1章
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それからも、似たような女たちが入れ替わり立ち替わり現れた。
黒髪を艶やかにまとめた未亡人。
まだ婚約中と思しき若い令嬢。
既に別の家の夫人として名を連ねながらも、目の奥に「かつての相手」を忘れていない光を宿す女。
「レギュラス様、覚えていらして? あの夏の夜会で——」
「あなたの仰ったお言葉、今でも時々思い出してしまいますの。若かった私には、少し刺激が強すぎましたわ」
「その節は……ふふ、今でも感謝しております」
どの言葉も、直接的な表現は避けている。
けれど、それを知っている者にはすべてが「匂わせ」として十分すぎるほど意味を持つ。
アランの耳には、その一つ一つが、遠くから落ちてくる水滴のように届いてきた。
——ああ、こうして「昔からの知り合い」として笑いながら、何人も何人も。
ローランドとの、あの穏やかでささやかな約束が、いかに別世界の出来事であったかを見せつけられている気がした。
レギュラスは、その全てに同じような調子で応じていた。
「そうでしたね。ずいぶんと生意気なことを言った気がします。当時の僕にもう少し分別があれば、あなたを困らせずに済んだでしょうに」
「あなたの方こそ、お変わりない。あの夜、僕が恐れをなして逃げ出したくらいには、眩しいままですよ」
「お礼を言うべきなのは僕の方です。あの頃の無茶を受け止めていただいたおかげで、今の僕があるのですから」
過去を完全には否定しない。
しかし、自分一人の勝手として引き受け、相手の女を不必要に傷つけることもなければ、誤解を煽ることもない。
巧みな距離感と、適切な謙遜。
それが彼の返答を「洗練された冗談」へと昇華させていた。
周囲の笑い声が上がる。
元恋人たちは、未練がましさよりも、むしろ「若き日の悪戯」を懐かしむような笑みを浮かべて去っていく。
アランは、その様子を横に立ちながら見ていた。
微笑みを浮かべたまま、グラスを持つ指に少しだけ力がこもる。
潤んだ果実酒が揺れ、その表面にシャンデリアの光がゆらりと揺り返した。
——上手だ。
そう思った。
レギュラスブラックの口は、よく回る。
魔法省の役員として、日々数え切れないほどの言葉を武器にしている男だ。
女たちの距離感を絶妙に保ちながら、誰一人として完全に切り捨てず、かといってこれ以上踏み込ませもしない。
社交の場での「潔さ」と「残酷さ」を、完璧なバランスで抱え込んでいる。
——それでも。
内心では、ひどく冷ややかな感情が静かに沈殿していた。
過去の恋人たちが何人いようと、それを責める資格は自分にはない。
ローランドとの約束を破ったのは、他ならぬ自分なのだから。
けれど、こうして笑い話にしてみせるその軽さが、どうしようもなく胸に引っかかる。
この男は、自分にとっては取り返しのつかない夜を、こうしていずれ笑い話にできるのだろうか、と。
アランは、そんなことを考えないように努めた。
顔には出さない。
ひたすら、表情を整えることに意識を集中させる。
翡翠の瞳は、柔らかな光を湛えたまま。
口元には、礼儀正しい微笑みを保ったまま。
冷ややかな感情は、内側でひっそりと凍りついていく。
人の波がひと段落した頃合いを見計らって、レギュラスはアランの方へと身を寄せた。
「疲れていませんか」
そう言いながら、彼女のグラスに残った酒の量をちらりと見やる。
「……大丈夫です」
アランは、視線をグラスの縁へ落としたまま答えた。
彼女が何を見て、何を感じていたのか。
レギュラスは、察していないはずがない。
だからこそ、何気ない調子で続けた。
「先ほどの方々のことは、あまりお気になさらないでくださいね」
その声には、慰めの色が一滴だけ混じっていた。
「あなたとローランド・フロストのようなものだと思ってくださればいい」
さらりと言う。
アランの呼吸が、一瞬止まった。
——あなたとローランドのようなもの。
耳の奥で、その言葉がくり返し響く。
それは、一見すると気遣いに聞こえる。
過去のことだ、と。
互いにそれぞれの若さの中で選び、終わった関係だと。
けれど、そこには明確に「嫌味」が仕込まれていた。
自分にも過去があるだろう、と。
ローランドとの穏やかな約束を、あの夜自ら踏みにじったのは、他ならぬあなた自身だろう、と。
レギュラスは、そのことを忘れていない。
そして同時に、自分の過去の女たちの話を持ち出されたところで、アランが強く言い返せないことも、よく理解している。
アランは、どう返していいか分からないまま、唇を開きかけて閉じた。
「……そのようなつもりで、お話をしていたわけでは」
かろうじて、そこまで言う。
レギュラスは、わずかに首を傾けた。
「ええ。分かっていますよ」
穏やかな声で答える。
「ただ、あなたばかりが過去のことで重いものを抱えていると思わないでいただければ、それで十分です」
あくまでも軽やかな口調だった。
だが、その下には、「僕もあなたも同じだ」という冷静な線引きがあった。
アランは、視線を床へ落とした。
「……申し訳ありません、レギュラス」
とっさに出たのは、謝罪の言葉だった。
何に対して謝っているのか、自分でもはっきりしない。
ただ、彼の過去を責める立場にはないということだけは痛いほど自覚している。
レギュラスは、小さく首を振った。
「謝る必要はありません。
あなたに過去があるように、僕にも過去がある。それだけの話です」
淡々とした宣告。
慰めにも、皮肉にもなりうるその言葉を、彼はどちらにも寄せない絶妙な声色で言った。
