2章
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研究室の扉が、静かな音を立てて閉まった。
ローランド・フロストは、しばらくその場から動けずにいた。
廊下には、セシール家の屋敷特有の、磨かれた床板の匂いと、どこかから微かに漂ってくる薬草の香りが混ざっている。
何度となく行き来したこの場所は、彼にとって「仕事場」であり、同時に——かつてアランと肩を並べて歩いた記憶の詰まった場所でもあった。
扉一枚隔てた向こう側に、アランがいる。
机の上に広げられた書類に目を落としながら、きっと今も、深く息をつこうとして失敗しているだろう。
さっき見たばかりの、少し困ったような笑みが思い浮かんで、胸の奥が静かに疼いた。
——やっぱり、変わらない。
そう思った瞬間、自分の中で何か決定的なものに印が押されたような感覚があった。
久しぶりに交わした会話は、驚くほど他愛ないものばかりだった。
魔法省の忙しさ。
セシール家の研究の進捗。
ブラック家での生活の様子——「差し障りのない範囲」で。
境界線は、常にそこにあった。
名前の呼び方ひとつ。
問いかけの深さひとつ。
触れていい話題と、決して踏み込んではならない領域と。
ローランドは、それらをひとつひとつ丁寧に選びながら言葉を紡いだ。
そうしなければ、自分自身の誠実さが崩れてしまうと分かっていたからだ。
それでも——。
扉を出た今になって振り返れば、その「線引きのうしろ側」で波打っていた感情の方が、よほど鮮やかだった。
机の向こうで、アランが微笑んだとき。
ブラック家の妻として相応しい落ち着いた物腰で話しながらも、ふとした瞬間に昔と同じ癖が顔を出すのを目にしたとき。
胸のどこかが、はっきりと震えた。
——ああ、自分はまだ、この人を愛しているのだと。
論理ではなく、感情として、いや応なく理解させられた。
彼女がブラック家の夫人となった今、ローランドにできることは限られている。
彼女の幸せを願うこと。
セシール家の研究を通じて、遠くから支え続けること。
決して線を越えないこと。
そう自分に言い聞かせ続けてきた。
招待状に返事を出すときも、結婚式の席に座るときも、祝福の拍手を送るときも。
今日もまた、その延長線上にある行動を取っただけのはずだった。
アランが「セシール家の研究を助けてくださって」と言えば、「定められた形式に沿っているだけです」と返す。
ブラック家での暮らしぶりを尋ねれば、相手の口から「よくしていただいております」という言葉が出てきたことに安堵しながら、それ以上深くは聞かない。
傷つけないための距離。
自分の心を守るための距離。
線引きは、正しい。
そうでなければならない。
それでも——。
彼女が「お変わりなく、お過ごしでいらっしゃるようで」と言ったとき。
その声が、昔と同じように、自分の無事を案じる音色を含んでいたとき。
心臓が、不意に跳ねた。
彼女は「ローランド」とは呼ばない。
「フロスト殿」と、きちんと距離を取る。
それでも、その言葉の下には、かつて自分の体調や仕事の疲れを気にかけてくれた頃と同じ、ささやかな優しさが流れていた。
——変わらないのだ。
立場が変わっても、名前が変わっても、隣に立つ男が変わっても。
アランはアランのままだ。
「先日は、とてもお美しかったですよ」
そう告げたとき、ローランドは自分の声がどれほど慎重だったか、よく分かっていた。
余計なものを一切混ぜないように、言葉を研ぎ澄ます。
「綺麗だった」とだけ伝えるための器に、他の感情を一滴もこぼさないように。
それでも、その一言を口にした瞬間、胸の奥にひどい熱が込み上げた。
祭壇の上で、純白のドレスを纏ったアラン。
ブラック家の紋章の下で、ヴェールをかぶり、笑みを浮かべていたアラン。
ヴェール越しに見えた翡翠の瞳。
彼女の隣に立つレギュラス・ブラック。
拍手の中、二人の手が固く結ばれるのを、ローランドは見ていた。
あのときも、同じように思ったのだ。
——綺麗だ、と。
自分の隣で見たかった、と。
その願いが、どれほど自分勝手で、どれほど遅すぎるものか分かっているからこそ、言葉にはしなかった。
今日口にした「お美しかった」の中には、そのすべてが含まれている。
だがそれは、聞き手には届かないように、きちんと封じられたまま差し出された。
彼女が「ありがとうございます」と答えたとき、その表情にふっと影が差したのを見て、ローランドはほんの一瞬だけ、目をそらした。
もし見続ければ、自分の線引きが甘くなってしまう気がした。
——この場から、離れたくない。
会話を交わしている間、ずっとそう思っていた。
魔法省での話を続けるふりをして、もう少しだけ声を聞いていたい。
セシール家の研究の細部について質問するふりをして、相槌を求め続けたい。
そんな衝動が、何度も胸の内側で波を立てた。
けれど、そのたびにローランドは自分の指先を見た。
薬草の染みも、インクの跡も、とっくに落ちている。
それでも、かつて彼女の手を取ったときの感触が、幻のように残っている気がした。
あの手は、もう自分のために差し出されることはない。
違う指に、別の指輪が光っている。
——ブラック夫人。
自分自身が、そう呼んだ。
その言葉の重みを、誰よりも理解しているのは自分だ。
だからこそ、長居はできない。
線引きしたのはアランではない。
自分だ。
彼女とすれ違わない道を選び、
廊下で足音を聞けば身を引き、
「ブラック夫人」と呼ぶことで、互いの立場を確かめてきたのは、自分自身の意思だった。
今さらそれを破ることは、彼女への裏切りであり、彼女が選んだ未来への冒涜になる。
たとえ心の底では「離れたくない」と叫んでいても——。
「そろそろ失礼します」
その一言を言うまでに、ほんの数秒の躊躇があった。
アランの翡翠の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「まだ」と言いたげな気配を、ローランドは感じ取った。
それでも、踏みとどまる。
ここで足を止めたままでは、自分の中の何かが確実に崩れる。
彼女は、もうブラック家の妻だ。
自分は、ただのフロスト家の長男であり、魔法省の一職員であり、セシール家とブラック家を繋ぐ橋のひとつでしかない。
胸の奥を締めつける「離れたくない」という感情を、ローランドは表情の外側に一切出さないようにして、丁寧に頭を下げた。
「……お身体には、くれぐれもお気をつけて」
それが精一杯だった。
「幸せに」とは言えない。
「会いたかった」とも、「忘れられない」とも、決して口にできない。
その代わりに、「無事でいてほしい」という願いだけを残して、彼は背を向けた。
一歩、廊下に足を踏み出す。
床板が、わずかに軋んだ。
その音が、妙に大きく響いた気がして、ローランドは歯を食いしばる。
扉一枚向こうにいる彼女の気配が、まだ背中にまとわりついているようだった。
振り返れば、きっと彼女はそこにいて、何か言葉を探しているに違いない。
だから——振り返らない。
愛しているからこそ、背を向ける。
自分の愛情が、これ以上彼女の人生を乱さぬように。
彼女が選んだ未来を、これ以上揺らさぬように。
誠実とは、時に残酷な選択だ。
ローランドは、その残酷さを引き受けることを自ら選んだ男だった。
胸の内側で、静かに告げる。
——それでも、やっぱり、僕はあなたを愛している。
誰にも届かない声で。
彼は、足音を整えながらセシール家の廊下を歩き去った。
背筋を正し、魔法省の職員としての顔を取り戻しながら。
それでも心のどこかで、研究室の扉の向こうに残してきた翡翠の瞳の揺れを、いつまでも忘れることができずにいた。
その日のブラック家の居間には、いつもの夕刻の空気が流れていた。
暖炉には程よく火が入り、揺れる炎が重厚な絨毯と深い色合いのソファの縁を照らし出している。
窓の外ではもう空が群青に沈み、魔法灯が点り始めた街並みの光が、遠くかすかに瞬いていた。
アランは、窓辺に近い肘掛け椅子に腰掛けていた。
手元には、セシール家の紋章が入った革表紙のノートと、魔法省提出用の書類の控え。
ペン先は紙の上に置かれたまま、しかしほとんど動いていない。
視線は文字列のあたりを彷徨っているが、その瞳は明らかに別のものを見ているようだった。
扉が開く音がしても、彼女の肩はほとんど揺れなかった。
「ただいま戻りました」
レギュラスの声が、いつも通りの穏やかさで響く。
アランは、少し遅れて顔を上げた。
「……お帰りなさいませ、レギュラス」
声は丁寧で、抑揚も乱れてはいない。
けれど、その一拍の遅れと、微かにこわばった笑みが、彼女が「いつも通り」に務めようとしていることを、逆に際立たせていた。
レギュラスは、外套を執事に預けながら、さりげなく彼女を観察する。
髪はきちんとまとめられている。
ドレスの襟元にも乱れはない。
化粧も薄く整っており、一見すれば何も変わらない。
それでも、分かる。
瞳の奥に残る、揺れ。
机の縁に置かれた手が、ごく僅かに握りしめられては開く、その癖。
返事の遅さと、言葉を選びすぎるような間。
——今日は、セシール家に行くと言っていた。
父、エドモンドの研究の手伝い。
魔法省への提出書類の整理。
そしてそこに、誰が出入りしているのかも、レギュラスはよく知っている。
フロスト家の長男。
魔法省に勤め、セシール家の研究と省の橋渡しをしている青年。
かつて、アランが「婚約同然」と心の中で決めていた男。
わざわざ誰かに報告させるほどのことでもない。
だが、レギュラスは魔法省の役員として、そしてブラック家の当主として、自然に得られる情報には事欠かなかった。
今日、ローランド・フロストがセシール家を訪ねていたことも、その中に含まれている。
だからこそ、アランの今の様子が何を意味するか、察するのに時間はかからなかった。
レギュラスは、ゆっくりとアランの方へ歩み寄る。
