1章
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宴が終わったあと、広間にはまだ余韻が漂っていた。
テーブルの上には飲みかけのグラスや、食べ残された小さな菓子が並んでいる。
音楽はすでに止み、人々は思い思いに別れの挨拶を交わしながら、次々と夜気へ溶けていくように扉の向こうへ消えていく。
アラン・セシールも例外ではなかった。
父母のいる席へ戻って短く挨拶を済ませ、帰り支度を整える。
長いドレスの裾を片手でほんの少し持ち上げ、もう片方の手には小さなクラッチバッグ。
馬車止めのある正面玄関へ向かうため、人の列に紛れて歩き出す。
今すぐにでも屋敷に帰りたかった。
緊張でこわばっていた肩も、胸の鼓動も、早く自分の部屋の暗がりの中に隠してしまいたい。
この夜のことを静かにほどきながら、ひとりで息を整えたかった。
その背中を、ふいに指先が捉える。
手首を後ろからそっと掴まれた感触に、アランの足がぴたりと止まった。
驚いて振り返るよりも前に、耳に低い声が落ちる。
「セシール嬢。少しだけ、付き合っていただけませんか」
レギュラス・ブラックの声だった。
振り向いた先には、先ほどまで舞踏会の中央にいた男が、そのままの完璧な姿で立っていた。
礼服の襟元も乱れておらず、結ばれたネクタイも、その灰色の瞳も、さきほどと一寸たりとも変わっていない。
——どうして、自分の手を。
驚きと戸惑いが一気に胸に押し寄せ、声が喉につかえる。
情けないほどに、言葉にならない沈黙が生まれた。
ようやく押し出した声は、思った以上に上ずっていた。
「……あ、の……すみません。わたし、そろそろ帰らないと」
馬車の灯りが、玄関先でゆらゆらと揺れているのが見える。
そこに救いを求めるような感覚で視線を向けながら、アランは精一杯穏やかに断ろうとした。
しかし、レギュラスの指は緩まなかった。
ふわりとした笑みを浮かべたまま、淡々とした調子で返す。
「明日の朝、帰りの馬車はこちらで手配します。
責任を持って、ご自宅までお送りしますから、ご心配なく」
柔らかく、とろけるような響き。
口にされる言葉は、ひとつひとつが「安心してください」と言わんばかりだった。
けれど、その手の力は、逃げようとすれば確実に止められるだけの強さを帯びていた。
握り締められているわけではない。
ただ、離そうとすれば、決して振り払えないだろうと直感させる絶妙な圧。
この誘いが何を意味するのか——分からないほど幼くはない。
舞踏会の隅で囁かれてきた噂、レギュラスが夜ごと選ぶという令嬢たちの話。
そのいくつもが、頭の片隅で冷たく反響している。
レギュラス・ブラックに手を出された令嬢のうちのひとりになりたくない。
その感情が、はっきりと胸の中で形を取った。
「父も、わたしが早く戻ると思っていますから」
アランは、言葉を選びながら続けた。
「帰りが遅くなると、きっと心配します。今日は、本当に……」
「では、先にフクロウを飛ばしましょう」
レギュラスは、少しも困った様子を見せなかった。
「ブラック家から、セシール家へ。
今夜は僕どもの屋敷で、休んでいただくとお伝えします。
ブラック家の名でお知らせすれば、ご両親もご安心なさるはずです」
滑らかな返しだった。
まるで、その言い訳を予期していたかのような淀みのなさ。
アランの口から出た「父も母も案じている」という言葉を、あっさりと別の安心材料に変えてしまう。
胸の奥に、ひやりとしたものが走る。
「……今日は少し、疲れておりまして」
アランは、手首にかかる圧を意識しながら、なおも言葉を繋いだ。
「舞踏会はあまり慣れていなくて……これ以上は、あまり……」
身体も心も、限界に近い。
一刻も早く楽になりたいという本音を、礼儀に変換して伝える。
しかし、その言葉すら、レギュラスは穏やかに受け流した。
「それならなおさら、です」
彼は、ふっと目を細める。
「ゆっくりくつろげる部屋を、すでに用意しています。
人の出入りも少なく、騒がしくありません。
今夜の喧騒を忘れて、休んでいただけるはずですよ」
アランの喉が、かすかに鳴る。
否定の言葉を探そうとして、うまく見つからない。
だめだ——と、心の奥で警鐘が鳴った。
何を言っても、返ってくる。
用意されていたかのような言葉が、次々と退路を塞いでいく。
父母を理由にしても、体調を理由にしても、すべて「心配無用」という優しい言葉で塗りつぶされてしまう。
それは一見、こちらを気遣っているようでいて、実際には「断る権利」を少しずつ奪っていくやり方だった。
周囲を見回しても、誰も彼らの会話に立ち入ろうとはしない。
ブラック家の嫡男とセシール家の令嬢が、少し離れた場所で話している——それだけの状況に、口を挟もうとする者はいない。
むしろ遠巻きに好奇と期待が混じった目が向けられているだけだった。
「……本当に、わたしなんかでよろしいのですか」
本音とは違う、最後の防波堤のような言葉が口をついて漏れる。
謙遜の形を取った拒絶。
自分よりもっと他に、彼にふさわしい相手がいるはずだと言いたかった。
レギュラスは、迷いなく首を振った。
「セシール嬢だから、誘っているのです」
穏やかな声が、まるで褒美を告げるように降りかかる。
「他の誰でもない、あなたに。
今夜は、少しだけ僕に時間を預けていただきたくて」
その「少し」が、どれほどの意味を含んでいるのか。
アランは分かっていた。
分かっているからこそ、足がすくむ。
廊下の先には、外へ続く扉と、別の方向へ伸びる回廊が見えている。
灯りの落とされた先には、きっとさきほどバーテミウスが言っていた「用意された部屋」があるのだろう。
レギュラスの手は、そのどちらとも違う方向へ、静かに彼女を誘導し始めた。
逃げ道と出口から、少しずつ遠ざけていくような歩み。
なぜ、こんなふうに手を引かれているのか。
どうして、自分の足で歩きながらも、まるで自分の意志で動いていないような感覚に陥るのか。
アランは息を詰めた。
胸の内側で、小さく固く丸まった拒絶がある。
しかし、それを言葉にして押し出すための力が、喉の奥で固まって出てこない。
完璧な男の、完璧な微笑み。
柔らかく、礼儀正しく、どこまでも整えられた物腰。
その全てが、彼女に「ここで声を荒げてはいけない」と教え込んでくる。
だめだ、何を言っても——。
予想され、整えられた返答が、またひとつ彼女の背中を押す。
逃げ場が、一つひとつ封じ込まれていく。
廊下の空気は、先ほどの広間とは違いひんやりとしていた。
壁にかかる絵画と、規則正しく並ぶ燭台の炎だけが、静かな光を揺らしている。
その中を歩きながら、アランは自分の足音がいつもより重く聞こえるのを感じていた。
まだ、引き返せる。
そう思う一方で、腕にかかる手の重さが、その考えを否定する。
レギュラスは、一度も彼女の手を離さなかった。
決して乱暴ではないのに、確実に逃さない力で。
アランは、唇をかすかに噛み、視線を足元へ落とした。
ネクタイでも、襟元でもなく、今はただ自分のつま先だけを見つめる。
ひとりで帰るはずだった帰り道は、いつのまにか、全く違う方向へと長く延びていく。
その先に何が待っているのかを知りながら、立ち止まることすら許されないような、細い綱の上を歩かされている心地がした。
バスルームに満ちる白い蒸気が、天井近くで渦を巻いていた。
シャワーヘッドから落ちる湯が、タイル張りの床に細かな水音を重ねる。
大理石の壁には、柔らかな灯りが反射しているのに、アランの胸の内側だけは暗く沈んだままだった。
熱いはずの湯が、どこか他人事のように肩を打っていく。
首筋を伝い落ちる水の線を、アランはほとんど感じていなかった。
なぜ、こんなところで——。
セシール家の娘として育ち、父と母の庇護のもと、きちんとした未来を歩くはずだった。
今夜も本来なら、宴が終わり次第、家の馬車に乗って屋敷に戻っているはずだった。
母の用意した寝間着に着替え、自室のベッドに身を沈めて、少し苦いお茶を飲みながら、今日の出来事をひとつずつほどいていたはずだ。
なのに、今アランの足元に広がっているのは、ブラック家のゲストルームに併設された豪奢な浴室の床だった。
見慣れない蛇口、艶のある大理石、魔法で曇りひとつない鏡。
天井の高ささえ、自宅とは違う。
レギュラス・ブラックが手配した、という部屋。
その浴室で、アランはシャワーを浴びている。
情けなさが、胸の奥でゆっくりと固まっていく。
湯を浴びれば、少しは落ち着くかと思った。
しかし、熱い水でさえ、罪悪感と恐怖を洗い流してはくれない。
