2章
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クラリッサ・ブラックバーンは、どうしても「幼い」という言葉から逃れられない娘だった。
当然ながら、礼儀は知っている。
食器を持ち上げる角度も、椅子から立ち上がるタイミングも、客として主人にかける言葉も、何一つ間違ってはいない。
それどころか、柔らかな笑みと背筋の伸びた所作は、貴族の令嬢として申し分なかった。
けれど、その完璧に整った所作の向こう側で、彼女の感情は、まだ「若さ」の色を隠しきれていない。
「ローランド様、さっきのお菓子、とても美味しかったですわ。帰りにも少し持たせていただけないかしら」
クラリッサは、茶器の向こう側から身を乗り出すようにして囁いてきた。
声色には、主人であるセシール家への遠慮と、それでも欲しいものは欲しいと素直に言える年頃の甘えが混ざっている。
「クラリッサ」
小さく名を呼んで、ローランドは一度だけ視線で諌める。
あまり遠慮のない願い方は、場合によっては不躾と取られかねない。
しかしエドモンドは、むしろ目を細めて笑った。
「構いませんよ。気に入ってもらえたのなら嬉しい。
後で包ませましょう」
「まあ。本当によろしいのですか?」
たちまちクラリッサの顔が輝く。
彼女は嬉しさを抑えきれず、つい、と隣のローランドの袖を指先でつまんだ。
「聞きました? ローランド様。セシール卿はとても親切でいらっしゃるわ」
その仕草は、あまりにも自然だった。
純粋な信頼と、子どものような甘えと、「夫になる人」に対する当然の親しさ。
その全部が、何の濁りもなく指先から溢れている。
ローランドは、ごくわずかに肩をこわばらせた。
断る理由はない。
ここでその手を振り払うことは、クラリッサだけでなく、彼女を送り出したブラック家や、取り結んでくれたレギュラス・ブラックの顔にも泥を塗ることになる。
だから、彼は迷いを押し込めて、その手を掌で包み込んだ。
「……良かったですね、クラリッサ」
いつも通りの声音を保つ。
「お土産として頂いて、道中で少しずつお召し上がりになるといい。長い移動も、少しは楽しく感じられるでしょう」
「はい。ローランド様と一緒なら、きっとどこへ行くのも楽しいですわ」
無邪気な笑顔が、応接室の空気を明るく染める。
その光のうちに、自分も入っているのだと、クラリッサは疑いもしない。
アランの存在は、クラリッサの斜め向こうにあった。
茶器を両手で包みながら、静かに話を聞いている。
表情は穏やかで、見ようによっては微笑ましい光景を温かく見守る姉のようにも見えた。
けれど、ローランドは知っている。
アランの笑みの作り方を。
「本心を隠して、場にふさわしい顔を選ぶとき」の、翡翠色の瞳のわずかな揺らぎを。
だからこそ、彼女の目を見ることができなかった。
クラリッサの手を取っている自分の掌が、ひどく重く感じられる。
そこに宿る温度は、決して嫌悪すべきものではない。
懐いてくる者に応えることは、フロスト家の跡継ぎとして当然の振る舞いでもある。
それでも——胸の奥が締め付けられた。
……重い
思ってしまったことに、自分で驚いた。
クラリッサの好意が、重いのではない。
まっすぐ向けられる視線も、信頼も、「ローランド様になら」と無条件に委ねようとする心も。
どれも、否定されるべきものではない。
誰かにとっては、これ以上ない祝福のように甘い重みだろう。
ただ、ローランドにとって、それは——
アランに向けていた感情とは、まるで別の種類のものだった。
かつてアランは、多くを求めない人だった。
わがままを口にすることは少なく、遠慮がちに、いつも周囲を気遣ってばかりいた。
それでも、ごく稀に、何か小さな願いを零すことがある。
今日は、もう少しだけここにいてもいい?
この薬草の匂い、少し苦手なの……手を握っていてくれる?
ローランド、あなたがいると安心するの
それは、言葉そのものよりも、視線や仕草の端々に現れる、かすかな甘えだった。
その微かな変化を見つけるたびに、ローランドは胸の奥に温かなものが満ちていくのを感じた。
もっと汲み取りたい。
この人が口に出さない願いを、形にして差し出したい。
女性の繊細な感情の揺れや、言葉にならないわがままに、これほどまでに応えたいと願ったことはなかった。
——今、その感覚がない。
クラリッサが、茶菓子の好みを無邪気に言葉にするとき。
導師の前で「緊張してしまいそうですわ」と袖口をつまんでくるとき。
「馬車では隣にいてくださらないと嫌です」と甘えるとき。
それらを「面倒だ」と感じているわけではない。
伴侶となる以上、守るべき責任として受け止めている。
ただ、そのすべてに対して、自分の心が大きく揺れないことを、ローランドは痛いほど自覚していた。
……ああ。自分は
初めて、はっきりと理解した。
自分が、女性のわがままや繊細な心の機微を「全面的に汲み取ってやりたい」と思えたのは——
アランだけだったのだと。
「ローランド様?」
呼びかけに我に返ると、クラリッサが小首を傾げていた。
青い瞳を不安そうに揺らしている。
「少し、お疲れですか?
長くお話してしまいましたわね。ごめんなさい」
「いいえ」
ローランドは慌てて首を横に振った。
「あなたのせいではありません。
ただ、少し考え事をしてしまっただけです。……失礼しました」
自分の頬が、わずかに強張っているのが分かる。
その表情を悟られたくなくて、彼は視線を茶器の縁へと落とした。
誠実さを損なわないように。
クラリッサの純粋な好意を、決して踏みにじらないように。
それでも胸の内では、別の痛みが増していく。
アランの前で、クラリッサの手を自然に取っている自分。
何も知らないクラリッサが、当たり前のように自分に甘えてくる光景。
それを見せつけられているアランの心情を想像すればするほど、喉の奥が苦くなった。
——それでも、自分は彼女の目を見られない。
視線を向ける勇気が、どうしても出なかった。
翡翠の瞳がこちらを見ているかもしれない。
見ていないのかもしれない。
そのどちらもが、同じくらい怖かった。
セシール家の応接室に満ちる灯りは、相変わらず穏やかだった。
エドモンドとクラリッサが世間話を交わす声。
暖炉の薪が弾ける音。
外に降りはじめた雨が窓を叩く、鈍いリズム。
その全てが、柔らかな夜の一幕として綺麗に整っている。
ただ、その中心にいるローランドの胸の内だけが、静かに軋んでいた。
自分の隣で笑う少女は、何一つ悪くない。
彼女の手を受け入れることは、正しい。
夫となる自分が、その手を拒絶することなど、あってはならない。
それでも——
心の奥で、言葉にもならない声が、翡翠の瞳を思い浮かべていた。
ローランドは、茶器を持ち上げるふりをして、わずかに顔を伏せる。
アランの方を見なかった。
見てしまえば、何かが崩れてしまう気がして。
彼は、クラリッサの手を温かく包んだまま、礼儀正しい婚約者としての役目を果たし続ける。
胸に広がる痛みを、誰にも悟らせないように。
そして何より—— アランにだけは、決して見せないように。
玄関先で馬車の車輪が遠ざかっていく音が消えたあとも、アランの耳の奥では、あの娘の笑い声がいつまでも反響していた。
応接室から自室へ戻る廊下が、やけに長く感じられる。
足取りはふらふらと頼りなく、壁際の燭台の光がにじんで見えた。
クラリッサが笑うたびに、ローランドがそれに応じて穏やかに微笑むたびに——胸の奥で何かがきしむ音がした。
その音は、今もまだ止んでいない。
部屋の扉を閉めるなり、アランは机の端に手をついた。
胃のあたりが、急にぐらりと揺れる。
息を整えようと深く吸い込みかけて、喉の奥までこみ上げてきたものに、思わず口を押さえた。
次の瞬間、椅子に腰を落ち着ける余裕もなく、寝室奥の洗面台へ駆け込んでいた。
陶器の洗面ボウルにしがみつくようにして、何度もえずく。
吐き出すものなどたいして残っていないはずなのに、胃の内側が裏返るような感覚だけが続いた。
目の奥が熱くなり、喉は焼けつくように痛む。
さきほどまで、クラリッサがローランドの袖をつまみ、無邪気に甘えていた姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
(ローランド様と一緒なら、きっとどこへ行くのも楽しいですわ
少女の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
かつて同じ言葉を口にしたのは、自分だった。
まだ少女と呼ばれる年頃のとき、研究室の片隅で、薬草の匂いに少し酔った頭を支えてもらいながら、笑って言った。
その記憶まで、胃の中身と一緒にえぐり出されてしまいそうだった。
洗面台に、冷たい水が流れ落ちる音がする。
震える指先で龍頭をひねり、口元をすすいでも、苦味は消えなかった。
吐き気の合間に、ふと涙が一滴、白い陶器の内側に落ちる。
「アラン?」
ノックと同時に、ためらうような父の声が聞こえた。
返事をする余裕もなく、アランは洗面台に縋りついたまま息を整える。
数秒後、扉が静かに開き、エドモンドが顔を覗かせる。
「……大丈夫か。さっきから物音が」
状況を見た瞬間、エドモンドの表情が険しくなった。
「気分が悪いのか?」
アランは、かろうじて頷いた。
返事をしようとしても、喉の奥が詰まって言葉にならない。
父はすぐに部屋の中へ入り、背中をさするように手を当てた。
「無理に話さなくていい。……医師を呼ぶ」
「……だいじょうぶ……です」
かすれた声でそう言っても、エドモンドは首を振った。
「いいから。妊婦なのだぞ」
その一言に、アランはもう何も言い返せなかった。
ほどなく駆け付けたヒーラーは、落ち着いた手つきで診察を進めた。
脈を測り、瞼を軽く押し上げ、腹部にそっと手をあてる。
エドモンドは少し離れた椅子に腰掛け、不安そうに様子を見守っていた。
「……つわりですね」
ヒーラーは、やわらかく言った。
「この時期にはよくあることです。
今日、何か強い匂いのものを召し上がりましたか? あるいは、少し疲れが溜まっているようにも見えますが」
アランは、ベッドに腰掛けたまま視線を伏せた。
