2章
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魔法省の廊下は長く、天井は高い。
磨き上げられた石の床には、歩くたびに靴音が静かに響き、その音さえも今日だけは祝福のリズムに聞こえる。
壁際には動く肖像画が並び、過去の偉人たちが低く囁き合いながら、現在を行き交う役人たちをじろじろと観察している。
その視線すらも、今のレギュラスには心地よい。
——見ていればいい。
この時代を動かす者の姿を。
次代へ受け渡す者の背中を。
心のどこかで、そんな傲慢な台詞がふと浮かぶ。
曲がり角を抜け、いつもの執務フロアに近づく頃には、すでに何人目か数えるのもやめていた。
「レギュラス様、本当におめでとうございます」
「魔法省としても、お祝いの席を別途設けるべきかもしれませんね」
口々に言われるたび、レギュラスは笑みを深めるでもなく、薄めるでもなく、同じ強さで返す。
「お気持ちだけで十分ですよ。
今は静かに、妻の体調を整えることに集中させたいので」
そう言っておけば、相手はかえって感心したような顔をする。
「さすがはブラック様。何事も冷静にお考えだ」
「奥方を大切にされていることがよく分かります」
――計算通りだ。
その反応ひとつひとつが、自分の描いた枠の中に綺麗に収まっていく感覚。
まるで盤上の駒が、一手ごとに想定通りの位置へ進んでいくようだった。
「相変わらず人気者ですね、レギュラス」
背後から聞こえた声に、レギュラスは振り返りもせずに答える。
「あなたもでしょう、バーテミウス」
少し遅れて並んだバーテミウス・クラウチ・ジュニアは、肩で小さく笑った。
「僕はただの『ブラック家の右腕』ですよ。
今、魔法省を歩いていて一番注目を集めているのは、間違いなくあなたです」
そう言いながら視線を横に流すと、遠巻きにこちらを窺っていた若い職員たちが、慌てて書類に目を戻した。
レギュラスは「そうでしょうね」と言わんばかりに、わずかに首を傾げる。
「全てがあなたの思い通りですね、レギュラス」
バーテミウスの声音は、どこかふざけたようでいて、その実、とても冷静だった。
持ち前の観察眼で、今の状況を端的に言い当てる。
「セシール家の令嬢を妻に迎え、魔法薬研究の基盤を手に入れ、
ブラック家の次代を宿していると分かった途端、魔法界の空気はこうも素直に色を変える」
わざと少し大袈裟に肩をすくめて見せる。
「称賛も、羨望も、嫉妬も、全部あなたの方に向いています。
これで『思い通りではない』と言われたら、贅沢というものですよ」
そこまで言われ、レギュラスはようやく肩で小さく笑った。
「ええ、本当に。怖いくらいに」
素直な肯定だった。
怖い——と口にしながらも、その響きに含まれているのは恐怖ではない。
むしろ、その逆だ。
怖いほどに、予定通り。
怖いほどに、盤石。
怖いほどに、誰も逆らわない。
アランを妻にしたこと。
セシール家の研究に資金と権力を与えたこと。
魔法省の役員として、必要なところに必要なだけ影響力を行き渡らせておいたこと。
一つ一つ積み重ねてきた手が、同時に実を結び始めている。
それぞれが独立した成果ではなく、すべて「ブラック家の未来」という一点に収束している。
その中心に立っているのが、自分だ。
「……まるで」
思わず、心の底に浮かんだ言葉がある。
神にでもなったような心地だ、と。
言葉に出せば滑稽だろう。
だが、今のレギュラスには、それほど的外れな感覚とも思えなかった。
この魔法省の中で、
純血貴族たちの思惑のうちで、
世論という形なき波の上で。
自分が指をひとつ動かせば、流れそのものの方向を変えられる。
実際に、変えてきた。
アランの人生も、ローランド・フロストの人生も。
セシール家の研究も、ブラック家の立ち位置も。
触れたものは全部、自分の望む形に折り曲げ、編み直してきた。
——そして今、そこに「次代の命」という要素が加わった。
「怖くなったんですか?」
隣で歩くバーテミウスが、横目でこちらを見てくる。
レギュラスは、肩を揺らして笑う。
「いいえ。怖いくらいと言っただけで、怖いとは言っていません」
その違いを、バーテミウスも理解している。
「そうでしょうね。
あなたが本気で怖がっている顔なんて、まだ一度も見たことがない」
「そのまま一生見ずに終えてください」
「努力はしますよ、レギュラス」
軽口を交わしながらも、バーテミウスの視線は鋭かった。
「それにしても——」
ふと、彼は口元を歪める。
「ここまで盤石に整えておきながら、まだどこか不満そうにも見えるのが、あなたらしい」
「僕がですか?」
「ええ。
全てが思い通りに動いている今でさえ、まだ何かできると考えている顔をしています」
図星を刺され、レギュラスは小さく嘆息した。
「観察が過ぎますよ、あなたは」
「仕事ですから」
バーテミウスはさらりと返す。
廊下の先には、自分の執務室が待っている。
扉の向こうには、今日も山積みの案件が並んでいるだろう。
魔法界の管理。
マグル界との距離の調整。
純血貴族たちの利害の調整。
そして、これから先、ブラック家の名をどう位置づけていくか。
レギュラスの頭の中には、すでに次の数手先までの図が広がっている。
アランブラック懐妊の報せは、その一つの駒に過ぎない。
だが、極めて重要な駒だ。
この駒をどう使い、どこに置き、誰に見せるか。
それを考えることが、今は何より愉しい。
前を向いたまま、レギュラスは口元の微笑みを少しだけ深くした。
「全てが僕の思い通りかどうかは、まだ分かりませんよ、バーテミウス」
「そうですか?」
「ええ。ただ——」
一拍置いて、淡く言葉を続ける。
「今のところ、神にでもなったような心地でいることは、否定しません」
そう言って歩を進めるレギュラスの背中を、バーテミウスは横で見ながら、静かに笑った。
魔法省の石造りの廊下には、今日もひっそりと噂が行き交う。
——ブラック家の当主候補、レギュラス・ブラック。
——セシール家の妻と、次代の命を得た男。
——すべてを思い通りにしていく、恐ろしいほどの運と才覚を持った男。
そのどれもが、今この瞬間、レギュラス自身にとって心地よい「現実」として、彼の歩く背中にまとわりついていた。
懐妊を告げられてから、屋敷の時間は少しだけ色を変えた。
これまでと同じように朝は来て、食事の席には同じ顔ぶれが並ぶ。
廊下を行き交う使用人の数も変わらないし、窓から入る陽の光も、庭に咲く花々も、昨日までと何一つ違わない。
けれど、そのなかでひとつだけ――決定的に変わったものがある。
アランの夜の居場所だった。
「体調を最優先に、しばらくは安静に」
ヒーラーがそう告げた瞬間を、アランは逃さなかった。
軽いつわりの兆候。
ふとした匂いに胸がむかついたり、立ち上がるたびにふわりと目の前が揺れたり。
そうした些細な変化を、彼女は決して誇張せず、しかし決して隠しもしなかった。
レギュラスにも、ヴァルブルガにも、ヒーラーの言葉はきちんと伝えられている。
「無理はさせられませんね」とレギュラスが笑い、「当たり前ですわ」とヴァルブルガが言う。
それを聞きながら、アランは胸の奥でそっと息をついた。
――これで、しばらくは。
レギュラスの部屋へ足を向けずに済む。
そう思うと、張り詰めていた何かが少し緩んだ気がした。
「今夜は、自室で休ませていただきたいのですが」
初めてその言葉を口にしたのは、懐妊を知らされた日の夜のことだった。
夕食のあと、いつもなら「この後、部屋に」と暗黙に示される流れのなかで、アランは意を決して口を開いた。
「体調を優先したいので……」
声が震えないように、指先に力を込める。
言い訳のように聞こえないよう、事実だけを静かに並べるように。