思考は、自然と一人の男へと向かう。
アランには、婚約と言っても過言ではない約束を交わした相手がいる。
幼いころから、何度も同じ卓を囲み、同じ庭で遊び、同じ空気を吸ってきた相手だった。
ローランド・フロスト。
古くから魔法省の高官や学者を輩出してきた名門フロスト家の長男。
純血としての系譜も申し分なく、落ち着いた銀灰色の髪と穏やかな青い瞳を持つ青年だ。
子どもの頃から物静かで、騒ぐよりも本を読む方を好む。
セシール家の図書室に入り浸っては、アランと並んで本をめくっていた。
彼はレギュラスのような、誰もが振り返るような派手な美貌を持ってはいない。
けれど、穏やかな笑みと柔らかな声は、長い年月をかけてアランの心に染み付いていた。
七歳の頃、庭の片隅で指切りをした記憶がある。
泥のついた靴のまま芝生に座り込み、「大人になったら、アランと結婚してもいいかい」と、少し照れくさそうに言った少年の顔。
その拙い約束を、アランは本気で信じていた。
十代に入り、互いに学業が忙しくなっても、節目ごとに手紙が届いた。
試験に合格したこと、家業の手伝いを始めたこと、将来はどんな仕事に就きたいか。
手紙の筆跡は年々整い、内容も徐々に大人びていく。
最近では、ローランドはフロスト家の跡取りとして、正式に魔法省の研修に通い始めたところだった。
それでも時間を見つけてはアランの屋敷を訪れ、食前酒の前に短く散歩を共にする習慣があった。
ーーいつか、正式に。
暖炉の火の前で、彼が慎重に言葉を選びながら語った夜を、アランははっきり覚えている。
「君のご両親に、話をしたいと思っている」と。
互いの家の関係にとっても悪くない縁談になるはずだと、穏やかな声で。
父と母も、ローランドを歓迎していた。
アランは何度も両親に頼み込んだ。
この縁談を正式な婚約として整えてほしい、と。
きっと、このまま何もなければ。
時間をかけて話が進み、フロスト家とセシール家の婚約は正式に発表される。
二人は穏やかで安定した未来を歩み、やがて当然のように同じ屋根の下で暮らすことになる。
アランは、それで十分だと思っていた。
男女の行為など、ローランドと以外に経験する必要があるとは考えたこともなかった。
彼と初めて体を重ねた夜、ぎこちなさと緊張に包まれながらも、互いに不器用に気遣い合った。
それは決して劇的でも刺激的でもなかったが、静かに胸の奥を温めるような時間だった。
この先も、ローランドだけでいい。
他の誰かに触れられたいとも、触れたいとも思わなかった。
それが、アランの世界の形だった。
なのに今、彼女はレギュラス・ブラックの用意した屋敷にいる。
シャワーの音に紛れて、心の中でその事実をなぞるたび、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
このあと何が起こるのか、分からないほど愚かではない。
レギュラスの指先の強さ、あの部屋へ向かうまでに退路を一つずつ潰していった会話の巧妙さを思い出せば、なおさら。
このまま浴室の中に閉じこもってしまえたらいいのに、と一瞬思う。
しかし、それも現実ではなかった。
扉の向こうには、彼がいる。
待っている。
ブラック家の主が、客人に用意した部屋の外で、いつまでも気長に待っているのかもしれないという想像が、余計に背中を冷やした。
湯を止めると、音がぴたりと途切れた。
代わりに、自分の鼓動の音がやけに大きく響く。
壁に掛けられたふかふかのタオルを取り、機械のような動作で水気を拭っていく。
肌に触れる布の感触さえ、どこか遠くのもののようだった。
用意されていたバスローブは、柔らかく、上等な生地だった。
袖を通し、紐を結びながら、アランは鏡の前で一瞬だけ立ち止まる。
そこには、いつもと違う自分が映っていた。
頬はほんのりと紅潮し、濡れた黒髪が肩に張り付いている。
翡翠の瞳は、不安と罪悪感を隠そうとして、かえって揺らいで見えた。
普段なら、母の前に出る前に整え直す表情も、今は思うように作れない。
ローランドの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかな目、少し不器用な笑顔。
手紙の最後にいつも書かれていた「また近いうちに会えるといい」の一文。
——わたしは、何をしているのだろう。
セシール家の娘として、純血の令嬢として、そしてひとりの女として。
守るべきものを、自ら踏みにじろうとしているのではないか。
それでもこの扉を開けなければ、礼儀を欠いた娘としてブラック家の名を汚すことになるのではないか。
そんな相反する考えが、ひどく勝手に胸の中でぶつかり合う。
バスローブの胸元を、指先できゅっと掴んだ。
布を握る力だけが、自分をかろうじてこの場に留めている気がした。
浴室の外には、静けさが広がっている。
扉一枚隔てた向こうで、レギュラスがどんな表情をしているのか、アランには想像できなかった。
いつものように完璧な微笑みを浮かべているのか、それとも多少の期待を滲ませているのか。
考えるたびに、足の裏から冷えが這い上がってくる。
この扉を開けて、一歩外に出れば。
もう「何もなかったこと」にすることは、きっとできない。
震える指先が、ゆっくりと取っ手に伸びていく。
浴室の蒸気の中で、アランの呼吸だけが細く、苦しげに続いていた。
レギュラスは、浴室の扉が静かに開く音に視線を向けた。
白い蒸気がふわりと流れ出て、その中からアラン・セシールが姿を現す。
濡れた黒髪が扇状に広がり、肩や鎖骨に張りついている。
普段はきちんとまとめられていることの多い髪がほどけ、湯気と混じって揺れる様は、整えられた夜会の場よりもずっと生々しかった。
肌は湯気の熱を含んでほんのり紅潮し、目元だけが疲れと緊張でかすかに陰っている。
「……綺麗ですね、本当に」
レギュラスの言葉は、思考よりも先に口をついて出た。
口説き文句としてはあまりに直截で、洗練に欠けるかもしれない。
それでも、その時の彼には、他にふさわしい言葉が見当たらなかった。
アランは、一瞬驚いたように目を瞬かせたあと、ぎこちなく微笑んだ。
それは夜会で見せる淑女の微笑とは違い、どうにか表情を保とうとする防御のようにも見える。
「……ありがとうございます、ブラック様」
声は丁寧で、礼儀正しく整っている。
しかし、その奥に緊張が張り詰めているのは明らかだった。
余計なことを話して、彼女の緊張をさらに高めるつもりはなかった。
甘い言葉を重ねて溶かすよりも、レギュラスはむしろ、早く目的に向かってしまいたかった。
あれこれと余計な会話を挟めば挟むほど、彼女に逃げ道を与えてしまう気がしたからだ。
この女は、その中にどんなものを隠しているのか。
慎ましやかさか、頑なさか、それとも予想しえない別の何かか。
それをこの手で確かめたい。
こんなにも美しい女を自らの腕の中に抱けたなら、レギュラス・ブラックとして、この上なく「満たされた」と言い切れるだろうという確信に近い期待があった。
彼は手を伸ばし、アランの細い手首をそっと取る。
逃げ道を塞ぐための力ではなく、導くための最低限の力。
それでも、拒めない方向へと促すには十分だった。
「こちらへ」
短く告げて、ベッドサイドへと歩みを進める。
アランの足取りは明らかに重かった。
一歩ごとにためらいが混じり、バスローブの裾がわずかに引きずられる。
そのぎこちなささえ、レギュラスには妙に愛らしく思えた。
ベッドの端に腰を下ろさせ、やがて横たわるよう視線で促す。
アランは、長い睫毛を震わせながら、言われるままにシーツの上へ身を預けた。
白い枕に黒髪が広がり、翡翠の瞳がかすかに揺れている。
レギュラスが身を屈め、上から彼女を見下ろした瞬間、その瞳が真正面から自分を見上げた。
——ああ、たまらない。
それだけで酔いしれそうだった。
自分の下で、翡翠の光が捕らわれている。
今からこの女を抱くのだという実感が、遅れてじわじわと胸の奥を満たしていく。
欲しいと思ったものを、今夜も例外なく手に入れられる。
その当然の帰結に、レギュラスは深い陶酔を覚えていた。
そのときだった。
「……待ってください」
掠れた声が、枕元で震えた。
アランの唇が、ひきつるように開く。
「待ってください……わたし……婚約している方が、いまして……」
言葉は途切れ途切れだったが、意味を取り違える余地は一つもなかった。
だから、この先は——どうかやめてほしい。
その続きは、最後まで紡がれなかったものの、声の震えが雄弁に物語っていた。
一瞬、時間がずれる。
は?
