1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
石壁のひんやりとした記憶がまだ肌の奥に残っていた。あの暗く、息も詰まる地下牢の影が、目を閉じればたやすく蘇る。鎖の軋む音、踏みにじられる息、奪われるばかりの時間。それがアランの全てだった。
けれど――今、目の前にあるのはまるで別の世界だった。
レギュラスの指が、自分に触れるたび世界がやわらかく色づいていく。夜更けの灯が揺れるたび、彼の髪が微かに光り、呼吸が自分の頬へ落ちる。優しさとはこういうものなのだと、アランは初めて知った。何かを奪うのではなく、包みこみ、確かにひとつの存在として受け止めてくれる――そんなぬくもり。
心臓が痛いほど跳ねた。身体が知らない言葉で訴えかける。まるで自分の一部なのに、別の誰かが動かしているような不思議な感覚。羞恥が波のように押し寄せ、唇が震え、逃げ出したいのにどうしても離れられなかった。
その一瞬一瞬に、甘く弾けるような幸福が溶けていく。悲しみも孤独も、ひとひらずつ解け落ち、代わりに温かい光が隅々まで染み込んでくる。
レギュラスの顔がそっと歪む。苦しそうなのに、それが息を呑むほど美しい。光と影が彼の頬を撫で、吐息がアランの耳をくすぐる。その呼吸の荒さがどこか痛ましくて、けれど心を焦がすように甘い。声が、名前を呼ぶ。何度も、まるで祈りのように。
その響きが胸の奥に落ちるたび、アランは震えた。自分という存在がようやく誰かに届いた気がした。その名が、尊く、ひとりの人間として慈しまれていることを、初めて知った。
大きな波に呑まれるように、思考が崩れていく。白い光の中、しがみつかなければ消えてしまいそうで、アランは夢中でレギュラスを抱きしめた。
彼の体温が、今だけはすべてだった。痛みも恐怖も、遠くの記憶へと流れ去る。
夜は静かに更けていく。世界のどこかで鐘が鳴るように、胸の奥が静かに震えた。
この夜、アラン・セシールにとってレギュラスは、世界そのものになった。闇の底で生まれた二人の孤独が、ようやく寄り添い、ひとつの光に変わっていった。
夜は静寂のうちに明け、幸福の残り香は、夜明けとともに脆く崩れ去った。
レギュラスの腕に刻まれた闇の印が、黒々とした疼きを放ち始める。
それは召集の合図だった。
肌を焼くような痛みが、昨夜の甘やかな余韻を無惨に引き裂いていく。
幸福に塗れた夜があれば、必ずその反動のように、絶望が訪れる――
まるでこの世界の理のように。
まだアランは眠っていた。
月の光を浴びたままのような白い肌に、穏やかな寝息がかすかに触れる。
その横顔はあまりにも静謐で、触れれば壊れてしまいそうだった。
頬にそっと唇を寄せる。
“すぐ戻る”――そう言葉を飲み込みながら。
彼女を残して闇の呼び声に応じるたび、胸の奥で何かが冷たく沈んでいくのを感じた。
呼び出しの間には、既に多くのデスイーターが集っていた。
空気は濃密で、息をするたびに鉄のような匂いが肺を満たす。
松明の明かりに照らされたヴォルデモートの影は、壁に歪みながら広がっている。
まるでその存在がこの場のすべてを飲み込んでいくかのようだった。
レギュラスは一番後ろの席に腰を下ろした。
静寂が支配する中、中央の石の台の上には、二人の男女が並べられている。
呪詛の痕が皮膚に焼きつき、震える呼吸だけが生の証のようにかすかに揺れていた。
「愚かしい真似をした裏切り者がいる。」
ヴォルデモートの声が、冷えた刃物のように場を裂く。
誰も目を上げない。
上げれば命を失うことを、全員が知っていた。
「汚らわしいマグルと情を交わし、我らを裏切った。」
その言葉に続くのは、沈黙――そして恐怖だった。
レギュラスの視線が自然と男女の方へと引き寄せられる。
倒れ伏した女の瞳がわずかに開き、光を宿している。
その瞳は、翡翠色――アランの瞳と、酷似していた。
刹那、心臓が軋んだ。
まるで胸の奥を掴まれたような痛みが走る。
ヴォルデモートの杖が持ち上がる。
その動きの一つ一つが、ゆっくりと時間を引き延ばしていくようだった。
「アバダ・ケダブラ。」
緑の閃光が走り、空気が裂けた。
二人の身体が硬直し、次の瞬間、石の台に沈む。
音はなかった。だが、確かに“終わり”がそこにあった。
誰も息をしない。
沈黙が重く降り積もる。
ヴォルデモートはその冷ややかな瞳で集団を見渡す。
「裏切りは、死よりも愚かな選択だ。」
その言葉の意味は、刃より鋭くレギュラスの心を貫いた。
今の行いが、自分への警告であることを理解していた。
彼はアランを地下牢から救い出し、代わりに“セシールの血を残す”と約束した。
それがヴォルデモートへの忠誠の証であり、彼女を得るための唯一の代償だった。
だが、時間は残酷だ。
まだその“結果”を差し出せていない。
約束を果たさぬまま、こうして呼び出されるたびに、喉の奥で焦燥が苦く滾った。
昨夜の彼女の温もりを思い出す。
愛したのは取引のためではなかった。
欲望でもなく、義務でもなく、ただ愛だった。
それでも――自分でももう、何が真実なのか分からない。
“愛”という言葉が、いつの間にか“義務”と“恐怖”に染まり始めている。
静かに、確実に。
レギュラスは俯いたまま、唇を噛む。
目の前で息絶えた男女の亡骸を見つめながら、
胸の奥で、ひとつの誓いが音もなく砕けていく音がした。
幸福な夜は、夢のように儚く、
朝は、現実の冷たさと血の匂いに満ちていた。
法務部の一日は、灰色の空のように重かった。
部屋の中には、乾いたインクの匂いと紙の擦れる音だけが漂っている。
デスクの上には積み上がる書類の山。その中の一枚が、レギュラスの目を止めた。
――マグルの女、失踪事件。
魔法界への協力依頼。
何気なく写真を手に取り、目を落とす。
その瞬間、時間が止まった。
写っていたのは、あの夜、闇の帝王の足元で息絶えた女だった。
翡翠の瞳。
アランと同じ色。
光を宿しているようで、どこか儚いその瞳が、紙の上から彼を見上げていた。
まるで問いかけてくるように――「なぜ見て見ぬふりをするの」と。
胸の奥が冷たく疼いた。
レギュラスはゆっくりと書類を裏返す。
そして、静かに口を開いた。
「ここは魔法界です。一マグルの失踪で我々の手を煩わせるわけにはいきません。」
声はいつもより硬く響いた。
室内の空気がわずかに張り詰める。
沈黙ののち、一人の若い職員が言葉を選びながら口を開いた。
「ですが……彼女は、魔法使いと接触があったとの報告もあります。少なくとも調査を――」
「我々は“尊い力”を持つ者です。」
レギュラスは遮るように言い切った。
「その力は、マグルの女を探すために使われるものではありません。」
ペン先が紙を滑る音だけが響く。
彼は書類の欄に否決のサインを書き込み、無言で押印した。
職員たちの顔に不満の影が走る。
それでも誰も、ブラック家の名を持つ男の決断に逆らうことはなかった。
重い足音を残して部屋を出ていく背中を、レギュラスは静かに見送った。
――探しても無駄だ。
あの女はもう、この世にはいない。
あの夜、闇の帝王が放った大蛇が、骨の一片さえ残さず喰らい尽くした。
レギュラスは目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、あの翡翠色の瞳。
アランの瞳と重なって、胸の奥が鈍く締め付けられる。
そのとき、柔らかな視線に気づいた。
アランが、執務室の隅のソファから静かにこちらを見ている。
本を膝に置いたまま、彼女は小首を傾げていた。
瞬間、レギュラスの表情に焦りが走る。
彼女に、今の冷たい言葉を聞かせたくはなかった。
「……すみません。少し、きつく言ってしまいましたね。」
慌てて笑みを作りながら近づく。
アランはそっと首を振った。
その仕草には、責めも恐れもなかった。
ただ、静かに「わかっています」と伝えるように。
レギュラスはその瞳を見つめる。
翡翠の光が、あの写真の女とは違う、確かな“生”の色を宿していた。
自分が守らねばならない命がここにある――そう強く思った。
彼はアランのそばに腰を下ろし、
震えぬように彼女の指先を包む。
冷たい指だった。
けれどその冷たさの奥に、確かに生きている鼓動を感じた。
「大丈夫です。」
小さく呟くように言ったその声は、彼自身に向けた祈りにも似ていた。
外の窓には、曇り空の隙間から一筋の光が差していた。
その淡い光がアランの髪に触れ、柔らかに揺れる。
レギュラスは、その光景を胸の奥に刻みつけた。
冷たい現実の中に、たったひとつの救いを見たように。
法務部の長い廊下を歩いていた。
冬の魔法省はどこも冷え切っていて、薄暗い灯りが床に影を落としている。
アランは静かに彼の隣を歩いていた。手には書類の束。杖を持つ指先がまだ冷たい。
あと少しで扉の先の階段を降りれば外だった――その時。
「……よぉ、レギュラス。」
その声を聞いた瞬間、心の奥で小さな舌打ちをしたくなった。
廊下の向こうから、黒いコートの裾を翻して歩いてくる男。
灰色の瞳、癖のある黒髪――兄、シリウス・ブラック。
出会いたくない時ほど、なぜこうも現れるのか。
運命が皮肉を好むのなら、まさに今がそれだ。
「てめぇ……あの捜査協力の否決、取り消しやがれ。」
怒声が廊下に響いた。
周囲にいた職員が振り向き、空気が一気に張り詰める。
シリウスの手が外套の下で杖に伸びるのが見えた。
今にも飛びかかってきそうな勢いだ。
レギュラスはぐっと奥歯を噛みしめ、冷静に口を開く。
「人目があります。……場所を移しましょう。」
「上等だ、クソガキ。」
吐き捨てるような声。
その瞬間、アランの視線が不安に揺れた。
彼女の前で兄とやり合うことだけは、絶対に避けたかった。
「アラン、執務室に戻って待っていてください。」
レギュラスは小さな銀の鍵を彼女の掌にそっと乗せた。
戸惑いと心配の入り混じった瞳がこちらを見上げる。
「大丈夫です。」
囁くように言い、微笑んだ。
その笑みの裏で、胃の奥が冷たく痛んだ。
二人が移動したのは、使われていない資料庫だった。
壁一面に古い書類棚が並び、埃とインクの匂いが混じり合っている。
レギュラスは扉を閉めると同時に杖を抜いた。
振り返ると、兄もすでに構えている。
光を帯びた杖先が、狭い空間に不穏な輝きを落とした。
「どう考えても闇の連中が絡んでる事件だろう。お前、それを隠そうってのか?」
「ただのマグル一人の失踪を、無理やりこじつけるのはやめてください。」
「こじつけじゃねぇ!」
シリウスの声が唸る。
拳が震え、怒気が立ち上る。
「わかってんだろう、お前も!」
二人の間に火花が散ったような緊張が走る。
レギュラスはゆっくりと杖を下ろした。
怒りが溢れていたが、それ以上に――無力感が押し寄せた。
兄と自分は、どこまでいっても交わらない。
「あなたの言う理想は、あまりにも夢想的だ。」
レギュラスの声は低く沈む。
「マグルの残忍さを、あなたは見ようとしない。彼らは刃を取り、銃を持ち、血を流して殺し合う。恐れから、魔法族を追い詰める。」
シリウスは鼻で笑った。
「じゃあ、お前の言う“尊い魔法族”は何をしてる?
