1章
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その日、昼下がりの屋敷は静かだった。
アランの部屋の窓からは、冬の柔らかな光が斜めに差し込んでいる。
外は冷たく澄んだ空気なのだろうが、厚いカーテンと魔法で守られた室内には、外気の刺すような寒さは届かない。
机の上には、父エドモンドの手による魔法薬研究の資料と、ブラック家に来るときに持ち込んだ本が数冊、整然と積まれていた。
机に向かっていたアランの耳に、かすかな羽音が届いた。
胸の奥が、びくりと跳ねる。
この屋敷に来てから、彼女宛のフクロウが飛んでくることは滅多になかった。
魔法省からの連絡や、セシール家からの書簡は、たいていレギュラス宛か、オリオン宛に送られてくるからだ。
窓の外に目を向けると、見慣れた淡い灰色のフクロウが、器用に羽ばたきながら窓辺の柵にとまるところだった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
——まさか。
思考が、その一語で止まりかけた。
ゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。
冷たい外気が、頬をかすめた。
「ありがとう」
フクロウの足に結ばれた封筒をほどく。
指先が、少し震えていた。
封蝋には、見慣れた紋章。
フロスト家の紋章が、淡い青い蝋の上に静かに浮かんでいる。
ローランドから——。
アランは、その場でしばらく封筒を見つめていた。
返事が来るとは思っていなかった。
あの「元気で」という言葉で、すべての連絡は途絶えるのだと、そう覚悟していた。
それでも、どこかで、望んでいたのだと思い知る。
封筒一枚を見つめているだけで、胸が痛いほど高鳴る。
フクロウを部屋の中に招き入れ、水皿を置いてやってから、ようやくアランは机の前に戻った。
椅子に腰を下ろし、膝の上で封筒をしばらく撫でる。
破いてしまわないように、白い紙の質感を確かめるように、指先でなぞった。
深く息を吸い込んでから、静かに封を切った。
中から現れたのは、ぎっしりと文字が綴られた便箋が一枚。
以前のように、ところどころに走り書きのような勢いのある字はなく、端正で整った筆致だった。
読み始める前から、違う、と分かる。
——かつて、文を交わし合っていた頃のローランドとは、筆跡そのものの呼吸が違っていた。
手紙の最初の言葉が、目に飛び込んでくる。
『アラン嬢
このたびは、お手紙を頂戴しありがとうございました。
ご機嫌いかがでいらっしゃいますか。
新しい屋敷での日々に、少しずつ慣れてこられた頃でしょうか』
アランは、一行目を読み終えた時点でまぶたを伏せた。
——「アラン」ではなく、「アラン嬢」。
幼い頃からずっと、名前を呼び捨てにしてくれていた彼が。
十代の頃、照れ隠しをしながら「アラン」と呼ぶたび、彼自身が少しだけ顔を赤らめていたあの頃のローランドではなく。
今、紙の上で名を呼んでいるのは、距離を意識している大人のローランドだった。
それでも、文字の行間から滲み出る気配は変わらない。
整えられた言葉のひとつひとつに、彼らしい誠実さが宿っている。
読み進める。
『お体の具合が優れない時期もあったとのこと、遠くから案じておりました。
最近は少し落ち着かれたとのお便りに、ほっと胸をなで下ろしております。
季節の変わり目は、あなたは昔から喉を痛めやすかったと記憶しておりますので、温かい飲み物を傍らに置かれることをお勧めいたします。
セシール卿が好んでおられたタイムと蜂蜜のブレンドは、今もよく効くでしょう』
文字を追った瞬間、過去の情景が蘇る。
幼い頃、秋の終わりに必ず喉を鳴らして咳き込んでいた自分のために、ローランドが庭のハーブを摘んで、よろよろとした手際でマグカップを差し出してくれた日。
その隣で、父が「タイムは少し多めに」と指示し、ふたりで真剣な顔で湯気を見つめていたこと。
今も、その些細な癖を覚えている。
距離を取ろうとして綴ったはずの文の中に、そんな具体的な記憶を残してしまうところが、ローランドらしかった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
視界が少し滲んだ。
それでも先を読もうと、アランは涙を堪えて文字を追った。
『こちらは、おかげさまで変わりなく過ごしております。
魔法省での務めは、日々慌ただしく、あなたと薬草園で土をいじっていた頃とは、まるで別の世界にいるように感じることもあります。
けれど、その頃に培った忍耐と観察眼が、今の仕事にも役立っていると、折々に気づかされます。
あの時間があったことを、今も感謝しています』
“感謝している”——そこに、過去形で閉じ込められた時間が見えた。
共に未来を語った日々は、彼の中でもう「過去」として整理されようとしている。
そう理解すると同時に、その感謝の言葉まで愛おしく思えてしまう自分がいる。
彼は、自分と過ごした時間を、間違いだったとは書かない。
それだけで、救われるような気がした。
『あなたがブラック家に嫁がれたことについては、既に耳にしております。
セシール卿のお考えと、あなたのご決断を、ひとりの友人として尊重したいと思います。
これから先、さまざまな場面で責務と期待がのしかかってくることでしょうが……どうか、ご自身の身体と心を、後回しになさらぬよう』
——友人として。
その二文字が、胸に刺さる。
どこまでも正しく、どこまでも誠実な言葉。
あの別れのときも、ローランドはアランを責めなかった。
「責める権利はない」と言って、ただ、「元気で」と告げてくれた。
今も変わらない。
彼は、自分の痛みや悔しさを言葉にせず、あくまでアランとセシール家の選択を尊重しようとしている。
そこに、彼の優しさと、不器用な諦めが滲んでいた。
『元気でいらしてください』
その一文を見た瞬間、アランの喉がきゅうっと締め付けられた。
あの日、最後に聞いた言葉と同じ。
短く、簡素な、祈り。
便箋の終わりには、丁寧な署名が添えられている。
『ローランド・フロスト』
以前は、こんなふうにフルネームで署名することはなかった。
「ローランド」だけ、あるいは急いでいるときは崩したイニシャルだけ。
そうやって、互いのあいだにある親密さを自然と共有していた。
今、紙の上に並んでいるのは、少し距離を取った青年の名。
それでも、便箋の端には、彼の癖が残っていた。
余白に、申し訳程度に小さな追記がある。
『追伸
寒さが厳しくなる折、夜に窓辺に長く立たれることのないように。
あなたは星を眺めるのがお好きでしたが、あまり長いあいだ外気に晒されると、指先がすぐ冷えてしまうはずです。
暖炉のそばで、ご覧になることをお勧めします』
思わず、笑いそうになった。
涙で滲んだ視界の中で、文字が揺れる。
そんなところまで覚えている。
十三の頃、夜中にこっそりバルコニーに出て星を眺め、指がかじかんでドアノブを回せなくなり、屋敷の中に戻れず震えていた自分を、ローランドが見つけてくれたこと。
彼は慌ててマントを肩にかけてくれて、暖炉の前でふたり並んで指先をさすり合った。
そのときの情けない記憶まで、彼の中では、大切な「注意事項」として残っている。
言葉の距離は意図的に遠くなっているのに、気遣いだけは以前と少しも変わらない。
そこに、ローランドという人間の誠実さが凝縮されていた。
アランは、手紙を読み終えたところで、静かに便箋をそっと伏せた。
机の上に置いた紙が、ほんのわずかに震える。
次の瞬間には、その便箋を両手で持ち上げ、胸にぎゅっと押し当てていた。
