1章
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魔法灯とシャンデリアの光が幾重にも折り重なり、広間の空気は金色に揺れていた。
純血の名家たちが集う夜会はいつものように、笑い声とグラスの触れ合う澄んだ音、弦楽器の柔らかな調べで満ちている。壁には先祖たちの肖像画が飽きもせず客人を見下ろし、空気の端々に、古い血統の誇りと倦怠が混ざり込んでいた。
レギュラス・ブラックは、そんな場の中心から少しだけ外れた位置に立ち、薄く笑みを浮かべていた。
完璧な礼服、よく整えられた黒髪、灰色の瞳。彼がそこにいるだけで、周囲の視線は自然と集まってくる。
視線を向けられることにも、囁かれ噂されることにも、とうの昔に慣れきっている。
今夜も、何人もの令嬢がちらちらと彼の方を盗み見ては、うちわ話に花を咲かせているのがわかった。
「レギュラス、今夜はどうする気です?」
隣で、バーテミウス・クラウチ・ジュニアが軽くグラスを傾けながら囁いた。
麗しい顔立ちに、皮肉めいた余裕の笑みを浮かべている。
彼もまた、育ちも家柄も申し分なく、ほとんどのものを手にしている男だった。レギュラスほどではないにしても——と、自分でも分かっていながらそれを冗談めかしているところが、いかにも彼らしい。
「どうする、とは?」
レギュラスは、緩やかに首を傾ける。
わかっていてとぼけるその表情に、バーテミウスは小さく笑った。
「とぼけないでくださいよ。毎度恒例の“遊び”の話です。
今夜はどの令嬢を選ぶおつもりで?」
レギュラスは、グラスの縁を指先でなぞりながら、わざとらしく小さく息を吐いた。
「……あまり気乗りはしないですけどね」
本音だった。
どの宴でも、最も美しい娘を見つけ出し、興味本位に口説き落とす。
そんなゲームのような戯れは、とっくの昔に目新しさを失っている。
相手は皆、同じように自分を見た。
ブラック家の跡取りとしての価値と、完璧すぎる外見に浮つく視線。憧れと打算と、少しの陶酔。
そこに彼自身を見ようとする目はほとんどない。
「贅沢なこと言いますね」
バーテミウスは肩をすくめる。
「それでも毎回、ちゃんと“勝って”いるじゃないですか、あなたは。
……ああ、でも今夜は、少し手ごたえのある相手がいいですか?」
「手ごたえ?」
レギュラスが気怠そうに問い返した瞬間、バーテミウスの視線がふと別の方向へと滑った。
そして、そのまま目を細める。
「あそこにいる、飛び抜けた美人の令嬢がいますけど?」
その指先が示す方へ、レギュラスは何気なく顔を向けた。
退屈を紛らわせる程度の興味で、ほんの少しだけ首を巡らせる——そのはずだった。
視界に飛び込んできた少女を目にした瞬間、その気のない動作はぴたりと止まる。
黒髪が、灯りを受けて静かに波打っていた。
柔らかなカールを帯びた長い髪が、白いうなじや肩のラインを引き立てる。
装いは他の令嬢たちと同じように華やかで、しかしどこか控えめで上品だった。
そして何より、顔を少し横に向けた拍子に、ふと見えた瞳の色。
——翡翠。
深い森の底を切り取って宝石にしたような、澄んだ翡翠色が、シャンデリアの光を受けて淡くきらめいた。
レギュラスは、不意に胸を掴まれたような感覚に襲われる。
ほんの一瞬、呼吸の出入りがわずかに乱れた。
少女——アラン・セシールは、周囲に取り囲む人々の方へ向けて、礼儀正しく微笑んでいた。
純血セシール家の一人娘。
古い家柄の者なら誰でも知っている名だ。
彼女の父の顔も、家の歴史も、レギュラスは当然のように把握している。
だが、こうして夜会の場で真正面から彼女を見るのは、意外にも初めてに近かった。
いや、もしかすると、視界には入っていたのかもしれない。
だが今までは、他の令嬢と同じ「背景」の一部として、特に意識を向けることもなく通り過ぎていたのだろう。
それが今、あたかも視界から彼女以外が消えたかのような感覚に、レギュラス自身がわずかに戸惑う。
「……確かに」
思わず漏れた声を、バーテミウスは聞き逃さなかった。
彼は唇の端を愉快そうに上げる。
「おや、急にやる気じゃないですか、レギュラス」
からかうような声音にも、レギュラスは否定の言葉を返せなかった。
否定するとすれば、自分の内側で何かが動いたことまで嘘にしなければならない気がして、それが妙に癪に障る。
「流石にあのクラスなら、声をかけないと。
むしろ失礼にあたりますね」
もっともらしい理屈をそれらしく口にしながら、自分でも何を言っているのか分からなかった。
ただ、その場を離れて彼女のもとへ足を向けたいという衝動だけが、やけに鮮明だった。
「訳のわからないことを言いますね」
バーテミウスは肩を揺らして笑う。
「いいでしょう、付き合いますよ。あなたが“落とす”気になったなら、今夜は見ものだ」
レギュラスは軽く笑みを深め、グラスを係の妖精に預けると、一歩、彼女の方へと歩き出した。
足取りはゆるやかで、優雅さを欠かない。
しかし胸の内では、珍しくわずかな高鳴りが生まれていた。
アラン・セシールは、群がる会話の輪の中で、穏やかな微笑を貼り付けていた。
差し出される言葉に丁寧に相槌を打ち、適切な話題を返し、必要とあらば柔らかく笑う。
完璧な淑女としての振る舞いは、長年の訓練でほとんど無意識の領域に達している。
けれど、胸の奥では、別の感情が冷たく沈んでいた。
この場に、彼がいる。
レギュラス・ブラック。
名を意識した瞬間、アランは自分でも気づかないほどわずかに視線を泳がせた。
直接その姿を探すことはしない。
だが、周囲の空気が教えてくれる。
人々の視線が一斉にある方角へ吸い寄せられては、ちらりちらりと戻ってくるのが肌でわかる。
雲の上のような存在。
金も地位も、家名も、権力も、顔の良ささえも、すべてを持った男。
彼の近くに行きたがる娘たちが、どれほど多いかも知っている。
彼に甘く囁かれ、陶然とした表情で舞踏会を終えていく同世代の少女たちを、何度も見てきた。
そのたびに、胸の内には言葉にしづらい嫌悪が生まれた。
彼女たちに対してではない。
レギュラス・ブラックという存在そのものに対して。
完璧すぎる人間は、どこまでいっても自分とは違う世界の住人に思えた。
近づけば飲み込まれてしまうような、冷たい星の光。
彼の腕の中で笑う娘たちの顔を思い浮かべるだけで、アランは、自分はああはなりたくないと強く思った。
だからこそ、視界に彼の姿が入らぬよう、無意識に距離を取っていた。
今夜も例外ではない。
彼がいる方角に背を向け、別の会話に集中しようと努めている。
「——セシール嬢」
