2章
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レギュラスは、距離をさらに詰めるようにアランの腰へ手を回した。
妊娠した腹部に触れないよう自然に位置を調整しながら、その身体を自分へ寄せる。
アランの手が、ごく自然な動きで彼のローブの胸元を掴んだ。
引き寄せたいのか、それとも支えを求めているのか。
どちらにしても、その仕草は「拒絶」からは遠くなっていた。
「……怖くは、ありませんか」
ふいに、レギュラスがそんな問いを投げる。
優しく気遣う夫の声色で。
けれど、その実、ここまでに積み重ねてきた成果を確かめるための質問だった。
アランは、少しだけ考えるように沈黙した。
ローランドの顔が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
かつての、自分を大切に扱ってくれた手。
慎重で、戸惑いがちで、何度も「大丈夫?」と尋ねてくれた夜。
今、自分を抱き寄せている腕は、まるで別物だ。
迷いがなく、奪うことに罪悪感を持たない。
それでも——
「……分かりません」
アランは、正直にそう答えた。
「怖いのかもしれませんし、もう怖がり方を忘れてしまったのかもしれません」
それは自分でも驚くほど率直な言葉だった。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めたあと、楽しげに笑う。
「忘れてしまったのなら、結構なことです」
即答だった。
「僕の腕の中で、恐怖よりも別のものを覚えてくださる方が、よほど建設的でしょう?」
その「別のもの」が何を指すのか、あえて言葉にはしない。
アランの頬に再び唇を寄せ、耳元へと滑らせる。
ぞくりと、背筋を震わせる感覚が走る。
それが怖いのか心地よいのか、もう境界線が曖昧になって久しい。
レギュラスは、彼女の反応を確かめるように、ゆっくりと顔を戻した。
翡翠の瞳が近くにある。
まつげはわずかに震え、唇にはさっきから続く緊張の色と、微かな濡れが宿っている。
「ほら」
囁くように言う。
「もう、僕がキスをするとき、目を固く閉じて逃げようとすることもない」
まるで観察記録を読み上げるような冷静さで。
「ちゃんと、受け入れてくださる」
そう言って、もう一度唇を重ねた。
今度は先ほどより少し深く、時間をかけて。
アランの指先が、レギュラスのローブを掴む力を少し強める。
呼吸が乱れ、胸の鼓動が早まる。
それでも、拒絶の言葉は口をついて出てこない。
代わりに、喉の奥で押し殺した吐息だけが、静かに漏れた。
やがて唇が離れたとき、レギュラスは満足げに息を吐いた。
「ね、随分と自然になったでしょう」
その声音には、あからさまな誇りと愉悦が混じっていた。
「寝室を別に、なんて。
あの頃のあなたに聞かせて差し上げたいくらいです」
アランは、返す言葉を見つけられなかった。
ただ、胸の前で組んだ手をそっと解き、レギュラスに預けられた体重を少しだけ調整する。
この腕の中に落ち着くことが、当たり前になっていく。
それが正しいのか間違いなのかを測る物差しは、とっくにどこかへ見失っていた。
レギュラスは、彼女の耳元で低く囁く。
「今夜は、ここで少しだけ……あなたに触れても?」
問いかけの形を取りながら、答えが「はい」以外ではないと知っている男の声で。
アランは、ほんの一瞬だけ迷い、やがて小さく頷いた。
「……レギュラスの判断に、お任せします」
その言葉は、降伏でも服従でもなく、ただの事実に近かった。
——自分の未来も、身体も、感情の揺れさえも。
すでにこの男の掌の上にあるのだと、嫌というほど思い知らされているから。
レギュラスは、満足げに目を細める。
「ええ。では、遠慮なく」