胸元に押し当てた紙に、鼓動が伝わる。
心臓の早さが、自分でも滑稽なほどだった。
——返事が来るなんて、思わなかった。
そう思うたびに、胸の奥が疼く。
彼が距離を置いた文体で手紙を綴り、それでも返事を寄越してくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
嬉しい。
けれど、痛い。
かつては当たり前のように交わしていた言葉が、今は、丁寧な敬語と慎重に選ばれた表現に姿を変えている。
けれど——そのどれもが、アランの身体を気遣い、心を案じていた。
「……ローランド」
声に出して名を呼んだのは、いつぶりだろう。
部屋の中に、彼の姿はない。
あるのは、インクの香りがかすかに残る紙切れ一枚。
それでも、彼の声がそこにあるように感じられた。
喉の奥から、温かいものが込み上げてくる。
堪えきれなくなった涙が、頬を伝い、便箋の端にぽつりと落ちた。
慌てて指で拭おうとする。
滲ませたくない。
彼が心を砕いて綴った文字を、涙で歪ませたくない。
けれど、そう思えば思うほど、涙は止まらなかった。
椅子から立ち上がり、そのままベッドの方へふらふらと歩み寄る。
両手で抱きしめている手紙だけは離さない。
ベッドの端に腰を下ろすつもりが、そのまま力が抜けて、ずるりと床に膝をついてしまった。
柔らかな絨毯が、膝を受け止める。
床に座り込んだまま、アランは手紙を胸に押し当て続けた。
喉を震わせて洩れる嗚咽は、声にならない。
静かに、けれど途切れなく涙が落ちていく。
——こんなにも、彼の誠実さが好きだった。
約束を交わしたときも。
別れを告げられたときも。
そして今、距離を置いた手紙の文面にすら、その誠実さが宿っている。
アランは、自分の選んだ未来と、手放したものの大きさを、改めて思い知った。
ブラック家の娘として、妻として、これから先歩いていかなくてはならない道。
その道の先に、ローランドはもういない。
けれど、彼は最後まで、自分を責めずに、「元気で」と言ってくれる人だった。
胸に抱きしめた便箋は、涙で少しだけ温もりを帯びている。
それでも、紙そのものは冷たく、現実と同じように、触れた指先に残る感触は薄い。
アランは、息を詰まらせながら目を閉じた。
ローランドの滲み出る気遣いと誠意が好きだった。
そして今も、その好きはどこにも行き場を見つけられず、胸の中で静かに疼き続けている。
床に座り込んだまま、いつまでも手紙を抱きしめている自分の姿が、あまりにも幼く見えて、少しだけ惨めだった。
それでも、今だけは——この紙切れ一枚にすがっていたかった。
彼がまだ、自分のことを案じてくれる世界の端に存在しているのだと、そう感じていたかった。
涙の跡が乾くまで、アランは動かなかった。
胸に押し当てた便箋は、静かに彼女の鼓動を受け止めていた。
ローランドからの手紙を受け取った日を境に、屋敷の空気は、ごくわずかに、しかし確かに変わった。
アランの部屋の机の引き出しには、薄い封筒が一つしまわれている。
鍵付きの小さな引き出し。その奥、布を一枚かませるようにして、便箋は丁寧に畳まれていた。
時折、その引き出しにそっと手を置く仕草が増えた。書類を取り出すでもなく、何かをしまうでもなく、ただ、指先で木の感触を確かめるように触れる。
引き出しに触れるたび、胸の奥にローランドの文字が蘇る。
「アラン嬢」「ご自愛ください」「元気で」——あの整った筆致と、抑制された言葉の奥に潜む、変わらない誠実さ。
その温度を思い出すたびに、屋敷の中で少しずつ近づきかけていた別の温度が、急激に色を失っていった。
朝食の席。
長いテーブルの中央には、銀のカバーのかかった皿がいくつも並び、湯気を立てている。
焼きたてのパンの香りと、バターの甘い匂い。
窓辺には薄い霧が残り、庭の向こうの黒い鉄柵がぼんやりと輪郭を歪めていた。
レギュラスが席に着くと、すでにアランは定位置に座っていた。姿勢は真っ直ぐで、ナイフとフォークの置き方は教本の挿絵のように整っている。
以前なら、最近はもう少し柔らかさが混じるようになっていた。
果物を続けて手に取ったり、セシール家とブラック家の研究の違いについて、自ら小さな疑問を口にしたり。
そうした些細な変化が、ゆっくりと距離を近づけてきた。
今朝のアランは、違っていた。
視線は皿とテーブルの境からほとんど動かない。
料理に手を伸ばす動作は相変わらず美しく、無駄がないが、そこから何かを「楽しもう」とする気配が抜け落ちている。
「アラン、昨夜はよく眠れましたか」
レギュラスが問いかける声は、あくまで穏やかだった。
アランの肩が、ほんの少しだけ強張る。
返事をするまでに、いつもよりわずかに長い間があった。
「はい。……おかげさまで」
礼儀として完璧な返答。
けれど、言葉の温度はどこか遠い。
そのひとことで会話を終わらせようとする気配がありありと伝わった。
数日前までなら、その後に続くはずの一言があった。
身体の疲れが取れた、とか、ここ最近夢を見ることが少なくなったとか。
レギュラスの腕の中で過ごした夜のことを、直接触れずとも暗に示すような、ほんのわずかな言葉。
今日は、その「わずか」が、きれいに消えていた。
「魔法薬研究の書類、昨日お渡しした分は目を通されましたか」
話題を変える。
これまでは、距離を詰めるための糸口になってきた話題だ。
アランは手を止めず、ナイフでパンを切り分けながら答えた。
「はい。一通り、拝見しました」
「気になった点や、セシール家の見解との差異などあれば、教えていただきたいのですが」
「……特に、ございません」
そこで初めて、レギュラスは違和感をはっきりと胸に抱いた。
つい先日までは、同じ問いかけに、彼女は慎重に言葉を選びながらも小さな指摘をしてくれていた。
父エドモンドの研究と比較して、ここは配合比が違うとか、効能は似ているが副作用の出方が変わるとか。
それを聞くたび、レギュラスは本気で感心し、その場で意見を返していた。
そうやって交わされてきたやり取りが、一夜で元に戻っている。
まるで、初めて屋敷に来た日の距離感へ、綺麗に巻き戻されたようだった。
昼下がり。
レギュラスは、分厚い資料を抱えてアランの部屋の前に立っていた。
今日の名目は、魔法薬の共同研究の打ち合わせ。
このところ、それを理由にアランの部屋へ入る時間が自然と増えていた。
ノックをすると、しばらくしてから扉の向こうで衣擦れの音がした。
「……どなたでしょうか」
慎重な声。
聞き慣れた、しかしいつもより少し硬い響き。
「僕です。」
短い沈黙のあと、鍵の外れる音がする。
扉が開いた隙間から、翡翠の瞳がのぞいた。
「魔法薬の件で、少し相談したいことがありまして」
「……申し訳ありません、レギュラス様」
アランは、扉を半分ほどだけ開けたまま、そこから進んでくる言葉を遮った。
「先ほどから、少し頭痛がしておりまして。
本日は、あまり長くお話できそうにありません」
嘘というほどではない。
ローランドの手紙を読んでから、確かにこめかみのあたりが鈍く疼き続けていた。
しかし、それは休息さえ取れば静まる類のものだと分かっている。
それでもアランは、その痛みを盾にした。
レギュラスの視線が、扉の向こうをすばやく一瞥する。
机の上には、開かれたままのノートと、何かをしまったばかりのように少し乱れた引き出しの取っ手。
その前に立つアランの姿勢には、明らかな「ここから先には入れたくない」という意志が宿っていた。
「頭痛、ですか」
「はい。少し、横になろうと思っていたところで」
その言い訳は、完璧に整えられていた。
