1章
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その朝の魔法新聞は、いつもより少しだけ分厚かった。
一面の見出しは、戦況や法案の話題ではない。
大きく紙面を飾っていたのは、昨夜ノット家で開かれた宴のことだった。
──「ブラック家とセシール家の新たな結びつき」
見出しの下に、動く写真が載っている。
灰色の瞳を持つ若き魔法省役員、レギュラス・ブラック。
その腕にそっと手を添えて立つ、翡翠の瞳の妻、アラン・ブラック。
深く澄んだ緑のドレスが、彼女の瞳の色を拾い上げ、動く写真の中でも揺れるたびに光を変えている。
レギュラスがふと何かを耳打ちすると、アランはごく控えめに微笑み、その唇の動きに合わせて、会場の光まで柔らかく見えるようだった。
ローランド・フロストは、その写真を視線でなぞりながら、ゆっくりとページを指で押さえた。
場所は魔法省の休憩室だった。
まだ朝の始業には少し早い時間帯で、室内には数人の職員がいるだけだ。
誰かがコーヒーを淹れる音、紙コップを捨てる小さな音、椅子が床を擦るかすかな響き。
ローランドは窓際の席にひとり腰掛け、新聞を広げていた。
胸の奥で、何かがきゅう、と強く縮む。
視線を逸らせばいい。
記事を畳んで、いつものように仕事の書類に目を通せばいい。
そう分かっていながら、動く写真の中で揺れる翡翠の瞳から、どうしても目を離せなかった。
記事は、華やかだった。
ノット家主宰の宴における、純血貴族たちの顔ぶれ。
魔法省の重鎮たちの名が並び、その中でひときわ紙面を割かれているのが、ブラック家の若夫婦の姿だった。
──「魔法省の若き俊英、レギュラス・ブラック。
その隣には、セシール家の宝石とも呼ばれた一人娘、アラン・ブラックの姿があった。
二人が並び立つ光景は、まさに新たな時代の象徴と言って良いだろう」
文字が、淡々と評価を綴っていく。
過剰すぎない賛辞の連なりは、それだけにかえって現実味を帯びて胸に刺さった。
動く写真の中で、アランがゆっくりと誰かに礼をしている。
スカートの裾をつまみ、首を傾ける角度まで、見慣れた所作だった。
ローランドは、その姿を知っている。
幼い頃にはぎこちなかった礼が、十代の半ばには滑らかに、美しく変わっていったことを覚えている。
──本当に、綺麗になったな。
そう思うと同時に、喉の奥に苦味がせり上がった。
記事の後半には、噂話に触れる一節もあった。
──「一部では、かつてセシール家とフロスト家のあいだに婚約の噂もあったが──
今回の婚姻によって、その話は完全に霧散したと言える。
ブラック家とセシール家という、より大きな力と力の結びつきが選ばれたことは、
魔法界にとっても自然な流れだろう」
そこには名が出てはいない。
「誰」とは書かれていない。
けれど、ローランドには、まるで自分の名が紙面に刻まれているかのように読めた。
霧散。
自然な流れ。
冷静な語彙が、やけに冷たい。
──自然な、流れ…。
確かにそうなのだろう、と頭では理解している。
ブラック家とセシール家。
名門と名門。
魔法薬の名家と、政治の中心にいる家。
フロスト家は、純血ではあっても、そこまでの影響力を持つ家ではない。
仕事ぶりには誇りがあるが、国の枠組みを動かすような力は持たない。
アランの父が、セシール家が、ブラック家との婚姻を選んだことを、責めることはできない。
自分自身もまた、その決定を否定しなかった側の人間だ。
──元気で。
最後の手紙に書いた言葉が、胸の中で静かに滲んでくる。
何度も書き直した末に、余計な言葉を削り落として残した、たった数文字。
「待っていてほしい」とも、
「諦めたくない」とも、
「ブラック家などに渡したくない」とも書かなかった。
書けなかった。
あの時、自分にできると信じた「誠実さ」は、彼女の決断も、セシール家の判断も、ブラック家の提示した条件も、すべて飲み込んだうえで、その先の彼女の幸福を祈ることだった。
そのはずだったのに。
紙面に踊る「霧散」という言葉は、まるで、自分たちの過去の全てを煙のようなものとして片づけてしまう。
そんなはずはない、と心のどこかが抗う。
あの日々は、確かにあった。
彼女の父の研究室の廊下で並んで歩いた帰り道も、
窓辺で肩を並べて本を読んだ午後も、
手のひらをにぎった時の微かな汗の感触も。
全部、霧ではなかったはずだ。
新聞の紙面が、軽く震えた。
自分の指先が震えているのだと気づき、ローランドは慌ててグラス——ではなく、紙から手を離した。
「フロスト、お前も見たか?」
背後から声がかかった。
同僚の若い職員が、別の新聞を片手に笑っている。
「ブラック様の昨夜の記事だよ。すごいな、あの奥方。あんな美人がこの国に隠れてたなんて誰も知らなかったらしい」
ローランドは、表情だけを整えて振り返った。
「……ああ。今、読んでいたところだ」
「いやぁ、うちの局なんて、一面の端っこに名前がちょっと載るくらいなのにさ。
ブラック様は違うよな。記事を読んでると、本当に“時代の顔”って感じがする」
同僚は悪気なく笑い、写真を覗き込んでいる。
「この奥方、前に噂のあったセシール嬢だろ?
