1章
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その日の夕餉は、妙に味がしなかった。
長いテーブルの上には、いつも通り豪奢な料理が並び、銀器は磨き上げられている。
ヴァルブルガは仕立て屋から届いた新しいドレス生地について愉快そうに語り、オリオンは新聞を片手に相槌を打っていた。
炎の灯るシャンデリアが、金糸の刺繍やガラス器の縁を柔らかく照らし出す。
その華やかさの中心で、アランは慎ましく座っていた。
ナイフとフォークを扱う所作は完璧で、背筋も伸びている。
ヴァルブルガから話を振られれば礼儀正しく応じ、微笑みも浮かべる。
だが、視線は決してレギュラスの方へ長くは向かない。
果物の皿がテーブルの中央に置かれたとき、アランの長い指が一瞬迷った。
好物と知っている品に触れかけて、すぐさま別のものへと手を滑らせる。
そのわずかな軌道修正を、レギュラスは見逃さなかった。
食事中、彼女は必要以上に喋らない。
かつて一度だけ見せてくれた、肩の力が抜けた微笑や、父エドモンドとの思い出を語る穏やかな声色は、すっかり影を潜めていた。
——また、遠ざけている。
その事実は、ここ数日で嫌というほど突きつけられている。
待つ。
尊重する。
配慮する。
そう決めたはずの感情は、彼女が一歩引くたびに、形を失いはじめていた。
食事がひととおり終わり、ヴァルブルガが椅子から優雅に立ち上がる。
「アラン、明日の午後、また仕立て屋が来ますよ。
あの青のドレスの裾、少し詰めた方がいいと思うの」
「かしこまりました、ヴァルブルガ様」
アランは椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
銀の燭台の炎が、彼女の黒髪を柔らかく縁取っていた。
オリオンが新聞を畳み、短く告げる。
「では、私は書斎に戻る」
それぞれが自分の持ち場へ散っていく中で、レギュラスはゆっくりと椅子から立った。
その動きには、特別な気負いはない。
だが、内側で何かが静かに決壊しつつあることを、自分自身がよく知っていた。
「アラン」
名前を呼ぶ声は、穏やかだった。
声量も抑えられている。
けれど、その一音で、空気がほんの少し張り詰めた。
アランは振り返る。
翡翠の瞳が、行儀よく夫を捉える。
その視線の奥に、一瞬だけかすかな警戒が走った。
「この後、僕の部屋に来ていただけませんか。話があります」
事務的と言っていい響きだった。
丁寧さは保たれているが、余計な飾りや遠回しな前置きは一切ない。
一拍。
アランの表情が、わずかに固まる。
「……お話ならば、今ここでしていただいても——」
言い終わる前に、その声にかぶせるようにして、レギュラスはきっぱりと言葉を差し込んだ。
「部屋に来ていただけませんか、と告げたんです」
穏やかさは崩さない。
語尾も丁寧なままだ。
ただ、その声色には、明確な線引きがあった。
——はい、以外の回答は認めない。
そう告げるに等しい硬さがあった。
アランの喉が、かすかに動く。
テーブルから一歩離れたまま、両手を前で重ね、瞬きの回数を無意識に増やしている。
ヴァルブルガは、そのやり取りを扇の陰からちらりと見やったが、何も言わずにサロンへと去っていった。
オリオンもまた、息子の声音の変化に気づいていながら、新聞を脇に抱えて食堂を出る。
二人の親は、あえて口を挟まないという選択をした。
広い食堂には、レギュラスとアランだけが残された。
「……承知しました」
アランは、息を整えるように短く吸い込み、静かに頭を下げた。
「後ほど、お伺いいたします」
声は潤いを欠いている。
礼儀として完璧な返事。
それでも、拒みたいという感情と、逆らえない現実とのあいだで揺れる影が、翡翠の瞳に薄く落ちていた。
レギュラスは、それ以上何も言わなかった。
もう、彼女の体調を慮る言葉や、「無理であれば改めて」などという逃げ道を添える気持ちはなかった。
そこに配慮を差し込むたび、扉を閉ざす時間が伸びていくだけだと、嫌でも学んでしまったからだ。
待とうとした。
尊重しようとした。
配慮しようとした。
そのすべての先にあるのが、鍵のかかった扉と、引き下がる自分の背中だけなら——そこに意味を見いだすことは、もはやできなかった。
アランは、自室へ戻る廊下を、少しだけ早足で歩いた。
冷たい石畳の上に、靴音が一定のリズムを刻む。
壁に掛けられた肖像画たちが、その姿を静かに見送っていた。
胸の奥は、落ち着かない。
拒む言葉を並べようとした瞬間に、レギュラスの声が重なった。
「部屋に来ていただけませんか、と告げたんです」——淡々としたその一言が、背筋をひやりと撫でる。
怒鳴られたわけでもない。
威圧的な語調でもない。
それなのに、あの瞬間、空気の温度が数度下がったような感覚があった。
はい、以外の答えを許さない声だった。
彼は今まで、そういう声音をあまり見せなかった。
魔法省で相手を論破するときの冷静さや、政治的な取引の場で見せる鋭さは別として、少なくともアランに対しては、ずっと「猶予」を与えるような柔らかさを保っていた。
用意された猶予から、自分が何度も逃げ続けてきたことを、アラン自身も理解している。
頭痛を理由に部屋への出入りを断り、研究の話を早々に切り上げ、距離を測る手つきで会話を閉じてきたのは他でもない自分だ。
その積み重ねが、今、レギュラスの声に現れている。
廊下の角を曲がり、自室の前まで来てから、アランは一度だけ深く息を吐いた。
扉に手をかけ、自分の部屋へ入る。
部屋の中は、いつもと同じだった。
セシール家から持ち込んだ家具と本、ローランドとの思い出の品を収めた箱。
窓辺のカーテンは閉じられ、ランプに灯した炎が、静かに揺れている。
その安定した空気が、今は心細かった。
一方、レギュラスは、先に自室へ戻っていた。
重厚な扉を閉めると、外の喧騒は途端に遠のく。
壁にはブラック家の祖先たちの肖像画が並び、高い天井には凝った装飾が施されている。
暖炉の火はすでに焚かれていたが、その温かさとは別に、室内の空気は妙に冷えているように感じられた。
ジャケットを脱いで椅子の背にかけ、ネクタイをゆるめる。
鏡台の前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
鏡の中には、整えられた髪と、よく仕立てられたシャツを身につけた男が立っている。
世間が「全てを持っている」と評する男。
その男の口元に宿る笑みは、今はほとんど色を失っていた。
配慮も、尊重も、待つことも——もともと自分の本性に近いものではなかった。
アランが相手だからこそ、「例外」として選び続けてきた態度だ。
その例外が、彼女自身の手でどんどん意味を失わされていくのなら。
レギュラスは、鏡から視線を外した。
彼女を責めたいわけではない。
ローランドとの未来を断ち切ったのが自分だという自覚は消えない。
だから、ある程度の後ろめたさと共に彼女の頑なさを受け入れてきた。
だが、限界というものはある。
自分は、アラン・セシールを「手に入れた」と確かに信じている。
セシール家との取引も、父と母の了承も、婚姻の証文も、すべてそれを裏付ける形になっている。
それなのに、彼女だけがいつまでも、どこか遠くに立ったままなのだ。
そのずれを、そろそろ正さなければならない。
ノックの音が、静寂を破った。
レギュラスは、暖炉のそばから振り返る。
炎の赤が、灰色の瞳にちらりと映った。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開く。
控えめな動作で姿を現したアランは、少し緊張しているようだった。
ナイトドレスではなく、まだ日中のドレス姿のまま。
光沢のある濃紺の生地が、彼女の黒髪と翡翠の瞳を際立たせている。
「失礼いたします」
敷居を越える足取りは、慎重そのものだ。
レギュラスの部屋に入ること自体は初めてではない。
それでも、今夜の呼び出しには、これまでとは違う気配があった。
扉が閉まる音が、背後で静かに響く。
退路が、ひとつ消える。
アランは、無意識に胸元の布地を指先でつまんだ。
ナイトドレスの上からショールを固く結んだ夜とは違う。
今夜は、その頼みの綱もない。
レギュラスは、彼女の動きを黙って見つめていた。
ゆっくりと一歩近づき、暖炉とソファの間の、ほどよく距離のとれる位置で足を止める。
「来てくれてありがとうございます」
言い方だけは、いつも通り丁寧だ。
しかし、声の奥に、何か固い芯のようなものがある。
「……お話、とは」
アランがうかがうように問いかける。
視線は、彼のネクタイの結び目あたりに留められたままだ。
「そうですね」
レギュラスは、わずかに息を整えた。
待つことをやめると決めた夜。
その始まりは、驚くほど静かだった。
レギュラスは、目の前の女をしばらく黙って見つめていた。
暖炉の火がぱち、と音を立てて爆ぜる。
その小さな音だけが、やけに耳につく。
広い一室に、二人分の呼吸と炎の気配だけが漂っていた。
アランは、所在なげに指先を揃えていた。
視線はやはり彼の胸元より上へは上がらない。
呼び出された理由を尋ねたきり、次の言葉を待っている——はずなのに、その姿勢にはいつでも「すぐにでも下がります」と言い出しそうな気配が混じっていた。
