2章
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その日は、朝からブラック家の屋敷そのものが、別の世界に生まれ変わっていた。
重厚な石造りの外壁には、古い家の紋章を象った魔法灯がいくつも灯り、白金色の光が淡く揺れている。
正面階段には純白の絨毯が敷かれ、その両脇には、深い緑と黒を基調にした花々が生けられていた。
闇を思わせる黒薔薇、深い森のような緑の葉、そこに星のように散らされた銀色の小花。
ブラック家の色を、そのまま形にしたような装いだった。
大広間の扉が開かれると、さらに圧倒的な光景が広がる。
高い天井には、いくつものシャンデリアが浮かんでいた。
本物の炎と魔法の光が混じり合い、揺れる度に万華鏡のような輝きを床へと落とす。
壁には、歴代のブラック家当主たちの肖像が並び、その視線が今日の式を見守るようにこちらを見下ろしている。
床には新しく磨き上げられた黒い大理石が敷かれ、その上を歩くたび、花嫁と花婿の姿を柔らかく映し返す。
参列者もまた、この日が“特別”であることを隠しもしなかった。
魔法省の重鎮たち。
古くからの純血貴族たち。
セシール家・ブラック家と関わりの深い者たち。
人々の視線が、一方向へと自然に向かう。
祭壇代わりに用意された壇上の中央に、レギュラス・ブラックが立っていた。
漆黒の礼服に身を包み、胸元にはブラック家の紋章を模したピンが光る。
いつもの灰色の瞳は、今日に限って、どこか柔らかな光を帯びていた。
肩の力を抜いているようでいて、姿勢は完璧にまっすぐ。
「若き当主」としての姿が、そこにある。
その姿を、アランは長い通路の向こうから見つめていた。
純白のドレスは、ヴァルブルガと仕立て屋が何度も相談を重ねて選び抜いたものだった。
胸元から裾へと流れるラインは、過度な装飾を削ぎ落とし、布そのものの質と落ち感で魅せるデザイン。
腰には、深い緑のリボンが一本だけ結ばれている。
ブラック家の色と、セシール家の翡翠の瞳をどちらも象徴するような、静かな彩りだった。
ヴェールは細かなレースが縁取られ、頭上からふわりと肩を包む。
歩くたびに薄布が揺れ、その奥で翡翠の瞳が淡く光る。
両側に並ぶ参列者たちが、一斉に視線を向けた。
ささやき声が、波のように広がっては、すぐに吸い込まれていく。
——綺麗だ。
誰もがそう思っていることは、言葉にされなくても分かった。
深呼吸をひとつ。
アランは一歩、また一歩と歩みを進める。
足元の布は、魔法でわずかに浮かされているかのように軽く、転ばぬようにと注意している自分の緊張が、むしろ滑らかな所作を生んでいた。
そのたびに、白い裾が黒い大理石の床を撫でるように揺れる。
視界の先には、レギュラスだけがいる。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
どこか満足げな、誇らしげな、しかし抑えた微笑み。
自分の隣に立つ花嫁が、誰よりも美しいと、当然のように信じて疑わない男の顔。
そのまなざしを受けながら、アランは歩き続けた。
やがて、歩みは壇上の手前で止まる。
魔法界に古くから伝わる祝詞が唱えられ、杖先の淡い光が円を描くように二人の頭上を巡る。
ブラック家とセシール家の紋章が、宙で重なり合い、ひとつの光の紋章へと変わる様子を、参列者は息を呑んで見守った。
式は、完璧に進んでいた。
誓いの言葉。
魔法契約の印。
祝福の炎。
あとは、レギュラスの差し出す手を取るだけだった。
その瞬間だった。
視界の端に、ひとつの姿が映る。
黒い礼服。
淡い髪。
落ち着いた青い瞳。
ローランド・フロストが、そこにいた。
セシール家側の席の少し後ろ。
決して前に出る立場ではないが、決して外されることもない位置。
静かに背筋を伸ばし、式の一部始終を見届けている。
アランの心臓が、鋭く締め付けられた。
レギュラスの手が、目の前にある。
見慣れ始めてしまった、長くしなやかな指。
魔法省で人々を動かし、法を扱い、無数の決定を下してきた手。
何度も自分の腰を抱き寄せ、肩を撫で、頬を包んできた手。
その手を、今日、この場で正式に取る。
それがどういう意味なのかは、嫌というほど分かっている。
けれど、同時に脳裏には、別の手が浮かんだ。
少しひんやりとした、真面目な指先。
薬草の染みが残り、インクの跡が消えきらない、仕事の手。
子どもの頃、転んだ膝を庇うようにそっと支えてくれた手。
ローランド・フロストの手。
初めて自分に向けられた、ぎこちない「恋」の気配。
手を繋いだとき、互いにどこまで力を入れていいのか分からず、探り合うように握りしめたあの感触。
彼が好きだった。
物心ついた頃から、気づけばいつも視界のどこかにいた少年。
十代になってからは、会うたびに胸がざわつき、目が合えば頬が熱くなった。
誰かを「好きだ」と思う感情がどういうものか、最初に教えてくれたのは、間違いなくローランドだった。
彼と共に過ごした日々が、そのままアランの「人生」という言葉の基礎を作っていた。
彼の言葉で泣き、彼の言葉で笑い、
彼の背中を追いかけながら、自分も大人になってきたつもりだった。
彼は、自分の世界のすべてだった。
自分の一部のようだった。
その彼が今、少し離れた場所で、静かにこちらを見ている。
目が合いそうで、合わない距離。
視線を絡めてしまえば、きっと二人とも立っていられなくなると分かっている距離。
ローランドは、静かに手を打っていた。
祝福の拍手。
大袈裟ではなく、控えめでもなく、
ただ式の進行に合わせて、きちんと礼儀を尽くしている音。
その指先に、アランは見覚えがあった。
紙をめくる速さ。
ビーカーを支える時の慎重さ。
自分の頬に触れた時の、震えを隠そうとする固さ。
今、その手が、自分とレギュラスの結婚に拍手を送っている。
喉の奥に、何かが込み上げた。
涙だった。
だが、それをこぼすことはできない。
ブラック家の花嫁として、式の最中に涙を流すことは、あまりにも不格好だった。
だから、アランは泣かなかった。
その代わりに、胸の中で声にならない言葉を叫んだ。
——愛している。
ローランド・フロストを見つめながら、誰にも聞こえない声で。
本当は、彼の隣でこのドレスを着たかった。
彼と歩く未来を信じていた。
父に認めてほしいと願い、何度も一緒に手紙を書いた夜を覚えている。
すべてを、彼に渡してしまっていた。
けれど今、自分の手はレギュラスの方へ伸びていく。
大理石の床に、白い布が静かに揺れた。
祭司役の魔法使いが、定められた言葉を告げる。
「ここに、レギュラス・ブラックとアラン・ブラックの婚姻が結ばれたことを、魔法界に証する」
レギュラスの手が、アランの手を包み込む。
その瞬間、アランは、強く心の中で繰り返した。
愛している。
ローランド。
誰よりも。
誰よりも。
その叫びは、決して声にならなかった。
空気を震わせることもなかった。
ただ、胸の奥で静かに燃え上がり、
その炎が、自分の中だけを焼き尽くしていく。
レギュラスの指先が、ほんの少しだけ握力を強めた。
自分の妻となる女の、かすかな震えを感じ取ったのかもしれない。
あるいは、単に儀礼として、しっかりと手を取っただけなのかもしれない。
アランは、微笑んだ。
ブラック家の花嫁として、完璧な顔で。
ヴェールの下から覗く翡翠の瞳には、涙の光はなかった。
誰にも気づかれないまま、心の中だけで、ひとつの恋が静かに葬られていく。
祝福の拍手が、嵐のように広間を満たした。
魔法の光が天井を駆け巡り、楽団が祝いの曲を奏でる。
ローランド・フロストも、その中にいた。
変わらぬ姿勢で、変わらぬ誠実さで、
ただ静かに、二人の未来に拍手を送っていた。
アランは、その光景を胸に刻みつけながら、
レギュラスの隣へと歩み出した。
祝福の拍手が、まだ大広間のあちこちで名残のように弾んでいた。
天井近くを巡る魔法灯が、祝いの光を幾重にも反射させる。
黒い大理石の床には、純白のドレスと漆黒の礼服が並んで映り込み、シャンデリアの光と相まって、まるで一枚の絵画のような光景を作り出していた。
レギュラスは、その絵の中心に立っていた。
右隣には、アランがいる。
純白のドレスに、深い緑のリボン。
ヴェール越しに覗く翡翠の瞳。