フロスト家と婚約の話があったって……あれ、やっぱり本当だったのか?」
ローランドは、ほんの一瞬だけ呼吸を止めてから、静かに首を振った。
「噂は噂だ」
それ以上、何も言わない。
同僚はそれ以上深追いせず、「だよな」と笑って肩をすくめた。
「まぁ、どちらにしても、ブラック様の隣が似合う人でよかったよ。見てて絵になるもんな」
そう言って、軽い足取りで休憩室を出ていく。
残された空間に、新聞の擦れる音と時計の針の音だけが戻ってきた。
ローランドは、もう一度だけ一面の写真を見た。
レギュラスとアラン。
並んだ姿は、確かに「絵」になっている。
政治と魔法薬。
灰色と翡翠色。
ブラック家とセシール家。
観る者にとっては、美しく整った構図だ。
アランの横顔は、穏やかだった。
無理をしているようには見えない。
緊張はしているだろうが、少なくとも写真の中の彼女は、礼を失わず、微笑みを崩さず、その場の空気の一部になっている。
──元気でいるのなら、いい。
そう思おうとする。
胸を締めつけている手をゆっくりとほどいて、代わりにそこへ「安堵」という名の布を掛けようとするように。
けれど、そのたびに別の想いが顔を出す。
自分の知らないドレス。
自分の知らない表情。
自分の知らない夜会。
自分の知らない「アラン・ブラック」としての彼女。
ローランドは、新聞を静かに畳んだ。
折り目を乱さないように、丁寧に端を揃え、テーブルの端に置く。
誰かが持っていくだろう。
あるいは回覧に回されるかもしれない。
そのどちらでもいい。
立ち上がると、窓の外に一瞬だけ視線を投げた。
曇りかけた冬の空が広がっている。
街路の上を飛ぶフクロウたちが、小さな点になって遠ざかっていくのが見えた。
──元気で。
あの日、インクで書いた言葉が、今は自分に返ってくる。
彼女のために願ったはずの言葉を、今度は自分自身の胸に向かって投げかけるような気持ちだった。
元気でいなければならない。
仕事を続け、家の名を守り、日々をきちんと積み重ねること。
それが、唯一、自分に残された「誠実さ」だと信じるしかなかった。
ローランドは、何もない顔で休憩室を出ていく。
新聞の一面では、まだレギュラスとアランが並んで微笑んでいる。
インクで刷られた二人の姿が、今日一日、多くの魔法使いたちの目に触れることになるのだと知りながら。
彼はその光景から目を背け、いつものように魔法省の廊下を歩き出した。
ブラック家の朝は、いつも静かに始まる。
長い廊下に敷かれた絨毯の上を、アランは一定の歩幅で進んでいた。
手には、ヴァルブルガのために用意されたお茶の盆。
すれ違う使用人たちは、以前ほど彼女の顔色をうかがうような視線を向けてはこない。
「奥方」として、ここにいることが当たり前になって久しい証だった。
途中、書斎の前を通りかかると、扉の隙間から声が漏れ聞こえてくる。
「……では、今月中に報告書をまとめてください。魔法薬試験の件は、セシール卿の研究に関わる部分でもありますから」
低く、よく通る声。
レギュラスだった。
返事をしているのは、魔法省からの使いだろうか。
エドモンド・セシールの名が出た瞬間、アランの足がほんのわずかに止まりかける。
けれど、盆を持ち替えるようにして、そのまま歩き出した。
それからほどなくして、午前中の用事を終えたアランは、自室に戻る途中でレギュラスに呼び止められた。
「アラン」
振り向くと、廊下の曲がり角にレギュラスが立っていた。
灰色の瞳が静かに彼女を捉える。
「今日は午後から、魔法省に同行してください」
それは、疑問をはさむ余地のない言い方だった。
確認でも相談でもない。
ただ、決定事項として告げられる。
以前なら、一瞬でも戸惑いが顔をかすめていただろう。
魔法省。その場所は、ローランド・フロストとすれ違う可能性がある場所でもある。
心がざわつき、喉が乾き、言葉を探して視線をさまよわせたはずだ。
けれど、今は違った。
「分かりました」
アランはごく自然に頷いた。
グラスを持つのと同じくらいの当たり前さで、服の裾を軽く摘み上げて礼をし、午後の予定を書き換える。
有無を言わせない命令形。
そこに込められる圧は、相変わらず強い。
けれど、それに対して胸の奥で波打っていた戸惑いや反発は、いつの間にか、ほとんど顔を出さなくなっていた。
言われた通りに動き、求められれば受け入れる。
そういう在り方に、自分が慣れてしまっていることを、アランはどこか他人事のように自覚していた。
午後、馬車の中。
レギュラスと向かい合うように座り、アランは窓の外に流れていく街並みを眺めていた。
魔法省へ向かう道のりは、何度か通ううちに、景色の変化まで覚えてしまうほどになっている。
「セシール卿の資料は、先日お送りした分を元に会議が進むはずです」
レギュラスが、ふと口を開いた。
「あなたのご実家の研究は、今後ますます国にとって重要になります。
魔法省としても、軽んじるつもりは一切ありませんよ」
アランは、膝の上で両手を組んだまま、静かに耳を傾ける。
「父も……きっと、喜びますわ」
それは、嘘ではなかった。
エドモンド・セシールの研究に対して、レギュラスは常に敬意を示した。
上から目線の恩着せがましさではなく、「必要なものを必要なだけ支える」という実務的な姿勢で。
魔法薬の専門用語を覚えようとし、会議の議事録に自分なりの注釈を書き込み、少しでも研究の本質を理解しようとするところも見てきた。
アランの中で、その姿勢は素直に「良いところ」だと認識されるようになっていた。
父の研究を真剣に扱ってくれること。
雑音として切り捨てず、政治の言葉に翻訳して前に進めようとすること。
そういう部分に対しては、感謝すら覚えている。
馬車が石畳を揺らしながら進むあいだ、アランはふと視線を落とした。
指先に、微かな違和感がある。
——以前なら、ここまで従順に頷く自分に驚いていたかもしれない。
レギュラスの命令形の言葉は、最初、刃物のように感じられた。
「今から来てください」「こちらに」「今夜は」——
