1章
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気づけば、それは「例外」ではなく「習慣」になっていた。
屋敷に来た当初、アランが必死に提示した「寝室は別に」という条件は、誰に言われたでもなく、いつのまにかあってないものへと変わっていった。
最初の頃は、夜が更けてからレギュラスが迎えに来ていた。
扉を叩く控えめなノックの音に、胸をきゅっと縮ませながら返事をする。
廊下を歩くあいだ、足音と心臓の鼓動が互いの音を侵し合い、寝台の帷の向こう側に広がる世界をひたすら恐れていた。
けれど、いつからか――
ノックの回数は、減った。
代わりに、夕食の席でごく自然な口調で告げられるようになる。
「今夜も、こちらでお休みくださいね」
まるで「明日は雨になりそうですね」と同じ程度の、なんでもない話題のように。
アランは、そのたびにゆっくりと頷いた。
否定の言葉を口にする選択肢は、もうどこにも見当たらない。
自室のベッドに身を横たえることの方が、むしろ落ち着かないと感じ始めている自分に気づくたび、胸の奥で小さな自己嫌悪が膨らむ。
レギュラスの寝室は、夜になると静かな熱を帯びる。
厚手のカーテンはぴたりと閉じられ、外界とこの部屋とをはっきりと分断していた。
暖炉にはいつも火が入り、柔らかな灯りと温度が、天蓋付きの寝台を中心に部屋全体を包み込む。
帷の内側に入ると、もう後戻りはできない。
そう頭では分かっているのに、足が自然とその中へ踏み込んでいく。
初めの頃は、触れられるたびに身体が跳ねた。
肩に置かれた手、頬を撫でる指、唇に触れるぬくもり。
すべてが「これはいけないことだ」と警鐘を鳴らしていた。
だが、回数を重ねるごとに、その警鐘は少しずつ形を変えていく。
恐怖は、やがて、戸惑い混じりの期待に。
警戒は、やがて、自分でも気づかないうちに力の抜けた受容に。
ある夜、レギュラスは、彼女の喉元に口づけを落としたあと、ふと顔を上げて言った。
「……いい反応をしますね」
囁きは、暖炉の火よりも低く、柔らかく落ちる。
アランは、息を詰めたまま目を閉じていた。
自分がどんな表情を浮かべているのか、見られるのが怖くて仕方がない。
けれど、見られたくないと願うほど、その瞬間の自分がどれほど「よく反応してしまっている」のかを、自覚させられる。
彼の指が、背中の線をなぞる。
逃げようとすれば逃げられるはずの優しい圧力なのに、身体はその温度を受け取る方向へと自然に傾いていく。
かすかな震え、浅くなる呼吸、押し殺したつもりの吐息。
それらすべてが、レギュラスにとっては分かりやすい「答え」だった。
レギュラスは、その答えを、当然のように受け取った。
本来、自分はこういうものを当たり前に享受する立場に生まれついている――彼は、そう思っていた。
若きブラック家の後継として。
魔法省の役員として。
金も地位も名誉も、望めば大抵は手に入る場所に身を置いてきた。
ならば、妻の反応も、その延長線上にあるべきだ。
美しい妻が、夫の手に応じて震え、声を詰まらせ、やがて素直な反応を隠しきれなくなっていく。
それは、彼にとってごく自然な「帰結」であった。
最初の頃、アランの中にあった戸惑いや不安、警戒の色は、回数を重ねるごとに薄れていった。
もちろん、罪悪感や躊躇いが完全に消えたわけではない。
それでも、触れられた場所から伝わってくる熱と、そこに生まれる疼きに対して、身体だけは正直に応えてしまう。
眉を寄せる。
名前を呼ばれて、かすかに声が漏れる。
逃げようと伸ばした手が、いつのまにか彼のシャツを掴んでいる。
そうした瞬間がひとつ増えるたび、レギュラスの胸の内には、静かな陶酔が満ちていった。
――この反応を引き出せるのは、自分だけだ。
そう思うと、喉の奥が甘いもので満たされるような心地がした。
アランの身体は、彼にとって、徐々に「地図」を持つものになっていく。
どこに触れれば息が止まり、
どの角度で名前を囁けば、肩から力が抜けるのか。
指を滑らせる速さ、口づけを落とす順序、距離の詰め方。
それらを、一度きりの偶発的な反応で終わらせるつもりはなかった。
魔法省で相手の表情を読み取り、わずかな声色の変化から本音を拾い上げることに慣れた男の目は、夜の寝台の上でも、同じ精度を保っていた。
かすかな震えも、瞬きの回数も、唇を噛む強さも――
すべてが、彼にとっては「次にどこへ触れればよいか」を示す、確かな指標になる。
そして何より、その全てを熟知しているのは、自分だけだという事実。
この屋敷の中で。
この世界の中で。
アラン・ブラックの肌の温度を知り、
その身体の隅々までの「反応の地図」を持っているのは、夫である自分だけだという確信。
それが、レギュラスの誇りを、甘美な酒のように満たしていく。
夜は、いつの間にか「彼の寝台にアランの姿があること」が前提で流れ始めた。
廊下を照らす魔法灯が弱まる頃には、アランは自然とレギュラスの部屋の前に立っている。
ノックの回数も、ためらいの間も、少しずつ短くなっていく。
寝台の帷が引かれ、内側に二人分の体温が閉じ込められる。
その閉ざされた空間で、彼女は少しずつ「妻」としての在り方を身体で覚えていった。
声を上げることは、いまだに怖い。
露骨に求めることも、きっとこの先もしない。
それでも、触れられれば、そこに反応が生まれる。
拒まないこと。
受け入れること。
時折、自分でも制御できないほど素直に、その快楽に身体を委ねてしまうこと。
それらが、いつのまにか「日常」の一部になっていた。
「全てが、うまくいっていますね」
ある夜、アランが寝息を整え始めたあと、レギュラスはひとり静かに呟いた。
彼女の黒髪が枕の上にひろがっている。
その一房を指に巻きつけ、ほどきながら、彼は自分の胸の内を確かめた。
屋敷は安定している。
セシール家との関係も盤石。
魔法省での立場も揺るぎない。
そして何より――
この寝台には、夜ごと、美しい妻が横たわっている。
戸惑いに震えていた肩は、いまや彼の腕の中で自然に力を抜き、
警戒に固く閉ざされていた唇は、ときに自分の名を震えながら呼ぶ。
