1章
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ヌルメンガード城――かつての大魔法使いグリンデルバルトが、長き幽閉の果てにその命を閉じた場所。
深い山霧の中にひっそりと佇むその城は、今もなお静寂と陰りに包まれていた。
古びた尖塔は霜に覆われ、崩れかけた石壁には冷たい風が笛のような音を鳴らして通り抜ける。
世界がまだこの死を知らぬうちに、証拠を消し去らねばならない。
ヴォルデモートの命であり、ルシウスが伝えた“証拠の改竄”――それはすなわち、闇の帝王の痕跡を歴史から抹消することを意味していた。
遅れれば、世界中の報道魔導網が動き出す。
魔法省も騎士団も、この死の真相を嗅ぎつけるだろう。
レギュラス・ブラックは急ぎ足で支度を整えた。
外套を羽織り、杖を懐に差し込み、冷たい息を吐く。
「アラン。すみません、ここにいてください。」
短く言い残す声に、アランは不安げな眼差しを向けた。
その翡翠の瞳が、揺れる炎のように切なげに揺れていた。
行かないで、と言いたげな沈黙。
だが今は、その声に応える余裕はなかった。
レギュラスは視線を逸らし、
「すぐに戻ります。」
とだけ言って姿を消した。
――オーストリア、ヌルメンガード。
現れた瞬間、彼の足元を冷気が切り裂いた。
辺りは灰色の霧に包まれ、夜明け前のような薄暗さが漂っている。
長年、外界から隔絶されてきたこの城は、時間さえも止まってしまったかのようだった。
廊下に並ぶ古い鎧たちは錆びつき、蜘蛛の巣をまといながら無言で立ち尽くしている。
レギュラスは杖に灯りをともす。
「ルーモス。」
淡い光が天井に反射し、長い影を床に落とした。
その奥、重厚な扉を押し開けると、
そこには――ひとりの男が静かに横たわっていた。
グリンデルバルト。
髪は雪のように白く、痩せこけた頬はすでに血の気を失っている。
かつて世界を震撼させた“闇の巨星”の面影は、今やただの老いた亡骸にすぎなかった。
窓から差すわずかな光が、彼の頬を照らす。
それは、哀れなまでに穏やかな顔だった。
だが――レギュラスには見える。
この部屋の中に漂う、ほのかな魔力の痕跡。
ヴォルデモートのものだ。
冷たく、残虐で、消えぬほどに濃密な痕。
「……残しすぎだ。」
レギュラスは小さく呟いた。
杖を構え、空気を震わせるように魔力を流す。
闇の帝王の残した力を、一つひとつ解体していく。
壁に染みついた呪詛の残滓を削ぎ落とし、床に散った魔力の粒子を消していく。
冷たい風が吹き抜けるたびに、魔力の痕跡が煙のように溶けて消えた。
そして――最後に残ったのは、老人の体。
ヴォルデモートが放った“死の呪文”の痕跡が、まだそこに微かに残っていた。
レギュラスは、唇を固く結ぶ。
「……すみません。」
呟くと、ゆっくりと杖を構えた。
今回、彼が選んだのは直接的な殺戮の言霊ではなかった。
古き禁術書に記された《終焉の和音(Thanis Consonanceテレウス・コンソナンス)》──
それは死の印を無力化し、外形を自然死へと塗り替えるためのこちら側の「上書き」詠唱だ。
低く、規則正しい音節で詠う。
舌先で紡がれるその言葉に、空間が振動した。
杖先からは柔らかな銀灰の波紋が広がり、老人のからだを優しく包み込む。
波紋は死の痕を探り当てると、その輪郭をなぞるように優しく溶かし、周囲へと拡散していく。
痕跡は引きちぎられるのではなく、まるで古い絵具が洗い流されるかのように、自然な色合いへと変わっていった。
その作用は残酷さを伴わない。むしろ慈悲に似ていた。
死の矛印は拭い去られ、代わりに老衰や病がゆっくりと訪れたかのような「痕跡」が残る。
目に見えぬ手が古びた傷跡に絆を掛け直し、呪詛の痕跡を柔らかな灰色の曖昧さに染め替えていった。
終詠が解ける瞬間、老人の表情にわずかな安らぎが宿るように見えた。
外から見れば、ただ静かに息を引き取った老魔法使いの最期――それだけのことに収まるだろう。
レギュラスは静かに目を閉じ、息を整える。
部屋の空気は、ようやく完全な静寂を取り戻した。
もう、どこにもヴォルデモートの痕跡は残っていない。
外に出ると、雪が降り始めていた。
ヌルメンガードの塔を包み込むように、白い結晶が舞う。
その中でレギュラスは空を仰ぎ、ひとつ息を吐いた。
――世界が、この死を知る前に。
この闇が、誰の記憶にも残らぬうちに。
レギュラスは、再び姿を消した。
アランの待つ場所へと、光と影の狭間を抜けるように。
執務室に戻った時、外はすでに深い夜の帳に包まれていた。
窓の向こうでは街灯が点々と灯り、魔法省の高い塔がぼんやりと闇に溶けている。
部屋の中は暖炉の火が小さく揺らぎ、書類の山が橙の光を受けて静かに影を落としていた。
「……すみません、アラン。待たせましたね。」
扉を開けたレギュラスの声は低く、疲労の色を帯びていた。
アランはソファに掛けたまま、うとうとと本を膝に乗せていた。
その声を聞くと同時に、はっと顔を上げる。
眠りの名残を払うように瞬きをし、彼の姿を確かめると、反射的に立ち上がった。
そして――思わず両手を広げて駆け寄る。
抱きついた瞬間、レギュラスのローブの冷たさが肌に染みた。
外気の匂い――湿った石畳と夜風の匂いが強く漂ってくる。
「……すみません、アラン。」
その声には、幾重にも重なった疲労と、何かを抱え込むような重さがあった。
昼間にルシウス・マルフォイが訪れ、あの無理難題を彼に押し付けていった。
その片付けに行っていたのだと、アランはすぐに悟った。
彼の顔には、わずかに張り詰めた神経の残滓と、燃え尽きたような静けさが入り混じっている。
――彼はきっと、何かを“消してきた”のだ。
人の死の証を、闇の帝王の痕跡を、ひとつ残らず。
法務部の複雑な法体系を知らずとも、それが罪に等しい行為であることはアランにも分かった。
けれど、彼はそれを命令だからではなく、“理想”のためにやったのだと信じたかった。
誰かに命じられてではなく、自らの信念の延長に、その選択があったのだと。
だが――胸の奥のどこかがざわめく。
本当に、彼の選んだ道は正しいのだろうか?