レギュラスは、一瞬だけ彼女を見つめ、それから柔らかく片眉を上げた。
「そうですか。ヒーラーもそのように言っていましたね」
それだけだった。
引き留める言葉も、皮肉めいた一言もない。
「それは困りますね」と笑うことも、「少しくらい大丈夫でしょう」と押し切ることもない。
あまりにもあっさりと受け入れられて、アランは拍子抜けしそうになった。
「……ありがとうございます、レギュラス」
頭を下げると、彼はいつもの整った微笑みを浮かべた。
「あなたの身体は今、僕たちの子の居場所でもありますから。大事になさってください」
正しい夫の言葉。
正しいブラック家の当主としての言葉。
そこに、彼女を責める色は少しもなかった。
それきり、レギュラスは本当に引き留めてこなかった。
「今夜はどうしますか」と問われることもなく、
「顔くらい見せに来て」と軽く言い含められることもない。
夜になると、アランは自然な流れとして、自分に与えられた部屋へと戻ることができた。
扉を閉める。
ゆっくりと背中を預ける。
音を立てないように深く息を吐く。
その一連の動作が、胸の奥深くまで沁みこんでくるようだった。
――ここは、自分の部屋。
ブラック家の屋敷の中で、唯一、アランが「自分のもの」と呼べる空間。
深い緑色の壁紙が貼られた部屋は、セシール家の自室よりは少し広く、少し重厚だった。
窓には厚手のカーテンが二重にかかっていて、外の気配をほどよく遮ってくれる。
ローランドとの写真はない。
けれど、彼にもらったブローチや、古い手紙を束ねた箱、父と三人で写った小さな写真立てなど、セシール家から運び入れた「思い出たち」が、ベッドサイドや棚の上に控えめに並んでいる。
枕元には、幼い頃から眠れない夜に読み返してきた魔法薬の書物。
机の隅には、父エドモンドから借り受けている研究ノート。
そのひとつひとつが、アランの「逃げ場」を形作っていた。
息が詰まりそうなほど豪奢な廊下も、
ブラック家の紋章が掲げられた重々しい階段も、
ヴァルブルガの鋭い声が響くサロンも。
この部屋の扉を閉めてしまえば、すべて外側の世界になる。
――どこからも、攻撃の手が伸びてこない。
そう思うと、胸の奥にふわりと安心が広がった。
寝台に身を沈めると、絹のシーツがひんやりと肌を撫でた。
天蓋の布が視界の上に広がり、その向こうの天井は薄暗くぼやけている。
以前なら、ここに横たわっても、夜のどこかで扉が叩かれる音を想像してしまい、眠りは浅く、不安定だった。
呼ばれれば行かなければならない。
行けば、あの灰色の瞳に飲み込まれる。
行かなければ、妻としての務めを果たさないことになる。
そう思うだけで胸が苦しくなった。
けれど今は違う。
ヒーラーの言葉が盾になってくれる。
「安静に」という一文が、扉の前に結界のように張り巡らされている気がした。
レギュラスが本気を出せば、その結界など一瞬で破られるのだろう。
それでも、彼は今のところ、その力を向けてこない。
その事実だけが、アランを支えていた。
「……ここだけは」
寝台の上で、アランはぽつりと呟いた。
自分に与えられたこの部屋は、まるでひとつの要塞のようだった。
分厚い壁に囲まれていて、
扉にはきちんと鍵がついていて、
窓から見える景色は限られていて。
世界は狭い。
けれど、その狭さが、今はありがたかった。
ここだけは、自分の意思で「閉じて」いられる。
誰も勝手には入ってこない。
入ってこられたとしても、少なくとも「入ってきた」という事実を、自分で認識できる。
レギュラスの寝室のように、いつの間にか自分の理性も境界線も溶かされてしまう場所とは違う。
あの部屋は、甘くて危険な沼地だった。
踏み入れれば、あっという間に足を取られて沈んでいく。
ここは、石で固められた小さな砦。
どちらが居心地がいいかと問われれば、答えは決まっていた。
腹部にそっと手を添えると、そこにまだ何の重みもないことが不思議に感じられる。
けれど、ヒーラーは確かに言ったのだ。
「あなたの中で、確かに命が芽吹いています」と。
その命は、レギュラスの血を引く。
ブラック家の次代として扱われるだろう子。
そう思うと、胸の奥で複雑な感情が渦を巻く。
嬉しくないのか、と問われれば、嘘になる。
怖くないのか、と問われれば、それも嘘になる。
喜びと恐怖と、安堵と罪悪感と。
その全部が、同じ場所で絡まり合っている。
ただひとつだけ、はっきりと言えるのは――。
この子を理由に、レギュラスの部屋へ行かずに済む今の状態を、「助かった」と思っている自分がいるということだった。
それを自覚した瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さる。
この子を、逃げる口実にしている。
彼の子であるはずの存在を、彼から距離をとるための盾にしている。
それは正しくないと、どこかで分かっていた。
それでも、そうせずにはいられなかった。
ベッドサイドのスタンドに灯りをともす。
柔らかな光が、部屋の隅々までじんわりと広がった。
机の上には、父から預かった魔法薬のノートが開かれたまま置かれている。
文字を追う視線は、まだすぐに疲れてしまうけれど、それでも、ページを捲る音が心を落ち着かせてくれた。
魔法薬の分量調整。
新たな試薬の組み合わせ。
父と夜更けまで語り合った仮説たち。
それらを読み返していると、ほんの少しだけ、過去の自分に戻れる気がする。
レギュラスの妻でもなければ、ブラック家の正妻でもなく、
ただ、セシール家の娘として、父の研究を手伝っていた頃の自分に。
その感覚を、アランは今、必死で掴もうとしていた。
廊下の向こうで、遠くに人の気配がする。
誰かが笑い、誰かが低く話す声がする。
けれど、この部屋までは届かない。
扉ひとつ隔てただけなのに、まるで別世界の音のようだ。
アランは、枕元の灯りをゆっくりと落とした。
薄暗闇のなか、天蓋の布がゆっくりと揺れる。
瞼を閉じると、しばらくはレギュラスの顔が浮かんでくる。
そのあとに、ローランドの横顔が続く。
けれど、どちらの姿も、いつもより少し離れたところにあるように感じられた。
ほんの少し距離を置けるだけで、こんなにも呼吸がしやすくなるのかと思う。
この小さな要塞の中だけは、自分の意思で「思い出す」か「思い出さないか」を選べる。
アランは、腹部にそっと手を添えたまま、ゆっくりと息を吐いた。
――ここだけは、守りたい。
そう願いながら、彼女は静かに眠りへと沈んでいった。
レギュラスという悪魔の手が、今夜ここまでは伸びてこないと信じながら。
その夜、レギュラスはひとりで寝台に背を預けていた。
天蓋から垂れる薄布が、わずかな空気の流れに揺れる。
暖炉の火は落とされ、残り火だけが赤くくすぶっている。
静かだった。
あまりにも静かで、耳に届くのは自分の呼吸と、遠く廊下を誰かが歩く靴音が一度きり響いた気配だけだ。
その静けさが、今夜はやけに癇に障る。
枕元の片側は、綺麗なまま形を保っていた。
そこには本来、黒髪の妻の頭が乗っているはずだ。
翡翠の瞳を閉じて、長い睫毛を静かに伏せて、時おり眠りの浅い呼吸を漏らしながら寄り添ってくる女の体温があるはずだった。
何度も繰り返してきた夜の光景が、頭の中で容易に再現される。
なのに、伸ばした指先の先に、今は何もない。
レギュラスは、掌をゆっくりと握り込んだ。
懐妊の知らせが届いてからというもの、夜の過ごし方は目に見えて変わった。
「体調を優先したいので」と、アランは静かに言った。
その言葉自体は、もっともだった。
ヒーラーも「今は無理をなさらぬよう」とわざわざ口を酸っぱくして告げていた。
ヴァルブルガに至っては、最初の数日はほとんどアランを自室から出さぬ勢いで目を光らせていたくらいだ。