肩まで落ちる黒髪は、いつもより丁寧に整えられ、その一本一本までが「ブラック家の花嫁」として仕立てられたかのようだった。
この女を隣に置いている事実だけで、背筋にぞくりとするほどの優越感が走る。
金も、地位も、家名も、権力も——
それらをこれまでも当然のように持ってきた男が、今日さらにその上に重ねるもの。
魔法界でも稀なほどの美貌と血統を兼ね備えた妻。
セシール家という名家の魔法薬研究を背にした、ブラック家の正妻。
レギュラスは、笑みを崩さぬまま、心の奥底で静かに震えていた。
——これで、本当に全てが揃った。
参列者たちが順に祝辞を述べ、グラスを掲げていく。
オリオンが簡潔な言葉で二人の婚姻を讃え、ヴァルブルガは滔々と、しかし誇らしげな口調で「新たなブラック家の一員」を歓迎する。
その間も、レギュラスは視線をさりげなく巡らせていた。
どの魔法省役員がどの顔で祝辞を述べているか。
どの家がどの距離感で笑みを作っているか。
誰が本心から、誰が計算から祝っているか。
そして、その中に——ローランド・フロストの姿を見つける。
淡い髪、青い瞳。
場違いなほど静かな表情で、けれど礼を欠くことなく、正面を見つめている。
祝辞のタイミングに合わせて、他の誰と同じようにグラスを掲げ、拍手を送る。
アランの視線が、そちらへ向かうであろうことも、レギュラスには分かっていた。
自分の横で微かに揺れた肩、ほんの僅かに止まりかけた呼吸。
その一つひとつが、彼女の心の軌道を雄弁に物語っている。
——いい。
胸の中は、不思議なほど静かだった。
嫉妬も、苛立ちもない。
ざわつきという感情がどこにも湧き上がってこない。
なぜなら、答えはすでに出ているからだ。
アランは、レギュラス・ブラックの隣に立っている。
ブラック家の紋章を背に、ブラック家のドレスを纏い、ブラック家の花嫁として祝福を浴びている。
ローランド・フロストは、その光景を「外側」から見ている。
静かな誠実さを湛えた顔で拍手を送りながら、自分の選ばれなかった未来にきちんと礼をしている。
その構図が、すべてだった。
勝敗は、とっくに決している。
だからこそ、レギュラスの心は静かだ。
波立つ必要がない。
ただ、噛み締めるだけでいい。
自分が勝ち取ったものの重さと、甘美さとを。
人々の視線の中心にあることは、レギュラスにとって日常に近い。
しかし今日は、その重さがいつもと違っていた。
視線は、自分ひとりではなく、隣にいるアランにも等しく注がれている。
そのことが、彼を愉悦で満たした。
この美しい女は、今日をもって正式に、魔法界に「ブラック家の妻」として受け入れられる。
セシール家の魔法薬研究は、ブラック家と共に歩むものとして扱われる。
その象徴として、アラン・ブラックがここにいる。
政治的にも、家同士の結びつきとしても、これ以上ないほど盤石な婚姻。
そしてそれが、こんなにも目を奪う姿をともなって成立している。
これ以上の満たされ方を、レギュラスは知らなかった。
ふと、ドレスの裾が揺れる。
アランが、隣でわずかに体の向きを変えた。
緊張に強張っていた背筋が、ほんの少しだけ緩んだようだった。
レギュラスは、彼女の方へ顔を向ける。
ヴェール越しに見える横顔は、どこまでも整っている。
翡翠の瞳は、涙をこらえるように微かに光っているが、それすらも華やかな場の照明に溶けて、誰も気づかない。
「アラン、本当に綺麗です」
その言葉は、芝居がかったものではなかった。
ありのままの感想として、自然に口をついて出たものだ。
アランは、瞬きを一度だけして、かすかに首を傾げる。
「……ありがとうございます、レギュラス」
声が、わずかに震えている。
その震えの理由が、自分だけではないもの——ローランドの存在や、失われた未来への痛み——を含んでいることも、レギュラスは分かっていた。
それでも、彼は何も言わない。
彼女の内側でうねる感情の全てを、今この場で塗り替える必要はない。
それは時間と共に、ゆっくりと別の形になっていくだろう。
大事なのは、今日、この瞬間。
彼女が「アラン・ブラック」として立っていることだ。
「母が選んだドレスだと言っていましたね」
レギュラスは、ふと口元を和らげた。
「……あまりにも完璧で、少し腹立たしくなるくらいです」
皮肉めいた言葉の端に、微かな誇りが滲む。
ヴァルブルガが、息子の花嫁のために選び抜いたドレス。
素材も仕立ても一級品であることはもちろん、その線の一つひとつが、アランの体つきと雰囲気を最大限に引き出している。
母の審美眼と、息子の所有欲が、珍しく完璧な形で一致していた。
アランは、少しだけ目を丸くしてから、かすかに笑った。
「ヴァルブルガ様のおかげで、こんなにも素敵なドレスを着させていただけました」
「いいえ」
レギュラスは、ゆっくりと首を横に振る。
「ドレスがあなたを綺麗にしているのではありませんよ。
あなたが着るから、このドレスはここまで完成するんです」
芝居めいた台詞だと自覚があっても、構わなかった。
今日くらい、多少の大袈裟さは許される。
何より、これは事実でもある。
この場にいるどの女を連れてきても、同じように「完璧な絵」にはならない。
ブラック家の礼服と並ぶのにふさわしいのは、この女の翡翠の瞳と黒髪なのだと、レギュラスは信じていた。
視線を少しだけ巡らせれば、ローランド・フロストの姿が再び目に入る。
青い瞳は、相変わらず静かにこちらを見ている。
その視線の先にいるのは、レギュラスであり、アランであり、そして「二人」である。
ローランドがアランに向けてきた想いも、
アランがローランドに向けてきた想いも、レギュラスは全てを奪い取ることはできない。
過去は奪えない。
けれど未来は、別だ。
これから先、アランが夜を共にし、肩を並べ、何度も何度も時間を積み重ねていく相手は、ローランドではない。
レギュラス・ブラックだ。
その確かな「これから」を思うと、胸の中にまた別の熱がゆっくりと満ちてくる。
——勝利というものは、こうして静かに味わうものだ。
誇示する必要はない。
誰かを侮辱する必要もない。
ただ、当然のように隣に立ち、当然のように手を取り、当然のように未来を語ればいい。
その当然を手にしたことが、何よりの勝利なのだから。
レギュラスは、隣のアランの手を、少しだけ強く握った。
「……これから、忙しくなりますよ」
小さな声で告げる。
「式が終われば、挨拶に回らなければなりません。
ブラック家の妻として、セシール家の娘として。
あなたを見せびらかしたい相手が、山ほどいますから」
アランは、一瞬だけ驚いたように目を瞬き、それから諦めにも似た微笑を浮かべた。
「ええ。……ご一緒に、回らせていただきます、レギュラス」
その返事を聞いて、レギュラスは満ち足りた思いで頷いた。
歓声と音楽と魔法の光に満ちた大広間で、
彼は静かに、しかし確かに、「全てを手にした男」としての甘い余韻に浸っていた。
結婚式から、いくばくかの日々が過ぎた。
あれほど荘厳で華やかな一日の後にも、ブラック家には当然のように日常が戻ってくる。
レギュラスは魔法省と屋敷を行き来し、ヴァルブルガは新たな「ブラック夫人」を社交界にどう見せるかを楽しげに思案し、オリオンは変わらぬ調子で新聞と報告書を読み続ける。
その合間に、アランもまた、以前と変わらぬ場所へと足を運ぶようになっていた。
セシール家の屋敷——父エドモンドの研究室。
その日は、午後の陽が少し傾き始めた頃だった。
セシール家の廊下に足を踏み入れた瞬間、アランは胸の奥がひそやかに震えるのを感じた。
磨き込まれた木の床、古い魔法薬の匂いが染みついた空気、ところどころに飾られた薬草標本。
幼い頃から見慣れた景色は、そのまま時間ごと封じ込められているようで、足を前に運ぶほど記憶が呼び覚まされる。
研究室の扉をノックして、返事を待つ。
「入りなさい」
父の声は、昔と同じだった。
扉を開けると、部屋の空気がふわりとまとわりついてくる。
棚には、色とりどりの薬液の瓶が並び、窓辺には乾燥中の薬草が吊るされている。
大きな机の上には、魔法省提出用の書類や、試験結果の記録、魔力値のグラフが雑然と積まれていた。
「アランか。ちょうどよかった。書式の確認を手伝ってくれないかね」
エドモンドは、眼鏡の奥から穏やかな笑みを向けた。
「はい、お父様」