“正しさ”とは、誰が決めるのだろう。
血の誇りか、法律か、それとも彼自身の心か。
わからなかった。
けれど、アランは迷いながらも、彼を抱く腕を強くした。
レギュラスの心音が聞こえる。
冷たい外気に晒された体の奥で、確かな鼓動が規則正しく響いていた。
それだけが真実のように思えた。
理想も罪も、正義も闇も――すべては遠く曖昧で、
この瞬間、抱きしめられる温もりだけが、たしかに“現実”として存在していた。
レギュラスは静かにアランの頭に手を置いた。
「……ありがとう。」
小さく、それだけを告げる。
彼の声は掠れていた。
けれど、アランにはその一言にすべての思いが込められている気がした。
疲れ、迷い、そして、ほんの少しの安堵。
アランは何も言わなかった。
言葉の代わりに、彼の胸元に顔を埋めた。
そのぬくもりを、信じるように。
この人が戻ってきてくれた――ただその事実を、胸の奥で静かに抱きしめながら。
夜の帳が静かに屋敷を包み込むころ、レギュラスはアランをそっと書斎へと呼び寄せた。
暖炉の火は深く沈み、部屋には微かなオレンジの明かりと紙の香りが漂っている。
古い魔法書が整然と並ぶ棚の隙間から、月明かりがわずかに差し込み、二人の影を柔らかく重ねていた。
アランが戸口に現れた瞬間、レギュラスは静かに立ち上がり、彼女の細い手を取って導いた。
「アラン……」
その声は囁きのように優しく、けれどどこか決意を帯びていた。
抱き寄せた体は、驚くほど軽く温かい。
アランは胸に顔を埋め、わずかに息を詰めたように肩を震わせる。
「お願いがあります」
レギュラスの言葉に、アランはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、炎の揺らぎを映して煌めいている。
彼は静かに片方の手を差し出し、開いた掌をアランに見せた。
「よく見ていてください」
細く長い指が一度、握られる。
そして再びその手が開かれた瞬間――
ふわりと、ひとひらの光が生まれた。
それは瞬く間に姿を変え、掌の上に小さな紅いバラの花を咲かせた。
淡い魔力のきらめきが空気を満たし、
アランの頬に光の粒が零れ落ちては消えていく。
アランは息を呑み、まるで声を上げそうなほどに目を見開いた。
驚きと喜びが一度に溢れ、唇が小さく震える。
彼女は両手でそっとその花を受け取ると、
まるで壊れ物を扱うように慎重に指先で花びらをなぞった。
満面の笑みで見上げてくるその表情が――あまりにも愛らしかった。
レギュラスの胸の奥で、何かが温かく弾けた。
彼は静かにその肩を抱き寄せ、低く囁く。
「ブラック家の名を、共に継いでくれませんか?」
言葉は穏やかでありながら、芯のある確信を含んでいた。
それは形式的な結びではなく、心そのものの求婚だった。
権威も家のしがらみも関係ない。
ただ一人の女を、生涯の伴侶として選ぶという、揺るぎない宣言だった。
アランは一瞬、呼吸を止めたように固まる。
胸の奥が震え、指先が花を握り締める。
まるで、何かを確かめるように。
彼女の中で、記憶と現実とが入り混じり、時間が止まったようだった。
その不安げに揺れる瞳を見つめ、レギュラスはそっと彼女の頬に手を添えた。
指先で涙を拭うように優しく撫で、唇を重ねる。
「不安はいりません」
唇が離れると同時に、彼の声が穏やかに続いた。
「僕があなたを幸せにしてみせます。
あなたがまだ見たことのない世界を、今よりもたくさん見せてあげます。」
その言葉はまるで誓いの呪文のようだった。
暖炉の火がぱちりと弾け、空気の中に金色の火花が舞う。
アランの瞳に涙が滲んだ。
それは悲しみではなく、心の奥からこぼれた光そのもの。
宝石のように煌めく涙が頬を伝い、バラの花びらに落ちると、
花は淡い光を放って溶けていった。
レギュラスはその光景を、ただ静かに見つめていた。
彼女の涙が、確かに自分の言葉に触れた証のように感じられて――
その瞬間、世界のすべてがひとつの鼓動に溶け合っていくようだった。
書斎には、夜の静寂が満ちていた。
古い時計がゆっくりと時を刻み、暖炉の火がやわらかに揺れる。
壁一面に並ぶ魔法書の背表紙が、金の箔押しで淡く光を返している。
そんな穏やかな光の中で、アランはレギュラスの正面に立っていた。
彼の掌から生まれた一輪の薔薇が、今もかすかな魔力を帯びて、アランの指先で淡く輝いている。
花弁はまるで月の滴を含んでいるかのように瑞々しく、触れるたびに小さな光が脈打った。
魔法の花。けれど、それ以上に“想い”の形をしていた。
レギュラスが告げた言葉――
「ブラック家の名を、共に継いでくれませんか」
その響きは、書斎の空気を震わせた。
ブラック家。
魔法界でも最も古く、最も気高い血を持つ純血貴族。
その名を継ぐということが、どれほどの責任と覚悟を意味するのか。
アランにはまだ分からなかった。
けれど、彼の差し出した手から伝わる温もりが、すべてを語っていた。
その掌は、闇の中で差し伸べられた唯一の光のように、あたたかく、確かだった。
――この手を離したら、もう二度と生きていけない。
そう思った。
レギュラスの瞳は、静かに、真っ直ぐにアランを見つめている。
その奥には、計算も、義務も、誇りもなく、ただひとつの“愛”だけが宿っていた。
「僕が、あなたを幸せにします。」
その声は魔法だった。
言葉ではなく、音そのものが心の奥に染み渡る。
胸の奥に長く絡みついていた鎖が、少しずつほどけていくような感覚。
彼にしか届かない場所まで、深く、柔らかく光が届く。
アランは、何も言えなかった。
彼の見ている世界を、自分はまだ知らない。
彼の信じる理想も、その思想の根も。
知りたいと思う気持ちと、知るのが怖いという気持ちが、せめぎ合っていた。
けれど――今だけは、迷いたくなかった。
この瞬間にだけは、純粋でありたかった。
差し出された薔薇の花を見つめる。
赤く染まった花弁の先が、微かな魔力で光を放っている。
それが“誓い”の象徴だと、本能で分かった。
ゆっくりと、アランは頷いた。
