1章
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レギュラスがアズカバン襲撃事件の処理に追われた日々は、息をすることさえ忘れるほどの緊迫の連続だった。
法務部の石造りの廊下を、朝も夜もなく歩き続けた。黒衣の裾が擦れるたび、乾いた音が耳に残る。
机の上には、報告書、尋問記録、証言書の山。
どれもが彼に説明を求めていた。
「なぜ現場結界の崩壊を事前に予見できなかったのか」
「なぜ、あの時間帯に勤務していた看守が全員無傷だったのか」
「脱獄者の魔力痕跡が消えている理由を、どのように説明するつもりか」
魔法法執行部、尋問局、アズカバン管理局――。
あらゆる機関がレギュラスに矢継ぎ早に証拠と説明を求めた。
そのたびに、彼は淡々と書類を重ね、矛盾を潰し、魔法的証跡を消し去っていった。
時には自ら結界記録に潜り込み、記録の残滓を上書きする。
法務部の技官に頼まれ、結界の再計算を行うふりをしながら、闇の帝王の影を見えない場所へと封じ込める。
その作業は、常に罪悪と恐怖のはざまだった。
――失敗は許されない。
一つの齟齬が、彼自身と、そしてアランを死に追いやる。
気づけば夜が明け、また夜が訪れる。
冷めきったコーヒーの匂いと、蝋燭の焦げる煙だけが、時の経過を告げていた。
数日、屋敷へ戻ることはできなかった。
寝る時間も食事も、すべてを削って帳尻を合わせ続ける。
周囲は疲弊していたが、彼だけは冷ややかなまま、隙を見せることがなかった。
――完璧に仕上げねばならない。
これはただの「報告」ではない。生き残るための盾だ。
そして、ようやくすべての署名が終わり、機関同士の意見照合が完了したとき。
レギュラスは筆を置いた。
深く息を吐く。
視界がにじんで、ようやく自分がどれほど消耗していたのかに気づく。
屋敷に戻ったのは、夜更けだった。
いつもは冷たく静まり返る玄関が、妙に懐かしく感じた。
重い外套を脱ぎ、長い廊下を抜けて寝室の扉を開ける。
アランはそこにいた。
灯の落ちた部屋の中、ベッドの上で静かに座っている。
翡翠の瞳が、扉の音に反応してこちらを見た。
「アラン……」
声がかすれた。
どれだけこの名を呼びたかったか、思い知る。
近づいていくと、アランは小さく首を傾けた。
「ちゃんと食べてました?」
問いかけると、アランはゆっくりと頷く。
医務魔女からも報告を受けていた。
食事はすべて完食。薬も規定通りに飲んでいる。
レギュラスのいない間も、アランは静かにその日々を守ってくれていたのだ。
「偉いですね……」
言葉に滲んだ安堵が、ようやく人間らしい温度を取り戻させてくれる。
アランの頬に触れると、少し温かかった。
翌朝、レギュラスは決意を固めた。
彼女をもう屋敷に置いておくのは危険だと。
母ヴァルブルガの目、屋敷に出入りする使用人の目――。
どれもが、アランを観察し、値踏みし、裁く視線を向けている。
「家族の恥」「血を穢す女」――そんな囁きがどこかで響くたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
だから彼は、次の行動に出る。
その日から、レギュラスはアランを魔法法務局の自分の執務室に連れて行くことにした。
朝、屋敷の門を出る馬車に二人で乗る。
アランは深いフードを被り、外の景色をそっと見つめていた。
法務局の一室――彼の執務室は、書類と本に埋もれた小さな空間だった。
窓際には、午後の光が淡く差し込み、机の上の羽根ペンが銀色に光る。
「面白いものは何もないところですが……」
レギュラスは微笑を浮かべながら言った。
「本を読む場所が屋敷からここに変わったと思ってください。」
アランは頷く。
その動作は、言葉を超えた信頼の証のようだった。
書類を捌きながら、彼は時折横目で彼女の様子を確かめる。
本を読む姿勢、指先の動き、ページをめくる速さ。
一つひとつが、彼の心を静めていく。
――やはり、目の届く場所にいてくれなければ落ち着かない。
レギュラスはペン先を走らせながら、心の中でそう呟いた。
外の世界はあまりにも残酷で、屋敷の中でさえ闇が潜んでいる。
ならば、自分が光で包むしかない。
アランの細い肩に差し込む陽の光を見つめながら、レギュラスは思う。
この平穏な時間だけは、何があっても壊させはしない――と。
法務部の執務室は、屋敷の書斎とはまるで違う空気を纏っていた。
広くはないが、壁一面を埋め尽くす棚には分厚い報告書や法令集がびっしりと並び、机の上には書類が山のように積まれている。
羊皮紙の匂い、乾いたインクの香り、そして時折鳴る羽根ペンの擦れる音。
それらが、静かな緊張感をこの部屋全体に染み渡らせていた。
アランは、レギュラスに連れられてその空間に足を踏み入れた瞬間、思わず小さく息を飲んだ。
屋敷の静謐さとも、書斎の穏やかさとも違う。
ここは、彼が「闇」ではなく「現実」の中で生きている場所なのだと、直感した。
彼女の席として、レギュラスが窓際の一角に小さな椅子を用意してくれていた。
そこに腰掛けて、持参した本を膝に開く。
屋敷から選んできたのは、古代魔法語の解読本と魔法法の入門書。
けれど本を読みながらも、意識の半分は常にレギュラスのほうに向かっていた。
机に向かう彼の姿は、普段と違っていた。
外套を脱ぎ、シャツの袖を少し捲り、冷たい表情のまま書類を睨んでいる。
長い指先が羽根ペンを操り、黒いインクが紙の上に走るたび、光を受けてその軌跡が淡くきらめいた。
眉間に寄った皺、沈思する横顔、静かに唇を動かして文面を確認する仕草。
どれもが、アランにとって新しい――けれど愛おしくてたまらない光景だった。
屋敷では見せない顔。
優しい手の代わりに、今は法務官としての冷静な手。
微笑の代わりに、責任の重さを宿したまなざし。
そのどれもが、彼という人間の奥行きを教えてくれる気がして、アランの胸はじんわりと温かくなる。
レギュラスは忙しそうに署名を続け、時折、他部署の魔法官が書類を抱えて入ってくる。
短い言葉を交わす彼の声は、柔らかくも凛としていて、誰もが自然に彼を中心として動いていた。
アランはその光景を目で追いながら、胸の奥で静かに囁く――
(この人は本当に、たくさんの世界を背負って生きているのだ)と。
やがて、レギュラスが椅子を引いた。
立ち上がりながら、アランの方に優しく視線を向ける。
「アラン、少しこの書類を提出しに出てきます。ここにいてくださいね。」
アランは本を胸に抱いたまま頷いた。
言葉がなくても、伝わる。
その頷きひとつで、レギュラスは微かに微笑む。
扉が閉まる音。
部屋には再び静寂が訪れる。
アランは本を開き直しながらも、しばらくの間、扉の方を見つめていた。
机に残された彼の羽根ペンが、淡い光を反射して輝いている。
紙の上に走る黒い文字の線を指でなぞってみると、ほんのりとインクの温もりが残っていた。
――あの手が、何百という書類に触れても、帰ってくるときは必ず自分を抱きしめてくれる。
そんな確信のような安心が胸の奥に芽生える。
再びページを開く。
でも文字は目に入らなかった。
視界の中に残るのは、レギュラスが羽根ペンを動かしていた指の動き、少し疲れた横顔、
そして時折、思案するように遠くを見つめていた灰色の瞳の光。
――仕事をする彼の姿が、こんなにも美しいなんて。
アランはページの上で指を止め、胸に小さく手を当てた。
静かに、ゆっくりと息を吸い込む。
書類の山と冷たい空気が支配するこの場所に、
確かに自分の心音だけが柔らかく響いている気がした。
執務室の扉が、突然、鋭い音を立てて開かれた。
乾いた衝撃が部屋の空気を裂き、積み上げられた書類の端がわずかに震える。
羽根ペンを握っていたアランの手がびくりと跳ね、心臓がひゅっと縮んだ。
「おい、レギュラス! てめぇが何も考えずに押した有罪がどれだけの――!」
怒声が、稲妻のように響き渡った。
けれど、その言葉は途中で止まる。
怒りの勢いのまま踏み込んだ男が、部屋の奥にいたアランを目にしたからだ。
アランは反射的に体をこわばらせた。
胸が早鐘を打つ。
自分に向けられた怒声ではないとわかっていても、男の荒々しい声は恐怖を呼び起こすには十分だった。
けれど次の瞬間、男の瞳に浮かんだ驚きの色が、彼女の恐れを静かに溶かしていく。
男は、戸口に視線を落とした。
真鍮の名札に刻まれた「Regulus Black」の文字を確認し、眉をひそめる。
もう一度、アランに視線を戻す。
やはりここは間違いではない――そう確信したように、息を吐いた。
アランは咄嗟に杖を手に取る。
指先が震えながらも、空中に美しい筆記体を描いた。
──「レギュラス・ブラックは先を外しています。」
男は、その文字をじっと見つめた。
険しかった眉が少しだけ緩む。
「お前……口、きけねぇのか?」
その言葉に、アランは静かに頷いた。
彼の声は先ほどまでの怒号と違い、驚くほど穏やかで――少しだけ悲しそうでもあった。
顔を上げて、アランは彼の顔をまっすぐ見た。
黒く長い髪が肩にかかり、灰色の瞳が冷たい光を帯びている。
だがその眼差しの奥には、レギュラスと同じ深い知性と、どこか人を拒まない温かさが見えた。
瞬間――胸の奥で、何かが静かにほどけた。
(……この人は、あの写真の中の……)
あの書斎で見た一枚の写真が脳裏をよぎる。
二人の少年が肩を並べて笑っていた。
その中の一人――レギュラスの隣にいたもう一人が、今、目の前に立っている。
恐怖心は、不思議と消えていた。
代わりに胸の奥に広がるのは、温かく震えるような感動。