だから、レギュラスは笑って引き下がった。
「そうですね」と。
表面上は、何ひとつ不自然なところはない。
夫として、父となる男として、当然の配慮だった。
だが、その「当然」が何夜も続くと、胸の内側に沈殿していくものがある。
面白くない——その一言に尽きた。
天蓋の布を見上げながら、レギュラスは薄暗がりに目を細めた。
仕方がないと分かっている。
分かっているからこそ、露骨に引き留めようとはしない。
自分が無理を押し通せば、妻の体調を案じる両親だけでなく、ヒーラーまでも敵に回すことになる。
合理的に考えれば、今は何もしない方が得だ。
妻の身体も、腹に宿った子も、家のための「資産」であるのだから。
頭では理解している。
理解しているのに、感情だけが頑なに頷こうとしない。
何夜も続けて、自分の寝台に妻の姿がない現実。
これほど「不自然な当然」を、簡単に受け入れられるほど従順な性格ではなかった。
アランは、きっと自分の部屋で眠っている。
レギュラスは、目を閉じ、容易に想像できる光景を思い浮かべた。
あの部屋。
セシール家から運び入れた思い出の品を並べ、父の研究ノートを積み上げ、好きな香りのティーを棚に収めた、小さな砦。
そこで彼女は、「自分だけの自由」を謳歌しているつもりなのだろう。
せいぜいあの規模でしかない、狭い自由を。
ベッドサイドの灯りを落として、本を閉じて、天蓋を見上げて。
誰にも呼ばれない夜を、安堵の息とともに迎えているに違いない。
そう考えると、喉の奥がひどく冷たくなった。
馬鹿馬鹿しい、とレギュラスは思う。
その部屋がどこにあるのか忘れたのか。
この屋敷全体が誰の名義で建っているのか、本当に理解しているのか。
壁紙の色も、天蓋の布の質も、扉の鍵の強度も。
全て、ブラック家という檻の内側で、ブラック家の金で整えられたものだ。
彼女が「自由」だと思い込んでいるその空間は、結局、自分が許した範囲の中にしかない。
なのに、あたかも自分の意思だけで守り抜いた避難所のような顔をして潜り込んでいるのだから、滑稽で仕方がない。
枕に片腕を載せ、レギュラスは小さく頭を振った。
分かっている。
今、扉を叩いて呼び出せば、アランは怯えながらも従うだろう。
ヒーラーの忠告も、ヴァルブルガの目も、言いようによってはいくらでもすり抜けられる自信がある。
「眠れないので顔が見たい」と言えばいい。
「父上との話し合いに同席してほしい」と言うのもいい。
魔法省の案件を理由に「妻としての意見を聞きたい」と命じれば、彼女は断れないはずだ。
口実など、いくらでも捻り出せる。
それでも、今はしていない。
——だから、余計に面白くないのだ。
自分で自分に枷をはめているような感覚があった。
いつでも手を伸ばせる場所にいるものを、あえて伸ばさずにいる窮屈さ。
アランが、自室という小さな要塞に逃げ込み、その中で息を整えている姿が、ありありと目に浮かぶから余計だった。
そこには確かに安堵があるだろう。
どこからも攻撃の手が伸びてこないと信じて、胸の奥の震えを落ち着かせているのだろう。
——だが。
そこに安堵を見出しているという事実そのものが、レギュラスの癇に障った。
「僕から離れた場所でないと、落ち着いて眠れないというわけですか」
誰にも聞こえない寝室で、ぽつりと呟く。
アランがこの屋敷に来た時、第一条件として提示した「寝室は別に」という要求。
それは結局、いつの間にか有名無実になったはずだった。
夜ごとの行為を重ねるうちに、アランの身体は自然とこちらの寝台を選ぶようになっていた。
戸惑いも、不安も、警戒も。
最初の頃に見せていた硬さは少しずつ溶けていき、代わりに、素直な反応と甘さが増えていった。
あの変化を、誰よりも享受していたのはレギュラス自身だ。
自分の手が与える波に、身体の奥から応えるようになっていく女。
ローランドではなく、自分がその反応を引き出し、支配しているという実感。
それを一度知ってしまった以上、何事もなかった顔をして夜を別に過ごすことなど、本来できるはずがない。
なのに——今、アランは自室で眠り、自分はひとりきりでこの寝台にいる。
「仕方がない」と言い聞かせるほど、目の前の現実が薄ら寒くなる。
なんとかして、あの部屋から引きずり出したい。
レギュラスは、そう思った。
ただ「会いたいから」ではない。
甘さに飢えているからでもない。
彼女が「ここだけは安全だ」と信じ込んでいる場所を、握り潰してしまいたかった。
あの狭い要塞を、自分の手で容易く崩せるのだと教えてやりたい。
この屋敷に、彼女だけの絶対領域など存在しないのだと、骨の髄まで思い知らせてやりたい。
ただし、乱暴にではなく。
彼女の体調を言い訳にされないよう、誰からも非難されない形で。
口実を探す自分を自覚しながら、レギュラスは苦笑した。
「……本当に、面倒な女ですね、あなたは」
天蓋の向こうにいるはずのない相手に言う。
こうまで頭を使って、一人の妻を寝台から自室へ、そして再び寝台へと連れ戻す算段を練らなければならないとは思わなかった。
セシール家のアラン・セシールを手に入れるまでは、「女を手に入れる」という行為は、もっと単純で、もっと容易で、もっと退屈な遊びだったのに。
いつか、ヒーラーが「安静」の言葉を引っ込める日が来る。
「もう少し体調が落ち着けば」「安定期に入れば」という枕詞が消えるとき。
そのときが、ひとつの好機だろう。
「そろそろ戻ってきてください」と言うだけでいい。
「子どもの父親を寂しくさせないでください」と微笑めばいい。
それで足りないのなら、「子のために」も使えばいい。
アランは子を何より大切にするだろう。
その「子のために」という言葉を、盾にも矛にもできる。
彼女自身の「逃げ場」を、「子のため」という名目で奪うのは、これ以上なく皮肉な手段だと分かっていた。
それでも、どこかで愉快に思う自分がいる。
アランが必死に守ろうとしている小さな自由な空間を、
彼女自身が最も守りたいと願う存在――腹の中の子によって、じわりと侵食していく。
その構図を想像するだけで、口元がわずかに緩んだ。
レギュラスは、ゆっくりと横向きになり、空いた側の枕に手を伸ばした。
冷たい。
けれど、掌でその冷たさを覆い隠すように撫でていく。
ここにまた、アランの体温を取り戻す日が来る。
そう信じて疑わなかった。
今は、「仕方がない」と自分に言い聞かせる。
だが、その言葉を盾にして夜ごと自室へ逃げ込む妻を、いつまでも見逃すつもりはない。
なんとかして、なにか口実をつけて。
小さな砦から、アラン・ブラックを引きずり出す。
その時を思い描きながら、レギュラスは瞼を落とした。
面白くない夜は、長く感じられる。
けれど、長い夜ほど、次の一手を考えるにはちょうどいい。
闇の中で、彼の灰色の瞳だけが、静かに研ぎ澄まされていた。
退屈、という言葉は本来、レギュラス・ブラックの辞書にはなかった。
魔法省の案件はいくらでも転がっているし、ブラック家として処理すべき書簡も山のようにある。純血貴族たちの思惑の絡む席に顔を出せば、いくらでも頭と舌を使う場面は手に入った。
それでも、ここ最近の夜の静けさは、妙な「物足りなさ」を伴っていた。
寝台は一人きり。
隣の枕は、以前のように黒髪の体温を吸い込むこともなく、きれいな形を保ったまま。
——体調を優先したいので。
アランがそう告げて自室へ戻るようになってから、何夜も過ぎた。
仕方のないことだと理解している。ヒーラーも安静を命じているのだ、夫としてはそれを尊重する顔をしておくべきだろう。
頭ではそう結論づけるたびに、胸のどこかが不機嫌そうに舌打ちをした。
その日の昼下がり、屋敷のサロンには柔らかな日差しが差し込んでいた。