言葉はいらなかった。
ただ静かに、彼の想いを受け取る。
レギュラスは一瞬だけ息を詰め、
そして微笑んだ。
その微笑みは、今まで見たどんな表情よりも柔らかく、幸福に満ちていた。
アランは花を両手で包み込み、そっと胸の前に掲げる。
――その瞬間、指先にかすかな痛みが走った。
茎に隠れていた小さな棘が、肌を掠めたのだ。
ほんの小さな傷だった。
けれど、その痛みは、未来への印のように感じられた。
たとえこの先に、痛みや試練が待ち受けていようとも、
それでもこの愛は、自分の血の中に刻まれてゆくのだと。
棘の先から滲む赤が、まるで薔薇とひとつになるように輝く。
アランは痛みを隠すように微笑んだ。
それは、決意の笑みだった。
――たとえ花に棘があろうとも、
この愛の手を離すことは、もうできなかった。
魔法省の昼下がりは、どこか湿ったような静けさに包まれていた。
窓の外では、淡い灰色の雲が流れ、空を横切るふくろうの影が遠くに霞んで見える。
レギュラスの執務室には、整然と並べられた書類と、インクの匂いがまだ残っていた。
アランはその机の脇に座り、本をめくっていた。
彼の残していった羽ペンの先に乾きかけたインクがついている。
朝から出廷のために出ていったレギュラスの姿を思い出す。
黒いローブの裾が揺れ、冷たい金の留め具が光っていた。
その背中を見送る時、アランは小さく胸の奥でため息をついた。
寂しさはあった。
けれど、不思議と不満ではなかった。
――彼は、自分を妻にすると言ってくれた。
まだ正式ではなくとも、それは未来を誓う言葉。
そのひとつがあれば、待つ時間でさえ、どこか甘やかに感じられた。
とん、と扉がノックされる。
一瞬、心臓が跳ねた。
まさか、もう戻ってきたのかと。
けれど扉の向こうから現れたのは、レギュラスではなかった。
「よぉ、レギュラスは留守だろ?」
低く、少しざらついた声。
その声の主は――シリウス・ブラック。
黒いローブの襟を少し乱して、無造作に手をポケットに突っ込んだまま立っている。
彼の纏う空気は、レギュラスとは対極にあった。
同じ血を分けた兄弟のはずなのに、まるで別世界の人のようだった。
アランは杖を振り、空に文字を描く。
《こんにちは、シリウス》
シリウスの口角がわずかに上がる。
「アラン、だったな。……ちょっと出れるか?」
出れるか――その言葉が胸の奥で反響する。
レギュラス以外の誰かに「外へ出よう」と誘われることなど、想像もしていなかった。
指先がわずかに震える。
「大丈夫だ。あいつは魔法法廷だ。裁判が終わるのは早くても二時間後だ」
灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見下ろす。
その言葉に嘘はなかった。
でも、どこかで小さな罪悪感が胸を締めつけた。
――彼に知られず外へ出ること。
それは、ほんの一瞬でも“裏切り”のように思えてしまった。
それでも、アランは静かに頷いた。
シリウスの背中を追って、長い廊下を歩く。
レギュラスとは違う。
彼の兄は歩くたびに、床板を確かに踏み鳴らす。
躊躇いのない足取り。
レギュラスのような整った所作ではなく、もっと荒削りで、野性的な力強さがあった。
彼の背中は広かった。
黒のローブが風をはらみ、肩のラインが逞しく見えた。
――兄弟。
同じ家に生まれたはずなのに、こんなにも違う。
レギュラスの背は真っすぐで、いつもわずかに冷たい空気を纏っている。
その一方で、シリウスの背中には熱があった。
夏の太陽に焼かれたような、強く、粗い熱。
髪もレギュラスより硬く、日差しを受けて鈍く光る。
二人の間に流れる空気は、血縁の温度よりも、思想の冷たさの方が勝っている――
そんな気がした。
階段を下りながら、シリウスが振り返る。
「何か食いたいもん、あるか?」
アランは驚いて首を横に振る。
すると、シリウスは片眉を上げ、ふっと笑った。
「じゃあ、適当に選ぶか。」
レギュラスと一緒に出かけた時、彼はいつも「アランの好きなものを」と言ってくれた。
彼女が迷えば、時間をかけてでも選ばせてくれた。
けれど――シリウスは違った。
まるで風のように先を行き、決める。
逡巡も、遠慮もない。
それが奇妙に心地よかった。
兄弟であまりにも違いすぎて、同じ家の血を分けているのが信じられないほどだった。
けれどその違いこそが、なぜだか微笑ましく思えた。
アランは歩きながら、ふと感じた。
彼らはきっと、同じ星から生まれたのに、まったく別の軌道を歩いている――と。
けれど、その二つの軌道のどこかに、自分の居場所があるのなら。
それが今は、ただ嬉しかった。
木のテーブルに、湯気を立てる皿がいくつも並べられていた。
肉の焼ける香ばしい匂いと、スープに溶けたハーブの香りが混じり合って、アランの鼻先をくすぐる。
シリウスが腕まくりをして、豪快に料理を並べていく様子は、まるで宴の支度のようだった。
「好きなの食べろ。」
ぶっきらぼうに言いながらも、どこか優しさの滲む声。
レギュラスが見せる“丁寧な所作”とはまるで違う。
シリウスは自由そのもののような男だった。
「うまいぞ、これも食ってみろ。」
差し出されたフォークの先には、香ばしく焼けた肉の切れ端。
アランは少し戸惑いながらも、それを口に運ぶ。
ジュッと弾けた肉汁が舌に広がる。
思わず頬が緩んだ。
「他にも食いたいもんねぇか?」
灰色の瞳が笑う。
アランは首を振って、笑顔で“十分です”と杖を振って空に文字を描く。
シリウスは腹を抱えて笑った。
「ほんとに遠慮がねぇな、レギュラスのやつとは大違いだ。」
確かに、兄弟でここまで違うのかと思うほどに。
レギュラスはどんな食事でも整然と、静かに、優雅に。
けれどシリウスは、遠慮なく、皿を回し、笑い、自由に食べる。
その違いがなぜだかおかしくて、アランの唇の端がふわりと上がった。
そんな柔らかな空気の中で、シリウスはふと真顔になる。
「すまねぇ。今日は色々、お前に聞きたくてな。」
アランは杖を手に取り、《何でもどうぞ》と空中に書く。
