1章
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その夜、レギュラスの部屋。
暖炉の火は穏やかに燃えていた。
ソファの端に座るアランは、湯気の立つカップを両手で包んでいる。
視線はカップの表面と膝のあたりを往復し、彼の顔にはなかなか向けられない。
「紅茶の味は、どうですか」
レギュラスは、いつものように問いかけた。
「……とても、おいしいです」
「それは良かった。
あなたの好みだと言っていた茶葉を、少し多めに取り寄せておきましたから」
そう告げる声音には、薄い誇らしさが混じっていた。
アランは、返す言葉を探しながら、ほんのわずかに目を伏せる。
「お気遣い、感謝いたします」
それも、肯定だった。
彼の用意したものを否定しない。
拒まない。
受け取り、礼を述べる。
その一連の流れが、彼女の身体に刷り込まれていく。
レギュラスは、その様子を見つめながら、胸の奥に広がる感覚の名前を確かめようとしていた。
罪悪感は、ないわけではない。
ローランドの存在を完全に消し去ったわけでもなければ、アランの胸の内に走る痛みを全く想像できないほど鈍感でもない。
それでも——。
自分の言葉に従って動く妻の姿。
その隣に立ち、同じ屋敷で、同じ時間を過ごす現実。
それらが、彼の中の「満たされる」という感覚を、日ごとに強くしていった。
初めから、このやり方を選んでいれば良かったのではないか。
そう思うたび、胸のどこかが冷たく笑う。
譲歩や配慮を全面に掲げたところで、彼女の心は開かなかった。
ならば、家の当主として、夫としての正当な力を正面から使えばいい。
そうすれば、美しい妻は彼の言葉に「はい」と答え、彼の望む場所に立ち続ける。
その現実は、あまりにも分かりやすく、彼を満たした。
カップを置く小さな音が、静まり返った部屋に響く。
アランの肺のあたりで、目に見えない何かがじりじりと擦り減っていく気配を、レギュラスは知らない。
あるいは、知らないふりをしていた。
彩りの良い食卓。
日毎に増える「はい」と「かしこまりました」。
自分の言葉通りに動く、美しい妻。
それらを前にして、彼はようやく深く息をつくことができるようになっていた。
夜はとっくに更けていた。
屋敷全体が、深い眠りに沈みかけた頃合い。
廊下の燭台には最低限の灯りだけが残され、揺らぐ炎が石壁と絨毯に長い影を落としている。
そんな静けさの中で、アランの部屋の扉が、控えめなノックの音と共に震えた。
「アラン」
低く抑えたレギュラスの声が、扉越しに届く。
「はい」
返事をすると、間を置かずに言葉が続いた。
「今から、僕の部屋に来ていただけますか」
今から——。
枕元の時計に視線をやるまでもなく、感覚で分かる。
「遅い」と形容するには十分な時刻だ。
アランは、手元のナイトローブの紐を無意識に握りしめた。
「……今から、ですか?」
一応、確認だけはする。
「ええ。今からです」
即答だった。
躊躇も、迷いも、気遣いめいたものも挟まれない。
アランはほんのわずかにうつむき、それから扉の方へと歩み寄った。
「……承知しました。少し、支度を整えてから伺います」
「分かりました。お待ちしています」
足音が遠ざかる。
扉の向こうの気配が完全に消えてから、アランはようやく深く息を吐いた。
深夜に、夫の部屋へ呼ばれる意味など、分からないほど幼くはない。
むしろ、分かりすぎるほどに理解している。
胸の奥が、きりりと痛んだ。
レギュラスの部屋には、すでに暖炉の火が入れられていた。
炎は静かに燃え、オレンジ色の光が分厚いカーテンと凝った装飾の天蓋を柔らかく照らし出している。
ノックの音がして、扉が開いた。
「失礼いたします」
アランは、控えめに姿を現した。
ナイトドレスの上に薄手のショールを羽織り、胸元を押さえるようにして両手を揃えている。
髪は緩くまとめられ、ところどころぬらりと月光を孕んだ黒がこぼれ落ちていた。
レギュラスは、窓辺から振り返った。
「来てくれてありがとうございます」
その言い方は、表面上はいつも通りだった。
しかし、声の奥には「来て当然だ」という揺るぎない前提が確かに宿っている。
「……お呼びでしたので」
アランは、視線を床に落としたまま答えた。
部屋に一歩、また一歩と足を踏み入れるたび、背後の扉が遠くなる。
扉は静かに閉じられた。
カチリ、という小さな音が、妙に大きく耳に残る。
逃げ道がひとつ、音を立てて消えた。
「そんなに緊張しなくていいですよ」
そう言ってやることは、今まで何度もできた。
だが今日は、口にしなかった。
柔らかく宥める言葉は、結局のところ、彼女に「退く余地」を与えてしまう。
そうすれば相手は、躊躇と罪悪感の隙間に潜り込み、再び距離を取るだろう。
レギュラスは、その結末を嫌というほど見てきた。
「こちらへ」
暖炉の前、ベッドの手前に置かれたソファの方へ、視線で促す。
アランは短く頷き、言われるままに歩いた。
足音はほとんど響かない。
それでも、床板がかすかに軋むたび、胸の内側だけが大きく揺れる。
レギュラスは、一歩で距離を縮めた。
「アラン」
名を呼ぶ。
その声に、アランは自然と顔を上げた。
翡翠の瞳が、不安と警戒と、どうしようもない従属の色を混ぜ込みながら、灰色の瞳を映し出す。
次の瞬間、レギュラスの手がそっと彼女の顎に触れた。
力は強くない。
けれど、逃げられない程度には確かな力がこもっている。
顎をわずかに持ち上げられ、視線が上に引き上げられる。
その軌道の先に、彼の顔が迫っていた。
唇が触れ合う。
最初は、ごく浅い触れ方だった。
けれど、アランの唇がこわばったまま硬く閉ざされているのを感じると、レギュラスは角度を変えた。
閉じた口元の端に、ほんのわずかな隙を探るように。
アランの胸の内で、心臓が乱暴に跳ねた。
蘇る記憶がある。
あの夜会のあと、用意された屋敷で、同じように重ねられた口づけ。
そのままあれよあれよという間に押し流され、気づけば全てを奪われていた夜。
――また、同じように。
そう思った瞬間、身体のどこかが反射的に反応した。
アランは、ぎゅっと目を閉じ、身を引いた。
唇が離れる。
わずかな糸を引いた温度が、空気の中で途切れた。
レギュラスは、彼女の肩から手を離さなかった。
ただ、わずかに顔を引き、静かに問いかける。
「……何か、非難されるべき理由がありました?」
その声は驚くほど穏やかだった。
怒鳴り声も、露骨な苛立ちもない。
むしろ、純粋な確認を求めるかのような調子。
だからこそ、逃げ場がない。
アランは、唇をかすかに開閉させた。
喉の奥で言葉が絡まり、形にならないまま震える。
「……いえ、その……」
否定から始めるべきなのだと分かっている。
だが、何を否定すればいいのか、整理がつかない。
「僕は、あなたの夫です」
レギュラスは、事実だけを積み上げるように続けた。
「あなたは、僕の妻です。
同じ屋敷に暮らし、婚姻の契約は正式に結ばれている。
ブラック家もセシール家も、それを認めています」
淡々と言葉が並べられていく。
「そんな中で、今、僕は妻に口付けをしようとした。
――どこに、非難される要素があるのでしょう」
アランは、視線を逸らそうとして、それすらできないことに気づいた。
顎を支える指が、逃げ道を塞いでいる。
「……っ」
空気を飲み込む音だけが、小さく漏れた。
「怖いですか?」
問いかけ。
責め立てる響きはない。
ただ、彼の灰色の瞳がじっと翡翠の瞳を見つめている。
「……分かりません」
かろうじて出た言葉は、それだった。
自分でも情けないと思うほど、幼い答え。
レギュラスは、薄く笑った。
嘲りではない。ただ、力の抜けた吐息に近い笑み。
「分かりませんか」
繰り返しながら、ゆっくりと指を離した。
だが、代わりに彼女の肩に手が置かれる。
距離は、少しも開かない。
「では、こう言い換えましょう」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「妻に寝室を別にされ、口付けをすることさえ許されない夫、というのは――いったい、何なのでしょうね」
静かな問いだった。
しかし、その静けさは、鋭い刃を水面のすぐ下で滑らせるような危うさを孕んでいる。
アランの胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
そう言われれば、返す言葉はない。
事実として、彼の言う通りだったからだ。
寝室は別々。
夜、彼が肩を抱いただけで終わった日もある。
彼女はそれに密かに安堵し、同時に罪悪感を覚えていた。
いま、こうして問われている。
――あなたは、何をしているのか、と。
「……ブラック様を、傷つけたいと思っているわけでは、ありません」
絞り出した言葉は、それだけだった。
レギュラスは、瞬きもせずに彼女を見ていた。
「そうでしょうね」
あっさりと認める。
「あなたが、誰かを傷つけたいと思って行動する人間ではないことぐらい、僕も知っています」
それが分かっていて、なお問いを重ねる。
「それでも、結果として僕は、あなたの拒絶の中に立たされ続けている。
あなたは、僕に“そうさせている”」
事実だけを、丁寧に並べていく。
それは、魔法省の会議室で相手を追い詰めるときの彼の話し方と同じだった。
「――僕が、あなたの夫であるという前提を、いつまで否定し続けるつもりなのですか」
アランの視界が、かすかに滲んだ。
涙がにじんだのか、感情の揺れに目が追いつかないのか、自分でも判別がつかない。
ローランドの顔が、遠くに浮かんでは沈んでいく。
彼と交わした「まだ先だけれど、いつか」という約束。
未来の輪郭をそっと撫でるように語ってくれた夜の言葉たち。
それを、すべて自分の手で壊しておきながら。
今、目の前の男に対しても、まともに向き合えていない。
「……どう、すればよいのか、分からないのです」
ようやく出たのは、それだった。
言い訳に聴こえることは分かっている。
