2章
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部屋には、急に音が消えたような静寂が落ちた。
窓の外で風が枝を揺らす音だけが遠くに聞こえる。
暖炉の前の絨毯の上に、午後の光が薄く伸びていた。
アランは椅子に腰掛けたまま、胸の前で握りしめた手をゆっくりと解いた。
爪の跡が白く残っている。
指先が震えているのを、ようやく自覚した。
ローランド・フロストの婚約。
ブラック家の遠縁の令嬢との縁談。
祝の別荘地。
海が見える、静かな避暑地。
頭の中に、いくつもの断片が浮かんでは消える。
どれも現実味がなかった。
ただひとつだけ、やけにはっきりと理解できたことがある。
——もう、終わったのだ。
ローランドと交わした幼い日の約束も。
成長してから交わした数え切れない手紙も。
「いつか」と笑い合っていた未来も。
ブラック家との婚姻で、半分は失われたと思っていたものが。
今、レギュラスの軽い口調ひとつで、完全に「過去」になった。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。
大きな音はしない。
ただ、砂になった柱が、音もなく積み重なっていた形を失うような感覚だった。
アランは、そっと唇を噛んだ。
涙は、まだ零れない。
それが、かろうじて保たれた最後の矜持のようにも思えた。
レギュラスの提案した別荘地の光景が、頭をよぎるたびに、胸の奥がじくじくと痛む。
そこにいるのは、自分ではない。
それでも、自分の名を連ねた祝の品が、その空間に置かれるのだ。
——ブラック家の妻として、彼の未来を祝う。
それが今の自分に課せられた「正しい振る舞い」なのだとしたら。
笑うしかない、と思った。
喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが詰まり、どうしようもなく熱が込み上げる。
アランは、ぎゅっと目を閉じた。
薄い瞼越しに差し込む光が、じわりと滲む。
静かな昼下がりの小客間で。
海の見える別荘の話を置き土産にして去っていった夫の背中を思い浮かべながら、アラン・ブラックは、誰にも見られない場所で、声にならない崩れ落ち方を覚えつつあった。
廊下に出かけていた足を、レギュラスはふと止めた。
扉が背後で静かに閉まったとき、彼は確かにアランの顔を見た。
椅子に沈み込むように座り、指先を組んで、必死に何かを繋ぎとめようとしている表情。
感情という名の水面が、乱暴に石を投げ込まれたあとのように、波紋を広げていた。
——あの顔を、このままにしておくのは惜しい。
わずかな心の動きで、レギュラスは踵を返した。
扉のノブに手をかけ、何事もなかったような顔で再び客間に戻る。
アランは、驚いたように顔を上げた。
翡翠の瞳が、まだ状況に追いついていない。
「……レギュラス?」
その呼び名が、掠れ気味にこぼれた。
「ひとつ、言い忘れていました」
レギュラスはさらりと言いながら、扉を閉める。
鍵はかけない。ただ、音を立てないように静かに。
アランは立ち上がる気力もないのか、そのまま椅子に座った姿勢で彼を見上げていた。
その視線の揺れ方が、ひどく分かりやすい。
混乱。
動揺。
理解しきれていない現実に追いつこうとして、足元だけが崩れていくような感覚。
それらが一つも隠しきれずに、全部瞳と表情に出ている。
本当に、隠すのが下手な女だ、とレギュラスは思った。
「アラン」
名を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと震える。
レギュラスは、ゆっくりと歩み寄った。
いつものように、と言えばいつも通りに見える程度の速度で。
だが、自分の胸の内側では、ひどく軽い高揚が跳ねていた。
最高に愉快だった。
ローランド・フロストの婚約が決まり、その事後報告を、ブラック家の妻であるアランに告げる。
彼女は、目の前で世界の輪郭を塗り替えられながら、立っていることすら忘れて椅子に沈み込んだ。
あの瞬間、胸の奥で何かが満たされる音がした。
「そんな顔をしないでください」
テーブルの横に立ち、見下ろしながら微笑む。
「まるで、世界の終わりが来たみたいじゃないですか」
翡翠の瞳が、ふるふると揺れた。
そんなつもりはなくとも、彼女の心の中ではきっと、それに近い感覚があるのだろう。
ローランド・フロストと交わした幼い日の約束も、未来の話も。
そのすべてが、自分の一言で「他の女との婚約」という現実に塗り潰されたのだから。
それを理解していながら、レギュラスの胸には罪悪感と呼べるものはほとんど浮かんでこなかった。
かわいそうだとは思う。
だが同時に——とても愛おしい。
自分の言葉ひとつで、ここまで揺れる女。
かつてローランドだけが支えになっていたその心の基準を、今は自分がねじ曲げている。
それが、愉快でたまらない。
「アラン」
もう一度、名を呼ぶ。
今度は少しだけ、声に重さを乗せる。
彼女の視線が、迷子のように彷徨いながらも、ようやくレギュラスに焦点を結ぶ。
「……はい」
返事というより、反射のようなものだった。
レギュラスは、テーブルの角を避けるように回り込み、彼女の正面に立つ。
椅子に座ったアランと、立つ彼とでは、自然と視線の高さに差ができる。
その位置関係が、今はとても心地よかった。
上から見下ろす形で、彼はじっとアランの顔を見つめる。
長い睫毛の影。
わずかに上気した頬。
噛みしめた唇の端が、かすかに震えている。
動揺も、困惑も、全部が顔に出ていた。
興味深い標本を眺める学者のような冷静さと。
宝石を掌に載せた子どものような高揚が、同時に胸の内で同居する。
「そんな顔をしていると」
レギュラスは、ゆっくりと指先を伸ばした。
アランの頬に触れる直前で、わざと一瞬だけ止める。
「……どうしても、意地悪をしたくなります」
囁くように告げ、そのまま顎の下に指を添える。
軽く押し上げると、彼女の顔が自然と上を向いた。
視線が、絡まる。
アランの翡翠の瞳には、まだ「ローランド・フロスト」の名残がある。
それでも、今この瞬間、目の前に立っているのはレギュラス・ブラックだ。
その事実が、どこまでも甘美だった。
「……レギュラス」
かすかに呼ばれた名は、戸惑いで震えている。
拒絶の言葉ではなかった。
問いかけでも、抗議でもない。
ただ、縋る場所を探して伸ばされた声。
レギュラスは、口元に薄く笑みを刻んだまま、身をかがめた。
迷いも躊躇もなく、彼女の唇に自分の唇を重ねる。
ふいを突かれたアランの身体が、ぴくりと強張った。
座ったままの姿勢で身じろぎしようとして、逃げ場を見失うように肩を震わせる。
レギュラスの手は、顎から頬へ、そこから後頭部へと滑らかに動いた。
逃げるかもしれないという予感と、実際には逃げられないという確信のあいだで、絶妙な力加減を保つ。
唇は、押しつけるでもなく、軽く啄むでもなく。
「離れる理由を与えない」ちょうどいい強さで、彼女の震えを口の内側に誘い込んでいく。
アランの息が、乱れる。
肩でかすかに呼吸をしながら、それでも彼を押し退ける力だけが出てこない。
無力だ、とレギュラスは思った。
ローランドの縁談話に崩れそうになった心も。
自分の前で取り繕おうとした矜持も。
全部、今こうして唇ひとつで簡単に上書きされていく。
その無力さが、たまらなく愛おしかった。
ゆっくりと唇を離したとき、アランの表情は、さっきよりさらに混乱していた。
頬は赤く染まり、瞳の縁にはうっすらと水が滲んでいる。
怒り、羞恥、悲しみ、戸惑い——どの感情にも名前がつけられないまま、全部がいっぺんに表に溢れ出ている顔。
レギュラスは、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「……どうして、そんな顔をするんです」
穏やかな声音で尋ねる。
「フロスト殿の婚約が決まったことは、あなたの責任ではありませんよ。
彼が、フロスト家の長男として選んだ道です」
言いながら、親指で彼女の下唇の端に触れた。
さっきまで自分の唇があった場所。
アランがびくりと身をすくめる。
「それとも——」
レギュラスは、少しだけ顔を近づける。
息が触れる距離で、低く囁いた。
「まだ、彼と僕のどちらを選ぶべきだったのか、迷っているんですか?」
翡翠の瞳が、大きく見開かれる。
図星だったのだろう。
言葉にしないところにあるものほど、表情にはっきりと出る。
レギュラスは、その反応を余すところなく味わいながら、内心で静かに愉悦を深めていった。
「……わたしは」
アランがどうにか声を絞り出す。
「あなたの、妻……です」
それは、確認でもあり、自分に言い聞かせる呪文のようでもあった。
「ええ、そうです」
レギュラスは即座に頷いた。
「だから、あなたは何も間違えていない。
フロスト殿が別の女性と婚約しようと、あなたはブラック家の妻であり、僕の妻です」
「僕の」という一人称と所有の言葉が、アランの中で何かを刺したのか、肩が小さく震える。
その震えを、彼は優越感とともに受け止めた。
「それに——」
指先をそっと彼女の頬に這わせながら、声を落とす。
「僕の前で、そんなに感情を漏らさなくてもいいんですよ」
それは慰めにも聞こえたかもしれない。
だが、レギュラス自身はよく分かっていた。
漏れているからこそ、彼女が愛おしいのだと。
ローランドの婚約話に打ちのめされているのを、必死に隠そうとして隠しきれない姿。
