4章
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ホグワーツの夜は、濃い。
窓の外には黒い湖が静かに横たわり、風に揺れる水面が月光を細かく砕いている。塔の高い位置にある寮の談話室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが、時間の流れを思い出させる。
ステラは、ひとり机に向かっていた。
羊皮紙が何枚も重なり、古い写本が開かれ、インク壺の縁には乾きかけた黒がこびりついている。ペン先は何度も研がれた跡があり、指先はインクで薄く汚れていた。集中しすぎると、手が冷える。暖炉の火はここまで届かず、空気だけがひたすら乾いている。
――封印を、引き剥がす。
セシール家の血に絡みついた力だけを切り離し、母も、自分も、アルタイルも、生きたまま残す。
ただ封印だけを、別の器へ移すか、あるいは無害化する。
言葉にすれば簡単だ。
だが、ページをめくるほどに、簡単ではないことが骨身に沁みてくる。
封印は術ではなく、系譜だ。
魔力ではなく、血と魂の結び目だ。
ほどこうとすれば、本人ごと裂ける――そんな記述ばかりが目に入る。
ステラは唇を噛んだ。
母は愚かだと思う。
あれほどの力を持ちながら、あれほど守られるべき存在でありながら、母はいつも、優先順位を間違える。
誰かのために。
罪を償うために。
弱い者を守るために。
そのたびに、家族が置き去りになった。
本来受け取れたはずのものを、受け取れなかった。
幼い頃の抱擁。
「あなたが一番」と言われる確信。
自分が母の世界の中心にいるという、当然の権利。
それらを奪ったのは、メイラでもアルタイルでもない。
母自身だ。
だから、言ってやりたいことは山ほどある。
胸の奥に固く沈んだ切なさも、やるせなさも、冷えた怒りも、全部ぶつけてやりたい。
――それなのに。
母の命を差し出さなければならない現実が目の前にあると、ステラはどうしようもなく抗いたくなる。
連れていかれたくない。
殺されてほしくない。
封印の器だとか、必要な犠牲だとか、そんな言葉で片づけられることが許せない。
母が愚かだと思うのと、母を失いたくないのは、矛盾しない。
矛盾しないほど、どちらも本物だった。
父が抱く感情と、きっと同じだ。
レギュラスがアランを守るためにどれほど汚れるか。
その覚悟の重さを、ステラは理解している。理解しているからこそ、似た重みが自分の胸にも落ちているのを認めざるを得なかった。
ペン先が、羊皮紙の上で止まる。
ステラは目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、地下室の石壁と松明の揺らぎ。
寝台に横たわる母の影。
アルタイルの小さな手。
そして、杖を下ろした騎士団の背中。
「保留」と言って引いた彼らの影が、今も胸に刺さっている。
――保留など、許さない。
次にまた同じことをされるくらいなら、先にこちらが答えを見つける。
ステラは深く息を吸い、再びページをめくった。
そのとき、談話室の入口の方で、控えめな足音がした。
誰かが入ってくる気配。
こんな時間に、わざわざ。
ステラは顔を上げないまま、視線だけを動かした。
ロイ・フロストだった。
貴族の少年――いや、少年というより、もう青年に近い。ホグワーツの生徒ではないはずなのに、ここにいること自体が異常だ。姿くらましか、何かしらの手段で入り込んだのだろう。そんなことを平然とする男だということを、ステラはもう知っている。
彼は部屋の空気を乱さない歩き方で近づき、机の端に視線を落とした。
積み上がった本と羊皮紙を見ても、眉一つ動かさない。驚きもしない。まるで当然のように、そこにあるべきものだと理解している目をしていた。
「探しているんでしょう」
低い声。
押しつけがましさのない、しかし逃げ道も残さない声。
ステラはペンを置いた。音が乾いて響く。
「余計なお世話です」
顔を上げ、翡翠の瞳で射抜く。
その瞳は、相手の体温を奪うためにある。ステラはそういう目を覚えてしまった。
ロイは怯まなかった。
「そう言うと思った」
わずかに笑う。
その笑みが、ステラの神経を逆撫でする。自分の反応を読まれていることが、何より嫌だった。
「帰ってください。あなたに関係ありません」
ステラは冷たく言い放ち、手元の本を閉じようとした。
だがロイは、机の向かい側の椅子を引いて静かに座った。
「関係がないなら、僕はここにいない」
「図々しい」
「図々しいのは認める。でも――こういうのは手が多い方がいい」
ロイの言葉には、やけに現実味があった。
綺麗事ではない。慰めでもない。
ただ、目の前の問題に対する実務的な判断。
それが、余計に腹立たしい。
ステラは思わず笑いそうになって、堪えた。
他人に見せる笑いは、弱さになる。
「あなたは、何を知っているんです」
声が低くなる。
詰問ではない。確認だ。
知らないなら追い払う。知っているなら、なおさら危険だ。
ロイは視線を逸らさなかった。
「全部は知らない。でも、君が母親を救う方法を探しているのは分かる。君が嫌いな言葉で言うなら――必死だ」
その単語が、胸を突いた。
必死。
そうだ、必死だ。
母を愚かだと思う自分も、必死だ。
母に刺さる言葉を投げつけたい自分も、必死だ。
それでも、母を失うことに耐えられない自分は、もっと必死だ。
ステラは黙った。
黙るしかなかった。
ロイは机の上に手を置かず、距離を保ったまま続ける。
「僕は君の家の事情に口を出す資格はない。でも、手伝えることがあるなら手伝う。君が嫌がっても、これだけは言うよ。君一人で抱えて、君一人で答えを出すには、問題が大きすぎる」
問題が大きすぎる。
その言葉は、真実だ。
ステラは唇を引き結んだ。
認めたくない。認めたくないのに、否定できない。
「……あなたが手伝ったところで、何が変わるんです」
声が少しだけ荒れる。
苛立ちではない。焦りだ。
ロイは静かに、本の背表紙に視線を落とした。
「情報の当たりを広げる。ルートを増やす。誰にも見せない場所にある本もある。君がホグワーツの中で探せる限界は、君の立場の限界でもある」
ステラの胸の奥が、ひりつく。
この男は、踏み込んでくる。
しかも、正論で。
自分の防壁が効かない角度から。
ステラはペンを握り直した。指が冷たい。
目を伏せ、羊皮紙に書き散らした自分の走り書きを見つめる。
――母を救いたい。
そのために、誰の力でも借りるべきだ。
そう分かっているのに、ロイを受け入れることには別の恐怖がある。
この屋敷の歪みを見抜いている男。
自分の冷たさに興味を持ち、躊躇なく踏み込んでくる男。
敵か味方か、判断がつかない。
判断がつかないから、遠ざけたい。
けれど遠ざける余裕がない。
ステラは、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、ロイをまっすぐ捉える。
「……条件があります」
ロイは眉を上げる。
それだけで、承諾の準備があることが分かる。
「私の家族を、面白がらないこと」
ステラの声は硬い。
命令に近い。
「私の母を、哀れだとか、美しいだとか、そういう言葉で飾らないこと」
ロイの表情が、わずかに引き締まった。
「そして――私の父を、簡単に悪者にしないこと」
言った瞬間、胸の奥が痛む。
自分が父をどれだけ憎み、どれだけ理解しているかを、他人に知られたくなかった。
ロイはすぐに頷かなかった。
だが、その沈黙は軽くない。言葉の重みを測っている沈黙だった。
「分かった」
短い返事。
軽さはない。
その答えを聞いても、ステラの胸の硬さは解けない。
解けないままでも、前に進むしかない。
ステラは机の上の写本を一冊、ロイの方へ滑らせた。
それは許可ではなく、試しだ。
ロイはそれを受け取り、ページを開いた。
紙の擦れる音が、談話室の静けさに溶ける。
ステラは視線を落とし、再びペンを走らせた。
愚かだと思う。
突きつけたい。
それなのに失いたくない。
その矛盾を抱えたまま、ステラは書き続ける。
母を連れていかせないために。
父と同じくらい深く重たい感情を、今夜も胸の底に沈めたまま。
法務部の廊下は、いつも乾いている。
磨き上げられた石床が靴音を冷たく跳ね返し、壁に掛けられた燭台の火が、整然とした影を作る。人の行き交いは多いのに、声は小さい。誰もが自分の言葉を、空気の規律に合わせて削ってから口にする。
レギュラスはその廊下を、半歩先を見て歩いていた。
職務の顔。余計な感情を外へ漏らさない顔。
けれどその内側では、常に複数の糸を手繰っている。
誰が何を知り、誰が何を隠し、誰がどこへ向かおうとしているか。
それを把握し続けることが、この場所で生き残る術だった。
その日、バーテミウスが一歩遅れでついてきて、指先で書類を弾いた。
封蝋の色がいつもと違う。ホグワーツ由来の、少し甘い匂いも混ざっている。
「レギュラス」
呼びかけの声はいつも通り淡々としているのに、口調の底にはわずかな愉しげなものがあった。
バーテミウスはそういう時がある。何かを揶揄するというより、確信を持った観察者の顔になる。
「また、です」
差し出された羊皮紙の束。
最上段に短い報告が添えられている。
――未成年による姿くらましの疑い。
――校外の魔力痕。
――匂いの残滓。
レギュラスの眉が、ごく僅かに動いた。
未成年の姿くらましには、どうしても痕が残る。
魔力の精度が未熟だからではない。身体がまだ定まっていないからだ。
空間の裂け目に体を滑らせたとき、皮膚に、髪に、衣服に、匂いがまとわりつく。
雨上がりの石のような湿り気。
焦げた木屑に似た苦さ。
そして、ほんの少し、甘い金属のような匂い。
経験のある者なら、嗅いだ瞬間に分かる。
この報告の匂いは、もう何度も嗅いでいる。
ロイ・フロストのものだった。
「……また、ホグワーツですか」