拒絶の言葉を、できる限り穏やかな音色に包んでいる。
レギュラスは、数秒黙って彼女を見つめたあと、手にしていた資料を胸元に抱え直した。
「分かりました。無理をさせるわけにはいきませんね」
そう答える声には、変わらず優しさが含まれていた。
責め立てるような響きはどこにもない。
「必要であれば、あとでポーションを調合しましょうか。
偏頭痛には少し強めの薬も用意できますが」
「大丈夫です。休めば治りますので」
そのやり取りで、もうこれ以上は扉を開けないということが、互いに分かっていた。
「では、今日はこれを部屋の前に置いておきます。
体調のよろしい時に、軽く目を通していただければ」
レギュラスは、資料の束を扉脇の小さなテーブルに置いた。
アランは、扉の内側から黙って頭を下げる。
「お心遣い、感謝いたします」
扉が、静かに閉じられた。
金具が収まるかすかな音が、廊下に小さく響く。
そのあと、ごく自然な動作で鍵がかかることを、レギュラスは耳で感じ取った。
数日前まで、彼が部屋を訪れたときには、鍵がかかっていることはほとんどなかった。
今日は違う。
扉の向こうに、はっきりとした境界線が引かれた。
廊下にひとり残されたレギュラスは、しばらくのあいだ扉を見つめ、やがてゆっくりと踵を返した。
何かを問うことはしない。
ただ、確かに巻き戻された距離を、静かに受け止めるだけだった。
アランは、扉を閉めて鍵をかけたあと、背中を扉に預けた。
手のひらが、微かに汗ばんでいる。
心臓の鼓動が、扉越しにも聞こえてしまうのではないかと思うほど早かった。
扉から離れて、机の前に戻る。
引き出しにそっと手をかけ、少しだけ開けた。
中には、丁寧に畳まれたローランドの便箋。
視界に白い紙が覗いた瞬間、胸に広がる痛みと温かさ。
レギュラスの腕の中で眠った夜のことが、否応なく思い出される。
ショールを固く結び、胸元を守ろうとした自分。
その上から肩だけを抱き寄せたレギュラスの腕。
何もせず、約束通りにただ一緒にいてくれたこと。
眠りに落ちる直前、背中に感じた体温の存在は、確かに安心をくれた。
それでも——。
引き出しの中の手紙を見ていると、その安心が別の色に変わっていく。
レギュラスの手を思い出す。
自分を抱き寄せた手。
同じ手が、セシール家との婚姻の条件に署名をし、父に圧倒的な条件を突きつけ、ローランドから「婚約」という未来を引きはがした。
彼の指先ひとつで、多くのものが動いた。
魔法省の政策も、ブラック家とセシール家の関係も。
そして、自分の望んでいた未来も。
ローランドと共に歩むはずだった日々。
薬草園で土をいじり、父の研究を手伝いながら、慎ましく、けれど温かな家庭を持つはずだった未来。
その未来を摘み取ったのは、レギュラスの手だった。
アランの身体は、それをよく知っている。
レギュラスが近づくと、無意識にショールを引き寄せ、身体をひとつ分横にずらす。
言葉の調子は丁寧なままで、微笑みも作ろうとするが、視線は決して長く交わさない。
食事の席では、彼の口にする冗談に以前ほど反応しなくなった。
研究の話を振られても、必要最低限の返答で止める。
廊下で偶然すれ違ったとき、以前なら軽く会釈したあと少しだけ歩調を合わせていたのに、今は礼儀正しく頭を下げ、そのまま脇をすり抜ける。
縮まりかけていた糸を、ひとつひとつ慎重にほどいていくようだった。
理由を、言葉にすることはできない。
ただ、ローランドの手紙に触れてから、身体のどこか深い場所で、「元に戻さなければ」という感覚が目を覚ました。
レギュラスの腕の中で眠った夜を、裏切りのように感じてしまう自分がいた。
ローランドの誠実さと「元気で」という言葉を胸に抱いたまま、別の男の温もりに心を委ねかけた夜。
それをそのまま受け入れてしまえば、自分が何か「取り返しのつかない線」を越えてしまうようで怖かった。
レギュラスは、ローランドではない。
優しさを見せるときの静かな声の調子が似ている瞬間があっても、その手がしてきたことは決定的に違う。
ローランドの手は、いつもそっと支えてくれる手だった。
土に汚れた指で薬草を渡し、転びかけたときに支え、寒い夜にはマントを差し出してくれた。
レギュラスの手は、迷いなく掴み取る手だ。
自分が欲しいものを逃さず、必要とあらば他者の未来ごと握りつぶしてでも手に入れてしまう力を持っている。
胸の奥で、その二つの手が重なり合わない。
引き出しを静かに閉じながら、アランは唇をきゅっと結んだ。
開きかけた心を、もう一度閉ざすことは、決して楽ではなかった。
レギュラスと交わした魔法薬の話も、果物の好みに気づいてくれた瞬間も、あの夜の静かな温もりも、すべて心のどこかで確かなものとして残っている。
それでも——閉ざさなければならないと、身体が先に決めてしまう。
ローランドのためだけではない。
かつての自分のためにも、あの薬草園で未来を信じていた少女のためにも。
部屋の中の空気が、少し冷たく感じられた。
外から差し込む光は変わらないのに、胸の奥だけが陰を帯びていく。
アランは、窓辺に歩み寄った。
ガラス越しに空を見上げる。
星を見ることの多かった夜のことを思い出し、ローランドの手紙の追伸を思い返し、そっとカーテンを閉めた。
外の景色を断ち切るように。
彼女の世界は、再び、慎重に厚いカーテンを引かれた部屋の内側にたたまれていく。
レギュラスがどれほど腕を伸ばそうとも、その内側へ踏み込ませないように。
そうしなければ、自分のなかで何かが壊れてしまう気がしていた。
ここしばらく、アラン・ブラックの周囲の空気は、目に見えない薄い膜を一枚、また一枚重ねたように変わっていった。
最初に気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
朝食の席で、彼女は相変わらず背筋を伸ばし、礼儀正しくナイフとフォークを動かしていた。
だが、ふと顔を上げたとき、レギュラスの視線とぶつかるより先に、瞳がすばやく皿の縁へ落ちる。
それが一度や二度ではなく、日ごとに回数を増していく。
「昨夜は、少しは休めましたか」
そう問いかけたのは、あの夜、彼女の部屋で共に過ごした数日後のことだった。
肩を抱き寄せたまま何もせずに朝を迎えた夜。
約束を守り、欲望を押し込めてまで選んだ「待つ」という態度が、彼女の心を少しでも柔らかくしてくれればいい、と本気で願った夜のあと。
「……ええ。問題ございません」
返ってきた答えは、丁寧で、間違いひとつない。
けれど、その一言で会話を閉じようとする意志が、言葉の端にくっきりと滲んでいた。
以前なら、そこにごく短い一文が続いていた。
「夢を見ませんでしたから、楽でした」とか、「少し頭痛が和らいだように思います」とか。
自分の状態を知らせようとする、かすかな気遣い。
今はそれが、そっくりそのまま削ぎ落とされている。
昼。
魔法省から戻ったレギュラスが、資料を抱えてアランの部屋の前に立ったときも同じだった。
ノックに応じて扉は開いたが、そこから先が違う。
「……レギュラス様」
いつものように中へ招き入れるのではなく、扉は半分ほどの幅で止められた。
その隙間から覗く翡翠の瞳は、慎重に距離を測っている。
「少し、ご相談したい魔法薬の件があって——」
「申し訳ありません。
今、少々立て込んでおりまして」
以前なら、机の上のノートを片づけて椅子を勧めてくれた場面だ。
彼女はそうせず、扉の縁に手を添えたまま、そこから一歩も引かなかった。
「頭痛が続いておりまして。今日はあまり長くお話しできそうにありません」
言葉自体は、責めようのないほど正当だ。