選択肢を前もって刈り取られてしまうような強さがあった。
だが、何度も繰り返されるうちに、その鋭さは形を変えていく。
刃物は刃物のままだが、こちらの皮膚の方が硬くなっていくような感覚。
初めて触れたときには血が滲んだものが、今ではただの圧力としてしか感じなくなる。
「はい」と答えることも。
求められれば寝台に行くことも。
腕を求められれば寄り添うことも。
そうした一つ一つのことに対して、戸惑いや困惑を抱く時間は、次第に削られていった。
思うところが、本当に何もないわけではない。
時折、胸の奥から小さな問いが浮かび上がることはある。
——ここまで従うことが、本当に自分の望みだったのか。
——他の生き方は、もう選べないのか。
けれど、その問いは深くなる前に、日々の用事や、寝室の灯りや、朝食の席の会話に紛れていく。
「考えること」を後回しにし続けるうちに、やがてそれは、「特に何も思わない」という形に落ち着いてしまった。
魔法省に着き、レギュラスと共に廊下を歩く。
そこでは、ローランド・フロストの姿を目にすることが、時折あった。
視線がかすめるほどの距離で、すれ違う。
会釈を交わすこともあれば、互いに何も言わずに通り過ぎることもある。
ある時、階段の踊り場から見下ろした先に、同僚と書類を抱えたローランドの姿が見えた。
真面目な横顔で、相手の説明に前のめりに耳を傾けている。
その一瞬だけ、アランの心臓は痛む。
けれど、その隣を歩くレギュラスの歩調は、変わらない。
彼は決して、ローランド・フロストの名を軽々しく口にしない。
誰かが噂話めいたことを言おうとしたときには、必ず間に入ってさりげなく話題を変える。
あるいは、先日の夜会のように、きっぱりと釘を刺す。
「フロスト殿は誠実な男です」と言ったあの声は、決して演技ではなかった。
アランは、それを知っている。
だからこそ、彼を完全に嫌いになることができない。
その日の用件を終え、再び馬車で屋敷に戻る道すがら。
夕暮れの光が窓から差し込み、レギュラスの横顔をやわらかく照らしていた。
灰色の瞳は伏せられ、書類に走らせていた視線がふと止まる。
「……セシール卿の新しい試作品の件。今度、あなたの意見も聞かせてください」
レギュラスが書類を閉じて言う。
「専門的なことは、僕よりもあなたの方がずっと分かっているでしょう。
父娘の視点は、貴重です」
「……そう、でしょうか」
アランは、ゆっくりと答えた。
「父のやり方は、古いと言われることもあります。
でも、あの人は、いつも患者を第一に考えておりますから……」
「だからこそ、です」
レギュラスはきっぱりと言った。
「古い方法がすべて悪いわけではない。
伝統と安全性を守りながら、新しいものを取り入れていくこと。
それが、政治の側に立つ者の役割です」
その言葉に、わずかに胸が温かくなる。
父の研究を笑う者は少なくない。
古い、時代遅れだ、効率が悪いと切り捨てる者もいる。
けれどレギュラスは、一度としてそうした物言いをしなかった。
むしろ、エドモンドの研究の根底にある倫理を汲み取ろうとし、それを法や制度にどう反映させるかを考え続けている。
——この男の、こういうところは。
アランは、ふと窓の外に視線を向けた。
沈みかけた陽が、街の屋根を赤く染めていく。
ローランド・フロストを決して悪く言わないところ。
セシール家の研究に、どこまでも敬意を示そうとするところ。
そうした部分だけを切り取れば、この男は、誇り高く正しい「誰かの味方」であろうとしているようにも見えた。
その「誰か」に、自分や父が含まれていることも、分かっている。
だからこそ余計に、複雑だった。
自分の望んだ未来を摘み取った手で、
自分の大切なものを守ろうとする姿勢を見せられること。
そこに、感謝と、諦めと、淡い信頼と、言葉にしきれない痛みが絡み合っていく。
「……分かりました。父の研究について、私に分かる範囲なら、お話しします」
そう告げる声は、不思議と静かだった。
有無を言わせない命令に従うことにも、
彼の良さを見つけてしまうことにも。
もはや、戸惑いも困惑もない。
ただ、日々の流れの中で淡々と積み重ねられていく「選択の結果」として、
アランは今日も、レギュラスの隣に座り、その言葉に頷いていた。
式の日取りは、驚くほど滞りなく決まっていった。
場所はもちろんブラック家の大広間。
季節は花が咲き揃い、外の庭園も祝福の色で満ちる頃。
オリオンもヴァルブルガも、その選択に満足そうに頷き、必要な手配について使用人たちに次々と指示を飛ばしていった。
その日の午後、応接室には二人分の茶器と、分厚い羊皮紙の束が並べられていた。
セシール家・ブラック家双方の縁戚や、政界の顔ぶれ、魔法薬関係者、古くからの友人たちの名前が列挙されている。
そこから誰をどの程度招くのか、具体的な人数を詰めるのが、今日の仕事だった。
窓から差し込む光が、羊皮紙の上をなめるように広がっていた。
書斎より少し柔らかな雰囲気を持つこの部屋も、最近はアランの「仕事場」のひとつになりつつある。
テーブルの向こう側で、レギュラスが一枚の名簿に目を通していた。
頬杖をつくでもなく、姿勢は終始整っている。
灰色の瞳だけが、静かに行をなぞっていた。
「こちらは、父と母の方で人数のあたりは付けています」
レギュラスが、ブラック家側の名簿をひらりと持ち上げた。
「問題は、セシール家側ですね。
縁戚の方々、魔法薬関連の方々……それから、古くからお付き合いのある家々」
「そう、ですね」
アランは、セシール家側の名簿に目を落とす。
そこには馴染みのある家名がいくつも並んでいた。
子どもの頃、父に連れられて挨拶に行った家。
魔法薬の共同研究で名前を聞き慣れている錬金術師たち。
そして——
視線が、とある一行の上で止まった。
「フロスト家」
インクの色は、他と変わらない。
書体も、そこにある家々のひとつに過ぎないという顔をしている。
けれど、アランの胸の奥では、まるでそこだけ別の色を帯びているかのように浮き上がって見えた。