アランはドレスの裾をさばきながら、机の反対側に回り込む。
ブラック家の妻として相応しい落ち着いた装いでありながら、ここでは昔のように「娘」として動きたくなる自分がいた。
父とともに資料を分類し、必要なものに目を通し、記入漏れがないかを確認していく。
魔法省とのやり取りの形式は、レギュラスから聞いている内容とも重なる部分が多く、アランにとっても理解しやすかった。
ペンを走らせていると——ふいに、扉の方から声がした。
「セシール卿、先日の試験データについて、少し確認したい点がありまして」
聞き慣れた声だった。
アランの指先が、ぴたりと止まる。
振り返らなくても誰か分かる。
長年、同じ部屋の空気を吸い、同じ廊下を歩いてきた相手の声を、忘れるはずがなかった。
「おや、フロスト君。構わんよ。こちらに」
エドモンドが快活に応じる。
扉が開く気配と共に、足音が近づいてくる。
アランは、机上の書類に視線を落としたまま、深く息を吸った。
扉の開閉。
足音。
空気の流れの変化。
顔を上げる勇気は、すぐには出なかった。
「……ブラック夫人も、ご一緒でしたか」
落ち着いた声が、少しだけ硬い調子を帯びている。
アランはようやく顔を上げた。
そこにいたローランドは、昔と変わらないようでいて、やはりどこか違っていた。
淡い髪はきちんと整えられ、青い瞳はいつも通り真面目な色を湛えている。
だが、その視線はアランの姿に一瞬だけ触れると、すぐに礼儀正しい距離へと引き戻されていった。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
彼はそう言った。
「アラン」ではなかった。
「セシール嬢」でもなかった。
「ブラック夫人」。
立場としては正しい。
礼儀としても間違いはない。
それでも、その言葉を耳にした瞬間、アランの胸はきゅっと縮んだ。
——本当に、もう戻れないのだ。
そう突きつけられた気がした。
アランは、膝の上で指を絡めるのをやめ、意識して背筋を伸ばした。
「……お久しぶりです、フロスト殿」
今の自分が、彼をどう呼ぶべきか。
迷いながらも、魔法省での呼び方をなぞるように、そう口にする。
ローランドは、微かにまぶたを伏せた。
「先ほどの試験データについては、セシール卿から詳細を伺いました。
魔法省への提出書類も、こちらの形式で問題ないと思います」
そう告げるあいだ、彼の視線はほとんどエドモンドに向けられていた。
アランが机に向かっていることを、存在としては認識している。
けれど「見る」と呼べるほどには、目を向けようとしない。
最近何度か、魔法省の廊下ですれ違いそうになった時にも、同じだった。
足音が聞こえる。
角を曲がれば顔を合わせる——そう思った瞬間、ローランドは少し遠回りの道を選ぶ。
あるいは、棚の陰に立ち止まり、ファイルを取り出すふりをして、アランが通り過ぎるのを待ってから再び歩き出す。
その意図に気づかないほど、アランは鈍くはない。
だから、自分からも近づかなかった。
すれ違うだけの距離で、見て見ぬふりをすることを、いつの間にか二人のあいだの「マナー」としてしまっていた。
——その「マナー」が、今しがた破られた。
父の研究室という逃げ場のない空間で、同じ机の前に立ち、声を交わしてしまった。
蘇る鼓動を抑え込むように、アランは足元を見つめた。
「……それでは、セシール卿。私はこれで」
必要な用件を伝え終えると、ローランドは手短にそう告げた。
エドモンドが「ご苦労だったね」と頷くと、ローランドは軽く一礼し、扉の方へと身を翻す。
その動きが、あまりにも自然で、あまりにも速かった。
この場に長く留まるつもりはない——その意志が、全身から滲んでいる。
アランは、胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
このまま扉が閉まれば、また元の「すれ違わない日々」に戻るだろう。
ローランドは、廊下でアランを避ける道を選び続ける。
アランもまた、その選択を尊重するふりをして、何も言わずに通り過ぎる。
それが、誰も傷つけないやり方だと、頭では理解している。
けれど——。
このまま、何も言わずに彼の背中を見送ることだけは、どうしてもできなかった。
椅子から立ち上がる。
自分でも驚くほど、体は迷いなく動いた。
「……フロスト殿」
声が自分のものとは思えないほどかすれていた。
ローランドの背中が、ぴたりと止まる。
振り向くまでの一瞬が、ひどく長く感じられた。
やがて、ゆっくりと、彼は振り返る。
青い瞳が、真正面からアランを捉えた。
そこにあったのは、戸惑いと警戒と——
そして押し殺した、どうしようもない感情の残り火のようなものだった。
アランは、喉の奥に砂を詰められたみたいな感覚をこらえながら、言葉を選ぶ。
「……もし、叶うのでしたら」
一度、息を吸い込んでから続ける。
「少し、お話をできたらと思うのですが」
自分の声の震えが、はっきりと分かる。
それでも目を逸らさなかった。
ローランドの指先が、かすかに動いた。
扉の取っ手に伸びかけていた手が、宙で止まる。
彼の視線が、エドモンドとアランのあいだを往復した。
エドモンドは二人を見て、何かを悟ったように眼鏡を外し、軽く咳払いをする。
「……私は、少し実験室の方を見てこよう」
そう言って、あえて何も問わず、書類の束を脇に抱えて部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
研究室には、アランとローランドの二人だけが残された。
沈黙が落ちる。
ローランドの喉元が、ごくりと動いた。
その青い瞳に宿る迷いが、アランにも伝わってくる。
立ち去るべきだと告げる理性と、立ち止まりたいと思う何かが、彼の中で静かに綱引きをしていた。
しばらくして——本当に、長い時間を経てからのように感じられた後で——ローランドは、ようやく口を開いた。
「……長くは、取れません」
それは、ぎりぎりの妥協点だった。
完全な拒絶でも、安易な受け入れでもない。
それでもアランの胸には、じわりと熱が広がっていく。
「ありがとうございます」
そう言ったとき、自分の声が少しだけ明るくなっていることに気づいて、アランは胸の奥をきゅっと掴まれたような気持ちになった。
ここから先、どんな会話が待っているのか——
それを思うと同時に、怖さと救いの両方が、静かに胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
静まり返った研究室は、いつもより広く感じられた。
扉が閉まる音が遠くなり、壁一面の棚に並ぶ薬瓶と書物たちは、淡く黄ばんだラベルをこちらに向けたまま静観している。
窓から差し込む午後の光が、机の上に積まれた羊皮紙の角を白く縁取っていた。
アランは、ローランドの正面ではなく、机を挟んで少しだけ斜めの位置に立った。
真正面に向き合ってしまえば、かえって何も言えなくなると分かっていた。
胸の奥で、何か言葉を探そうとする。
けれど、探せば探すほど、何も見つからない。
——本当は、話したいことなんて、何もないのだ。
言わなければならないことも、言うべきだったことも、もうすべて過ぎ去ってしまった。
謝罪も、後悔も、言い訳も。
どれも今さらで、どれもこの場にはふさわしくない。
それでも。
ただ、同じ空間で、同じ空気を吸っていたかった。
それだけのために、彼の背中を呼び止めたのだと、アランは自分で自分に苦笑したくなった。
「……フロスト殿は、今日は魔法省から?」
ようやく絞り出した言葉は、驚くほど他愛ないものだった。
ローランドは、少しだけ視線を逸らしてから頷いた。
「ええ。セシール卿の試験結果の確認と、書式の最終チェックを頼まれまして」
いつもの、仕事の口調。
魔法省の職員として、セシール家と関わる青年の声だった。
「魔法省でのお仕事は、お忙しいのですか?」
会話を繋ぐための問い。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、そのささやかな質問ひとつにさえ、アランの胸はひどく慎重になっていた。
昔のように、「疲れていませんか」「食事はちゃんと取れていますか」と、自然に続けることができない。
ローランドは、一拍置いてから答える。