彼女の正面ではなく、少し斜め横に腰を下ろす位置を選ぶ。
真正面から追い詰める必要はない。
逃げ道を残しておいた方が、追い詰められる側はよく揺れる。
「セシール家での手伝いは、順調でしたか?」
何気ないふりをした問い。
アランは、ペンをそっと閉じ、膝の上で両手を重ねた。
「はい。父の研究も、魔法省への提出に向けて形が整ってまいりました」
言葉は整っている。
だが、視線はレギュラスの顔に届かない。
彼の襟元あたりで止まり、すぐに逸れてしまう。
そのよそよそしさが、かえって分かりやすい。
——隠し通せているつもりなのだろう。
そう思うと、レギュラスの胸には、奇妙な感情が混じり合って広がった。
愚かで、愛らしい。
そう形容したくなる。
自分の内側でざわめいているものを、必死に隠し通そうとする、その拙さ。
何もなかった顔をしようと務める、その不器用な強がり。
抱きしめてやりたくなるほど愛おしくもあり、
同時に、胸の奥を鈍く刺激して苛立たせる。
——まだ、あの男に、ここまで揺らされるのか。
吐き出すまでもなく、その感情は彼の中でゆっくりと沈殿していった。
沈黙が、ほんの数秒だけ流れる。
レギュラスは、その短い間をわざと長く感じさせるように、視線だけでアランを捉え続けた。
耐えきれずに、彼女が小さく喉を鳴らす。
それを見届けてから、ようやく口を開く。
「……フロスト殿にお会いになられました?」
声は柔らかい。
けれど、その柔らかさは氷の表面の薄い水膜のように、ひどく冷ややかな光をたたえていた。
アランの指先が、ぴくりと動く。
顔を上げかけたが、途中で止まり、机の上の書類へと視線を落とす。
「……ええ。父に用があったようでした」
答えは、ぎりぎりまで削ぎ落とされたものだった。
レギュラスの問いに対する「正しい返答」として、必要最小限の情報だけを取り出した言葉。
どこにも嘘はない。
しかし、どこまでも白々しい。
その白々しさも、彼女なりの必死の防御なのだと分かっているからこそ、レギュラスは余計に笑いたくなった。
「そうですか」
短く相槌を打つ。
その一言に、アランの身体がわずかに固まる。
何か続きが来るのではないかと警戒しているのが、手に取るように分かる。
その様子がまた、愛らしくも憎たらしい。
——自分の前で、その名前を出すことさえ怖れている。
レギュラスは、内心で苦く笑った。
フロストの存在を、あれほど丁寧に隠そうとするのは、その名がまだアランの胸の中で生きている証拠だ。
それを、知っていながら黙って見ている自分自身の余裕が、彼を妙な優越感で満たしていく。
「父上とは、どのような話を?」
あくまで話題を緩やかに戻す。
「魔力値の変化についてです。最近の調合で、わずかに数値の揺れがありましたので……その検証を」
「なるほど」
レギュラスは頷いた。
言葉の上では、フロストの話題から離れたように見える。
だが、アランの思考が今もそこに引きずられていることは、まるで煙の匂いのように、この場の空気に漂っていた。
レギュラスは、ゆっくりとソファの背にもたれた。
暖炉の火が、彼の横顔を照らし出す。
灰色の瞳が、柔らかな光を宿してアランを見つめていた。
「あなたの態度で、大体のことは察せますよ、アラン」
淡々とした声。
アランは、驚いたように目を瞬いた。
「……どういう、ことでしょうか」
問い返しながらも、その声がわずかに震えている。
レギュラスは、肩をすくめるように微笑んだ。
「よそよそしさも、白々しい笑みも。
全部、普段のあなたを知っている僕からすれば、あまり隠し事に向いているとは言えませんね」
彼の言葉は、決して責め立てるような調子ではない。
冗談めかした柔らかさすら含んでいる。
けれど、その中に「見抜いている」という確信が、はっきりとした輪郭で存在していた。
「……申し訳ございません。そんなつもりでは」
「もちろん、あなたは悪くないですよ」
即座に否定する。
「フロスト殿がセシール家に出入りするのは、魔法省の職務として当然です。
あなたが父上の研究を手伝いに行けば、顔を合わせることもあるでしょう」
論理だけを並べれば、その通りだ。
そのどこにもおかしな点はない。
だからこそ、レギュラスはわざと穏やかに続ける。
「ただ——」
そこで言葉を切り、アランの横顔をじっと見つめる。
睫毛がかすかに震えた。
唇の端が、ぎゅっと結ばれる。
「必死に隠し通せていると思い込んでいるその愚直さが、いささか……愛らしくもあり、少しだけ憎らしいだけです」
微笑を崩さぬまま、さらりと言ってのけた。
アランは、言葉を失ったように固まった。
「……レギュラス」
震えた声が、その名を呼ぶ。
責められているわけではない。
咎められている調子でもない。
それでも、自分の内側に必死で塗り重ねた「平静」が、軽々と剥がされていくような感覚に襲われる。
レギュラスは、その様子を面白がっているようにも見えた。
「フロスト殿に会われたことで、何か不快な思いをされたのなら、僕に言ってください」
言葉を変える。
「もし、彼がまだあなたに未練がましい態度を取っているのなら、魔法省での配置転換を考えてもいい」
さらりと口にされる「脅威」と「庇護」を、同じ皿に乗せて差し出すような言い方だった。
アランは、ぱっと顔を上げる。
「いえ、そんなことは。フロスト殿は……とても、礼儀正しく、距離を保ってくださいました」
必死に否定するように言葉を重ねる。
「私が、勝手に……戸惑っているだけです」
その告白めいた一言に、レギュラスはふぅ、と小さく息を吐いた。
「そうですか」
瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
フロストが線を引いていることも、アランがそれに気づき傷ついていることも、一度に理解した。
胸の内側で、ほの暗い満足感が広がる。
——あの男も、きちんと距離を取っている。
彼女の「過去」として、礼儀を尽くしている。
ならば、なおのこと自分は、彼女の「今」と「未来」とを握っている男として、揺らぐ必要はない。
レギュラスは、少しだけ身を乗り出した。
距離が、わずかに縮まる。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、静かな部屋に落ちる。
彼女は、反射的に顔を向けた。
視線が重なった瞬間、逃げ道は完全に塞がれる。
「今日、セシール家で何があったのか。
僕が知らなくてはならないようなことはありますか?」
問いは穏やかだが、その奥には「隠し通すことは許さない」という力が潜んでいた。
アランは、唇を結び、数秒の沈黙を挟んだ。
「……いいえ。何も」
目を逸らさずに、そう言った。
「父の研究の手伝いをして、フロスト殿と、少し言葉を交わしただけです。
それ以上のことは、何も」
真実だった。
決定的な言葉を交わしたわけでもない。
抱擁を交わしたわけでもない。
ただ、互いに線引きをしたまま、他愛もない会話を続け、それから彼は去っていった。
その「何もなさ」が、胸を裂いた。
その痛みを、レギュラスに伝えることはしない。
レギュラスは、彼女の瞳をじっと見つめる。
一呼吸、二呼吸。
やがて、ふっと微笑んだ。
「そうですか。なら、いいのです」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がる。
アランは、きょとんとした表情で彼を見上げた。
「この屋敷に戻ってきたあなたの顔が、あまりにもわかりやすく曇っていたのでね。
少し心配になっただけですよ」
軽く肩越しに振り返りながら、冗談めかして言う。
「あなたがどこで誰に会おうと、今夜眠る場所はここで、隣に立つ相手は僕です。
その事実さえ揺らがなければ、あまり細かなことは問いません」
それは、優しさと支配の境界線上にある言葉だった。
アランの胸の奥で、何かがかすかに軋む。
「……レギュラスは、ずるい方です」
ぽつりと零れた一言に、レギュラスは笑った。
「よく言われます」
悪びれもなく答える。
よそよそしさも、白々しさも。
必死に隠そうとする愚直さも。
それらすべてを見抜いたうえで、なお彼女を自分の枠の中に留める言葉を選ぶ。
苛立ちも、独占欲も、優越感も。
それらをすべて混ぜ合わせて飲み干しながら、レギュラスは揺るぎない足取りで、アランの前に立ち続けるのだった。
レギュラス・ブラックの腕の中にいるはずなのに、ふとした拍子に、別の輪郭が重なる。
——ローランドなら、きっとこんなふうには触れない。
肩に置かれた手、背に回された腕、そのわずかな力加減にすら、アランの記憶は勝手に「もう一人の男」の線をなぞってしまう。
ローランドの掌は、いつも慎重だった。
怖がらせまいとする遠慮と、こちらに委ねるような優しさばかりが、触れ方の隅々にまで染み込んでいた。
口づけひとつ落とすにも、必ず一度、瞳を合わせて——本当にいいのかと問いかけるように、短い沈黙を挟んでから唇を寄せてきた。
レギュラスは違う。
迷いがない。
ためらうことも、距離を測ることもない。
近づくと決めた距離まで、まっすぐに踏み込んでくる。
ひとたび抱き寄せた腕は、途中でほどかれることを知らず、そのままアランを自分の輪郭の内側へと押し込んでいく。
胸元に顔を埋められ、唇を塞がれるたびに、アランの中でローランドの記憶がざわめいた。
——彼なら、こんなに早く強くは抱き寄せない。
——彼の口づけは、こんな場所には落とさない。
——彼の指先なら、ここで一度止まって、問いかけてくる。
意味のない懐古だと分かっている。
それでも、浮かび上がってくる。
次々と、どうしようもなく。
喉の奥が詰まり、泣きたくなる。
なかったことにはできない時間と、今まさに上書きされていく時間とが、胸の内側で擦れ合って、軋んだ音を立てる。
腕の力が強まるたびに、アランの身体はレギュラスに寄り添わされる。
逃げ出したいのか、すがりつきたいのか、自分でも分からないまま、指先は彼のシャツの布地を掴んで離せなくなる。