言葉にするより早く、指先がその行の端を押さえていた。
レギュラスの視線が、自然な流れでその指先を追う。
紙面に刻まれた家名と、わずかに固くなったアランの手。
その両方を一度に捉え、彼は小さく息を吐いた。
「……フロスト殿は」
羊皮紙をテーブルに戻しながら、レギュラスは何でもないことのように口を開いた。
「呼ばれます?」
何気ない調子だった。
感情を込めているわけでもなく、試すような響きもない。
ただ、セシール家と長く交流のあった家の一つとして、ごく当然の候補を挙げただけ——そんな声音。
けれど、その問い一つで、アランの全身はぴたりと固まった。
胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる。
ローランド・フロスト。
父の研究室の廊下を並んで歩いた少年は、今や魔法省で働く一人前の男になっている。
それでも、アランにとっての彼は、あの庭で笑った横顔のまま、どこかで時を止めていた。
十代の半ば、父の背を追う彼の横顔を見ながら、自分の隣に立つ姿を思い描いたことが何度あっただろう。
いつか、白いドレスを着る日が来たなら、その隣にいるのはローランドだと信じていた。
父と母に祝福され、互いの手を取り合って歩む未来を、疑いもなく「当然」のように思っていた。
その「いつか」は、今、目の前にある。
ただし、隣に立つのはローランドではない。
——レギュラス・ブラックの妻として、そのドレスを着る。
夢見ていた「場所」に、全く違う男と立つ自分を、ローランドに見せることになるのだろうか。
胸が、苦しくなる。
息を吸い込もうとしても、どこかで空気がせき止められてしまうような感覚。
アランは、指先に力を込めたまま、何も答えられなかった。
沈黙は、長くは保てない。
ほんの数秒、それでも彼女には永い時間のように思えた間を置いて、レギュラスが静かに口を開いた。
「……呼ぶのが礼儀でしょうね」
淡々とした声だった。
「セシール家とフロスト家は、長く交流があった。
魔法薬の研究においても、多くの場面で支え合ってきた」
アランの瞳が、揺れる。
その「交流」の中には、間違いなく、自分とローランドが積み重ねてきた時間も含まれている。
二つの家の距離が近かったからこそ育まれたものを、「霧散した」と新聞は書いたが、積み上がった記憶が消えるわけではない。
「その歴史を考えれば、フロスト家に招待状を出さないという選択肢は、あまりにも不自然です」
レギュラスは、羊皮紙の端を軽く叩いた。
「出席の有無は問いません。
来るか来ないか、決めるのはフロスト殿と、そのご家族です。
ですが——」
そこで、灰色の瞳がアランを捉える。
「招待状は、出しましょう」
言い切る声音には、揺らぎがなかった。
アランは、唇をかすかに動かした。
「……レギュラス」
声が震える。
彼の名を呼ぶだけで、胸の奥の痛みが増す気がした。
「私……」
言葉が続かない。
フロスト家を招くことが礼儀だという理屈は、理解できる。
むしろ、分かりすぎるほど分かっている。
セシール家の娘として育てられてきた年月は、そうした「筋」を最優先する価値観を、彼女の中にも育てていた。
だからこそ、その礼儀を守ることが、自分の心を抉る行為になるとしても、それを否定しきれない。
アランのまつげが、静かに震えた。
目の奥に溜まるものを、必死に堪える。
レギュラスは、彼女の揺れを見逃さなかった。
しかし、「やめましょう」とは言わない。
代わりに、少しだけ声音をやわらげた。
「あなたが、彼の隣でドレスを着ることを夢見ていたのだということは」
淡々とした言葉の中に、ごくわずかに湿り気を帯びた響きが混じる。
「想像はできます」
アランの瞳が、大きく見開かれた。
レギュラスは、彼女の反応から目を逸らさなかった。
「僕はあなたの心の中に、どれだけフロスト殿がいたのかも、だいたい察しているつもりです。
セシール家の廊下で、何度もすれ違いましたからね」
記憶の中の光景が蘇る。
父の研究室の前を通るたび、並んで何かを運んでいる二人の姿。
書類を抱えたローランドと、材料の瓶を抱えたアラン。
「だからこそ、です」
レギュラスは、指先でペンを取った。
「あなたの過去も、セシール家とフロスト家の歴史も、すべて無かったことにはしない」
インク壺にペン先を浸し、さらりと余分な滴を落とす。
「そのうえで、今のあなたが僕の隣にいるという事実を、きちんと示すべきだと、僕は思います」
そこには、残酷さと誠実さが、奇妙な形で同居していた。
アランは、言葉を失ったまま、レギュラスの手元を見つめていた。
羊皮紙の「フロスト家」の行に、レギュラスが小さく印をつける。
招待客リストの中で、それは正式に「招くべき家」のひとつとして確定される印だった。
「……フロスト家への招待状には、僕からも一筆添えましょう」
ペンを置きながら、レギュラスは静かに告げた。
「セシール家への長年のご厚誼に対する謝意と、今後も変わらぬ友誼を願う旨を。
そして、アラン・セシール……いや、アラン・ブラックと僕との婚姻を、どうか祝福してほしいと」
その言葉に、アランの胸がずきりと痛んだ。
祝福。
ローランド・フロストに、自分とレギュラスの婚姻を祝福してほしいと願うことになる。
招待状は、その願いを半ば強いるようなものだ。
それでも、レギュラスは変わらずに言葉を重ねる。
「フロスト殿は、誠実な男です。
彼ならきっと、どんな形であれ、自分なりの礼を尽くしてくれるでしょう」
決して、彼を貶める言い方はしない。
むしろ、その誠実さを認めたうえで、その誠実さをもって「選ばれなかった未来」を受け止める役割を、彼に課そうとしているようにさえ見えた。
アランは、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで冷たい空気を押し込み、ゆっくりと吐き出す。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
声はかすかに震えていたが、それでもはっきりと聞こえた。