高い窓から落ちる光は、絹のカーテン越しに淡いベージュへと色を変え、磨き上げられた床に長い筋を描いている。
丸テーブルの上には、上等な茶器とハーブティーの香り。窓際には、ヴァルブルガが好む白い百合が花瓶に活けられていた。
ヴァルブルガは、ソファにもたれながら最新の魔法新聞を広げている。
アランは少し離れた椅子に、背筋をまっすぐにして座っていた。
——最近は、こうして昼のサロンで顔を合わせる時間だけが、レギュラスにとって彼女を「眺める」ための貴重な機会になりつつあった。
妊娠初期のせいか、どこか顔色はいつもより白い。
それでも髪は整えられ、淡い色のドレスは変わらず品よく身体に沿っている。胸元に添えられた手は、以前にも増して慎ましやかに見えた。
きっと、自分に与えられた部屋に閉じこもり、せいぜいあの規模でしかない自由を謳歌しているつもりなのだろう——レギュラスは心の中で鼻で笑った。
滑稽なほど狭い世界の中で、「守られている」と安心しているその姿が。
「アラン」
新聞をたたみかけたヴァルブルガの向こう側から、レギュラスは妻の名を呼んだ。
アランは、ぱちりと瞬きをした後、静かに顔を上げた。
「はい、レギュラス」
その声音はいつも通り丁寧で、感情を極力表に出さないように整えられている。
——だが、これからの言葉を聞けば、その整えた表情にどれほどのひびが入るか。考えるだけで、喉の奥が甘くなった。
「フロスト殿の婚礼の件で、少しご相談がありまして」
その名を口にした瞬間、アランの指先がほんのわずかに固まる。
カップの取っ手を持つ手に、かすかな力がこもったのを、レギュラスは見逃さなかった。
「……ローランド、の」
自分で気配を抑えようとしているのか、アランは途中で言葉を飲み込む。
正確な呼び名を選び直すように、言い換えた。
「フロスト殿の、でしょうか」
「ええ、フロスト殿です」
レギュラスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「婚約も正式に整いましたし、いよいよ式の準備が本格化するようです。
そこで、母と話していたのですが……花嫁の衣装を、ブラック家としても支援して差し上げようかと」
ヴァルブルガが、興味深そうに顔を上げた。
「そうですわね。遠縁とはいえブラックと繋がるご縁ですもの。粗末なものを着せるわけにはいかないわ」
当たり前のようにそう言って、ヴァルブルガは優雅に紅茶を口にする。
レギュラスは、そこでわずかに首を傾げ、アランの方へ視線を戻した。
「どう思いますか、アラン」
問いかけながら、すでに答えを決めている声色だった。
「……そうですね、レギュラスのお考えの通りかと」
アランは一拍の間を置いて、模範解答を口にする。
喉を通る声が少しだけ乾いている。
それでも、外から見れば十分に冷静な返答だ。
レギュラスは、ふっと目を細めた。
「でしたら、せっかくですし——」
わざと、そこで言葉を切る。
ヴァルブルガが興味を示して視線を寄越すのを待ってから、続けた。
「母上とあなたで、花嫁の衣装を選んで差し上げてはどうでしょう」
その瞬間、部屋の空気がかすかに凪いだ。
ハーブティーの香りが、妙に際立つ。
遠くの時計の音が、やけに大きく聞こえた。
アランは、目を見開いたまま固まった。
ヴァルブルガが先に反応を示す。
「あら、それはいい考えですわね、レギュラス」
彼女はすぐさま乗り気になって微笑んだ。
「わたくし一人よりも、アランの感性も加わった方が、きっと花嫁にふさわしい一着が選べるでしょう。
フロスト家も喜ぶはずですわ」
「でしょう?」
レギュラスは、母の賛同を当然のこととして受け止め、改めてアランに視線を向ける。
「あなたも、よろしいですよね?」
よろしい——そう問われて、アランは言葉を探しあぐねているようだった。
「断る」という選択肢は、この場にはほとんど存在しない。
ブラック家の妻として、ブラック家からフロスト家への支援を拒む理由など、本来ありはしないのだから。
それでも、戸惑いは隠しきれない。
かつて愛した男。
自分の未来を共に歩むと信じていた男。
その男が迎える花嫁の「純白」を、自分の手で選べと言われているのだ。
どれほど残酷な響きか、レギュラスには分かっている。
分かっていて、あえて口にしている。
——だからこそ、このうえなく甘美に聞こえた。
かつて、ローランド・フロストの隣に立つ自分の姿を夢見ていた女が、
今はブラック家の妻として、その男に嫁ぐ別の女の衣装を選ぶ。
その構図を想像するだけで、喉の奥に糖蜜のような愉悦が広がる。
「……わたくしで、務まるでしょうか」
しばらくの沈黙ののち、アランはようやく声を絞り出した。
震えを押し込めた、低く落ち着いた声色。
だが、翡翠の瞳の奥までは隠せない。そこには、明らかな動揺と戸惑いが渦巻いていた。
「務まりますよ」
レギュラスは、即答した。
「あなたは、この魔法界で最も美しい花嫁のひとりになった。
そのあなたが選ぶ衣装なら、どれであっても、きっと花嫁を輝かせるはずです」
褒め言葉の形をとりながら、その実、逃げ道を与えない言い方だった。
否定すれば、「自分はふさわしくない」と、ブラック家の妻としての立場を貶めることになる。
肯定するしかないように、道は最初から敷かれている。
「アラン、わたくしも一緒ですから安心なさい」
ヴァルブルガが、優雅に笑って言葉を添える。
「ドレスメーカーにはすでに目星をつけてあります。
何着か持って来させて、ここで選べばいいでしょう。あまり負担にならないように」
「……はい」
アランは、瞼を伏せて小さく頷いた。
それ以上、拒絶の言葉を紡ぐことはしなかった。
紡げなかったのだろう。
かつて愛した男の名を、ここで声にすることもできない。
ブラック家のサロンは、彼女の未練を吐き出すにはあまりにも冷静な空気に満ちていた。
だから、アランは黙って飲み込むしかない。
レギュラスが差し出した「義務」という名の刃を、胸の中心にそっと押し込まれる感覚を。
レギュラスは、その様子を眺めながら、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
甘さは控えめ。
けれど、舌に残る苦味が、妙に心地よかった。
「決まりですね」
あくまで事務的な口調で言う。
「日取りは、フロスト殿とも相談しましょう。
花嫁のサイズも正確に分かった方がいいでしょうから」
「そうですわね」とヴァルブルガ。
会話は、自然と次の段取りへと移っていく。
アランの表情は、もとの静けさを取り戻したように見えた。
だが、その指先だけは、膝の上でわずかに握り締められている。
レギュラスは、その小さな変化を見ているだけで十分に満足だった。
夜、アランはきっと自室で泣くかもしれない。
ローランドの名を心の中で呼びながら、
自分の手で選ぶことになった「純白」を思い浮かべて、胸を締め付けられるだろう。
体調を案じて、声には出さないかもしれない。
それでも、その涙は確かに流れる。
だが、それすらも——この屋敷の中では、レギュラスの「掌の上」にある。
彼女が自室という小さな砦に籠もり、そこで自由を謳歌しているつもりでいるなら、
その砦の中に、ひとつずつ自分の仕掛けた棘を増やしていけばいい。
何から逃げているつもりでも、どこへ閉じこもるつもりでも。
アラン・ブラックの人生は、結局、どこまでもブラック家とレギュラス・ブラックの線路の上にしか伸びていかないのだから。
レギュラスは、静かに微笑んだ。
退屈しのぎに仕掛けた、ちょっとした攻撃。
その刃が、どれほど深く彼女の心に食い込んでいくかを思うと、甘美な期待で胸の奥が満たされていく。
「花嫁の衣装を選ぶ」という名目を纏ったその残酷さに、