懐かしい記憶の断片を見つけたような――そんな錯覚だった。
「シリウス・ブラックだ。」
男は名を名乗り、少し照れたように肩をすくめた。
「大きな声を出して悪かったな。」
その言葉はあまりにも自然で、優しかった。
アランは咄嗟に両手で胸の前を握り、杖を持ち直して空に文字を刻む。
──「だいじょうぶです。」
シリウスは少し笑った。
その笑みは、どこかレギュラスの面影を感じさせた。
けれど彼の笑いには、弟にはない奔放な光が宿っている。
太陽のような熱を持つ人――そんな印象だった。
「驚かせちまったな。……また出直すよ。」
差し出された大きな手。
皮の手袋をしていない指先が、戦い慣れた者のように硬い。
アランは一瞬ためらったが、そっと手を伸ばした。
その瞬間、温かさが指先から流れ込む。
初めてだった。
自分に手を差し出し、名を名乗り、謝罪の言葉をくれる人に出会ったのは。
まるで世界の色がひとつ増えたような気がした。
シリウスが部屋を出ていく。
扉が静かに閉まると、部屋の中は再び静寂に包まれた。
だが、アランの胸の中にはまだ、彼の声の余韻が残っていた。
温かくて、少し懐かしい音。
そして心の奥で芽生えた想い。
――また会いたい。
彼が語るレギュラスを、聞いてみたい。
彼が知る弟の姿を、自分も知りたい。
アランは胸の上に手を置き、静かに息を吸い込んだ。
灰色の瞳に、二つの光が重なっていくような気がした。
一人は、彼女のすぐそばにいるレギュラス。
もう一人は、今去っていった兄――シリウス・ブラック。
その瞬間、アランはこの兄弟の間に流れる絆を、確かに感じていた。
扉が静かに開いた。
先ほどの怒鳴り声の余韻をかき消すように、穏やかな気配が部屋に戻ってくる。
レギュラスだった。手には銀のトレイがあり、その上に二つのカップが載っていた。蒸気の立つコーヒーの香りが、張り詰めていた空気を少しだけ柔らかくする。
「戻りました。」
いつもと変わらぬ落ち着いた声。
書類の山の間を抜けてアランの前に歩み寄ると、そのうちの一つを彼女の手の届く位置にそっと置いた。
「どうぞ。」――言葉にはしなかったが、瞳がそう告げていた。
アランは微笑んだ。
湯気の向こうに見える彼の穏やかな横顔が、帰ってきた“日常”のようでほっとする。
カップを両手で包み、香りを吸い込んだ。温かさが掌から胸の奥にまで届いていく。
それから、杖を手に取る。
空中にゆっくりと文字を描いた。
──「シリウス・ブラックが来ました。」
レギュラスの動きが止まる。
一瞬、眉がわずかにひそめられた。
羽根ペンを持つ手が静かに机の上に置かれ、瞳に影が落ちる。
「……あの人と、何か話しました?」
アランは首を振った。
ほんの短い時間だった、と伝える代わりに、静かにカップを傾ける。
その仕草の奥に、言葉では言えない感情が流れていることをレギュラスは察していた。
しばらくの沈黙。
インクの匂いと、冷めかけたコーヒーの香りだけが、二人の間を満たしていた。
「そうですか。」
レギュラスはそれだけを言って、書類の束に視線を戻す。
けれど、その横顔の緊張が完全に消えることはなかった。
アランは、その表情の奥にある何か――触れてはいけない痛みのようなものを感じ取る。
兄の名を出すことが、彼にとってどれほどの意味を持つのかはわからない。
ただ、ほんの少し、悲しみが混ざっているように思えた。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと流れていく。
法務部の建物の中庭に植えられた古い樫の木が、風に揺れていた。
アランは手の中のカップを見つめながら、胸の奥でひとつの思いを抱く。
(兄という人の話を、いつかレギュラスの口から聞いてみたい)
けれど、今それを尋ねるのは違う――そんな気がした。
彼の瞳に潜む静かな影が、それを拒むように見えたから。
アランは黙ってもう一口、コーヒーを口に運ぶ。
苦味と香ばしさが喉の奥を通り抜けていく。
それはまるで、レギュラスその人のような味がした。
そして、ほんの小さく笑みを浮かべた。
――この沈黙ごと愛しい、と思った。
騎士団の本部――石造りの重厚な建物の中は、昼夜を問わずどこか湿った冷気を孕んでいた。
古びた廊下には足音が低く響き、壁にかけられた肖像画の人影がたまに動く。外では冷たい風が石畳を撫でている。
そんな静寂の中、シリウス・ブラックの声だけが妙に響いた。
「……弟の執務室に、女がいた。」
思いつめたような声で言った。
向かいの椅子に腰をかけていたジェームズ・ポッターが、湯気の立つマグカップを口に運びながら眉を上げる。
「女?」
「名前も知らない。口もきけないらしい。」
「それで?」
「それで……気味が悪いくらい、静かなんだ。」
シリウスはテーブルに肘をつき、指で額を押さえるようにした。
あの光景が脳裏から離れない。
弟の執務室――整然と並んだ書類の山と、インクの匂い、そしてその奥に座っていた女。
翡翠の瞳を持つ、ひどく静かな女。
彼女の瞳が自分を見た瞬間、何かを問うような、あるいは懇願するような光を宿していたのを、シリウスは見逃さなかった。
「わざわざ、あいつが。仕事場に女を置いてる。」
「……はは、それは確かに面白いな。」
ジェームズが笑う。
けれどその笑いにはどこか探るような響きがあった。
「笑い事じゃない。」
シリウスの声が低く落ちる。
「何か……あるんだよ。あの女が、鍵を握ってる気がしてならない。」
ジェームズは肩をすくめた。
「まぁ、君の弟のことだ。何かを企んでてもおかしくはないね。」
そして、少し悪戯っぽく目を細める。
「で、美人だったのかい?」
シリウスは返答に詰まった。
視線を横に逸らし、沈黙の後、低く答える。
「……あぁ。まあ、綺麗だった。」
言葉にした瞬間、彼女の姿が鮮やかに蘇る。
白い肌、静かな微笑み、何かを語ろうとして語れない唇。
そして――あの翡翠の瞳。
悲しみとも、祈りともつかぬ光を湛えた、深い湖のような色。
「誰が見ても、美しいと思うだろうな。」
ぽつりと落とした言葉に、ジェームズがにやりとする。
「ほう……美人なのか。それで気になってるわけだ。」
「そうじゃねえ!」
シリウスは即座に言い返す。
けれど、その声の裏に、自分でも拭えない動揺があった。
「あいつは……昔から、女のことで何かとややこしいかもしれねぇ。けどな、今度のは違う。あの女には――何かある。」
ジェームズはマグを机に置き、少し真面目な声に変える。
「昔から頭が切れる男だったからね。誰よりも冷静で、理屈の通らないことはしない。女を執務室に置くなんて、よほどの理由があるんだろうな。」
「だろうな。」
シリウスは低く頷く。
「でも、理由が“愛”とかだったら、笑える話だろ。」
「やめろ。」
シリウスはため息をつき、髪をかき上げた。
古いランプが二人の影を壁に映し出している。
灰色の煙草の煙が天井に溶けていく。
ホグワーツの名残のような笑いが、ふと漏れる。
「君も君の弟も……兄弟そろって昔は好き放題やってただろう?」
「昔の話はするな。」
シリウスは苦笑しながらも、手で顔を覆う。
「……ったく。今更、学生時代の話なんて聞きたくもない。」
けれど心のどこかで思う。
あの頃、自分は「女」という存在をただ軽やかに捉えていた。
美しいか、美しくないか。惹かれるか、飽きるか。
それだけだった。
だが――あの翡翠の瞳の女だけは違った。
声を持たず、沈黙の中で何かを訴えるような眼差しをしていた。
「……ジェームズ。」
「ん?」
「もし次にあの女に会うことがあれば、もう少しちゃんと見てみる。」
「好奇心か?」
「……違う。勘だ。」
炎のゆらめきが、彼の灰色の瞳を照らした。
その奥に、かつて少年だった頃の“ブラック兄弟”の面影が、かすかに蘇っていた。
夕方の光がゆっくりと傾き、魔法省の窓に淡く橙の色を落としていた。
その柔らかな光の中で、レギュラスは黙々と羽ペンを動かしていた。
書類の山は少しずつ高さを増していく。
机の端に置かれた砂時計の砂がすでに三度は落ちきっているのに、彼は手を止めなかった。
対面のソファにはアランがいた。
膝の上に開かれた分厚い魔法理論の書を、まるで祈るように両手で支えている。
彼女の瞳は翡翠のように静かで、その奥に吸い込まれるような集中の光が宿っていた。
紙をめくるたびに指先が小さく動く。そのささやかな音だけが、部屋の静寂を揺らしていた。
レギュラスがふと顔を上げる。
机にかけられたランプの光が頬を照らし、疲労の色がうっすら浮かぶ。
「……少し休みましょうか。」
声は穏やかで、けれどどこか掠れていた。
「何か食べに行きます?」
アランは驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。
外――その言葉が、胸の奥で温かく弾けた。
久しく閉ざされていた世界の扉が、また開かれる気がした。
最初のうちは、レギュラスが一人で出かけては簡単な軽食を買ってきてくれていた。
温かいスープ、紙袋に包まれたサンドイッチ、カフェの甘い香りが移った焼き菓子。
それらを渡されるたびに、アランは不思議と胸の奥が満たされた。
味の濃淡ではない――彼の手から渡される“ぬくもり”そのものが、何よりのご馳走だった。
レギュラスが椅子を引く音がする。
「今日はどうしましょうか。」
黒いローブの裾が揺れる。
「……あちらのカフェでもいいですし、少し歩けば、前に買ってきたサンドイッチのお店もあります。」
アランはゆっくりと頷いた。