レギュラスの思考は、そこでわずかに空白を挟んだ。
この状況で、何を言い出すのか。
ここまで連れてこられ、ベッドに横たわり、今この距離で。
甘く熱を帯びる空気の中で、唐突に差し込まれた「婚約」という単語は、まるで冷水のように空気を裂いた。
甘く溶けかけていた空気が、一気に砕け散る。
先ほどまで彼の胸を満たしていた陶酔感は、形を保てずに崩れ落ちた。
胸の奥に、苛立ちが鋭い棘となって立ち上がる。
空気のぶち壊しにもほどがある——という思いが、舌の先まで込み上げる。
わざわざここまで連れてきて、シャワーまで浴びせて、部屋まで用意して。
そのうえで、「実は婚約者がいるので」ときた。
何を今さら、と言いたくなる。
けれど、レギュラスはその苛立ちを、口の端で押し殺した。
顔にあらわすことなく、声色も変えない。
彼はそういうふうに育てられてきたし、そういうふうに生きてきた。
「そうですか」
わずかに息を吐くような調子で、彼は言った。
「それは——よかったです」
意外な返答だったのか、アランの瞳がわずかに見開かれる。
レギュラスは、その一瞬の隙を逃さなかった。
顔を近づける。
アランの唇が驚きでわずかに開きかけた、その瞬間だった。
彼はためらいなく口付けた。
触れた唇がわずかに震え、拒むための言葉が喉に押し戻されていく気配がある。
そのかすかな開きを見逃さず、レギュラスはさらに深く踏み込もうとした。
胸の中で、苛立ちと陶酔が混ざり合う。
あまりにも空気を壊す言葉を吐かれたのだから、こちらも遠慮する必要は薄れていく。
彼女がどれほど「婚約」という言葉に縋ろうと、それはあくまで彼女の内側の事情に過ぎない。
彼にとっては、今この瞬間、このベッドの上で自分の腕の中にいるかどうか以外は、取るに足らない問題だった。
今どき、婚約だの何だのといった形式的な約束を理由に、一切の男女関係を排除して生きるなど——中世の古い物語の中だけにしてほしい。
そんなやり方は、とっくに時代遅れだ。
そう思った瞬間、レギュラスの動きはふと止まった。
アランの震えが、唇越しに伝わってくる。
抵抗のために上げかけた手が、宙で固まっている。
その指先には、恐怖とも、罪悪感ともつかない力がこもっていた。
婚約だの中世だのと、頭の中で軽口を叩きながらも、レギュラスは本能的に理解していた。
今、自分のしていることが、彼女の世界を激しく踏みにじろうとしていることを。
甘く満ちていたはずの空気は、今や鋭い硝子片のように肌を刺している。
陶酔も快楽も、その下に潜むざらついた違和感を完全には覆い隠せなかった。
レギュラスは、わずかに顔を離した。
至近距離で見上げてくる翡翠の瞳には、涙の光がうっすらと宿っている。
それは憧れでも陶酔でもなく、純粋な恐怖と迷いの色だった。
甘い空気は、もはや完全に壊れていた。
静まり返った部屋の中に残っているのは、互いの浅く乱れた呼吸と、言葉にし損ねた思いだけだ。
この先、さらに踏み込むことはできる。
彼には、その術も、力も、立場もある。
だが、その一線を越えた瞬間、目の前の翡翠の光は二度と自分に向けられないーーそんな予感が、レギュラスの胸に鈍く重く沈んでいった。
レギュラス・ブラックは、いっさい手を止めなかった。
指先が、迷いなく、まるで長年慣れ親しんだ楽器を奏でるような滑らかさで、アランの輪郭をなぞっていく。肩から鎖骨へ、そこから細い首筋へと降りていく軌跡は、ひとつひとつが意図を持った動きで、拒むために伸ばした彼女の手も、震える声も、その流れを乱すことはできなかった。
掴もうとしても、するりとこぼれ落ちていく。
止めようとすればするほど、彼の指と体温が、かえって意識をそこに縫いとめてしまう。
触れられているのは自分のはずなのに、何か他人の身体に起きている出来事を斜め上から眺めているような感覚があった。けれど、肌の内側で立ちのぼる熱と、押し殺したつもりの吐息だけが、それが紛れもない自分自身だと容赦なく告げてくる。
ローランドと重ねてきた夜の記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
慎重で、怖がらせまいとする気遣いに満ちていた、静かな波。互いの歩幅を揃えながら、慎ましく寄せては返す、穏やかな水面。
けれどいま、胸を押しひしぐように寄せてくるのは、それとはまるで別の――底が見えないほど深く、大きな波だった。
知らないうねり。知らない世界。知らない感覚。
それらを一つ一つ、まるで標本でも並べるような確かさで、レギュラスが与えてくる。
彼の手つきには、迷いがなかった。
数え切れないほどの女を抱いてきたのだろうと、嫌でも悟らされる。どこを撫でれば息が詰まり、どこに口づければ力が抜け、どのタイミングで距離を詰めれば、心が防御をやめるのか。
すべてを知っている男の動きだった。
そのたびに、アランの身体は、自分の意志とは関係のない場所で反応していく。
触れられてはじめて熱を持つ場所が増えていき、知らなかった疼きが、ゆっくりと目を覚ましていく。その変化を、彼は絶対に見逃さない。かすかな震えも、揺れるまつげも、掴みどころのない吐息さえも。
拒まなければ、と頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。
ローランドの名が、遠くで沈んでいく。細い糸のように伸びた記憶をたぐり寄せようとしても、そのたびにレギュラスの指先が別の場所で火を点し、意識をそこへ引き戻してしまう。
「……っ」
かろうじて漏れた息は、言葉にすらならなかった。
抗いのために伸ばした指先は、いつの間にか彼のシャツの生地を掴み、爪が布地をきしませる。それをレギュラスは咎めもせず、むしろ歓迎するかのように、腕の力を強めて抱き寄せた。
彼の胸元に頬が押し当てられる。
淡い香りが、鼻腔の奥に沈んでいく。
呼吸をするたび、彼の体温と匂いが入り込んで、アランの中の「正常な判断」と名のつくものを、ひとつずつ溶かしていった。
ローランドと過ごした夜を、彼女は「穏やか」だと知っていた。
しかしいま、レギュラスの与えるものは、穏やかさとは正反対の何かだった。
衝撃と、恐怖と、どうしようもない高揚が、ひとつの波になって押し寄せる。
押し流されまいとして踏ん張る足場が、砂のように崩れていく。
それでも彼は、決して荒々しくはない。
優雅ですらある。
乱暴に引き裂くのではなく、編み目をほどくように、ゆっくりと慎重に、しかし着実に抵抗の糸を解きほぐしていく。その所作の一つひとつが、美しく、残酷だった。
「怖い」と口に出せたなら違っただろうか。
けれど声を出す前に、喉の奥で呑み込んだ息は熱に変わり、胸の奥で渦を巻いていく。その渦を、レギュラスの手が、口づけが、さらに掻き混ぜる。
恐怖の輪郭は、いつの間にか甘さで縁取られはじめていた。
怖くて、たまらない。
けれど、同じくらい、その波に飲み込まれてしまいたいと願っている自分がいる。
その矛盾が、胸を締めつける。
彼の指が背中をなぞり、腰のあたりでそっと力をこめた瞬間、アランの身体は、押し出されるように彼へと縋りついた。
突き放すために伸ばしたはずの両腕が、いつの間にか彼の首の後ろに回っている。
自分でも信じられないほど、素直に。
レギュラスは、アランの変化を当然のように受け入れた。
勝利を誇るような笑みを浮かべるでもなく、ただ、最初からそうなることを知っていたかのように、呼吸のリズムを彼女に合わせてくる。
波は、もう、彼女ひとりではどうすることもできないところまで大きくなっていた。
皮膚の下でじりじりと熱が広がり、指先は彼の背を掴む力加減を忘れる。
距離が詰まるたび、心の中で鳴り続けていた警鐘の音が遠のき、代わりに、名を呼びたい衝動だけがはっきりと浮かび上がってくる。
――レギュラス・ブラック。
彼の名が、胸の内側で静かに形を持つ。
唇に載せてしまえば、もう戻れないとわかっているのに、その背中に縋りついたまま、アランは自分でも驚くほど素直に、彼を求めていた。
こんな自分を、誰にも知られたくなかった。
ローランドにも、過去の自分にも、これまでの人生に繋がるすべてから、見えない場所に隠してしまいたいと思った。
なのに、レギュラスだけは、その最も醜く弱い部分を、当然の権利のように握っている。
この夜のことだけではない。
ここから先の――まだ形も見えないはずの未来まで。
自分の人生が、どれほどの速度で、どれほど深くこの男に溺れていくことになるのかを、アランはまだ知らない。