全てが、自分の手の内で動いているように思えた。
甘美な酒を、毎晩少しずつ飲み続けているような心地だった。
喉を滑るたびに、身体の奥までとろりとした満足が浸透していく。
この妻を、こうして毎晩堪能できるのは、レギュラス・ブラックだけであるという事実。
この身体の奥底から響く反応を、どこからどのように引き出せばよいかを熟知しているのが、自分だけだという陶酔。
彼は、その感覚に身を委ねることを覚え始めていた。
全てが、うまくいっている。
少なくとも、その夜までのレギュラスには、そうとしか思えなかったのだ。
朝の大広間は、磨き上げられた銀器と白いクロスの上に、淡く柔らかな光をたたえていた。
高い窓から差し込む陽光が、カーテンの隙間から斜めに伸びている。
ポットから立ちのぼる湯気はその光をくぐり、一瞬だけ金色に透けたあと、ゆるやかに消えていく。
長いテーブルには、焼きたてのパンと、香り高い紅茶、よく熟れたベリーや柑橘類が美しく並べられていた。
それぞれの皿の配置は完璧に整い、ナイフとフォークの角度までもが、ブラック家の規律を反映しているかのように乱れない。
その一角に、アランは静かに腰を下ろしていた。
ヴァルブルガは、いつものようにテーブルの上座近くに座り、紅茶のカップを指先で優雅に支えている。
オリオンは新聞を脇に置き、ゆったりとした仕草でナイフを動かしていた。
レギュラスは、アランの斜め向かいの席で、皿に取り分けられた卵料理にさほど感情の起伏も見せず、淡々と朝食を口に運んでいる。
何も知らないふりを決め込んでいるのか。
それとも、本当に「何も問題がない」と思っているのか。
アランには、その区別をつける余裕がなかった。
昨夜のことが、どうしても頭から離れない。
寝台に沈められた自分。
何度も名を呼ばれ、身体の奥から引き出される反応を、自らの声で誤魔化しきれなかったこと。
――今朝も、あの指先で起こされて。
その記憶を思い出した瞬間、心臓がどくんと大きく跳ね、指先に力が入る。
ナイフの先が皿の縁をかすめ、かち、と小さな音が響いた。
ヴァルブルガの視線が、すっとそちらへ流れた。
「アラン」
名を呼ばれ、アランは慌てて背筋を伸ばした。
「は……はい、ヴァルブルガ様」
「そんなに力を入れていては、ナイフも疲れてしまいますわよ」
柔らかな声で告げられる。
叱責というより、むしろどこか微笑ましさを含んだ口調だった。
「申し訳ありません。不注意でした」
アランは慌てて頭を下げた。
頬の内側がじんわりと熱くなるのを、どうしようもなく感じる。
ヴァルブルガは紅茶を一口含み、その香りを味わうように瞼を伏せてから、ふと唇に笑みを浮かべた。
「夫婦仲が良いのは、たいへん結構なことですけれど」
唐突に切り出された言葉に、アランの胸が小さく跳ねた。
……夫婦仲。
その一語が、やけに直接的に耳に響く。
「ほどほどになさっておかないと、式の前にお腹が出てしまうかもしれませんよ」
カップをソーサーに戻しながら、ヴァルブルガは続けた。
「せっかく仕立てている美しいドレスが、予定通りお召しになれなくなっては困りますわ。
あれほどラインにこだわって選んでいるのですもの」
声色は優雅なまま。
しかし、その内容は遠回しなようでいて、はっきりとした指摘だった。
アランの時間が、ぴたりと止まる。
――式の前に、お腹が出る。
つまり、懐妊する可能性の話だ。
まるで当たり前のように、それが「あり得ること」として前提にされている。
昨夜と今朝の出来事が、一気に生々しい意味を持って胸の奥に押し寄せてきた。
寝台で肩を抱かれた感触、体内に残るぬくもり。
その全てが、「子を授かる」という言葉と太い線で結びついてしまう。
喉が、からからに渇いた。
どう返せばいいのか分からない。
「そんなことはありません」と否定してしまうのは、まるで昨夜の行為そのものを否定することになる気がした。
かといって、肯定することもできない。
アランが言葉を失っていると、新聞をたたんでいたオリオンが低く笑った。
「そんなもの、選び直せばいいだろう」
紅茶を口に運びながら、あっさりと言う。
「式のためにドレスを合わせるのか、妻に合わせてドレスを仕立てるのか。
重要なのはどちらかなど、考えるまでもないことだ」
その言い方は、ブラック家当主としての当然の見解だった。
純血の家において、跡継ぎを望むことは最優先事項であり、衣装など後からどうとでもなる些細な問題だという価値観が、そこにはある。
ヴァルブルガも、それを否定はしない。
「もちろん、そうなのですけれど」
唇に笑みを残したまま、軽く肩を竦める。
「でも、せっかくアランにお似合いのラインをあれこれ考えて選んでいるのですもの。
式までは、美しいラインのままで立っていただきたいと思うのは、母としてのささやかな願いですわ」
母――。
その響きに、アランの胸がまたひとつ締めつけられた。
ヴァルブルガは、アランに対して厳しい面も多いが、それでも「ブラック家の若夫人」として認めている。
その目に、妻として、そして未来の母としての姿を期待しているのが、ありありと分かる。
その期待が、今こうして「夫婦仲が良すぎるのも考えものですよ」という、苦笑まじりの忠告に姿を変えているのだ。
「……ヴァルブルガ様」
アランは、どうにか声を整えた。
「至らぬ身で、そのようにお心を砕いていただけること、身に余る思いでございます。
ドレスも、式の日も……ブラック家に恥じぬよう努めたいと存じます」
できる限り丁寧に。
言葉尻が震えないように気をつけながら、彼女は返答した。
ヴァルブルガは、満足げに頷く。
「ええ。あなたなら、ちゃんとやってくださると信じていますわ」
その視線には、純血の血統の中にふさわしい花嫁としての期待と、ひそやかな誇りが滲んでいた。
――問題は、「ちゃんとやる」の意味が、どこまで含んでいるかだ。
アランの内側では、羞恥と気まずさがぐちゃぐちゃに絡み合い、知らぬ間に息苦しさへと姿を変えていた。
昨夜、レギュラの腕の中で震えた自分。
あの温度と、この朝食の席で交わされている会話が、酷く残酷なまでに一本の線で繋がっていく。
