2章
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夜のブラック家は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
長い廊下の壁にかけられた燭台には、必要最低限の灯りだけがともされ、黄金色の炎が石壁に揺れる影を描いている。
足音を立てないように歩けば、ここが本当に巨大な屋敷なのか疑わしくなるほどの沈黙だ。
そのなかを、レギュラスはゆっくりと進んでいた。
向かう先は、アラン・ブラックに与えられた部屋。
彼女の小さな砦。
今夜、その砦の中でどんな顔をしているのかは、想像するまでもない。
——きっと落ち込んでいるだろう。
——きっと、胸を締め付けられているだろう。
原因は、紛れもなく自分だ。
ローランド・フロストの婚約に伴う花嫁の衣装選びを、ヴァルブルガとともにと「提案」したのは、他ならぬ自分なのだから。
それでも、いや——だからこそ。
その落ち込みに対して「慰める」という形をとることで、満たされるものがあった。
自分の手で傷つけ、自分の腕で抱き寄せる。
それは、レギュラスにとってひどく本能に沿った行為だった。
アランの部屋の前に立つと、扉の向こうからは何の気配も聞こえなかった。
笑い声も、話し声もない。
ページをめくる音さえしない。
レギュラスは一度だけ軽くノックした。
「アラン」
呼びかける声は、日中のサロンで使っていたものよりも少し柔らかい。
返事はすぐには返ってこない。
間を置いて、かすかな声が扉の向こうから響いた。
「……はい」
それは「どうぞ」との許可に等しかった。
レギュラスは、躊躇なく扉を開ける。
部屋の中は、ランプが一つだけ灯されていた。
淡い光が、壁紙とカーテンと寝台をぼんやりと照らしている。
アランは窓際の椅子に座っていた。
カーテンは閉じられ、外の夜空は見えない。
膝の上には開きかけたままの本が載っているが、視線はそこには落ちておらず、どこか遠いところを見つめていた。
レギュラスが入ってきたことに気づき、彼女は慌てて立ち上がる。
「レギュラス……」
その声音には、疲労と戸惑いが微かに混じっている。
紅茶もお茶菓子もこの部屋には用意されていない。ただ、静けさだけが満ちていた。
「こんな時間に、申し訳ありません」
形式的な言葉を口にしながら、レギュラスは部屋を一瞥した。
セシール家から持ち込んだものたち。
ローランドとの過去を思い出させる品々も、きちんと整えられている。
——この小さな要塞の中で、今夜どれほど心を擦り減らしたか。
想像すると、胸の奥に甘いものが広がった。
「少し、話をしてもいいですか?」
言葉の形こそ「問い」だが、レギュラスはすでに部屋の奥へと足を進めていた。
拒否する猶予など、最初から与えていない。
「もちろんです」とアランは答えるほかない。
レギュラスは窓際の椅子に腰を下ろすよう手で示し、自分はその正面に立った。
彼女が戸惑いながらも再び腰を下ろすと、自然と視線の高さが違ってくる。
見下ろす形になるのは、嫌いではなかった。
「今日は、少し酷な提案をしてしまいました」
レギュラスは、静かに切り出した。
「……いえ」
アランは、反射的に否定する。
だが、その声は弱々しかった。
「ブラック家の一員として当然のことだと、わたくし——」
「無理をして肯定しなくていいですよ」
言葉を遮るように、レギュラスは穏やかな声で言った。
その穏やかさは、逆に逃げ場を狭める。
「フロスト殿の婚約。
その花嫁の衣装を、あなたと母で選ぶなどという話が、全く平気だなんて……さすがに僕も思ってはいません」
アランが、はっと息を呑むような気配を見せた。
図星をつかれたとき、人は顔色を変える。
その変化を見るのが、レギュラスは嫌いではなかった。
レギュラスは、一歩だけ彼女に近づいた。
姿勢を崩すかわりに、声色をさらに柔らげる。
「辛かったでしょう?」
たったそれだけの問いが、アランの胸を簡単に貫く。
否定したくても、できない。
肯定したくても、言葉にならない。
翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
視線を彷徨わせるように、彼女は本の上に置いていた指先を少しだけ握り込む。
「……わたしの、選んだ道ですから」
しばらく沈黙が流れたあと、アランはそう答えた。
「レギュラスとの婚姻を受け入れたのは、わたしで……
その結果として、ロー……フロスト殿が別の方と結ばれるのも……当然のことです」
言葉を選ぶたびに、喉の奥で何かを飲み込んでいる。
「ローランド」と言いそうになって「フロスト殿」と言い換えるそのぎこちなさが、レギュラスにはひどく愉快だった。
「だから、あれくらいの務めを果たせないようでは——」
「真面目ですね、あなたは」
自分を責める方向に舵を切ろうとするアランの言葉を、レギュラスはあっさり遮る。
「自分で自分を罰する必要はありませんよ」
そう言いながら、彼は椅子の背もたれに片手を添え、身を屈めてアランの視線の高さに合わせた。
間近で見る翡翠の瞳は、やはり宝石のように美しい。
曇らせたところで、その美しさは損なわれない。むしろ、陰りが増すほど魅力を増していく。
「僕がああしたのは、あなたを苦しめるためではありません」
言葉だけを取り出せば、優しい夫の弁解だった。
「フロスト殿は、これからブラック家の親族として生きていくことになる。
その彼の花嫁に、ブラック家としてどれほどの敬意を払うかを示せる、絶好の機会でもある」
すべて正論だった。
政治的にも社交的にも筋が通っている。
けれど、その裏でどんな愉悦を抱いているかは、決して口にしない。
「そして——」
レギュラスは、わざと一拍置いた。
「あなたがそれを務めてくれれば、フロスト殿も、きっと救われると思ったのです」
アランの肩が、かすかに震えた。
「……救われる?」
「ええ」
レギュラスは、優しく微笑む。
「かつてあなたを愛した男が、自分の花嫁のドレスを、あなたの手が選んだと知れば。
彼は、きっとそれを誇りに思うでしょう」
残酷な言葉を、あまりにも穏やかに紡ぐ。
「完全に失うわけではない、と。
あなたとの繋がりが、どこかに残っているのだと。
そう思えば——あの誠実な青年は、きっと前を向きやすくなる」
レギュラスの声は、どこまでも理路整然としていた。
善意の形をした棘だと分かっていても、外す術はない。
アランは唇を噛みしめ、視線を落とす。
ローランドの顔が浮かぶ。
自分より先に言葉を飲み込み、譲ってしまう彼の姿が。
「責めることはできない」と言った彼。
「元気で」と、距離を置きながらも優しく送り出した彼。
——あの人なら、きっと。
レギュラスの言う通り、「自分の花嫁のために」と、笑ってそのドレスを受け入れてしまうのだろう。
その想像が、かえって胸を痛める。
「……私に、務まるでしょうか」
二度目の問いは、先ほどよりもずっと弱かった。
レギュラスは、そこでようやくそっと手を伸ばした。
アランの肩に、指先が触れる。
「務まりますよ」
低く、確信に満ちた声。
「あなたは、僕の妻ですから」
その一言が、すべての決定事項だった。
アランは、もうそれ以上反論しなかった。
代わりに、細く息を吐き出す。
「……あなたは、残酷です」
かろうじて紡いだ言葉に、レギュラスは目を細めた。
「そうでしょうか」
否定はしなかった。
ただ、肩に置いた手に少しだけ力を込める。
「僕はただ、あなたにしかできない役をお願いしただけですよ」
アランが、ゆっくりと顔を上げる。
その翡翠の瞳には、怒りとも悲しみとも言い切れない感情が渦巻いている。
それを正面から受け止めながら、レギュラスは穏やかな顔を崩さなかった。
「……辛いときは、辛いと言ってもいいのですよ」
ささやくように続ける。
「僕の前では、強がらなくてもいい」
——自分で追い込んでおいて、よく言うものだ、とどこかで冷静に理解しながら。
その矛盾すら、レギュラスにとっては一つの遊戯だった。
アランは、言葉のかわりに視線を伏せた。
肩を伝うレギュラスの体温だけが、妙に鮮明に感じられる。
「レギュラスが……そう仰るのが、一番残酷です」
かすかな声で、そう零した。
自分を追い詰めた張本人が、「辛いなら言っていい」と優しく告げる。
それは慰めであると同時に、逃げ場を封じる巧妙な罠だった。
レギュラスは、その言葉を聞いて、薄く笑みを深める。
「そうですか?」
小さく呟いたあと、彼はそっとアランを抱き寄せた。
急激ではない、拒絶する隙を与えない、静かな動作で。
アランの頭が、彼の胸元に触れる。
耳元で、規則正しい心音が聞こえた。
「今は、何も考えなくていいですよ」
昼間、彼女が自分の腕の中に沈んだ夜に告げた言葉とよく似た響き。
「ドレスのことも、フロスト殿のことも。
すべて終わってから考えればいい」
終わるまでは、ただレギュラスの決めた枠の中で動けばいい——そう告げているのと同じだった。
アランの背中に回した手に、わずかな震えが伝わる。
それが涙なのか、悔しさなのか、諦めなのか。
きっと全部だろうと、レギュラスは推測した。
自分で仕組んだことだ。
それなのに「慰める」という形をとることで、胸の底に得体の知れない満足感が満ちていく。
自分の手で傷つけ、自分の腕の中で支える。
離れられないように、絡め取っていく。
その構図が、たまらなく心地よい。
「あなたは、よくやっていますよ、アラン」
耳元で囁くように言う。
「ブラックの妻としても、セシール家の娘としても」
アランの指先が、レギュラスの衣服の端をそっと掴んだ。
それが求めているのが安定なのか、それとも逃げ場なのかは、もはや彼女自身にも分からない。
ただ一つ確かなのは——。
この夜、アランの落ち込みを生み出した原因も、
その落ち込みを「慰める」役を演じている男も、
どちらも同じ名を持つということだけだった。
