4章
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ブラック家の応接間は、いつもと違う匂いに満ちていた。
普段なら、磨き上げられた木の香りと古い革張りのソファの匂いが支配する空間だ。
だが今日は、床一面に引かれた墨と油煙の匂いが、それらを上書きしている。
深い黒の線が床板の上を這うように走っていた。
西洋の魔法陣に慣れた目には、あまりにも異質な図形だ。
幾重にも重なった円と、直線とも曲線ともつかない細い線が絡まり合い、ところどころに見慣れない文字が記されている。
ルーン文字ではない。
魔法省のどの資料にも載っていない、東のどこかの国の古い書体だと聞かされた。
その中心に、アランが静かに座っていた。
薄いクッション越しに伝わる床の冷たさを感じながら、背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いている。
翡翠の瞳は、正面に立つ術師と呼ばれる男をまっすぐに見つめていた。
その男の姿は、レギュラスの目にはどうしても胡散臭く映る。
深い藍色の、見慣れない形の衣。
裾が広く、袖も異様に長い。布地には金の糸で抽象的な模様が刺繍されていた。
腰には紐のようなものを巻いているが、そこにも小さな符がいくつも結び付けられている。
手には杖ではなく、細い木片と、先端に鈴の付いた金属の棒。
彼は、低く抑えた声で何事かを唱えていた。
聞いたことのない言語だ。
呪文というよりは、古い祈祷のようでもある。
レギュラスは、応接間の片隅からその様子を見守っていた。
隣にはシリウスとリーマスが立っている。
「……どうなんだ?」
小声でシリウスがリーマスに囁く。
リーマスは真剣な顔で魔法陣を見つめたまま、僅かに首を横に振った。
「まだ分からない。
封印と血を分ける術式なんて、僕も聞いたことがないよ。
でも、彼はやったことがあると言った」
「似たようなものならだろ」
シリウスは歯切れ悪く吐き捨てる。
その言葉は、レギュラスの耳にも届いていた。
似たようなものなら。
それはつまり、「正確には違う」ということだ。
術師の額には、じわりと汗が浮かび始めていた。
手にした木片の先で空中に素早く線を描き、床の符の一部に触れるたび、黒い線がかすかに光る。
やがて、彼は詰まったように言葉を止めた。
「……フム」
低い声で唸り、アランの頭上あたりをじっと見つめる。
見えない何かの流れを探るように、指先を前に差し出した。
「これは……想像していたより、はるかに複雑な絡まり方をしておる」
鈴の付いた棒が、ちり、と小さく鳴る。
「封じられている力と、血の系譜が、層を重ねて何度も織り込まれている。
ただ縫い目を切ればほどける、という仕立てではないようだ」
レギュラスは腕を組んだ。
聞き慣れない比喩だ。
けれど、「複雑」「想像以上」といった言葉は、長年法務部で聞き飽きている。
報告をぼかし、責任を曖昧にし、結論を先送りにする時に好まれる常套句だ。
術師はさらに続けた。
「西の魔術の言葉で言うならば……器に宿った呪物が、魂と血脈の両方に深く根を張っておる、というべきか。
これを乱暴に断てば、“呪物の方”が暴れ出す危険がある」
シリウスが眉を吊り上げる。
「それは、アランの命に危険が及ぶってことか?」
「こちらの女性の命は、守ろうと努めれば守れるだろう。
しかし、呪物がどのような形でこの世界に影響を及ぼすかは分からん」
術師は、まるでヴォルデモートという名を知らない子どものように、あっさりと言う。
彼にとって重要なのは、ここにある封じられた力そのものだけだ。
その出どころや歴史に、興味はないのだろう。
レギュラスは内心で短く息をついた。
ヴォルデモートのホークラックスを解き放てば、
それはこの世界に散らばる彼の「不死の欠片」の一つが、再び自由に動き出すことを意味する。
魔力・影響力・呪いの広がり——それらがどう変化するか、法務部の視点からすれば、悪い予感しか浮かばない。
「……つまり」
レギュラスは口を開いた。
「セシール家の封印と、妻の血を切り離す術は、まだ見つかっていないということですね」
術師はレギュラスを見た。
瞳の色は暗く、その奥に計算の光よりも、職人のような好奇心が揺れている。
「まだ、と言うならば、そうかもしれん。
ただ、これほど見事な織り込み方は、儂も初めて目にする」
「見事、ですか」
その言葉だけは、レギュラスも否定できなかった。
セシール家の封印は、セシール家の血が続く限り解けない。
その完璧さゆえに、アランも、ステラも、アルタイルも、ヴォルデモートの不死性に繋ぎ止められている。
褒められるべき芸術と、呪いの構造が、同じ言葉で語られていることに、薄い嫌悪が込み上げた。
そんな時だった。
そっと、自分の左手が取られる感覚があった。
視線を落とすと、アランがほんの少しだけ体をひねって、レギュラスの手のひらに指を滑らせていた。
術式の中心に座ったまま、膝の上に置いた自分の手と、レギュラスの手を重ねている。
するすると、柔らかな指先が文字を描く。
《レギュラス》
《顔に 出ています》
レギュラスは、わずかに目を瞬いた。
そう言われてみれば、眉間はいつもより深く寄っていたかもしれない。
術師の衣装、聞き慣れない呪文、曖昧な物言い——そのどれもが、彼の合理的な感覚からほんの少しずつ外れている。
アランの翡翠の瞳は、術師ではなく、レギュラスの横顔を見ていた。
笑いを堪えているのが分かる。
目尻がわずかに震え、唇の端が上がりかけている。
レギュラスは軽く息を吐き、アランの耳元に顔を寄せた。
「……なんなんです、あの格好といい」
声を潜めて囁く。
「袖はあれほど長くする必要がありますか。
あの鈴は、なぜ呪文のたびに鳴らすんでしょう。
あれで本当に封印が切り離せるなら、喜んで毎晩でも鳴らして差し上げますが」
アランの肩が小さく揺れた。
笑いを飲み込むように、唇をかすかに噛む。
レギュラスは、自分でも分かっていた。
本当に、たとえどれほど奇妙な格好だろうと、祈祷じみた呪文だろうと——
アランと子供たちの血から、セシール家の封印だけを綺麗に切り離せるというのなら。
床一面をどれほど怪しげな模様で埋め尽くされようと、
術師が空を向いて逆立ちして歌い出そうと、
その全てを「素晴らしい」と言って、法務部長官として公式に推奨してやる覚悟だってある。
だが。
「複雑だ」とか「見たことがない」とか。
そういった言葉を並べられると、どうしても冷めた目で見てしまう。
責任を負う側の人間にとって、「前例のない複雑さ」とは最も聞きたくない報告のひとつだからだ。
術師は、再び魔法陣の縁を歩き始めた。
足元を確かめるように一歩一歩進み、ところどころで立ち止まっては、指で空を撫でている。
「……やはり、絡みが深い」
ぽつりと呟く。
「封印そのものを解かぬまま、血からだけ切り離すのは、今のままでは困難だ。
無理に引き剥がせば、封じられた呪物の方が、別の形で外に漏れ出す可能性が高い」
ヴォルデモートの名は出ない。
彼は、その呪物が何者かを知らない。
だが、レギュラスには分かっていた。
この術式が失敗すれば、ヴォルデモートのホークラックスを解き放つ危険がある。
世界中に今も残っている“欠片”のひとつが、封印から逃れ、別の形で誰かを蝕むかもしれない。
それは、法務部長官としても、ひとりの夫としても、簡単に許容できる賭けではない。
レギュラスは、腕を組み直した。
「では、現時点であなたが言えるのは——」
術師が振り返る。
レギュラスは淡々と問いを続けた。
「妻の命を守るためには、今は動かさない方がいいという判断、でよろしいですか」
少しの沈黙のあと、術師は静かに頷いた。
「そうだな。
ここまで複雑に絡めた封印を、短期間で完全に読み解くのは難しい。
時間をかけて解析すれば、違う道が見えるかもしれんが……今、この場で出来ることは多くない」
シリウスの拳が、ぎゅっと握られているのが視界の端に入った。
リーマスは唇を結び、術師の言葉を飲み込むように目を閉じている。
アランの指が、再びレギュラスの手のひらをなぞった。
《ありがとう》
意味を問うまでもない。
レギュラスは、わずかに握り返した。
その指先の震えが、彼女の失望と、それでも生きられた安堵とを同時に伝えてくる。
東洋の術師の衣が、わずかに揺れる。
鈴の小さな音が、どこか頼りなげに響いた。
レギュラスは首をかしげるしかなかった。
奇妙な術式も、見慣れない呪文も。
この日、彼の胡散臭さの判断を完全に覆す材料にはならなかった。
それでも——
セシール家の封印の絡まりが想像以上に深く、厄介であることだけは、改めて刻み込まれたのだった。
術師が屋敷を後にしたとき、ブラック家の空気は、誰も言葉にできない種類の疲れに包まれていた。
重たい扉が閉まる音が、廊下に低く響く。
応接間に残されたのは、黒く引かれた魔法陣の痕と、わずかに残る墨と油煙の匂い、そして三人の男と一人の女の、行き場を失った感情だけだった。
魔法陣の線は、すでに力を失っている。