耳に、穏やかながらよく通る声が届いた。
聞き慣れないはずなのに、名前を呼ばれた瞬間、誰の声か理解してしまう。
周囲の空気が一瞬で変わったからだ。
会話の輪の中の人々が一斉に口をつぐみ、誰かの方へ頭を下げる気配が背後で連なった。
アランはゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、噂通りの男だった。
黒髪は丁寧に撫でつけられ、その灰色の瞳は、思っていたよりもずっと静かで澄んでいる。
整いすぎた顔立ちが蝋人形のように冷たく見えるかと思いきや、微笑んだときの口元には、意外にも柔らかな温度が宿っていた。
レギュラス・ブラック。
アランは胸の内でその名をなぞりながら、自分の翡翠色の瞳が、決して媚びる色を帯びないようにと意識した。
彼女の視線は、ほんの少しだけ警戒を含んでいる。
無邪気に近づき、無防備に笑う少女たちとは違うという距離を、黙って示していた。
「はじめまして、セシール嬢」
レギュラスは深すぎず浅すぎない絶妙な角度で頭を下げる。
礼儀と親しみの間のわずかな境目を、正確に踏む仕草だった。
「レギュラス・ブラックと申します。
以前から、お名前は存じ上げていましたが……こうしてお話しする機会がなかったことを、今さらながら惜しく感じています」
どこまでも滑らかで、磨き上げられた言葉。
アランは心の中で小さく息を呑みつつも、その表情を崩さなかった。
「ご丁寧に。アラン・セシールです、ブラック様」
丁重な挨拶。
その声色には、敬意も礼儀もある。
けれど、彼に簡単には靡かないという意志も、確かに滲んでいた。
レギュラスは、その微かな棘を含んだ柔らかさに、むしろ惹かれている自分に気づく。
いつもなら、甘くとろけるような反応を予期し、その通りの答えを受け取ってきた。
だが、今、目の前にいる少女は違う。
——いい。
胸の奥で、くすぶっていた退屈が、音もなく形を変えた。
興味、という言葉では追いつかない、もっと鋭い何かに。
「もしよろしければ」
レギュラスは穏やかな笑みのまま、手を差し出した。
「この退屈な夜を、少しだけましなものにするお手伝いをさせていただけませんか?
たとえば——一曲、ご一緒に」
その言葉に、バーテミウスは少し離れた場所でグラスを口に運びながら、密かに目を細める。
いつもの“遊び”の入り口のようでいて、その声音にはどこか、これまでにはなかった熱が混ざっているのを感じ取っていた。
アランは、差し出された手を見つめた。
完璧な男の完璧な所作。
ここで断れば場の空気を乱す。
受け入れれば、自ら嵐の中心に足を踏み入れることになる。
翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
それでも、彼女はゆっくりとその手に自分の指先を重ねた。
その瞬間。
レギュラス・ブラックの胸のうちで、確かな確信が生まれていた。
——これは、いつものゲームとは違う。
自分が彼女を落としに行くつもりだったはずなのに。
もうすでに、目を奪われているのは自分の方だという事実を、まだ言葉にはできないまま、彼は静かに微笑んだ。
差し出された手を前にして、アランはほんの一瞬、時間が止まったような感覚に囚われた。
白く整った指先が、自分の方へ静かに差し出されている。節ばりすぎていない長い指、袖口から覗くカフス、完璧なまでに整えられた爪。どれもが、彼という人間の「隙のなさ」を象徴しているように見えた。
この手を取らなければ、場の空気を壊すことになる。
だが、この手を取れば、自分はレギュラス・ブラックの隣という、想像すらしてこなかった場所に立つことになる。
断る、という選択肢は最初からなかった。
純血貴族の宴で、ブラック家の嫡男に向かって「結構です」と突き返せるほど、アランは無謀でも愚かでもない。礼儀も、父からの教育も、その手を押し返すことを許さなかった。
「踊りは、あまり得意ではないのです」
そう告げる声は、自分でも驚くほど静かだった。
拒絶ではない。けれど、期待に満ちた周囲の目から、ほんの少しだけ距離を置こうとする、ささやかな防御線。
レギュラスは、即座に微笑みを深くした。
「では、なおさら。僕がきちんとリードいたしますよ」
躊躇も間もなく返ってきた答えに、アランは胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
こちらの言葉に対する返答が、すでに彼の中でいくつも用意されているかのようだ。
数えきれないほどの手を引き、数えきれないほどの夜をこうして過ごしてきた者の、滑らかな受け答え。
どんな言い訳を口にしても、すぐに上書きしてしまうための、返答のリストが、彼の頭の中に整然と並んでいるのだろう。
逃げ場など、最初から与える気がないのだと悟る。
それでも、アランは礼儀作法に従い、ゆっくりと自分の手をその手に重ねた。
指先が触れ合った瞬間、わずかな温度が伝わってくる。
冷たくも熱くもない、落ち着いた体温。けれど、その落ち着きがかえって恐ろしく感じられる。
動揺しているのは自分だけで、彼はいつも通りの夜を過ごしているだけなのだと、嫌でも思い知らされるからだ。
レギュラスは、彼女の手を取ったまま、ゆったりとした歩調で舞踏の中心へと導いていった。
音楽はすでに切り替わり、新しい曲の旋律が広間を満たし始めている。
弦楽器の低く滑らかな音が床板を震わせ、天井のシャンデリアの水晶が、微かな振動に応じてきらきらと揺れた。
視線が、痛いほど刺さる。
二人が進むたび、会話の輪がさざ波のように割れ、そこに空白と沈黙と、好奇の眼差しが生まれていく。
「ブラック家の跡取りが、あのセシール家の令嬢と」と、言葉にならない囁きが空気をかすめていく気配があった。
レギュラスの手が、彼女の腰に添えられる。
もう一方の手に、アランは自分の指を預ける。
定められた位置、定められた距離。
しかし、その「決まりきった」所作のひとつひとつが、アランにはあまりにも非日常だった。
「力を抜いてください」
耳元に、静かな声が落ちる。
近くで聞くその声音は、遠くから見ていたときよりも柔らかかった。
「一曲分、立っていてくだされば、それで十分です」
慰めにも似た言葉に、アランは小さく息を吸う。
うまく笑えている自信はない。
ただ、これ以上緊張しているところを悟られまいと、表情だけは崩さないように意識した。
音楽が本格的に流れ出す。
レギュラスが一歩、彼女を導くように足を滑らせる。
アランも遅れないように、必死にその動きに食らいついた。
——うまく、動けているだろうか。