強い匂い——宴の香水でも、食卓の料理でもない。
彼女の胃をひっくり返しているのは、別のものだ。
クラリッサの笑顔。
ローランドの、あくまで誠実で優しい眼差し。
自分以外の誰かが、あの胸に寄りかかり、当然のように甘えている光景。
全部、薬草よりもずっと強烈な匂いを放って、胸の奥を灼いていた。
「……疲れ、だと思います」
喉の奥で転がった本音を、アランは飲み込んだ。
嫉妬で吐き気がするなどと、どうして口にできるだろう。
ブラック家の妻として、セシール家の娘として、そんな惨めな理由を言えるはずがない。
ヒーラーは、彼女の答えを肯定とも否定ともとらず、小さく頷いた。
「少し休まれるといいでしょう。消化のよいものを少しずつ……。
しばらくは移動も、できるだけお控えください。特急と馬車の乗り継ぎは、体に堪えます」
「わかりました。ありがとうございます」
エドモンドが代わりに礼を述べる。
ヒーラーが去り、部屋に静寂が戻ると、アランは胸の前で指を強く組んだ。
「…… アラン」
父が、そっと彼女の横に腰掛ける。
「さきほどは、随分と顔色が悪かった。
今日は、ずいぶん無理をさせてしまったな」
「いいえ。父上の研究のお手伝いができるのは、わたしの……」
言いかけて、言葉がほどける。
クラリッサとローランドが並んで座っていた応接室の光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
クラリッサの天真爛漫な笑顔。
袖を引く、白い指。
その指を拒まないローランドの、優しい手つき。
胸の奥に溜まっているものが、喉元まで押し上げてくる。
「アラン?」
エドモンドが覗き込む。
心配をかけまいと、アランは慌てて微笑みを作った。
「……少し、疲れただけです。
でも、子どものことですから。嬉しい疲れですわ」
自分でも驚くほど、声は平静だった。
その平静さが、かえって胸を締めつける。
父が一度部屋を出て行くと、寝室には再び静けさだけが残された。
薄く開けた窓から、遠く馬車の音だけがかすかに響いてくる。
おそらく、今ごろ二人は駅へ向かっているのだろう。
クラリッサは、あの馬車の中でもローランドの隣を譲らないはずだ。
窓の外の景色を指さして、あれこれ話しかける。
ローランドは根気強く応じ、時折、身体を気遣うように視線を向ける。
かつて、同じ場所にいたのは自分だった。
特急列車の座席で、肩に頭を預けて眠った日。
馬車の揺れに酔いそうになって、ローランドに手を握ってもらった日。
それらの記憶が、次々と浮かんでは、今の光景と入れ替わっていく。
——胸が、張り裂けてしまいそうだった。
自分は、ブラック家の妻だ。
レギュラスの子を宿した、正妻。
それなのに、今もなお、ローランドの隣にいる女に嫉妬している。
その浅ましさを自覚しながら、それでも感情が言うことをきかない。
枕元のテーブルに置かれた水差しが、視界の端で揺れて見えた。
涙を堪えようと目を閉じると、吐き気とは違う別の波が、胸の奥から押し寄せてくる。
しばらくして、エドモンドが再び部屋に戻ってきた。
「…… アラン。今夜はここで休むといい」
手には、封筒と、巻きつけた羊皮紙を一通持っている。
「ブラック家には、こちらからフクロウを飛ばしておこう。
つわりがひどく、しばらくこちらで様子を見る、と」
アランの喉の奥が、ひりつくように痛んだ。
「……申し訳、ありません。レギュラスにも、迷惑を」
それは、形式的な言葉だった。
本当は、今日はどの顔をしてブラック家の門をくぐればいいのか、想像もつかなかった。
ローランドとクラリッサの姿を、この身ごもった身体に刻み付けたまま、レギュラスの前に立つ自分を思い浮かべるなど、とてもできない。
「迷惑などと言う必要はない」
エドモンドはきっぱりと言った。
「ブラック殿も、君の体を何より優先すると約束してくださっている。
それに、つわりは理由として十分だ」
そう言って、父は羊皮紙を机の上に広げる。
「内容は私が書こう。……『本日は体調が思わしくなく、セシール家の屋敷にて休養いたします』」
ペン先が、さらさらとインクを走らせる音がする。
「何か、君から付け加えたいことはあるか?」
アランは、しばらく考えてから首を振った。
「いえ……それで、十分です」
本当は、「今夜は帰りたくない」と書きたかった。
ブラック家ではなく、ローランドとクラリッサが去っていったこの場所で、一人きりで痛みを抱えていたかった。
自分の醜さを、誰にも見られないように、丁寧に隠していたかった。
エドモンドは封筒に羊皮紙を収め、封蝋で閉じた。
「フクロウ小屋へ運んでおこう。
明朝には、ブラック家に届くはずだ」
父が部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、妙に遠く感じられた。
ひとり残された寝室で、アランはベッドの上に身を横たえた。
天井の木目が、静かに広がっている。
窓の外はすでに夕闇が濃く、薄いカーテン越しに、遠くの灯りがぼんやりと揺れていた。
腹部にそっと手をあてる。
ここには、レギュラスの子がいる。
ブラック家の血を引く、新しい命。
その事実は、何にも替え難い尊さを持っているはずだ。
祝福され、慈しまれるべきものだと、頭では分かっている。
それなのに、胸の奥で渦巻いているのは、祝福にはほど遠い黒い感情だった。
嫉妬。
後悔。
執着。
そして、どうしようもない喪失。
そのどれもが、吐き気と一緒に胃の底で絡まり合っている。
アランは、枕に顔を埋めた。
声を出して泣けば、父に気づかれてしまう。
だから、喉の奥で震える声を押し殺し、息だけで震えた。
——あの二人の甘すぎる空気に、耐えられなかった。
そう認めたとたん、再びこみ上げてくる吐き気を、彼女は両手で腹を押さえながらやり過ごす。
フクロウは、すでに夜空へ飛び立っただろう。
ブラック家に届く頃、レギュラスはどんな顔をするだろうか。
そこまで考えて、アランは思考を止めた。
今はただ、この屋敷の一室で、静かに目を閉じていたかった。
嫉妬も、痛みも、すべてを抱えたまま——誰にも見られない夜の中に身を沈めたかった。
その夜、ブラック家の夕餉の席は、やけに静かだった。
いつもなら、少し遅れてでも屋敷に戻ってきているはずの妻の姿が、どこにもない。
執事に確認させても、セシール家からのフクロウはまだ届いていないと言う。
「……遅いですね」
レギュラスは手元のグラスに一瞥を落とし、すぐに立ち上がった。
「レギュラス?」
ヴァルブルガが問いかける。
「セシール家に行ってきます。アランの戻りが遅い」
そう告げる声音には、いつもの皮肉な余裕も、計算された間合いもなかった。
魔法省の役員として人を量り、駒として動かすときのあの冷静な気配はすっかり影を潜めている。
妻が戻らない。
それだけの理由で、彼は迷わなかった。
セシール家の屋敷は、夜の帳に包まれながらも、窓のいくつかに灯りがともっていた。
馬車が石畳に停まり、レギュラスが降り立つと、玄関扉がすぐに開く。
「ブラック殿……?」
出迎えた執事は、予想外の訪問者にわずかに目を見張った。
「夜分に失礼いたします。妻がまだ戻らないようですので」
簡潔な言葉の奥に、焦りは見せない。
けれど、そのまなざしの奥には、明らかにいつもと違う色が宿っていた。
「セシール卿にお取次ぎいただけますか」
「は、はい。こちらへ」
応接室で待つまでもなく、エドモンドが廊下の向こうから足早に現れた。
「ブラック殿。わざわざお越しくださるとは」
「アランが戻りませんので。
こちらで何かあったのかと、気になりまして」
レギュラスは単刀直入に切り出した。
「本来ならばフクロウを受け取ってからお伺いするところですが……どうにも胸騒ぎがしましてね」
「フクロウなら、先ほど出したところです」
エドモンドは苦笑を混じらせて首を振った。
「すまない。君がこうして来られる少し前に。
つわりがひどくてね。今は自室で休ませている。医師も、しばらく安静にと言っていた」
「……つわり、ですか」
レギュラスの眉が、わずかにゆるんだ。
胸の奥の強張りが、ほんの少しだけほどけていく。
何か重大な異変ではないと分かったからといって、不安が完全に消えたわけではない。
だが、原因に名前がついたことで、彼の表情には落ち着きが戻ってきた。
「お姿を……見てもよろしいですか」
「もちろんだ。アランも、君の顔を見れば安心するだろう」
エドモンドは頷き、手で案内を示した。
「自室で横になっている。呼吸は落ち着いているが、少し顔色が悪い。驚かせぬよう頼む」
「はい。ありがとうございます、セシール卿」
廊下を進むほどに、屋敷独特の静けさが深くなる。
レギュラスは、普段なら人の動線や視線、屋敷の構造を無意識に測っている自分に気づかずにいることに、ふと気づいた。
今夜に限っては、頭の中を占めているのはただ一つ—— アランの容態だけだった。
扉の前で足を止める。
軽くノックをしてから、静かな声で呼びかけた。
「アラン」
少し間を置いて、内側からかすかな返事が聞こえる。
「……どうぞ」
その声が、いつもより細く、小さい。
胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
レギュラスは扉を開け、静かに中へ足を踏み入れた。
アランの自室は、灯りを落とし、ベッド脇のランプだけがほの暗く光を投げていた。
ベッドの上では、アランが枕元に頭を預けるようにして横たわっている。
髪はゆるくほどけ、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
身なりは崩れていないが、その顔色は、いつもの白磁のような肌よりさらに蒼白に見える。
レギュラスは、一瞬だけ立ち尽くした。
魔法省の廊下で誰かの悲鳴を聞いても、処刑場で血の匂いを嗅いでも、眉一つ動かさない男が——
今はただ、ベッドに横たわる妻の姿に、心の底から胸を締め付けられていた。
「…… アラン」
名を呼ぶ声は、自然と柔らかかった。
「心配しました」
その言葉には、計算も誘導も、支配もない。
ただ、自分の妻が苦しんでいるという現実を前にした、一人の男の率直な感情だけが滲んでいた。