「……そうですね。
最近は、ブラック家が関わる案件も増えていますし、セシール家の魔法薬研究も、以前よりずっと注目されるようになりましたから」
「ブラック家」という言葉を口にするとき、彼はかすかに言葉を選ぶような間を置いた。
気にしているのは、きっと自分だけではない——そう知らされる。
「フロスト殿が支えてくださっているからこそ、父も研究を続けることができております」
アランは、丁寧に言葉を紡いだ。
「魔法省の書類は複雑で……父ひとりでは手に余ることも多いですから」
「いえ。僕は、決められた形式に沿って手伝っているだけです」
ローランドは、淡々と首を振る。
「セシール卿の研究そのものは、僕には到底及ばない領分ですから。
ただ、それを魔法省で正しく扱ってもらえるように、橋渡しをしているだけです」
その言い方が、どこまでも真面目で、どこまでもローランドらしかった。
過小評価することもなく、誇張することもなく、自分の役割だけを静かに見据える。
その在り方が好きだったのだ、と胸のどこかが囁く。
——今も、変わらない。
変わったのは、自分たちの立場だけ。
「ブラック夫人は……いかがですか。ブラック家での生活には、慣れましたか」
しばらくの沈黙の後、ローランドの方から問いが投げられた。
「アラン」と呼ばないことに、彼の意図がありありと滲んでいる。
距離を測っている。
線を引いている。
すぐそばにいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、見えない透明な壁を置くようにしている。
それでも、その質問自体には誠意があった。
アランは、胸の奥をきゅっと押さえながら微笑んだ。
「……はい。ブラック家の皆様には、とてもよくしていただいております」
口から落ちる言葉は、どこまでも「正しい」ものだった。
「レギュラス様も、ヴァルブルガ様も、オリオン様も。
過分なほどに、よくしてくださいます」
それは嘘ではない。
ブラック家の人々は、政治的な意味を含めて、彼女を丁重に扱っている。
ヴァルブルガは、自分の審美眼にかなう花嫁であることを隠しもしない。
オリオンは落ち着いた口調で、時折アランに魔法界の情勢を尋ねる。
レギュラスは——。
そこまで考えたところで、アランは言葉に続く思考を静かに切り離した。
「それは、よかった」
ローランドが、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、以前アランが見てきたものと同じだった。
自分のことよりも、相手の状況に安堵する時に浮かべる、柔らかい表情。
ただ、その輪郭の外側には、見えない線が一本引かれている。
——ここから先には踏み込まない。
そう告げる境界線。
ローランドは、アランの体調を問うことはしない。
ブラック家での細かな暮らしぶりを尋ねたりもしない。
「幸せですか」といった、真ん中に触れる問いかけは、ひとつも口にしない。
他愛もない会話だけが、薄い水面の上を流れていく。
最近の魔法省の忙しさ。
新しく配属された若い職員の話。
セシール家の研究がどの国から注目されているか。
どれも、他人として話せる範囲のことばかりだ。
昔なら——。
もっと些細なことを話していた。
今日飲んだスープの味。
庭の薬草の育ち具合。
父に叱られた日の愚痴。
雨の日に転びそうになった話を、互いに笑い合ったこともある。
そんな「どうでもいいこと」が楽しくて、何時間でも話せた。
けれど今、その領域は封じられている。
アランは、笑うことを忘れないようにしながら、自分の内側が少しずつ削られていく音を聞いていた。
ふと、ローランドが息を吸い込む気配がした。
何かを言おうとして、躊躇う時の癖。
アランはその微細な前触れを、昔から知っている。
彼の青い瞳が、一瞬だけ机の上の書類を見つめ、やがて意を決したように顔を上げた。
「……先日は」
その言葉の始まりだけで、どの日のことを指しているのか、すぐに分かる。
屋敷を埋め尽くした光と音。
純白のドレスと漆黒の礼服。
祝福の拍手。
ブラック家の結婚式。
ローランドは、真っ直ぐにアランを見た。
「先日は……とても、お美しかったですよ」
静かな声だった。
感情を押し殺しているわけではない。
かと言って、溢れさせてもいない。
適切な言葉を選び取り、そのままそこに置いたような響き。
アランの心臓が、強く打った。
あの場で、彼女は一度もローランドの目を真っ直ぐ見ることができなかった。
見てしまえば、泣いてしまうと分かっていたから。
それなのに、彼は見ていた。
祭壇の上でレギュラスの隣に立つ自分を。
ブラック家の紋章の下でヴェールを被り、笑みを作る自分を。
その姿を、彼の青い瞳が捉えていた。
「……ありがとうございます」
喉がきしむような感覚の中で、アランはどうにか返事を絞り出した。
「とても……恥ずかしかったです。あれほど多くの方に見られるのは、慣れません」
それは半分だけ本当で、半分は隠した本心だった。
本当は「あなたに見られていることが、何よりも恥ずかしく、苦しく、嬉しかった」と言いたかった。
しかしその言葉は、境界線を越えてしまう。
ローランドは、小さく首を振った。
「恥ずかしがる必要はありません。
あの日、あの場にいた誰もが、ブラック夫人は今日の主役にふさわしいと思っていたはずです」
「僕も」と、言い添える代わりに、彼はごく僅かに視線を伏せる。
その仕草が、かえって雄弁だった。
——ちゃんと、祝福してくれているのだ。
アランの胸が、きゅう、と痛んだ。
彼は、自分の誠実さを曲げない。
たとえその祝福が、自分自身を切り裂くものだとしても、約束した通りに「礼を尽くす」ことを選んだ。
結婚を認めるという答えを出し、招待状に応じ、式に出席し、祝福の拍手を送った。
その延長線上に、この「とてもお美しかったですよ」がある。
彼が自らに課した線引きが、言葉の一つひとつを丁寧に整えているのが分かる。
だからこそ、余計に、苦しかった。
「……フロスト殿」
アランは、気づけば呼んでいた。
喉の奥で震える声を、何とか前に押し出す。
「はい」
ローランドの返事は短く、しかし逃げてはいなかった。
「その……」
言葉が続かない。
言いたいことが、あまりにも多すぎて、どこから手をつければいいのか分からない。
謝りたいことも、伝えたい感謝も、飲み込んできた想いも、山のように積もっているのに、それらをどう形にしていいのか分からない。
ただ、そのどれもが、今ここで口にしてはならない類のものだということだけは、痛いほど分かる。
「会いたかった」とも、「忘れられない」とも、「今でも」とも。
そのどれを言葉にしても、自分の立場はもちろん、ローランドの誠実さをも傷つけてしまう。
アランは、唇を噛みそうになるのを辛うじて堪えた。
「……お変わりなく、お過ごしでいらっしゃるようで、よかったです」
ようやく出てきた言葉は、あまりにも当たり障りのないものだった。
ローランドは、少しだけ目を細めた。
「ええ。
ブラック夫人こそ……どうか、お身体にお気をつけて」
その一言に、彼の本音が滲んでいた。
「幸せに」とは、決して言わない。
言えば、嘘になるからだ。
けれど、「どうか無事でいてほしい」という願いだけは、変わらない。
それが、彼の引いた線のぎりぎり手前に置ける、最大限の言葉だった。
アランは、胸の奥に滲む熱を飲み込みながら、そっと頭を下げた。
「ありがとうございます、フロスト殿」
研究室の時計が、どこかで静かに時を刻む音がした。
光は少し傾き、窓枠の影が長く伸びている。
同じ空間で、同じ空気を吸っている時間は、想像していたほど長くはなかった。
それでも、その短いひとときは、アランにとってどうしようもなく愛おしかった。
彼の線引きも、距離も、選んだ言葉も、そのすべてを飲み込みながら——
それでも、こうして向かい合っていられたことだけを、そっと胸の奥で抱きしめる。
やがて、ローランドは「そろそろ失礼します」と告げ、扉の方へ向き直った。
今度は、呼び止めない。
アランは、彼の背中が扉の向こうに消えていくのを、ただ静かに見送った。
扉が閉まる音が響いた後、研究室には再び、魔法薬と古い紙の匂いだけが残った。
アランは、そっと目を閉じる。
何も話さなかった。