レギュラスは、言葉を選びあぐねていた。
責めたいわけではない。
しかし、このまま曖昧に笑って世間話をして終わらせるために呼んだのでもなかった。
沈黙が、ゆっくりと部屋の温度を変えていく。
「……座りませんか」
先に口を開いたのはレギュラスだった。
指先でソファの肘掛けを軽く叩く。
アランはわずかに肩を揺らし、それから小さく頷いた。
「失礼いたします」
ゆっくりと歩み寄り、ソファの端に腰を下ろす。
浅く座り、背筋を伸ばしたまま、膝の上で手を重ねるその姿は、まるで正式な訪問客のようだ。
レギュラスは少し遅れて、その隣に腰を下ろした。
以前なら、自然と半歩分だけ距離を詰めていた。
今日は、意図的に拳二つ分の間隔を残す。
離れすぎてもいない。
近すぎもしない。
その「ちょうど中途半端な距離」が、余計に気まずさを際立たせた。
「……そんなに緊張しなくてもいいですよ」
冗談めかした言い方を試みたが、自分でも驚くほど笑いの気配が乗らなかった。
アランは微かに瞬きをしただけで、表情を変えなかった。
「緊張などはしておりません」
「本当ですか?」
問い返すと、彼女は小さく息を呑んだ。
否定しながらも、指先に力がこもっている。
レギュラスは、その手元に目を落とした。
細い指が、組んだままほどけない。
膝の上で固く絡めた両手が、彼女の心の状態をそのまま形にしたように見えた。
「……アラン」
名を呼ぶ声が、ほんの少し低くなる。
「はい」
「最近、僕からまたずいぶん距離を取ろうとしているように見えるのですが」
あくまで穏やかな調子だった。
ただ、その穏やかさがかえって逃げ場を塞ぐ。
アランは一瞬だけ視線を揺らし、すぐに元の位置に戻した。
言葉を探す間だけ、唇が迷うように動いたが、すぐに整った線を取り戻す。
「……そのようなつもりは」
「ありませんか?」
即座に重ねられた問いに、答えが喉の奥で途切れた。
レギュラスは、視線を彼女から外さない。
「僕がそう感じている、という話です」
落ち着いた声。
怒鳴り声ではない。
しかし、誤魔化しや言い訳を許さない、静かな圧があった。
「頭痛を理由に部屋への訪問を断られる回数が、少し増えましたね。
廊下でお会いしても、最近は足を止めてくださらない」
アランの肩が、目に見えて固くなった。
「……本当に、体調が優れないこともありまして」
「ええ。そうでしょうね」
否定はしない。
ただ、その一言だけでは終わらせないという気配が続く。
「その割には、魔法薬の研究の書類や、セシール卿とのやり取りの整理は、滞りなく進んでいるように見えます。
あなたのことですから、本当に具合が悪いなら、そちらも一緒に手を止めるでしょう」
アランは、言葉を返せなかった。
膝の上の手が、さらに強く組まれる。
レギュラスは、わずかに息を吐いた。
暖炉の火が、その呼吸の揺れを映すように揺らめく。
「僕は、愚かではありませんよ、アラン」
穏やかな言い方なのに、胸に刺さる。
「あなたが意図的に距離を戻そうとしていることぐらいは、見ていれば分かります」
図星を刺された痛みが、翡翠の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ。
すぐにかき消されるが、その裂け目は確かにあった。
「……その。私の振る舞いが、不快であったのなら、お詫びいたします」
ようやく絞り出された言葉は、完全な謝罪の形式を取っていた。
感情を限りなく削ぎ落とした、教本に載せられそうな謝罪。
レギュラスは、眉根をわずかに寄せた。
「不快、ですか」
「はい。ブラック様のお気持ちに沿う形になっていなかったのであれば——」
「そういう話をしているわけではありません」
遮る声は、少しだけ硬かった。
アランのまつげが、びくりと震える。
「僕は、“機嫌を損ねたから謝りなさい”と言いたいわけじゃない」
言いながら、自分でも苦笑したくなる。
「ブラック様のお気持ち」という言い回しに、他人行儀な壁をまたひとつ積み上げられた気がした。
「……アラン。僕たちは、夫婦ですよ」
その言葉に、アランの喉がわずかに動いた。
指先から、すっと血の気が引いていくように見える。
「形式上だけの話ではなく、実際に同じ屋敷で生活を共にしています。
僕はあなたの夫で、あなたは僕の妻です」
その事実は、婚姻届けや魔法省の記録以上に、日常のひとつひとつとして積み重ねられている。
「それなのに——」
言葉を区切り、レギュラスは少しだけ視線を伏せた。
「僕が扉の前に立つたびに、内側から鍵をかけられているような気分になる」
アランの肩が、ぴくりと動いた。
図星の痛みは、隠しようがない。
「本当に、鍵もかけられているようですが」
皮肉とも冗談ともつかない一言を添えると、アランは息を飲み、唇を噛んだ。
「……あの」
「ええ」
「無礼なことをしている自覚は、あります」
か細い声だった。
頷きながら、その言葉を押し出していく。
「ですが……どう振る舞うことが正しいのか、分からないのです」
ようやく零れた本音は、あまりにも不器用だった。
レギュラスは、少しだけ目を見開いた。
アランは続ける。
「ロー——」
その名を言いかけ、慌てて飲み込む。
喉の奥で引っかかった音が、かえって彼女の動揺を浮き彫りにした。
「……以前、約束していた未来とは、あまりにも違う形でここにおりますので。
その、気持ちを整理しきれていない部分が、まだ……」
言葉を選ぶたびに、痛みが滲む。
それでも、できるだけ礼儀正しい言葉で包もうとする。
「ブラック様に対して、失礼だとは分かっておりますが……」
「失礼だと分かっていて、続けていると?」
問いかけは静かなのに、逃げ場がない。
アランは、視線を落としたまま、かすかに頷いた。
「……はい」
正直な返答だった。
その正直さが、逆にレギュラスの胸を苛立たせる。
レギュラスは、ソファの背にもたれず、少し前に身を乗り出した。
拳二つ分ほどの距離が、目測で詰まる。
「アラン。あなたの戸惑いも、整理できない気持ちも、理解しようとは思っています」
言葉は自分に対する戒めのようでもあった。
「ローランド・フロストとの約束を断ち切ったのは、僕ですからね」
はっきりと名を出された瞬間、アランの顔色がさっと変わった。
痛みと羞恥と、どうしようもない罪悪感が一度に押し寄せたような表情。
「……存じ上げながら、こうして婚姻を受け入れたのは、私です」
震える声で、それでも彼女はそこを認める。
「だからこそ、余計に、どう顔を上げていいのか分からないのです。
ブラック様の前でも、フロスト家の皆さまの前でも」
フロスト家、という言葉を出すときだけ、声がわずかに掠れた。
レギュラスは、その震えに気づいていた。
“そうやって、どちらの前でも罪悪感を抱えたまま立ち続けるつもりですか?”——喉元まで出かかった言葉を、ぎりぎりで飲み込む。
苛立ちは、すでに胸の内側に確かな形を持っている。
しかし、それをそのままぶつければ、今残っているわずかな信頼すら粉々になることも理解していた。
待つことをやめたからといって、感情のままに荒らすつもりはない。
ただ、これ以上一方的に引かれることだけは、拒みたかった。
「……僕は、あなたに“ローランドを忘れろ”と言うつもりはありません」
静かに告げる。
アランの瞳が、意外そうに揺れた。
「忘れようとすればするほど、余計に意識することぐらい、誰でも知っていますから」
苦い笑みが、ほんの一瞬だけ口元に浮かぶ。
「ただ——」
灰色の瞳が、翡翠の瞳をとらえる。
逃がすまいとするように、まっすぐに。
「過去の約束に縛られて、今の夫を永遠に“外側”に立たせ続けるつもりなら、その点については、はっきりと異議を唱えます」
言葉の選び方は冷静だ。
しかし、その中心にはすでに苛立ちが芯として通っていた。
「あなたがここにいる以上、僕はあなたを妻として扱います。
たとえその過程が、あなたにとって居心地の悪いものだとしても」
「……居心地の、悪い」
アランは、胸の奥を指摘されたような気がして、思わず同じ言葉を繰り返した。
「ええ。きっと今、とても居心地が悪いでしょう」
レギュラスは淡々と続ける。
「ローランドへの後ろめたさと、僕への遠慮と、ブラック家の妻としての責務と。
全部抱えたまま、どこに立てばいいか分からなくなっている」
そう言われて、否定できる言葉を探しても見つからなかった。
図星すぎて、反論する余地がない。
ただ、痛い。
「だからといって——」
レギュラスの声が、少しだけ低くなった。
「ずっと部屋に鍵をかけて、僕を廊下に立たせるのは、やめてほしいのです」
その言い方は、あまりにも具体的で、あまりにも真っ直ぐだった。
アランは息を呑み、膝の上で絡めた手に視線を落とした。
「……気をつけます」
それが、やっと絞り出せた言葉だった。
完璧な答えではない。
しかし、“はい”以外の選択肢を封じられた今、彼女にできる最大限の歩み寄りでもあった。
レギュラスは、その返事に小さく息を吐いた。
満足とは程遠い。
けれど、何も言わないよりは、まだましだと思えた。
気まずさは、相変わらず部屋の隅々にまで張り付いている。
暖炉の火が、やけに大きく音を立てて燃えた。
「……今夜、ここで何かを“強要”するつもりはありません」
ややあって、レギュラスが口を開いた。