レギュラスがそう言うと、バーテミウスは肩をすくめた。
「ええ。律儀に同じ痕を残してくれる。未成年ですからね」
そこに非難はない。事実の提示だけだ。
しかし、法務部の机にこの報告が届くこと自体が異常だった。本来なら即座に問題化され、学校側へ照会が飛び、保護者への通達がいく。
さらには、法に触れた記録として、本人の魔力記録にも傷がつく。
だが、そうはならない。
レギュラスが握り潰しているからだ。
報告書を受け取り、親指で封蝋の端をなぞる。
破る必要もない。中身はもう知っている。
けれど、この紙が存在することを確認するために、あえて手に取った。
バーテミウスが、わざとらしく溜息をつく。
「娘に近づく男を、こうも許容する男がいるのは驚きですね」
軽口の形をしているのに、観察の刃が混じっている。
レギュラスは歩みを止めず、廊下の端、窓のない壁際へと進んだ。人の往来から一歩外れる場所。
そこなら、声を落とせば聞かれない。
「許容しているわけではありません」
静かな返答。
否定なのに、感情は揺れない。
バーテミウスはレギュラスの横顔を見た。
冷静なままの表情。その奥にどれほど複雑な計算があるかを、彼は知っている。
「必要と判断したからです」
レギュラスはそう言い、報告書を二つ折りにして、手の中で折り目を整えた。
丁寧な仕草だった。紙を粗末に扱わないのは、そこに書かれた事実が、ただの文字ではないからだ。
必要。
その言葉の裏にあるものは、誰にも言わない。
言えば脆くなる。
顔合わせの夜を思い出す。
ステラがいた。
翡翠の瞳を冷たい硝子のようにして、淡々と相手を値踏みする目をしていた。
幼い頃の娘は、もういない。
手を伸ばせば抱きついてきたあの体温は、早く大人になりすぎた鋭さに変わっていた。
そして、その鋭さは――自分に似すぎている。
正義を嫌い、建前を切り裂き、核心だけを求める。
誰かを守るためなら、冷酷な結論すら躊躇わない。
その冷たさは、ステラ自身を守っているようで、同時に彼女自身を削っている。
母をも糾弾しようとしかねない思想。
それが生まれた背景を、レギュラスは分かりすぎるほど分かっている。
自分が作ったものだ。
この家の歪みが育てたものだ。
だからこそ、ステラにとって、唯一拠り所になり得る存在が必要だった。
――ロイ・フロスト。
あの男は、驚くほど礼節を崩さない。
あの夜、ステラがどれほど冷たく、会話を終わらせる気で受け答えしても。
それでも彼は折れなかった。
興味を引っ込めず、しかし押し付けない。
相手の牙を恐れず、相手の傷を面白がらない。
ステラが誰かの視線を嫌うのは、誰かの好意を嫌うのは、そこに必ず所有が混ざるからだ。
だがロイは、所有しようとしない。
その違いは大きい。
ホグワーツへ姿くらましをしたこともある。
屋敷へ来たこともある。
本来なら即座に排除してもいい。むしろブラック家としては、それが自然だ。
だが、排除すれば、ステラの世界から余計な光が消える。
その光が、ほんの少しでも娘の鋭さを和らげ、削ぎ、支えることができるなら――。
レギュラスは、そこに賭けた。
賭けるという言葉さえ、口にしたくない。
娘に対してそんな賭けをすること自体が、父として惨めだからだ。
バーテミウスが、わずかに首を傾げる。
「あなたがそういう判断をするのは珍しい」
「そうですか」
「ええ。情があるように見える」
レギュラスは一瞬だけ、笑うような息を吐いた。
情。
そんなものを自分が語るなど、滑稽だ。
「情ではありません」
否定の声は静かだが、硬い。
「娘の刃は、鋭すぎる。あれは、いつか自分の喉を裂きます」
言葉にした途端、胸の奥が僅かに痛んだ。
ステラを想う痛み。
そして、その刃を作ったのは自分だという痛み。
バーテミウスは、珍しく黙った。
軽口が消え、代わりに、理解の沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、誰かが書類を抱えて走っていく。
遠い足音が響き、また消える。
レギュラスは、折り畳んだ報告書を内ポケットにしまった。
処理はあとでいい。いつも通り、記録から消す。適当な理由をつけて。
バーテミウスが小さく言う。
「彼――ロイ・フロストは、匂いを残す。いずれ誰かに嗅ぎ取られますよ」
「嗅ぎ取らせません」
即答だった。
法務部の中枢にいる男が、それを言えば、それが現実になる。
それでも、胸のどこかで思う。
いつまで握り潰せる。
いつまで娘の周りの火種を、自分だけで消し続けられる。
けれど、今はまだ。
今はまだ、必要だ。
レギュラスは歩き出した。
廊下の冷たい空気を割り、いつもの速度で前へ進む。
娘が、これ以上冷たくなりすぎないために。
娘が、母を糾弾して自分まで壊してしまわないために。
そのために、父は今日も手を汚す。
誰にも気づかれない場所で、静かに、確実に。
その夜、談話室の火は小さかった。
暖炉は燃えているのに、熱が届かない。
石造りの壁が、火の温もりを飲み込み、空気を乾かしていく。外は風が強いのだろう、窓枠が微かに鳴る。夜のホグワーツは、眠りの中で骨だけが軋むような音を立てる。
ステラは、机の上に散らばった紙の海に沈んでいた。
インクは濃く、線は細かく、書き込みは端まで詰まっている。
書きすぎて指の関節が硬い。ペン先を握り直すたびに、皮膚が擦れて痛む。
それでも止められなかった。
母を生かす。
封印を剥がす。
それだけを考えて、時間を削ってきた。
その横で、ロイ・フロストが静かにページを捲っていた。
彼は無駄に口を挟まない。必要なところだけを指差し、必要なところだけを写し取る。
その冷静さが鬱陶しいほどありがたいのに、ステラは素直に認めたくなかった。
「……これ、見て」
自分の声が、思っていたよりかすれていた。
喉の乾きに気づいていなかった。集中すると、身体の不調すら意識の外へ追いやられる。
ステラは一枚の羊皮紙を引き寄せ、ランプの光に透かした。
古い写本の一部を、転写したもの。行間の詰まった古語の文が、薄いインクで連なっている。
ところどころ、図のような記号が入っていた。封印陣の変形。血の流れを示すような線。
ロイが覗き込む。
その視線が、紙の上の一行で止まった。
ステラは指先でそこを押さえた。
言葉が、喉元でひっかかって、一度飲み込む。
――「封印の力のみを切り離す」
――「器を生かしたまま」
――「血脈の継承者が複数存在する場合、分担可能」
手が、わずかに震えた。
見つけた。
探し続けたものが、ここにある。
それなのに、胸が喜びで満たされない。
ロイの声が低く落ちる。
「……これが?」
ステラは頷いた。頷くのに、喉がきつく締まる。
息が上手く吸えない。嬉しいはずなのに、全身が冷えていく。
見つけた瞬間、同時に次の行が目に入ったからだ。
《封印を担う者は、必ず代価を差し出す》
《代価は身体の一部。失われたものは、魔法で補えない》
《血脈に刻まれた封の鎖は、贈与ではなく契約である》
ステラは、指を次の段へ滑らせた。
そこには、具体例のような記述が並んでいる。
――視力。
――聴力。
――四肢の機能。
――声。
――記憶。
――感覚。
そして最後に、淡々と書かれていた。
《選択は不可》
《封が欲するものを、封を担う者は差し出す》
ステラの背筋に、ぞっとするものが走った。
選べない。
差し出すものは、こちらが決められない。
それは、術ではない。
裁きでもない。
ただ、取引だ。
しかも相手は人ではない。
封印という名の何かが欲しがるものを、奪われる。
悪魔との契約のようだった。
ステラは、口元に手を当てた。
爪が唇に食い込む。痛みで、自分がまだここにいると確認する。
母を救える。
その可能性が見えた。
だが救うために、母の身体が削られる。
既に声を奪われ、体を痛め、そしてなお生きている母から、さらに何かを奪う。
――そして。
そこに分担可能という文字があるせいで、もっと残酷になる。
母だけではない。
ステラもだ。
アルタイルもだ。
セシール家の血を引く限り、封印の契約に触れる資格がある。
触れるということは、代価を支払えるということだ。
代価を支払える者がいるなら、封は遠慮なく要求してくる。
ロイが、静かに息を吐いた。
「危険だな」
ステラは返事ができなかった。
頷くことすらできない。肯定した瞬間、現実になってしまう気がした。
目の前が滲む。
泣いているわけではない。泣くほどの余裕がない。
ただ、文字が揺れて、焦点が合わない。
自分が何かを失うのは構わない。
そう言い切れるほど、ステラは純粋ではないし強くもない。
怖い。失いたくない。
失ったものが、もう戻らないと書かれている。
視力を失うかもしれない。
声を失うかもしれない。
それは、ただの不便ではない。
生き方そのものが変わる。
けれど――それ以上に。
アルタイルだ。
あの子は優しい。
母の望む幼さを守るために、わざと幼く振る舞っている。
それは自分が思う以上に、繊細で、危うい選択だ。
そんな子が、何かを奪われたら。
あの子は、きっと笑う。
「大丈夫だよ、姉さん」
そう言って、母を安心させる。
その笑顔が目に浮かんで、ステラは喉の奥が焼けるように痛んだ。
ロイが、机の端に手を置きそうになって、途中で止めた。
ステラが触れられるのを嫌うことを知っているからだろう。
その配慮が、今は腹立たしくもある。優しさが、現実の重さを増やす。
「君の父親が許可すると思うか?」
ロイの問いは、刃のように真っ直ぐだった。
レギュラス・ブラック。
あの男が。
母を守るためなら世界を焼く男が。
娘と息子の身体を差し出す取引を、許すだろうか。
許すはずがない。
許すわけがない。
けれど、母を殺すしかないと言われたら。
母が連れていかれると言われたら。
その時、父はどんな決断をする。
ステラは、紙を握り潰しそうになって、こらえた。
指先が白くなる。
紙は脆い。力を入れれば破れる。