どちらでも構わない。
この人と一緒に外を歩ける、それだけで十分だった。
立ち上がりながら、レギュラスは彼女のマントを手に取り、肩にそっとかけてやる。
その仕草はまるで、壊れものを扱うように優しかった。
「外は少し冷えますから。」
執務室の扉が開かれると、廊下の先に夕暮れが待っていた。
金色の光が床の大理石に反射し、二人の影を細く長く伸ばす。
外へ続く道の先――アランの胸は高鳴っていた。
魔法省の出口を抜けた瞬間、柔らかな風が頬を撫でた。
光の粒が揺れている。人々のざわめき、カフェから流れる音楽、どれも久しく忘れていた世界の匂い。
アランはそっと目を細めた。
レギュラスが一歩先に立ち、振り返る。
「大丈夫ですか?」
アランは頷いた。
夕陽を受けた翡翠の瞳が、金色に輝いていた。
二人が並んで歩く。
特別な会話があるわけではなかった。
ただ、彼の横顔を見ながら、同じ道を歩くというその行為が、何よりも贅沢な時間だった。
街角を過ぎるたび、アランは心の中でそっと思う。
――あぁ、これが「生きる」ということなんだ。
地下の闇に閉じ込められていた頃には想像すらできなかった、ささやかな幸福の形。
風が頬を抜け、髪がふわりと揺れる。
レギュラスが一瞬、その髪を押さえてやる。
その何気ない仕草に、アランの胸はまた静かに波打った。
たったそれだけの時間が、世界でいちばん尊いと思えるほどに――。
カフェの扉を押して入ると、温かな鐘の音が小さく鳴った。
夕暮れの光が窓越しに差し込み、木製のテーブルと柔らかな灯りが交わる店内には、穏やかな香ばしさが漂っている。
カップの擦れる音、笑い声、ミルクを泡立てる音――どれもアランには新鮮で、胸の奥をくすぐるようだった。
メニューを手にした彼女は、ひたすらページを見つめていた。
知らない単語が並ぶ紙面を、興味深そうに指でなぞる。
レギュラスはその横顔を見つめながら、ふと心の奥で笑みがこぼれるのを感じた。
長い睫毛が光を受けて揺れ、指先がメニューの端を軽く押すたびに、まるで何か神聖なものを扱っているように慎重だった。
「これ。」
アランが杖を使って小さく指し示す。
それはホットサンドと温かいスープのセット。
どこか家庭的で、彼女らしい選択だと思った。
レギュラスは頷いた。
その仕草ひとつさえ、どうしようもなく愛おしい。
店内のざわめきの中で、彼女がただ静かに息づいているだけで、空気が柔らかくなるような気がした。
「ちょっと注文してきますね。ここで待っていてください。」
アランは素直に頷く。
レギュラスはコートの裾を整え、カウンターへ向かった。
立ち上がると、椅子が小さく軋む音を立てる。
彼女の視線がそっと背中を追うのを感じた。
カウンターでは、香り高いコーヒー豆の匂いが強く漂っていた。
「すみません、ホットサンドと――」
そう告げた瞬間、聞き覚えのない声が返ってくる。
「お久しぶりね。」
顔を上げると、カウンターの向こうで笑う女がいた。
艶のある髪、濃いまつ毛、わずかに挑むような目つき。
一瞬、記憶の底を掘り返す――しかし、浮かんでこない。
「……やだ、忘れてるのね。」
困惑を悟られまいと、レギュラスは薄く笑った。
「すみません。」
それ以上の言葉は出てこなかった。
女は唇の端を吊り上げ、視線を後ろのテーブルに向ける。
「素敵な女性を連れているのね。」
胸の奥がわずかにざらついた。
何と答えても、どこかが傷つくような気がして、曖昧に微笑むしかなかった。
この場を早く切り上げたい――それだけを考えて注文を済ませ、硬い笑顔のまま席へ戻る。
アランは窓際の席で待っていた。
外の通りを眺めていた瞳がこちらを向くと、翡翠色の光がふっと灯る。
レギュラスの胸に溶けるような安堵が広がる。
「すぐ来ますよ。」
そう言って彼女の向かいに座ったが、背中に冷たい視線が刺さるようだった。
あの女――まだカウンターの向こうにいる。
息を整えようとしても、過去の記憶が皮膚の裏でざわついた。
学生時代。
夜会。
笑い声と香水の匂い。
軽率に選び、軽率に捨てた日々。
その残滓が、こんな形で目の前に現れるとは。
「選んだ店が悪すぎたな……。」
心の中で呟く。
だがアランの楽しげな様子を見れば、それを口に出せるはずもない。
彼女は窓の外の通行人を見ては、頬を綻ばせている。
その純粋な笑顔に、罪悪感と幸福が入り混じる。
やがて料理が運ばれてきた。
よりによって、先ほどの女がトレイを持っていた。
「お待たせしました。」
その声の響きが、嫌でも耳に残る。
アランは微笑み、杖を持たずにそっと会釈をした。
声を出せない代わりに、目で礼を伝える。
その所作があまりにも丁寧で、まるで一輪の花が風に頭を垂れるようだった。
女は一瞬、目を丸くしたように見えた。
それから静かに頷き、何も言わずに去っていく。
レギュラスは視線を上げなかった。
ただ、冷めていくコーヒーの表面を見つめていた。
どうしてこんな時に――
過去の影というものは、いつも最も無防備な瞬間に現れる。
それでも、向かいのアランがスープをすくい、微笑んでこちらを見た瞬間。
すべてがどうでもよくなった。
彼女が笑っている。
その事実だけが、世界を静かに救っていた。
魔法省の石畳の廊下を、二人の足音が静かに響いていた。
夕暮れはすでに過ぎ、宵の蒼がゆっくりと窓の外を満たしていく。
アランのマントの裾が軽やかに揺れ、レギュラスのローブの裾がそのすぐ隣でかすかに擦れ合った。
執務室に戻ると、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
古いランプに火を灯すと、橙色の光が室内を満たし、二人の影を壁に柔らかく映し出す。
レギュラスは机に積まれた書類の山に目を通しながら、羽ペンを手に取った。
「……もう少ししたら片付きます。待っていてくださいね。」
優しく声をかける。
アランは小さく頷いた。
その静かな仕草が、まるで「大丈夫」と言っているようで、レギュラスは微笑んだ。
アランは屋敷から持ってきた本を取り出し、机の端に腰かけるようにしてページを開く。
魔法理論書、古い詩集、古代呪文辞典――どれも文字ばかりの難解な書物だった。
それなのに、アランはまるで音楽を聴くように穏やかに、真剣に、そして幸福そうに読み進めていく。
ランプの灯が、彼女の横顔を静かに照らしていた。
伏せた睫毛の影が頬に落ち、唇がわずかに開く。
指先がページをめくるたび、紙の擦れる音がかすかに響いた。
彼女の世界はとても静かで、穏やかだった。
そんな姿を横目に見ながら、レギュラスは羽ペンを走らせる。
インクの音と紙の音、二人の息遣いだけがこの部屋を満たしている。
――少し外に出ただけで、頭が冴えるものだ。
彼はそう思った。
アランが隣にいるだけで、不思議と疲労がやわらぐ。
彼女の穏やかな呼吸や、本をめくる小さな音が、まるで自分の神経を撫でるように優しく響く。
だが、先ほどのカフェでの出来事がふと脳裏をよぎる。
あの女――いつ、どこで、どんな関係だったのかも思い出せない。
ただ、自分の過去のどこかに確かにいたという、不快な確信だけが残っている。
女のあの視線。
「素敵な女性を連れているのね」と言ったときの、唇の片端を上げた微笑み。
あの瞬間、血の気が引くような感覚を覚えた。
過去が、現実の中に滲み出してくるような感覚。
何よりも恐ろしいのは、それをアランの前で見せてしまうことだった。
彼女は――あの空気を察していなかった。
それが何よりの救いだった。
女という存在は、なぜあんなにも空気を読むのが上手いのか。
沈黙の間に含まれる意図を、ため息の長さひとつで見抜く。
まして、嫉妬や疑念の匂いには異様なほど敏感だ。
その手の勘は、どんな呪文よりも鋭く的確に心をえぐる。
だが、アランは違う。
彼女の中には、まだ「疑う」という概念が芽生えていない。
それは、長い孤独の中で誰かを信じる術を失った結果なのかもしれないし、
あるいは――今ようやく「信じてもいい」と思える相手が目の前にいるからなのかもしれない。
レギュラスは羽ペンを置き、しばし彼女を見つめた。
机の灯りの下、アランは相変わらず本に夢中だった。
どんな魔法理論よりも、その姿が彼の胸を掴んで離さない。
本を読むことにこれほどまで情熱を注げるのは、彼女が“生きること”を学んでいるからだ。
今この瞬間、目の前でページをめくる指が、確かに世界と繋がっている。
その当たり前が、奇跡のように思える。
レギュラスはそっと視線を逸らし、ペンを再び取る。
インクの黒が紙に滲んでいく。
――この穏やかさを壊すわけにはいかない。
たとえ過去がどうあれ、未来のために沈黙を守ることもまた、愛のかたちなのだと思った。
机の向こうで、アランがそっとページを閉じる音がした。
その静寂の中で、レギュラスはようやく小さく息を吐いた。
――もう少しで終わります。
そう心の中で呟きながら、彼はまた、ペン先を走らせた。
夜の帳が落ち、騎士団本部の会議室には重苦しい沈黙が漂っていた。
円卓の上には一枚の報告書が置かれ、その上にははっきりと刻まれた名――
Regulus Arcturus Black。
そのサインの下には、無慈悲な一文が記されていた。
「アズカバン脱獄事件――監獄内部設備の老朽化による事故と断定」
「……事故、だと?」
シリウス・ブラックが低く唸った。
その声には怒りと失望、そして何よりも弟への深い悔しさが滲んでいた。
壁際のランプが淡く照らす中、ジェームズ・ポッターが腕を組む。
「証言も、物証も、全部“完璧”に整ってる。