何も話せなかった。
それでも、確かにそこにあった「同じ空気を吸う時間」の痕跡だけが、じんわりと胸の内側に沁み込んでいった。
重厚な石造りの外壁には、古い家の紋章を象った魔法灯がいくつも灯り、白金色の光が淡く揺れている。
正面階段には純白の絨毯が敷かれ、その両脇には、深い緑と黒を基調にした花々が生けられていた。
闇を思わせる黒薔薇、深い森のような緑の葉、そこに星のように散らされた銀色の小花。
ブラック家の色を、そのまま形にしたような装いだった。
大広間の扉が開かれると、さらに圧倒的な光景が広がる。
高い天井には、いくつものシャンデリアが浮かんでいた。
本物の炎と魔法の光が混じり合い、揺れる度に万華鏡のような輝きを床へと落とす。
壁には、歴代のブラック家当主たちの肖像が並び、その視線が今日の式を見守るようにこちらを見下ろしている。
床には新しく磨き上げられた黒い大理石が敷かれ、その上を歩くたび、花嫁と花婿の姿を柔らかく映し返す。
参列者もまた、この日が“特別”であることを隠しもしなかった。
魔法省の重鎮たち。
古くからの純血貴族たち。
セシール家・ブラック家と関わりの深い者たち。
人々の視線が、一方向へと自然に向かう。
祭壇代わりに用意された壇上の中央に、レギュラス・ブラックが立っていた。
漆黒の礼服に身を包み、胸元にはブラック家の紋章を模したピンが光る。
いつもの灰色の瞳は、今日に限って、どこか柔らかな光を帯びていた。
肩の力を抜いているようでいて、姿勢は完璧にまっすぐ。
「若き当主」としての姿が、そこにある。
その姿を、アランは長い通路の向こうから見つめていた。
純白のドレスは、ヴァルブルガと仕立て屋が何度も相談を重ねて選び抜いたものだった。
胸元から裾へと流れるラインは、過度な装飾を削ぎ落とし、布そのものの質と落ち感で魅せるデザイン。
腰には、深い緑のリボンが一本だけ結ばれている。
ブラック家の色と、セシール家の翡翠の瞳をどちらも象徴するような、静かな彩りだった。
ヴェールは細かなレースが縁取られ、頭上からふわりと肩を包む。
歩くたびに薄布が揺れ、その奥で翡翠の瞳が淡く光る。
両側に並ぶ参列者たちが、一斉に視線を向けた。
ささやき声が、波のように広がっては、すぐに吸い込まれていく。
——綺麗だ。
誰もがそう思っていることは、言葉にされなくても分かった。
深呼吸をひとつ。
アランは一歩、また一歩と歩みを進める。
足元の布は、魔法でわずかに浮かされているかのように軽く、転ばぬようにと注意している自分の緊張が、むしろ滑らかな所作を生んでいた。
そのたびに、白い裾が黒い大理石の床を撫でるように揺れる。
視界の先には、レギュラスだけがいる。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
どこか満足げな、誇らしげな、しかし抑えた微笑み。
自分の隣に立つ花嫁が、誰よりも美しいと、当然のように信じて疑わない男の顔。
そのまなざしを受けながら、アランは歩き続けた。
やがて、歩みは壇上の手前で止まる。
魔法界に古くから伝わる祝詞が唱えられ、杖先の淡い光が円を描くように二人の頭上を巡る。
ブラック家とセシール家の紋章が、宙で重なり合い、ひとつの光の紋章へと変わる様子を、参列者は息を呑んで見守った。
式は、完璧に進んでいた。
誓いの言葉。
魔法契約の印。
祝福の炎。
あとは、レギュラスの差し出す手を取るだけだった。
その瞬間だった。
視界の端に、ひとつの姿が映る。
黒い礼服。
淡い髪。
落ち着いた青い瞳。
ローランド・フロストが、そこにいた。
セシール家側の席の少し後ろ。
決して前に出る立場ではないが、決して外されることもない位置。
静かに背筋を伸ばし、式の一部始終を見届けている。
アランの心臓が、鋭く締め付けられた。
レギュラスの手が、目の前にある。
見慣れ始めてしまった、長くしなやかな指。
魔法省で人々を動かし、法を扱い、無数の決定を下してきた手。
何度も自分の腰を抱き寄せ、肩を撫で、頬を包んできた手。
その手を、今日、この場で正式に取る。
それがどういう意味なのかは、嫌というほど分かっている。
けれど、同時に脳裏には、別の手が浮かんだ。
少しひんやりとした、真面目な指先。
薬草の染みが残り、インクの跡が消えきらない、仕事の手。
子どもの頃、転んだ膝を庇うようにそっと支えてくれた手。
ローランド・フロストの手。
初めて自分に向けられた、ぎこちない「恋」の気配。
手を繋いだとき、互いにどこまで力を入れていいのか分からず、探り合うように握りしめたあの感触。
彼が好きだった。
物心ついた頃から、気づけばいつも視界のどこかにいた少年。
十代になってからは、会うたびに胸がざわつき、目が合えば頬が熱くなった。
誰かを「好きだ」と思う感情がどういうものか、最初に教えてくれたのは、間違いなくローランドだった。
彼と共に過ごした日々が、そのままアランの「人生」という言葉の基礎を作っていた。
彼の言葉で泣き、彼の言葉で笑い、
彼の背中を追いかけながら、自分も大人になってきたつもりだった。
彼は、自分の世界のすべてだった。
自分の一部のようだった。
その彼が今、少し離れた場所で、静かにこちらを見ている。
目が合いそうで、合わない距離。
視線を絡めてしまえば、きっと二人とも立っていられなくなると分かっている距離。
ローランドは、静かに手を打っていた。
祝福の拍手。
大袈裟ではなく、控えめでもなく、
ただ式の進行に合わせて、きちんと礼儀を尽くしている音。
その指先に、アランは見覚えがあった。
紙をめくる速さ。
ビーカーを支える時の慎重さ。
自分の頬に触れた時の、震えを隠そうとする固さ。
今、その手が、自分とレギュラスの結婚に拍手を送っている。
喉の奥に、何かが込み上げた。
涙だった。
だが、それをこぼすことはできない。
ブラック家の花嫁として、式の最中に涙を流すことは、あまりにも不格好だった。
だから、アランは泣かなかった。
その代わりに、胸の中で声にならない言葉を叫んだ。
——愛している。
ローランド・フロストを見つめながら、誰にも聞こえない声で。
本当は、彼の隣でこのドレスを着たかった。
彼と歩く未来を信じていた。
父に認めてほしいと願い、何度も一緒に手紙を書いた夜を覚えている。
すべてを、彼に渡してしまっていた。
けれど今、自分の手はレギュラスの方へ伸びていく。
大理石の床に、白い布が静かに揺れた。
祭司役の魔法使いが、定められた言葉を告げる。
「ここに、レギュラス・ブラックとアラン・ブラックの婚姻が結ばれたことを、魔法界に証する」
レギュラスの手が、アランの手を包み込む。
その瞬間、アランは、強く心の中で繰り返した。
愛している。
ローランド。
誰よりも。
誰よりも。
その叫びは、決して声にならなかった。
空気を震わせることもなかった。
ただ、胸の奥で静かに燃え上がり、
その炎が、自分の中だけを焼き尽くしていく。
レギュラスの指先が、ほんの少しだけ握力を強めた。
自分の妻となる女の、かすかな震えを感じ取ったのかもしれない。
あるいは、単に儀礼として、しっかりと手を取っただけなのかもしれない。
アランは、微笑んだ。
ブラック家の花嫁として、完璧な顔で。
ヴェールの下から覗く翡翠の瞳には、涙の光はなかった。
誰にも気づかれないまま、心の中だけで、ひとつの恋が静かに葬られていく。
祝福の拍手が、嵐のように広間を満たした。
魔法の光が天井を駆け巡り、楽団が祝いの曲を奏でる。
ローランド・フロストも、その中にいた。
変わらぬ姿勢で、変わらぬ誠実さで、
ただ静かに、二人の未来に拍手を送っていた。
アランは、その光景を胸に刻みつけながら、
レギュラスの隣へと歩み出した。
祝福の拍手が、まだ大広間のあちこちで名残のように弾んでいた。
天井近くを巡る魔法灯が、祝いの光を幾重にも反射させる。
黒い大理石の床には、純白のドレスと漆黒の礼服が並んで映り込み、シャンデリアの光と相まって、まるで一枚の絵画のような光景を作り出していた。
レギュラスは、その絵の中心に立っていた。
右隣には、アランがいる。
純白のドレスに、深い緑のリボン。
ヴェール越しに覗く翡翠の瞳。
肩まで落ちる黒髪は、いつもより丁寧に整えられ、その一本一本までが「ブラック家の花嫁」として仕立てられたかのようだった。