文字が淡い銀光を帯びて浮かび上がる。
「セシール家の末裔なのか?」
その言葉に、アランの手がわずかに止まる。
――やはり、この男は核心に迫ってきた。
逃げることも、隠すこともできない。
アランはゆっくりと頷いた。
「レギュラスに言われて、従ってるのか?」
今度は首を振る。
彼に命じられたことなど一度もない。
あの人は常に、自分の意志で選ばせてくれた。
それは自由であり、救いだった。
シリウスはその様子をじっと見つめていた。
彼の灰色の瞳が、どこか探るように細められる。
「じゃあ……お前は今、ヴォルデモートの“何か”を封印してるのか?」
その名が発せられた瞬間、アランの全身が硬直した。
――闇の帝王。
あの声、あの冷たい瞳、蛇のような息づかい。
頭の奥で、記憶が一気に蘇る。
“封印を施せ。さもなくば、この身を呪い尽くしてやろう。”
あの時の声が、耳の奥で何度も反響した。
鎖の音、焼けつく痛み、皮膚を裂くような冷たい魔力。
血が滴り、恐怖に震えながら、それでも力を解放するしかなかった。
何を封じたのかも知らない。ただ、命じられるままに、封印を――。
指先がかすかに震えた。
杖を持つ手が冷たくなり、息が詰まる。
「……すまねぇ。聞きにくいことを聞いたみたいだな。」
シリウスの声が少し低くなる。
先ほどまでの陽気さが消え、代わりに深い憐憫の色が滲んでいた。
アランは首を振った。
“だいじょうぶ”――そう伝えたかったが、うまく動かない喉が、ただ静かに息を漏らすだけだった。
外の風が窓を揺らす。
店の外から笑い声が聞こえるのに、このテーブルだけが別の世界のように静まり返っていた。
アランの胸の奥では、封印の時に感じたあの魔力の残滓が、まだ微かに疼いていた。
過去は決して消えない。
それでも――今は、その過去を見透かしてもなお優しく向き合おうとする男が、目の前にいる。
そう思うと、ほんの少しだけ、救われる気がした。
テーブルの上には、まだ湯気の立つ皿が並んでいた。
けれど、先ほどまで漂っていた賑やかな空気は、どこか遠くに消えていた。
シリウスは肘をつき、向かいに座るアランをじっと見つめていた。
女は話せない代わりに、よく笑う。
声を発せられないという事実が、どれほど彼女の心を締めつけているのか、想像もできない。
それでも――笑う。
問いかけに困ったときも、気まずい沈黙が訪れたときも、アランはいつだって微笑んでいた。
その笑みが、まるで痛みを包み隠す薄いベールのように見えて、胸が締めつけられる。
翡翠の瞳が光を受けて、柔らかくきらめいていた。
その美しさは、まるで静かな湖面のようで、覗き込めば自分が映ってしまいそうだった。
――この女は、こんな世界にいるべきじゃない。
無意識のうちに、そう思ってしまう。
「お前、ほんとに……レギュラスなんかの隣にいるには、勿体ねぇよ。」
口にしてから、余計なことを言ったと気づく。
アランは目を瞬かせ、戸惑ったように笑った。
それがまた、ひどく愛らしくて、どうしようもなく心を掴まれる。
いくつか聞きたいことがあった。
だが、気づけば矢継ぎ早に言葉をぶつけてしまっていた。
尋問のような口調になっていたことを、今さらながら後悔する。
アランは困ったように首を傾げ、ゆっくりと首を横に振った。
笑みを浮かべながらも、その目が少しだけ悲しげだった。
「……ちげぇんだ。」
シリウスは思わず声を荒げ、それからすぐに息を吐いた。
「別に、尋問したいわけでも、問い詰めたいわけでもねぇ。ただ……お前のことが、知りたかっただけだ。」
自分で言って、自分の言葉が嘘くさいことに気づく。
“知りたい”の裏には、明確な目的があった。
この女が闇の魔法使い側の人間なのか――それとも、こちら側に救うべき魂なのか。
確かめずにはいられなかった。
アランは静かに杖を取り、空中に文字を描いた。
《大丈夫です。闇の帝王と呼ばれる男のことは、長い間捉えられていましたが……数回しか会っていません。》
銀色の文字が、空気の中でゆらめいて光る。
シリウスは息を呑む。
「そうか……じゃあ、何をさせられていたんだ?」
《セシール家の封印の魔術を施せと、何度か言われました。でも……自分が何に施したのかは、わかりません。》
杖を握る彼女の手がわずかに震えていた。
その仕草だけで、どれほどの恐怖を刻みつけられてきたのかがわかる。
シリウスは唇を噛みしめ、手の中のグラスを強く握った。
やはり、そうか。
あの男――ヴォルデモートは、永遠を保つために彼女を利用したのだ。
セシール家の血に宿る封印の力を、呪いの一部に組み込むために。
彼女は“要塞”として、あの闇の中に閉じ込められたのだ。
何も知らぬまま、恐怖に怯えながら、命じられるままに魔法を使わされる。
どれほどの夜を泣きながら過ごしたのだろう。
どれほどの絶望を、胸に抱えて生き延びたのだろう。
シリウスの胸に、怒りが込み上げた。
ヴォルデモートへの怒り。
そして、レギュラスへの怒り。
“またお前か、レギュラス。”
兄としての感情よりも、憎しみが先に立つ。
あの男はきっと、この女の力を知っている。
そしてその血を、自らの血と混ぜ合わせるつもりなのだ。
純血の名のもとに。
栄光と権力を保つために。
――それは、もはや愛ではない。
アランの柔らかな微笑みを見るたびに、胸が痛む。
彼女はあの男を信じている。
救いだと思っている。
だが、それが錯覚であることを、シリウスは知っていた。
「レギュラスのそばにいちゃ、ダメだ。」
言葉が口をついて出た。
「……あいつは、闇に浸かりすぎてる。」
アランは静かに目を伏せた。
その肩が、かすかに震えている。
否定も肯定もせず、ただ悲しげな笑みを浮かべた。
翡翠の瞳が光を受けて揺れる――まるで、泣き出す寸前のように。
その姿を見て、シリウスは胸の奥を掴まれた。
この女を、守りたい。
レギュラスの掌から、あの闇の中から。
どんな手を使ってでも、救い出してやりたい。
けれど、アランの微笑みが語っていた。
――自分は、もう彼を信じている。