それでも、違う言葉に言い換えることができなかった。
「ローランド様を裏切って、ブラック様にも誠実に向き合えないまま、ここにおります。
自分のしていることが、あまりにも……」
声が震え、言葉の端が崩れた。
レギュラスは、その告白に一瞬だけ目を細めた。
苛立ちとも、理解ともつかない感情が、その灰色の瞳の奥に揺れる。
「……そうですか」
ぽつりと落とす。
「自分が“誠実でない”と分かっているのに、その状態のまま、僕の前に立ち続けているわけですね」
言い方は静かだった。
だが、その静けさがかえって胸に刺さる。
アランは、唇を噛んだ。
肯定も否定も、うまく言葉にならない。
「……僕は」
レギュラスは、少しだけ距離を詰めた。
肩に置いた手に、ほんのわずかに力がこもる。
「あなたが罪悪感を抱えていることを理解しようとは思っています。
ローランド・フロストとの約束を断ち切ったのが僕である以上、それは当然でしょう」
そこで言葉を区切り、視線を深く落とす。
「ですが、その罪悪感のために、僕がいつまでも“夫ではない位置”に押しやられ続ける理由にはなりません」
アランの喉が、きゅっと鳴った。
「あなたが、ここにいることを選んだのです」
レギュラスの声は、低く、硬い。
「セシール家との取引を受け入れ、この屋敷に嫁ぐことを選んだ。
僕の姓を名乗り、僕の隣に座ることを選んだのは、他でもないあなた自身です」
その通りだった。
誰かに無理やり署名させられたわけではない。
選択肢がいびつだったにせよ、最後に判を押したのは自分の手だ。
「——ならば、せめて、僕のことを“夫として扱う”努力ぐらいはしていただけませんか」
淡々とした口調のまま、核心を突く言葉が落ちる。
「僕は、あなたに完全な愛情や、ローランドへの未練を一晩で消し去れと言っているわけではない。
ただ、妻としてここに立つのであれば、それに見合う言動を求めるのは、そんなに無茶なことですか?」
アランは、答えられなかった。
「無茶です」と言えば、それはこの生活の根幹すべてを否定することになる。
「無茶ではありません」と言えば、その瞬間、自分自身を裏切ることになる。
どちらにも肯けない場所に、言葉だけが取り残される。
「……申し訳、ありません」
最終的に搾り出せたのは、謝罪の一言だけだった。
レギュラスは、ふっと息を吐いた。
「謝罪が欲しくて言っているわけではありません」
静かに告げる。
「僕が欲しいのは、あなたの“はい”です」
アランの指先が、震えた。
「僕が夫としてあなたに触れ、口付けをし、隣に立つことを、あなた自身の口で受け入れてほしい」
それは、要求であり、宣告でもあった。
「……アラン」
もう一度、名を呼ぶ。
レギュラスの手が、再び彼女の頬に伸びる。
今度は顎ではなく、頬の輪郭を指先でなぞるように。
「僕は、あなたの夫ですよ」
ゆっくりと、その言葉を刻み込む。
「妻に口付けをすることが、そんなに間違ったことでしょうか」
問いかけに、明確な「いいえ」が求められているのが分かる。
アランは、胸の内側で何度も言葉を転がした。
ローランドの名も、罪悪感も、すべて喉元で絡まり合う。
それでも――。
「……いいえ」
やっと、かすかな声が出た。
「間違っては……いないと、思います」
レギュラスの指先が、ほんの少しだけ力を強めた。
「そうですね」
満足げとも、安堵ともつかない声が返る。
「では、もう一度」
告げた瞬間、彼はわずかに身をかがめた。
逃げ道を閉ざされた空気の中で、アランの内臓は、またきりきりと音を立てて痛んでいた。
レギュラスの指が、アランの手首をとらえた。
強くはない。
逃げようとすれば、力ずくで振り払える程度の握りだ。
けれど、彼女の足元からはすでに力が抜けていて、そのわずかな牽引だけで、身体の重心はあっさりと崩れた。
寝台の端まで、ほんの数歩。
分厚い絨毯に沈んだ足音が、そこでふっと途切れる。
「アラン」
呼びかけは、驚くほど静かだった。
荒さも、昂ぶりも、声には滲んでいない。
その静けさのまま、レギュラスは彼女の腕をすっと引いた。
崩れ落ちるように、アランの身体が寝台へ沈む。
柔らかなマットレスが衝撃を吸い込み、羽毛の詰まった枕が小さな音を立てて形を変えた。
天蓋のカーテンが揺れ、その隙間から、暖炉の炎の色がひらりと覗く。
——いつかの夜の、再現。
アランの胸の内で、そんな言葉がわずかに浮かびかけて、すぐに沈んだ。
あの夜と同じように、天井の模様が視界の隅でぼやける。
視点がどこにも定まらないまま、彼女は天蓋の縁を見つめていた。
違うのは、ただ一つ。
あのとき彼女は、まだ「アラン・セシール」だった。
今、彼女は「アラン・ブラック」として、この寝台に沈んでいる。
レギュラスは、ゆっくりと彼女の上に身を重ねた。
燃え上がるような衝動ではなかった。
激しく求め合う熱でもない。
もっと静かで、もっと粘度のある感情が、その動きを支配していた。
押し寄せる波というより、満ちてくる潮のような。
勢いこそ穏やかだが、引くことを知らない水位が、じわじわと足下を浸していく。
指先が、布越しに肩の線をなぞる。
髪に触れ、頬を撫で、喉のあたりをなぞる。
ひとつひとつの所作は、外から見れば至極丁寧で、暴力性からは程遠かった。
けれど、その丁寧さが、「やめる理由」をどこにも残さない。
アランは、天井を見上げたまま、かすかにまぶたを震わせた。
胸の奥で、別の名前が沈んでは浮かびそうになる。
ローランドの顔立ちが、遠い水底の影のように揺らぐ。
——彼ではない。
最初から分かっていたことを、改めて突きつけられる。
抱き締められる腕の太さも、身体を覆う重みも、香りも、体温も違う。
それでも、現実にここにいるのは、彼女の夫として名を連ねた男だった。
レギュラス・ブラック。
レギュラスは、自分の胸の内に浮かび上がる感情を、ひとつひとつなぞるように確かめていた。
燃え上がるような欲望は、不思議と薄かった。
欲しくてたまらない、という飢えではない。
もっと別の、重たいものが、胸の底にどっしりと沈んでいる。
——ようやく、手に入れた。
あの夜会で、バーテミウスと半ば遊びのように始めた「一番美しい令嬢を落とすゲーム」。
そこで出会い、翻弄され、思い通りにいかないことで妙に執着を掻き立てられた女。
セシール家の令嬢として、純血貴族の娘として、自分に境界線を引き続けてきた女が。
今は、ブラック家の寝台に沈み、自分の名を姓に持つ妻として、腕の中に収まっている。
指先に触れるのは、夜会で初めて踊ったときの柔らかな手ではなく。
契約書にサインをし、ブラック家の紋章を刻まれた指輪を嵌めた、妻の手だった。
初めて抱いたあの夜。
彼女はまだ「アラン・セシール」だった。
セシール家の娘としての誇りと、ローランドへの約束と、純血貴族としての慎ましい未来を胸に抱えた少女。
あれは、奪い取る行為だった。
レギュラス自身も、それをよく分かっていた。
だが今夜は違う。
同じように身体を重ねているのに、その意味はまるで別物だった。
いま腕の中にいるのは、自らブラック家の門をくぐり、この屋敷で生活を始めた女だ。
父エドモンドの前で、魔法省の契約書の前で、自分の未来を「ブラック家」に委ねると選んだ女。
その女を、夫として抱いている。
——初めて抱いた時、彼女はアラン・セシールだった。
だが今、こうして抱いているのは、紛れもなく「アラン・ブラック」だ。
その事実が、レギュラスの胸の奥を満たしていく。
アランの視界の端で、カーテンが揺れた。
寝台の周りを囲う天蓋は、外界から切り離された小さな世界をつくり出している。
その中で、自分は夫の姓を名乗る女として、静かに夜を過ごしていた。
燃え上がるような熱は、確かにそこにはなかった。
どちらかといえば、少し冷えた水に沈められていくような、鈍い感覚の方が近い。
感情が追いつかない。
身体だけが、既に決められた軌道をなぞるように、淡々と終盤へ向かっている。
行為が燃え上がっていようと、冷え切っていようと。
始まりがどんなもので、途中にどれほどの逡巡や葛藤が挟まっていようと。
最終的な着地点は、変わらない。
夫と妻が、同じ寝台で夜を共にする。
純血の家において、子をなす可能性をはらんだ行為が繰り返される。
それが、どれほど歪な経緯を経て辿りついた地点であろうと。
――行為は行為だった。
その冷徹な事実だけが、アランの胸の内で、妙に澄んだ輪郭を保っていた。
レギュラスは、息を整えながら、彼女の髪に指を滑らせた。
行為そのものは、熱狂とは程遠い。
けれど、その終わりに訪れる静寂は、彼にとって、満たされるしかない種類の静寂だった。
寝台に横たわる女の肩に、片腕を回す。
汗に貼りついた黒髪の束を指で払うように整えながら、自分の胸の高鳴りが徐々に落ち着いていくのを感じる。
初めての夜と、同じ天蓋、同じ重さのシーツ。
だが、胸に広がる感覚は、あのときと決定的に違っていた。
あの夜は、「手に入れてしまった」という昂ぶりと、奪い取ったことへの奇妙な高揚があった。
今夜は、「手に入れて当然だ」と思える、静かな確信があった。
彼女は、自分の妻だ。
魔法省の記録にも、家の家系図にも、世間の噂話の中にも、その事実は刻まれている。
そして今、寝台の上で重ねた身体そのものが、その事実に別の重さを与えている。
アラン・セシールを、「アラン・ブラック」として抱いた。
その事実が、レギュラス・ブラックの誇りを、底から満たしていく。
純血ブラック家の後継として。
魔法省の役員として。
家名も、地位も、財も、権力も手にしてきた男が、最後に欲した“所有”が、ようやく形になった。
この寝台の上に横たわる、美しい妻。
翡翠の瞳を持つその女は、もはや「誰かの婚約者」ではない。
セシール家の娘でありながら、ブラック家の姓を名乗る、唯一の女だった。
レギュラスは、目を閉じた。
胸の内側で、重く、ゆっくりとした満足が広がる。
それは、熱狂ではないが、確かな酔いに似ていた。
初めから、こうなるべきだったのだと。
彼は、どこかで当然のように思っていた。