レギュラス・ブラック。
彼は妻の髪を静かになでながら、その矛盾の中心に立っている自分を、心から愉しんでいた。
ブラック家の広間は、いつも以上に白と金に満ちていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアの下、ドレスメーカーが用意してきたウェディングドレスが幾着も並べられている。
トルソーに着せられたものだけでなく、ふわりと宙に浮かぶように吊り下げられた生地もあって、レースとサテンが光を弾き、部屋全体が柔らかな白に染まっていた。
机の上には、生地見本やレースのサンプル、小さな刺繍見本が整然と並び、ヴァルブルガがそれらを片端から吟味している。
「この刺繍は少しうるさいですわね。花嫁本来の美しさを殺してしまうわ」
手に取ったサンプルをあっさりと脇に退け、別のレースへと指を伸ばす。
その隣で、アランは静かに控えていた。
淡いブルーグレーのローブに、腹部のあたりをゆったりさせたドレス。
懐妊のために選ばれた控えめな装いだが、翡翠色の瞳と黒髪が相まって、彼女自身はどんな場にいても目を引いた。
そこに、もう一人、白が似合う女がいる。
クラリッサ・ブラックバーン。
ブラック家の遠縁の娘であり、ローランド・フロストの婚約者。
蜂蜜を溶かしたような明るい栗色の髪を肩のあたりでまとめ、薄い藤色のローブを纏った若い女。
アランほど飛び抜けた華やかさではないが、柔らかな笑みと育ちの良さを感じさせる立ち居振る舞いが、とても「花嫁らしい」空気を纏わせていた。
ローランドは、その少し後ろに控えていた。
淡い髪をきちんと撫でつけ、青い瞳を穏やかに保とうとしている。
彼の視線が、ドレスとクラリッサと、その合間に立つアランを行き来していることを、アランは見ていないふりをした。
「本日はお招きいただきまして、誠にありがとうございます、オリオン卿、ヴァルブルガ様」
クラリッサが姿勢よく頭を下げると、ヴァルブルガは満足げに頷いた。
「よく来てくださいましたわ。ブラック家の親族として、相応しい晴れ姿を整えるのは当然の務めですもの。
ねえ、アラン」
「はい、ヴァルブルガ様」
名を呼ばれ、アランも微笑みを浮かべる。
「クラリッサ様、とてもお似合いになりそうなドレスが揃っております。ご一緒に選ばせていただければ光栄です」
丁寧な口調は、まるでよく訓練された楽器のように淀みがない。
そのなめらかさの裏で、喉の奥はひどく乾いていた。
ドレスメーカーの指示で、一着目のドレスがクラリッサの身体に合わせられていく。
純白のサテンに、胸元と裾にだけ繊細なレースが施された、比較的シンプルな一着。
クラリッサが試着室から出てきた瞬間、広間の空気が少しふわりと温度を変えた。
若い花嫁らしいあどけなさと、これから家庭を築いていく女としての気配。
その両方が、白い生地に包まれて柔らかく浮かび上がる。
「まあ……」
ヴァルブルガが目を細めた。
「悪くありませんわね。クラリッサの雰囲気にはよく似合っていると思います」
呼びかけられる前に、アンケートアランは自然と一歩前へ出た。
「とても、お似合いです。ラインがとても綺麗で——背中のカットも、クラリッサ様の雰囲気を引き立てていると思います」
表情を崩さずにそう告げると、クラリッサは頬を少しだけ赤らめた。
「ありがとうございます、ブラック夫人……いえ、アラン様」
控えめに言い直し、微笑む。
その笑顔には、嫉妬や警戒は微塵もなかった。
ただ、ブラック家の正妻として、自分のドレスを見立ててくれる女への素直な信頼と敬意だけがあった。
ふと、クラリッサがアランに正面から向き直る。
「それから……先に申し上げるべきでしたのに。
ご懐妊のお話、伺いました。おめでとうございます、アラン様」
柔らかな声で告げられた祝辞に、アランの瞳が瞬きを一つ挟んだ。
隣で、ローランドもわずかに姿勢を正す。
「こちらからも、改めて。
ブラック夫人、ご懐妊おめでとうございます」
丁寧で、よく通る声。
かつて「アラン」と呼んでくれていたその口から、形式に則った呼び名が発せられるたび、胸の奥のどこかが静かに軋んだ。
アランは、胸の前でそっと手を組み、微笑みをたたえた表情のまま頭を下げた。
「……ありがとうございます、クラリッサ様、フロスト殿」
礼儀として完璧な返答。
言葉には、祝辞を受ける者としての感謝しか乗せない。
けれど、胸の内側では、全く別のものがきつく膨らんでいく。
——「おめでとう」と言葉をくれるのが、この二人であること。
自分の腹に宿る子は、レギュラス・ブラックとの子であり、ブラック家の跡継ぎとして祝福されている。
一方で、目の前の女が身にまとう白は、ローランドが新たに築く家庭の象徴だ。
かつて互いの未来を語り合った時には想像もしなかった組み合わせが、目の前で当たり前の顔をして並んでいる。
胸の奥が、じわりと締め付けられた。
「アランも、身体には気をつけるのよ」
ヴァルブルガが横から口を挟んでくる。
「今は無理をしてはいけませんわ。クラリッサのドレス選びだって、座って見ているだけでも構わなくてよ」
「大丈夫です、ヴァルブルガ様。体調は良好ですので」
アランは、また穏やかに微笑んだ。
一見すれば、何も乱れていない。
だが、トルソーにかかった別のドレスに視線を移したとき、その睫毛の影がかすかに揺れた。
クラリッサが再び鏡の方へ向き、ドレスの裾や袖のラインを確認する。
ローランドは、その姿を静かに見つめていた。
その横顔には、複雑な感情を読み取ることはできない。
ただ、丁寧に、きちんと、婚約者を見守ろうとする誠実さだけが滲んでいた。
それが、なおさらアランの胸を締め付ける。
——自分も、かつてはあの視線を向けられていたのだ。
セシール家の庭で、研究室の片すみに並んだ試験管の前で、書斎の窓際で。
ローランドはいつも、真っ直ぐにアランを見てくれていた。
今、その視線は別の女の白に向いている。
二着目、三着目と、ドレスが次々と試されていく。
レースの密度が変わり、袖の長さが変わり、背中の開き具合、トレーンの長さが変わるたび、ヴァルブルガは容赦なくコメントを添えた。
「そのレースは可愛らしすぎますわ。クラリッサの顔立ちには、もう少し品のある意匠が似合うと思いませんこと?」
「こちらは布地の光沢が少し安っぽいですね。ブラック家の親族としては物足りませんわ」
アランもまた、求められれば静かに意見を述べる。
「こちらの方が、クラリッサ様のお肌の色が明るく見える気がいたします」
「トレーンの長さは、もう少し短い方が動きやすく、式のあとのご挨拶のときなども安心かと存じます」
一つ一つ、言葉を選びながら。
誰よりも冷静なふりをして。
ローランドは、その様子を黙って見ていた。
視線が、クラリッサとアランの間を揺れ動く瞬間が何度かあったが、決して長くは留まらない。
アランの方へ視線が触れるたび、彼は自らそれを切り離すように、次のドレスへと目を移していく。
そのさりげなさが、むしろ明確すぎた。
——線を引いているのだ、と。
四着目のドレスを身にまとったクラリッサが、鏡の前でくるりと一回転した。
柔らかなチュールが幾重にも重なり、裾がふわりと広がる。
胸元のレースは繊細だが主張しすぎず、腰の辺りでキュッと絞られたラインが、彼女の華奢な体をすらりと見せている。
「これ……とても素敵ですわ」
クラリッサが、思わず口元を緩ませる。
ヴァルブルガも、満足げに頷いた。
「ようやく出ましたわね。わたくしも、これが一番よいと思います」
「アラン」
ヴァルブルガに促されるように、アランも一歩前に出た。
クラリッサの姿を、正面から見つめる。
鏡の向こうには、白いドレスを着た花嫁と、その後ろに立つローランド。
その並びが、あまりにも自然だった。
「……とても、お似合いです。クラリッサ様」
声はかすかに柔らかくなった。
「レースの配置も、ラインも、クラリッサ様の雰囲気に一番よく合っていると思います。
きっと、フロスト様もそう感じられるのではないでしょうか」
そう言いながら、ローランドの方へ視線を向けることはしない。
ドレスの裾とレースの模様だけを見つめる。
ローランドが、静かに息を吸った気配がした。
「……はい。
とても、よく似合っていると思います」
その返答に、クラリッサの瞳が嬉しそうに揺れる。
アランは、自分の胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われながらも、笑みを崩さなかった。
「では、これで決まりですわね」
ヴァルブルガがそう締めくくり、ドレスメーカーに向かって細かな調整の指示を出し始める。
肩のライン、裾の長さ、ヴェールのデザイン。
話が細部へと移っていく間、アランは少し離れた位置に下がった。
クラリッサとローランドの輪郭を視界の端に留めたまま、静かに手を組む。
懐妊した腹部に意識を向けると、そこだけが現実の手触りを持っていた。
自分はブラック家の妻で、ブラック家の跡継ぎを宿している。
ローランドは、ブラック家の親族として別の家族を築こうとしている。
その事実は、誰の目から見ても筋が通っていて、美しく整っている。
——だからこそ、苦しかった。
胸の中心が静かに締め付けられ続ける。
それでも、顔には決して出さない。
アランは、レースとサテンに包まれた花嫁の姿を見届けながら、息をゆっくりと整えた。
「本当に……おめでとうございます、クラリッサ様、フロスト殿」
改めて口にした祝福の言葉は、完璧に磨かれた礼儀そのものだった。
その滑らかさの裏で、心だけが薄く血をにじませていることを、誰も知らない。
ただ一人、廊下の向こうでこの情景を思い浮かべているであろう男を除いて——レギュラス・ブラックだけを。
広間でのドレス選びがひと段落し、ドレスメーカーたちが採寸や調整の手配に動き始めたころだった。
アランはヴァルブルガとクラリッサの輪から一歩下がり、少し離れた場所で静かに立っていた。