灯りが少しだけ揺れた。
外の廊下は静かで、誰もこの部屋の中を知らない。
寝室を別にと訴えていた頃からは考えられないほど自然な仕草で、アランはレギュラスの胸元に額を預けた。
その変化は、彼の目には、何よりも美しい「成果」に見えていた。
その日、セシール家の屋敷に辿り着いた頃には、空はすっかり鉛色に沈んでいた。
妊娠してから禁じられた姿くらましの代わりに、アランは特急列車と馬車を乗り継いで移動してきた。
冷たい風にさらされた頬はうっすらと紅潮しており、腹部をかばうように手を添えて馬車を降りる。
石畳に降り立った瞬間、玄関前に停まる別の馬車が目に入った。
濃い紺色の車体に、見慣れた紋章がさりげなく刻まれている。
——フロスト家。
胸の奥が、きゅっと音を立てたように縮む。
この屋敷にフロスト家の馬車があるということは、誰が来ているのか、考えるまでもない。
いつもよりわずかに足取りを固くしながら、アランは玄関ホールに入った。
「お帰りなさいませ、アラン様。セシール卿は、ただいま応接室にお客様をお通ししております」
執事がそう告げるのを聞いたときには、予感は確信に変わっていた。
廊下を歩くごとに、屋敷の奥からひそやかな声が聞こえてくる。
低く抑えた父エドモンドの声。
それに応じる、丁寧に整えられた男性の声。
そして、ときどき軽やかに跳ねるような、若い娘の笑い声。
応接室の前にたどり着くと、扉の隙間からあたたかな灯りが漏れていた。
扉をノックする前に、一度だけ深く息を吸う。
目を閉じ、胸の奥に渦巻くものをできる限り静めてから、ノックの音を立てた。
「どうぞ」
父の声がかかる。
扉を開けた瞬間、視線がいくつか同時にこちらを振り向いた。
「お帰りか、アラン」
エドモンドの穏やかな声が、いつも通りに彼女を迎える。
暖炉の火に照らされた部屋の中央に、父が座っていた。
その正面のソファには、二人の客人が並んで腰掛けている。
ローランド・フロスト。
淡い髪をきちんと撫でつけ、青い瞳に落ち着いた光を湛えた青年。
その隣に、肩までの栗色の髪をゆるく結い上げた若い娘——クラリッサ・ブラックバーンが座っている。
白に近いクリーム色のローブに、薄いローズ色のリボンがあしらわれている。
以前ドレス選びをしたときと同じように、彼女はどこか春めいた明るさを纏っていた。
「あ……」
アランの唇から、無意識に小さな吐息が漏れる。
クラリッサが真っ先に立ち上がった。
「アラン様!」
ぱっと花が咲くような笑顔だった。
「ご無沙汰しておりますわ。お加減はいかがですか?」
前へ出てくる足取りには、礼節と無邪気さが同居している。
頭を下げる角度は完璧で、言葉遣いにも破綻はない。
けれど声の弾み方や、両手を胸の前でふわりと揃える所作は、年若さを隠しきれない愛らしさに満ちていた。
「クラリッサ様……お久しぶりです」
アランも微笑みを作り、ゆるやかに頭を下げる。
「体調は、ひとまず落ち着いております」
「それは本当に、よかったですわ」
心底ほっとしたようにクラリッサが笑う。
「この前ドレスを選んでいただいたときから、ずっと気になっていましたの。
アラン様がお元気かどうか」
その言葉に、隣のローランドが静かに立ち上がった。
「お帰りなさいませ、ブラック夫人」
以前と変わらぬ、落ち着いた声音。
けれど、アランではなく「ブラック夫人」と呼ぶその響きが、ふと胸に刺さる。
「フロスト殿……」
アランは、胸の前でそっと手を重ねて会釈した。
「本日は、父にご用が?」
「はい。セシール卿に、研究支援の件で改めてご挨拶に伺いました」
ローランドは、短くそう説明した。
エドモンドが満足げに頷く。
「ブラック家としての正式な支援の書面と、フロスト家としての立ち会いだ。
レギュラス殿は多忙ゆえ、代わりにフロスト殿が来てくれた」