破れてしまえば、希望の形が消える。
ステラは声を絞った。
「……犠牲が、大きすぎる」
言葉にした瞬間、胸の奥から何かが溢れそうになる。
それは涙ではない。怒りに近い。
こんな方法しかないのかという、理不尽への怒り。
母は愚かだと思う。
優先順位が違うと言ってやりたい。
母の善意のせいで、自分が受け取れなかったものがある。
それなのに。
母が死ぬのは嫌だ。
母を救うために、自分が何かを失うことは、受け入れられるかもしれない。
だが、アルタイルが失うのは。
母がこれ以上失うのは。
ステラは、目を閉じた。
頭の中に、父の顔が浮かぶ。
冷静な仮面の下で、感情が暴れる男。
母を抱きしめるときだけ、ほんの僅かに壊れる男。
父にこの紙を見せれば、空気は一変する。
この術を「希望」と呼ぶか、「罠」と呼ぶか。
その判断は、父の手に委ねられる。
ステラは、それが悔しかった。
自分が見つけた答えなのに。
自分の命が関わるのに。
母の命が関わるのに。
最後の決定権を握るのは、父だ。
ロイが静かに言う。
「でも、見つけたんだ。道はある。あとは――」
ステラは目を開けた。翡翠の瞳が、乾いた火のように冷たく光る。
「……あとはじゃない」
言葉は鋭かった。
自分に言い聞かせるためでもある。
「これは、道じゃない。取引よ」
紙の上の文字が、まるで血の契約書みたいに見える。
封印の力を切り離す代わりに、身体の一部を差し出す。
失ったものは戻らない。選べない。
その残酷さが、胸を圧迫する。
それでも。
手を伸ばしてしまう。
母が生きる可能性があるなら。
家族が殺されない未来があるなら。
ステラはゆっくりと羊皮紙を整え、折り目をつけずに束ねた。
指先がまだ震えている。
震えが止まらないまま、鞄の一番奥へしまう。
隠すためではない。
守るためだ。
この紙は危険だ。誰かに見つかれば、簡単に利用される。騎士団にも、ヴォルデモート側にも。
息を吐くと、白くはならない。談話室は暖かい。
それでも、自分の内側だけが凍えている。
ステラは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「……父に見せる」
それは宣言というより、刑の執行のようだった。
ロイが何か言いかけたが、ステラは聞かなかった。
父が許すかどうか分からない。
許すはずがない。
でも、見せなければ始まらない。
見つけた希望が、同時に呪いでもあることを抱えたまま。
ステラは机の上の灯りを落とし、暗い廊下へ足を踏み出した。
ホグワーツの石壁が冷たく、足音が長く伸びる。
母を救うために。
そして、救う代わりに何かを失うかもしれない未来へ向かって。
胸の奥に重たい石を抱えたまま、ステラ・ブラックは歩き続けた。
ホグワーツの門を出た瞬間、空気の質が変わる。
石造りの城が背後に遠ざかり、冷えた風が頬を撫でる。
同じ冬の夜でも、屋敷へ戻る道はもっと重い。何かが待っていると分かっている道だからだ。
ステラは外套の襟を上げ、杖を握り直した。
羊皮紙の束は鞄の一番奥に押し込んである。折れないように、濡れないように、守るように。
けれど守っているのは紙ではない。そこに書かれた可能性だ。
あの文字列は、希望であり、呪いだった。
封印を切り離す術。
母を生かしたまま、封印だけを剥がせる術。
――ただし、代価が必要。
身体の一部を差し出す。
取り戻せないものを失う。
それが母だけでなく、自分とアルタイルにも及ぶ。
その事実が喉に引っかかり、息が浅くなる。
今はまだ、涙は出ない。涙を出すには、まだ早い。
まず父に言わなければならない。父が何と言おうと。
屋敷に近づくにつれ、景色は整っていく。
広い敷地の暗い木々が風で揺れ、鉄の門が静かに開く。
使用人の灯りが点々と揺れ、玄関の前には冷えた石段が続く。
ブラック家の屋敷は、いつだって秩序の形をしている。
その秩序の中にある、歪みと秘密の重さも含めて。
ステラは扉をくぐった。
室内に漂う暖炉の香りと、古い木の匂い。
その匂いは幼い頃から変わらないのに、今夜は息苦しい。
「お父様は?」
問いかける声が、思っていたより硬い。
自分が焦っているのが分かる。怒りではない。怖さだ。
案内されたのは、書斎でも応接間でもない。
誰にも聞かれないために選ばれた場所――執務室に近い、小さな談話室だった。
レギュラスは先にいた。
火は焚かれているが、部屋の空気は温かくない。
机の上には書類の山。封蝋の色が幾つも混ざり、決裁待ちの紙が整然と積み上げられている。
それだけで、父がどれほどのものを抱えているかが分かる。
けれど今夜、ステラはその重さを思いやる余裕がなかった。
「戻りました」
「ええ。聞きました」
レギュラスは立ち上がらなかった。
そのまま、椅子の背に体重を預け、娘を見た。
翡翠の瞳がぶつかる。
同じ色なのに、温度が違う。
ステラは鞄から羊皮紙を取り出した。
折れていない。濡れていない。守ってきた。
それを机の上に置くと、紙の擦れる音が妙に大きく響いた。
「見つけました」
言った瞬間、喉の奥が痛む。
嬉しさで痛むのではない。覚悟の痛みだ。
レギュラスは羊皮紙を手に取った。
視線が走り、数行で止まる。
読む速度が速い。何度も決断をしてきた男の目だ。余計なものを読み飛ばさない。
そして、次の瞬間。
表情が変わらないまま、空気が変わった。
「却下です」
声は低く、静かで、容赦がない。
予想していた。
けれど、予想していたから耐えられるわけではない。
ステラの胸の奥が、ぎゅっと締まる。
父の拒絶は、単なる否定ではない。娘に選択肢を与えない拒絶だ。
その強さが、今夜は憎らしかった。
「お母様は」
ステラは言いかけて、途中で止めた。
母の名を出せば、父の瞳の奥が揺れる。
それを狙っている自分が嫌で、でもやめられない。
レギュラスが先に言った。
「アランも、あなたたちの犠牲があると分かればその道は選びません」
淡々と。
確信を持って。
その言葉は、母を盾にしているようで、実際は母を守るための盾だった。
母の意思を、父は信じている。信じているから、決定を固められる。
ステラの指先が冷える。
「なら――」
声が僅かに震える。怒りではない。
切実さが震えになる。
「黙って母を差し出しますか」
言った途端、部屋の空気が張りつめた。
火がぱちりと鳴る音すら、遠くに感じる。
レギュラスの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
その瞳は、娘を刺すためではなく、言葉を止めるための刃だ。
「そうならないために、探しています」
短い返答。
けれど、その短さに苛立ちが湧く。
探している。
探していると言う。
それは正しい。父はきっと、ありとあらゆる手を尽くしている。
でも、その言葉に時間が含まれていない。
ステラは机の端を握った。
爪が木に食い込む。
握らなければ、声が荒れてしまう気がした。
「探していると言って」
ゆっくり言葉を置く。
突きつけるように。
「……いつまで時間が残されているのですか」
レギュラスは黙った。
黙りが答えになってしまうタイプの沈黙だった。
ステラは息を吸う。冷たい空気が肺の奥に刺さるような錯覚がする。
そして言葉を続ける。
「騎士団は、もうお母様に刃を突きつけました」
地下室の石壁。松明の揺れ。
あの夜の空気が、また胸の内側に戻ってくる。
「……一度じゃない。二度です」
父がそれを知っているのも分かっている。
分かっているからこそ、言わなければならない。言えば、その重さがまた父にのしかかると分かっていても。
「闇の帝王の力が増してきている今」
その言葉は、屋敷の中でさえ禁句に近い。
けれど、現実は現実だ。伏せても消えない。
「この封印さえなければ、という思想が魔法界中に広まれば――」
ステラは言葉を選ばなかった。
選べば丸くなる。丸くなれば、現実がぼやける。
ぼやけた現実は、いつも命を奪う。
「お母様は、生きていられなくなる」
言い切った瞬間、喉が痛んだ。
口にしてしまった。
母の生と死を、言葉の形にしてしまった。
レギュラスの手が、羊皮紙の端を押さえたまま動かない。
紙を離せば、娘の提案が机の上に残る。
残るということは、選択肢として存在し続けるということだ。
父はそれを許さない。
選択肢として残すことすら、今は拒んでいる。
「ステラ」
名前を呼ばれる。
それだけで、心臓の奥が僅かに跳ねる。
幼い頃のように呼ばれているわけではない。家の中枢の人間として呼ばれている声だ。
「あなたは、何かを失うことを簡単に言う」
叱責ではない。
責めているわけでもない。
淡々とした言葉が、逆に痛い。
「あなたが失うものも、アルタイルが失うものも、アランがこれ以上失うものも。こちらが選べない」
父の声には、怒りよりも疲労が混じっていた。
疲労の奥に、強い恐れがある。
恐れている。
父も、失うことを恐れている。
その恐れが、ステラには救いにも見えた。
同時に、絶望にも見えた。
守りたいが故に、道を閉ざす。
道を閉ざした結果、時間が尽きる。
その最悪を、ステラは想像してしまう。
「お父様」
声が少しだけ柔らかくなる。
それが悔しい。悔しいのに、止められない。
「私も、失いたくありません」
はっきり言うのは、怖かった。
でも言った。言わなければ、父は娘が強いふりをしていると思う。
強いふりをしたままでは、代価の重さが伝わらない。
「それでも」
言葉が途切れる。
胸の奥が、熱くなる。怒りではない。
必死さが熱になる。
「それでも、他にないなら――」
言いかけたところで、レギュラスの視線がぴたりと止まる。
その瞳は、娘を止めるための瞳だった。
母を守るための瞳でもある。
ステラはそこで言葉を飲み込んだ。
飲み込むと、喉が痛む。
飲み込むしかないことが、なお痛い。
沈黙が落ちる。
暖炉の火が揺れ、机の上の影が伸び縮みする。
父の横顔は整っているのに、その整い方がどこか冷たい。