光を柔らかく受けるブルーグレーのローブに、わずかにふくらみを帯び始めた腹部。
その膨らみは、まだ衣服の陰に隠れて目立ちはしないが、ローランドには、そこに確かに「何か」が宿っていることが嫌でも伝わってきた。
全てが終わって、ヴァルブルガがクラリッサに別の話題を振り、ドレスメーカーを連れて別の部屋へ移っていく。
広間の空気が、ほんの少しだけ緩む。
ローランドは、そのわずかな隙を逃さなかった。
「——ブラック夫人」
名を呼ぶ声は、いつも通り丁寧に整えられていた。
アランが振り向く。
翡翠の瞳が、かつて自分をまっすぐに見上げていた頃と同じ色をしていることに、胸の奥で何かが軋んだ。
「フロスト殿」
今はもう、互いの名を気安く呼び合うことはできない。
礼儀の衣をかぶせた呼び名が、二人の間に薄い壁のように立っていた。
「本日は、クラリッサのためにありがとうございます」
ローランドは、一歩だけ距離を詰めて頭を下げた。
その仕草には、フロスト家の嫡男としての礼儀と、かつてアランに向けていた誠実さの両方が滲んでいる。
「夫人のおかげで、きっと彼女も自信を持って式の日を迎えられると思います」
アランは、かすかに微笑んだ。
「とんでもございません。……クラリッサ様の雰囲気が、とても素敵でしたから。
ただ、その美しさを邪魔しないものを選ばせていただいただけです」
「それでも、あなたがいてくれて良かった」
ローランドの言葉は、少しだけ熱を帯びていた。
それでも、線を越えないよう、慎重に温度を抑え込んでいるのが分かる。
視線が、自然とアランの腹部へと落ちてしまう。
意識していないふりをしても、目は正直だった。
ローブの布地の、ほんのわずかな膨らみ。
そこに触れたこともないのに、なぜか手のひらがじんと熱くなる。
この身体は、完全にレギュラス・ブラックのものになったのだと、今さら突きつけられる。
大切に、大切に触れてきた最愛の人の体。
傷つけないように、壊さないように、何度も確かめるように抱きしめてきた。
夜の触れ合いも、手探りで、お互いの歩幅を揃えながら積み重ねてきた。
その身体が今は、別の男の腕の中で、別の熱を受け入れている。
レギュラス・ブラックという、世界の中心をそのまま形にしたような男のものに。
魔法省の役員として、ブラック家の嫡男として、すべてを手にしている男のものに——完全に染まっている。
苦しさが、胸の底からじわりと込み上げた。
吐き出してしまえば、簡単に形になる。
それでも、ローランドは顔には出さない。声にも乗せない。
「ご体調のほどは、いかがですか」
その苦しさを押し込めたまま、いつもの調子で問いかける。
「……おかげさまで。大きな不調もなく、落ち着いております」
アランは少しだけ頬を緩めた。
社交の場で見せる笑みよりも、わずかに柔らかい気がした。
「医師もヒーラーも、今のところ問題はないと。
ご心配をおかけするほどでは、ありません」
「心配は……しますよ」
思わずこぼれた言葉に、ローランド自身がわずかに驚く。
それでも一度出たものは、戻せなかった。
「あなたは、いつだって自分のことを後回しにする方でしたから。
セシール卿の研究に付き合っていた頃も、身体を壊しかけていることに、最後の最後まで気づこうともしない」
柔らかい苦笑が、そこで添えられる。
「今は、あなた一人の身体ではないのですから。……どうか、本当に、ご自愛ください」
アランの睫毛が、かすかに震えた。
「……ありがとうございます、フロスト殿」
それ以上、余計なことは言わない。
言えないのだと、互いに理解していた。
早くも子を宿したのか、と、ほんの一瞬だけ思う。
あれほど早く、レギュラスとの子を身ごもることになるとは、想像していなかった。
想像することさえ避けていた。
だが同時に、別の感情も浮かび上がる。
きっと、アランに似た、可愛らしい子が生まれてくるのだろう。
翡翠色の瞳を持つのか。
それとも、レギュラスと同じ灰色を受け継ぐのか。
笑うと、どちらに似るのか。
歩き始めたとき、誰に最初の一歩を見せるのか。
それを考えると、喉が詰まるような痛みと同じくらいに、どうしようもない愛しさが込み上げる。
自分の子ではないと分かっているのに、アランが命を宿しているという事実そのものが、祝福したい気持ちを呼び起こしてしまう。
かつて、二人で生まれてくる子の名前を考えた夜があった。
セシール家の書斎で、父の研究の合間。
分厚い魔法薬の書物を机の端にどけ、広げたメモ用紙に、互いに好きな名前を書き合った。
男の子なら——
女の子なら——
意味を調べ、綴りを確かめ、家系に伝わる名との響きを合わせる。
ひとつひとつ、未来を積み木のように積み上げていくような、甘い時間だった。
その紙は、今もどこかに残っているのだろうか。
それとも、アランがこの屋敷に来るときに燃やしてしまったのだろうか。
思い出した瞬間、胸が締め付けられそうになった。
「フロスト殿」
アランが、静かに名を呼ぶ。
「……本当に、クラリッサ様とお似合いだと思います。
先ほどのドレスも、とても美しかったです」
ローランドは、その言葉に微笑みを返すしかなかった。
「ありがとうございます」
それしか言えない。
それ以上の言葉を許せば、過去が雪崩のように溢れ出してしまう。
「あなたが選んでくれたドレスなら、きっと彼女も心から誇りに思うでしょう」
それは、本心でもあった。
アランの感性が選んだ白いドレス。
自分の婚約者が、彼女の選んだ色とラインを纏って祭壇に立つ。
それは、残酷でありながら、救いでもあった。
完全に切り離されたわけではない。
どこかで、まだ繋がっているのだと、錯覚でもいいから思いたかった。
「……どうか、お身体を大事に」
言葉を重ねれば、どこかが崩れる予感がした。
だから、ローランドはそこで言葉を切った。
礼儀通り、丁寧に頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました。夫人」
アランも、同じように頭を下げる。
「こちらこそ、フロスト殿」
顔を上げたとき、互いの視線はほんの一瞬だけ触れ合った。
それは、かつて数え切れないほど交わした視線のうちの、たったひとつに過ぎない。
だが今、その一瞬が、あまりにも重かった。
ローランドは、心のどこかで叫び続けている思いを、喉の奥で押し潰すように飲み込み、背を向けた。
クラリッサが待つ方向へ、一歩、また一歩と歩いていく。
セシール家の庭で未来の名を囁き合った青年は、もういない。
代わりにそこに立っているのは、ブラック家と結びつくフロスト家の後継として、正しい道を歩く男だった。
アランは、その背中が扉の向こうに消えるまで、ただ静かに見送った。
胸の中心を締め付ける痛みを、丁寧に、丁寧に、表情の下に隠しながら。
その夜のブラック家の食堂は、昼間の豪奢さとは違う、どこか親密な静けさに包まれていた。
長いテーブルの半分だけにクロスがかけられ、燭台の数も抑えられている。
高い天井から垂れ下がるシャンデリアは灯りを落とされ、代わりに卓上の蝋燭がいくつも並び、小さな炎が金の縁取りを照らしていた。
夜食と呼ぶには少し整いすぎた食卓。
温かな野菜のポタージュに、薄く焼いた白いパン、軽く炙ったチーズとハム、ハーブを浮かべたお茶。
懐妊中のアランに負担が少ないよう考慮されているのが、皿の彩りからも伝わってくる。
テーブルには三人だけ。
オリオンはすでに自室へ引き上げており、今ここにいるのはレギュラスとヴァルブルガ、そしてアランだけだった。
アランは、いつものようにテーブルの端に近い席に腰を下ろしていた。
妊娠による疲れのせいか、頬にはかすかな影が差しているが、その姿勢は崩れない。
白い手が、スープ皿の縁にそっと添えられていた。
レギュラスは、彼女の斜め向かい。
背もたれに深くはもたれず、肘をテーブルにはつかない、完璧な姿勢で椅子に座っている。
蝋燭の灯りに照らされた横顔は、相変わらず整いすぎていて、感情の影を読み取るのは難しかった。
「今日は、いかがでした?」
軽くスープを口に運んでから、レギュラスが何気ない調子で口を開いた。
「クラリッサ嬢のドレスを選んだのでしょう?」
その一言で、昼間の広間の光景が一気に甦る。
クラリッサの白いドレス。
鏡の中で並んだ、花嫁とローランドの姿。
祝福の言葉と、自分の口から発せられた「お似合いです」という台詞。
アランは、無意識にスプーンを持つ手を止めた。
胸の奥がきゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
それを悟られないように、一度、深く息を吸い込んだ。
「……ヴァルブルガ様に、たくさんご助言をいただきながら、選ばせていただきました」
整った返答を探り当て、吐息とともに押し出す。
声は震えていない。
それでも、自分の耳には、ほんの少しだけ乾いて聞こえた。
「あら、レギュラス。とても楽しかったのよ」
ヴァルブルガが、すぐに上機嫌で言葉を継いだ。
「クラリッサも、思ったよりずっと愛らしい娘でね。最初は緊張していたけれど、鏡の中の自分の姿を見ているうちに、頬がどんどん紅くなっていったの。
あのドレスに決めたときの顔なんて、本当に……」
そこで一度言葉を切り、満足げに笑みを浮かべる。
「花嫁らしい表情だったわ」
レギュラスは、穏やかに頷いた。
「それは何よりです。フロスト殿も、満足そうでしたか?」
問われて、アランの胸がまた小さく跳ねる。
——見ていた。
見てしまっていた。
クラリッサを見つめるローランドの横顔を。
アランは、視線をスープ皿の表面に落とした。
「……ええ。
とても、喜ばれているご様子でした」
その言葉は嘘ではない。
ただ、その喜びを見て胸が痛んだという事実だけを、丁寧に塗りつぶしている。
「フロスト殿とクラリッサ嬢から、祝福の言葉をいただいております」