光の中ではなく、闇の中にいる男を。
それでも、愛している。
その想いを壊すことだけは、誰にもできなかった。
深い山霧の中にひっそりと佇むその城は、今もなお静寂と陰りに包まれていた。
古びた尖塔は霜に覆われ、崩れかけた石壁には冷たい風が笛のような音を鳴らして通り抜ける。
世界がまだこの死を知らぬうちに、証拠を消し去らねばならない。
ヴォルデモートの命であり、ルシウスが伝えた“証拠の改竄”――それはすなわち、闇の帝王の痕跡を歴史から抹消することを意味していた。
遅れれば、世界中の報道魔導網が動き出す。
魔法省も騎士団も、この死の真相を嗅ぎつけるだろう。
レギュラス・ブラックは急ぎ足で支度を整えた。
外套を羽織り、杖を懐に差し込み、冷たい息を吐く。
「アラン。すみません、ここにいてください。」
短く言い残す声に、アランは不安げな眼差しを向けた。
その翡翠の瞳が、揺れる炎のように切なげに揺れていた。
行かないで、と言いたげな沈黙。
だが今は、その声に応える余裕はなかった。
レギュラスは視線を逸らし、
「すぐに戻ります。」
とだけ言って姿を消した。
――オーストリア、ヌルメンガード。
現れた瞬間、彼の足元を冷気が切り裂いた。
辺りは灰色の霧に包まれ、夜明け前のような薄暗さが漂っている。
長年、外界から隔絶されてきたこの城は、時間さえも止まってしまったかのようだった。
廊下に並ぶ古い鎧たちは錆びつき、蜘蛛の巣をまといながら無言で立ち尽くしている。
レギュラスは杖に灯りをともす。
「ルーモス。」
淡い光が天井に反射し、長い影を床に落とした。
その奥、重厚な扉を押し開けると、
そこには――ひとりの男が静かに横たわっていた。
グリンデルバルト。
髪は雪のように白く、痩せこけた頬はすでに血の気を失っている。
かつて世界を震撼させた“闇の巨星”の面影は、今やただの老いた亡骸にすぎなかった。
窓から差すわずかな光が、彼の頬を照らす。
それは、哀れなまでに穏やかな顔だった。
だが――レギュラスには見える。
この部屋の中に漂う、ほのかな魔力の痕跡。
ヴォルデモートのものだ。
冷たく、残虐で、消えぬほどに濃密な痕。
「……残しすぎだ。」
レギュラスは小さく呟いた。
杖を構え、空気を震わせるように魔力を流す。
闇の帝王の残した力を、一つひとつ解体していく。
壁に染みついた呪詛の残滓を削ぎ落とし、床に散った魔力の粒子を消していく。
冷たい風が吹き抜けるたびに、魔力の痕跡が煙のように溶けて消えた。
そして――最後に残ったのは、老人の体。
ヴォルデモートが放った“死の呪文”の痕跡が、まだそこに微かに残っていた。
レギュラスは、唇を固く結ぶ。
「……すみません。」
呟くと、ゆっくりと杖を構えた。
今回、彼が選んだのは直接的な殺戮の言霊ではなかった。
古き禁術書に記された《終焉の和音(Thanis Consonanceテレウス・コンソナンス)》──
それは死の印を無力化し、外形を自然死へと塗り替えるためのこちら側の「上書き」詠唱だ。
低く、規則正しい音節で詠う。
舌先で紡がれるその言葉に、空間が振動した。
杖先からは柔らかな銀灰の波紋が広がり、老人のからだを優しく包み込む。
波紋は死の痕を探り当てると、その輪郭をなぞるように優しく溶かし、周囲へと拡散していく。
痕跡は引きちぎられるのではなく、まるで古い絵具が洗い流されるかのように、自然な色合いへと変わっていった。
その作用は残酷さを伴わない。むしろ慈悲に似ていた。
死の矛印は拭い去られ、代わりに老衰や病がゆっくりと訪れたかのような「痕跡」が残る。
目に見えぬ手が古びた傷跡に絆を掛け直し、呪詛の痕跡を柔らかな灰色の曖昧さに染め替えていった。
終詠が解ける瞬間、老人の表情にわずかな安らぎが宿るように見えた。
外から見れば、ただ静かに息を引き取った老魔法使いの最期――それだけのことに収まるだろう。
レギュラスは静かに目を閉じ、息を整える。
部屋の空気は、ようやく完全な静寂を取り戻した。
もう、どこにもヴォルデモートの痕跡は残っていない。
外に出ると、雪が降り始めていた。
ヌルメンガードの塔を包み込むように、白い結晶が舞う。
その中でレギュラスは空を仰ぎ、ひとつ息を吐いた。
――世界が、この死を知る前に。
この闇が、誰の記憶にも残らぬうちに。
レギュラスは、再び姿を消した。
アランの待つ場所へと、光と影の狭間を抜けるように。
執務室に戻った時、外はすでに深い夜の帳に包まれていた。
窓の向こうでは街灯が点々と灯り、魔法省の高い塔がぼんやりと闇に溶けている。
部屋の中は暖炉の火が小さく揺らぎ、書類の山が橙の光を受けて静かに影を落としていた。
「……すみません、アラン。待たせましたね。」
扉を開けたレギュラスの声は低く、疲労の色を帯びていた。
アランはソファに掛けたまま、うとうとと本を膝に乗せていた。
その声を聞くと同時に、はっと顔を上げる。
眠りの名残を払うように瞬きをし、彼の姿を確かめると、反射的に立ち上がった。
そして――思わず両手を広げて駆け寄る。
抱きついた瞬間、レギュラスのローブの冷たさが肌に染みた。
外気の匂い――湿った石畳と夜風の匂いが強く漂ってくる。
「……すみません、アラン。」
その声には、幾重にも重なった疲労と、何かを抱え込むような重さがあった。
昼間にルシウス・マルフォイが訪れ、あの無理難題を彼に押し付けていった。
その片付けに行っていたのだと、アランはすぐに悟った。
彼の顔には、わずかに張り詰めた神経の残滓と、燃え尽きたような静けさが入り混じっている。
――彼はきっと、何かを“消してきた”のだ。
人の死の証を、闇の帝王の痕跡を、ひとつ残らず。
法務部の複雑な法体系を知らずとも、それが罪に等しい行為であることはアランにも分かった。
けれど、彼はそれを命令だからではなく、“理想”のためにやったのだと信じたかった。
誰かに命じられてではなく、自らの信念の延長に、その選択があったのだと。
だが――胸の奥のどこかがざわめく。
本当に、彼の選んだ道は正しいのだろうか?