「……どこを見てるんです、アラン」
耳元で、低い声が笑った。
レギュラスの灰色の瞳が、近い。
視界の端に、髪の影と、整いすぎた横顔が映る。
「今、あなたの頭の中にいるのは、僕じゃないでしょう」
その言葉は、やわらかな響きをまといながらも、鋭さを隠そうとしない。
心の奥に隠していたものを、指先ひとつで引きずり出されたような感覚に、アランは息を呑んだ。
否定する言葉が出てこない。
喉の奥で形になりかけては、熱を帯びた吐息に溶けて消えていく。
レギュラスは、答えを求めているようには見えなかった。
「ちゃんとこちらを見てください」
視線を絡め取るように、顎先をそっとすくい上げられる。
「あなたが誰を思い出していようと——今、あなたを抱いているのは僕です」
言い方は静かだった。
静かだからこそ、その「事実」を突きつける力は強い。
ローランドの影を、ここから追い出してやる——そんな意図すら、にじむようだった。
胸の奥で、罪悪感と怒りと、名のつけられない熱が混ざり合う。
その全部を、レギュラスはまるで計算ずくでかき混ぜてくる。
唇が重なり、言葉は閉ざされた。
どこまでが拒絶で、どこからが応えなのか、自分でも分からなくなる。
それでも、押し返そうと伸ばしたはずの手は、いつの間にか彼の背中にまわり、布地を掴んでしがみついている。
「そう。……それでいい」
耳元で、くすりと笑う気配が落ちる。
「ちゃんと、僕の方に戻ってきてください、アラン。
フロスト殿のことは、もう十分思い出したでしょう?」
名前を出された瞬間、胸のどこかがきしんだ。
レギュラスは、そのきしみまで愉しむように、距離をさらに詰めてくる。
「妻としてここにいるのは、誰の選択でした?」
追い詰める問いだと分かっていて、あえて問う。
答えられない。
答えたくない。
その沈黙すら、レギュラスの中では「肯定」に変換されていく。
逃げ場を塞ぐ言葉が、ひとつずつ積み重ねられていくたびに、アランの中の何かが、別の形に変わっていく。
罪悪感と同じ場所から立ちのぼる熱。
拒みきれない快楽。
ローランドとの記憶を手放したくないという執着と、今、目の前の男に絡め取られていく実感。
全部がひとつの波になって押し寄せる。
どれが誰のものなのか、もう判別がつかない。
臆病な心は泣きたいと叫びながら、身体は別の答えを返してしまう。
レギュラスの呼びかけに、知らず頷いてしまう。
重ねられた口づけに、気づけば自分からも応え、背中に腕を回してしがみついている。
「……ね?」
彼は、勝ち誇るでもなく、当然のように囁いた。
「ちゃんと、僕の言葉に頷いてくれるじゃないですか」
その声音には、鋭さと甘さが同居していた。
アランは目を閉じる。
思い出すたび胸を締めつけてきたローランドの輪郭が、波の中に溶けていく。
完全に消えたわけではない。
けれど、今はただ、レギュラスの声と体温と匂いが、五感のほとんどを埋め尽くしていた。
——この人は、奪っていく。
自分の未来も、誇りも、記憶さえも。
そう理解しながら、それでも腕の力をほどけない自分が、いちばん情けなくて、いちばんどうしようもなく、レギュラスの思惑どおりだった。
アランの肩越しに落ちる灯りは、いつもより柔らかく見えた。
寝台の上で、彼女の髪がシーツに広がっている。
黒い絹をほどいたみたいに、ひと房ひと房が指に絡みつく。
その感触を確かめながら、レギュラスはふと、眉の奥にかすかな違和感を覚えた。
——どこか、遠い。
腕の中にいるはずの女の意識が、自分の届かない場所に逃げていく気配がした。
指先に伝わる微かな震え。
触れればきちんと反応して、呼吸も乱れていく。
身体は、たしかに今ここで自分に応じている。
なのに、その翡翠の瞳の焦点だけが、時折ふっとどこかへ滑っていく。
レギュラスは、わざと動きを緩めた。
頬をかすめ、耳元に吐息を落とし、獣のように荒くはならないギリギリの加減で距離を詰める。
その隙間から、彼女の表情を盗み見る。
長い睫毛が震え、その陰影に、別の男の影がちらついた。
ローランド・フロスト。
青い目の真面目な青年。
魔法省の廊下で何度かすれ違っている。
彼がアランの視界に入るたび、彼女の空気が揺れるのを、レギュラスはよく知っていた。
今日、セシール家で顔を合わせたのだろう。
屋敷に戻ってきてからの、よそよそしい沈黙。
言葉を選びすぎる間。
余計なところで丁寧すぎる返答。
ぜんぶ、分かりやすかった。
その見え透いた防御が、可笑しいほど愛らしく、そして少しだけ腹立たしい。
——どこまであの男を引きずる気なんでしょうね。
胸の中で毒づきながらも、表情には出さない。
代わりに、指先の圧だけをほんの少し強めた。
彼女の喉が、短く震える。
ああ、いい、とレギュラスは内心で息を吐いた。
身体の方は、きちんと今ここにいる。
自分の与える刺激に対して、正直すぎるほど素直に反応してくれる。
ならば——心も同じ場所に引きずり下ろすだけだ。
「……どこを見てるんです、アラン」
耳元に唇を寄せ、低い声で囁く。
彼女の肩が、小さく跳ねた。
問いかけの意味を、きっと理解している。
その証拠に、翡翠の瞳が自分から逃げるように逸れていく。
レギュラスは、片手で彼女の顎をすくい上げた。
無理にではない。
けれど、逃げ道を塞ぐには十分な力で。
「今、あなたの頭の中にいるのは、僕じゃないでしょう」
静かに告げる。
怒鳴るよりも、この調子の方がよほどよく刺さると、彼は経験から知っていた。
アランの瞳が揺れた。
否定の言葉は、どこにも見当たらない。
代わりに、喉の奥で押し殺した呼吸だけが、熱っぽく漏れていく。
レギュラスは、薄く笑みを浮かべた。
図星なのだ。
ローランドの手の感触を、口づけの場所を、仕草の一つひとつを、きっと頭のどこかでなぞっている。
——彼ならこんなふうにはしない、彼ならここで止まる、彼なら。
そんな「もし」を、今この瞬間さえ抱え込んでいるのだろう。
滑稽だ、とレギュラスは思う。
滑稽で、愛らしくて、だからこそ壊してしまいたい。
「ちゃんとこちらを見てください」
視線を絡め取るようにして、彼女の顔を自分の方へ向けさせる。
近くで見る翡翠は、相変わらず美しい。
過去を映そうが、現在を映そうが、その色は変わらない。
——だから奪い甲斐がある。
「あなたが誰を思い出していようと」
額を軽く触れ合わせる。
「今、あなたを抱いているのは僕です」
言葉にすると、胸の内側で静かな快感が広がった。
フロストがどれだけ誠実だろうと、どれだけ大事にしてきただろうと。
ここにいるのはレギュラスだ。
アラン・ブラックとして寝台に横たわっているのも、レギュラスの妻として息を乱しているのも。
その事実を、彼自身がだれよりも味わっていた。
アランの瞼がふるふると震え、ついに視線が絡んだ。
その一瞬を逃さずに、レギュラスは彼女の唇を塞ぐ。
否定の言葉も、名前も、全部、舌の上で飲み込ませるように。
押し返そうと伸びかけた手が、布地を掴んでくる感触が、指先越しに伝わる。
その力が、迷いながらもこちらに縋ってくるものへと変わっていくのを、彼は敏感に拾い上げていた。
「……そう。……それでいい」
唇を離したところで、レギュラスは喉の奥でくつりと笑う。
身体は嘘をつけない。
どれほどローランドの名を心の中で繰り返そうと、どれほど「こうあるべきだった」未来を思い描こうと。
今、彼女の中で高鳴っているものの正体は、レギュラスが誰よりもよく知っている。
「ちゃんと、僕の方に戻ってきてください、アラン」
耳もとで囁く。
「フロスト殿のことは、もう十分思い出したでしょう?」
意地悪だと自覚していた。
それでも、やめる気はない。
彼女の胸のうちで、あの男の影がまだこんなにも濃く存在していると知ってしまった以上、放っておけるはずがない。
嫉妬というより、征服欲に近い。
今ここで彼女の口から零れた声も、強く絡んできた指も、すべて「ローランドではない誰か」によって引き出されたものとして、上書きしてやりたい。
「妻としてここにいるのは、誰の選択でした?」
合間を縫うように、鋭い問いを落とす。
アランのまつげが、大きく揺れた。
あの夜。
セシール家の応接室で、エドモンドと交わした話。
フロストに告げた「条件」。
アランが涙の向こう側で飲み込んだ未来。
それらすべてが、この一文の背後にある。
彼女は答えない。
答えられない。
けれど沈黙は、肯定と同じくらい雄弁だ。
レギュラスは、満足げに息を吐いた。
ローランド・フロストは誠実だ。
そこは認めている。
だからこそ、あの男は「正しい選択」をした。
アランとセシール家のために身を引き、祝福の拍手を送り、今日も研究の橋渡しを続けている。
——なら、そのあとの責任は、僕が引き受けますよ。
胸の内で、ひとりごちる。
彼女の罪悪感も、未練も、矛盾も。
その全部を抱え込んだまま、レギュラス・ブラックの妻として生きていくのだとしたら。
ならば、自分は遠慮する必要などどこにもない。
アランの指先が、背中にまわる。
逃げるためではなく、しがみつくために。
その変化を、レギュラスは見逃さない。
声が、喉の奥で高く跳ねる。
今さら「そんなはずでは」と思う余地を与えないほどに、波は大きくなっていく。
ときおり彼女の瞳に浮かぶ涙の気配が、決して悲鳴だけではないことを、レギュラスはよく知っていた。
怖さも、後ろめたさも、快楽も、全部まとめて一つの色に塗りつぶしていく。
その作業は、彼にとってなによりも甘美だった。
「いいですね、その顔」
息の合間に、わざと耳元で囁く。
「僕の妻として、悪くない反応です」
言葉には、からかいと本心とが半々に混じっている。
アランには、そんな余裕ある分析など届かないだろう。
それでいい。
彼女の中で、「レギュラス・ブラックに抱かれているアラン・ブラック」という自覚だけが、じわじわと染み込んでいけばいい。
彼女が腕の中で息を整えるまで、しばらくのあいだ、レギュラスは何も言わなかった。