どの視点から見ても、レギュラスの手が加えられてる。……まるで、最初からそう書くために作られた報告書みたいだ。」
テーブルの上には複数の記録写真と証言の写しが散らばっていた。
アズカバンの鉄格子は爆破された痕跡もなく、監視魔法の記録は“偶然”にもその瞬間だけ途切れている。
看守たちは皆、事故の瞬間を「見ていない」と証言していた。
それでも、死傷者はゼロ。脱獄したのは、かつて捕らえられたデスイーターたちだけ。
「事故、だとよ。」
シリウスが吐き捨てるように繰り返した。
「誰がそんな話を信じる。……いや、信じてる奴が本当にいると思ってるのか、あのクソガキは。」
ジェームズは深く息を吐き、椅子の背に体を預けた。
「レギュラス・ブラック――本当に侮れないよ。」
「感心してる場合か!」
「違う、シリウス。……あいつは“やり方”を知ってる。
証拠を消すことじゃない。誰も反論できない真実を作ることを。」
沈黙が落ちる。
外の風が古い窓を鳴らし、ランプの炎がゆらりと揺れた。
アズカバンからの脱獄は、魔法界全体を揺るがすほどの大事件だった。
それも、マグル生まれの魔法使いを違法に攻撃したデスイーターたち――
騎士団が命懸けで捕らえ、正義の名の下にアズカバンへ送った者たちだ。
その全員が、跡形もなく消えた。
それが“事故”で片付けられる――。
つまり、騎士団が費やした命と信念のすべてが、紙一枚で否定されたのだ。
「……俺たちが命懸けで捕らえた連中だぞ。」
シリウスの拳がテーブルを叩く。
「マグルを苦しめ、子どもをも殺した奴らを捕らえたんだ。それを“事故で逃げた”なんて茶番で終わらせる気か。」
「それでも、証拠がない。」
ジェームズの声は低く沈んでいた。
「レギュラスの書類は完璧だ。証言も映像も、どれも矛盾がない。……いや、あえて言うなら“矛盾がなさすぎる”。」
「だから余計に怪しいんだ。」
「そうだ。でも、誰も突けない。
レギュラス・ブラックの名は、今や魔法法務部の信頼そのものだ。
“ブラック家の血”が保証する清廉さと、あの整然とした知性。
すべてが彼の盾になっている。」
部屋の中に再び沈黙が落ちた。
シリウスは椅子の背に身を預け、天井を睨む。
弟の名を、何度頭の中で呼んでも、答えは出なかった。
彼が闇の側にいることは知っていた。
けれど、かつて一緒に星を眺め、未来を語り合ったあの弟の中に――
こんな冷徹な知略を持つ男が眠っていたとは思いもしなかった。
「……どこかに綻びがあるはずだ。」
シリウスが呟く。
「どんなに完璧な報告でも、どんなに整った証拠でも、
必ず“人間の匂い”が残る。あいつだって人間だ。」
「その綻びを見つける?」
「見つけて、暴き出してやる。
あの弟のしたことを、白日の下に晒してやる。」
その言葉に、ジェームズも静かに頷いた。
それが“騎士団”の正義だ。
マグルも魔法族も、誰もが平等でいられる世界を作るための戦い。
たとえその敵が――
自分の弟であっても。
炎の揺らぎが二人の顔を照らし、沈黙の中に、決意だけが重く残った。
静かな夜だった。
カーテンの隙間から月の光がゆるやかに差し込み、ベッドの上に銀色の模様を描いている。
外では木々の葉が風に揺れている音だけが微かに聞こえ、屋敷全体が眠りの中に沈んでいた。
レギュラスは、アランを腕の中に抱き寄せていた。
その体温を胸に感じながら、呼吸のリズムを合わせるように、静かに息を吐く。
こうして抱き合う夜は、もう何度も重ねてきた。
けれど、今夜は――何かが違っていた。
彼の中で、ずっと慎重に保ってきた境界線を、そっと超えたいという思いがあった。
焦りではなかった。
欲望でも、義務感でもない。
ただ、深く息を吸うたびに、アランという存在が胸の奥で柔らかく波打ち、
“いま、この人をまるごと抱きしめたい”という純粋な願いだけが残った。
「……アラン。」
静かに名を呼ぶ。
彼女の睫毛がわずかに揺れ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映る自分の姿が、どこまでも穏やかで、
同時にどうしようもないほど切実に見えた。
レギュラスは息を吸い込み、喉の奥で一度言葉を転がした。
普段なら、そこに出てくるのは決まって「好きですよ」だった。
優しい、軽やかな響き。
でも今夜は違う。
どうしても、もっと深く、もっと重たく、もっと真実に近い言葉を告げたかった。
「……アラン、愛しています。」
その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。
長く閉ざされていた扉が静かに開いていくような感覚。
その言葉は、静かに夜気へと溶けていった。
アランはわずかに瞬きをして、そして、何かを確かめるようにレギュラスの首筋へ顔を寄せた。
唇が触れた。
小さく、温かく、確かにそこに存在を刻むようなキス。
――好きだという言葉と、愛しているという言葉の違いを、彼女は本能で理解しているのだろうか。
だがレギュラスの「愛している」には、ただの情熱ではない、もっと深く、
彼女の過去の傷ごと包み込もうとするような慈しみが込められていた。
どんな闇も、どんな苦痛も、すべて抱きしめてやりたい。
もう二度と、彼女の涙が孤独の中で流れることのないように――。
彼はアランの頬を両手で包み、そっと額を合わせた。
彼女の瞳の奥に、ふと一瞬、過去の痛みの影が揺れた。
胸が締め付けられる。
それでも、逃げなかった。
指先で、彼女の髪をすくい、肩に流す。
その仕草ひとつひとつに、祈るような慎重さが宿っていた。
――どうか、この手で触れても、彼女の記憶が苦しみに沈まないように。
――この触れ方が、痛みではなく、救いになるように。
アランの唇が、再びレギュラスの肌に触れた。
そのたびに彼の胸の奥に、言葉にならない熱がゆっくりと満ちていく。
彼女の体温が、過去から解き放たれるように変化していくのがわかった。
夜が深まるにつれ、二人の間の空気が静かに融け合っていく。
抱きしめる腕の中で、アランはもう怯えていなかった。
彼女の髪が頬をかすめ、細い指がレギュラスの胸元を掴む。
その一瞬一瞬が、壊れやすく、儚く、けれど確かに「生きている」と思わせる温度だった。
――愛している。
この言葉を、彼は二度と軽々しく口にできないだろう。
それほどに、この夜は静かで、神聖で、痛いほどに美しかった。
指先が、まるで一枚の薄絹をなぞるように、アランの肌をゆっくりと辿っていった。
触れた途端、彼女の肩がわずかに震える。怯えではなく、長い間忘れていた“温度”に戸惑うような反応だった。
その震えを宥めるように、レギュラスはそっとその手を包み込んだ。
けれど、その手を押しとどめようとする力は感じられない。むしろ、触れることに戸惑いながらも――拒まぬ意思がそこにあった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
これまでの人生で、こんなにも慎重に、こんなにも静かな夜を過ごしたことはなかった。
欲望に任せて、あるいは互いの打算で重なった夜など、いくつもあった。
だがそのどれもが、彼の心を満たすことはなかった。
ただ一瞬の熱を交わしても、冷めた後には虚しさばかりが残った。
けれど――アランは違った。
彼女の中には、知識も、経験も、そして“誘い”という概念さえ存在しない。
長く地下牢に幽閉され、ただ命を繋ぐために屈服するしかなかった日々。
その中で彼女が知った「触れられる」という行為は、恐怖と痛みの象徴でしかなかったのだ。
レギュラスは、その記憶に一瞬、胸の奥を締めつけられるような痛みを感じた。
――自分は、その記憶の延長線に立つつもりではない。
この指先で、あの過去を上書きするのだ。
恐れではなく、温もりとして。
唇を寄せた。
その動きを見て、アランはわずかに目を閉じ、教わった通りに力を抜く。
ぎこちなくも懸命に、レギュラスの求めに応えようとする彼女の姿に、胸が痛いほどの愛しさが込み上げた。
「アラン……愛しています」
静かな夜気に、低く、穏やかな声が溶けていく。
何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
そのたびに、アランの瞳が潤み、声にならない息が震える。
彼女は言葉を失っている。だが、その沈黙の奥には確かに情感があった。
震える喉、揺れる胸、指先のわずかな力――その一つひとつが、言葉以上に雄弁に彼女の想いを伝えていた。
痛みも、恐れも、消えることはない。
だが、彼女が今この瞬間に感じているものが“苦しみではない”と、レギュラスは信じたかった。
過去の残酷な記憶を少しでも溶かすために、自分の体温をすべて捧げた。
時間が止まったかのような静寂の中で、二人の呼吸だけが重なり合う。
外の世界の喧噪も、闇の帝王の影も、この夜だけは遠いもののように感じられた。
アランの頬にかかる髪をそっと払い、レギュラスはその額にもう一度、長く深い口づけを落とした。
その瞬間、彼の胸に訪れたのは、初めて知る“満たされる”という感覚だった。
欲望ではなく、支配でもなく――ただ純粋に“生かしたい”と思う気持ち。
その夜、レギュラスは悟った。
これまで幾度も重ねた快楽の夜のどれよりも、今がいちばん幸せだと。
暗い過去の記憶を抱えた二人の間に、小さな光が灯る。
それはまだ頼りなく、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど儚い。
けれど確かに、愛という名の炎だった。