“正しさ”とは、誰が決めるのだろう。
血の誇りか、法律か、それとも彼自身の心か。
わからなかった。
けれど、アランは迷いながらも、彼を抱く腕を強くした。
レギュラスの心音が聞こえる。
冷たい外気に晒された体の奥で、確かな鼓動が規則正しく響いていた。
それだけが真実のように思えた。
理想も罪も、正義も闇も――すべては遠く曖昧で、
この瞬間、抱きしめられる温もりだけが、たしかに“現実”として存在していた。
レギュラスは静かにアランの頭に手を置いた。
「……ありがとう。」
小さく、それだけを告げる。
彼の声は掠れていた。
けれど、アランにはその一言にすべての思いが込められている気がした。
疲れ、迷い、そして、ほんの少しの安堵。
アランは何も言わなかった。
言葉の代わりに、彼の胸元に顔を埋めた。
そのぬくもりを、信じるように。
この人が戻ってきてくれた――ただその事実を、胸の奥で静かに抱きしめながら。
夜の帳が静かに屋敷を包み込むころ、レギュラスはアランをそっと書斎へと呼び寄せた。
暖炉の火は深く沈み、部屋には微かなオレンジの明かりと紙の香りが漂っている。
古い魔法書が整然と並ぶ棚の隙間から、月明かりがわずかに差し込み、二人の影を柔らかく重ねていた。
アランが戸口に現れた瞬間、レギュラスは静かに立ち上がり、彼女の細い手を取って導いた。
「アラン……」
その声は囁きのように優しく、けれどどこか決意を帯びていた。
抱き寄せた体は、驚くほど軽く温かい。
アランは胸に顔を埋め、わずかに息を詰めたように肩を震わせる。
「お願いがあります」
レギュラスの言葉に、アランはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、炎の揺らぎを映して煌めいている。
彼は静かに片方の手を差し出し、開いた掌をアランに見せた。
「よく見ていてください」
細く長い指が一度、握られる。
そして再びその手が開かれた瞬間――
ふわりと、ひとひらの光が生まれた。
それは瞬く間に姿を変え、掌の上に小さな紅いバラの花を咲かせた。
淡い魔力のきらめきが空気を満たし、
アランの頬に光の粒が零れ落ちては消えていく。
アランは息を呑み、まるで声を上げそうなほどに目を見開いた。
驚きと喜びが一度に溢れ、唇が小さく震える。
彼女は両手でそっとその花を受け取ると、
まるで壊れ物を扱うように慎重に指先で花びらをなぞった。
満面の笑みで見上げてくるその表情が――あまりにも愛らしかった。
レギュラスの胸の奥で、何かが温かく弾けた。
彼は静かにその肩を抱き寄せ、低く囁く。
「ブラック家の名を、共に継いでくれませんか?」
言葉は穏やかでありながら、芯のある確信を含んでいた。
それは形式的な結びではなく、心そのものの求婚だった。
権威も家のしがらみも関係ない。
ただ一人の女を、生涯の伴侶として選ぶという、揺るぎない宣言だった。
アランは一瞬、呼吸を止めたように固まる。
胸の奥が震え、指先が花を握り締める。
まるで、何かを確かめるように。
彼女の中で、記憶と現実とが入り混じり、時間が止まったようだった。
その不安げに揺れる瞳を見つめ、レギュラスはそっと彼女の頬に手を添えた。
指先で涙を拭うように優しく撫で、唇を重ねる。
「不安はいりません」
唇が離れると同時に、彼の声が穏やかに続いた。
「僕があなたを幸せにしてみせます。
あなたがまだ見たことのない世界を、今よりもたくさん見せてあげます。」
その言葉はまるで誓いの呪文のようだった。
暖炉の火がぱちりと弾け、空気の中に金色の火花が舞う。
アランの瞳に涙が滲んだ。
それは悲しみではなく、心の奥からこぼれた光そのもの。
宝石のように煌めく涙が頬を伝い、バラの花びらに落ちると、
花は淡い光を放って溶けていった。
レギュラスはその光景を、ただ静かに見つめていた。
彼女の涙が、確かに自分の言葉に触れた証のように感じられて――
その瞬間、世界のすべてがひとつの鼓動に溶け合っていくようだった。
書斎には、夜の静寂が満ちていた。
古い時計がゆっくりと時を刻み、暖炉の火がやわらかに揺れる。
壁一面に並ぶ魔法書の背表紙が、金の箔押しで淡く光を返している。
そんな穏やかな光の中で、アランはレギュラスの正面に立っていた。
彼の掌から生まれた一輪の薔薇が、今もかすかな魔力を帯びて、アランの指先で淡く輝いている。
花弁はまるで月の滴を含んでいるかのように瑞々しく、触れるたびに小さな光が脈打った。
魔法の花。けれど、それ以上に“想い”の形をしていた。
レギュラスが告げた言葉――
「ブラック家の名を、共に継いでくれませんか」
その響きは、書斎の空気を震わせた。
ブラック家。
魔法界でも最も古く、最も気高い血を持つ純血貴族。
その名を継ぐということが、どれほどの責任と覚悟を意味するのか。
アランにはまだ分からなかった。
けれど、彼の差し出した手から伝わる温もりが、すべてを語っていた。
その掌は、闇の中で差し伸べられた唯一の光のように、あたたかく、確かだった。
――この手を離したら、もう二度と生きていけない。
そう思った。
レギュラスの瞳は、静かに、真っ直ぐにアランを見つめている。
その奥には、計算も、義務も、誇りもなく、ただひとつの“愛”だけが宿っていた。
「僕が、あなたを幸せにします。」
その声は魔法だった。
言葉ではなく、音そのものが心の奥に染み渡る。
胸の奥に長く絡みついていた鎖が、少しずつほどけていくような感覚。
彼にしか届かない場所まで、深く、柔らかく光が届く。
アランは、何も言えなかった。
彼の見ている世界を、自分はまだ知らない。
彼の信じる理想も、その思想の根も。
知りたいと思う気持ちと、知るのが怖いという気持ちが、せめぎ合っていた。
けれど――今だけは、迷いたくなかった。
この瞬間にだけは、純粋でありたかった。
差し出された薔薇の花を見つめる。
赤く染まった花弁の先が、微かな魔力で光を放っている。
それが“誓い”の象徴だと、本能で分かった。
ゆっくりと、アランは頷いた。
言葉はいらなかった。