——つま先を踏んでしまわないだろうか。
そんな些細な不安が頭の中を埋め尽くし、胸はひどく忙しい。
心臓が高鳴る音が、自分の耳にもはっきり聞こえてきそうだった。
完璧な顔立ちが眼前にある。
少し視線を上げれば、灰色の瞳と真正面からぶつかってしまう距離。
アランはそれが怖くて、どうにか視線を逸らし続けようとした。
ネクタイの結び目。
白いシャツの襟元。
そこから覗く喉の線。
肩の幅、礼服の生地の艶。
目のやり場を探し続け、ようやくたどり着いたのが、そのあたりだった。
彼の顔を見上げさえしなければ、まだ呼吸を保っていられる気がする。
だが、視界の端にはどうしても、彼の微笑が映り込んでくる。
完璧に整えられた口元が、時折、柔らかく形を変えている。
頬の線も、まつ毛の影も、全てが舞踏会の照明に溶け込むような美しさを持っていた。
その「美しさ」そのものが、アランには恐ろしかった。
これほど完璧な男に見つめられて、心を乱されずにいられる人間がこの場にどれほどいるだろう。
多くの少女たちが、その瞳と、その笑みに流されていくのを、アランは幾度となく見てきた。
その一人に、自分も数えられてしまうことが、なによりも嫌だった。
レギュラスの手は、驚くほど安定していた。
少しでも彼女の足運びが乱れれば、さりげなく体重を支え、次のステップへと滑らかにつなげてくれる。
リードに迷いがない。
その迷いのなさが、これまで彼がどれほど多くのパートナーと踊ってきたかを雄弁に物語っていた。
「本当に、お上手ですよ」
レギュラスが柔らかく言った。
「苦手とおっしゃるわりには、とてもそうは見えません」
アランは、視線をネクタイから外さないまま、かすかに首を振る。
「……必死なだけです」
ようやく搾り出せた言葉に、彼は微かに息を笑いに変えた。
責めるでもからかうでもない、短い吐息。
しかしその気配すら、アランには自分の拙さを見透かされたようで息苦しかった。
「必死に付き合ってくださっているのなら、光栄です」
レギュラスの声は、低く穏やかに広間の喧騒に紛れていく。
「僕のわがままに巻き込んでしまったようですね」
その言葉に、アランの心は一瞬揺れた。
自覚しているのだ、この状況を。
ブラック家の嫡男として、彼女のような令嬢を指名して踊ることが、どれほど周囲の目を集めるかも。
それを承知のうえで、彼は自ら彼女の手を取った。
視線はなおも避け続けているのに、胸の内だけが彼に向けて引き寄せられていくような感覚があった。
抗おうとしているのに、抗い方がわからない。
周囲では、別の組も同じように踊っているはずだ。
だが、アランには誰の姿もほとんど見えなかった。
視界の端に映るのは、きらめくドレスの裾と、揺れるシャンデリア、そして眼前の礼服の黒。
音楽が大きく波打つ。
それに合わせて、レギュラスが彼女をそっと引き寄せた。
踏み違えないように加減をしたその動きで、身体と身体の距離がわずかに縮まる。
香りがした。
彼の衣服に染み込んだ、品のいい香水と、清潔な布の匂い。
どこか冷たい印象だったのに、近づいてみると、微かに温度を帯びた香りに感じられる。
ドキドキという単純な言葉では追いつかない鼓動が、胸の奥でひたすら暴れていた。
息を吸うたびに肺がきゅっと縮み、吐くたびに体温が一気に外へ漏れていくような心地がする。
このままでは、曲の終わりを待たずして、酸素が足りなくなって倒れてしまいそうだとさえ思った。
レギュラスは、その様子をどう見ているのだろう。
慣れた手つきで一曲を踊りきり、また別の夜を重ねるつもりなのだろうか。
それとも、ほんの少しは楽しんでいるのだろうか。
答えは分からない。
ただ、彼の灰色の瞳が、時折、アランの横顔を静かに観察するように眺めている気配だけが伝わってくる。
視線を上げさえすれば、それを確かめられる。
けれど、どうしてもそれができなかった。
視線を合わせてしまった瞬間、自分の心がどこへ流れていくのかが怖かった。
曲が終盤に差し掛かる。
弦の響きがゆるやかに降りていき、最後の旋律へと向かう気配が広間を包む。
レギュラスは、最後のステップに合わせて、彼女を丁寧に回転させた。
ふわりとドレスの裾が広がる。
黒髪が空気を切り、翡翠の瞳に天井の光が映る。
ほんの一瞬だけ、アランの視線がふっと上へ滑り、彼の顔とぶつかった。
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を見ていた。
そこには、からかいも、侮りもなかった。
静かで、揺らぎのない光が、ただ彼女だけを捉えている。
胸が跳ねる。
逃げ場を失った心臓が、一際大きく鳴ったように思えた。
音楽が終わりを告げる。
最後の一音が消えるのと同時に、レギュラスは彼女の手を離し、礼儀正しく一礼した。
「お相手、感謝いたします。セシール嬢」
アランは、わずかに遅れてスカートの裾をつまみ、丁寧に頭を下げる。
声を出そうとしても、喉がすぐには動かなかった。
なんとか絞り出した言葉は、かすかに震えていた。
「こちらこそ……お手柔らかに、ありがとうございました」
周囲から、さざ波のような拍手が起こる。
それが、彼らの一曲が、確かにこの夜の一幕として刻まれてしまったことを告げていた。
レギュラスの微笑みは、相変わらず完璧だった。
だが、アランの胸の中には、先ほどまでなかった種類のざわめきが、静かに居座りはじめている。
これはただの一曲。
ただ、それだけのはずなのに。
この夜の息苦しさと、彼のネクタイの結び目だけを見つめ続けた時間が、思いのほか鮮烈に、アランの心に焼き付いていく気配があった。
レギュラスは、彼女の指先から伝わる細かな震えにすぐに気づいた。
緊張でこわばった筋肉の動きが、手のひら越しにも伝わってくる。
舞踏会の中央、幾十もの視線が降り注ぐ輪の中で、アラン・セシールは完璧な淑女の姿を保ちながらも、その内側で必死に身を固めていた。
とんでもなくガチガチだ——と瞬時に理解しながら、それを「面倒だ」と切り捨てる発想は、レギュラスには一片も浮かばなかった。
むしろ、その壁をどうやって壊していくかを考える方が、よほど性に合っている。
彼女はひたすら顔を上げない。
視線は礼服の襟元やネクタイあたりに固定されたまま、灰色の瞳から巧妙に逃げ続けている。
与えられた問いには必要最低限だけ返し、微笑みも礼儀に支障のない程度に抑える。
会話も表情も、ぎりぎりの線で絞っているのが分かった。
——徹底しているな。
レギュラスは内心で感心すらしながら、その堅牢さを確かめるように、彼女を見つめた。