術師が帰る前に自らの手で結界を解き、線のいくつかは水で薄められていたが、それでも床板には「異質なものがここにあった」という記憶のように、淡い痕跡が残っていた。
鈴の音も消えた。
代わりに、外の風が窓ガラスを細かく叩く音が聞こえ始めている。
「……なんだ、あいつは」
最初に沈黙を破ったのはシリウスだった。
ソファの背にもたれかかり、両腕を組んで天井を睨むようにしている。
苛立ちと疲労が入り混じった声が、部屋の空気を少しだけ波立たせた。
「こっちの台詞ですよ。手配したのはあなたたちでしょう」
レギュラスは、壁際に立ったまま答えた。
腕を組み、まだ完全には消えきっていない魔法陣の中心をじっと見つめている。
声色はいつものように冷静だが、その目にはかすかな棘が残っていた。
東洋の術師が使った奇妙な術式も、曖昧な結論も、簡単に受け入れられるものではなかった。
リーマスが、深い息を吐きながら姿勢を正した。
「力及ばず、申し訳ない」
言葉は真っ直ぐだった。
彼は、術師を呼ぶことを提案し、調整役も担った。
自分の判断が結果を変えられなかったことを、正面から認めようとしている。
アランは、静かに杖を手に取った。
まだ魔法陣の在った場所のすぐそばに、彼女は椅子を置かれて座っている。
術式の中心に座らされていたせいか、少しだけ肩が重たそうに見えた。
それでも、彼女はゆっくりと杖を振る。
空中に、淡い光の文字が浮かび上がった。
《みなさん》
《ありがとうございます》
その言葉は、術師へのものではなく、この場に残っている三人へ向けられたものだった。
失望も、安堵も、全て飲み込んだうえで、それでも礼を述べることを選ぶ。
シリウスが、髪をぐしゃりとかき乱す。
「礼なんかいらねぇよ。結果が出ねぇんじゃ意味がねぇ」
そう吐き捨てながらも、目はどこか悔しさを滲ませていた。
彼なりに、アランを救うための手段として、術師に賭けたのだ。
見慣れない呪文も、奇妙な服装も、全部飲み込んだうえで。
「にしても、なんだ? あの格好は」
シリウスが、堪え切れないように続ける。
「袖だらんだらん伸ばしてよ、なんか訳の分かんねぇ刺繍してよ。
あと鈴? なんで呪文のたびに鳴らしてんだ。意味あんのか?」
その言葉に、アランの肩がぴくりと揺れた。
ついさっき、レギュラスが耳元で囁いた内容と、ほとんど同じだったからだ。
ほんの少しだけうつむき、唇に笑みを浮かべる。
シリウスは、そのわずかな表情の変化に気づかない。
しかし、レギュラスは見逃さなかった。
隣に立つ妻の横顔に、昨夜以来ようやく戻ってきた柔らかい表情が差している。
それだけで、刺々しくなりかけた言葉が、喉元で静かにほどけた。
リーマスは、困ったように肩を竦める。
「多分、意味があるからやっているんだろうね。
ああいう系統の術は、道具や衣装も含めて型が大事らしいから。
その辺は僕らは疎いよ」
彼は軽く笑おうとして、うまくいかず、苦笑に変わる。
レギュラスは、短く目を閉じた。
自分が同じことを考えていたのは事実だ。
あの長すぎる袖も、鈴も、金糸の刺繍も、眉間に皺を寄せずに見ていられる代物ではなかった。
けれど、それを声に出して笑い飛ばす権利は、自分にはない気がした。
「本当に封印だけ切り離せるというなら、あの鈴をいくらでも鳴らしてもらえばよかったのですが」
皮肉半分、本音半分の言葉を漏らす。
シリウスが、じろりとこちらを見る。
「だよな。……そうなりゃ一番よかったんだが」
そこだけは、二人の意見が奇妙に重なっていた。
アランは、三人の顔を順に見渡す。
リーマスの疲れた目、シリウスの苛立ち、レギュラスの静かな不満。
そのどれもが、自分のために動いた結果であることを、彼女はよく理解していた。
杖先から、もう一度文字が浮かび上がる。
《本当に》
《ありがとう》
今度は少しだけ大きく、ゆっくりと描かれた文字だった。
光のひと文字ひと文字に、アランの深い感情が込められているのが分かる。
シリウスは、視線を床に落とし、ぎこちなく頷いた。
リーマスは、柔らかく微笑み返す。
レギュラスは、魔法陣の痕跡に目をやる。
黒い線はじきに全て消され、床は元通りに磨かれるだろう。
だが、今日ここで分かったこと——封印と血の絡まりが想像以上に深いこと、軽々しく引き剥がすべきではないこと——その事実だけは、消えない。
応接間の窓の外で、風が一層強くなった。
ざわめく音が、遠くの森を揺らしている。
奇妙な衣装の術師も、鈴の音も、今はもうここにはない。
残っているのは、解けなかった封印と、それでもなおアランを救おうとする者たちの、どうしようもない不器用さだけだった。
レギュラスは、そっとアランの手元に視線を落とした。
杖を握る指先は、少しだけ赤くなっている。
長時間、緊張した姿勢で術式の中心に座っていたせいだろう。
「休みましょう、アラン」
そう促す声は、いつもより少し柔らかかった。
アランは頷き、立ち上がる前に、もう一度だけ三人の男を見つめた。
その翡翠の瞳には、失望よりも、「まだ諦めてはいけない」と自分に言い聞かせるような静かな光が宿っていた。
リーマスは、少し離れた場所から二人を見ていた。
応接間の床一面には、まだ墨の線が残っている。
東洋の術師が描いた魔法陣の痕跡だ。
幾重にも重なった円と、細い線、見たことのない文字。
その中心に、アラン・ブラックが静かに座っていた。
背筋を伸ばし、膝の上に両手を置いた姿は、どこか祈りにも似ている。
施される術をただ受け入れる者の、静かな覚悟がそこにあった。
――だが、アランは何もしていなかったわけではない。
隣に立つ男の片手を、そっと取っていた。
レギュラス・ブラック。
魔法省法務部長官、デスイーター、ヴォルデモートとは別種の冷酷さを持った純血の魔法使い。
アランの指が、彼の掌の上をするすると滑る。
術式の中心に座りながら、膝の上に置いた自分の手と、レギュラスの片手を重ねて、指先で言葉を書いている。
それを見た瞬間、リーマスは、胸の奥にひやりとしたものを感じた。
杖で空に文字を描くのとは違う。
紙にペンを走らせるのとも違う。
ただ、小さな指の動きと、触れ合う皮膚の感触だけで交わされる密やかな会話。
レギュラスは、その文字を読むと、ほんの少しだけ眉を動かした。
そして、術師に聞こえないように上体を傾け、アランの耳元に唇を寄せる。
何を囁いたのか、リーマスには分からない。
ただ、アランの肩が微かに震え、翡翠の瞳に笑いがにじむのが見えた。
術師の低い唱え声と、鈴の音。
床に漂う墨と油煙の匂い。
その中心で、夫婦だけの小さなやり取りが確かに存在していた。
その光景には、誰も割り込む余地がない。
魔法陣の外側で立っている者たちは、全員「外」にいるのだと嫌でも思い知らされるほどに、二人のあいだには確かな結びつきがあった。
アランは声を持たない。
レギュラスは、決して多くを語る男ではない。
それでも――いや、だからこそだろうか、指先とわずかな囁きだけで成立している世界が、鮮やかに浮き上がって見えた。
リーマスは、それを見ながら、もう一人の男の存在を思った。
シリウス・ブラック。
部屋の反対側、魔法陣の縁に足をかけそうな距離まで近づいて立つその男は、術師の一挙手一投足を食い入るように見つめている。
アランの表情や、レギュラスの動きにも、敏感に目を向けている。
彼がアランに想いを寄せていることを、リーマスはとうの昔に知っていた。
特別な洞察力を使うまでもない。
彼女の名が出るたびに揺れる声色も、屋敷から戻った夜に見せる疲れ方も、あまりにも分かりやすかった。
だが、今、魔法陣の中心にあるものは、「夫婦」の姿そのものだった。
肩を並べて立つのではない。
片方が座り、片方が立っている。
立場も、背負っているものも、抱えている罪も、まるで違う。
それでも、指で掌に言葉を書くその仕草は、ごく自然に見えた。
今まで幾度となく繰り返されてきた、ふたりだけの会話のかたちなのだろう。
ああいうものを、間近で見せつけられれば。
普通なら、とっくに心が折れてもおかしくないとリーマスは思った。
自分が勝手に好きになっただけだ。
その言い訳を盾にすれば、傷つくのは自分だけだと信じ込める。
それでも、今目の前にあるのは――
「勝手に思っているだけ」では到底追いつけない、年月と覚悟の積み重ねだ。
アランの指が、レギュラスの手のひらから離れる。
術師の問いかけに、レギュラスは短く答えたあと、ふとアランに視線を落とす。
ほんの一瞬だけ、その目の奥に柔らかな光が宿った。
愛情だとか、そんな安易な言葉では括れない何か。
罪悪感も、執着も、守ろうとする意志も、その目のなかで静かに渦を巻いている。
シリウスの立つ場所からも、きっとそれは見えているはずだった。
それでも、彼はアランを救おうとする行動をやめない。
術師を手配し、皆を巻き込み、騎士団の枠組みの外側で動こうとしている。
彼女を守りたいという気持ちだけは、誰にも止めることができないのだと、リーマスは思う。
シリウスが、「勝手に思っているだけだ」と繰り返すのを、何度も聞いてきた。
あくまで自分の中の感情だと線引きするように。