そんな中で、レギュラスは――。
相変わらず涼しい顔をしていた。
母の言葉にも、父の言葉にも、大きく表情を変えることはない。
ただ、ナイフとフォークを美しい所作で動かしながら、卵とハムを口に運び、紅茶をひと口含む。
ようやく、静かに口を開いた。
「ご心配は、ありがたく受け取っておきます。
ですが、ドレスに関しては、必要とあればいくらでも仕立て直せますから」
声は穏やかだったが、その下に「式の前に子ができても構わない」と言い切る強さがあった。
「アランがブラック家の妻であり、いずれ母になるという事実の前では、布地の問題など些末なものです」
さらりと、何気ない会話の延長線上のように告げる。
アランは、反射的にレギュラスの方を見てしまい――慌てて視線を落とした。
眼差しがぶつかる寸前、灰色の瞳の端がかすかに笑ったように見えたのは、気のせいだと信じたかった。
彼だけが、この場でただ一人、昨夜と今朝の具体的な記憶を共有している。
その事実が、アランの羞恥をさらに強く煽る。
「レギュラ……」
小さく名を呼びかけてしまい、すぐに言葉を飲み込む。
何を言えばいいのか分からないからだ。
レギュラスは、微かに首を傾けただけで、特に続きを促しもしなかった。
その無造作さが、返って「この程度の話題で取り乱す必要はない」と言っているように思えてしまう。
テーブルの上では、銀器が静かな音を立てていた。
果物を切る音。
パンを割く音。
紅茶が注がれる音。
全てが、いつも通りの日常の一部のように流れていく。
ただ一人、アランの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃになっていた。
夫婦仲が良いことは結構だと言われ、
式の前にお腹が出てはドレスが着られないと笑われ、
ならば選び直せばいいと当然のように告げられる。
その会話に、何ひとつ「間違い」はない。
むしろ、純血貴族の世界では、それが最もまっとうなやり取りなのだろう。
だからこそ、恥ずかしさをどこにもぶつけられない。
ここにいる自分は、すでに「アラン・セシール」ではなく、「アラン・ブラック」なのだと。
その事実が、否応なく胸に刻みつけられる朝だった。
レギュラスは、最後まで乱れない手つきで朝食をとり終えると、ナプキンを丁寧に畳んだ。
「ごちそうさまでした」
そう一言残し、席を立つ。
その背中には、微笑ましい母の苦言も、父の豪胆な一言も、「すべて想定内」とでも言いたげな静かな余裕が宿っていた。
残されたアランは、冷めかけた紅茶を前に、カップを持つ指先に力を込める。
それでも、顔には決して羞恥を浮かべまいと、ひたむきに表情筋を整えていた。
――すべてが、うまくいっているように見える。
少なくとも、この朝食の席にいる誰かの目には。
貴族街の一角、その夜に限ってひときわ明るく灯をともしている大邸宅があった。
白亜の外壁には魔法灯が等間隔に浮かび、門から玄関ホールまで続く石畳には、流星の尾のような光がゆるやかに流れていく。主宰は古い名家ノット家。純血たちのあいだで、季節ごとに開かれる社交の場としてよく知られている屋敷だった。
ホールの扉が開かれる。
最初に姿を現したレギュラスは、いつも通り整いすぎるほど整った灰色の瞳で会場を一瞥した。
その隣に立つのは、翡翠の瞳を持つ黒髪の若い妻――アラン・ブラック。
淡い銀糸を織り込んだ深いグリーンのドレスが、彼女の瞳の色を拾い上げている。
肩から背にかけて滑らかに落ちる黒髪は、ふだんより少しだけ手を加えられ、細かなウェーブが光を受けて柔らかく揺れていた。
首元にはブラック家の紋章をあしらった繊細なネックレス。
その一つ一つが「誰の妻であるか」をこれ見よがしに示している。
ホールのざわめきが、一瞬だけ揺らぎ、収束する。
視線が、一斉に二人へと吸い寄せられた。
ひそひそと交わされる声が、音を抑えた波紋のように広がる。
「……ブラック家の若夫婦だわ」
「本当に噂通りの……」
「あれが、セシール家の一人娘……」
羨望と好奇、あるいは嫉妬。
さまざまな色を帯びた視線が、天井のシャンデリアに反射した光とともに、まるで目に見える糸のように二人のもとへ降り注いでいた。
アランは、その重さを身体の表面で受け止めていた。
胸の内側に、ほんのわずかな息苦しさが生まれる。
けれど、足取りは乱さない。
レギュラスが差し出した腕に、そっと自分の手を添えたまま、堂々とホールの中央を進んでいく。
隣の男は、微塵も動じていない。
むしろ、これくらいの注目を浴びることを前提にしているかのような落ち着きで、微笑を薄く浮かべていた。
やがて、二人の前に一人の男が近づいてきた。
きっちりと仕立てられたローブをまとい、淡い色の髪を後ろでまとめた男。
鋭さを湛えた目元には、礼節とわずかな遊び心が同居している。
「初めてお目にかかります、アラン・ブラック嬢」
その男――バーテミウス・クラウチ・ジュニアは、魔法省の顔として知られるレギュラスの右腕であり、古くからの悪友でもある。
今夜は、普段の冷静な報告口調を少しだけ和らげ、社交の場にふさわしい笑みを浮かべていた。
アランの前に立つと、深く一礼する。
「レギュラスから、あなたのお話は度々伺っておりました。
こうしてお目にかかれたことを光栄に存じます」
アランは、視線をほんのわずかに持ち上げ、翡翠の瞳を彼に向ける。
その瞳の奥に宿るわずかな警戒と、それを必死に抑え込もうとする意志は、よほど注意深く見なければ分からない。
「こちらこそ、クラウチ様。
いつも主人がお世話になっております」
そう言って、ゆるやかにスカートの裾をつまみ、完璧な角度で礼をした。
美しい微笑みが唇の端に浮かぶ。
それは、緊張と羞恥とを見事に覆い隠すために磨かれた社交界の仮面でありながら、どこか儚さを湛えていて、見る者の胸を打つものだった。
周囲から、さらに小さなどよめきが上がる。
「あれが……セシール家の娘の……」
「ブラック夫人と呼ばれる日も近いのね」
「なんて絵になる二人かしら」
バーテミウスは、その空気を存分に味わうように周囲を見回し、それからレギュラスの方に目を戻した。