感情を乱せば負けると知っている男の顔だ。
ステラは、その顔を見ながら思う。
探していると言って、いつまで時間が残されているのだろう。
騎士団はもう刃を突きつけた。
次は「保留」では済まないかもしれない。
魔法界の空気が変わるのは、いつだって一瞬だ。
「必要な犠牲」という言葉が広まれば、それは正義の顔をして歩き始める。
正義は、いつも美しい顔で人を殺す。
母が標的になったとき、止められる者が何人いる。
父は一人で立ち続けられるのか。
自分とアルタイルは、守り切れるのか。
ステラは、机の上の羊皮紙に視線を落とした。
危険な希望。悪魔の取引。
それでも、希望であることは変わらない。
レギュラスは羊皮紙を閉じ、静かに自分の引き出しにしまった。
鍵をかける音が、最後の宣告のように響く。
「この道は使いません」
「……分かりました」
ステラはそう答えた。
分かったわけではない。従うしかないだけだ。
けれど今は、父と争うことが目的ではない。
目的は、母を生かすこと。
ステラは背筋を伸ばした。
翡翠の瞳に、冷たい火が戻る。
「では、お父様。別の道を見つけてください」
命令のように聞こえる言い方になった。
意図していないのに、そうなる。
余裕がないからだ。
「見つからなければ」
その先は言わなかった。
言えば、現実になってしまう気がしたから。
レギュラスは答えない。
答えないまま、ただ娘を見た。
その視線の奥にあるのは、決意だ。
そして、底の見えない恐れ。
ステラは踵を返し、扉へ向かった。
扉を開ける前に、一度だけ振り返る。
父の背後に積み上がる書類の山。
世界の歪みが、紙の形になっている。
あれを処理しながら、家族も守る。
父はそういう男だ。
だからこそ、ステラは胸の奥で冷たく誓う。
時間は、そんなに残されていない。
探すだけでは足りない。
見つける。奪い取る。
母を、生かすために。
ステラ・ブラックは静かに扉を閉め、屋敷の暗い廊下へ出た。
冷えた空気が頬を撫でる。
その冷たさが、今夜は救いのように感じられた。
扉を閉めた音は、思ったより小さかった。
父の前で「分かりました」と言った自分の声の方が、よほど大きく響いている気がした。
廊下は静かで、暖炉の遠い爆ぜる音だけが、ときおり壁の向こうから滲む。屋敷はいつも通り整いすぎていて、その整い方が、今は息苦しい。
引いたように見せた。
従うように見せた。
それは、父が求める秩序に一瞬だけ自分を合わせたに過ぎない。
ステラは引かなかった。
足音を殺して曲がり角を抜け、二階の奥へ向かう。
母の部屋ではない。父の目が届きやすい場所に行けば、すぐに止められる。
だから選ぶのは、アルタイルの部屋。
扉の前で、ほんの僅かに息を整えた。
胸の奥にあるものは、怒りでも悲しみでもない。もっと乾いた、鋭いものだった。
時間だ。
時間がないという感覚が、血の流れのように全身を巡っている。
ノックを一度だけ。
返事はすぐに返ってきた。
「どうぞ」
開けると、アルタイルは机の前にいた。
本を広げ、羽根ペンを動かしている。休暇で帰ってきたばかりなのに、彼はいつも通り“いい子”の姿をしていた。
灯りに照らされた横顔が幼く見えるのは、わざとなのだとステラは知っている。母の望みを守るために、彼は自分で自分を幼くしている。
ステラは扉を閉め、鍵はかけなかった。
鍵をかける行為は、罪悪感を増幅させる。自分がいま何をしようとしているかを、はっきりさせてしまうからだ。
「姉さん?」
アルタイルが振り返る。
翡翠の瞳は同じ色なのに、彼の瞳には柔らかさが残っている。母に似た柔らかさだ。
それが胸に刺さる。
ステラは椅子に座らなかった。
立ったまま、距離を保った。これ以上近づいたら、言葉が鈍る気がした。
「話があるの」
自分の声が落ち着いているのが怖かった。
落ち着いているのは、冷静だからではない。決めているからだ。
アルタイルはペンを置き、素直に頷いた。
「うん」と言うその声が、無防備で、頼りないほど優しい。
ステラは鞄から例の羊皮紙の束を取り出し、机の端にそっと置いた。
乱暴に置けば紙が傷む。紙を傷めたくないわけではない。そこに書かれた未来を、自分が傷つけたくなかった。
「……これを見つけたわ」
アルタイルの視線が紙へ落ちる。
読み取る力はある。彼は優等生で、姉の影に隠れるふりをしているだけで、理解力も魔力も並ではない。
それを誇らしいと思う余裕は、今はない。
ステラは続けた。
「セシール家の封印だけを、お母様から切り離す術」
言い切った途端、アルタイルの瞳が僅かに明るくなった。
そこに宿る光が、あまりにも分かりやすい。
救える。
母を生かせる。
その可能性に、彼は迷いなく心を傾ける。
ステラはその光を見て、胸の奥が熱くなった。
怒りではない。痛みだ。
そんな光を、もう何度も現実が踏みにじってきたのを知っている。
だから、先に釘を刺すように言った。
「ただし、代価がある」
アルタイルは瞬きをした。
ステラは淡々と説明する。淡々としていなければ、途中で声が崩れる。
「封印を持つ者は、身体の一部を差し出さないといけない。失ったものは魔法でも戻らない。何を失うかは選べない」
言葉が積み上がるほど、部屋の空気が重くなる。
ランプの火が、揺れた気がした。
「……それは、お母様だけじゃない」
ステラは一呼吸置いた。
言うべきではない、と頭のどこかで囁く声がある。
父なら止める。母も止める。
だからこそ、今ここで言う。
「私と、あなたにも関わる」
アルタイルの目が大きく開かれた。
驚きはあった。けれど恐れは、すぐには出てこない。
その代わりに浮かぶのは、判断の速さだ。
母を思うなら。
失いたくない思いがあるなら。
そういう言い方を、ステラはわざと選んだ。
卑怯だと分かっている。
でも必要だった。
母を大切に思うアルタイルが、犠牲を顧みず頷くことなど分かり切っていた。
それがアルタイルだからだ。
優しいから。
自分よりずっと無防備に、母のために自分を差し出す子だから。
そして、ステラはそれを知った上で、母に言う前に弟に告げた。
母に先に伝えれば、母は即座に拒む。
父も拒む。
拒まれると分かっている道を、ただ眺めて終わるのは嫌だった。
アルタイルはゆっくり息を吸い、紙に視線を落とし、もう一度ステラを見た。
その目は揺れていない。
揺れていないことが、恐ろしいほどだった。
「姉さん」
呼び方がいつも通りで、ステラの胸がきゅっと締まる。
アルタイルは少し笑った。自分を安心させるための笑い方だ。
「僕は大丈夫です」
その一言が、あまりにも予想通りだった。
そう言うと思っていた。
それでこそ求めていた答えだった。
ステラは目を伏せなかった。
弟の顔をまっすぐ見たまま、静かに頷いた。
「そう」
声が冷たいのは、冷たいからではない。
震えを隠すためだ。
アルタイルが「大丈夫」と言うその軽さの裏に、どれほどの重さがあるかをステラは知っている。
失うかもしれないのに。
戻らないと書かれているのに。
それでも母さんのためならを選ぶ。
ステラは、弟のその優しさが好きで、嫌いだった。
好きなのは、家族を守るために差し出せる心が尊いから。
嫌いなのは、その尊さが、いつか必ず彼を壊すから。
「……怖くないの?」
口に出してしまった。
訊くつもりはなかったのに、言葉が落ちた。
アルタイルは首を傾げ、少し考えるような間を置いた。
そして、素直に言った。
「怖いよ」
ステラの胸の奥が、ずきりと痛む。
「でも、母さんがいなくなる方がもっと怖い」
それだけで終わる。
彼にとっては、それが全てなのだ。
ステラは一瞬、息を止めた。
吐き出せば、何かが崩れてしまう気がした。
犠牲を伴えないのならば。
望むことさえ諦めるべきなのだ。
父はそう考えるだろう。
母もそう考える。
けれど、ステラは違う。
諦めることは、母を差し出すことと同義だ。
差し出すことを、もう正義にさせたくない。
ステラは机の上の羊皮紙を指先で整えた。
紙の角を揃える仕草が、妙に丁寧になる。
丁寧にしないと、自分が乱暴なことをしようとしている現実に耐えられない。
「……お父様は、私を責めるでしょうね」
独り言のように落とした。
アルタイルは慌てたように首を振る。
「姉さんが悪いんじゃないよ」
優しい。
その優しさが、今は刃になる。
ステラは弟の言葉を否定しなかった。
否定できない。
自分は、弟を利用した。弟の優しさを、分かった上で引き出した。
そして、その優しさを盾にして、父の拒絶を押し返そうとしている。
卑怯だ。
でも、卑怯でなければ守れないものがある。
ステラは鞄を閉じ、羊皮紙をもう一度奥へしまった。
この部屋の空気に長く触れさせたくなかった。
アルタイルの覚悟に、紙が染まってしまいそうで。
扉へ向かう前に、ステラは弟を見下ろした。
少年はまっすぐ見上げてくる。翡翠の瞳が柔らかいまま、覚悟だけが固い。
「アルタイル」
名前を呼ぶ声が、少しだけ低くなる。
「誰にも言わないで」
命令の形になるのが嫌だった。
けれどお願いの形にすると、彼はすぐ母に言ってしまう。
母を安心させたいから。母に喜んでほしいから。
アルタイルはすぐ頷いた。
「うん。姉さんが言うなら」
それがまた、胸を痛める。
ステラは扉に手をかけた。
指先が冷たい。屋敷の木は、いつも冬の冷たさを残している。
扉を開ける前に、一瞬だけ目を閉じた。
父は責めるだろう。
弟を巻き込んだことを。
弟に代価を背負わせようとしたことを。
家の秩序を乱したことを。
それでも、ステラは止まらない。
母を守るために。
家族を守るために。
そして何より、自分が“諦める側”に回らないために。
扉を開けると、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
その冷たさに背筋が伸びる。
ステラ・ブラックは足音を抑え、静かに歩き出した。
胸の奥に、弟の「僕は大丈夫です」という言葉を、重石のように抱えたまま。