知らないまま、ただ、押し寄せる波に身を任せていく。
彼の腕の中で。
名を呼びたい衝動と、呼んではならない理性とが、最後の細い綱引きを続けながら。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ゆっくりと部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
昨夜は深い色を湛えていた天蓋の布も、今は淡く柔らかな色に見える。静まり返った客間には、かすかな鳥の声と、暖炉に残った灰がときおり崩れる小さな音だけが混じっていた。
レギュラスは、枕に頭を預けたまま、隣に横たわるアランを見つめていた。
黒髪が白いシーツに流れ、ところどころで朝の光を受けて艶を帯びている。
昨夜の混乱を知っている分、今こうして静かに眠っている姿は、何か別の生き物を見ているような不思議さがあった。
睫毛は長く、頬にはうっすらと赤みが残っている。シーツを胸元まできゅっと引き寄せ、無意識のうちに自分を守ろうとしている仕草すら、レギュラスには愛おしく映った。
——やっと、ここまで来た。
胸の奥に、満ち足りた感覚が広がる。
何度も視線を避け、距離を取り、頑なな境界線を引き続けていた令嬢。
その彼女が、今は自分の隣で、同じ枕を分け合うように眠っている。
距離が縮まった——そう感じるには、十分すぎる光景だった。
指先で、彼はアランの髪の先をそっとつまむ。
目覚めを邪魔しない程度の、ごく軽い仕草。
触れた感触は細く柔らかく、指の間を滑り落ちていく。
昨夜、彼女の中にどれほどの迷いと恐怖があったのか。
すべてを理解していたわけではない。
けれど、その震えも、縋るように掴まれたシャツの裾も、最後には自分を拒みきれなかったことも、どれも鮮やかな手応えとして胸に残っている。
あの翡翠の瞳に、これからは違う色を映させることができる。
ローランド・フロストがどうであれ、彼女の「初めてではない夜」をこの手で塗り替えたのだという事実が、静かな優越感を与えていた。
彼は、寝台の上でわずかに身じろぎするアランを見て、ゆるく微笑んだ。
アランの指が、シーツの端をぎゅっと掴む。
その動きで、レギュラスは彼女が目を覚ましつつあることに気づいた。
翡翠のまぶたが、重たげにゆっくりと持ち上がる。
ぼやけた視界の中で、見慣れない天蓋、壁、窓。
ひと呼吸遅れて、自分が横たわっているのが自宅の寝台ではないことに気づいたアランの胸に、冷水が落ちるような感覚が走った。
昨夜の記憶が、一気に押し寄せる。
廊下、浴室、ベッドの感触。
手首にかかった力、耳元で落ちる声、掴んでしまったシャツの布、崩れていった境界線。
心臓がどくりと大きく跳ねた。
「……おはようございます、セシール嬢」
耳に届いたのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。
レギュラスは枕に頬を預けたまま、静かに挨拶を落とす。
視線を向ければ、すぐそこに彼がいる。
完璧な顔立ちで、眠気の影などまったく見えない整った表情。
昨夜の続きのように、ごく自然な距離感で。
アランは、とっさに目を逸らした。
自分でも驚くほど早く、反射的に。
「……お、おはようございます。ブラック様」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
喉が乾いているのに、飲み込むための水も、落ち着けるための時間も、この場には存在しない。
恥ずかしさが、一気に血の気となって頬に上る。
昨夜、あの完璧な男の前で、自分がどれほど取り繕えなくなっていたかを、思い返したくなくても思い出してしまう。
触れられて、震えて、息を乱し、縋りついた自分。
そのすべてを、彼は見ている。
目を合わせられるはずがなかった。
アランはシーツをさらに胸元まで引き上げ、身体をわずかに丸める。
その仕草を、レギュラスは「傷ついた羞恥」よりも「初々しい照れ」として受け取っていた。
「眠れましたか?」
レギュラスの声音は、いつも以上に柔らかい。
「無理をさせてしまったかと、少し気になっていました」
アランは、枕元の模様を見つめたまま、小さく首を縦に動かしたような動きをする。
実際に眠れたのかと問われれば、ほとんど眠れていない。
浅い眠りと目覚めを繰り返しながら、明け方まで意識が浮かんでは沈むことを繰り返していた。
けれど、「眠れなかった」と口に出す勇気は、今の彼女にはなかった。
「……ご配慮、ありがとうございます」
かろうじてそれだけを絞り出す。
視線は相変わらず、レギュラスの顔に向かない。
枕、シーツ、手の甲、どこでもいい、彼の瞳以外の場所を必死に探している。
その様子を、レギュラスは少しおかしそうに眺めた。
昨夜、あれほど身体を寄せ合った相手が、朝になって急に距離を取ろうとしている。
それは、彼にとっては見慣れた反応でもあった。
多くの令嬢がそうだった。
夜の甘さのあと、朝の光の中で現実と羞恥に襲われ、急に視線を合わせられなくなる。
ただ、アランの場合、その拒み方があまりにも真面目で、あまりにも一生懸命だった。
「そんなに、顔を背けられると」
レギュラスは、冗談めかして言う。
「僕が何か、ひどいことでもしましたか?」
アランの肩が、びくりと揺れた。
「ひどいこと」という言葉が、思った以上の重さで胸に落ちる。
何が「ひどい」のか。
あの夜に起きたことを、どう定義すればいいのか。
ローランドの名と、自分の選択と、あのとき言えなかった「嫌です」という言葉が、喉の奥で絡み合って動けなくなっている。
「……その、あの……」
言葉を探しても、うまく見つからない。
何かを責めることも、笑って受け流すこともできない場所に、自分が立たされているのを痛いほど自覚していた。
レギュラスは、そんな彼女の沈黙を、やはり「初々しい」と片付けてしまう。
翡翠の瞳が自分から逃げ続けていることも、今は悪くないとすら思っていた。
昨夜、一度は自分だけのものになったと感じた相手が、こうして自分の存在に振り回されている——その事実は、妙な満足感を与える。
「安心してください」
彼は、落ち着いた声で続ける。
「今朝は、すぐにどうこうしようとは思っていません。
朝食を用意させていますから、それを済ませてから送ります」
アランは、小さく息を呑んだ。
その気遣い自体は、礼儀正しいものだと頭では理解している。
しかし、「すぐにどうこうしようとは思っていない」という何気ないひと言が、昨夜のすべてを暗黙に肯定しているようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……ありがとうございます」
またそれしか言えない。
声が少しだけ掠れて、自分の耳にも頼りなく聞こえる。
レギュラスは、寝台から静かに身を起こした。
シャツに腕を通しながら、鏡越しにちらりと彼女の姿を確認する。
シーツを胸元まで引き寄せたまま、まるでそこから動けなくなった鳥のように固まっているアランの様子に、かすかな愉悦が混ざる。
「着替えが必要でしょう」
ボタンを留めながら、彼は言った。
「メイドに頼んで、セシール嬢のサイズに合うものを持ってこさせます。しばらく、そのままで」
アランは、こくりと頷いた。
それだけが今、自分に許されている最善の返事のように思えた。
レギュラスは、最後にもう一度だけ、彼女の方へ振り返る。
「昨日は……嬉しかったですよ」
言葉は柔らかく、欠片ほどの悪びれもない。
「あなたと、こうして過ごせたことが」
それだけ告げると、彼はドアへ向かって歩き出した。
ドアノブを回す音、蝶番が軋む小さな音がして、廊下の空気が一瞬だけ流れ込む。
扉が閉まると、再び部屋は静寂に包まれた。
残されたアランは、シーツを握る手に力を込めたまま、ただ俯いていた。
距離が縮まった——レギュラスはそう信じているだろう。
少なくとも、彼の中では「昨夜までとは違う関係」に踏み込んだことは疑いようのない事実になっている。
けれどアランは、その「違い」の中身を直視できないでいた。
距離は確かに変わった。
ただ、それが近づいたのか、それとも取り返しのつかない形で歪んだのか。
どちらなのかを考えることが、今は何よりも怖かった。
翡翠の瞳は、なおもしばらく、誰の視線も受け止められないまま、シーツの白だけを見つめ続けていた。