自分の夢見ていた白いドレスは、ローランドの隣ではなく、レギュラスの隣で着る。
その事実を、フロスト家にも、ローランド自身にも知らせることになる。
それが礼儀であり、セシール家の娘としての責務であり、
アラン・ブラックとして選んだ道の、揺るぎない結果でもあった。
レギュラスは、満足げにも哀れみ深くも見えない表情で、ただ静かに頷いた。
「では、フロスト家には、正式な招待状を。
返信がどうであれ、その判断を尊重しましょう」
窓から差し込む光が、テーブルの上の羊皮紙を照らす。
インクで書かれた「フロスト家」の文字が、淡い影を落としていた。
アランは、その影を見つめながら、自分の胸の内にも似たような影が伸びていることを、はっきりと自覚していた。
——いつか、別の形で終わるはずだった物語が、
思いもしなかった形で幕を閉じようとしている。
その幕引きの場に、自らの手で招待状を送ることになるのだと理解しながら、
アランは静かにペンを取り、フロスト家の行に、自分の筆跡でも小さく印を重ねた。
一面の見出しは、戦況や法案の話題ではない。
大きく紙面を飾っていたのは、昨夜ノット家で開かれた宴のことだった。
──「ブラック家とセシール家の新たな結びつき」
見出しの下に、動く写真が載っている。
灰色の瞳を持つ若き魔法省役員、レギュラス・ブラック。
その腕にそっと手を添えて立つ、翡翠の瞳の妻、アラン・ブラック。
深く澄んだ緑のドレスが、彼女の瞳の色を拾い上げ、動く写真の中でも揺れるたびに光を変えている。
レギュラスがふと何かを耳打ちすると、アランはごく控えめに微笑み、その唇の動きに合わせて、会場の光まで柔らかく見えるようだった。
ローランド・フロストは、その写真を視線でなぞりながら、ゆっくりとページを指で押さえた。
場所は魔法省の休憩室だった。
まだ朝の始業には少し早い時間帯で、室内には数人の職員がいるだけだ。
誰かがコーヒーを淹れる音、紙コップを捨てる小さな音、椅子が床を擦るかすかな響き。
ローランドは窓際の席にひとり腰掛け、新聞を広げていた。
胸の奥で、何かがきゅう、と強く縮む。
視線を逸らせばいい。
記事を畳んで、いつものように仕事の書類に目を通せばいい。
そう分かっていながら、動く写真の中で揺れる翡翠の瞳から、どうしても目を離せなかった。
記事は、華やかだった。
ノット家主宰の宴における、純血貴族たちの顔ぶれ。
魔法省の重鎮たちの名が並び、その中でひときわ紙面を割かれているのが、ブラック家の若夫婦の姿だった。
──「魔法省の若き俊英、レギュラス・ブラック。
その隣には、セシール家の宝石とも呼ばれた一人娘、アラン・ブラックの姿があった。
二人が並び立つ光景は、まさに新たな時代の象徴と言って良いだろう」
文字が、淡々と評価を綴っていく。
過剰すぎない賛辞の連なりは、それだけにかえって現実味を帯びて胸に刺さった。
動く写真の中で、アランがゆっくりと誰かに礼をしている。
スカートの裾をつまみ、首を傾ける角度まで、見慣れた所作だった。
ローランドは、その姿を知っている。
幼い頃にはぎこちなかった礼が、十代の半ばには滑らかに、美しく変わっていったことを覚えている。
──本当に、綺麗になったな。
そう思うと同時に、喉の奥に苦味がせり上がった。
記事の後半には、噂話に触れる一節もあった。
──「一部では、かつてセシール家とフロスト家のあいだに婚約の噂もあったが──
今回の婚姻によって、その話は完全に霧散したと言える。
ブラック家とセシール家という、より大きな力と力の結びつきが選ばれたことは、
魔法界にとっても自然な流れだろう」
そこには名が出てはいない。
「誰」とは書かれていない。
けれど、ローランドには、まるで自分の名が紙面に刻まれているかのように読めた。
霧散。
自然な流れ。
冷静な語彙が、やけに冷たい。
──自然な、流れ…。
確かにそうなのだろう、と頭では理解している。
ブラック家とセシール家。
名門と名門。
魔法薬の名家と、政治の中心にいる家。
フロスト家は、純血ではあっても、そこまでの影響力を持つ家ではない。
仕事ぶりには誇りがあるが、国の枠組みを動かすような力は持たない。
アランの父が、セシール家が、ブラック家との婚姻を選んだことを、責めることはできない。
自分自身もまた、その決定を否定しなかった側の人間だ。
──元気で。
最後の手紙に書いた言葉が、胸の中で静かに滲んでくる。
何度も書き直した末に、余計な言葉を削り落として残した、たった数文字。
「待っていてほしい」とも、
「諦めたくない」とも、
「ブラック家などに渡したくない」とも書かなかった。
書けなかった。
あの時、自分にできると信じた「誠実さ」は、彼女の決断も、セシール家の判断も、ブラック家の提示した条件も、すべて飲み込んだうえで、その先の彼女の幸福を祈ることだった。
そのはずだったのに。
紙面に踊る「霧散」という言葉は、まるで、自分たちの過去の全てを煙のようなものとして片づけてしまう。
そんなはずはない、と心のどこかが抗う。
あの日々は、確かにあった。
彼女の父の研究室の廊下で並んで歩いた帰り道も、
窓辺で肩を並べて本を読んだ午後も、
手のひらをにぎった時の微かな汗の感触も。
全部、霧ではなかったはずだ。
新聞の紙面が、軽く震えた。
自分の指先が震えているのだと気づき、ローランドは慌ててグラス——ではなく、紙から手を離した。
「フロスト、お前も見たか?」
背後から声がかかった。
同僚の若い職員が、別の新聞を片手に笑っている。
「ブラック様の昨夜の記事だよ。すごいな、あの奥方。あんな美人がこの国に隠れてたなんて誰も知らなかったらしい」
ローランドは、表情だけを整えて振り返った。
「……ああ。今、読んでいたところだ」
「いやぁ、うちの局なんて、一面の端っこに名前がちょっと載るくらいなのにさ。
ブラック様は違うよな。記事を読んでると、本当に“時代の顔”って感じがする」
同僚は悪気なく笑い、写真を覗き込んでいる。
「この奥方、前に噂のあったセシール嬢だろ?