アランは、その場で何も言い足せなかった。
胸のうちで、ローランドの名が音もなく沈んでいく。
その代わりに、レギュラスの声と、この宴の喧噪と、羨望と嫉妬の視線だけが、やけに鮮やかに輪郭を保っていた。
楽団の音楽が、またひとつ曲を変える。
新たなワルツが流れ始め、人々はふたたび踊りの輪を作っていく。
レギュラスは、アランに手を差し出した。
「踊りましょうか、アラン」
その手を取ることも、拒むことも、今の彼女には「選択」ではなく「流れ」だった。
「……はい」
アランは、いつもの柔らかな微笑を貼りつけたまま、翡翠の瞳の奥に冷たい波紋を隠し、静かにその手を取った。
曲が変わり、踊りの輪が一段落したタイミングだった。
アランはひと息つくために、ホールの端に設けられた休憩用のスペースにいた。
壁際のテーブルには、淡い色合いのドリンクや小さな菓子が並び、談笑の輪がいくつもできている。
先ほどまでレギュラスと踊っていたせいか、まだ鼓動は少しだけ早い。
グラスを両手で包むように持ち、冷たい感触を指先で確かめる。
胸の中の熱を、その冷たさでどうにか抑え込もうとするように。
そんなときだった。
「まぁ、アラン・ブラック嬢」
背後から、軽やかな声がかかった。
振り返ると、そこには二人の貴婦人が立っていた。
一人は淡いピンクベージュのドレスに身を包んだ、社交界に慣れきった表情の中年夫人。
もう一人は、その隣にぴったりと寄り添うように立つ若い令嬢で、母親に似た茶色の瞳に、まだ拭いきれない好奇心の色が宿っていた。
「はじめまして。ノット夫人と親しくさせていただいております、バルケンと申しますの」
夫人は扇をたたみながら、優雅に会釈した。
「こちらは、娘のエレノアですわ。ずっとあなたとお話ししてみたいと申しておりまして」
「は、はじめまして、アラン・ブラック様。いつも噂は……いえ、その……とてもお綺麗でいらして……」
令嬢は少し顔を赤らめながら、たどたどしく頭を下げた。
アランは、そっと微笑みを浮かべる。
「ご丁寧にありがとうございます。アラン・ブラックと申します。
どうか、今まで通り“セシール”とも思い出していただければ光栄ですわ」
父の家名を口にするとき、心の奥にかすかな痛みが走る。
それでも声は、落ち着いていた。
「まぁ、セシール家の一人娘が、ブラック家の――」
バルケン夫人は、そこでわざとらしく口を押さえ、目を輝かせた。
「本当に、時代が動いたようでございますわねぇ」
エレノアが、母親を見上げ、そしてアランへと視線を戻す。
「あの……ずっと伺おうと思っていたのですが」
おずおずとした口調で言う。
「セシール家は、以前からフロスト家と“婚約されている”と伺っておりましたの。
ローランド・フロスト様とは、小さい頃から——」
その名が出た瞬間、アランの指先が微かに震えた。
ローランド・フロスト。
静かな庭。
夏の日差し。
並んで歩いた石畳の感触。
笑い合いながら交わした、何気ない未来の約束。
胸の奥に封じ込めたはずの記憶が、一気に表層まで押し上げられる。
エレノアは、そんなことを知る由もない。
「ですから、その……噂では、ほとんど婚約も同然のご関係だと……。
でも、こうしてブラック家と正式に婚姻を結ばれると伺いましたので……その、やはり噂だったのでしょうか?」
バルケン夫人が、扇の影からくすりと笑う。
「噂、ですわよねぇ。
だって、ブラック家と並べて考えた時に、どちらを取るのが賢明かなど、考えるまでもないことでしょう?」
妙に甘い声で続ける。
「もちろん、フロスト家も立派な純血ですけれど。
魔法省における影響力、財産、家名の重み……どれをとっても、ブラック家には及びませんものね」
「そうですわね、お母様。
レギュラス様の方をお選びになるのが、やはり賢明と言いますか……“当然”と申しますか」
エレノアも無邪気に頷く。
「ローランド様は……とても誠実で、お優しいと伺っていますけれど」
その一言が、アランの心臓をぎゅっと掴んだ。
「けれど、やはり“誠実さ”だけでは、セシール家の一人娘を託すには心もとない、といったところでしょうか。
ブラック家と繋がることの方が、家としては良い選択に違いありませんわ」
扇で唇を隠しながら、バルケン夫人は「失礼ねぇ、私ったら」とでも言いたげに目を細める。
アランは、言葉を失った。
突然、ローランドの名を引き合いに出され、
あの穏やかな笑顔と、真面目な横顔を思い出してしまった直後に、それを踏み台にして称えられるブラック家。
正しさも、政治的にも理にも適っていることも、痛いほど分かっている。
それでも、胸の奥で何かが音を立ててきしむ。
ローランドを、こんな形で「賢明ではない選択肢」として並べられることに、どう反応していいか分からない。
否定すれば、ブラック家への侮辱になる。
肯定すれば、自分自身がローランドを切り捨てたことを、改めて認めることになる。
どちらを選んでも、傷の浅い道はない。
アランは、かろうじて微笑を崩さずに、グラスを持つ手を強く握った。
「……ローランド様は」
辛うじて、そこまで声を出す。
「とても、真摯で……尊敬すべき方ですわ。
セシール家も、長くお世話になっております」
それは、精一杯の抵抗だった。
しかし、バルケン夫人はあっさりと受け流す。
「まぁ、それはそれは。
でも、そうした“良い方”の先に、必ずしも“相応しい家の結びつき”があるとは限りませんものね」
扇の影で、笑みが深くなる。
「ブラック家とフロスト家……なら、どちらが上かなんて、誰の目にも明らかでございましょう?