彼の腕の中で、アランは静かに息をしている。
その呼吸に寄り添うように、自分の胸の上下が重なっていくのを感じながら、レギュラスはもう一度だけ、彼女の名を心の中で呼んだ。
――アラン・ブラック。
その響きこそが、彼の誇りを何よりも満たしていた。
最初に目を覚ましたのは、皮膚の上をかすめていく何かの感覚だった。
布の擦れる音でも、窓の外から差し込む光でもない。
それよりも、ずっと近く、ずっと生あたたかいもの——指先。
肩のあたりから、鎖骨のくぼみへ。
そこからゆっくりと胸元へと下っていく、迷いのない軌跡。
レギュラスの手だ、と理解した瞬間、アランの意識は一気に水面へ引き上げられた。
寝台の上、天蓋の内側。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ白く弱い。
もう朝と言うべきなのか、まだ夜のうちと言ってもいいのか——その境目のような、曖昧な時間だった。
背中に触れていたシーツは、昨夜の熱をわずかに残している。
その上を、レギュラスの指先がゆっくりと這った。
肩甲骨のあたりをなぞり、背骨に沿ってほんの少しだけ下り、また引き返す。
なにも考えていないようでいて、決して「無意識」ではない動き。
触れられるたびに、肌の内側が、細い糸で引かれるようにぴんと張る。
どう反応したらいいのか分からなかった。
昨夜のことを思えば、拒む権利はとうに自分で手放してしまっている。
かといって、当たり前のように受け入れるには、心のどこかがまだ追いつかない。
なのに。
背筋がひやりと震えた。
心地よさと呼ぶのは悔しいほどの感覚が、そこにあった。
指先は、敵意を持っているわけではない。
淡々と、しかし確かな意図を持って、彼女の存在を確かめている手の動きだった。
「……起きました?」
低く掠れた声が、耳元で落ちる。
アランは、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
視界の端には、乱れた天蓋のレースと、薄く差し込む朝の光。
完全には覚醒しきれていない世界が、ぼんやりと広がっている。
「……はい」
かすかに頷く。
自分の声も、まだ少し寝床のぬくもりを引きずっていた。
レギュラスが、ふっと息を笑い混じりに吐く気配がした。
「あなたが起きるのを待ってました」
言葉と同時に、彼の身体の重みがわずかに離れる。
ガバリ、と音を立てるような勢いで上体を起こしたかと思えば、そのまま動きに淀みなく、今度は上から覆いかぶさるように身を乗り出してきた。
視界に、彼の灰色の瞳が近づく。
寝起きの世界が一気に鮮やかさを取り戻し、心臓だけが理解の速度を追い越して跳ね上がる。
何が始まるのか——理屈では、分かっている。
ただ、その確信に心が追いつく前に、昨夜の続きを告げるように、彼の気配が全身を包み込んでいった。
「……ヴァルブルガ様が、心配されます」
喉の奥でからからに乾いた声を、どうにか押し出す。
言葉にすがりつくような、苦しい抵抗だった。
義母の顔が脳裏をよぎる。
何事も「家」のため、「血統」のためと考えるあの婦人が、夜通し夫の部屋に留め置かれた嫁をどう見るか。
レギュラスは、そんな懸念を真正面から受け止めて——そして、あっさりと違う方向へ捻った。
「心配どころか、喜ぶでしょう」
あくまで柔らかい声で告げる。
「あなたの懐妊の調べで、母を喜ばせましょう」
さらりと、当たり前のことのように。
アランの呼吸が、一瞬止まった。
懐妊——。
その言葉が、静かにしかし容赦なく胸に沈んでいく。
単に夜を共にする、ということだけではなく。
その先に求められているものが、はっきりと形を持って突きつけられる。
純血ブラック家の若夫婦。
妻に求められる役割の一つ。
子を宿すこと。
それは、貴族の娘として育てられたアランにも分かっていた。
いつか、自分にもそういう日が来るのだろうと、漠然と想像したこともある。
——ただ、その隣に立つはずの男は、別の人間だった。
ローランド・フロストの顔が、瞬間的に脳裏をかすめる。
穏やかな青い瞳。
将来のことを語るとき、慎重で、それでもどこか嬉しそうに微笑んでくれた横顔。
その未来を、自分はもう手放した。
その代わりに今、別の未来のために手を取らされている。
レギュラスは、アランの瞳に一瞬だけの動揺が走ったのを見逃さなかった。
だが、そこに同情を差し込むような甘さは持ち合わせていない。
「母は、あなたを気に入っています」
さらりと続ける。
「美しく、血統も申し分なく、魔法薬にも明るい。
そのうえ、ブラック家の子を産んでくれるとなれば、これ以上の喜びはないでしょう」
それは、政治的な評価の羅列のようでもあった。
褒め言葉でありながら、女一人の人生の重さを数字のように並べていく、冷ややかな視点。
アランの胸の奥で、何かがぎゅっと縮む。
「……私は——」
何かを言おうとして、言葉が喉で絡まる。
「準備ができていない」とか、「心の整理がついていない」とか。
そういった言い訳は、すべて「妻である以上」という一文の前には、あまりにも頼りない。
レギュラスは、そんな逡巡を見透かすように、微かに微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
囁くような声で言う。
「あなたは、もう僕の妻です。
ここで子を宿すのは、誰かの誠実さを踏みにじる行為でも、背徳でもない。
ただ、当然のことを当然のようにしているだけです」
さらりとした言葉の中に、「当然」が幾度も重ねられていく。
アランは、唇を噛んだ。
それは、本当にそうなのだろうか。
ローランドとの過去も、自分が抱え続けている罪悪感も、すべて「当然」の一言で上書きできるのだろうか。
問いは、胸の内側で渦巻くだけで、声にはならなかった。
代わりに、彼女の身体が、昨夜と同じように静かに寝台へ沈められていく。
レギュラスの手が、ショールの結び目に触れた。
昨日の夜よりも、迷いのない手つき。
アランが自ら結び、守りだと思い込んでいた布の防壁は、彼の指先にかかれば簡単にほどけてしまう。
「……ヴァルブルガ様に、叱られてしまうかもしれません」
最後の抵抗のように、アランは口にした。
「何をですか?」
レギュラスは、本気で分からないという顔をした。
「あなたが夫と共に夜を過ごし、朝にまだ僕の部屋にいることを、ですか?
それとも、ブラック家の跡継ぎを望まれることを、ですか?」
穏やかな声色のまま、逃げ場を消していく。
「どちらも、母にとっては喜ばしい事柄でしょう。
心配する必要はありませんよ」
アランは、言葉を失った。
さらりと、とんでもないことを言う。
それを自覚していないのか、あえて気づかないふりをしているのか、自分でも判別がつかない。
ただひとつ確かなのは——。
レギュラスにとって、“妻の身体に触れ、その先に子を望む”ことは、何ひとつ異常でも、罪でもないということだ。
それは、きっと正しい。
純血貴族の当主として、夫として、家族を望む男として。
彼の言葉は、むしろ筋が通っている。
だからこそ、アランの胸の奥で疼く「痛み」は、どこにも行き場がなかった。
昨夜と同じように、天蓋のカーテンが揺れる。
朝の光が、布越しにやわらかく差し込んでくる。
世界は、間違い一つなく、正しく動いている。
この寝台の上で、純血ブラック家の夫婦が夜を重ね、朝にその続きを迎えていることも、きっと“正しいこと”の範疇に含まれるのだろう。
ただ、その「正しさ」が、アランの心を守ってくれるわけではない。
背筋をぞくりと震わせる心地よさと、内臓の奥でじくじくと疼く罪悪感とが、同じ身体の中で同居している。
レギュラスの言葉に頷かなければならない自分と、頷きたくない自分が、どこにも逃げ場のないまま擦り合わされていく。
そのすべてを飲み込んだ先で、アランはただ、短く息を吐いた。
レギュラスの腕の中で。
彼の手は、あくまで当然の権利のように、妻の身体の輪郭をなぞっていく。
その指先が目指しているのは、昨夜と同じ結末であり——そのさらに先にある、「懐妊の調べ」という、冷ややかに具体的な未来だった。
その夜、寝台の帷が半ばまで下ろされた寝室には、暖炉の火が静かに燃えていた。
炎はもう高くはない。丸くなった炭が赤々と灯り、部屋の隅々にかすかな橙色を漂わせている。
アランは、その光の届くぎりぎりの場所――寝台の端に、膝を揃えて座っていた。
ナイトドレスの上から羽織った薄いショールを、指先でぎゅっと握りしめている。
視線は足元の絨毯と、寝台の縁のあたりをさまよい、決して対面に立つ男の瞳を捉えようとはしない。
レギュラスは、寝台から少し離れたところに立っていた。
ジャケットはすでに脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲っている。
肩で切り取られた灯りが、彼の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
「……また、今夜も、ですか」
沈黙に耐えきれず、ああは唇から零れそうな言葉をどうにか整えた。
「お疲れなのではと……魔法省でも、お忙しいと伺っておりますし」
声は、努めて穏やかに保たれていた。
拒絶とも承諾ともつかない、曖昧な抵抗。
それがどれほど意味を持つのか、自分自身でも分からないまま口にしている。
レギュラスは、かすかに片眉を上げる。
「忙しさと、妻を求めることに、何か関係がありますか」
返ってきたのは、その一言だった。
穏やかな口調。
しかし、その中に含まれた論理の刃は鋭い。
魔法省の会議室で相手を追い込み、退路を封じるときと同じ声だった。
アランの指先が、ショールの布をさらに強く握る。
「……いえ、あの。そういう意味では……」
何かを言い換えようとするたび、言葉が喉の奥で絡まる。
自分が何を望んでいるのか、どこまで許せて、どこからが許せないのか。
その境目が、触れられるたびにぼやけていく。
「アラン」
名前を呼ばれ、肩がびくりと震えた。