フロスト家と婚約の話があったって……あれ、やっぱり本当だったのか?」
ローランドは、ほんの一瞬だけ呼吸を止めてから、静かに首を振った。
「噂は噂だ」
それ以上、何も言わない。
同僚はそれ以上深追いせず、「だよな」と笑って肩をすくめた。
「まぁ、どちらにしても、ブラック様の隣が似合う人でよかったよ。見てて絵になるもんな」
そう言って、軽い足取りで休憩室を出ていく。
残された空間に、新聞の擦れる音と時計の針の音だけが戻ってきた。
ローランドは、もう一度だけ一面の写真を見た。
レギュラスとアラン。
並んだ姿は、確かに「絵」になっている。
政治と魔法薬。
灰色と翡翠色。
ブラック家とセシール家。
観る者にとっては、美しく整った構図だ。
アランの横顔は、穏やかだった。
無理をしているようには見えない。
緊張はしているだろうが、少なくとも写真の中の彼女は、礼を失わず、微笑みを崩さず、その場の空気の一部になっている。
──元気でいるのなら、いい。
そう思おうとする。
胸を締めつけている手をゆっくりとほどいて、代わりにそこへ「安堵」という名の布を掛けようとするように。
けれど、そのたびに別の想いが顔を出す。
自分の知らないドレス。
自分の知らない表情。
自分の知らない夜会。
自分の知らない「アラン・ブラック」としての彼女。
ローランドは、新聞を静かに畳んだ。
折り目を乱さないように、丁寧に端を揃え、テーブルの端に置く。
誰かが持っていくだろう。
あるいは回覧に回されるかもしれない。
そのどちらでもいい。
立ち上がると、窓の外に一瞬だけ視線を投げた。
曇りかけた冬の空が広がっている。
街路の上を飛ぶフクロウたちが、小さな点になって遠ざかっていくのが見えた。
──元気で。
あの日、インクで書いた言葉が、今は自分に返ってくる。
彼女のために願ったはずの言葉を、今度は自分自身の胸に向かって投げかけるような気持ちだった。
元気でいなければならない。
仕事を続け、家の名を守り、日々をきちんと積み重ねること。
それが、唯一、自分に残された「誠実さ」だと信じるしかなかった。
ローランドは、何もない顔で休憩室を出ていく。
新聞の一面では、まだレギュラスとアランが並んで微笑んでいる。
インクで刷られた二人の姿が、今日一日、多くの魔法使いたちの目に触れることになるのだと知りながら。
彼はその光景から目を背け、いつものように魔法省の廊下を歩き出した。
ブラック家の朝は、いつも静かに始まる。
長い廊下に敷かれた絨毯の上を、アランは一定の歩幅で進んでいた。
手には、ヴァルブルガのために用意されたお茶の盆。
すれ違う使用人たちは、以前ほど彼女の顔色をうかがうような視線を向けてはこない。
「奥方」として、ここにいることが当たり前になって久しい証だった。
途中、書斎の前を通りかかると、扉の隙間から声が漏れ聞こえてくる。
「……では、今月中に報告書をまとめてください。魔法薬試験の件は、セシール卿の研究に関わる部分でもありますから」
低く、よく通る声。
レギュラスだった。
返事をしているのは、魔法省からの使いだろうか。
エドモンド・セシールの名が出た瞬間、アランの足がほんのわずかに止まりかける。
けれど、盆を持ち替えるようにして、そのまま歩き出した。
それからほどなくして、午前中の用事を終えたアランは、自室に戻る途中でレギュラスに呼び止められた。
「アラン」
振り向くと、廊下の曲がり角にレギュラスが立っていた。
灰色の瞳が静かに彼女を捉える。
「今日は午後から、魔法省に同行してください」
それは、疑問をはさむ余地のない言い方だった。
確認でも相談でもない。
ただ、決定事項として告げられる。
以前なら、一瞬でも戸惑いが顔をかすめていただろう。
魔法省。その場所は、ローランド・フロストとすれ違う可能性がある場所でもある。
心がざわつき、喉が乾き、言葉を探して視線をさまよわせたはずだ。
けれど、今は違った。
「分かりました」
アランはごく自然に頷いた。
グラスを持つのと同じくらいの当たり前さで、服の裾を軽く摘み上げて礼をし、午後の予定を書き換える。
有無を言わせない命令形。
そこに込められる圧は、相変わらず強い。
けれど、それに対して胸の奥で波打っていた戸惑いや反発は、いつの間にか、ほとんど顔を出さなくなっていた。
言われた通りに動き、求められれば受け入れる。
そういう在り方に、自分が慣れてしまっていることを、アランはどこか他人事のように自覚していた。
午後、馬車の中。
レギュラスと向かい合うように座り、アランは窓の外に流れていく街並みを眺めていた。
魔法省へ向かう道のりは、何度か通ううちに、景色の変化まで覚えてしまうほどになっている。
「セシール卿の資料は、先日お送りした分を元に会議が進むはずです」
レギュラスが、ふと口を開いた。
「あなたのご実家の研究は、今後ますます国にとって重要になります。
魔法省としても、軽んじるつもりは一切ありませんよ」
アランは、膝の上で両手を組んだまま、静かに耳を傾ける。
「父も……きっと、喜びますわ」
それは、嘘ではなかった。
エドモンド・セシールの研究に対して、レギュラスは常に敬意を示した。
上から目線の恩着せがましさではなく、「必要なものを必要なだけ支える」という実務的な姿勢で。
魔法薬の専門用語を覚えようとし、会議の議事録に自分なりの注釈を書き込み、少しでも研究の本質を理解しようとするところも見てきた。
アランの中で、その姿勢は素直に「良いところ」だと認識されるようになっていた。
父の研究を真剣に扱ってくれること。
雑音として切り捨てず、政治の言葉に翻訳して前に進めようとすること。
そういう部分に対しては、感謝すら覚えている。
馬車が石畳を揺らしながら進むあいだ、アランはふと視線を落とした。
指先に、微かな違和感がある。
——以前なら、ここまで従順に頷く自分に驚いていたかもしれない。
レギュラスの命令形の言葉は、最初、刃物のように感じられた。
「今から来てください」「こちらに」「今夜は」——
選択肢を前もって刈り取られてしまうような強さがあった。
だが、何度も繰り返されるうちに、その鋭さは形を変えていく。
刃物は刃物のままだが、こちらの皮膚の方が硬くなっていくような感覚。
初めて触れたときには血が滲んだものが、今ではただの圧力としてしか感じなくなる。
「はい」と答えることも。
求められれば寝台に行くことも。