セシール家が正しい判断をなさったことに、皆、納得しておりますわ」
エレノアも、悪気なく頷いた。
「わたくしも、そう思いますわ。
レギュラス様の方が……その……“ご立派”と申しますか……」
アランの胸の奥で、ぎり、と何かが軋む。
ローランドの、あの真面目な横顔。
穏やかな声。
手紙の最後に必ず添えられていた「元気で」という一言。
あの人は、決して自分の口から誰かを「下」に見るようなことは言わないだろう。
フロスト家はブラック家に及ばないと、こうして笑いながら口にすることもないだろう。
それなのに、自分が立っている場所は、そうした言葉を「当然」として受け入れてしまう側だ。
どう返していいか分からない。
喉の奥がつかえたように熱くなり、言葉が出てこない。
その瞬間。
「――フロスト殿の前でも、同じことを言えますか」
静かな声が、会話の輪に滑り込んできた。
アランの肩が、びくりと震える。
振り向くと、そこにはレギュラスが立っていた。
普段と変わらぬ整った顔つきで、しかし瞳の奥には淡い陰が差している。
「レ、レギュラス様……!」
バルケン夫人が、わずかに青ざめたように見えた。
エレノアも驚いて、母とアランの顔を見比べる。
レギュラスは、穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「セシール家が僕との婚姻を選んだことに、賛辞をいただけるのはありがたいのですが」
ゆっくりと歩み寄り、アランの隣に立つ。
その位置は、はっきりと「間に入る」という意思を示していた。
「そのために、フロスト家やフロスト殿を下に見るような言い方は、僕としても望ましくありません」
声は柔らかい。
しかし、その一言一言には、魔法省の会議室で使うときと同じ、揺るぎない硬さがあった。
「ブラック家とフロスト家は、立ち位置の違いこそあれど、どちらも長く魔法界に貢献している家です。
優劣を語るようなものではないでしょう」
バルケン夫人は、慌てて扇を振った。
「も、もちろん、そのつもりで申し上げたわけでは……! ただ、セシール家が、より相応しいご縁をお選びになったと……」
「より相応しいかどうかを判断するのは、外野ではなく、当事者です」
レギュラスの笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
「セシール家が決めたことは、セシール家の決断であり。
フロスト家が受け入れたことは、フロスト家の矜持です。
それを他人の口から軽々しく評価するのは、どちらの家に対しても、礼を欠く行いだと思いますよ」
穏やかな口調のまま、刃を滑らせるように告げた。
エレノアが、小さく息を呑む。
「も、申し訳ありません、レギュラス様……そのようなつもりでは……」
「分かっています。若い方は特に、噂話を面白がる年頃ですからね」
そこでやっと、レギュラスは表情を少し和らげた。
「ただ――」
アランの方へ、視線を向ける。
「僕の妻の前で、彼女の過去のご縁にまつわる話をするときは、少しだけ配慮していただけると助かります」
その「配慮」という言葉には、妻を気遣っているというメッセージと同時に、「これ以上は許さない」という線引きが、はっきりと示されていた。
バルケン夫人は、完全に顔色を失い、深々と頭を下げた。
「……無礼をお詫びいたしますわ、レギュラス様、アラン・ブラック様。軽率な物言いでした」
エレノアも慌ててスカートの裾をつまみ、頭を下げる。
「ごめんなさい……アラン様。本当に、その、何も分かっていなくて……」
アランは、胸の奥に渦巻いた複雑な感情を、どうにか押しとどめながら、穏やかに答えた。
「顔をお上げくださいませ、バルケン夫人、エレノア様。
お気持ちは理解しておりますわ。……お気遣い、ありがとうございます」
それ以上、何も言うことはできなかった。
バルケン親子が足早にその場を離れていくのを見届けると、レギュラスはふう、と小さく息を吐いた。
そして、アランの方へ視線を戻す。
「……すみませんね、アラン」
静かに言う。
「こういう場では、どうしても噂話が先に歩きます。
あなたにとっては、愉快な話題ではないと分かっているのに、避けきれず、耳に入ってしまう」
アランは、首を横に振った。
「いいえ。……あなたが、間に入ってくださらなければ、もっと……」
もっと、ローランドを貶める言葉を聞いてしまっていたかもしれない。
そう思うと、言葉の先が震えてしまう。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「フロスト殿は、誠実な男です」
淡々とした声で、しかしどこか遠くを見るように続ける。
「あなたが彼を選んでいたとしても、彼はきっと、あなたを大切にしたでしょう。
それぐらいのことは、僕も分かっています」
アランの翡翠の瞳が、驚きに揺れた。
「……レギュラス」
「ただ、その未来を選ばなかったのは、僕であり、セシール家であり、フロスト殿自身でもある」
レギュラスは、そこで視線を戻し、アランをまっすぐ見つめる。
「だから、誰かが軽々しく“どちらが賢明か”なんて話をするのは――僕も、あまり好きではないのですよ」
その言葉には、珍しく、彼自身の感情が滲んでいた。
アランは、胸の奥にこみ上げる何かをどうにか飲み込む。
「……ありがとうございます」
それが精一杯だった。
レギュラスは、ふっと笑みを取り戻した。
「今の話は、忘れてしまって構いません。
あなたは、ただ今夜を楽しめばいい」
そう言って、さりげなくアランのグラスを受け取り、新しいドリンクと交換する。
その仕草は、いつもの「魔法省役員」としての顔ではなく、
ただ「妻を守ることを当然とする夫」のそれだった。
遠くでは、また新しい曲が始まっている。
人々の笑い声、シャンデリアの光、揺れるドレスの裾。
アランはグラスを握りしめたまま、ほんの一瞬、目を閉じた。
胸の奥で、ローランドの名と、レギュラスの声が交錯していく。
そして次に瞼を開けたとき、彼女は再び「ブラック家の若夫人」としての顔を整え、夫の隣に立った。
音楽が一段落し、人々の視線が再び舞踏の輪から離れ始めた頃だった。
大広間の端に設けられた小さなバルコニーは、ホールの喧噪から一歩だけ距離を置いた場所だった。
開け放たれたガラス扉の向こうには、夜気を含んだ空気と、庭園に灯された魔法灯の柔らかな光が流れ込んでいる。