アランの選択を奪うつもりはない、と言い聞かせるように。
だが、その線引きの奥で、どれほどの痛みを飲み込んでいるのかは、見えてしまっていた。
シリウスが彼女を守りたいと願い、実際に動き続ける限り。
リーマス自身もまた、それに応えねばならないのだと感じていた。
騎士団としても、人間としても。
アラン・ブラックを、封印の器として処分するのではなく、
生きたまま解き放つ道を探し続けること。
それが、シリウスのためであり、同時に自分たちの「正義」をもう一度問い直す行為でもあると分かっていた。
あの夜の記憶が、ふと胸の奥に浮かぶ。
魔法省の地下。
冷たい石の壁と、湿った空気。
寝台に固定されたアランの姿。
喉元に刃を当てるか、杖を向けるか。
どうやって殺すかを具体的に考えなければならなかった、あの時間。
彼女の翡翠の瞳は、凍りついたように静かだった。
恐怖も憎しみも、何も映さず、ただ受け入れようとしている瞳だった。
あそこに立ち会った以上、自分はもう、簡単に「正しい側」に立っているとは言えない。
喉元に刃を向けた時点で、線はとっくに踏み越えている。
今、行っていることは贖罪かもしれない、とリーマスは思う。
騎士団として、世界のためだとか、ヴォルデモートを止めるためだとか、綺麗な言葉はいくらでも並べられる。
けれど、その裏側で、自分は「一度本気で殺そうとした女」を、今になって救おうとしているのだ。
それは、どうしたってきれいな話にはならない。
それでも。
シリウスがアランを守りたいと思い続ける限り。
あの男の目が、アランの名を口にするたびに揺れる限り。
リーマスは、そこから目を逸らすつもりはなかった。
レギュラスとアランが築いた、誰にも割り込めない夫婦としての世界。その存在を認めたうえで。
その外側で、なお彼女を守ろうとする男がいるのなら。
その男が倒れないように、支えるのが自分の役割なのだろうと、静かに思った。
術式が終わり、鈴の音が止む。
術師の足音が遠ざかり、扉の閉まる音が響いたあとも、リーマスの視線はしばらく、アランとレギュラスの手元から離れなかった。
指先で言葉を綴る妻と、その意味を一つ残らず受け取ろうとする夫。
その光景は、誰のものでもない、完全に「二人だけの」世界だった。
だからこそ、リーマスは思う。
そこへ踏み込むことは決してしない。
ただ、その外側で、出来うる限りのことをやり尽くす。
それが、自分たち騎士団に残されたわずかな筋であり、
あの夜に喉元へ向けた刃への、せめてもの応え方だと感じていた。
玄関の扉が閉まった瞬間から、胸の奥に溜まっていくものがあった。
冬の空気をまとって帰宅したはずなのに、屋敷の中はやけに温い。暖炉の熱ではない。人が長く居座った部屋特有の、息と布と茶の匂いが混ざった温さだ。
ローブを脱ぎながら歩を進める。
廊下の絨毯はいつも通り静かに足を受け止めるのに、今日は妙に音が大きく感じられた。理由は分かっている。気が立っている。
応接間の方から、笑い声がした。
あの笑い方は一つしかない。
軽くて、遠慮がなくて、屋敷の壁の厚みを当然のようにすり抜けて届く声。
レギュラスは歩みを止めず、扉を押し開けた。
案の定、そこにシリウス・ブラックがいた。
ソファの肘に無造作に腰を掛け、片足を組み、カップを指先で弄びながら、まるでここが自分の部屋であるかのように寛いでいる。
テーブルの上には羊皮紙が広げられ、本が積まれ、読みかけの頁に栞代わりのスプーンが挟まっていた。紙の上にはインクの染み。カップの底には紅茶の輪。
空間が荒れている。
散らかっているというより、侵食されている。
レギュラスの視線がわずかに細くなる。
「おかえり」とでも言う顔で振り返るシリウスが、軽く手を上げた。
「よお。早えな」
その声音だけで、こめかみが脈打ちそうになる。
部屋の奥で、アランが立ち上がった。
杖を手に取り、いつものように小さく振って迎える仕草をする。翡翠の瞳が、安堵したように柔らかく揺れた。
その表情が、レギュラスの足元に落ちかけていた怒りを一度だけ踏みとどまらせる。
アランが空中に文字を書く。
《おかえりなさい》
《お疲れさまでした》
その丁寧な文字が、いつもと同じように屋敷の空気を整えようとする。
けれど、今日は整わない。
レギュラスは深呼吸の代わりに、ローブの襟元を指先で正した。
視線はシリウスから外さないまま、声だけを落とす。
「……まだ、いるんですか」
「ん? ああ、いる」
シリウスは悪びれもしない。
ソファに沈み込み直し、カップを一口啜る。音さえ腹立たしいのに、本人はそれを気にも留めない。
レギュラスは、アランの方を見た。
問い詰めるのではなく、確認するように。アランが困ったように目を細め、杖を控えめに振る。
《まだ 調べものを》
《していて》
レギュラスの喉が、小さく鳴った。
調べもの。
言葉の端に、これ以上強く言えばアランが傷つくという線が見える。シリウスがここにいる理由の一部が、アランのためであることも分かっている。
だからこそ、余計に苛立つ。
「調べものなら、魔法省でやればいい」
「魔法省にあるもんだけじゃ足りねぇんだよ」
「ここは図書館ではありません」
「硬ぇなあ、お前」
温度差が噛み合わない。
言葉が擦れて火花になるはずのところで、シリウスは水をかけるように軽く流す。怒る価値もないと言われているようで、胸の奥がじわりと熱くなる。
レギュラスはテーブルの散乱を一瞥し、静かに息を吐いた。
「……メイラ」
廊下の方へ声を投げると、すぐに足音が近づき、メイラが顔を出した。
彼女は一瞬で状況を理解したように、視線を落として頭を下げる。
「片づけを頼みます。今日は二階で食事を取ります」
メイラが頷きかけたところで、シリウスが大げさに腕を広げた。
「おいおい、ここでいいだろ。ほら、ここ空いてる」
無造作に腕で羊皮紙を押しのけ、皿の置けそうなスペースを作って見せる。
紙の端が折れ、本の上にインク壺が傾きかけ、メイラが反射的に手を伸ばして支えた。
その光景に、レギュラスの眉が動いた。
「結構です。ここで食べる気はなくなりましたから」
語尾がわずかに鋭くなる。
シリウスは肩をすくめ、笑う。
「こまけぇやつだな、本当に」
レギュラスは笑わなかった。
視線だけで、言葉を返さずに切り捨てる。
アランが小さく杖を振り、文字を挟む。
《二階に 行きましょう》
《冷めて しまいます》
レギュラスはその文字を見て、頷いた。
怒りを抑えるための頷きではない。アランの言葉に従うための頷きだ。
だが、背を向けた瞬間、シリウスの声が追いかけてくる。
「なあレギュラス、今日の話――」
「後で聞きます」
振り返らずに切った。
足取りは一定のまま、アランの歩幅に合わせる。妻の隣に並ぶことだけが、屋敷の中で唯一落ち着ける位置だった。
二階へ向かう階段の途中で、アランの指がそっとレギュラスの袖に触れた。
止めるでもなく、慰めるでもなく、ただ「今ここにいる」と告げるような小さな接触。
その感触で、胸の奥の苛立ちが一瞬だけ形を失う。
だが、消えはしない。
食事を終え、寝室へ向かう頃には、屋敷の中の当たり前が、すでに歪み始めているのをレギュラスは感じていた。
廊下のどこかにシリウスの気配がある。
扉の向こうに、彼の声が落ちる。
本来、家族だけが満ちるはずの夜の空気に、別の男の呼吸が混ざっている。
それが、どうしても許せない。
寝室の前まで来たところで、レギュラスは足を止めた。
アランが振り返る。翡翠の瞳に問いが浮かぶ。
レギュラスは、ほんの僅かに口元を緩めた。
アランに向ける表情だけは、硬くしたくなかった。
「……すぐ戻ります」
アランが杖を構えるより早く、レギュラスは軽く首を振って続きを封じた。
説明をさせたくない。アランが責任を感じるような言葉を、今この場で聞きたくない。
階段を下りる。
足音を殺す必要もない。もう隠す段階ではない。
応接間の扉を開けると、シリウスがまだいた。
ソファに寝転び、片手で本を持ち、もう片方でカップを揺らしている。
ここが第二の棲家にでもなったかのように。
レギュラスは扉を閉め、静かに言った。
「シリウス」
名を呼ばれた兄が、片眉を上げる。
「なんだよ。やっと混ざる気になったか?」
レギュラスは歩み寄り、テーブルの端に指先を置いた。
羊皮紙の束を押さえつけるような仕草になって、シリウスの視線がそこへ落ちる。
「当たり前のように出入りするのは、やめてください」
声は低い。
怒鳴らない。言い立てない。
その方が、よほど拒絶の意思が伝わると分かっている。
シリウスは一瞬だけ黙った。
軽口が出てきそうで、出てこない間。
レギュラスはその沈黙に畳みかけず、ただ視線をまっすぐに据えた。
「目的があるのは理解しています。アランのために動いていることも。
ですが――この屋敷は、あなたの居場所ではない」
最後の一言が、空気を冷やした。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その小さな音がやけに大きい。
シリウスが、ゆっくりと起き上がった。
軽さが消えきらない顔の奥に、何か固いものが覗く。