アランが、少しだけまぶたを持ち上げる。
「……レギュラス」
翡翠の瞳が、薄明かりの中で彼を捉えた。
驚きと戸惑いと、申し訳なさが入り混じった視線。
「ご心配を、おかけしております……」
かろうじて整えた言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「いえ」
レギュラスは首を振り、ベッドに近づいた。
「セシール卿からもお話は伺いました。
大変でしたね。列車に馬車に——移動だけでも負担だったでしょう」
ベッド脇の椅子に座ることも忘れ、彼はそのまま膝をついた。
アランの顔の高さに視線を合わせるように、床に片膝をついて身を屈める。
白いシーツの上に投げ出されたアランの手が、わずかに震えていた。
その指先を、レギュラスはそっと両手で包み込む。
「気分は、今はどうですか」
「……先ほどよりは、だいぶ」
アランは答えながら、視線を逸らしかけて、思い直したように彼を見た。
「つわりだと……診ていただきました。
ご迷惑を、おかけして……」
「迷惑だなんて、誰が言いましたか」
レギュラスの声が、ごく自然に低く、柔らかくなる。
「あなたの体のことです。僕が心配して何がおかしいんです」
そう言いながら、彼はベッドの端に片手をつき、反対の手でアランの背へそっと触れた。
慎重に、揺さぶらぬよう、触れただけで安堵を伝えるように。
指先が、薄い寝間着越しに背骨のラインをなぞる。
決して欲を滲ませない、ただ撫でるという行為に徹した、穏やかな手つきだった。
アランは、背中に置かれた掌の温度に、少しだけ目を見張った。
この男の手を、何度も知っている。
欲を帯びて肌を暴いてくるときの熱も、所有欲を隠そうともしない抱き寄せ方も。
けれど今、背中をなぞるこの手には、そういった色が一切なかった。
ただ、落ち着け、と言われているような、子どもをあやすような優しさだけがあった。
「……本当に、来てくださったのですね」
喉の奥で、思わずそんな言葉が漏れた。
言ってから、自分でも驚く。
あまりにも依存めいた響きだと気づいて、慌てて唇を噛む。
レギュラスは、少しだけ笑った。
「ええ。帰ってこない妻を放っておけるほど、冷たい夫ではないつもりですが」
「冷たい、だなんて……」
「思われていました?」
冗談めかして問われ、アランは言葉に詰まる。
レギュラスは追及しなかった。
代わりに、背中を撫でる手の動きだけをゆっくりと続ける。
「本当に、大変だったでしょう」
静かな声が落ちる。
「ブラック家とセシール家の間を行き来して、魔法薬の研究の手伝いまでして。
体が新しい命を育てている時期です。……もっと早く、環境を整えるべきでしたね」
それは、自分への責めでもあった。
「……わたしが、欲張りすぎたのです」
アランがぽつりとこぼす。
「父の研究も、ブラック家の務めも、どちらも手放したくなくて。
その結果がこれですから。自業自得です」
背中の下で、腹部がわずかに波打つように張るのを感じる。
ローランドとクラリッサの姿が一瞬脳裏をよぎり、また吐き気の名残が喉を灼いた。
だが、それを言葉にすることは決してできない。
レギュラスは、彼女の告白に首を横に振った。
「欲張り、とは言いませんよ」
柔らかながらも、はっきりとした否定だった。
「あなたは、与えられた役割をどちらも真面目に果たそうとしているだけです。
セシール家の娘としての責務も、ブラック家の妻としての責務も。
……ただ、今はその分、少し体に負担がかかっているだけです」
背中に置いた手に、ほんの少しだけ力をこめる。
「だから、僕が動きます。
あなたが無理をしなくて済むように、調整すべきところは調整しましょう」
それは、政治的な打算から出る台詞ではなかった。
妻を、自分の子を宿した女を、単純に守ろうとする男の言葉だった。
アランは、枕に押し付けた頬のあたりが熱くなるのを感じた。
この男の言葉に救われることがあるなど、ほんの少し前までは想像もしなかった。
ローランドの優しさは、静かな水面のようだった。
そっと近づけば、音も立てずに受け入れてくれる柔らかさがある。
レギュラスの優しさは、違う。
用意された道のりの上に、半ば強引に誘導されるような形で、その中心に立たされる。
それでも今、この部屋で背中を撫でられながら感じているのは、あまりにも率直な「心配」だった。
「……レギュラス」
アランは、枕越しに小さく彼を呼んだ。
「今夜は……こちらに泊まられるのですか?」
「もちろんです。あなたをこのまま置いて帰るつもりはありません」
ためらいのない即答だった。
「客間を一部屋借りようと思っていましたが……あなたが嫌でなければ、この部屋の椅子でも構いません。
ベッドのそばにいた方が、あなたも安心でしょう?」
そう告げる声音には、「当然だ」という圧もなければ、「どうだ、これほど気遣っている」と誇示する響きもない。
ただ、妻と子のそばにいたいという、ごく単純な望みだけがあった。
アランは、胸の奥に広がる痛みとも温かさともつかない感情を、どう扱えばいいか分からなかった。
ローランドの胸に縋りつきたいと願った記憶と、今、背中を撫でるこの男の手のひらの温度が、同じ場所で混ざり合い、ぶつかっている。
「……ご無理を、なさらないでくださいませ」
かろうじて絞り出せた言葉は、それだけだった。
「僕はもともと、少し無理をするのが好きな性質でしてね」
レギュラスは、軽く冗談めかして笑った。
「あなたが安らかに眠れるなら、そのくらいの無理は、むしろ歓迎ですよ」
そう言って、背中を撫でる手の動きを、さらにゆっくりとしたものに変える。
「さあ、もう少し目を閉じましょう。
つわりは、眠りが浅いと余計に辛いと聞きますから」
アランは、彼の言葉に逆らう気力を持てなかった。
瞼を閉じると、まだ遠くで馬車の音が耳に残っている気がした。
ローランドとクラリッサが向かった夜の先と、自分のいるこの部屋の静けさの差が、かえってくっきりと胸を締め付ける。
それでも、背中に触れる掌の温度が、少しずつそれらを薄くしていった。
計算も、誘導も、支配もない——
この夜のレギュラスの在り方だけが、アランの意識をゆっくりと暗闇へと導いていく。
彼女の呼吸が、やがて少しずつ整い始めたのを感じながら、レギュラスはその背を撫でる手を止めなかった。
何度も戦場をかいくぐり、多くの血を見てきたその指先が、今はただ、一人の女とその腹に宿る命を守るためだけに動いていた。
アランの呼吸が、静かに、一定のリズムを刻み始めていた。
背中に添えていた手をそっと離し、レギュラスはゆっくりと立ち上がる。
椅子がきしむ音を立てないように気を配りながら、ほんの少しだけ距離を取った。
枕に半分顔を埋めるようにして眠る横顔は、まだ完全に青ざめた色を捨てきれていない。
それでも、先ほどまでの歪んだ苦痛の影は薄れ、幼い頃の面影を残す安らかな輪郭が戻りつつあった。
その姿を一瞥して、レギュラスは目を部屋の中へと向けた。
セシール家の一人娘の自室は、予想していたよりもずっと「生活の匂い」に満ちていた。
ブラック家で彼女のために整えた部屋は、意図的に余白を残した空間だった。
娘時代の名残を一度置いてもらい、新たに「ブラックの妻」としての品々で満たしていくつもりで用意した部屋。
対してこの部屋は——
本棚には、魔法薬関連の専門書と、父エドモンドが執筆したであろう論文集が整然と並んでいる。
その合間に、表紙が少し擦り切れた読み物や、小説らしき本も何冊か見えた。
机の上には、開きかけのノートが積み上げられている。インクの染み、フラスコの輪染み、消し忘れたメモ。
彼女が娘として、研究者の家の一員として、生きてきた時間の密度がそのまま形になっているようだった。
レギュラスは、音を立てないように歩み寄り、一番手前に置かれた論文の束に目を落とす。
表紙には、魔法薬学会の印章と、受賞者として記された名前。
—— アラン・セシール。
魔法薬の基礎調合における新しい希釈手順。
治癒薬の持続時間を延ばすための材料配合率の調整。
彼は視線だけで、いくつかの論題にひと通り目を通した。
内容のすべてをここで精査しようとは思わない。それでも、論題と注釈の書き方だけで、そこにいる筆者の癖が透けて見える。
几帳面で、無駄を嫌う。
だが、基礎の積み重ねに手を抜かない。
華やかな発見よりも、誰かの生活をじわじわと改善するような実用性を重視する——そんな気質が筆致に滲んでいる。
レギュラスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「……やはり、いいところに目をつけましたね、僕は」
小さく呟いた声は、眠るアランには届かない。
机の引き出しの上には、リングで綴じられた分厚いノートが一冊、横向きに置かれていた。
背表紙に、彼女の丁寧な字で「調合メモ」「失敗記録」と記されている。
失敗記録——その言葉に、レギュラスの目が細まる。
多くの者は、成功だけを記そうとする。
ましてや人目につく場所に置いておくノートに、失敗を堂々と記録する者は少ない。
それを「当たり前」としているあたりが、いかにもアランらしい。
彼はノートには触れず、視線だけでゆっくりと部屋を見渡した。
壁際には、大小さまざまなフレームがかけられている。
初めて魔法薬の大会で表彰されたときの賞状、学会での集合写真。
魔法写真の中で、白衣のようなローブを着た少女が、照れくさそうに、それでも誇らしげに笑っている。
そのどれもが、「ブラック家の妻」になる以前のアランを示していた。
——それらを認めることに、レギュラスは抵抗はなかった。
過去を消し去る気はない。
むしろ、そこから今の彼女へと至る道筋を把握することは、レギュラス・ブラックにとって当然の行為だった。
そう、理屈では分かっていた。
理屈では、そうだった。
視線が、棚の一角で止まる。
そこだけ、他と違う柔らかな存在感があった。
小ぶりな箱——濃い緑色の革張りで、表面には金の箔押しで小さな花が散らされている。
重ねられた本やノートの間に、まるで意図的に隠されるように置かれていた。
レギュラスは、指先でそっとそれを引き出す。