同じように血を選び、支配し、殺してるじゃねぇか。」
沈黙。
どちらの言葉も、痛みを孕んでいた。
だが、レギュラスの脳裏には焼け落ちたセシール家の屋敷が浮かぶ。
瓦礫の中で流れた赤い血。
まだ幼かったアランが、闇の中で泣きもせず佇んでいた記憶――。
「マグルは、セシール家を滅ぼした。」
絞り出すような声で言う。
「封印の力を恐れ、一夜で全てを焼き払った。
あれが“平等”ですか? “共存”ですか? あれがあなたの語る理想の姿ですか?」
シリウスの眉がわずかに動いた。
だが、何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
埃が舞い、二人の間に光の粒が漂う。
時間が止まったかのような瞬間。
「……あの女は、何者だ。」
シリウスが低く問う。
「あなたには関係ありません。」
「てめぇが連れ回してる女だろ。何もねぇわけがない。」
「余計な詮索はやめていただけますか。」
短く返す声は、鋭く冷たい。
その裏に、微かに震える何かがある。
怒りか、恐れか、それとも悲しみか。
兄弟は互いに睨み合った。
杖を下ろしても、戦いは終わらない。
言葉も、思想も、互いを傷つける刃だった。
この資料庫の狭い空間の中で、
二人の間には血の絆よりも深い断絶が横たわっていた。
――どこまでも、交わらない。
それが、ブラック兄弟の運命だった。
静寂が戻った時、レギュラスは背を向けた。
扉の向こうには、彼を待つ翡翠の瞳がある。
その存在だけが、彼を人の形に留めていた。
シリウス・ブラックは、酒の抜けきらない夜明けのような重い息をついた。
あの憎き弟――レギュラスの名を思い出すだけで、胸の奥がざらついた。
先日の口論で、あいつは不意に“セシール家”という名を持ち出した。
その一言が、頭の中にこびりついて離れない。
セシール家――。
その名は、十数年前、魔法界とマグル界を同時に震撼させた一族の名だ。
「封印魔法」の継承を生業とし、闇にも光にも属さず、ひたすら“均衡”を保つ存在。
彼らは、力そのものを封じ込めることができた。
どんな呪いも、どんな闇の力も、彼らの封印の前では沈黙する。
それゆえ、マグルにとっては恐怖の象徴であり、脅威でもあった。
新聞がその話題を連日報じていたあの頃を、シリウスはまだ鮮明に覚えている。
“セシール家全滅”。
その見出しが一面に躍った。
燃え落ちた屋敷。
銃弾の痕。
焼け焦げた本、溶けた銀器、血に濡れた庭。
魔法族であっても、マグルの鉄と火器の前では命を落とすことがあるのだと、世界が知った事件だった。
若き当主と呼ばれた青年も、幼い娘も、誰一人として生き残らなかったと伝えられていた。
痛ましい事件――だが、人々は時間と共に忘れていった。
新たな事件が起これば、また次へ。
世界は常に忙しく、残酷に流れていく。
シリウスはその夜、騎士団の本部でジェームズと共にソファに腰を下ろしていた。
暖炉の火が低く唸る。
手元のウイスキーグラスの氷が、静かに溶けていく音だけが響いていた。
「……なあ、ジェームズ。」
「なんだ?」
「セシール家って名、聞いたことあるか?」
ジェームズは眉をひそめ、思い出すように天井を仰いだ。
「封印魔法を使う一族の話か? ああ、覚えてるよ。確か十年以上前に滅んだろう。」
「……そうだ。」
シリウスは低く息を吐く。
記憶の奥に、あの女の顔が浮かんだ。
レギュラスの執務室で見た、あの翡翠の瞳。
声を持たず、静かに微笑んでいた女。
普通ではないと直感した。
彼女の存在は、ただの“愛人”などという言葉で片付けられないものを纏っていた。
「おいジェームズ……」
「ん?」
「もしだ。もし、あの女が――セシール家の生き残りだったとしたら?」
ジェームズの表情が固まった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てて弾ける。
一瞬、部屋の空気が凍りついたようだった。
「まさか。あの一族は完全に滅びたはずだ。」
「けど、生き残りがいたらどうする?」
シリウスの声には、冗談の色がなかった。
むしろ、ひどく現実的で、どこか冷たい響きがあった。
ジェームズは考え込み、ゆっくりとグラスを置く。
「……封印魔法は、闇をも支配する力だ。もしその力を闇の側が再び手にしたら……」
「そうだ。」
シリウスは苦々しく唇を噛んだ。
「闇の魔法使いたちにとって、セシール家の力は核になる。
絶対的な封印。絶対的な守り。
闇を守るための“要塞”になる。
……恐ろしい女だよ。」
彼の背中を、冷たい汗が伝った。
あの女の瞳が思い出される。
美しい――それは確かだった。
だが、あの美しさは人を惹きつけるためのものではない。
あれは“静かなる力”の象徴だ。
底知れぬ何かを秘めていた。
「やっぱりな。」
シリウスは小さく呟いた。
「ただの女じゃねぇと思ってた。……あの弟のことだ。美貌だけで連れ歩くような馬鹿じゃない。」
ジェームズは腕を組み、黙り込んだ。
二人の間を、重い沈黙が満たす。
暖炉の火が小さく揺れ、炎の光がシリウスの顔を照らした。
その灰色の瞳は、いつになく深く沈んでいる。
もし――。
もし、あの女が本当に“セシール家の生き残り”ならば。
あの弟は、世界を揺るがすほどの力を、手にしているのかもしれない。
シリウスは立ち上がり、窓の外を見た。
冬の空気が冷たく、外の闇が果てしなく広がっていた。
胸の奥で何かがざわめく。
不安、怒り、そして……恐れ。
「レギュラス。お前、いったい何を企んでるんだ……」
低く呟いた声は、炎の音に溶けて消えた。
執務室の空気は、紙とインクの匂いに満ちていた。
レギュラスの手元で羽根ペンが忙しなく動き、書類を滑る音が部屋の静けさを切り裂く。
その微かな音の中に――アランは確かに感じ取っていた。彼の苛立ちを。
顔に出すまいと必死に抑えているのがわかる。
眉間のわずかな皺、筆先が止まる瞬間、言葉を発するまでの短い間。
それら全てが、彼の中にある不安と焦燥を物語っていた。
アランは、彼のそういう表情を見るのが好きだった。
怒りでも悲しみでもない、ただ感情というものをまとった彼の横顔が――人間らしく、愛おしかった。
だから本を読みながらも、窓の外を眺めながらも、何度も何度も彼を盗み見てしまう。
そのたびに胸が温かく満たされ、そして今日のように、苦しく締め付けられるのだ。
声が出せたなら――と、アランは何度も思った。
慰める言葉を贈れたなら。
励ます声を届けられたなら。
それができないから、せめて魔法で想いを伝えたかった。
アランは静かに杖を取り、唇をかすかに動かした。
声にはならない。けれど、心の奥から想いを絞り出す。
銀色の光が杖先から溢れ、ふわりと宙を舞った。
やがて、それはひとつの形を成す。
白銀の羽根を持つ小さな鷲――彼女の心を映した守護霊だ。
星屑を纏ったような翼が、空気を震わせながらレギュラスの目の前をゆっくりと旋回する。
机の上の書類がわずかに揺れ、銀光がその瞳に反射した。
レギュラスはペンを止め、驚いたように見上げた。
その表情が、柔らかな微笑みに変わっていく。
「……守護霊の呪文ですか。」
静かな声が響く。
「ずいぶんと高度な魔法を身につけましたね。」
その言い方は、まるで子を褒める父親のように優しかった。
アランの胸に温かいものが満ちていく。
嬉しさと、切なさと、言葉にできないほどの愛しさ。
彼女は微笑んだ。
そして、鷲はレギュラスの肩のすぐそばに降り立ち、羽を一度だけ震わせると、
夜空の星が砕けたように静かに光を散らして消えた。
レギュラスはその光を見つめながら、ふと息をのむ。
ほんの一瞬、胸の痛みも焦りもすべてが消え去るような静寂。
穏やかな幸福が、まるで魔法のように心を包んだ。
アランがこの呪文を放つ時に思い浮かべた幸福の記憶――
それは、彼の腕の中で迎えたあの夜だった。
初めて抱かれ、恐れではなく愛に包まれた時間。
その夜の温もりが、こうして形を持って現れたのだ。
レギュラスは机越しに彼女の瞳を見つめた。
翡翠のように澄んだその光の中に、自分だけを映している。
そして初めて気づく――
この少女が自分に向けてくれる愛は、
どんな魔法よりも、強く、純粋で、
そして誰よりも美しいのだと。
法務部の廊下は、いつになく静まり返っていた。
午後の陽光が窓から差し込み、床に伸びる光の帯がゆらりと揺れている。
その中を、シリウス・ブラックが無言で歩いていた。
その足取りには目的があった。――弟、レギュラス・ブラックの執務室。
彼はここ数日、ある確信に囚われていた。
あの弟が、あの女を連れ歩く理由。
そしてあの日、口論の中で唐突に口にした「セシール家」という名。
滅びたはずの一族。
しかし、弟の口からその名が出たということは――偶然ではない。
シリウスはまず、法務部職員を魔法法廷に呼び出すための小細工を仕掛けた。
「闇払いの証言確認が必要だ」
「捜査記録の照合を行う」
そんな名目をでっちあげ、形式上の召集をかける。
法務部の職員が一斉に席を立ち、魔法法廷へと移動する時間――。
それが、たった十五分の“空白”を生む。
シリウスはその一瞬を狙っていた。
重厚な木の扉の前に立ち、耳を澄ます。
中からは、物音ひとつ聞こえない。
静かに扉を押し開けると、そこには――いた。