レギュラスとアランは、そのバルコニーに並んで立っていた。
高い欄干に背を預けるようにして、レギュラスは手にしたグラスを軽く傾ける。
淡い琥珀色の液体が、月光と魔法灯の光を受けてゆらりと揺れた。
室内からは、まだ楽しげな笑い声がかすかに届いている。
けれど、ここだけは少し温度が違った。
夜風が緊張した肌を撫で、胸に残る熱をほんの少しだけ冷ましてくれる。
「……なぜ、社交界に出てこられなかったんです?」
ふいに、レギュラスが口を開いた。
視線はグラスに落としたまま。
けれど、横顔の角度からして、意識は確かに隣の妻へ向けられているのが分かる。
「セシール家の一人娘。美しい娘がいるとは、前からよく耳にしていました」
ゆっくりとグラスを回しながら続ける。
「けれど、実際にあなたを見た者はほとんどいなかった。
今夜も、初めてあなたを目にして“噂は本当だったのだな”とざわついている者ばかりでしたよ」
アランは、手にした透明なグラスの縁を指先で撫でた。
淡い色合いの果実酒が、彼女の動きに合わせて静かに波打つ。
「……そう、なのですね」
夜気に紛れた声は、どこか遠くから響いてくるように薄かった。
レギュラスは、そこでようやく彼女の方を向く。
「もし、社交界に普通に出てきていたのなら」
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「僕は、もっと早くにあなたに目をつけていたでしょうね」
軽い冗談めかした物言いだったが、その下にある本音は分かりやすかった。
社交界に姿を見せていたなら、とっくに接触していた。
ゲームのように扱ってきた他の誰よりも優先して、真っ先に手を伸ばしていただろう。
アランは、グラスの中身を見つめたまま、かすかに瞼を伏せる。
「……社交界に出てこなかった理由、ですか」
呟くように言ったあと、ゆっくりと続けた。
「父の研究に、つききりだったからですわ」
セシール家が魔法薬で富を築いていることは、レギュラスもよく知っている。
エドモンド・セシールが一度研究に没頭すると、周囲の時間まで巻き込むほど集中してしまうことも、有名な話だった。
「新しい魔法薬の試作が始まると、父は夜通し研究室に籠もることが多くて。
私も、その傍で材料を整えたり、記録を取ったり……そうしていると、いつの間にか社交の場に出る時間など、ほとんど残っておりませんでした」
言葉自体は淡々としている。
しかし、その声の奥に、別の色が混じり始めているのをレギュラスは聞き取った。
「父は、あまり社交界が得意ではありませんでしたから。
私がそちらへ出るくらいなら、“ここで役に立ってくれ”といつも言っていました」
そこまでは、表向きの理由だった。
アランの瞳が、ふと遠くを見た。
庭園に浮かぶ魔法灯の光を透かして、その翡翠色がわずかに揺れる。
——本当に、研究だけだっただろうか。
胸の内側で、別の問いが小さく頭をもたげる。
研究室の片隅で広げていた本。
窓辺で差し入れの菓子を食べながら、向かい合って笑った横顔。
ローランド・フロスト。
幼い頃から、父の研究室のある棟には、よく彼の姿があった。
魔法薬の材料の運搬を手伝ったり、父の書類を纏めたり、時には実験器具の調整までしていた。
研究室隣の小さな応接室は、アランとローランドがよく宿題を広げる場所だった。
インクの匂いと、魔法薬の香りと、彼の柔らかい笑い声。
外の世界がどれほど華やかであっても、その小さな世界の方が、ずっと大切で、居心地が良かった。
「……父の研究の傍で過ごしている時間が、好きでした」
ぽつりと、アランは続けた。
「新しい薬の配合が成功した時の父の顔を見るのが、嬉しくて。
そして、そのそばで……」
言いかけて、言葉が喉につかえた。
ローランドと過ごした日々が、否応なく浮かび上がる。
幼い頃、洟をすすりながら薬草の名前を覚えた午後。
十代になってから、手を伸ばせば簡単に繋げる距離で、あえて距離を保つようになった夜。
誠実な横顔で、「いつか正式に」と告げられた時間。
その全てが、「社交界」という言葉とは別の世界にあった。
指先が、グラスの表面をきゅっと掴んだ。
「……そのそばで?」
レギュラスの声が、静かに促す。
アランは、喉の奥に溜まったものを飲み込むように、小さく息を吸った。
「そのそばで……私の世界は、十分に満ちておりましたから」
震えを抑えようとしたせいで、声はかえって掠れた。
「社交界で誰かと踊るよりも。
誰かに美しいと言われるよりも。
父の机の横で、薬草の香りに包まれながら過ごす時間の方が……」
そこまで言って、アランは言葉を止めた。
ローランドの名を出すことは、今この場ではあまりに生々しい。
たった今も、その名に関する噂話で胸を抉られたばかりだ。
口に出してしまえば、きっともう二度と元には戻れない。
それでも、思考の中では、どうしてもその姿が浮かんでしまう。
幼い頃、背が自分より少しだけ高くなったと嬉しそうに笑っていた少年。
書斎の外廊下で、こっそり手を繋いで歩いた夕暮れ。
「いつか」と未来を語った声音。
そのひとつひとつを思い出すたび、胸の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。
レギュラスは、そんな彼女の横顔をじっと見つめていた。
翡翠の瞳が、言葉にはならない何かで満ちていく。
それが、誰の影を映しているのかを知らないわけではない。
「……その“十分に満ちていた世界”に、僕が割り込んだわけですね」
軽く笑うように言ったが、その声音にはかすかな棘が混じる。
「社交界に出てきてくれていれば、もっと早く邪魔ができたのに」
冗談めかした一言だった。
だが、アランには笑えなかった。
グラスの縁が、指先の震えでかすかに鳴る。
「……申し訳、ありません」
思わず口をついて出たのは、その言葉だった。
何に謝っているのか、自分でも判然としない。
社交界に出なかったことか。
彼の目に留まるのが遅れたことか。
それとも、ローランドで埋め尽くされていた十代の日々そのものに対してか。
声が、わずかに震えている。
レギュラスは、その震えを聞き分けた。
「謝る必要はありませんよ」
グラスを欄干に預けるようにして置き、アランの方へ身体を向けた。