「……追い出すのか」
レギュラスは首を横に振らない。頷きもしない。
ただ、淡々と続けた。
「線を引きます。あなたの自由さで、この家の秩序を削らせない」
言葉を選ぶ余裕は、もうなかった。
苛立ちが限界に近いからではない。
このまま曖昧にしていれば、“当たり前”が変質していくのが見えるからだ。
夫婦の夜が、家族の空気が、静かな屋敷の呼吸が。
遠慮と侵入で、少しずつ擦り減っていく。
シリウスは、鼻で笑いかけて、やめた。
代わりに、苦い顔をした。
「……分かったよ。今日は帰る。片づけもする」
珍しく、軽さのない声だった。
レギュラスはそれを聞いても、安堵はしなかった。
今日はという言葉が含まれていたからだ。
それでも、今夜の境界線は引いた。
引かなければならなかった。
「ええ、お願いします」
それだけ言い残し、レギュラスは踵を返した。
階段を上がる途中、胸の奥の熱はまだ消えていない。
それでも、いくぶんか呼吸がしやすくなっていた。
寝室の扉の前で足を止める。
中にはアランが待っている。
その事実だけが、今日の苛立ちのすべてを、まだ守るべきものへと変えてくれていた。
その屋敷に足を踏み入れるたび、シリウスは自分が少しだけ救われていくのを感じていた。
ブラック家の屋敷は、昔から窮屈だった。
血統と格式と沈黙が、壁と天井を形作っているような家だ。
笑い声は小さく、足音は消され、視線は余計なものを映さない。
それでも――その冷たさの中心に、アランがいる。
声を持たない女。
けれど、彼女が杖を振って空に綴る文字は、どんな声よりも優しく、どんな叫びよりも強かった。
その文字があるだけで、屋敷の空気がほんの少し柔らかくなるのを、シリウスは知ってしまっている。
何を見せられても構わなかった。
レギュラスが近くにいようと。
あの男が、あの落ち着き払った瞳でアランを見下ろそうと。
夫婦としての距離の近さを、隠しもしない仕草を。
それを目の前で突きつけられるたびに胸は軋むが、それでも、アランのいる空間に居られること自体が、シリウスにとっては満たされるものだった。
不毛だと分かっている。
自分がどれだけ願っても、アランが自分のものになることはない。
そもそも、そういう奪う形で手に入れたいわけでもない。
彼女が選んだ場所があるなら、それを壊す資格は自分にはないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
ただ、せめて。
彼女が生きていることを、この目で確かめられる距離にいたかった。
彼女の翡翠の瞳が曇っていないか、指先が震えていないか、疲れていないか。
そういう些細なものを見つけられる距離で、呼吸をしていたかった。
だから、入り浸るようになっていたのかもしれない。
調べ物だ。
術だ。
封印だ。
理由はいくらでも作れたし、実際にやるべきことは山ほどあった。
けれど、今日――。
応接間の扉が開き、レギュラスが入ってきた瞬間、シリウスは分かった。
あの男の空気が、今までと違う。
冷たいだけじゃない。
線を引く気配だ。
この屋敷の主人としてではなく、夫としての立ち位置から、真っ直ぐに。
「当たり前のように出入りするのは、やめてください」
低い声。
怒鳴りもしないし、威圧もしない。
ただ、拒絶の意思だけが、刃物のように研がれていた。
反射的に、言い返すことはできた。
噛みつくこともできた。
この家の空気に慣れていないふりをして、いつもの軽口で煙に巻くことだって、できたはずだった。
けれど、シリウスはそれをしなかった。
理由は単純だ。
そうした瞬間、アランはレギュラスの隣に立つ。
堂々と。
迷いなく。
それが見えるほど分かっていた。
アランは優しい。
だからこそ、夫の前で兄に加担するようなことはしない。
シリウスの味方をしながら、レギュラスを傷つけるようなことは、絶対に選ばない。
その場面を想像するだけで、胃の奥が痛んだ。
―― アランが、レギュラスの隣に立つ。
それ自体は当然のことだ。
夫婦なのだから。
それを責める資格などない。
ただ、それを「自分に向けて突きつけられる形」で見たくなかった。
自分が挑んで、自分のせいで、アランをそこに立たせる。
その惨めさを、今日は味わいたくなかった。
だから、シリウスは息を吐き、肩の力を抜いた。
「……今日は帰るよ」
声が妙に落ち着いてしまう。
自分でも驚くほどに。
レギュラスは一歩も引かずに答えた。
「そうしてください」
そのやり取りの間、アランは黙っていた。
杖を振って止めることはしない。
引き留める文字を綴ることもない。
ただ、翡翠の瞳で二人を見ているだけだ。
それだけで、胸が痛んだ。
引き留められないことが痛いのではない。
アランが悪いわけでもない。
彼女はただ、余計な火種を増やさないようにしているだけだ。
分かっているのに、痛い。
「…… アラン」
シリウスは、彼女の名を呼んだ。
屋敷の中でその名を口にするのは、いつも少しだけ怖い。
他の誰かに触れられたくないものに触れてしまう感覚がある。
アランの視線が、シリウスに向く。
昔のように懐くステラのいない今は、屋敷の空気がいっそう静かだ。
その静けさの中で、彼女の瞳だけが、柔らかい光を持っている。
シリウスは、言葉を選んだ。
レギュラスに対してではない。
アランに対して、余計な負担を背負わせない言葉を。
「何かあったら、俺か――」
一瞬だけ、隣の男を見た。
心底気に食わない。
こいつに頼れと言うのは癪だ。
だが、アランを守るために必要なら、それくらいは飲み込める。
「……こいつに、遠慮なく言えよ」
レギュラスが視線を寄越す。
冷たい瞳だ。
けれどそこに、嘲りも驚きもない。
ただ、当たり前のように受け取る顔をしている。
それがまた腹立たしいのに、同時に、少しだけ救われる。
こいつは、アランを守る。
その一点に関してだけは、疑いようがない。
アランは杖を持ち上げた。
空に文字が浮かぶ。
《ありがとう》
《シリウス》
その文字が、胸を刺した。
優しさはいつだって残酷だ。
拒絶されるよりも、こうして礼を言われる方が、ずっと痛い。
シリウスは笑おうとして、上手くいかなかった。
口角だけが少し上がり、目の奥が熱くなる。
「……じゃあな」
それだけ言って、踵を返す。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
玄関へ向かう途中、屋敷の重さが背中に乗ってくる。
この場所は自分の居場所ではない。
入れてもらっているだけだ。
扉の前で、ほんの少しだけ立ち止まる。
振り返れば、アランがそこにいるはずなのに。
翡翠の瞳が、優しい文字をくれるはずなのに。
見ない方がいい。
今日は、見ない方がいい。
シリウスは扉を開け、冷たい外気に身を晒した。
背後で扉が閉まる音がする。
その音が、区切りのようで。
その区切りを、作ったのは自分ではないのに。
自分が作ってしまったような気がして、シリウスは一度だけ、拳を強く握りしめた。
扉が閉まる音は、屋敷の中にいる者だけが聞ける種類の音だった。
外の冷気を吐き出すように、玄関が重々しく沈黙へ戻る。
その一拍あと、遠くで靴音が完全に消えたのが分かった。
シリウス・ブラックが帰った。
――ようやく。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩むはずだった。
けれど緩んだのは、怒りではなく、別の種類の緊張だった。
寝室へ向かう廊下は暗く、暖炉の火が壁に赤い揺れを投げている。
屋敷は静かだ。いつものように静かなのに、今夜はその静けさがやけに耳に刺さる。
レギュラスは、扉を押し開けた。
室内は、淡い燭台の光で満たされていた。
天蓋付きのベッド、整えられた寝具、窓辺のカーテンが揺れている。
そこにいるアランが、振り返る。
彼女は杖を持っていなかった。
わざわざ文字を浮かべる準備をする必要がないほど、二人の距離が近い夜だった。
レギュラスは扉を閉め、鍵をかける。
その動作に、無意識の強さが混ざる。
今夜だけは、外の気配を切り離したかった。
アランが、少しだけ肩を落とす。
シリウスの名を呼んだ直後の、あの柔らかい空気がまだ残っているのが見えて、腹の底がじくりと痛んだ。
レギュラスは、ベッドの端に腰を下ろすのではなく、室内を一度だけ歩いてから、ようやくアランの近くへ寄った。
怒りを鎮めるための間。
口を開いた瞬間に、余計な言葉が溢れてしまわないように。
「不満ですか」
声は低い。丁寧だ。
丁寧すぎるほどに。
アランの瞳が揺れる。
そのまま、彼女は首を横に振った。
否定。
迷いのない、否定。
その仕草に、レギュラスの胸の奥が反射的に逆撫でされた。
うそをつけ、と言ってしまいたくなる。
だが、うそつけと言ってしまったら、きっと次に欲しくなるのは、もっと残酷な答えだ。
「……そうですか」
答えながら、レギュラスの指先がアランの手首に触れた。
確かめるように。ここにいることを、触れて固定したいように。
アランは逃げない。
そのことが、逆に焦らしかった。
逃げないのに。