「ただ、ひとつだけ覚えておいてください」
アランは、かすかに顔を上げる。
翡翠の瞳が、恐る恐る彼を見た。
「僕はもう、“何も言わずに待つ”だけの役を続けるつもりはないということを」
その言葉だけは、はっきりとした宣言だった。
アランの胸の奥で、何かが強く縮む。
恐怖とも違う、安堵とも違う、名付けようのない感情。
気まずさは、最後まで解けないままだった。
互いに視線を外し合い、同じ部屋にいながら、まるで違う場所に立っているかのような感覚だけが残る。
この夜が、二人のあいだの均衡を静かにずらし始めたことだけが、確かな事実だった。
その夜を境に、レギュラス・ブラックの距離の詰め方は、目に見えて変わった。
翌朝の食卓。
長いテーブルには、いつも通り焼き立てのパンと温かなスープ、色とりどりの果物が並んでいる。
ヴァルブルガは新しい招待状について楽しげに語り、オリオンは新聞の紙面に視線を落としたままだった。
アランは、席に着いてからずっと、静かにナイフとフォークを動かしていた。
その視線は、皿の縁と手元のあいだを往復するばかりで、正面に座る夫を見ようとはしない。
「アラン」
レギュラスの声が、柔らかく空気を切った。
「今日は、朝食のあとで僕の書斎に来てください。
魔法薬研究の件で話をします」
言い回しだけ見れば、礼儀も敬意もある。
しかしそこには、以前のような「もしお時間があれば」「体調がよろしければ」といった前置きが、一言も添えられていなかった。
アランの指先が、わずかに止まる。
「……本日、父への手紙を仕上げる予定がございまして。
少し、そちらを——」
「それはあとで構いません」
レギュラスの返事は、一拍の間も置かれずに重なった。
「書斎での話は長くは取りません。
父上への手紙は、そのあとでゆっくりお書きください」
逃げ道として差し出しかけた予定は、二言目であっさりと塞がれる。
「……かしこまりました」
それ以外の返答を選べる余地は、どこにもなかった。
レギュラスは「ありがとう」とだけ告げる。
その顔には、何か特別なことを命じたという自覚はまるでない。
朝食のあとに夫の書斎へ行く——それは、夫婦としてごく自然な流れだとでも言うように、当たり前の顔をしていた。
アランの胃のあたりは、すでにじくじくと痛み始めていた。
書斎は、いつものように整然としていた。
壁一面を埋める書棚、磨き上げられた机。
暖炉には火が入り、薄い煙が静かに上へと昇っていく。
「失礼いたします」
扉をノックし、アランが中へ入る。
レギュラスは机から顔を上げ、椅子を立った。
「来てくれてありがとうございます。
そこに座ってください」
指し示されたのは、机の真正面の椅子だった。
以前なら、ソファの方へと導き、距離を和らげようとしただろう。
今日は、あえて向かい合う位置を選んでいる。
アランは、少し戸惑いながらも従った。
背筋を伸ばして腰を下ろし、膝の上で手を揃える。
「先日お渡しした資料ですが、何点か確認したいことがあります」
レギュラスは、机の上から分厚い書類を持ち上げる。
その口調は冷静で、淡々としていた。
魔法薬の成分表、セシール家の研究資料との比較。
内容としては、確かに話し合うべき事項だ。
だが、質問の合間合間で、微妙な変化が混ざっていく。
「この配合について、セシール卿はどうお考えだと思いますか」
「父でしたら、おそらく……薬効の立ち上がりの速さよりも、長期的な安定を重視するのではないかと」
「では、あなたは?」
アランは、まばたきした。
「……私、ですか」
「ええ。あなた自身は、どう判断します?」
逃げ場のない問い方だった。
以前なら「セシール家としては」「専門家としては」と、どこかに責任の所在を分散させてくれていた。
アランは、慎重に言葉を選ぶ。
「……短期的な使用であれば、この配合でも問題はないと思います。
ただ、副作用の出方を考えると——」
「では、そう判断したと、魔法省への報告書にも明記しましょう」
レギュラスは即座に言う。
「これは、“セシール卿の娘としての意見”ではなく、“アラン・ブラックとしての見解”として必要です」
机の上に置かれた書類の上に、ペン先が音を立てて触れる。
その瞬間、アランの喉がきゅっと詰まった。
——ブラック。
もう何度も耳にしたはずの姓が、今日はやけに重く響いた。
「……私の、名前を出す必要があるのでしょうか」
かろうじて絞り出す。
「ええ、もちろんです」
レギュラスは即答した。
「あなたは“セシール家から嫁いできた娘”ではなく、今は“ブラック家の一員として魔法省に関わる者”ですから」
それは正論だった。
だからこそ、逃げ道はなかった。
アランは、しずかに視線を落とす。
椅子の脚が床をきしませないように気をつけながら、膝の上で手を握りしめた。
レギュラスの声は、一切揺れない。
彼にとっては――これが、「当たり前」の範疇なのだ。
その変化は、日常のあらゆる場面に現れ始めた。
ある日の午後、廊下。
アランが自室へ戻ろうと角を曲がったところで、向こうから歩いてくるレギュラスと鉢合わせる。
灰色の瞳が、すぐさま彼女を捉えた。
「アラン。ちょうどよかったです」
彼は歩みを緩めず、そのまま距離を詰めてくる。
「今から中庭を一緒に歩きましょう。
セシール家の新しい薬草区画について、話を聞きたい」
誘いではなく、決定事項のような言い方だった。
アランは、胸の前で手を揃えた。
「申し訳ありません。
本日は少し体調が優れず……」
「なら、歩いておいた方がいいですよ」
レギュラスの返しは、容赦がなかった。
「ずっと部屋にこもっている方が、回復は遅れます。
外の空気を吸えば、少しは気も晴れるでしょう」
まるで主治医のような口調で、言葉を積み重ねていく。
アランは、返す言葉を失った。
「……ですが、書きかけの——」
「それは、あとで続きが書けます」
二言目で、やはり道は塞がれる。
「中庭を一周する時間くらいなら、問題はないでしょう?」
レギュラスの表情は穏やかだった。
眉ひとつ動かさない。
“何かおかしいことを言っていますか?”とでも言いたげな、自然な顔。
アランの胃のあたりが、きゅう、と痛んだ。
反論の言葉を探そうとすると、その痛みがさらに鋭くなる。
「……かしこまりました」
それしか、返せない。
彼女の足は、自室へ戻る方向ではなく、レギュラスの示した方向へと向きを変えた。
並んで歩き出したとき、肩と肩の距離は以前より近くなっていた。
アランが半歩分遅れようとすると、レギュラスは何も言わず歩調を落とし、すぐにその遅れを詰めてくる。
距離が、勝手に調整されていく。
彼の基準で、「夫婦として自然な位置」へと。
何か問題でも?
そう問われれば、婚姻の在り方としては正しいのかもしれない。
けれど、アランの内臓は、きりきりと悲鳴をあげ続けていた。
夜、寝支度を整えたあと。
自室の扉の前まで来たところで、不意に名前を呼ばれた。
「アラン」
振り向くと、廊下の少し離れたところにレギュラスが立っていた。
昼間の執務を終えたあとの、少しラフな装い。
ネクタイを外し、第一ボタンを外したシャツの襟元から、わずかに覗く肌。
「今夜は、僕の部屋で紅茶を飲みましょう」
告げる声は、驚くほど自然だった。
「……明日も、早朝からお出かけになるのでは」
恐る恐る尋ねる。
「だからこそですよ」
レギュラスは、淡く笑った。
「ゆっくりと落ち着いてから眠りたい。
あなたも、最近なかなか寝つきが良くないでしょう?」
それは、図星だった。
だからこそ、反論が苦しい。
「いえ、私はもう休もうと——」
「紅茶一杯分の時間も、取ってはいただけないのですか」
言葉が、そこでぴたりと止まる。
拒否すれば、それは「夫と共に過ごすひとときを拒絶した」という形になる。
受け入れれば、また一歩、彼の許容する距離の中へ足を踏み入れることになる。
アランは、喉の奥で息を噛み殺した。
「……分かりました。
少しだけ、なら」
「ありがとうございます」
レギュラスは本当に嬉しそうに言った。
その顔を見るたびに、胸の痛みはひときわ鋭くなる。
——どうして、そんな顔ができるのだろう。
彼にとっては、これが当然なのだ。
夫婦が、同じ屋敷で、同じ時間を過ごすこと。
距離を詰め、逃げ道を塞ぎながらも、どこまでも淡々とした顔でそれを行うこと。
その「当然」が、アランにとっては一つひとつ、内側から少しずつ削られていく感覚と結びついていた。
やり取りのたびに、会話の重心はずれていく。
レギュラスにとっては、何もおかしなことを言っている自覚はない。
夫として、家の主として、当然のように求める事柄。
それを告げる声は、一貫して静かで穏やかだ。
対して、アランの胸の内には、些細な言葉の一つ一つが鋭い棘になって残る。
「来てほしい」ではなく、「来てください」。
「できれば」ではなく、「そうしましょう」。
「もし差し支えなければ」ではなく、「問題はありませんよね」。
有無を言わせない形に整えられた言葉たちが、日常会話の中に当たり前のように混ざり始めた。
それに抗おうとすればするほど、二言目で逃げ道が塞がれる。
そのたびに、アランの内臓は、きりきりと音を立てるかのように痛んだ。
レギュラスは、その痛みを知らない。
気づこうともしないのではなく、そもそもの前提が違っている。
——何か問題でも?