腕を求められれば寄り添うことも。
そうした一つ一つのことに対して、戸惑いや困惑を抱く時間は、次第に削られていった。
思うところが、本当に何もないわけではない。
時折、胸の奥から小さな問いが浮かび上がることはある。
——ここまで従うことが、本当に自分の望みだったのか。
——他の生き方は、もう選べないのか。
けれど、その問いは深くなる前に、日々の用事や、寝室の灯りや、朝食の席の会話に紛れていく。
「考えること」を後回しにし続けるうちに、やがてそれは、「特に何も思わない」という形に落ち着いてしまった。
魔法省に着き、レギュラスと共に廊下を歩く。
そこでは、ローランド・フロストの姿を目にすることが、時折あった。
視線がかすめるほどの距離で、すれ違う。
会釈を交わすこともあれば、互いに何も言わずに通り過ぎることもある。
ある時、階段の踊り場から見下ろした先に、同僚と書類を抱えたローランドの姿が見えた。
真面目な横顔で、相手の説明に前のめりに耳を傾けている。
その一瞬だけ、アランの心臓は痛む。
けれど、その隣を歩くレギュラスの歩調は、変わらない。
彼は決して、ローランド・フロストの名を軽々しく口にしない。
誰かが噂話めいたことを言おうとしたときには、必ず間に入ってさりげなく話題を変える。
あるいは、先日の夜会のように、きっぱりと釘を刺す。
「フロスト殿は誠実な男です」と言ったあの声は、決して演技ではなかった。
アランは、それを知っている。
だからこそ、彼を完全に嫌いになることができない。
その日の用件を終え、再び馬車で屋敷に戻る道すがら。
夕暮れの光が窓から差し込み、レギュラスの横顔をやわらかく照らしていた。
灰色の瞳は伏せられ、書類に走らせていた視線がふと止まる。
「……セシール卿の新しい試作品の件。今度、あなたの意見も聞かせてください」
レギュラスが書類を閉じて言う。
「専門的なことは、僕よりもあなたの方がずっと分かっているでしょう。
父娘の視点は、貴重です」
「……そう、でしょうか」
アランは、ゆっくりと答えた。
「父のやり方は、古いと言われることもあります。
でも、あの人は、いつも患者を第一に考えておりますから……」
「だからこそ、です」
レギュラスはきっぱりと言った。
「古い方法がすべて悪いわけではない。
伝統と安全性を守りながら、新しいものを取り入れていくこと。
それが、政治の側に立つ者の役割です」
その言葉に、わずかに胸が温かくなる。
父の研究を笑う者は少なくない。
古い、時代遅れだ、効率が悪いと切り捨てる者もいる。
けれどレギュラスは、一度としてそうした物言いをしなかった。
むしろ、エドモンドの研究の根底にある倫理を汲み取ろうとし、それを法や制度にどう反映させるかを考え続けている。
——この男の、こういうところは。
アランは、ふと窓の外に視線を向けた。
沈みかけた陽が、街の屋根を赤く染めていく。
ローランド・フロストを決して悪く言わないところ。
セシール家の研究に、どこまでも敬意を示そうとするところ。
そうした部分だけを切り取れば、この男は、誇り高く正しい「誰かの味方」であろうとしているようにも見えた。
その「誰か」に、自分や父が含まれていることも、分かっている。
だからこそ余計に、複雑だった。
自分の望んだ未来を摘み取った手で、
自分の大切なものを守ろうとする姿勢を見せられること。
そこに、感謝と、諦めと、淡い信頼と、言葉にしきれない痛みが絡み合っていく。
「……分かりました。父の研究について、私に分かる範囲なら、お話しします」
そう告げる声は、不思議と静かだった。
有無を言わせない命令に従うことにも、
彼の良さを見つけてしまうことにも。
もはや、戸惑いも困惑もない。
ただ、日々の流れの中で淡々と積み重ねられていく「選択の結果」として、
アランは今日も、レギュラスの隣に座り、その言葉に頷いていた。
式の日取りは、驚くほど滞りなく決まっていった。
場所はもちろんブラック家の大広間。
季節は花が咲き揃い、外の庭園も祝福の色で満ちる頃。
オリオンもヴァルブルガも、その選択に満足そうに頷き、必要な手配について使用人たちに次々と指示を飛ばしていった。
その日の午後、応接室には二人分の茶器と、分厚い羊皮紙の束が並べられていた。
セシール家・ブラック家双方の縁戚や、政界の顔ぶれ、魔法薬関係者、古くからの友人たちの名前が列挙されている。
そこから誰をどの程度招くのか、具体的な人数を詰めるのが、今日の仕事だった。
窓から差し込む光が、羊皮紙の上をなめるように広がっていた。
書斎より少し柔らかな雰囲気を持つこの部屋も、最近はアランの「仕事場」のひとつになりつつある。
テーブルの向こう側で、レギュラスが一枚の名簿に目を通していた。
頬杖をつくでもなく、姿勢は終始整っている。
灰色の瞳だけが、静かに行をなぞっていた。
「こちらは、父と母の方で人数のあたりは付けています」
レギュラスが、ブラック家側の名簿をひらりと持ち上げた。
「問題は、セシール家側ですね。
縁戚の方々、魔法薬関連の方々……それから、古くからお付き合いのある家々」
「そう、ですね」
アランは、セシール家側の名簿に目を落とす。
そこには馴染みのある家名がいくつも並んでいた。
子どもの頃、父に連れられて挨拶に行った家。
魔法薬の共同研究で名前を聞き慣れている錬金術師たち。
そして——
視線が、とある一行の上で止まった。
「フロスト家」
インクの色は、他と変わらない。
書体も、そこにある家々のひとつに過ぎないという顔をしている。
けれど、アランの胸の奥では、まるでそこだけ別の色を帯びているかのように浮き上がって見えた。
言葉にするより早く、指先がその行の端を押さえていた。
レギュラスの視線が、自然な流れでその指先を追う。
紙面に刻まれた家名と、わずかに固くなったアランの手。
その両方を一度に捉え、彼は小さく息を吐いた。
「……フロスト殿は」
羊皮紙をテーブルに戻しながら、レギュラスは何でもないことのように口を開いた。
「呼ばれます?」
何気ない調子だった。
感情を込めているわけでもなく、試すような響きもない。
ただ、セシール家と長く交流のあった家の一つとして、ごく当然の候補を挙げただけ——そんな声音。
けれど、その問い一つで、アランの全身はぴたりと固まった。
胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる。
