2章
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魔法省の執務室には、まだ夕刻には早い、曖昧な光が差し込んでいた。
高い窓の外では、冬に向かう空が淡く白んでいる。
磨かれた黒檀の机の上には、何通もの封書と、家名ごとの紋章が刻まれた羊皮紙が整然と並べられていた。
レギュラスは椅子にもたれ、一本の羽根ペンを指の間で弄びながら、その中央に置かれた一通にゆっくり視線を落とした。
封蝋に刻まれた紋章は、ブラック家のものとよく似ている。
枝分かれして伸びた家系図の、遠く細い枝先——かつて大陸へと嫁ぎ、再び英国へ戻ってきた一族の印だ。
封を切ったのは、つい先ほどだった。
娘は年若いが、血統に一点の曇りもないこと。
ブラック家との親戚筋として、その期待に応えたいと考えていること。
申し出の相手がフロスト家の長男であるならば、これ以上ない縁談だと家中で喜んでいること。
丁寧な文言が続いていた。
レギュラスは文面の同じ箇所を三度読み、ようやく薄く笑みを浮かべた。
「上々ですね」
小さく零れた独り言に応じるように、部屋の隅に立っていたバーテミウスが一歩進み出る。
「うまくいきそうですか、レギュラス」
相変わらずの落ち着いた声だった。
「ええ。こちらの提示した条件に、不満はないようです」
レギュラスは羊皮紙を指先で軽く持ち上げる。
「フロスト家にとっても悪い話ではない。
純血で、ブラック家と血縁を持つ娘。将来、魔法省や各家門との橋渡しを担う上でも申し分ない」
「……ついでに言えば」
バーテミウスが、わずかに口角を上げる。
「ブラック家とフロスト家の間に、正式な血のつながりが生まれるわけですね」
「ええ」
レギュラスの笑みが深くなった。
「遠縁とはいえ、ブラック家の血がフロストの家系に流れ込む。
そしてフロスト家は、これからもセシール家と——つまり、アランの生家と関わり続ける」
机に指先を軽く打ちつける。
「そうなれば、フロスト家とブラック家は、永続的に切れない縁で結ばれることになる」
アラン・ブラックの過去と現在。
ローランド・フロストの未練と誠実さ。
そのすべてを、一本の血筋で束ねてしまう。
その構図を思い浮かべると、胸の奥で愉悦が静かに膨らんだ。
「素晴らしい布石だと思いませんか?」
視線だけで問うと、バーテミウスは肩をすくめてみせた。
「ええ。あなたらしいと思います」
評価とも皮肉ともつかない返答だったが、そのどちらも含んでいて心地よかった。
「フロスト殿は、どんな顔をするでしょうね」
レギュラスは椅子からゆっくり身を乗り出し、机の上の地図に目をやる。
魔法界の各家門と、魔法省、主要な製薬会社、寄宿学校や研究機関との関係性が線で結ばれている。
フロスト家の名のそばには、セシール家と魔法省の印が重なっていた。
そこに、新たにブラック家を示す印を添える。
羽根ペンの先で、その一点を軽く叩いた。
「彼は、拒めないでしょう」
「……でしょうね」
バーテミウスの返答には、さほどの迷いがなかった。
「ブラック家筋からの申し出なら、フロスト家にとっても栄誉です。
それに、レギュラス、あなたが以前『セシール家との婚姻』で提示した条件を知っている以上——」
「断るのは失礼にあたる」
レギュラスが言葉を継ぐ。
「誠実であろうとする人間ほど、その手の礼節に縛られるものです。
自分よりも家のことを考え、過去の約束より今後の家門の安定を選ぶ。それが彼の『正しさ』でしょう」
そして、その「正しさ」を選ぶ瞬間の顔を、レギュラスは見てみたかった。
長年想い続けてきた女を、他の男に差し出した青年。
その男が今度は、自らの未来をブラック家の遠縁の娘と結ぶことで、再び「正しい道」を選ぼうとする瞬間。
覚悟か、諦めか、静かな誇りか。
あるいは、誰にも見せまいと押し込めてきた感情の綻びか。
どんな表情で縁談の知らせを受けるのか、想像するだけで愉快だった。
「それに——」
レギュラスは、椅子から立ち上がると、窓辺へ歩み寄る。
ガラスの向こうで、魔法省の中庭が見えた。
行き交う職員たちのローブが、風に揺れている。
「これでフロスト殿がどれほど『アラン』に未練を残していようと、彼がブラック家と血縁を結べば、その未練もまた、僕の掌の内側に入る」
アランの過去は、どこまでも透明だ。
ローランドとの幼い日々も、手紙の往復も、一度きりの「拒めなかった夜」も。
彼女が決して言葉にしないところまで、想像できてしまう。
だが、それらはすでに「過去」であり、今この瞬間、彼女の隣に立つのはレギュラス・ブラックだ。
フロスト家が他の家と縁を結ぶだけなら、それはただのひとつの選択にすぎない。
だが、その相手がブラック家の遠縁であるなら、話は別だ。
「アランは、どんな顔をするでしょうね」
レギュラスは、窓ガラスに薄く映る自分の微笑を眺めながら呟いた。
「フロスト殿の婚約話を耳にしたとき。
ブラック家の血を引く娘と彼が並んで立つ姿を思い浮かべたとき。
自分の知らない場所で、彼が誰かの隣にいる未来を想像したとき」
絶望するか。
嫉妬するか。
あるいは、自分を責めて狂いそうになるか。
どれであっても構わなかった。
どれを選んでも、結局その感情の矛先は、ブラック家に、つまりレギュラスに戻ってくる。
アランがローランドを思い出すたび、その輪郭のどこかにブラック家の紋章が焼き付く。
彼女の過去も未来も、どこを辿ってもブラックに行きつくように、道筋を増やしていく。
それが楽しくて仕方なかった。
「ところで」
バーテミウスが、手元の帳面に視線を落としたまま問う。
「この件は、アラン夫人には、いつお伝えになるおつもりです?」
「そうですね」
レギュラスは窓から離れ、再び机に戻った。
指で机をとん、と軽く叩きながら思案するふりをする。
「フロスト殿が正式に話を受け入れ、先方との挨拶が済んでから。
そのくらいが、ちょうどいいでしょう」
「事後報告、という形ですか」
「ええ」
迷いなく頷く。
「彼女が一番『どうにもできなかった』と実感するタイミングで知らせるべきです。
もし、まだ彼にわずかな可能性が残っていると信じているなら、その最後の綱も、自分の知らぬところで静かに切られていたのだと知ることになる」
それは残酷なやり方かもしれない。
だが、純血貴族の政略など、もともと残酷なものだ。
レギュラスは、書類の端を整えながら、さも事務的な話題のひとつにすぎないような調子で口にする。
「アランには、ブラック家の妻として過ごすための覚悟が必要です。
過去にしがみついて泣き続けるだけでは困りますから」
「……夫人は、あなたを恨みませんか?」
バーテミウスの問いは、少しだけ真面目だった。
「恨むでしょうね」
レギュラスはあっさりと言った。
「すでに充分恨まれている気もしますが」
彼女から向けられる怯えと反発と、諦めの混じった眼差しを思い出す。
そこに、これから先どれだけの感情が積み重なっていくのか。
苦しみも、憎しみも、諦念も。
どれも、彼女が自分だけに向けてくるものだと思えば、それすら愉悦に変わる。
「恨んでもいいんです。
それでも、夜は僕のところに来る。朝は同じテーブルで食事をする。
フロスト殿の婚約の話を聞いたあとも、彼女はブラック家の妻として日々を送る」
その積み重ねこそが重要だった。
事実は、感情を少しずつ蝕む。
どれほど「愛している」と過去に執着しても、目の前の現実が長く続けば、記憶の輪郭は確実に薄れていく。
ならば、現実を増やせばいい。
アラン・ブラックとしての「当たり前」を増やせば増やすほど、ローランド・フロストとの日々は遠ざかる。
フロスト家の婚約も、そのための一手にすぎない。
レギュラスは、机の上の羊皮紙を重ね合わせ、一番上にフロスト家宛ての封筒を置いた。
「フロスト殿には、僕から直接伝えましょう」
視線を上げる。
「魔法省の応接室で。
以前、セシール家との婚姻を告げたときと同じように」
「同じ場所で、ですか」
「ええ。そのほうがいい」
レギュラスの灰色の瞳に、淡い光が灯る。
あのとき、ローランドは静かに絶句した。
言葉を失い、しかし礼を失わぬよう必死に姿勢を保とうとするその様子は、実に見応えがあった。
今度は、どんな表情を見せてくれるだろう。
アランを手放した男が、ブラック家の遠縁の娘との婚約を告げられたとき。
それを「正しさ」として飲み込もうとするその瞬間。
楽しみで仕方がなかった。
「では、手配を進めます」
バーテミウスが一礼する。
「レギュラス、あなたも本当に飽きませんね」
「そうですか?」
レギュラスは穏やかに笑った。
「せっかく手に入れたものです。
その価値を最大限に味わう方法を考えるのは、当然でしょう」
アラン・ブラック。
セシール家の一人娘。
かつてローランド・フロストが全てを賭けて愛した女。
今はブラック家の紋章のもとに立ち、夜ごとレギュラスの名を呼ぶ。
その現実を、まだ十分に堪能しきれているとは言えない。
だから彼は、今日もまたひとつ布石を打つ。
フロスト家とブラック家の血を繋ぐために。
アランの過去と現在と未来を、逃げ場なくひとつの円の中に閉じ込めるために。
レギュラス・ブラックは、封筒に再び視線を落とし、不意に愉悦を押し隠すように息を吐いた。
「さて——フロスト殿には、どんな言葉を選びましょうか」
楽しげな独り言が、静かな執務室に溶けていった。
魔法省の応接室には、冬の光が斜めに差し込んでいた。
鉛色の空から落ちてくる柔らかな明るさは、厚いガラス越しにわずかに冷たさを含んで、部屋の中の空気を白く薄めている。