体調不良を訴える妻を押し切るほど、レギュラスは愚かではない。
「そうですか。では、書類だけここに」
声を穏やかに保ちつつ、手にしていた資料を扉脇の小机に置く。
それでも、扉の内側に漂う空気は変わらない。
彼の足が敷居をまたぐことを、明確に拒んでいた。
扉が閉じられ、金具が収まる微かな音が廊下に残る。
その直後、内側から鍵のかかる音が続いた。
以前は、あの部屋の扉に鍵がかかっていることなど、ほとんどなかった。
今は、こちらが背を向けるのを待ち構えていたかのようなタイミングだ。
レギュラスは、しばらくのあいだ静かな廊下に立ち尽くしていた。
木目の美しい扉を一瞥し、やがて踵を返す。
“待とう”と決めた感情は、まだ胸の奥に残っている。
ただ、その表面に、じわじわと別の色が滲みはじめていた。
別の日、食堂。
ヴァルブルガは上機嫌で、仕立て屋が送ってきた新しい布地の話をしていた。
オリオンは無言で新聞を広げ、国際情勢の記事に目を通している。
ブラック家の食卓は、外から見れば平穏そのものだった。
レギュラスは、向かい側に座るアランをそっと観察していた。
彼女は、相変わらず完璧だった。
フォークを持つ指先は美しく揃い、姿勢は少しも崩れない。
ヴァルブルガの言葉に時折頷き、促されれば柔らかく笑みも見せる。
だがその笑みは、完全に「ブラック家の嫁」としてのものだ。
そこに、レギュラス・ブラックという夫個人に向けられた温度はほとんど感じられない。
レギュラスが口を開いた。
「先日、お渡しした魔法薬の資料ですが——」
「拝見しました」
言い終わる前に、返事だけが滑り込む。
淡々とした声。
間を置かず、続けて付け加える。
「セシール家の配合と比較しても、特に問題は見当たりませんでした。
有効成分の抽出方法が異なるだけで、最終的な効能はほぼ同等かと」
正確で、冷静な評価だ。
それ以上、深く話し込む余地を自分で切り捨てている。
以前なら、「ただ一点だけ」と前置きして、父エドモンドならどうするかを話し始めただろう。
その話を聞きながら、レギュラスは彼女の横顔を盗み見ることが多かった。
今は、その余白すらない。
「そうですか。ありがとうございます」
そう返すしかなかった。
テーブルの真ん中に置かれた果物の盛り合わせから、アランがそっと手を伸ばす。
好物だと知って以来、頻繁に用意させるようになった品だ。
彼女の指先が、途中で止まる。
レギュラスの視線に気づいたのだろう。
伸ばしかけた手を控えめに引いて、別の皿に移る。
——また、下がった。
近づけようとしたものを、彼女自身の手で遠ざけられる感覚。
距離を測るように視線をすべらせるその仕草が、日に日に鮮明になっていく。
最初は、ローランドの影を引きずっているのだろうと理解しようとした。
あの青年との未来を、自分の手で断ち切った自覚がある以上、彼女が簡単に心を開けないのは当然だと、自ら言い聞かせてきた。
だから、待とうと決めた。
焦らせず、急かさず、少しずつ信頼を積み上げることで、やがて彼女自身の足でこちらに歩み寄ってくる日が来ると信じたかった。
だが、今感じているのは、その「待つ」という選択が、まるで空回りしているかのような手応えだ。
伸ばした手の先にある扉が、静かに閉じられ、鍵をかけられる感覚。
近づいたと思えば、また一歩、二歩と後ずさりされる。
そこに、見慣れた輪郭が浮かぶ。
——フロスト家の若い魔法省職員。
淡い髪に、青い瞳。
堅実で、誠実で、アランの「穏やかな未来」の象徴だった男。
レギュラスの知らぬところで、どんな言葉が交わされ、どんな手紙が届いたのか。
詳しい内容までは知らない。
だが、あの日を境にアランの距離感が変わったことだけは、嫌でも分かる。
自分が引きはがしたはずの未来に、彼女の心だけがまだ縋っている。
その事実が、じわじわと苛立ちに火をつけていく。
ある夜、書斎。
魔法省から持ち帰った資料が、机の上に整然と並んでいる。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、書類に目を走らせていた。
内容は頭に入っている。
読み慣れた条文と、見慣れた署名。
視線は文字列を追っているが、意識は別の場所にあった。
扉を隔てた向こう側。
廊下の先にあるアランの部屋。
あの部屋の前に立つたび、最近は決まった言葉が出てくるようになった。
『本日は……あまり長くはお話できません』
具合が悪い、とか、休みたい、とか。
立派な理由を添えた、丁寧な拒絶。
はじめのうちは、それも「彼女らしい慎重さ」として受け止めていた。
だが、日を追うごとにそれが「癖」のように繰り返されると、別の感情が顔を出す。
——どこまで、下がるつもりなのか。
胸の内側で、静かな波だったはずの感情が、少しずつ揺れ幅を増していく。
彼女のためだと思って選んだ遠回りが、自分ひとりの滑稽な自己満足のように感じられる瞬間が増えた。
あの夜、何もしなかったことは、間違いだったのだろうか。
欲望のままにショールの結び目を解き、抱いてしまえば良かったのか。
そんな考えが頭をかすめるたび、レギュラスは自身にうっすらとした嫌悪を覚える。
同時に、抑え込んできた苛立ちが、別の形で膨らんだ。
ローランド・フロストは、手を離した。
「責めない」と言い、「元気で」と告げて、一歩下がった。
その後も、彼女の心の中だけで美しく振る舞い続ける。
自分は、その隙間を縫うように歩み寄り、手を伸ばし続けている。
その努力の先で、扉を閉める役目まで背負わされている気がした。
待とうと決めた感情は、確かにあった。
彼女の速度に合わせなければ、根本から嫌われると理屈で理解してもいる。
だが、理屈と感情がいつまでも同じ方向を向き続けるほど、人間は器用ではない。
資料の束を無造作に閉じる。
インク壺の蓋をきつく締め、ペンをスタンドに立てた。
指先に、僅かな力がこもる。
机の端に置いた手が、不要なほど強く木を押さえつけた。
——アラン・セシール。
心の中で名を呼ぶ。
かつて、夜会で初めて見つけたときの、得体の知れない高揚感。
あのとき「手に入れる」と決めた瞬間の、確信めいた昂ぶり。
あの衝動は、今も少しも薄れていない。
むしろ、彼女が自分から距離を取ろうとするたび、濃度を増していくようだった。
待つことと、手放さないこと。
その二つを同時に選ぼうとすること自体が、無理なのかもしれない。
レギュラスは、深く息を吐いた。
まだ、何も乱していない。
扉を叩く頻度を増やしているわけでもなければ、強引に部屋へ踏み込んだわけでもない。
表面だけを見れば、相変わらず「寛容な夫」の役をきちんと演じている。
それでも、胸の内側では別の声が育ちつつあった。
——いい加減にしてほしい。
どこまで引くつもりなのか。
どこまでローランドの影を抱え込んだまま、こちらを拒むつもりなのか。
あの青年には、もう何も守れない。
未来も、姓も、屋敷も。
彼が差し出せなかったものを、レギュラスはすべて差し出しているつもりだった。
それでもなお、自分では埋められないものがあるのだとしたら——。
待とうと決めた感情の表面に、ゆっくりとひびが入る。
レギュラスは立ち上がり、書斎の窓辺に歩み寄った。
夜の闇が広がる庭の向こう、闇に沈む屋敷の一角に、アランの部屋の窓がかすかに見える。
カーテンは閉じられ、中の様子は見えない。
あの向こう側にいる女を、自分は何から守ろうとしているのか。
何を、どこまで譲るつもりなのか。
その問いに、はっきりした答えは、もう出せなくなりつつあった。
静かに、苛立ちが根を張る。