窓の外には黒い湖が静かに横たわり、風に揺れる水面が月光を細かく砕いている。塔の高い位置にある寮の談話室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが、時間の流れを思い出させる。
ステラは、ひとり机に向かっていた。
羊皮紙が何枚も重なり、古い写本が開かれ、インク壺の縁には乾きかけた黒がこびりついている。ペン先は何度も研がれた跡があり、指先はインクで薄く汚れていた。集中しすぎると、手が冷える。暖炉の火はここまで届かず、空気だけがひたすら乾いている。
――封印を、引き剥がす。
セシール家の血に絡みついた力だけを切り離し、母も、自分も、アルタイルも、生きたまま残す。
ただ封印だけを、別の器へ移すか、あるいは無害化する。
言葉にすれば簡単だ。
だが、ページをめくるほどに、簡単ではないことが骨身に沁みてくる。
封印は術ではなく、系譜だ。
魔力ではなく、血と魂の結び目だ。
ほどこうとすれば、本人ごと裂ける――そんな記述ばかりが目に入る。
ステラは唇を噛んだ。
母は愚かだと思う。
あれほどの力を持ちながら、あれほど守られるべき存在でありながら、母はいつも、優先順位を間違える。
誰かのために。
罪を償うために。
弱い者を守るために。
そのたびに、家族が置き去りになった。
本来受け取れたはずのものを、受け取れなかった。
幼い頃の抱擁。
「あなたが一番」と言われる確信。
自分が母の世界の中心にいるという、当然の権利。
それらを奪ったのは、メイラでもアルタイルでもない。
母自身だ。
だから、言ってやりたいことは山ほどある。
胸の奥に固く沈んだ切なさも、やるせなさも、冷えた怒りも、全部ぶつけてやりたい。
――それなのに。
母の命を差し出さなければならない現実が目の前にあると、ステラはどうしようもなく抗いたくなる。
連れていかれたくない。
殺されてほしくない。
封印の器だとか、必要な犠牲だとか、そんな言葉で片づけられることが許せない。
母が愚かだと思うのと、母を失いたくないのは、矛盾しない。
矛盾しないほど、どちらも本物だった。
父が抱く感情と、きっと同じだ。
レギュラスがアランを守るためにどれほど汚れるか。
その覚悟の重さを、ステラは理解している。理解しているからこそ、似た重みが自分の胸にも落ちているのを認めざるを得なかった。
ペン先が、羊皮紙の上で止まる。
ステラは目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、地下室の石壁と松明の揺らぎ。
寝台に横たわる母の影。
アルタイルの小さな手。
そして、杖を下ろした騎士団の背中。
「保留」と言って引いた彼らの影が、今も胸に刺さっている。
――保留など、許さない。
次にまた同じことをされるくらいなら、先にこちらが答えを見つける。
ステラは深く息を吸い、再びページをめくった。
そのとき、談話室の入口の方で、控えめな足音がした。
誰かが入ってくる気配。
こんな時間に、わざわざ。
ステラは顔を上げないまま、視線だけを動かした。
ロイ・フロストだった。
貴族の少年――いや、少年というより、もう青年に近い。ホグワーツの生徒ではないはずなのに、ここにいること自体が異常だ。姿くらましか、何かしらの手段で入り込んだのだろう。そんなことを平然とする男だということを、ステラはもう知っている。
彼は部屋の空気を乱さない歩き方で近づき、机の端に視線を落とした。
積み上がった本と羊皮紙を見ても、眉一つ動かさない。驚きもしない。まるで当然のように、そこにあるべきものだと理解している目をしていた。
「探しているんでしょう」
低い声。
押しつけがましさのない、しかし逃げ道も残さない声。
ステラはペンを置いた。音が乾いて響く。
「余計なお世話です」
顔を上げ、翡翠の瞳で射抜く。
その瞳は、相手の体温を奪うためにある。ステラはそういう目を覚えてしまった。
ロイは怯まなかった。
「そう言うと思った」
わずかに笑う。
その笑みが、ステラの神経を逆撫でする。自分の反応を読まれていることが、何より嫌だった。
「帰ってください。あなたに関係ありません」
ステラは冷たく言い放ち、手元の本を閉じようとした。
だがロイは、机の向かい側の椅子を引いて静かに座った。
「関係がないなら、僕はここにいない」
「図々しい」
「図々しいのは認める。でも――こういうのは手が多い方がいい」
ロイの言葉には、やけに現実味があった。
綺麗事ではない。慰めでもない。
ただ、目の前の問題に対する実務的な判断。
それが、余計に腹立たしい。
ステラは思わず笑いそうになって、堪えた。
他人に見せる笑いは、弱さになる。
「あなたは、何を知っているんです」
声が低くなる。
詰問ではない。確認だ。
知らないなら追い払う。知っているなら、なおさら危険だ。
ロイは視線を逸らさなかった。
「全部は知らない。でも、君が母親を救う方法を探しているのは分かる。君が嫌いな言葉で言うなら――必死だ」
その単語が、胸を突いた。
必死。
そうだ、必死だ。
母を愚かだと思う自分も、必死だ。
母に刺さる言葉を投げつけたい自分も、必死だ。
それでも、母を失うことに耐えられない自分は、もっと必死だ。
ステラは黙った。
黙るしかなかった。
ロイは机の上に手を置かず、距離を保ったまま続ける。
「僕は君の家の事情に口を出す資格はない。でも、手伝えることがあるなら手伝う。君が嫌がっても、これだけは言うよ。君一人で抱えて、君一人で答えを出すには、問題が大きすぎる」
問題が大きすぎる。
その言葉は、真実だ。
ステラは唇を引き結んだ。
認めたくない。認めたくないのに、否定できない。
「……あなたが手伝ったところで、何が変わるんです」
声が少しだけ荒れる。
苛立ちではない。焦りだ。
ロイは静かに、本の背表紙に視線を落とした。
「情報の当たりを広げる。ルートを増やす。誰にも見せない場所にある本もある。君がホグワーツの中で探せる限界は、君の立場の限界でもある」
ステラの胸の奥が、ひりつく。
この男は、踏み込んでくる。
しかも、正論で。
自分の防壁が効かない角度から。
ステラはペンを握り直した。指が冷たい。
目を伏せ、羊皮紙に書き散らした自分の走り書きを見つめる。
――母を救いたい。
そのために、誰の力でも借りるべきだ。
そう分かっているのに、ロイを受け入れることには別の恐怖がある。
この屋敷の歪みを見抜いている男。
自分の冷たさに興味を持ち、躊躇なく踏み込んでくる男。
敵か味方か、判断がつかない。
判断がつかないから、遠ざけたい。
けれど遠ざける余裕がない。
ステラは、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、ロイをまっすぐ捉える。
「……条件があります」
ロイは眉を上げる。
それだけで、承諾の準備があることが分かる。
「私の家族を、面白がらないこと」
ステラの声は硬い。
命令に近い。
「私の母を、哀れだとか、美しいだとか、そういう言葉で飾らないこと」
ロイの表情が、わずかに引き締まった。
「そして――私の父を、簡単に悪者にしないこと」
言った瞬間、胸の奥が痛む。
自分が父をどれだけ憎み、どれだけ理解しているかを、他人に知られたくなかった。
ロイはすぐに頷かなかった。
だが、その沈黙は軽くない。言葉の重みを測っている沈黙だった。
「分かった」
短い返事。
軽さはない。
その答えを聞いても、ステラの胸の硬さは解けない。
解けないままでも、前に進むしかない。
ステラは机の上の写本を一冊、ロイの方へ滑らせた。
それは許可ではなく、試しだ。
ロイはそれを受け取り、ページを開いた。
紙の擦れる音が、談話室の静けさに溶ける。
ステラは視線を落とし、再びペンを走らせた。
愚かだと思う。
突きつけたい。
それなのに失いたくない。
その矛盾を抱えたまま、ステラは書き続ける。
母を連れていかせないために。
父と同じくらい深く重たい感情を、今夜も胸の底に沈めたまま。
法務部の廊下は、いつも乾いている。
磨き上げられた石床が靴音を冷たく跳ね返し、壁に掛けられた燭台の火が、整然とした影を作る。人の行き交いは多いのに、声は小さい。誰もが自分の言葉を、空気の規律に合わせて削ってから口にする。
レギュラスはその廊下を、半歩先を見て歩いていた。
職務の顔。余計な感情を外へ漏らさない顔。
けれどその内側では、常に複数の糸を手繰っている。
誰が何を知り、誰が何を隠し、誰がどこへ向かおうとしているか。
それを把握し続けることが、この場所で生き残る術だった。
その日、バーテミウスが一歩遅れでついてきて、指先で書類を弾いた。
封蝋の色がいつもと違う。ホグワーツ由来の、少し甘い匂いも混ざっている。
「レギュラス」
呼びかけの声はいつも通り淡々としているのに、口調の底にはわずかな愉しげなものがあった。
バーテミウスはそういう時がある。何かを揶揄するというより、確信を持った観察者の顔になる。
「また、です」
差し出された羊皮紙の束。
最上段に短い報告が添えられている。
――未成年による姿くらましの疑い。
――校外の魔力痕。
――匂いの残滓。
レギュラスの眉が、ごく僅かに動いた。
未成年の姿くらましには、どうしても痕が残る。
魔力の精度が未熟だからではない。身体がまだ定まっていないからだ。
空間の裂け目に体を滑らせたとき、皮膚に、髪に、衣服に、匂いがまとわりつく。
雨上がりの石のような湿り気。
焦げた木屑に似た苦さ。
そして、ほんの少し、甘い金属のような匂い。
経験のある者なら、嗅いだ瞬間に分かる。
この報告の匂いは、もう何度も嗅いでいる。
ロイ・フロストのものだった。
「……また、ホグワーツですか」
レギュラスがそう言うと、バーテミウスは肩をすくめた。
「ええ。律儀に同じ痕を残してくれる。未成年ですからね」
そこに非難はない。事実の提示だけだ。