レギュラスは、ゆっくりと寝台へ歩み寄る。
足音は柔らかく、しかし確実に距離を詰めていく。
「あなたは、僕の妻でしょう」
ごく当たり前の事実を確認するように言う。
「はい……」
それだけは否定できない。
アランは、かすかな声で頷いた。
「ブラック家の屋敷に住み、僕の隣に座り、ブラックの姓を名乗っている。
それは、誰の目にも明らかな現実です」
レギュラスは寝台の縁に片手を置き、身をかがめた。
距離が近づくと、淡い香りが鼻先をかすめる。
アランは、思わず背筋を固くする。
「では、妻としてこうして僕の求めに応えてくれることが、“当然ではない”理由を、教えていただけますか」
静かな問いだった。
怒鳴り声も、責め立てる口調もない。
ただ、魔法省の役員として日々鍛え上げてきた「詰め」の鋭さだけが、そこにあった。
アランは、息を詰めた。
妻として、夫の求めに応じること。
それは、この世界に生きる誰もが「当たり前」と教え込まれることだ。
純血の娘として育てられてきたアランにとっても例外ではない。
だからこそ、口を開けば、矛盾しか出てこないと分かっていた。
「……レギュラ様を、拒みたいと思っているわけでは、ありません」
どうにか絞り出した言葉は、それだった。
「ただ……その……」
続きを探すまなざしは、揺れている。
ローランドの名を口にした瞬間、すべてが崩れてしまいそうで、言葉を墨で塗りつぶしたように押し殺す。
「ただ?」
レギュラスは、その途切れた部分を逃さない。
「ただ、何ですか。
“夫を拒みたいわけではないが、夫の求めに応えることは当然ではない”――そういう理屈が、どこかに存在するのなら、ぜひ教えてください」
言葉が、論理の枠に押し込められる。
曖昧な感情や、名付けようのない罪悪感は、彼の前では形を持てない。
アランは、唇を噛んだ。
胸の奥で、何度も同じ言い訳がぐるぐると回る。
――ローランドを裏切ってしまったこと。
――レギュラに触れられるたび、自分がますます戻れない場所へ進んでいくこと。
――それでも、身体のどこかが、それを心地良いと覚え始めていること。
そのすべてを、「当然ではないから」と一言で済ませるには、あまりにも重い。
「……私は、自分のしたことの重さが、まだ……」
掠れた声で、やっとの思いで言った。
「あなたの求めに応じるたびに、ローランド様との約束から、ますます遠ざかっていく気がして。
自分の誠実さを、ひとつひとつ手放しているような気がして……」
レギュラスは、その言葉を黙って聞いていた。
瞳の奥に何かが一瞬揺れたが、すぐに平坦な静けさを取り戻す。
「誠実さ、ですか」
繰り返す声は、どこか冷ややかだった。
「その“誠実さ”とやらは、今もローランド・フロストの側に置いてあるのですか。
それとも、セシール家の娘としての、優等生のあなたの胸の中に飾られているのですか」
アランの指先が震えた。
「あなたは、彼との約束を断ち切ることを選んだ。
ブラック家との婚姻を受け入れ、僕の姓を名乗った。
契約書にサインをし、父エドモンドの前でそれを認めさせた」
事実が、ひとつずつ積み上げられていく。
そこには情緒も、慰めもない。
ただ、冷徹な羅列があるだけだ。
「その上で今、僕の前に立っているのは、“僕の妻としてのあなた”です」
レギュラスは、彼女の顎にそっと指を添え、視線を上げさせた。
「――その妻が、夫の求めに応えることが当然ではない、と。
あなたは、今、そう主張しているのですよ」
アランの瞳に、涙の膜が張りついた。
声にならない息が、喉の奥で揺れる。
「そうです」と言えば、夫婦という枠組みそのものを否定する。
「違います」と言えば、自分の中の最後の拠り所を自ら壊す。
どちらも取れない場所で、言葉だけが宙づりになる。
「……あなたは、魔法省で日々取引をなさっているから……」
やっとの思いで、アランはそこまで言った。
「人の選択や、覚悟を、きちんと見ておられる。
だからこそ、その重さを……私よりも、きっとよく……」
レギュラスの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「ええ。人の覚悟を見るのは、仕事のようなものですから」
あっさりと認める。
「誰が何を捨て、何を取ろうとしているのか。
どこまでなら譲歩し、どこから先は譲れないのか。
それを毎日見て、聞いて、判断しています」
言葉は、静かな自負を帯びていた。
「その僕から見ると、アラン。
あなたは、すでに“選んでいる”のです」
彼女の名を、ゆっくりと呼ぶ。
「誠実さを選ぶなら、ローランド・フロストの側を取るべきでした。
ブラック家との取引も、この屋敷の生活も、僕の姓も、すべて断るべきだった」
その道があまりに現実離れしていることを、あえて無視した論理だった。
だが、論理としては完璧に整っている。
「それでもあなたは、こちら側に来た。
セシール家の利益と、父の研究と、自分の未来を天秤にかけて、“僕の妻になる”ことを選んだ」
レギュラスの灰色の瞳が、翡翠の瞳を深く捉える。
「ならば、今さら“誠実さ”を理由に、僕を半端な位置に立たせるのはやめていただきたい」
言葉が、刃のように静かに刺さる。
「僕は、あなたの罪悪感を永遠に背負うために、夫になったわけではありません。
妻としてここにいるあなたを、妻として扱う権利ぐらいは、確かにあるはずでしょう」
アランの胸の奥で、なにかがぎゅっと捻じれた。
「……レギュラ様」
掠れた声で名を呼ぶ。
「私は、あなたを傷つけたいわけでは……」
「ならば、なぜ、“夫として当然のこと”に、こうも怯えるのですか」
彼は容赦なく切り込む。
「僕は、あなたを他の女たちのように扱っているわけではない。
夜会の遊びの一環として抱いた女たちと同じように、飽きたら手放すつもりでいるわけでもない」
そこで一度、呼吸を整えた。
「あなたを妻にし、家族に迎え、セシール家との絆を結ぶために、僕は相応の代価を払った。
魔法省での立場も、ブラック家の財も、名誉も、すべて秤にかけた上で」
その声には、魔法省の役員としての冷静な自己認識が滲んでいた。
「取引として見ても、これは十分すぎる対価です。
その見返りとして、僕が“妻の身体と心を正当に求める”ことが、そんなにも不当ですか」
アランの呼吸が乱れる。
うまく吸えない空気が、肺の中でうすく膨らんでは萎んでいく。
「……不当だとは、申しません」
やっとの思いで、そう言った。
「ただ、私自身が……」
「あなた自身の感情が追いつかないことまで、僕に支払わせるつもりですか」
重ねられた一言は、鋭かった。
「罪悪感を抱くのは、あなたの自由です。
ローランド・フロストへの想いをすぐに捨てられないのも、理解はできます」
そこまでは認める。
しかし、と彼は続けた。
「それでも――あなたが選んだのは、僕です。
僕の姓であり、この屋敷であり、この寝台であり、この手です」
レギュラスの指先が、そっとアランの頬をなぞる。
その仕草は優雅でありながら、逃げ場を与えない。
「ならば、その選択の結果として、妻として僕の求めに応じることぐらい、“当然”だと考えてもいいでしょう?」
問いかけの形をしていながら、その声には答えを許さない質量があった。
アランの瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
熱い雫が頬を伝い、レギュラスの指の甲に落ちた。
レギュラスは、一瞬だけその熱を感じ取り――しかし拭おうとはしなかった。
「……あなたは、残酷な方です」
アランは、震える声で言った。
「あなたの仰ることは、すべて正しいから……何一つ、否定できないから……」
言葉が途切れ、喉が詰まる。
レギュラスは、ふっと微笑んだ。
それは、勝利の笑みではなかった。
ただ、自分の役割を果たした男の、静かな笑みだった。
「魔法省で、散々人の言い訳を聞いてきましたからね」
淡々とした声で呟く。
「どの言い訳が本物で、どの言い訳が自分を守るための逃げ口上なのか。
そういうものには、もう慣れているのです」
アランは、返す言葉を持たなかった。
「アラン」
レギュラスは、改めて彼女の名を呼ぶ。
「僕はあなたに、“好きだと言え”とか、“ローランドを忘れろ”とは言いません。
そんなことを命じても、意味がないことぐらい分かっていますから」
そこで言葉を切り、静かに息を吸う。
「ですが、“妻として僕の求めに応じることを当然だと認める”くらいは、していただきたい」
目を逸らすことを許さない声だった。
「あなたが、この家の若夫人であり、僕の妻である以上。
その程度の現実からまで、いつまでも逃げ続けるのは――あまりにも、卑怯ですよ」
卑怯。
その一語が、アランの胸の奥深くに沈んだ。
誠実さを手放したことを自覚していながら、
なおも「誠実でありたい」とどこかで思い続けていた自分。
どちらにも寄り切らず、中途半端な場所に座り続けている自分。
レギュラスの言葉は、その曖昧な足場を徹底的に破壊していく。
やがて、アランはほんのわずかに首を縦に振った。
「……分かりました、レギュラス」
掠れた声で、夫を呼ぶ。
「妻として……あなたの求めに応じることを、当然のこととして受け止めます」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
同時に、崩れ落ちた場所へ、別の重さが静かに積み上がっていく。
レギュラスは、その答えに満足げに目を細めた。
「ええ、ありがとうございます」
まるで、上手くまとまった契約書に署名をもらったときのような声音だった。
こうして、魔法省の役員として日々人を図り、取引をし、奪う側であり続けてきた男の鋭さは。
一人の妻を前にしても、寸分違わず発揮された。
アランの胸の内に残ったのは、言いようのない痛みと、どうしようもない従属の感覚だった。
それでも彼女は、崩れ落ちた足場の上に、ひとつだけ残った言葉を守ろうとした。
――「妻として当然のこと」。