壁には、古い魔法家系の紋章がいくつも飾られ、その中央にはブラック家の黒い盾が重々しく鎮座していた。
その紋章の真下に置かれたソファに、レギュラス・ブラックは脚を組んで座っていた。
正面には、ローランド・フロスト。
きちんと整えられた淡い髪色に、真っ直ぐな青い瞳。
彼は、膝の上で組んだ手に力をこめている。
それを、レギュラスはさも何気ない視線で眺めていた。
「お忙しいところ、わざわざ足を運んでいただいて申し訳ありません、フロスト殿」
「いえ、とんでもございません、ブラック様」
ローランドは、いつものように礼儀正しく頭をさげた。
声は落ち着いている。
けれど、その静けさの下に緊張が潜んでいるのが、レギュラスには手に取るように分かった。
——前にも、ここで話をした。
セシール家との婚姻を告げた日。
同じ応接室、同じ家具の配置、同じ距離感。
ただひとつ違うのは、そのときローランドの胸を占めていたのは「アランを失う」という一点で、今はこの部屋に妻の名すら出ていないということだ。
まだ、出していないだけで。
「さて」
レギュラスは、卓上に置かれた書類の束から一枚の羊皮紙を抜き取った。
封蝋はすでに解かれている。
ブラック家紋章とよく似た意匠が、端に小さく刻まれている。
「本日は、あなたと——ブラック家の遠縁の娘との縁談について、ご相談をと思いまして」
ストレートな切り出し方だった。
ローランドの青い瞳が、かすかに見開かれる。
「……縁談、でございますか」
「ええ」
レギュラスは微笑を崩さない。
「彼女はまだお若いですが、血筋は申し分ありません。
ブラック家と同じ古い系譜に属し、しばらく大陸に出ていた家の一枝が、数代前に英国に戻ってきた——そんな家筋です」
羊皮紙を軽く指先で叩きながら、淡々と続ける。
「あなたもご存じでしょう。
フロスト家は、魔法省とセシール家の橋渡しとして、今後さらに働いていただきたい立場にある。
そこにブラック家筋の娘を迎えれば、家門の格は十分すぎるほど保たれる」
ローランドは、静かに話を聞いていた。
姿勢は崩さない。
ただ、組んだ手の指先にわずかに力がこもっていく。
レギュラスは、その変化を見逃さず、さらに言葉を重ねた。
「いかがですか? 悪い話ではないと思います」
穏やかな口調で、しかし逃げ場のない言い方だった。
ローランドは、一拍置いてから息を吸った。
「……確かに、ブラック家のご親族からそのようなお話を頂けるのは、フロスト家にとって、大変光栄なことです」
模範的な返答だ。
礼儀正しく、慎重で、決して感情を前面に押し出さない。
だが、その声の奥に、微かな戸惑いと痛みが混ざっているのを、レギュラスは愉しげに味わっていた。
「ただ——」
ローランドは、言い淀む。
「私などに、そのような……と申しますか、務まるのかどうか」
「フロスト殿」
レギュラスは、彼の言葉をやわらかく遮った。
「あなたほどの方に務まらない縁談なら、それこそ誰に務まると言うのです」
言いながら、わざと少しだけ身を乗り出す。
「あなたは誠実で、家のことを第一に考える。
セシール家との件でも、ご自分の想いよりも先に、アランとそのご家族の未来を優先なさった」
ローランドの瞳が揺れた。
アランの名は、出していない。
だが、その「件」が何を指しているのかは、言われずとも分かる。
レギュラスは、それを承知のうえでなお、平然と続けた。
「今回も、よく似た話です。
あなたご自身の想いよりも、フロスト家と、これから先の魔法界との関わりを考えていただきたい」
言葉は穏やかで、説教じみたものではない。
しかし、「選ぶべき道」は最初から一つしかないと言っているに等しい。
部屋の空気が、少し重くなる。
ローランドは視線を落とし、掌を見つめた。
彼の沈黙を、レギュラスは急かさない。
待つふりをしながら、その表情の変化を細かく観察する。
考えている。
自分自身のこれからの人生と、フロスト家の利益と、背負うべき役割とを、きっと真面目に天秤にかけている。
——だから、この男は扱いやすいのだ。
感情よりも「正しさ」を優先する。
その習性は、責任ある役職に就くには向いているが、同時に、レギュラスのような人間にとっては好都合でもある。
ある程度の条件さえ整えてやれば、自ら痛みを飲み込み、「然るべき答え」を選ぶのだから。
「……ブラック様」
しばらくの沈黙ののち、ローランドが口を開いた。
「僭越ながら、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ、私に——フロスト家に、このようなお話を?」
その問いには、純粋な疑問と、わずかな警戒が混ざっていた。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めてから、淡く笑った。
「理由は、いくつかありますよ」
指を一本立てる。
「ひとつは、単純に、フロスト家がこの縁談にふさわしいからです。
家門の格、魔法省との関わり、今後の立ち位置——すべてを考慮しても、ブラック家の遠縁の娘を嫁がせるに値する」
そして、もう一本、指を立てた。
「もうひとつは、個人的な願いです」
「……願い、ですか」
「ええ」
レギュラスは、椅子の背にもたれ直し、視線を少しだけ上げる。
「フロスト殿。
あなたには——親族として、アランを支えていただきたい」
その名を、今度ははっきりと口にした。
ローランドの指先が、目に見えて強張る。
息が詰まるのを堪えるように、喉が微かに動いた。
「……親族として、でございますか」
「ええ」
レギュラスは、まるで当たり前のことを告げるような調子で頷く。
「アランは、これからもセシール家の研究に関わるでしょう。
ブラック家の妻でありながら、生家とも深く繋がり、魔法薬の研究では、あなたとも顔を合わせる機会が多いはずです」
それは、すでに現実になりつつある日々をなぞる言葉だ。
「そんなとき、血のつながりを持つ親族として、彼女を支え、見守ってくださる方が近くにいるのは、非常に心強い」
レギュラスの灰色の瞳が、まっすぐにローランドを捉える。
「過去に何があったかは、もう終わったことです。
ですが、彼女にとって、フロスト家が大切な存在であったことは、今も変わりません」
その「大切」がどのような質のものであったのか——恋か、友情か、家門同士の信頼か。
あえて曖昧にしたまま、レギュラスは言葉を続ける。
「ならばその縁を、正式な『親族』という形で未来に繋げるのは、悪い選択ではないでしょう?」
親族として。
アランを支え、見守り、時に助言を与える立場として。
目の前の男に、妻の傍に立つ役割を与えながら、しかし絶対に越えられない一線を引く言葉だった。
ローランドは、しばらく何も言わなかった。
視線を落としたまま、胸の内側で何かを押し殺しているのが分かる。
拳は握られていない。
荒い呼吸も漏れてこない。
ただ、瞳の奥にだけ、わずかな光が揺れていた。
——アランを支える親族。
その言葉の重さと残酷さは、彼が誰よりも理解している。
かつては隣に立ち、同じ未来を語り合うはずだった相手を、今度は「親族」として遠くから支える役を与えられるのだ。
それを告げているのは、彼からすべてを奪った男。
ブラック家の当主であり、アランの夫であるレギュラス・ブラック。
「……ブラック様は」
ローランドは、やがて静かに顔を上げた。
「本気で、そのような役目を、私に?」
「もちろんです」
レギュラスは即答した。
「あなた以外に適任はいないと、僕は思っています」
それは、半分は本心であり、半分は計算だった。
アランの過去を誰よりも知る男が、これから先は「親族」として、ブラック家の妻を支える。
その構図は、レギュラスの優越感をこの上なく満たす。
彼女がローランドの名を心の中でどれほど呼んだとしても、現実の席次では、常にレギュラスが最前列にいる。
ローランドは、その背後から静かに見守る立場に追いやられる。
——それでいい。
そういう未来をこそ、レギュラスは望んでいた。
「……身に余るお話です」
ローランドは、低く言った。
「私などに務まるのかどうか不安はございますが……フロスト家の当主として、前向きに受け止めさせていただきたく存じます」
それは、ほとんど「受諾」に等しい言葉だった。
レギュラスは、内心の笑みを悟らせぬように気をつけながら、わずかに顎を引く。
「ありがとうございます、フロスト殿。
あなたのお返事を、先方も喜ぶでしょう」
そして、少しだけ声の調子を落とす。
「アランも、きっと」
ローランドの喉が、かすかに震えた。
その反応を見届けながら、レギュラスは立ち上がる。
「詳細については、改めて両家を交えて話を進めましょう。
今日はまず、ご提案まで」
そう言って、手を差し出した。
ローランドは、その手を見つめ、一瞬だけ迷った。
それから、覚悟を固めるように指を伸ばし、しっかりと握り返す。
その握手は、固く、礼儀正しいものだった。
そこに、露骨な敵意や悔恨は見えない。
だが、レギュラスには分かる。
この男が、いま握りしめているものが、どれほど重いか。
どれほどのものを手放し、どれほどのものを飲み込んだ上で、この握手にたどり着いたのか。
それを知ったうえでなお、レギュラス・ブラックは静かに微笑む。
「これで、我々は——より強く結ばれることになりますね、フロスト殿」
「……はい」
ローランドの声は、かすかに掠れていた。
「ブラック家とフロスト家が、親族として」
親族。
その言葉の中には、アラン・ブラックの過去と現在と未来が、すべて巻き込まれている。
目の前の男に、ブラック家の「正妻」を支えさせる。
かつて恋を捧げた女を、堂々と「親族」と呼びながら、生涯見守らせる。