それはまだ怒りというほど露骨なものではないが、待つことだけに甘んじていられるほど、穏やかな感情でもなかった。
アランの部屋の窓からは、冬の柔らかな光が斜めに差し込んでいる。
外は冷たく澄んだ空気なのだろうが、厚いカーテンと魔法で守られた室内には、外気の刺すような寒さは届かない。
机の上には、父エドモンドの手による魔法薬研究の資料と、ブラック家に来るときに持ち込んだ本が数冊、整然と積まれていた。
机に向かっていたアランの耳に、かすかな羽音が届いた。
胸の奥が、びくりと跳ねる。
この屋敷に来てから、彼女宛のフクロウが飛んでくることは滅多になかった。
魔法省からの連絡や、セシール家からの書簡は、たいていレギュラス宛か、オリオン宛に送られてくるからだ。
窓の外に目を向けると、見慣れた淡い灰色のフクロウが、器用に羽ばたきながら窓辺の柵にとまるところだった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
——まさか。
思考が、その一語で止まりかけた。
ゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。
冷たい外気が、頬をかすめた。
「ありがとう」
フクロウの足に結ばれた封筒をほどく。
指先が、少し震えていた。
封蝋には、見慣れた紋章。
フロスト家の紋章が、淡い青い蝋の上に静かに浮かんでいる。
ローランドから——。
アランは、その場でしばらく封筒を見つめていた。
返事が来るとは思っていなかった。
あの「元気で」という言葉で、すべての連絡は途絶えるのだと、そう覚悟していた。
それでも、どこかで、望んでいたのだと思い知る。
封筒一枚を見つめているだけで、胸が痛いほど高鳴る。
フクロウを部屋の中に招き入れ、水皿を置いてやってから、ようやくアランは机の前に戻った。
椅子に腰を下ろし、膝の上で封筒をしばらく撫でる。
破いてしまわないように、白い紙の質感を確かめるように、指先でなぞった。
深く息を吸い込んでから、静かに封を切った。
中から現れたのは、ぎっしりと文字が綴られた便箋が一枚。
以前のように、ところどころに走り書きのような勢いのある字はなく、端正で整った筆致だった。
読み始める前から、違う、と分かる。
——かつて、文を交わし合っていた頃のローランドとは、筆跡そのものの呼吸が違っていた。
手紙の最初の言葉が、目に飛び込んでくる。
『アラン嬢
このたびは、お手紙を頂戴しありがとうございました。
ご機嫌いかがでいらっしゃいますか。
新しい屋敷での日々に、少しずつ慣れてこられた頃でしょうか』
アランは、一行目を読み終えた時点でまぶたを伏せた。
——「アラン」ではなく、「アラン嬢」。
幼い頃からずっと、名前を呼び捨てにしてくれていた彼が。
十代の頃、照れ隠しをしながら「アラン」と呼ぶたび、彼自身が少しだけ顔を赤らめていたあの頃のローランドではなく。
今、紙の上で名を呼んでいるのは、距離を意識している大人のローランドだった。
それでも、文字の行間から滲み出る気配は変わらない。
整えられた言葉のひとつひとつに、彼らしい誠実さが宿っている。
読み進める。
『お体の具合が優れない時期もあったとのこと、遠くから案じておりました。
最近は少し落ち着かれたとのお便りに、ほっと胸をなで下ろしております。
季節の変わり目は、あなたは昔から喉を痛めやすかったと記憶しておりますので、温かい飲み物を傍らに置かれることをお勧めいたします。
セシール卿が好んでおられたタイムと蜂蜜のブレンドは、今もよく効くでしょう』
文字を追った瞬間、過去の情景が蘇る。
幼い頃、秋の終わりに必ず喉を鳴らして咳き込んでいた自分のために、ローランドが庭のハーブを摘んで、よろよろとした手際でマグカップを差し出してくれた日。
その隣で、父が「タイムは少し多めに」と指示し、ふたりで真剣な顔で湯気を見つめていたこと。
今も、その些細な癖を覚えている。
距離を取ろうとして綴ったはずの文の中に、そんな具体的な記憶を残してしまうところが、ローランドらしかった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
視界が少し滲んだ。
それでも先を読もうと、アランは涙を堪えて文字を追った。
『こちらは、おかげさまで変わりなく過ごしております。
魔法省での務めは、日々慌ただしく、あなたと薬草園で土をいじっていた頃とは、まるで別の世界にいるように感じることもあります。
けれど、その頃に培った忍耐と観察眼が、今の仕事にも役立っていると、折々に気づかされます。
あの時間があったことを、今も感謝しています』
“感謝している”——そこに、過去形で閉じ込められた時間が見えた。
共に未来を語った日々は、彼の中でもう「過去」として整理されようとしている。
そう理解すると同時に、その感謝の言葉まで愛おしく思えてしまう自分がいる。
彼は、自分と過ごした時間を、間違いだったとは書かない。
それだけで、救われるような気がした。
『あなたがブラック家に嫁がれたことについては、既に耳にしております。
セシール卿のお考えと、あなたのご決断を、ひとりの友人として尊重したいと思います。
これから先、さまざまな場面で責務と期待がのしかかってくることでしょうが……どうか、ご自身の身体と心を、後回しになさらぬよう』
——友人として。
その二文字が、胸に刺さる。
どこまでも正しく、どこまでも誠実な言葉。
あの別れのときも、ローランドはアランを責めなかった。
「責める権利はない」と言って、ただ、「元気で」と告げてくれた。
今も変わらない。
彼は、自分の痛みや悔しさを言葉にせず、あくまでアランとセシール家の選択を尊重しようとしている。
そこに、彼の優しさと、不器用な諦めが滲んでいた。
『元気でいらしてください』
その一文を見た瞬間、アランの喉がきゅうっと締め付けられた。
あの日、最後に聞いた言葉と同じ。
短く、簡素な、祈り。
便箋の終わりには、丁寧な署名が添えられている。
『ローランド・フロスト』
以前は、こんなふうにフルネームで署名することはなかった。
「ローランド」だけ、あるいは急いでいるときは崩したイニシャルだけ。
そうやって、互いのあいだにある親密さを自然と共有していた。
今、紙の上に並んでいるのは、少し距離を取った青年の名。
それでも、便箋の端には、彼の癖が残っていた。
余白に、申し訳程度に小さな追記がある。
『追伸
寒さが厳しくなる折、夜に窓辺に長く立たれることのないように。
あなたは星を眺めるのがお好きでしたが、あまり長いあいだ外気に晒されると、指先がすぐ冷えてしまうはずです。
暖炉のそばで、ご覧になることをお勧めします』
思わず、笑いそうになった。
涙で滲んだ視界の中で、文字が揺れる。
そんなところまで覚えている。
十三の頃、夜中にこっそりバルコニーに出て星を眺め、指がかじかんでドアノブを回せなくなり、屋敷の中に戻れず震えていた自分を、ローランドが見つけてくれたこと。
彼は慌ててマントを肩にかけてくれて、暖炉の前でふたり並んで指先をさすり合った。
そのときの情けない記憶まで、彼の中では、大切な「注意事項」として残っている。
言葉の距離は意図的に遠くなっているのに、気遣いだけは以前と少しも変わらない。
そこに、ローランドという人間の誠実さが凝縮されていた。
アランは、手紙を読み終えたところで、静かに便箋をそっと伏せた。
机の上に置いた紙が、ほんのわずかに震える。
次の瞬間には、その便箋を両手で持ち上げ、胸にぎゅっと押し当てていた。
胸元に押し当てた紙に、鼓動が伝わる。