箱ではない。アルバムだった。
手のひらほどの厚みのあるそれを開くかどうか、一瞬だけ迷う。
だが、迷いはほんの刹那だった。
——この部屋は、「アラン・セシール」という一人の女の輪郭を成す場所だ。
そこに何があるのかを知らずにいることの方が、今の彼には耐えがたい。
指先で留め具を外し、そっと表紙を開いた。
最初のページで、時間が止まったように感じた。
翡翠色の瞳をした、小さな女の子。
膝まで届きそうな黒髪をリボンで括り、白いワンピースを着ている。
その少女が、背丈のほとんど変わらない少年の横で、無邪気に笑っていた。
少年は淡い色の髪を短く整え、青い瞳でこちらを真正面から見ている。
彼も笑っている。
控えめで、けれど誠実そうな、少年らしいぎこちなさを残した笑顔。
魔法写真の中で、幼いアランは時折少年の方を見上げては、楽しそうに口を動かしている。
少年もまた、そのたびにアランへ視線を向け、同じように何かを話しかける。
それは、ひとつの世界がそこで完結しているような、満ち足りた光景だった。
ページをめくる。
少し成長した二人が、今度は手を繋いで並んでいる写真があった。
アランの背は、少年——ローランドと同じくらい。
黒髪は肩のあたりまで伸び、翡翠の瞳は、もう少女というより「娘」と呼ぶにふさわしい落ち着きを帯びている。
それでも、その横顔には、無防備な安心があった。
ローランドの手を握るその指は、何のためらいもなく、そこにあることを疑っていない。
写真の中で、二人は時折顔を見合わせて笑う。
指先が少し動き、絡まりそうになっては離れ、また繋がる。
背丈がわずかにずれ始めるのは、次のページからだった。
研究室らしき一室で、二人は並んで机に向かっている。
アランは白い実験用ローブに身を包み、眉間に皺を寄せてノートに何かを書き込んでいる。
ローランドは彼女の斜め後ろから覗き込み、指でビーカーを指し示している。
魔法写真の彼らは、何度も同じ動きを繰り返す。
アランが真剣な顔で液体の色を見つめる。
ローランドが何か助言をする。
アランの表情がふっと和らぎ、短く笑う。
その一連の流れの中で、彼女の笑い方は、今レギュラスの知っているものとは少し違っていた。
口元をきゅっと結ぶようにして笑う癖は、もうこの頃からあった。
けれど今よりもずっと無邪気で、何の警戒も、その場にいる相手を測ろうとする影もない。
純粋に、目の前の天秤と薬草と、隣にいる少年との時間だけを楽しんでいる笑い方だった。
ページをめくるたびに、二人の身長差は少しずつ変わっていく。
ローランドはすらりと背が伸び、アランはそれを追うように成長しているが、いつしか彼の肩に頭が届くか届かないか、という位置になっていた。
ある写真では、外の庭で二人が立っている。
ローランドは背の高い木にもたれ、アランはその少し前で振り向くように笑っている。
夕暮れの光が、黒髪と淡い髪の色を柔らかく照らし出していた。
——そこに映っているアランを、レギュラスは一ミリも知らない。
胸の奥で、じわりと熱いものがせり上がった。
ローランド・フロストに対して、嫉妬など覚えないつもりだった。
自分が選ばれた事実に揺らぎはない。
セシール家が最終的に差し出したのは、ブラック家への忠誠と、アランという存在だった。
アランのこれからの人生は、すべてレギュラス・ブラックの隣にある——その確信は、どれほど時が経とうとも変わらない。
過去がどんなものであろうと、気にはしない。
そう思っていた。
そう、思っていたはずだった。
なのに、アルバムをめくる指先が、わずかに強張る。
翡翠の瞳でこんなふうに笑うアランを、自分は見たことがない。
肩の力を完全に抜き、遠慮も警戒も、己の出方を計算することもなく、隣にいる相手に全幅の信頼を預けるような笑い方。
それを初めて見せてもらったのは——レギュラスではなかった。
写真の中の少女は、ローランドの方へ向かって、迷いなく手を伸ばしている。
魔法写真は、何度も何度もその場面を繰り返し見せつけてくる。
レギュラスは、気づかぬうちに奥歯を噛みしめていた。
……嫉妬など、しないはずだったのですがね
心の中で、誰にも聞こえない声が苦笑を含む。
ローランドは誠実だ。
自分が差し出した縁談を受け入れ、ブラック家の遠縁の娘を妻として迎えることを選んだ。
アランを責めず、セシール家を責めず、ブラック家に対しても礼を欠かさない。
それは、レギュラス・ブラックにとって最も扱いやすい「駒」のひとつであるはずだった。
にもかかわらず、今胸の奥でうねっている感情は、冷静な評価とは程遠い。
ローランドに対する嫉妬——
それを言葉にして認めたくはなかったが、そうとしか呼びようのない感情だった。
こんな表情を、こんな仕草を、こんな時間を。
アラン・セシールという少女の長い時間の中で、ローランド・フロストという少年とだけ共有してきたという事実。
アルバムを閉じることで、それがなかったことになるわけではない。
過去は、変えられない。
だが。
睫毛の影を震わせて笑うアランの横顔を見下ろしながら、少年が彼女の肩にそっと手を置くその一瞬——
その瞬間だけは、指先がページを破り取りたくなる衝動に駆られた。
「……この頃から、あなたは」
レギュラスは、誰にも聞こえないような声で、写真の中の少女に言葉を落とす。
「僕が割り込む隙間もない世界を、こうして作っていたわけですね」
皮肉めいた言い方だったが、声の底には、どうしようもない熱が混じっていた。
ここに並ぶ写真の数だけ、ローランドはアランの「一部」だった。
誰よりも近くにいて、彼女の笑い方も、泣き方も、拗ね方も、すべてを見てきた。
——それを塗り替えたのは、自分だ。
アランの未来に関して言えば、レギュラス・ブラックは、完全な勝者だ。
夫として、子の父として、家の主として。
どれほど野暮な言い方をしようと、その事実は揺るがない。
それでも、過去のこの少女の隣に、自分がいないということが、今さらながら許しがたい。
そんな感情に呑まれるとは、想像もしていなかった。
ふと、部屋の方から寝返りの気配がした。
レギュラスは即座にアルバムを閉じる。
表紙に指先を滑らせ、一度だけ深く息を吸ってから、元あった場所へ戻した。
隠されていたように、他の本とノートの影に、そっと収める。
振り返ると、アランはうっすらと眉を寄せただけで、まだ眠っていた。
翡翠の瞳は閉じたまま。
しかし、その瞼の裏には、おそらくローランドとの日々も、ブラック家での生活も、混ざり合って流れているのだろう。
レギュラスは、ベッドへと歩み寄る。
寝台の脇に腰を下ろし、眠る妻の髪をそっと指先で整えた。
「……過去は、過去です」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
「これから先のことは、全部僕のものですよ、アラン」
それは宣告であり、願いでもあり、祈りにも似ていた。
胸の奥でまだ燻る嫉妬を、自らの掌で押し潰すようにして、レギュラスはそっと彼女の額に触れる。
熱は、少し下がっている。
その事実に、ようやく少しだけ安心を覚えながら、レギュラス・ブラックは夜の静寂の中で目を伏せた。
彼の知らないアラン・セシールの時間は、写真の中に閉じ込められている。
だが、この先の時間は——この部屋を出た後も、ブラック家に戻ってからも、彼女が産む子がどんな顔をしていても。
すべては、レギュラス・ブラックの隣で進んでいく。
それでも胸の内でくすぶる嫉妬の火だけは、消えることなく、静かに燃え続けていた。
魔法省のエントランスホールは、朝の喧噪をほとんど飲み込んで、いつもの規則正しいざわめきへと落ち着きつつあった。
書類を抱えた役人たちが行き交い、フロアのあちこちに設置された魔法掲示板が、時折ぱちりと光を散らす。
その奥、壁際に並んだ魔法エレベーターには、それぞれ違う階数を示す魔法文字が柔らかく灯っていた。
レギュラスは、書類を挟んだ革のフォルダを片手に、何の感慨もなさそうな顔で歩を進める。
何百回と往復してきた廊下だ。
ここを通るとき、彼の頭に浮かぶのは、いつも数字と人間関係と案件の優先度だけ。
今朝もそうであるはずだった。
——ほんの数日前、セシール家の一室で開いたアルバムのことさえ、思い出さなければ。
ちょうど魔法エレベーターの扉が開いた。
先に乗り込んでいた数人の職員が、軽く会釈して降りていく。
レギュラスが乗り込むと、ほぼ同時に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「失礼いたします」
淡い色の髪をきちんと撫で付け、整ったローブを身にまとった青年が、わずかに早足でエレベーターに滑り込む。
青い瞳が、乗り込んだ瞬間にレギュラスを認めて、ぴたりと姿勢を正した。
「……ブラック様。おはようございます」
ローランド・フロストは、きっちりと礼を欠かさなかった。
片手で胸元に触れ、わずかに腰を折る、その一連の動作。
無駄がなく、崩れもない——誠実さがそのまま形になっているような礼だった。
「おはようございます、フロスト殿」
レギュラスは口元に静かな微笑を浮かべ、軽く頷いてみせる。
扉が閉まり、エレベーターがするすると上昇を始めた。
金属ではなく魔法で支えられた箱が、微かな浮遊感だけを残して階を移動していく。
二人きりの空間だった。
「家族の縁を結んでいるのに、そんなに畏まらないでください」
レギュラスは、少しだけ肩の力を抜いたような口調で言った。
フロスト家は、今やブラック家の遠縁であり、ローランドはブラック家の親族になる。
アランの元婚約者でありながら、今はクラリッサ・ブラックバーンの婚約者——間もなく夫になる男。
そういう奇妙な立場を、あえて「家族」という一言で括ってしまうあたりが、レギュラスらしい。
ローランドは一瞬、返答の言葉を探すように視線を伏せた。
「……魔法省では、ブラック様は上官でございますので」
結局、彼が選んだのは教科書通りの答えだった。
「どれほど家同士が近くなろうとも、この省の中では、わたくしはブラック様の部下に他なりません。
礼を欠くことはできません」
どこまでも真面目な男だった。
その言い方には、媚びも、臆病さもない。