そしてその夜――レギュラスは心の底から祈った。
どうかこの手で、彼女のすべての痛みを塗り替えられますように、と。
法務部の石造りの廊下を、朝も夜もなく歩き続けた。黒衣の裾が擦れるたび、乾いた音が耳に残る。
机の上には、報告書、尋問記録、証言書の山。
どれもが彼に説明を求めていた。
「なぜ現場結界の崩壊を事前に予見できなかったのか」
「なぜ、あの時間帯に勤務していた看守が全員無傷だったのか」
「脱獄者の魔力痕跡が消えている理由を、どのように説明するつもりか」
魔法法執行部、尋問局、アズカバン管理局――。
あらゆる機関がレギュラスに矢継ぎ早に証拠と説明を求めた。
そのたびに、彼は淡々と書類を重ね、矛盾を潰し、魔法的証跡を消し去っていった。
時には自ら結界記録に潜り込み、記録の残滓を上書きする。
法務部の技官に頼まれ、結界の再計算を行うふりをしながら、闇の帝王の影を見えない場所へと封じ込める。
その作業は、常に罪悪と恐怖のはざまだった。
――失敗は許されない。
一つの齟齬が、彼自身と、そしてアランを死に追いやる。
気づけば夜が明け、また夜が訪れる。
冷めきったコーヒーの匂いと、蝋燭の焦げる煙だけが、時の経過を告げていた。
数日、屋敷へ戻ることはできなかった。
寝る時間も食事も、すべてを削って帳尻を合わせ続ける。
周囲は疲弊していたが、彼だけは冷ややかなまま、隙を見せることがなかった。
――完璧に仕上げねばならない。
これはただの「報告」ではない。生き残るための盾だ。
そして、ようやくすべての署名が終わり、機関同士の意見照合が完了したとき。
レギュラスは筆を置いた。
深く息を吐く。
視界がにじんで、ようやく自分がどれほど消耗していたのかに気づく。
屋敷に戻ったのは、夜更けだった。
いつもは冷たく静まり返る玄関が、妙に懐かしく感じた。
重い外套を脱ぎ、長い廊下を抜けて寝室の扉を開ける。
アランはそこにいた。
灯の落ちた部屋の中、ベッドの上で静かに座っている。
翡翠の瞳が、扉の音に反応してこちらを見た。
「アラン……」
声がかすれた。
どれだけこの名を呼びたかったか、思い知る。
近づいていくと、アランは小さく首を傾けた。
「ちゃんと食べてました?」
問いかけると、アランはゆっくりと頷く。
医務魔女からも報告を受けていた。
食事はすべて完食。薬も規定通りに飲んでいる。
レギュラスのいない間も、アランは静かにその日々を守ってくれていたのだ。
「偉いですね……」
言葉に滲んだ安堵が、ようやく人間らしい温度を取り戻させてくれる。
アランの頬に触れると、少し温かかった。
翌朝、レギュラスは決意を固めた。
彼女をもう屋敷に置いておくのは危険だと。
母ヴァルブルガの目、屋敷に出入りする使用人の目――。
どれもが、アランを観察し、値踏みし、裁く視線を向けている。
「家族の恥」「血を穢す女」――そんな囁きがどこかで響くたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
だから彼は、次の行動に出る。
その日から、レギュラスはアランを魔法法務局の自分の執務室に連れて行くことにした。
朝、屋敷の門を出る馬車に二人で乗る。
アランは深いフードを被り、外の景色をそっと見つめていた。
法務局の一室――彼の執務室は、書類と本に埋もれた小さな空間だった。
窓際には、午後の光が淡く差し込み、机の上の羽根ペンが銀色に光る。
「面白いものは何もないところですが……」
レギュラスは微笑を浮かべながら言った。
「本を読む場所が屋敷からここに変わったと思ってください。」
アランは頷く。
その動作は、言葉を超えた信頼の証のようだった。
書類を捌きながら、彼は時折横目で彼女の様子を確かめる。
本を読む姿勢、指先の動き、ページをめくる速さ。
一つひとつが、彼の心を静めていく。
――やはり、目の届く場所にいてくれなければ落ち着かない。
レギュラスはペン先を走らせながら、心の中でそう呟いた。
外の世界はあまりにも残酷で、屋敷の中でさえ闇が潜んでいる。
ならば、自分が光で包むしかない。
アランの細い肩に差し込む陽の光を見つめながら、レギュラスは思う。
この平穏な時間だけは、何があっても壊させはしない――と。
法務部の執務室は、屋敷の書斎とはまるで違う空気を纏っていた。
広くはないが、壁一面を埋め尽くす棚には分厚い報告書や法令集がびっしりと並び、机の上には書類が山のように積まれている。
羊皮紙の匂い、乾いたインクの香り、そして時折鳴る羽根ペンの擦れる音。
それらが、静かな緊張感をこの部屋全体に染み渡らせていた。
アランは、レギュラスに連れられてその空間に足を踏み入れた瞬間、思わず小さく息を飲んだ。
屋敷の静謐さとも、書斎の穏やかさとも違う。
ここは、彼が「闇」ではなく「現実」の中で生きている場所なのだと、直感した。
彼女の席として、レギュラスが窓際の一角に小さな椅子を用意してくれていた。
そこに腰掛けて、持参した本を膝に開く。
屋敷から選んできたのは、古代魔法語の解読本と魔法法の入門書。
けれど本を読みながらも、意識の半分は常にレギュラスのほうに向かっていた。
机に向かう彼の姿は、普段と違っていた。
外套を脱ぎ、シャツの袖を少し捲り、冷たい表情のまま書類を睨んでいる。
長い指先が羽根ペンを操り、黒いインクが紙の上に走るたび、光を受けてその軌跡が淡くきらめいた。
眉間に寄った皺、沈思する横顔、静かに唇を動かして文面を確認する仕草。
どれもが、アランにとって新しい――けれど愛おしくてたまらない光景だった。
屋敷では見せない顔。
優しい手の代わりに、今は法務官としての冷静な手。
微笑の代わりに、責任の重さを宿したまなざし。
そのどれもが、彼という人間の奥行きを教えてくれる気がして、アランの胸はじんわりと温かくなる。
レギュラスは忙しそうに署名を続け、時折、他部署の魔法官が書類を抱えて入ってくる。
短い言葉を交わす彼の声は、柔らかくも凛としていて、誰もが自然に彼を中心として動いていた。
アランはその光景を目で追いながら、胸の奥で静かに囁く――
(この人は本当に、たくさんの世界を背負って生きているのだ)と。
やがて、レギュラスが椅子を引いた。
立ち上がりながら、アランの方に優しく視線を向ける。
「アラン、少しこの書類を提出しに出てきます。ここにいてくださいね。」
アランは本を胸に抱いたまま頷いた。
言葉がなくても、伝わる。
その頷きひとつで、レギュラスは微かに微笑む。
扉が閉まる音。
部屋には再び静寂が訪れる。
アランは本を開き直しながらも、しばらくの間、扉の方を見つめていた。
机に残された彼の羽根ペンが、淡い光を反射して輝いている。
紙の上に走る黒い文字の線を指でなぞってみると、ほんのりとインクの温もりが残っていた。
――あの手が、何百という書類に触れても、帰ってくるときは必ず自分を抱きしめてくれる。
そんな確信のような安心が胸の奥に芽生える。
再びページを開く。
でも文字は目に入らなかった。
視界の中に残るのは、レギュラスが羽根ペンを動かしていた指の動き、少し疲れた横顔、
そして時折、思案するように遠くを見つめていた灰色の瞳の光。
――仕事をする彼の姿が、こんなにも美しいなんて。
アランはページの上で指を止め、胸に小さく手を当てた。
静かに、ゆっくりと息を吸い込む。
書類の山と冷たい空気が支配するこの場所に、
確かに自分の心音だけが柔らかく響いている気がした。
執務室の扉が、突然、鋭い音を立てて開かれた。
乾いた衝撃が部屋の空気を裂き、積み上げられた書類の端がわずかに震える。
羽根ペンを握っていたアランの手がびくりと跳ね、心臓がひゅっと縮んだ。
「おい、レギュラス! てめぇが何も考えずに押した有罪がどれだけの――!」
怒声が、稲妻のように響き渡った。
けれど、その言葉は途中で止まる。
怒りの勢いのまま踏み込んだ男が、部屋の奥にいたアランを目にしたからだ。
アランは反射的に体をこわばらせた。
胸が早鐘を打つ。
自分に向けられた怒声ではないとわかっていても、男の荒々しい声は恐怖を呼び起こすには十分だった。
けれど次の瞬間、男の瞳に浮かんだ驚きの色が、彼女の恐れを静かに溶かしていく。
男は、戸口に視線を落とした。
真鍮の名札に刻まれた「Regulus Black」の文字を確認し、眉をひそめる。
もう一度、アランに視線を戻す。
やはりここは間違いではない――そう確信したように、息を吐いた。
アランは咄嗟に杖を手に取る。
指先が震えながらも、空中に美しい筆記体を描いた。
──「レギュラス・ブラックは先を外しています。」
男は、その文字をじっと見つめた。
険しかった眉が少しだけ緩む。
「お前……口、きけねぇのか?」
その言葉に、アランは静かに頷いた。
彼の声は先ほどまでの怒号と違い、驚くほど穏やかで――少しだけ悲しそうでもあった。
顔を上げて、アランは彼の顔をまっすぐ見た。
黒く長い髪が肩にかかり、灰色の瞳が冷たい光を帯びている。
だがその眼差しの奥には、レギュラスと同じ深い知性と、どこか人を拒まない温かさが見えた。
瞬間――胸の奥で、何かが静かにほどけた。
(……この人は、あの写真の中の……)
あの書斎で見た一枚の写真が脳裏をよぎる。
二人の少年が肩を並べて笑っていた。
その中の一人――レギュラスの隣にいたもう一人が、今、目の前に立っている。
恐怖心は、不思議と消えていた。
代わりに胸の奥に広がるのは、温かく震えるような感動。
懐かしい記憶の断片を見つけたような――そんな錯覚だった。
「シリウス・ブラックだ。」