彼自身、心から愉悦を覚えていることを、隠すつもりはなかった。
磨き上げられた石の床には、歩くたびに靴音が静かに響き、その音さえも今日だけは祝福のリズムに聞こえる。
壁際には動く肖像画が並び、過去の偉人たちが低く囁き合いながら、現在を行き交う役人たちをじろじろと観察している。
その視線すらも、今のレギュラスには心地よい。
——見ていればいい。
この時代を動かす者の姿を。
次代へ受け渡す者の背中を。
心のどこかで、そんな傲慢な台詞がふと浮かぶ。
曲がり角を抜け、いつもの執務フロアに近づく頃には、すでに何人目か数えるのもやめていた。
「レギュラス様、本当におめでとうございます」
「魔法省としても、お祝いの席を別途設けるべきかもしれませんね」
口々に言われるたび、レギュラスは笑みを深めるでもなく、薄めるでもなく、同じ強さで返す。
「お気持ちだけで十分ですよ。
今は静かに、妻の体調を整えることに集中させたいので」
そう言っておけば、相手はかえって感心したような顔をする。
「さすがはブラック様。何事も冷静にお考えだ」
「奥方を大切にされていることがよく分かります」
――計算通りだ。
その反応ひとつひとつが、自分の描いた枠の中に綺麗に収まっていく感覚。
まるで盤上の駒が、一手ごとに想定通りの位置へ進んでいくようだった。
「相変わらず人気者ですね、レギュラス」
背後から聞こえた声に、レギュラスは振り返りもせずに答える。
「あなたもでしょう、バーテミウス」
少し遅れて並んだバーテミウス・クラウチ・ジュニアは、肩で小さく笑った。
「僕はただの『ブラック家の右腕』ですよ。
今、魔法省を歩いていて一番注目を集めているのは、間違いなくあなたです」
そう言いながら視線を横に流すと、遠巻きにこちらを窺っていた若い職員たちが、慌てて書類に目を戻した。
レギュラスは「そうでしょうね」と言わんばかりに、わずかに首を傾げる。
「全てがあなたの思い通りですね、レギュラス」
バーテミウスの声音は、どこかふざけたようでいて、その実、とても冷静だった。
持ち前の観察眼で、今の状況を端的に言い当てる。
「セシール家の令嬢を妻に迎え、魔法薬研究の基盤を手に入れ、
ブラック家の次代を宿していると分かった途端、魔法界の空気はこうも素直に色を変える」
わざと少し大袈裟に肩をすくめて見せる。
「称賛も、羨望も、嫉妬も、全部あなたの方に向いています。
これで『思い通りではない』と言われたら、贅沢というものですよ」
そこまで言われ、レギュラスはようやく肩で小さく笑った。
「ええ、本当に。怖いくらいに」
素直な肯定だった。
怖い——と口にしながらも、その響きに含まれているのは恐怖ではない。
むしろ、その逆だ。
怖いほどに、予定通り。
怖いほどに、盤石。
怖いほどに、誰も逆らわない。
アランを妻にしたこと。
セシール家の研究に資金と権力を与えたこと。
魔法省の役員として、必要なところに必要なだけ影響力を行き渡らせておいたこと。
一つ一つ積み重ねてきた手が、同時に実を結び始めている。
それぞれが独立した成果ではなく、すべて「ブラック家の未来」という一点に収束している。
その中心に立っているのが、自分だ。
「……まるで」
思わず、心の底に浮かんだ言葉がある。
神にでもなったような心地だ、と。
言葉に出せば滑稽だろう。
だが、今のレギュラスには、それほど的外れな感覚とも思えなかった。
この魔法省の中で、
純血貴族たちの思惑のうちで、
世論という形なき波の上で。
自分が指をひとつ動かせば、流れそのものの方向を変えられる。
実際に、変えてきた。
アランの人生も、ローランド・フロストの人生も。
セシール家の研究も、ブラック家の立ち位置も。
触れたものは全部、自分の望む形に折り曲げ、編み直してきた。
——そして今、そこに「次代の命」という要素が加わった。
「怖くなったんですか?」
隣で歩くバーテミウスが、横目でこちらを見てくる。
レギュラスは、肩を揺らして笑う。
「いいえ。怖いくらいと言っただけで、怖いとは言っていません」
その違いを、バーテミウスも理解している。
「そうでしょうね。
あなたが本気で怖がっている顔なんて、まだ一度も見たことがない」
「そのまま一生見ずに終えてください」
「努力はしますよ、レギュラス」
軽口を交わしながらも、バーテミウスの視線は鋭かった。
「それにしても——」
ふと、彼は口元を歪める。
「ここまで盤石に整えておきながら、まだどこか不満そうにも見えるのが、あなたらしい」
「僕がですか?」
「ええ。
全てが思い通りに動いている今でさえ、まだ何かできると考えている顔をしています」
図星を刺され、レギュラスは小さく嘆息した。
「観察が過ぎますよ、あなたは」
「仕事ですから」
バーテミウスはさらりと返す。
廊下の先には、自分の執務室が待っている。
扉の向こうには、今日も山積みの案件が並んでいるだろう。
魔法界の管理。
マグル界との距離の調整。
純血貴族たちの利害の調整。
そして、これから先、ブラック家の名をどう位置づけていくか。
レギュラスの頭の中には、すでに次の数手先までの図が広がっている。
アランブラック懐妊の報せは、その一つの駒に過ぎない。
だが、極めて重要な駒だ。
この駒をどう使い、どこに置き、誰に見せるか。
それを考えることが、今は何より愉しい。
前を向いたまま、レギュラスは口元の微笑みを少しだけ深くした。
「全てが僕の思い通りかどうかは、まだ分かりませんよ、バーテミウス」
「そうですか?」
「ええ。ただ——」
一拍置いて、淡く言葉を続ける。
「今のところ、神にでもなったような心地でいることは、否定しません」
そう言って歩を進めるレギュラスの背中を、バーテミウスは横で見ながら、静かに笑った。
魔法省の石造りの廊下には、今日もひっそりと噂が行き交う。
——ブラック家の当主候補、レギュラス・ブラック。
——セシール家の妻と、次代の命を得た男。
——すべてを思い通りにしていく、恐ろしいほどの運と才覚を持った男。
そのどれもが、今この瞬間、レギュラス自身にとって心地よい「現実」として、彼の歩く背中にまとわりついていた。
懐妊を告げられてから、屋敷の時間は少しだけ色を変えた。
これまでと同じように朝は来て、食事の席には同じ顔ぶれが並ぶ。
廊下を行き交う使用人の数も変わらないし、窓から入る陽の光も、庭に咲く花々も、昨日までと何一つ違わない。
けれど、そのなかでひとつだけ――決定的に変わったものがある。
アランの夜の居場所だった。
「体調を最優先に、しばらくは安静に」
ヒーラーがそう告げた瞬間を、アランは逃さなかった。
軽いつわりの兆候。
ふとした匂いに胸がむかついたり、立ち上がるたびにふわりと目の前が揺れたり。
そうした些細な変化を、彼女は決して誇張せず、しかし決して隠しもしなかった。
レギュラスにも、ヴァルブルガにも、ヒーラーの言葉はきちんと伝えられている。
「無理はさせられませんね」とレギュラスが笑い、「当たり前ですわ」とヴァルブルガが言う。
それを聞きながら、アランは胸の奥でそっと息をついた。
――これで、しばらくは。
レギュラスの部屋へ足を向けずに済む。
そう思うと、張り詰めていた何かが少し緩んだ気がした。
「今夜は、自室で休ませていただきたいのですが」
初めてその言葉を口にしたのは、懐妊を知らされた日の夜のことだった。
夕食のあと、いつもなら「この後、部屋に」と暗黙に示される流れのなかで、アランは意を決して口を開いた。
「体調を優先したいので……」
声が震えないように、指先に力を込める。
言い訳のように聞こえないよう、事実だけを静かに並べるように。
レギュラスは、一瞬だけ彼女を見つめ、それから柔らかく片眉を上げた。