その一文に、自分のこれからの夜も、朝も、未来も、静かに結びつけられていくのを感じながら。
暖炉の火は穏やかに燃えていた。
ソファの端に座るアランは、湯気の立つカップを両手で包んでいる。
視線はカップの表面と膝のあたりを往復し、彼の顔にはなかなか向けられない。
「紅茶の味は、どうですか」
レギュラスは、いつものように問いかけた。
「……とても、おいしいです」
「それは良かった。
あなたの好みだと言っていた茶葉を、少し多めに取り寄せておきましたから」
そう告げる声音には、薄い誇らしさが混じっていた。
アランは、返す言葉を探しながら、ほんのわずかに目を伏せる。
「お気遣い、感謝いたします」
それも、肯定だった。
彼の用意したものを否定しない。
拒まない。
受け取り、礼を述べる。
その一連の流れが、彼女の身体に刷り込まれていく。
レギュラスは、その様子を見つめながら、胸の奥に広がる感覚の名前を確かめようとしていた。
罪悪感は、ないわけではない。
ローランドの存在を完全に消し去ったわけでもなければ、アランの胸の内に走る痛みを全く想像できないほど鈍感でもない。
それでも——。
自分の言葉に従って動く妻の姿。
その隣に立ち、同じ屋敷で、同じ時間を過ごす現実。
それらが、彼の中の「満たされる」という感覚を、日ごとに強くしていった。
初めから、このやり方を選んでいれば良かったのではないか。
そう思うたび、胸のどこかが冷たく笑う。
譲歩や配慮を全面に掲げたところで、彼女の心は開かなかった。
ならば、家の当主として、夫としての正当な力を正面から使えばいい。
そうすれば、美しい妻は彼の言葉に「はい」と答え、彼の望む場所に立ち続ける。
その現実は、あまりにも分かりやすく、彼を満たした。
カップを置く小さな音が、静まり返った部屋に響く。
アランの肺のあたりで、目に見えない何かがじりじりと擦り減っていく気配を、レギュラスは知らない。
あるいは、知らないふりをしていた。
彩りの良い食卓。
日毎に増える「はい」と「かしこまりました」。
自分の言葉通りに動く、美しい妻。
それらを前にして、彼はようやく深く息をつくことができるようになっていた。
夜はとっくに更けていた。
屋敷全体が、深い眠りに沈みかけた頃合い。
廊下の燭台には最低限の灯りだけが残され、揺らぐ炎が石壁と絨毯に長い影を落としている。
そんな静けさの中で、アランの部屋の扉が、控えめなノックの音と共に震えた。
「アラン」
低く抑えたレギュラスの声が、扉越しに届く。
「はい」
返事をすると、間を置かずに言葉が続いた。
「今から、僕の部屋に来ていただけますか」
今から——。
枕元の時計に視線をやるまでもなく、感覚で分かる。
「遅い」と形容するには十分な時刻だ。
アランは、手元のナイトローブの紐を無意識に握りしめた。
「……今から、ですか?」
一応、確認だけはする。
「ええ。今からです」
即答だった。
躊躇も、迷いも、気遣いめいたものも挟まれない。
アランはほんのわずかにうつむき、それから扉の方へと歩み寄った。
「……承知しました。少し、支度を整えてから伺います」
「分かりました。お待ちしています」
足音が遠ざかる。
扉の向こうの気配が完全に消えてから、アランはようやく深く息を吐いた。
深夜に、夫の部屋へ呼ばれる意味など、分からないほど幼くはない。
むしろ、分かりすぎるほどに理解している。
胸の奥が、きりりと痛んだ。
レギュラスの部屋には、すでに暖炉の火が入れられていた。
炎は静かに燃え、オレンジ色の光が分厚いカーテンと凝った装飾の天蓋を柔らかく照らし出している。
ノックの音がして、扉が開いた。
「失礼いたします」
アランは、控えめに姿を現した。
ナイトドレスの上に薄手のショールを羽織り、胸元を押さえるようにして両手を揃えている。
髪は緩くまとめられ、ところどころぬらりと月光を孕んだ黒がこぼれ落ちていた。
レギュラスは、窓辺から振り返った。
「来てくれてありがとうございます」
その言い方は、表面上はいつも通りだった。
しかし、声の奥には「来て当然だ」という揺るぎない前提が確かに宿っている。
「……お呼びでしたので」
アランは、視線を床に落としたまま答えた。
部屋に一歩、また一歩と足を踏み入れるたび、背後の扉が遠くなる。
扉は静かに閉じられた。
カチリ、という小さな音が、妙に大きく耳に残る。
逃げ道がひとつ、音を立てて消えた。
「そんなに緊張しなくていいですよ」
そう言ってやることは、今まで何度もできた。
だが今日は、口にしなかった。
柔らかく宥める言葉は、結局のところ、彼女に「退く余地」を与えてしまう。
そうすれば相手は、躊躇と罪悪感の隙間に潜り込み、再び距離を取るだろう。
レギュラスは、その結末を嫌というほど見てきた。
「こちらへ」
暖炉の前、ベッドの手前に置かれたソファの方へ、視線で促す。
アランは短く頷き、言われるままに歩いた。
足音はほとんど響かない。
それでも、床板がかすかに軋むたび、胸の内側だけが大きく揺れる。
レギュラスは、一歩で距離を縮めた。
「アラン」
名を呼ぶ。
その声に、アランは自然と顔を上げた。
翡翠の瞳が、不安と警戒と、どうしようもない従属の色を混ぜ込みながら、灰色の瞳を映し出す。
次の瞬間、レギュラスの手がそっと彼女の顎に触れた。
力は強くない。
けれど、逃げられない程度には確かな力がこもっている。
顎をわずかに持ち上げられ、視線が上に引き上げられる。
その軌道の先に、彼の顔が迫っていた。
唇が触れ合う。
最初は、ごく浅い触れ方だった。
けれど、アランの唇がこわばったまま硬く閉ざされているのを感じると、レギュラスは角度を変えた。
閉じた口元の端に、ほんのわずかな隙を探るように。
アランの胸の内で、心臓が乱暴に跳ねた。
蘇る記憶がある。
あの夜会のあと、用意された屋敷で、同じように重ねられた口づけ。
そのままあれよあれよという間に押し流され、気づけば全てを奪われていた夜。
――また、同じように。
そう思った瞬間、身体のどこかが反射的に反応した。
アランは、ぎゅっと目を閉じ、身を引いた。
唇が離れる。
わずかな糸を引いた温度が、空気の中で途切れた。
レギュラスは、彼女の肩から手を離さなかった。
ただ、わずかに顔を引き、静かに問いかける。
「……何か、非難されるべき理由がありました?」
その声は驚くほど穏やかだった。
怒鳴り声も、露骨な苛立ちもない。
むしろ、純粋な確認を求めるかのような調子。
だからこそ、逃げ場がない。
アランは、唇をかすかに開閉させた。
喉の奥で言葉が絡まり、形にならないまま震える。
「……いえ、その……」
否定から始めるべきなのだと分かっている。
だが、何を否定すればいいのか、整理がつかない。
「僕は、あなたの夫です」
レギュラスは、事実だけを積み上げるように続けた。
「あなたは、僕の妻です。
同じ屋敷に暮らし、婚姻の契約は正式に結ばれている。
ブラック家もセシール家も、それを認めています」
淡々と言葉が並べられていく。
「そんな中で、今、僕は妻に口付けをしようとした。
――どこに、非難される要素があるのでしょう」
アランは、視線を逸らそうとして、それすらできないことに気づいた。
顎を支える指が、逃げ道を塞いでいる。
「……っ」
空気を飲み込む音だけが、小さく漏れた。
「怖いですか?」
問いかけ。
責め立てる響きはない。
ただ、彼の灰色の瞳がじっと翡翠の瞳を見つめている。
「……分かりません」
かろうじて出た言葉は、それだった。
自分でも情けないと思うほど、幼い答え。
レギュラスは、薄く笑った。
嘲りではない。ただ、力の抜けた吐息に近い笑み。
「分かりませんか」
繰り返しながら、ゆっくりと指を離した。
だが、代わりに彼女の肩に手が置かれる。
距離は、少しも開かない。
「では、こう言い換えましょう」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「妻に寝室を別にされ、口付けをすることさえ許されない夫、というのは――いったい、何なのでしょうね」
静かな問いだった。
しかし、その静けさは、鋭い刃を水面のすぐ下で滑らせるような危うさを孕んでいる。
アランの胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
そう言われれば、返す言葉はない。
事実として、彼の言う通りだったからだ。
寝室は別々。
夜、彼が肩を抱いただけで終わった日もある。
彼女はそれに密かに安堵し、同時に罪悪感を覚えていた。
いま、こうして問われている。
――あなたは、何をしているのか、と。
「……ブラック様を、傷つけたいと思っているわけでは、ありません」
絞り出した言葉は、それだけだった。
レギュラスは、瞬きもせずに彼女を見ていた。
「そうでしょうね」
あっさりと認める。
「あなたが、誰かを傷つけたいと思って行動する人間ではないことぐらい、僕も知っています」
それが分かっていて、なお問いを重ねる。
「それでも、結果として僕は、あなたの拒絶の中に立たされ続けている。
あなたは、僕に“そうさせている”」
事実だけを、丁寧に並べていく。
それは、魔法省の会議室で相手を追い詰めるときの彼の話し方と同じだった。
「――僕が、あなたの夫であるという前提を、いつまで否定し続けるつもりなのですか」
アランの視界が、かすかに滲んだ。
涙がにじんだのか、感情の揺れに目が追いつかないのか、自分でも判別がつかない。
ローランドの顔が、遠くに浮かんでは沈んでいく。
彼と交わした「まだ先だけれど、いつか」という約束。
未来の輪郭をそっと撫でるように語ってくれた夜の言葉たち。
それを、すべて自分の手で壊しておきながら。
今、目の前の男に対しても、まともに向き合えていない。
「……どう、すればよいのか、分からないのです」
ようやく出たのは、それだった。
言い訳に聴こえることは分かっている。
それでも、違う言葉に言い換えることができなかった。