アラン。
執務室の窓際に佇む女。
柔らかな光に照らされた翡翠の瞳が、ふとこちらを振り向く。
その瞬間、シリウスの呼吸がわずかに止まった。
どこか儚げで、けれど抗えないほどの存在感を放つ女だった。
光を浴びたその横顔は、絵画のように静謐で、どこかこの世のものではないような気配を纏っていた。
「ああ……よぉ。」
シリウスは手を軽く上げ、努めて柔らかい声で言った。
「驚かせたいわけじゃねぇんだ。」
アランは最初こそ肩を震わせたが、すぐに相手が誰かを理解したようだった。
微かに笑みを浮かべ、杖を取って空中に文字を描く。
――こんにちは。
その優しげな挨拶に、シリウスは不思議な感覚を覚えた。
レギュラスとは正反対の穏やかさ。
静けさの中に、底知れぬ何かが潜んでいる。
「おまえ、名前は?」
アランはまた杖を振る。
流れるような筆致で、空中に一行の名が刻まれた。
――アラン・セシール。
その瞬間、シリウスの背筋に冷たいものが走った。
セシール。
まさか――まさか本当に。
「……セシール、だと?」
低く呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。
頭の中で、いくつもの記憶と仮説が一瞬で繋がっていく。
レギュラスが“あの名”を出した理由。
あの女の只者ではない雰囲気。
全てが一本の線で結ばれる。
滅びたはずの一族――セシール家。
封印魔法を司る、恐るべき血。
もしそれが本当にこの女の中に受け継がれているのだとしたら、弟はとんでもないものを手に入れたことになる。
それは世界の均衡を左右する“鍵”そのものだ。
シリウスは無意識にアランを見つめていた。
その視線には探るような色が滲む。
だがアランは、怯えも警戒も見せなかった。
むしろ、穏やかに微笑んで見せた。
まるで――「私は敵ではありません」と言いたげに。
「おまえ……あいつの女なのか?」
そう問う声は、予想以上に乱れていた。
アランは一瞬、意味を測りかねたように首を傾げた。
翡翠の髪が肩にかかり、光を受けて揺れる。
その仕草さえも静謐で、挑発とも無垢とも取れた。
「いや、その……なんだ、つまりだな。」
シリウスは頭を掻きながら言葉を探す。
「アイツと、どういう関係なんだって意味だ。」
その質問に、アランは杖をそっと掲げ、空中に文字を浮かべた。
――レギュラスが助けてくれたのです。
たったそれだけ。
だが、その言葉にはあまりにも多くの意味が詰まっている気がした。
どこから助けた? 何から? なぜ?
マグルからか、闇の勢力からか。
それとも――封印された過去そのものからなのか。
聞きたいことは山ほどあった。
だが、口を開けばこの静けさを壊してしまう気がした。
シリウスは一歩踏み出し、女の瞳をまっすぐに見た。
その奥には、確かに“人間の痛み”があった。
そして同時に、“神秘の影”も。
「……そうか。」
それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。
扉の向こうでは、法廷に召集された職員たちが戻ってくる気配がする。
時間はもう尽きていた。
部屋を出る前に、シリウスはもう一度振り返った。
アラン・セシール。
この名を、これから忘れることはない。
――彼女は、弟を変えた女だ。
――そして、世界を再び動かす女でもある。
静かに扉を閉める音が、法務部の廊下に消えていった。
廊下に出た瞬間、背後から小さな足音が響いた。
それは軽やかでもあり、必死でもあった。
呼び止める声はない――声を持たぬ彼女は、ただ手を伸ばした。
シリウスの手首を掴む。
振り返ったその瞬間、視界に翡翠の色が差し込んだ。
彼女の瞳が、真っ直ぐに自分を見上げていた。
まるで光をそのまま閉じ込めたような、深く透きとおる緑。
シリウスは息を呑む。
掴まれた手首から、冷たくも熱を帯びた指先の震えが伝わってくる。
心の奥が、静かに――しかし確かに揺れた。
恋などという言葉ではとても表せない。
それはもっと深いところで、魂の一部をもぎ取られるような感覚だった。
抗えない吸引力。理屈も、理性も、その瞬間には意味を失った。
「……なんだ?」
言葉に出してみても、声はやけに掠れていた。
アランは杖を取り、宙にやわらかな筆跡を描く。
銀の光が一文字ずつ浮かび上がる。
――レギュラスと喧嘩をしているの?
その文を見た瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
喧嘩――そんな軽いものではない。
もはや修復など望めぬ、根の深い断絶。
シリウスは苦笑をこぼすように息を吐いた。
「……喧嘩なんてもんじゃねぇよ。
一生埋められねぇ溝があるんだ、俺たちの間には。
信念が違う。理想も、見てる世界も違う。どう足掻いても交わらねぇ。」
アランは悲しげに眉を寄せ、それでも静かに杖を振った。
浮かび上がった言葉は、たったひとつ。
――レギュラスを悲しませないで。
その一文に、シリウスの胸がまた強く締めつけられた。
この女が弟を慕っている――それがひどく伝わった。
目の前の女は、ただの装飾でも、束の間の慰めでもない。
弟にとって、きっと特別なのだ。
シリウスは一度視線を落とし、小さく笑った。
「……おれも、好きで傷つけてぇわけじゃねぇんだ。」
吐き出すようにして言葉をこぼす。
それは誰に向けたわけでもない、ただの本音だった。
アランは一瞬、彼の目を見つめた。
その瞳に、何かを読み取ったようだった。
杖がもう一度動く。
――あなたも傷つかないで。
――レギュラスと同じ瞳をしているから。
――あなたの苦しむ顔も、見たくない。
シリウスは息を詰まらせた。
その瞬間、まるで胸の奥を照らされるような気がした。
自分でも気づかなかった痛みの色を、この女は見抜いている。
翡翠の瞳が、穏やかに揺れる。
美しかった。
その笑みは、ただの人間のものではない。
赦しと祈りを内包したような、神秘の微笑みだった。
「……このことは、レギュラスには黙っててくれ。
知れたら……色々と面倒だからな。」
アランは静かに頷いた。
その仕草は言葉よりもずっと優しく、重たかった。
指先が離れる。
手首に残る温もりだけが、彼女の存在の証のように残る。
シリウスはその感触を振り払うように息を吐き、背を向けた。
――だが、胸の奥で確かに何かが揺れていた。
あの翡翠の瞳が焼きついて離れない。
弟の女。封印の血を継ぐ女。
それでも、その微笑みに宿る光は、あまりにも人間らしかった。
廊下の先、遠ざかる足音が静かに響く。
そしてその音に混じるように――アランの長い髪が、
風にほどけるように揺れた。
騎士団本部――ランプの灯りがともる薄暗い一室に、
シリウス・ブラックは足音も荒く戻ってきた。
外の冷気をまとったままコートを脱ぎ捨て、深く息を吐く。
古びた木の床が軋む音が、静まり返った部屋の中に小さく響いた。
「おい、ジェームズ。」
低く呼びかける声に、暖炉の前で書類を眺めていたジェームズ・ポッターが顔を上げる。
彼は椅子に腰かけたまま、片眉を上げた。
「顔つきがいつもより険しいな。何か掴んだのか?」
シリウスは言葉を選ぶように間を置いてから、短く答えた。
「……いた。弟の執務室に、女が。」
その一言で、ジェームズの表情が変わった。
「例の女か?」
「ああ。」
「で?」
シリウスは額に手をあて、深く頭を振る。
「……アラン・セシール。そう名乗った。」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が一変した。
ジェームズの手から書類が滑り落ち、紙が床を滑る音がした。
「セシール……だと? まさか……」
「まさか、じゃねぇ。間違いねぇ。」
沈黙が落ちる。
暖炉の炎がぱちりと弾け、赤い光が二人の間を照らした。
ジェームズは腕を組み、重く息をつく。
「君の勘はほんとに素晴らしいな、シリウス。」
「感心してる場合じゃねぇ。」
シリウスは机を拳で叩いた。
「もしあの女がヴォルデモートの核になる何かを守っているのだとしたら――」
言葉を切り、彼は焦げるような声で続けた。
「世界はもう、取り返しのつかない方向に動いてる。」
「核って……封印ってことか?」
ジェームズの問いに、シリウスは小さく頷く。
「セシール家の封印の力。
あれは術者の血が続く限り永遠に解けない。
術を解く方法を知っているのは、その血を継ぐ者だけだ。
つまり――あの女が生きてる限り、封印も生き続ける。」
ジェームズの目が鋭く光る。
「じゃあ、レギュラスは彼女を守ってる。封印を守るために。」
「……そうだ。」
シリウスは低く言った。
「弟はあの女を“救い出した”ように見せかけて、その実――利用してるんだ。
あの血をブラック家に注いで、“純血主義の象徴”として掲げるつもりなんだよ。」
吐き捨てるような声には、怒りと悲しみが入り混じっていた。
「まるで、血のために心を売ったみたいだ。」
ジェームズは深く椅子に背を預け、目を閉じた。
しばしの沈黙ののち、静かに言葉を紡ぐ。
「たどっていけば、彼女もきっと被害者なんだろうな。」
シリウスは、暖炉の炎を見つめたままうなずいた。
その瞳には、あの翡翠の輝きが焼きついている。
「……ああ。そうだと思う。」