しかし、法務部の机にこの報告が届くこと自体が異常だった。本来なら即座に問題化され、学校側へ照会が飛び、保護者への通達がいく。
さらには、法に触れた記録として、本人の魔力記録にも傷がつく。
だが、そうはならない。
レギュラスが握り潰しているからだ。
報告書を受け取り、親指で封蝋の端をなぞる。
破る必要もない。中身はもう知っている。
けれど、この紙が存在することを確認するために、あえて手に取った。
バーテミウスが、わざとらしく溜息をつく。
「娘に近づく男を、こうも許容する男がいるのは驚きですね」
軽口の形をしているのに、観察の刃が混じっている。
レギュラスは歩みを止めず、廊下の端、窓のない壁際へと進んだ。人の往来から一歩外れる場所。
そこなら、声を落とせば聞かれない。
「許容しているわけではありません」
静かな返答。
否定なのに、感情は揺れない。
バーテミウスはレギュラスの横顔を見た。
冷静なままの表情。その奥にどれほど複雑な計算があるかを、彼は知っている。
「必要と判断したからです」
レギュラスはそう言い、報告書を二つ折りにして、手の中で折り目を整えた。
丁寧な仕草だった。紙を粗末に扱わないのは、そこに書かれた事実が、ただの文字ではないからだ。
必要。
その言葉の裏にあるものは、誰にも言わない。
言えば脆くなる。
顔合わせの夜を思い出す。
ステラがいた。
翡翠の瞳を冷たい硝子のようにして、淡々と相手を値踏みする目をしていた。
幼い頃の娘は、もういない。
手を伸ばせば抱きついてきたあの体温は、早く大人になりすぎた鋭さに変わっていた。
そして、その鋭さは――自分に似すぎている。
正義を嫌い、建前を切り裂き、核心だけを求める。
誰かを守るためなら、冷酷な結論すら躊躇わない。
その冷たさは、ステラ自身を守っているようで、同時に彼女自身を削っている。
母をも糾弾しようとしかねない思想。
それが生まれた背景を、レギュラスは分かりすぎるほど分かっている。
自分が作ったものだ。
この家の歪みが育てたものだ。
だからこそ、ステラにとって、唯一拠り所になり得る存在が必要だった。
――ロイ・フロスト。
あの男は、驚くほど礼節を崩さない。
あの夜、ステラがどれほど冷たく、会話を終わらせる気で受け答えしても。
それでも彼は折れなかった。
興味を引っ込めず、しかし押し付けない。
相手の牙を恐れず、相手の傷を面白がらない。
ステラが誰かの視線を嫌うのは、誰かの好意を嫌うのは、そこに必ず所有が混ざるからだ。
だがロイは、所有しようとしない。
その違いは大きい。
ホグワーツへ姿くらましをしたこともある。
屋敷へ来たこともある。
本来なら即座に排除してもいい。むしろブラック家としては、それが自然だ。
だが、排除すれば、ステラの世界から余計な光が消える。
その光が、ほんの少しでも娘の鋭さを和らげ、削ぎ、支えることができるなら――。
レギュラスは、そこに賭けた。
賭けるという言葉さえ、口にしたくない。
娘に対してそんな賭けをすること自体が、父として惨めだからだ。
バーテミウスが、わずかに首を傾げる。
「あなたがそういう判断をするのは珍しい」
「そうですか」
「ええ。情があるように見える」
レギュラスは一瞬だけ、笑うような息を吐いた。
情。
そんなものを自分が語るなど、滑稽だ。
「情ではありません」
否定の声は静かだが、硬い。
「娘の刃は、鋭すぎる。あれは、いつか自分の喉を裂きます」
言葉にした途端、胸の奥が僅かに痛んだ。
ステラを想う痛み。
そして、その刃を作ったのは自分だという痛み。
バーテミウスは、珍しく黙った。
軽口が消え、代わりに、理解の沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、誰かが書類を抱えて走っていく。
遠い足音が響き、また消える。
レギュラスは、折り畳んだ報告書を内ポケットにしまった。
処理はあとでいい。いつも通り、記録から消す。適当な理由をつけて。
バーテミウスが小さく言う。
「彼――ロイ・フロストは、匂いを残す。いずれ誰かに嗅ぎ取られますよ」
「嗅ぎ取らせません」
即答だった。
法務部の中枢にいる男が、それを言えば、それが現実になる。
それでも、胸のどこかで思う。
いつまで握り潰せる。
いつまで娘の周りの火種を、自分だけで消し続けられる。
けれど、今はまだ。
今はまだ、必要だ。
レギュラスは歩き出した。
廊下の冷たい空気を割り、いつもの速度で前へ進む。
娘が、これ以上冷たくなりすぎないために。
娘が、母を糾弾して自分まで壊してしまわないために。
そのために、父は今日も手を汚す。
誰にも気づかれない場所で、静かに、確実に。
その夜、談話室の火は小さかった。
暖炉は燃えているのに、熱が届かない。
石造りの壁が、火の温もりを飲み込み、空気を乾かしていく。外は風が強いのだろう、窓枠が微かに鳴る。夜のホグワーツは、眠りの中で骨だけが軋むような音を立てる。
ステラは、机の上に散らばった紙の海に沈んでいた。
インクは濃く、線は細かく、書き込みは端まで詰まっている。
書きすぎて指の関節が硬い。ペン先を握り直すたびに、皮膚が擦れて痛む。
それでも止められなかった。
母を生かす。
封印を剥がす。
それだけを考えて、時間を削ってきた。
その横で、ロイ・フロストが静かにページを捲っていた。
彼は無駄に口を挟まない。必要なところだけを指差し、必要なところだけを写し取る。
その冷静さが鬱陶しいほどありがたいのに、ステラは素直に認めたくなかった。
「……これ、見て」
自分の声が、思っていたよりかすれていた。
喉の乾きに気づいていなかった。集中すると、身体の不調すら意識の外へ追いやられる。
ステラは一枚の羊皮紙を引き寄せ、ランプの光に透かした。
古い写本の一部を、転写したもの。行間の詰まった古語の文が、薄いインクで連なっている。
ところどころ、図のような記号が入っていた。封印陣の変形。血の流れを示すような線。
ロイが覗き込む。
その視線が、紙の上の一行で止まった。
ステラは指先でそこを押さえた。
言葉が、喉元でひっかかって、一度飲み込む。
――「封印の力のみを切り離す」
――「器を生かしたまま」
――「血脈の継承者が複数存在する場合、分担可能」
手が、わずかに震えた。
見つけた。
探し続けたものが、ここにある。
それなのに、胸が喜びで満たされない。
ロイの声が低く落ちる。
「……これが?」
ステラは頷いた。頷くのに、喉がきつく締まる。
息が上手く吸えない。嬉しいはずなのに、全身が冷えていく。
見つけた瞬間、同時に次の行が目に入ったからだ。
《封印を担う者は、必ず代価を差し出す》
《代価は身体の一部。失われたものは、魔法で補えない》
《血脈に刻まれた封の鎖は、贈与ではなく契約である》
ステラは、指を次の段へ滑らせた。
そこには、具体例のような記述が並んでいる。
――視力。
――聴力。
――四肢の機能。
――声。
――記憶。
――感覚。
そして最後に、淡々と書かれていた。
《選択は不可》
《封が欲するものを、封を担う者は差し出す》
ステラの背筋に、ぞっとするものが走った。
選べない。
差し出すものは、こちらが決められない。
それは、術ではない。
裁きでもない。
ただ、取引だ。
しかも相手は人ではない。
封印という名の何かが欲しがるものを、奪われる。
悪魔との契約のようだった。
ステラは、口元に手を当てた。
爪が唇に食い込む。痛みで、自分がまだここにいると確認する。
母を救える。
その可能性が見えた。
だが救うために、母の身体が削られる。
既に声を奪われ、体を痛め、そしてなお生きている母から、さらに何かを奪う。
――そして。
そこに分担可能という文字があるせいで、もっと残酷になる。
母だけではない。
ステラもだ。
アルタイルもだ。
セシール家の血を引く限り、封印の契約に触れる資格がある。
触れるということは、代価を支払えるということだ。
代価を支払える者がいるなら、封は遠慮なく要求してくる。
ロイが、静かに息を吐いた。
「危険だな」
ステラは返事ができなかった。
頷くことすらできない。肯定した瞬間、現実になってしまう気がした。
目の前が滲む。
泣いているわけではない。泣くほどの余裕がない。
ただ、文字が揺れて、焦点が合わない。
自分が何かを失うのは構わない。
そう言い切れるほど、ステラは純粋ではないし強くもない。
怖い。失いたくない。
失ったものが、もう戻らないと書かれている。
視力を失うかもしれない。
声を失うかもしれない。
それは、ただの不便ではない。
生き方そのものが変わる。
けれど――それ以上に。
アルタイルだ。
あの子は優しい。
母の望む幼さを守るために、わざと幼く振る舞っている。
それは自分が思う以上に、繊細で、危うい選択だ。
そんな子が、何かを奪われたら。
あの子は、きっと笑う。
「大丈夫だよ、姉さん」
そう言って、母を安心させる。
その笑顔が目に浮かんで、ステラは喉の奥が焼けるように痛んだ。
ロイが、机の端に手を置きそうになって、途中で止めた。
ステラが触れられるのを嫌うことを知っているからだろう。
その配慮が、今は腹立たしくもある。優しさが、現実の重さを増やす。
「君の父親が許可すると思うか?」
ロイの問いは、刃のように真っ直ぐだった。
レギュラス・ブラック。
あの男が。
母を守るためなら世界を焼く男が。
娘と息子の身体を差し出す取引を、許すだろうか。
許すはずがない。
許すわけがない。
けれど、母を殺すしかないと言われたら。
母が連れていかれると言われたら。
その時、父はどんな決断をする。
ステラは、紙を握り潰しそうになって、こらえた。
指先が白くなる。
紙は脆い。力を入れれば破れる。
破れてしまえば、希望の形が消える。
ステラは声を絞った。
「……犠牲が、大きすぎる」
言葉にした瞬間、胸の奥から何かが溢れそうになる。