男は名を名乗り、少し照れたように肩をすくめた。
「大きな声を出して悪かったな。」
その言葉はあまりにも自然で、優しかった。
アランは咄嗟に両手で胸の前を握り、杖を持ち直して空に文字を刻む。
──「だいじょうぶです。」
シリウスは少し笑った。
その笑みは、どこかレギュラスの面影を感じさせた。
けれど彼の笑いには、弟にはない奔放な光が宿っている。
太陽のような熱を持つ人――そんな印象だった。
「驚かせちまったな。……また出直すよ。」
差し出された大きな手。
皮の手袋をしていない指先が、戦い慣れた者のように硬い。
アランは一瞬ためらったが、そっと手を伸ばした。
その瞬間、温かさが指先から流れ込む。
初めてだった。
自分に手を差し出し、名を名乗り、謝罪の言葉をくれる人に出会ったのは。
まるで世界の色がひとつ増えたような気がした。
シリウスが部屋を出ていく。
扉が静かに閉まると、部屋の中は再び静寂に包まれた。
だが、アランの胸の中にはまだ、彼の声の余韻が残っていた。
温かくて、少し懐かしい音。
そして心の奥で芽生えた想い。
――また会いたい。
彼が語るレギュラスを、聞いてみたい。
彼が知る弟の姿を、自分も知りたい。
アランは胸の上に手を置き、静かに息を吸い込んだ。
灰色の瞳に、二つの光が重なっていくような気がした。
一人は、彼女のすぐそばにいるレギュラス。
もう一人は、今去っていった兄――シリウス・ブラック。
その瞬間、アランはこの兄弟の間に流れる絆を、確かに感じていた。
扉が静かに開いた。
先ほどの怒鳴り声の余韻をかき消すように、穏やかな気配が部屋に戻ってくる。
レギュラスだった。手には銀のトレイがあり、その上に二つのカップが載っていた。蒸気の立つコーヒーの香りが、張り詰めていた空気を少しだけ柔らかくする。
「戻りました。」
いつもと変わらぬ落ち着いた声。
書類の山の間を抜けてアランの前に歩み寄ると、そのうちの一つを彼女の手の届く位置にそっと置いた。
「どうぞ。」――言葉にはしなかったが、瞳がそう告げていた。
アランは微笑んだ。
湯気の向こうに見える彼の穏やかな横顔が、帰ってきた“日常”のようでほっとする。
カップを両手で包み、香りを吸い込んだ。温かさが掌から胸の奥にまで届いていく。
それから、杖を手に取る。
空中にゆっくりと文字を描いた。
──「シリウス・ブラックが来ました。」
レギュラスの動きが止まる。
一瞬、眉がわずかにひそめられた。
羽根ペンを持つ手が静かに机の上に置かれ、瞳に影が落ちる。
「……あの人と、何か話しました?」
アランは首を振った。
ほんの短い時間だった、と伝える代わりに、静かにカップを傾ける。
その仕草の奥に、言葉では言えない感情が流れていることをレギュラスは察していた。
しばらくの沈黙。
インクの匂いと、冷めかけたコーヒーの香りだけが、二人の間を満たしていた。
「そうですか。」
レギュラスはそれだけを言って、書類の束に視線を戻す。
けれど、その横顔の緊張が完全に消えることはなかった。
アランは、その表情の奥にある何か――触れてはいけない痛みのようなものを感じ取る。
兄の名を出すことが、彼にとってどれほどの意味を持つのかはわからない。
ただ、ほんの少し、悲しみが混ざっているように思えた。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと流れていく。
法務部の建物の中庭に植えられた古い樫の木が、風に揺れていた。
アランは手の中のカップを見つめながら、胸の奥でひとつの思いを抱く。
(兄という人の話を、いつかレギュラスの口から聞いてみたい)
けれど、今それを尋ねるのは違う――そんな気がした。
彼の瞳に潜む静かな影が、それを拒むように見えたから。
アランは黙ってもう一口、コーヒーを口に運ぶ。
苦味と香ばしさが喉の奥を通り抜けていく。
それはまるで、レギュラスその人のような味がした。
そして、ほんの小さく笑みを浮かべた。
――この沈黙ごと愛しい、と思った。
騎士団の本部――石造りの重厚な建物の中は、昼夜を問わずどこか湿った冷気を孕んでいた。
古びた廊下には足音が低く響き、壁にかけられた肖像画の人影がたまに動く。外では冷たい風が石畳を撫でている。
そんな静寂の中、シリウス・ブラックの声だけが妙に響いた。
「……弟の執務室に、女がいた。」
思いつめたような声で言った。
向かいの椅子に腰をかけていたジェームズ・ポッターが、湯気の立つマグカップを口に運びながら眉を上げる。
「女?」
「名前も知らない。口もきけないらしい。」
「それで?」
「それで……気味が悪いくらい、静かなんだ。」
シリウスはテーブルに肘をつき、指で額を押さえるようにした。
あの光景が脳裏から離れない。
弟の執務室――整然と並んだ書類の山と、インクの匂い、そしてその奥に座っていた女。
翡翠の瞳を持つ、ひどく静かな女。
彼女の瞳が自分を見た瞬間、何かを問うような、あるいは懇願するような光を宿していたのを、シリウスは見逃さなかった。
「わざわざ、あいつが。仕事場に女を置いてる。」
「……はは、それは確かに面白いな。」
ジェームズが笑う。
けれどその笑いにはどこか探るような響きがあった。
「笑い事じゃない。」
シリウスの声が低く落ちる。
「何か……あるんだよ。あの女が、鍵を握ってる気がしてならない。」
ジェームズは肩をすくめた。
「まぁ、君の弟のことだ。何かを企んでてもおかしくはないね。」
そして、少し悪戯っぽく目を細める。
「で、美人だったのかい?」
シリウスは返答に詰まった。
視線を横に逸らし、沈黙の後、低く答える。
「……あぁ。まあ、綺麗だった。」
言葉にした瞬間、彼女の姿が鮮やかに蘇る。
白い肌、静かな微笑み、何かを語ろうとして語れない唇。
そして――あの翡翠の瞳。
悲しみとも、祈りともつかぬ光を湛えた、深い湖のような色。
「誰が見ても、美しいと思うだろうな。」
ぽつりと落とした言葉に、ジェームズがにやりとする。
「ほう……美人なのか。それで気になってるわけだ。」
「そうじゃねえ!」
シリウスは即座に言い返す。
けれど、その声の裏に、自分でも拭えない動揺があった。
「あいつは……昔から、女のことで何かとややこしいかもしれねぇ。けどな、今度のは違う。あの女には――何かある。」
ジェームズはマグを机に置き、少し真面目な声に変える。
「昔から頭が切れる男だったからね。誰よりも冷静で、理屈の通らないことはしない。女を執務室に置くなんて、よほどの理由があるんだろうな。」
「だろうな。」
シリウスは低く頷く。
「でも、理由が“愛”とかだったら、笑える話だろ。」
「やめろ。」
シリウスはため息をつき、髪をかき上げた。
古いランプが二人の影を壁に映し出している。
灰色の煙草の煙が天井に溶けていく。
ホグワーツの名残のような笑いが、ふと漏れる。
「君も君の弟も……兄弟そろって昔は好き放題やってただろう?」
「昔の話はするな。」
シリウスは苦笑しながらも、手で顔を覆う。
「……ったく。今更、学生時代の話なんて聞きたくもない。」
けれど心のどこかで思う。
あの頃、自分は「女」という存在をただ軽やかに捉えていた。
美しいか、美しくないか。惹かれるか、飽きるか。
それだけだった。
だが――あの翡翠の瞳の女だけは違った。
声を持たず、沈黙の中で何かを訴えるような眼差しをしていた。
「……ジェームズ。」
「ん?」
「もし次にあの女に会うことがあれば、もう少しちゃんと見てみる。」
「好奇心か?」
「……違う。勘だ。」
炎のゆらめきが、彼の灰色の瞳を照らした。
その奥に、かつて少年だった頃の“ブラック兄弟”の面影が、かすかに蘇っていた。
夕方の光がゆっくりと傾き、魔法省の窓に淡く橙の色を落としていた。
その柔らかな光の中で、レギュラスは黙々と羽ペンを動かしていた。
書類の山は少しずつ高さを増していく。
机の端に置かれた砂時計の砂がすでに三度は落ちきっているのに、彼は手を止めなかった。
対面のソファにはアランがいた。
膝の上に開かれた分厚い魔法理論の書を、まるで祈るように両手で支えている。
彼女の瞳は翡翠のように静かで、その奥に吸い込まれるような集中の光が宿っていた。
紙をめくるたびに指先が小さく動く。そのささやかな音だけが、部屋の静寂を揺らしていた。
レギュラスがふと顔を上げる。
机にかけられたランプの光が頬を照らし、疲労の色がうっすら浮かぶ。
「……少し休みましょうか。」
声は穏やかで、けれどどこか掠れていた。
「何か食べに行きます?」
アランは驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。
外――その言葉が、胸の奥で温かく弾けた。
久しく閉ざされていた世界の扉が、また開かれる気がした。
最初のうちは、レギュラスが一人で出かけては簡単な軽食を買ってきてくれていた。
温かいスープ、紙袋に包まれたサンドイッチ、カフェの甘い香りが移った焼き菓子。
それらを渡されるたびに、アランは不思議と胸の奥が満たされた。
味の濃淡ではない――彼の手から渡される“ぬくもり”そのものが、何よりのご馳走だった。
レギュラスが椅子を引く音がする。
「今日はどうしましょうか。」
黒いローブの裾が揺れる。
「……あちらのカフェでもいいですし、少し歩けば、前に買ってきたサンドイッチのお店もあります。」
アランはゆっくりと頷いた。
どちらでも構わない。
この人と一緒に外を歩ける、それだけで十分だった。
立ち上がりながら、レギュラスは彼女のマントを手に取り、肩にそっとかけてやる。