アランは、自分でも驚くほど静かな声で続けた。
「わたくしの懐妊について……
『本当におめでとうございます』と。お身体を大切に、とも」
そこで、一度言葉が途切れる。
ローランドの声が、耳の奥で蘇る。
かつて「アラン」と呼んでくれた声が、今は距離を置いた敬称で、丁寧に、礼儀を守りながら、自分の身を案じてくれる。
祝福してくれたことが嬉しくないわけではない。
ただ、その祝福が向けられている先が、自分と——レギュラス・ブラックとの子であるという現実が、身体の内側を静かに削っていく。
「そう」
レギュラスが、短く頷いた。
「礼儀をわきまえた人たちですね」
口調には、揶揄も侮蔑も含まれていない。
ただ、事実を確認するような淡々とした声。
それがかえって、アランの心をざわつかせた。
「アランも、きちんとお礼を言えたのね?」
ヴァルブルガが、どこか誇らしげに問いかける。
「はい。ブラック家の妻として、恥じぬように」
アランは、かすかに微笑みを浮かべながら答えた。
「クラリッサ様のドレスも、本当にお似合いで……。
フロスト殿も、『あなたが選んでくれてよかった』と仰っておりました」
その時のローランドの表情を思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。
一瞬だけ、あの青い瞳が自分の方をまっすぐに向いた。
すぐに視線を逸らされたとしても、その一瞬は、かつて無数に交わした眼差しの欠片を呼び起こすのに十分だった。
——元気で。
——幸せになって。
言葉にならなかった言葉たちが、胸の奥でざわめく。
スープの湯気に紛れて、微かな痛みが立ち昇るようだった。
「それは良かった」
レギュラスは、穏やかな顔のままスプーンを置いた。
「僕の目から見ても、フロスト殿は誠実な青年です。
彼の花嫁となる女性が、ブラック家の庇護のもと、ふさわしい衣装を纏えることは、互いにとって良いことですよ」
言葉だけを聞けば、完璧に整った評価と配慮だった。
アランは、反射的に頷く。
「……はい」
「それに、あなたの選んだドレスなら、間違いはないでしょう」
レギュラスは、さらりと言葉を重ねた。
「僕の妻は、美しいものを見る目がありますからね」
その視線が、一瞬だけアランの腹部に落ちる。
そこには、まだ形の見えない未来が宿っている。
——かつてローランドと共に探した未来の名前ではない、別の未来。
ヴァルブルガが、パンを小さくちぎりながら機嫌よく笑った。
「それにしても、今年の冬はおめでたい話が重なりますわね。
レギュラスの結婚に、アランの懐妊に、フロスト家の婚礼。
ブラックの名が、あちらこちらで囁かれていることでしょう」
「光栄なことです」
レギュラスは、当然のように答える。
「僕たちの周りが賑やかになるのは、悪いことではありません。
それに——」
そこで、ちらりとアランに視線を向けた。
「あなたも、そう思いませんか、アラン」
問いかけの形を取りながら、その実「そうだ」と言わせるための言葉。
アランは、喉の奥にしがみついていた感情を、もう一度飲み込み直した。
「……はい。
ブラック家にとっても、セシール家にとっても、良い流れだと思います」
それが、自分の選んだ道の結果なのだと、改めて言葉にして確認するように。
夜食の皿が少しずつ空になっていく。
アランは、いつもよりゆっくりとした速度でスープを口に運んでいた。
味は十分に整えられているのに、舌に残るのは、どこか金属めいた味だった。
レギュラスは、そんな様子を横目で見ながら、表情を崩さない。
——昼間、自分が仕掛けた盤面の上で、アランがどんな表情を浮かべたのか。
——ローランドが、どんな声で祝福の言葉を告げたのか。
彼は、アランの口からその断片を引き出しながら、自分の頭の中で情景を補い、静かに味わっていた。
自分の手で傷つけ、自分の席で「報告させる」。
そして、その同じ席で、何事もなかったかのように妻としての返答を求める。
その構図は、彼の優越感をゆるやかに満たしていく。
夜食が終わりに近づくころ、ヴァルブルガが椅子を引いた。
「そろそろ休みましょうか。アラン、無理をしてはいけませんわよ」
「はい。ありがとうございます、ヴァルブルガ様」
アランが立ち上がる。
レギュラスも椅子から立ち上がり、さりげなくその椅子を引いてやった。
「部屋まで送りますよ」
「……大丈夫です。レギュラスも、お仕事がおありでしょうから」
「仕事なら、あとでいくらでもできます」
少しだけ声のトーンを落とし、彼は微笑む。
「妻を部屋まで送るくらいの時間は、惜しくありませんよ」
その言葉は、夫としての当たり前の気遣いのように響いた。
アランは、逃げ場のないその優しさに、小さく息を呑みながら、かろうじて頷いた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
夜の食堂をあとにして、二人は並んで歩き出す。
レギュラスにとっては、完璧に整えた盤面の上で、駒が予定通り動いた一日の締めくくり。
アランにとっては、胸を締め付けられながらも、選んだ道から目を逸らさないよう必死に歩き続ける一日の終わり。
蝋燭の炎が、二人の背中を、揺らめく影として静かに見送っていた。
アランの部屋の扉は、ノックの音を待たずに静かに開いた。
夜のブラック家は、廊下の燭台も数を減らされ、柔らかな光だけが石壁を照らしている。
その淡い灯りを背負うようにして、レギュラスが部屋へ足を踏み入れた。
「失礼します」
形式的な言葉とは裏腹に、その動きにはためらいがない。
この部屋の主が誰であるか、その女がどれほどこの部屋を「避難場所」に仕立てても、最終的にここへ入る許可を持っているのは自分だ——その確信が、彼の所作を自然と支配していた。
アランは、窓際の椅子から立ち上がったところだった。
薄手のナイトドレスの上に、肩を包むためだけの軽いショールを羽織っている。
灯されたランプが、翡翠色の瞳に小さな光を落とした。
「レギュラス」
名を呼ぶ声は、以前よりも落ち着いていた。
動揺はある。けれど、扉が開いた瞬間に全身を強張らせていた頃のような、目に見える拒絶はもはやない。
レギュラスは扉を閉めると、鍵には触れずにそのまま真っ直ぐアランへ歩み寄った。
どんな用件を告げるのか。
何を話すのか。
——そういった前置きは、今夜は不要だと決めていた。
彼女の前に立つと、アランの方がわずかに顎を引いた。
視線は自然と上向きになり、距離は一歩分。
逃げるでもなく、引き寄せを待つでもなく、「これから起こること」をある程度察した人間の距離だった。
その様子に、レギュラスの口元がゆるやかに歪む。
「……ずいぶんと、自然になりましたね」
低く落とされた声が、ふっと彼女の耳に触れる。
アランが瞬きを一つ。
何を指しているのか、分からないふりをしようとして——やめたように、そっと睫毛を伏せた。
レギュラスは、その一瞬の迷いを逃さない。
「こちらが何をしようとしているのか。
察して、受け入れる準備をしてくださるようになった」
そう言いながら、彼はアランの頬へ手を伸ばした。
細い顎の線を指先でなぞり、親指で唇の端に触れる。
かつてなら、その瞬間に肩が跳ね、身を引こうとしただろう。
ナイトドレスの上からショールを固く結び、胸元を守ろうとしたはずだ。
けれど今、アランはわずかに喉を鳴らしただけで、逃げなかった。
胸の奥に走る緊張は、消えたわけではない。
ただ、それでも「拒む」選択を取らなくなったというだけだ。
レギュラスは、手に伝わる温度を確かめるように頬を包み込むと、そのまま躊躇なく唇を重ねた。
柔らかく触れるだけのキスではない。
最初から、受け取るべきものが決まっているような、自然な動き。
アランの身体が、わずかにこわばり、すぐに解ける。
以前なら驚きに満ちていた呼吸が、今は最初から乱れる覚悟をしているような、浅く整えられた息になっていた。
——いい変化だ、とレギュラスは思う。
寝室を別にと訴え、扉一枚を盾に必死で境界線を引いていた頃。
頑なに身体を丸め、触れられるたびに涙ぐんでいた頃。
その「拒む」ための力が、今はもうどこにもない。
唇を離すと、アランの睫毛にはわずかに湿りが宿っていたが、それは恐怖ではなく、ただの動揺と戸惑いの色だった。
「……レギュラス」
呼ばれた名が、以前よりもほんの少しだけ近く、柔らかく響く。
その変化が、何よりの証拠だ。
「場数を踏んだ成果ですね」
彼は、くすりと笑うように呟いた。
「いいことです。
僕の妻が、僕のすることを理解して、受け入れてくださるというのは」
言葉だけを抜き出せば、夫婦の親密さを喜ぶ当たり前の台詞だった。
けれど、その奥底には「仕上がり具合」を品定めするような冷静さが潜んでいる。
——何度も抱き、何度も触れ、何度も名前を呼んできた。
初めてこの身体を手に入れた夜から、いくつもの夜を重ねた。
反発も戸惑いも、罪悪感も後悔も、その都度塗り重ねるように、別の感覚で上書きしてきた。
その結果が、いま目の前にいる女だ。
強張りが消え、拒絶が薄れ、キスをすれば自然とまぶたが閉じるようになった女。
レギュラスは、満足感にも似た静かな熱を胸の内側に抱いた。
アランは、彼の言葉にかすかに眉を寄せた。
「……慣れてしまっただけかもしれません」
自嘲のような響きが混じる。
「レギュラスの、されることに」
それが肯定なのか否定なのか、自分でも測りかねているような口ぶりだった。
レギュラスは、その言葉を否定しなかった。
「慣れるのは悪いことではありませんよ」
指先で彼女の耳の後ろの髪を梳きながら、淡々と続ける。
「あなたは、ブラック家の妻です。
僕と生きていくのですから、僕に——僕のすることに慣れていただくのは、ね」
その「ね」は、問いではなく確認に近い。
答えが決まっている質問を、あえて形だけ投げかけている。
アランは、視線をレギュラスの胸元に落とし、ほんの少しだけ頷いた。