ローランド・フロスト。
父の研究室の廊下を並んで歩いた少年は、今や魔法省で働く一人前の男になっている。
それでも、アランにとっての彼は、あの庭で笑った横顔のまま、どこかで時を止めていた。
十代の半ば、父の背を追う彼の横顔を見ながら、自分の隣に立つ姿を思い描いたことが何度あっただろう。
いつか、白いドレスを着る日が来たなら、その隣にいるのはローランドだと信じていた。
父と母に祝福され、互いの手を取り合って歩む未来を、疑いもなく「当然」のように思っていた。
その「いつか」は、今、目の前にある。
ただし、隣に立つのはローランドではない。
——レギュラス・ブラックの妻として、そのドレスを着る。
夢見ていた「場所」に、全く違う男と立つ自分を、ローランドに見せることになるのだろうか。
胸が、苦しくなる。
息を吸い込もうとしても、どこかで空気がせき止められてしまうような感覚。
アランは、指先に力を込めたまま、何も答えられなかった。
沈黙は、長くは保てない。
ほんの数秒、それでも彼女には永い時間のように思えた間を置いて、レギュラスが静かに口を開いた。
「……呼ぶのが礼儀でしょうね」
淡々とした声だった。
「セシール家とフロスト家は、長く交流があった。
魔法薬の研究においても、多くの場面で支え合ってきた」
アランの瞳が、揺れる。
その「交流」の中には、間違いなく、自分とローランドが積み重ねてきた時間も含まれている。
二つの家の距離が近かったからこそ育まれたものを、「霧散した」と新聞は書いたが、積み上がった記憶が消えるわけではない。
「その歴史を考えれば、フロスト家に招待状を出さないという選択肢は、あまりにも不自然です」
レギュラスは、羊皮紙の端を軽く叩いた。
「出席の有無は問いません。
来るか来ないか、決めるのはフロスト殿と、そのご家族です。
ですが——」
そこで、灰色の瞳がアランを捉える。
「招待状は、出しましょう」
言い切る声音には、揺らぎがなかった。
アランは、唇をかすかに動かした。
「……レギュラス」
声が震える。
彼の名を呼ぶだけで、胸の奥の痛みが増す気がした。
「私……」
言葉が続かない。
フロスト家を招くことが礼儀だという理屈は、理解できる。
むしろ、分かりすぎるほど分かっている。
セシール家の娘として育てられてきた年月は、そうした「筋」を最優先する価値観を、彼女の中にも育てていた。
だからこそ、その礼儀を守ることが、自分の心を抉る行為になるとしても、それを否定しきれない。
アランのまつげが、静かに震えた。
目の奥に溜まるものを、必死に堪える。
レギュラスは、彼女の揺れを見逃さなかった。
しかし、「やめましょう」とは言わない。
代わりに、少しだけ声音をやわらげた。
「あなたが、彼の隣でドレスを着ることを夢見ていたのだということは」
淡々とした言葉の中に、ごくわずかに湿り気を帯びた響きが混じる。
「想像はできます」
アランの瞳が、大きく見開かれた。
レギュラスは、彼女の反応から目を逸らさなかった。
「僕はあなたの心の中に、どれだけフロスト殿がいたのかも、だいたい察しているつもりです。
セシール家の廊下で、何度もすれ違いましたからね」
記憶の中の光景が蘇る。
父の研究室の前を通るたび、並んで何かを運んでいる二人の姿。
書類を抱えたローランドと、材料の瓶を抱えたアラン。
「だからこそ、です」
レギュラスは、指先でペンを取った。
「あなたの過去も、セシール家とフロスト家の歴史も、すべて無かったことにはしない」
インク壺にペン先を浸し、さらりと余分な滴を落とす。
「そのうえで、今のあなたが僕の隣にいるという事実を、きちんと示すべきだと、僕は思います」
そこには、残酷さと誠実さが、奇妙な形で同居していた。
アランは、言葉を失ったまま、レギュラスの手元を見つめていた。
羊皮紙の「フロスト家」の行に、レギュラスが小さく印をつける。
招待客リストの中で、それは正式に「招くべき家」のひとつとして確定される印だった。
「……フロスト家への招待状には、僕からも一筆添えましょう」
ペンを置きながら、レギュラスは静かに告げた。
「セシール家への長年のご厚誼に対する謝意と、今後も変わらぬ友誼を願う旨を。
そして、アラン・セシール……いや、アラン・ブラックと僕との婚姻を、どうか祝福してほしいと」
その言葉に、アランの胸がずきりと痛んだ。
祝福。
ローランド・フロストに、自分とレギュラスの婚姻を祝福してほしいと願うことになる。
招待状は、その願いを半ば強いるようなものだ。
それでも、レギュラスは変わらずに言葉を重ねる。
「フロスト殿は、誠実な男です。
彼ならきっと、どんな形であれ、自分なりの礼を尽くしてくれるでしょう」
決して、彼を貶める言い方はしない。
むしろ、その誠実さを認めたうえで、その誠実さをもって「選ばれなかった未来」を受け止める役割を、彼に課そうとしているようにさえ見えた。
アランは、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで冷たい空気を押し込み、ゆっくりと吐き出す。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
声はかすかに震えていたが、それでもはっきりと聞こえた。
自分の夢見ていた白いドレスは、ローランドの隣ではなく、レギュラスの隣で着る。
その事実を、フロスト家にも、ローランド自身にも知らせることになる。
それが礼儀であり、セシール家の娘としての責務であり、
アラン・ブラックとして選んだ道の、揺るぎない結果でもあった。
レギュラスは、満足げにも哀れみ深くも見えない表情で、ただ静かに頷いた。
「では、フロスト家には、正式な招待状を。
返信がどうであれ、その判断を尊重しましょう」
窓から差し込む光が、テーブルの上の羊皮紙を照らす。
インクで書かれた「フロスト家」の文字が、淡い影を落としていた。
アランは、その影を見つめながら、自分の胸の内にも似たような影が伸びていることを、はっきりと自覚していた。
——いつか、別の形で終わるはずだった物語が、
思いもしなかった形で幕を閉じようとしている。
その幕引きの場に、自らの手で招待状を送ることになるのだと理解しながら、
アランは静かにペンを取り、フロスト家の行に、自分の筆跡でも小さく印を重ねた。