ブラック家の妻として振る舞おうとしながら、過去に縛られ続けている弱さ。
すべてが、彼の目には「自分だけが知っている彼女の顔」として映っていた。
「アラン」
もう一度名を呼び、今度はその額に軽く唇を触れさせた。
先ほどの口づけよりも、ずっと穏やかな、祝福にも似た仕草だった。
「フロスト殿は、フロスト家の未来を選んだ。
あなたは、ブラック家の未来を選んだ」
そのふたつは並べて語られていても、まったく同じものではない。
「それだけのことですよ」
「それだけ」と言いながら、その違いがどれほど大きいかを、レギュラスは誰よりも理解している。
アランの人生の中心にあった男は、別の女性の隣に立つ。
アラン自身は、ブラック家の紋章の下で「正妻」として扱われる。
どちらも、もう後戻りできない選択だった。
その選択の結果を、こうして腕の中で揺れている女の顔に刻みつけられることが——最高に愉快だった。
レギュラスは、アランの顎の下に添えていた指をそっと離した。
「……今日は、あまり考え込まない方がいい」
ふいに、柔らかい言葉を落とす。
「頭を使うのは、父上の研究のときだけにしておきなさい。
あなたがこんな顔でいると、僕が余計なことをしたくなります」
「余計なこと」とは何か。
それを詳しく説明する必要はなかった。
アランは、言葉を失ったまま、かすかに頷くしかできなかった。
その無防備な反応さえも、レギュラスの愉悦を深く満たしていく。
彼は最後にもう一度、彼女の髪を指先で軽く撫でた。
「……夕食までには気持ちを整えておいてくださいね。
ブラック家の食卓で、そんな顔をしていると、母が心配します」
それだけ言い残し、今度こそ部屋を後にする。
扉の向こうに出た瞬間、レギュラス・ブラックの口元には、誰にも見られないゆるやかな笑みが浮かんでいた。
胸の内側は、奇妙なほど軽かった。
まるで、よく出来た劇を観劇したあとに残る余韻のような、静かな高揚。
ローランド・フロストの婚約。
それをアランに告げたときの顔。
戸惑い、混乱、無力さ、そして、それでも自分に縋るように名を呼ぶ声。
すべてが、彼にとっては、このうえなく心地よい「成果」だった。
——最高に、愉快だ。
そう思いながら、レギュラスは何事もなかったかのような足取りで、魔法省での仕事に戻る準備をしに、自室へ向かって歩き出した。
その夜、ブラック家の屋敷は、不自然なほど静かだった。
日中は人の気配で満ちている廊下も、今は絨毯が足音を吸い込んで、歩くたびにわずかな衣擦れだけが響く。
アランは、いつものように呼び出されるまでもなく、レギュラスの寝室へと向かっていた。
習慣のようでいて、逃げ場を失った足が選ばされた道でもあった。
ノックをすると、すぐに低い声が返ってくる。
「どうぞ」
扉を開けると、部屋の中は暖炉の火とスタンドライトの柔らかな明かりだけに照らされていた。
昼間の応接間とは違う、閉ざされた温度。
レギュラスは、すでに上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外した格好で、ベッドの端に腰掛けていた。
「来てくれてよかった」
そう言って、当たり前のように手を伸ばしてくる。
その指先が、アランの手首をとらえた瞬間、今日一日の重さが、ようやく現実の手触りを持った。
ローランドの縁談。
ブラック家の遠縁の娘の名。
別荘地の話。
全部、ここに来るまでのあいだ、頭の隅にまとわりついて離れなかったものたちが、一気に輪郭を濃くして押し寄せてくる。
レギュラスは、そんな彼女の心の揺れを見透かすように、肩を引き寄せた。
「今夜は」
耳元に落ちる声は、昼間より少し低い。
「何も考えなくていいですよ」
囁きに似たその言葉が、胸の奥に落ちる。
——何も、考えなくていい。
その一文に、アランは縋りついてしまった。
そう言われてしまったから。
そう言ってくれる誰かがいるから。
考えることをやめる、という選択肢に、全身が一気に傾いていく。
ベッドの縁に腰を下ろした途端、背中が柔らかな寝具に吸い寄せられる。
レギュラスの腕が、自然な流れで肩と腰をすくい上げるように回って、アランはその胸元へと沈んでいった。
いつもと同じ香り。
洗い上げた布と、ほのかな香水と、彼自身の体温が混ざった匂いが、鼻腔の奥にゆっくりと広がる。
今日は、そこに何も重ねたくなかった。
ローランドの面影も、白い式服の姿も、海辺の別荘地のイメージも。
全部、ここに持ち込むべきではないと思った。
——考えない。
考えないと、決める。
それだけが、今の自分に残された逃げ道だった。
レギュラスの指先が、髪に触れる。
ゆったりとした動きで、うなじから肩へ、肩から背中へと滑っていく。
「今日一日、随分と顔が強張っていましたよ」
さも何でもない会話をするような調子だった。
「フロスト殿の縁談。そんなに堪えました?」
鋭く、意地悪く、核心を突く問い。
いつものアランなら、そこで声を詰まらせ、弁解とも言い訳ともつかない言葉を探してしまっただろう。
皮肉と分かっていても、正面から受け止め、傷ついてしまっただろう。
けれど今夜は——違った。
何も考えないと決めてきた。
感情を言葉にすることも、しない。
アランは、あえてレギュラスの言葉を無視した。
代わりに、胸元に額を押し当てる。
シャツの布越しに伝わる鼓動に、呼吸を合わせるように深く息を吸った。
彼がさらに何か言おうとした気配を感じて、アランは顔を上げた。
問いかけを遮るように、その唇に自分から口付ける。
一瞬、レギュラスの身体がわずかに硬直した。
いつもこちらの反応を読んで先に手を伸ばす彼が、ほんの刹那、手綱を取られたように動きを止める。
それが分かるくらいには、アランの感覚も冴えていた。
唇を離すと、灰色の瞳が意外そうに細められる。
「……ずいぶん、分かりやすい抗議ですね」
楽しげな響きが混ざっていた。
「話したくないなら、そう仰ればいい」
また意地悪を言う。
その返しすら、今日のアランにはもう受け止める余力がなかった。
だから、再び言葉の代わりに唇を重ねた。
今度は、先ほどより少し強く。
「黙って」と、「考えさせないで」を全部押し込むように、しがみつく。
レギュラスは、深く息を吐いた。
「……そんなふうに求められると、断れませんね」
苦笑に近い小さな声とともに、彼の腕の力が変わる。
今度はレギュラスのほうから、アランの腰を引き寄せ、後ろに倒れ込ませるように寝台へと導いた。
視界が揺れ、天蓋の布がゆっくりと頭上に広がっていく。
アランは、そこから先を考えなかった。
何が起こるかは分かっている。
けれど、その一つひとつに意味を与えないように、意識の焦点を細く絞る。
レギュラスの唇が触れる場所。
指先がなぞる線。
肌の上を移動する体温。
それだけを追いかける。
それは、現実から逃げるために選んだ、唯一の「今」だった。
「ねえ、アラン」
途中でふいに、レギュラスが問いを投げてくる。
「フロスト殿が別の女性と海辺に立つ姿、想像しました?」
意地悪く、容赦のない言葉。
アランは、耳を塞ぎたくなる衝動を、別の方法で押さえ込んだ。
レギュラスの口元に、震える手を伸ばす。
問いかけを遮るように、再び口付ける。
今度は、彼の言葉を呑み込むように深く。
返事もしない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、キスをねだる。
それ以外の反応を、全部切り捨てる。
レギュラスの手が、背中に回る。
指先がわずかに食い込んで、彼女の身体をさらに自分のほうへ引き寄せる。
「……本当に」
唇が離れた隙間に、吐息まじりの声が滑り込む。
「今夜は、徹底して逃げるつもりなんですね」
責める言い方ではなかった。
むしろ、どこか愉快そうに。
逃げる、という言葉が、今のアランには救いだった。
逃げたくてたまらなかった。
ローランドの笑顔からも。
彼の婚約者の姿からも。
自分の選んだ答えからも。
だから、頷く代わりに、もう一度彼の唇を探した。
意識の縁が、少しずつぼやけていく。
部屋の空気の温度も、灯りの明るさも、もうよく分からなかった。
ただ、近くにあるもの——レギュラスの体温と、抱き寄せる腕と、重なる呼吸だけが、はっきりと感じられる。
悲しみも、悔しさも、嫉妬も。
全部、胸の奥のどこかに存在しているのは分かっている。
けれど今夜だけは、それらに触れないと決めた。
代わりに、与えられるものだけを受け取る。
問われる言葉には答えず、求められる視線からも逸れて。
ただ、沈む道を選ぶ。
その沈み方を、一番よく知っているのは、皮肉なことにレギュラス・ブラックだった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
息を整える音だけが、静かな寝室に満ちている。
アランは、レギュラスの腕の中で目を閉じていた。
さっきまで暴れていた胸の奥の痛みは、今は厚い布の向こう側に押し込められているようだった。
消えたわけではない。
ただ、這い上がってこられないように、上から重たい何かで押さえつけられている。
レギュラスの掌だ。
背中に回された手のひらが、ゆっくりと上下に撫でる。
その動きは、驚くほど穏やかだった。
「何も、考えなくていいですよ」
最初に告げられた言葉が、もう一度、耳元に落ちてくる。
アランは、小さく息を吐いた。
眠気とも諦めともつかないものが、瞼の内側を重くする。