ただ、自分で定めた線の内側から出ようとしない頑なさと、自らの立場を乱さない矜持だけがあった。
当然ながら、礼儀は知っている。
食器を持ち上げる角度も、椅子から立ち上がるタイミングも、客として主人にかける言葉も、何一つ間違ってはいない。
それどころか、柔らかな笑みと背筋の伸びた所作は、貴族の令嬢として申し分なかった。
けれど、その完璧に整った所作の向こう側で、彼女の感情は、まだ「若さ」の色を隠しきれていない。
「ローランド様、さっきのお菓子、とても美味しかったですわ。帰りにも少し持たせていただけないかしら」
クラリッサは、茶器の向こう側から身を乗り出すようにして囁いてきた。
声色には、主人であるセシール家への遠慮と、それでも欲しいものは欲しいと素直に言える年頃の甘えが混ざっている。
「クラリッサ」
小さく名を呼んで、ローランドは一度だけ視線で諌める。
あまり遠慮のない願い方は、場合によっては不躾と取られかねない。
しかしエドモンドは、むしろ目を細めて笑った。
「構いませんよ。気に入ってもらえたのなら嬉しい。
後で包ませましょう」
「まあ。本当によろしいのですか?」
たちまちクラリッサの顔が輝く。
彼女は嬉しさを抑えきれず、つい、と隣のローランドの袖を指先でつまんだ。
「聞きました? ローランド様。セシール卿はとても親切でいらっしゃるわ」
その仕草は、あまりにも自然だった。
純粋な信頼と、子どものような甘えと、「夫になる人」に対する当然の親しさ。
その全部が、何の濁りもなく指先から溢れている。
ローランドは、ごくわずかに肩をこわばらせた。
断る理由はない。
ここでその手を振り払うことは、クラリッサだけでなく、彼女を送り出したブラック家や、取り結んでくれたレギュラス・ブラックの顔にも泥を塗ることになる。
だから、彼は迷いを押し込めて、その手を掌で包み込んだ。
「……良かったですね、クラリッサ」
いつも通りの声音を保つ。
「お土産として頂いて、道中で少しずつお召し上がりになるといい。長い移動も、少しは楽しく感じられるでしょう」
「はい。ローランド様と一緒なら、きっとどこへ行くのも楽しいですわ」
無邪気な笑顔が、応接室の空気を明るく染める。
その光のうちに、自分も入っているのだと、クラリッサは疑いもしない。
アランの存在は、クラリッサの斜め向こうにあった。
茶器を両手で包みながら、静かに話を聞いている。
表情は穏やかで、見ようによっては微笑ましい光景を温かく見守る姉のようにも見えた。
けれど、ローランドは知っている。
アランの笑みの作り方を。
「本心を隠して、場にふさわしい顔を選ぶとき」の、翡翠色の瞳のわずかな揺らぎを。
だからこそ、彼女の目を見ることができなかった。
クラリッサの手を取っている自分の掌が、ひどく重く感じられる。
そこに宿る温度は、決して嫌悪すべきものではない。
懐いてくる者に応えることは、フロスト家の跡継ぎとして当然の振る舞いでもある。
それでも——胸の奥が締め付けられた。
……重い
思ってしまったことに、自分で驚いた。
クラリッサの好意が、重いのではない。
まっすぐ向けられる視線も、信頼も、「ローランド様になら」と無条件に委ねようとする心も。
どれも、否定されるべきものではない。
誰かにとっては、これ以上ない祝福のように甘い重みだろう。
ただ、ローランドにとって、それは——
アランに向けていた感情とは、まるで別の種類のものだった。
かつてアランは、多くを求めない人だった。
わがままを口にすることは少なく、遠慮がちに、いつも周囲を気遣ってばかりいた。
それでも、ごく稀に、何か小さな願いを零すことがある。
今日は、もう少しだけここにいてもいい?
この薬草の匂い、少し苦手なの……手を握っていてくれる?
ローランド、あなたがいると安心するの
それは、言葉そのものよりも、視線や仕草の端々に現れる、かすかな甘えだった。
その微かな変化を見つけるたびに、ローランドは胸の奥に温かなものが満ちていくのを感じた。
もっと汲み取りたい。
この人が口に出さない願いを、形にして差し出したい。
女性の繊細な感情の揺れや、言葉にならないわがままに、これほどまでに応えたいと願ったことはなかった。
——今、その感覚がない。
クラリッサが、茶菓子の好みを無邪気に言葉にするとき。
導師の前で「緊張してしまいそうですわ」と袖口をつまんでくるとき。
「馬車では隣にいてくださらないと嫌です」と甘えるとき。
それらを「面倒だ」と感じているわけではない。
伴侶となる以上、守るべき責任として受け止めている。
ただ、そのすべてに対して、自分の心が大きく揺れないことを、ローランドは痛いほど自覚していた。
……ああ。自分は
初めて、はっきりと理解した。
自分が、女性のわがままや繊細な心の機微を「全面的に汲み取ってやりたい」と思えたのは——
アランだけだったのだと。
「ローランド様?」
呼びかけに我に返ると、クラリッサが小首を傾げていた。
青い瞳を不安そうに揺らしている。
「少し、お疲れですか?
長くお話してしまいましたわね。ごめんなさい」
「いいえ」
ローランドは慌てて首を横に振った。
「あなたのせいではありません。
ただ、少し考え事をしてしまっただけです。……失礼しました」
自分の頬が、わずかに強張っているのが分かる。
その表情を悟られたくなくて、彼は視線を茶器の縁へと落とした。
誠実さを損なわないように。
クラリッサの純粋な好意を、決して踏みにじらないように。
それでも胸の内では、別の痛みが増していく。
アランの前で、クラリッサの手を自然に取っている自分。
何も知らないクラリッサが、当たり前のように自分に甘えてくる光景。
それを見せつけられているアランの心情を想像すればするほど、喉の奥が苦くなった。
——それでも、自分は彼女の目を見られない。
視線を向ける勇気が、どうしても出なかった。
翡翠の瞳がこちらを見ているかもしれない。
見ていないのかもしれない。
そのどちらもが、同じくらい怖かった。
セシール家の応接室に満ちる灯りは、相変わらず穏やかだった。
エドモンドとクラリッサが世間話を交わす声。
暖炉の薪が弾ける音。
外に降りはじめた雨が窓を叩く、鈍いリズム。
その全てが、柔らかな夜の一幕として綺麗に整っている。
ただ、その中心にいるローランドの胸の内だけが、静かに軋んでいた。
自分の隣で笑う少女は、何一つ悪くない。
彼女の手を受け入れることは、正しい。
夫となる自分が、その手を拒絶することなど、あってはならない。
それでも——
心の奥で、言葉にもならない声が、翡翠の瞳を思い浮かべていた。
ローランドは、茶器を持ち上げるふりをして、わずかに顔を伏せる。
アランの方を見なかった。
見てしまえば、何かが崩れてしまう気がして。
彼は、クラリッサの手を温かく包んだまま、礼儀正しい婚約者としての役目を果たし続ける。
胸に広がる痛みを、誰にも悟らせないように。
そして何より—— アランにだけは、決して見せないように。
玄関先で馬車の車輪が遠ざかっていく音が消えたあとも、アランの耳の奥では、あの娘の笑い声がいつまでも反響していた。
応接室から自室へ戻る廊下が、やけに長く感じられる。
足取りはふらふらと頼りなく、壁際の燭台の光がにじんで見えた。
クラリッサが笑うたびに、ローランドがそれに応じて穏やかに微笑むたびに——胸の奥で何かがきしむ音がした。
その音は、今もまだ止んでいない。
部屋の扉を閉めるなり、アランは机の端に手をついた。
胃のあたりが、急にぐらりと揺れる。
息を整えようと深く吸い込みかけて、喉の奥までこみ上げてきたものに、思わず口を押さえた。
次の瞬間、椅子に腰を落ち着ける余裕もなく、寝室奥の洗面台へ駆け込んでいた。
陶器の洗面ボウルにしがみつくようにして、何度もえずく。
吐き出すものなどたいして残っていないはずなのに、胃の内側が裏返るような感覚だけが続いた。
目の奥が熱くなり、喉は焼けつくように痛む。
さきほどまで、クラリッサがローランドの袖をつまみ、無邪気に甘えていた姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
(ローランド様と一緒なら、きっとどこへ行くのも楽しいですわ
少女の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
かつて同じ言葉を口にしたのは、自分だった。
まだ少女と呼ばれる年頃のとき、研究室の片隅で、薬草の匂いに少し酔った頭を支えてもらいながら、笑って言った。
その記憶まで、胃の中身と一緒にえぐり出されてしまいそうだった。
洗面台に、冷たい水が流れ落ちる音がする。
震える指先で龍頭をひねり、口元をすすいでも、苦味は消えなかった。
吐き気の合間に、ふと涙が一滴、白い陶器の内側に落ちる。
「アラン?」
ノックと同時に、ためらうような父の声が聞こえた。
返事をする余裕もなく、アランは洗面台に縋りついたまま息を整える。
数秒後、扉が静かに開き、エドモンドが顔を覗かせる。
「……大丈夫か。さっきから物音が」
状況を見た瞬間、エドモンドの表情が険しくなった。
「気分が悪いのか?」
アランは、かろうじて頷いた。
返事をしようとしても、喉の奥が詰まって言葉にならない。
父はすぐに部屋の中へ入り、背中をさするように手を当てた。
「無理に話さなくていい。……医師を呼ぶ」
「……だいじょうぶ……です」
かすれた声でそう言っても、エドモンドは首を振った。
「いいから。妊婦なのだぞ」
その一言に、アランはもう何も言い返せなかった。
ほどなく駆け付けたヒーラーは、落ち着いた手つきで診察を進めた。
脈を測り、瞼を軽く押し上げ、腹部にそっと手をあてる。
エドモンドは少し離れた椅子に腰掛け、不安そうに様子を見守っていた。
「……つわりですね」
ヒーラーは、やわらかく言った。
「この時期にはよくあることです。
今日、何か強い匂いのものを召し上がりましたか? あるいは、少し疲れが溜まっているようにも見えますが」
アランは、ベッドに腰掛けたまま視線を伏せた。
強い匂い——宴の香水でも、食卓の料理でもない。
彼女の胃をひっくり返しているのは、別のものだ。