テーブルの上には飲みかけのグラスや、食べ残された小さな菓子が並んでいる。
音楽はすでに止み、人々は思い思いに別れの挨拶を交わしながら、次々と夜気へ溶けていくように扉の向こうへ消えていく。
アラン・セシールも例外ではなかった。
父母のいる席へ戻って短く挨拶を済ませ、帰り支度を整える。
長いドレスの裾を片手でほんの少し持ち上げ、もう片方の手には小さなクラッチバッグ。
馬車止めのある正面玄関へ向かうため、人の列に紛れて歩き出す。
今すぐにでも屋敷に帰りたかった。
緊張でこわばっていた肩も、胸の鼓動も、早く自分の部屋の暗がりの中に隠してしまいたい。
この夜のことを静かにほどきながら、ひとりで息を整えたかった。
その背中を、ふいに指先が捉える。
手首を後ろからそっと掴まれた感触に、アランの足がぴたりと止まった。
驚いて振り返るよりも前に、耳に低い声が落ちる。
「セシール嬢。少しだけ、付き合っていただけませんか」
レギュラス・ブラックの声だった。
振り向いた先には、先ほどまで舞踏会の中央にいた男が、そのままの完璧な姿で立っていた。
礼服の襟元も乱れておらず、結ばれたネクタイも、その灰色の瞳も、さきほどと一寸たりとも変わっていない。
——どうして、自分の手を。
驚きと戸惑いが一気に胸に押し寄せ、声が喉につかえる。
情けないほどに、言葉にならない沈黙が生まれた。
ようやく押し出した声は、思った以上に上ずっていた。
「……あ、の……すみません。わたし、そろそろ帰らないと」
馬車の灯りが、玄関先でゆらゆらと揺れているのが見える。
そこに救いを求めるような感覚で視線を向けながら、アランは精一杯穏やかに断ろうとした。
しかし、レギュラスの指は緩まなかった。
ふわりとした笑みを浮かべたまま、淡々とした調子で返す。
「明日の朝、帰りの馬車はこちらで手配します。
責任を持って、ご自宅までお送りしますから、ご心配なく」
柔らかく、とろけるような響き。
口にされる言葉は、ひとつひとつが「安心してください」と言わんばかりだった。
けれど、その手の力は、逃げようとすれば確実に止められるだけの強さを帯びていた。
握り締められているわけではない。
ただ、離そうとすれば、決して振り払えないだろうと直感させる絶妙な圧。
この誘いが何を意味するのか——分からないほど幼くはない。
舞踏会の隅で囁かれてきた噂、レギュラスが夜ごと選ぶという令嬢たちの話。
そのいくつもが、頭の片隅で冷たく反響している。
レギュラス・ブラックに手を出された令嬢のうちのひとりになりたくない。
その感情が、はっきりと胸の中で形を取った。
「父も、わたしが早く戻ると思っていますから」
アランは、言葉を選びながら続けた。
「帰りが遅くなると、きっと心配します。今日は、本当に……」
「では、先にフクロウを飛ばしましょう」
レギュラスは、少しも困った様子を見せなかった。
「ブラック家から、セシール家へ。
今夜は僕どもの屋敷で、休んでいただくとお伝えします。
ブラック家の名でお知らせすれば、ご両親もご安心なさるはずです」
滑らかな返しだった。
まるで、その言い訳を予期していたかのような淀みのなさ。
アランの口から出た「父も母も案じている」という言葉を、あっさりと別の安心材料に変えてしまう。
胸の奥に、ひやりとしたものが走る。
「……今日は少し、疲れておりまして」
アランは、手首にかかる圧を意識しながら、なおも言葉を繋いだ。
「舞踏会はあまり慣れていなくて……これ以上は、あまり……」
身体も心も、限界に近い。
一刻も早く楽になりたいという本音を、礼儀に変換して伝える。
しかし、その言葉すら、レギュラスは穏やかに受け流した。
「それならなおさら、です」
彼は、ふっと目を細める。
「ゆっくりくつろげる部屋を、すでに用意しています。
人の出入りも少なく、騒がしくありません。
今夜の喧騒を忘れて、休んでいただけるはずですよ」
アランの喉が、かすかに鳴る。
否定の言葉を探そうとして、うまく見つからない。
だめだ——と、心の奥で警鐘が鳴った。
何を言っても、返ってくる。
用意されていたかのような言葉が、次々と退路を塞いでいく。
父母を理由にしても、体調を理由にしても、すべて「心配無用」という優しい言葉で塗りつぶされてしまう。
それは一見、こちらを気遣っているようでいて、実際には「断る権利」を少しずつ奪っていくやり方だった。
周囲を見回しても、誰も彼らの会話に立ち入ろうとはしない。
ブラック家の嫡男とセシール家の令嬢が、少し離れた場所で話している——それだけの状況に、口を挟もうとする者はいない。
むしろ遠巻きに好奇と期待が混じった目が向けられているだけだった。
「……本当に、わたしなんかでよろしいのですか」
本音とは違う、最後の防波堤のような言葉が口をついて漏れる。
謙遜の形を取った拒絶。
自分よりもっと他に、彼にふさわしい相手がいるはずだと言いたかった。
レギュラスは、迷いなく首を振った。
「セシール嬢だから、誘っているのです」
穏やかな声が、まるで褒美を告げるように降りかかる。
「他の誰でもない、あなたに。
今夜は、少しだけ僕に時間を預けていただきたくて」
その「少し」が、どれほどの意味を含んでいるのか。
アランは分かっていた。
分かっているからこそ、足がすくむ。
廊下の先には、外へ続く扉と、別の方向へ伸びる回廊が見えている。
灯りの落とされた先には、きっとさきほどバーテミウスが言っていた「用意された部屋」があるのだろう。
レギュラスの手は、そのどちらとも違う方向へ、静かに彼女を誘導し始めた。
逃げ道と出口から、少しずつ遠ざけていくような歩み。
なぜ、こんなふうに手を引かれているのか。
どうして、自分の足で歩きながらも、まるで自分の意志で動いていないような感覚に陥るのか。
アランは息を詰めた。
胸の内側で、小さく固く丸まった拒絶がある。
しかし、それを言葉にして押し出すための力が、喉の奥で固まって出てこない。
完璧な男の、完璧な微笑み。
柔らかく、礼儀正しく、どこまでも整えられた物腰。
その全てが、彼女に「ここで声を荒げてはいけない」と教え込んでくる。
だめだ、何を言っても——。
予想され、整えられた返答が、またひとつ彼女の背中を押す。
逃げ場が、一つひとつ封じ込まれていく。
廊下の空気は、先ほどの広間とは違いひんやりとしていた。
壁にかかる絵画と、規則正しく並ぶ燭台の炎だけが、静かな光を揺らしている。
その中を歩きながら、アランは自分の足音がいつもより重く聞こえるのを感じていた。
まだ、引き返せる。
そう思う一方で、腕にかかる手の重さが、その考えを否定する。
レギュラスは、一度も彼女の手を離さなかった。
決して乱暴ではないのに、確実に逃さない力で。
アランは、唇をかすかに噛み、視線を足元へ落とした。
ネクタイでも、襟元でもなく、今はただ自分のつま先だけを見つめる。
ひとりで帰るはずだった帰り道は、いつのまにか、全く違う方向へと長く延びていく。
その先に何が待っているのかを知りながら、立ち止まることすら許されないような、細い綱の上を歩かされている心地がした。
バスルームに満ちる白い蒸気が、天井近くで渦を巻いていた。
シャワーヘッドから落ちる湯が、タイル張りの床に細かな水音を重ねる。
大理石の壁には、柔らかな灯りが反射しているのに、アランの胸の内側だけは暗く沈んだままだった。
熱いはずの湯が、どこか他人事のように肩を打っていく。
首筋を伝い落ちる水の線を、アランはほとんど感じていなかった。
なぜ、こんなところで——。
セシール家の娘として育ち、父と母の庇護のもと、きちんとした未来を歩くはずだった。
今夜も本来なら、宴が終わり次第、家の馬車に乗って屋敷に戻っているはずだった。
母の用意した寝間着に着替え、自室のベッドに身を沈めて、少し苦いお茶を飲みながら、今日の出来事をひとつずつほどいていたはずだ。
なのに、今アランの足元に広がっているのは、ブラック家のゲストルームに併設された豪奢な浴室の床だった。
見慣れない蛇口、艶のある大理石、魔法で曇りひとつない鏡。
天井の高ささえ、自宅とは違う。
レギュラス・ブラックが手配した、という部屋。
その浴室で、アランはシャワーを浴びている。
情けなさが、胸の奥でゆっくりと固まっていく。
湯を浴びれば、少しは落ち着くかと思った。
しかし、熱い水でさえ、罪悪感と恐怖を洗い流してはくれない。
思考は、自然と一人の男へと向かう。
アランには、婚約と言っても過言ではない約束を交わした相手がいる。