傷ついた顔もしないのに。
それなのに、シリウスが帰ったあとに残るものは、確かにアランの中にあると感じてしまう。
レギュラスは、息を吐いた。
アルコールの匂いはもうない。
だが今夜の喉の乾きは、酒では癒せない種類のものだった。
「……あなたは」
言葉が途切れる。
続きが喉で詰まる。
シリウスが負傷したと聞いた夜。
アランが黙って見舞いに行ったこと。
それを自分が察しながら問い詰めることを選ばなかったこと。
あのとき、決めたはずだった。
踏み込まない、と。
今ここで踏み込めば、夫婦の間に残る最後の静けさまで壊してしまう気がしたから。
それなのに。
今日、屋敷からシリウスを返した瞬間。
アランが引き留めなかった瞬間。
その正しさの中に、レギュラスは別の痛みを見つけてしまった。
引き留めないでくれて、安心したはずなのに。
それでも胸が痛む。
アランが最初から最後まで自分の妻としてそこに立っていた事実が、救いであるはずなのに。
その救いが、なぜか苦い。
レギュラスは、アランの頬に指先を添えた。
触れれば、彼女はいつも少しだけ目を細める。
それが嬉しい。嬉しいからこそ、意地悪が混ざる。
「……本当に、何も思わないんですか」
アランの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
彼女は答えの代わりに、レギュラスの手首にそっと指を置いた。
なだめるような触れ方だった。
それがまた、腹立たしい。
なだめるということは、こちらが荒れているのを分かっているということだ。
分かっていて、拒まないということだ。
拒まないのに、答えはくれない。
レギュラスは口角を上げようとして、上手くいかず、代わりに薄く笑った。
「……うそをつかないでください」
思わず漏れた声は、強くはない。
けれど、柔らかくもない。
アランが、ほんの少し眉を下げる。
それでも首は横に振ったままだ。
レギュラスの胸が、ざらつく。
肯定してほしいわけではない。
けれど否定されるたびに、別の形で確かめたくなる。
言葉で否定されるなら、身体で、表情で、視線で、嘘が混ざっていないか暴きたくなる。
あの日のことが、喉元まで上がってくる。
シリウスが負傷したと聞いて。
アランが、黙って。
自分の知らない場所へ行った。
どんな会話をした。
どんな目で見つめ合った。
どんな距離で立った。
触れたのか。触れていないのか。
触れていないと言われても、触れていないことを証明する術などない。
確かめたい。暴いてやりたい。
けれど知ってしまえば、たぶん立っていられない。
嫉妬は、こんなにも見苦しいのかと、今更気づく。
自分は冷静な男だと信じてきたのに。
法と秩序の名のもとに、どれだけ冷たい決断でも下してきたのに。
アランのことになると、すべてが崩れる。
レギュラスは、アランの顎を軽く持ち上げた。
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見上げる。
その瞳の静けさに、胸の奥が熱くなる。
「……あなたは僕の妻です」
言葉は誓いのようで、確認のようで、脅しのようにも響く。
自分でも何を言っているのか分からないのに、止まらない。
アランの指先が、レギュラスの手の甲をなぞった。
ゆっくりと、文字を描く。
――杖ではない。
この方法は、ふたりだけの会話だ。
《わかっています》
そのたった一言が、胸に深く刺さった。
わかっている。
わかっているから、引き留めなかった。
わかっているから、余計な火種を増やさないようにした。
わかっているから、夫の前で夫を選ぶ。
その正しさが、レギュラスには苦しい。
正しさの中で、アランがどれだけのものを飲み込んでいるのかが見えてしまうからだ。
そして、その飲み込んだものの中に、シリウスという男の影が混じっている気がしてしまうからだ。
レギュラスは、アランの額に自分の額をそっと寄せた。
近すぎる距離。逃げ道を塞ぐ距離。
「……止めたいのに」
吐息が落ちる。
それ以上の言葉は、形にならない。
止めたい。
知りたくない。
けれど確かめたい。
矛盾が胸を満たして、息が少しだけ苦しくなる。
アランの手が、レギュラスの頬に触れた。
指先が、熱を測るようにそっと滑る。
それは慰めでも赦しでもなく、ただ、ここにいることの確認だった。
レギュラスは目を閉じた。
結局、意地悪な言い方しかできない。
自分が弱くて見苦しいことを、彼女に見せてしまう。
それでも、アランは逃げない。
その事実だけが、今夜のレギュラスをぎりぎり立たせていた。
普段なら、磨き上げられた木の香りと古い革張りのソファの匂いが支配する空間だ。
だが今日は、床一面に引かれた墨と油煙の匂いが、それらを上書きしている。
深い黒の線が床板の上を這うように走っていた。
西洋の魔法陣に慣れた目には、あまりにも異質な図形だ。
幾重にも重なった円と、直線とも曲線ともつかない細い線が絡まり合い、ところどころに見慣れない文字が記されている。
ルーン文字ではない。
魔法省のどの資料にも載っていない、東のどこかの国の古い書体だと聞かされた。
その中心に、アランが静かに座っていた。
薄いクッション越しに伝わる床の冷たさを感じながら、背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いている。
翡翠の瞳は、正面に立つ術師と呼ばれる男をまっすぐに見つめていた。
その男の姿は、レギュラスの目にはどうしても胡散臭く映る。
深い藍色の、見慣れない形の衣。
裾が広く、袖も異様に長い。布地には金の糸で抽象的な模様が刺繍されていた。
腰には紐のようなものを巻いているが、そこにも小さな符がいくつも結び付けられている。
手には杖ではなく、細い木片と、先端に鈴の付いた金属の棒。
彼は、低く抑えた声で何事かを唱えていた。
聞いたことのない言語だ。
呪文というよりは、古い祈祷のようでもある。
レギュラスは、応接間の片隅からその様子を見守っていた。
隣にはシリウスとリーマスが立っている。
「……どうなんだ?」
小声でシリウスがリーマスに囁く。
リーマスは真剣な顔で魔法陣を見つめたまま、僅かに首を横に振った。
「まだ分からない。
封印と血を分ける術式なんて、僕も聞いたことがないよ。
でも、彼はやったことがあると言った」
「似たようなものならだろ」
シリウスは歯切れ悪く吐き捨てる。
その言葉は、レギュラスの耳にも届いていた。
似たようなものなら。
それはつまり、「正確には違う」ということだ。
術師の額には、じわりと汗が浮かび始めていた。
手にした木片の先で空中に素早く線を描き、床の符の一部に触れるたび、黒い線がかすかに光る。
やがて、彼は詰まったように言葉を止めた。
「……フム」
低い声で唸り、アランの頭上あたりをじっと見つめる。
見えない何かの流れを探るように、指先を前に差し出した。
「これは……想像していたより、はるかに複雑な絡まり方をしておる」
鈴の付いた棒が、ちり、と小さく鳴る。
「封じられている力と、血の系譜が、層を重ねて何度も織り込まれている。
ただ縫い目を切ればほどける、という仕立てではないようだ」
レギュラスは腕を組んだ。
聞き慣れない比喩だ。
けれど、「複雑」「想像以上」といった言葉は、長年法務部で聞き飽きている。
報告をぼかし、責任を曖昧にし、結論を先送りにする時に好まれる常套句だ。
術師はさらに続けた。
「西の魔術の言葉で言うならば……器に宿った呪物が、魂と血脈の両方に深く根を張っておる、というべきか。
これを乱暴に断てば、“呪物の方”が暴れ出す危険がある」
シリウスが眉を吊り上げる。
「それは、アランの命に危険が及ぶってことか?」
「こちらの女性の命は、守ろうと努めれば守れるだろう。
しかし、呪物がどのような形でこの世界に影響を及ぼすかは分からん」
術師は、まるでヴォルデモートという名を知らない子どものように、あっさりと言う。
彼にとって重要なのは、ここにある封じられた力そのものだけだ。
その出どころや歴史に、興味はないのだろう。
レギュラスは内心で短く息をついた。
ヴォルデモートのホークラックスを解き放てば、
それはこの世界に散らばる彼の「不死の欠片」の一つが、再び自由に動き出すことを意味する。
魔力・影響力・呪いの広がり——それらがどう変化するか、法務部の視点からすれば、悪い予感しか浮かばない。
「……つまり」
レギュラスは口を開いた。
「セシール家の封印と、妻の血を切り離す術は、まだ見つかっていないということですね」
術師はレギュラスを見た。
瞳の色は暗く、その奥に計算の光よりも、職人のような好奇心が揺れている。
「まだ、と言うならば、そうかもしれん。
ただ、これほど見事な織り込み方は、儂も初めて目にする」
「見事、ですか」
その言葉だけは、レギュラスも否定できなかった。
セシール家の封印は、セシール家の血が続く限り解けない。
その完璧さゆえに、アランも、ステラも、アルタイルも、ヴォルデモートの不死性に繋ぎ止められている。
褒められるべき芸術と、呪いの構造が、同じ言葉で語られていることに、薄い嫌悪が込み上げた。