「そうですか。ヒーラーもそのように言っていましたね」
それだけだった。
引き留める言葉も、皮肉めいた一言もない。
「それは困りますね」と笑うことも、「少しくらい大丈夫でしょう」と押し切ることもない。
あまりにもあっさりと受け入れられて、アランは拍子抜けしそうになった。
「……ありがとうございます、レギュラス」
頭を下げると、彼はいつもの整った微笑みを浮かべた。
「あなたの身体は今、僕たちの子の居場所でもありますから。大事になさってください」
正しい夫の言葉。
正しいブラック家の当主としての言葉。
そこに、彼女を責める色は少しもなかった。
それきり、レギュラスは本当に引き留めてこなかった。
「今夜はどうしますか」と問われることもなく、
「顔くらい見せに来て」と軽く言い含められることもない。
夜になると、アランは自然な流れとして、自分に与えられた部屋へと戻ることができた。
扉を閉める。
ゆっくりと背中を預ける。
音を立てないように深く息を吐く。
その一連の動作が、胸の奥深くまで沁みこんでくるようだった。
――ここは、自分の部屋。
ブラック家の屋敷の中で、唯一、アランが「自分のもの」と呼べる空間。
深い緑色の壁紙が貼られた部屋は、セシール家の自室よりは少し広く、少し重厚だった。
窓には厚手のカーテンが二重にかかっていて、外の気配をほどよく遮ってくれる。
ローランドとの写真はない。
けれど、彼にもらったブローチや、古い手紙を束ねた箱、父と三人で写った小さな写真立てなど、セシール家から運び入れた「思い出たち」が、ベッドサイドや棚の上に控えめに並んでいる。
枕元には、幼い頃から眠れない夜に読み返してきた魔法薬の書物。
机の隅には、父エドモンドから借り受けている研究ノート。
そのひとつひとつが、アランの「逃げ場」を形作っていた。
息が詰まりそうなほど豪奢な廊下も、
ブラック家の紋章が掲げられた重々しい階段も、
ヴァルブルガの鋭い声が響くサロンも。
この部屋の扉を閉めてしまえば、すべて外側の世界になる。
――どこからも、攻撃の手が伸びてこない。
そう思うと、胸の奥にふわりと安心が広がった。
寝台に身を沈めると、絹のシーツがひんやりと肌を撫でた。
天蓋の布が視界の上に広がり、その向こうの天井は薄暗くぼやけている。
以前なら、ここに横たわっても、夜のどこかで扉が叩かれる音を想像してしまい、眠りは浅く、不安定だった。
呼ばれれば行かなければならない。
行けば、あの灰色の瞳に飲み込まれる。
行かなければ、妻としての務めを果たさないことになる。
そう思うだけで胸が苦しくなった。
けれど今は違う。
ヒーラーの言葉が盾になってくれる。
「安静に」という一文が、扉の前に結界のように張り巡らされている気がした。
レギュラスが本気を出せば、その結界など一瞬で破られるのだろう。
それでも、彼は今のところ、その力を向けてこない。
その事実だけが、アランを支えていた。
「……ここだけは」
寝台の上で、アランはぽつりと呟いた。
自分に与えられたこの部屋は、まるでひとつの要塞のようだった。
分厚い壁に囲まれていて、
扉にはきちんと鍵がついていて、
窓から見える景色は限られていて。
世界は狭い。
けれど、その狭さが、今はありがたかった。
ここだけは、自分の意思で「閉じて」いられる。
誰も勝手には入ってこない。
入ってこられたとしても、少なくとも「入ってきた」という事実を、自分で認識できる。
レギュラスの寝室のように、いつの間にか自分の理性も境界線も溶かされてしまう場所とは違う。
あの部屋は、甘くて危険な沼地だった。
踏み入れれば、あっという間に足を取られて沈んでいく。
ここは、石で固められた小さな砦。
どちらが居心地がいいかと問われれば、答えは決まっていた。
腹部にそっと手を添えると、そこにまだ何の重みもないことが不思議に感じられる。
けれど、ヒーラーは確かに言ったのだ。
「あなたの中で、確かに命が芽吹いています」と。
その命は、レギュラスの血を引く。
ブラック家の次代として扱われるだろう子。
そう思うと、胸の奥で複雑な感情が渦を巻く。
嬉しくないのか、と問われれば、嘘になる。
怖くないのか、と問われれば、それも嘘になる。
喜びと恐怖と、安堵と罪悪感と。
その全部が、同じ場所で絡まり合っている。
ただひとつだけ、はっきりと言えるのは――。
この子を理由に、レギュラスの部屋へ行かずに済む今の状態を、「助かった」と思っている自分がいるということだった。
それを自覚した瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さる。
この子を、逃げる口実にしている。
彼の子であるはずの存在を、彼から距離をとるための盾にしている。
それは正しくないと、どこかで分かっていた。
それでも、そうせずにはいられなかった。
ベッドサイドのスタンドに灯りをともす。
柔らかな光が、部屋の隅々までじんわりと広がった。
机の上には、父から預かった魔法薬のノートが開かれたまま置かれている。
文字を追う視線は、まだすぐに疲れてしまうけれど、それでも、ページを捲る音が心を落ち着かせてくれた。
魔法薬の分量調整。
新たな試薬の組み合わせ。
父と夜更けまで語り合った仮説たち。
それらを読み返していると、ほんの少しだけ、過去の自分に戻れる気がする。
レギュラスの妻でもなければ、ブラック家の正妻でもなく、
ただ、セシール家の娘として、父の研究を手伝っていた頃の自分に。
その感覚を、アランは今、必死で掴もうとしていた。
廊下の向こうで、遠くに人の気配がする。
誰かが笑い、誰かが低く話す声がする。
けれど、この部屋までは届かない。
扉ひとつ隔てただけなのに、まるで別世界の音のようだ。
アランは、枕元の灯りをゆっくりと落とした。
薄暗闇のなか、天蓋の布がゆっくりと揺れる。
瞼を閉じると、しばらくはレギュラスの顔が浮かんでくる。
そのあとに、ローランドの横顔が続く。
けれど、どちらの姿も、いつもより少し離れたところにあるように感じられた。
ほんの少し距離を置けるだけで、こんなにも呼吸がしやすくなるのかと思う。
この小さな要塞の中だけは、自分の意思で「思い出す」か「思い出さないか」を選べる。
アランは、腹部にそっと手を添えたまま、ゆっくりと息を吐いた。
――ここだけは、守りたい。
そう願いながら、彼女は静かに眠りへと沈んでいった。
レギュラスという悪魔の手が、今夜ここまでは伸びてこないと信じながら。
その夜、レギュラスはひとりで寝台に背を預けていた。
天蓋から垂れる薄布が、わずかな空気の流れに揺れる。
暖炉の火は落とされ、残り火だけが赤くくすぶっている。
静かだった。
あまりにも静かで、耳に届くのは自分の呼吸と、遠く廊下を誰かが歩く靴音が一度きり響いた気配だけだ。
その静けさが、今夜はやけに癇に障る。
枕元の片側は、綺麗なまま形を保っていた。
そこには本来、黒髪の妻の頭が乗っているはずだ。
翡翠の瞳を閉じて、長い睫毛を静かに伏せて、時おり眠りの浅い呼吸を漏らしながら寄り添ってくる女の体温があるはずだった。
何度も繰り返してきた夜の光景が、頭の中で容易に再現される。
なのに、伸ばした指先の先に、今は何もない。
レギュラスは、掌をゆっくりと握り込んだ。
懐妊の知らせが届いてからというもの、夜の過ごし方は目に見えて変わった。
「体調を優先したいので」と、アランは静かに言った。
その言葉自体は、もっともだった。
ヒーラーも「今は無理をなさらぬよう」とわざわざ口を酸っぱくして告げていた。
ヴァルブルガに至っては、最初の数日はほとんどアランを自室から出さぬ勢いで目を光らせていたくらいだ。
だから、レギュラスは笑って引き下がった。