幼いころから、何度も同じ卓を囲み、同じ庭で遊び、同じ空気を吸ってきた相手だった。
ローランド・フロスト。
古くから魔法省の高官や学者を輩出してきた名門フロスト家の長男。
純血としての系譜も申し分なく、落ち着いた銀灰色の髪と穏やかな青い瞳を持つ青年だ。
子どもの頃から物静かで、騒ぐよりも本を読む方を好む。
セシール家の図書室に入り浸っては、アランと並んで本をめくっていた。
彼はレギュラスのような、誰もが振り返るような派手な美貌を持ってはいない。
けれど、穏やかな笑みと柔らかな声は、長い年月をかけてアランの心に染み付いていた。
七歳の頃、庭の片隅で指切りをした記憶がある。
泥のついた靴のまま芝生に座り込み、「大人になったら、アランと結婚してもいいかい」と、少し照れくさそうに言った少年の顔。
その拙い約束を、アランは本気で信じていた。
十代に入り、互いに学業が忙しくなっても、節目ごとに手紙が届いた。
試験に合格したこと、家業の手伝いを始めたこと、将来はどんな仕事に就きたいか。
手紙の筆跡は年々整い、内容も徐々に大人びていく。
最近では、ローランドはフロスト家の跡取りとして、正式に魔法省の研修に通い始めたところだった。
それでも時間を見つけてはアランの屋敷を訪れ、食前酒の前に短く散歩を共にする習慣があった。
ーーいつか、正式に。
暖炉の火の前で、彼が慎重に言葉を選びながら語った夜を、アランははっきり覚えている。
「君のご両親に、話をしたいと思っている」と。
互いの家の関係にとっても悪くない縁談になるはずだと、穏やかな声で。
父と母も、ローランドを歓迎していた。
アランは何度も両親に頼み込んだ。
この縁談を正式な婚約として整えてほしい、と。
きっと、このまま何もなければ。
時間をかけて話が進み、フロスト家とセシール家の婚約は正式に発表される。
二人は穏やかで安定した未来を歩み、やがて当然のように同じ屋根の下で暮らすことになる。
アランは、それで十分だと思っていた。
男女の行為など、ローランドと以外に経験する必要があるとは考えたこともなかった。
彼と初めて体を重ねた夜、ぎこちなさと緊張に包まれながらも、互いに不器用に気遣い合った。
それは決して劇的でも刺激的でもなかったが、静かに胸の奥を温めるような時間だった。
この先も、ローランドだけでいい。
他の誰かに触れられたいとも、触れたいとも思わなかった。
それが、アランの世界の形だった。
なのに今、彼女はレギュラス・ブラックの用意した屋敷にいる。
シャワーの音に紛れて、心の中でその事実をなぞるたび、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
このあと何が起こるのか、分からないほど愚かではない。
レギュラスの指先の強さ、あの部屋へ向かうまでに退路を一つずつ潰していった会話の巧妙さを思い出せば、なおさら。
このまま浴室の中に閉じこもってしまえたらいいのに、と一瞬思う。
しかし、それも現実ではなかった。
扉の向こうには、彼がいる。
待っている。
ブラック家の主が、客人に用意した部屋の外で、いつまでも気長に待っているのかもしれないという想像が、余計に背中を冷やした。
湯を止めると、音がぴたりと途切れた。
代わりに、自分の鼓動の音がやけに大きく響く。
壁に掛けられたふかふかのタオルを取り、機械のような動作で水気を拭っていく。
肌に触れる布の感触さえ、どこか遠くのもののようだった。
用意されていたバスローブは、柔らかく、上等な生地だった。
袖を通し、紐を結びながら、アランは鏡の前で一瞬だけ立ち止まる。
そこには、いつもと違う自分が映っていた。
頬はほんのりと紅潮し、濡れた黒髪が肩に張り付いている。
翡翠の瞳は、不安と罪悪感を隠そうとして、かえって揺らいで見えた。
普段なら、母の前に出る前に整え直す表情も、今は思うように作れない。
ローランドの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかな目、少し不器用な笑顔。
手紙の最後にいつも書かれていた「また近いうちに会えるといい」の一文。
——わたしは、何をしているのだろう。
セシール家の娘として、純血の令嬢として、そしてひとりの女として。
守るべきものを、自ら踏みにじろうとしているのではないか。
それでもこの扉を開けなければ、礼儀を欠いた娘としてブラック家の名を汚すことになるのではないか。
そんな相反する考えが、ひどく勝手に胸の中でぶつかり合う。
バスローブの胸元を、指先できゅっと掴んだ。
布を握る力だけが、自分をかろうじてこの場に留めている気がした。
浴室の外には、静けさが広がっている。
扉一枚隔てた向こうで、レギュラスがどんな表情をしているのか、アランには想像できなかった。
いつものように完璧な微笑みを浮かべているのか、それとも多少の期待を滲ませているのか。
考えるたびに、足の裏から冷えが這い上がってくる。
この扉を開けて、一歩外に出れば。
もう「何もなかったこと」にすることは、きっとできない。
震える指先が、ゆっくりと取っ手に伸びていく。
浴室の蒸気の中で、アランの呼吸だけが細く、苦しげに続いていた。
レギュラスは、浴室の扉が静かに開く音に視線を向けた。
白い蒸気がふわりと流れ出て、その中からアラン・セシールが姿を現す。
濡れた黒髪が扇状に広がり、肩や鎖骨に張りついている。
普段はきちんとまとめられていることの多い髪がほどけ、湯気と混じって揺れる様は、整えられた夜会の場よりもずっと生々しかった。
肌は湯気の熱を含んでほんのり紅潮し、目元だけが疲れと緊張でかすかに陰っている。
「……綺麗ですね、本当に」
レギュラスの言葉は、思考よりも先に口をついて出た。
口説き文句としてはあまりに直截で、洗練に欠けるかもしれない。
それでも、その時の彼には、他にふさわしい言葉が見当たらなかった。
アランは、一瞬驚いたように目を瞬かせたあと、ぎこちなく微笑んだ。
それは夜会で見せる淑女の微笑とは違い、どうにか表情を保とうとする防御のようにも見える。
「……ありがとうございます、ブラック様」
声は丁寧で、礼儀正しく整っている。
しかし、その奥に緊張が張り詰めているのは明らかだった。
余計なことを話して、彼女の緊張をさらに高めるつもりはなかった。
甘い言葉を重ねて溶かすよりも、レギュラスはむしろ、早く目的に向かってしまいたかった。
あれこれと余計な会話を挟めば挟むほど、彼女に逃げ道を与えてしまう気がしたからだ。
この女は、その中にどんなものを隠しているのか。
慎ましやかさか、頑なさか、それとも予想しえない別の何かか。
それをこの手で確かめたい。
こんなにも美しい女を自らの腕の中に抱けたなら、レギュラス・ブラックとして、この上なく「満たされた」と言い切れるだろうという確信に近い期待があった。
彼は手を伸ばし、アランの細い手首をそっと取る。
逃げ道を塞ぐための力ではなく、導くための最低限の力。
それでも、拒めない方向へと促すには十分だった。
「こちらへ」
短く告げて、ベッドサイドへと歩みを進める。
アランの足取りは明らかに重かった。
一歩ごとにためらいが混じり、バスローブの裾がわずかに引きずられる。
そのぎこちなささえ、レギュラスには妙に愛らしく思えた。
ベッドの端に腰を下ろさせ、やがて横たわるよう視線で促す。
アランは、長い睫毛を震わせながら、言われるままにシーツの上へ身を預けた。
白い枕に黒髪が広がり、翡翠の瞳がかすかに揺れている。
レギュラスが身を屈め、上から彼女を見下ろした瞬間、その瞳が真正面から自分を見上げた。
——ああ、たまらない。
それだけで酔いしれそうだった。
自分の下で、翡翠の光が捕らわれている。
今からこの女を抱くのだという実感が、遅れてじわじわと胸の奥を満たしていく。
欲しいと思ったものを、今夜も例外なく手に入れられる。
その当然の帰結に、レギュラスは深い陶酔を覚えていた。
そのときだった。
「……待ってください」
掠れた声が、枕元で震えた。
アランの唇が、ひきつるように開く。
「待ってください……わたし……婚約している方が、いまして……」
言葉は途切れ途切れだったが、意味を取り違える余地は一つもなかった。
だから、この先は——どうかやめてほしい。
その続きは、最後まで紡がれなかったものの、声の震えが雄弁に物語っていた。
一瞬、時間がずれる。
は?