その仕草はまるで、壊れものを扱うように優しかった。
「外は少し冷えますから。」
執務室の扉が開かれると、廊下の先に夕暮れが待っていた。
金色の光が床の大理石に反射し、二人の影を細く長く伸ばす。
外へ続く道の先――アランの胸は高鳴っていた。
魔法省の出口を抜けた瞬間、柔らかな風が頬を撫でた。
光の粒が揺れている。人々のざわめき、カフェから流れる音楽、どれも久しく忘れていた世界の匂い。
アランはそっと目を細めた。
レギュラスが一歩先に立ち、振り返る。
「大丈夫ですか?」
アランは頷いた。
夕陽を受けた翡翠の瞳が、金色に輝いていた。
二人が並んで歩く。
特別な会話があるわけではなかった。
ただ、彼の横顔を見ながら、同じ道を歩くというその行為が、何よりも贅沢な時間だった。
街角を過ぎるたび、アランは心の中でそっと思う。
――あぁ、これが「生きる」ということなんだ。
地下の闇に閉じ込められていた頃には想像すらできなかった、ささやかな幸福の形。
風が頬を抜け、髪がふわりと揺れる。
レギュラスが一瞬、その髪を押さえてやる。
その何気ない仕草に、アランの胸はまた静かに波打った。
たったそれだけの時間が、世界でいちばん尊いと思えるほどに――。
カフェの扉を押して入ると、温かな鐘の音が小さく鳴った。
夕暮れの光が窓越しに差し込み、木製のテーブルと柔らかな灯りが交わる店内には、穏やかな香ばしさが漂っている。
カップの擦れる音、笑い声、ミルクを泡立てる音――どれもアランには新鮮で、胸の奥をくすぐるようだった。
メニューを手にした彼女は、ひたすらページを見つめていた。
知らない単語が並ぶ紙面を、興味深そうに指でなぞる。
レギュラスはその横顔を見つめながら、ふと心の奥で笑みがこぼれるのを感じた。
長い睫毛が光を受けて揺れ、指先がメニューの端を軽く押すたびに、まるで何か神聖なものを扱っているように慎重だった。
「これ。」
アランが杖を使って小さく指し示す。
それはホットサンドと温かいスープのセット。
どこか家庭的で、彼女らしい選択だと思った。
レギュラスは頷いた。
その仕草ひとつさえ、どうしようもなく愛おしい。
店内のざわめきの中で、彼女がただ静かに息づいているだけで、空気が柔らかくなるような気がした。
「ちょっと注文してきますね。ここで待っていてください。」
アランは素直に頷く。
レギュラスはコートの裾を整え、カウンターへ向かった。
立ち上がると、椅子が小さく軋む音を立てる。
彼女の視線がそっと背中を追うのを感じた。
カウンターでは、香り高いコーヒー豆の匂いが強く漂っていた。
「すみません、ホットサンドと――」
そう告げた瞬間、聞き覚えのない声が返ってくる。
「お久しぶりね。」
顔を上げると、カウンターの向こうで笑う女がいた。
艶のある髪、濃いまつ毛、わずかに挑むような目つき。
一瞬、記憶の底を掘り返す――しかし、浮かんでこない。
「……やだ、忘れてるのね。」
困惑を悟られまいと、レギュラスは薄く笑った。
「すみません。」
それ以上の言葉は出てこなかった。
女は唇の端を吊り上げ、視線を後ろのテーブルに向ける。
「素敵な女性を連れているのね。」
胸の奥がわずかにざらついた。
何と答えても、どこかが傷つくような気がして、曖昧に微笑むしかなかった。
この場を早く切り上げたい――それだけを考えて注文を済ませ、硬い笑顔のまま席へ戻る。
アランは窓際の席で待っていた。
外の通りを眺めていた瞳がこちらを向くと、翡翠色の光がふっと灯る。
レギュラスの胸に溶けるような安堵が広がる。
「すぐ来ますよ。」
そう言って彼女の向かいに座ったが、背中に冷たい視線が刺さるようだった。
あの女――まだカウンターの向こうにいる。
息を整えようとしても、過去の記憶が皮膚の裏でざわついた。
学生時代。
夜会。
笑い声と香水の匂い。
軽率に選び、軽率に捨てた日々。
その残滓が、こんな形で目の前に現れるとは。
「選んだ店が悪すぎたな……。」
心の中で呟く。
だがアランの楽しげな様子を見れば、それを口に出せるはずもない。
彼女は窓の外の通行人を見ては、頬を綻ばせている。
その純粋な笑顔に、罪悪感と幸福が入り混じる。
やがて料理が運ばれてきた。
よりによって、先ほどの女がトレイを持っていた。
「お待たせしました。」
その声の響きが、嫌でも耳に残る。
アランは微笑み、杖を持たずにそっと会釈をした。
声を出せない代わりに、目で礼を伝える。
その所作があまりにも丁寧で、まるで一輪の花が風に頭を垂れるようだった。
女は一瞬、目を丸くしたように見えた。
それから静かに頷き、何も言わずに去っていく。
レギュラスは視線を上げなかった。
ただ、冷めていくコーヒーの表面を見つめていた。
どうしてこんな時に――
過去の影というものは、いつも最も無防備な瞬間に現れる。
それでも、向かいのアランがスープをすくい、微笑んでこちらを見た瞬間。
すべてがどうでもよくなった。
彼女が笑っている。
その事実だけが、世界を静かに救っていた。
魔法省の石畳の廊下を、二人の足音が静かに響いていた。
夕暮れはすでに過ぎ、宵の蒼がゆっくりと窓の外を満たしていく。
アランのマントの裾が軽やかに揺れ、レギュラスのローブの裾がそのすぐ隣でかすかに擦れ合った。
執務室に戻ると、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
古いランプに火を灯すと、橙色の光が室内を満たし、二人の影を壁に柔らかく映し出す。
レギュラスは机に積まれた書類の山に目を通しながら、羽ペンを手に取った。
「……もう少ししたら片付きます。待っていてくださいね。」
優しく声をかける。
アランは小さく頷いた。
その静かな仕草が、まるで「大丈夫」と言っているようで、レギュラスは微笑んだ。
アランは屋敷から持ってきた本を取り出し、机の端に腰かけるようにしてページを開く。
魔法理論書、古い詩集、古代呪文辞典――どれも文字ばかりの難解な書物だった。
それなのに、アランはまるで音楽を聴くように穏やかに、真剣に、そして幸福そうに読み進めていく。
ランプの灯が、彼女の横顔を静かに照らしていた。
伏せた睫毛の影が頬に落ち、唇がわずかに開く。
指先がページをめくるたび、紙の擦れる音がかすかに響いた。
彼女の世界はとても静かで、穏やかだった。
そんな姿を横目に見ながら、レギュラスは羽ペンを走らせる。
インクの音と紙の音、二人の息遣いだけがこの部屋を満たしている。
――少し外に出ただけで、頭が冴えるものだ。
彼はそう思った。
アランが隣にいるだけで、不思議と疲労がやわらぐ。
彼女の穏やかな呼吸や、本をめくる小さな音が、まるで自分の神経を撫でるように優しく響く。
だが、先ほどのカフェでの出来事がふと脳裏をよぎる。
あの女――いつ、どこで、どんな関係だったのかも思い出せない。
ただ、自分の過去のどこかに確かにいたという、不快な確信だけが残っている。
女のあの視線。
「素敵な女性を連れているのね」と言ったときの、唇の片端を上げた微笑み。
あの瞬間、血の気が引くような感覚を覚えた。
過去が、現実の中に滲み出してくるような感覚。
何よりも恐ろしいのは、それをアランの前で見せてしまうことだった。
彼女は――あの空気を察していなかった。
それが何よりの救いだった。
女という存在は、なぜあんなにも空気を読むのが上手いのか。
沈黙の間に含まれる意図を、ため息の長さひとつで見抜く。
まして、嫉妬や疑念の匂いには異様なほど敏感だ。
その手の勘は、どんな呪文よりも鋭く的確に心をえぐる。
だが、アランは違う。
彼女の中には、まだ「疑う」という概念が芽生えていない。
それは、長い孤独の中で誰かを信じる術を失った結果なのかもしれないし、
あるいは――今ようやく「信じてもいい」と思える相手が目の前にいるからなのかもしれない。
レギュラスは羽ペンを置き、しばし彼女を見つめた。
机の灯りの下、アランは相変わらず本に夢中だった。
どんな魔法理論よりも、その姿が彼の胸を掴んで離さない。
本を読むことにこれほどまで情熱を注げるのは、彼女が“生きること”を学んでいるからだ。
今この瞬間、目の前でページをめくる指が、確かに世界と繋がっている。
その当たり前が、奇跡のように思える。
レギュラスはそっと視線を逸らし、ペンを再び取る。
インクの黒が紙に滲んでいく。
――この穏やかさを壊すわけにはいかない。
たとえ過去がどうあれ、未来のために沈黙を守ることもまた、愛のかたちなのだと思った。
机の向こうで、アランがそっとページを閉じる音がした。
その静寂の中で、レギュラスはようやく小さく息を吐いた。
――もう少しで終わります。
そう心の中で呟きながら、彼はまた、ペン先を走らせた。
夜の帳が落ち、騎士団本部の会議室には重苦しい沈黙が漂っていた。
円卓の上には一枚の報告書が置かれ、その上にははっきりと刻まれた名――
Regulus Arcturus Black。
そのサインの下には、無慈悲な一文が記されていた。
「アズカバン脱獄事件――監獄内部設備の老朽化による事故と断定」
「……事故、だと?」
シリウス・ブラックが低く唸った。
その声には怒りと失望、そして何よりも弟への深い悔しさが滲んでいた。
壁際のランプが淡く照らす中、ジェームズ・ポッターが腕を組む。
「証言も、物証も、全部“完璧”に整ってる。
どの視点から見ても、レギュラスの手が加えられてる。……まるで、最初からそう書くために作られた報告書みたいだ。」