「……この会場の羨望と嫉妬を、一身に受けていますよ、レギュラス」
口元ににやりとした笑みを浮かべながら囁く。
レギュラスは「そうですか」とでも言いたげに、ごく僅かに肩を竦めた。
「大袈裟ですよ」
淡々と返しながらも、その声音には愉悦が滲んでいる。
「行きましょう、アラン。ノット家に、まだご挨拶をしていません」
さらりと話題を切り替え、アランの方へ視線を向けた。
「はい」
アランは素直に頷き、レギュラスの腕に添えた手にほんの少しだけ力を込めた。
その仕草は、従順であり、かつ夫への信頼を示すものとして、周囲には美しく映る。
実際、会場のあちこちから羨望の眼差しが向けられていた。
「見た? あの従順さ」
「ブラック家の妻として、完璧な振る舞いね」
「それにしても……あの美しさで、あの控えめさだなんて」
アランには、その声の具体的な言葉までは届かない。
ただ、背中に刺さる視線の熱だけが、ドレス越しに伝わってくる。
レギュラスに導かれるまま、アランは会場を回る。
ノット家の当主夫妻に丁寧に挨拶をし、
古くからブラック家と付き合いのある老貴族に頭を下げ、
また別の若い令嬢からは、憧れを隠しきれない瞳で「ドレスがとてもお似合いです」と囁かれた。
そのたびに、アランは決して表情を崩さず、穏やかな笑みを浮かべ続ける。
「光栄ですわ。ありがとうございます」
「ブラック家の皆様に、温かく迎えていただいております」
「まだ未熟ではございますけれど、妻として恥じぬよう努めたいと存じます」
一つ一つの言葉は、まるであらかじめ用意された台詞のように滑らかだった。
けれどそこには、空疎さはなかった。
真面目さと、慎ましさと、立場をわきまえようと必死に足場を固めている意志が滲んでいる。
レギュラスは、その様子を隣で見守りながら、小さく満足げに笑った。
――よくやっている。
そう思っているのが、視線の柔らかさから伝わってくる。
アランが誰に挨拶をしているときも、彼は半歩後ろに位置を取り、必要なときには名前と立場を補い、彼女が困らない程度に会話の流れを整えていた。
その立ち位置は、完璧だった。
妻を前に出しすぎず、しかし隠しもしない。
「ブラック家の若夫婦」として、二人がひとつの絵になるように、慎重に距離を測っている。
ふと、バーテミウスが再び近づいてきた。
グラスを片手に、余裕の笑みを浮かべている。
「本当に、見事ですね」
声の届く範囲は、レギュラスとアランだけ。
周囲には聞こえないよう、絶妙な音量で呟いた。
「レギュラスが妻を連れて歩く姿……これほど“出来上がった絵”になるとは」
「買いかぶりすぎですよ、バーテミウス」
レギュラスは軽く笑う。
「事実を述べただけです」
バーテミウスは、グラスの中の液体をゆっくり揺らしながら、会場を一瞥した。
「見てください。この視線の渦を。
羨望と嫉妬、好奇心と計算……全部まとめて、今夜はあなた方に向いている」
アランは、思わず視線を落とした。
自分がそんな渦の中心にいることを、あらためて突きつけられた気がしたからだ。
レギュラスは、わずかに顎を上げる。
「なら、なおさら礼を欠くわけにはいきませんね。
アラン、あちらにいるのはホプキンス家のご婦人方です。
母が昔から付き合いのある家ですから、ご挨拶しておきましょう」
「はい」
アランは素直に頷く。
戸惑いも、不安も、警戒も――この場では一切見せない。
レギュラスの腕に添えた手を、ほんの少しだけ握り直し、彼の導く方へと歩き出した。
従順であることは、いまや彼女が自分を守るために身につけた一つの術だった。
それが同時に、周囲から見れば「理想的な妻」として映ることを、彼女は薄々理解している。
バーテミウスは、その背中を眺めながらグラスを傾ける。
「……本当に、よく手に入れましたね、レギュラス」
誰にともなく呟かれたその言葉は、グラスの縁に反射した光と共に静かに消えていった。
煌びやかな音楽と、笑い声と、シャンデリアのきらめき。
その渦の中心で、アラン・ブラックは夫の腕に手をかけ、ひとつひとつの挨拶をこなしていく。
誰もが彼女とレギュラスを目で追っていた。
羨望と嫉妬と憧れと――そのすべてを一身に受けながら、アランは翡翠の瞳に柔らかな光を宿し、静かに微笑み続けていた。
ノット家の大広間には、楽団の奏でるやわらかな音楽が満ちていた。
弦の響きがシャンデリアの光と混じり合い、笑い声やグラスの触れ合う音を、すべてひとつの「華やかさ」という名の布で覆い隠していく。
レギュラスとアランがひととおり主だった家々への挨拶を終えた頃には、すでに二人の周囲には、自然と人の輪ができ始めていた。
——最初に現れたのは、金糸のような髪をまとめ上げた若い夫人だった。
「まぁ、レギュラス様」
軽やかに微笑みながら、手にしたグラスを胸の前で揺らす。
その瞳は、懐かしさとわずかな挑発を混ぜたような色をしていた。
「本当に、お久しぶりですわ。あの頃は、よくご一緒していただきましたのに……最近は、すっかりご無沙汰で」
「ご一緒していただきました」という言葉には、明らかに舞踏以上の含みがあった。
それは、社交界の女たちが好んで使う、上品な遠回しだった。
アランの背筋が、かすかに強張る。
レギュラスは、しかし少しも表情を変えなかった。
「光栄です。覚えていていただけたとは」
穏やかに微笑む。
「とはいえ、僕の方こそ、あの頃は随分と無分別でしたからね。
あなたの貴重なお時間を騒がしくした覚えしかありません」
自嘲気味の物言いに、女は声を立てて笑った。
「あら、そんな。無分別だなんて。とても楽しい時間でしたわ。
ねぇ、あの夜会の帰りに——」
そこで女は、ふとアランの存在に気づいたように、言葉を切った。
「まぁ、失礼しましたわ。奥様の前で昔話をするものではありませんわね」
わざとらしい「気づき」だった。
言葉を途中で切ることで、かえって想像の余地を増やしている。
アランは、微笑を崩さずに頭を下げた。
「いいえ。夫が皆様から慕われていらっしゃるご様子を拝見できて、安心いたします」
自分でも驚くほど、声の調子は落ち着いていた。