何も考えないまま沈んだ今夜のことを、明日の朝、どんな顔で思い出すのか。
そこまで想像する余裕は、もうなかった。
ただ、今だけは。
自分で自分を責める声から逃げる場所として、レギュラスの腕の中を選んだ。
それがどれほど危うい選択であるかを知りながらも——アランは、静かに目を閉じた。
レギュラスは、その全てを知っているわけではない。
けれど、揺れる呼吸と、腕の中で力を抜いていく身体から、彼女が今夜「何を選んだのか」だけは、誰よりもはっきりと理解していた。
そして、その理解が、彼の胸をひどく満たしていることを、アランだけが知らないままでいた。
その夜のことを、レギュラスは寝台の上でゆるやかに反芻していた。
薄闇に沈む天蓋の布。
暖炉の火は落とされ、部屋を満たすのは、かすかな残り香と、隣で眠るアランの規則的な呼吸だけだった。
腕の中には、すっかり力を抜いて眠りに落ちた妻の体温がある。
細い肩。華奢な背中。くぐもった寝息。
昼間、フロストの婚約を告げたときに見せた顔と、今この腕の中で緩んでいる表情とが、同一人物のものだとは、とても思えない。
——面白い、と思った。
あの夜。
アランの部屋にではなく、自分の寝室に呼んだのは、意図的だった。
彼女が逃げ場だと思っている空間から、わざわざ切り離すためでもある。
「今夜は、何も考えなくていいですよ」
そう口にしたとき、アランの翡翠の瞳に、かすかな影が揺れた。
何も考えなくていい——その言葉に、どれだけ飢えていたか。
そのひと言に縋りつきたいのだと、表情が雄弁に物語っていた。
レギュラスは、その瞬間から、彼女がどの逃げ道を選ぶのかを、半ば楽しみにしていた。
実際、予想は容易かった。
自分が意地悪く問いを投げるたびに、アランは言葉を失う。
『フロスト殿の縁談。そんなに堪えました?』
胸の奥を故意に抉る質問にも、彼女は「はい」も「いいえ」も選ばない。
選べば、その瞬間に何かが決壊すると本能で分かっているのだろう。
そして、代わりに選んだのは——キスだった。
問いかけを最後まで聞く前に、震える指先で彼の胸元を辿り、顔を上げる。
言葉を差し挟む隙を与えない角度で、唇を塞ぐ。
あの瞬間の、必死さと、情けなさと、縋るような熱。
走り慣れた獣道から外れまいとする生き物のように、アランの行動にはいつも「同じ癖」が出る。
嫌な話から逃げたい。
痛いところを突く言葉を聞きたくない。
ローランドの名を、口に出したくない。
——だから、口付けに逃げ込む。
レギュラスは、それをはっきりと理解していた。
気づかないふりをしているわけでもない。
むしろ、どのタイミングで逃げようとするかを観察すること自体が、愉快で仕方なかった。
本気になれば、追い詰めるのは簡単だ。
唇を塞いできたその顔を両手で掴み、逃げ場のない問いをぶつけることだってできる。
「フロスト殿と僕のどちらを見ているんです」とか、「どちらの未来を本当に望んでいたのか」とか。
彼女が壊れるまで責め立てることも、レギュラスならたやすい。
けれど——そうはしなかった。
アランの選んだ拙い逃げ方が、あまりにも分かりやすすぎて。
あまりにも、その奥にある「それしか知らない」必死さが透けて見えて。
可愛かったからだ。
自分が投げた意地悪な質問から逃げたくて。
言葉にした瞬間に自分の足場が崩れるのが怖くて。
それでも、ここから立ち去ることはできなくて。
結局、縋る場所をレギュラスの口元にしか見つけられない。
——それしか方法を知らない女。
そう思うと、笑いが喉の奥で柔らかく弾んだ。
最初のキスは、明らかに「逃げ」だった。
不意をつかれて、レギュラスは一瞬、動きを止めた。
唇に触れた感触が、いつもより少し硬く、震えている。
そこに込められているのは、甘えでも誘惑でもなく、「黙って」という懇願と、「これ以上喋らせないで」という防衛。
普通なら、その意図を踏みにじってでも問い詰めるところだ。
だが、そのとき胸に浮かんだのは、苛立ちではなかった。
——ああ、そう来ますか。
面白くて、仕方なかった。
だから、そのまま受け入れた。
逃げ込んできた唇を、あえて追いかける。
言葉の代わりに選んだ手段を、「それでいい」と肯定する。
逃げ道そのものを、自分が用意してやる。
そうすれば、この女はますます、ここに縫い止められていく。
二度目、三度目のキスは、もはやはっきりとした「選択」だった。
『フロスト殿が別の女性と海辺に立つ姿、想像しました?』
そう囁いた瞬間に、アランの指先が跳ねる。
痛いところを突かれた小動物のように、身体がこわばる。
次の瞬間、彼女は再び唇を重ねてきた。
今度は、先ほどより深く、強く。
問いそのものを呑み込んでしまうかのように。
レギュラスは、笑いそうになるのを堪えた。
言葉には一切乗ってこない。
代わりに、口付けと、腕を回す仕草と、震える呼吸で「黙らせて」くる。
自分の作った罠に、自分から飛び込んでくるようなものだ。
意地悪な質問から逃げようとしていることに、気づいていないとでも思っているのだろうか。
それとも、気づかれていることを承知の上で、それでもすがるしかないのか。
後者だとしたら——なおさら愛おしい。
結局のところ、アランは選んだのだ。
向き合う代わりに、縋ることを。
答える代わりに、沈むことを。
ローランドの名を抱きしめる代わりに、レギュラスの腕の中で乱れることを。
その不器用で、どうしようもなく情けない選び方が、レギュラスにはたまらなかった。
自分で自分を守る術を、彼女はほとんど持っていない。
幼い頃から、父とローランドの誠実さの中で守られて育ってきたのだろう。
だから、攻撃にも防御にも向かない。
その代わり、縋ることだけは、とても素直だ。
泣きつくように、しがみつくように。
全部分かっている相手に、全てを投げ出すやり方しか知らない。
——自分が、その「全てを投げ出す先」になっている。
そう考えると、胸の内側にじわりと熱が満ちていく。
腕の中で乱れる彼女は、どこまでも無力だった。
声も、吐息も、指先も。
自分の意思で制御しようとするほど裏目に出る。
我慢しようと唇を噛みしめれば、そこを解くように触れたくなる。
声を押し殺そうとすれば、余計に肩が震えて愛らしい。
最初にアランを抱いた夜に知った、「この女は徹底的に自分に向いている」という確信が、今夜また静かに更新されていく。
ローランドと重ねてきた穏やかな夜は、アランの核を作ったかもしれない。
だが、その核の周りを取り巻く「どうしようもなく愚かで、弱くて、情けない部分」をことごとく掌握しているのは、自分だ。
自分がする意地悪な質問から逃げたくて。
それでも離れられなくて。
結局、縋るしかない妻。
その姿が、最高に愉快で——同時に、最高に愛おしい。
レギュラスは、腕の中で眠るアランの髪を指先で撫でた。
小さく乱れた黒髪は、昼間のきっちりまとめられた姿とは違う、無防備な柔らかさを見せている。
この女は、きっとまだローランドを忘れてはいない。
フロストの名を聞けば胸が痛むだろうし、ふとした拍子に昔日の光景を思い出して涙ぐむこともあるだろう。
それでもいい、とレギュラスは思った。
その上で、現実としてこの腕の中を選ぶなら、それで十分だ。
彼女がどうあがいても逃げられない場所で、逃げ方を教えるのは自分だ。
その逃げ方が、やがて癖になり、中毒になり、唯一の安堵になるまで、何度でも繰り返せばいい。
——僕から逃げたくて、僕に縋る。
矛盾に満ちたその構図は、レギュラス・ブラックにとって、これ以上ないほど甘美だった。
彼は、静かに目を閉じる。
腕の中で眠る妻の呼吸に耳を澄ませながら、心のどこかで次の「意地悪な質問」と、それに対して彼女がまたキスに逃げ込んでくる夜を想像している自分に、ひそやかな笑みを浮かべていた。
その知らせは、ある朝、ブラック家の屋敷に届いた。
いつものように、食堂には三人分の朝食が並んでいる。
銀のポットから湯気が立ちのぼり、温かなスープと焼きたてのパンの香りが漂うなか、新聞と書簡が整然とテーブルの端に積まれていた。
オリオンとヴァルブルガはまだ席についておらず、部屋にはレギュラスとアランだけがいた。
アランは、控えめに紅茶を口に運びながら、横の方で屋敷しもべ妖精がそそくさと差し出した一通の封書に目をとめる。
「レギュラス、こちら……ヒーラーからの連絡のようですが」
アランが封筒を両手で持ち上げて差し出すと、レギュラスはナプキンで指先を軽く拭い、そのまま封を切った。
滑らかな仕草で紙を開き、視線を落とす。
一瞬——ほんの一秒にも満たない沈黙。
それから、レギュラスの口元に、ゆるやかな笑みが浮かんだ。
「……そうですか」
声は低く抑えられていたが、その奥には明らかな愉悦の色が滲んでいた。
「どうなさいましたか」と問おうとしたアランに、彼は紙から目を離さないまま言う。
「アラン」
名を呼ばれ、アランは背筋を正した。
「おめでとうございます」
「……?」
意味を理解できずに瞬きを繰り返すアランに、レギュラスはようやく視線を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐ彼女を射抜く。
「懐妊されています。ヒーラーの診断が、はっきりと」
その言葉が、食堂の空気に小さく落ちた。
懐妊——。
アランの胸の奥で、何かがふわりと浮き上がる。
驚きと、戸惑いと、うっすらとした恐れと、形にならない喜びが、一度に押し寄せてくる。
思わず、椅子の縁を握りしめた。