彼女があまりにも自分を見ないから、それをいいことに、こちらは遠慮なく視線を預ける。
見れば見るほど、美しかった。
黒髪は、舞踏の動きに合わせて柔らかく揺れ、翡翠の瞳は伏せられているのに、睫毛の影だけでその色の深さが想像できる。
薄く紅を差した唇は、固く結べば冷たく、緩めれば年相応のあどけなさを匂わせる。
何十、何百という女たちを見てきたが、この瞬間、過去の記憶に並ぶ顔は一つとして思い出せなかった。
多分、これまでに見てきたどんな女よりも——と、あっさり結論づける。
理屈よりも先に、そう思ってしまっていた。
ステップを踏みながらも、レギュラスは視線を逸らさない。
アランはそれに気づいていないはずがなかった。
気づいているからこそ、頑なに顔を上げないのだろう。
けれど、一曲の中に訪れるわずかな隙間——回転の終わり、バランスを取り直す一瞬。
抑えきれなかったのか、あるいは純粋な偶然か、翡翠の瞳がふっとこちらを捉える。
その瞬間だった。
どきり、と胸の内側を何かが打った。
驚いているのは、明らかに自分の方だった。
宝石のような翡翠。
噂よりも、想像よりもずっと澄んだその色が、真正面から自分を映し返してくる。
警戒と、戸惑いと、礼儀と——それでも消しきれない、年相応の幼さ。
その全てが混ざった視線に、レギュラスは一瞬、目を逸らせなくなった。
彼女は慌てたように視線を泳がせ、すぐにまたネクタイのあたりに逃がしてしまう。
しかし、その一瞬で十分だった。
胸の内に、先ほどまでよりもはっきりとした熱が生まれる。
これほど露骨に自分を見ない女は、そういない。
大半は、期待と興奮と憧れを込めた目を向けてくる。
彼の名前も家柄も、よくできた顔も、その全てに浮き足立ち、その勢いで自ら近づいてくる。
アラン・セシールは、その正反対だった。
徹底的に引こうとしている。
境界線を引き、そこから一歩も侵入させまいと、全身で抵抗している。
舞踏会の真ん中で、礼儀と形式に縛られながら、それでも自分の距離を守ろうとする頑なさ。
——面白い。
——壊したい。
欲望というよりも先に、そうした感情が形を成していく。
目の前の少女が築いた見えない壁を、ひとつひとつ打ち砕いていく過程そのものを、手に入れたいと思った。
曲が終わりに近づき、最後の回転を終える。
音楽が静かに余韻を残して止むと同時に、レギュラスは手を離し、礼儀正しく一礼した。
「お相手、感謝いたします。セシール嬢」
彼女もまた、スカートの裾をつまみ、完璧な角度で礼を返す。
声音は丁寧で、距離は一つも縮まっていない。
舞踏の最中、彼女が見せた崩れそうな表情は、跡形もなく整え直されていた。
そして、砕けることも、甘えることもなく、アランは礼を終えると、静かにその場を離れていった。
背筋を伸ばし、周囲の視線を当たり前のものとして受け止めながら。
その姿は、彼女自身が作り上げた装甲を、最後まで脱がなかったことの証だった。
レギュラスは、その背中を目で追った。
翡翠色の灯りが、遠ざかっていく。
胸の奥に残されたのは、ただの「気に入った」という言葉では足りない感覚だった。
溺れていくような、鈍い沈降の感覚。
彼女の境界線の向こう側へ、どうしても足を踏み入れたいという、粘つくような渇望。
「——絵になっていましたよ」
背後からかけられた声に、レギュラスは視線を戻した。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアが、グラスを軽く揺らしながら近づいてくる。
灰色とは別種の冷たい瞳が、愉快そうに細められていた。
「ブラック家の跡取りと、セシール家の令嬢。
並ぶと、ああも様になるとは。噂好きの連中が、今夜だけでどれだけ話を膨らませるか楽しみですね」
レギュラスは、唇の端に笑みを浮かべる。
先ほどまで胸を占めていた奇妙な熱を、その笑みに押し込めるように。
「気に入りました」
簡潔な一言だった。
「あの娘を」
バーテミウスは片眉を上げる。
「好みですね」と軽く言って済ませられる軽さではない響きに、彼もまた勘の良さを働かせていた。
「“気に入った”というには、少し目が真剣すぎるように見えましたが」
くすりと笑いながら、彼は続ける。
「珍しいですね、レギュラス。あなたがあそこまであからさまに視線を向けるのは」
レギュラスは、否定しなかった。
否定すればするほど、自分の中で膨らんでいるものを認めざるをえなくなるだけだとわかっていたからだ。
単純に可愛いから、ではない。
美しいから、でも足りない。
「手に入れたい」と思う感情も、いつものそれとはどこか質が違っていた。
徹底的に引こうとする境界線。
自分を拒むために張り巡らされた壁。
そこに「触れてはいけない」と言われるほど、触れたくなるのが人間の性だ。
その境界を、ぼろぼろに壊してやりたくなる。
彼女自身が何年もかけて築いたであろう頑丈な壁を、隙間なく崩して、そこに自分だけが入れる空間を作りたい。
彼女の世界の内側に足を踏み入れられる人間は、自分だけであるべきだという優越感に、静かに浸りたくなる。
あの美しい女を、自分の隣に置きたい。
ブラック家の嫡子が、セシール家の令嬢を選び取ったのだという事実も欲しい。
だがそれだけでなく——あの翡翠の瞳が、誰でもない自分だけを映す瞬間が欲しかった。
いつもは手に入れて終わりだ。
軽いゲームのようなもの。
けれど今夜は、それでは足りないと、本能のどこかが告げていた。
レギュラスはグラスを妖精に預けると、バーテミウスに視線を向けた。
「部屋をとりましょう、バーテミウス」
声音は落ち着いているが、その内側に潜む熱までは隠しきれていなかった。
「手配を」
バーテミウスは、ほんの一拍だけ目を細める。
冗談かどうかを測る短い間。
けれどすぐに、その唇が愉快そうに吊り上がった。
「本気ですね、レギュラス」
「もちろんです」
レギュラスは、静かに言った。
「今夜、僕はあの娘を逃すつもりはありません」
あの少女を、どうしてもこの夜のうちに自分のものにしたかった。
ガチガチに固めたようなガードを崩す瞬間。
彼女の翡翠の瞳から、警戒と緊張がほどけ、別の感情が滲むその顔を見てみたいと、強く思う。
頑なに閉ざされた表情が、どんなふうに揺らぎ、どんなふうに崩れるのか——その変化を、この手で引き出してみたかった。
レギュラスの灰色の瞳には、今も遠ざかっていった少女の背中が焼き付いていた。
灯りに照らされる黒髪、真っ直ぐな背筋。
あの輪郭が自分の隣にある未来を、あまりにも自然に想像している自分自身に気づき、彼は静かに息を吐く。
これは、いつもの遊びではない。