クラリッサの笑顔。
ローランドの、あくまで誠実で優しい眼差し。
自分以外の誰かが、あの胸に寄りかかり、当然のように甘えている光景。
全部、薬草よりもずっと強烈な匂いを放って、胸の奥を灼いていた。
「……疲れ、だと思います」
喉の奥で転がった本音を、アランは飲み込んだ。
嫉妬で吐き気がするなどと、どうして口にできるだろう。
ブラック家の妻として、セシール家の娘として、そんな惨めな理由を言えるはずがない。
ヒーラーは、彼女の答えを肯定とも否定ともとらず、小さく頷いた。
「少し休まれるといいでしょう。消化のよいものを少しずつ……。
しばらくは移動も、できるだけお控えください。特急と馬車の乗り継ぎは、体に堪えます」
「わかりました。ありがとうございます」
エドモンドが代わりに礼を述べる。
ヒーラーが去り、部屋に静寂が戻ると、アランは胸の前で指を強く組んだ。
「…… アラン」
父が、そっと彼女の横に腰掛ける。
「さきほどは、随分と顔色が悪かった。
今日は、ずいぶん無理をさせてしまったな」
「いいえ。父上の研究のお手伝いができるのは、わたしの……」
言いかけて、言葉がほどける。
クラリッサとローランドが並んで座っていた応接室の光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
クラリッサの天真爛漫な笑顔。
袖を引く、白い指。
その指を拒まないローランドの、優しい手つき。
胸の奥に溜まっているものが、喉元まで押し上げてくる。
「アラン?」
エドモンドが覗き込む。
心配をかけまいと、アランは慌てて微笑みを作った。
「……少し、疲れただけです。
でも、子どものことですから。嬉しい疲れですわ」
自分でも驚くほど、声は平静だった。
その平静さが、かえって胸を締めつける。
父が一度部屋を出て行くと、寝室には再び静けさだけが残された。
薄く開けた窓から、遠く馬車の音だけがかすかに響いてくる。
おそらく、今ごろ二人は駅へ向かっているのだろう。
クラリッサは、あの馬車の中でもローランドの隣を譲らないはずだ。
窓の外の景色を指さして、あれこれ話しかける。
ローランドは根気強く応じ、時折、身体を気遣うように視線を向ける。
かつて、同じ場所にいたのは自分だった。
特急列車の座席で、肩に頭を預けて眠った日。
馬車の揺れに酔いそうになって、ローランドに手を握ってもらった日。
それらの記憶が、次々と浮かんでは、今の光景と入れ替わっていく。
——胸が、張り裂けてしまいそうだった。
自分は、ブラック家の妻だ。
レギュラスの子を宿した、正妻。
それなのに、今もなお、ローランドの隣にいる女に嫉妬している。
その浅ましさを自覚しながら、それでも感情が言うことをきかない。
枕元のテーブルに置かれた水差しが、視界の端で揺れて見えた。
涙を堪えようと目を閉じると、吐き気とは違う別の波が、胸の奥から押し寄せてくる。
しばらくして、エドモンドが再び部屋に戻ってきた。
「…… アラン。今夜はここで休むといい」
手には、封筒と、巻きつけた羊皮紙を一通持っている。
「ブラック家には、こちらからフクロウを飛ばしておこう。
つわりがひどく、しばらくこちらで様子を見る、と」
アランの喉の奥が、ひりつくように痛んだ。
「……申し訳、ありません。レギュラスにも、迷惑を」
それは、形式的な言葉だった。
本当は、今日はどの顔をしてブラック家の門をくぐればいいのか、想像もつかなかった。
ローランドとクラリッサの姿を、この身ごもった身体に刻み付けたまま、レギュラスの前に立つ自分を思い浮かべるなど、とてもできない。
「迷惑などと言う必要はない」
エドモンドはきっぱりと言った。
「ブラック殿も、君の体を何より優先すると約束してくださっている。
それに、つわりは理由として十分だ」
そう言って、父は羊皮紙を机の上に広げる。
「内容は私が書こう。……『本日は体調が思わしくなく、セシール家の屋敷にて休養いたします』」
ペン先が、さらさらとインクを走らせる音がする。
「何か、君から付け加えたいことはあるか?」
アランは、しばらく考えてから首を振った。
「いえ……それで、十分です」
本当は、「今夜は帰りたくない」と書きたかった。
ブラック家ではなく、ローランドとクラリッサが去っていったこの場所で、一人きりで痛みを抱えていたかった。
自分の醜さを、誰にも見られないように、丁寧に隠していたかった。
エドモンドは封筒に羊皮紙を収め、封蝋で閉じた。
「フクロウ小屋へ運んでおこう。
明朝には、ブラック家に届くはずだ」
父が部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、妙に遠く感じられた。
ひとり残された寝室で、アランはベッドの上に身を横たえた。
天井の木目が、静かに広がっている。
窓の外はすでに夕闇が濃く、薄いカーテン越しに、遠くの灯りがぼんやりと揺れていた。
腹部にそっと手をあてる。
ここには、レギュラスの子がいる。
ブラック家の血を引く、新しい命。
その事実は、何にも替え難い尊さを持っているはずだ。
祝福され、慈しまれるべきものだと、頭では分かっている。
それなのに、胸の奥で渦巻いているのは、祝福にはほど遠い黒い感情だった。
嫉妬。
後悔。
執着。
そして、どうしようもない喪失。
そのどれもが、吐き気と一緒に胃の底で絡まり合っている。
アランは、枕に顔を埋めた。
声を出して泣けば、父に気づかれてしまう。
だから、喉の奥で震える声を押し殺し、息だけで震えた。
——あの二人の甘すぎる空気に、耐えられなかった。
そう認めたとたん、再びこみ上げてくる吐き気を、彼女は両手で腹を押さえながらやり過ごす。
フクロウは、すでに夜空へ飛び立っただろう。
ブラック家に届く頃、レギュラスはどんな顔をするだろうか。
そこまで考えて、アランは思考を止めた。
今はただ、この屋敷の一室で、静かに目を閉じていたかった。
嫉妬も、痛みも、すべてを抱えたまま——誰にも見られない夜の中に身を沈めたかった。
その夜、ブラック家の夕餉の席は、やけに静かだった。
いつもなら、少し遅れてでも屋敷に戻ってきているはずの妻の姿が、どこにもない。
執事に確認させても、セシール家からのフクロウはまだ届いていないと言う。
「……遅いですね」
レギュラスは手元のグラスに一瞥を落とし、すぐに立ち上がった。
「レギュラス?」
ヴァルブルガが問いかける。
「セシール家に行ってきます。アランの戻りが遅い」
そう告げる声音には、いつもの皮肉な余裕も、計算された間合いもなかった。
魔法省の役員として人を量り、駒として動かすときのあの冷静な気配はすっかり影を潜めている。
妻が戻らない。
それだけの理由で、彼は迷わなかった。
セシール家の屋敷は、夜の帳に包まれながらも、窓のいくつかに灯りがともっていた。
馬車が石畳に停まり、レギュラスが降り立つと、玄関扉がすぐに開く。
「ブラック殿……?」
出迎えた執事は、予想外の訪問者にわずかに目を見張った。
「夜分に失礼いたします。妻がまだ戻らないようですので」
簡潔な言葉の奥に、焦りは見せない。
けれど、そのまなざしの奥には、明らかにいつもと違う色が宿っていた。
「セシール卿にお取次ぎいただけますか」
「は、はい。こちらへ」
応接室で待つまでもなく、エドモンドが廊下の向こうから足早に現れた。
「ブラック殿。わざわざお越しくださるとは」
「アランが戻りませんので。
こちらで何かあったのかと、気になりまして」
レギュラスは単刀直入に切り出した。
「本来ならばフクロウを受け取ってからお伺いするところですが……どうにも胸騒ぎがしましてね」
「フクロウなら、先ほど出したところです」
エドモンドは苦笑を混じらせて首を振った。
「すまない。君がこうして来られる少し前に。
つわりがひどくてね。今は自室で休ませている。医師も、しばらく安静にと言っていた」
「……つわり、ですか」
レギュラスの眉が、わずかにゆるんだ。
胸の奥の強張りが、ほんの少しだけほどけていく。
何か重大な異変ではないと分かったからといって、不安が完全に消えたわけではない。
だが、原因に名前がついたことで、彼の表情には落ち着きが戻ってきた。
「お姿を……見てもよろしいですか」
「もちろんだ。アランも、君の顔を見れば安心するだろう」
エドモンドは頷き、手で案内を示した。
「自室で横になっている。呼吸は落ち着いているが、少し顔色が悪い。驚かせぬよう頼む」
「はい。ありがとうございます、セシール卿」
廊下を進むほどに、屋敷独特の静けさが深くなる。
レギュラスは、普段なら人の動線や視線、屋敷の構造を無意識に測っている自分に気づかずにいることに、ふと気づいた。
今夜に限っては、頭の中を占めているのはただ一つ—— アランの容態だけだった。
扉の前で足を止める。
軽くノックをしてから、静かな声で呼びかけた。
「アラン」
少し間を置いて、内側からかすかな返事が聞こえる。
「……どうぞ」
その声が、いつもより細く、小さい。
胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
レギュラスは扉を開け、静かに中へ足を踏み入れた。
アランの自室は、灯りを落とし、ベッド脇のランプだけがほの暗く光を投げていた。
ベッドの上では、アランが枕元に頭を預けるようにして横たわっている。
髪はゆるくほどけ、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
身なりは崩れていないが、その顔色は、いつもの白磁のような肌よりさらに蒼白に見える。
レギュラスは、一瞬だけ立ち尽くした。
魔法省の廊下で誰かの悲鳴を聞いても、処刑場で血の匂いを嗅いでも、眉一つ動かさない男が——
今はただ、ベッドに横たわる妻の姿に、心の底から胸を締め付けられていた。
「…… アラン」
名を呼ぶ声は、自然と柔らかかった。
「心配しました」
その言葉には、計算も誘導も、支配もない。
ただ、自分の妻が苦しんでいるという現実を前にした、一人の男の率直な感情だけが滲んでいた。
アランが、少しだけまぶたを持ち上げる。
「……レギュラス」