レギュラスの思考は、そこでわずかに空白を挟んだ。
この状況で、何を言い出すのか。
ここまで連れてこられ、ベッドに横たわり、今この距離で。
甘く熱を帯びる空気の中で、唐突に差し込まれた「婚約」という単語は、まるで冷水のように空気を裂いた。
甘く溶けかけていた空気が、一気に砕け散る。
先ほどまで彼の胸を満たしていた陶酔感は、形を保てずに崩れ落ちた。
胸の奥に、苛立ちが鋭い棘となって立ち上がる。
空気のぶち壊しにもほどがある——という思いが、舌の先まで込み上げる。
わざわざここまで連れてきて、シャワーまで浴びせて、部屋まで用意して。
そのうえで、「実は婚約者がいるので」ときた。
何を今さら、と言いたくなる。
けれど、レギュラスはその苛立ちを、口の端で押し殺した。
顔にあらわすことなく、声色も変えない。
彼はそういうふうに育てられてきたし、そういうふうに生きてきた。
「そうですか」
わずかに息を吐くような調子で、彼は言った。
「それは——よかったです」
意外な返答だったのか、アランの瞳がわずかに見開かれる。
レギュラスは、その一瞬の隙を逃さなかった。
顔を近づける。
アランの唇が驚きでわずかに開きかけた、その瞬間だった。
彼はためらいなく口付けた。
触れた唇がわずかに震え、拒むための言葉が喉に押し戻されていく気配がある。
そのかすかな開きを見逃さず、レギュラスはさらに深く踏み込もうとした。
胸の中で、苛立ちと陶酔が混ざり合う。
あまりにも空気を壊す言葉を吐かれたのだから、こちらも遠慮する必要は薄れていく。
彼女がどれほど「婚約」という言葉に縋ろうと、それはあくまで彼女の内側の事情に過ぎない。
彼にとっては、今この瞬間、このベッドの上で自分の腕の中にいるかどうか以外は、取るに足らない問題だった。
今どき、婚約だの何だのといった形式的な約束を理由に、一切の男女関係を排除して生きるなど——中世の古い物語の中だけにしてほしい。
そんなやり方は、とっくに時代遅れだ。
そう思った瞬間、レギュラスの動きはふと止まった。
アランの震えが、唇越しに伝わってくる。
抵抗のために上げかけた手が、宙で固まっている。
その指先には、恐怖とも、罪悪感ともつかない力がこもっていた。
婚約だの中世だのと、頭の中で軽口を叩きながらも、レギュラスは本能的に理解していた。
今、自分のしていることが、彼女の世界を激しく踏みにじろうとしていることを。
甘く満ちていたはずの空気は、今や鋭い硝子片のように肌を刺している。
陶酔も快楽も、その下に潜むざらついた違和感を完全には覆い隠せなかった。
レギュラスは、わずかに顔を離した。
至近距離で見上げてくる翡翠の瞳には、涙の光がうっすらと宿っている。
それは憧れでも陶酔でもなく、純粋な恐怖と迷いの色だった。
甘い空気は、もはや完全に壊れていた。
静まり返った部屋の中に残っているのは、互いの浅く乱れた呼吸と、言葉にし損ねた思いだけだ。
この先、さらに踏み込むことはできる。
彼には、その術も、力も、立場もある。
だが、その一線を越えた瞬間、目の前の翡翠の光は二度と自分に向けられないーーそんな予感が、レギュラスの胸に鈍く重く沈んでいった。
レギュラス・ブラックは、いっさい手を止めなかった。
指先が、迷いなく、まるで長年慣れ親しんだ楽器を奏でるような滑らかさで、アランの輪郭をなぞっていく。肩から鎖骨へ、そこから細い首筋へと降りていく軌跡は、ひとつひとつが意図を持った動きで、拒むために伸ばした彼女の手も、震える声も、その流れを乱すことはできなかった。
掴もうとしても、するりとこぼれ落ちていく。
止めようとすればするほど、彼の指と体温が、かえって意識をそこに縫いとめてしまう。
触れられているのは自分のはずなのに、何か他人の身体に起きている出来事を斜め上から眺めているような感覚があった。けれど、肌の内側で立ちのぼる熱と、押し殺したつもりの吐息だけが、それが紛れもない自分自身だと容赦なく告げてくる。
ローランドと重ねてきた夜の記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
慎重で、怖がらせまいとする気遣いに満ちていた、静かな波。互いの歩幅を揃えながら、慎ましく寄せては返す、穏やかな水面。
けれどいま、胸を押しひしぐように寄せてくるのは、それとはまるで別の――底が見えないほど深く、大きな波だった。
知らないうねり。知らない世界。知らない感覚。
それらを一つ一つ、まるで標本でも並べるような確かさで、レギュラスが与えてくる。
彼の手つきには、迷いがなかった。
数え切れないほどの女を抱いてきたのだろうと、嫌でも悟らされる。どこを撫でれば息が詰まり、どこに口づければ力が抜け、どのタイミングで距離を詰めれば、心が防御をやめるのか。
すべてを知っている男の動きだった。
そのたびに、アランの身体は、自分の意志とは関係のない場所で反応していく。
触れられてはじめて熱を持つ場所が増えていき、知らなかった疼きが、ゆっくりと目を覚ましていく。その変化を、彼は絶対に見逃さない。かすかな震えも、揺れるまつげも、掴みどころのない吐息さえも。
拒まなければ、と頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。
ローランドの名が、遠くで沈んでいく。細い糸のように伸びた記憶をたぐり寄せようとしても、そのたびにレギュラスの指先が別の場所で火を点し、意識をそこへ引き戻してしまう。
「……っ」
かろうじて漏れた息は、言葉にすらならなかった。
抗いのために伸ばした指先は、いつの間にか彼のシャツの生地を掴み、爪が布地をきしませる。それをレギュラスは咎めもせず、むしろ歓迎するかのように、腕の力を強めて抱き寄せた。
彼の胸元に頬が押し当てられる。
淡い香りが、鼻腔の奥に沈んでいく。
呼吸をするたび、彼の体温と匂いが入り込んで、アランの中の「正常な判断」と名のつくものを、ひとつずつ溶かしていった。
ローランドと過ごした夜を、彼女は「穏やか」だと知っていた。
しかしいま、レギュラスの与えるものは、穏やかさとは正反対の何かだった。
衝撃と、恐怖と、どうしようもない高揚が、ひとつの波になって押し寄せる。
押し流されまいとして踏ん張る足場が、砂のように崩れていく。
それでも彼は、決して荒々しくはない。
優雅ですらある。
乱暴に引き裂くのではなく、編み目をほどくように、ゆっくりと慎重に、しかし着実に抵抗の糸を解きほぐしていく。その所作の一つひとつが、美しく、残酷だった。
「怖い」と口に出せたなら違っただろうか。
けれど声を出す前に、喉の奥で呑み込んだ息は熱に変わり、胸の奥で渦を巻いていく。その渦を、レギュラスの手が、口づけが、さらに掻き混ぜる。
恐怖の輪郭は、いつの間にか甘さで縁取られはじめていた。
怖くて、たまらない。
けれど、同じくらい、その波に飲み込まれてしまいたいと願っている自分がいる。
その矛盾が、胸を締めつける。
彼の指が背中をなぞり、腰のあたりでそっと力をこめた瞬間、アランの身体は、押し出されるように彼へと縋りついた。
突き放すために伸ばしたはずの両腕が、いつの間にか彼の首の後ろに回っている。
自分でも信じられないほど、素直に。
レギュラスは、アランの変化を当然のように受け入れた。
勝利を誇るような笑みを浮かべるでもなく、ただ、最初からそうなることを知っていたかのように、呼吸のリズムを彼女に合わせてくる。
波は、もう、彼女ひとりではどうすることもできないところまで大きくなっていた。
皮膚の下でじりじりと熱が広がり、指先は彼の背を掴む力加減を忘れる。
距離が詰まるたび、心の中で鳴り続けていた警鐘の音が遠のき、代わりに、名を呼びたい衝動だけがはっきりと浮かび上がってくる。
――レギュラス・ブラック。
彼の名が、胸の内側で静かに形を持つ。
唇に載せてしまえば、もう戻れないとわかっているのに、その背中に縋りついたまま、アランは自分でも驚くほど素直に、彼を求めていた。
こんな自分を、誰にも知られたくなかった。
ローランドにも、過去の自分にも、これまでの人生に繋がるすべてから、見えない場所に隠してしまいたいと思った。
なのに、レギュラスだけは、その最も醜く弱い部分を、当然の権利のように握っている。
この夜のことだけではない。
ここから先の――まだ形も見えないはずの未来まで。