心臓の早さが、自分でも滑稽なほどだった。
——返事が来るなんて、思わなかった。
そう思うたびに、胸の奥が疼く。
彼が距離を置いた文体で手紙を綴り、それでも返事を寄越してくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
嬉しい。
けれど、痛い。
かつては当たり前のように交わしていた言葉が、今は、丁寧な敬語と慎重に選ばれた表現に姿を変えている。
けれど——そのどれもが、アランの身体を気遣い、心を案じていた。
「……ローランド」
声に出して名を呼んだのは、いつぶりだろう。
部屋の中に、彼の姿はない。
あるのは、インクの香りがかすかに残る紙切れ一枚。
それでも、彼の声がそこにあるように感じられた。
喉の奥から、温かいものが込み上げてくる。
堪えきれなくなった涙が、頬を伝い、便箋の端にぽつりと落ちた。
慌てて指で拭おうとする。
滲ませたくない。
彼が心を砕いて綴った文字を、涙で歪ませたくない。
けれど、そう思えば思うほど、涙は止まらなかった。
椅子から立ち上がり、そのままベッドの方へふらふらと歩み寄る。
両手で抱きしめている手紙だけは離さない。
ベッドの端に腰を下ろすつもりが、そのまま力が抜けて、ずるりと床に膝をついてしまった。
柔らかな絨毯が、膝を受け止める。
床に座り込んだまま、アランは手紙を胸に押し当て続けた。
喉を震わせて洩れる嗚咽は、声にならない。
静かに、けれど途切れなく涙が落ちていく。
——こんなにも、彼の誠実さが好きだった。
約束を交わしたときも。
別れを告げられたときも。
そして今、距離を置いた手紙の文面にすら、その誠実さが宿っている。
アランは、自分の選んだ未来と、手放したものの大きさを、改めて思い知った。
ブラック家の娘として、妻として、これから先歩いていかなくてはならない道。
その道の先に、ローランドはもういない。
けれど、彼は最後まで、自分を責めずに、「元気で」と言ってくれる人だった。
胸に抱きしめた便箋は、涙で少しだけ温もりを帯びている。
それでも、紙そのものは冷たく、現実と同じように、触れた指先に残る感触は薄い。
アランは、息を詰まらせながら目を閉じた。
ローランドの滲み出る気遣いと誠意が好きだった。
そして今も、その好きはどこにも行き場を見つけられず、胸の中で静かに疼き続けている。
床に座り込んだまま、いつまでも手紙を抱きしめている自分の姿が、あまりにも幼く見えて、少しだけ惨めだった。
それでも、今だけは——この紙切れ一枚にすがっていたかった。
彼がまだ、自分のことを案じてくれる世界の端に存在しているのだと、そう感じていたかった。
涙の跡が乾くまで、アランは動かなかった。
胸に押し当てた便箋は、静かに彼女の鼓動を受け止めていた。
ローランドからの手紙を受け取った日を境に、屋敷の空気は、ごくわずかに、しかし確かに変わった。
アランの部屋の机の引き出しには、薄い封筒が一つしまわれている。
鍵付きの小さな引き出し。その奥、布を一枚かませるようにして、便箋は丁寧に畳まれていた。
時折、その引き出しにそっと手を置く仕草が増えた。書類を取り出すでもなく、何かをしまうでもなく、ただ、指先で木の感触を確かめるように触れる。
引き出しに触れるたび、胸の奥にローランドの文字が蘇る。
「アラン嬢」「ご自愛ください」「元気で」——あの整った筆致と、抑制された言葉の奥に潜む、変わらない誠実さ。
その温度を思い出すたびに、屋敷の中で少しずつ近づきかけていた別の温度が、急激に色を失っていった。
朝食の席。
長いテーブルの中央には、銀のカバーのかかった皿がいくつも並び、湯気を立てている。
焼きたてのパンの香りと、バターの甘い匂い。
窓辺には薄い霧が残り、庭の向こうの黒い鉄柵がぼんやりと輪郭を歪めていた。
レギュラスが席に着くと、すでにアランは定位置に座っていた。姿勢は真っ直ぐで、ナイフとフォークの置き方は教本の挿絵のように整っている。
以前なら、最近はもう少し柔らかさが混じるようになっていた。
果物を続けて手に取ったり、セシール家とブラック家の研究の違いについて、自ら小さな疑問を口にしたり。
そうした些細な変化が、ゆっくりと距離を近づけてきた。
今朝のアランは、違っていた。
視線は皿とテーブルの境からほとんど動かない。
料理に手を伸ばす動作は相変わらず美しく、無駄がないが、そこから何かを「楽しもう」とする気配が抜け落ちている。
「アラン、昨夜はよく眠れましたか」
レギュラスが問いかける声は、あくまで穏やかだった。
アランの肩が、ほんの少しだけ強張る。
返事をするまでに、いつもよりわずかに長い間があった。
「はい。……おかげさまで」
礼儀として完璧な返答。
けれど、言葉の温度はどこか遠い。
そのひとことで会話を終わらせようとする気配がありありと伝わった。
数日前までなら、その後に続くはずの一言があった。
身体の疲れが取れた、とか、ここ最近夢を見ることが少なくなったとか。
レギュラスの腕の中で過ごした夜のことを、直接触れずとも暗に示すような、ほんのわずかな言葉。
今日は、その「わずか」が、きれいに消えていた。
「魔法薬研究の書類、昨日お渡しした分は目を通されましたか」
話題を変える。
これまでは、距離を詰めるための糸口になってきた話題だ。
アランは手を止めず、ナイフでパンを切り分けながら答えた。
「はい。一通り、拝見しました」
「気になった点や、セシール家の見解との差異などあれば、教えていただきたいのですが」
「……特に、ございません」
そこで初めて、レギュラスは違和感をはっきりと胸に抱いた。
つい先日までは、同じ問いかけに、彼女は慎重に言葉を選びながらも小さな指摘をしてくれていた。
父エドモンドの研究と比較して、ここは配合比が違うとか、効能は似ているが副作用の出方が変わるとか。
それを聞くたび、レギュラスは本気で感心し、その場で意見を返していた。
そうやって交わされてきたやり取りが、一夜で元に戻っている。
まるで、初めて屋敷に来た日の距離感へ、綺麗に巻き戻されたようだった。
昼下がり。
レギュラスは、分厚い資料を抱えてアランの部屋の前に立っていた。
今日の名目は、魔法薬の共同研究の打ち合わせ。
このところ、それを理由にアランの部屋へ入る時間が自然と増えていた。
ノックをすると、しばらくしてから扉の向こうで衣擦れの音がした。
「……どなたでしょうか」
慎重な声。
聞き慣れた、しかしいつもより少し硬い響き。
「僕です。」
短い沈黙のあと、鍵の外れる音がする。
扉が開いた隙間から、翡翠の瞳がのぞいた。
「魔法薬の件で、少し相談したいことがありまして」
「……申し訳ありません、レギュラス様」
アランは、扉を半分ほどだけ開けたまま、そこから進んでくる言葉を遮った。
「先ほどから、少し頭痛がしておりまして。
本日は、あまり長くお話できそうにありません」
嘘というほどではない。
ローランドの手紙を読んでから、確かにこめかみのあたりが鈍く疼き続けていた。
しかし、それは休息さえ取れば静まる類のものだと分かっている。
それでもアランは、その痛みを盾にした。
レギュラスの視線が、扉の向こうをすばやく一瞥する。
机の上には、開かれたままのノートと、何かをしまったばかりのように少し乱れた引き出しの取っ手。
その前に立つアランの姿勢には、明らかな「ここから先には入れたくない」という意志が宿っていた。
「頭痛、ですか」
「はい。少し、横になろうと思っていたところで」
その言い訳は、完璧に整えられていた。
拒絶の言葉を、できる限り穏やかな音色に包んでいる。