ただ、背に回された細い腕の重みと、頬に触れる髪の感触を、静かに味わっていた。
胸の奥には、まだわずかに燻る棘が残っている。
——ローランドと重ねているのだろう。
——彼ならこうしない、と比べているに違いない。
その確信は、彼にとって決して心地いいものではない。
しかし同時に、奇妙な自信もあった。
いずれ、どこかの夜。
彼女がふと昔の記憶をたぐり寄せようとしても——
「ローランドだったら」と思いかけたその瞬間、先に蘇るのは、こうして刻み込んできた自分のやり方になる。
そうなるまで、何度でも塗り重ねればいい。
「……アラン」
腕の中で小さく身じろぎした気配に、レギュラスは彼女の名を呼んだ。
「はい……レギュラス」
掠れた声が返ってくる。
それだけで、内側の棘が少しだけ甘く溶ける。
「さっきの続きを、もう少しだけしましょうか」
意味深な言い回しで笑う。
「フロスト殿の影が、あなたの中で動けなくなるくらいまで」
それは口に出さない。
闇の中でひとりごちるだけに留めておく。
レギュラス・ブラックは、胸にうごめく嫉妬と征服欲を、静かな微笑みに封じ込めたまま、腕の中の女をもう一度抱き寄せた。
ローランド・フロストの名など、彼女の唇から出てこないくらいに。
彼女の喉が形作るのは、自分の名だけだと思い知らされるくらいに。
いずれその夜が来ることを、彼は疑わなかった。
翌朝の食堂には、まだ少し夜の名残が残っていた。
大きな窓から差し込む光は、真昼のような強さではない。
それでも、白いクロスに整然と並べられた銀器や、磨き上げられた陶器の縁をくっきりと照らし出し、否応なく「朝」という現実を突きつけてくる。
アランは、テーブルの端近くに腰掛けていた。
紅茶の入ったカップの縁をそっと指でなぞりながら、匙を持つ手が落とす小さな音に、自分の緊張が滲んでいるのを自覚する。
ヴァルブルガもオリオンも、今朝は別の用事で席を外していた。
広い食堂にいるのは、召使いたちと、向かい側の席に腰を下ろしたレギュラスだけだ。
——二人きり。
それだけで、喉が乾く。
「パンは口に合いますか?」
レギュラスの声が、向かいから響く。
視線を上げると、彼はいつも通りの余裕に満ちた笑みを浮かべていた。
昨夜のことなど、何もなかったかのような顔——に、見えなくもない。
けれど、その灰色の瞳の奥には、かすかな愉悦の光が宿っている。
「……はい。とても」
アランは、ナイフを持つ指に力を込めすぎないよう気をつけながら、パンの端を切り分けた。
何でもない朝食の会話に、何でもない返答。
そうやって、昨夜の輪郭を曖昧にしてしまいたかった。
だが、レギュラスの意図は、どうやら違うところにあったらしい。
「昨夜は、よく眠れました?」
ナイフとフォークを持ったまま、彼はさらりと問うてきた。
アランの手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
聞き返す声が、思った以上に高く響いてしまった。
召使いの一人がちらりと視線を向けてきて、アランは慌ててカップの取っ手に手を移した。
「眠りは浅くありませんでしたか、とお聞きしたんです」
レギュラスは微笑を崩さない。
「昨日は、少しばかり……激しかったでしょう」
「激しい」という言葉の意味するところを理解した瞬間、アランの顔から血の気が引き、そのあと一気に熱が押し寄せた。
紅茶の湯気が立ちのぼる。
それに負けないくらいの熱が、頬の内側からこみ上げる。
「レ、レギュラス……っ、あの……」
何をどう言えばいいのか分からず、言葉が喉で絡まった。
夜のことを、朝のテーブルで。
そんな風に口にされることを、アランの想像はどこまでも拒んできた。
それを、彼は何のためらいもなく現実にしてしまう。
恥ずかしさは、むしろ羞恥を通り越して痛みに近かった。
レギュラスは、そんな彼女の混乱を愉しむように、ナプキンをさりげなく整えながら続ける。
「ほら、今朝、階段を降りてくる足取りも少しだけ重かったでしょう。
歩き方で分かりましたよ」
淡々とした口調なのに、言っている内容は容赦がない。
「僕としては、そこまで無茶をしたつもりはなかったんですけどね。
あなたが思った以上に、よく応えてくださったものですから」
「応えて」という言葉に、アランはナイフの刃を見つめたまま固まった。
昨夜の自分の反応が、脳裏の奥で一瞬だけフラッシュのように蘇る。
その記憶に、自分のものとは思えない声が重なってしまい、思考がぐらりと揺れた。
「……そのような、お話を……朝からなさらなくても……」
どうにか絞り出した抗議は、情けないほど弱々しい。
レギュラスは、肩をすくめるようにして笑った。
「なぜです?」
すぐに返ってくる問いが鋭い。
「夫婦の話ですよ。
夜にしていることを、昼に言葉にするのがそんなにいけないことですか?」
アランは、唇を噛みそうになるのをどうにか堪えた。
いけない、と言い切れるわけではない。
けれど、自分にとってそれがどれほど慣れないことかを説明する術を持たない。
友人たちは、笑いながらそういう話をする。
きっと、こういう会話など当たり前なのだろう。
妻と夫の間で、当たり前に交わされているのかもしれない。
——自分だけが、置いていかれている。
そんな感覚が、情けなさとなって胸に広がる。
レギュラスは、彼女の沈黙をじっと眺めてから、少しだけ声を落とした。
「あなたが、そういう話に慣れていないことは分かっています」
急に真面目な響きが混ざる。
「セシール家で大事に育てられて、社交界にもほとんど出ず、ローランドと過ごした時間もきっと……とても真面目で、慎ましかったのでしょうね」
ローランドの名を直に出されて、アランの指先がびくりと震えた。
レギュラスは、そこに気づいていながら、あえて視線を落とさなかった。
「でも」
ナイフを静かに皿に置き、彼はカップを手に取る。
「あなたは、今、ブラック家の妻です。
夫である僕と夜を共にし、その結果として何かが変わるかもしれない身体を抱えて、こうして同じテーブルについている」
その言い回しは、遠回しなのに残酷なほど具体的だった。
アランの喉に、何かが詰まったような感覚が走る。
懐妊、という言葉を直接出されなくても、十分すぎるほど伝わる。
「それを、まるで他人の出来事のように黙って飲み込んでいるのは——僕としては、少し物足りない」
レギュラスは、微笑んだ。
「昨夜、あれだけ素直に僕の言葉に頷いてくださったのに。
朝になった途端、全部なかったことにしようとする」
「なかったこと」
その言葉に、アランの肩がきゅっと縮こまる。
なかったことになど、できるはずがない。
忘れようとしても、忘れられるものではない。
それでも、光の中に引きずり出したくないだけなのだ。
うまく言葉にできないその感情を、レギュラスは理解していながら、あえて踏みつける。
「僕は、昨夜のあなたを、とても気に入っていますよ」
さらりと告げる。
「呼吸の仕方も、触れられる場所に対する反応も。
どこをどうすれば、あなたの肩が震えて、どんなふうに名前を呼んでくれるのか」
召使いたちがいる前でその言葉を口にしないのは、彼なりの一線なのだろう。
それでも、比喩と遠回しの間を行き来する言葉は、十分すぎるほど生々しい。
「……レギュラス」
ようやく名前を呼ぶと、彼は満足げに片眉を上げた。
「はい?」
「そのようなお話は、本当に……」
「苦手ですか?」
きっぱりと遮られる。
アランは、戸惑いながらも頷いた。
「……はい」
「慣れてください」
返ってきた答えは、容赦がなかった。
「あなたがどれだけ俯こうと、どれだけ黙り込もうと。
僕にとっては、誇っていいことなんですから」
誇り。
その単語は、アランの胸に重く落ちた。
彼にとって、自分との夜は「誇るべきもの」である。
その感覚は、アランにはどうしても理解しきれない。
理解できないのに、否定もできない。
それが、この屋敷での「現実」なのだと突きつけられている気がした。
レギュラスは、少しだけ視線を緩めた。
「……そんな顔をしないでください」
さっきまで意地の悪い光を宿していた瞳が、わずかに柔らぐ。
「あなたが恥ずかしがるのは、分かっています。
けれど、僕はあなたを辱めたいわけではない」
その言葉に、アランは目を瞬いた。
「夜のあなたを、僕だけが知っているという事実を——ただ、こうして確認していたいだけなんです」
静かな告白のようにも聞こえた。
「ローランドフロストが、あなたの過去をどれほど大事に抱えていようと。
今、あなたの夜を知っているのは僕だけですから」
名前を出すときだけ、ほんの僅かに口調が硬くなる。
それを感じ取りながらも、アランは何も言えなかった。
夜のことを夜に閉じ込めておけるほど、自分の人生は単純ではなくなってしまった。
もう、自分ひとりの内側だけで完結させることは許されない。
「妻」としての夜は、彼にとって、朝の光の下でも当然のように口にしていい「共有物」なのだ。
それが、ブラック家に嫁いだということ。
アランは、カップの中で揺れる紅茶の表面を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……慣れるには、少し、時間がかかりそうです」
それが、今出せる精一杯の答えだった。
レギュラスは、その返答に満足したのか、ふっと笑った。
「僕は急ぎませんよ」
かつて「待つ」と言ったときの柔らかさとは違う、どこか確信に満ちた声音で続ける。
「夜も、朝も。
あなたが僕の妻であるという事実だけは、もう揺らがないのですから」
その言葉に、アランの喉の奥で、小さな声にならない吐息が揺れた。
日差しは、いつの間にか少し高く昇っている。
白いクロスの上に落ちる影が、すこし短くなっていた。
夜の余韻を、朝のテーブルにまで引きずり出す男と。
それをどう扱えばいいか分からないまま、向かいに座る女と。