「彼女、どんな人だった?」
「……綺麗な人だった。」
声は、どこか遠い場所を見つめるように静かだった。
「優しい目をしてた。
レギュラスを心の底から慕ってるのが、伝わってきた。
……でも、それが余計に苦しかった。」
炎が彼の横顔を照らす。
怒りではなく、憂いの影がそこに落ちていた。
「純粋に、救ってやりてぇと思ったんだ。
あんな世界に縛られたままで終わらせたくねぇ。
……弟のもとから、自由にしてやりてぇ。」
その声には、どこか自分でも理解しきれない熱が宿っていた。
ジェームズは彼の言葉を静かに受け止め、頷いた。
「お前らしいな、シリウス。」
「違うんだよ、ジェームズ。」
シリウスは拳を握る。
「ただ、放っておけなかった。
あの瞳を見た瞬間、何かが……どうしようもなく掴まれたんだ。」
ふたりの間に、再び沈黙が訪れる。
暖炉の炎が、静かに弾けた。
やがてジェームズが立ち上がり、肩に手を置いた。
「――だったら、救ってやれ。」
「……ああ。」
シリウスは小さく息を吐いた。
その目に、覚悟と哀しみが交錯していた。
どんな理由があろうと、
たとえ弟を敵に回すことになろうとも――
アラン・セシールという名の女を、この闇の鎖から解き放たねばならない。
それが“正義”だと、彼は信じていた。
執務室の空気は夕方の光に包まれていた。
金色の斜陽が窓から差し込み、机の上の書類の端をやわらかく照らしている。
レギュラスが戻ってきた時、アランはすぐに立ち上がった。
「すみません、証言内容と照らし合わせが必要だとか何だとかで……長引きました。」
そう言って、彼は少し疲れたように笑った。
その笑みの裏に、張り詰めた糸のような緊張が潜んでいるのをアランは感じ取った。
彼はいつも通り穏やかに装っている――けれど、その目だけが、どこか遠くを見ている。
アランは静かに首を振った。
「いいのです」と言いたかったが、声が出ない。
ただ、微笑んで見せることで代わりに伝えた。
ほんの数日前――廊下で、二人がすれ違った。
シリウス・ブラックとレギュラス・ブラック。
兄弟でありながら、互いに視線すら合わせなかった。
すれ違う瞬間、二人の間の空気が、まるで刃のように鋭く張り詰めていた。
レギュラスの顔がわずかに強張り、
シリウスの眼差しは、静かな怒りを含んでいた。
言葉を交わさずとも、そこにある確執は明白だった。
その一瞬を見ただけで、アランにはわかってしまった。
――この兄弟は、きっともう、元には戻れないのだと。
レギュラスが兄のことを語らない理由も、ようやく理解できた気がした。
きっと深いところで、なにかがもつれてしまったのだ。
解こうとすればするほど、さらに絡まっていくような。
触れれば壊れてしまうほど脆く、繊細な感情の塊。
だから彼は、決してそれを語らないのだ。
アランは机の上の本を閉じ、そっとレギュラスを見つめた。
彼の指先が羽ペンを持ち、淡々と書類にサインをしていく。
その姿があまりにも整然としていて、
そこに秘められた苦しみが、かえって浮き彫りになるようだった。
――シリウスは言っていた。
レギュラスとは信念も理想も、何もかもが違うのだと。
アランには、その「信念」が何を指しているのかはわからない。
レギュラスがどんな未来を見ているのか。
なぜ、闇の帝王と呼ばれる人物に仕えているのか。
その理由を尋ねたこともなければ、聞けるような勇気も持っていない。
ただ、アランは知っている。
レギュラスが自分をあの暗闇から救い出してくれたという事実を。
鎖に繋がれ、名も尊厳も奪われていたあの牢獄から、
初めて光を見せてくれたのは彼だった。
あのとき差し出された手の温もりは、
今でも掌に残っている気がする。
彼の言葉ひとつ、微笑ひとつが、
世界の全てを穏やかに変えてくれた。
――だから、信じたかった。
レギュラスが何を選び、どんな道を進もうと。
その先にあるものが、闇でも光でも。
彼の信念を、同じように抱えていきたい。
彼が見ている未来を、自分も見たいと思った。
彼が信じるものを、自分も信じたいと思った。
それが正しいかどうかなど、もうどうでもよかった。
アランにとって、レギュラスは光そのものだった。
彼の存在が世界の中心であり、
その笑顔ひとつで、全てが報われる気がした。
――だからこそ、彼の抱く理想を、自分も抱えたい。
たとえ、その理想の中に、どんな闇が潜んでいたとしても。
レギュラスが筆を置いた音が、静かな部屋に響く。
アランはその音を合図に、そっと近づいた。
彼の肩越しに、僅かに灯る夕陽が差し込み、
二人の影が重なり合った。
光と影が一つになるその瞬間、
アランの胸の奥に小さな祈りが生まれた。
――どうか、この人が歩む道に、
ほんの少しでも光がありますように、と。
執務室の扉が静かに開いた。
外の光がわずかに差し込み、長い影が床を横切る。
ルシウス・マルフォイだった。
銀糸のような髪を完璧に撫でつけ、仕立ての良い黒のローブを纏っている。
その姿には一分の隙もなく、どこか冷ややかな威圧感が漂っていた。
「ルシウス」
レギュラスは立ち上がり、丁寧に一礼する。
ルシウスは薄く笑いながら、静かに部屋を見渡した。
「見事に片付けてくれているようだな。さすがだ、レギュラス。」
レギュラスはわずかに口角を上げて応じた。
「ええ。騎士団側からの再審要求の退けには少々時間を要しましたが、なんとか。」
その声は穏やかだったが、言葉の裏に隠された疲労と緊張を、アランはすぐに感じ取った。
ルシウスの視線がゆっくりと部屋の片隅に向かう。
そこにアランがいた。
静かに本を閉じていたが、その瞬間、彼女の全身が強張る。
「ああ……」とルシウスが低く呟いた。
「随分と見違えるほどになったものだな。」
その言葉には皮肉でも賞賛でもない、奇妙な含みがあった。
アランはその響きに、冷たい汗が背を伝うのを感じた。
彼の声の奥に、過去の闇が潜んでいる。
――この男は、あの地下牢を知っている。
自分が鎖に繋がれていた、あの絶望の場所を。
レギュラスは、アランのわずかな震えに気づいた。
瞬間的に立ち上がり、穏やかな調子で話題を逸らす。
「どういったご用件でお越しに?」
ルシウスは、薄い唇に笑みを浮かべる。
「そうだ。頼みがあって来た。」
彼は杖の先でレギュラスの机に置かれた書類を軽く叩いた。
「闇の帝王が……自らグリンデルバルドのもとを訪れられた件だ。」
レギュラスの眉がかすかに動く。
「……探し求めていたニワトコの杖、ですか。」
「察しがいい。」とルシウスは愉快そうに言う。
「その件を、騎士団や魔法省に知られてはならぬ。
闇の帝王は、すでにグリンデルバルドを始末なさった。
だが、早急に証拠を消す必要がある。――君に、改竄を頼みたい。」
レギュラスは深く息を吸った。
「証拠の改竄は……ご存じの通り、重罪にあたりますが。」
その声は静かだが、底に潜む緊張は明白だった。
ルシウスは肩をすくめ、あざ笑うように目を細める。
「それを涼しげにやってのけるのが、君だろう?」
「……。」
「闇の帝王も、君の腕に期待しておられる。」
その言葉は、甘い毒のようだった。
称賛にも似た響きの中に、逃れられぬ命令の鎖が潜んでいる。
レギュラスは沈黙したまま、ペンを指の間で転がした。
カチリ、と微かな音が響く。
部屋の空気がわずかに重くなる。
アランはその横顔を見つめながら、息を潜めた。
ルシウスの銀の瞳が、まるで試すようにレギュラスを見つめていた。
「――君ならば、うまくやれる。」
その声は滑らかで冷たく、蛇の囁きのように心の奥へと忍び込んでくる。
レギュラスは静かに目を伏せ、短く頷いた。
「……承知しました。」
アランの胸の奥に、得体の知れない不安が湧き上がった。
彼がまた、危うい闇の中へ足を踏み入れていく――そんな気がした。
けれど――今、目の前にあるのはまるで別の世界だった。
レギュラスの指が、自分に触れるたび世界がやわらかく色づいていく。夜更けの灯が揺れるたび、彼の髪が微かに光り、呼吸が自分の頬へ落ちる。優しさとはこういうものなのだと、アランは初めて知った。何かを奪うのではなく、包みこみ、確かにひとつの存在として受け止めてくれる――そんなぬくもり。
心臓が痛いほど跳ねた。身体が知らない言葉で訴えかける。まるで自分の一部なのに、別の誰かが動かしているような不思議な感覚。羞恥が波のように押し寄せ、唇が震え、逃げ出したいのにどうしても離れられなかった。
その一瞬一瞬に、甘く弾けるような幸福が溶けていく。悲しみも孤独も、ひとひらずつ解け落ち、代わりに温かい光が隅々まで染み込んでくる。
レギュラスの顔がそっと歪む。苦しそうなのに、それが息を呑むほど美しい。光と影が彼の頬を撫で、吐息がアランの耳をくすぐる。その呼吸の荒さがどこか痛ましくて、けれど心を焦がすように甘い。声が、名前を呼ぶ。何度も、まるで祈りのように。
その響きが胸の奥に落ちるたび、アランは震えた。自分という存在がようやく誰かに届いた気がした。その名が、尊く、ひとりの人間として慈しまれていることを、初めて知った。
大きな波に呑まれるように、思考が崩れていく。白い光の中、しがみつかなければ消えてしまいそうで、アランは夢中でレギュラスを抱きしめた。
彼の体温が、今だけはすべてだった。痛みも恐怖も、遠くの記憶へと流れ去る。
