
「そんな難しいお顔をなさらなくても、きっと皆さま喜んでくださいますわ。
ブラック夫人も、きっとお祝いの言葉をくださるに決まっています」
無邪気にそう言う彼女は、何も知らない。
知る必要もない、とローランドは思った。
アランを、今では「アラン様」と呼ばなければならないこと。
彼女が「ブラック夫人」として自分の前に立つたびに、胸のどこかがじわりと軋むこと。
それでも、彼女の選んだ道を否定することは決してできないと分かっていること。
そんなものを、この幼い肩に負わせるわけにはいかなかった。
「……クラリッサ」
ローランドは、できるだけ柔らかく名を呼んだ。
「あなたのおっしゃる通りです。
皆さま、きっと喜んでくださるでしょう」
それが正しい答えであることくらい、理解している。
招待客リストの「ブラック家」の文字を見つめたまま、ローランドは胸の奥で問いを繰り返した。
—— アランは、自分をどう見るのか。
アランのドレスを選んだヴァルブルガが、今度はクラリッサのドレスを選び、自分はその隣に立つ。
アランは、祝福の拍手を送る側に立つ。
アランがいいと夢見た未来の位置に、今、クラリッサがいる。
自分は、その現実にどう向き合えばいいのか。
誰に相談すべき問題なのかも分からなかった。
友人に語るにはあまりにも私的で、家族に話すには生々しすぎる。
レギュラスブラックに打ち明けることなど、論外だ。
……愚かなことを考えている
自嘲めいた思いが頭をよぎる。
視線が、クラリッサへと吸い寄せられる。
彼女は、机の端に乗せられた菓子皿からマカロンをひとつつまみ、ローランドの口元へ差し出していた。
「ローランド様も、一つ召し上がってくださいな。
お顔色が少し硬うございますわ」
「いえ、クラリッサがどうぞ——」
「わたくしはもう二つもいただきましたもの。ほら、口を開けて」
冗談半分に差し出される菓子。
ローランドは、一瞬だけためらい、それから静かに口を開いた。
甘い味が舌に広がる。
—— アランも、甘いものは好きだった。
研究室で夜更けまで調合を続けた日、疲れをにじませた顔で、父エドモンドが用意してくれた焼き菓子を二人で半分こした。
粉砂糖が指先に付いて、笑いながら舐め合ったこともある。
あの頃のアランは、今よりずっと自由だった。
表情も、笑い声も、肌に触れる手も。
彼女と過ごした時間のなかで、ローランドは初めて「男女の行為」というものを知った。
慎重に。
恐る恐る。
互いを傷つけないように、探るように。
手を伸ばせば、彼女も手を伸ばしてくれた。
触れれば、触れ返してくれた。
重ね合った唇も、震えながら辿った肌の感触も。
全てが、二人だけで手探りで築いていったひとつの道だった。
幸福だったと、胸を張って言える。
それを、今でも忘れられない自分がいる。
今ローランドの隣にいるのは、まったく別の少女だ。
クラリッサ・ブラックバーン。
礼儀は身に付いており、気品もある。
社交界に出せば、きっと誰もが「よく育てられた令嬢だ」と口を揃えるだろう。
ただ、その内側には、年相応の無邪気さが溢れている。
嬉しければそのまま顔に出し、寂しければ迷わず袖をつまむ。
「嫌」と思えば遠慮なく口にし、「好き」と思えば躊躇なく飛び込んでくる。
彼女の信頼は、疑うことを知らない。
そのことが、ローランドには重かった。
夫として、彼女の手を取らなければならない。
伴侶として、彼女を受け入れなければならない。
それが、自分に課せられた役割だ。
だが——
クラリッサに向けられる無垢な好意を、そのまま男女の行為へと繋げることができなかった。
どうしても、自分の意識のどこかが拒む。
彼女の笑顔は、愛らしい。
そう思うべきだと分かっている。
けれど、その手を取って寝台へと導く光景を想像すると、喉の奥が固くなってしまうのだ。
まだ幼い。
あまりにも、幼い。
もちろん年齢的に問題があるわけではない。
貴族の世界では、これくらいの歳で嫁ぎ、子を産む者は珍しくない。
しかしローランドの中では、どうしても「子どもを手籠めにしているような」感覚が拭えなかった。
自分の男女の経験は、アランがすべてだった。
他の女を抱いたことなど、一度もない。
アランと二人で、慎ましく、恐る恐る、優しさを確かめ合うように重ねた夜。
その記憶だけが、ローランドの中にある「行為」のすべてだ。
その行為を、クラリッサと重ねる──
その考えが、苦痛だった。
クラリッサの無邪気な笑顔が、あの夜のアランの震える笑みと重なることはない。
だが、もし重ねてしまったなら、自分は取り返しのつかない裏切りを犯すような気がする。
アランのためにも。
クラリッサのためにも。
決して、誰にも口に出すことのない懺悔だった。
「ローランド様?」
クラリッサの指先が、彼の袖をちょん、と引いた。
「どうかなさいましたの? さっきから、難しいお顔を……。もしかして、わたくし、何かいけないことを申し上げました?」
「いいえ。クラリッサは、何も悪くありません」
ローランドは、慌てて首を振った。
それが本心であることだけは確かだった。
「少し、考えごとをしていただけです。
式の段取りを間違えないように、どうやって皆さまをお迎えするべきかと」
「まぁ……まじめなのですね、ローランド様は」
クラリッサは嬉しそうに笑った。
「そんなにお考えにならなくても、皆さまきっと祝福してくださいますわ。
ねぇ、わたくし、ブラック夫人にお会いするのが楽しみですの。ドレスのとき、とても優しくしてくださったでしょう? またいろいろお話を伺いたいですわ」
アラン様。
その名を、クラリッサは自然に口にする。
憧れと敬意を込めた声音で。
ローランドは、胸の内でそっと息を詰めた。
—— アランは、この少女をどう見るのだろう。
かつて自分が立ってほしかった位置に立つ女として。
それとも、ただの親族として。
その答えを知るのが怖くて仕方がないのに、それでも当日、視線を探してしまう自分の姿が、容易に想像できた。
「……そうですね」
ローランドは、ようやく搾り出すように言った。
「きっと、ブラック夫人も喜ばれます」
それが、正しい未来であることを祈るような気持ちで。
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