その光景を思い描くだけで、レギュラスの胸の奥には、静かで濃厚な優越感が満ちていった。
ブラック家本邸の、小ぶりな応接間が用意されていた。
広間ほどの大仰さはないが、客人を迎えるためのしつらえとしては、申し分なく整えられている。
壁には深い緑のダマスク柄の壁紙が貼られ、窓辺には重たいビロードのカーテンが揺れもせず垂れていた。
磨き込まれた寄木張りの床には、古い魔法織りの絨毯が敷かれ、中央には丸いテーブルと、家主側と客側とを向かい合わせるようにソファが置かれている。
その部屋には、すでに数人が揃っていた。
ブラック家からは、オリオンとヴァルブルガ、そしてレギュラス。
向かいには、フロスト家当主夫妻と、その間に座るローランド・フロスト。
さらに、少し離れた位置には、ブラック家の遠縁——
クラリッサ・ブラックバーン。
黒に近い濃い栗色の髪を、低い位置でまとめている。
緩やかに波打つその髪から、ときおり光がこぼれるように反射した。
瞳は明るい灰色で、細い顎の線と通った鼻筋は、たしかにブラック家の血筋を思わせる。
アランほど人目を奪う美貌ではない。
けれど、十分すぎるほど華やかで、整った貴族の令嬢だ。
姿勢はまっすぐに伸び、微笑は社交の場に慣れた者のそれでありながら、どこか緊張と初々しさを含んでいる。
——この娘が、自分の「婚約者」になる。
ローランドは、その事実を、何度頭の中でなぞっても現実感を持てずにいた。
「本日はお運びいただき、ありがとうございます、フロスト卿、フロスト夫人」
オリオンが低い声で口火を切る。
ブラック家当主としての声音は、いつも通り揺るぎない。
「こちらこそ、ブラック卿。
このような光栄なお話を賜り、身に余る思いでございます」
フロスト家当主が、深く頭を垂れた。
形式的な挨拶が交わされる間も、ローランドは視線をテーブルの上の羊皮紙に落としたまま、膝の上で組んだ手に力を込めていた。
そこには、縁談の条件が記されている。
ブラックバーン家とフロスト家との持参金や財産の取り決め。
将来、どの地域に居を構え、どのような役割を担うか。
どこをとっても、申し分のない条件だった。
——悪い話ではない。
あの日、魔法省の応接室で告げられた言葉が、耳の奥で再生される。
悪い話ではないどころか、フロスト家にとっては願ってもない縁談なのだと分かっている。
ブラック家の血を引く令嬢を迎えれば、家門としての格は盤石になる。
魔法省との関係も、これまで以上に強固なものになっていくだろう。
理屈では分かっている。
それでも——胸の奥のどこかが、どうしようもなく震えそうだった。
「では」
書記官役として控えていたレギュラスが、静かに口を開いた。
「改めて、本日の要点を確認させていただきます」
灰色の瞳が、テーブルの上の書類から、順に顔ぶれをなぞっていく。
「フロスト家長男、ローランド・フロスト殿と、ブラック家遠縁にあたるクラリッサ・ブラックバーン嬢との婚約を、ここに正式に取り決める。
両家は、今後親族として互いに協力体制を築き、魔法界の発展に寄与する——」
淡々と読み上げられる文言は、政略的な響きと同時に、どこか穏やかな祝意すら帯びていた。
クラリッサは、その言葉を聞きながら、そっと膝の上で手を重ね直す。
まだ年若いが、その動作には礼儀作法の行き届いた慎みがあった。
「ブラック様」
レギュラスが読み上げを終えると、クラリッサが遠慮がちに顔を上げた。
「このような場を設けていただき、光栄に存じます。
フロスト家の皆様とご縁をいただけることを、心から嬉しく思っています」
その声音は柔らかく、よく通る。
社交界で慣らされた令嬢の挨拶でありながら、どこか本心の照れと喜びが混ざっていた。
ローランドは、隣から現れるその言葉を、遠くから聞いているような心地で受け止めていた。
——アランの声とは、違う。
そんな比べ方自体が、クラリッサに失礼であることは分かっている。
分かっているからこそ、心の中だけに留めておく。
アランが初めて礼を述べたときの、少しかしこまった声。
あの翡翠色の瞳が、恥ずかしそうに伏せられた瞬間のことを、身体のどこかが記憶して離さない。
今、目の前にいるのは、そのアランではない。
ブラック家と血を分けた別の令嬢。
これから先、自分の名と未来を共にすることになる女性。
——受け入れなければならない。
その現実が、骨の内側まで冷たく染み込んでくる。
「ローランド」
隣に座る父が、小さく名を呼んだ。
「はい、父上」
反射的に顔を向けると、フロスト家当主は、ほんのわずかに目を細めて息子を見た。
そこには期待と、申し訳なさと、誇りが、複雑に混ざり合っている。
「ブラック卿、ブラックバーン家の皆様から、これだけの好条件を頂いている。
お前が応じるかどうかで、フロスト家の今後が決まるのだ」
説教ではない。
責める響きもない。
ただ、静かな事実を告げるだけの言葉だった。
ローランドは、一度目を伏せて息を整えた。
アランの笑顔が浮かぶ。
幼い頃、庭の隅で泥だらけになりながら一緒に遊んだ日々。
寄宿学校に向かう前、互いの手をとって交わした約束。
魔法薬の瓶だらけのセシール家の書斎で、夜遅くまで資料を読みあった時間。
そして——ブラック家の新聞記事に載った、純白のドレス姿。
ローランド・フロストの「将来の伴侶」として伸ばしたかった手は、今、別の方向へ向けられている。
その現実に、指先がわずかに震えた。
「……フロスト家の長男として」
かすかに掠れた声で、ローランドは口を開いた。
「この縁談、お受けいたします」
クラリッサが小さく息を呑む気配がした。
視線を向けると、彼女は驚きと安堵の混じった笑みを浮かべていた。
ローランドは、それに応えるように、礼儀正しく微笑み返そうとする。
頬の筋肉がぎこちなく動くのを自覚しながら。
「それでは」
レギュラスが音もなく立ち上がった。
「最後に、形式だけでも——お二人に、将来の伴侶としての握手を交わしていただきましょうか」
その提案に、クラリッサは頬を染めて顔を伏せた。
「よろしいのですか、ブラック様……」
「ええ」
レギュラスは穏やかに笑う。
「今日ここで、両家の間に新たな縁が結ばれる。その始まりとして、何か形があった方が良い」
「形」という言葉に込められた意図を、ローランドは直感的に理解した。
——あの日、自分が本当は握りたかった手。
そこに伸ばせなかった指先。
今、その代わりに差し出すべき掌が、目の前にある。
「ローランド殿、クラリッサ嬢」
レギュラスの視線が、二人のあいだに注がれる。
「どうか、これからを共に歩まれるお相手として、挨拶を」
逃げ場はなかった。
ローランドは椅子から立ち上がり、クラリッサの方へ向き直る。
彼女もまた、立ち上がり、両手を前に揃えた。
近くで見るクラリッサは、やはり整った顔立ちをしていた。
明るい灰色の瞳は、ほんの少し怯えながらも、真っ直ぐにこちらを見ようとしている。
——アランとは違う。
だが、彼女もまた誰かの娘であり、愛情を受けて育てられてきたのだろう。
その当たり前の事実が、今さら胸に重くのしかかってきた。
ローランドは、自分に言い聞かせるように、静かに息を吸った。
「クラリッサ嬢」
手を差し出す。
「ローランド・フロストです。
不器用な人間ですが……どうか、よろしくお願いいたします」
クラリッサは、その手を両手で包み込むように取った。
指先は少し冷たいが、その中に確かな温度がある。
「クラリッサ・ブラックバーンと申します。
至らぬ身ではございますが……フロスト家の一員として恥じぬよう努めます。
どうか、よろしくお願いいたします」
その言葉は真摯で、嘘はなかった。
ローランドの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
——自分は今、知らない女性の手を、将来の伴侶として取っている。
セシールの書斎で、瓶だらけの机越しにアランの指先を見つめていた自分ではなく。
ホグワーツの廊下で、誰にも見られないように一瞬だけ手を重ねた青年でもなく。
ブラック家の客間で、ブラック家の紋章の下、フロスト家の長男として、別の女性と未来を交わしている。
指先の震えが、クラリッサに伝わらぬよう、ローランドは力の入れ方を慎重に整えた。
その様子を、レギュラスはソファの背もたれにもたれかかりながら、静かに眺めていた。
クラリッサの頬に咲く紅も、ローランドの瞳の奥でわずかに揺れる光も、すべて見逃さない。
目の前で、フロスト家がブラック家の血を正式に迎え入れた。
親族として、これからアランを「支える」立場になる男が、別のブラック家筋の娘と未来を繋いだ。
それは、レギュラスにとって、これ以上なく理想的な光景だった。
「おめでとうございます、フロスト殿、クラリッサ嬢」
形式的な祝辞を述べながら、その胸の奥には、ひどく静かな優越感が広がっていた。
——これでいい。
アランがどれほど過去を抱きしめようと、ローランドがどれほど彼女を想い続けようと。
現実は、こうして少しずつ形を変えていく。
ローランドの指先が震えたのを、レギュラスは確かに見た。
その震えが、やがて馴染む日が来ることを、彼は疑っていなかった。
馴染んでしまった頃には、アランとローランドの過去は、今よりもずっと遠い場所へ追いやられているだろう。
その未来を思い描きながら、レギュラス・ブラックは、静かに微笑みを深めた。
その知らせは、あまりにも何気ない口調で告げられた。
昼下がりの小客間。
窓辺には淡い光が差し込み、暖炉にはまだ火が入れられていない。