夜は静かに更けていく。世界のどこかで鐘が鳴るように、胸の奥が静かに震えた。
この夜、アラン・セシールにとってレギュラスは、世界そのものになった。闇の底で生まれた二人の孤独が、ようやく寄り添い、ひとつの光に変わっていった。
夜は静寂のうちに明け、幸福の残り香は、夜明けとともに脆く崩れ去った。
レギュラスの腕に刻まれた闇の印が、黒々とした疼きを放ち始める。
それは召集の合図だった。
肌を焼くような痛みが、昨夜の甘やかな余韻を無惨に引き裂いていく。
幸福に塗れた夜があれば、必ずその反動のように、絶望が訪れる――
まるでこの世界の理のように。
まだアランは眠っていた。
月の光を浴びたままのような白い肌に、穏やかな寝息がかすかに触れる。
その横顔はあまりにも静謐で、触れれば壊れてしまいそうだった。
頬にそっと唇を寄せる。
“すぐ戻る”――そう言葉を飲み込みながら。
彼女を残して闇の呼び声に応じるたび、胸の奥で何かが冷たく沈んでいくのを感じた。
呼び出しの間には、既に多くのデスイーターが集っていた。
空気は濃密で、息をするたびに鉄のような匂いが肺を満たす。
松明の明かりに照らされたヴォルデモートの影は、壁に歪みながら広がっている。
まるでその存在がこの場のすべてを飲み込んでいくかのようだった。
レギュラスは一番後ろの席に腰を下ろした。
静寂が支配する中、中央の石の台の上には、二人の男女が並べられている。
呪詛の痕が皮膚に焼きつき、震える呼吸だけが生の証のようにかすかに揺れていた。
「愚かしい真似をした裏切り者がいる。」
ヴォルデモートの声が、冷えた刃物のように場を裂く。
誰も目を上げない。
上げれば命を失うことを、全員が知っていた。
「汚らわしいマグルと情を交わし、我らを裏切った。」
その言葉に続くのは、沈黙――そして恐怖だった。
レギュラスの視線が自然と男女の方へと引き寄せられる。
倒れ伏した女の瞳がわずかに開き、光を宿している。
その瞳は、翡翠色――アランの瞳と、酷似していた。
刹那、心臓が軋んだ。
まるで胸の奥を掴まれたような痛みが走る。
ヴォルデモートの杖が持ち上がる。
その動きの一つ一つが、ゆっくりと時間を引き延ばしていくようだった。
「アバダ・ケダブラ。」
緑の閃光が走り、空気が裂けた。
二人の身体が硬直し、次の瞬間、石の台に沈む。
音はなかった。だが、確かに“終わり”がそこにあった。
誰も息をしない。
沈黙が重く降り積もる。
ヴォルデモートはその冷ややかな瞳で集団を見渡す。
「裏切りは、死よりも愚かな選択だ。」
その言葉の意味は、刃より鋭くレギュラスの心を貫いた。
今の行いが、自分への警告であることを理解していた。
彼はアランを地下牢から救い出し、代わりに“セシールの血を残す”と約束した。
それがヴォルデモートへの忠誠の証であり、彼女を得るための唯一の代償だった。
だが、時間は残酷だ。
まだその“結果”を差し出せていない。
約束を果たさぬまま、こうして呼び出されるたびに、喉の奥で焦燥が苦く滾った。
昨夜の彼女の温もりを思い出す。
愛したのは取引のためではなかった。
欲望でもなく、義務でもなく、ただ愛だった。
それでも――自分でももう、何が真実なのか分からない。
“愛”という言葉が、いつの間にか“義務”と“恐怖”に染まり始めている。
静かに、確実に。
レギュラスは俯いたまま、唇を噛む。
目の前で息絶えた男女の亡骸を見つめながら、
胸の奥で、ひとつの誓いが音もなく砕けていく音がした。
幸福な夜は、夢のように儚く、
朝は、現実の冷たさと血の匂いに満ちていた。
法務部の一日は、灰色の空のように重かった。
部屋の中には、乾いたインクの匂いと紙の擦れる音だけが漂っている。
デスクの上には積み上がる書類の山。その中の一枚が、レギュラスの目を止めた。
――マグルの女、失踪事件。
魔法界への協力依頼。
何気なく写真を手に取り、目を落とす。
その瞬間、時間が止まった。
写っていたのは、あの夜、闇の帝王の足元で息絶えた女だった。
翡翠の瞳。
アランと同じ色。
光を宿しているようで、どこか儚いその瞳が、紙の上から彼を見上げていた。
まるで問いかけてくるように――「なぜ見て見ぬふりをするの」と。
胸の奥が冷たく疼いた。
レギュラスはゆっくりと書類を裏返す。
そして、静かに口を開いた。
「ここは魔法界です。一マグルの失踪で我々の手を煩わせるわけにはいきません。」
声はいつもより硬く響いた。
室内の空気がわずかに張り詰める。
沈黙ののち、一人の若い職員が言葉を選びながら口を開いた。
「ですが……彼女は、魔法使いと接触があったとの報告もあります。少なくとも調査を――」
「我々は“尊い力”を持つ者です。」
レギュラスは遮るように言い切った。
「その力は、マグルの女を探すために使われるものではありません。」
ペン先が紙を滑る音だけが響く。
彼は書類の欄に否決のサインを書き込み、無言で押印した。
職員たちの顔に不満の影が走る。
それでも誰も、ブラック家の名を持つ男の決断に逆らうことはなかった。
重い足音を残して部屋を出ていく背中を、レギュラスは静かに見送った。
――探しても無駄だ。
あの女はもう、この世にはいない。
あの夜、闇の帝王が放った大蛇が、骨の一片さえ残さず喰らい尽くした。
レギュラスは目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、あの翡翠色の瞳。
アランの瞳と重なって、胸の奥が鈍く締め付けられる。
そのとき、柔らかな視線に気づいた。
アランが、執務室の隅のソファから静かにこちらを見ている。
本を膝に置いたまま、彼女は小首を傾げていた。
瞬間、レギュラスの表情に焦りが走る。
彼女に、今の冷たい言葉を聞かせたくはなかった。
「……すみません。少し、きつく言ってしまいましたね。」
慌てて笑みを作りながら近づく。
アランはそっと首を振った。
その仕草には、責めも恐れもなかった。
ただ、静かに「わかっています」と伝えるように。
レギュラスはその瞳を見つめる。
翡翠の光が、あの写真の女とは違う、確かな“生”の色を宿していた。
自分が守らねばならない命がここにある――そう強く思った。
彼はアランのそばに腰を下ろし、
震えぬように彼女の指先を包む。
冷たい指だった。
けれどその冷たさの奥に、確かに生きている鼓動を感じた。
「大丈夫です。」
小さく呟くように言ったその声は、彼自身に向けた祈りにも似ていた。
外の窓には、曇り空の隙間から一筋の光が差していた。
その淡い光がアランの髪に触れ、柔らかに揺れる。
レギュラスは、その光景を胸の奥に刻みつけた。
冷たい現実の中に、たったひとつの救いを見たように。
法務部の長い廊下を歩いていた。
冬の魔法省はどこも冷え切っていて、薄暗い灯りが床に影を落としている。
アランは静かに彼の隣を歩いていた。手には書類の束。杖を持つ指先がまだ冷たい。
あと少しで扉の先の階段を降りれば外だった――その時。
「……よぉ、レギュラス。」
その声を聞いた瞬間、心の奥で小さな舌打ちをしたくなった。
廊下の向こうから、黒いコートの裾を翻して歩いてくる男。
灰色の瞳、癖のある黒髪――兄、シリウス・ブラック。
出会いたくない時ほど、なぜこうも現れるのか。
運命が皮肉を好むのなら、まさに今がそれだ。
「てめぇ……あの捜査協力の否決、取り消しやがれ。」
怒声が廊下に響いた。
周囲にいた職員が振り向き、空気が一気に張り詰める。
シリウスの手が外套の下で杖に伸びるのが見えた。
今にも飛びかかってきそうな勢いだ。
レギュラスはぐっと奥歯を噛みしめ、冷静に口を開く。
「人目があります。……場所を移しましょう。」
「上等だ、クソガキ。」
吐き捨てるような声。
その瞬間、アランの視線が不安に揺れた。
彼女の前で兄とやり合うことだけは、絶対に避けたかった。
「アラン、執務室に戻って待っていてください。」
レギュラスは小さな銀の鍵を彼女の掌にそっと乗せた。
戸惑いと心配の入り混じった瞳がこちらを見上げる。
「大丈夫です。」
囁くように言い、微笑んだ。
その笑みの裏で、胃の奥が冷たく痛んだ。
二人が移動したのは、使われていない資料庫だった。
壁一面に古い書類棚が並び、埃とインクの匂いが混じり合っている。
レギュラスは扉を閉めると同時に杖を抜いた。
振り返ると、兄もすでに構えている。
光を帯びた杖先が、狭い空間に不穏な輝きを落とした。
「どう考えても闇の連中が絡んでる事件だろう。お前、それを隠そうってのか?」
「ただのマグル一人の失踪を、無理やりこじつけるのはやめてください。」
「こじつけじゃねぇ!」
シリウスの声が唸る。
拳が震え、怒気が立ち上る。
「わかってんだろう、お前も!」
二人の間に火花が散ったような緊張が走る。
レギュラスはゆっくりと杖を下ろした。
怒りが溢れていたが、それ以上に――無力感が押し寄せた。
兄と自分は、どこまでいっても交わらない。
「あなたの言う理想は、あまりにも夢想的だ。」
レギュラスの声は低く沈む。
「マグルの残忍さを、あなたは見ようとしない。彼らは刃を取り、銃を持ち、血を流して殺し合う。恐れから、魔法族を追い詰める。」
シリウスは鼻で笑った。
「じゃあ、お前の言う“尊い魔法族”は何をしてる?