内心の冷たさが、そのまま氷の板のように表情筋を支えているような感覚があった。
屋敷に来た当初、アランが必死に提示した「寝室は別に」という条件は、誰に言われたでもなく、いつのまにかあってないものへと変わっていった。
最初の頃は、夜が更けてからレギュラスが迎えに来ていた。
扉を叩く控えめなノックの音に、胸をきゅっと縮ませながら返事をする。
廊下を歩くあいだ、足音と心臓の鼓動が互いの音を侵し合い、寝台の帷の向こう側に広がる世界をひたすら恐れていた。
けれど、いつからか――
ノックの回数は、減った。
代わりに、夕食の席でごく自然な口調で告げられるようになる。
「今夜も、こちらでお休みくださいね」
まるで「明日は雨になりそうですね」と同じ程度の、なんでもない話題のように。
アランは、そのたびにゆっくりと頷いた。
否定の言葉を口にする選択肢は、もうどこにも見当たらない。
自室のベッドに身を横たえることの方が、むしろ落ち着かないと感じ始めている自分に気づくたび、胸の奥で小さな自己嫌悪が膨らむ。
レギュラスの寝室は、夜になると静かな熱を帯びる。
厚手のカーテンはぴたりと閉じられ、外界とこの部屋とをはっきりと分断していた。
暖炉にはいつも火が入り、柔らかな灯りと温度が、天蓋付きの寝台を中心に部屋全体を包み込む。
帷の内側に入ると、もう後戻りはできない。
そう頭では分かっているのに、足が自然とその中へ踏み込んでいく。
初めの頃は、触れられるたびに身体が跳ねた。
肩に置かれた手、頬を撫でる指、唇に触れるぬくもり。
すべてが「これはいけないことだ」と警鐘を鳴らしていた。
だが、回数を重ねるごとに、その警鐘は少しずつ形を変えていく。
恐怖は、やがて、戸惑い混じりの期待に。
警戒は、やがて、自分でも気づかないうちに力の抜けた受容に。
ある夜、レギュラスは、彼女の喉元に口づけを落としたあと、ふと顔を上げて言った。
「……いい反応をしますね」
囁きは、暖炉の火よりも低く、柔らかく落ちる。
アランは、息を詰めたまま目を閉じていた。
自分がどんな表情を浮かべているのか、見られるのが怖くて仕方がない。
けれど、見られたくないと願うほど、その瞬間の自分がどれほど「よく反応してしまっている」のかを、自覚させられる。
彼の指が、背中の線をなぞる。
逃げようとすれば逃げられるはずの優しい圧力なのに、身体はその温度を受け取る方向へと自然に傾いていく。
かすかな震え、浅くなる呼吸、押し殺したつもりの吐息。
それらすべてが、レギュラスにとっては分かりやすい「答え」だった。
レギュラスは、その答えを、当然のように受け取った。
本来、自分はこういうものを当たり前に享受する立場に生まれついている――彼は、そう思っていた。
若きブラック家の後継として。
魔法省の役員として。
金も地位も名誉も、望めば大抵は手に入る場所に身を置いてきた。
ならば、妻の反応も、その延長線上にあるべきだ。
美しい妻が、夫の手に応じて震え、声を詰まらせ、やがて素直な反応を隠しきれなくなっていく。
それは、彼にとってごく自然な「帰結」であった。
最初の頃、アランの中にあった戸惑いや不安、警戒の色は、回数を重ねるごとに薄れていった。
もちろん、罪悪感や躊躇いが完全に消えたわけではない。
それでも、触れられた場所から伝わってくる熱と、そこに生まれる疼きに対して、身体だけは正直に応えてしまう。
眉を寄せる。
名前を呼ばれて、かすかに声が漏れる。
逃げようと伸ばした手が、いつのまにか彼のシャツを掴んでいる。
そうした瞬間がひとつ増えるたび、レギュラスの胸の内には、静かな陶酔が満ちていった。
――この反応を引き出せるのは、自分だけだ。
そう思うと、喉の奥が甘いもので満たされるような心地がした。
アランの身体は、彼にとって、徐々に「地図」を持つものになっていく。
どこに触れれば息が止まり、
どの角度で名前を囁けば、肩から力が抜けるのか。
指を滑らせる速さ、口づけを落とす順序、距離の詰め方。
それらを、一度きりの偶発的な反応で終わらせるつもりはなかった。
魔法省で相手の表情を読み取り、わずかな声色の変化から本音を拾い上げることに慣れた男の目は、夜の寝台の上でも、同じ精度を保っていた。
かすかな震えも、瞬きの回数も、唇を噛む強さも――
すべてが、彼にとっては「次にどこへ触れればよいか」を示す、確かな指標になる。
そして何より、その全てを熟知しているのは、自分だけだという事実。
この屋敷の中で。
この世界の中で。
アラン・ブラックの肌の温度を知り、
その身体の隅々までの「反応の地図」を持っているのは、夫である自分だけだという確信。
それが、レギュラスの誇りを、甘美な酒のように満たしていく。
夜は、いつの間にか「彼の寝台にアランの姿があること」が前提で流れ始めた。
廊下を照らす魔法灯が弱まる頃には、アランは自然とレギュラスの部屋の前に立っている。
ノックの回数も、ためらいの間も、少しずつ短くなっていく。
寝台の帷が引かれ、内側に二人分の体温が閉じ込められる。
その閉ざされた空間で、彼女は少しずつ「妻」としての在り方を身体で覚えていった。
声を上げることは、いまだに怖い。
露骨に求めることも、きっとこの先もしない。
それでも、触れられれば、そこに反応が生まれる。
拒まないこと。
受け入れること。
時折、自分でも制御できないほど素直に、その快楽に身体を委ねてしまうこと。
それらが、いつのまにか「日常」の一部になっていた。
「全てが、うまくいっていますね」
ある夜、アランが寝息を整え始めたあと、レギュラスはひとり静かに呟いた。
彼女の黒髪が枕の上にひろがっている。
その一房を指に巻きつけ、ほどきながら、彼は自分の胸の内を確かめた。
屋敷は安定している。
セシール家との関係も盤石。
魔法省での立場も揺るぎない。
そして何より――
この寝台には、夜ごと、美しい妻が横たわっている。
戸惑いに震えていた肩は、いまや彼の腕の中で自然に力を抜き、
警戒に固く閉ざされていた唇は、ときに自分の名を震えながら呼ぶ。
全てが、自分の手の内で動いているように思えた。