彼の灰色の瞳は、そう問いかけるように澄んでいた。
アランの胸の中で、その問いに答えられる言葉は、どんどん少なくなっていく。
「はい」と「かしこまりました」と、その二つだけが、日ごとに確実さを増していった。
変化は、静かに、しかし確実に屋敷の空気を変えていった。
ある朝の食卓。
長いテーブルの上には、銀の蓋に覆われた皿と、湯気を立てるポットが整然と並べられている。
窓から差し込む光が白いクロスを照らし、果物の赤や黄色を浮かび上がらせていた。
レギュラスは、席につくと同時に一度だけ全体を見渡した。
父オリオンはいつものように新聞を広げ、ヴァルブルガは新しいドレス仕立ての予定について話している。
アランは、その端に静かに座っていた。背筋は真っ直ぐで、ナイフとフォークを持つ指先まで、教本の挿絵のように整っている。
「アラン」
穏やかながら、反論を受け付けない芯を秘めた声が、テーブルの一端から届いた。
「来週の茶会ですが、あなたも出席してください。
セシール家とブラック家の新しい関係を、きちんとお披露目しておく必要があります」
そこには、以前のような「もし差し支えなければ」という緩衝材はなかった。
アランの指先がわずかに止まり、ナイフの先が皿をかすかに鳴らす。
「……私などが出てよろしいのでしょうか。
ヴァルブルガ様のお考えも——」
「母は、あなたの出席を当然と考えています」
レギュラスの返答は、即座に重なった。
「家同士の婚姻を結んだ以上、あなたは“セシール家の娘”であると同時に、“ブラック家の若夫人”です。
その自覚を、周囲にも示すべきでしょう」
事実だけを淡々と積み上げる声だった。
アランの喉が、わずかに動く。
それでも、逃げ場を探すような言葉はもう口にしなかった。
「……かしこまりました」
短い肯定。
それ以上は、何も続かない。
その一言を耳にした瞬間、レギュラスの胸の奥に、淡い安堵が広がるのを自覚した。
以前なら、ここからさらに「ですが」「とはいえ」といった前置きが続き、彼はそれをひとつひとつ丁寧にほどきながら説得を重ねてきた。
時間をかけ、相手の感情を推し量り、譲歩を織り交ぜた言い方を選ぶ。
その回りくどさこそが必要だと、自分に言い聞かせていた。
今は違う。
告げる。
肯定が返る。
話が前に進む。
単純で、驚くほど滑らかな流れだった。
その日、昼過ぎの廊下。
大理石の床に、午後の光が斜めに差し込み、窓枠の影が長く伸びている。
アランは書庫から出て、自室へ戻ろうとしていた。腕には数冊の本が抱えられている。
角を曲がったところで、レギュラスと鉢合わせた。
「ちょうどいいところに」
彼は立ち止まりもせず、自然な動きで距離を詰めてくる。
「今から応接室に来てください。
セシール卿への報告書について、あなたの意見を反映しておきたい」
要請ではなく、予定の確認のような口ぶりだった。
アランは、本を抱える腕に力をこめる。
「……今から書類の清書をするところでしたので、後ほど——」
「清書はあとで構いません」
二言目で、やはり道は塞がれる。
「あなたの見解を先に確認した方が、書類の完成も早くなるはずです。
今から、少し時間をいただけますか」
“いただけますか”――文法だけ見れば丁寧だが、その声にはほとんど疑問形の揺れがない。
肯定を前提とした問いだった。
アランの口から、自然に言葉がこぼれる。
「……はい」
短い返答。
自分でも驚くほど、即答に近い。
それを聞いたレギュラスの表情には、わずかな満足が浮かんだ。
彼にとって今の「はい」は、何ひとつ不自然なものではない。
夫が仕事上の用件で妻を呼び、妻がそれに応じる——それ以上の意味を、彼はそこに見ていない。
アランは、内臓のどこかがきゅっと縮むような痛みを感じていた。
それでも、腕に抱えた本を抱き直し、彼の後に続く。
応接室は、柔らかな光に満ちていた。
レースのカーテン越しに入る陽光が、淡い色のソファと絨毯を照らし、花瓶に挿された白い花を透かしている。
暖炉には火こそ入っていないが、部屋全体にどこか温かな印象を与えていた。
「そこに」
レギュラスが顎でソファの位置を示す。
アランは黙って頷き、本をサイドテーブルに置いてから腰を下ろした。
彼も向かいに座る。
以前よりも、明らかに間合いは近い。
ソファの端と端ではなく、中央寄り。同じ位置に寄せられた重心が、二人の距離を視覚的にも縮めている。
「先ほどの資料ですが」
レギュラスは、手元の書類を少し掲げた。
「この部分、“セシール家として評価する”という表現になっていましたね」
「はい。
父の研究方針を考えれば、そのような——」
「ここは、“アラン・ブラックとして”に変えておきましょう」
アランの言葉を途中で断つ形になったが、レギュラスは構わず続ける。
「これからは、魔法省もセシール卿だけでなく、あなた自身の見解を重要視するようになります。
そのための準備は、早い方がいい」
机の上にペン先が触れ、さらりと文言が書き換えられていく。
アランが黙り込む。その沈黙を、拒絶ではなく“了承”と解釈するのに、彼は慣れ始めていた。
「……ですが、私にはまだ、父ほどの経験も——」
「経験は、これから積んでいけばいいのです」
即座の返しだった。
「だからこそ、今からあなたの名前を署名させるのです。
責任と影響力は、同時に伸ばしていくべきですから」
アランは、膝の上で重ねた手に、視線を落とした。
指先が白くなるほど力がこもっているのに、彼女自身はそれに気づかない。
「……承知しました」
かすかな声。
肯定以外の音が、喉の奥で潰れていく。
レギュラスは、その短い返答にまた一つ安堵した。
譲歩を前面に出すやり方をやめてから、話は驚くほどスムーズに進むようになった。
こちらが「どうしたいのか」を先に明確に告げ、相手の感情や迷いよりも、「家」と「夫婦」としての筋を優先して言葉を選ぶ。
その結果、アランの口からは「はい」「承知しました」「かしこまりました」以外の返答が、ほとんど出なくなった。
それは、本来なら不自然な偏りなのかもしれない。
けれどレギュラスは、そこに妙な安心を覚えずにはいられなかった。
夜、サロン。
ヴァルブルガが客用のソファに凭れ、紅茶を楽しんでいた。
大きな窓の外には庭の闇が広がり、遠くに灯る魔法灯が点々と浮かぶ。
「アラン、明日の午後は時間がありますか」
レギュラスは、サロンへ入ってきた彼女に視線を向けた。
「……午前中に手紙を数通書こうと思っていた以外は、特に予定は」
「では、午後は母と一緒に仕立て屋と打ち合わせをしてください。
新しく作るドレスの件で、あなたの意見が必要です」
決定事項としての言い方。
アランは、一瞬だけ言葉を探すように唇を開きかけた。
ローランドが好んだ色や、自分が本来身につけたいはずの服のことが、一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、その思考は表に出る前に止められた。
「……かしこまりました。
ヴァルブルガ様のお手伝いをさせていただきます」
「いいですね」
レギュラスは満足げに頷いた。
アランが、自分で選んだ「肯定」という答え。
それが積み重なっていくたびに、彼の中の“これでいいのだろうか”という迷いは薄れていった。
初めから、こうしていれば良かったのではないか——ふと、そんな考えが頭をかすめる。
譲歩を前に出すやり方は、彼にとってあまりにも不自然だった。
魔法省で相手をねじ伏せ、政策を通すときのやり方とは真逆のやり方だ。
その不自然さを、アランのためだと自分に言い聞かせて続けてきたが、その結果得られたものは、鍵のかかった扉と距離ばかりだった。
今は違う。
自分の言葉に力をこめる。
夫として、家の時期当主として、当然のように告げる。
そのたびに、美しい妻は素直に頷き、その意向に沿って動く。
これほど分かりやすく、満たされるものはなかった。
長いテーブルの上には、いつも通り豪奢な料理が並び、銀器は磨き上げられている。
ヴァルブルガは仕立て屋から届いた新しいドレス生地について愉快そうに語り、オリオンは新聞を片手に相槌を打っていた。
炎の灯るシャンデリアが、金糸の刺繍やガラス器の縁を柔らかく照らし出す。
その華やかさの中心で、アランは慎ましく座っていた。
ナイフとフォークを扱う所作は完璧で、背筋も伸びている。
ヴァルブルガから話を振られれば礼儀正しく応じ、微笑みも浮かべる。
だが、視線は決してレギュラスの方へ長くは向かない。
果物の皿がテーブルの中央に置かれたとき、アランの長い指が一瞬迷った。
好物と知っている品に触れかけて、すぐさま別のものへと手を滑らせる。
そのわずかな軌道修正を、レギュラスは見逃さなかった。
食事中、彼女は必要以上に喋らない。
かつて一度だけ見せてくれた、肩の力が抜けた微笑や、父エドモンドとの思い出を語る穏やかな声色は、すっかり影を潜めていた。
——また、遠ざけている。