同じように血を選び、支配し、殺してるじゃねぇか。」
沈黙。
どちらの言葉も、痛みを孕んでいた。
だが、レギュラスの脳裏には焼け落ちたセシール家の屋敷が浮かぶ。
瓦礫の中で流れた赤い血。
まだ幼かったアランが、闇の中で泣きもせず佇んでいた記憶――。
「マグルは、セシール家を滅ぼした。」
絞り出すような声で言う。
「封印の力を恐れ、一夜で全てを焼き払った。
あれが“平等”ですか? “共存”ですか? あれがあなたの語る理想の姿ですか?」
シリウスの眉がわずかに動いた。
だが、何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
埃が舞い、二人の間に光の粒が漂う。
時間が止まったかのような瞬間。
「……あの女は、何者だ。」
シリウスが低く問う。
「あなたには関係ありません。」
「てめぇが連れ回してる女だろ。何もねぇわけがない。」
「余計な詮索はやめていただけますか。」
短く返す声は、鋭く冷たい。
その裏に、微かに震える何かがある。
怒りか、恐れか、それとも悲しみか。
兄弟は互いに睨み合った。
杖を下ろしても、戦いは終わらない。
言葉も、思想も、互いを傷つける刃だった。
この資料庫の狭い空間の中で、
二人の間には血の絆よりも深い断絶が横たわっていた。
――どこまでも、交わらない。
それが、ブラック兄弟の運命だった。
静寂が戻った時、レギュラスは背を向けた。
扉の向こうには、彼を待つ翡翠の瞳がある。
その存在だけが、彼を人の形に留めていた。
シリウス・ブラックは、酒の抜けきらない夜明けのような重い息をついた。
あの憎き弟――レギュラスの名を思い出すだけで、胸の奥がざらついた。
先日の口論で、あいつは不意に“セシール家”という名を持ち出した。
その一言が、頭の中にこびりついて離れない。
セシール家――。
その名は、十数年前、魔法界とマグル界を同時に震撼させた一族の名だ。
「封印魔法」の継承を生業とし、闇にも光にも属さず、ひたすら“均衡”を保つ存在。
彼らは、力そのものを封じ込めることができた。
どんな呪いも、どんな闇の力も、彼らの封印の前では沈黙する。
それゆえ、マグルにとっては恐怖の象徴であり、脅威でもあった。
新聞がその話題を連日報じていたあの頃を、シリウスはまだ鮮明に覚えている。
“セシール家全滅”。
その見出しが一面に躍った。
燃え落ちた屋敷。
銃弾の痕。
焼け焦げた本、溶けた銀器、血に濡れた庭。
魔法族であっても、マグルの鉄と火器の前では命を落とすことがあるのだと、世界が知った事件だった。
若き当主と呼ばれた青年も、幼い娘も、誰一人として生き残らなかったと伝えられていた。
痛ましい事件――だが、人々は時間と共に忘れていった。
新たな事件が起これば、また次へ。
世界は常に忙しく、残酷に流れていく。
シリウスはその夜、騎士団の本部でジェームズと共にソファに腰を下ろしていた。
暖炉の火が低く唸る。
手元のウイスキーグラスの氷が、静かに溶けていく音だけが響いていた。
「……なあ、ジェームズ。」
「なんだ?」
「セシール家って名、聞いたことあるか?」
ジェームズは眉をひそめ、思い出すように天井を仰いだ。
「封印魔法を使う一族の話か? ああ、覚えてるよ。確か十年以上前に滅んだろう。」
「……そうだ。」
シリウスは低く息を吐く。
記憶の奥に、あの女の顔が浮かんだ。
レギュラスの執務室で見た、あの翡翠の瞳。
声を持たず、静かに微笑んでいた女。
普通ではないと直感した。
彼女の存在は、ただの“愛人”などという言葉で片付けられないものを纏っていた。
「おいジェームズ……」
「ん?」
「もしだ。もし、あの女が――セシール家の生き残りだったとしたら?」
ジェームズの表情が固まった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てて弾ける。
一瞬、部屋の空気が凍りついたようだった。
「まさか。あの一族は完全に滅びたはずだ。」
「けど、生き残りがいたらどうする?」
シリウスの声には、冗談の色がなかった。
むしろ、ひどく現実的で、どこか冷たい響きがあった。
ジェームズは考え込み、ゆっくりとグラスを置く。
「……封印魔法は、闇をも支配する力だ。もしその力を闇の側が再び手にしたら……」
「そうだ。」
シリウスは苦々しく唇を噛んだ。
「闇の魔法使いたちにとって、セシール家の力は核になる。
絶対的な封印。絶対的な守り。
闇を守るための“要塞”になる。
……恐ろしい女だよ。」
彼の背中を、冷たい汗が伝った。
あの女の瞳が思い出される。
美しい――それは確かだった。
だが、あの美しさは人を惹きつけるためのものではない。
あれは“静かなる力”の象徴だ。
底知れぬ何かを秘めていた。
「やっぱりな。」
シリウスは小さく呟いた。
「ただの女じゃねぇと思ってた。……あの弟のことだ。美貌だけで連れ歩くような馬鹿じゃない。」
ジェームズは腕を組み、黙り込んだ。
二人の間を、重い沈黙が満たす。
暖炉の火が小さく揺れ、炎の光がシリウスの顔を照らした。
その灰色の瞳は、いつになく深く沈んでいる。
もし――。
もし、あの女が本当に“セシール家の生き残り”ならば。
あの弟は、世界を揺るがすほどの力を、手にしているのかもしれない。
シリウスは立ち上がり、窓の外を見た。
冬の空気が冷たく、外の闇が果てしなく広がっていた。
胸の奥で何かがざわめく。
不安、怒り、そして……恐れ。
「レギュラス。お前、いったい何を企んでるんだ……」
低く呟いた声は、炎の音に溶けて消えた。
執務室の空気は、紙とインクの匂いに満ちていた。
レギュラスの手元で羽根ペンが忙しなく動き、書類を滑る音が部屋の静けさを切り裂く。
その微かな音の中に――アランは確かに感じ取っていた。彼の苛立ちを。
顔に出すまいと必死に抑えているのがわかる。
眉間のわずかな皺、筆先が止まる瞬間、言葉を発するまでの短い間。
それら全てが、彼の中にある不安と焦燥を物語っていた。
アランは、彼のそういう表情を見るのが好きだった。
怒りでも悲しみでもない、ただ感情というものをまとった彼の横顔が――人間らしく、愛おしかった。
だから本を読みながらも、窓の外を眺めながらも、何度も何度も彼を盗み見てしまう。
そのたびに胸が温かく満たされ、そして今日のように、苦しく締め付けられるのだ。
声が出せたなら――と、アランは何度も思った。
慰める言葉を贈れたなら。
励ます声を届けられたなら。
それができないから、せめて魔法で想いを伝えたかった。
アランは静かに杖を取り、唇をかすかに動かした。
声にはならない。けれど、心の奥から想いを絞り出す。
銀色の光が杖先から溢れ、ふわりと宙を舞った。
やがて、それはひとつの形を成す。
白銀の羽根を持つ小さな鷲――彼女の心を映した守護霊だ。
星屑を纏ったような翼が、空気を震わせながらレギュラスの目の前をゆっくりと旋回する。
机の上の書類がわずかに揺れ、銀光がその瞳に反射した。
レギュラスはペンを止め、驚いたように見上げた。
その表情が、柔らかな微笑みに変わっていく。
「……守護霊の呪文ですか。」
静かな声が響く。
「ずいぶんと高度な魔法を身につけましたね。」
その言い方は、まるで子を褒める父親のように優しかった。
アランの胸に温かいものが満ちていく。
嬉しさと、切なさと、言葉にできないほどの愛しさ。
彼女は微笑んだ。
そして、鷲はレギュラスの肩のすぐそばに降り立ち、羽を一度だけ震わせると、
夜空の星が砕けたように静かに光を散らして消えた。
レギュラスはその光を見つめながら、ふと息をのむ。
ほんの一瞬、胸の痛みも焦りもすべてが消え去るような静寂。
穏やかな幸福が、まるで魔法のように心を包んだ。
アランがこの呪文を放つ時に思い浮かべた幸福の記憶――
それは、彼の腕の中で迎えたあの夜だった。
初めて抱かれ、恐れではなく愛に包まれた時間。
その夜の温もりが、こうして形を持って現れたのだ。
レギュラスは机越しに彼女の瞳を見つめた。
翡翠のように澄んだその光の中に、自分だけを映している。
そして初めて気づく――
この少女が自分に向けてくれる愛は、
どんな魔法よりも、強く、純粋で、
そして誰よりも美しいのだと。
法務部の廊下は、いつになく静まり返っていた。
午後の陽光が窓から差し込み、床に伸びる光の帯がゆらりと揺れている。
その中を、シリウス・ブラックが無言で歩いていた。
その足取りには目的があった。――弟、レギュラス・ブラックの執務室。
彼はここ数日、ある確信に囚われていた。
あの弟が、あの女を連れ歩く理由。
そしてあの日、口論の中で唐突に口にした「セシール家」という名。
滅びたはずの一族。
しかし、弟の口からその名が出たということは――偶然ではない。