ただ静かに、彼の想いを受け取る。
レギュラスは一瞬だけ息を詰め、
そして微笑んだ。
その微笑みは、今まで見たどんな表情よりも柔らかく、幸福に満ちていた。
アランは花を両手で包み込み、そっと胸の前に掲げる。
――その瞬間、指先にかすかな痛みが走った。
茎に隠れていた小さな棘が、肌を掠めたのだ。
ほんの小さな傷だった。
けれど、その痛みは、未来への印のように感じられた。
たとえこの先に、痛みや試練が待ち受けていようとも、
それでもこの愛は、自分の血の中に刻まれてゆくのだと。
棘の先から滲む赤が、まるで薔薇とひとつになるように輝く。
アランは痛みを隠すように微笑んだ。
それは、決意の笑みだった。
――たとえ花に棘があろうとも、
この愛の手を離すことは、もうできなかった。
魔法省の昼下がりは、どこか湿ったような静けさに包まれていた。
窓の外では、淡い灰色の雲が流れ、空を横切るふくろうの影が遠くに霞んで見える。
レギュラスの執務室には、整然と並べられた書類と、インクの匂いがまだ残っていた。
アランはその机の脇に座り、本をめくっていた。
彼の残していった羽ペンの先に乾きかけたインクがついている。
朝から出廷のために出ていったレギュラスの姿を思い出す。
黒いローブの裾が揺れ、冷たい金の留め具が光っていた。
その背中を見送る時、アランは小さく胸の奥でため息をついた。
寂しさはあった。
けれど、不思議と不満ではなかった。
――彼は、自分を妻にすると言ってくれた。
まだ正式ではなくとも、それは未来を誓う言葉。
そのひとつがあれば、待つ時間でさえ、どこか甘やかに感じられた。
とん、と扉がノックされる。
一瞬、心臓が跳ねた。
まさか、もう戻ってきたのかと。
けれど扉の向こうから現れたのは、レギュラスではなかった。
「よぉ、レギュラスは留守だろ?」
低く、少しざらついた声。
その声の主は――シリウス・ブラック。
黒いローブの襟を少し乱して、無造作に手をポケットに突っ込んだまま立っている。
彼の纏う空気は、レギュラスとは対極にあった。
同じ血を分けた兄弟のはずなのに、まるで別世界の人のようだった。
アランは杖を振り、空に文字を描く。
《こんにちは、シリウス》
シリウスの口角がわずかに上がる。
「アラン、だったな。……ちょっと出れるか?」
出れるか――その言葉が胸の奥で反響する。
レギュラス以外の誰かに「外へ出よう」と誘われることなど、想像もしていなかった。
指先がわずかに震える。
「大丈夫だ。あいつは魔法法廷だ。裁判が終わるのは早くても二時間後だ」
灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見下ろす。
その言葉に嘘はなかった。
でも、どこかで小さな罪悪感が胸を締めつけた。
――彼に知られず外へ出ること。
それは、ほんの一瞬でも“裏切り”のように思えてしまった。
それでも、アランは静かに頷いた。
シリウスの背中を追って、長い廊下を歩く。
レギュラスとは違う。
彼の兄は歩くたびに、床板を確かに踏み鳴らす。
躊躇いのない足取り。
レギュラスのような整った所作ではなく、もっと荒削りで、野性的な力強さがあった。
彼の背中は広かった。
黒のローブが風をはらみ、肩のラインが逞しく見えた。
――兄弟。
同じ家に生まれたはずなのに、こんなにも違う。
レギュラスの背は真っすぐで、いつもわずかに冷たい空気を纏っている。
その一方で、シリウスの背中には熱があった。
夏の太陽に焼かれたような、強く、粗い熱。
髪もレギュラスより硬く、日差しを受けて鈍く光る。
二人の間に流れる空気は、血縁の温度よりも、思想の冷たさの方が勝っている――
そんな気がした。
階段を下りながら、シリウスが振り返る。
「何か食いたいもん、あるか?」
アランは驚いて首を横に振る。
すると、シリウスは片眉を上げ、ふっと笑った。
「じゃあ、適当に選ぶか。」
レギュラスと一緒に出かけた時、彼はいつも「アランの好きなものを」と言ってくれた。
彼女が迷えば、時間をかけてでも選ばせてくれた。
けれど――シリウスは違った。
まるで風のように先を行き、決める。
逡巡も、遠慮もない。
それが奇妙に心地よかった。
兄弟であまりにも違いすぎて、同じ家の血を分けているのが信じられないほどだった。
けれどその違いこそが、なぜだか微笑ましく思えた。
アランは歩きながら、ふと感じた。
彼らはきっと、同じ星から生まれたのに、まったく別の軌道を歩いている――と。
けれど、その二つの軌道のどこかに、自分の居場所があるのなら。
それが今は、ただ嬉しかった。
木のテーブルに、湯気を立てる皿がいくつも並べられていた。
肉の焼ける香ばしい匂いと、スープに溶けたハーブの香りが混じり合って、アランの鼻先をくすぐる。
シリウスが腕まくりをして、豪快に料理を並べていく様子は、まるで宴の支度のようだった。
「好きなの食べろ。」
ぶっきらぼうに言いながらも、どこか優しさの滲む声。
レギュラスが見せる“丁寧な所作”とはまるで違う。
シリウスは自由そのもののような男だった。
「うまいぞ、これも食ってみろ。」
差し出されたフォークの先には、香ばしく焼けた肉の切れ端。
アランは少し戸惑いながらも、それを口に運ぶ。
ジュッと弾けた肉汁が舌に広がる。
思わず頬が緩んだ。
「他にも食いたいもんねぇか?」
灰色の瞳が笑う。
アランは首を振って、笑顔で“十分です”と杖を振って空に文字を描く。
シリウスは腹を抱えて笑った。
「ほんとに遠慮がねぇな、レギュラスのやつとは大違いだ。」
確かに、兄弟でここまで違うのかと思うほどに。
レギュラスはどんな食事でも整然と、静かに、優雅に。
けれどシリウスは、遠慮なく、皿を回し、笑い、自由に食べる。
その違いがなぜだかおかしくて、アランの唇の端がふわりと上がった。
そんな柔らかな空気の中で、シリウスはふと真顔になる。
「すまねぇ。今日は色々、お前に聞きたくてな。」
アランは杖を手に取り、《何でもどうぞ》と空中に書く。
文字が淡い銀光を帯びて浮かび上がる。
「セシール家の末裔なのか?」