「……わたしが、」
声が震えたのを、自覚する。
「はい。アランブラック。あなたが」
レギュラスは淡々と言い、紙を折りたたんだ。
「早かったですね」
その一言に、彼の内心が端的に表れていた。
アランは、言葉を失ったまま俯く。
レギュラスは、そこでふっと笑みを深めた。
「まあ、当然ですけどね」
あまりにも自然に続ける。
「これだけ集中的に夜を共にしていれば、そういう結果が出るのは、ごく当たり前でしょう」
「集中的に」という言葉に、アランの耳が熱くなる。
確かに、このところの夜は、意識して数えようとしなかった回数で重なっていた。
呼び出されれば行き、拒むこともできず。
行けば、必ず最後まで抱かれた。
——だから、当然。
レギュラスの言葉は、揺るぎない自信と、計画通りだという満足感に満ちていた。
「……おめでとうございます、レギュラス」
ようやく絞り出した言葉は、息の混じったささやきに近かった。
レギュラスは、その返答に満足げに頷く。
「ええ。ありがとうございます」
言葉の端々から、「祝われて当然」という響きが滲んでいる。
「男児であったら言うことなしですね」
さらりと続いた一文は、ブラック家の事情を知る者なら誰でも頷くであろう常套句だった。
継ぐべき名。
継ぐべき家。
純血の血統を保ち、これからの魔法界を支配するための旗印。
それを担うのは、男児であることが望まれている。
アランは、胸の奥に小さな刺すような痛みを覚えながらも、表情を崩さなかった。
「……私も、そう願います」
それが、この家に嫁いだ女としての、正しい答えなのだと知っていた。
自分の身体の中に宿ったものが、まだ形も分からない小さな命であるにもかかわらず、その瞬間から「男児であれば」という期待に晒される。
それでも、アランは否定しなかった。
否定する権利が、自分にはないのだと思っていた。
ほどなくして、オリオンとヴァルブルガが食堂に入ってくる。
「遅くなってすまない」と淡く笑うオリオンの後ろで、ヴァルブルガの視線がテーブルの上の封書に走った。
レギュラスの表情と封書の組み合わせから、瞬時に察したのだろう。
「レギュラス」
鋭い声に、レギュラスは椅子から立ち上がる。
「アランが——」
「ええ、母上。ヒーラーからの診断です。アランは身ごもりました」
その報告に、オリオンの目が細められ、ヴァルブルガの唇にぱっと笑みが咲く。
「まあ……!」
ヴァルブルガは歩み寄り、アランを上から下までじっと眺めたかと思うと、珍しく柔らかな手つきで肩に触れた。
「よくやりましたわね、アラン。ブラック家の妻として、何よりの役目を果たし始めたと言えるでしょう」
アランは、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、ヴァルブルガ様」
そのやり取りを見ているレギュラスの胸には、満足と誇りが熱を帯びていた。
——こうなると分かっていた。
分かっていたが、それでも実際に「懐妊」という文字を目にすると、胸の内側で何かが静かに高鳴る。
自分の血を引く子。
ブラック家の名を継ぐ者。
それを、この美しい妻が宿している。
これほど美しい構図があるだろうか。
朝食を終えるころには、すでに屋敷の中は慌ただしくなっていた。
ヒーラーへの返書、呪文による定期検診の段取り、必要な部屋の整備。
ヴァルブルガは使用人たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、同時にどの家へ先に知らせるべきかを考え始める。
「まずは親族筋。それから、主要な純血家系へ。
新聞社には、そうね……午後の号には間に合わせたいわ」
「見出しには『ブラック家に新たな後継者、誕生予定』とでも載るでしょうね」とヴァルブルガが言うと、オリオンは満足げに頷いた。
魔法界の社交界にとって、ブラック家の懐妊は大きなニュースだ。
ましてや、妻があのセシール家の令嬢アランであり、両家の血は、魔法薬研究という長年の成果を通してさらに結びつきを強めている。
その二人の間に子が宿ったという事実は、政治的にも世論的にも、これ以上ないほどの「象徴」になる。
レギュラスは、そんなヴァルブルガとオリオンのやり取りを聞きながら、紅茶を口に運んだ。
集中的に重なった夜の期間が多かったのだから。
こうして知らせが来るのは、当然といえば当然だ。
彼は、静かに内心で計算をなぞる。
いつから、自分はこの結果を織り込み始めていたか。
どの夜を境に、「ただの行為」から「確実に未来を生み出すもの」へと意識が変わっていたか。
思い返せば、アランが自分の部屋に来ることに、もはや躊躇を見せなくなったあたりからだろう。
寝台に並ぶのが当たり前になり、求めれば応じ、拒絶の言葉が口を離れなくなった頃。
そこから先は、あとは「時間の問題」だった。
こんなにも——思い通りに、すべてが運んでいく。
身にまとってきた金も、家名も、地位も、権力も。
それらで動かしてきた計画の延長線上に、今、アランの懐妊がある。
自分で自分の人生に酔いそうになる、とはこのことだとレギュラスは思う。
仮に男児でなかったとしても、失望はしないだろう。
純血の血を引く子であることに変わりはないし——何より、自分には「また次を望めばいい」という余裕がある。
アランはまだ若い。
身体のことさえ注意していけば、いくらでも機会は持てる。
それすらも、自分の手の中にある。
「アラン」
席を立とうとしたアランに声をかけると、彼女は振り向いた。
「魔法省にも、すぐに知らせが届くでしょう。
しばらくは、どこへ出てもあなたの懐妊が話題になると思います」
その言い方には、半分は忠告、半分は愉しみが含まれていた。
「……そう、ですね」
アランは、自分の腹部にそっと手を添える。
まだ何も変わらない。
姿かたちも、重さもない。
それなのに、そこに「いる」と告げられた瞬間から、意識は確かに変わった。
自分の中に、誰かがいる——。
その事実だけが、ひどく静かに重かった。
「辛いことがあれば、すぐに言いなさい」
レギュラスの声が、ふいに柔らかくなる。
「父上の研究も、魔法省の案件も、あなたの体調には代えられません。
ブラック家の子を宿しているのは、あなただけですから」
その言葉は、責任の宣告であると同時に、何よりの庇護の宣言でもあった。
庇護される側としての自分と。
その庇護を与える側としてのレギュラス。
アランは、小さく「はい」とだけ応えた。
その日のうちに、フクロウたちが一斉に飛び立った。
ブラック家から親族への書簡。
セシール家への正式な報せ。
魔法新聞社への情報提供。
夕刻にはすでに、魔法界のあちこちで噂が囁かれ始めている。
——ブラック家の正妻、アラン・ブラック懐妊。
——セシール家とブラック家の血が、次代へと継がれる。
——レギュラス・ブラック、後継者確保。
記事の見出しも、酒場の噂話も、ほとんど似たような言葉で満たされるだろう。
その中心に、自分たちの名がある。
レギュラスは、窓辺でフクロウの尾羽が遠ざかっていくのを眺めながら、静かに息を吐いた。
「……本当に、よくできている」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
思い通りに組み上げてきた駒が、思い通りの位置に収まっていく。
その盤上で、美しい妻が、自分の子を宿している。
この先の未来まで含めて全部手の内にあるのだと錯覚してしまいそうになるほどの充足感に、彼はほのかな酔いを覚えていた。
廊下の向こうでは、アランがヴァルブルガに連れられ、ヒーラーから聞いた注意事項を改めて教え込まれている。
「冷やしてはいけませんよ」
「無茶な体勢をとってはだめ」
「食べ物は今まで以上に気を遣わなければ」
そのすべてが、「ブラック家の子」のために注がれていく。
レギュラスはその光景を思い浮かべ、口元をわずかに綻ばせた。
——全てが、順調だ。
そう言い切れる朝を迎えたことに、彼は、これ以上ないほどの満足を感じていた。
魔法省の廊下は、いつも以上に騒がしかった。
といっても、声が大きいわけではない。
空気そのものがざわめいている、という方が近かった。
レギュラスが歩を進めるたびに、すれ違う役人たちの視線が一瞬だけこちらに吸い寄せられ、次の瞬間には整えられた微笑みと祝辞が飛んでくる。
「ブラック様、ご懐妊の報せ、おめでとうございます」
「お祝い申し上げます、次代のご誕生が今から楽しみでございますな」
「セシール家との血が受け継がれるとは、魔法界にとっても朗報です」
ひとつひとつ、言葉そのものはどれも似ている。
だが職務も立場も違えば、滲む温度も異なる。
心の底から祝っている者もいれば、政治的意味を計算したうえでの挨拶もいる。
それらを、レギュラスはひと目で見分けながら、同じ微笑みで受け流していった。
「ありがとうございます」
口元に浮かべる笑みの形は、いつしか固定されていた。
頬の筋肉が、その表情に合わせて記憶してしまったかのように、わずかな力で同じ弧を描ける。
努めて淡々と――だが、決して素っ気なくはならない絶妙な角度で。
「母子ともに、まずは順調と聞いております。
ご心配には及びませんよ」
そう添えると、相手はほぼ例外なく安心したように頷き、さらに言葉を重ねた。
「そのご様子なら何よりです。どうか奥方にもよろしくお伝えください」
「後継者となるお子様が、ブラック様のような優秀な魔法使いになられますように」
レギュラスは、同じ微笑みでそれらを受け止める。