自覚した瞬間、胸の内の熱は、さらに静かに、深く沈んでいった。
純血の名家たちが集う夜会はいつものように、笑い声とグラスの触れ合う澄んだ音、弦楽器の柔らかな調べで満ちている。壁には先祖たちの肖像画が飽きもせず客人を見下ろし、空気の端々に、古い血統の誇りと倦怠が混ざり込んでいた。
レギュラス・ブラックは、そんな場の中心から少しだけ外れた位置に立ち、薄く笑みを浮かべていた。
完璧な礼服、よく整えられた黒髪、灰色の瞳。彼がそこにいるだけで、周囲の視線は自然と集まってくる。
視線を向けられることにも、囁かれ噂されることにも、とうの昔に慣れきっている。
今夜も、何人もの令嬢がちらちらと彼の方を盗み見ては、うちわ話に花を咲かせているのがわかった。
「レギュラス、今夜はどうする気です?」
隣で、バーテミウス・クラウチ・ジュニアが軽くグラスを傾けながら囁いた。
麗しい顔立ちに、皮肉めいた余裕の笑みを浮かべている。
彼もまた、育ちも家柄も申し分なく、ほとんどのものを手にしている男だった。レギュラスほどではないにしても——と、自分でも分かっていながらそれを冗談めかしているところが、いかにも彼らしい。
「どうする、とは?」
レギュラスは、緩やかに首を傾ける。
わかっていてとぼけるその表情に、バーテミウスは小さく笑った。
「とぼけないでくださいよ。毎度恒例の“遊び”の話です。
今夜はどの令嬢を選ぶおつもりで?」
レギュラスは、グラスの縁を指先でなぞりながら、わざとらしく小さく息を吐いた。
「……あまり気乗りはしないですけどね」
本音だった。
どの宴でも、最も美しい娘を見つけ出し、興味本位に口説き落とす。
そんなゲームのような戯れは、とっくの昔に目新しさを失っている。
相手は皆、同じように自分を見た。
ブラック家の跡取りとしての価値と、完璧すぎる外見に浮つく視線。憧れと打算と、少しの陶酔。
そこに彼自身を見ようとする目はほとんどない。
「贅沢なこと言いますね」
バーテミウスは肩をすくめる。
「それでも毎回、ちゃんと“勝って”いるじゃないですか、あなたは。
……ああ、でも今夜は、少し手ごたえのある相手がいいですか?」
「手ごたえ?」
レギュラスが気怠そうに問い返した瞬間、バーテミウスの視線がふと別の方向へと滑った。
そして、そのまま目を細める。
「あそこにいる、飛び抜けた美人の令嬢がいますけど?」
その指先が示す方へ、レギュラスは何気なく顔を向けた。
退屈を紛らわせる程度の興味で、ほんの少しだけ首を巡らせる——そのはずだった。
視界に飛び込んできた少女を目にした瞬間、その気のない動作はぴたりと止まる。
黒髪が、灯りを受けて静かに波打っていた。
柔らかなカールを帯びた長い髪が、白いうなじや肩のラインを引き立てる。
装いは他の令嬢たちと同じように華やかで、しかしどこか控えめで上品だった。
そして何より、顔を少し横に向けた拍子に、ふと見えた瞳の色。
——翡翠。
深い森の底を切り取って宝石にしたような、澄んだ翡翠色が、シャンデリアの光を受けて淡くきらめいた。
レギュラスは、不意に胸を掴まれたような感覚に襲われる。
ほんの一瞬、呼吸の出入りがわずかに乱れた。
少女——アラン・セシールは、周囲に取り囲む人々の方へ向けて、礼儀正しく微笑んでいた。
純血セシール家の一人娘。
古い家柄の者なら誰でも知っている名だ。
彼女の父の顔も、家の歴史も、レギュラスは当然のように把握している。
だが、こうして夜会の場で真正面から彼女を見るのは、意外にも初めてに近かった。
いや、もしかすると、視界には入っていたのかもしれない。
だが今までは、他の令嬢と同じ「背景」の一部として、特に意識を向けることもなく通り過ぎていたのだろう。
それが今、あたかも視界から彼女以外が消えたかのような感覚に、レギュラス自身がわずかに戸惑う。
「……確かに」
思わず漏れた声を、バーテミウスは聞き逃さなかった。
彼は唇の端を愉快そうに上げる。
「おや、急にやる気じゃないですか、レギュラス」
からかうような声音にも、レギュラスは否定の言葉を返せなかった。
否定するとすれば、自分の内側で何かが動いたことまで嘘にしなければならない気がして、それが妙に癪に障る。
「流石にあのクラスなら、声をかけないと。
むしろ失礼にあたりますね」
もっともらしい理屈をそれらしく口にしながら、自分でも何を言っているのか分からなかった。
ただ、その場を離れて彼女のもとへ足を向けたいという衝動だけが、やけに鮮明だった。
「訳のわからないことを言いますね」
バーテミウスは肩を揺らして笑う。
「いいでしょう、付き合いますよ。あなたが“落とす”気になったなら、今夜は見ものだ」
レギュラスは軽く笑みを深め、グラスを係の妖精に預けると、一歩、彼女の方へと歩き出した。
足取りはゆるやかで、優雅さを欠かない。
しかし胸の内では、珍しくわずかな高鳴りが生まれていた。
アラン・セシールは、群がる会話の輪の中で、穏やかな微笑を貼り付けていた。
差し出される言葉に丁寧に相槌を打ち、適切な話題を返し、必要とあらば柔らかく笑う。
完璧な淑女としての振る舞いは、長年の訓練でほとんど無意識の領域に達している。
けれど、胸の奥では、別の感情が冷たく沈んでいた。
この場に、彼がいる。
レギュラス・ブラック。
名を意識した瞬間、アランは自分でも気づかないほどわずかに視線を泳がせた。
直接その姿を探すことはしない。
だが、周囲の空気が教えてくれる。
人々の視線が一斉にある方角へ吸い寄せられては、ちらりちらりと戻ってくるのが肌でわかる。
雲の上のような存在。
金も地位も、家名も、権力も、顔の良ささえも、すべてを持った男。
彼の近くに行きたがる娘たちが、どれほど多いかも知っている。
彼に甘く囁かれ、陶然とした表情で舞踏会を終えていく同世代の少女たちを、何度も見てきた。
そのたびに、胸の内には言葉にしづらい嫌悪が生まれた。
彼女たちに対してではない。
レギュラス・ブラックという存在そのものに対して。
完璧すぎる人間は、どこまでいっても自分とは違う世界の住人に思えた。
近づけば飲み込まれてしまうような、冷たい星の光。
彼の腕の中で笑う娘たちの顔を思い浮かべるだけで、アランは、自分はああはなりたくないと強く思った。
だからこそ、視界に彼の姿が入らぬよう、無意識に距離を取っていた。
今夜も例外ではない。
彼がいる方角に背を向け、別の会話に集中しようと努めている。
「——セシール嬢」
耳に、穏やかながらよく通る声が届いた。
聞き慣れないはずなのに、名前を呼ばれた瞬間、誰の声か理解してしまう。
周囲の空気が一瞬で変わったからだ。