この女を隣に置いている事実だけで、背筋にぞくりとするほどの優越感が走る。
金も、地位も、家名も、権力も——
それらをこれまでも当然のように持ってきた男が、今日さらにその上に重ねるもの。
魔法界でも稀なほどの美貌と血統を兼ね備えた妻。
セシール家という名家の魔法薬研究を背にした、ブラック家の正妻。
レギュラスは、笑みを崩さぬまま、心の奥底で静かに震えていた。
——これで、本当に全てが揃った。
参列者たちが順に祝辞を述べ、グラスを掲げていく。
オリオンが簡潔な言葉で二人の婚姻を讃え、ヴァルブルガは滔々と、しかし誇らしげな口調で「新たなブラック家の一員」を歓迎する。
その間も、レギュラスは視線をさりげなく巡らせていた。
どの魔法省役員がどの顔で祝辞を述べているか。
どの家がどの距離感で笑みを作っているか。
誰が本心から、誰が計算から祝っているか。
そして、その中に——ローランド・フロストの姿を見つける。
淡い髪、青い瞳。
場違いなほど静かな表情で、けれど礼を欠くことなく、正面を見つめている。
祝辞のタイミングに合わせて、他の誰と同じようにグラスを掲げ、拍手を送る。
アランの視線が、そちらへ向かうであろうことも、レギュラスには分かっていた。
自分の横で微かに揺れた肩、ほんの僅かに止まりかけた呼吸。
その一つひとつが、彼女の心の軌道を雄弁に物語っている。
——いい。
胸の中は、不思議なほど静かだった。
嫉妬も、苛立ちもない。
ざわつきという感情がどこにも湧き上がってこない。
なぜなら、答えはすでに出ているからだ。
アランは、レギュラス・ブラックの隣に立っている。
ブラック家の紋章を背に、ブラック家のドレスを纏い、ブラック家の花嫁として祝福を浴びている。
ローランド・フロストは、その光景を「外側」から見ている。
静かな誠実さを湛えた顔で拍手を送りながら、自分の選ばれなかった未来にきちんと礼をしている。
その構図が、すべてだった。
勝敗は、とっくに決している。
だからこそ、レギュラスの心は静かだ。
波立つ必要がない。
ただ、噛み締めるだけでいい。
自分が勝ち取ったものの重さと、甘美さとを。
人々の視線の中心にあることは、レギュラスにとって日常に近い。
しかし今日は、その重さがいつもと違っていた。
視線は、自分ひとりではなく、隣にいるアランにも等しく注がれている。
そのことが、彼を愉悦で満たした。
この美しい女は、今日をもって正式に、魔法界に「ブラック家の妻」として受け入れられる。
セシール家の魔法薬研究は、ブラック家と共に歩むものとして扱われる。
その象徴として、アラン・ブラックがここにいる。
政治的にも、家同士の結びつきとしても、これ以上ないほど盤石な婚姻。
そしてそれが、こんなにも目を奪う姿をともなって成立している。
これ以上の満たされ方を、レギュラスは知らなかった。
ふと、ドレスの裾が揺れる。
アランが、隣でわずかに体の向きを変えた。
緊張に強張っていた背筋が、ほんの少しだけ緩んだようだった。
レギュラスは、彼女の方へ顔を向ける。
ヴェール越しに見える横顔は、どこまでも整っている。
翡翠の瞳は、涙をこらえるように微かに光っているが、それすらも華やかな場の照明に溶けて、誰も気づかない。
「アラン、本当に綺麗です」
その言葉は、芝居がかったものではなかった。
ありのままの感想として、自然に口をついて出たものだ。
アランは、瞬きを一度だけして、かすかに首を傾げる。
「……ありがとうございます、レギュラス」
声が、わずかに震えている。
その震えの理由が、自分だけではないもの——ローランドの存在や、失われた未来への痛み——を含んでいることも、レギュラスは分かっていた。
それでも、彼は何も言わない。
彼女の内側でうねる感情の全てを、今この場で塗り替える必要はない。
それは時間と共に、ゆっくりと別の形になっていくだろう。
大事なのは、今日、この瞬間。
彼女が「アラン・ブラック」として立っていることだ。
「母が選んだドレスだと言っていましたね」
レギュラスは、ふと口元を和らげた。
「……あまりにも完璧で、少し腹立たしくなるくらいです」
皮肉めいた言葉の端に、微かな誇りが滲む。
ヴァルブルガが、息子の花嫁のために選び抜いたドレス。
素材も仕立ても一級品であることはもちろん、その線の一つひとつが、アランの体つきと雰囲気を最大限に引き出している。
母の審美眼と、息子の所有欲が、珍しく完璧な形で一致していた。
アランは、少しだけ目を丸くしてから、かすかに笑った。
「ヴァルブルガ様のおかげで、こんなにも素敵なドレスを着させていただけました」
「いいえ」
レギュラスは、ゆっくりと首を横に振る。
「ドレスがあなたを綺麗にしているのではありませんよ。
あなたが着るから、このドレスはここまで完成するんです」
芝居めいた台詞だと自覚があっても、構わなかった。
今日くらい、多少の大袈裟さは許される。
何より、これは事実でもある。
この場にいるどの女を連れてきても、同じように「完璧な絵」にはならない。
ブラック家の礼服と並ぶのにふさわしいのは、この女の翡翠の瞳と黒髪なのだと、レギュラスは信じていた。
視線を少しだけ巡らせれば、ローランド・フロストの姿が再び目に入る。
青い瞳は、相変わらず静かにこちらを見ている。
その視線の先にいるのは、レギュラスであり、アランであり、そして「二人」である。
ローランドがアランに向けてきた想いも、
アランがローランドに向けてきた想いも、レギュラスは全てを奪い取ることはできない。
過去は奪えない。
けれど未来は、別だ。
これから先、アランが夜を共にし、肩を並べ、何度も何度も時間を積み重ねていく相手は、ローランドではない。
レギュラス・ブラックだ。
その確かな「これから」を思うと、胸の中にまた別の熱がゆっくりと満ちてくる。
——勝利というものは、こうして静かに味わうものだ。
誇示する必要はない。
誰かを侮辱する必要もない。
ただ、当然のように隣に立ち、当然のように手を取り、当然のように未来を語ればいい。
その当然を手にしたことが、何よりの勝利なのだから。
レギュラスは、隣のアランの手を、少しだけ強く握った。
「……これから、忙しくなりますよ」
小さな声で告げる。
「式が終われば、挨拶に回らなければなりません。
ブラック家の妻として、セシール家の娘として。
あなたを見せびらかしたい相手が、山ほどいますから」
アランは、一瞬だけ驚いたように目を瞬き、それから諦めにも似た微笑を浮かべた。
「ええ。……ご一緒に、回らせていただきます、レギュラス」
その返事を聞いて、レギュラスは満ち足りた思いで頷いた。
歓声と音楽と魔法の光に満ちた大広間で、
彼は静かに、しかし確かに、「全てを手にした男」としての甘い余韻に浸っていた。
結婚式から、いくばくかの日々が過ぎた。
あれほど荘厳で華やかな一日の後にも、ブラック家には当然のように日常が戻ってくる。
レギュラスは魔法省と屋敷を行き来し、ヴァルブルガは新たな「ブラック夫人」を社交界にどう見せるかを楽しげに思案し、オリオンは変わらぬ調子で新聞と報告書を読み続ける。
その合間に、アランもまた、以前と変わらぬ場所へと足を運ぶようになっていた。
セシール家の屋敷——父エドモンドの研究室。
その日は、午後の陽が少し傾き始めた頃だった。
セシール家の廊下に足を踏み入れた瞬間、アランは胸の奥がひそやかに震えるのを感じた。
磨き込まれた木の床、古い魔法薬の匂いが染みついた空気、ところどころに飾られた薬草標本。
幼い頃から見慣れた景色は、そのまま時間ごと封じ込められているようで、足を前に運ぶほど記憶が呼び覚まされる。
研究室の扉をノックして、返事を待つ。
「入りなさい」
父の声は、昔と同じだった。
扉を開けると、部屋の空気がふわりとまとわりついてくる。
棚には、色とりどりの薬液の瓶が並び、窓辺には乾燥中の薬草が吊るされている。
大きな机の上には、魔法省提出用の書類や、試験結果の記録、魔力値のグラフが雑然と積まれていた。
「アランか。ちょうどよかった。書式の確認を手伝ってくれないかね」
エドモンドは、眼鏡の奥から穏やかな笑みを向けた。
「はい、お父様」
アランはドレスの裾をさばきながら、机の反対側に回り込む。