「それだけではなくてよ」
クラリッサが、ふふ、と笑う。
「わたくしも、セシール家の屋敷を一度見てみたかったのです。いつもお噂を伺っていましたから」
その言葉には純粋な好奇心と、どこか「新しい親族」としての無邪気な期待が滲んでいる。
応接室の空気は、表面上は穏やかだった。
暖炉の火がゆっくりと薪を焼き、窓辺のカーテンが外の冷たい風を遮る。
テーブルには、茶器と焼き菓子がきちんと並べられている。
「どうぞ、お座りなさい」
エドモンドに促され、アランは少し離れた椅子に腰を下ろした。
ローランドとクラリッサとは向かい合う形になる。
クラリッサは、ふとローランドの方を見上げる。
「ねえ、ローランド様。帰りもこの屋敷から駅まで馬車を出していただけるのですよね?」
その言い方は、確認というより甘えだった。
当然のように受け取る前提で、ほんの少しだけ拗ねたような声音を混ぜて。
「往きの馬車で少し酔ってしまいましたの。
帰りは、ローランド様が隣に座っていてくださらないと、わたくし、また酔ってしまうかもしれません」
くすりと笑いながらそう言って、クラリッサはローランドの袖口を指先でつまんだ。
その仕草は、あまりに自然だった。
甘えることに慣れた子どもが、そのまま背だけ伸ばしたような、無邪気な動き。
ローランドは一瞬だけ目を瞬かせたあと、穏やかに微笑んだ。
「もちろん、隣に座っていますよ。
あなたが気分を悪くされては困りますから」
「本当ですの?」
「ええ。約束します」
そう言って、そっとクラリッサの手を包み込む。
袖口をつまんでいた指先が、そのまま彼の掌の中に収まっていく。
その光景が、アランの視界の中心を静かに占めた。
胸の奥が、きりきりとしぼられるような感覚に襲われる。
——かつて、その手は自分に向けられていた。
不安で眠れない夜に、研究が行き詰まり焦りに飲まれたときに、ローランドはそっと手を握ってくれた。
「大丈夫だ」と言って、掌の温度で落ち着きを分けてくれた。
彼の胸は、いつだって自分が寄りかかれる場所だった。
疲れたとき、嬉しかったとき、泣きそうになったとき。
あの胸に顔を埋めれば、世界の輪郭が整い直すような気がした。
今、その胸に寄りかかる場所は、クラリッサに用意されている。
「ローランド様がお隣にいてくだされば、きっと酔いませんわ」
クラリッサが、茶目っ気たっぷりに笑う。
「わたくし、ローランド様に甘えるとなんでも大丈夫な気がしてしまうのです」
「それは少し、責任が重いですね」
ローランドは冗談めかして答えながらも、その青い瞳には優しさしか宿っていない。
クラリッサの言葉に、少しだけ照れたように表情を崩し、その手を放さずにいる。
アランの指先が、膝の上でそっと握り合わされた。
爪が自分の掌を押し、わずかな痛みを生む。
そうでもしなければ、胸の奥で膨らんでいくものを、どうにもできなかった。
「アランも聞きなさい」
エドモンドの声に、アランは慌てて顔を上げた。
「フロスト殿とクラリッサ嬢の式の段取りも、ほぼ決まりつつあってな。
ブラック家とセシール家、双方から支援していくようになった」
クラリッサが嬉しそうに頷く。
「アラン様に選んでいただいたドレスを着て、式を挙げられますの。あのとき、本当に心強かったのですよ」
「……それは、光栄です」
アランは、口角を持ち上げた。
喉の奥に、何か硬いものが引っかかっているようだった。
それでも、それを飲み込むようにして言葉を続ける。
「きっと、クラリッサ様にとてもお似合いになるはずです」
「フロスト殿も、そう思うだろう?」
エドモンドの方へ視線が向けられる。
ローランドは微かに頷いた。
「……はい。
あのドレスを身にまとったクラリッサを見られる日を、楽しみにしております」
その言葉には一片の嘘もなかった。