「ローランド様を裏切って、ブラック様にも誠実に向き合えないまま、ここにおります。
自分のしていることが、あまりにも……」
声が震え、言葉の端が崩れた。
レギュラスは、その告白に一瞬だけ目を細めた。
苛立ちとも、理解ともつかない感情が、その灰色の瞳の奥に揺れる。
「……そうですか」
ぽつりと落とす。
「自分が“誠実でない”と分かっているのに、その状態のまま、僕の前に立ち続けているわけですね」
言い方は静かだった。
だが、その静けさがかえって胸に刺さる。
アランは、唇を噛んだ。
肯定も否定も、うまく言葉にならない。
「……僕は」
レギュラスは、少しだけ距離を詰めた。
肩に置いた手に、ほんのわずかに力がこもる。
「あなたが罪悪感を抱えていることを理解しようとは思っています。
ローランド・フロストとの約束を断ち切ったのが僕である以上、それは当然でしょう」
そこで言葉を区切り、視線を深く落とす。
「ですが、その罪悪感のために、僕がいつまでも“夫ではない位置”に押しやられ続ける理由にはなりません」
アランの喉が、きゅっと鳴った。
「あなたが、ここにいることを選んだのです」
レギュラスの声は、低く、硬い。
「セシール家との取引を受け入れ、この屋敷に嫁ぐことを選んだ。
僕の姓を名乗り、僕の隣に座ることを選んだのは、他でもないあなた自身です」
その通りだった。
誰かに無理やり署名させられたわけではない。
選択肢がいびつだったにせよ、最後に判を押したのは自分の手だ。
「——ならば、せめて、僕のことを“夫として扱う”努力ぐらいはしていただけませんか」
淡々とした口調のまま、核心を突く言葉が落ちる。
「僕は、あなたに完全な愛情や、ローランドへの未練を一晩で消し去れと言っているわけではない。
ただ、妻としてここに立つのであれば、それに見合う言動を求めるのは、そんなに無茶なことですか?」
アランは、答えられなかった。
「無茶です」と言えば、それはこの生活の根幹すべてを否定することになる。
「無茶ではありません」と言えば、その瞬間、自分自身を裏切ることになる。
どちらにも肯けない場所に、言葉だけが取り残される。
「……申し訳、ありません」
最終的に搾り出せたのは、謝罪の一言だけだった。
レギュラスは、ふっと息を吐いた。
「謝罪が欲しくて言っているわけではありません」
静かに告げる。
「僕が欲しいのは、あなたの“はい”です」
アランの指先が、震えた。
「僕が夫としてあなたに触れ、口付けをし、隣に立つことを、あなた自身の口で受け入れてほしい」
それは、要求であり、宣告でもあった。
「……アラン」
もう一度、名を呼ぶ。
レギュラスの手が、再び彼女の頬に伸びる。
今度は顎ではなく、頬の輪郭を指先でなぞるように。
「僕は、あなたの夫ですよ」
ゆっくりと、その言葉を刻み込む。
「妻に口付けをすることが、そんなに間違ったことでしょうか」
問いかけに、明確な「いいえ」が求められているのが分かる。
アランは、胸の内側で何度も言葉を転がした。
ローランドの名も、罪悪感も、すべて喉元で絡まり合う。
それでも――。
「……いいえ」
やっと、かすかな声が出た。
「間違っては……いないと、思います」
レギュラスの指先が、ほんの少しだけ力を強めた。
「そうですね」
満足げとも、安堵ともつかない声が返る。
「では、もう一度」
告げた瞬間、彼はわずかに身をかがめた。
逃げ道を閉ざされた空気の中で、アランの内臓は、またきりきりと音を立てて痛んでいた。
レギュラスの指が、アランの手首をとらえた。
強くはない。
逃げようとすれば、力ずくで振り払える程度の握りだ。
けれど、彼女の足元からはすでに力が抜けていて、そのわずかな牽引だけで、身体の重心はあっさりと崩れた。
寝台の端まで、ほんの数歩。
分厚い絨毯に沈んだ足音が、そこでふっと途切れる。
「アラン」
呼びかけは、驚くほど静かだった。
荒さも、昂ぶりも、声には滲んでいない。
その静けさのまま、レギュラスは彼女の腕をすっと引いた。
崩れ落ちるように、アランの身体が寝台へ沈む。
柔らかなマットレスが衝撃を吸い込み、羽毛の詰まった枕が小さな音を立てて形を変えた。
天蓋のカーテンが揺れ、その隙間から、暖炉の炎の色がひらりと覗く。
——いつかの夜の、再現。
アランの胸の内で、そんな言葉がわずかに浮かびかけて、すぐに沈んだ。
あの夜と同じように、天井の模様が視界の隅でぼやける。
視点がどこにも定まらないまま、彼女は天蓋の縁を見つめていた。
違うのは、ただ一つ。
あのとき彼女は、まだ「アラン・セシール」だった。
今、彼女は「アラン・ブラック」として、この寝台に沈んでいる。
レギュラスは、ゆっくりと彼女の上に身を重ねた。
燃え上がるような衝動ではなかった。
激しく求め合う熱でもない。
もっと静かで、もっと粘度のある感情が、その動きを支配していた。
押し寄せる波というより、満ちてくる潮のような。
勢いこそ穏やかだが、引くことを知らない水位が、じわじわと足下を浸していく。
指先が、布越しに肩の線をなぞる。
髪に触れ、頬を撫で、喉のあたりをなぞる。
ひとつひとつの所作は、外から見れば至極丁寧で、暴力性からは程遠かった。
けれど、その丁寧さが、「やめる理由」をどこにも残さない。
アランは、天井を見上げたまま、かすかにまぶたを震わせた。
胸の奥で、別の名前が沈んでは浮かびそうになる。
ローランドの顔立ちが、遠い水底の影のように揺らぐ。
——彼ではない。
最初から分かっていたことを、改めて突きつけられる。
抱き締められる腕の太さも、身体を覆う重みも、香りも、体温も違う。
それでも、現実にここにいるのは、彼女の夫として名を連ねた男だった。
レギュラス・ブラック。
レギュラスは、自分の胸の内に浮かび上がる感情を、ひとつひとつなぞるように確かめていた。
燃え上がるような欲望は、不思議と薄かった。
欲しくてたまらない、という飢えではない。
もっと別の、重たいものが、胸の底にどっしりと沈んでいる。
——ようやく、手に入れた。
あの夜会で、バーテミウスと半ば遊びのように始めた「一番美しい令嬢を落とすゲーム」。
そこで出会い、翻弄され、思い通りにいかないことで妙に執着を掻き立てられた女。
セシール家の令嬢として、純血貴族の娘として、自分に境界線を引き続けてきた女が。
今は、ブラック家の寝台に沈み、自分の名を姓に持つ妻として、腕の中に収まっている。
指先に触れるのは、夜会で初めて踊ったときの柔らかな手ではなく。
契約書にサインをし、ブラック家の紋章を刻まれた指輪を嵌めた、妻の手だった。
初めて抱いたあの夜。
彼女はまだ「アラン・セシール」だった。
セシール家の娘としての誇りと、ローランドへの約束と、純血貴族としての慎ましい未来を胸に抱えた少女。
あれは、奪い取る行為だった。
レギュラス自身も、それをよく分かっていた。
だが今夜は違う。
同じように身体を重ねているのに、その意味はまるで別物だった。
いま腕の中にいるのは、自らブラック家の門をくぐり、この屋敷で生活を始めた女だ。
父エドモンドの前で、魔法省の契約書の前で、自分の未来を「ブラック家」に委ねると選んだ女。
その女を、夫として抱いている。
——初めて抱いた時、彼女はアラン・セシールだった。
だが今、こうして抱いているのは、紛れもなく「アラン・ブラック」だ。
その事実が、レギュラスの胸の奥を満たしていく。
アランの視界の端で、カーテンが揺れた。
寝台の周りを囲う天蓋は、外界から切り離された小さな世界をつくり出している。
その中で、自分は夫の姓を名乗る女として、静かに夜を過ごしていた。
燃え上がるような熱は、確かにそこにはなかった。
どちらかといえば、少し冷えた水に沈められていくような、鈍い感覚の方が近い。
感情が追いつかない。
身体だけが、既に決められた軌道をなぞるように、淡々と終盤へ向かっている。
行為が燃え上がっていようと、冷え切っていようと。
始まりがどんなもので、途中にどれほどの逡巡や葛藤が挟まっていようと。
最終的な着地点は、変わらない。
夫と妻が、同じ寝台で夜を共にする。
純血の家において、子をなす可能性をはらんだ行為が繰り返される。
それが、どれほど歪な経緯を経て辿りついた地点であろうと。
――行為は行為だった。
その冷徹な事実だけが、アランの胸の内で、妙に澄んだ輪郭を保っていた。
レギュラスは、息を整えながら、彼女の髪に指を滑らせた。
行為そのものは、熱狂とは程遠い。
けれど、その終わりに訪れる静寂は、彼にとって、満たされるしかない種類の静寂だった。
寝台に横たわる女の肩に、片腕を回す。
汗に貼りついた黒髪の束を指で払うように整えながら、自分の胸の高鳴りが徐々に落ち着いていくのを感じる。
初めての夜と、同じ天蓋、同じ重さのシーツ。
だが、胸に広がる感覚は、あのときと決定的に違っていた。
あの夜は、「手に入れてしまった」という昂ぶりと、奪い取ったことへの奇妙な高揚があった。
今夜は、「手に入れて当然だ」と思える、静かな確信があった。
彼女は、自分の妻だ。
魔法省の記録にも、家の家系図にも、世間の噂話の中にも、その事実は刻まれている。
そして今、寝台の上で重ねた身体そのものが、その事実に別の重さを与えている。
アラン・セシールを、「アラン・ブラック」として抱いた。
その事実が、レギュラス・ブラックの誇りを、底から満たしていく。
純血ブラック家の後継として。
魔法省の役員として。
家名も、地位も、財も、権力も手にしてきた男が、最後に欲した“所有”が、ようやく形になった。
この寝台の上に横たわる、美しい妻。
翡翠の瞳を持つその女は、もはや「誰かの婚約者」ではない。
セシール家の娘でありながら、ブラック家の姓を名乗る、唯一の女だった。
レギュラスは、目を閉じた。
胸の内側で、重く、ゆっくりとした満足が広がる。
それは、熱狂ではないが、確かな酔いに似ていた。
初めから、こうなるべきだったのだと。
彼は、どこかで当然のように思っていた。
彼の腕の中で、アランは静かに息をしている。