「そうですね」と。
表面上は、何ひとつ不自然なところはない。
夫として、父となる男として、当然の配慮だった。
だが、その「当然」が何夜も続くと、胸の内側に沈殿していくものがある。
面白くない——その一言に尽きた。
天蓋の布を見上げながら、レギュラスは薄暗がりに目を細めた。
仕方がないと分かっている。
分かっているからこそ、露骨に引き留めようとはしない。
自分が無理を押し通せば、妻の体調を案じる両親だけでなく、ヒーラーまでも敵に回すことになる。
合理的に考えれば、今は何もしない方が得だ。
妻の身体も、腹に宿った子も、家のための「資産」であるのだから。
頭では理解している。
理解しているのに、感情だけが頑なに頷こうとしない。
何夜も続けて、自分の寝台に妻の姿がない現実。
これほど「不自然な当然」を、簡単に受け入れられるほど従順な性格ではなかった。
アランは、きっと自分の部屋で眠っている。
レギュラスは、目を閉じ、容易に想像できる光景を思い浮かべた。
あの部屋。
セシール家から運び入れた思い出の品を並べ、父の研究ノートを積み上げ、好きな香りのティーを棚に収めた、小さな砦。
そこで彼女は、「自分だけの自由」を謳歌しているつもりなのだろう。
せいぜいあの規模でしかない、狭い自由を。
ベッドサイドの灯りを落として、本を閉じて、天蓋を見上げて。
誰にも呼ばれない夜を、安堵の息とともに迎えているに違いない。
そう考えると、喉の奥がひどく冷たくなった。
馬鹿馬鹿しい、とレギュラスは思う。
その部屋がどこにあるのか忘れたのか。
この屋敷全体が誰の名義で建っているのか、本当に理解しているのか。
壁紙の色も、天蓋の布の質も、扉の鍵の強度も。
全て、ブラック家という檻の内側で、ブラック家の金で整えられたものだ。
彼女が「自由」だと思い込んでいるその空間は、結局、自分が許した範囲の中にしかない。
なのに、あたかも自分の意思だけで守り抜いた避難所のような顔をして潜り込んでいるのだから、滑稽で仕方がない。
枕に片腕を載せ、レギュラスは小さく頭を振った。
分かっている。
今、扉を叩いて呼び出せば、アランは怯えながらも従うだろう。
ヒーラーの忠告も、ヴァルブルガの目も、言いようによってはいくらでもすり抜けられる自信がある。
「眠れないので顔が見たい」と言えばいい。
「父上との話し合いに同席してほしい」と言うのもいい。
魔法省の案件を理由に「妻としての意見を聞きたい」と命じれば、彼女は断れないはずだ。
口実など、いくらでも捻り出せる。
それでも、今はしていない。
——だから、余計に面白くないのだ。
自分で自分に枷をはめているような感覚があった。
いつでも手を伸ばせる場所にいるものを、あえて伸ばさずにいる窮屈さ。
アランが、自室という小さな要塞に逃げ込み、その中で息を整えている姿が、ありありと目に浮かぶから余計だった。
そこには確かに安堵があるだろう。
どこからも攻撃の手が伸びてこないと信じて、胸の奥の震えを落ち着かせているのだろう。
——だが。
そこに安堵を見出しているという事実そのものが、レギュラスの癇に障った。
「僕から離れた場所でないと、落ち着いて眠れないというわけですか」
誰にも聞こえない寝室で、ぽつりと呟く。
アランがこの屋敷に来た時、第一条件として提示した「寝室は別に」という要求。
それは結局、いつの間にか有名無実になったはずだった。
夜ごとの行為を重ねるうちに、アランの身体は自然とこちらの寝台を選ぶようになっていた。
戸惑いも、不安も、警戒も。
最初の頃に見せていた硬さは少しずつ溶けていき、代わりに、素直な反応と甘さが増えていった。
あの変化を、誰よりも享受していたのはレギュラス自身だ。
自分の手が与える波に、身体の奥から応えるようになっていく女。
ローランドではなく、自分がその反応を引き出し、支配しているという実感。
それを一度知ってしまった以上、何事もなかった顔をして夜を別に過ごすことなど、本来できるはずがない。
なのに——今、アランは自室で眠り、自分はひとりきりでこの寝台にいる。
「仕方がない」と言い聞かせるほど、目の前の現実が薄ら寒くなる。
なんとかして、あの部屋から引きずり出したい。
レギュラスは、そう思った。
ただ「会いたいから」ではない。
甘さに飢えているからでもない。
彼女が「ここだけは安全だ」と信じ込んでいる場所を、握り潰してしまいたかった。
あの狭い要塞を、自分の手で容易く崩せるのだと教えてやりたい。
この屋敷に、彼女だけの絶対領域など存在しないのだと、骨の髄まで思い知らせてやりたい。
ただし、乱暴にではなく。
彼女の体調を言い訳にされないよう、誰からも非難されない形で。
口実を探す自分を自覚しながら、レギュラスは苦笑した。
「……本当に、面倒な女ですね、あなたは」
天蓋の向こうにいるはずのない相手に言う。
こうまで頭を使って、一人の妻を寝台から自室へ、そして再び寝台へと連れ戻す算段を練らなければならないとは思わなかった。
セシール家のアラン・セシールを手に入れるまでは、「女を手に入れる」という行為は、もっと単純で、もっと容易で、もっと退屈な遊びだったのに。
いつか、ヒーラーが「安静」の言葉を引っ込める日が来る。
「もう少し体調が落ち着けば」「安定期に入れば」という枕詞が消えるとき。
そのときが、ひとつの好機だろう。
「そろそろ戻ってきてください」と言うだけでいい。
「子どもの父親を寂しくさせないでください」と微笑めばいい。
それで足りないのなら、「子のために」も使えばいい。
アランは子を何より大切にするだろう。
その「子のために」という言葉を、盾にも矛にもできる。
彼女自身の「逃げ場」を、「子のため」という名目で奪うのは、これ以上なく皮肉な手段だと分かっていた。
それでも、どこかで愉快に思う自分がいる。
アランが必死に守ろうとしている小さな自由な空間を、
彼女自身が最も守りたいと願う存在――腹の中の子によって、じわりと侵食していく。
その構図を想像するだけで、口元がわずかに緩んだ。
レギュラスは、ゆっくりと横向きになり、空いた側の枕に手を伸ばした。
冷たい。
けれど、掌でその冷たさを覆い隠すように撫でていく。
ここにまた、アランの体温を取り戻す日が来る。
そう信じて疑わなかった。
今は、「仕方がない」と自分に言い聞かせる。
だが、その言葉を盾にして夜ごと自室へ逃げ込む妻を、いつまでも見逃すつもりはない。
なんとかして、なにか口実をつけて。
小さな砦から、アラン・ブラックを引きずり出す。
その時を思い描きながら、レギュラスは瞼を落とした。
面白くない夜は、長く感じられる。
けれど、長い夜ほど、次の一手を考えるにはちょうどいい。
闇の中で、彼の灰色の瞳だけが、静かに研ぎ澄まされていた。
退屈、という言葉は本来、レギュラス・ブラックの辞書にはなかった。
魔法省の案件はいくらでも転がっているし、ブラック家として処理すべき書簡も山のようにある。純血貴族たちの思惑の絡む席に顔を出せば、いくらでも頭と舌を使う場面は手に入った。
それでも、ここ最近の夜の静けさは、妙な「物足りなさ」を伴っていた。
寝台は一人きり。
隣の枕は、以前のように黒髪の体温を吸い込むこともなく、きれいな形を保ったまま。
——体調を優先したいので。
アランがそう告げて自室へ戻るようになってから、何夜も過ぎた。
仕方のないことだと理解している。ヒーラーも安静を命じているのだ、夫としてはそれを尊重する顔をしておくべきだろう。
頭ではそう結論づけるたびに、胸のどこかが不機嫌そうに舌打ちをした。
その日の昼下がり、屋敷のサロンには柔らかな日差しが差し込んでいた。
高い窓から落ちる光は、絹のカーテン越しに淡いベージュへと色を変え、磨き上げられた床に長い筋を描いている。