「……はい」
かつて、寝室を別にと懇願していた女の口から出る「はい」。
それは、彼にとって甘い酒のようだった。
長い廊下の壁にかけられた燭台には、必要最低限の灯りだけがともされ、黄金色の炎が石壁に揺れる影を描いている。
足音を立てないように歩けば、ここが本当に巨大な屋敷なのか疑わしくなるほどの沈黙だ。
そのなかを、レギュラスはゆっくりと進んでいた。
向かう先は、アラン・ブラックに与えられた部屋。
彼女の小さな砦。
今夜、その砦の中でどんな顔をしているのかは、想像するまでもない。
——きっと落ち込んでいるだろう。
——きっと、胸を締め付けられているだろう。
原因は、紛れもなく自分だ。
ローランド・フロストの婚約に伴う花嫁の衣装選びを、ヴァルブルガとともにと「提案」したのは、他ならぬ自分なのだから。
それでも、いや——だからこそ。
その落ち込みに対して「慰める」という形をとることで、満たされるものがあった。
自分の手で傷つけ、自分の腕で抱き寄せる。
それは、レギュラスにとってひどく本能に沿った行為だった。
アランの部屋の前に立つと、扉の向こうからは何の気配も聞こえなかった。
笑い声も、話し声もない。
ページをめくる音さえしない。
レギュラスは一度だけ軽くノックした。
「アラン」
呼びかける声は、日中のサロンで使っていたものよりも少し柔らかい。
返事はすぐには返ってこない。
間を置いて、かすかな声が扉の向こうから響いた。
「……はい」
それは「どうぞ」との許可に等しかった。
レギュラスは、躊躇なく扉を開ける。
部屋の中は、ランプが一つだけ灯されていた。
淡い光が、壁紙とカーテンと寝台をぼんやりと照らしている。
アランは窓際の椅子に座っていた。
カーテンは閉じられ、外の夜空は見えない。
膝の上には開きかけたままの本が載っているが、視線はそこには落ちておらず、どこか遠いところを見つめていた。
レギュラスが入ってきたことに気づき、彼女は慌てて立ち上がる。
「レギュラス……」
その声音には、疲労と戸惑いが微かに混じっている。
紅茶もお茶菓子もこの部屋には用意されていない。ただ、静けさだけが満ちていた。
「こんな時間に、申し訳ありません」
形式的な言葉を口にしながら、レギュラスは部屋を一瞥した。
セシール家から持ち込んだものたち。
ローランドとの過去を思い出させる品々も、きちんと整えられている。
——この小さな要塞の中で、今夜どれほど心を擦り減らしたか。
想像すると、胸の奥に甘いものが広がった。
「少し、話をしてもいいですか?」
言葉の形こそ「問い」だが、レギュラスはすでに部屋の奥へと足を進めていた。
拒否する猶予など、最初から与えていない。
「もちろんです」とアランは答えるほかない。
レギュラスは窓際の椅子に腰を下ろすよう手で示し、自分はその正面に立った。
彼女が戸惑いながらも再び腰を下ろすと、自然と視線の高さが違ってくる。
見下ろす形になるのは、嫌いではなかった。
「今日は、少し酷な提案をしてしまいました」
レギュラスは、静かに切り出した。
「……いえ」
アランは、反射的に否定する。
だが、その声は弱々しかった。
「ブラック家の一員として当然のことだと、わたくし——」
「無理をして肯定しなくていいですよ」
言葉を遮るように、レギュラスは穏やかな声で言った。
その穏やかさは、逆に逃げ場を狭める。
「フロスト殿の婚約。
その花嫁の衣装を、あなたと母で選ぶなどという話が、全く平気だなんて……さすがに僕も思ってはいません」
アランが、はっと息を呑むような気配を見せた。
図星をつかれたとき、人は顔色を変える。
その変化を見るのが、レギュラスは嫌いではなかった。
レギュラスは、一歩だけ彼女に近づいた。
姿勢を崩すかわりに、声色をさらに柔らげる。
「辛かったでしょう?」
たったそれだけの問いが、アランの胸を簡単に貫く。
否定したくても、できない。
肯定したくても、言葉にならない。
翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
視線を彷徨わせるように、彼女は本の上に置いていた指先を少しだけ握り込む。
「……わたしの、選んだ道ですから」
しばらく沈黙が流れたあと、アランはそう答えた。
「レギュラスとの婚姻を受け入れたのは、わたしで……
その結果として、ロー……フロスト殿が別の方と結ばれるのも……当然のことです」
言葉を選ぶたびに、喉の奥で何かを飲み込んでいる。
「ローランド」と言いそうになって「フロスト殿」と言い換えるそのぎこちなさが、レギュラスにはひどく愉快だった。
「だから、あれくらいの務めを果たせないようでは——」
「真面目ですね、あなたは」
自分を責める方向に舵を切ろうとするアランの言葉を、レギュラスはあっさり遮る。
「自分で自分を罰する必要はありませんよ」
そう言いながら、彼は椅子の背もたれに片手を添え、身を屈めてアランの視線の高さに合わせた。
間近で見る翡翠の瞳は、やはり宝石のように美しい。
曇らせたところで、その美しさは損なわれない。むしろ、陰りが増すほど魅力を増していく。
「僕がああしたのは、あなたを苦しめるためではありません」
言葉だけを取り出せば、優しい夫の弁解だった。
「フロスト殿は、これからブラック家の親族として生きていくことになる。
その彼の花嫁に、ブラック家としてどれほどの敬意を払うかを示せる、絶好の機会でもある」
すべて正論だった。
政治的にも社交的にも筋が通っている。
けれど、その裏でどんな愉悦を抱いているかは、決して口にしない。
「そして——」
レギュラスは、わざと一拍置いた。
「あなたがそれを務めてくれれば、フロスト殿も、きっと救われると思ったのです」
アランの肩が、かすかに震えた。
「……救われる?」
「ええ」
レギュラスは、優しく微笑む。
「かつてあなたを愛した男が、自分の花嫁のドレスを、あなたの手が選んだと知れば。
彼は、きっとそれを誇りに思うでしょう」
残酷な言葉を、あまりにも穏やかに紡ぐ。
「完全に失うわけではない、と。
あなたとの繋がりが、どこかに残っているのだと。
そう思えば——あの誠実な青年は、きっと前を向きやすくなる」
レギュラスの声は、どこまでも理路整然としていた。
善意の形をした棘だと分かっていても、外す術はない。
アランは唇を噛みしめ、視線を落とす。
ローランドの顔が浮かぶ。
自分より先に言葉を飲み込み、譲ってしまう彼の姿が。
「責めることはできない」と言った彼。
「元気で」と、距離を置きながらも優しく送り出した彼。
——あの人なら、きっと。
レギュラスの言う通り、「自分の花嫁のために」と、笑ってそのドレスを受け入れてしまうのだろう。
その想像が、かえって胸を痛める。
「……私に、務まるでしょうか」
二度目の問いは、先ほどよりもずっと弱かった。
レギュラスは、そこでようやくそっと手を伸ばした。
アランの肩に、指先が触れる。
「務まりますよ」
低く、確信に満ちた声。
「あなたは、僕の妻ですから」
その一言が、すべての決定事項だった。
アランは、もうそれ以上反論しなかった。
代わりに、細く息を吐き出す。
「……あなたは、残酷です」
かろうじて紡いだ言葉に、レギュラスは目を細めた。
「そうでしょうか」
否定はしなかった。
ただ、肩に置いた手に少しだけ力を込める。
「僕はただ、あなたにしかできない役をお願いしただけですよ」
アランが、ゆっくりと顔を上げる。
その翡翠の瞳には、怒りとも悲しみとも言い切れない感情が渦巻いている。
それを正面から受け止めながら、レギュラスは穏やかな顔を崩さなかった。
「……辛いときは、辛いと言ってもいいのですよ」
ささやくように続ける。
「僕の前では、強がらなくてもいい」
——自分で追い込んでおいて、よく言うものだ、とどこかで冷静に理解しながら。
その矛盾すら、レギュラスにとっては一つの遊戯だった。
アランは、言葉のかわりに視線を伏せた。
肩を伝うレギュラスの体温だけが、妙に鮮明に感じられる。
「レギュラスが……そう仰るのが、一番残酷です」
かすかな声で、そう零した。
自分を追い詰めた張本人が、「辛いなら言っていい」と優しく告げる。
それは慰めであると同時に、逃げ場を封じる巧妙な罠だった。
レギュラスは、その言葉を聞いて、薄く笑みを深める。
「そうですか?」
小さく呟いたあと、彼はそっとアランを抱き寄せた。
急激ではない、拒絶する隙を与えない、静かな動作で。
アランの頭が、彼の胸元に触れる。
耳元で、規則正しい心音が聞こえた。
「今は、何も考えなくていいですよ」
昼間、彼女が自分の腕の中に沈んだ夜に告げた言葉とよく似た響き。
「ドレスのことも、フロスト殿のことも。
すべて終わってから考えればいい」
終わるまでは、ただレギュラスの決めた枠の中で動けばいい——そう告げているのと同じだった。
アランの背中に回した手に、わずかな震えが伝わる。
それが涙なのか、悔しさなのか、諦めなのか。
きっと全部だろうと、レギュラスは推測した。
自分で仕組んだことだ。
それなのに「慰める」という形をとることで、胸の底に得体の知れない満足感が満ちていく。
自分の手で傷つけ、自分の腕の中で支える。
離れられないように、絡め取っていく。
その構図が、たまらなく心地よい。
「あなたは、よくやっていますよ、アラン」
耳元で囁くように言う。
「ブラックの妻としても、セシール家の娘としても」
アランの指先が、レギュラスの衣服の端をそっと掴んだ。
それが求めているのが安定なのか、それとも逃げ場なのかは、もはや彼女自身にも分からない。
ただ一つ確かなのは——。
この夜、アランの落ち込みを生み出した原因も、
その落ち込みを「慰める」役を演じている男も、
どちらも同じ名を持つということだけだった。
レギュラス・ブラック。
彼は妻の髪を静かになでながら、その矛盾の中心に立っている自分を、心から愉しんでいた。