翡翠の瞳が、薄明かりの中で彼を捉えた。
驚きと戸惑いと、申し訳なさが入り混じった視線。
「ご心配を、おかけしております……」
かろうじて整えた言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「いえ」
レギュラスは首を振り、ベッドに近づいた。
「セシール卿からもお話は伺いました。
大変でしたね。列車に馬車に——移動だけでも負担だったでしょう」
ベッド脇の椅子に座ることも忘れ、彼はそのまま膝をついた。
アランの顔の高さに視線を合わせるように、床に片膝をついて身を屈める。
白いシーツの上に投げ出されたアランの手が、わずかに震えていた。
その指先を、レギュラスはそっと両手で包み込む。
「気分は、今はどうですか」
「……先ほどよりは、だいぶ」
アランは答えながら、視線を逸らしかけて、思い直したように彼を見た。
「つわりだと……診ていただきました。
ご迷惑を、おかけして……」
「迷惑だなんて、誰が言いましたか」
レギュラスの声が、ごく自然に低く、柔らかくなる。
「あなたの体のことです。僕が心配して何がおかしいんです」
そう言いながら、彼はベッドの端に片手をつき、反対の手でアランの背へそっと触れた。
慎重に、揺さぶらぬよう、触れただけで安堵を伝えるように。
指先が、薄い寝間着越しに背骨のラインをなぞる。
決して欲を滲ませない、ただ撫でるという行為に徹した、穏やかな手つきだった。
アランは、背中に置かれた掌の温度に、少しだけ目を見張った。
この男の手を、何度も知っている。
欲を帯びて肌を暴いてくるときの熱も、所有欲を隠そうともしない抱き寄せ方も。
けれど今、背中をなぞるこの手には、そういった色が一切なかった。
ただ、落ち着け、と言われているような、子どもをあやすような優しさだけがあった。
「……本当に、来てくださったのですね」
喉の奥で、思わずそんな言葉が漏れた。
言ってから、自分でも驚く。
あまりにも依存めいた響きだと気づいて、慌てて唇を噛む。
レギュラスは、少しだけ笑った。
「ええ。帰ってこない妻を放っておけるほど、冷たい夫ではないつもりですが」
「冷たい、だなんて……」
「思われていました?」
冗談めかして問われ、アランは言葉に詰まる。
レギュラスは追及しなかった。
代わりに、背中を撫でる手の動きだけをゆっくりと続ける。
「本当に、大変だったでしょう」
静かな声が落ちる。
「ブラック家とセシール家の間を行き来して、魔法薬の研究の手伝いまでして。
体が新しい命を育てている時期です。……もっと早く、環境を整えるべきでしたね」
それは、自分への責めでもあった。
「……わたしが、欲張りすぎたのです」
アランがぽつりとこぼす。
「父の研究も、ブラック家の務めも、どちらも手放したくなくて。
その結果がこれですから。自業自得です」
背中の下で、腹部がわずかに波打つように張るのを感じる。
ローランドとクラリッサの姿が一瞬脳裏をよぎり、また吐き気の名残が喉を灼いた。
だが、それを言葉にすることは決してできない。
レギュラスは、彼女の告白に首を横に振った。
「欲張り、とは言いませんよ」
柔らかながらも、はっきりとした否定だった。
「あなたは、与えられた役割をどちらも真面目に果たそうとしているだけです。
セシール家の娘としての責務も、ブラック家の妻としての責務も。
……ただ、今はその分、少し体に負担がかかっているだけです」
背中に置いた手に、ほんの少しだけ力をこめる。
「だから、僕が動きます。
あなたが無理をしなくて済むように、調整すべきところは調整しましょう」
それは、政治的な打算から出る台詞ではなかった。
妻を、自分の子を宿した女を、単純に守ろうとする男の言葉だった。
アランは、枕に押し付けた頬のあたりが熱くなるのを感じた。
この男の言葉に救われることがあるなど、ほんの少し前までは想像もしなかった。
ローランドの優しさは、静かな水面のようだった。
そっと近づけば、音も立てずに受け入れてくれる柔らかさがある。
レギュラスの優しさは、違う。
用意された道のりの上に、半ば強引に誘導されるような形で、その中心に立たされる。
それでも今、この部屋で背中を撫でられながら感じているのは、あまりにも率直な「心配」だった。
「……レギュラス」
アランは、枕越しに小さく彼を呼んだ。
「今夜は……こちらに泊まられるのですか?」
「もちろんです。あなたをこのまま置いて帰るつもりはありません」
ためらいのない即答だった。
「客間を一部屋借りようと思っていましたが……あなたが嫌でなければ、この部屋の椅子でも構いません。
ベッドのそばにいた方が、あなたも安心でしょう?」
そう告げる声音には、「当然だ」という圧もなければ、「どうだ、これほど気遣っている」と誇示する響きもない。
ただ、妻と子のそばにいたいという、ごく単純な望みだけがあった。
アランは、胸の奥に広がる痛みとも温かさともつかない感情を、どう扱えばいいか分からなかった。
ローランドの胸に縋りつきたいと願った記憶と、今、背中を撫でるこの男の手のひらの温度が、同じ場所で混ざり合い、ぶつかっている。
「……ご無理を、なさらないでくださいませ」
かろうじて絞り出せた言葉は、それだけだった。
「僕はもともと、少し無理をするのが好きな性質でしてね」
レギュラスは、軽く冗談めかして笑った。
「あなたが安らかに眠れるなら、そのくらいの無理は、むしろ歓迎ですよ」
そう言って、背中を撫でる手の動きを、さらにゆっくりとしたものに変える。
「さあ、もう少し目を閉じましょう。
つわりは、眠りが浅いと余計に辛いと聞きますから」
アランは、彼の言葉に逆らう気力を持てなかった。
瞼を閉じると、まだ遠くで馬車の音が耳に残っている気がした。
ローランドとクラリッサが向かった夜の先と、自分のいるこの部屋の静けさの差が、かえってくっきりと胸を締め付ける。
それでも、背中に触れる掌の温度が、少しずつそれらを薄くしていった。
計算も、誘導も、支配もない——
この夜のレギュラスの在り方だけが、アランの意識をゆっくりと暗闇へと導いていく。
彼女の呼吸が、やがて少しずつ整い始めたのを感じながら、レギュラスはその背を撫でる手を止めなかった。
何度も戦場をかいくぐり、多くの血を見てきたその指先が、今はただ、一人の女とその腹に宿る命を守るためだけに動いていた。
アランの呼吸が、静かに、一定のリズムを刻み始めていた。
背中に添えていた手をそっと離し、レギュラスはゆっくりと立ち上がる。
椅子がきしむ音を立てないように気を配りながら、ほんの少しだけ距離を取った。
枕に半分顔を埋めるようにして眠る横顔は、まだ完全に青ざめた色を捨てきれていない。
それでも、先ほどまでの歪んだ苦痛の影は薄れ、幼い頃の面影を残す安らかな輪郭が戻りつつあった。
その姿を一瞥して、レギュラスは目を部屋の中へと向けた。
セシール家の一人娘の自室は、予想していたよりもずっと「生活の匂い」に満ちていた。
ブラック家で彼女のために整えた部屋は、意図的に余白を残した空間だった。
娘時代の名残を一度置いてもらい、新たに「ブラックの妻」としての品々で満たしていくつもりで用意した部屋。
対してこの部屋は——
本棚には、魔法薬関連の専門書と、父エドモンドが執筆したであろう論文集が整然と並んでいる。
その合間に、表紙が少し擦り切れた読み物や、小説らしき本も何冊か見えた。
机の上には、開きかけのノートが積み上げられている。インクの染み、フラスコの輪染み、消し忘れたメモ。
彼女が娘として、研究者の家の一員として、生きてきた時間の密度がそのまま形になっているようだった。
レギュラスは、音を立てないように歩み寄り、一番手前に置かれた論文の束に目を落とす。
表紙には、魔法薬学会の印章と、受賞者として記された名前。
—— アラン・セシール。
魔法薬の基礎調合における新しい希釈手順。
治癒薬の持続時間を延ばすための材料配合率の調整。
彼は視線だけで、いくつかの論題にひと通り目を通した。
内容のすべてをここで精査しようとは思わない。それでも、論題と注釈の書き方だけで、そこにいる筆者の癖が透けて見える。
几帳面で、無駄を嫌う。
だが、基礎の積み重ねに手を抜かない。
華やかな発見よりも、誰かの生活をじわじわと改善するような実用性を重視する——そんな気質が筆致に滲んでいる。
レギュラスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「……やはり、いいところに目をつけましたね、僕は」
小さく呟いた声は、眠るアランには届かない。
机の引き出しの上には、リングで綴じられた分厚いノートが一冊、横向きに置かれていた。
背表紙に、彼女の丁寧な字で「調合メモ」「失敗記録」と記されている。
失敗記録——その言葉に、レギュラスの目が細まる。
多くの者は、成功だけを記そうとする。
ましてや人目につく場所に置いておくノートに、失敗を堂々と記録する者は少ない。
それを「当たり前」としているあたりが、いかにもアランらしい。
彼はノートには触れず、視線だけでゆっくりと部屋を見渡した。
壁際には、大小さまざまなフレームがかけられている。
初めて魔法薬の大会で表彰されたときの賞状、学会での集合写真。
魔法写真の中で、白衣のようなローブを着た少女が、照れくさそうに、それでも誇らしげに笑っている。
そのどれもが、「ブラック家の妻」になる以前のアランを示していた。
——それらを認めることに、レギュラスは抵抗はなかった。
過去を消し去る気はない。
むしろ、そこから今の彼女へと至る道筋を把握することは、レギュラス・ブラックにとって当然の行為だった。
そう、理屈では分かっていた。
理屈では、そうだった。
視線が、棚の一角で止まる。
そこだけ、他と違う柔らかな存在感があった。
小ぶりな箱——濃い緑色の革張りで、表面には金の箔押しで小さな花が散らされている。
重ねられた本やノートの間に、まるで意図的に隠されるように置かれていた。
レギュラスは、指先でそっとそれを引き出す。
箱ではない。アルバムだった。
手のひらほどの厚みのあるそれを開くかどうか、一瞬だけ迷う。