その事実は、ここ数日で嫌というほど突きつけられている。
待つ。
尊重する。
配慮する。
そう決めたはずの感情は、彼女が一歩引くたびに、形を失いはじめていた。
食事がひととおり終わり、ヴァルブルガが椅子から優雅に立ち上がる。
「アラン、明日の午後、また仕立て屋が来ますよ。
あの青のドレスの裾、少し詰めた方がいいと思うの」
「かしこまりました、ヴァルブルガ様」
アランは椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
銀の燭台の炎が、彼女の黒髪を柔らかく縁取っていた。
オリオンが新聞を畳み、短く告げる。
「では、私は書斎に戻る」
それぞれが自分の持ち場へ散っていく中で、レギュラスはゆっくりと椅子から立った。
その動きには、特別な気負いはない。
だが、内側で何かが静かに決壊しつつあることを、自分自身がよく知っていた。
「アラン」
名前を呼ぶ声は、穏やかだった。
声量も抑えられている。
けれど、その一音で、空気がほんの少し張り詰めた。
アランは振り返る。
翡翠の瞳が、行儀よく夫を捉える。
その視線の奥に、一瞬だけかすかな警戒が走った。
「この後、僕の部屋に来ていただけませんか。話があります」
事務的と言っていい響きだった。
丁寧さは保たれているが、余計な飾りや遠回しな前置きは一切ない。
一拍。
アランの表情が、わずかに固まる。
「……お話ならば、今ここでしていただいても——」
言い終わる前に、その声にかぶせるようにして、レギュラスはきっぱりと言葉を差し込んだ。
「部屋に来ていただけませんか、と告げたんです」
穏やかさは崩さない。
語尾も丁寧なままだ。
ただ、その声色には、明確な線引きがあった。
——はい、以外の回答は認めない。
そう告げるに等しい硬さがあった。
アランの喉が、かすかに動く。
テーブルから一歩離れたまま、両手を前で重ね、瞬きの回数を無意識に増やしている。
ヴァルブルガは、そのやり取りを扇の陰からちらりと見やったが、何も言わずにサロンへと去っていった。
オリオンもまた、息子の声音の変化に気づいていながら、新聞を脇に抱えて食堂を出る。
二人の親は、あえて口を挟まないという選択をした。
広い食堂には、レギュラスとアランだけが残された。
「……承知しました」
アランは、息を整えるように短く吸い込み、静かに頭を下げた。
「後ほど、お伺いいたします」
声は潤いを欠いている。
礼儀として完璧な返事。
それでも、拒みたいという感情と、逆らえない現実とのあいだで揺れる影が、翡翠の瞳に薄く落ちていた。
レギュラスは、それ以上何も言わなかった。
もう、彼女の体調を慮る言葉や、「無理であれば改めて」などという逃げ道を添える気持ちはなかった。
そこに配慮を差し込むたび、扉を閉ざす時間が伸びていくだけだと、嫌でも学んでしまったからだ。
待とうとした。
尊重しようとした。
配慮しようとした。
そのすべての先にあるのが、鍵のかかった扉と、引き下がる自分の背中だけなら——そこに意味を見いだすことは、もはやできなかった。
アランは、自室へ戻る廊下を、少しだけ早足で歩いた。
冷たい石畳の上に、靴音が一定のリズムを刻む。
壁に掛けられた肖像画たちが、その姿を静かに見送っていた。
胸の奥は、落ち着かない。
拒む言葉を並べようとした瞬間に、レギュラスの声が重なった。
「部屋に来ていただけませんか、と告げたんです」——淡々としたその一言が、背筋をひやりと撫でる。
怒鳴られたわけでもない。
威圧的な語調でもない。
それなのに、あの瞬間、空気の温度が数度下がったような感覚があった。
はい、以外の答えを許さない声だった。
彼は今まで、そういう声音をあまり見せなかった。
魔法省で相手を論破するときの冷静さや、政治的な取引の場で見せる鋭さは別として、少なくともアランに対しては、ずっと「猶予」を与えるような柔らかさを保っていた。
用意された猶予から、自分が何度も逃げ続けてきたことを、アラン自身も理解している。
頭痛を理由に部屋への出入りを断り、研究の話を早々に切り上げ、距離を測る手つきで会話を閉じてきたのは他でもない自分だ。
その積み重ねが、今、レギュラスの声に現れている。
廊下の角を曲がり、自室の前まで来てから、アランは一度だけ深く息を吐いた。
扉に手をかけ、自分の部屋へ入る。
部屋の中は、いつもと同じだった。
セシール家から持ち込んだ家具と本、ローランドとの思い出の品を収めた箱。
窓辺のカーテンは閉じられ、ランプに灯した炎が、静かに揺れている。
その安定した空気が、今は心細かった。
一方、レギュラスは、先に自室へ戻っていた。
重厚な扉を閉めると、外の喧騒は途端に遠のく。
壁にはブラック家の祖先たちの肖像画が並び、高い天井には凝った装飾が施されている。
暖炉の火はすでに焚かれていたが、その温かさとは別に、室内の空気は妙に冷えているように感じられた。
ジャケットを脱いで椅子の背にかけ、ネクタイをゆるめる。
鏡台の前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
鏡の中には、整えられた髪と、よく仕立てられたシャツを身につけた男が立っている。
世間が「全てを持っている」と評する男。
その男の口元に宿る笑みは、今はほとんど色を失っていた。
配慮も、尊重も、待つことも——もともと自分の本性に近いものではなかった。
アランが相手だからこそ、「例外」として選び続けてきた態度だ。
その例外が、彼女自身の手でどんどん意味を失わされていくのなら。
レギュラスは、鏡から視線を外した。
彼女を責めたいわけではない。
ローランドとの未来を断ち切ったのが自分だという自覚は消えない。
だから、ある程度の後ろめたさと共に彼女の頑なさを受け入れてきた。
だが、限界というものはある。
自分は、アラン・セシールを「手に入れた」と確かに信じている。
セシール家との取引も、父と母の了承も、婚姻の証文も、すべてそれを裏付ける形になっている。
それなのに、彼女だけがいつまでも、どこか遠くに立ったままなのだ。
そのずれを、そろそろ正さなければならない。
ノックの音が、静寂を破った。
レギュラスは、暖炉のそばから振り返る。
炎の赤が、灰色の瞳にちらりと映った。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開く。
控えめな動作で姿を現したアランは、少し緊張しているようだった。
ナイトドレスではなく、まだ日中のドレス姿のまま。
光沢のある濃紺の生地が、彼女の黒髪と翡翠の瞳を際立たせている。
「失礼いたします」
敷居を越える足取りは、慎重そのものだ。
レギュラスの部屋に入ること自体は初めてではない。
それでも、今夜の呼び出しには、これまでとは違う気配があった。
扉が閉まる音が、背後で静かに響く。
退路が、ひとつ消える。
アランは、無意識に胸元の布地を指先でつまんだ。
ナイトドレスの上からショールを固く結んだ夜とは違う。
今夜は、その頼みの綱もない。
レギュラスは、彼女の動きを黙って見つめていた。
ゆっくりと一歩近づき、暖炉とソファの間の、ほどよく距離のとれる位置で足を止める。
「来てくれてありがとうございます」
言い方だけは、いつも通り丁寧だ。
しかし、声の奥に、何か固い芯のようなものがある。
「……お話、とは」
アランがうかがうように問いかける。
視線は、彼のネクタイの結び目あたりに留められたままだ。
「そうですね」
レギュラスは、わずかに息を整えた。
待つことをやめると決めた夜。
その始まりは、驚くほど静かだった。
レギュラスは、目の前の女をしばらく黙って見つめていた。
暖炉の火がぱち、と音を立てて爆ぜる。
その小さな音だけが、やけに耳につく。
広い一室に、二人分の呼吸と炎の気配だけが漂っていた。
アランは、所在なげに指先を揃えていた。
視線はやはり彼の胸元より上へは上がらない。
呼び出された理由を尋ねたきり、次の言葉を待っている——はずなのに、その姿勢にはいつでも「すぐにでも下がります」と言い出しそうな気配が混じっていた。
レギュラスは、言葉を選びあぐねていた。
責めたいわけではない。
しかし、このまま曖昧に笑って世間話をして終わらせるために呼んだのでもなかった。
沈黙が、ゆっくりと部屋の温度を変えていく。
「……座りませんか」
先に口を開いたのはレギュラスだった。
指先でソファの肘掛けを軽く叩く。
アランはわずかに肩を揺らし、それから小さく頷いた。
「失礼いたします」
ゆっくりと歩み寄り、ソファの端に腰を下ろす。
浅く座り、背筋を伸ばしたまま、膝の上で手を重ねるその姿は、まるで正式な訪問客のようだ。
レギュラスは少し遅れて、その隣に腰を下ろした。
以前なら、自然と半歩分だけ距離を詰めていた。
今日は、意図的に拳二つ分の間隔を残す。
離れすぎてもいない。