「あなたがどこで、誰と、どんな時間を過ごしてきたのか。
それは、もう変えようがない過去です」
その言い方は、決して責めてはいない。
けれど、容赦もなかった。
「今ここにいるのは、その全てを経たあなたであって」
そっと、彼女の手からグラスを取り上げる。
「そして、今後の時間を共に過ごす相手は、僕だというだけのことです」
アランは、視線を落としたまま、唇をきゅっと結んだ。
喉の奥に、言葉にならないものがせり上がってくる。
それを必死に押し戻そうとするように、息を細く吐いた。
レギュラスの指先が、彼女の手の甲に触れる。
夜風に冷えた肌に、微かな温度が乗る。
「社交界に出てこなかったからこそ、今夜、こうして皆があなたに目を奪われている。
隠されていた宝石がようやく姿を現したと、誰もが思っている」
そこで、一瞬言葉を切り、静かに付け加えた。
「……僕だけが、それを独り占めにしているのだと、実感できる夜でもあります」
アランの胸が、ずくりと痛んだ。
ローランドと過ごした日々を思い出した直後に、今度はレギュラスの言葉が、現在の自分の立ち位置を突きつけてくる。
過去はローランドで満ちていた。
けれど今、彼女の傍らに立ち、グラスを傾けているのはレギュラスだ。
その事実は、誰の目にも、あまりに明白だった。
アランは、かろうじて微笑を形作る。
「……今夜のことは、決して忘れません」
それが、過去と現在のどちらに対する言葉なのか、自分でも分からないまま。
レギュラスは、満足げに頷いた。
「ええ。忘れないでください」
夜の庭から吹き込む風が、二人の間を通り抜けていく。
魔法灯の光に照らされたバルコニーで、翡翠の瞳と灰色の瞳が交差し、その奥にそれぞれまったく違う影を抱えたまま、静かにグラスがぶつかり合った。
黒髪を艶やかにまとめた未亡人。
まだ婚約中と思しき若い令嬢。
既に別の家の夫人として名を連ねながらも、目の奥に「かつての相手」を忘れていない光を宿す女。
「レギュラス様、覚えていらして? あの夏の夜会で——」
「あなたの仰ったお言葉、今でも時々思い出してしまいますの。若かった私には、少し刺激が強すぎましたわ」
「その節は……ふふ、今でも感謝しております」
どの言葉も、直接的な表現は避けている。
けれど、それを知っている者にはすべてが「匂わせ」として十分すぎるほど意味を持つ。
アランの耳には、その一つ一つが、遠くから落ちてくる水滴のように届いてきた。
——ああ、こうして「昔からの知り合い」として笑いながら、何人も何人も。
ローランドとの、あの穏やかでささやかな約束が、いかに別世界の出来事であったかを見せつけられている気がした。
レギュラスは、その全てに同じような調子で応じていた。
「そうでしたね。ずいぶんと生意気なことを言った気がします。当時の僕にもう少し分別があれば、あなたを困らせずに済んだでしょうに」
「あなたの方こそ、お変わりない。あの夜、僕が恐れをなして逃げ出したくらいには、眩しいままですよ」
「お礼を言うべきなのは僕の方です。あの頃の無茶を受け止めていただいたおかげで、今の僕があるのですから」
過去を完全には否定しない。
しかし、自分一人の勝手として引き受け、相手の女を不必要に傷つけることもなければ、誤解を煽ることもない。
巧みな距離感と、適切な謙遜。
それが彼の返答を「洗練された冗談」へと昇華させていた。
周囲の笑い声が上がる。
元恋人たちは、未練がましさよりも、むしろ「若き日の悪戯」を懐かしむような笑みを浮かべて去っていく。
アランは、その様子を横に立ちながら見ていた。
微笑みを浮かべたまま、グラスを持つ指に少しだけ力がこもる。
潤んだ果実酒が揺れ、その表面にシャンデリアの光がゆらりと揺り返した。
——上手だ。
そう思った。
レギュラスブラックの口は、よく回る。
魔法省の役員として、日々数え切れないほどの言葉を武器にしている男だ。
女たちの距離感を絶妙に保ちながら、誰一人として完全に切り捨てず、かといってこれ以上踏み込ませもしない。
社交の場での「潔さ」と「残酷さ」を、完璧なバランスで抱え込んでいる。
——それでも。
内心では、ひどく冷ややかな感情が静かに沈殿していた。
過去の恋人たちが何人いようと、それを責める資格は自分にはない。
ローランドとの約束を破ったのは、他ならぬ自分なのだから。
けれど、こうして笑い話にしてみせるその軽さが、どうしようもなく胸に引っかかる。
この男は、自分にとっては取り返しのつかない夜を、こうしていずれ笑い話にできるのだろうか、と。
アランは、そんなことを考えないように努めた。
顔には出さない。
ひたすら、表情を整えることに意識を集中させる。
翡翠の瞳は、柔らかな光を湛えたまま。
口元には、礼儀正しい微笑みを保ったまま。
冷ややかな感情は、内側でひっそりと凍りついていく。
人の波がひと段落した頃合いを見計らって、レギュラスはアランの方へと身を寄せた。
「疲れていませんか」
そう言いながら、彼女のグラスに残った酒の量をちらりと見やる。
「……大丈夫です」
アランは、視線をグラスの縁へ落としたまま答えた。
彼女が何を見て、何を感じていたのか。
レギュラスは、察していないはずがない。
だからこそ、何気ない調子で続けた。
「先ほどの方々のことは、あまりお気になさらないでくださいね」
その声には、慰めの色が一滴だけ混じっていた。
「あなたとローランド・フロストのようなものだと思ってくださればいい」
さらりと言う。
アランの呼吸が、一瞬止まった。
——あなたとローランドのようなもの。
耳の奥で、その言葉がくり返し響く。
それは、一見すると気遣いに聞こえる。
過去のことだ、と。
互いにそれぞれの若さの中で選び、終わった関係だと。
けれど、そこには明確に「嫌味」が仕込まれていた。
自分にも過去があるだろう、と。
ローランドとの穏やかな約束を、あの夜自ら踏みにじったのは、他ならぬあなた自身だろう、と。
レギュラスは、そのことを忘れていない。
そして同時に、自分の過去の女たちの話を持ち出されたところで、アランが強く言い返せないことも、よく理解している。
アランは、どう返していいか分からないまま、唇を開きかけて閉じた。
「……そのようなつもりで、お話をしていたわけでは」
かろうじて、そこまで言う。
レギュラスは、わずかに首を傾けた。
「ええ。分かっていますよ」