シリウスはまず、法務部職員を魔法法廷に呼び出すための小細工を仕掛けた。
「闇払いの証言確認が必要だ」
「捜査記録の照合を行う」
そんな名目をでっちあげ、形式上の召集をかける。
法務部の職員が一斉に席を立ち、魔法法廷へと移動する時間――。
それが、たった十五分の“空白”を生む。
シリウスはその一瞬を狙っていた。
重厚な木の扉の前に立ち、耳を澄ます。
中からは、物音ひとつ聞こえない。
静かに扉を押し開けると、そこには――いた。
アラン。
執務室の窓際に佇む女。
柔らかな光に照らされた翡翠の瞳が、ふとこちらを振り向く。
その瞬間、シリウスの呼吸がわずかに止まった。
どこか儚げで、けれど抗えないほどの存在感を放つ女だった。
光を浴びたその横顔は、絵画のように静謐で、どこかこの世のものではないような気配を纏っていた。
「ああ……よぉ。」
シリウスは手を軽く上げ、努めて柔らかい声で言った。
「驚かせたいわけじゃねぇんだ。」
アランは最初こそ肩を震わせたが、すぐに相手が誰かを理解したようだった。
微かに笑みを浮かべ、杖を取って空中に文字を描く。
――こんにちは。
その優しげな挨拶に、シリウスは不思議な感覚を覚えた。
レギュラスとは正反対の穏やかさ。
静けさの中に、底知れぬ何かが潜んでいる。
「おまえ、名前は?」
アランはまた杖を振る。
流れるような筆致で、空中に一行の名が刻まれた。
――アラン・セシール。
その瞬間、シリウスの背筋に冷たいものが走った。
セシール。
まさか――まさか本当に。
「……セシール、だと?」
低く呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。
頭の中で、いくつもの記憶と仮説が一瞬で繋がっていく。
レギュラスが“あの名”を出した理由。
あの女の只者ではない雰囲気。
全てが一本の線で結ばれる。
滅びたはずの一族――セシール家。
封印魔法を司る、恐るべき血。
もしそれが本当にこの女の中に受け継がれているのだとしたら、弟はとんでもないものを手に入れたことになる。
それは世界の均衡を左右する“鍵”そのものだ。
シリウスは無意識にアランを見つめていた。
その視線には探るような色が滲む。
だがアランは、怯えも警戒も見せなかった。
むしろ、穏やかに微笑んで見せた。
まるで――「私は敵ではありません」と言いたげに。
「おまえ……あいつの女なのか?」
そう問う声は、予想以上に乱れていた。
アランは一瞬、意味を測りかねたように首を傾げた。
翡翠の髪が肩にかかり、光を受けて揺れる。
その仕草さえも静謐で、挑発とも無垢とも取れた。
「いや、その……なんだ、つまりだな。」
シリウスは頭を掻きながら言葉を探す。
「アイツと、どういう関係なんだって意味だ。」
その質問に、アランは杖をそっと掲げ、空中に文字を浮かべた。
――レギュラスが助けてくれたのです。
たったそれだけ。
だが、その言葉にはあまりにも多くの意味が詰まっている気がした。
どこから助けた? 何から? なぜ?
マグルからか、闇の勢力からか。
それとも――封印された過去そのものからなのか。
聞きたいことは山ほどあった。
だが、口を開けばこの静けさを壊してしまう気がした。
シリウスは一歩踏み出し、女の瞳をまっすぐに見た。
その奥には、確かに“人間の痛み”があった。
そして同時に、“神秘の影”も。
「……そうか。」
それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。
扉の向こうでは、法廷に召集された職員たちが戻ってくる気配がする。
時間はもう尽きていた。
部屋を出る前に、シリウスはもう一度振り返った。
アラン・セシール。
この名を、これから忘れることはない。
――彼女は、弟を変えた女だ。
――そして、世界を再び動かす女でもある。
静かに扉を閉める音が、法務部の廊下に消えていった。
廊下に出た瞬間、背後から小さな足音が響いた。
それは軽やかでもあり、必死でもあった。
呼び止める声はない――声を持たぬ彼女は、ただ手を伸ばした。
シリウスの手首を掴む。
振り返ったその瞬間、視界に翡翠の色が差し込んだ。
彼女の瞳が、真っ直ぐに自分を見上げていた。
まるで光をそのまま閉じ込めたような、深く透きとおる緑。
シリウスは息を呑む。
掴まれた手首から、冷たくも熱を帯びた指先の震えが伝わってくる。
心の奥が、静かに――しかし確かに揺れた。
恋などという言葉ではとても表せない。
それはもっと深いところで、魂の一部をもぎ取られるような感覚だった。
抗えない吸引力。理屈も、理性も、その瞬間には意味を失った。
「……なんだ?」
言葉に出してみても、声はやけに掠れていた。
アランは杖を取り、宙にやわらかな筆跡を描く。
銀の光が一文字ずつ浮かび上がる。
――レギュラスと喧嘩をしているの?
その文を見た瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
喧嘩――そんな軽いものではない。
もはや修復など望めぬ、根の深い断絶。
シリウスは苦笑をこぼすように息を吐いた。
「……喧嘩なんてもんじゃねぇよ。
一生埋められねぇ溝があるんだ、俺たちの間には。
信念が違う。理想も、見てる世界も違う。どう足掻いても交わらねぇ。」
アランは悲しげに眉を寄せ、それでも静かに杖を振った。
浮かび上がった言葉は、たったひとつ。
――レギュラスを悲しませないで。
その一文に、シリウスの胸がまた強く締めつけられた。
この女が弟を慕っている――それがひどく伝わった。
目の前の女は、ただの装飾でも、束の間の慰めでもない。
弟にとって、きっと特別なのだ。
シリウスは一度視線を落とし、小さく笑った。
「……おれも、好きで傷つけてぇわけじゃねぇんだ。」
吐き出すようにして言葉をこぼす。
それは誰に向けたわけでもない、ただの本音だった。
アランは一瞬、彼の目を見つめた。
その瞳に、何かを読み取ったようだった。
杖がもう一度動く。
――あなたも傷つかないで。
――レギュラスと同じ瞳をしているから。
――あなたの苦しむ顔も、見たくない。
シリウスは息を詰まらせた。
その瞬間、まるで胸の奥を照らされるような気がした。
自分でも気づかなかった痛みの色を、この女は見抜いている。
翡翠の瞳が、穏やかに揺れる。
美しかった。
その笑みは、ただの人間のものではない。
赦しと祈りを内包したような、神秘の微笑みだった。
「……このことは、レギュラスには黙っててくれ。
知れたら……色々と面倒だからな。」
アランは静かに頷いた。
その仕草は言葉よりもずっと優しく、重たかった。
指先が離れる。
手首に残る温もりだけが、彼女の存在の証のように残る。
シリウスはその感触を振り払うように息を吐き、背を向けた。
――だが、胸の奥で確かに何かが揺れていた。
あの翡翠の瞳が焼きついて離れない。
弟の女。封印の血を継ぐ女。
それでも、その微笑みに宿る光は、あまりにも人間らしかった。
廊下の先、遠ざかる足音が静かに響く。
そしてその音に混じるように――アランの長い髪が、
風にほどけるように揺れた。
騎士団本部――ランプの灯りがともる薄暗い一室に、
シリウス・ブラックは足音も荒く戻ってきた。
外の冷気をまとったままコートを脱ぎ捨て、深く息を吐く。
古びた木の床が軋む音が、静まり返った部屋の中に小さく響いた。
「おい、ジェームズ。」
低く呼びかける声に、暖炉の前で書類を眺めていたジェームズ・ポッターが顔を上げる。
彼は椅子に腰かけたまま、片眉を上げた。
「顔つきがいつもより険しいな。何か掴んだのか?」
シリウスは言葉を選ぶように間を置いてから、短く答えた。
「……いた。弟の執務室に、女が。」
その一言で、ジェームズの表情が変わった。
「例の女か?」
「ああ。」
「で?」
シリウスは額に手をあて、深く頭を振る。
「……アラン・セシール。そう名乗った。」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が一変した。
ジェームズの手から書類が滑り落ち、紙が床を滑る音がした。
「セシール……だと? まさか……」
「まさか、じゃねぇ。間違いねぇ。」
沈黙が落ちる。
暖炉の炎がぱちりと弾け、赤い光が二人の間を照らした。
ジェームズは腕を組み、重く息をつく。
「君の勘はほんとに素晴らしいな、シリウス。」
「感心してる場合じゃねぇ。」
シリウスは机を拳で叩いた。
「もしあの女がヴォルデモートの核になる何かを守っているのだとしたら――」
言葉を切り、彼は焦げるような声で続けた。
「世界はもう、取り返しのつかない方向に動いてる。」
「核って……封印ってことか?」
ジェームズの問いに、シリウスは小さく頷く。