アランはテーブルで、父エドモンドから預かった魔法薬の資料に目を通していた。並べられた瓶から、かすかな薬草とアルコールの香りが立ちのぼる。
ノックの音がして、返事をするより早く扉が開いた。
「アラン」
レギュラスがいつもの穏やかな笑みを浮かべて入ってくる。
仕事帰りなのだろう、ローブはきれいに整えられ、灰色の瞳には疲れの影ひとつ見えなかった。
「少し、いいですか」
「……はい。レギュラス」
アランが立ち上がると、レギュラスは視線を一度だけ資料に落とし、それから何の前置きもなく口を開いた。
「フロスト殿の縁談が、正式にまとまりました」
空気が、ひと呼吸ぶん止まった。
アランは、瞬きも忘れたようにレギュラスの顔を見つめた。
意味だけは理解できる。
ただ、その言葉が現実として自分の胸に落ちてくるまでに、ひどく時間がかかる。
「……縁談、が」
ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「ええ。フロスト家長男、ローランド・フロスト殿と、ブラック家遠縁の令嬢——クラリッサ・ブラックバーン嬢との婚約です。
両家の間で条件も整いました。先日、ブラック家で縁組の席を設けて、無事に合意に至りましたよ」
まるで、少し前にあった出来事を報告するだけのような、淡々とした調子だった。
アランの瞳が、見開かれたまま、わずかに揺れる。
情報が追いつかない。
「クラリッサ・ブラックバーン」という聞き慣れない名だけが、浮遊物のように頭の中を漂った。
レギュラスは、その混乱そのものを眺めるように、一瞬だけ視線を留め——そして、何事もなかったかのように話を続けた。
「僕たち名義で、何か祝の品を送りましょうか」
アランの胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。
「僕たち」
レギュラスとアラン・ブラック。
その二人の名を並べて、ローランドと、その婚約者への祝いを送る——それが、今、当然のように提示された。
「……え、」
声にならない音が漏れただけで、言葉が続かなかった。
レギュラスは、彼女の反応をまるで聞かなかったかのように、軽く顎に指を添えて考えるふりをする。
「何にいたしましょうか。
食器類や銀器はどの家にも揃っていますしね……どうせなら、少し気の利いたものがいい」
アランの足元から、すっと血が引いていく。
立っている感覚が薄れ、紙の上の文字が遠ざかった。
「……あ、の……レギュラス」
どうにか名前を呼ぶと、彼はようやく視線だけをこちらに戻した。
「はい?」
穏やかで、何も知らないふりをした目だった。
何かを言わなければいけない——そんな義務感だけが、頭のどこかで鳴っている。
だが、口の中は乾き、舌が張り付いて言葉にならない。
「……ローランド……フロストは……」
それ以上が続かない。
口に出した瞬間に、胸が裂けるような痛みが走った。
レギュラスは、その途切れた名を聞きながら、特に補おうとはしなかった。
「別荘地にします?」
アランの混乱を、きれいに飛び越えるように、明るい声音で言葉を継ぐ。
「お二人がゆっくり過ごせるような、海の見える避暑地なんてどうでしょう。
南方の入り江は景色もいいですし、魔法省の同僚に良い物件を抱えている者がいます。
フロスト殿の立場を考えても、街から離れた場所にひとつ持っておくのは悪くない」
テンポよく並べられていく言葉に、アランの頭は追いつけなかった。
ローランドが、知らない女性と、海の見える別荘で。
肩を並べて立つ姿を、強制的に思い描かされる。
潮風に揺れる明るい髪。
彼の隣で微笑む、灰色の瞳の令嬢。
そこに自分の姿はない。
膝から力が抜けるのを感じた瞬間、椅子が背中に触れた。
レギュラスが、いつの間にかすぐそばに来ていて、軽く肩に手を添え、自然な動作で彼女を座らせていた。
「立っていると危ないですよ」
まるで、体調を気遣う夫そのものの声だった。
アランは、椅子に腰を落としたまま、両手をぎゅっと組み合わせる。
爪が掌に食い込む感覚だけが、現実と自分を繋ぎとめていた。
「……わたしは……」
掠れた声で何かを言いかけ、すぐに喉が詰まる。
どう言えばいいのか分からない。
「おめでとうございます」と言うべきなのか。
「なぜ何も言ってくれなかったのですか」と責めるべきなのか。
何を選んでも、その言葉はローランドとクラリッサの未来を肯定することになる。
それは、かつて自分と語り合った未来を、完全に土の下に埋める行為だと分かっていた。
吐き出したい言葉と、飲み込まなければならない言葉が、喉の奥でぐしゃぐしゃに絡まり合う。
レギュラスは、そんな彼女の内側を知っているのかいないのか、静かな調子を崩さなかった。
「もちろん、金額はこちらで負担します。
僕たち名義、と言っても、あなたに何か手続きの手間をおかけするつもりはありませんよ。
アランは、何があればフロスト殿がお喜びになると思います?」
あくまで「意見」を求める形をとる。
しかし、その実、選択肢を与えてはいない。
アランはゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
その奥にあるものを、読み取るだけの余裕はなかった。
ただひとつだけ分かるのは——この話し方が、彼にとっては「日常」の延長であるということだ。
魔法省で同僚の昇進祝いをどうするか相談するように。
ブラック家として新たな商談相手への贈答品を考えるように。
彼は今、フロスト家の婚約を「処理」している。
そこに、ローランドとアランの過去は、考慮するに足る要素として含まれていない。
「……わたくしには」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「分かりません。
ローランド……フロストが、何をお望みになるのか……もう、分からないのです」
正直な答えだった。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めた。
「そうですか」
短く応じる声には、責める色はなかった。
「なら、こちらで決めましょう。
フロスト殿には、きっと似合うでしょう。新しい伴侶と、海辺で穏やかに過ごす時間というのは」
さらりと告げられたその一言が、胸に鋭く刺さる。
「新しい伴侶」。
その言葉の響きが、耳の奥で残響のように広がっていく。
アランは、視界の端に置かれた資料に目を落とした。
ローランドとともに読み込んだこともある魔法薬研究の書類。
注釈の入った父の字が並ぶ紙の上に、ぼた、と涙が落ちそうになるのを、必死で堪える。
ここで泣いてはいけない。
それだけは、本能に近い感覚で理解していた。
レギュラスの前で、ローランドのことで涙を見せることはできない。
それは、何か決定的なものを渡してしまうのと同じだと、身体の奥底が警鐘を鳴らしていた。
「……お任せいたします」
かろうじて、それだけが口をついて出た。
レギュラスの唇が、わずかに弧を描く。
「そうですね。それが一番いい」
満足げな響きだった。
「では、手配はこちらで進めておきます。
フロスト殿にも、そのうち正式な祝辞をお伝えする機会があるでしょう。
そのときは、ブラック夫人として、どうか胸を張ってください」
ブラック夫人——その呼び方が、今ほど重苦しく響いたことはなかった。
アランは、小さく頷くしかできなかった。
レギュラスはそれ以上何も言わず、「では、もう少し仕事がありますので」とだけ告げて部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、静かに響く。
部屋には、急に音が消えたような静寂が落ちた。
窓の外で風が枝を揺らす音だけが遠くに聞こえる。
暖炉の前の絨毯の上に、午後の光が薄く伸びていた。
アランは椅子に腰掛けたまま、胸の前で握りしめた手をゆっくりと解いた。
爪の跡が白く残っている。
指先が震えているのを、ようやく自覚した。
ローランド・フロストの婚約。
ブラック家の遠縁の令嬢との縁談。
祝の別荘地。
海が見える、静かな避暑地。
頭の中に、いくつもの断片が浮かんでは消える。
どれも現実味がなかった。
ただひとつだけ、やけにはっきりと理解できたことがある。
——もう、終わったのだ。
ローランドと交わした幼い日の約束も。
成長してから交わした数え切れない手紙も。
「いつか」と笑い合っていた未来も。
ブラック家との婚姻で、半分は失われたと思っていたものが。
今、レギュラスの軽い口調ひとつで、完全に「過去」になった。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。
大きな音はしない。
ただ、砂になった柱が、音もなく積み重なっていた形を失うような感覚だった。
アランは、そっと唇を噛んだ。
涙は、まだ零れない。
それが、かろうじて保たれた最後の矜持のようにも思えた。
レギュラスの提案した別荘地の光景が、頭をよぎるたびに、胸の奥がじくじくと痛む。
そこにいるのは、自分ではない。
それでも、自分の名を連ねた祝の品が、その空間に置かれるのだ。
——ブラック家の妻として、彼の未来を祝う。
それが今の自分に課せられた「正しい振る舞い」なのだとしたら。
笑うしかない、と思った。
喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが詰まり、どうしようもなく熱が込み上げる。
アランは、ぎゅっと目を閉じた。
薄い瞼越しに差し込む光が、じわりと滲む。
静かな昼下がりの小客間で。