ブラック家の広間は、いつも以上に白と金に満ちていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアの下、ドレスメーカーが用意してきたウェディングドレスが幾着も並べられている。
トルソーに着せられたものだけでなく、ふわりと宙に浮かぶように吊り下げられた生地もあって、レースとサテンが光を弾き、部屋全体が柔らかな白に染まっていた。
机の上には、生地見本やレースのサンプル、小さな刺繍見本が整然と並び、ヴァルブルガがそれらを片端から吟味している。
「この刺繍は少しうるさいですわね。花嫁本来の美しさを殺してしまうわ」
手に取ったサンプルをあっさりと脇に退け、別のレースへと指を伸ばす。
その隣で、アランは静かに控えていた。
淡いブルーグレーのローブに、腹部のあたりをゆったりさせたドレス。
懐妊のために選ばれた控えめな装いだが、翡翠色の瞳と黒髪が相まって、彼女自身はどんな場にいても目を引いた。
そこに、もう一人、白が似合う女がいる。
クラリッサ・ブラックバーン。
ブラック家の遠縁の娘であり、ローランド・フロストの婚約者。
蜂蜜を溶かしたような明るい栗色の髪を肩のあたりでまとめ、薄い藤色のローブを纏った若い女。
アランほど飛び抜けた華やかさではないが、柔らかな笑みと育ちの良さを感じさせる立ち居振る舞いが、とても「花嫁らしい」空気を纏わせていた。
ローランドは、その少し後ろに控えていた。
淡い髪をきちんと撫でつけ、青い瞳を穏やかに保とうとしている。
彼の視線が、ドレスとクラリッサと、その合間に立つアランを行き来していることを、アランは見ていないふりをした。
「本日はお招きいただきまして、誠にありがとうございます、オリオン卿、ヴァルブルガ様」
クラリッサが姿勢よく頭を下げると、ヴァルブルガは満足げに頷いた。
「よく来てくださいましたわ。ブラック家の親族として、相応しい晴れ姿を整えるのは当然の務めですもの。
ねえ、アラン」
「はい、ヴァルブルガ様」
名を呼ばれ、アランも微笑みを浮かべる。
「クラリッサ様、とてもお似合いになりそうなドレスが揃っております。ご一緒に選ばせていただければ光栄です」
丁寧な口調は、まるでよく訓練された楽器のように淀みがない。
そのなめらかさの裏で、喉の奥はひどく乾いていた。
ドレスメーカーの指示で、一着目のドレスがクラリッサの身体に合わせられていく。
純白のサテンに、胸元と裾にだけ繊細なレースが施された、比較的シンプルな一着。
クラリッサが試着室から出てきた瞬間、広間の空気が少しふわりと温度を変えた。
若い花嫁らしいあどけなさと、これから家庭を築いていく女としての気配。
その両方が、白い生地に包まれて柔らかく浮かび上がる。
「まあ……」
ヴァルブルガが目を細めた。
「悪くありませんわね。クラリッサの雰囲気にはよく似合っていると思います」
呼びかけられる前に、アンケートアランは自然と一歩前へ出た。
「とても、お似合いです。ラインがとても綺麗で——背中のカットも、クラリッサ様の雰囲気を引き立てていると思います」
表情を崩さずにそう告げると、クラリッサは頬を少しだけ赤らめた。
「ありがとうございます、ブラック夫人……いえ、アラン様」
控えめに言い直し、微笑む。
その笑顔には、嫉妬や警戒は微塵もなかった。
ただ、ブラック家の正妻として、自分のドレスを見立ててくれる女への素直な信頼と敬意だけがあった。
ふと、クラリッサがアランに正面から向き直る。
「それから……先に申し上げるべきでしたのに。
ご懐妊のお話、伺いました。おめでとうございます、アラン様」
柔らかな声で告げられた祝辞に、アランの瞳が瞬きを一つ挟んだ。
隣で、ローランドもわずかに姿勢を正す。
「こちらからも、改めて。
ブラック夫人、ご懐妊おめでとうございます」
丁寧で、よく通る声。
かつて「アラン」と呼んでくれていたその口から、形式に則った呼び名が発せられるたび、胸の奥のどこかが静かに軋んだ。
アランは、胸の前でそっと手を組み、微笑みをたたえた表情のまま頭を下げた。
「……ありがとうございます、クラリッサ様、フロスト殿」
礼儀として完璧な返答。
言葉には、祝辞を受ける者としての感謝しか乗せない。
けれど、胸の内側では、全く別のものがきつく膨らんでいく。
——「おめでとう」と言葉をくれるのが、この二人であること。
自分の腹に宿る子は、レギュラス・ブラックとの子であり、ブラック家の跡継ぎとして祝福されている。
一方で、目の前の女が身にまとう白は、ローランドが新たに築く家庭の象徴だ。
かつて互いの未来を語り合った時には想像もしなかった組み合わせが、目の前で当たり前の顔をして並んでいる。
胸の奥が、じわりと締め付けられた。
「アランも、身体には気をつけるのよ」
ヴァルブルガが横から口を挟んでくる。
「今は無理をしてはいけませんわ。クラリッサのドレス選びだって、座って見ているだけでも構わなくてよ」
「大丈夫です、ヴァルブルガ様。体調は良好ですので」
アランは、また穏やかに微笑んだ。
一見すれば、何も乱れていない。
だが、トルソーにかかった別のドレスに視線を移したとき、その睫毛の影がかすかに揺れた。
クラリッサが再び鏡の方へ向き、ドレスの裾や袖のラインを確認する。
ローランドは、その姿を静かに見つめていた。
その横顔には、複雑な感情を読み取ることはできない。
ただ、丁寧に、きちんと、婚約者を見守ろうとする誠実さだけが滲んでいた。
それが、なおさらアランの胸を締め付ける。
——自分も、かつてはあの視線を向けられていたのだ。
セシール家の庭で、研究室の片すみに並んだ試験管の前で、書斎の窓際で。
ローランドはいつも、真っ直ぐにアランを見てくれていた。
今、その視線は別の女の白に向いている。
二着目、三着目と、ドレスが次々と試されていく。
レースの密度が変わり、袖の長さが変わり、背中の開き具合、トレーンの長さが変わるたび、ヴァルブルガは容赦なくコメントを添えた。
「そのレースは可愛らしすぎますわ。クラリッサの顔立ちには、もう少し品のある意匠が似合うと思いませんこと?」
「こちらは布地の光沢が少し安っぽいですね。ブラック家の親族としては物足りませんわ」
アランもまた、求められれば静かに意見を述べる。
「こちらの方が、クラリッサ様のお肌の色が明るく見える気がいたします」
「トレーンの長さは、もう少し短い方が動きやすく、式のあとのご挨拶のときなども安心かと存じます」
一つ一つ、言葉を選びながら。
誰よりも冷静なふりをして。
ローランドは、その様子を黙って見ていた。
視線が、クラリッサとアランの間を揺れ動く瞬間が何度かあったが、決して長くは留まらない。
アランの方へ視線が触れるたび、彼は自らそれを切り離すように、次のドレスへと目を移していく。
そのさりげなさが、むしろ明確すぎた。
——線を引いているのだ、と。
四着目のドレスを身にまとったクラリッサが、鏡の前でくるりと一回転した。
柔らかなチュールが幾重にも重なり、裾がふわりと広がる。
胸元のレースは繊細だが主張しすぎず、腰の辺りでキュッと絞られたラインが、彼女の華奢な体をすらりと見せている。
「これ……とても素敵ですわ」
クラリッサが、思わず口元を緩ませる。
ヴァルブルガも、満足げに頷いた。
「ようやく出ましたわね。わたくしも、これが一番よいと思います」
「アラン」
ヴァルブルガに促されるように、アランも一歩前に出た。
クラリッサの姿を、正面から見つめる。
鏡の向こうには、白いドレスを着た花嫁と、その後ろに立つローランド。
その並びが、あまりにも自然だった。
「……とても、お似合いです。クラリッサ様」
声はかすかに柔らかくなった。
「レースの配置も、ラインも、クラリッサ様の雰囲気に一番よく合っていると思います。
きっと、フロスト様もそう感じられるのではないでしょうか」
そう言いながら、ローランドの方へ視線を向けることはしない。
ドレスの裾とレースの模様だけを見つめる。
ローランドが、静かに息を吸った気配がした。
「……はい。
とても、よく似合っていると思います」
その返答に、クラリッサの瞳が嬉しそうに揺れる。
アランは、自分の胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われながらも、笑みを崩さなかった。
「では、これで決まりですわね」
ヴァルブルガがそう締めくくり、ドレスメーカーに向かって細かな調整の指示を出し始める。
肩のライン、裾の長さ、ヴェールのデザイン。
話が細部へと移っていく間、アランは少し離れた位置に下がった。
クラリッサとローランドの輪郭を視界の端に留めたまま、静かに手を組む。
懐妊した腹部に意識を向けると、そこだけが現実の手触りを持っていた。
自分はブラック家の妻で、ブラック家の跡継ぎを宿している。
ローランドは、ブラック家の親族として別の家族を築こうとしている。
その事実は、誰の目から見ても筋が通っていて、美しく整っている。
——だからこそ、苦しかった。
胸の中心が静かに締め付けられ続ける。
それでも、顔には決して出さない。
アランは、レースとサテンに包まれた花嫁の姿を見届けながら、息をゆっくりと整えた。
「本当に……おめでとうございます、クラリッサ様、フロスト殿」
改めて口にした祝福の言葉は、完璧に磨かれた礼儀そのものだった。
その滑らかさの裏で、心だけが薄く血をにじませていることを、誰も知らない。
ただ一人、廊下の向こうでこの情景を思い浮かべているであろう男を除いて——レギュラス・ブラックだけを。
広間でのドレス選びがひと段落し、ドレスメーカーたちが採寸や調整の手配に動き始めたころだった。
アランはヴァルブルガとクラリッサの輪から一歩下がり、少し離れた場所で静かに立っていた。
光を柔らかく受けるブルーグレーのローブに、わずかにふくらみを帯び始めた腹部。