祝辞を交わしながらも、歩く速度はほとんど落とさなかった。
窓の外で風が枝を揺らす音だけが遠くに聞こえる。
暖炉の前の絨毯の上に、午後の光が薄く伸びていた。
アランは椅子に腰掛けたまま、胸の前で握りしめた手をゆっくりと解いた。
爪の跡が白く残っている。
指先が震えているのを、ようやく自覚した。
ローランド・フロストの婚約。
ブラック家の遠縁の令嬢との縁談。
祝の別荘地。
海が見える、静かな避暑地。
頭の中に、いくつもの断片が浮かんでは消える。
どれも現実味がなかった。
ただひとつだけ、やけにはっきりと理解できたことがある。
——もう、終わったのだ。
ローランドと交わした幼い日の約束も。
成長してから交わした数え切れない手紙も。
「いつか」と笑い合っていた未来も。
ブラック家との婚姻で、半分は失われたと思っていたものが。
今、レギュラスの軽い口調ひとつで、完全に「過去」になった。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。
大きな音はしない。
ただ、砂になった柱が、音もなく積み重なっていた形を失うような感覚だった。
アランは、そっと唇を噛んだ。
涙は、まだ零れない。
それが、かろうじて保たれた最後の矜持のようにも思えた。
レギュラスの提案した別荘地の光景が、頭をよぎるたびに、胸の奥がじくじくと痛む。
そこにいるのは、自分ではない。
それでも、自分の名を連ねた祝の品が、その空間に置かれるのだ。
——ブラック家の妻として、彼の未来を祝う。
それが今の自分に課せられた「正しい振る舞い」なのだとしたら。
笑うしかない、と思った。
喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが詰まり、どうしようもなく熱が込み上げる。
アランは、ぎゅっと目を閉じた。
薄い瞼越しに差し込む光が、じわりと滲む。
静かな昼下がりの小客間で。
海の見える別荘の話を置き土産にして去っていった夫の背中を思い浮かべながら、アラン・ブラックは、誰にも見られない場所で、声にならない崩れ落ち方を覚えつつあった。
廊下に出かけていた足を、レギュラスはふと止めた。
扉が背後で静かに閉まったとき、彼は確かにアランの顔を見た。
椅子に沈み込むように座り、指先を組んで、必死に何かを繋ぎとめようとしている表情。
感情という名の水面が、乱暴に石を投げ込まれたあとのように、波紋を広げていた。
——あの顔を、このままにしておくのは惜しい。
わずかな心の動きで、レギュラスは踵を返した。
扉のノブに手をかけ、何事もなかったような顔で再び客間に戻る。
アランは、驚いたように顔を上げた。
翡翠の瞳が、まだ状況に追いついていない。
「……レギュラス?」
その呼び名が、掠れ気味にこぼれた。
「ひとつ、言い忘れていました」
レギュラスはさらりと言いながら、扉を閉める。
鍵はかけない。ただ、音を立てないように静かに。
アランは立ち上がる気力もないのか、そのまま椅子に座った姿勢で彼を見上げていた。
その視線の揺れ方が、ひどく分かりやすい。
混乱。
動揺。
理解しきれていない現実に追いつこうとして、足元だけが崩れていくような感覚。
それらが一つも隠しきれずに、全部瞳と表情に出ている。
本当に、隠すのが下手な女だ、とレギュラスは思った。
「アラン」
名を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと震える。
レギュラスは、ゆっくりと歩み寄った。
いつものように、と言えばいつも通りに見える程度の速度で。
だが、自分の胸の内側では、ひどく軽い高揚が跳ねていた。
最高に愉快だった。
ローランド・フロストの婚約が決まり、その事後報告を、ブラック家の妻であるアランに告げる。
彼女は、目の前で世界の輪郭を塗り替えられながら、立っていることすら忘れて椅子に沈み込んだ。
あの瞬間、胸の奥で何かが満たされる音がした。
「そんな顔をしないでください」
テーブルの横に立ち、見下ろしながら微笑む。
「まるで、世界の終わりが来たみたいじゃないですか」
翡翠の瞳が、ふるふると揺れた。
そんなつもりはなくとも、彼女の心の中ではきっと、それに近い感覚があるのだろう。
ローランド・フロストと交わした幼い日の約束も、未来の話も。
そのすべてが、自分の一言で「他の女との婚約」という現実に塗り潰されたのだから。
それを理解していながら、レギュラスの胸には罪悪感と呼べるものはほとんど浮かんでこなかった。
かわいそうだとは思う。
だが同時に——とても愛おしい。
自分の言葉ひとつで、ここまで揺れる女。
かつてローランドだけが支えになっていたその心の基準を、今は自分がねじ曲げている。
それが、愉快でたまらない。
「アラン」
もう一度、名を呼ぶ。
今度は少しだけ、声に重さを乗せる。
彼女の視線が、迷子のように彷徨いながらも、ようやくレギュラスに焦点を結ぶ。
「……はい」
返事というより、反射のようなものだった。
レギュラスは、テーブルの角を避けるように回り込み、彼女の正面に立つ。
椅子に座ったアランと、立つ彼とでは、自然と視線の高さに差ができる。
その位置関係が、今はとても心地よかった。
上から見下ろす形で、彼はじっとアランの顔を見つめる。
長い睫毛の影。
わずかに上気した頬。
噛みしめた唇の端が、かすかに震えている。
動揺も、困惑も、全部が顔に出ていた。
興味深い標本を眺める学者のような冷静さと。
宝石を掌に載せた子どものような高揚が、同時に胸の内で同居する。
「そんな顔をしていると」
レギュラスは、ゆっくりと指先を伸ばした。
アランの頬に触れる直前で、わざと一瞬だけ止める。
「……どうしても、意地悪をしたくなります」
囁くように告げ、そのまま顎の下に指を添える。
軽く押し上げると、彼女の顔が自然と上を向いた。
視線が、絡まる。
アランの翡翠の瞳には、まだ「ローランド・フロスト」の名残がある。
それでも、今この瞬間、目の前に立っているのはレギュラス・ブラックだ。
その事実が、どこまでも甘美だった。
「……レギュラス」
かすかに呼ばれた名は、戸惑いで震えている。
拒絶の言葉ではなかった。
問いかけでも、抗議でもない。
ただ、縋る場所を探して伸ばされた声。
レギュラスは、口元に薄く笑みを刻んだまま、身をかがめた。
迷いも躊躇もなく、彼女の唇に自分の唇を重ねる。
ふいを突かれたアランの身体が、ぴくりと強張った。
座ったままの姿勢で身じろぎしようとして、逃げ場を見失うように肩を震わせる。
レギュラスの手は、顎から頬へ、そこから後頭部へと滑らかに動いた。
逃げるかもしれないという予感と、実際には逃げられないという確信のあいだで、絶妙な力加減を保つ。
唇は、押しつけるでもなく、軽く啄むでもなく。
「離れる理由を与えない」ちょうどいい強さで、彼女の震えを口の内側に誘い込んでいく。
アランの息が、乱れる。
肩でかすかに呼吸をしながら、それでも彼を押し退ける力だけが出てこない。
無力だ、とレギュラスは思った。
ローランドの縁談話に崩れそうになった心も。
自分の前で取り繕おうとした矜持も。
全部、今こうして唇ひとつで簡単に上書きされていく。
その無力さが、たまらなく愛おしかった。
ゆっくりと唇を離したとき、アランの表情は、さっきよりさらに混乱していた。
頬は赤く染まり、瞳の縁にはうっすらと水が滲んでいる。
怒り、羞恥、悲しみ、戸惑い——どの感情にも名前がつけられないまま、全部がいっぺんに表に溢れ出ている顔。
レギュラスは、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「……どうして、そんな顔をするんです」
穏やかな声音で尋ねる。
「フロスト殿の婚約が決まったことは、あなたの責任ではありませんよ。
彼が、フロスト家の長男として選んだ道です」
言いながら、親指で彼女の下唇の端に触れた。
さっきまで自分の唇があった場所。
アランがびくりと身をすくめる。
「それとも——」
レギュラスは、少しだけ顔を近づける。
息が触れる距離で、低く囁いた。
「まだ、彼と僕のどちらを選ぶべきだったのか、迷っているんですか?」
翡翠の瞳が、大きく見開かれる。
図星だったのだろう。
言葉にしないところにあるものほど、表情にはっきりと出る。
レギュラスは、その反応を余すところなく味わいながら、内心で静かに愉悦を深めていった。
「……わたしは」
アランがどうにか声を絞り出す。
「あなたの、妻……です」
それは、確認でもあり、自分に言い聞かせる呪文のようでもあった。
「ええ、そうです」
レギュラスは即座に頷いた。
「だから、あなたは何も間違えていない。
フロスト殿が別の女性と婚約しようと、あなたはブラック家の妻であり、僕の妻です」
「僕の」という一人称と所有の言葉が、アランの中で何かを刺したのか、肩が小さく震える。
その震えを、彼は優越感とともに受け止めた。
「それに——」
指先をそっと彼女の頬に這わせながら、声を落とす。
「僕の前で、そんなに感情を漏らさなくてもいいんですよ」
それは慰めにも聞こえたかもしれない。
だが、レギュラス自身はよく分かっていた。
漏れているからこそ、彼女が愛おしいのだと。
ローランドの婚約話に打ちのめされているのを、必死に隠そうとして隠しきれない姿。
ブラック家の妻として振る舞おうとしながら、過去に縛られ続けている弱さ。