海の見える別荘の話を置き土産にして去っていった夫の背中を思い浮かべながら、アラン・ブラックは、誰にも見られない場所で、声にならない崩れ落ち方を覚えつつあった。
高い窓の外では、冬に向かう空が淡く白んでいる。
磨かれた黒檀の机の上には、何通もの封書と、家名ごとの紋章が刻まれた羊皮紙が整然と並べられていた。
レギュラスは椅子にもたれ、一本の羽根ペンを指の間で弄びながら、その中央に置かれた一通にゆっくり視線を落とした。
封蝋に刻まれた紋章は、ブラック家のものとよく似ている。
枝分かれして伸びた家系図の、遠く細い枝先——かつて大陸へと嫁ぎ、再び英国へ戻ってきた一族の印だ。
封を切ったのは、つい先ほどだった。
娘は年若いが、血統に一点の曇りもないこと。
ブラック家との親戚筋として、その期待に応えたいと考えていること。
申し出の相手がフロスト家の長男であるならば、これ以上ない縁談だと家中で喜んでいること。
丁寧な文言が続いていた。
レギュラスは文面の同じ箇所を三度読み、ようやく薄く笑みを浮かべた。
「上々ですね」
小さく零れた独り言に応じるように、部屋の隅に立っていたバーテミウスが一歩進み出る。
「うまくいきそうですか、レギュラス」
相変わらずの落ち着いた声だった。
「ええ。こちらの提示した条件に、不満はないようです」
レギュラスは羊皮紙を指先で軽く持ち上げる。
「フロスト家にとっても悪い話ではない。
純血で、ブラック家と血縁を持つ娘。将来、魔法省や各家門との橋渡しを担う上でも申し分ない」
「……ついでに言えば」
バーテミウスが、わずかに口角を上げる。
「ブラック家とフロスト家の間に、正式な血のつながりが生まれるわけですね」
「ええ」
レギュラスの笑みが深くなった。
「遠縁とはいえ、ブラック家の血がフロストの家系に流れ込む。
そしてフロスト家は、これからもセシール家と——つまり、アランの生家と関わり続ける」
机に指先を軽く打ちつける。
「そうなれば、フロスト家とブラック家は、永続的に切れない縁で結ばれることになる」
アラン・ブラックの過去と現在。
ローランド・フロストの未練と誠実さ。
そのすべてを、一本の血筋で束ねてしまう。
その構図を思い浮かべると、胸の奥で愉悦が静かに膨らんだ。
「素晴らしい布石だと思いませんか?」
視線だけで問うと、バーテミウスは肩をすくめてみせた。
「ええ。あなたらしいと思います」
評価とも皮肉ともつかない返答だったが、そのどちらも含んでいて心地よかった。
「フロスト殿は、どんな顔をするでしょうね」
レギュラスは椅子からゆっくり身を乗り出し、机の上の地図に目をやる。
魔法界の各家門と、魔法省、主要な製薬会社、寄宿学校や研究機関との関係性が線で結ばれている。
フロスト家の名のそばには、セシール家と魔法省の印が重なっていた。
そこに、新たにブラック家を示す印を添える。
羽根ペンの先で、その一点を軽く叩いた。
「彼は、拒めないでしょう」
「……でしょうね」
バーテミウスの返答には、さほどの迷いがなかった。
「ブラック家筋からの申し出なら、フロスト家にとっても栄誉です。
それに、レギュラス、あなたが以前『セシール家との婚姻』で提示した条件を知っている以上——」
「断るのは失礼にあたる」
レギュラスが言葉を継ぐ。
「誠実であろうとする人間ほど、その手の礼節に縛られるものです。
自分よりも家のことを考え、過去の約束より今後の家門の安定を選ぶ。それが彼の『正しさ』でしょう」
そして、その「正しさ」を選ぶ瞬間の顔を、レギュラスは見てみたかった。
長年想い続けてきた女を、他の男に差し出した青年。
その男が今度は、自らの未来をブラック家の遠縁の娘と結ぶことで、再び「正しい道」を選ぼうとする瞬間。
覚悟か、諦めか、静かな誇りか。
あるいは、誰にも見せまいと押し込めてきた感情の綻びか。
どんな表情で縁談の知らせを受けるのか、想像するだけで愉快だった。
「それに——」
レギュラスは、椅子から立ち上がると、窓辺へ歩み寄る。
ガラスの向こうで、魔法省の中庭が見えた。
行き交う職員たちのローブが、風に揺れている。
「これでフロスト殿がどれほど『アラン』に未練を残していようと、彼がブラック家と血縁を結べば、その未練もまた、僕の掌の内側に入る」
アランの過去は、どこまでも透明だ。
ローランドとの幼い日々も、手紙の往復も、一度きりの「拒めなかった夜」も。
彼女が決して言葉にしないところまで、想像できてしまう。
だが、それらはすでに「過去」であり、今この瞬間、彼女の隣に立つのはレギュラス・ブラックだ。
フロスト家が他の家と縁を結ぶだけなら、それはただのひとつの選択にすぎない。
だが、その相手がブラック家の遠縁であるなら、話は別だ。
「アランは、どんな顔をするでしょうね」
レギュラスは、窓ガラスに薄く映る自分の微笑を眺めながら呟いた。
「フロスト殿の婚約話を耳にしたとき。
ブラック家の血を引く娘と彼が並んで立つ姿を思い浮かべたとき。
自分の知らない場所で、彼が誰かの隣にいる未来を想像したとき」
絶望するか。
嫉妬するか。
あるいは、自分を責めて狂いそうになるか。
どれであっても構わなかった。
どれを選んでも、結局その感情の矛先は、ブラック家に、つまりレギュラスに戻ってくる。
アランがローランドを思い出すたび、その輪郭のどこかにブラック家の紋章が焼き付く。
彼女の過去も未来も、どこを辿ってもブラックに行きつくように、道筋を増やしていく。
それが楽しくて仕方なかった。
「ところで」
バーテミウスが、手元の帳面に視線を落としたまま問う。
「この件は、アラン夫人には、いつお伝えになるおつもりです?」
「そうですね」
レギュラスは窓から離れ、再び机に戻った。
指で机をとん、と軽く叩きながら思案するふりをする。
「フロスト殿が正式に話を受け入れ、先方との挨拶が済んでから。
そのくらいが、ちょうどいいでしょう」
「事後報告、という形ですか」
「ええ」
迷いなく頷く。
「彼女が一番『どうにもできなかった』と実感するタイミングで知らせるべきです。
もし、まだ彼にわずかな可能性が残っていると信じているなら、その最後の綱も、自分の知らぬところで静かに切られていたのだと知ることになる」
それは残酷なやり方かもしれない。
だが、純血貴族の政略など、もともと残酷なものだ。
レギュラスは、書類の端を整えながら、さも事務的な話題のひとつにすぎないような調子で口にする。
「アランには、ブラック家の妻として過ごすための覚悟が必要です。
過去にしがみついて泣き続けるだけでは困りますから」
「……夫人は、あなたを恨みませんか?」
バーテミウスの問いは、少しだけ真面目だった。
「恨むでしょうね」
レギュラスはあっさりと言った。
「すでに充分恨まれている気もしますが」
彼女から向けられる怯えと反発と、諦めの混じった眼差しを思い出す。
そこに、これから先どれだけの感情が積み重なっていくのか。
苦しみも、憎しみも、諦念も。
どれも、彼女が自分だけに向けてくるものだと思えば、それすら愉悦に変わる。
「恨んでもいいんです。
それでも、夜は僕のところに来る。朝は同じテーブルで食事をする。
フロスト殿の婚約の話を聞いたあとも、彼女はブラック家の妻として日々を送る」
その積み重ねこそが重要だった。
事実は、感情を少しずつ蝕む。
どれほど「愛している」と過去に執着しても、目の前の現実が長く続けば、記憶の輪郭は確実に薄れていく。
ならば、現実を増やせばいい。
アラン・ブラックとしての「当たり前」を増やせば増やすほど、ローランド・フロストとの日々は遠ざかる。
フロスト家の婚約も、そのための一手にすぎない。
レギュラスは、机の上の羊皮紙を重ね合わせ、一番上にフロスト家宛ての封筒を置いた。
「フロスト殿には、僕から直接伝えましょう」
視線を上げる。
「魔法省の応接室で。
以前、セシール家との婚姻を告げたときと同じように」
「同じ場所で、ですか」
「ええ。そのほうがいい」
レギュラスの灰色の瞳に、淡い光が灯る。
あのとき、ローランドは静かに絶句した。
言葉を失い、しかし礼を失わぬよう必死に姿勢を保とうとするその様子は、実に見応えがあった。
今度は、どんな表情を見せてくれるだろう。
アランを手放した男が、ブラック家の遠縁の娘との婚約を告げられたとき。
それを「正しさ」として飲み込もうとするその瞬間。
楽しみで仕方がなかった。
「では、手配を進めます」
バーテミウスが一礼する。
「レギュラス、あなたも本当に飽きませんね」
「そうですか?」
レギュラスは穏やかに笑った。
「せっかく手に入れたものです。
その価値を最大限に味わう方法を考えるのは、当然でしょう」
アラン・ブラック。
セシール家の一人娘。
かつてローランド・フロストが全てを賭けて愛した女。
今はブラック家の紋章のもとに立ち、夜ごとレギュラスの名を呼ぶ。
その現実を、まだ十分に堪能しきれているとは言えない。
だから彼は、今日もまたひとつ布石を打つ。
フロスト家とブラック家の血を繋ぐために。
アランの過去と現在と未来を、逃げ場なくひとつの円の中に閉じ込めるために。
レギュラス・ブラックは、封筒に再び視線を落とし、不意に愉悦を押し隠すように息を吐いた。
「さて——フロスト殿には、どんな言葉を選びましょうか」
楽しげな独り言が、静かな執務室に溶けていった。
魔法省の応接室には、冬の光が斜めに差し込んでいた。
鉛色の空から落ちてくる柔らかな明るさは、厚いガラス越しにわずかに冷たさを含んで、部屋の中の空気を白く薄めている。
壁には、古い魔法家系の紋章がいくつも飾られ、その中央にはブラック家の黒い盾が重々しく鎮座していた。