ブラック家の食堂には、カトラリーの音と紅茶の香りに混じって、まだ昨夜の名残を引きずる、形にならない湿度だけが静かに漂っていた。
ローランド・フロストは、しばらくその場から動けずにいた。
廊下には、セシール家の屋敷特有の、磨かれた床板の匂いと、どこかから微かに漂ってくる薬草の香りが混ざっている。
何度となく行き来したこの場所は、彼にとって「仕事場」であり、同時に——かつてアランと肩を並べて歩いた記憶の詰まった場所でもあった。
扉一枚隔てた向こう側に、アランがいる。
机の上に広げられた書類に目を落としながら、きっと今も、深く息をつこうとして失敗しているだろう。
さっき見たばかりの、少し困ったような笑みが思い浮かんで、胸の奥が静かに疼いた。
——やっぱり、変わらない。
そう思った瞬間、自分の中で何か決定的なものに印が押されたような感覚があった。
久しぶりに交わした会話は、驚くほど他愛ないものばかりだった。
魔法省の忙しさ。
セシール家の研究の進捗。
ブラック家での生活の様子——「差し障りのない範囲」で。
境界線は、常にそこにあった。
名前の呼び方ひとつ。
問いかけの深さひとつ。
触れていい話題と、決して踏み込んではならない領域と。
ローランドは、それらをひとつひとつ丁寧に選びながら言葉を紡いだ。
そうしなければ、自分自身の誠実さが崩れてしまうと分かっていたからだ。
それでも——。
扉を出た今になって振り返れば、その「線引きのうしろ側」で波打っていた感情の方が、よほど鮮やかだった。
机の向こうで、アランが微笑んだとき。
ブラック家の妻として相応しい落ち着いた物腰で話しながらも、ふとした瞬間に昔と同じ癖が顔を出すのを目にしたとき。
胸のどこかが、はっきりと震えた。
——ああ、自分はまだ、この人を愛しているのだと。
論理ではなく、感情として、いや応なく理解させられた。
彼女がブラック家の夫人となった今、ローランドにできることは限られている。
彼女の幸せを願うこと。
セシール家の研究を通じて、遠くから支え続けること。
決して線を越えないこと。
そう自分に言い聞かせ続けてきた。
招待状に返事を出すときも、結婚式の席に座るときも、祝福の拍手を送るときも。
今日もまた、その延長線上にある行動を取っただけのはずだった。
アランが「セシール家の研究を助けてくださって」と言えば、「定められた形式に沿っているだけです」と返す。
ブラック家での暮らしぶりを尋ねれば、相手の口から「よくしていただいております」という言葉が出てきたことに安堵しながら、それ以上深くは聞かない。
傷つけないための距離。
自分の心を守るための距離。
線引きは、正しい。
そうでなければならない。
それでも——。
彼女が「お変わりなく、お過ごしでいらっしゃるようで」と言ったとき。
その声が、昔と同じように、自分の無事を案じる音色を含んでいたとき。
心臓が、不意に跳ねた。
彼女は「ローランド」とは呼ばない。
「フロスト殿」と、きちんと距離を取る。
それでも、その言葉の下には、かつて自分の体調や仕事の疲れを気にかけてくれた頃と同じ、ささやかな優しさが流れていた。
——変わらないのだ。
立場が変わっても、名前が変わっても、隣に立つ男が変わっても。
アランはアランのままだ。
「先日は、とてもお美しかったですよ」
そう告げたとき、ローランドは自分の声がどれほど慎重だったか、よく分かっていた。
余計なものを一切混ぜないように、言葉を研ぎ澄ます。
「綺麗だった」とだけ伝えるための器に、他の感情を一滴もこぼさないように。
それでも、その一言を口にした瞬間、胸の奥にひどい熱が込み上げた。
祭壇の上で、純白のドレスを纏ったアラン。
ブラック家の紋章の下で、ヴェールをかぶり、笑みを浮かべていたアラン。
ヴェール越しに見えた翡翠の瞳。
彼女の隣に立つレギュラス・ブラック。
拍手の中、二人の手が固く結ばれるのを、ローランドは見ていた。
あのときも、同じように思ったのだ。
——綺麗だ、と。
自分の隣で見たかった、と。
その願いが、どれほど自分勝手で、どれほど遅すぎるものか分かっているからこそ、言葉にはしなかった。
今日口にした「お美しかった」の中には、そのすべてが含まれている。
だがそれは、聞き手には届かないように、きちんと封じられたまま差し出された。
彼女が「ありがとうございます」と答えたとき、その表情にふっと影が差したのを見て、ローランドはほんの一瞬だけ、目をそらした。
もし見続ければ、自分の線引きが甘くなってしまう気がした。
——この場から、離れたくない。
会話を交わしている間、ずっとそう思っていた。
魔法省での話を続けるふりをして、もう少しだけ声を聞いていたい。
セシール家の研究の細部について質問するふりをして、相槌を求め続けたい。
そんな衝動が、何度も胸の内側で波を立てた。
けれど、そのたびにローランドは自分の指先を見た。
薬草の染みも、インクの跡も、とっくに落ちている。
それでも、かつて彼女の手を取ったときの感触が、幻のように残っている気がした。
あの手は、もう自分のために差し出されることはない。
違う指に、別の指輪が光っている。
——ブラック夫人。
自分自身が、そう呼んだ。
その言葉の重みを、誰よりも理解しているのは自分だ。
だからこそ、長居はできない。
線引きしたのはアランではない。
自分だ。
彼女とすれ違わない道を選び、
廊下で足音を聞けば身を引き、
「ブラック夫人」と呼ぶことで、互いの立場を確かめてきたのは、自分自身の意思だった。
今さらそれを破ることは、彼女への裏切りであり、彼女が選んだ未来への冒涜になる。
たとえ心の底では「離れたくない」と叫んでいても——。
「そろそろ失礼します」
その一言を言うまでに、ほんの数秒の躊躇があった。
アランの翡翠の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「まだ」と言いたげな気配を、ローランドは感じ取った。
それでも、踏みとどまる。
ここで足を止めたままでは、自分の中の何かが確実に崩れる。
彼女は、もうブラック家の妻だ。
自分は、ただのフロスト家の長男であり、魔法省の一職員であり、セシール家とブラック家を繋ぐ橋のひとつでしかない。
胸の奥を締めつける「離れたくない」という感情を、ローランドは表情の外側に一切出さないようにして、丁寧に頭を下げた。
「……お身体には、くれぐれもお気をつけて」
それが精一杯だった。
「幸せに」とは言えない。
「会いたかった」とも、「忘れられない」とも、決して口にできない。
その代わりに、「無事でいてほしい」という願いだけを残して、彼は背を向けた。
一歩、廊下に足を踏み出す。
床板が、わずかに軋んだ。
その音が、妙に大きく響いた気がして、ローランドは歯を食いしばる。
扉一枚向こうにいる彼女の気配が、まだ背中にまとわりついているようだった。
振り返れば、きっと彼女はそこにいて、何か言葉を探しているに違いない。
だから——振り返らない。
愛しているからこそ、背を向ける。
自分の愛情が、これ以上彼女の人生を乱さぬように。
彼女が選んだ未来を、これ以上揺らさぬように。
誠実とは、時に残酷な選択だ。
ローランドは、その残酷さを引き受けることを自ら選んだ男だった。
胸の内側で、静かに告げる。
——それでも、やっぱり、僕はあなたを愛している。
誰にも届かない声で。
彼は、足音を整えながらセシール家の廊下を歩き去った。
背筋を正し、魔法省の職員としての顔を取り戻しながら。
それでも心のどこかで、研究室の扉の向こうに残してきた翡翠の瞳の揺れを、いつまでも忘れることができずにいた。
その日のブラック家の居間には、いつもの夕刻の空気が流れていた。
暖炉には程よく火が入り、揺れる炎が重厚な絨毯と深い色合いのソファの縁を照らし出している。
窓の外ではもう空が群青に沈み、魔法灯が点り始めた街並みの光が、遠くかすかに瞬いていた。
アランは、窓辺に近い肘掛け椅子に腰掛けていた。
手元には、セシール家の紋章が入った革表紙のノートと、魔法省提出用の書類の控え。
ペン先は紙の上に置かれたまま、しかしほとんど動いていない。
視線は文字列のあたりを彷徨っているが、その瞳は明らかに別のものを見ているようだった。
扉が開く音がしても、彼女の肩はほとんど揺れなかった。
「ただいま戻りました」
レギュラスの声が、いつも通りの穏やかさで響く。
アランは、少し遅れて顔を上げた。
「……お帰りなさいませ、レギュラス」
声は丁寧で、抑揚も乱れてはいない。
けれど、その一拍の遅れと、微かにこわばった笑みが、彼女が「いつも通り」に務めようとしていることを、逆に際立たせていた。
レギュラスは、外套を執事に預けながら、さりげなく彼女を観察する。
髪はきちんとまとめられている。
ドレスの襟元にも乱れはない。
化粧も薄く整っており、一見すれば何も変わらない。
それでも、分かる。
瞳の奥に残る、揺れ。
机の縁に置かれた手が、ごく僅かに握りしめられては開く、その癖。
返事の遅さと、言葉を選びすぎるような間。
——今日は、セシール家に行くと言っていた。
父、エドモンドの研究の手伝い。
魔法省への提出書類の整理。
そしてそこに、誰が出入りしているのかも、レギュラスはよく知っている。
フロスト家の長男。
魔法省に勤め、セシール家の研究と省の橋渡しをしている青年。
かつて、アランが「婚約同然」と心の中で決めていた男。
わざわざ誰かに報告させるほどのことでもない。
だが、レギュラスは魔法省の役員として、そしてブラック家の当主として、自然に得られる情報には事欠かなかった。
今日、ローランド・フロストがセシール家を訪ねていたことも、その中に含まれている。
だからこそ、アランの今の様子が何を意味するか、察するのに時間はかからなかった。
レギュラスは、ゆっくりとアランの方へ歩み寄る。
彼女の正面ではなく、少し斜め横に腰を下ろす位置を選ぶ。