それが分かるからこそ、アランの胸の中はさらに静かに裂けていく。
クラリッサは、ふと思い出したようにアランの方へ身体を向けた。
「アラン様は、お子さまがお生まれになるまで、こちらの屋敷とブラック家と、行き来なさるのですか?」
「……父の研究の進捗次第ですが。無理のない範囲で、時折」
「まあ。どうか、お身体を大切に」
クラリッサは心から案じるように言う。
「わたくし、レギュラス様のお子さまならきっと、とても聡くて美しいお子さまに違いないと思っているのです。
アラン様に似たら、本当に可愛らしいでしょうね」
その言葉に、ローランドが一瞬だけ視線を伏せた。
その伏せられた睫毛の陰に、どんな感情が隠されているのか。
アランには、もう確かめようがない。
「……ありがとうございます」
声を出すだけで、ひどく体力を消耗するような気がした。
応接室に満ちる会話と笑い声は、外から見れば幸福な光景にしか映らないだろう。
セシール家の当主と、その娘。
ブラック家と結びついた若い夫婦。
未来を語るには、申し分のない組み合わせだ。
アランは、膝の上に置いた手にそっと力を込める。
かつて、ローランドの胸に寄りかかって未来の話をした日々があった。
名前を挙げ、行きたい場所を語り合い、年を重ねる自分たちの姿を想像して笑い合った。
今、その位置に座っているのは、別の女だ。
ローランドはクラリッサのわがままを受け入れ、馬車で隣に座ることを約束し、彼女の笑顔を当然のように受け止めている。
その胸に、アランが入り込む余地はどこにもない。
それでも、微笑まなければならない。
セシール家の娘として。
ブラック家の妻として。
茶器の中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、アランは静かに息を吐いた。
胸の内側で裂けていく何かを、ひとつひとつ押し包み、音の出ない場所へと沈めていく。
この部屋にいる誰にも、それが聞こえないように。
妊娠した腹部に触れないよう自然に位置を調整しながら、その身体を自分へ寄せる。
アランの手が、ごく自然な動きで彼のローブの胸元を掴んだ。
引き寄せたいのか、それとも支えを求めているのか。
どちらにしても、その仕草は「拒絶」からは遠くなっていた。
「……怖くは、ありませんか」
ふいに、レギュラスがそんな問いを投げる。
優しく気遣う夫の声色で。
けれど、その実、ここまでに積み重ねてきた成果を確かめるための質問だった。
アランは、少しだけ考えるように沈黙した。
ローランドの顔が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
かつての、自分を大切に扱ってくれた手。
慎重で、戸惑いがちで、何度も「大丈夫?」と尋ねてくれた夜。
今、自分を抱き寄せている腕は、まるで別物だ。
迷いがなく、奪うことに罪悪感を持たない。
それでも——
「……分かりません」
アランは、正直にそう答えた。
「怖いのかもしれませんし、もう怖がり方を忘れてしまったのかもしれません」
それは自分でも驚くほど率直な言葉だった。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めたあと、楽しげに笑う。
「忘れてしまったのなら、結構なことです」
即答だった。
「僕の腕の中で、恐怖よりも別のものを覚えてくださる方が、よほど建設的でしょう?」
その「別のもの」が何を指すのか、あえて言葉にはしない。
アランの頬に再び唇を寄せ、耳元へと滑らせる。
ぞくりと、背筋を震わせる感覚が走る。
それが怖いのか心地よいのか、もう境界線が曖昧になって久しい。
レギュラスは、彼女の反応を確かめるように、ゆっくりと顔を戻した。
翡翠の瞳が近くにある。