その膨らみは、まだ衣服の陰に隠れて目立ちはしないが、ローランドには、そこに確かに「何か」が宿っていることが嫌でも伝わってきた。
全てが終わって、ヴァルブルガがクラリッサに別の話題を振り、ドレスメーカーを連れて別の部屋へ移っていく。
広間の空気が、ほんの少しだけ緩む。
ローランドは、そのわずかな隙を逃さなかった。
「——ブラック夫人」
名を呼ぶ声は、いつも通り丁寧に整えられていた。
アランが振り向く。
翡翠の瞳が、かつて自分をまっすぐに見上げていた頃と同じ色をしていることに、胸の奥で何かが軋んだ。
「フロスト殿」
今はもう、互いの名を気安く呼び合うことはできない。
礼儀の衣をかぶせた呼び名が、二人の間に薄い壁のように立っていた。
「本日は、クラリッサのためにありがとうございます」
ローランドは、一歩だけ距離を詰めて頭を下げた。
その仕草には、フロスト家の嫡男としての礼儀と、かつてアランに向けていた誠実さの両方が滲んでいる。
「夫人のおかげで、きっと彼女も自信を持って式の日を迎えられると思います」
アランは、かすかに微笑んだ。
「とんでもございません。……クラリッサ様の雰囲気が、とても素敵でしたから。
ただ、その美しさを邪魔しないものを選ばせていただいただけです」
「それでも、あなたがいてくれて良かった」
ローランドの言葉は、少しだけ熱を帯びていた。
それでも、線を越えないよう、慎重に温度を抑え込んでいるのが分かる。
視線が、自然とアランの腹部へと落ちてしまう。
意識していないふりをしても、目は正直だった。
ローブの布地の、ほんのわずかな膨らみ。
そこに触れたこともないのに、なぜか手のひらがじんと熱くなる。
この身体は、完全にレギュラス・ブラックのものになったのだと、今さら突きつけられる。
大切に、大切に触れてきた最愛の人の体。
傷つけないように、壊さないように、何度も確かめるように抱きしめてきた。
夜の触れ合いも、手探りで、お互いの歩幅を揃えながら積み重ねてきた。
その身体が今は、別の男の腕の中で、別の熱を受け入れている。
レギュラス・ブラックという、世界の中心をそのまま形にしたような男のものに。
魔法省の役員として、ブラック家の嫡男として、すべてを手にしている男のものに——完全に染まっている。
苦しさが、胸の底からじわりと込み上げた。
吐き出してしまえば、簡単に形になる。
それでも、ローランドは顔には出さない。声にも乗せない。
「ご体調のほどは、いかがですか」
その苦しさを押し込めたまま、いつもの調子で問いかける。
「……おかげさまで。大きな不調もなく、落ち着いております」
アランは少しだけ頬を緩めた。
社交の場で見せる笑みよりも、わずかに柔らかい気がした。
「医師もヒーラーも、今のところ問題はないと。
ご心配をおかけするほどでは、ありません」
「心配は……しますよ」
思わずこぼれた言葉に、ローランド自身がわずかに驚く。
それでも一度出たものは、戻せなかった。
「あなたは、いつだって自分のことを後回しにする方でしたから。
セシール卿の研究に付き合っていた頃も、身体を壊しかけていることに、最後の最後まで気づこうともしない」
柔らかい苦笑が、そこで添えられる。
「今は、あなた一人の身体ではないのですから。……どうか、本当に、ご自愛ください」
アランの睫毛が、かすかに震えた。
「……ありがとうございます、フロスト殿」
それ以上、余計なことは言わない。
言えないのだと、互いに理解していた。
早くも子を宿したのか、と、ほんの一瞬だけ思う。
あれほど早く、レギュラスとの子を身ごもることになるとは、想像していなかった。
想像することさえ避けていた。
だが同時に、別の感情も浮かび上がる。
きっと、アランに似た、可愛らしい子が生まれてくるのだろう。
翡翠色の瞳を持つのか。
それとも、レギュラスと同じ灰色を受け継ぐのか。
笑うと、どちらに似るのか。
歩き始めたとき、誰に最初の一歩を見せるのか。
それを考えると、喉が詰まるような痛みと同じくらいに、どうしようもない愛しさが込み上げる。
自分の子ではないと分かっているのに、アランが命を宿しているという事実そのものが、祝福したい気持ちを呼び起こしてしまう。
かつて、二人で生まれてくる子の名前を考えた夜があった。
セシール家の書斎で、父の研究の合間。
分厚い魔法薬の書物を机の端にどけ、広げたメモ用紙に、互いに好きな名前を書き合った。
男の子なら——
女の子なら——
意味を調べ、綴りを確かめ、家系に伝わる名との響きを合わせる。
ひとつひとつ、未来を積み木のように積み上げていくような、甘い時間だった。
その紙は、今もどこかに残っているのだろうか。
それとも、アランがこの屋敷に来るときに燃やしてしまったのだろうか。
思い出した瞬間、胸が締め付けられそうになった。
「フロスト殿」
アランが、静かに名を呼ぶ。
「……本当に、クラリッサ様とお似合いだと思います。
先ほどのドレスも、とても美しかったです」
ローランドは、その言葉に微笑みを返すしかなかった。
「ありがとうございます」
それしか言えない。
それ以上の言葉を許せば、過去が雪崩のように溢れ出してしまう。
「あなたが選んでくれたドレスなら、きっと彼女も心から誇りに思うでしょう」
それは、本心でもあった。
アランの感性が選んだ白いドレス。
自分の婚約者が、彼女の選んだ色とラインを纏って祭壇に立つ。
それは、残酷でありながら、救いでもあった。
完全に切り離されたわけではない。
どこかで、まだ繋がっているのだと、錯覚でもいいから思いたかった。
「……どうか、お身体を大事に」
言葉を重ねれば、どこかが崩れる予感がした。
だから、ローランドはそこで言葉を切った。
礼儀通り、丁寧に頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました。夫人」
アランも、同じように頭を下げる。
「こちらこそ、フロスト殿」
顔を上げたとき、互いの視線はほんの一瞬だけ触れ合った。
それは、かつて数え切れないほど交わした視線のうちの、たったひとつに過ぎない。
だが今、その一瞬が、あまりにも重かった。
ローランドは、心のどこかで叫び続けている思いを、喉の奥で押し潰すように飲み込み、背を向けた。
クラリッサが待つ方向へ、一歩、また一歩と歩いていく。
セシール家の庭で未来の名を囁き合った青年は、もういない。
代わりにそこに立っているのは、ブラック家と結びつくフロスト家の後継として、正しい道を歩く男だった。
アランは、その背中が扉の向こうに消えるまで、ただ静かに見送った。
胸の中心を締め付ける痛みを、丁寧に、丁寧に、表情の下に隠しながら。
その夜のブラック家の食堂は、昼間の豪奢さとは違う、どこか親密な静けさに包まれていた。
長いテーブルの半分だけにクロスがかけられ、燭台の数も抑えられている。
高い天井から垂れ下がるシャンデリアは灯りを落とされ、代わりに卓上の蝋燭がいくつも並び、小さな炎が金の縁取りを照らしていた。
夜食と呼ぶには少し整いすぎた食卓。
温かな野菜のポタージュに、薄く焼いた白いパン、軽く炙ったチーズとハム、ハーブを浮かべたお茶。
懐妊中のアランに負担が少ないよう考慮されているのが、皿の彩りからも伝わってくる。
テーブルには三人だけ。
オリオンはすでに自室へ引き上げており、今ここにいるのはレギュラスとヴァルブルガ、そしてアランだけだった。
アランは、いつものようにテーブルの端に近い席に腰を下ろしていた。
妊娠による疲れのせいか、頬にはかすかな影が差しているが、その姿勢は崩れない。
白い手が、スープ皿の縁にそっと添えられていた。
レギュラスは、彼女の斜め向かい。
背もたれに深くはもたれず、肘をテーブルにはつかない、完璧な姿勢で椅子に座っている。
蝋燭の灯りに照らされた横顔は、相変わらず整いすぎていて、感情の影を読み取るのは難しかった。
「今日は、いかがでした?」
軽くスープを口に運んでから、レギュラスが何気ない調子で口を開いた。
「クラリッサ嬢のドレスを選んだのでしょう?」
その一言で、昼間の広間の光景が一気に甦る。
クラリッサの白いドレス。
鏡の中で並んだ、花嫁とローランドの姿。
祝福の言葉と、自分の口から発せられた「お似合いです」という台詞。
アランは、無意識にスプーンを持つ手を止めた。
胸の奥がきゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
それを悟られないように、一度、深く息を吸い込んだ。
「……ヴァルブルガ様に、たくさんご助言をいただきながら、選ばせていただきました」
整った返答を探り当て、吐息とともに押し出す。
声は震えていない。
それでも、自分の耳には、ほんの少しだけ乾いて聞こえた。
「あら、レギュラス。とても楽しかったのよ」
ヴァルブルガが、すぐに上機嫌で言葉を継いだ。
「クラリッサも、思ったよりずっと愛らしい娘でね。最初は緊張していたけれど、鏡の中の自分の姿を見ているうちに、頬がどんどん紅くなっていったの。
あのドレスに決めたときの顔なんて、本当に……」
そこで一度言葉を切り、満足げに笑みを浮かべる。
「花嫁らしい表情だったわ」
レギュラスは、穏やかに頷いた。
「それは何よりです。フロスト殿も、満足そうでしたか?」
問われて、アランの胸がまた小さく跳ねる。
——見ていた。
見てしまっていた。
クラリッサを見つめるローランドの横顔を。
アランは、視線をスープ皿の表面に落とした。
「……ええ。
とても、喜ばれているご様子でした」
その言葉は嘘ではない。
ただ、その喜びを見て胸が痛んだという事実だけを、丁寧に塗りつぶしている。
「フロスト殿とクラリッサ嬢から、祝福の言葉をいただいております」
アランは、自分でも驚くほど静かな声で続けた。
「わたくしの懐妊について……
『本当におめでとうございます』と。お身体を大切に、とも」