真正面から追い詰める必要はない。
逃げ道を残しておいた方が、追い詰められる側はよく揺れる。
「セシール家での手伝いは、順調でしたか?」
何気ないふりをした問い。
アランは、ペンをそっと閉じ、膝の上で両手を重ねた。
「はい。父の研究も、魔法省への提出に向けて形が整ってまいりました」
言葉は整っている。
だが、視線はレギュラスの顔に届かない。
彼の襟元あたりで止まり、すぐに逸れてしまう。
そのよそよそしさが、かえって分かりやすい。
——隠し通せているつもりなのだろう。
そう思うと、レギュラスの胸には、奇妙な感情が混じり合って広がった。
愚かで、愛らしい。
そう形容したくなる。
自分の内側でざわめいているものを、必死に隠し通そうとする、その拙さ。
何もなかった顔をしようと務める、その不器用な強がり。
抱きしめてやりたくなるほど愛おしくもあり、
同時に、胸の奥を鈍く刺激して苛立たせる。
——まだ、あの男に、ここまで揺らされるのか。
吐き出すまでもなく、その感情は彼の中でゆっくりと沈殿していった。
沈黙が、ほんの数秒だけ流れる。
レギュラスは、その短い間をわざと長く感じさせるように、視線だけでアランを捉え続けた。
耐えきれずに、彼女が小さく喉を鳴らす。
それを見届けてから、ようやく口を開く。
「……フロスト殿にお会いになられました?」
声は柔らかい。
けれど、その柔らかさは氷の表面の薄い水膜のように、ひどく冷ややかな光をたたえていた。
アランの指先が、ぴくりと動く。
顔を上げかけたが、途中で止まり、机の上の書類へと視線を落とす。
「……ええ。父に用があったようでした」
答えは、ぎりぎりまで削ぎ落とされたものだった。
レギュラスの問いに対する「正しい返答」として、必要最小限の情報だけを取り出した言葉。
どこにも嘘はない。
しかし、どこまでも白々しい。
その白々しさも、彼女なりの必死の防御なのだと分かっているからこそ、レギュラスは余計に笑いたくなった。
「そうですか」
短く相槌を打つ。
その一言に、アランの身体がわずかに固まる。
何か続きが来るのではないかと警戒しているのが、手に取るように分かる。
その様子がまた、愛らしくも憎たらしい。
——自分の前で、その名前を出すことさえ怖れている。
レギュラスは、内心で苦く笑った。
フロストの存在を、あれほど丁寧に隠そうとするのは、その名がまだアランの胸の中で生きている証拠だ。
それを、知っていながら黙って見ている自分自身の余裕が、彼を妙な優越感で満たしていく。
「父上とは、どのような話を?」
あくまで話題を緩やかに戻す。
「魔力値の変化についてです。最近の調合で、わずかに数値の揺れがありましたので……その検証を」
「なるほど」
レギュラスは頷いた。
言葉の上では、フロストの話題から離れたように見える。
だが、アランの思考が今もそこに引きずられていることは、まるで煙の匂いのように、この場の空気に漂っていた。
レギュラスは、ゆっくりとソファの背にもたれた。
暖炉の火が、彼の横顔を照らし出す。
灰色の瞳が、柔らかな光を宿してアランを見つめていた。
「あなたの態度で、大体のことは察せますよ、アラン」
淡々とした声。
アランは、驚いたように目を瞬いた。
「……どういう、ことでしょうか」
問い返しながらも、その声がわずかに震えている。
レギュラスは、肩をすくめるように微笑んだ。
「よそよそしさも、白々しい笑みも。
全部、普段のあなたを知っている僕からすれば、あまり隠し事に向いているとは言えませんね」
彼の言葉は、決して責め立てるような調子ではない。
冗談めかした柔らかさすら含んでいる。
けれど、その中に「見抜いている」という確信が、はっきりとした輪郭で存在していた。
「……申し訳ございません。そんなつもりでは」
「もちろん、あなたは悪くないですよ」
即座に否定する。
「フロスト殿がセシール家に出入りするのは、魔法省の職務として当然です。
あなたが父上の研究を手伝いに行けば、顔を合わせることもあるでしょう」
論理だけを並べれば、その通りだ。
そのどこにもおかしな点はない。
だからこそ、レギュラスはわざと穏やかに続ける。
「ただ——」
そこで言葉を切り、アランの横顔をじっと見つめる。
睫毛がかすかに震えた。
唇の端が、ぎゅっと結ばれる。
「必死に隠し通せていると思い込んでいるその愚直さが、いささか……愛らしくもあり、少しだけ憎らしいだけです」
微笑を崩さぬまま、さらりと言ってのけた。
アランは、言葉を失ったように固まった。
「……レギュラス」
震えた声が、その名を呼ぶ。
責められているわけではない。
咎められている調子でもない。
それでも、自分の内側に必死で塗り重ねた「平静」が、軽々と剥がされていくような感覚に襲われる。
レギュラスは、その様子を面白がっているようにも見えた。
「フロスト殿に会われたことで、何か不快な思いをされたのなら、僕に言ってください」
言葉を変える。
「もし、彼がまだあなたに未練がましい態度を取っているのなら、魔法省での配置転換を考えてもいい」
さらりと口にされる「脅威」と「庇護」を、同じ皿に乗せて差し出すような言い方だった。
アランは、ぱっと顔を上げる。
「いえ、そんなことは。フロスト殿は……とても、礼儀正しく、距離を保ってくださいました」
必死に否定するように言葉を重ねる。
「私が、勝手に……戸惑っているだけです」
その告白めいた一言に、レギュラスはふぅ、と小さく息を吐いた。
「そうですか」
瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
フロストが線を引いていることも、アランがそれに気づき傷ついていることも、一度に理解した。
胸の内側で、ほの暗い満足感が広がる。
——あの男も、きちんと距離を取っている。
彼女の「過去」として、礼儀を尽くしている。
ならば、なおのこと自分は、彼女の「今」と「未来」とを握っている男として、揺らぐ必要はない。
レギュラスは、少しだけ身を乗り出した。
距離が、わずかに縮まる。
「アラン」
名前を呼ぶ声が、静かな部屋に落ちる。
彼女は、反射的に顔を向けた。
視線が重なった瞬間、逃げ道は完全に塞がれる。
「今日、セシール家で何があったのか。
僕が知らなくてはならないようなことはありますか?」
問いは穏やかだが、その奥には「隠し通すことは許さない」という力が潜んでいた。
アランは、唇を結び、数秒の沈黙を挟んだ。
「……いいえ。何も」
目を逸らさずに、そう言った。
「父の研究の手伝いをして、フロスト殿と、少し言葉を交わしただけです。
それ以上のことは、何も」
真実だった。
決定的な言葉を交わしたわけでもない。
抱擁を交わしたわけでもない。
ただ、互いに線引きをしたまま、他愛もない会話を続け、それから彼は去っていった。
その「何もなさ」が、胸を裂いた。
その痛みを、レギュラスに伝えることはしない。
レギュラスは、彼女の瞳をじっと見つめる。
一呼吸、二呼吸。
やがて、ふっと微笑んだ。
「そうですか。なら、いいのです」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がる。
アランは、きょとんとした表情で彼を見上げた。
「この屋敷に戻ってきたあなたの顔が、あまりにもわかりやすく曇っていたのでね。
少し心配になっただけですよ」
軽く肩越しに振り返りながら、冗談めかして言う。
「あなたがどこで誰に会おうと、今夜眠る場所はここで、隣に立つ相手は僕です。
その事実さえ揺らがなければ、あまり細かなことは問いません」
それは、優しさと支配の境界線上にある言葉だった。
アランの胸の奥で、何かがかすかに軋む。
「……レギュラスは、ずるい方です」
ぽつりと零れた一言に、レギュラスは笑った。
「よく言われます」
悪びれもなく答える。
よそよそしさも、白々しさも。
必死に隠そうとする愚直さも。
それらすべてを見抜いたうえで、なお彼女を自分の枠の中に留める言葉を選ぶ。
苛立ちも、独占欲も、優越感も。
それらをすべて混ぜ合わせて飲み干しながら、レギュラスは揺るぎない足取りで、アランの前に立ち続けるのだった。
レギュラス・ブラックの腕の中にいるはずなのに、ふとした拍子に、別の輪郭が重なる。
——ローランドなら、きっとこんなふうには触れない。
肩に置かれた手、背に回された腕、そのわずかな力加減にすら、アランの記憶は勝手に「もう一人の男」の線をなぞってしまう。
ローランドの掌は、いつも慎重だった。
怖がらせまいとする遠慮と、こちらに委ねるような優しさばかりが、触れ方の隅々にまで染み込んでいた。
口づけひとつ落とすにも、必ず一度、瞳を合わせて——本当にいいのかと問いかけるように、短い沈黙を挟んでから唇を寄せてきた。
レギュラスは違う。
迷いがない。
ためらうことも、距離を測ることもない。
近づくと決めた距離まで、まっすぐに踏み込んでくる。
ひとたび抱き寄せた腕は、途中でほどかれることを知らず、そのままアランを自分の輪郭の内側へと押し込んでいく。
胸元に顔を埋められ、唇を塞がれるたびに、アランの中でローランドの記憶がざわめいた。
——彼なら、こんなに早く強くは抱き寄せない。
——彼の口づけは、こんな場所には落とさない。
——彼の指先なら、ここで一度止まって、問いかけてくる。
意味のない懐古だと分かっている。
それでも、浮かび上がってくる。
次々と、どうしようもなく。
喉の奥が詰まり、泣きたくなる。
なかったことにはできない時間と、今まさに上書きされていく時間とが、胸の内側で擦れ合って、軋んだ音を立てる。
腕の力が強まるたびに、アランの身体はレギュラスに寄り添わされる。
逃げ出したいのか、すがりつきたいのか、自分でも分からないまま、指先は彼のシャツの布地を掴んで離せなくなる。
「……どこを見てるんです、アラン」
耳元で、低い声が笑った。
レギュラスの灰色の瞳が、近い。