まつげはわずかに震え、唇にはさっきから続く緊張の色と、微かな濡れが宿っている。
「ほら」
囁くように言う。
「もう、僕がキスをするとき、目を固く閉じて逃げようとすることもない」
まるで観察記録を読み上げるような冷静さで。
「ちゃんと、受け入れてくださる」
そう言って、もう一度唇を重ねた。
今度は先ほどより少し深く、時間をかけて。
アランの指先が、レギュラスのローブを掴む力を少し強める。
呼吸が乱れ、胸の鼓動が早まる。
それでも、拒絶の言葉は口をついて出てこない。
代わりに、喉の奥で押し殺した吐息だけが、静かに漏れた。
やがて唇が離れたとき、レギュラスは満足げに息を吐いた。
「ね、随分と自然になったでしょう」
その声音には、あからさまな誇りと愉悦が混じっていた。
「寝室を別に、なんて。
あの頃のあなたに聞かせて差し上げたいくらいです」
アランは、返す言葉を見つけられなかった。
ただ、胸の前で組んだ手をそっと解き、レギュラスに預けられた体重を少しだけ調整する。
この腕の中に落ち着くことが、当たり前になっていく。
それが正しいのか間違いなのかを測る物差しは、とっくにどこかへ見失っていた。
レギュラスは、彼女の耳元で低く囁く。
「今夜は、ここで少しだけ……あなたに触れても?」
問いかけの形を取りながら、答えが「はい」以外ではないと知っている男の声で。
アランは、ほんの一瞬だけ迷い、やがて小さく頷いた。
「……レギュラスの判断に、お任せします」
その言葉は、降伏でも服従でもなく、ただの事実に近かった。
——自分の未来も、身体も、感情の揺れさえも。
すでにこの男の掌の上にあるのだと、嫌というほど思い知らされているから。
レギュラスは、満足げに目を細める。
「ええ。では、遠慮なく」
灯りが少しだけ揺れた。
外の廊下は静かで、誰もこの部屋の中を知らない。
寝室を別にと訴えていた頃からは考えられないほど自然な仕草で、アランはレギュラスの胸元に額を預けた。
その変化は、彼の目には、何よりも美しい「成果」に見えていた。
その日、セシール家の屋敷に辿り着いた頃には、空はすっかり鉛色に沈んでいた。
妊娠してから禁じられた姿くらましの代わりに、アランは特急列車と馬車を乗り継いで移動してきた。
冷たい風にさらされた頬はうっすらと紅潮しており、腹部をかばうように手を添えて馬車を降りる。
石畳に降り立った瞬間、玄関前に停まる別の馬車が目に入った。
濃い紺色の車体に、見慣れた紋章がさりげなく刻まれている。
——フロスト家。
胸の奥が、きゅっと音を立てたように縮む。
この屋敷にフロスト家の馬車があるということは、誰が来ているのか、考えるまでもない。
いつもよりわずかに足取りを固くしながら、アランは玄関ホールに入った。
「お帰りなさいませ、アラン様。セシール卿は、ただいま応接室にお客様をお通ししております」
執事がそう告げるのを聞いたときには、予感は確信に変わっていた。
廊下を歩くごとに、屋敷の奥からひそやかな声が聞こえてくる。
低く抑えた父エドモンドの声。
それに応じる、丁寧に整えられた男性の声。
そして、ときどき軽やかに跳ねるような、若い娘の笑い声。
応接室の前にたどり着くと、扉の隙間からあたたかな灯りが漏れていた。
扉をノックする前に、一度だけ深く息を吸う。
目を閉じ、胸の奥に渦巻くものをできる限り静めてから、ノックの音を立てた。
「どうぞ」
父の声がかかる。
扉を開けた瞬間、視線がいくつか同時にこちらを振り向いた。
「お帰りか、アラン」
エドモンドの穏やかな声が、いつも通りに彼女を迎える。
暖炉の火に照らされた部屋の中央に、父が座っていた。
その正面のソファには、二人の客人が並んで腰掛けている。
ローランド・フロスト。
淡い髪をきちんと撫でつけ、青い瞳に落ち着いた光を湛えた青年。