その呼吸に寄り添うように、自分の胸の上下が重なっていくのを感じながら、レギュラスはもう一度だけ、彼女の名を心の中で呼んだ。
――アラン・ブラック。
その響きこそが、彼の誇りを何よりも満たしていた。
最初に目を覚ましたのは、皮膚の上をかすめていく何かの感覚だった。
布の擦れる音でも、窓の外から差し込む光でもない。
それよりも、ずっと近く、ずっと生あたたかいもの——指先。
肩のあたりから、鎖骨のくぼみへ。
そこからゆっくりと胸元へと下っていく、迷いのない軌跡。
レギュラスの手だ、と理解した瞬間、アランの意識は一気に水面へ引き上げられた。
寝台の上、天蓋の内側。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ白く弱い。
もう朝と言うべきなのか、まだ夜のうちと言ってもいいのか——その境目のような、曖昧な時間だった。
背中に触れていたシーツは、昨夜の熱をわずかに残している。
その上を、レギュラスの指先がゆっくりと這った。
肩甲骨のあたりをなぞり、背骨に沿ってほんの少しだけ下り、また引き返す。
なにも考えていないようでいて、決して「無意識」ではない動き。
触れられるたびに、肌の内側が、細い糸で引かれるようにぴんと張る。
どう反応したらいいのか分からなかった。
昨夜のことを思えば、拒む権利はとうに自分で手放してしまっている。
かといって、当たり前のように受け入れるには、心のどこかがまだ追いつかない。
なのに。
背筋がひやりと震えた。
心地よさと呼ぶのは悔しいほどの感覚が、そこにあった。
指先は、敵意を持っているわけではない。
淡々と、しかし確かな意図を持って、彼女の存在を確かめている手の動きだった。
「……起きました?」
低く掠れた声が、耳元で落ちる。
アランは、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
視界の端には、乱れた天蓋のレースと、薄く差し込む朝の光。
完全には覚醒しきれていない世界が、ぼんやりと広がっている。
「……はい」
かすかに頷く。
自分の声も、まだ少し寝床のぬくもりを引きずっていた。
レギュラスが、ふっと息を笑い混じりに吐く気配がした。
「あなたが起きるのを待ってました」
言葉と同時に、彼の身体の重みがわずかに離れる。
ガバリ、と音を立てるような勢いで上体を起こしたかと思えば、そのまま動きに淀みなく、今度は上から覆いかぶさるように身を乗り出してきた。
視界に、彼の灰色の瞳が近づく。
寝起きの世界が一気に鮮やかさを取り戻し、心臓だけが理解の速度を追い越して跳ね上がる。
何が始まるのか——理屈では、分かっている。
ただ、その確信に心が追いつく前に、昨夜の続きを告げるように、彼の気配が全身を包み込んでいった。
「……ヴァルブルガ様が、心配されます」
喉の奥でからからに乾いた声を、どうにか押し出す。
言葉にすがりつくような、苦しい抵抗だった。
義母の顔が脳裏をよぎる。
何事も「家」のため、「血統」のためと考えるあの婦人が、夜通し夫の部屋に留め置かれた嫁をどう見るか。
レギュラスは、そんな懸念を真正面から受け止めて——そして、あっさりと違う方向へ捻った。
「心配どころか、喜ぶでしょう」
あくまで柔らかい声で告げる。
「あなたの懐妊の調べで、母を喜ばせましょう」
さらりと、当たり前のことのように。
アランの呼吸が、一瞬止まった。
懐妊——。
その言葉が、静かにしかし容赦なく胸に沈んでいく。
単に夜を共にする、ということだけではなく。
その先に求められているものが、はっきりと形を持って突きつけられる。
純血ブラック家の若夫婦。
妻に求められる役割の一つ。
子を宿すこと。
それは、貴族の娘として育てられたアランにも分かっていた。
いつか、自分にもそういう日が来るのだろうと、漠然と想像したこともある。
——ただ、その隣に立つはずの男は、別の人間だった。
ローランド・フロストの顔が、瞬間的に脳裏をかすめる。
穏やかな青い瞳。
将来のことを語るとき、慎重で、それでもどこか嬉しそうに微笑んでくれた横顔。
その未来を、自分はもう手放した。
その代わりに今、別の未来のために手を取らされている。
レギュラスは、アランの瞳に一瞬だけの動揺が走ったのを見逃さなかった。
だが、そこに同情を差し込むような甘さは持ち合わせていない。
「母は、あなたを気に入っています」
さらりと続ける。
「美しく、血統も申し分なく、魔法薬にも明るい。
そのうえ、ブラック家の子を産んでくれるとなれば、これ以上の喜びはないでしょう」
それは、政治的な評価の羅列のようでもあった。
褒め言葉でありながら、女一人の人生の重さを数字のように並べていく、冷ややかな視点。
アランの胸の奥で、何かがぎゅっと縮む。
「……私は——」
何かを言おうとして、言葉が喉で絡まる。
「準備ができていない」とか、「心の整理がついていない」とか。
そういった言い訳は、すべて「妻である以上」という一文の前には、あまりにも頼りない。
レギュラスは、そんな逡巡を見透かすように、微かに微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
囁くような声で言う。
「あなたは、もう僕の妻です。
ここで子を宿すのは、誰かの誠実さを踏みにじる行為でも、背徳でもない。
ただ、当然のことを当然のようにしているだけです」
さらりとした言葉の中に、「当然」が幾度も重ねられていく。
アランは、唇を噛んだ。
それは、本当にそうなのだろうか。
ローランドとの過去も、自分が抱え続けている罪悪感も、すべて「当然」の一言で上書きできるのだろうか。
問いは、胸の内側で渦巻くだけで、声にはならなかった。
代わりに、彼女の身体が、昨夜と同じように静かに寝台へ沈められていく。
レギュラスの手が、ショールの結び目に触れた。
昨日の夜よりも、迷いのない手つき。
アランが自ら結び、守りだと思い込んでいた布の防壁は、彼の指先にかかれば簡単にほどけてしまう。
「……ヴァルブルガ様に、叱られてしまうかもしれません」
最後の抵抗のように、アランは口にした。
「何をですか?」
レギュラスは、本気で分からないという顔をした。
「あなたが夫と共に夜を過ごし、朝にまだ僕の部屋にいることを、ですか?
それとも、ブラック家の跡継ぎを望まれることを、ですか?」
穏やかな声色のまま、逃げ場を消していく。
「どちらも、母にとっては喜ばしい事柄でしょう。
心配する必要はありませんよ」
アランは、言葉を失った。
さらりと、とんでもないことを言う。
それを自覚していないのか、あえて気づかないふりをしているのか、自分でも判別がつかない。
ただひとつ確かなのは——。
レギュラスにとって、“妻の身体に触れ、その先に子を望む”ことは、何ひとつ異常でも、罪でもないということだ。
それは、きっと正しい。
純血貴族の当主として、夫として、家族を望む男として。
彼の言葉は、むしろ筋が通っている。
だからこそ、アランの胸の奥で疼く「痛み」は、どこにも行き場がなかった。
昨夜と同じように、天蓋のカーテンが揺れる。
朝の光が、布越しにやわらかく差し込んでくる。
世界は、間違い一つなく、正しく動いている。
この寝台の上で、純血ブラック家の夫婦が夜を重ね、朝にその続きを迎えていることも、きっと“正しいこと”の範疇に含まれるのだろう。
ただ、その「正しさ」が、アランの心を守ってくれるわけではない。
背筋をぞくりと震わせる心地よさと、内臓の奥でじくじくと疼く罪悪感とが、同じ身体の中で同居している。
レギュラスの言葉に頷かなければならない自分と、頷きたくない自分が、どこにも逃げ場のないまま擦り合わされていく。
そのすべてを飲み込んだ先で、アランはただ、短く息を吐いた。
レギュラスの腕の中で。
彼の手は、あくまで当然の権利のように、妻の身体の輪郭をなぞっていく。
その指先が目指しているのは、昨夜と同じ結末であり——そのさらに先にある、「懐妊の調べ」という、冷ややかに具体的な未来だった。
その夜、寝台の帷が半ばまで下ろされた寝室には、暖炉の火が静かに燃えていた。
炎はもう高くはない。丸くなった炭が赤々と灯り、部屋の隅々にかすかな橙色を漂わせている。
アランは、その光の届くぎりぎりの場所――寝台の端に、膝を揃えて座っていた。
ナイトドレスの上から羽織った薄いショールを、指先でぎゅっと握りしめている。
視線は足元の絨毯と、寝台の縁のあたりをさまよい、決して対面に立つ男の瞳を捉えようとはしない。
レギュラスは、寝台から少し離れたところに立っていた。
ジャケットはすでに脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲っている。
肩で切り取られた灯りが、彼の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
「……また、今夜も、ですか」
沈黙に耐えきれず、ああは唇から零れそうな言葉をどうにか整えた。
「お疲れなのではと……魔法省でも、お忙しいと伺っておりますし」
声は、努めて穏やかに保たれていた。
拒絶とも承諾ともつかない、曖昧な抵抗。
それがどれほど意味を持つのか、自分自身でも分からないまま口にしている。
レギュラスは、かすかに片眉を上げる。
「忙しさと、妻を求めることに、何か関係がありますか」
返ってきたのは、その一言だった。
穏やかな口調。
しかし、その中に含まれた論理の刃は鋭い。
魔法省の会議室で相手を追い込み、退路を封じるときと同じ声だった。
アランの指先が、ショールの布をさらに強く握る。
「……いえ、あの。そういう意味では……」
何かを言い換えようとするたび、言葉が喉の奥で絡まる。
自分が何を望んでいるのか、どこまで許せて、どこからが許せないのか。
その境目が、触れられるたびにぼやけていく。
「アラン」
名前を呼ばれ、肩がびくりと震えた。
レギュラスは、ゆっくりと寝台へ歩み寄る。