視界の端に、髪の影と、整いすぎた横顔が映る。
「今、あなたの頭の中にいるのは、僕じゃないでしょう」
その言葉は、やわらかな響きをまといながらも、鋭さを隠そうとしない。
心の奥に隠していたものを、指先ひとつで引きずり出されたような感覚に、アランは息を呑んだ。
否定する言葉が出てこない。
喉の奥で形になりかけては、熱を帯びた吐息に溶けて消えていく。
レギュラスは、答えを求めているようには見えなかった。
「ちゃんとこちらを見てください」
視線を絡め取るように、顎先をそっとすくい上げられる。
「あなたが誰を思い出していようと——今、あなたを抱いているのは僕です」
言い方は静かだった。
静かだからこそ、その「事実」を突きつける力は強い。
ローランドの影を、ここから追い出してやる——そんな意図すら、にじむようだった。
胸の奥で、罪悪感と怒りと、名のつけられない熱が混ざり合う。
その全部を、レギュラスはまるで計算ずくでかき混ぜてくる。
唇が重なり、言葉は閉ざされた。
どこまでが拒絶で、どこからが応えなのか、自分でも分からなくなる。
それでも、押し返そうと伸ばしたはずの手は、いつの間にか彼の背中にまわり、布地を掴んでしがみついている。
「そう。……それでいい」
耳元で、くすりと笑う気配が落ちる。
「ちゃんと、僕の方に戻ってきてください、アラン。
フロスト殿のことは、もう十分思い出したでしょう?」
名前を出された瞬間、胸のどこかがきしんだ。
レギュラスは、そのきしみまで愉しむように、距離をさらに詰めてくる。
「妻としてここにいるのは、誰の選択でした?」
追い詰める問いだと分かっていて、あえて問う。
答えられない。
答えたくない。
その沈黙すら、レギュラスの中では「肯定」に変換されていく。
逃げ場を塞ぐ言葉が、ひとつずつ積み重ねられていくたびに、アランの中の何かが、別の形に変わっていく。
罪悪感と同じ場所から立ちのぼる熱。
拒みきれない快楽。
ローランドとの記憶を手放したくないという執着と、今、目の前の男に絡め取られていく実感。
全部がひとつの波になって押し寄せる。
どれが誰のものなのか、もう判別がつかない。
臆病な心は泣きたいと叫びながら、身体は別の答えを返してしまう。
レギュラスの呼びかけに、知らず頷いてしまう。
重ねられた口づけに、気づけば自分からも応え、背中に腕を回してしがみついている。
「……ね?」
彼は、勝ち誇るでもなく、当然のように囁いた。
「ちゃんと、僕の言葉に頷いてくれるじゃないですか」
その声音には、鋭さと甘さが同居していた。
アランは目を閉じる。
思い出すたび胸を締めつけてきたローランドの輪郭が、波の中に溶けていく。
完全に消えたわけではない。
けれど、今はただ、レギュラスの声と体温と匂いが、五感のほとんどを埋め尽くしていた。
——この人は、奪っていく。
自分の未来も、誇りも、記憶さえも。
そう理解しながら、それでも腕の力をほどけない自分が、いちばん情けなくて、いちばんどうしようもなく、レギュラスの思惑どおりだった。
アランの肩越しに落ちる灯りは、いつもより柔らかく見えた。
寝台の上で、彼女の髪がシーツに広がっている。
黒い絹をほどいたみたいに、ひと房ひと房が指に絡みつく。
その感触を確かめながら、レギュラスはふと、眉の奥にかすかな違和感を覚えた。
——どこか、遠い。
腕の中にいるはずの女の意識が、自分の届かない場所に逃げていく気配がした。
指先に伝わる微かな震え。
触れればきちんと反応して、呼吸も乱れていく。
身体は、たしかに今ここで自分に応じている。
なのに、その翡翠の瞳の焦点だけが、時折ふっとどこかへ滑っていく。
レギュラスは、わざと動きを緩めた。
頬をかすめ、耳元に吐息を落とし、獣のように荒くはならないギリギリの加減で距離を詰める。
その隙間から、彼女の表情を盗み見る。
長い睫毛が震え、その陰影に、別の男の影がちらついた。
ローランド・フロスト。
青い目の真面目な青年。
魔法省の廊下で何度かすれ違っている。
彼がアランの視界に入るたび、彼女の空気が揺れるのを、レギュラスはよく知っていた。
今日、セシール家で顔を合わせたのだろう。
屋敷に戻ってきてからの、よそよそしい沈黙。
言葉を選びすぎる間。
余計なところで丁寧すぎる返答。
ぜんぶ、分かりやすかった。
その見え透いた防御が、可笑しいほど愛らしく、そして少しだけ腹立たしい。
——どこまであの男を引きずる気なんでしょうね。
胸の中で毒づきながらも、表情には出さない。
代わりに、指先の圧だけをほんの少し強めた。
彼女の喉が、短く震える。
ああ、いい、とレギュラスは内心で息を吐いた。
身体の方は、きちんと今ここにいる。
自分の与える刺激に対して、正直すぎるほど素直に反応してくれる。
ならば——心も同じ場所に引きずり下ろすだけだ。
「……どこを見てるんです、アラン」
耳元に唇を寄せ、低い声で囁く。
彼女の肩が、小さく跳ねた。
問いかけの意味を、きっと理解している。
その証拠に、翡翠の瞳が自分から逃げるように逸れていく。
レギュラスは、片手で彼女の顎をすくい上げた。
無理にではない。
けれど、逃げ道を塞ぐには十分な力で。
「今、あなたの頭の中にいるのは、僕じゃないでしょう」
静かに告げる。
怒鳴るよりも、この調子の方がよほどよく刺さると、彼は経験から知っていた。
アランの瞳が揺れた。
否定の言葉は、どこにも見当たらない。
代わりに、喉の奥で押し殺した呼吸だけが、熱っぽく漏れていく。
レギュラスは、薄く笑みを浮かべた。
図星なのだ。
ローランドの手の感触を、口づけの場所を、仕草の一つひとつを、きっと頭のどこかでなぞっている。
——彼ならこんなふうにはしない、彼ならここで止まる、彼なら。
そんな「もし」を、今この瞬間さえ抱え込んでいるのだろう。
滑稽だ、とレギュラスは思う。
滑稽で、愛らしくて、だからこそ壊してしまいたい。
「ちゃんとこちらを見てください」
視線を絡め取るようにして、彼女の顔を自分の方へ向けさせる。
近くで見る翡翠は、相変わらず美しい。
過去を映そうが、現在を映そうが、その色は変わらない。
——だから奪い甲斐がある。
「あなたが誰を思い出していようと」
額を軽く触れ合わせる。
「今、あなたを抱いているのは僕です」
言葉にすると、胸の内側で静かな快感が広がった。
フロストがどれだけ誠実だろうと、どれだけ大事にしてきただろうと。
ここにいるのはレギュラスだ。
アラン・ブラックとして寝台に横たわっているのも、レギュラスの妻として息を乱しているのも。
その事実を、彼自身がだれよりも味わっていた。
アランの瞼がふるふると震え、ついに視線が絡んだ。
その一瞬を逃さずに、レギュラスは彼女の唇を塞ぐ。
否定の言葉も、名前も、全部、舌の上で飲み込ませるように。
押し返そうと伸びかけた手が、布地を掴んでくる感触が、指先越しに伝わる。
その力が、迷いながらもこちらに縋ってくるものへと変わっていくのを、彼は敏感に拾い上げていた。
「……そう。……それでいい」
唇を離したところで、レギュラスは喉の奥でくつりと笑う。
身体は嘘をつけない。
どれほどローランドの名を心の中で繰り返そうと、どれほど「こうあるべきだった」未来を思い描こうと。
今、彼女の中で高鳴っているものの正体は、レギュラスが誰よりもよく知っている。
「ちゃんと、僕の方に戻ってきてください、アラン」
耳もとで囁く。
「フロスト殿のことは、もう十分思い出したでしょう?」
意地悪だと自覚していた。
それでも、やめる気はない。
彼女の胸のうちで、あの男の影がまだこんなにも濃く存在していると知ってしまった以上、放っておけるはずがない。
嫉妬というより、征服欲に近い。
今ここで彼女の口から零れた声も、強く絡んできた指も、すべて「ローランドではない誰か」によって引き出されたものとして、上書きしてやりたい。
「妻としてここにいるのは、誰の選択でした?」
合間を縫うように、鋭い問いを落とす。
アランのまつげが、大きく揺れた。
あの夜。
セシール家の応接室で、エドモンドと交わした話。
フロストに告げた「条件」。
アランが涙の向こう側で飲み込んだ未来。
それらすべてが、この一文の背後にある。
彼女は答えない。
答えられない。
けれど沈黙は、肯定と同じくらい雄弁だ。
レギュラスは、満足げに息を吐いた。
ローランド・フロストは誠実だ。
そこは認めている。
だからこそ、あの男は「正しい選択」をした。
アランとセシール家のために身を引き、祝福の拍手を送り、今日も研究の橋渡しを続けている。
——なら、そのあとの責任は、僕が引き受けますよ。
胸の内で、ひとりごちる。
彼女の罪悪感も、未練も、矛盾も。
その全部を抱え込んだまま、レギュラス・ブラックの妻として生きていくのだとしたら。
ならば、自分は遠慮する必要などどこにもない。
アランの指先が、背中にまわる。
逃げるためではなく、しがみつくために。
その変化を、レギュラスは見逃さない。
声が、喉の奥で高く跳ねる。
今さら「そんなはずでは」と思う余地を与えないほどに、波は大きくなっていく。
ときおり彼女の瞳に浮かぶ涙の気配が、決して悲鳴だけではないことを、レギュラスはよく知っていた。
怖さも、後ろめたさも、快楽も、全部まとめて一つの色に塗りつぶしていく。
その作業は、彼にとってなによりも甘美だった。
「いいですね、その顔」
息の合間に、わざと耳元で囁く。
「僕の妻として、悪くない反応です」
言葉には、からかいと本心とが半々に混じっている。
アランには、そんな余裕ある分析など届かないだろう。
それでいい。
彼女の中で、「レギュラス・ブラックに抱かれているアラン・ブラック」という自覚だけが、じわじわと染み込んでいけばいい。
彼女が腕の中で息を整えるまで、しばらくのあいだ、レギュラスは何も言わなかった。
ただ、背に回された細い腕の重みと、頬に触れる髪の感触を、静かに味わっていた。