それは涙ではない。怒りに近い。
こんな方法しかないのかという、理不尽への怒り。
母は愚かだと思う。
優先順位が違うと言ってやりたい。
母の善意のせいで、自分が受け取れなかったものがある。
それなのに。
母が死ぬのは嫌だ。
母を救うために、自分が何かを失うことは、受け入れられるかもしれない。
だが、アルタイルが失うのは。
母がこれ以上失うのは。
ステラは、目を閉じた。
頭の中に、父の顔が浮かぶ。
冷静な仮面の下で、感情が暴れる男。
母を抱きしめるときだけ、ほんの僅かに壊れる男。
父にこの紙を見せれば、空気は一変する。
この術を「希望」と呼ぶか、「罠」と呼ぶか。
その判断は、父の手に委ねられる。
ステラは、それが悔しかった。
自分が見つけた答えなのに。
自分の命が関わるのに。
母の命が関わるのに。
最後の決定権を握るのは、父だ。
ロイが静かに言う。
「でも、見つけたんだ。道はある。あとは――」
ステラは目を開けた。翡翠の瞳が、乾いた火のように冷たく光る。
「……あとはじゃない」
言葉は鋭かった。
自分に言い聞かせるためでもある。
「これは、道じゃない。取引よ」
紙の上の文字が、まるで血の契約書みたいに見える。
封印の力を切り離す代わりに、身体の一部を差し出す。
失ったものは戻らない。選べない。
その残酷さが、胸を圧迫する。
それでも。
手を伸ばしてしまう。
母が生きる可能性があるなら。
家族が殺されない未来があるなら。
ステラはゆっくりと羊皮紙を整え、折り目をつけずに束ねた。
指先がまだ震えている。
震えが止まらないまま、鞄の一番奥へしまう。
隠すためではない。
守るためだ。
この紙は危険だ。誰かに見つかれば、簡単に利用される。騎士団にも、ヴォルデモート側にも。
息を吐くと、白くはならない。談話室は暖かい。
それでも、自分の内側だけが凍えている。
ステラは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「……父に見せる」
それは宣言というより、刑の執行のようだった。
ロイが何か言いかけたが、ステラは聞かなかった。
父が許すかどうか分からない。
許すはずがない。
でも、見せなければ始まらない。
見つけた希望が、同時に呪いでもあることを抱えたまま。
ステラは机の上の灯りを落とし、暗い廊下へ足を踏み出した。
ホグワーツの石壁が冷たく、足音が長く伸びる。
母を救うために。
そして、救う代わりに何かを失うかもしれない未来へ向かって。
胸の奥に重たい石を抱えたまま、ステラ・ブラックは歩き続けた。
ホグワーツの門を出た瞬間、空気の質が変わる。
石造りの城が背後に遠ざかり、冷えた風が頬を撫でる。
同じ冬の夜でも、屋敷へ戻る道はもっと重い。何かが待っていると分かっている道だからだ。
ステラは外套の襟を上げ、杖を握り直した。
羊皮紙の束は鞄の一番奥に押し込んである。折れないように、濡れないように、守るように。
けれど守っているのは紙ではない。そこに書かれた可能性だ。
あの文字列は、希望であり、呪いだった。
封印を切り離す術。
母を生かしたまま、封印だけを剥がせる術。
――ただし、代価が必要。
身体の一部を差し出す。
取り戻せないものを失う。
それが母だけでなく、自分とアルタイルにも及ぶ。
その事実が喉に引っかかり、息が浅くなる。
今はまだ、涙は出ない。涙を出すには、まだ早い。
まず父に言わなければならない。父が何と言おうと。
屋敷に近づくにつれ、景色は整っていく。
広い敷地の暗い木々が風で揺れ、鉄の門が静かに開く。
使用人の灯りが点々と揺れ、玄関の前には冷えた石段が続く。
ブラック家の屋敷は、いつだって秩序の形をしている。
その秩序の中にある、歪みと秘密の重さも含めて。
ステラは扉をくぐった。
室内に漂う暖炉の香りと、古い木の匂い。
その匂いは幼い頃から変わらないのに、今夜は息苦しい。
「お父様は?」
問いかける声が、思っていたより硬い。
自分が焦っているのが分かる。怒りではない。怖さだ。
案内されたのは、書斎でも応接間でもない。
誰にも聞かれないために選ばれた場所――執務室に近い、小さな談話室だった。
レギュラスは先にいた。
火は焚かれているが、部屋の空気は温かくない。
机の上には書類の山。封蝋の色が幾つも混ざり、決裁待ちの紙が整然と積み上げられている。
それだけで、父がどれほどのものを抱えているかが分かる。
けれど今夜、ステラはその重さを思いやる余裕がなかった。
「戻りました」
「ええ。聞きました」
レギュラスは立ち上がらなかった。
そのまま、椅子の背に体重を預け、娘を見た。
翡翠の瞳がぶつかる。
同じ色なのに、温度が違う。
ステラは鞄から羊皮紙を取り出した。
折れていない。濡れていない。守ってきた。
それを机の上に置くと、紙の擦れる音が妙に大きく響いた。
「見つけました」
言った瞬間、喉の奥が痛む。
嬉しさで痛むのではない。覚悟の痛みだ。
レギュラスは羊皮紙を手に取った。
視線が走り、数行で止まる。
読む速度が速い。何度も決断をしてきた男の目だ。余計なものを読み飛ばさない。
そして、次の瞬間。
表情が変わらないまま、空気が変わった。
「却下です」
声は低く、静かで、容赦がない。
予想していた。
けれど、予想していたから耐えられるわけではない。
ステラの胸の奥が、ぎゅっと締まる。
父の拒絶は、単なる否定ではない。娘に選択肢を与えない拒絶だ。
その強さが、今夜は憎らしかった。
「お母様は」
ステラは言いかけて、途中で止めた。
母の名を出せば、父の瞳の奥が揺れる。
それを狙っている自分が嫌で、でもやめられない。
レギュラスが先に言った。
「アランも、あなたたちの犠牲があると分かればその道は選びません」
淡々と。
確信を持って。
その言葉は、母を盾にしているようで、実際は母を守るための盾だった。
母の意思を、父は信じている。信じているから、決定を固められる。
ステラの指先が冷える。
「なら――」
声が僅かに震える。怒りではない。
切実さが震えになる。
「黙って母を差し出しますか」
言った途端、部屋の空気が張りつめた。
火がぱちりと鳴る音すら、遠くに感じる。
レギュラスの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
その瞳は、娘を刺すためではなく、言葉を止めるための刃だ。
「そうならないために、探しています」
短い返答。
けれど、その短さに苛立ちが湧く。
探している。
探していると言う。
それは正しい。父はきっと、ありとあらゆる手を尽くしている。
でも、その言葉に時間が含まれていない。
ステラは机の端を握った。
爪が木に食い込む。
握らなければ、声が荒れてしまう気がした。
「探していると言って」
ゆっくり言葉を置く。
突きつけるように。
「……いつまで時間が残されているのですか」
レギュラスは黙った。
黙りが答えになってしまうタイプの沈黙だった。
ステラは息を吸う。冷たい空気が肺の奥に刺さるような錯覚がする。
そして言葉を続ける。
「騎士団は、もうお母様に刃を突きつけました」
地下室の石壁。松明の揺れ。
あの夜の空気が、また胸の内側に戻ってくる。
「……一度じゃない。二度です」
父がそれを知っているのも分かっている。
分かっているからこそ、言わなければならない。言えば、その重さがまた父にのしかかると分かっていても。
「闇の帝王の力が増してきている今」
その言葉は、屋敷の中でさえ禁句に近い。
けれど、現実は現実だ。伏せても消えない。
「この封印さえなければ、という思想が魔法界中に広まれば――」
ステラは言葉を選ばなかった。
選べば丸くなる。丸くなれば、現実がぼやける。
ぼやけた現実は、いつも命を奪う。
「お母様は、生きていられなくなる」
言い切った瞬間、喉が痛んだ。
口にしてしまった。
母の生と死を、言葉の形にしてしまった。
レギュラスの手が、羊皮紙の端を押さえたまま動かない。
紙を離せば、娘の提案が机の上に残る。
残るということは、選択肢として存在し続けるということだ。
父はそれを許さない。
選択肢として残すことすら、今は拒んでいる。
「ステラ」
名前を呼ばれる。
それだけで、心臓の奥が僅かに跳ねる。
幼い頃のように呼ばれているわけではない。家の中枢の人間として呼ばれている声だ。
「あなたは、何かを失うことを簡単に言う」
叱責ではない。
責めているわけでもない。
淡々とした言葉が、逆に痛い。
「あなたが失うものも、アルタイルが失うものも、アランがこれ以上失うものも。こちらが選べない」
父の声には、怒りよりも疲労が混じっていた。
疲労の奥に、強い恐れがある。
恐れている。
父も、失うことを恐れている。
その恐れが、ステラには救いにも見えた。
同時に、絶望にも見えた。
守りたいが故に、道を閉ざす。
道を閉ざした結果、時間が尽きる。
その最悪を、ステラは想像してしまう。
「お父様」
声が少しだけ柔らかくなる。
それが悔しい。悔しいのに、止められない。
「私も、失いたくありません」
はっきり言うのは、怖かった。
でも言った。言わなければ、父は娘が強いふりをしていると思う。
強いふりをしたままでは、代価の重さが伝わらない。
「それでも」
言葉が途切れる。
胸の奥が、熱くなる。怒りではない。
必死さが熱になる。
「それでも、他にないなら――」
言いかけたところで、レギュラスの視線がぴたりと止まる。
その瞳は、娘を止めるための瞳だった。
母を守るための瞳でもある。
ステラはそこで言葉を飲み込んだ。
飲み込むと、喉が痛む。
飲み込むしかないことが、なお痛い。
沈黙が落ちる。
暖炉の火が揺れ、机の上の影が伸び縮みする。
父の横顔は整っているのに、その整い方がどこか冷たい。
感情を乱せば負けると知っている男の顔だ。
ステラは、その顔を見ながら思う。
探していると言って、いつまで時間が残されているのだろう。