会話の輪の中の人々が一斉に口をつぐみ、誰かの方へ頭を下げる気配が背後で連なった。
アランはゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、噂通りの男だった。
黒髪は丁寧に撫でつけられ、その灰色の瞳は、思っていたよりもずっと静かで澄んでいる。
整いすぎた顔立ちが蝋人形のように冷たく見えるかと思いきや、微笑んだときの口元には、意外にも柔らかな温度が宿っていた。
レギュラス・ブラック。
アランは胸の内でその名をなぞりながら、自分の翡翠色の瞳が、決して媚びる色を帯びないようにと意識した。
彼女の視線は、ほんの少しだけ警戒を含んでいる。
無邪気に近づき、無防備に笑う少女たちとは違うという距離を、黙って示していた。
「はじめまして、セシール嬢」
レギュラスは深すぎず浅すぎない絶妙な角度で頭を下げる。
礼儀と親しみの間のわずかな境目を、正確に踏む仕草だった。
「レギュラス・ブラックと申します。
以前から、お名前は存じ上げていましたが……こうしてお話しする機会がなかったことを、今さらながら惜しく感じています」
どこまでも滑らかで、磨き上げられた言葉。
アランは心の中で小さく息を呑みつつも、その表情を崩さなかった。
「ご丁寧に。アラン・セシールです、ブラック様」
丁重な挨拶。
その声色には、敬意も礼儀もある。
けれど、彼に簡単には靡かないという意志も、確かに滲んでいた。
レギュラスは、その微かな棘を含んだ柔らかさに、むしろ惹かれている自分に気づく。
いつもなら、甘くとろけるような反応を予期し、その通りの答えを受け取ってきた。
だが、今、目の前にいる少女は違う。
——いい。
胸の奥で、くすぶっていた退屈が、音もなく形を変えた。
興味、という言葉では追いつかない、もっと鋭い何かに。
「もしよろしければ」
レギュラスは穏やかな笑みのまま、手を差し出した。
「この退屈な夜を、少しだけましなものにするお手伝いをさせていただけませんか?
たとえば——一曲、ご一緒に」
その言葉に、バーテミウスは少し離れた場所でグラスを口に運びながら、密かに目を細める。
いつもの“遊び”の入り口のようでいて、その声音にはどこか、これまでにはなかった熱が混ざっているのを感じ取っていた。
アランは、差し出された手を見つめた。
完璧な男の完璧な所作。
ここで断れば場の空気を乱す。
受け入れれば、自ら嵐の中心に足を踏み入れることになる。
翡翠の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
それでも、彼女はゆっくりとその手に自分の指先を重ねた。
その瞬間。
レギュラス・ブラックの胸のうちで、確かな確信が生まれていた。
——これは、いつものゲームとは違う。
自分が彼女を落としに行くつもりだったはずなのに。
もうすでに、目を奪われているのは自分の方だという事実を、まだ言葉にはできないまま、彼は静かに微笑んだ。
差し出された手を前にして、アランはほんの一瞬、時間が止まったような感覚に囚われた。
白く整った指先が、自分の方へ静かに差し出されている。節ばりすぎていない長い指、袖口から覗くカフス、完璧なまでに整えられた爪。どれもが、彼という人間の「隙のなさ」を象徴しているように見えた。
この手を取らなければ、場の空気を壊すことになる。
だが、この手を取れば、自分はレギュラス・ブラックの隣という、想像すらしてこなかった場所に立つことになる。
断る、という選択肢は最初からなかった。
純血貴族の宴で、ブラック家の嫡男に向かって「結構です」と突き返せるほど、アランは無謀でも愚かでもない。礼儀も、父からの教育も、その手を押し返すことを許さなかった。
「踊りは、あまり得意ではないのです」
そう告げる声は、自分でも驚くほど静かだった。
拒絶ではない。けれど、期待に満ちた周囲の目から、ほんの少しだけ距離を置こうとする、ささやかな防御線。
レギュラスは、即座に微笑みを深くした。
「では、なおさら。僕がきちんとリードいたしますよ」
躊躇も間もなく返ってきた答えに、アランは胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
こちらの言葉に対する返答が、すでに彼の中でいくつも用意されているかのようだ。
数えきれないほどの手を引き、数えきれないほどの夜をこうして過ごしてきた者の、滑らかな受け答え。
どんな言い訳を口にしても、すぐに上書きしてしまうための、返答のリストが、彼の頭の中に整然と並んでいるのだろう。
逃げ場など、最初から与える気がないのだと悟る。
それでも、アランは礼儀作法に従い、ゆっくりと自分の手をその手に重ねた。
指先が触れ合った瞬間、わずかな温度が伝わってくる。
冷たくも熱くもない、落ち着いた体温。けれど、その落ち着きがかえって恐ろしく感じられる。
動揺しているのは自分だけで、彼はいつも通りの夜を過ごしているだけなのだと、嫌でも思い知らされるからだ。
レギュラスは、彼女の手を取ったまま、ゆったりとした歩調で舞踏の中心へと導いていった。
音楽はすでに切り替わり、新しい曲の旋律が広間を満たし始めている。
弦楽器の低く滑らかな音が床板を震わせ、天井のシャンデリアの水晶が、微かな振動に応じてきらきらと揺れた。
視線が、痛いほど刺さる。
二人が進むたび、会話の輪がさざ波のように割れ、そこに空白と沈黙と、好奇の眼差しが生まれていく。
「ブラック家の跡取りが、あのセシール家の令嬢と」と、言葉にならない囁きが空気をかすめていく気配があった。
レギュラスの手が、彼女の腰に添えられる。
もう一方の手に、アランは自分の指を預ける。
定められた位置、定められた距離。
しかし、その「決まりきった」所作のひとつひとつが、アランにはあまりにも非日常だった。
「力を抜いてください」
耳元に、静かな声が落ちる。
近くで聞くその声音は、遠くから見ていたときよりも柔らかかった。
「一曲分、立っていてくだされば、それで十分です」
慰めにも似た言葉に、アランは小さく息を吸う。
うまく笑えている自信はない。
ただ、これ以上緊張しているところを悟られまいと、表情だけは崩さないように意識した。
音楽が本格的に流れ出す。
レギュラスが一歩、彼女を導くように足を滑らせる。
アランも遅れないように、必死にその動きに食らいついた。
——うまく、動けているだろうか。
——つま先を踏んでしまわないだろうか。
そんな些細な不安が頭の中を埋め尽くし、胸はひどく忙しい。
心臓が高鳴る音が、自分の耳にもはっきり聞こえてきそうだった。