レギュラスは、数秒黙って彼女を見つめたあと、手にしていた資料を胸元に抱え直した。
「分かりました。無理をさせるわけにはいきませんね」
そう答える声には、変わらず優しさが含まれていた。
責め立てるような響きはどこにもない。
「必要であれば、あとでポーションを調合しましょうか。
偏頭痛には少し強めの薬も用意できますが」
「大丈夫です。休めば治りますので」
そのやり取りで、もうこれ以上は扉を開けないということが、互いに分かっていた。
「では、今日はこれを部屋の前に置いておきます。
体調のよろしい時に、軽く目を通していただければ」
レギュラスは、資料の束を扉脇の小さなテーブルに置いた。
アランは、扉の内側から黙って頭を下げる。
「お心遣い、感謝いたします」
扉が、静かに閉じられた。
金具が収まるかすかな音が、廊下に小さく響く。
そのあと、ごく自然な動作で鍵がかかることを、レギュラスは耳で感じ取った。
数日前まで、彼が部屋を訪れたときには、鍵がかかっていることはほとんどなかった。
今日は違う。
扉の向こうに、はっきりとした境界線が引かれた。
廊下にひとり残されたレギュラスは、しばらくのあいだ扉を見つめ、やがてゆっくりと踵を返した。
何かを問うことはしない。
ただ、確かに巻き戻された距離を、静かに受け止めるだけだった。
アランは、扉を閉めて鍵をかけたあと、背中を扉に預けた。
手のひらが、微かに汗ばんでいる。
心臓の鼓動が、扉越しにも聞こえてしまうのではないかと思うほど早かった。
扉から離れて、机の前に戻る。
引き出しにそっと手をかけ、少しだけ開けた。
中には、丁寧に畳まれたローランドの便箋。
視界に白い紙が覗いた瞬間、胸に広がる痛みと温かさ。
レギュラスの腕の中で眠った夜のことが、否応なく思い出される。
ショールを固く結び、胸元を守ろうとした自分。
その上から肩だけを抱き寄せたレギュラスの腕。
何もせず、約束通りにただ一緒にいてくれたこと。
眠りに落ちる直前、背中に感じた体温の存在は、確かに安心をくれた。
それでも——。
引き出しの中の手紙を見ていると、その安心が別の色に変わっていく。
レギュラスの手を思い出す。
自分を抱き寄せた手。
同じ手が、セシール家との婚姻の条件に署名をし、父に圧倒的な条件を突きつけ、ローランドから「婚約」という未来を引きはがした。
彼の指先ひとつで、多くのものが動いた。
魔法省の政策も、ブラック家とセシール家の関係も。
そして、自分の望んでいた未来も。
ローランドと共に歩むはずだった日々。
薬草園で土をいじり、父の研究を手伝いながら、慎ましく、けれど温かな家庭を持つはずだった未来。
その未来を摘み取ったのは、レギュラスの手だった。
アランの身体は、それをよく知っている。
レギュラスが近づくと、無意識にショールを引き寄せ、身体をひとつ分横にずらす。
言葉の調子は丁寧なままで、微笑みも作ろうとするが、視線は決して長く交わさない。
食事の席では、彼の口にする冗談に以前ほど反応しなくなった。
研究の話を振られても、必要最低限の返答で止める。
廊下で偶然すれ違ったとき、以前なら軽く会釈したあと少しだけ歩調を合わせていたのに、今は礼儀正しく頭を下げ、そのまま脇をすり抜ける。
縮まりかけていた糸を、ひとつひとつ慎重にほどいていくようだった。
理由を、言葉にすることはできない。
ただ、ローランドの手紙に触れてから、身体のどこか深い場所で、「元に戻さなければ」という感覚が目を覚ました。
レギュラスの腕の中で眠った夜を、裏切りのように感じてしまう自分がいた。
ローランドの誠実さと「元気で」という言葉を胸に抱いたまま、別の男の温もりに心を委ねかけた夜。
それをそのまま受け入れてしまえば、自分が何か「取り返しのつかない線」を越えてしまうようで怖かった。
レギュラスは、ローランドではない。
優しさを見せるときの静かな声の調子が似ている瞬間があっても、その手がしてきたことは決定的に違う。
ローランドの手は、いつもそっと支えてくれる手だった。
土に汚れた指で薬草を渡し、転びかけたときに支え、寒い夜にはマントを差し出してくれた。
レギュラスの手は、迷いなく掴み取る手だ。
自分が欲しいものを逃さず、必要とあらば他者の未来ごと握りつぶしてでも手に入れてしまう力を持っている。
胸の奥で、その二つの手が重なり合わない。
引き出しを静かに閉じながら、アランは唇をきゅっと結んだ。
開きかけた心を、もう一度閉ざすことは、決して楽ではなかった。
レギュラスと交わした魔法薬の話も、果物の好みに気づいてくれた瞬間も、あの夜の静かな温もりも、すべて心のどこかで確かなものとして残っている。
それでも——閉ざさなければならないと、身体が先に決めてしまう。
ローランドのためだけではない。
かつての自分のためにも、あの薬草園で未来を信じていた少女のためにも。
部屋の中の空気が、少し冷たく感じられた。
外から差し込む光は変わらないのに、胸の奥だけが陰を帯びていく。
アランは、窓辺に歩み寄った。
ガラス越しに空を見上げる。
星を見ることの多かった夜のことを思い出し、ローランドの手紙の追伸を思い返し、そっとカーテンを閉めた。
外の景色を断ち切るように。
彼女の世界は、再び、慎重に厚いカーテンを引かれた部屋の内側にたたまれていく。
レギュラスがどれほど腕を伸ばそうとも、その内側へ踏み込ませないように。
そうしなければ、自分のなかで何かが壊れてしまう気がしていた。
ここしばらく、アラン・ブラックの周囲の空気は、目に見えない薄い膜を一枚、また一枚重ねたように変わっていった。
最初に気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
朝食の席で、彼女は相変わらず背筋を伸ばし、礼儀正しくナイフとフォークを動かしていた。
だが、ふと顔を上げたとき、レギュラスの視線とぶつかるより先に、瞳がすばやく皿の縁へ落ちる。
それが一度や二度ではなく、日ごとに回数を増していく。
「昨夜は、少しは休めましたか」
そう問いかけたのは、あの夜、彼女の部屋で共に過ごした数日後のことだった。
肩を抱き寄せたまま何もせずに朝を迎えた夜。
約束を守り、欲望を押し込めてまで選んだ「待つ」という態度が、彼女の心を少しでも柔らかくしてくれればいい、と本気で願った夜のあと。
「……ええ。問題ございません」
返ってきた答えは、丁寧で、間違いひとつない。
けれど、その一言で会話を閉じようとする意志が、言葉の端にくっきりと滲んでいた。
以前なら、そこにごく短い一文が続いていた。
「夢を見ませんでしたから、楽でした」とか、「少し頭痛が和らいだように思います」とか。
自分の状態を知らせようとする、かすかな気遣い。
今はそれが、そっくりそのまま削ぎ落とされている。
昼。
魔法省から戻ったレギュラスが、資料を抱えてアランの部屋の前に立ったときも同じだった。
ノックに応じて扉は開いたが、そこから先が違う。
「……レギュラス様」
いつものように中へ招き入れるのではなく、扉は半分ほどの幅で止められた。
その隙間から覗く翡翠の瞳は、慎重に距離を測っている。
「少し、ご相談したい魔法薬の件があって——」
「申し訳ありません。
今、少々立て込んでおりまして」
以前なら、机の上のノートを片づけて椅子を勧めてくれた場面だ。
彼女はそうせず、扉の縁に手を添えたまま、そこから一歩も引かなかった。
「頭痛が続いておりまして。今日はあまり長くお話しできそうにありません」
言葉自体は、責めようのないほど正当だ。
体調不良を訴える妻を押し切るほど、レギュラスは愚かではない。