すべてが、彼の目には「自分だけが知っている彼女の顔」として映っていた。
「アラン」
もう一度名を呼び、今度はその額に軽く唇を触れさせた。
先ほどの口づけよりも、ずっと穏やかな、祝福にも似た仕草だった。
「フロスト殿は、フロスト家の未来を選んだ。
あなたは、ブラック家の未来を選んだ」
そのふたつは並べて語られていても、まったく同じものではない。
「それだけのことですよ」
「それだけ」と言いながら、その違いがどれほど大きいかを、レギュラスは誰よりも理解している。
アランの人生の中心にあった男は、別の女性の隣に立つ。
アラン自身は、ブラック家の紋章の下で「正妻」として扱われる。
どちらも、もう後戻りできない選択だった。
その選択の結果を、こうして腕の中で揺れている女の顔に刻みつけられることが——最高に愉快だった。
レギュラスは、アランの顎の下に添えていた指をそっと離した。
「……今日は、あまり考え込まない方がいい」
ふいに、柔らかい言葉を落とす。
「頭を使うのは、父上の研究のときだけにしておきなさい。
あなたがこんな顔でいると、僕が余計なことをしたくなります」
「余計なこと」とは何か。
それを詳しく説明する必要はなかった。
アランは、言葉を失ったまま、かすかに頷くしかできなかった。
その無防備な反応さえも、レギュラスの愉悦を深く満たしていく。
彼は最後にもう一度、彼女の髪を指先で軽く撫でた。
「……夕食までには気持ちを整えておいてくださいね。
ブラック家の食卓で、そんな顔をしていると、母が心配します」
それだけ言い残し、今度こそ部屋を後にする。
扉の向こうに出た瞬間、レギュラス・ブラックの口元には、誰にも見られないゆるやかな笑みが浮かんでいた。
胸の内側は、奇妙なほど軽かった。
まるで、よく出来た劇を観劇したあとに残る余韻のような、静かな高揚。
ローランド・フロストの婚約。
それをアランに告げたときの顔。
戸惑い、混乱、無力さ、そして、それでも自分に縋るように名を呼ぶ声。
すべてが、彼にとっては、このうえなく心地よい「成果」だった。
——最高に、愉快だ。
そう思いながら、レギュラスは何事もなかったかのような足取りで、魔法省での仕事に戻る準備をしに、自室へ向かって歩き出した。
その夜、ブラック家の屋敷は、不自然なほど静かだった。
日中は人の気配で満ちている廊下も、今は絨毯が足音を吸い込んで、歩くたびにわずかな衣擦れだけが響く。
アランは、いつものように呼び出されるまでもなく、レギュラスの寝室へと向かっていた。
習慣のようでいて、逃げ場を失った足が選ばされた道でもあった。
ノックをすると、すぐに低い声が返ってくる。
「どうぞ」
扉を開けると、部屋の中は暖炉の火とスタンドライトの柔らかな明かりだけに照らされていた。
昼間の応接間とは違う、閉ざされた温度。
レギュラスは、すでに上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外した格好で、ベッドの端に腰掛けていた。
「来てくれてよかった」
そう言って、当たり前のように手を伸ばしてくる。
その指先が、アランの手首をとらえた瞬間、今日一日の重さが、ようやく現実の手触りを持った。
ローランドの縁談。
ブラック家の遠縁の娘の名。
別荘地の話。
全部、ここに来るまでのあいだ、頭の隅にまとわりついて離れなかったものたちが、一気に輪郭を濃くして押し寄せてくる。
レギュラスは、そんな彼女の心の揺れを見透かすように、肩を引き寄せた。
「今夜は」
耳元に落ちる声は、昼間より少し低い。
「何も考えなくていいですよ」
囁きに似たその言葉が、胸の奥に落ちる。
——何も、考えなくていい。
その一文に、アランは縋りついてしまった。
そう言われてしまったから。
そう言ってくれる誰かがいるから。
考えることをやめる、という選択肢に、全身が一気に傾いていく。
ベッドの縁に腰を下ろした途端、背中が柔らかな寝具に吸い寄せられる。
レギュラスの腕が、自然な流れで肩と腰をすくい上げるように回って、アランはその胸元へと沈んでいった。
いつもと同じ香り。
洗い上げた布と、ほのかな香水と、彼自身の体温が混ざった匂いが、鼻腔の奥にゆっくりと広がる。
今日は、そこに何も重ねたくなかった。
ローランドの面影も、白い式服の姿も、海辺の別荘地のイメージも。
全部、ここに持ち込むべきではないと思った。
——考えない。
考えないと、決める。
それだけが、今の自分に残された逃げ道だった。
レギュラスの指先が、髪に触れる。
ゆったりとした動きで、うなじから肩へ、肩から背中へと滑っていく。
「今日一日、随分と顔が強張っていましたよ」
さも何でもない会話をするような調子だった。
「フロスト殿の縁談。そんなに堪えました?」
鋭く、意地悪く、核心を突く問い。
いつものアランなら、そこで声を詰まらせ、弁解とも言い訳ともつかない言葉を探してしまっただろう。
皮肉と分かっていても、正面から受け止め、傷ついてしまっただろう。
けれど今夜は——違った。
何も考えないと決めてきた。
感情を言葉にすることも、しない。
アランは、あえてレギュラスの言葉を無視した。
代わりに、胸元に額を押し当てる。
シャツの布越しに伝わる鼓動に、呼吸を合わせるように深く息を吸った。
彼がさらに何か言おうとした気配を感じて、アランは顔を上げた。
問いかけを遮るように、その唇に自分から口付ける。
一瞬、レギュラスの身体がわずかに硬直した。
いつもこちらの反応を読んで先に手を伸ばす彼が、ほんの刹那、手綱を取られたように動きを止める。
それが分かるくらいには、アランの感覚も冴えていた。
唇を離すと、灰色の瞳が意外そうに細められる。
「……ずいぶん、分かりやすい抗議ですね」
楽しげな響きが混ざっていた。
「話したくないなら、そう仰ればいい」
また意地悪を言う。
その返しすら、今日のアランにはもう受け止める余力がなかった。
だから、再び言葉の代わりに唇を重ねた。
今度は、先ほどより少し強く。
「黙って」と、「考えさせないで」を全部押し込むように、しがみつく。
レギュラスは、深く息を吐いた。
「……そんなふうに求められると、断れませんね」
苦笑に近い小さな声とともに、彼の腕の力が変わる。
今度はレギュラスのほうから、アランの腰を引き寄せ、後ろに倒れ込ませるように寝台へと導いた。
視界が揺れ、天蓋の布がゆっくりと頭上に広がっていく。
アランは、そこから先を考えなかった。
何が起こるかは分かっている。
けれど、その一つひとつに意味を与えないように、意識の焦点を細く絞る。
レギュラスの唇が触れる場所。
指先がなぞる線。
肌の上を移動する体温。
それだけを追いかける。
それは、現実から逃げるために選んだ、唯一の「今」だった。
「ねえ、アラン」
途中でふいに、レギュラスが問いを投げてくる。
「フロスト殿が別の女性と海辺に立つ姿、想像しました?」
意地悪く、容赦のない言葉。
アランは、耳を塞ぎたくなる衝動を、別の方法で押さえ込んだ。
レギュラスの口元に、震える手を伸ばす。
問いかけを遮るように、再び口付ける。
今度は、彼の言葉を呑み込むように深く。
返事もしない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、キスをねだる。
それ以外の反応を、全部切り捨てる。
レギュラスの手が、背中に回る。
指先がわずかに食い込んで、彼女の身体をさらに自分のほうへ引き寄せる。
「……本当に」
唇が離れた隙間に、吐息まじりの声が滑り込む。
「今夜は、徹底して逃げるつもりなんですね」
責める言い方ではなかった。
むしろ、どこか愉快そうに。
逃げる、という言葉が、今のアランには救いだった。
逃げたくてたまらなかった。
ローランドの笑顔からも。
彼の婚約者の姿からも。
自分の選んだ答えからも。
だから、頷く代わりに、もう一度彼の唇を探した。
意識の縁が、少しずつぼやけていく。
部屋の空気の温度も、灯りの明るさも、もうよく分からなかった。
ただ、近くにあるもの——レギュラスの体温と、抱き寄せる腕と、重なる呼吸だけが、はっきりと感じられる。
悲しみも、悔しさも、嫉妬も。
全部、胸の奥のどこかに存在しているのは分かっている。
けれど今夜だけは、それらに触れないと決めた。
代わりに、与えられるものだけを受け取る。
問われる言葉には答えず、求められる視線からも逸れて。
ただ、沈む道を選ぶ。
その沈み方を、一番よく知っているのは、皮肉なことにレギュラス・ブラックだった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
息を整える音だけが、静かな寝室に満ちている。
アランは、レギュラスの腕の中で目を閉じていた。
さっきまで暴れていた胸の奥の痛みは、今は厚い布の向こう側に押し込められているようだった。
消えたわけではない。
ただ、這い上がってこられないように、上から重たい何かで押さえつけられている。
レギュラスの掌だ。
背中に回された手のひらが、ゆっくりと上下に撫でる。
その動きは、驚くほど穏やかだった。
「何も、考えなくていいですよ」
最初に告げられた言葉が、もう一度、耳元に落ちてくる。
アランは、小さく息を吐いた。
眠気とも諦めともつかないものが、瞼の内側を重くする。
何も考えないまま沈んだ今夜のことを、明日の朝、どんな顔で思い出すのか。