ブラック家の妻として相応しい落ち着いた装いでありながら、ここでは昔のように「娘」として動きたくなる自分がいた。
父とともに資料を分類し、必要なものに目を通し、記入漏れがないかを確認していく。
魔法省とのやり取りの形式は、レギュラスから聞いている内容とも重なる部分が多く、アランにとっても理解しやすかった。
ペンを走らせていると——ふいに、扉の方から声がした。
「セシール卿、先日の試験データについて、少し確認したい点がありまして」
聞き慣れた声だった。
アランの指先が、ぴたりと止まる。
振り返らなくても誰か分かる。
長年、同じ部屋の空気を吸い、同じ廊下を歩いてきた相手の声を、忘れるはずがなかった。
「おや、フロスト君。構わんよ。こちらに」
エドモンドが快活に応じる。
扉が開く気配と共に、足音が近づいてくる。
アランは、机上の書類に視線を落としたまま、深く息を吸った。
扉の開閉。
足音。
空気の流れの変化。
顔を上げる勇気は、すぐには出なかった。
「……ブラック夫人も、ご一緒でしたか」
落ち着いた声が、少しだけ硬い調子を帯びている。
アランはようやく顔を上げた。
そこにいたローランドは、昔と変わらないようでいて、やはりどこか違っていた。
淡い髪はきちんと整えられ、青い瞳はいつも通り真面目な色を湛えている。
だが、その視線はアランの姿に一瞬だけ触れると、すぐに礼儀正しい距離へと引き戻されていった。
「……お久しぶりです、ブラック夫人」
彼はそう言った。
「アラン」ではなかった。
「セシール嬢」でもなかった。
「ブラック夫人」。
立場としては正しい。
礼儀としても間違いはない。
それでも、その言葉を耳にした瞬間、アランの胸はきゅっと縮んだ。
——本当に、もう戻れないのだ。
そう突きつけられた気がした。
アランは、膝の上で指を絡めるのをやめ、意識して背筋を伸ばした。
「……お久しぶりです、フロスト殿」
今の自分が、彼をどう呼ぶべきか。
迷いながらも、魔法省での呼び方をなぞるように、そう口にする。
ローランドは、微かにまぶたを伏せた。
「先ほどの試験データについては、セシール卿から詳細を伺いました。
魔法省への提出書類も、こちらの形式で問題ないと思います」
そう告げるあいだ、彼の視線はほとんどエドモンドに向けられていた。
アランが机に向かっていることを、存在としては認識している。
けれど「見る」と呼べるほどには、目を向けようとしない。
最近何度か、魔法省の廊下ですれ違いそうになった時にも、同じだった。
足音が聞こえる。
角を曲がれば顔を合わせる——そう思った瞬間、ローランドは少し遠回りの道を選ぶ。
あるいは、棚の陰に立ち止まり、ファイルを取り出すふりをして、アランが通り過ぎるのを待ってから再び歩き出す。
その意図に気づかないほど、アランは鈍くはない。
だから、自分からも近づかなかった。
すれ違うだけの距離で、見て見ぬふりをすることを、いつの間にか二人のあいだの「マナー」としてしまっていた。
——その「マナー」が、今しがた破られた。
父の研究室という逃げ場のない空間で、同じ机の前に立ち、声を交わしてしまった。
蘇る鼓動を抑え込むように、アランは足元を見つめた。
「……それでは、セシール卿。私はこれで」
必要な用件を伝え終えると、ローランドは手短にそう告げた。
エドモンドが「ご苦労だったね」と頷くと、ローランドは軽く一礼し、扉の方へと身を翻す。
その動きが、あまりにも自然で、あまりにも速かった。
この場に長く留まるつもりはない——その意志が、全身から滲んでいる。
アランは、胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
このまま扉が閉まれば、また元の「すれ違わない日々」に戻るだろう。
ローランドは、廊下でアランを避ける道を選び続ける。
アランもまた、その選択を尊重するふりをして、何も言わずに通り過ぎる。
それが、誰も傷つけないやり方だと、頭では理解している。
けれど——。
このまま、何も言わずに彼の背中を見送ることだけは、どうしてもできなかった。
椅子から立ち上がる。
自分でも驚くほど、体は迷いなく動いた。
「……フロスト殿」
声が自分のものとは思えないほどかすれていた。
ローランドの背中が、ぴたりと止まる。
振り向くまでの一瞬が、ひどく長く感じられた。
やがて、ゆっくりと、彼は振り返る。
青い瞳が、真正面からアランを捉えた。
そこにあったのは、戸惑いと警戒と——
そして押し殺した、どうしようもない感情の残り火のようなものだった。
アランは、喉の奥に砂を詰められたみたいな感覚をこらえながら、言葉を選ぶ。
「……もし、叶うのでしたら」
一度、息を吸い込んでから続ける。
「少し、お話をできたらと思うのですが」
自分の声の震えが、はっきりと分かる。
それでも目を逸らさなかった。
ローランドの指先が、かすかに動いた。
扉の取っ手に伸びかけていた手が、宙で止まる。
彼の視線が、エドモンドとアランのあいだを往復した。
エドモンドは二人を見て、何かを悟ったように眼鏡を外し、軽く咳払いをする。
「……私は、少し実験室の方を見てこよう」
そう言って、あえて何も問わず、書類の束を脇に抱えて部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
研究室には、アランとローランドの二人だけが残された。
沈黙が落ちる。
ローランドの喉元が、ごくりと動いた。
その青い瞳に宿る迷いが、アランにも伝わってくる。
立ち去るべきだと告げる理性と、立ち止まりたいと思う何かが、彼の中で静かに綱引きをしていた。
しばらくして——本当に、長い時間を経てからのように感じられた後で——ローランドは、ようやく口を開いた。
「……長くは、取れません」
それは、ぎりぎりの妥協点だった。
完全な拒絶でも、安易な受け入れでもない。
それでもアランの胸には、じわりと熱が広がっていく。
「ありがとうございます」
そう言ったとき、自分の声が少しだけ明るくなっていることに気づいて、アランは胸の奥をきゅっと掴まれたような気持ちになった。
ここから先、どんな会話が待っているのか——
それを思うと同時に、怖さと救いの両方が、静かに胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
静まり返った研究室は、いつもより広く感じられた。
扉が閉まる音が遠くなり、壁一面の棚に並ぶ薬瓶と書物たちは、淡く黄ばんだラベルをこちらに向けたまま静観している。
窓から差し込む午後の光が、机の上に積まれた羊皮紙の角を白く縁取っていた。
アランは、ローランドの正面ではなく、机を挟んで少しだけ斜めの位置に立った。
真正面に向き合ってしまえば、かえって何も言えなくなると分かっていた。
胸の奥で、何か言葉を探そうとする。
けれど、探せば探すほど、何も見つからない。
——本当は、話したいことなんて、何もないのだ。
言わなければならないことも、言うべきだったことも、もうすべて過ぎ去ってしまった。
謝罪も、後悔も、言い訳も。
どれも今さらで、どれもこの場にはふさわしくない。
それでも。
ただ、同じ空間で、同じ空気を吸っていたかった。
それだけのために、彼の背中を呼び止めたのだと、アランは自分で自分に苦笑したくなった。
「……フロスト殿は、今日は魔法省から?」
ようやく絞り出した言葉は、驚くほど他愛ないものだった。
ローランドは、少しだけ視線を逸らしてから頷いた。
「ええ。セシール卿の試験結果の確認と、書式の最終チェックを頼まれまして」
いつもの、仕事の口調。
魔法省の職員として、セシール家と関わる青年の声だった。
「魔法省でのお仕事は、お忙しいのですか?」
会話を繋ぐための問い。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、そのささやかな質問ひとつにさえ、アランの胸はひどく慎重になっていた。
昔のように、「疲れていませんか」「食事はちゃんと取れていますか」と、自然に続けることができない。
ローランドは、一拍置いてから答える。
「……そうですね。
最近は、ブラック家が関わる案件も増えていますし、セシール家の魔法薬研究も、以前よりずっと注目されるようになりましたから」