甘美な酒を、毎晩少しずつ飲み続けているような心地だった。
喉を滑るたびに、身体の奥までとろりとした満足が浸透していく。
この妻を、こうして毎晩堪能できるのは、レギュラス・ブラックだけであるという事実。
この身体の奥底から響く反応を、どこからどのように引き出せばよいかを熟知しているのが、自分だけだという陶酔。
彼は、その感覚に身を委ねることを覚え始めていた。
全てが、うまくいっている。
少なくとも、その夜までのレギュラスには、そうとしか思えなかったのだ。
朝の大広間は、磨き上げられた銀器と白いクロスの上に、淡く柔らかな光をたたえていた。
高い窓から差し込む陽光が、カーテンの隙間から斜めに伸びている。
ポットから立ちのぼる湯気はその光をくぐり、一瞬だけ金色に透けたあと、ゆるやかに消えていく。
長いテーブルには、焼きたてのパンと、香り高い紅茶、よく熟れたベリーや柑橘類が美しく並べられていた。
それぞれの皿の配置は完璧に整い、ナイフとフォークの角度までもが、ブラック家の規律を反映しているかのように乱れない。
その一角に、アランは静かに腰を下ろしていた。
ヴァルブルガは、いつものようにテーブルの上座近くに座り、紅茶のカップを指先で優雅に支えている。
オリオンは新聞を脇に置き、ゆったりとした仕草でナイフを動かしていた。
レギュラスは、アランの斜め向かいの席で、皿に取り分けられた卵料理にさほど感情の起伏も見せず、淡々と朝食を口に運んでいる。
何も知らないふりを決め込んでいるのか。
それとも、本当に「何も問題がない」と思っているのか。
アランには、その区別をつける余裕がなかった。
昨夜のことが、どうしても頭から離れない。
寝台に沈められた自分。
何度も名を呼ばれ、身体の奥から引き出される反応を、自らの声で誤魔化しきれなかったこと。
――今朝も、あの指先で起こされて。
その記憶を思い出した瞬間、心臓がどくんと大きく跳ね、指先に力が入る。
ナイフの先が皿の縁をかすめ、かち、と小さな音が響いた。
ヴァルブルガの視線が、すっとそちらへ流れた。
「アラン」
名を呼ばれ、アランは慌てて背筋を伸ばした。
「は……はい、ヴァルブルガ様」
「そんなに力を入れていては、ナイフも疲れてしまいますわよ」
柔らかな声で告げられる。
叱責というより、むしろどこか微笑ましさを含んだ口調だった。
「申し訳ありません。不注意でした」
アランは慌てて頭を下げた。
頬の内側がじんわりと熱くなるのを、どうしようもなく感じる。
ヴァルブルガは紅茶を一口含み、その香りを味わうように瞼を伏せてから、ふと唇に笑みを浮かべた。
「夫婦仲が良いのは、たいへん結構なことですけれど」
唐突に切り出された言葉に、アランの胸が小さく跳ねた。
……夫婦仲。
その一語が、やけに直接的に耳に響く。
「ほどほどになさっておかないと、式の前にお腹が出てしまうかもしれませんよ」
カップをソーサーに戻しながら、ヴァルブルガは続けた。
「せっかく仕立てている美しいドレスが、予定通りお召しになれなくなっては困りますわ。
あれほどラインにこだわって選んでいるのですもの」
声色は優雅なまま。
しかし、その内容は遠回しなようでいて、はっきりとした指摘だった。
アランの時間が、ぴたりと止まる。
――式の前に、お腹が出る。
つまり、懐妊する可能性の話だ。
まるで当たり前のように、それが「あり得ること」として前提にされている。
昨夜と今朝の出来事が、一気に生々しい意味を持って胸の奥に押し寄せてきた。
寝台で肩を抱かれた感触、体内に残るぬくもり。
その全てが、「子を授かる」という言葉と太い線で結びついてしまう。
喉が、からからに渇いた。
どう返せばいいのか分からない。
「そんなことはありません」と否定してしまうのは、まるで昨夜の行為そのものを否定することになる気がした。
かといって、肯定することもできない。
アランが言葉を失っていると、新聞をたたんでいたオリオンが低く笑った。
「そんなもの、選び直せばいいだろう」
紅茶を口に運びながら、あっさりと言う。
「式のためにドレスを合わせるのか、妻に合わせてドレスを仕立てるのか。
重要なのはどちらかなど、考えるまでもないことだ」
その言い方は、ブラック家当主としての当然の見解だった。
純血の家において、跡継ぎを望むことは最優先事項であり、衣装など後からどうとでもなる些細な問題だという価値観が、そこにはある。
ヴァルブルガも、それを否定はしない。
「もちろん、そうなのですけれど」
唇に笑みを残したまま、軽く肩を竦める。
「でも、せっかくアランにお似合いのラインをあれこれ考えて選んでいるのですもの。
式までは、美しいラインのままで立っていただきたいと思うのは、母としてのささやかな願いですわ」
母――。
その響きに、アランの胸がまたひとつ締めつけられた。
ヴァルブルガは、アランに対して厳しい面も多いが、それでも「ブラック家の若夫人」として認めている。
その目に、妻として、そして未来の母としての姿を期待しているのが、ありありと分かる。
その期待が、今こうして「夫婦仲が良すぎるのも考えものですよ」という、苦笑まじりの忠告に姿を変えているのだ。
「……ヴァルブルガ様」
アランは、どうにか声を整えた。
「至らぬ身で、そのようにお心を砕いていただけること、身に余る思いでございます。
ドレスも、式の日も……ブラック家に恥じぬよう努めたいと存じます」
できる限り丁寧に。
言葉尻が震えないように気をつけながら、彼女は返答した。
ヴァルブルガは、満足げに頷く。
「ええ。あなたなら、ちゃんとやってくださると信じていますわ」
その視線には、純血の血統の中にふさわしい花嫁としての期待と、ひそやかな誇りが滲んでいた。
――問題は、「ちゃんとやる」の意味が、どこまで含んでいるかだ。
アランの内側では、羞恥と気まずさがぐちゃぐちゃに絡み合い、知らぬ間に息苦しさへと姿を変えていた。
昨夜、レギュラの腕の中で震えた自分。
あの温度と、この朝食の席で交わされている会話が、酷く残酷なまでに一本の線で繋がっていく。
そんな中で、レギュラスは――。
相変わらず涼しい顔をしていた。