完璧な顔立ちが眼前にある。
少し視線を上げれば、灰色の瞳と真正面からぶつかってしまう距離。
アランはそれが怖くて、どうにか視線を逸らし続けようとした。
ネクタイの結び目。
白いシャツの襟元。
そこから覗く喉の線。
肩の幅、礼服の生地の艶。
目のやり場を探し続け、ようやくたどり着いたのが、そのあたりだった。
彼の顔を見上げさえしなければ、まだ呼吸を保っていられる気がする。
だが、視界の端にはどうしても、彼の微笑が映り込んでくる。
完璧に整えられた口元が、時折、柔らかく形を変えている。
頬の線も、まつ毛の影も、全てが舞踏会の照明に溶け込むような美しさを持っていた。
その「美しさ」そのものが、アランには恐ろしかった。
これほど完璧な男に見つめられて、心を乱されずにいられる人間がこの場にどれほどいるだろう。
多くの少女たちが、その瞳と、その笑みに流されていくのを、アランは幾度となく見てきた。
その一人に、自分も数えられてしまうことが、なによりも嫌だった。
レギュラスの手は、驚くほど安定していた。
少しでも彼女の足運びが乱れれば、さりげなく体重を支え、次のステップへと滑らかにつなげてくれる。
リードに迷いがない。
その迷いのなさが、これまで彼がどれほど多くのパートナーと踊ってきたかを雄弁に物語っていた。
「本当に、お上手ですよ」
レギュラスが柔らかく言った。
「苦手とおっしゃるわりには、とてもそうは見えません」
アランは、視線をネクタイから外さないまま、かすかに首を振る。
「……必死なだけです」
ようやく搾り出せた言葉に、彼は微かに息を笑いに変えた。
責めるでもからかうでもない、短い吐息。
しかしその気配すら、アランには自分の拙さを見透かされたようで息苦しかった。
「必死に付き合ってくださっているのなら、光栄です」
レギュラスの声は、低く穏やかに広間の喧騒に紛れていく。
「僕のわがままに巻き込んでしまったようですね」
その言葉に、アランの心は一瞬揺れた。
自覚しているのだ、この状況を。
ブラック家の嫡男として、彼女のような令嬢を指名して踊ることが、どれほど周囲の目を集めるかも。
それを承知のうえで、彼は自ら彼女の手を取った。
視線はなおも避け続けているのに、胸の内だけが彼に向けて引き寄せられていくような感覚があった。
抗おうとしているのに、抗い方がわからない。
周囲では、別の組も同じように踊っているはずだ。
だが、アランには誰の姿もほとんど見えなかった。
視界の端に映るのは、きらめくドレスの裾と、揺れるシャンデリア、そして眼前の礼服の黒。
音楽が大きく波打つ。
それに合わせて、レギュラスが彼女をそっと引き寄せた。
踏み違えないように加減をしたその動きで、身体と身体の距離がわずかに縮まる。
香りがした。
彼の衣服に染み込んだ、品のいい香水と、清潔な布の匂い。
どこか冷たい印象だったのに、近づいてみると、微かに温度を帯びた香りに感じられる。
ドキドキという単純な言葉では追いつかない鼓動が、胸の奥でひたすら暴れていた。
息を吸うたびに肺がきゅっと縮み、吐くたびに体温が一気に外へ漏れていくような心地がする。
このままでは、曲の終わりを待たずして、酸素が足りなくなって倒れてしまいそうだとさえ思った。
レギュラスは、その様子をどう見ているのだろう。
慣れた手つきで一曲を踊りきり、また別の夜を重ねるつもりなのだろうか。
それとも、ほんの少しは楽しんでいるのだろうか。
答えは分からない。
ただ、彼の灰色の瞳が、時折、アランの横顔を静かに観察するように眺めている気配だけが伝わってくる。
視線を上げさえすれば、それを確かめられる。
けれど、どうしてもそれができなかった。
視線を合わせてしまった瞬間、自分の心がどこへ流れていくのかが怖かった。
曲が終盤に差し掛かる。
弦の響きがゆるやかに降りていき、最後の旋律へと向かう気配が広間を包む。
レギュラスは、最後のステップに合わせて、彼女を丁寧に回転させた。
ふわりとドレスの裾が広がる。
黒髪が空気を切り、翡翠の瞳に天井の光が映る。
ほんの一瞬だけ、アランの視線がふっと上へ滑り、彼の顔とぶつかった。
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を見ていた。
そこには、からかいも、侮りもなかった。
静かで、揺らぎのない光が、ただ彼女だけを捉えている。
胸が跳ねる。
逃げ場を失った心臓が、一際大きく鳴ったように思えた。
音楽が終わりを告げる。
最後の一音が消えるのと同時に、レギュラスは彼女の手を離し、礼儀正しく一礼した。
「お相手、感謝いたします。セシール嬢」
アランは、わずかに遅れてスカートの裾をつまみ、丁寧に頭を下げる。
声を出そうとしても、喉がすぐには動かなかった。
なんとか絞り出した言葉は、かすかに震えていた。
「こちらこそ……お手柔らかに、ありがとうございました」
周囲から、さざ波のような拍手が起こる。
それが、彼らの一曲が、確かにこの夜の一幕として刻まれてしまったことを告げていた。
レギュラスの微笑みは、相変わらず完璧だった。
だが、アランの胸の中には、先ほどまでなかった種類のざわめきが、静かに居座りはじめている。
これはただの一曲。
ただ、それだけのはずなのに。
この夜の息苦しさと、彼のネクタイの結び目だけを見つめ続けた時間が、思いのほか鮮烈に、アランの心に焼き付いていく気配があった。
レギュラスは、彼女の指先から伝わる細かな震えにすぐに気づいた。
緊張でこわばった筋肉の動きが、手のひら越しにも伝わってくる。
舞踏会の中央、幾十もの視線が降り注ぐ輪の中で、アラン・セシールは完璧な淑女の姿を保ちながらも、その内側で必死に身を固めていた。
とんでもなくガチガチだ——と瞬時に理解しながら、それを「面倒だ」と切り捨てる発想は、レギュラスには一片も浮かばなかった。
むしろ、その壁をどうやって壊していくかを考える方が、よほど性に合っている。
彼女はひたすら顔を上げない。
視線は礼服の襟元やネクタイあたりに固定されたまま、灰色の瞳から巧妙に逃げ続けている。
与えられた問いには必要最低限だけ返し、微笑みも礼儀に支障のない程度に抑える。
会話も表情も、ぎりぎりの線で絞っているのが分かった。
——徹底しているな。
レギュラスは内心で感心すらしながら、その堅牢さを確かめるように、彼女を見つめた。
彼女があまりにも自分を見ないから、それをいいことに、こちらは遠慮なく視線を預ける。
見れば見るほど、美しかった。
黒髪は、舞踏の動きに合わせて柔らかく揺れ、翡翠の瞳は伏せられているのに、睫毛の影だけでその色の深さが想像できる。