「セシール家の封印の力。
あれは術者の血が続く限り永遠に解けない。
術を解く方法を知っているのは、その血を継ぐ者だけだ。
つまり――あの女が生きてる限り、封印も生き続ける。」
ジェームズの目が鋭く光る。
「じゃあ、レギュラスは彼女を守ってる。封印を守るために。」
「……そうだ。」
シリウスは低く言った。
「弟はあの女を“救い出した”ように見せかけて、その実――利用してるんだ。
あの血をブラック家に注いで、“純血主義の象徴”として掲げるつもりなんだよ。」
吐き捨てるような声には、怒りと悲しみが入り混じっていた。
「まるで、血のために心を売ったみたいだ。」
ジェームズは深く椅子に背を預け、目を閉じた。
しばしの沈黙ののち、静かに言葉を紡ぐ。
「たどっていけば、彼女もきっと被害者なんだろうな。」
シリウスは、暖炉の炎を見つめたままうなずいた。
その瞳には、あの翡翠の輝きが焼きついている。
「……ああ。そうだと思う。」
「彼女、どんな人だった?」
「……綺麗な人だった。」
声は、どこか遠い場所を見つめるように静かだった。
「優しい目をしてた。
レギュラスを心の底から慕ってるのが、伝わってきた。
……でも、それが余計に苦しかった。」
炎が彼の横顔を照らす。
怒りではなく、憂いの影がそこに落ちていた。
「純粋に、救ってやりてぇと思ったんだ。
あんな世界に縛られたままで終わらせたくねぇ。
……弟のもとから、自由にしてやりてぇ。」
その声には、どこか自分でも理解しきれない熱が宿っていた。
ジェームズは彼の言葉を静かに受け止め、頷いた。
「お前らしいな、シリウス。」
「違うんだよ、ジェームズ。」
シリウスは拳を握る。
「ただ、放っておけなかった。
あの瞳を見た瞬間、何かが……どうしようもなく掴まれたんだ。」
ふたりの間に、再び沈黙が訪れる。
暖炉の炎が、静かに弾けた。
やがてジェームズが立ち上がり、肩に手を置いた。
「――だったら、救ってやれ。」
「……ああ。」
シリウスは小さく息を吐いた。
その目に、覚悟と哀しみが交錯していた。
どんな理由があろうと、
たとえ弟を敵に回すことになろうとも――
アラン・セシールという名の女を、この闇の鎖から解き放たねばならない。
それが“正義”だと、彼は信じていた。
執務室の空気は夕方の光に包まれていた。
金色の斜陽が窓から差し込み、机の上の書類の端をやわらかく照らしている。
レギュラスが戻ってきた時、アランはすぐに立ち上がった。
「すみません、証言内容と照らし合わせが必要だとか何だとかで……長引きました。」
そう言って、彼は少し疲れたように笑った。
その笑みの裏に、張り詰めた糸のような緊張が潜んでいるのをアランは感じ取った。
彼はいつも通り穏やかに装っている――けれど、その目だけが、どこか遠くを見ている。
アランは静かに首を振った。
「いいのです」と言いたかったが、声が出ない。
ただ、微笑んで見せることで代わりに伝えた。
ほんの数日前――廊下で、二人がすれ違った。
シリウス・ブラックとレギュラス・ブラック。
兄弟でありながら、互いに視線すら合わせなかった。
すれ違う瞬間、二人の間の空気が、まるで刃のように鋭く張り詰めていた。
レギュラスの顔がわずかに強張り、
シリウスの眼差しは、静かな怒りを含んでいた。
言葉を交わさずとも、そこにある確執は明白だった。
その一瞬を見ただけで、アランにはわかってしまった。
――この兄弟は、きっともう、元には戻れないのだと。
レギュラスが兄のことを語らない理由も、ようやく理解できた気がした。
きっと深いところで、なにかがもつれてしまったのだ。
解こうとすればするほど、さらに絡まっていくような。
触れれば壊れてしまうほど脆く、繊細な感情の塊。
だから彼は、決してそれを語らないのだ。
アランは机の上の本を閉じ、そっとレギュラスを見つめた。
彼の指先が羽ペンを持ち、淡々と書類にサインをしていく。
その姿があまりにも整然としていて、
そこに秘められた苦しみが、かえって浮き彫りになるようだった。
――シリウスは言っていた。
レギュラスとは信念も理想も、何もかもが違うのだと。
アランには、その「信念」が何を指しているのかはわからない。
レギュラスがどんな未来を見ているのか。
なぜ、闇の帝王と呼ばれる人物に仕えているのか。
その理由を尋ねたこともなければ、聞けるような勇気も持っていない。
ただ、アランは知っている。
レギュラスが自分をあの暗闇から救い出してくれたという事実を。
鎖に繋がれ、名も尊厳も奪われていたあの牢獄から、
初めて光を見せてくれたのは彼だった。
あのとき差し出された手の温もりは、
今でも掌に残っている気がする。
彼の言葉ひとつ、微笑ひとつが、
世界の全てを穏やかに変えてくれた。
――だから、信じたかった。
レギュラスが何を選び、どんな道を進もうと。
その先にあるものが、闇でも光でも。
彼の信念を、同じように抱えていきたい。
彼が見ている未来を、自分も見たいと思った。
彼が信じるものを、自分も信じたいと思った。
それが正しいかどうかなど、もうどうでもよかった。
アランにとって、レギュラスは光そのものだった。
彼の存在が世界の中心であり、
その笑顔ひとつで、全てが報われる気がした。
――だからこそ、彼の抱く理想を、自分も抱えたい。
たとえ、その理想の中に、どんな闇が潜んでいたとしても。
レギュラスが筆を置いた音が、静かな部屋に響く。
アランはその音を合図に、そっと近づいた。
彼の肩越しに、僅かに灯る夕陽が差し込み、
二人の影が重なり合った。
光と影が一つになるその瞬間、
アランの胸の奥に小さな祈りが生まれた。
――どうか、この人が歩む道に、
ほんの少しでも光がありますように、と。
執務室の扉が静かに開いた。
外の光がわずかに差し込み、長い影が床を横切る。
ルシウス・マルフォイだった。
銀糸のような髪を完璧に撫でつけ、仕立ての良い黒のローブを纏っている。
その姿には一分の隙もなく、どこか冷ややかな威圧感が漂っていた。
「ルシウス」
レギュラスは立ち上がり、丁寧に一礼する。
ルシウスは薄く笑いながら、静かに部屋を見渡した。
「見事に片付けてくれているようだな。さすがだ、レギュラス。」
レギュラスはわずかに口角を上げて応じた。
「ええ。騎士団側からの再審要求の退けには少々時間を要しましたが、なんとか。」
その声は穏やかだったが、言葉の裏に隠された疲労と緊張を、アランはすぐに感じ取った。
ルシウスの視線がゆっくりと部屋の片隅に向かう。
そこにアランがいた。
静かに本を閉じていたが、その瞬間、彼女の全身が強張る。
「ああ……」とルシウスが低く呟いた。
「随分と見違えるほどになったものだな。」
その言葉には皮肉でも賞賛でもない、奇妙な含みがあった。
アランはその響きに、冷たい汗が背を伝うのを感じた。
彼の声の奥に、過去の闇が潜んでいる。
――この男は、あの地下牢を知っている。
自分が鎖に繋がれていた、あの絶望の場所を。
レギュラスは、アランのわずかな震えに気づいた。
瞬間的に立ち上がり、穏やかな調子で話題を逸らす。
「どういったご用件でお越しに?」
ルシウスは、薄い唇に笑みを浮かべる。
「そうだ。頼みがあって来た。」
彼は杖の先でレギュラスの机に置かれた書類を軽く叩いた。
「闇の帝王が……自らグリンデルバルドのもとを訪れられた件だ。」
レギュラスの眉がかすかに動く。
「……探し求めていたニワトコの杖、ですか。」
「察しがいい。」とルシウスは愉快そうに言う。
「その件を、騎士団や魔法省に知られてはならぬ。
闇の帝王は、すでにグリンデルバルドを始末なさった。
だが、早急に証拠を消す必要がある。――君に、改竄を頼みたい。」
レギュラスは深く息を吸った。
「証拠の改竄は……ご存じの通り、重罪にあたりますが。」
その声は静かだが、底に潜む緊張は明白だった。
ルシウスは肩をすくめ、あざ笑うように目を細める。
「それを涼しげにやってのけるのが、君だろう?」
「……。」
「闇の帝王も、君の腕に期待しておられる。」
その言葉は、甘い毒のようだった。
称賛にも似た響きの中に、逃れられぬ命令の鎖が潜んでいる。
レギュラスは沈黙したまま、ペンを指の間で転がした。
カチリ、と微かな音が響く。
部屋の空気がわずかに重くなる。
アランはその横顔を見つめながら、息を潜めた。
ルシウスの銀の瞳が、まるで試すようにレギュラスを見つめていた。
「――君ならば、うまくやれる。」
その声は滑らかで冷たく、蛇の囁きのように心の奥へと忍び込んでくる。
レギュラスは静かに目を伏せ、短く頷いた。
「……承知しました。」
アランの胸の奥に、得体の知れない不安が湧き上がった。
彼がまた、危うい闇の中へ足を踏み入れていく――そんな気がした。