母の言葉にも、父の言葉にも、大きく表情を変えることはない。
ただ、ナイフとフォークを美しい所作で動かしながら、卵とハムを口に運び、紅茶をひと口含む。
ようやく、静かに口を開いた。
「ご心配は、ありがたく受け取っておきます。
ですが、ドレスに関しては、必要とあればいくらでも仕立て直せますから」
声は穏やかだったが、その下に「式の前に子ができても構わない」と言い切る強さがあった。
「アランがブラック家の妻であり、いずれ母になるという事実の前では、布地の問題など些末なものです」
さらりと、何気ない会話の延長線上のように告げる。
アランは、反射的にレギュラスの方を見てしまい――慌てて視線を落とした。
眼差しがぶつかる寸前、灰色の瞳の端がかすかに笑ったように見えたのは、気のせいだと信じたかった。
彼だけが、この場でただ一人、昨夜と今朝の具体的な記憶を共有している。
その事実が、アランの羞恥をさらに強く煽る。
「レギュラ……」
小さく名を呼びかけてしまい、すぐに言葉を飲み込む。
何を言えばいいのか分からないからだ。
レギュラスは、微かに首を傾けただけで、特に続きを促しもしなかった。
その無造作さが、返って「この程度の話題で取り乱す必要はない」と言っているように思えてしまう。
テーブルの上では、銀器が静かな音を立てていた。
果物を切る音。
パンを割く音。
紅茶が注がれる音。
全てが、いつも通りの日常の一部のように流れていく。
ただ一人、アランの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃになっていた。
夫婦仲が良いことは結構だと言われ、
式の前にお腹が出てはドレスが着られないと笑われ、
ならば選び直せばいいと当然のように告げられる。
その会話に、何ひとつ「間違い」はない。
むしろ、純血貴族の世界では、それが最もまっとうなやり取りなのだろう。
だからこそ、恥ずかしさをどこにもぶつけられない。
ここにいる自分は、すでに「アラン・セシール」ではなく、「アラン・ブラック」なのだと。
その事実が、否応なく胸に刻みつけられる朝だった。
レギュラスは、最後まで乱れない手つきで朝食をとり終えると、ナプキンを丁寧に畳んだ。
「ごちそうさまでした」
そう一言残し、席を立つ。
その背中には、微笑ましい母の苦言も、父の豪胆な一言も、「すべて想定内」とでも言いたげな静かな余裕が宿っていた。
残されたアランは、冷めかけた紅茶を前に、カップを持つ指先に力を込める。
それでも、顔には決して羞恥を浮かべまいと、ひたむきに表情筋を整えていた。
――すべてが、うまくいっているように見える。
少なくとも、この朝食の席にいる誰かの目には。
貴族街の一角、その夜に限ってひときわ明るく灯をともしている大邸宅があった。
白亜の外壁には魔法灯が等間隔に浮かび、門から玄関ホールまで続く石畳には、流星の尾のような光がゆるやかに流れていく。主宰は古い名家ノット家。純血たちのあいだで、季節ごとに開かれる社交の場としてよく知られている屋敷だった。
ホールの扉が開かれる。
最初に姿を現したレギュラスは、いつも通り整いすぎるほど整った灰色の瞳で会場を一瞥した。
その隣に立つのは、翡翠の瞳を持つ黒髪の若い妻――アラン・ブラック。
淡い銀糸を織り込んだ深いグリーンのドレスが、彼女の瞳の色を拾い上げている。
肩から背にかけて滑らかに落ちる黒髪は、ふだんより少しだけ手を加えられ、細かなウェーブが光を受けて柔らかく揺れていた。
首元にはブラック家の紋章をあしらった繊細なネックレス。
その一つ一つが「誰の妻であるか」をこれ見よがしに示している。
ホールのざわめきが、一瞬だけ揺らぎ、収束する。
視線が、一斉に二人へと吸い寄せられた。
ひそひそと交わされる声が、音を抑えた波紋のように広がる。
「……ブラック家の若夫婦だわ」
「本当に噂通りの……」
「あれが、セシール家の一人娘……」
羨望と好奇、あるいは嫉妬。
さまざまな色を帯びた視線が、天井のシャンデリアに反射した光とともに、まるで目に見える糸のように二人のもとへ降り注いでいた。
アランは、その重さを身体の表面で受け止めていた。
胸の内側に、ほんのわずかな息苦しさが生まれる。
けれど、足取りは乱さない。
レギュラスが差し出した腕に、そっと自分の手を添えたまま、堂々とホールの中央を進んでいく。
隣の男は、微塵も動じていない。
むしろ、これくらいの注目を浴びることを前提にしているかのような落ち着きで、微笑を薄く浮かべていた。
やがて、二人の前に一人の男が近づいてきた。
きっちりと仕立てられたローブをまとい、淡い色の髪を後ろでまとめた男。
鋭さを湛えた目元には、礼節とわずかな遊び心が同居している。
「初めてお目にかかります、アラン・ブラック嬢」
その男――バーテミウス・クラウチ・ジュニアは、魔法省の顔として知られるレギュラスの右腕であり、古くからの悪友でもある。
今夜は、普段の冷静な報告口調を少しだけ和らげ、社交の場にふさわしい笑みを浮かべていた。
アランの前に立つと、深く一礼する。
「レギュラスから、あなたのお話は度々伺っておりました。
こうしてお目にかかれたことを光栄に存じます」
アランは、視線をほんのわずかに持ち上げ、翡翠の瞳を彼に向ける。
その瞳の奥に宿るわずかな警戒と、それを必死に抑え込もうとする意志は、よほど注意深く見なければ分からない。
「こちらこそ、クラウチ様。
いつも主人がお世話になっております」
そう言って、ゆるやかにスカートの裾をつまみ、完璧な角度で礼をした。
美しい微笑みが唇の端に浮かぶ。
それは、緊張と羞恥とを見事に覆い隠すために磨かれた社交界の仮面でありながら、どこか儚さを湛えていて、見る者の胸を打つものだった。
周囲から、さらに小さなどよめきが上がる。
「あれが……セシール家の娘の……」
「ブラック夫人と呼ばれる日も近いのね」
「なんて絵になる二人かしら」
バーテミウスは、その空気を存分に味わうように周囲を見回し、それからレギュラスの方に目を戻した。
「……この会場の羨望と嫉妬を、一身に受けていますよ、レギュラス」