近すぎもしない。
その「ちょうど中途半端な距離」が、余計に気まずさを際立たせた。
「……そんなに緊張しなくてもいいですよ」
冗談めかした言い方を試みたが、自分でも驚くほど笑いの気配が乗らなかった。
アランは微かに瞬きをしただけで、表情を変えなかった。
「緊張などはしておりません」
「本当ですか?」
問い返すと、彼女は小さく息を呑んだ。
否定しながらも、指先に力がこもっている。
レギュラスは、その手元に目を落とした。
細い指が、組んだままほどけない。
膝の上で固く絡めた両手が、彼女の心の状態をそのまま形にしたように見えた。
「……アラン」
名を呼ぶ声が、ほんの少し低くなる。
「はい」
「最近、僕からまたずいぶん距離を取ろうとしているように見えるのですが」
あくまで穏やかな調子だった。
ただ、その穏やかさがかえって逃げ場を塞ぐ。
アランは一瞬だけ視線を揺らし、すぐに元の位置に戻した。
言葉を探す間だけ、唇が迷うように動いたが、すぐに整った線を取り戻す。
「……そのようなつもりは」
「ありませんか?」
即座に重ねられた問いに、答えが喉の奥で途切れた。
レギュラスは、視線を彼女から外さない。
「僕がそう感じている、という話です」
落ち着いた声。
怒鳴り声ではない。
しかし、誤魔化しや言い訳を許さない、静かな圧があった。
「頭痛を理由に部屋への訪問を断られる回数が、少し増えましたね。
廊下でお会いしても、最近は足を止めてくださらない」
アランの肩が、目に見えて固くなった。
「……本当に、体調が優れないこともありまして」
「ええ。そうでしょうね」
否定はしない。
ただ、その一言だけでは終わらせないという気配が続く。
「その割には、魔法薬の研究の書類や、セシール卿とのやり取りの整理は、滞りなく進んでいるように見えます。
あなたのことですから、本当に具合が悪いなら、そちらも一緒に手を止めるでしょう」
アランは、言葉を返せなかった。
膝の上の手が、さらに強く組まれる。
レギュラスは、わずかに息を吐いた。
暖炉の火が、その呼吸の揺れを映すように揺らめく。
「僕は、愚かではありませんよ、アラン」
穏やかな言い方なのに、胸に刺さる。
「あなたが意図的に距離を戻そうとしていることぐらいは、見ていれば分かります」
図星を刺された痛みが、翡翠の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ。
すぐにかき消されるが、その裂け目は確かにあった。
「……その。私の振る舞いが、不快であったのなら、お詫びいたします」
ようやく絞り出された言葉は、完全な謝罪の形式を取っていた。
感情を限りなく削ぎ落とした、教本に載せられそうな謝罪。
レギュラスは、眉根をわずかに寄せた。
「不快、ですか」
「はい。ブラック様のお気持ちに沿う形になっていなかったのであれば——」
「そういう話をしているわけではありません」
遮る声は、少しだけ硬かった。
アランのまつげが、びくりと震える。
「僕は、“機嫌を損ねたから謝りなさい”と言いたいわけじゃない」
言いながら、自分でも苦笑したくなる。
「ブラック様のお気持ち」という言い回しに、他人行儀な壁をまたひとつ積み上げられた気がした。
「……アラン。僕たちは、夫婦ですよ」
その言葉に、アランの喉がわずかに動いた。
指先から、すっと血の気が引いていくように見える。
「形式上だけの話ではなく、実際に同じ屋敷で生活を共にしています。
僕はあなたの夫で、あなたは僕の妻です」
その事実は、婚姻届けや魔法省の記録以上に、日常のひとつひとつとして積み重ねられている。
「それなのに——」
言葉を区切り、レギュラスは少しだけ視線を伏せた。
「僕が扉の前に立つたびに、内側から鍵をかけられているような気分になる」
アランの肩が、ぴくりと動いた。
図星の痛みは、隠しようがない。
「本当に、鍵もかけられているようですが」
皮肉とも冗談ともつかない一言を添えると、アランは息を飲み、唇を噛んだ。
「……あの」
「ええ」
「無礼なことをしている自覚は、あります」
か細い声だった。
頷きながら、その言葉を押し出していく。
「ですが……どう振る舞うことが正しいのか、分からないのです」
ようやく零れた本音は、あまりにも不器用だった。
レギュラスは、少しだけ目を見開いた。
アランは続ける。
「ロー——」
その名を言いかけ、慌てて飲み込む。
喉の奥で引っかかった音が、かえって彼女の動揺を浮き彫りにした。
「……以前、約束していた未来とは、あまりにも違う形でここにおりますので。
その、気持ちを整理しきれていない部分が、まだ……」
言葉を選ぶたびに、痛みが滲む。
それでも、できるだけ礼儀正しい言葉で包もうとする。
「ブラック様に対して、失礼だとは分かっておりますが……」
「失礼だと分かっていて、続けていると?」
問いかけは静かなのに、逃げ場がない。
アランは、視線を落としたまま、かすかに頷いた。
「……はい」
正直な返答だった。
その正直さが、逆にレギュラスの胸を苛立たせる。
レギュラスは、ソファの背にもたれず、少し前に身を乗り出した。
拳二つ分ほどの距離が、目測で詰まる。
「アラン。あなたの戸惑いも、整理できない気持ちも、理解しようとは思っています」
言葉は自分に対する戒めのようでもあった。
「ローランド・フロストとの約束を断ち切ったのは、僕ですからね」
はっきりと名を出された瞬間、アランの顔色がさっと変わった。
痛みと羞恥と、どうしようもない罪悪感が一度に押し寄せたような表情。
「……存じ上げながら、こうして婚姻を受け入れたのは、私です」
震える声で、それでも彼女はそこを認める。
「だからこそ、余計に、どう顔を上げていいのか分からないのです。
ブラック様の前でも、フロスト家の皆さまの前でも」
フロスト家、という言葉を出すときだけ、声がわずかに掠れた。
レギュラスは、その震えに気づいていた。
“そうやって、どちらの前でも罪悪感を抱えたまま立ち続けるつもりですか?”——喉元まで出かかった言葉を、ぎりぎりで飲み込む。
苛立ちは、すでに胸の内側に確かな形を持っている。
しかし、それをそのままぶつければ、今残っているわずかな信頼すら粉々になることも理解していた。
待つことをやめたからといって、感情のままに荒らすつもりはない。
ただ、これ以上一方的に引かれることだけは、拒みたかった。
「……僕は、あなたに“ローランドを忘れろ”と言うつもりはありません」
静かに告げる。
アランの瞳が、意外そうに揺れた。
「忘れようとすればするほど、余計に意識することぐらい、誰でも知っていますから」
苦い笑みが、ほんの一瞬だけ口元に浮かぶ。
「ただ——」
灰色の瞳が、翡翠の瞳をとらえる。
逃がすまいとするように、まっすぐに。
「過去の約束に縛られて、今の夫を永遠に“外側”に立たせ続けるつもりなら、その点については、はっきりと異議を唱えます」
言葉の選び方は冷静だ。
しかし、その中心にはすでに苛立ちが芯として通っていた。
「あなたがここにいる以上、僕はあなたを妻として扱います。
たとえその過程が、あなたにとって居心地の悪いものだとしても」
「……居心地の、悪い」
アランは、胸の奥を指摘されたような気がして、思わず同じ言葉を繰り返した。
「ええ。きっと今、とても居心地が悪いでしょう」
レギュラスは淡々と続ける。
「ローランドへの後ろめたさと、僕への遠慮と、ブラック家の妻としての責務と。
全部抱えたまま、どこに立てばいいか分からなくなっている」
そう言われて、否定できる言葉を探しても見つからなかった。
図星すぎて、反論する余地がない。
ただ、痛い。
「だからといって——」
レギュラスの声が、少しだけ低くなった。
「ずっと部屋に鍵をかけて、僕を廊下に立たせるのは、やめてほしいのです」
その言い方は、あまりにも具体的で、あまりにも真っ直ぐだった。
アランは息を呑み、膝の上で絡めた手に視線を落とした。
「……気をつけます」
それが、やっと絞り出せた言葉だった。
完璧な答えではない。
しかし、“はい”以外の選択肢を封じられた今、彼女にできる最大限の歩み寄りでもあった。
レギュラスは、その返事に小さく息を吐いた。
満足とは程遠い。
けれど、何も言わないよりは、まだましだと思えた。
気まずさは、相変わらず部屋の隅々にまで張り付いている。
暖炉の火が、やけに大きく音を立てて燃えた。
「……今夜、ここで何かを“強要”するつもりはありません」
ややあって、レギュラスが口を開いた。
「ただ、ひとつだけ覚えておいてください」
アランは、かすかに顔を上げる。
翡翠の瞳が、恐る恐る彼を見た。
「僕はもう、“何も言わずに待つ”だけの役を続けるつもりはないということを」
その言葉だけは、はっきりとした宣言だった。
アランの胸の奥で、何かが強く縮む。
恐怖とも違う、安堵とも違う、名付けようのない感情。