穏やかな声で答える。
「ただ、あなたばかりが過去のことで重いものを抱えていると思わないでいただければ、それで十分です」
あくまでも軽やかな口調だった。
だが、その下には、「僕もあなたも同じだ」という冷静な線引きがあった。
アランは、視線を床へ落とした。
「……申し訳ありません、レギュラス」
とっさに出たのは、謝罪の言葉だった。
何に対して謝っているのか、自分でもはっきりしない。
ただ、彼の過去を責める立場にはないということだけは痛いほど自覚している。
レギュラスは、小さく首を振った。
「謝る必要はありません。
あなたに過去があるように、僕にも過去がある。それだけの話です」
淡々とした宣告。
慰めにも、皮肉にもなりうるその言葉を、彼はどちらにも寄せない絶妙な声色で言った。
アランは、その場で何も言い足せなかった。
胸のうちで、ローランドの名が音もなく沈んでいく。
その代わりに、レギュラスの声と、この宴の喧噪と、羨望と嫉妬の視線だけが、やけに鮮やかに輪郭を保っていた。
楽団の音楽が、またひとつ曲を変える。
新たなワルツが流れ始め、人々はふたたび踊りの輪を作っていく。
レギュラスは、アランに手を差し出した。
「踊りましょうか、アラン」
その手を取ることも、拒むことも、今の彼女には「選択」ではなく「流れ」だった。
「……はい」
アランは、いつもの柔らかな微笑を貼りつけたまま、翡翠の瞳の奥に冷たい波紋を隠し、静かにその手を取った。
曲が変わり、踊りの輪が一段落したタイミングだった。
アランはひと息つくために、ホールの端に設けられた休憩用のスペースにいた。
壁際のテーブルには、淡い色合いのドリンクや小さな菓子が並び、談笑の輪がいくつもできている。
先ほどまでレギュラスと踊っていたせいか、まだ鼓動は少しだけ早い。
グラスを両手で包むように持ち、冷たい感触を指先で確かめる。
胸の中の熱を、その冷たさでどうにか抑え込もうとするように。
そんなときだった。
「まぁ、アラン・ブラック嬢」
背後から、軽やかな声がかかった。
振り返ると、そこには二人の貴婦人が立っていた。
一人は淡いピンクベージュのドレスに身を包んだ、社交界に慣れきった表情の中年夫人。
もう一人は、その隣にぴったりと寄り添うように立つ若い令嬢で、母親に似た茶色の瞳に、まだ拭いきれない好奇心の色が宿っていた。
「はじめまして。ノット夫人と親しくさせていただいております、バルケンと申しますの」
夫人は扇をたたみながら、優雅に会釈した。
「こちらは、娘のエレノアですわ。ずっとあなたとお話ししてみたいと申しておりまして」
「は、はじめまして、アラン・ブラック様。いつも噂は……いえ、その……とてもお綺麗でいらして……」
令嬢は少し顔を赤らめながら、たどたどしく頭を下げた。
アランは、そっと微笑みを浮かべる。
「ご丁寧にありがとうございます。アラン・ブラックと申します。
どうか、今まで通り“セシール”とも思い出していただければ光栄ですわ」
父の家名を口にするとき、心の奥にかすかな痛みが走る。
それでも声は、落ち着いていた。
「まぁ、セシール家の一人娘が、ブラック家の――」
バルケン夫人は、そこでわざとらしく口を押さえ、目を輝かせた。
「本当に、時代が動いたようでございますわねぇ」
エレノアが、母親を見上げ、そしてアランへと視線を戻す。
「あの……ずっと伺おうと思っていたのですが」
おずおずとした口調で言う。
「セシール家は、以前からフロスト家と“婚約されている”と伺っておりましたの。
ローランド・フロスト様とは、小さい頃から——」
その名が出た瞬間、アランの指先が微かに震えた。
ローランド・フロスト。
静かな庭。
夏の日差し。
並んで歩いた石畳の感触。
笑い合いながら交わした、何気ない未来の約束。
胸の奥に封じ込めたはずの記憶が、一気に表層まで押し上げられる。
エレノアは、そんなことを知る由もない。
「ですから、その……噂では、ほとんど婚約も同然のご関係だと……。
でも、こうしてブラック家と正式に婚姻を結ばれると伺いましたので……その、やはり噂だったのでしょうか?」
バルケン夫人が、扇の影からくすりと笑う。
「噂、ですわよねぇ。
だって、ブラック家と並べて考えた時に、どちらを取るのが賢明かなど、考えるまでもないことでしょう?」
妙に甘い声で続ける。
「もちろん、フロスト家も立派な純血ですけれど。
魔法省における影響力、財産、家名の重み……どれをとっても、ブラック家には及びませんものね」
「そうですわね、お母様。
レギュラス様の方をお選びになるのが、やはり賢明と言いますか……“当然”と申しますか」
エレノアも無邪気に頷く。
「ローランド様は……とても誠実で、お優しいと伺っていますけれど」
その一言が、アランの心臓をぎゅっと掴んだ。
「けれど、やはり“誠実さ”だけでは、セシール家の一人娘を託すには心もとない、といったところでしょうか。
ブラック家と繋がることの方が、家としては良い選択に違いありませんわ」
扇で唇を隠しながら、バルケン夫人は「失礼ねぇ、私ったら」とでも言いたげに目を細める。
アランは、言葉を失った。
突然、ローランドの名を引き合いに出され、
あの穏やかな笑顔と、真面目な横顔を思い出してしまった直後に、それを踏み台にして称えられるブラック家。
正しさも、政治的にも理にも適っていることも、痛いほど分かっている。
それでも、胸の奥で何かが音を立ててきしむ。
ローランドを、こんな形で「賢明ではない選択肢」として並べられることに、どう反応していいか分からない。
否定すれば、ブラック家への侮辱になる。
肯定すれば、自分自身がローランドを切り捨てたことを、改めて認めることになる。
どちらを選んでも、傷の浅い道はない。
アランは、かろうじて微笑を崩さずに、グラスを持つ手を強く握った。
「……ローランド様は」
辛うじて、そこまで声を出す。
「とても、真摯で……尊敬すべき方ですわ。
セシール家も、長くお世話になっております」
それは、精一杯の抵抗だった。
しかし、バルケン夫人はあっさりと受け流す。
「まぁ、それはそれは。
でも、そうした“良い方”の先に、必ずしも“相応しい家の結びつき”があるとは限りませんものね」
扇の影で、笑みが深くなる。
「ブラック家とフロスト家……なら、どちらが上かなんて、誰の目にも明らかでございましょう?