口元ににやりとした笑みを浮かべながら囁く。
レギュラスは「そうですか」とでも言いたげに、ごく僅かに肩を竦めた。
「大袈裟ですよ」
淡々と返しながらも、その声音には愉悦が滲んでいる。
「行きましょう、アラン。ノット家に、まだご挨拶をしていません」
さらりと話題を切り替え、アランの方へ視線を向けた。
「はい」
アランは素直に頷き、レギュラスの腕に添えた手にほんの少しだけ力を込めた。
その仕草は、従順であり、かつ夫への信頼を示すものとして、周囲には美しく映る。
実際、会場のあちこちから羨望の眼差しが向けられていた。
「見た? あの従順さ」
「ブラック家の妻として、完璧な振る舞いね」
「それにしても……あの美しさで、あの控えめさだなんて」
アランには、その声の具体的な言葉までは届かない。
ただ、背中に刺さる視線の熱だけが、ドレス越しに伝わってくる。
レギュラスに導かれるまま、アランは会場を回る。
ノット家の当主夫妻に丁寧に挨拶をし、
古くからブラック家と付き合いのある老貴族に頭を下げ、
また別の若い令嬢からは、憧れを隠しきれない瞳で「ドレスがとてもお似合いです」と囁かれた。
そのたびに、アランは決して表情を崩さず、穏やかな笑みを浮かべ続ける。
「光栄ですわ。ありがとうございます」
「ブラック家の皆様に、温かく迎えていただいております」
「まだ未熟ではございますけれど、妻として恥じぬよう努めたいと存じます」
一つ一つの言葉は、まるであらかじめ用意された台詞のように滑らかだった。
けれどそこには、空疎さはなかった。
真面目さと、慎ましさと、立場をわきまえようと必死に足場を固めている意志が滲んでいる。
レギュラスは、その様子を隣で見守りながら、小さく満足げに笑った。
――よくやっている。
そう思っているのが、視線の柔らかさから伝わってくる。
アランが誰に挨拶をしているときも、彼は半歩後ろに位置を取り、必要なときには名前と立場を補い、彼女が困らない程度に会話の流れを整えていた。
その立ち位置は、完璧だった。
妻を前に出しすぎず、しかし隠しもしない。
「ブラック家の若夫婦」として、二人がひとつの絵になるように、慎重に距離を測っている。
ふと、バーテミウスが再び近づいてきた。
グラスを片手に、余裕の笑みを浮かべている。
「本当に、見事ですね」
声の届く範囲は、レギュラスとアランだけ。
周囲には聞こえないよう、絶妙な音量で呟いた。
「レギュラスが妻を連れて歩く姿……これほど“出来上がった絵”になるとは」
「買いかぶりすぎですよ、バーテミウス」
レギュラスは軽く笑う。
「事実を述べただけです」
バーテミウスは、グラスの中の液体をゆっくり揺らしながら、会場を一瞥した。
「見てください。この視線の渦を。
羨望と嫉妬、好奇心と計算……全部まとめて、今夜はあなた方に向いている」
アランは、思わず視線を落とした。
自分がそんな渦の中心にいることを、あらためて突きつけられた気がしたからだ。
レギュラスは、わずかに顎を上げる。
「なら、なおさら礼を欠くわけにはいきませんね。
アラン、あちらにいるのはホプキンス家のご婦人方です。
母が昔から付き合いのある家ですから、ご挨拶しておきましょう」
「はい」
アランは素直に頷く。
戸惑いも、不安も、警戒も――この場では一切見せない。
レギュラスの腕に添えた手を、ほんの少しだけ握り直し、彼の導く方へと歩き出した。
従順であることは、いまや彼女が自分を守るために身につけた一つの術だった。
それが同時に、周囲から見れば「理想的な妻」として映ることを、彼女は薄々理解している。
バーテミウスは、その背中を眺めながらグラスを傾ける。
「……本当に、よく手に入れましたね、レギュラス」
誰にともなく呟かれたその言葉は、グラスの縁に反射した光と共に静かに消えていった。
煌びやかな音楽と、笑い声と、シャンデリアのきらめき。
その渦の中心で、アラン・ブラックは夫の腕に手をかけ、ひとつひとつの挨拶をこなしていく。
誰もが彼女とレギュラスを目で追っていた。
羨望と嫉妬と憧れと――そのすべてを一身に受けながら、アランは翡翠の瞳に柔らかな光を宿し、静かに微笑み続けていた。
ノット家の大広間には、楽団の奏でるやわらかな音楽が満ちていた。
弦の響きがシャンデリアの光と混じり合い、笑い声やグラスの触れ合う音を、すべてひとつの「華やかさ」という名の布で覆い隠していく。
レギュラスとアランがひととおり主だった家々への挨拶を終えた頃には、すでに二人の周囲には、自然と人の輪ができ始めていた。
——最初に現れたのは、金糸のような髪をまとめ上げた若い夫人だった。
「まぁ、レギュラス様」
軽やかに微笑みながら、手にしたグラスを胸の前で揺らす。
その瞳は、懐かしさとわずかな挑発を混ぜたような色をしていた。
「本当に、お久しぶりですわ。あの頃は、よくご一緒していただきましたのに……最近は、すっかりご無沙汰で」
「ご一緒していただきました」という言葉には、明らかに舞踏以上の含みがあった。
それは、社交界の女たちが好んで使う、上品な遠回しだった。
アランの背筋が、かすかに強張る。
レギュラスは、しかし少しも表情を変えなかった。
「光栄です。覚えていていただけたとは」
穏やかに微笑む。
「とはいえ、僕の方こそ、あの頃は随分と無分別でしたからね。
あなたの貴重なお時間を騒がしくした覚えしかありません」
自嘲気味の物言いに、女は声を立てて笑った。
「あら、そんな。無分別だなんて。とても楽しい時間でしたわ。
ねぇ、あの夜会の帰りに——」
そこで女は、ふとアランの存在に気づいたように、言葉を切った。
「まぁ、失礼しましたわ。奥様の前で昔話をするものではありませんわね」
わざとらしい「気づき」だった。
言葉を途中で切ることで、かえって想像の余地を増やしている。
アランは、微笑を崩さずに頭を下げた。
「いいえ。夫が皆様から慕われていらっしゃるご様子を拝見できて、安心いたします」
自分でも驚くほど、声の調子は落ち着いていた。
内心の冷たさが、そのまま氷の板のように表情筋を支えているような感覚があった。