気まずさは、最後まで解けないままだった。
互いに視線を外し合い、同じ部屋にいながら、まるで違う場所に立っているかのような感覚だけが残る。
この夜が、二人のあいだの均衡を静かにずらし始めたことだけが、確かな事実だった。
その夜を境に、レギュラス・ブラックの距離の詰め方は、目に見えて変わった。
翌朝の食卓。
長いテーブルには、いつも通り焼き立てのパンと温かなスープ、色とりどりの果物が並んでいる。
ヴァルブルガは新しい招待状について楽しげに語り、オリオンは新聞の紙面に視線を落としたままだった。
アランは、席に着いてからずっと、静かにナイフとフォークを動かしていた。
その視線は、皿の縁と手元のあいだを往復するばかりで、正面に座る夫を見ようとはしない。
「アラン」
レギュラスの声が、柔らかく空気を切った。
「今日は、朝食のあとで僕の書斎に来てください。
魔法薬研究の件で話をします」
言い回しだけ見れば、礼儀も敬意もある。
しかしそこには、以前のような「もしお時間があれば」「体調がよろしければ」といった前置きが、一言も添えられていなかった。
アランの指先が、わずかに止まる。
「……本日、父への手紙を仕上げる予定がございまして。
少し、そちらを——」
「それはあとで構いません」
レギュラスの返事は、一拍の間も置かれずに重なった。
「書斎での話は長くは取りません。
父上への手紙は、そのあとでゆっくりお書きください」
逃げ道として差し出しかけた予定は、二言目であっさりと塞がれる。
「……かしこまりました」
それ以外の返答を選べる余地は、どこにもなかった。
レギュラスは「ありがとう」とだけ告げる。
その顔には、何か特別なことを命じたという自覚はまるでない。
朝食のあとに夫の書斎へ行く——それは、夫婦としてごく自然な流れだとでも言うように、当たり前の顔をしていた。
アランの胃のあたりは、すでにじくじくと痛み始めていた。
書斎は、いつものように整然としていた。
壁一面を埋める書棚、磨き上げられた机。
暖炉には火が入り、薄い煙が静かに上へと昇っていく。
「失礼いたします」
扉をノックし、アランが中へ入る。
レギュラスは机から顔を上げ、椅子を立った。
「来てくれてありがとうございます。
そこに座ってください」
指し示されたのは、机の真正面の椅子だった。
以前なら、ソファの方へと導き、距離を和らげようとしただろう。
今日は、あえて向かい合う位置を選んでいる。
アランは、少し戸惑いながらも従った。
背筋を伸ばして腰を下ろし、膝の上で手を揃える。
「先日お渡しした資料ですが、何点か確認したいことがあります」
レギュラスは、机の上から分厚い書類を持ち上げる。
その口調は冷静で、淡々としていた。
魔法薬の成分表、セシール家の研究資料との比較。
内容としては、確かに話し合うべき事項だ。
だが、質問の合間合間で、微妙な変化が混ざっていく。
「この配合について、セシール卿はどうお考えだと思いますか」
「父でしたら、おそらく……薬効の立ち上がりの速さよりも、長期的な安定を重視するのではないかと」
「では、あなたは?」
アランは、まばたきした。
「……私、ですか」
「ええ。あなた自身は、どう判断します?」
逃げ場のない問い方だった。
以前なら「セシール家としては」「専門家としては」と、どこかに責任の所在を分散させてくれていた。
アランは、慎重に言葉を選ぶ。
「……短期的な使用であれば、この配合でも問題はないと思います。
ただ、副作用の出方を考えると——」
「では、そう判断したと、魔法省への報告書にも明記しましょう」
レギュラスは即座に言う。
「これは、“セシール卿の娘としての意見”ではなく、“アラン・ブラックとしての見解”として必要です」
机の上に置かれた書類の上に、ペン先が音を立てて触れる。
その瞬間、アランの喉がきゅっと詰まった。
——ブラック。
もう何度も耳にしたはずの姓が、今日はやけに重く響いた。
「……私の、名前を出す必要があるのでしょうか」
かろうじて絞り出す。
「ええ、もちろんです」
レギュラスは即答した。
「あなたは“セシール家から嫁いできた娘”ではなく、今は“ブラック家の一員として魔法省に関わる者”ですから」
それは正論だった。
だからこそ、逃げ道はなかった。
アランは、しずかに視線を落とす。
椅子の脚が床をきしませないように気をつけながら、膝の上で手を握りしめた。
レギュラスの声は、一切揺れない。
彼にとっては――これが、「当たり前」の範疇なのだ。
その変化は、日常のあらゆる場面に現れ始めた。
ある日の午後、廊下。
アランが自室へ戻ろうと角を曲がったところで、向こうから歩いてくるレギュラスと鉢合わせる。
灰色の瞳が、すぐさま彼女を捉えた。
「アラン。ちょうどよかったです」
彼は歩みを緩めず、そのまま距離を詰めてくる。
「今から中庭を一緒に歩きましょう。
セシール家の新しい薬草区画について、話を聞きたい」
誘いではなく、決定事項のような言い方だった。
アランは、胸の前で手を揃えた。
「申し訳ありません。
本日は少し体調が優れず……」
「なら、歩いておいた方がいいですよ」
レギュラスの返しは、容赦がなかった。
「ずっと部屋にこもっている方が、回復は遅れます。
外の空気を吸えば、少しは気も晴れるでしょう」
まるで主治医のような口調で、言葉を積み重ねていく。
アランは、返す言葉を失った。
「……ですが、書きかけの——」
「それは、あとで続きが書けます」
二言目で、やはり道は塞がれる。
「中庭を一周する時間くらいなら、問題はないでしょう?」
レギュラスの表情は穏やかだった。
眉ひとつ動かさない。
“何かおかしいことを言っていますか?”とでも言いたげな、自然な顔。
アランの胃のあたりが、きゅう、と痛んだ。
反論の言葉を探そうとすると、その痛みがさらに鋭くなる。
「……かしこまりました」
それしか、返せない。
彼女の足は、自室へ戻る方向ではなく、レギュラスの示した方向へと向きを変えた。
並んで歩き出したとき、肩と肩の距離は以前より近くなっていた。
アランが半歩分遅れようとすると、レギュラスは何も言わず歩調を落とし、すぐにその遅れを詰めてくる。
距離が、勝手に調整されていく。
彼の基準で、「夫婦として自然な位置」へと。
何か問題でも?
そう問われれば、婚姻の在り方としては正しいのかもしれない。
けれど、アランの内臓は、きりきりと悲鳴をあげ続けていた。
夜、寝支度を整えたあと。
自室の扉の前まで来たところで、不意に名前を呼ばれた。
「アラン」
振り向くと、廊下の少し離れたところにレギュラスが立っていた。
昼間の執務を終えたあとの、少しラフな装い。
ネクタイを外し、第一ボタンを外したシャツの襟元から、わずかに覗く肌。
「今夜は、僕の部屋で紅茶を飲みましょう」
告げる声は、驚くほど自然だった。
「……明日も、早朝からお出かけになるのでは」
恐る恐る尋ねる。
「だからこそですよ」
レギュラスは、淡く笑った。
「ゆっくりと落ち着いてから眠りたい。
あなたも、最近なかなか寝つきが良くないでしょう?」
それは、図星だった。
だからこそ、反論が苦しい。
「いえ、私はもう休もうと——」
「紅茶一杯分の時間も、取ってはいただけないのですか」
言葉が、そこでぴたりと止まる。
拒否すれば、それは「夫と共に過ごすひとときを拒絶した」という形になる。
受け入れれば、また一歩、彼の許容する距離の中へ足を踏み入れることになる。
アランは、喉の奥で息を噛み殺した。
「……分かりました。
少しだけ、なら」
「ありがとうございます」
レギュラスは本当に嬉しそうに言った。
その顔を見るたびに、胸の痛みはひときわ鋭くなる。
——どうして、そんな顔ができるのだろう。
彼にとっては、これが当然なのだ。
夫婦が、同じ屋敷で、同じ時間を過ごすこと。
距離を詰め、逃げ道を塞ぎながらも、どこまでも淡々とした顔でそれを行うこと。
その「当然」が、アランにとっては一つひとつ、内側から少しずつ削られていく感覚と結びついていた。
やり取りのたびに、会話の重心はずれていく。
レギュラスにとっては、何もおかしなことを言っている自覚はない。
夫として、家の主として、当然のように求める事柄。
それを告げる声は、一貫して静かで穏やかだ。
対して、アランの胸の内には、些細な言葉の一つ一つが鋭い棘になって残る。
「来てほしい」ではなく、「来てください」。
「できれば」ではなく、「そうしましょう」。
「もし差し支えなければ」ではなく、「問題はありませんよね」。
有無を言わせない形に整えられた言葉たちが、日常会話の中に当たり前のように混ざり始めた。
それに抗おうとすればするほど、二言目で逃げ道が塞がれる。
そのたびに、アランの内臓は、きりきりと音を立てるかのように痛んだ。
レギュラスは、その痛みを知らない。
気づこうともしないのではなく、そもそもの前提が違っている。
——何か問題でも?