セシール家が正しい判断をなさったことに、皆、納得しておりますわ」
エレノアも、悪気なく頷いた。
「わたくしも、そう思いますわ。
レギュラス様の方が……その……“ご立派”と申しますか……」
アランの胸の奥で、ぎり、と何かが軋む。
ローランドの、あの真面目な横顔。
穏やかな声。
手紙の最後に必ず添えられていた「元気で」という一言。
あの人は、決して自分の口から誰かを「下」に見るようなことは言わないだろう。
フロスト家はブラック家に及ばないと、こうして笑いながら口にすることもないだろう。
それなのに、自分が立っている場所は、そうした言葉を「当然」として受け入れてしまう側だ。
どう返していいか分からない。
喉の奥がつかえたように熱くなり、言葉が出てこない。
その瞬間。
「――フロスト殿の前でも、同じことを言えますか」
静かな声が、会話の輪に滑り込んできた。
アランの肩が、びくりと震える。
振り向くと、そこにはレギュラスが立っていた。
普段と変わらぬ整った顔つきで、しかし瞳の奥には淡い陰が差している。
「レ、レギュラス様……!」
バルケン夫人が、わずかに青ざめたように見えた。
エレノアも驚いて、母とアランの顔を見比べる。
レギュラスは、穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「セシール家が僕との婚姻を選んだことに、賛辞をいただけるのはありがたいのですが」
ゆっくりと歩み寄り、アランの隣に立つ。
その位置は、はっきりと「間に入る」という意思を示していた。
「そのために、フロスト家やフロスト殿を下に見るような言い方は、僕としても望ましくありません」
声は柔らかい。
しかし、その一言一言には、魔法省の会議室で使うときと同じ、揺るぎない硬さがあった。
「ブラック家とフロスト家は、立ち位置の違いこそあれど、どちらも長く魔法界に貢献している家です。
優劣を語るようなものではないでしょう」
バルケン夫人は、慌てて扇を振った。
「も、もちろん、そのつもりで申し上げたわけでは……! ただ、セシール家が、より相応しいご縁をお選びになったと……」
「より相応しいかどうかを判断するのは、外野ではなく、当事者です」
レギュラスの笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
「セシール家が決めたことは、セシール家の決断であり。
フロスト家が受け入れたことは、フロスト家の矜持です。
それを他人の口から軽々しく評価するのは、どちらの家に対しても、礼を欠く行いだと思いますよ」
穏やかな口調のまま、刃を滑らせるように告げた。
エレノアが、小さく息を呑む。
「も、申し訳ありません、レギュラス様……そのようなつもりでは……」
「分かっています。若い方は特に、噂話を面白がる年頃ですからね」
そこでやっと、レギュラスは表情を少し和らげた。
「ただ――」
アランの方へ、視線を向ける。
「僕の妻の前で、彼女の過去のご縁にまつわる話をするときは、少しだけ配慮していただけると助かります」
その「配慮」という言葉には、妻を気遣っているというメッセージと同時に、「これ以上は許さない」という線引きが、はっきりと示されていた。
バルケン夫人は、完全に顔色を失い、深々と頭を下げた。
「……無礼をお詫びいたしますわ、レギュラス様、アラン・ブラック様。軽率な物言いでした」
エレノアも慌ててスカートの裾をつまみ、頭を下げる。
「ごめんなさい……アラン様。本当に、その、何も分かっていなくて……」
アランは、胸の奥に渦巻いた複雑な感情を、どうにか押しとどめながら、穏やかに答えた。
「顔をお上げくださいませ、バルケン夫人、エレノア様。
お気持ちは理解しておりますわ。……お気遣い、ありがとうございます」
それ以上、何も言うことはできなかった。
バルケン親子が足早にその場を離れていくのを見届けると、レギュラスはふう、と小さく息を吐いた。
そして、アランの方へ視線を戻す。
「……すみませんね、アラン」
静かに言う。
「こういう場では、どうしても噂話が先に歩きます。
あなたにとっては、愉快な話題ではないと分かっているのに、避けきれず、耳に入ってしまう」
アランは、首を横に振った。
「いいえ。……あなたが、間に入ってくださらなければ、もっと……」
もっと、ローランドを貶める言葉を聞いてしまっていたかもしれない。
そう思うと、言葉の先が震えてしまう。
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「フロスト殿は、誠実な男です」
淡々とした声で、しかしどこか遠くを見るように続ける。
「あなたが彼を選んでいたとしても、彼はきっと、あなたを大切にしたでしょう。
それぐらいのことは、僕も分かっています」
アランの翡翠の瞳が、驚きに揺れた。
「……レギュラス」
「ただ、その未来を選ばなかったのは、僕であり、セシール家であり、フロスト殿自身でもある」
レギュラスは、そこで視線を戻し、アランをまっすぐ見つめる。
「だから、誰かが軽々しく“どちらが賢明か”なんて話をするのは――僕も、あまり好きではないのですよ」
その言葉には、珍しく、彼自身の感情が滲んでいた。
アランは、胸の奥にこみ上げる何かをどうにか飲み込む。
「……ありがとうございます」
それが精一杯だった。
レギュラスは、ふっと笑みを取り戻した。
「今の話は、忘れてしまって構いません。
あなたは、ただ今夜を楽しめばいい」
そう言って、さりげなくアランのグラスを受け取り、新しいドリンクと交換する。
その仕草は、いつもの「魔法省役員」としての顔ではなく、
ただ「妻を守ることを当然とする夫」のそれだった。
遠くでは、また新しい曲が始まっている。
人々の笑い声、シャンデリアの光、揺れるドレスの裾。
アランはグラスを握りしめたまま、ほんの一瞬、目を閉じた。
胸の奥で、ローランドの名と、レギュラスの声が交錯していく。
そして次に瞼を開けたとき、彼女は再び「ブラック家の若夫人」としての顔を整え、夫の隣に立った。
音楽が一段落し、人々の視線が再び舞踏の輪から離れ始めた頃だった。
大広間の端に設けられた小さなバルコニーは、ホールの喧噪から一歩だけ距離を置いた場所だった。
開け放たれたガラス扉の向こうには、夜気を含んだ空気と、庭園に灯された魔法灯の柔らかな光が流れ込んでいる。
レギュラスとアランは、そのバルコニーに並んで立っていた。
高い欄干に背を預けるようにして、レギュラスは手にしたグラスを軽く傾ける。
淡い琥珀色の液体が、月光と魔法灯の光を受けてゆらりと揺れた。
室内からは、まだ楽しげな笑い声がかすかに届いている。
けれど、ここだけは少し温度が違った。
夜風が緊張した肌を撫で、胸に残る熱をほんの少しだけ冷ましてくれる。
「……なぜ、社交界に出てこられなかったんです?」
ふいに、レギュラスが口を開いた。
視線はグラスに落としたまま。
けれど、横顔の角度からして、意識は確かに隣の妻へ向けられているのが分かる。
「セシール家の一人娘。美しい娘がいるとは、前からよく耳にしていました」
ゆっくりとグラスを回しながら続ける。
「けれど、実際にあなたを見た者はほとんどいなかった。