そこまで想像する余裕は、もうなかった。
ただ、今だけは。
自分で自分を責める声から逃げる場所として、レギュラスの腕の中を選んだ。
それがどれほど危うい選択であるかを知りながらも——アランは、静かに目を閉じた。
レギュラスは、その全てを知っているわけではない。
けれど、揺れる呼吸と、腕の中で力を抜いていく身体から、彼女が今夜「何を選んだのか」だけは、誰よりもはっきりと理解していた。
そして、その理解が、彼の胸をひどく満たしていることを、アランだけが知らないままでいた。
その夜のことを、レギュラスは寝台の上でゆるやかに反芻していた。
薄闇に沈む天蓋の布。
暖炉の火は落とされ、部屋を満たすのは、かすかな残り香と、隣で眠るアランの規則的な呼吸だけだった。
腕の中には、すっかり力を抜いて眠りに落ちた妻の体温がある。
細い肩。華奢な背中。くぐもった寝息。
昼間、フロストの婚約を告げたときに見せた顔と、今この腕の中で緩んでいる表情とが、同一人物のものだとは、とても思えない。
——面白い、と思った。
あの夜。
アランの部屋にではなく、自分の寝室に呼んだのは、意図的だった。
彼女が逃げ場だと思っている空間から、わざわざ切り離すためでもある。
「今夜は、何も考えなくていいですよ」
そう口にしたとき、アランの翡翠の瞳に、かすかな影が揺れた。
何も考えなくていい——その言葉に、どれだけ飢えていたか。
そのひと言に縋りつきたいのだと、表情が雄弁に物語っていた。
レギュラスは、その瞬間から、彼女がどの逃げ道を選ぶのかを、半ば楽しみにしていた。
実際、予想は容易かった。
自分が意地悪く問いを投げるたびに、アランは言葉を失う。
『フロスト殿の縁談。そんなに堪えました?』
胸の奥を故意に抉る質問にも、彼女は「はい」も「いいえ」も選ばない。
選べば、その瞬間に何かが決壊すると本能で分かっているのだろう。
そして、代わりに選んだのは——キスだった。
問いかけを最後まで聞く前に、震える指先で彼の胸元を辿り、顔を上げる。
言葉を差し挟む隙を与えない角度で、唇を塞ぐ。
あの瞬間の、必死さと、情けなさと、縋るような熱。
走り慣れた獣道から外れまいとする生き物のように、アランの行動にはいつも「同じ癖」が出る。
嫌な話から逃げたい。
痛いところを突く言葉を聞きたくない。
ローランドの名を、口に出したくない。
——だから、口付けに逃げ込む。
レギュラスは、それをはっきりと理解していた。
気づかないふりをしているわけでもない。
むしろ、どのタイミングで逃げようとするかを観察すること自体が、愉快で仕方なかった。
本気になれば、追い詰めるのは簡単だ。
唇を塞いできたその顔を両手で掴み、逃げ場のない問いをぶつけることだってできる。
「フロスト殿と僕のどちらを見ているんです」とか、「どちらの未来を本当に望んでいたのか」とか。
彼女が壊れるまで責め立てることも、レギュラスならたやすい。
けれど——そうはしなかった。
アランの選んだ拙い逃げ方が、あまりにも分かりやすすぎて。
あまりにも、その奥にある「それしか知らない」必死さが透けて見えて。
可愛かったからだ。
自分が投げた意地悪な質問から逃げたくて。
言葉にした瞬間に自分の足場が崩れるのが怖くて。
それでも、ここから立ち去ることはできなくて。
結局、縋る場所をレギュラスの口元にしか見つけられない。
——それしか方法を知らない女。
そう思うと、笑いが喉の奥で柔らかく弾んだ。
最初のキスは、明らかに「逃げ」だった。
不意をつかれて、レギュラスは一瞬、動きを止めた。
唇に触れた感触が、いつもより少し硬く、震えている。
そこに込められているのは、甘えでも誘惑でもなく、「黙って」という懇願と、「これ以上喋らせないで」という防衛。
普通なら、その意図を踏みにじってでも問い詰めるところだ。
だが、そのとき胸に浮かんだのは、苛立ちではなかった。
——ああ、そう来ますか。
面白くて、仕方なかった。
だから、そのまま受け入れた。
逃げ込んできた唇を、あえて追いかける。
言葉の代わりに選んだ手段を、「それでいい」と肯定する。
逃げ道そのものを、自分が用意してやる。
そうすれば、この女はますます、ここに縫い止められていく。
二度目、三度目のキスは、もはやはっきりとした「選択」だった。
『フロスト殿が別の女性と海辺に立つ姿、想像しました?』
そう囁いた瞬間に、アランの指先が跳ねる。
痛いところを突かれた小動物のように、身体がこわばる。
次の瞬間、彼女は再び唇を重ねてきた。
今度は、先ほどより深く、強く。
問いそのものを呑み込んでしまうかのように。
レギュラスは、笑いそうになるのを堪えた。
言葉には一切乗ってこない。
代わりに、口付けと、腕を回す仕草と、震える呼吸で「黙らせて」くる。
自分の作った罠に、自分から飛び込んでくるようなものだ。
意地悪な質問から逃げようとしていることに、気づいていないとでも思っているのだろうか。
それとも、気づかれていることを承知の上で、それでもすがるしかないのか。
後者だとしたら——なおさら愛おしい。
結局のところ、アランは選んだのだ。
向き合う代わりに、縋ることを。
答える代わりに、沈むことを。
ローランドの名を抱きしめる代わりに、レギュラスの腕の中で乱れることを。
その不器用で、どうしようもなく情けない選び方が、レギュラスにはたまらなかった。
自分で自分を守る術を、彼女はほとんど持っていない。
幼い頃から、父とローランドの誠実さの中で守られて育ってきたのだろう。
だから、攻撃にも防御にも向かない。
その代わり、縋ることだけは、とても素直だ。
泣きつくように、しがみつくように。
全部分かっている相手に、全てを投げ出すやり方しか知らない。
——自分が、その「全てを投げ出す先」になっている。
そう考えると、胸の内側にじわりと熱が満ちていく。
腕の中で乱れる彼女は、どこまでも無力だった。
声も、吐息も、指先も。
自分の意思で制御しようとするほど裏目に出る。
我慢しようと唇を噛みしめれば、そこを解くように触れたくなる。
声を押し殺そうとすれば、余計に肩が震えて愛らしい。
最初にアランを抱いた夜に知った、「この女は徹底的に自分に向いている」という確信が、今夜また静かに更新されていく。
ローランドと重ねてきた穏やかな夜は、アランの核を作ったかもしれない。
だが、その核の周りを取り巻く「どうしようもなく愚かで、弱くて、情けない部分」をことごとく掌握しているのは、自分だ。
自分がする意地悪な質問から逃げたくて。
それでも離れられなくて。
結局、縋るしかない妻。
その姿が、最高に愉快で——同時に、最高に愛おしい。
レギュラスは、腕の中で眠るアランの髪を指先で撫でた。
小さく乱れた黒髪は、昼間のきっちりまとめられた姿とは違う、無防備な柔らかさを見せている。
この女は、きっとまだローランドを忘れてはいない。
フロストの名を聞けば胸が痛むだろうし、ふとした拍子に昔日の光景を思い出して涙ぐむこともあるだろう。
それでもいい、とレギュラスは思った。
その上で、現実としてこの腕の中を選ぶなら、それで十分だ。
彼女がどうあがいても逃げられない場所で、逃げ方を教えるのは自分だ。
その逃げ方が、やがて癖になり、中毒になり、唯一の安堵になるまで、何度でも繰り返せばいい。
——僕から逃げたくて、僕に縋る。
矛盾に満ちたその構図は、レギュラス・ブラックにとって、これ以上ないほど甘美だった。
彼は、静かに目を閉じる。
腕の中で眠る妻の呼吸に耳を澄ませながら、心のどこかで次の「意地悪な質問」と、それに対して彼女がまたキスに逃げ込んでくる夜を想像している自分に、ひそやかな笑みを浮かべていた。
その知らせは、ある朝、ブラック家の屋敷に届いた。
いつものように、食堂には三人分の朝食が並んでいる。
銀のポットから湯気が立ちのぼり、温かなスープと焼きたてのパンの香りが漂うなか、新聞と書簡が整然とテーブルの端に積まれていた。
オリオンとヴァルブルガはまだ席についておらず、部屋にはレギュラスとアランだけがいた。
アランは、控えめに紅茶を口に運びながら、横の方で屋敷しもべ妖精がそそくさと差し出した一通の封書に目をとめる。
「レギュラス、こちら……ヒーラーからの連絡のようですが」
アランが封筒を両手で持ち上げて差し出すと、レギュラスはナプキンで指先を軽く拭い、そのまま封を切った。
滑らかな仕草で紙を開き、視線を落とす。
一瞬——ほんの一秒にも満たない沈黙。
それから、レギュラスの口元に、ゆるやかな笑みが浮かんだ。
「……そうですか」
声は低く抑えられていたが、その奥には明らかな愉悦の色が滲んでいた。
「どうなさいましたか」と問おうとしたアランに、彼は紙から目を離さないまま言う。
「アラン」
名を呼ばれ、アランは背筋を正した。
「おめでとうございます」
「……?」
意味を理解できずに瞬きを繰り返すアランに、レギュラスはようやく視線を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐ彼女を射抜く。
「懐妊されています。ヒーラーの診断が、はっきりと」
その言葉が、食堂の空気に小さく落ちた。
懐妊——。
アランの胸の奥で、何かがふわりと浮き上がる。
驚きと、戸惑いと、うっすらとした恐れと、形にならない喜びが、一度に押し寄せてくる。
思わず、椅子の縁を握りしめた。
「……わたしが、」
声が震えたのを、自覚する。
「はい。アランブラック。あなたが」