そこで、一度言葉が途切れる。
ローランドの声が、耳の奥で蘇る。
かつて「アラン」と呼んでくれた声が、今は距離を置いた敬称で、丁寧に、礼儀を守りながら、自分の身を案じてくれる。
祝福してくれたことが嬉しくないわけではない。
ただ、その祝福が向けられている先が、自分と——レギュラス・ブラックとの子であるという現実が、身体の内側を静かに削っていく。
「そう」
レギュラスが、短く頷いた。
「礼儀をわきまえた人たちですね」
口調には、揶揄も侮蔑も含まれていない。
ただ、事実を確認するような淡々とした声。
それがかえって、アランの心をざわつかせた。
「アランも、きちんとお礼を言えたのね?」
ヴァルブルガが、どこか誇らしげに問いかける。
「はい。ブラック家の妻として、恥じぬように」
アランは、かすかに微笑みを浮かべながら答えた。
「クラリッサ様のドレスも、本当にお似合いで……。
フロスト殿も、『あなたが選んでくれてよかった』と仰っておりました」
その時のローランドの表情を思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。
一瞬だけ、あの青い瞳が自分の方をまっすぐに向いた。
すぐに視線を逸らされたとしても、その一瞬は、かつて無数に交わした眼差しの欠片を呼び起こすのに十分だった。
——元気で。
——幸せになって。
言葉にならなかった言葉たちが、胸の奥でざわめく。
スープの湯気に紛れて、微かな痛みが立ち昇るようだった。
「それは良かった」
レギュラスは、穏やかな顔のままスプーンを置いた。
「僕の目から見ても、フロスト殿は誠実な青年です。
彼の花嫁となる女性が、ブラック家の庇護のもと、ふさわしい衣装を纏えることは、互いにとって良いことですよ」
言葉だけを聞けば、完璧に整った評価と配慮だった。
アランは、反射的に頷く。
「……はい」
「それに、あなたの選んだドレスなら、間違いはないでしょう」
レギュラスは、さらりと言葉を重ねた。
「僕の妻は、美しいものを見る目がありますからね」
その視線が、一瞬だけアランの腹部に落ちる。
そこには、まだ形の見えない未来が宿っている。
——かつてローランドと共に探した未来の名前ではない、別の未来。
ヴァルブルガが、パンを小さくちぎりながら機嫌よく笑った。
「それにしても、今年の冬はおめでたい話が重なりますわね。
レギュラスの結婚に、アランの懐妊に、フロスト家の婚礼。
ブラックの名が、あちらこちらで囁かれていることでしょう」
「光栄なことです」
レギュラスは、当然のように答える。
「僕たちの周りが賑やかになるのは、悪いことではありません。
それに——」
そこで、ちらりとアランに視線を向けた。
「あなたも、そう思いませんか、アラン」
問いかけの形を取りながら、その実「そうだ」と言わせるための言葉。
アランは、喉の奥にしがみついていた感情を、もう一度飲み込み直した。
「……はい。
ブラック家にとっても、セシール家にとっても、良い流れだと思います」
それが、自分の選んだ道の結果なのだと、改めて言葉にして確認するように。
夜食の皿が少しずつ空になっていく。
アランは、いつもよりゆっくりとした速度でスープを口に運んでいた。
味は十分に整えられているのに、舌に残るのは、どこか金属めいた味だった。
レギュラスは、そんな様子を横目で見ながら、表情を崩さない。
——昼間、自分が仕掛けた盤面の上で、アランがどんな表情を浮かべたのか。
——ローランドが、どんな声で祝福の言葉を告げたのか。
彼は、アランの口からその断片を引き出しながら、自分の頭の中で情景を補い、静かに味わっていた。
自分の手で傷つけ、自分の席で「報告させる」。
そして、その同じ席で、何事もなかったかのように妻としての返答を求める。
その構図は、彼の優越感をゆるやかに満たしていく。
夜食が終わりに近づくころ、ヴァルブルガが椅子を引いた。
「そろそろ休みましょうか。アラン、無理をしてはいけませんわよ」
「はい。ありがとうございます、ヴァルブルガ様」
アランが立ち上がる。
レギュラスも椅子から立ち上がり、さりげなくその椅子を引いてやった。
「部屋まで送りますよ」
「……大丈夫です。レギュラスも、お仕事がおありでしょうから」
「仕事なら、あとでいくらでもできます」
少しだけ声のトーンを落とし、彼は微笑む。
「妻を部屋まで送るくらいの時間は、惜しくありませんよ」
その言葉は、夫としての当たり前の気遣いのように響いた。
アランは、逃げ場のないその優しさに、小さく息を呑みながら、かろうじて頷いた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
夜の食堂をあとにして、二人は並んで歩き出す。
レギュラスにとっては、完璧に整えた盤面の上で、駒が予定通り動いた一日の締めくくり。
アランにとっては、胸を締め付けられながらも、選んだ道から目を逸らさないよう必死に歩き続ける一日の終わり。
蝋燭の炎が、二人の背中を、揺らめく影として静かに見送っていた。
アランの部屋の扉は、ノックの音を待たずに静かに開いた。
夜のブラック家は、廊下の燭台も数を減らされ、柔らかな光だけが石壁を照らしている。
その淡い灯りを背負うようにして、レギュラスが部屋へ足を踏み入れた。
「失礼します」
形式的な言葉とは裏腹に、その動きにはためらいがない。
この部屋の主が誰であるか、その女がどれほどこの部屋を「避難場所」に仕立てても、最終的にここへ入る許可を持っているのは自分だ——その確信が、彼の所作を自然と支配していた。
アランは、窓際の椅子から立ち上がったところだった。
薄手のナイトドレスの上に、肩を包むためだけの軽いショールを羽織っている。
灯されたランプが、翡翠色の瞳に小さな光を落とした。
「レギュラス」
名を呼ぶ声は、以前よりも落ち着いていた。
動揺はある。けれど、扉が開いた瞬間に全身を強張らせていた頃のような、目に見える拒絶はもはやない。
レギュラスは扉を閉めると、鍵には触れずにそのまま真っ直ぐアランへ歩み寄った。
どんな用件を告げるのか。
何を話すのか。
——そういった前置きは、今夜は不要だと決めていた。
彼女の前に立つと、アランの方がわずかに顎を引いた。
視線は自然と上向きになり、距離は一歩分。
逃げるでもなく、引き寄せを待つでもなく、「これから起こること」をある程度察した人間の距離だった。
その様子に、レギュラスの口元がゆるやかに歪む。
「……ずいぶんと、自然になりましたね」
低く落とされた声が、ふっと彼女の耳に触れる。
アランが瞬きを一つ。
何を指しているのか、分からないふりをしようとして——やめたように、そっと睫毛を伏せた。
レギュラスは、その一瞬の迷いを逃さない。
「こちらが何をしようとしているのか。
察して、受け入れる準備をしてくださるようになった」
そう言いながら、彼はアランの頬へ手を伸ばした。
細い顎の線を指先でなぞり、親指で唇の端に触れる。
かつてなら、その瞬間に肩が跳ね、身を引こうとしただろう。
ナイトドレスの上からショールを固く結び、胸元を守ろうとしたはずだ。
けれど今、アランはわずかに喉を鳴らしただけで、逃げなかった。
胸の奥に走る緊張は、消えたわけではない。
ただ、それでも「拒む」選択を取らなくなったというだけだ。
レギュラスは、手に伝わる温度を確かめるように頬を包み込むと、そのまま躊躇なく唇を重ねた。
柔らかく触れるだけのキスではない。
最初から、受け取るべきものが決まっているような、自然な動き。
アランの身体が、わずかにこわばり、すぐに解ける。
以前なら驚きに満ちていた呼吸が、今は最初から乱れる覚悟をしているような、浅く整えられた息になっていた。
——いい変化だ、とレギュラスは思う。
寝室を別にと訴え、扉一枚を盾に必死で境界線を引いていた頃。
頑なに身体を丸め、触れられるたびに涙ぐんでいた頃。
その「拒む」ための力が、今はもうどこにもない。
唇を離すと、アランの睫毛にはわずかに湿りが宿っていたが、それは恐怖ではなく、ただの動揺と戸惑いの色だった。
「……レギュラス」
呼ばれた名が、以前よりもほんの少しだけ近く、柔らかく響く。
その変化が、何よりの証拠だ。
「場数を踏んだ成果ですね」
彼は、くすりと笑うように呟いた。
「いいことです。
僕の妻が、僕のすることを理解して、受け入れてくださるというのは」
言葉だけを抜き出せば、夫婦の親密さを喜ぶ当たり前の台詞だった。
けれど、その奥底には「仕上がり具合」を品定めするような冷静さが潜んでいる。
——何度も抱き、何度も触れ、何度も名前を呼んできた。
初めてこの身体を手に入れた夜から、いくつもの夜を重ねた。
反発も戸惑いも、罪悪感も後悔も、その都度塗り重ねるように、別の感覚で上書きしてきた。
その結果が、いま目の前にいる女だ。
強張りが消え、拒絶が薄れ、キスをすれば自然とまぶたが閉じるようになった女。
レギュラスは、満足感にも似た静かな熱を胸の内側に抱いた。
アランは、彼の言葉にかすかに眉を寄せた。
「……慣れてしまっただけかもしれません」
自嘲のような響きが混じる。
「レギュラスの、されることに」
それが肯定なのか否定なのか、自分でも測りかねているような口ぶりだった。
レギュラスは、その言葉を否定しなかった。
「慣れるのは悪いことではありませんよ」
指先で彼女の耳の後ろの髪を梳きながら、淡々と続ける。
「あなたは、ブラック家の妻です。
僕と生きていくのですから、僕に——僕のすることに慣れていただくのは、ね」
その「ね」は、問いではなく確認に近い。
答えが決まっている質問を、あえて形だけ投げかけている。
アランは、視線をレギュラスの胸元に落とし、ほんの少しだけ頷いた。
「……はい」
かつて、寝室を別にと懇願していた女の口から出る「はい」。
それは、彼にとって甘い酒のようだった。