「ブラック家」という言葉を口にするとき、彼はかすかに言葉を選ぶような間を置いた。
気にしているのは、きっと自分だけではない——そう知らされる。
「フロスト殿が支えてくださっているからこそ、父も研究を続けることができております」
アランは、丁寧に言葉を紡いだ。
「魔法省の書類は複雑で……父ひとりでは手に余ることも多いですから」
「いえ。僕は、決められた形式に沿って手伝っているだけです」
ローランドは、淡々と首を振る。
「セシール卿の研究そのものは、僕には到底及ばない領分ですから。
ただ、それを魔法省で正しく扱ってもらえるように、橋渡しをしているだけです」
その言い方が、どこまでも真面目で、どこまでもローランドらしかった。
過小評価することもなく、誇張することもなく、自分の役割だけを静かに見据える。
その在り方が好きだったのだ、と胸のどこかが囁く。
——今も、変わらない。
変わったのは、自分たちの立場だけ。
「ブラック夫人は……いかがですか。ブラック家での生活には、慣れましたか」
しばらくの沈黙の後、ローランドの方から問いが投げられた。
「アラン」と呼ばないことに、彼の意図がありありと滲んでいる。
距離を測っている。
線を引いている。
すぐそばにいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、見えない透明な壁を置くようにしている。
それでも、その質問自体には誠意があった。
アランは、胸の奥をきゅっと押さえながら微笑んだ。
「……はい。ブラック家の皆様には、とてもよくしていただいております」
口から落ちる言葉は、どこまでも「正しい」ものだった。
「レギュラス様も、ヴァルブルガ様も、オリオン様も。
過分なほどに、よくしてくださいます」
それは嘘ではない。
ブラック家の人々は、政治的な意味を含めて、彼女を丁重に扱っている。
ヴァルブルガは、自分の審美眼にかなう花嫁であることを隠しもしない。
オリオンは落ち着いた口調で、時折アランに魔法界の情勢を尋ねる。
レギュラスは——。
そこまで考えたところで、アランは言葉に続く思考を静かに切り離した。
「それは、よかった」
ローランドが、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、以前アランが見てきたものと同じだった。
自分のことよりも、相手の状況に安堵する時に浮かべる、柔らかい表情。
ただ、その輪郭の外側には、見えない線が一本引かれている。
——ここから先には踏み込まない。
そう告げる境界線。
ローランドは、アランの体調を問うことはしない。
ブラック家での細かな暮らしぶりを尋ねたりもしない。
「幸せですか」といった、真ん中に触れる問いかけは、ひとつも口にしない。
他愛もない会話だけが、薄い水面の上を流れていく。
最近の魔法省の忙しさ。
新しく配属された若い職員の話。
セシール家の研究がどの国から注目されているか。
どれも、他人として話せる範囲のことばかりだ。
昔なら——。
もっと些細なことを話していた。
今日飲んだスープの味。
庭の薬草の育ち具合。
父に叱られた日の愚痴。
雨の日に転びそうになった話を、互いに笑い合ったこともある。
そんな「どうでもいいこと」が楽しくて、何時間でも話せた。
けれど今、その領域は封じられている。
アランは、笑うことを忘れないようにしながら、自分の内側が少しずつ削られていく音を聞いていた。
ふと、ローランドが息を吸い込む気配がした。
何かを言おうとして、躊躇う時の癖。
アランはその微細な前触れを、昔から知っている。
彼の青い瞳が、一瞬だけ机の上の書類を見つめ、やがて意を決したように顔を上げた。
「……先日は」
その言葉の始まりだけで、どの日のことを指しているのか、すぐに分かる。
屋敷を埋め尽くした光と音。
純白のドレスと漆黒の礼服。
祝福の拍手。
ブラック家の結婚式。
ローランドは、真っ直ぐにアランを見た。
「先日は……とても、お美しかったですよ」
静かな声だった。
感情を押し殺しているわけではない。
かと言って、溢れさせてもいない。
適切な言葉を選び取り、そのままそこに置いたような響き。
アランの心臓が、強く打った。
あの場で、彼女は一度もローランドの目を真っ直ぐ見ることができなかった。
見てしまえば、泣いてしまうと分かっていたから。
それなのに、彼は見ていた。
祭壇の上でレギュラスの隣に立つ自分を。
ブラック家の紋章の下でヴェールを被り、笑みを作る自分を。
その姿を、彼の青い瞳が捉えていた。
「……ありがとうございます」
喉がきしむような感覚の中で、アランはどうにか返事を絞り出した。
「とても……恥ずかしかったです。あれほど多くの方に見られるのは、慣れません」
それは半分だけ本当で、半分は隠した本心だった。
本当は「あなたに見られていることが、何よりも恥ずかしく、苦しく、嬉しかった」と言いたかった。
しかしその言葉は、境界線を越えてしまう。
ローランドは、小さく首を振った。
「恥ずかしがる必要はありません。
あの日、あの場にいた誰もが、ブラック夫人は今日の主役にふさわしいと思っていたはずです」
「僕も」と、言い添える代わりに、彼はごく僅かに視線を伏せる。
その仕草が、かえって雄弁だった。
——ちゃんと、祝福してくれているのだ。
アランの胸が、きゅう、と痛んだ。
彼は、自分の誠実さを曲げない。
たとえその祝福が、自分自身を切り裂くものだとしても、約束した通りに「礼を尽くす」ことを選んだ。
結婚を認めるという答えを出し、招待状に応じ、式に出席し、祝福の拍手を送った。
その延長線上に、この「とてもお美しかったですよ」がある。
彼が自らに課した線引きが、言葉の一つひとつを丁寧に整えているのが分かる。
だからこそ、余計に、苦しかった。
「……フロスト殿」
アランは、気づけば呼んでいた。
喉の奥で震える声を、何とか前に押し出す。
「はい」
ローランドの返事は短く、しかし逃げてはいなかった。
「その……」
言葉が続かない。
言いたいことが、あまりにも多すぎて、どこから手をつければいいのか分からない。
謝りたいことも、伝えたい感謝も、飲み込んできた想いも、山のように積もっているのに、それらをどう形にしていいのか分からない。
ただ、そのどれもが、今ここで口にしてはならない類のものだということだけは、痛いほど分かる。
「会いたかった」とも、「忘れられない」とも、「今でも」とも。
そのどれを言葉にしても、自分の立場はもちろん、ローランドの誠実さをも傷つけてしまう。
アランは、唇を噛みそうになるのを辛うじて堪えた。
「……お変わりなく、お過ごしでいらっしゃるようで、よかったです」
ようやく出てきた言葉は、あまりにも当たり障りのないものだった。
ローランドは、少しだけ目を細めた。
「ええ。
ブラック夫人こそ……どうか、お身体にお気をつけて」
その一言に、彼の本音が滲んでいた。
「幸せに」とは、決して言わない。
言えば、嘘になるからだ。
けれど、「どうか無事でいてほしい」という願いだけは、変わらない。
それが、彼の引いた線のぎりぎり手前に置ける、最大限の言葉だった。
アランは、胸の奥に滲む熱を飲み込みながら、そっと頭を下げた。
「ありがとうございます、フロスト殿」
研究室の時計が、どこかで静かに時を刻む音がした。
光は少し傾き、窓枠の影が長く伸びている。
同じ空間で、同じ空気を吸っている時間は、想像していたほど長くはなかった。
それでも、その短いひとときは、アランにとってどうしようもなく愛おしかった。
彼の線引きも、距離も、選んだ言葉も、そのすべてを飲み込みながら——
それでも、こうして向かい合っていられたことだけを、そっと胸の奥で抱きしめる。
やがて、ローランドは「そろそろ失礼します」と告げ、扉の方へ向き直った。
今度は、呼び止めない。
アランは、彼の背中が扉の向こうに消えていくのを、ただ静かに見送った。
扉が閉まる音が響いた後、研究室には再び、魔法薬と古い紙の匂いだけが残った。
アランは、そっと目を閉じる。
何も話さなかった。
何も話せなかった。
それでも、確かにそこにあった「同じ空気を吸う時間」の痕跡だけが、じんわりと胸の内側に沁み込んでいった。