その紋章の真下に置かれたソファに、レギュラス・ブラックは脚を組んで座っていた。
正面には、ローランド・フロスト。
きちんと整えられた淡い髪色に、真っ直ぐな青い瞳。
彼は、膝の上で組んだ手に力をこめている。
それを、レギュラスはさも何気ない視線で眺めていた。
「お忙しいところ、わざわざ足を運んでいただいて申し訳ありません、フロスト殿」
「いえ、とんでもございません、ブラック様」
ローランドは、いつものように礼儀正しく頭をさげた。
声は落ち着いている。
けれど、その静けさの下に緊張が潜んでいるのが、レギュラスには手に取るように分かった。
——前にも、ここで話をした。
セシール家との婚姻を告げた日。
同じ応接室、同じ家具の配置、同じ距離感。
ただひとつ違うのは、そのときローランドの胸を占めていたのは「アランを失う」という一点で、今はこの部屋に妻の名すら出ていないということだ。
まだ、出していないだけで。
「さて」
レギュラスは、卓上に置かれた書類の束から一枚の羊皮紙を抜き取った。
封蝋はすでに解かれている。
ブラック家紋章とよく似た意匠が、端に小さく刻まれている。
「本日は、あなたと——ブラック家の遠縁の娘との縁談について、ご相談をと思いまして」
ストレートな切り出し方だった。
ローランドの青い瞳が、かすかに見開かれる。
「……縁談、でございますか」
「ええ」
レギュラスは微笑を崩さない。
「彼女はまだお若いですが、血筋は申し分ありません。
ブラック家と同じ古い系譜に属し、しばらく大陸に出ていた家の一枝が、数代前に英国に戻ってきた——そんな家筋です」
羊皮紙を軽く指先で叩きながら、淡々と続ける。
「あなたもご存じでしょう。
フロスト家は、魔法省とセシール家の橋渡しとして、今後さらに働いていただきたい立場にある。
そこにブラック家筋の娘を迎えれば、家門の格は十分すぎるほど保たれる」
ローランドは、静かに話を聞いていた。
姿勢は崩さない。
ただ、組んだ手の指先にわずかに力がこもっていく。
レギュラスは、その変化を見逃さず、さらに言葉を重ねた。
「いかがですか? 悪い話ではないと思います」
穏やかな口調で、しかし逃げ場のない言い方だった。
ローランドは、一拍置いてから息を吸った。
「……確かに、ブラック家のご親族からそのようなお話を頂けるのは、フロスト家にとって、大変光栄なことです」
模範的な返答だ。
礼儀正しく、慎重で、決して感情を前面に押し出さない。
だが、その声の奥に、微かな戸惑いと痛みが混ざっているのを、レギュラスは愉しげに味わっていた。
「ただ——」
ローランドは、言い淀む。
「私などに、そのような……と申しますか、務まるのかどうか」
「フロスト殿」
レギュラスは、彼の言葉をやわらかく遮った。
「あなたほどの方に務まらない縁談なら、それこそ誰に務まると言うのです」
言いながら、わざと少しだけ身を乗り出す。
「あなたは誠実で、家のことを第一に考える。
セシール家との件でも、ご自分の想いよりも先に、アランとそのご家族の未来を優先なさった」
ローランドの瞳が揺れた。
アランの名は、出していない。
だが、その「件」が何を指しているのかは、言われずとも分かる。
レギュラスは、それを承知のうえでなお、平然と続けた。
「今回も、よく似た話です。
あなたご自身の想いよりも、フロスト家と、これから先の魔法界との関わりを考えていただきたい」
言葉は穏やかで、説教じみたものではない。
しかし、「選ぶべき道」は最初から一つしかないと言っているに等しい。
部屋の空気が、少し重くなる。
ローランドは視線を落とし、掌を見つめた。
彼の沈黙を、レギュラスは急かさない。
待つふりをしながら、その表情の変化を細かく観察する。
考えている。
自分自身のこれからの人生と、フロスト家の利益と、背負うべき役割とを、きっと真面目に天秤にかけている。
——だから、この男は扱いやすいのだ。
感情よりも「正しさ」を優先する。
その習性は、責任ある役職に就くには向いているが、同時に、レギュラスのような人間にとっては好都合でもある。
ある程度の条件さえ整えてやれば、自ら痛みを飲み込み、「然るべき答え」を選ぶのだから。
「……ブラック様」
しばらくの沈黙ののち、ローランドが口を開いた。
「僭越ながら、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ、私に——フロスト家に、このようなお話を?」
その問いには、純粋な疑問と、わずかな警戒が混ざっていた。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めてから、淡く笑った。
「理由は、いくつかありますよ」
指を一本立てる。
「ひとつは、単純に、フロスト家がこの縁談にふさわしいからです。
家門の格、魔法省との関わり、今後の立ち位置——すべてを考慮しても、ブラック家の遠縁の娘を嫁がせるに値する」
そして、もう一本、指を立てた。
「もうひとつは、個人的な願いです」
「……願い、ですか」
「ええ」
レギュラスは、椅子の背にもたれ直し、視線を少しだけ上げる。
「フロスト殿。
あなたには——親族として、アランを支えていただきたい」
その名を、今度ははっきりと口にした。
ローランドの指先が、目に見えて強張る。
息が詰まるのを堪えるように、喉が微かに動いた。
「……親族として、でございますか」
「ええ」
レギュラスは、まるで当たり前のことを告げるような調子で頷く。
「アランは、これからもセシール家の研究に関わるでしょう。
ブラック家の妻でありながら、生家とも深く繋がり、魔法薬の研究では、あなたとも顔を合わせる機会が多いはずです」
それは、すでに現実になりつつある日々をなぞる言葉だ。
「そんなとき、血のつながりを持つ親族として、彼女を支え、見守ってくださる方が近くにいるのは、非常に心強い」
レギュラスの灰色の瞳が、まっすぐにローランドを捉える。
「過去に何があったかは、もう終わったことです。
ですが、彼女にとって、フロスト家が大切な存在であったことは、今も変わりません」
その「大切」がどのような質のものであったのか——恋か、友情か、家門同士の信頼か。
あえて曖昧にしたまま、レギュラスは言葉を続ける。
「ならばその縁を、正式な『親族』という形で未来に繋げるのは、悪い選択ではないでしょう?」
親族として。
アランを支え、見守り、時に助言を与える立場として。
目の前の男に、妻の傍に立つ役割を与えながら、しかし絶対に越えられない一線を引く言葉だった。
ローランドは、しばらく何も言わなかった。
視線を落としたまま、胸の内側で何かを押し殺しているのが分かる。
拳は握られていない。
荒い呼吸も漏れてこない。
ただ、瞳の奥にだけ、わずかな光が揺れていた。
——アランを支える親族。
その言葉の重さと残酷さは、彼が誰よりも理解している。
かつては隣に立ち、同じ未来を語り合うはずだった相手を、今度は「親族」として遠くから支える役を与えられるのだ。
それを告げているのは、彼からすべてを奪った男。
ブラック家の当主であり、アランの夫であるレギュラス・ブラック。
「……ブラック様は」
ローランドは、やがて静かに顔を上げた。
「本気で、そのような役目を、私に?」
「もちろんです」
レギュラスは即答した。
「あなた以外に適任はいないと、僕は思っています」
それは、半分は本心であり、半分は計算だった。
アランの過去を誰よりも知る男が、これから先は「親族」として、ブラック家の妻を支える。
その構図は、レギュラスの優越感をこの上なく満たす。
彼女がローランドの名を心の中でどれほど呼んだとしても、現実の席次では、常にレギュラスが最前列にいる。
ローランドは、その背後から静かに見守る立場に追いやられる。
——それでいい。
そういう未来をこそ、レギュラスは望んでいた。
「……身に余るお話です」
ローランドは、低く言った。
「私などに務まるのかどうか不安はございますが……フロスト家の当主として、前向きに受け止めさせていただきたく存じます」
それは、ほとんど「受諾」に等しい言葉だった。
レギュラスは、内心の笑みを悟らせぬように気をつけながら、わずかに顎を引く。
「ありがとうございます、フロスト殿。
あなたのお返事を、先方も喜ぶでしょう」
そして、少しだけ声の調子を落とす。
「アランも、きっと」
ローランドの喉が、かすかに震えた。
その反応を見届けながら、レギュラスは立ち上がる。
「詳細については、改めて両家を交えて話を進めましょう。
今日はまず、ご提案まで」
そう言って、手を差し出した。
ローランドは、その手を見つめ、一瞬だけ迷った。
それから、覚悟を固めるように指を伸ばし、しっかりと握り返す。
その握手は、固く、礼儀正しいものだった。
そこに、露骨な敵意や悔恨は見えない。
だが、レギュラスには分かる。
この男が、いま握りしめているものが、どれほど重いか。
どれほどのものを手放し、どれほどのものを飲み込んだ上で、この握手にたどり着いたのか。
それを知ったうえでなお、レギュラス・ブラックは静かに微笑む。
「これで、我々は——より強く結ばれることになりますね、フロスト殿」
「……はい」
ローランドの声は、かすかに掠れていた。
「ブラック家とフロスト家が、親族として」
親族。
その言葉の中には、アラン・ブラックの過去と現在と未来が、すべて巻き込まれている。
目の前の男に、ブラック家の「正妻」を支えさせる。
かつて恋を捧げた女を、堂々と「親族」と呼びながら、生涯見守らせる。