「そうですか。では、書類だけここに」
声を穏やかに保ちつつ、手にしていた資料を扉脇の小机に置く。
それでも、扉の内側に漂う空気は変わらない。
彼の足が敷居をまたぐことを、明確に拒んでいた。
扉が閉じられ、金具が収まる微かな音が廊下に残る。
その直後、内側から鍵のかかる音が続いた。
以前は、あの部屋の扉に鍵がかかっていることなど、ほとんどなかった。
今は、こちらが背を向けるのを待ち構えていたかのようなタイミングだ。
レギュラスは、しばらくのあいだ静かな廊下に立ち尽くしていた。
木目の美しい扉を一瞥し、やがて踵を返す。
“待とう”と決めた感情は、まだ胸の奥に残っている。
ただ、その表面に、じわじわと別の色が滲みはじめていた。
別の日、食堂。
ヴァルブルガは上機嫌で、仕立て屋が送ってきた新しい布地の話をしていた。
オリオンは無言で新聞を広げ、国際情勢の記事に目を通している。
ブラック家の食卓は、外から見れば平穏そのものだった。
レギュラスは、向かい側に座るアランをそっと観察していた。
彼女は、相変わらず完璧だった。
フォークを持つ指先は美しく揃い、姿勢は少しも崩れない。
ヴァルブルガの言葉に時折頷き、促されれば柔らかく笑みも見せる。
だがその笑みは、完全に「ブラック家の嫁」としてのものだ。
そこに、レギュラス・ブラックという夫個人に向けられた温度はほとんど感じられない。
レギュラスが口を開いた。
「先日、お渡しした魔法薬の資料ですが——」
「拝見しました」
言い終わる前に、返事だけが滑り込む。
淡々とした声。
間を置かず、続けて付け加える。
「セシール家の配合と比較しても、特に問題は見当たりませんでした。
有効成分の抽出方法が異なるだけで、最終的な効能はほぼ同等かと」
正確で、冷静な評価だ。
それ以上、深く話し込む余地を自分で切り捨てている。
以前なら、「ただ一点だけ」と前置きして、父エドモンドならどうするかを話し始めただろう。
その話を聞きながら、レギュラスは彼女の横顔を盗み見ることが多かった。
今は、その余白すらない。
「そうですか。ありがとうございます」
そう返すしかなかった。
テーブルの真ん中に置かれた果物の盛り合わせから、アランがそっと手を伸ばす。
好物だと知って以来、頻繁に用意させるようになった品だ。
彼女の指先が、途中で止まる。
レギュラスの視線に気づいたのだろう。
伸ばしかけた手を控えめに引いて、別の皿に移る。
——また、下がった。
近づけようとしたものを、彼女自身の手で遠ざけられる感覚。
距離を測るように視線をすべらせるその仕草が、日に日に鮮明になっていく。
最初は、ローランドの影を引きずっているのだろうと理解しようとした。
あの青年との未来を、自分の手で断ち切った自覚がある以上、彼女が簡単に心を開けないのは当然だと、自ら言い聞かせてきた。
だから、待とうと決めた。
焦らせず、急かさず、少しずつ信頼を積み上げることで、やがて彼女自身の足でこちらに歩み寄ってくる日が来ると信じたかった。
だが、今感じているのは、その「待つ」という選択が、まるで空回りしているかのような手応えだ。
伸ばした手の先にある扉が、静かに閉じられ、鍵をかけられる感覚。
近づいたと思えば、また一歩、二歩と後ずさりされる。
そこに、見慣れた輪郭が浮かぶ。
——フロスト家の若い魔法省職員。
淡い髪に、青い瞳。
堅実で、誠実で、アランの「穏やかな未来」の象徴だった男。
レギュラスの知らぬところで、どんな言葉が交わされ、どんな手紙が届いたのか。
詳しい内容までは知らない。
だが、あの日を境にアランの距離感が変わったことだけは、嫌でも分かる。
自分が引きはがしたはずの未来に、彼女の心だけがまだ縋っている。
その事実が、じわじわと苛立ちに火をつけていく。
ある夜、書斎。
魔法省から持ち帰った資料が、机の上に整然と並んでいる。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、書類に目を走らせていた。
内容は頭に入っている。
読み慣れた条文と、見慣れた署名。
視線は文字列を追っているが、意識は別の場所にあった。
扉を隔てた向こう側。
廊下の先にあるアランの部屋。
あの部屋の前に立つたび、最近は決まった言葉が出てくるようになった。
『本日は……あまり長くはお話できません』
具合が悪い、とか、休みたい、とか。
立派な理由を添えた、丁寧な拒絶。
はじめのうちは、それも「彼女らしい慎重さ」として受け止めていた。
だが、日を追うごとにそれが「癖」のように繰り返されると、別の感情が顔を出す。
——どこまで、下がるつもりなのか。
胸の内側で、静かな波だったはずの感情が、少しずつ揺れ幅を増していく。
彼女のためだと思って選んだ遠回りが、自分ひとりの滑稽な自己満足のように感じられる瞬間が増えた。
あの夜、何もしなかったことは、間違いだったのだろうか。
欲望のままにショールの結び目を解き、抱いてしまえば良かったのか。
そんな考えが頭をかすめるたび、レギュラスは自身にうっすらとした嫌悪を覚える。
同時に、抑え込んできた苛立ちが、別の形で膨らんだ。
ローランド・フロストは、手を離した。
「責めない」と言い、「元気で」と告げて、一歩下がった。
その後も、彼女の心の中だけで美しく振る舞い続ける。
自分は、その隙間を縫うように歩み寄り、手を伸ばし続けている。
その努力の先で、扉を閉める役目まで背負わされている気がした。
待とうと決めた感情は、確かにあった。
彼女の速度に合わせなければ、根本から嫌われると理屈で理解してもいる。
だが、理屈と感情がいつまでも同じ方向を向き続けるほど、人間は器用ではない。
資料の束を無造作に閉じる。
インク壺の蓋をきつく締め、ペンをスタンドに立てた。
指先に、僅かな力がこもる。
机の端に置いた手が、不要なほど強く木を押さえつけた。
——アラン・セシール。
心の中で名を呼ぶ。
かつて、夜会で初めて見つけたときの、得体の知れない高揚感。
あのとき「手に入れる」と決めた瞬間の、確信めいた昂ぶり。
あの衝動は、今も少しも薄れていない。
むしろ、彼女が自分から距離を取ろうとするたび、濃度を増していくようだった。
待つことと、手放さないこと。
その二つを同時に選ぼうとすること自体が、無理なのかもしれない。
レギュラスは、深く息を吐いた。
まだ、何も乱していない。
扉を叩く頻度を増やしているわけでもなければ、強引に部屋へ踏み込んだわけでもない。
表面だけを見れば、相変わらず「寛容な夫」の役をきちんと演じている。
それでも、胸の内側では別の声が育ちつつあった。
——いい加減にしてほしい。
どこまで引くつもりなのか。
どこまでローランドの影を抱え込んだまま、こちらを拒むつもりなのか。
あの青年には、もう何も守れない。
未来も、姓も、屋敷も。
彼が差し出せなかったものを、レギュラスはすべて差し出しているつもりだった。
それでもなお、自分では埋められないものがあるのだとしたら——。
待とうと決めた感情の表面に、ゆっくりとひびが入る。
レギュラスは立ち上がり、書斎の窓辺に歩み寄った。
夜の闇が広がる庭の向こう、闇に沈む屋敷の一角に、アランの部屋の窓がかすかに見える。
カーテンは閉じられ、中の様子は見えない。
あの向こう側にいる女を、自分は何から守ろうとしているのか。
何を、どこまで譲るつもりなのか。
その問いに、はっきりした答えは、もう出せなくなりつつあった。
静かに、苛立ちが根を張る。
それはまだ怒りというほど露骨なものではないが、待つことだけに甘んじていられるほど、穏やかな感情でもなかった。