だが、迷いはほんの刹那だった。
——この部屋は、「アラン・セシール」という一人の女の輪郭を成す場所だ。
そこに何があるのかを知らずにいることの方が、今の彼には耐えがたい。
指先で留め具を外し、そっと表紙を開いた。
最初のページで、時間が止まったように感じた。
翡翠色の瞳をした、小さな女の子。
膝まで届きそうな黒髪をリボンで括り、白いワンピースを着ている。
その少女が、背丈のほとんど変わらない少年の横で、無邪気に笑っていた。
少年は淡い色の髪を短く整え、青い瞳でこちらを真正面から見ている。
彼も笑っている。
控えめで、けれど誠実そうな、少年らしいぎこちなさを残した笑顔。
魔法写真の中で、幼いアランは時折少年の方を見上げては、楽しそうに口を動かしている。
少年もまた、そのたびにアランへ視線を向け、同じように何かを話しかける。
それは、ひとつの世界がそこで完結しているような、満ち足りた光景だった。
ページをめくる。
少し成長した二人が、今度は手を繋いで並んでいる写真があった。
アランの背は、少年——ローランドと同じくらい。
黒髪は肩のあたりまで伸び、翡翠の瞳は、もう少女というより「娘」と呼ぶにふさわしい落ち着きを帯びている。
それでも、その横顔には、無防備な安心があった。
ローランドの手を握るその指は、何のためらいもなく、そこにあることを疑っていない。
写真の中で、二人は時折顔を見合わせて笑う。
指先が少し動き、絡まりそうになっては離れ、また繋がる。
背丈がわずかにずれ始めるのは、次のページからだった。
研究室らしき一室で、二人は並んで机に向かっている。
アランは白い実験用ローブに身を包み、眉間に皺を寄せてノートに何かを書き込んでいる。
ローランドは彼女の斜め後ろから覗き込み、指でビーカーを指し示している。
魔法写真の彼らは、何度も同じ動きを繰り返す。
アランが真剣な顔で液体の色を見つめる。
ローランドが何か助言をする。
アランの表情がふっと和らぎ、短く笑う。
その一連の流れの中で、彼女の笑い方は、今レギュラスの知っているものとは少し違っていた。
口元をきゅっと結ぶようにして笑う癖は、もうこの頃からあった。
けれど今よりもずっと無邪気で、何の警戒も、その場にいる相手を測ろうとする影もない。
純粋に、目の前の天秤と薬草と、隣にいる少年との時間だけを楽しんでいる笑い方だった。
ページをめくるたびに、二人の身長差は少しずつ変わっていく。
ローランドはすらりと背が伸び、アランはそれを追うように成長しているが、いつしか彼の肩に頭が届くか届かないか、という位置になっていた。
ある写真では、外の庭で二人が立っている。
ローランドは背の高い木にもたれ、アランはその少し前で振り向くように笑っている。
夕暮れの光が、黒髪と淡い髪の色を柔らかく照らし出していた。
——そこに映っているアランを、レギュラスは一ミリも知らない。
胸の奥で、じわりと熱いものがせり上がった。
ローランド・フロストに対して、嫉妬など覚えないつもりだった。
自分が選ばれた事実に揺らぎはない。
セシール家が最終的に差し出したのは、ブラック家への忠誠と、アランという存在だった。
アランのこれからの人生は、すべてレギュラス・ブラックの隣にある——その確信は、どれほど時が経とうとも変わらない。
過去がどんなものであろうと、気にはしない。
そう思っていた。
そう、思っていたはずだった。
なのに、アルバムをめくる指先が、わずかに強張る。
翡翠の瞳でこんなふうに笑うアランを、自分は見たことがない。
肩の力を完全に抜き、遠慮も警戒も、己の出方を計算することもなく、隣にいる相手に全幅の信頼を預けるような笑い方。
それを初めて見せてもらったのは——レギュラスではなかった。
写真の中の少女は、ローランドの方へ向かって、迷いなく手を伸ばしている。
魔法写真は、何度も何度もその場面を繰り返し見せつけてくる。
レギュラスは、気づかぬうちに奥歯を噛みしめていた。
……嫉妬など、しないはずだったのですがね
心の中で、誰にも聞こえない声が苦笑を含む。
ローランドは誠実だ。
自分が差し出した縁談を受け入れ、ブラック家の遠縁の娘を妻として迎えることを選んだ。
アランを責めず、セシール家を責めず、ブラック家に対しても礼を欠かさない。
それは、レギュラス・ブラックにとって最も扱いやすい「駒」のひとつであるはずだった。
にもかかわらず、今胸の奥でうねっている感情は、冷静な評価とは程遠い。
ローランドに対する嫉妬——
それを言葉にして認めたくはなかったが、そうとしか呼びようのない感情だった。
こんな表情を、こんな仕草を、こんな時間を。
アラン・セシールという少女の長い時間の中で、ローランド・フロストという少年とだけ共有してきたという事実。
アルバムを閉じることで、それがなかったことになるわけではない。
過去は、変えられない。
だが。
睫毛の影を震わせて笑うアランの横顔を見下ろしながら、少年が彼女の肩にそっと手を置くその一瞬——
その瞬間だけは、指先がページを破り取りたくなる衝動に駆られた。
「……この頃から、あなたは」
レギュラスは、誰にも聞こえないような声で、写真の中の少女に言葉を落とす。
「僕が割り込む隙間もない世界を、こうして作っていたわけですね」
皮肉めいた言い方だったが、声の底には、どうしようもない熱が混じっていた。
ここに並ぶ写真の数だけ、ローランドはアランの「一部」だった。
誰よりも近くにいて、彼女の笑い方も、泣き方も、拗ね方も、すべてを見てきた。
——それを塗り替えたのは、自分だ。
アランの未来に関して言えば、レギュラス・ブラックは、完全な勝者だ。
夫として、子の父として、家の主として。
どれほど野暮な言い方をしようと、その事実は揺るがない。
それでも、過去のこの少女の隣に、自分がいないということが、今さらながら許しがたい。
そんな感情に呑まれるとは、想像もしていなかった。
ふと、部屋の方から寝返りの気配がした。
レギュラスは即座にアルバムを閉じる。
表紙に指先を滑らせ、一度だけ深く息を吸ってから、元あった場所へ戻した。
隠されていたように、他の本とノートの影に、そっと収める。
振り返ると、アランはうっすらと眉を寄せただけで、まだ眠っていた。
翡翠の瞳は閉じたまま。
しかし、その瞼の裏には、おそらくローランドとの日々も、ブラック家での生活も、混ざり合って流れているのだろう。
レギュラスは、ベッドへと歩み寄る。
寝台の脇に腰を下ろし、眠る妻の髪をそっと指先で整えた。
「……過去は、過去です」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
「これから先のことは、全部僕のものですよ、アラン」
それは宣告であり、願いでもあり、祈りにも似ていた。
胸の奥でまだ燻る嫉妬を、自らの掌で押し潰すようにして、レギュラスはそっと彼女の額に触れる。
熱は、少し下がっている。
その事実に、ようやく少しだけ安心を覚えながら、レギュラス・ブラックは夜の静寂の中で目を伏せた。
彼の知らないアラン・セシールの時間は、写真の中に閉じ込められている。
だが、この先の時間は——この部屋を出た後も、ブラック家に戻ってからも、彼女が産む子がどんな顔をしていても。
すべては、レギュラス・ブラックの隣で進んでいく。
それでも胸の内でくすぶる嫉妬の火だけは、消えることなく、静かに燃え続けていた。
魔法省のエントランスホールは、朝の喧噪をほとんど飲み込んで、いつもの規則正しいざわめきへと落ち着きつつあった。
書類を抱えた役人たちが行き交い、フロアのあちこちに設置された魔法掲示板が、時折ぱちりと光を散らす。
その奥、壁際に並んだ魔法エレベーターには、それぞれ違う階数を示す魔法文字が柔らかく灯っていた。
レギュラスは、書類を挟んだ革のフォルダを片手に、何の感慨もなさそうな顔で歩を進める。
何百回と往復してきた廊下だ。
ここを通るとき、彼の頭に浮かぶのは、いつも数字と人間関係と案件の優先度だけ。
今朝もそうであるはずだった。
——ほんの数日前、セシール家の一室で開いたアルバムのことさえ、思い出さなければ。
ちょうど魔法エレベーターの扉が開いた。
先に乗り込んでいた数人の職員が、軽く会釈して降りていく。
レギュラスが乗り込むと、ほぼ同時に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「失礼いたします」
淡い色の髪をきちんと撫で付け、整ったローブを身にまとった青年が、わずかに早足でエレベーターに滑り込む。
青い瞳が、乗り込んだ瞬間にレギュラスを認めて、ぴたりと姿勢を正した。
「……ブラック様。おはようございます」
ローランド・フロストは、きっちりと礼を欠かさなかった。
片手で胸元に触れ、わずかに腰を折る、その一連の動作。
無駄がなく、崩れもない——誠実さがそのまま形になっているような礼だった。
「おはようございます、フロスト殿」
レギュラスは口元に静かな微笑を浮かべ、軽く頷いてみせる。
扉が閉まり、エレベーターがするすると上昇を始めた。
金属ではなく魔法で支えられた箱が、微かな浮遊感だけを残して階を移動していく。
二人きりの空間だった。
「家族の縁を結んでいるのに、そんなに畏まらないでください」
レギュラスは、少しだけ肩の力を抜いたような口調で言った。
フロスト家は、今やブラック家の遠縁であり、ローランドはブラック家の親族になる。
アランの元婚約者でありながら、今はクラリッサ・ブラックバーンの婚約者——間もなく夫になる男。
そういう奇妙な立場を、あえて「家族」という一言で括ってしまうあたりが、レギュラスらしい。
ローランドは一瞬、返答の言葉を探すように視線を伏せた。
「……魔法省では、ブラック様は上官でございますので」
結局、彼が選んだのは教科書通りの答えだった。
「どれほど家同士が近くなろうとも、この省の中では、わたくしはブラック様の部下に他なりません。
礼を欠くことはできません」
どこまでも真面目な男だった。
その言い方には、媚びも、臆病さもない。
ただ、自分で定めた線の内側から出ようとしない頑なさと、自らの立場を乱さない矜持だけがあった。