その言葉に、アランの手がわずかに止まる。
――やはり、この男は核心に迫ってきた。
逃げることも、隠すこともできない。
アランはゆっくりと頷いた。
「レギュラスに言われて、従ってるのか?」
今度は首を振る。
彼に命じられたことなど一度もない。
あの人は常に、自分の意志で選ばせてくれた。
それは自由であり、救いだった。
シリウスはその様子をじっと見つめていた。
彼の灰色の瞳が、どこか探るように細められる。
「じゃあ……お前は今、ヴォルデモートの“何か”を封印してるのか?」
その名が発せられた瞬間、アランの全身が硬直した。
――闇の帝王。
あの声、あの冷たい瞳、蛇のような息づかい。
頭の奥で、記憶が一気に蘇る。
“封印を施せ。さもなくば、この身を呪い尽くしてやろう。”
あの時の声が、耳の奥で何度も反響した。
鎖の音、焼けつく痛み、皮膚を裂くような冷たい魔力。
血が滴り、恐怖に震えながら、それでも力を解放するしかなかった。
何を封じたのかも知らない。ただ、命じられるままに、封印を――。
指先がかすかに震えた。
杖を持つ手が冷たくなり、息が詰まる。
「……すまねぇ。聞きにくいことを聞いたみたいだな。」
シリウスの声が少し低くなる。
先ほどまでの陽気さが消え、代わりに深い憐憫の色が滲んでいた。
アランは首を振った。
“だいじょうぶ”――そう伝えたかったが、うまく動かない喉が、ただ静かに息を漏らすだけだった。
外の風が窓を揺らす。
店の外から笑い声が聞こえるのに、このテーブルだけが別の世界のように静まり返っていた。
アランの胸の奥では、封印の時に感じたあの魔力の残滓が、まだ微かに疼いていた。
過去は決して消えない。
それでも――今は、その過去を見透かしてもなお優しく向き合おうとする男が、目の前にいる。
そう思うと、ほんの少しだけ、救われる気がした。
テーブルの上には、まだ湯気の立つ皿が並んでいた。
けれど、先ほどまで漂っていた賑やかな空気は、どこか遠くに消えていた。
シリウスは肘をつき、向かいに座るアランをじっと見つめていた。
女は話せない代わりに、よく笑う。
声を発せられないという事実が、どれほど彼女の心を締めつけているのか、想像もできない。
それでも――笑う。
問いかけに困ったときも、気まずい沈黙が訪れたときも、アランはいつだって微笑んでいた。
その笑みが、まるで痛みを包み隠す薄いベールのように見えて、胸が締めつけられる。
翡翠の瞳が光を受けて、柔らかくきらめいていた。
その美しさは、まるで静かな湖面のようで、覗き込めば自分が映ってしまいそうだった。
――この女は、こんな世界にいるべきじゃない。
無意識のうちに、そう思ってしまう。
「お前、ほんとに……レギュラスなんかの隣にいるには、勿体ねぇよ。」
口にしてから、余計なことを言ったと気づく。
アランは目を瞬かせ、戸惑ったように笑った。
それがまた、ひどく愛らしくて、どうしようもなく心を掴まれる。
いくつか聞きたいことがあった。
だが、気づけば矢継ぎ早に言葉をぶつけてしまっていた。
尋問のような口調になっていたことを、今さらながら後悔する。
アランは困ったように首を傾げ、ゆっくりと首を横に振った。
笑みを浮かべながらも、その目が少しだけ悲しげだった。
「……ちげぇんだ。」
シリウスは思わず声を荒げ、それからすぐに息を吐いた。
「別に、尋問したいわけでも、問い詰めたいわけでもねぇ。ただ……お前のことが、知りたかっただけだ。」
自分で言って、自分の言葉が嘘くさいことに気づく。
“知りたい”の裏には、明確な目的があった。
この女が闇の魔法使い側の人間なのか――それとも、こちら側に救うべき魂なのか。
確かめずにはいられなかった。
アランは静かに杖を取り、空中に文字を描いた。
《大丈夫です。闇の帝王と呼ばれる男のことは、長い間捉えられていましたが……数回しか会っていません。》
銀色の文字が、空気の中でゆらめいて光る。
シリウスは息を呑む。
「そうか……じゃあ、何をさせられていたんだ?」
《セシール家の封印の魔術を施せと、何度か言われました。でも……自分が何に施したのかは、わかりません。》
杖を握る彼女の手がわずかに震えていた。
その仕草だけで、どれほどの恐怖を刻みつけられてきたのかがわかる。
シリウスは唇を噛みしめ、手の中のグラスを強く握った。
やはり、そうか。
あの男――ヴォルデモートは、永遠を保つために彼女を利用したのだ。
セシール家の血に宿る封印の力を、呪いの一部に組み込むために。
彼女は“要塞”として、あの闇の中に閉じ込められたのだ。
何も知らぬまま、恐怖に怯えながら、命じられるままに魔法を使わされる。
どれほどの夜を泣きながら過ごしたのだろう。
どれほどの絶望を、胸に抱えて生き延びたのだろう。
シリウスの胸に、怒りが込み上げた。
ヴォルデモートへの怒り。
そして、レギュラスへの怒り。
“またお前か、レギュラス。”
兄としての感情よりも、憎しみが先に立つ。
あの男はきっと、この女の力を知っている。
そしてその血を、自らの血と混ぜ合わせるつもりなのだ。
純血の名のもとに。
栄光と権力を保つために。
――それは、もはや愛ではない。
アランの柔らかな微笑みを見るたびに、胸が痛む。
彼女はあの男を信じている。
救いだと思っている。
だが、それが錯覚であることを、シリウスは知っていた。
「レギュラスのそばにいちゃ、ダメだ。」
言葉が口をついて出た。
「……あいつは、闇に浸かりすぎてる。」
アランは静かに目を伏せた。
その肩が、かすかに震えている。
否定も肯定もせず、ただ悲しげな笑みを浮かべた。
翡翠の瞳が光を受けて揺れる――まるで、泣き出す寸前のように。
その姿を見て、シリウスは胸の奥を掴まれた。
この女を、守りたい。
レギュラスの掌から、あの闇の中から。
どんな手を使ってでも、救い出してやりたい。
けれど、アランの微笑みが語っていた。
――自分は、もう彼を信じている。
光の中ではなく、闇の中にいる男を。
それでも、愛している。
その想いを壊すことだけは、誰にもできなかった。