その光景を思い描くだけで、レギュラスの胸の奥には、静かで濃厚な優越感が満ちていった。
ブラック家本邸の、小ぶりな応接間が用意されていた。
広間ほどの大仰さはないが、客人を迎えるためのしつらえとしては、申し分なく整えられている。
壁には深い緑のダマスク柄の壁紙が貼られ、窓辺には重たいビロードのカーテンが揺れもせず垂れていた。
磨き込まれた寄木張りの床には、古い魔法織りの絨毯が敷かれ、中央には丸いテーブルと、家主側と客側とを向かい合わせるようにソファが置かれている。
その部屋には、すでに数人が揃っていた。
ブラック家からは、オリオンとヴァルブルガ、そしてレギュラス。
向かいには、フロスト家当主夫妻と、その間に座るローランド・フロスト。
さらに、少し離れた位置には、ブラック家の遠縁——
クラリッサ・ブラックバーン。
黒に近い濃い栗色の髪を、低い位置でまとめている。
緩やかに波打つその髪から、ときおり光がこぼれるように反射した。
瞳は明るい灰色で、細い顎の線と通った鼻筋は、たしかにブラック家の血筋を思わせる。
アランほど人目を奪う美貌ではない。
けれど、十分すぎるほど華やかで、整った貴族の令嬢だ。
姿勢はまっすぐに伸び、微笑は社交の場に慣れた者のそれでありながら、どこか緊張と初々しさを含んでいる。
——この娘が、自分の「婚約者」になる。
ローランドは、その事実を、何度頭の中でなぞっても現実感を持てずにいた。
「本日はお運びいただき、ありがとうございます、フロスト卿、フロスト夫人」
オリオンが低い声で口火を切る。
ブラック家当主としての声音は、いつも通り揺るぎない。
「こちらこそ、ブラック卿。
このような光栄なお話を賜り、身に余る思いでございます」
フロスト家当主が、深く頭を垂れた。
形式的な挨拶が交わされる間も、ローランドは視線をテーブルの上の羊皮紙に落としたまま、膝の上で組んだ手に力を込めていた。
そこには、縁談の条件が記されている。
ブラックバーン家とフロスト家との持参金や財産の取り決め。
将来、どの地域に居を構え、どのような役割を担うか。
どこをとっても、申し分のない条件だった。
——悪い話ではない。
あの日、魔法省の応接室で告げられた言葉が、耳の奥で再生される。
悪い話ではないどころか、フロスト家にとっては願ってもない縁談なのだと分かっている。
ブラック家の血を引く令嬢を迎えれば、家門としての格は盤石になる。
魔法省との関係も、これまで以上に強固なものになっていくだろう。
理屈では分かっている。
それでも——胸の奥のどこかが、どうしようもなく震えそうだった。
「では」
書記官役として控えていたレギュラスが、静かに口を開いた。
「改めて、本日の要点を確認させていただきます」
灰色の瞳が、テーブルの上の書類から、順に顔ぶれをなぞっていく。
「フロスト家長男、ローランド・フロスト殿と、ブラック家遠縁にあたるクラリッサ・ブラックバーン嬢との婚約を、ここに正式に取り決める。
両家は、今後親族として互いに協力体制を築き、魔法界の発展に寄与する——」
淡々と読み上げられる文言は、政略的な響きと同時に、どこか穏やかな祝意すら帯びていた。
クラリッサは、その言葉を聞きながら、そっと膝の上で手を重ね直す。
まだ年若いが、その動作には礼儀作法の行き届いた慎みがあった。
「ブラック様」
レギュラスが読み上げを終えると、クラリッサが遠慮がちに顔を上げた。
「このような場を設けていただき、光栄に存じます。
フロスト家の皆様とご縁をいただけることを、心から嬉しく思っています」
その声音は柔らかく、よく通る。
社交界で慣らされた令嬢の挨拶でありながら、どこか本心の照れと喜びが混ざっていた。
ローランドは、隣から現れるその言葉を、遠くから聞いているような心地で受け止めていた。
——アランの声とは、違う。
そんな比べ方自体が、クラリッサに失礼であることは分かっている。
分かっているからこそ、心の中だけに留めておく。
アランが初めて礼を述べたときの、少しかしこまった声。
あの翡翠色の瞳が、恥ずかしそうに伏せられた瞬間のことを、身体のどこかが記憶して離さない。
今、目の前にいるのは、そのアランではない。
ブラック家と血を分けた別の令嬢。
これから先、自分の名と未来を共にすることになる女性。
——受け入れなければならない。
その現実が、骨の内側まで冷たく染み込んでくる。
「ローランド」
隣に座る父が、小さく名を呼んだ。
「はい、父上」
反射的に顔を向けると、フロスト家当主は、ほんのわずかに目を細めて息子を見た。
そこには期待と、申し訳なさと、誇りが、複雑に混ざり合っている。
「ブラック卿、ブラックバーン家の皆様から、これだけの好条件を頂いている。
お前が応じるかどうかで、フロスト家の今後が決まるのだ」
説教ではない。
責める響きもない。
ただ、静かな事実を告げるだけの言葉だった。
ローランドは、一度目を伏せて息を整えた。
アランの笑顔が浮かぶ。
幼い頃、庭の隅で泥だらけになりながら一緒に遊んだ日々。
寄宿学校に向かう前、互いの手をとって交わした約束。
魔法薬の瓶だらけのセシール家の書斎で、夜遅くまで資料を読みあった時間。
そして——ブラック家の新聞記事に載った、純白のドレス姿。
ローランド・フロストの「将来の伴侶」として伸ばしたかった手は、今、別の方向へ向けられている。
その現実に、指先がわずかに震えた。
「……フロスト家の長男として」
かすかに掠れた声で、ローランドは口を開いた。
「この縁談、お受けいたします」
クラリッサが小さく息を呑む気配がした。
視線を向けると、彼女は驚きと安堵の混じった笑みを浮かべていた。
ローランドは、それに応えるように、礼儀正しく微笑み返そうとする。
頬の筋肉がぎこちなく動くのを自覚しながら。
「それでは」
レギュラスが音もなく立ち上がった。
「最後に、形式だけでも——お二人に、将来の伴侶としての握手を交わしていただきましょうか」
その提案に、クラリッサは頬を染めて顔を伏せた。
「よろしいのですか、ブラック様……」
「ええ」
レギュラスは穏やかに笑う。
「今日ここで、両家の間に新たな縁が結ばれる。その始まりとして、何か形があった方が良い」
「形」という言葉に込められた意図を、ローランドは直感的に理解した。
——あの日、自分が本当は握りたかった手。
そこに伸ばせなかった指先。
今、その代わりに差し出すべき掌が、目の前にある。
「ローランド殿、クラリッサ嬢」
レギュラスの視線が、二人のあいだに注がれる。
「どうか、これからを共に歩まれるお相手として、挨拶を」
逃げ場はなかった。
ローランドは椅子から立ち上がり、クラリッサの方へ向き直る。
彼女もまた、立ち上がり、両手を前に揃えた。
近くで見るクラリッサは、やはり整った顔立ちをしていた。
明るい灰色の瞳は、ほんの少し怯えながらも、真っ直ぐにこちらを見ようとしている。
——アランとは違う。
だが、彼女もまた誰かの娘であり、愛情を受けて育てられてきたのだろう。
その当たり前の事実が、今さら胸に重くのしかかってきた。
ローランドは、自分に言い聞かせるように、静かに息を吸った。
「クラリッサ嬢」
手を差し出す。
「ローランド・フロストです。
不器用な人間ですが……どうか、よろしくお願いいたします」
クラリッサは、その手を両手で包み込むように取った。
指先は少し冷たいが、その中に確かな温度がある。
「クラリッサ・ブラックバーンと申します。
至らぬ身ではございますが……フロスト家の一員として恥じぬよう努めます。
どうか、よろしくお願いいたします」
その言葉は真摯で、嘘はなかった。
ローランドの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
——自分は今、知らない女性の手を、将来の伴侶として取っている。
セシールの書斎で、瓶だらけの机越しにアランの指先を見つめていた自分ではなく。
ホグワーツの廊下で、誰にも見られないように一瞬だけ手を重ねた青年でもなく。
ブラック家の客間で、ブラック家の紋章の下、フロスト家の長男として、別の女性と未来を交わしている。
指先の震えが、クラリッサに伝わらぬよう、ローランドは力の入れ方を慎重に整えた。
その様子を、レギュラスはソファの背もたれにもたれかかりながら、静かに眺めていた。
クラリッサの頬に咲く紅も、ローランドの瞳の奥でわずかに揺れる光も、すべて見逃さない。
目の前で、フロスト家がブラック家の血を正式に迎え入れた。
親族として、これからアランを「支える」立場になる男が、別のブラック家筋の娘と未来を繋いだ。
それは、レギュラスにとって、これ以上なく理想的な光景だった。
「おめでとうございます、フロスト殿、クラリッサ嬢」
形式的な祝辞を述べながら、その胸の奥には、ひどく静かな優越感が広がっていた。
——これでいい。
アランがどれほど過去を抱きしめようと、ローランドがどれほど彼女を想い続けようと。
現実は、こうして少しずつ形を変えていく。
ローランドの指先が震えたのを、レギュラスは確かに見た。
その震えが、やがて馴染む日が来ることを、彼は疑っていなかった。
馴染んでしまった頃には、アランとローランドの過去は、今よりもずっと遠い場所へ追いやられているだろう。
その未来を思い描きながら、レギュラス・ブラックは、静かに微笑みを深めた。
その知らせは、あまりにも何気ない口調で告げられた。
昼下がりの小客間。
窓辺には淡い光が差し込み、暖炉にはまだ火が入れられていない。
アランはテーブルで、父エドモンドから預かった魔法薬の資料に目を通していた。並べられた瓶から、かすかな薬草とアルコールの香りが立ちのぼる。