そんな時だった。
そっと、自分の左手が取られる感覚があった。
視線を落とすと、アランがほんの少しだけ体をひねって、レギュラスの手のひらに指を滑らせていた。
術式の中心に座ったまま、膝の上に置いた自分の手と、レギュラスの手を重ねている。
するすると、柔らかな指先が文字を描く。
《レギュラス》
《顔に 出ています》
レギュラスは、わずかに目を瞬いた。
そう言われてみれば、眉間はいつもより深く寄っていたかもしれない。
術師の衣装、聞き慣れない呪文、曖昧な物言い——そのどれもが、彼の合理的な感覚からほんの少しずつ外れている。
アランの翡翠の瞳は、術師ではなく、レギュラスの横顔を見ていた。
笑いを堪えているのが分かる。
目尻がわずかに震え、唇の端が上がりかけている。
レギュラスは軽く息を吐き、アランの耳元に顔を寄せた。
「……なんなんです、あの格好といい」
声を潜めて囁く。
「袖はあれほど長くする必要がありますか。
あの鈴は、なぜ呪文のたびに鳴らすんでしょう。
あれで本当に封印が切り離せるなら、喜んで毎晩でも鳴らして差し上げますが」
アランの肩が小さく揺れた。
笑いを飲み込むように、唇をかすかに噛む。
レギュラスは、自分でも分かっていた。
本当に、たとえどれほど奇妙な格好だろうと、祈祷じみた呪文だろうと——
アランと子供たちの血から、セシール家の封印だけを綺麗に切り離せるというのなら。
床一面をどれほど怪しげな模様で埋め尽くされようと、
術師が空を向いて逆立ちして歌い出そうと、
その全てを「素晴らしい」と言って、法務部長官として公式に推奨してやる覚悟だってある。
だが。
「複雑だ」とか「見たことがない」とか。
そういった言葉を並べられると、どうしても冷めた目で見てしまう。
責任を負う側の人間にとって、「前例のない複雑さ」とは最も聞きたくない報告のひとつだからだ。
術師は、再び魔法陣の縁を歩き始めた。
足元を確かめるように一歩一歩進み、ところどころで立ち止まっては、指で空を撫でている。
「……やはり、絡みが深い」
ぽつりと呟く。
「封印そのものを解かぬまま、血からだけ切り離すのは、今のままでは困難だ。
無理に引き剥がせば、封じられた呪物の方が、別の形で外に漏れ出す可能性が高い」
ヴォルデモートの名は出ない。
彼は、その呪物が何者かを知らない。
だが、レギュラスには分かっていた。
この術式が失敗すれば、ヴォルデモートのホークラックスを解き放つ危険がある。
世界中に今も残っている“欠片”のひとつが、封印から逃れ、別の形で誰かを蝕むかもしれない。
それは、法務部長官としても、ひとりの夫としても、簡単に許容できる賭けではない。
レギュラスは、腕を組み直した。
「では、現時点であなたが言えるのは——」
術師が振り返る。
レギュラスは淡々と問いを続けた。
「妻の命を守るためには、今は動かさない方がいいという判断、でよろしいですか」
少しの沈黙のあと、術師は静かに頷いた。
「そうだな。
ここまで複雑に絡めた封印を、短期間で完全に読み解くのは難しい。
時間をかけて解析すれば、違う道が見えるかもしれんが……今、この場で出来ることは多くない」
シリウスの拳が、ぎゅっと握られているのが視界の端に入った。
リーマスは唇を結び、術師の言葉を飲み込むように目を閉じている。
アランの指が、再びレギュラスの手のひらをなぞった。
《ありがとう》
意味を問うまでもない。
レギュラスは、わずかに握り返した。
その指先の震えが、彼女の失望と、それでも生きられた安堵とを同時に伝えてくる。
東洋の術師の衣が、わずかに揺れる。
鈴の小さな音が、どこか頼りなげに響いた。
レギュラスは首をかしげるしかなかった。
奇妙な術式も、見慣れない呪文も。
この日、彼の胡散臭さの判断を完全に覆す材料にはならなかった。
それでも——
セシール家の封印の絡まりが想像以上に深く、厄介であることだけは、改めて刻み込まれたのだった。
術師が屋敷を後にしたとき、ブラック家の空気は、誰も言葉にできない種類の疲れに包まれていた。
重たい扉が閉まる音が、廊下に低く響く。
応接間に残されたのは、黒く引かれた魔法陣の痕と、わずかに残る墨と油煙の匂い、そして三人の男と一人の女の、行き場を失った感情だけだった。
魔法陣の線は、すでに力を失っている。
術師が帰る前に自らの手で結界を解き、線のいくつかは水で薄められていたが、それでも床板には「異質なものがここにあった」という記憶のように、淡い痕跡が残っていた。
鈴の音も消えた。
代わりに、外の風が窓ガラスを細かく叩く音が聞こえ始めている。
「……なんだ、あいつは」
最初に沈黙を破ったのはシリウスだった。
ソファの背にもたれかかり、両腕を組んで天井を睨むようにしている。
苛立ちと疲労が入り混じった声が、部屋の空気を少しだけ波立たせた。
「こっちの台詞ですよ。手配したのはあなたたちでしょう」
レギュラスは、壁際に立ったまま答えた。
腕を組み、まだ完全には消えきっていない魔法陣の中心をじっと見つめている。
声色はいつものように冷静だが、その目にはかすかな棘が残っていた。
東洋の術師が使った奇妙な術式も、曖昧な結論も、簡単に受け入れられるものではなかった。
リーマスが、深い息を吐きながら姿勢を正した。
「力及ばず、申し訳ない」
言葉は真っ直ぐだった。
彼は、術師を呼ぶことを提案し、調整役も担った。
自分の判断が結果を変えられなかったことを、正面から認めようとしている。
アランは、静かに杖を手に取った。
まだ魔法陣の在った場所のすぐそばに、彼女は椅子を置かれて座っている。
術式の中心に座らされていたせいか、少しだけ肩が重たそうに見えた。
それでも、彼女はゆっくりと杖を振る。
空中に、淡い光の文字が浮かび上がった。
《みなさん》
《ありがとうございます》
その言葉は、術師へのものではなく、この場に残っている三人へ向けられたものだった。
失望も、安堵も、全て飲み込んだうえで、それでも礼を述べることを選ぶ。
シリウスが、髪をぐしゃりとかき乱す。
「礼なんかいらねぇよ。結果が出ねぇんじゃ意味がねぇ」
そう吐き捨てながらも、目はどこか悔しさを滲ませていた。
彼なりに、アランを救うための手段として、術師に賭けたのだ。
見慣れない呪文も、奇妙な服装も、全部飲み込んだうえで。
「にしても、なんだ? あの格好は」
シリウスが、堪え切れないように続ける。
「袖だらんだらん伸ばしてよ、なんか訳の分かんねぇ刺繍してよ。
あと鈴? なんで呪文のたびに鳴らしてんだ。意味あんのか?」
その言葉に、アランの肩がぴくりと揺れた。
ついさっき、レギュラスが耳元で囁いた内容と、ほとんど同じだったからだ。
ほんの少しだけうつむき、唇に笑みを浮かべる。
シリウスは、そのわずかな表情の変化に気づかない。
しかし、レギュラスは見逃さなかった。
隣に立つ妻の横顔に、昨夜以来ようやく戻ってきた柔らかい表情が差している。
それだけで、刺々しくなりかけた言葉が、喉元で静かにほどけた。
リーマスは、困ったように肩を竦める。
「多分、意味があるからやっているんだろうね。
ああいう系統の術は、道具や衣装も含めて型が大事らしいから。
その辺は僕らは疎いよ」
彼は軽く笑おうとして、うまくいかず、苦笑に変わる。
レギュラスは、短く目を閉じた。
自分が同じことを考えていたのは事実だ。
あの長すぎる袖も、鈴も、金糸の刺繍も、眉間に皺を寄せずに見ていられる代物ではなかった。
けれど、それを声に出して笑い飛ばす権利は、自分にはない気がした。
「本当に封印だけ切り離せるというなら、あの鈴をいくらでも鳴らしてもらえばよかったのですが」
皮肉半分、本音半分の言葉を漏らす。
シリウスが、じろりとこちらを見る。
「だよな。……そうなりゃ一番よかったんだが」
そこだけは、二人の意見が奇妙に重なっていた。
アランは、三人の顔を順に見渡す。
リーマスの疲れた目、シリウスの苛立ち、レギュラスの静かな不満。
そのどれもが、自分のために動いた結果であることを、彼女はよく理解していた。
杖先から、もう一度文字が浮かび上がる。
《本当に》
《ありがとう》
今度は少しだけ大きく、ゆっくりと描かれた文字だった。
光のひと文字ひと文字に、アランの深い感情が込められているのが分かる。
シリウスは、視線を床に落とし、ぎこちなく頷いた。
リーマスは、柔らかく微笑み返す。
レギュラスは、魔法陣の痕跡に目をやる。
黒い線はじきに全て消され、床は元通りに磨かれるだろう。
だが、今日ここで分かったこと——封印と血の絡まりが想像以上に深いこと、軽々しく引き剥がすべきではないこと——その事実だけは、消えない。
応接間の窓の外で、風が一層強くなった。
ざわめく音が、遠くの森を揺らしている。
奇妙な衣装の術師も、鈴の音も、今はもうここにはない。
残っているのは、解けなかった封印と、それでもなおアランを救おうとする者たちの、どうしようもない不器用さだけだった。
レギュラスは、そっとアランの手元に視線を落とした。
杖を握る指先は、少しだけ赤くなっている。