テーブルの上には複数の記録写真と証言の写しが散らばっていた。
アズカバンの鉄格子は爆破された痕跡もなく、監視魔法の記録は“偶然”にもその瞬間だけ途切れている。
看守たちは皆、事故の瞬間を「見ていない」と証言していた。
それでも、死傷者はゼロ。脱獄したのは、かつて捕らえられたデスイーターたちだけ。
「事故、だとよ。」
シリウスが吐き捨てるように繰り返した。
「誰がそんな話を信じる。……いや、信じてる奴が本当にいると思ってるのか、あのクソガキは。」
ジェームズは深く息を吐き、椅子の背に体を預けた。
「レギュラス・ブラック――本当に侮れないよ。」
「感心してる場合か!」
「違う、シリウス。……あいつは“やり方”を知ってる。
証拠を消すことじゃない。誰も反論できない真実を作ることを。」
沈黙が落ちる。
外の風が古い窓を鳴らし、ランプの炎がゆらりと揺れた。
アズカバンからの脱獄は、魔法界全体を揺るがすほどの大事件だった。
それも、マグル生まれの魔法使いを違法に攻撃したデスイーターたち――
騎士団が命懸けで捕らえ、正義の名の下にアズカバンへ送った者たちだ。
その全員が、跡形もなく消えた。
それが“事故”で片付けられる――。
つまり、騎士団が費やした命と信念のすべてが、紙一枚で否定されたのだ。
「……俺たちが命懸けで捕らえた連中だぞ。」
シリウスの拳がテーブルを叩く。
「マグルを苦しめ、子どもをも殺した奴らを捕らえたんだ。それを“事故で逃げた”なんて茶番で終わらせる気か。」
「それでも、証拠がない。」
ジェームズの声は低く沈んでいた。
「レギュラスの書類は完璧だ。証言も映像も、どれも矛盾がない。……いや、あえて言うなら“矛盾がなさすぎる”。」
「だから余計に怪しいんだ。」
「そうだ。でも、誰も突けない。
レギュラス・ブラックの名は、今や魔法法務部の信頼そのものだ。
“ブラック家の血”が保証する清廉さと、あの整然とした知性。
すべてが彼の盾になっている。」
部屋の中に再び沈黙が落ちた。
シリウスは椅子の背に身を預け、天井を睨む。
弟の名を、何度頭の中で呼んでも、答えは出なかった。
彼が闇の側にいることは知っていた。
けれど、かつて一緒に星を眺め、未来を語り合ったあの弟の中に――
こんな冷徹な知略を持つ男が眠っていたとは思いもしなかった。
「……どこかに綻びがあるはずだ。」
シリウスが呟く。
「どんなに完璧な報告でも、どんなに整った証拠でも、
必ず“人間の匂い”が残る。あいつだって人間だ。」
「その綻びを見つける?」
「見つけて、暴き出してやる。
あの弟のしたことを、白日の下に晒してやる。」
その言葉に、ジェームズも静かに頷いた。
それが“騎士団”の正義だ。
マグルも魔法族も、誰もが平等でいられる世界を作るための戦い。
たとえその敵が――
自分の弟であっても。
炎の揺らぎが二人の顔を照らし、沈黙の中に、決意だけが重く残った。
静かな夜だった。
カーテンの隙間から月の光がゆるやかに差し込み、ベッドの上に銀色の模様を描いている。
外では木々の葉が風に揺れている音だけが微かに聞こえ、屋敷全体が眠りの中に沈んでいた。
レギュラスは、アランを腕の中に抱き寄せていた。
その体温を胸に感じながら、呼吸のリズムを合わせるように、静かに息を吐く。
こうして抱き合う夜は、もう何度も重ねてきた。
けれど、今夜は――何かが違っていた。
彼の中で、ずっと慎重に保ってきた境界線を、そっと超えたいという思いがあった。
焦りではなかった。
欲望でも、義務感でもない。
ただ、深く息を吸うたびに、アランという存在が胸の奥で柔らかく波打ち、
“いま、この人をまるごと抱きしめたい”という純粋な願いだけが残った。
「……アラン。」
静かに名を呼ぶ。
彼女の睫毛がわずかに揺れ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映る自分の姿が、どこまでも穏やかで、
同時にどうしようもないほど切実に見えた。
レギュラスは息を吸い込み、喉の奥で一度言葉を転がした。
普段なら、そこに出てくるのは決まって「好きですよ」だった。
優しい、軽やかな響き。
でも今夜は違う。
どうしても、もっと深く、もっと重たく、もっと真実に近い言葉を告げたかった。
「……アラン、愛しています。」
その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。
長く閉ざされていた扉が静かに開いていくような感覚。
その言葉は、静かに夜気へと溶けていった。
アランはわずかに瞬きをして、そして、何かを確かめるようにレギュラスの首筋へ顔を寄せた。
唇が触れた。
小さく、温かく、確かにそこに存在を刻むようなキス。
――好きだという言葉と、愛しているという言葉の違いを、彼女は本能で理解しているのだろうか。
だがレギュラスの「愛している」には、ただの情熱ではない、もっと深く、
彼女の過去の傷ごと包み込もうとするような慈しみが込められていた。
どんな闇も、どんな苦痛も、すべて抱きしめてやりたい。
もう二度と、彼女の涙が孤独の中で流れることのないように――。
彼はアランの頬を両手で包み、そっと額を合わせた。
彼女の瞳の奥に、ふと一瞬、過去の痛みの影が揺れた。
胸が締め付けられる。
それでも、逃げなかった。
指先で、彼女の髪をすくい、肩に流す。
その仕草ひとつひとつに、祈るような慎重さが宿っていた。
――どうか、この手で触れても、彼女の記憶が苦しみに沈まないように。
――この触れ方が、痛みではなく、救いになるように。
アランの唇が、再びレギュラスの肌に触れた。
そのたびに彼の胸の奥に、言葉にならない熱がゆっくりと満ちていく。
彼女の体温が、過去から解き放たれるように変化していくのがわかった。
夜が深まるにつれ、二人の間の空気が静かに融け合っていく。
抱きしめる腕の中で、アランはもう怯えていなかった。
彼女の髪が頬をかすめ、細い指がレギュラスの胸元を掴む。
その一瞬一瞬が、壊れやすく、儚く、けれど確かに「生きている」と思わせる温度だった。
――愛している。
この言葉を、彼は二度と軽々しく口にできないだろう。
それほどに、この夜は静かで、神聖で、痛いほどに美しかった。
指先が、まるで一枚の薄絹をなぞるように、アランの肌をゆっくりと辿っていった。
触れた途端、彼女の肩がわずかに震える。怯えではなく、長い間忘れていた“温度”に戸惑うような反応だった。
その震えを宥めるように、レギュラスはそっとその手を包み込んだ。
けれど、その手を押しとどめようとする力は感じられない。むしろ、触れることに戸惑いながらも――拒まぬ意思がそこにあった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
これまでの人生で、こんなにも慎重に、こんなにも静かな夜を過ごしたことはなかった。
欲望に任せて、あるいは互いの打算で重なった夜など、いくつもあった。
だがそのどれもが、彼の心を満たすことはなかった。
ただ一瞬の熱を交わしても、冷めた後には虚しさばかりが残った。
けれど――アランは違った。
彼女の中には、知識も、経験も、そして“誘い”という概念さえ存在しない。
長く地下牢に幽閉され、ただ命を繋ぐために屈服するしかなかった日々。
その中で彼女が知った「触れられる」という行為は、恐怖と痛みの象徴でしかなかったのだ。
レギュラスは、その記憶に一瞬、胸の奥を締めつけられるような痛みを感じた。
――自分は、その記憶の延長線に立つつもりではない。
この指先で、あの過去を上書きするのだ。
恐れではなく、温もりとして。
唇を寄せた。
その動きを見て、アランはわずかに目を閉じ、教わった通りに力を抜く。
ぎこちなくも懸命に、レギュラスの求めに応えようとする彼女の姿に、胸が痛いほどの愛しさが込み上げた。
「アラン……愛しています」
静かな夜気に、低く、穏やかな声が溶けていく。
何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
そのたびに、アランの瞳が潤み、声にならない息が震える。
彼女は言葉を失っている。だが、その沈黙の奥には確かに情感があった。
震える喉、揺れる胸、指先のわずかな力――その一つひとつが、言葉以上に雄弁に彼女の想いを伝えていた。
痛みも、恐れも、消えることはない。
だが、彼女が今この瞬間に感じているものが“苦しみではない”と、レギュラスは信じたかった。
過去の残酷な記憶を少しでも溶かすために、自分の体温をすべて捧げた。
時間が止まったかのような静寂の中で、二人の呼吸だけが重なり合う。
外の世界の喧噪も、闇の帝王の影も、この夜だけは遠いもののように感じられた。
アランの頬にかかる髪をそっと払い、レギュラスはその額にもう一度、長く深い口づけを落とした。
その瞬間、彼の胸に訪れたのは、初めて知る“満たされる”という感覚だった。
欲望ではなく、支配でもなく――ただ純粋に“生かしたい”と思う気持ち。
その夜、レギュラスは悟った。
これまで幾度も重ねた快楽の夜のどれよりも、今がいちばん幸せだと。
暗い過去の記憶を抱えた二人の間に、小さな光が灯る。
それはまだ頼りなく、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど儚い。
けれど確かに、愛という名の炎だった。
そしてその夜――レギュラスは心の底から祈った。
どうかこの手で、彼女のすべての痛みを塗り替えられますように、と。