その隣に、肩までの栗色の髪をゆるく結い上げた若い娘——クラリッサ・ブラックバーンが座っている。
白に近いクリーム色のローブに、薄いローズ色のリボンがあしらわれている。
以前ドレス選びをしたときと同じように、彼女はどこか春めいた明るさを纏っていた。
「あ……」
アランの唇から、無意識に小さな吐息が漏れる。
クラリッサが真っ先に立ち上がった。
「アラン様!」
ぱっと花が咲くような笑顔だった。
「ご無沙汰しておりますわ。お加減はいかがですか?」
前へ出てくる足取りには、礼節と無邪気さが同居している。
頭を下げる角度は完璧で、言葉遣いにも破綻はない。
けれど声の弾み方や、両手を胸の前でふわりと揃える所作は、年若さを隠しきれない愛らしさに満ちていた。
「クラリッサ様……お久しぶりです」
アランも微笑みを作り、ゆるやかに頭を下げる。
「体調は、ひとまず落ち着いております」
「それは本当に、よかったですわ」
心底ほっとしたようにクラリッサが笑う。
「この前ドレスを選んでいただいたときから、ずっと気になっていましたの。
アラン様がお元気かどうか」
その言葉に、隣のローランドが静かに立ち上がった。
「お帰りなさいませ、ブラック夫人」
以前と変わらぬ、落ち着いた声音。
けれど、アランではなく「ブラック夫人」と呼ぶその響きが、ふと胸に刺さる。
「フロスト殿……」
アランは、胸の前でそっと手を重ねて会釈した。
「本日は、父にご用が?」
「はい。セシール卿に、研究支援の件で改めてご挨拶に伺いました」
ローランドは、短くそう説明した。
エドモンドが満足げに頷く。
「ブラック家としての正式な支援の書面と、フロスト家としての立ち会いだ。
レギュラス殿は多忙ゆえ、代わりにフロスト殿が来てくれた」
「それだけではなくてよ」
クラリッサが、ふふ、と笑う。
「わたくしも、セシール家の屋敷を一度見てみたかったのです。いつもお噂を伺っていましたから」
その言葉には純粋な好奇心と、どこか「新しい親族」としての無邪気な期待が滲んでいる。
応接室の空気は、表面上は穏やかだった。
暖炉の火がゆっくりと薪を焼き、窓辺のカーテンが外の冷たい風を遮る。
テーブルには、茶器と焼き菓子がきちんと並べられている。
「どうぞ、お座りなさい」
エドモンドに促され、アランは少し離れた椅子に腰を下ろした。
ローランドとクラリッサとは向かい合う形になる。
クラリッサは、ふとローランドの方を見上げる。
「ねえ、ローランド様。帰りもこの屋敷から駅まで馬車を出していただけるのですよね?」
その言い方は、確認というより甘えだった。
当然のように受け取る前提で、ほんの少しだけ拗ねたような声音を混ぜて。
「往きの馬車で少し酔ってしまいましたの。
帰りは、ローランド様が隣に座っていてくださらないと、わたくし、また酔ってしまうかもしれません」
くすりと笑いながらそう言って、クラリッサはローランドの袖口を指先でつまんだ。
その仕草は、あまりに自然だった。
甘えることに慣れた子どもが、そのまま背だけ伸ばしたような、無邪気な動き。
ローランドは一瞬だけ目を瞬かせたあと、穏やかに微笑んだ。
「もちろん、隣に座っていますよ。
あなたが気分を悪くされては困りますから」
「本当ですの?」
「ええ。約束します」
そう言って、そっとクラリッサの手を包み込む。
袖口をつまんでいた指先が、そのまま彼の掌の中に収まっていく。
その光景が、アランの視界の中心を静かに占めた。
胸の奥が、きりきりとしぼられるような感覚に襲われる。
——かつて、その手は自分に向けられていた。
不安で眠れない夜に、研究が行き詰まり焦りに飲まれたときに、ローランドはそっと手を握ってくれた。
「大丈夫だ」と言って、掌の温度で落ち着きを分けてくれた。