長時間、緊張した姿勢で術式の中心に座っていたせいだろう。
「休みましょう、アラン」
そう促す声は、いつもより少し柔らかかった。
アランは頷き、立ち上がる前に、もう一度だけ三人の男を見つめた。
その翡翠の瞳には、失望よりも、「まだ諦めてはいけない」と自分に言い聞かせるような静かな光が宿っていた。
リーマスは、少し離れた場所から二人を見ていた。
応接間の床一面には、まだ墨の線が残っている。
東洋の術師が描いた魔法陣の痕跡だ。
幾重にも重なった円と、細い線、見たことのない文字。
その中心に、アラン・ブラックが静かに座っていた。
背筋を伸ばし、膝の上に両手を置いた姿は、どこか祈りにも似ている。
施される術をただ受け入れる者の、静かな覚悟がそこにあった。
――だが、アランは何もしていなかったわけではない。
隣に立つ男の片手を、そっと取っていた。
レギュラス・ブラック。
魔法省法務部長官、デスイーター、ヴォルデモートとは別種の冷酷さを持った純血の魔法使い。
アランの指が、彼の掌の上をするすると滑る。
術式の中心に座りながら、膝の上に置いた自分の手と、レギュラスの片手を重ねて、指先で言葉を書いている。
それを見た瞬間、リーマスは、胸の奥にひやりとしたものを感じた。
杖で空に文字を描くのとは違う。
紙にペンを走らせるのとも違う。
ただ、小さな指の動きと、触れ合う皮膚の感触だけで交わされる密やかな会話。
レギュラスは、その文字を読むと、ほんの少しだけ眉を動かした。
そして、術師に聞こえないように上体を傾け、アランの耳元に唇を寄せる。
何を囁いたのか、リーマスには分からない。
ただ、アランの肩が微かに震え、翡翠の瞳に笑いがにじむのが見えた。
術師の低い唱え声と、鈴の音。
床に漂う墨と油煙の匂い。
その中心で、夫婦だけの小さなやり取りが確かに存在していた。
その光景には、誰も割り込む余地がない。
魔法陣の外側で立っている者たちは、全員「外」にいるのだと嫌でも思い知らされるほどに、二人のあいだには確かな結びつきがあった。
アランは声を持たない。
レギュラスは、決して多くを語る男ではない。
それでも――いや、だからこそだろうか、指先とわずかな囁きだけで成立している世界が、鮮やかに浮き上がって見えた。
リーマスは、それを見ながら、もう一人の男の存在を思った。
シリウス・ブラック。
部屋の反対側、魔法陣の縁に足をかけそうな距離まで近づいて立つその男は、術師の一挙手一投足を食い入るように見つめている。
アランの表情や、レギュラスの動きにも、敏感に目を向けている。
彼がアランに想いを寄せていることを、リーマスはとうの昔に知っていた。
特別な洞察力を使うまでもない。
彼女の名が出るたびに揺れる声色も、屋敷から戻った夜に見せる疲れ方も、あまりにも分かりやすかった。
だが、今、魔法陣の中心にあるものは、「夫婦」の姿そのものだった。
肩を並べて立つのではない。
片方が座り、片方が立っている。
立場も、背負っているものも、抱えている罪も、まるで違う。
それでも、指で掌に言葉を書くその仕草は、ごく自然に見えた。
今まで幾度となく繰り返されてきた、ふたりだけの会話のかたちなのだろう。
ああいうものを、間近で見せつけられれば。
普通なら、とっくに心が折れてもおかしくないとリーマスは思った。
自分が勝手に好きになっただけだ。
その言い訳を盾にすれば、傷つくのは自分だけだと信じ込める。
それでも、今目の前にあるのは――
「勝手に思っているだけ」では到底追いつけない、年月と覚悟の積み重ねだ。
アランの指が、レギュラスの手のひらから離れる。
術師の問いかけに、レギュラスは短く答えたあと、ふとアランに視線を落とす。
ほんの一瞬だけ、その目の奥に柔らかな光が宿った。
愛情だとか、そんな安易な言葉では括れない何か。
罪悪感も、執着も、守ろうとする意志も、その目のなかで静かに渦を巻いている。
シリウスの立つ場所からも、きっとそれは見えているはずだった。
それでも、彼はアランを救おうとする行動をやめない。
術師を手配し、皆を巻き込み、騎士団の枠組みの外側で動こうとしている。
彼女を守りたいという気持ちだけは、誰にも止めることができないのだと、リーマスは思う。
シリウスが、「勝手に思っているだけだ」と繰り返すのを、何度も聞いてきた。
あくまで自分の中の感情だと線引きするように。
アランの選択を奪うつもりはない、と言い聞かせるように。
だが、その線引きの奥で、どれほどの痛みを飲み込んでいるのかは、見えてしまっていた。
シリウスが彼女を守りたいと願い、実際に動き続ける限り。
リーマス自身もまた、それに応えねばならないのだと感じていた。
騎士団としても、人間としても。
アラン・ブラックを、封印の器として処分するのではなく、
生きたまま解き放つ道を探し続けること。
それが、シリウスのためであり、同時に自分たちの「正義」をもう一度問い直す行為でもあると分かっていた。
あの夜の記憶が、ふと胸の奥に浮かぶ。
魔法省の地下。
冷たい石の壁と、湿った空気。
寝台に固定されたアランの姿。
喉元に刃を当てるか、杖を向けるか。
どうやって殺すかを具体的に考えなければならなかった、あの時間。
彼女の翡翠の瞳は、凍りついたように静かだった。
恐怖も憎しみも、何も映さず、ただ受け入れようとしている瞳だった。
あそこに立ち会った以上、自分はもう、簡単に「正しい側」に立っているとは言えない。
喉元に刃を向けた時点で、線はとっくに踏み越えている。
今、行っていることは贖罪かもしれない、とリーマスは思う。
騎士団として、世界のためだとか、ヴォルデモートを止めるためだとか、綺麗な言葉はいくらでも並べられる。
けれど、その裏側で、自分は「一度本気で殺そうとした女」を、今になって救おうとしているのだ。
それは、どうしたってきれいな話にはならない。
それでも。
シリウスがアランを守りたいと思い続ける限り。
あの男の目が、アランの名を口にするたびに揺れる限り。
リーマスは、そこから目を逸らすつもりはなかった。
レギュラスとアランが築いた、誰にも割り込めない夫婦としての世界。その存在を認めたうえで。
その外側で、なお彼女を守ろうとする男がいるのなら。
その男が倒れないように、支えるのが自分の役割なのだろうと、静かに思った。
術式が終わり、鈴の音が止む。
術師の足音が遠ざかり、扉の閉まる音が響いたあとも、リーマスの視線はしばらく、アランとレギュラスの手元から離れなかった。
指先で言葉を綴る妻と、その意味を一つ残らず受け取ろうとする夫。
その光景は、誰のものでもない、完全に「二人だけの」世界だった。
だからこそ、リーマスは思う。
そこへ踏み込むことは決してしない。
ただ、その外側で、出来うる限りのことをやり尽くす。
それが、自分たち騎士団に残されたわずかな筋であり、
あの夜に喉元へ向けた刃への、せめてもの応え方だと感じていた。
玄関の扉が閉まった瞬間から、胸の奥に溜まっていくものがあった。
冬の空気をまとって帰宅したはずなのに、屋敷の中はやけに温い。暖炉の熱ではない。人が長く居座った部屋特有の、息と布と茶の匂いが混ざった温さだ。
ローブを脱ぎながら歩を進める。
廊下の絨毯はいつも通り静かに足を受け止めるのに、今日は妙に音が大きく感じられた。理由は分かっている。気が立っている。
応接間の方から、笑い声がした。
あの笑い方は一つしかない。
軽くて、遠慮がなくて、屋敷の壁の厚みを当然のようにすり抜けて届く声。
レギュラスは歩みを止めず、扉を押し開けた。
案の定、そこにシリウス・ブラックがいた。
ソファの肘に無造作に腰を掛け、片足を組み、カップを指先で弄びながら、まるでここが自分の部屋であるかのように寛いでいる。
テーブルの上には羊皮紙が広げられ、本が積まれ、読みかけの頁に栞代わりのスプーンが挟まっていた。紙の上にはインクの染み。カップの底には紅茶の輪。
空間が荒れている。
散らかっているというより、侵食されている。
レギュラスの視線がわずかに細くなる。
「おかえり」とでも言う顔で振り返るシリウスが、軽く手を上げた。
「よお。早えな」
その声音だけで、こめかみが脈打ちそうになる。
部屋の奥で、アランが立ち上がった。
杖を手に取り、いつものように小さく振って迎える仕草をする。翡翠の瞳が、安堵したように柔らかく揺れた。
その表情が、レギュラスの足元に落ちかけていた怒りを一度だけ踏みとどまらせる。
アランが空中に文字を書く。
《おかえりなさい》
《お疲れさまでした》
その丁寧な文字が、いつもと同じように屋敷の空気を整えようとする。
けれど、今日は整わない。
レギュラスは深呼吸の代わりに、ローブの襟元を指先で正した。
視線はシリウスから外さないまま、声だけを落とす。
「……まだ、いるんですか」
「ん? ああ、いる」
シリウスは悪びれもしない。
ソファに沈み込み直し、カップを一口啜る。音さえ腹立たしいのに、本人はそれを気にも留めない。
レギュラスは、アランの方を見た。
問い詰めるのではなく、確認するように。アランが困ったように目を細め、杖を控えめに振る。