騎士団はもう刃を突きつけた。
次は「保留」では済まないかもしれない。
魔法界の空気が変わるのは、いつだって一瞬だ。
「必要な犠牲」という言葉が広まれば、それは正義の顔をして歩き始める。
正義は、いつも美しい顔で人を殺す。
母が標的になったとき、止められる者が何人いる。
父は一人で立ち続けられるのか。
自分とアルタイルは、守り切れるのか。
ステラは、机の上の羊皮紙に視線を落とした。
危険な希望。悪魔の取引。
それでも、希望であることは変わらない。
レギュラスは羊皮紙を閉じ、静かに自分の引き出しにしまった。
鍵をかける音が、最後の宣告のように響く。
「この道は使いません」
「……分かりました」
ステラはそう答えた。
分かったわけではない。従うしかないだけだ。
けれど今は、父と争うことが目的ではない。
目的は、母を生かすこと。
ステラは背筋を伸ばした。
翡翠の瞳に、冷たい火が戻る。
「では、お父様。別の道を見つけてください」
命令のように聞こえる言い方になった。
意図していないのに、そうなる。
余裕がないからだ。
「見つからなければ」
その先は言わなかった。
言えば、現実になってしまう気がしたから。
レギュラスは答えない。
答えないまま、ただ娘を見た。
その視線の奥にあるのは、決意だ。
そして、底の見えない恐れ。
ステラは踵を返し、扉へ向かった。
扉を開ける前に、一度だけ振り返る。
父の背後に積み上がる書類の山。
世界の歪みが、紙の形になっている。
あれを処理しながら、家族も守る。
父はそういう男だ。
だからこそ、ステラは胸の奥で冷たく誓う。
時間は、そんなに残されていない。
探すだけでは足りない。
見つける。奪い取る。
母を、生かすために。
ステラ・ブラックは静かに扉を閉め、屋敷の暗い廊下へ出た。
冷えた空気が頬を撫でる。
その冷たさが、今夜は救いのように感じられた。
扉を閉めた音は、思ったより小さかった。
父の前で「分かりました」と言った自分の声の方が、よほど大きく響いている気がした。
廊下は静かで、暖炉の遠い爆ぜる音だけが、ときおり壁の向こうから滲む。屋敷はいつも通り整いすぎていて、その整い方が、今は息苦しい。
引いたように見せた。
従うように見せた。
それは、父が求める秩序に一瞬だけ自分を合わせたに過ぎない。
ステラは引かなかった。
足音を殺して曲がり角を抜け、二階の奥へ向かう。
母の部屋ではない。父の目が届きやすい場所に行けば、すぐに止められる。
だから選ぶのは、アルタイルの部屋。
扉の前で、ほんの僅かに息を整えた。
胸の奥にあるものは、怒りでも悲しみでもない。もっと乾いた、鋭いものだった。
時間だ。
時間がないという感覚が、血の流れのように全身を巡っている。
ノックを一度だけ。
返事はすぐに返ってきた。
「どうぞ」
開けると、アルタイルは机の前にいた。
本を広げ、羽根ペンを動かしている。休暇で帰ってきたばかりなのに、彼はいつも通り“いい子”の姿をしていた。
灯りに照らされた横顔が幼く見えるのは、わざとなのだとステラは知っている。母の望みを守るために、彼は自分で自分を幼くしている。
ステラは扉を閉め、鍵はかけなかった。
鍵をかける行為は、罪悪感を増幅させる。自分がいま何をしようとしているかを、はっきりさせてしまうからだ。
「姉さん?」
アルタイルが振り返る。
翡翠の瞳は同じ色なのに、彼の瞳には柔らかさが残っている。母に似た柔らかさだ。
それが胸に刺さる。
ステラは椅子に座らなかった。
立ったまま、距離を保った。これ以上近づいたら、言葉が鈍る気がした。
「話があるの」
自分の声が落ち着いているのが怖かった。
落ち着いているのは、冷静だからではない。決めているからだ。
アルタイルはペンを置き、素直に頷いた。
「うん」と言うその声が、無防備で、頼りないほど優しい。
ステラは鞄から例の羊皮紙の束を取り出し、机の端にそっと置いた。
乱暴に置けば紙が傷む。紙を傷めたくないわけではない。そこに書かれた未来を、自分が傷つけたくなかった。
「……これを見つけたわ」
アルタイルの視線が紙へ落ちる。
読み取る力はある。彼は優等生で、姉の影に隠れるふりをしているだけで、理解力も魔力も並ではない。
それを誇らしいと思う余裕は、今はない。
ステラは続けた。
「セシール家の封印だけを、お母様から切り離す術」
言い切った途端、アルタイルの瞳が僅かに明るくなった。
そこに宿る光が、あまりにも分かりやすい。
救える。
母を生かせる。
その可能性に、彼は迷いなく心を傾ける。
ステラはその光を見て、胸の奥が熱くなった。
怒りではない。痛みだ。
そんな光を、もう何度も現実が踏みにじってきたのを知っている。
だから、先に釘を刺すように言った。
「ただし、代価がある」
アルタイルは瞬きをした。
ステラは淡々と説明する。淡々としていなければ、途中で声が崩れる。
「封印を持つ者は、身体の一部を差し出さないといけない。失ったものは魔法でも戻らない。何を失うかは選べない」
言葉が積み上がるほど、部屋の空気が重くなる。
ランプの火が、揺れた気がした。
「……それは、お母様だけじゃない」
ステラは一呼吸置いた。
言うべきではない、と頭のどこかで囁く声がある。
父なら止める。母も止める。
だからこそ、今ここで言う。
「私と、あなたにも関わる」
アルタイルの目が大きく開かれた。
驚きはあった。けれど恐れは、すぐには出てこない。
その代わりに浮かぶのは、判断の速さだ。
母を思うなら。
失いたくない思いがあるなら。
そういう言い方を、ステラはわざと選んだ。
卑怯だと分かっている。
でも必要だった。
母を大切に思うアルタイルが、犠牲を顧みず頷くことなど分かり切っていた。
それがアルタイルだからだ。
優しいから。
自分よりずっと無防備に、母のために自分を差し出す子だから。
そして、ステラはそれを知った上で、母に言う前に弟に告げた。
母に先に伝えれば、母は即座に拒む。
父も拒む。
拒まれると分かっている道を、ただ眺めて終わるのは嫌だった。
アルタイルはゆっくり息を吸い、紙に視線を落とし、もう一度ステラを見た。
その目は揺れていない。
揺れていないことが、恐ろしいほどだった。
「姉さん」
呼び方がいつも通りで、ステラの胸がきゅっと締まる。
アルタイルは少し笑った。自分を安心させるための笑い方だ。
「僕は大丈夫です」
その一言が、あまりにも予想通りだった。
そう言うと思っていた。
それでこそ求めていた答えだった。
ステラは目を伏せなかった。
弟の顔をまっすぐ見たまま、静かに頷いた。
「そう」
声が冷たいのは、冷たいからではない。
震えを隠すためだ。
アルタイルが「大丈夫」と言うその軽さの裏に、どれほどの重さがあるかをステラは知っている。
失うかもしれないのに。
戻らないと書かれているのに。
それでも母さんのためならを選ぶ。
ステラは、弟のその優しさが好きで、嫌いだった。
好きなのは、家族を守るために差し出せる心が尊いから。
嫌いなのは、その尊さが、いつか必ず彼を壊すから。
「……怖くないの?」
口に出してしまった。
訊くつもりはなかったのに、言葉が落ちた。
アルタイルは首を傾げ、少し考えるような間を置いた。
そして、素直に言った。
「怖いよ」
ステラの胸の奥が、ずきりと痛む。
「でも、母さんがいなくなる方がもっと怖い」
それだけで終わる。
彼にとっては、それが全てなのだ。
ステラは一瞬、息を止めた。
吐き出せば、何かが崩れてしまう気がした。
犠牲を伴えないのならば。
望むことさえ諦めるべきなのだ。
父はそう考えるだろう。
母もそう考える。
けれど、ステラは違う。
諦めることは、母を差し出すことと同義だ。
差し出すことを、もう正義にさせたくない。
ステラは机の上の羊皮紙を指先で整えた。
紙の角を揃える仕草が、妙に丁寧になる。
丁寧にしないと、自分が乱暴なことをしようとしている現実に耐えられない。
「……お父様は、私を責めるでしょうね」
独り言のように落とした。
アルタイルは慌てたように首を振る。
「姉さんが悪いんじゃないよ」
優しい。
その優しさが、今は刃になる。
ステラは弟の言葉を否定しなかった。
否定できない。
自分は、弟を利用した。弟の優しさを、分かった上で引き出した。
そして、その優しさを盾にして、父の拒絶を押し返そうとしている。
卑怯だ。
でも、卑怯でなければ守れないものがある。
ステラは鞄を閉じ、羊皮紙をもう一度奥へしまった。
この部屋の空気に長く触れさせたくなかった。
アルタイルの覚悟に、紙が染まってしまいそうで。
扉へ向かう前に、ステラは弟を見下ろした。
少年はまっすぐ見上げてくる。翡翠の瞳が柔らかいまま、覚悟だけが固い。
「アルタイル」
名前を呼ぶ声が、少しだけ低くなる。
「誰にも言わないで」
命令の形になるのが嫌だった。
けれどお願いの形にすると、彼はすぐ母に言ってしまう。
母を安心させたいから。母に喜んでほしいから。
アルタイルはすぐ頷いた。
「うん。姉さんが言うなら」
それがまた、胸を痛める。
ステラは扉に手をかけた。
指先が冷たい。屋敷の木は、いつも冬の冷たさを残している。
扉を開ける前に、一瞬だけ目を閉じた。
父は責めるだろう。
弟を巻き込んだことを。
弟に代価を背負わせようとしたことを。
家の秩序を乱したことを。
それでも、ステラは止まらない。
母を守るために。
家族を守るために。
そして何より、自分が“諦める側”に回らないために。
扉を開けると、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
その冷たさに背筋が伸びる。
ステラ・ブラックは足音を抑え、静かに歩き出した。
胸の奥に、弟の「僕は大丈夫です」という言葉を、重石のように抱えたまま。
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