足音は柔らかく、しかし確実に距離を詰めていく。
「あなたは、僕の妻でしょう」
ごく当たり前の事実を確認するように言う。
「はい……」
それだけは否定できない。
アランは、かすかな声で頷いた。
「ブラック家の屋敷に住み、僕の隣に座り、ブラックの姓を名乗っている。
それは、誰の目にも明らかな現実です」
レギュラスは寝台の縁に片手を置き、身をかがめた。
距離が近づくと、淡い香りが鼻先をかすめる。
アランは、思わず背筋を固くする。
「では、妻としてこうして僕の求めに応えてくれることが、“当然ではない”理由を、教えていただけますか」
静かな問いだった。
怒鳴り声も、責め立てる口調もない。
ただ、魔法省の役員として日々鍛え上げてきた「詰め」の鋭さだけが、そこにあった。
アランは、息を詰めた。
妻として、夫の求めに応じること。
それは、この世界に生きる誰もが「当たり前」と教え込まれることだ。
純血の娘として育てられてきたアランにとっても例外ではない。
だからこそ、口を開けば、矛盾しか出てこないと分かっていた。
「……レギュラ様を、拒みたいと思っているわけでは、ありません」
どうにか絞り出した言葉は、それだった。
「ただ……その……」
続きを探すまなざしは、揺れている。
ローランドの名を口にした瞬間、すべてが崩れてしまいそうで、言葉を墨で塗りつぶしたように押し殺す。
「ただ?」
レギュラスは、その途切れた部分を逃さない。
「ただ、何ですか。
“夫を拒みたいわけではないが、夫の求めに応えることは当然ではない”――そういう理屈が、どこかに存在するのなら、ぜひ教えてください」
言葉が、論理の枠に押し込められる。
曖昧な感情や、名付けようのない罪悪感は、彼の前では形を持てない。
アランは、唇を噛んだ。
胸の奥で、何度も同じ言い訳がぐるぐると回る。
――ローランドを裏切ってしまったこと。
――レギュラに触れられるたび、自分がますます戻れない場所へ進んでいくこと。
――それでも、身体のどこかが、それを心地良いと覚え始めていること。
そのすべてを、「当然ではないから」と一言で済ませるには、あまりにも重い。
「……私は、自分のしたことの重さが、まだ……」
掠れた声で、やっとの思いで言った。
「あなたの求めに応じるたびに、ローランド様との約束から、ますます遠ざかっていく気がして。
自分の誠実さを、ひとつひとつ手放しているような気がして……」
レギュラスは、その言葉を黙って聞いていた。
瞳の奥に何かが一瞬揺れたが、すぐに平坦な静けさを取り戻す。
「誠実さ、ですか」
繰り返す声は、どこか冷ややかだった。
「その“誠実さ”とやらは、今もローランド・フロストの側に置いてあるのですか。
それとも、セシール家の娘としての、優等生のあなたの胸の中に飾られているのですか」
アランの指先が震えた。
「あなたは、彼との約束を断ち切ることを選んだ。
ブラック家との婚姻を受け入れ、僕の姓を名乗った。
契約書にサインをし、父エドモンドの前でそれを認めさせた」
事実が、ひとつずつ積み上げられていく。
そこには情緒も、慰めもない。
ただ、冷徹な羅列があるだけだ。
「その上で今、僕の前に立っているのは、“僕の妻としてのあなた”です」
レギュラスは、彼女の顎にそっと指を添え、視線を上げさせた。
「――その妻が、夫の求めに応えることが当然ではない、と。
あなたは、今、そう主張しているのですよ」
アランの瞳に、涙の膜が張りついた。
声にならない息が、喉の奥で揺れる。
「そうです」と言えば、夫婦という枠組みそのものを否定する。
「違います」と言えば、自分の中の最後の拠り所を自ら壊す。
どちらも取れない場所で、言葉だけが宙づりになる。
「……あなたは、魔法省で日々取引をなさっているから……」
やっとの思いで、アランはそこまで言った。
「人の選択や、覚悟を、きちんと見ておられる。
だからこそ、その重さを……私よりも、きっとよく……」
レギュラスの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「ええ。人の覚悟を見るのは、仕事のようなものですから」
あっさりと認める。
「誰が何を捨て、何を取ろうとしているのか。
どこまでなら譲歩し、どこから先は譲れないのか。
それを毎日見て、聞いて、判断しています」
言葉は、静かな自負を帯びていた。
「その僕から見ると、アラン。
あなたは、すでに“選んでいる”のです」
彼女の名を、ゆっくりと呼ぶ。
「誠実さを選ぶなら、ローランド・フロストの側を取るべきでした。
ブラック家との取引も、この屋敷の生活も、僕の姓も、すべて断るべきだった」
その道があまりに現実離れしていることを、あえて無視した論理だった。
だが、論理としては完璧に整っている。
「それでもあなたは、こちら側に来た。
セシール家の利益と、父の研究と、自分の未来を天秤にかけて、“僕の妻になる”ことを選んだ」
レギュラスの灰色の瞳が、翡翠の瞳を深く捉える。
「ならば、今さら“誠実さ”を理由に、僕を半端な位置に立たせるのはやめていただきたい」
言葉が、刃のように静かに刺さる。
「僕は、あなたの罪悪感を永遠に背負うために、夫になったわけではありません。
妻としてここにいるあなたを、妻として扱う権利ぐらいは、確かにあるはずでしょう」
アランの胸の奥で、なにかがぎゅっと捻じれた。
「……レギュラ様」
掠れた声で名を呼ぶ。
「私は、あなたを傷つけたいわけでは……」
「ならば、なぜ、“夫として当然のこと”に、こうも怯えるのですか」
彼は容赦なく切り込む。
「僕は、あなたを他の女たちのように扱っているわけではない。
夜会の遊びの一環として抱いた女たちと同じように、飽きたら手放すつもりでいるわけでもない」
そこで一度、呼吸を整えた。
「あなたを妻にし、家族に迎え、セシール家との絆を結ぶために、僕は相応の代価を払った。
魔法省での立場も、ブラック家の財も、名誉も、すべて秤にかけた上で」
その声には、魔法省の役員としての冷静な自己認識が滲んでいた。
「取引として見ても、これは十分すぎる対価です。
その見返りとして、僕が“妻の身体と心を正当に求める”ことが、そんなにも不当ですか」
アランの呼吸が乱れる。
うまく吸えない空気が、肺の中でうすく膨らんでは萎んでいく。
「……不当だとは、申しません」
やっとの思いで、そう言った。
「ただ、私自身が……」
「あなた自身の感情が追いつかないことまで、僕に支払わせるつもりですか」
重ねられた一言は、鋭かった。
「罪悪感を抱くのは、あなたの自由です。
ローランド・フロストへの想いをすぐに捨てられないのも、理解はできます」
そこまでは認める。
しかし、と彼は続けた。
「それでも――あなたが選んだのは、僕です。
僕の姓であり、この屋敷であり、この寝台であり、この手です」
レギュラスの指先が、そっとアランの頬をなぞる。
その仕草は優雅でありながら、逃げ場を与えない。
「ならば、その選択の結果として、妻として僕の求めに応じることぐらい、“当然”だと考えてもいいでしょう?」
問いかけの形をしていながら、その声には答えを許さない質量があった。
アランの瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
熱い雫が頬を伝い、レギュラスの指の甲に落ちた。
レギュラスは、一瞬だけその熱を感じ取り――しかし拭おうとはしなかった。
「……あなたは、残酷な方です」
アランは、震える声で言った。
「あなたの仰ることは、すべて正しいから……何一つ、否定できないから……」
言葉が途切れ、喉が詰まる。
レギュラスは、ふっと微笑んだ。
それは、勝利の笑みではなかった。
ただ、自分の役割を果たした男の、静かな笑みだった。
「魔法省で、散々人の言い訳を聞いてきましたからね」
淡々とした声で呟く。
「どの言い訳が本物で、どの言い訳が自分を守るための逃げ口上なのか。
そういうものには、もう慣れているのです」
アランは、返す言葉を持たなかった。
「アラン」
レギュラスは、改めて彼女の名を呼ぶ。
「僕はあなたに、“好きだと言え”とか、“ローランドを忘れろ”とは言いません。
そんなことを命じても、意味がないことぐらい分かっていますから」
そこで言葉を切り、静かに息を吸う。
「ですが、“妻として僕の求めに応じることを当然だと認める”くらいは、していただきたい」
目を逸らすことを許さない声だった。
「あなたが、この家の若夫人であり、僕の妻である以上。
その程度の現実からまで、いつまでも逃げ続けるのは――あまりにも、卑怯ですよ」
卑怯。
その一語が、アランの胸の奥深くに沈んだ。
誠実さを手放したことを自覚していながら、
なおも「誠実でありたい」とどこかで思い続けていた自分。
どちらにも寄り切らず、中途半端な場所に座り続けている自分。
レギュラスの言葉は、その曖昧な足場を徹底的に破壊していく。
やがて、アランはほんのわずかに首を縦に振った。
「……分かりました、レギュラス」
掠れた声で、夫を呼ぶ。
「妻として……あなたの求めに応じることを、当然のこととして受け止めます」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
同時に、崩れ落ちた場所へ、別の重さが静かに積み上がっていく。
レギュラスは、その答えに満足げに目を細めた。
「ええ、ありがとうございます」
まるで、上手くまとまった契約書に署名をもらったときのような声音だった。
こうして、魔法省の役員として日々人を図り、取引をし、奪う側であり続けてきた男の鋭さは。
一人の妻を前にしても、寸分違わず発揮された。
アランの胸の内に残ったのは、言いようのない痛みと、どうしようもない従属の感覚だった。
それでも彼女は、崩れ落ちた足場の上に、ひとつだけ残った言葉を守ろうとした。
――「妻として当然のこと」。
その一文に、自分のこれからの夜も、朝も、未来も、静かに結びつけられていくのを感じながら。