薄く紅を差した唇は、固く結べば冷たく、緩めれば年相応のあどけなさを匂わせる。
何十、何百という女たちを見てきたが、この瞬間、過去の記憶に並ぶ顔は一つとして思い出せなかった。
多分、これまでに見てきたどんな女よりも——と、あっさり結論づける。
理屈よりも先に、そう思ってしまっていた。
ステップを踏みながらも、レギュラスは視線を逸らさない。
アランはそれに気づいていないはずがなかった。
気づいているからこそ、頑なに顔を上げないのだろう。
けれど、一曲の中に訪れるわずかな隙間——回転の終わり、バランスを取り直す一瞬。
抑えきれなかったのか、あるいは純粋な偶然か、翡翠の瞳がふっとこちらを捉える。
その瞬間だった。
どきり、と胸の内側を何かが打った。
驚いているのは、明らかに自分の方だった。
宝石のような翡翠。
噂よりも、想像よりもずっと澄んだその色が、真正面から自分を映し返してくる。
警戒と、戸惑いと、礼儀と——それでも消しきれない、年相応の幼さ。
その全てが混ざった視線に、レギュラスは一瞬、目を逸らせなくなった。
彼女は慌てたように視線を泳がせ、すぐにまたネクタイのあたりに逃がしてしまう。
しかし、その一瞬で十分だった。
胸の内に、先ほどまでよりもはっきりとした熱が生まれる。
これほど露骨に自分を見ない女は、そういない。
大半は、期待と興奮と憧れを込めた目を向けてくる。
彼の名前も家柄も、よくできた顔も、その全てに浮き足立ち、その勢いで自ら近づいてくる。
アラン・セシールは、その正反対だった。
徹底的に引こうとしている。
境界線を引き、そこから一歩も侵入させまいと、全身で抵抗している。
舞踏会の真ん中で、礼儀と形式に縛られながら、それでも自分の距離を守ろうとする頑なさ。
——面白い。
——壊したい。
欲望というよりも先に、そうした感情が形を成していく。
目の前の少女が築いた見えない壁を、ひとつひとつ打ち砕いていく過程そのものを、手に入れたいと思った。
曲が終わりに近づき、最後の回転を終える。
音楽が静かに余韻を残して止むと同時に、レギュラスは手を離し、礼儀正しく一礼した。
「お相手、感謝いたします。セシール嬢」
彼女もまた、スカートの裾をつまみ、完璧な角度で礼を返す。
声音は丁寧で、距離は一つも縮まっていない。
舞踏の最中、彼女が見せた崩れそうな表情は、跡形もなく整え直されていた。
そして、砕けることも、甘えることもなく、アランは礼を終えると、静かにその場を離れていった。
背筋を伸ばし、周囲の視線を当たり前のものとして受け止めながら。
その姿は、彼女自身が作り上げた装甲を、最後まで脱がなかったことの証だった。
レギュラスは、その背中を目で追った。
翡翠色の灯りが、遠ざかっていく。
胸の奥に残されたのは、ただの「気に入った」という言葉では足りない感覚だった。
溺れていくような、鈍い沈降の感覚。
彼女の境界線の向こう側へ、どうしても足を踏み入れたいという、粘つくような渇望。
「——絵になっていましたよ」
背後からかけられた声に、レギュラスは視線を戻した。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアが、グラスを軽く揺らしながら近づいてくる。
灰色とは別種の冷たい瞳が、愉快そうに細められていた。
「ブラック家の跡取りと、セシール家の令嬢。
並ぶと、ああも様になるとは。噂好きの連中が、今夜だけでどれだけ話を膨らませるか楽しみですね」
レギュラスは、唇の端に笑みを浮かべる。
先ほどまで胸を占めていた奇妙な熱を、その笑みに押し込めるように。
「気に入りました」
簡潔な一言だった。
「あの娘を」
バーテミウスは片眉を上げる。
「好みですね」と軽く言って済ませられる軽さではない響きに、彼もまた勘の良さを働かせていた。
「“気に入った”というには、少し目が真剣すぎるように見えましたが」
くすりと笑いながら、彼は続ける。
「珍しいですね、レギュラス。あなたがあそこまであからさまに視線を向けるのは」
レギュラスは、否定しなかった。
否定すればするほど、自分の中で膨らんでいるものを認めざるをえなくなるだけだとわかっていたからだ。
単純に可愛いから、ではない。
美しいから、でも足りない。
「手に入れたい」と思う感情も、いつものそれとはどこか質が違っていた。
徹底的に引こうとする境界線。
自分を拒むために張り巡らされた壁。
そこに「触れてはいけない」と言われるほど、触れたくなるのが人間の性だ。
その境界を、ぼろぼろに壊してやりたくなる。
彼女自身が何年もかけて築いたであろう頑丈な壁を、隙間なく崩して、そこに自分だけが入れる空間を作りたい。
彼女の世界の内側に足を踏み入れられる人間は、自分だけであるべきだという優越感に、静かに浸りたくなる。
あの美しい女を、自分の隣に置きたい。
ブラック家の嫡子が、セシール家の令嬢を選び取ったのだという事実も欲しい。
だがそれだけでなく——あの翡翠の瞳が、誰でもない自分だけを映す瞬間が欲しかった。
いつもは手に入れて終わりだ。
軽いゲームのようなもの。
けれど今夜は、それでは足りないと、本能のどこかが告げていた。
レギュラスはグラスを妖精に預けると、バーテミウスに視線を向けた。
「部屋をとりましょう、バーテミウス」
声音は落ち着いているが、その内側に潜む熱までは隠しきれていなかった。
「手配を」
バーテミウスは、ほんの一拍だけ目を細める。
冗談かどうかを測る短い間。
けれどすぐに、その唇が愉快そうに吊り上がった。
「本気ですね、レギュラス」
「もちろんです」
レギュラスは、静かに言った。
「今夜、僕はあの娘を逃すつもりはありません」
あの少女を、どうしてもこの夜のうちに自分のものにしたかった。
ガチガチに固めたようなガードを崩す瞬間。
彼女の翡翠の瞳から、警戒と緊張がほどけ、別の感情が滲むその顔を見てみたいと、強く思う。
頑なに閉ざされた表情が、どんなふうに揺らぎ、どんなふうに崩れるのか——その変化を、この手で引き出してみたかった。
レギュラスの灰色の瞳には、今も遠ざかっていった少女の背中が焼き付いていた。
灯りに照らされる黒髪、真っ直ぐな背筋。
あの輪郭が自分の隣にある未来を、あまりにも自然に想像している自分自身に気づき、彼は静かに息を吐く。
これは、いつもの遊びではない。
自覚した瞬間、胸の内の熱は、さらに静かに、深く沈んでいった。
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