彼の胸は、いつだって自分が寄りかかれる場所だった。
疲れたとき、嬉しかったとき、泣きそうになったとき。
あの胸に顔を埋めれば、世界の輪郭が整い直すような気がした。
今、その胸に寄りかかる場所は、クラリッサに用意されている。
「ローランド様がお隣にいてくだされば、きっと酔いませんわ」
クラリッサが、茶目っ気たっぷりに笑う。
「わたくし、ローランド様に甘えるとなんでも大丈夫な気がしてしまうのです」
「それは少し、責任が重いですね」
ローランドは冗談めかして答えながらも、その青い瞳には優しさしか宿っていない。
クラリッサの言葉に、少しだけ照れたように表情を崩し、その手を放さずにいる。
アランの指先が、膝の上でそっと握り合わされた。
爪が自分の掌を押し、わずかな痛みを生む。
そうでもしなければ、胸の奥で膨らんでいくものを、どうにもできなかった。
「アランも聞きなさい」
エドモンドの声に、アランは慌てて顔を上げた。
「フロスト殿とクラリッサ嬢の式の段取りも、ほぼ決まりつつあってな。
ブラック家とセシール家、双方から支援していくようになった」
クラリッサが嬉しそうに頷く。
「アラン様に選んでいただいたドレスを着て、式を挙げられますの。あのとき、本当に心強かったのですよ」
「……それは、光栄です」
アランは、口角を持ち上げた。
喉の奥に、何か硬いものが引っかかっているようだった。
それでも、それを飲み込むようにして言葉を続ける。
「きっと、クラリッサ様にとてもお似合いになるはずです」
「フロスト殿も、そう思うだろう?」
エドモンドの方へ視線が向けられる。
ローランドは微かに頷いた。
「……はい。
あのドレスを身にまとったクラリッサを見られる日を、楽しみにしております」
その言葉には一片の嘘もなかった。
それが分かるからこそ、アランの胸の中はさらに静かに裂けていく。
クラリッサは、ふと思い出したようにアランの方へ身体を向けた。
「アラン様は、お子さまがお生まれになるまで、こちらの屋敷とブラック家と、行き来なさるのですか?」
「……父の研究の進捗次第ですが。無理のない範囲で、時折」
「まあ。どうか、お身体を大切に」
クラリッサは心から案じるように言う。
「わたくし、レギュラス様のお子さまならきっと、とても聡くて美しいお子さまに違いないと思っているのです。
アラン様に似たら、本当に可愛らしいでしょうね」
その言葉に、ローランドが一瞬だけ視線を伏せた。
その伏せられた睫毛の陰に、どんな感情が隠されているのか。
アランには、もう確かめようがない。
「……ありがとうございます」
声を出すだけで、ひどく体力を消耗するような気がした。
応接室に満ちる会話と笑い声は、外から見れば幸福な光景にしか映らないだろう。
セシール家の当主と、その娘。
ブラック家と結びついた若い夫婦。
未来を語るには、申し分のない組み合わせだ。
アランは、膝の上に置いた手にそっと力を込める。
かつて、ローランドの胸に寄りかかって未来の話をした日々があった。
名前を挙げ、行きたい場所を語り合い、年を重ねる自分たちの姿を想像して笑い合った。
今、その位置に座っているのは、別の女だ。
ローランドはクラリッサのわがままを受け入れ、馬車で隣に座ることを約束し、彼女の笑顔を当然のように受け止めている。
その胸に、アランが入り込む余地はどこにもない。
それでも、微笑まなければならない。
セシール家の娘として。
ブラック家の妻として。
茶器の中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、アランは静かに息を吐いた。
胸の内側で裂けていく何かを、ひとつひとつ押し包み、音の出ない場所へと沈めていく。
この部屋にいる誰にも、それが聞こえないように。