丸テーブルの上には、上等な茶器とハーブティーの香り。窓際には、ヴァルブルガが好む白い百合が花瓶に活けられていた。
ヴァルブルガは、ソファにもたれながら最新の魔法新聞を広げている。
アランは少し離れた椅子に、背筋をまっすぐにして座っていた。
——最近は、こうして昼のサロンで顔を合わせる時間だけが、レギュラスにとって彼女を「眺める」ための貴重な機会になりつつあった。
妊娠初期のせいか、どこか顔色はいつもより白い。
それでも髪は整えられ、淡い色のドレスは変わらず品よく身体に沿っている。胸元に添えられた手は、以前にも増して慎ましやかに見えた。
きっと、自分に与えられた部屋に閉じこもり、せいぜいあの規模でしかない自由を謳歌しているつもりなのだろう——レギュラスは心の中で鼻で笑った。
滑稽なほど狭い世界の中で、「守られている」と安心しているその姿が。
「アラン」
新聞をたたみかけたヴァルブルガの向こう側から、レギュラスは妻の名を呼んだ。
アランは、ぱちりと瞬きをした後、静かに顔を上げた。
「はい、レギュラス」
その声音はいつも通り丁寧で、感情を極力表に出さないように整えられている。
——だが、これからの言葉を聞けば、その整えた表情にどれほどのひびが入るか。考えるだけで、喉の奥が甘くなった。
「フロスト殿の婚礼の件で、少しご相談がありまして」
その名を口にした瞬間、アランの指先がほんのわずかに固まる。
カップの取っ手を持つ手に、かすかな力がこもったのを、レギュラスは見逃さなかった。
「……ローランド、の」
自分で気配を抑えようとしているのか、アランは途中で言葉を飲み込む。
正確な呼び名を選び直すように、言い換えた。
「フロスト殿の、でしょうか」
「ええ、フロスト殿です」
レギュラスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「婚約も正式に整いましたし、いよいよ式の準備が本格化するようです。
そこで、母と話していたのですが……花嫁の衣装を、ブラック家としても支援して差し上げようかと」
ヴァルブルガが、興味深そうに顔を上げた。
「そうですわね。遠縁とはいえブラックと繋がるご縁ですもの。粗末なものを着せるわけにはいかないわ」
当たり前のようにそう言って、ヴァルブルガは優雅に紅茶を口にする。
レギュラスは、そこでわずかに首を傾げ、アランの方へ視線を戻した。
「どう思いますか、アラン」
問いかけながら、すでに答えを決めている声色だった。
「……そうですね、レギュラスのお考えの通りかと」
アランは一拍の間を置いて、模範解答を口にする。
喉を通る声が少しだけ乾いている。
それでも、外から見れば十分に冷静な返答だ。
レギュラスは、ふっと目を細めた。
「でしたら、せっかくですし——」
わざと、そこで言葉を切る。
ヴァルブルガが興味を示して視線を寄越すのを待ってから、続けた。
「母上とあなたで、花嫁の衣装を選んで差し上げてはどうでしょう」
その瞬間、部屋の空気がかすかに凪いだ。
ハーブティーの香りが、妙に際立つ。
遠くの時計の音が、やけに大きく聞こえた。
アランは、目を見開いたまま固まった。
ヴァルブルガが先に反応を示す。
「あら、それはいい考えですわね、レギュラス」
彼女はすぐさま乗り気になって微笑んだ。
「わたくし一人よりも、アランの感性も加わった方が、きっと花嫁にふさわしい一着が選べるでしょう。
フロスト家も喜ぶはずですわ」
「でしょう?」
レギュラスは、母の賛同を当然のこととして受け止め、改めてアランに視線を向ける。
「あなたも、よろしいですよね?」
よろしい——そう問われて、アランは言葉を探しあぐねているようだった。
「断る」という選択肢は、この場にはほとんど存在しない。
ブラック家の妻として、ブラック家からフロスト家への支援を拒む理由など、本来ありはしないのだから。
それでも、戸惑いは隠しきれない。
かつて愛した男。
自分の未来を共に歩むと信じていた男。
その男が迎える花嫁の「純白」を、自分の手で選べと言われているのだ。
どれほど残酷な響きか、レギュラスには分かっている。
分かっていて、あえて口にしている。
——だからこそ、このうえなく甘美に聞こえた。
かつて、ローランド・フロストの隣に立つ自分の姿を夢見ていた女が、
今はブラック家の妻として、その男に嫁ぐ別の女の衣装を選ぶ。
その構図を想像するだけで、喉の奥に糖蜜のような愉悦が広がる。
「……わたくしで、務まるでしょうか」
しばらくの沈黙ののち、アランはようやく声を絞り出した。
震えを押し込めた、低く落ち着いた声色。
だが、翡翠の瞳の奥までは隠せない。そこには、明らかな動揺と戸惑いが渦巻いていた。
「務まりますよ」
レギュラスは、即答した。
「あなたは、この魔法界で最も美しい花嫁のひとりになった。
そのあなたが選ぶ衣装なら、どれであっても、きっと花嫁を輝かせるはずです」
褒め言葉の形をとりながら、その実、逃げ道を与えない言い方だった。
否定すれば、「自分はふさわしくない」と、ブラック家の妻としての立場を貶めることになる。
肯定するしかないように、道は最初から敷かれている。
「アラン、わたくしも一緒ですから安心なさい」
ヴァルブルガが、優雅に笑って言葉を添える。
「ドレスメーカーにはすでに目星をつけてあります。
何着か持って来させて、ここで選べばいいでしょう。あまり負担にならないように」
「……はい」
アランは、瞼を伏せて小さく頷いた。
それ以上、拒絶の言葉を紡ぐことはしなかった。
紡げなかったのだろう。
かつて愛した男の名を、ここで声にすることもできない。
ブラック家のサロンは、彼女の未練を吐き出すにはあまりにも冷静な空気に満ちていた。
だから、アランは黙って飲み込むしかない。
レギュラスが差し出した「義務」という名の刃を、胸の中心にそっと押し込まれる感覚を。
レギュラスは、その様子を眺めながら、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
甘さは控えめ。
けれど、舌に残る苦味が、妙に心地よかった。
「決まりですね」
あくまで事務的な口調で言う。
「日取りは、フロスト殿とも相談しましょう。
花嫁のサイズも正確に分かった方がいいでしょうから」
「そうですわね」とヴァルブルガ。
会話は、自然と次の段取りへと移っていく。
アランの表情は、もとの静けさを取り戻したように見えた。
だが、その指先だけは、膝の上でわずかに握り締められている。
レギュラスは、その小さな変化を見ているだけで十分に満足だった。
夜、アランはきっと自室で泣くかもしれない。
ローランドの名を心の中で呼びながら、
自分の手で選ぶことになった「純白」を思い浮かべて、胸を締め付けられるだろう。
体調を案じて、声には出さないかもしれない。
それでも、その涙は確かに流れる。
だが、それすらも——この屋敷の中では、レギュラスの「掌の上」にある。
彼女が自室という小さな砦に籠もり、そこで自由を謳歌しているつもりでいるなら、
その砦の中に、ひとつずつ自分の仕掛けた棘を増やしていけばいい。
何から逃げているつもりでも、どこへ閉じこもるつもりでも。
アラン・ブラックの人生は、結局、どこまでもブラック家とレギュラス・ブラックの線路の上にしか伸びていかないのだから。
レギュラスは、静かに微笑んだ。
退屈しのぎに仕掛けた、ちょっとした攻撃。
その刃が、どれほど深く彼女の心に食い込んでいくかを思うと、甘美な期待で胸の奥が満たされていく。
「花嫁の衣装を選ぶ」という名目を纏ったその残酷さに、
彼自身、心から愉悦を覚えていることを、隠すつもりはなかった。