今夜も、初めてあなたを目にして“噂は本当だったのだな”とざわついている者ばかりでしたよ」
アランは、手にした透明なグラスの縁を指先で撫でた。
淡い色合いの果実酒が、彼女の動きに合わせて静かに波打つ。
「……そう、なのですね」
夜気に紛れた声は、どこか遠くから響いてくるように薄かった。
レギュラスは、そこでようやく彼女の方を向く。
「もし、社交界に普通に出てきていたのなら」
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「僕は、もっと早くにあなたに目をつけていたでしょうね」
軽い冗談めかした物言いだったが、その下にある本音は分かりやすかった。
社交界に姿を見せていたなら、とっくに接触していた。
ゲームのように扱ってきた他の誰よりも優先して、真っ先に手を伸ばしていただろう。
アランは、グラスの中身を見つめたまま、かすかに瞼を伏せる。
「……社交界に出てこなかった理由、ですか」
呟くように言ったあと、ゆっくりと続けた。
「父の研究に、つききりだったからですわ」
セシール家が魔法薬で富を築いていることは、レギュラスもよく知っている。
エドモンド・セシールが一度研究に没頭すると、周囲の時間まで巻き込むほど集中してしまうことも、有名な話だった。
「新しい魔法薬の試作が始まると、父は夜通し研究室に籠もることが多くて。
私も、その傍で材料を整えたり、記録を取ったり……そうしていると、いつの間にか社交の場に出る時間など、ほとんど残っておりませんでした」
言葉自体は淡々としている。
しかし、その声の奥に、別の色が混じり始めているのをレギュラスは聞き取った。
「父は、あまり社交界が得意ではありませんでしたから。
私がそちらへ出るくらいなら、“ここで役に立ってくれ”といつも言っていました」
そこまでは、表向きの理由だった。
アランの瞳が、ふと遠くを見た。
庭園に浮かぶ魔法灯の光を透かして、その翡翠色がわずかに揺れる。
——本当に、研究だけだっただろうか。
胸の内側で、別の問いが小さく頭をもたげる。
研究室の片隅で広げていた本。
窓辺で差し入れの菓子を食べながら、向かい合って笑った横顔。
ローランド・フロスト。
幼い頃から、父の研究室のある棟には、よく彼の姿があった。
魔法薬の材料の運搬を手伝ったり、父の書類を纏めたり、時には実験器具の調整までしていた。
研究室隣の小さな応接室は、アランとローランドがよく宿題を広げる場所だった。
インクの匂いと、魔法薬の香りと、彼の柔らかい笑い声。
外の世界がどれほど華やかであっても、その小さな世界の方が、ずっと大切で、居心地が良かった。
「……父の研究の傍で過ごしている時間が、好きでした」
ぽつりと、アランは続けた。
「新しい薬の配合が成功した時の父の顔を見るのが、嬉しくて。
そして、そのそばで……」
言いかけて、言葉が喉につかえた。
ローランドと過ごした日々が、否応なく浮かび上がる。
幼い頃、洟をすすりながら薬草の名前を覚えた午後。
十代になってから、手を伸ばせば簡単に繋げる距離で、あえて距離を保つようになった夜。
誠実な横顔で、「いつか正式に」と告げられた時間。
その全てが、「社交界」という言葉とは別の世界にあった。
指先が、グラスの表面をきゅっと掴んだ。
「……そのそばで?」
レギュラスの声が、静かに促す。
アランは、喉の奥に溜まったものを飲み込むように、小さく息を吸った。
「そのそばで……私の世界は、十分に満ちておりましたから」
震えを抑えようとしたせいで、声はかえって掠れた。
「社交界で誰かと踊るよりも。
誰かに美しいと言われるよりも。
父の机の横で、薬草の香りに包まれながら過ごす時間の方が……」
そこまで言って、アランは言葉を止めた。
ローランドの名を出すことは、今この場ではあまりに生々しい。
たった今も、その名に関する噂話で胸を抉られたばかりだ。
口に出してしまえば、きっともう二度と元には戻れない。
それでも、思考の中では、どうしてもその姿が浮かんでしまう。
幼い頃、背が自分より少しだけ高くなったと嬉しそうに笑っていた少年。
書斎の外廊下で、こっそり手を繋いで歩いた夕暮れ。
「いつか」と未来を語った声音。
そのひとつひとつを思い出すたび、胸の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。
レギュラスは、そんな彼女の横顔をじっと見つめていた。
翡翠の瞳が、言葉にはならない何かで満ちていく。
それが、誰の影を映しているのかを知らないわけではない。
「……その“十分に満ちていた世界”に、僕が割り込んだわけですね」
軽く笑うように言ったが、その声音にはかすかな棘が混じる。
「社交界に出てきてくれていれば、もっと早く邪魔ができたのに」
冗談めかした一言だった。
だが、アランには笑えなかった。
グラスの縁が、指先の震えでかすかに鳴る。
「……申し訳、ありません」
思わず口をついて出たのは、その言葉だった。
何に謝っているのか、自分でも判然としない。
社交界に出なかったことか。
彼の目に留まるのが遅れたことか。
それとも、ローランドで埋め尽くされていた十代の日々そのものに対してか。
声が、わずかに震えている。
レギュラスは、その震えを聞き分けた。
「謝る必要はありませんよ」
グラスを欄干に預けるようにして置き、アランの方へ身体を向けた。
「あなたがどこで、誰と、どんな時間を過ごしてきたのか。
それは、もう変えようがない過去です」
その言い方は、決して責めてはいない。
けれど、容赦もなかった。
「今ここにいるのは、その全てを経たあなたであって」
そっと、彼女の手からグラスを取り上げる。
「そして、今後の時間を共に過ごす相手は、僕だというだけのことです」
アランは、視線を落としたまま、唇をきゅっと結んだ。
喉の奥に、言葉にならないものがせり上がってくる。
それを必死に押し戻そうとするように、息を細く吐いた。
レギュラスの指先が、彼女の手の甲に触れる。
夜風に冷えた肌に、微かな温度が乗る。
「社交界に出てこなかったからこそ、今夜、こうして皆があなたに目を奪われている。
隠されていた宝石がようやく姿を現したと、誰もが思っている」
そこで、一瞬言葉を切り、静かに付け加えた。
「……僕だけが、それを独り占めにしているのだと、実感できる夜でもあります」
アランの胸が、ずくりと痛んだ。
ローランドと過ごした日々を思い出した直後に、今度はレギュラスの言葉が、現在の自分の立ち位置を突きつけてくる。
過去はローランドで満ちていた。
けれど今、彼女の傍らに立ち、グラスを傾けているのはレギュラスだ。
その事実は、誰の目にも、あまりに明白だった。
アランは、かろうじて微笑を形作る。
「……今夜のことは、決して忘れません」
それが、過去と現在のどちらに対する言葉なのか、自分でも分からないまま。
レギュラスは、満足げに頷いた。
「ええ。忘れないでください」
夜の庭から吹き込む風が、二人の間を通り抜けていく。
魔法灯の光に照らされたバルコニーで、翡翠の瞳と灰色の瞳が交差し、その奥にそれぞれまったく違う影を抱えたまま、静かにグラスがぶつかり合った。