自分の人生が、どれほどの速度で、どれほど深くこの男に溺れていくことになるのかを、アランはまだ知らない。
知らないまま、ただ、押し寄せる波に身を任せていく。
彼の腕の中で。
名を呼びたい衝動と、呼んではならない理性とが、最後の細い綱引きを続けながら。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ゆっくりと部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
昨夜は深い色を湛えていた天蓋の布も、今は淡く柔らかな色に見える。静まり返った客間には、かすかな鳥の声と、暖炉に残った灰がときおり崩れる小さな音だけが混じっていた。
レギュラスは、枕に頭を預けたまま、隣に横たわるアランを見つめていた。
黒髪が白いシーツに流れ、ところどころで朝の光を受けて艶を帯びている。
昨夜の混乱を知っている分、今こうして静かに眠っている姿は、何か別の生き物を見ているような不思議さがあった。
睫毛は長く、頬にはうっすらと赤みが残っている。シーツを胸元まできゅっと引き寄せ、無意識のうちに自分を守ろうとしている仕草すら、レギュラスには愛おしく映った。
——やっと、ここまで来た。
胸の奥に、満ち足りた感覚が広がる。
何度も視線を避け、距離を取り、頑なな境界線を引き続けていた令嬢。
その彼女が、今は自分の隣で、同じ枕を分け合うように眠っている。
距離が縮まった——そう感じるには、十分すぎる光景だった。
指先で、彼はアランの髪の先をそっとつまむ。
目覚めを邪魔しない程度の、ごく軽い仕草。
触れた感触は細く柔らかく、指の間を滑り落ちていく。
昨夜、彼女の中にどれほどの迷いと恐怖があったのか。
すべてを理解していたわけではない。
けれど、その震えも、縋るように掴まれたシャツの裾も、最後には自分を拒みきれなかったことも、どれも鮮やかな手応えとして胸に残っている。
あの翡翠の瞳に、これからは違う色を映させることができる。
ローランド・フロストがどうであれ、彼女の「初めてではない夜」をこの手で塗り替えたのだという事実が、静かな優越感を与えていた。
彼は、寝台の上でわずかに身じろぎするアランを見て、ゆるく微笑んだ。
アランの指が、シーツの端をぎゅっと掴む。
その動きで、レギュラスは彼女が目を覚ましつつあることに気づいた。
翡翠のまぶたが、重たげにゆっくりと持ち上がる。
ぼやけた視界の中で、見慣れない天蓋、壁、窓。
ひと呼吸遅れて、自分が横たわっているのが自宅の寝台ではないことに気づいたアランの胸に、冷水が落ちるような感覚が走った。
昨夜の記憶が、一気に押し寄せる。
廊下、浴室、ベッドの感触。
手首にかかった力、耳元で落ちる声、掴んでしまったシャツの布、崩れていった境界線。
心臓がどくりと大きく跳ねた。
「……おはようございます、セシール嬢」
耳に届いたのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。
レギュラスは枕に頬を預けたまま、静かに挨拶を落とす。
視線を向ければ、すぐそこに彼がいる。
完璧な顔立ちで、眠気の影などまったく見えない整った表情。
昨夜の続きのように、ごく自然な距離感で。
アランは、とっさに目を逸らした。
自分でも驚くほど早く、反射的に。
「……お、おはようございます。ブラック様」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
喉が乾いているのに、飲み込むための水も、落ち着けるための時間も、この場には存在しない。
恥ずかしさが、一気に血の気となって頬に上る。
昨夜、あの完璧な男の前で、自分がどれほど取り繕えなくなっていたかを、思い返したくなくても思い出してしまう。
触れられて、震えて、息を乱し、縋りついた自分。
そのすべてを、彼は見ている。
目を合わせられるはずがなかった。
アランはシーツをさらに胸元まで引き上げ、身体をわずかに丸める。
その仕草を、レギュラスは「傷ついた羞恥」よりも「初々しい照れ」として受け取っていた。
「眠れましたか?」
レギュラスの声音は、いつも以上に柔らかい。
「無理をさせてしまったかと、少し気になっていました」
アランは、枕元の模様を見つめたまま、小さく首を縦に動かしたような動きをする。
実際に眠れたのかと問われれば、ほとんど眠れていない。
浅い眠りと目覚めを繰り返しながら、明け方まで意識が浮かんでは沈むことを繰り返していた。
けれど、「眠れなかった」と口に出す勇気は、今の彼女にはなかった。
「……ご配慮、ありがとうございます」
かろうじてそれだけを絞り出す。
視線は相変わらず、レギュラスの顔に向かない。
枕、シーツ、手の甲、どこでもいい、彼の瞳以外の場所を必死に探している。
その様子を、レギュラスは少しおかしそうに眺めた。
昨夜、あれほど身体を寄せ合った相手が、朝になって急に距離を取ろうとしている。
それは、彼にとっては見慣れた反応でもあった。
多くの令嬢がそうだった。
夜の甘さのあと、朝の光の中で現実と羞恥に襲われ、急に視線を合わせられなくなる。
ただ、アランの場合、その拒み方があまりにも真面目で、あまりにも一生懸命だった。
「そんなに、顔を背けられると」
レギュラスは、冗談めかして言う。
「僕が何か、ひどいことでもしましたか?」
アランの肩が、びくりと揺れた。
「ひどいこと」という言葉が、思った以上の重さで胸に落ちる。
何が「ひどい」のか。
あの夜に起きたことを、どう定義すればいいのか。
ローランドの名と、自分の選択と、あのとき言えなかった「嫌です」という言葉が、喉の奥で絡み合って動けなくなっている。
「……その、あの……」
言葉を探しても、うまく見つからない。
何かを責めることも、笑って受け流すこともできない場所に、自分が立たされているのを痛いほど自覚していた。
レギュラスは、そんな彼女の沈黙を、やはり「初々しい」と片付けてしまう。
翡翠の瞳が自分から逃げ続けていることも、今は悪くないとすら思っていた。
昨夜、一度は自分だけのものになったと感じた相手が、こうして自分の存在に振り回されている——その事実は、妙な満足感を与える。
「安心してください」
彼は、落ち着いた声で続ける。
「今朝は、すぐにどうこうしようとは思っていません。
朝食を用意させていますから、それを済ませてから送ります」
アランは、小さく息を呑んだ。
その気遣い自体は、礼儀正しいものだと頭では理解している。
しかし、「すぐにどうこうしようとは思っていない」という何気ないひと言が、昨夜のすべてを暗黙に肯定しているようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……ありがとうございます」
またそれしか言えない。
声が少しだけ掠れて、自分の耳にも頼りなく聞こえる。
レギュラスは、寝台から静かに身を起こした。
シャツに腕を通しながら、鏡越しにちらりと彼女の姿を確認する。
シーツを胸元まで引き寄せたまま、まるでそこから動けなくなった鳥のように固まっているアランの様子に、かすかな愉悦が混ざる。
「着替えが必要でしょう」
ボタンを留めながら、彼は言った。
「メイドに頼んで、セシール嬢のサイズに合うものを持ってこさせます。しばらく、そのままで」
アランは、こくりと頷いた。
それだけが今、自分に許されている最善の返事のように思えた。
レギュラスは、最後にもう一度だけ、彼女の方へ振り返る。
「昨日は……嬉しかったですよ」
言葉は柔らかく、欠片ほどの悪びれもない。
「あなたと、こうして過ごせたことが」
それだけ告げると、彼はドアへ向かって歩き出した。
ドアノブを回す音、蝶番が軋む小さな音がして、廊下の空気が一瞬だけ流れ込む。
扉が閉まると、再び部屋は静寂に包まれた。
残されたアランは、シーツを握る手に力を込めたまま、ただ俯いていた。
距離が縮まった——レギュラスはそう信じているだろう。
少なくとも、彼の中では「昨夜までとは違う関係」に踏み込んだことは疑いようのない事実になっている。
けれどアランは、その「違い」の中身を直視できないでいた。
距離は確かに変わった。
ただ、それが近づいたのか、それとも取り返しのつかない形で歪んだのか。
どちらなのかを考えることが、今は何よりも怖かった。
翡翠の瞳は、なおもしばらく、誰の視線も受け止められないまま、シーツの白だけを見つめ続けていた。