ノックの音がして、返事をするより早く扉が開いた。
「アラン」
レギュラスがいつもの穏やかな笑みを浮かべて入ってくる。
仕事帰りなのだろう、ローブはきれいに整えられ、灰色の瞳には疲れの影ひとつ見えなかった。
「少し、いいですか」
「……はい。レギュラス」
アランが立ち上がると、レギュラスは視線を一度だけ資料に落とし、それから何の前置きもなく口を開いた。
「フロスト殿の縁談が、正式にまとまりました」
空気が、ひと呼吸ぶん止まった。
アランは、瞬きも忘れたようにレギュラスの顔を見つめた。
意味だけは理解できる。
ただ、その言葉が現実として自分の胸に落ちてくるまでに、ひどく時間がかかる。
「……縁談、が」
ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「ええ。フロスト家長男、ローランド・フロスト殿と、ブラック家遠縁の令嬢——クラリッサ・ブラックバーン嬢との婚約です。
両家の間で条件も整いました。先日、ブラック家で縁組の席を設けて、無事に合意に至りましたよ」
まるで、少し前にあった出来事を報告するだけのような、淡々とした調子だった。
アランの瞳が、見開かれたまま、わずかに揺れる。
情報が追いつかない。
「クラリッサ・ブラックバーン」という聞き慣れない名だけが、浮遊物のように頭の中を漂った。
レギュラスは、その混乱そのものを眺めるように、一瞬だけ視線を留め——そして、何事もなかったかのように話を続けた。
「僕たち名義で、何か祝の品を送りましょうか」
アランの胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。
「僕たち」
レギュラスとアラン・ブラック。
その二人の名を並べて、ローランドと、その婚約者への祝いを送る——それが、今、当然のように提示された。
「……え、」
声にならない音が漏れただけで、言葉が続かなかった。
レギュラスは、彼女の反応をまるで聞かなかったかのように、軽く顎に指を添えて考えるふりをする。
「何にいたしましょうか。
食器類や銀器はどの家にも揃っていますしね……どうせなら、少し気の利いたものがいい」
アランの足元から、すっと血が引いていく。
立っている感覚が薄れ、紙の上の文字が遠ざかった。
「……あ、の……レギュラス」
どうにか名前を呼ぶと、彼はようやく視線だけをこちらに戻した。
「はい?」
穏やかで、何も知らないふりをした目だった。
何かを言わなければいけない——そんな義務感だけが、頭のどこかで鳴っている。
だが、口の中は乾き、舌が張り付いて言葉にならない。
「……ローランド……フロストは……」
それ以上が続かない。
口に出した瞬間に、胸が裂けるような痛みが走った。
レギュラスは、その途切れた名を聞きながら、特に補おうとはしなかった。
「別荘地にします?」
アランの混乱を、きれいに飛び越えるように、明るい声音で言葉を継ぐ。
「お二人がゆっくり過ごせるような、海の見える避暑地なんてどうでしょう。
南方の入り江は景色もいいですし、魔法省の同僚に良い物件を抱えている者がいます。
フロスト殿の立場を考えても、街から離れた場所にひとつ持っておくのは悪くない」
テンポよく並べられていく言葉に、アランの頭は追いつけなかった。
ローランドが、知らない女性と、海の見える別荘で。
肩を並べて立つ姿を、強制的に思い描かされる。
潮風に揺れる明るい髪。
彼の隣で微笑む、灰色の瞳の令嬢。
そこに自分の姿はない。
膝から力が抜けるのを感じた瞬間、椅子が背中に触れた。
レギュラスが、いつの間にかすぐそばに来ていて、軽く肩に手を添え、自然な動作で彼女を座らせていた。
「立っていると危ないですよ」
まるで、体調を気遣う夫そのものの声だった。
アランは、椅子に腰を落としたまま、両手をぎゅっと組み合わせる。
爪が掌に食い込む感覚だけが、現実と自分を繋ぎとめていた。
「……わたしは……」
掠れた声で何かを言いかけ、すぐに喉が詰まる。
どう言えばいいのか分からない。
「おめでとうございます」と言うべきなのか。
「なぜ何も言ってくれなかったのですか」と責めるべきなのか。
何を選んでも、その言葉はローランドとクラリッサの未来を肯定することになる。
それは、かつて自分と語り合った未来を、完全に土の下に埋める行為だと分かっていた。
吐き出したい言葉と、飲み込まなければならない言葉が、喉の奥でぐしゃぐしゃに絡まり合う。
レギュラスは、そんな彼女の内側を知っているのかいないのか、静かな調子を崩さなかった。
「もちろん、金額はこちらで負担します。
僕たち名義、と言っても、あなたに何か手続きの手間をおかけするつもりはありませんよ。
アランは、何があればフロスト殿がお喜びになると思います?」
あくまで「意見」を求める形をとる。
しかし、その実、選択肢を与えてはいない。
アランはゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
その奥にあるものを、読み取るだけの余裕はなかった。
ただひとつだけ分かるのは——この話し方が、彼にとっては「日常」の延長であるということだ。
魔法省で同僚の昇進祝いをどうするか相談するように。
ブラック家として新たな商談相手への贈答品を考えるように。
彼は今、フロスト家の婚約を「処理」している。
そこに、ローランドとアランの過去は、考慮するに足る要素として含まれていない。
「……わたくしには」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「分かりません。
ローランド……フロストが、何をお望みになるのか……もう、分からないのです」
正直な答えだった。
レギュラスは、一瞬だけ目を細めた。
「そうですか」
短く応じる声には、責める色はなかった。
「なら、こちらで決めましょう。
フロスト殿には、きっと似合うでしょう。新しい伴侶と、海辺で穏やかに過ごす時間というのは」
さらりと告げられたその一言が、胸に鋭く刺さる。
「新しい伴侶」。
その言葉の響きが、耳の奥で残響のように広がっていく。
アランは、視界の端に置かれた資料に目を落とした。
ローランドとともに読み込んだこともある魔法薬研究の書類。
注釈の入った父の字が並ぶ紙の上に、ぼた、と涙が落ちそうになるのを、必死で堪える。
ここで泣いてはいけない。
それだけは、本能に近い感覚で理解していた。
レギュラスの前で、ローランドのことで涙を見せることはできない。
それは、何か決定的なものを渡してしまうのと同じだと、身体の奥底が警鐘を鳴らしていた。
「……お任せいたします」
かろうじて、それだけが口をついて出た。
レギュラスの唇が、わずかに弧を描く。
「そうですね。それが一番いい」
満足げな響きだった。
「では、手配はこちらで進めておきます。
フロスト殿にも、そのうち正式な祝辞をお伝えする機会があるでしょう。
そのときは、ブラック夫人として、どうか胸を張ってください」
ブラック夫人——その呼び方が、今ほど重苦しく響いたことはなかった。
アランは、小さく頷くしかできなかった。
レギュラスはそれ以上何も言わず、「では、もう少し仕事がありますので」とだけ告げて部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、静かに響く。
部屋には、急に音が消えたような静寂が落ちた。
窓の外で風が枝を揺らす音だけが遠くに聞こえる。
暖炉の前の絨毯の上に、午後の光が薄く伸びていた。
アランは椅子に腰掛けたまま、胸の前で握りしめた手をゆっくりと解いた。
爪の跡が白く残っている。
指先が震えているのを、ようやく自覚した。
ローランド・フロストの婚約。
ブラック家の遠縁の令嬢との縁談。
祝の別荘地。
海が見える、静かな避暑地。
頭の中に、いくつもの断片が浮かんでは消える。
どれも現実味がなかった。
ただひとつだけ、やけにはっきりと理解できたことがある。
——もう、終わったのだ。
ローランドと交わした幼い日の約束も。
成長してから交わした数え切れない手紙も。
「いつか」と笑い合っていた未来も。
ブラック家との婚姻で、半分は失われたと思っていたものが。
今、レギュラスの軽い口調ひとつで、完全に「過去」になった。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。
大きな音はしない。
ただ、砂になった柱が、音もなく積み重なっていた形を失うような感覚だった。
アランは、そっと唇を噛んだ。
涙は、まだ零れない。
それが、かろうじて保たれた最後の矜持のようにも思えた。
レギュラスの提案した別荘地の光景が、頭をよぎるたびに、胸の奥がじくじくと痛む。
そこにいるのは、自分ではない。
それでも、自分の名を連ねた祝の品が、その空間に置かれるのだ。
——ブラック家の妻として、彼の未来を祝う。
それが今の自分に課せられた「正しい振る舞い」なのだとしたら。
笑うしかない、と思った。
喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが詰まり、どうしようもなく熱が込み上げる。
アランは、ぎゅっと目を閉じた。
薄い瞼越しに差し込む光が、じわりと滲む。
静かな昼下がりの小客間で。
海の見える別荘の話を置き土産にして去っていった夫の背中を思い浮かべながら、アラン・ブラックは、誰にも見られない場所で、声にならない崩れ落ち方を覚えつつあった。