レギュラスは淡々と言い、紙を折りたたんだ。
「早かったですね」
その一言に、彼の内心が端的に表れていた。
アランは、言葉を失ったまま俯く。
レギュラスは、そこでふっと笑みを深めた。
「まあ、当然ですけどね」
あまりにも自然に続ける。
「これだけ集中的に夜を共にしていれば、そういう結果が出るのは、ごく当たり前でしょう」
「集中的に」という言葉に、アランの耳が熱くなる。
確かに、このところの夜は、意識して数えようとしなかった回数で重なっていた。
呼び出されれば行き、拒むこともできず。
行けば、必ず最後まで抱かれた。
——だから、当然。
レギュラスの言葉は、揺るぎない自信と、計画通りだという満足感に満ちていた。
「……おめでとうございます、レギュラス」
ようやく絞り出した言葉は、息の混じったささやきに近かった。
レギュラスは、その返答に満足げに頷く。
「ええ。ありがとうございます」
言葉の端々から、「祝われて当然」という響きが滲んでいる。
「男児であったら言うことなしですね」
さらりと続いた一文は、ブラック家の事情を知る者なら誰でも頷くであろう常套句だった。
継ぐべき名。
継ぐべき家。
純血の血統を保ち、これからの魔法界を支配するための旗印。
それを担うのは、男児であることが望まれている。
アランは、胸の奥に小さな刺すような痛みを覚えながらも、表情を崩さなかった。
「……私も、そう願います」
それが、この家に嫁いだ女としての、正しい答えなのだと知っていた。
自分の身体の中に宿ったものが、まだ形も分からない小さな命であるにもかかわらず、その瞬間から「男児であれば」という期待に晒される。
それでも、アランは否定しなかった。
否定する権利が、自分にはないのだと思っていた。
ほどなくして、オリオンとヴァルブルガが食堂に入ってくる。
「遅くなってすまない」と淡く笑うオリオンの後ろで、ヴァルブルガの視線がテーブルの上の封書に走った。
レギュラスの表情と封書の組み合わせから、瞬時に察したのだろう。
「レギュラス」
鋭い声に、レギュラスは椅子から立ち上がる。
「アランが——」
「ええ、母上。ヒーラーからの診断です。アランは身ごもりました」
その報告に、オリオンの目が細められ、ヴァルブルガの唇にぱっと笑みが咲く。
「まあ……!」
ヴァルブルガは歩み寄り、アランを上から下までじっと眺めたかと思うと、珍しく柔らかな手つきで肩に触れた。
「よくやりましたわね、アラン。ブラック家の妻として、何よりの役目を果たし始めたと言えるでしょう」
アランは、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、ヴァルブルガ様」
そのやり取りを見ているレギュラスの胸には、満足と誇りが熱を帯びていた。
——こうなると分かっていた。
分かっていたが、それでも実際に「懐妊」という文字を目にすると、胸の内側で何かが静かに高鳴る。
自分の血を引く子。
ブラック家の名を継ぐ者。
それを、この美しい妻が宿している。
これほど美しい構図があるだろうか。
朝食を終えるころには、すでに屋敷の中は慌ただしくなっていた。
ヒーラーへの返書、呪文による定期検診の段取り、必要な部屋の整備。
ヴァルブルガは使用人たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、同時にどの家へ先に知らせるべきかを考え始める。
「まずは親族筋。それから、主要な純血家系へ。
新聞社には、そうね……午後の号には間に合わせたいわ」
「見出しには『ブラック家に新たな後継者、誕生予定』とでも載るでしょうね」とヴァルブルガが言うと、オリオンは満足げに頷いた。
魔法界の社交界にとって、ブラック家の懐妊は大きなニュースだ。
ましてや、妻があのセシール家の令嬢アランであり、両家の血は、魔法薬研究という長年の成果を通してさらに結びつきを強めている。
その二人の間に子が宿ったという事実は、政治的にも世論的にも、これ以上ないほどの「象徴」になる。
レギュラスは、そんなヴァルブルガとオリオンのやり取りを聞きながら、紅茶を口に運んだ。
集中的に重なった夜の期間が多かったのだから。
こうして知らせが来るのは、当然といえば当然だ。
彼は、静かに内心で計算をなぞる。
いつから、自分はこの結果を織り込み始めていたか。
どの夜を境に、「ただの行為」から「確実に未来を生み出すもの」へと意識が変わっていたか。
思い返せば、アランが自分の部屋に来ることに、もはや躊躇を見せなくなったあたりからだろう。
寝台に並ぶのが当たり前になり、求めれば応じ、拒絶の言葉が口を離れなくなった頃。
そこから先は、あとは「時間の問題」だった。
こんなにも——思い通りに、すべてが運んでいく。
身にまとってきた金も、家名も、地位も、権力も。
それらで動かしてきた計画の延長線上に、今、アランの懐妊がある。
自分で自分の人生に酔いそうになる、とはこのことだとレギュラスは思う。
仮に男児でなかったとしても、失望はしないだろう。
純血の血を引く子であることに変わりはないし——何より、自分には「また次を望めばいい」という余裕がある。
アランはまだ若い。
身体のことさえ注意していけば、いくらでも機会は持てる。
それすらも、自分の手の中にある。
「アラン」
席を立とうとしたアランに声をかけると、彼女は振り向いた。
「魔法省にも、すぐに知らせが届くでしょう。
しばらくは、どこへ出てもあなたの懐妊が話題になると思います」
その言い方には、半分は忠告、半分は愉しみが含まれていた。
「……そう、ですね」
アランは、自分の腹部にそっと手を添える。
まだ何も変わらない。
姿かたちも、重さもない。
それなのに、そこに「いる」と告げられた瞬間から、意識は確かに変わった。
自分の中に、誰かがいる——。
その事実だけが、ひどく静かに重かった。
「辛いことがあれば、すぐに言いなさい」
レギュラスの声が、ふいに柔らかくなる。
「父上の研究も、魔法省の案件も、あなたの体調には代えられません。
ブラック家の子を宿しているのは、あなただけですから」
その言葉は、責任の宣告であると同時に、何よりの庇護の宣言でもあった。
庇護される側としての自分と。
その庇護を与える側としてのレギュラス。
アランは、小さく「はい」とだけ応えた。
その日のうちに、フクロウたちが一斉に飛び立った。
ブラック家から親族への書簡。
セシール家への正式な報せ。
魔法新聞社への情報提供。
夕刻にはすでに、魔法界のあちこちで噂が囁かれ始めている。
——ブラック家の正妻、アラン・ブラック懐妊。
——セシール家とブラック家の血が、次代へと継がれる。
——レギュラス・ブラック、後継者確保。
記事の見出しも、酒場の噂話も、ほとんど似たような言葉で満たされるだろう。
その中心に、自分たちの名がある。
レギュラスは、窓辺でフクロウの尾羽が遠ざかっていくのを眺めながら、静かに息を吐いた。
「……本当に、よくできている」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
思い通りに組み上げてきた駒が、思い通りの位置に収まっていく。
その盤上で、美しい妻が、自分の子を宿している。
この先の未来まで含めて全部手の内にあるのだと錯覚してしまいそうになるほどの充足感に、彼はほのかな酔いを覚えていた。
廊下の向こうでは、アランがヴァルブルガに連れられ、ヒーラーから聞いた注意事項を改めて教え込まれている。
「冷やしてはいけませんよ」
「無茶な体勢をとってはだめ」
「食べ物は今まで以上に気を遣わなければ」
そのすべてが、「ブラック家の子」のために注がれていく。
レギュラスはその光景を思い浮かべ、口元をわずかに綻ばせた。
——全てが、順調だ。
そう言い切れる朝を迎えたことに、彼は、これ以上ないほどの満足を感じていた。
魔法省の廊下は、いつも以上に騒がしかった。
といっても、声が大きいわけではない。
空気そのものがざわめいている、という方が近かった。
レギュラスが歩を進めるたびに、すれ違う役人たちの視線が一瞬だけこちらに吸い寄せられ、次の瞬間には整えられた微笑みと祝辞が飛んでくる。
「ブラック様、ご懐妊の報せ、おめでとうございます」
「お祝い申し上げます、次代のご誕生が今から楽しみでございますな」
「セシール家との血が受け継がれるとは、魔法界にとっても朗報です」
ひとつひとつ、言葉そのものはどれも似ている。
だが職務も立場も違えば、滲む温度も異なる。
心の底から祝っている者もいれば、政治的意味を計算したうえでの挨拶もいる。
それらを、レギュラスはひと目で見分けながら、同じ微笑みで受け流していった。
「ありがとうございます」
口元に浮かべる笑みの形は、いつしか固定されていた。
頬の筋肉が、その表情に合わせて記憶してしまったかのように、わずかな力で同じ弧を描ける。
努めて淡々と――だが、決して素っ気なくはならない絶妙な角度で。
「母子ともに、まずは順調と聞いております。
ご心配には及びませんよ」
そう添えると、相手はほぼ例外なく安心したように頷き、さらに言葉を重ねた。
「そのご様子なら何よりです。どうか奥方にもよろしくお伝えください」
「後継者となるお子様が、ブラック様のような優秀な魔法使いになられますように」
レギュラスは、同じ微笑みでそれらを受け止める。
祝辞を交わしながらも、歩く速度はほとんど落とさなかった。