彼の灰色の瞳は、そう問いかけるように澄んでいた。
アランの胸の中で、その問いに答えられる言葉は、どんどん少なくなっていく。
「はい」と「かしこまりました」と、その二つだけが、日ごとに確実さを増していった。
変化は、静かに、しかし確実に屋敷の空気を変えていった。
ある朝の食卓。
長いテーブルの上には、銀の蓋に覆われた皿と、湯気を立てるポットが整然と並べられている。
窓から差し込む光が白いクロスを照らし、果物の赤や黄色を浮かび上がらせていた。
レギュラスは、席につくと同時に一度だけ全体を見渡した。
父オリオンはいつものように新聞を広げ、ヴァルブルガは新しいドレス仕立ての予定について話している。
アランは、その端に静かに座っていた。背筋は真っ直ぐで、ナイフとフォークを持つ指先まで、教本の挿絵のように整っている。
「アラン」
穏やかながら、反論を受け付けない芯を秘めた声が、テーブルの一端から届いた。
「来週の茶会ですが、あなたも出席してください。
セシール家とブラック家の新しい関係を、きちんとお披露目しておく必要があります」
そこには、以前のような「もし差し支えなければ」という緩衝材はなかった。
アランの指先がわずかに止まり、ナイフの先が皿をかすかに鳴らす。
「……私などが出てよろしいのでしょうか。
ヴァルブルガ様のお考えも——」
「母は、あなたの出席を当然と考えています」
レギュラスの返答は、即座に重なった。
「家同士の婚姻を結んだ以上、あなたは“セシール家の娘”であると同時に、“ブラック家の若夫人”です。
その自覚を、周囲にも示すべきでしょう」
事実だけを淡々と積み上げる声だった。
アランの喉が、わずかに動く。
それでも、逃げ場を探すような言葉はもう口にしなかった。
「……かしこまりました」
短い肯定。
それ以上は、何も続かない。
その一言を耳にした瞬間、レギュラスの胸の奥に、淡い安堵が広がるのを自覚した。
以前なら、ここからさらに「ですが」「とはいえ」といった前置きが続き、彼はそれをひとつひとつ丁寧にほどきながら説得を重ねてきた。
時間をかけ、相手の感情を推し量り、譲歩を織り交ぜた言い方を選ぶ。
その回りくどさこそが必要だと、自分に言い聞かせていた。
今は違う。
告げる。
肯定が返る。
話が前に進む。
単純で、驚くほど滑らかな流れだった。
その日、昼過ぎの廊下。
大理石の床に、午後の光が斜めに差し込み、窓枠の影が長く伸びている。
アランは書庫から出て、自室へ戻ろうとしていた。腕には数冊の本が抱えられている。
角を曲がったところで、レギュラスと鉢合わせた。
「ちょうどいいところに」
彼は立ち止まりもせず、自然な動きで距離を詰めてくる。
「今から応接室に来てください。
セシール卿への報告書について、あなたの意見を反映しておきたい」
要請ではなく、予定の確認のような口ぶりだった。
アランは、本を抱える腕に力をこめる。
「……今から書類の清書をするところでしたので、後ほど——」
「清書はあとで構いません」
二言目で、やはり道は塞がれる。
「あなたの見解を先に確認した方が、書類の完成も早くなるはずです。
今から、少し時間をいただけますか」
“いただけますか”――文法だけ見れば丁寧だが、その声にはほとんど疑問形の揺れがない。
肯定を前提とした問いだった。
アランの口から、自然に言葉がこぼれる。
「……はい」
短い返答。
自分でも驚くほど、即答に近い。
それを聞いたレギュラスの表情には、わずかな満足が浮かんだ。
彼にとって今の「はい」は、何ひとつ不自然なものではない。
夫が仕事上の用件で妻を呼び、妻がそれに応じる——それ以上の意味を、彼はそこに見ていない。
アランは、内臓のどこかがきゅっと縮むような痛みを感じていた。
それでも、腕に抱えた本を抱き直し、彼の後に続く。
応接室は、柔らかな光に満ちていた。
レースのカーテン越しに入る陽光が、淡い色のソファと絨毯を照らし、花瓶に挿された白い花を透かしている。
暖炉には火こそ入っていないが、部屋全体にどこか温かな印象を与えていた。
「そこに」
レギュラスが顎でソファの位置を示す。
アランは黙って頷き、本をサイドテーブルに置いてから腰を下ろした。
彼も向かいに座る。
以前よりも、明らかに間合いは近い。
ソファの端と端ではなく、中央寄り。同じ位置に寄せられた重心が、二人の距離を視覚的にも縮めている。
「先ほどの資料ですが」
レギュラスは、手元の書類を少し掲げた。
「この部分、“セシール家として評価する”という表現になっていましたね」
「はい。
父の研究方針を考えれば、そのような——」
「ここは、“アラン・ブラックとして”に変えておきましょう」
アランの言葉を途中で断つ形になったが、レギュラスは構わず続ける。
「これからは、魔法省もセシール卿だけでなく、あなた自身の見解を重要視するようになります。
そのための準備は、早い方がいい」
机の上にペン先が触れ、さらりと文言が書き換えられていく。
アランが黙り込む。その沈黙を、拒絶ではなく“了承”と解釈するのに、彼は慣れ始めていた。
「……ですが、私にはまだ、父ほどの経験も——」
「経験は、これから積んでいけばいいのです」
即座の返しだった。
「だからこそ、今からあなたの名前を署名させるのです。
責任と影響力は、同時に伸ばしていくべきですから」
アランは、膝の上で重ねた手に、視線を落とした。
指先が白くなるほど力がこもっているのに、彼女自身はそれに気づかない。
「……承知しました」
かすかな声。
肯定以外の音が、喉の奥で潰れていく。
レギュラスは、その短い返答にまた一つ安堵した。
譲歩を前面に出すやり方をやめてから、話は驚くほどスムーズに進むようになった。
こちらが「どうしたいのか」を先に明確に告げ、相手の感情や迷いよりも、「家」と「夫婦」としての筋を優先して言葉を選ぶ。
その結果、アランの口からは「はい」「承知しました」「かしこまりました」以外の返答が、ほとんど出なくなった。
それは、本来なら不自然な偏りなのかもしれない。
けれどレギュラスは、そこに妙な安心を覚えずにはいられなかった。
夜、サロン。
ヴァルブルガが客用のソファに凭れ、紅茶を楽しんでいた。
大きな窓の外には庭の闇が広がり、遠くに灯る魔法灯が点々と浮かぶ。
「アラン、明日の午後は時間がありますか」
レギュラスは、サロンへ入ってきた彼女に視線を向けた。
「……午前中に手紙を数通書こうと思っていた以外は、特に予定は」
「では、午後は母と一緒に仕立て屋と打ち合わせをしてください。
新しく作るドレスの件で、あなたの意見が必要です」
決定事項としての言い方。
アランは、一瞬だけ言葉を探すように唇を開きかけた。
ローランドが好んだ色や、自分が本来身につけたいはずの服のことが、一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、その思考は表に出る前に止められた。
「……かしこまりました。
ヴァルブルガ様のお手伝いをさせていただきます」
「いいですね」
レギュラスは満足げに頷いた。
アランが、自分で選んだ「肯定」という答え。
それが積み重なっていくたびに、彼の中の“これでいいのだろうか”という迷いは薄れていった。
初めから、こうしていれば良かったのではないか——ふと、そんな考えが頭をかすめる。
譲歩を前に出すやり方は、彼にとってあまりにも不自然だった。
魔法省で相手をねじ伏せ、政策を通すときのやり方とは真逆のやり方だ。
その不自然さを、アランのためだと自分に言い聞かせて続けてきたが、その結果得られたものは、鍵のかかった扉と距離ばかりだった。
今は違う。
自分の言葉に力をこめる。
夫として、家の時期当主として、当然のように告げる。
そのたびに、美しい妻は素直に頷き、その意向に沿って動く。
これほど分かりやすく、満たされるものはなかった。