胸の奥には、まだわずかに燻る棘が残っている。
——ローランドと重ねているのだろう。
——彼ならこうしない、と比べているに違いない。
その確信は、彼にとって決して心地いいものではない。
しかし同時に、奇妙な自信もあった。
いずれ、どこかの夜。
彼女がふと昔の記憶をたぐり寄せようとしても——
「ローランドだったら」と思いかけたその瞬間、先に蘇るのは、こうして刻み込んできた自分のやり方になる。
そうなるまで、何度でも塗り重ねればいい。
「……アラン」
腕の中で小さく身じろぎした気配に、レギュラスは彼女の名を呼んだ。
「はい……レギュラス」
掠れた声が返ってくる。
それだけで、内側の棘が少しだけ甘く溶ける。
「さっきの続きを、もう少しだけしましょうか」
意味深な言い回しで笑う。
「フロスト殿の影が、あなたの中で動けなくなるくらいまで」
それは口に出さない。
闇の中でひとりごちるだけに留めておく。
レギュラス・ブラックは、胸にうごめく嫉妬と征服欲を、静かな微笑みに封じ込めたまま、腕の中の女をもう一度抱き寄せた。
ローランド・フロストの名など、彼女の唇から出てこないくらいに。
彼女の喉が形作るのは、自分の名だけだと思い知らされるくらいに。
いずれその夜が来ることを、彼は疑わなかった。
翌朝の食堂には、まだ少し夜の名残が残っていた。
大きな窓から差し込む光は、真昼のような強さではない。
それでも、白いクロスに整然と並べられた銀器や、磨き上げられた陶器の縁をくっきりと照らし出し、否応なく「朝」という現実を突きつけてくる。
アランは、テーブルの端近くに腰掛けていた。
紅茶の入ったカップの縁をそっと指でなぞりながら、匙を持つ手が落とす小さな音に、自分の緊張が滲んでいるのを自覚する。
ヴァルブルガもオリオンも、今朝は別の用事で席を外していた。
広い食堂にいるのは、召使いたちと、向かい側の席に腰を下ろしたレギュラスだけだ。
——二人きり。
それだけで、喉が乾く。
「パンは口に合いますか?」
レギュラスの声が、向かいから響く。
視線を上げると、彼はいつも通りの余裕に満ちた笑みを浮かべていた。
昨夜のことなど、何もなかったかのような顔——に、見えなくもない。
けれど、その灰色の瞳の奥には、かすかな愉悦の光が宿っている。
「……はい。とても」
アランは、ナイフを持つ指に力を込めすぎないよう気をつけながら、パンの端を切り分けた。
何でもない朝食の会話に、何でもない返答。
そうやって、昨夜の輪郭を曖昧にしてしまいたかった。
だが、レギュラスの意図は、どうやら違うところにあったらしい。
「昨夜は、よく眠れました?」
ナイフとフォークを持ったまま、彼はさらりと問うてきた。
アランの手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
聞き返す声が、思った以上に高く響いてしまった。
召使いの一人がちらりと視線を向けてきて、アランは慌ててカップの取っ手に手を移した。
「眠りは浅くありませんでしたか、とお聞きしたんです」
レギュラスは微笑を崩さない。
「昨日は、少しばかり……激しかったでしょう」
「激しい」という言葉の意味するところを理解した瞬間、アランの顔から血の気が引き、そのあと一気に熱が押し寄せた。
紅茶の湯気が立ちのぼる。
それに負けないくらいの熱が、頬の内側からこみ上げる。
「レ、レギュラス……っ、あの……」
何をどう言えばいいのか分からず、言葉が喉で絡まった。
夜のことを、朝のテーブルで。
そんな風に口にされることを、アランの想像はどこまでも拒んできた。
それを、彼は何のためらいもなく現実にしてしまう。
恥ずかしさは、むしろ羞恥を通り越して痛みに近かった。
レギュラスは、そんな彼女の混乱を愉しむように、ナプキンをさりげなく整えながら続ける。
「ほら、今朝、階段を降りてくる足取りも少しだけ重かったでしょう。
歩き方で分かりましたよ」
淡々とした口調なのに、言っている内容は容赦がない。
「僕としては、そこまで無茶をしたつもりはなかったんですけどね。
あなたが思った以上に、よく応えてくださったものですから」
「応えて」という言葉に、アランはナイフの刃を見つめたまま固まった。
昨夜の自分の反応が、脳裏の奥で一瞬だけフラッシュのように蘇る。
その記憶に、自分のものとは思えない声が重なってしまい、思考がぐらりと揺れた。
「……そのような、お話を……朝からなさらなくても……」
どうにか絞り出した抗議は、情けないほど弱々しい。
レギュラスは、肩をすくめるようにして笑った。
「なぜです?」
すぐに返ってくる問いが鋭い。
「夫婦の話ですよ。
夜にしていることを、昼に言葉にするのがそんなにいけないことですか?」
アランは、唇を噛みそうになるのをどうにか堪えた。
いけない、と言い切れるわけではない。
けれど、自分にとってそれがどれほど慣れないことかを説明する術を持たない。
友人たちは、笑いながらそういう話をする。
きっと、こういう会話など当たり前なのだろう。
妻と夫の間で、当たり前に交わされているのかもしれない。
——自分だけが、置いていかれている。
そんな感覚が、情けなさとなって胸に広がる。
レギュラスは、彼女の沈黙をじっと眺めてから、少しだけ声を落とした。
「あなたが、そういう話に慣れていないことは分かっています」
急に真面目な響きが混ざる。
「セシール家で大事に育てられて、社交界にもほとんど出ず、ローランドと過ごした時間もきっと……とても真面目で、慎ましかったのでしょうね」
ローランドの名を直に出されて、アランの指先がびくりと震えた。
レギュラスは、そこに気づいていながら、あえて視線を落とさなかった。
「でも」
ナイフを静かに皿に置き、彼はカップを手に取る。
「あなたは、今、ブラック家の妻です。
夫である僕と夜を共にし、その結果として何かが変わるかもしれない身体を抱えて、こうして同じテーブルについている」
その言い回しは、遠回しなのに残酷なほど具体的だった。
アランの喉に、何かが詰まったような感覚が走る。
懐妊、という言葉を直接出されなくても、十分すぎるほど伝わる。
「それを、まるで他人の出来事のように黙って飲み込んでいるのは——僕としては、少し物足りない」
レギュラスは、微笑んだ。
「昨夜、あれだけ素直に僕の言葉に頷いてくださったのに。
朝になった途端、全部なかったことにしようとする」
「なかったこと」
その言葉に、アランの肩がきゅっと縮こまる。
なかったことになど、できるはずがない。
忘れようとしても、忘れられるものではない。
それでも、光の中に引きずり出したくないだけなのだ。
うまく言葉にできないその感情を、レギュラスは理解していながら、あえて踏みつける。
「僕は、昨夜のあなたを、とても気に入っていますよ」
さらりと告げる。
「呼吸の仕方も、触れられる場所に対する反応も。
どこをどうすれば、あなたの肩が震えて、どんなふうに名前を呼んでくれるのか」
召使いたちがいる前でその言葉を口にしないのは、彼なりの一線なのだろう。
それでも、比喩と遠回しの間を行き来する言葉は、十分すぎるほど生々しい。
「……レギュラス」
ようやく名前を呼ぶと、彼は満足げに片眉を上げた。
「はい?」
「そのようなお話は、本当に……」
「苦手ですか?」
きっぱりと遮られる。
アランは、戸惑いながらも頷いた。
「……はい」
「慣れてください」
返ってきた答えは、容赦がなかった。
「あなたがどれだけ俯こうと、どれだけ黙り込もうと。
僕にとっては、誇っていいことなんですから」
誇り。
その単語は、アランの胸に重く落ちた。
彼にとって、自分との夜は「誇るべきもの」である。
その感覚は、アランにはどうしても理解しきれない。
理解できないのに、否定もできない。
それが、この屋敷での「現実」なのだと突きつけられている気がした。
レギュラスは、少しだけ視線を緩めた。
「……そんな顔をしないでください」
さっきまで意地の悪い光を宿していた瞳が、わずかに柔らぐ。
「あなたが恥ずかしがるのは、分かっています。
けれど、僕はあなたを辱めたいわけではない」
その言葉に、アランは目を瞬いた。
「夜のあなたを、僕だけが知っているという事実を——ただ、こうして確認していたいだけなんです」
静かな告白のようにも聞こえた。
「ローランドフロストが、あなたの過去をどれほど大事に抱えていようと。
今、あなたの夜を知っているのは僕だけですから」
名前を出すときだけ、ほんの僅かに口調が硬くなる。
それを感じ取りながらも、アランは何も言えなかった。
夜のことを夜に閉じ込めておけるほど、自分の人生は単純ではなくなってしまった。
もう、自分ひとりの内側だけで完結させることは許されない。
「妻」としての夜は、彼にとって、朝の光の下でも当然のように口にしていい「共有物」なのだ。
それが、ブラック家に嫁いだということ。
アランは、カップの中で揺れる紅茶の表面を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……慣れるには、少し、時間がかかりそうです」
それが、今出せる精一杯の答えだった。
レギュラスは、その返答に満足したのか、ふっと笑った。
「僕は急ぎませんよ」
かつて「待つ」と言ったときの柔らかさとは違う、どこか確信に満ちた声音で続ける。
「夜も、朝も。
あなたが僕の妻であるという事実だけは、もう揺らがないのですから」
その言葉に、アランの喉の奥で、小さな声にならない吐息が揺れた。
日差しは、いつの間にか少し高く昇っている。
白いクロスの上に落ちる影が、すこし短くなっていた。
夜の余韻を、朝のテーブルにまで引きずり出す男と。
それをどう扱えばいいか分からないまま、向かいに座る女と。
ブラック家の食堂には、カトラリーの音と紅茶の香りに混じって、まだ昨夜の名残を引きずる、形にならない湿度だけが静かに漂っていた。