《まだ 調べものを》
《していて》
レギュラスの喉が、小さく鳴った。
調べもの。
言葉の端に、これ以上強く言えばアランが傷つくという線が見える。シリウスがここにいる理由の一部が、アランのためであることも分かっている。
だからこそ、余計に苛立つ。
「調べものなら、魔法省でやればいい」
「魔法省にあるもんだけじゃ足りねぇんだよ」
「ここは図書館ではありません」
「硬ぇなあ、お前」
温度差が噛み合わない。
言葉が擦れて火花になるはずのところで、シリウスは水をかけるように軽く流す。怒る価値もないと言われているようで、胸の奥がじわりと熱くなる。
レギュラスはテーブルの散乱を一瞥し、静かに息を吐いた。
「……メイラ」
廊下の方へ声を投げると、すぐに足音が近づき、メイラが顔を出した。
彼女は一瞬で状況を理解したように、視線を落として頭を下げる。
「片づけを頼みます。今日は二階で食事を取ります」
メイラが頷きかけたところで、シリウスが大げさに腕を広げた。
「おいおい、ここでいいだろ。ほら、ここ空いてる」
無造作に腕で羊皮紙を押しのけ、皿の置けそうなスペースを作って見せる。
紙の端が折れ、本の上にインク壺が傾きかけ、メイラが反射的に手を伸ばして支えた。
その光景に、レギュラスの眉が動いた。
「結構です。ここで食べる気はなくなりましたから」
語尾がわずかに鋭くなる。
シリウスは肩をすくめ、笑う。
「こまけぇやつだな、本当に」
レギュラスは笑わなかった。
視線だけで、言葉を返さずに切り捨てる。
アランが小さく杖を振り、文字を挟む。
《二階に 行きましょう》
《冷めて しまいます》
レギュラスはその文字を見て、頷いた。
怒りを抑えるための頷きではない。アランの言葉に従うための頷きだ。
だが、背を向けた瞬間、シリウスの声が追いかけてくる。
「なあレギュラス、今日の話――」
「後で聞きます」
振り返らずに切った。
足取りは一定のまま、アランの歩幅に合わせる。妻の隣に並ぶことだけが、屋敷の中で唯一落ち着ける位置だった。
二階へ向かう階段の途中で、アランの指がそっとレギュラスの袖に触れた。
止めるでもなく、慰めるでもなく、ただ「今ここにいる」と告げるような小さな接触。
その感触で、胸の奥の苛立ちが一瞬だけ形を失う。
だが、消えはしない。
食事を終え、寝室へ向かう頃には、屋敷の中の当たり前が、すでに歪み始めているのをレギュラスは感じていた。
廊下のどこかにシリウスの気配がある。
扉の向こうに、彼の声が落ちる。
本来、家族だけが満ちるはずの夜の空気に、別の男の呼吸が混ざっている。
それが、どうしても許せない。
寝室の前まで来たところで、レギュラスは足を止めた。
アランが振り返る。翡翠の瞳に問いが浮かぶ。
レギュラスは、ほんの僅かに口元を緩めた。
アランに向ける表情だけは、硬くしたくなかった。
「……すぐ戻ります」
アランが杖を構えるより早く、レギュラスは軽く首を振って続きを封じた。
説明をさせたくない。アランが責任を感じるような言葉を、今この場で聞きたくない。
階段を下りる。
足音を殺す必要もない。もう隠す段階ではない。
応接間の扉を開けると、シリウスがまだいた。
ソファに寝転び、片手で本を持ち、もう片方でカップを揺らしている。
ここが第二の棲家にでもなったかのように。
レギュラスは扉を閉め、静かに言った。
「シリウス」
名を呼ばれた兄が、片眉を上げる。
「なんだよ。やっと混ざる気になったか?」
レギュラスは歩み寄り、テーブルの端に指先を置いた。
羊皮紙の束を押さえつけるような仕草になって、シリウスの視線がそこへ落ちる。
「当たり前のように出入りするのは、やめてください」
声は低い。
怒鳴らない。言い立てない。
その方が、よほど拒絶の意思が伝わると分かっている。
シリウスは一瞬だけ黙った。
軽口が出てきそうで、出てこない間。
レギュラスはその沈黙に畳みかけず、ただ視線をまっすぐに据えた。
「目的があるのは理解しています。アランのために動いていることも。
ですが――この屋敷は、あなたの居場所ではない」
最後の一言が、空気を冷やした。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その小さな音がやけに大きい。
シリウスが、ゆっくりと起き上がった。
軽さが消えきらない顔の奥に、何か固いものが覗く。
「……追い出すのか」
レギュラスは首を横に振らない。頷きもしない。
ただ、淡々と続けた。
「線を引きます。あなたの自由さで、この家の秩序を削らせない」
言葉を選ぶ余裕は、もうなかった。
苛立ちが限界に近いからではない。
このまま曖昧にしていれば、“当たり前”が変質していくのが見えるからだ。
夫婦の夜が、家族の空気が、静かな屋敷の呼吸が。
遠慮と侵入で、少しずつ擦り減っていく。
シリウスは、鼻で笑いかけて、やめた。
代わりに、苦い顔をした。
「……分かったよ。今日は帰る。片づけもする」
珍しく、軽さのない声だった。
レギュラスはそれを聞いても、安堵はしなかった。
今日はという言葉が含まれていたからだ。
それでも、今夜の境界線は引いた。
引かなければならなかった。
「ええ、お願いします」
それだけ言い残し、レギュラスは踵を返した。
階段を上がる途中、胸の奥の熱はまだ消えていない。
それでも、いくぶんか呼吸がしやすくなっていた。
寝室の扉の前で足を止める。
中にはアランが待っている。
その事実だけが、今日の苛立ちのすべてを、まだ守るべきものへと変えてくれていた。
その屋敷に足を踏み入れるたび、シリウスは自分が少しだけ救われていくのを感じていた。
ブラック家の屋敷は、昔から窮屈だった。
血統と格式と沈黙が、壁と天井を形作っているような家だ。
笑い声は小さく、足音は消され、視線は余計なものを映さない。
それでも――その冷たさの中心に、アランがいる。
声を持たない女。
けれど、彼女が杖を振って空に綴る文字は、どんな声よりも優しく、どんな叫びよりも強かった。
その文字があるだけで、屋敷の空気がほんの少し柔らかくなるのを、シリウスは知ってしまっている。
何を見せられても構わなかった。
レギュラスが近くにいようと。
あの男が、あの落ち着き払った瞳でアランを見下ろそうと。
夫婦としての距離の近さを、隠しもしない仕草を。
それを目の前で突きつけられるたびに胸は軋むが、それでも、アランのいる空間に居られること自体が、シリウスにとっては満たされるものだった。
不毛だと分かっている。
自分がどれだけ願っても、アランが自分のものになることはない。
そもそも、そういう奪う形で手に入れたいわけでもない。
彼女が選んだ場所があるなら、それを壊す資格は自分にはないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
ただ、せめて。
彼女が生きていることを、この目で確かめられる距離にいたかった。
彼女の翡翠の瞳が曇っていないか、指先が震えていないか、疲れていないか。
そういう些細なものを見つけられる距離で、呼吸をしていたかった。
だから、入り浸るようになっていたのかもしれない。
調べ物だ。
術だ。
封印だ。
理由はいくらでも作れたし、実際にやるべきことは山ほどあった。
けれど、今日――。
応接間の扉が開き、レギュラスが入ってきた瞬間、シリウスは分かった。
あの男の空気が、今までと違う。
冷たいだけじゃない。
線を引く気配だ。
この屋敷の主人としてではなく、夫としての立ち位置から、真っ直ぐに。
「当たり前のように出入りするのは、やめてください」
低い声。
怒鳴りもしないし、威圧もしない。
ただ、拒絶の意思だけが、刃物のように研がれていた。
反射的に、言い返すことはできた。
噛みつくこともできた。
この家の空気に慣れていないふりをして、いつもの軽口で煙に巻くことだって、できたはずだった。
けれど、シリウスはそれをしなかった。
理由は単純だ。
そうした瞬間、アランはレギュラスの隣に立つ。
堂々と。
迷いなく。
それが見えるほど分かっていた。
アランは優しい。
だからこそ、夫の前で兄に加担するようなことはしない。
シリウスの味方をしながら、レギュラスを傷つけるようなことは、絶対に選ばない。
その場面を想像するだけで、胃の奥が痛んだ。
―― アランが、レギュラスの隣に立つ。
それ自体は当然のことだ。
夫婦なのだから。
それを責める資格などない。
ただ、それを「自分に向けて突きつけられる形」で見たくなかった。
自分が挑んで、自分のせいで、アランをそこに立たせる。
その惨めさを、今日は味わいたくなかった。
だから、シリウスは息を吐き、肩の力を抜いた。
「……今日は帰るよ」
声が妙に落ち着いてしまう。
自分でも驚くほどに。
レギュラスは一歩も引かずに答えた。
「そうしてください」
そのやり取りの間、アランは黙っていた。
杖を振って止めることはしない。
引き留める文字を綴ることもない。
ただ、翡翠の瞳で二人を見ているだけだ。
それだけで、胸が痛んだ。
引き留められないことが痛いのではない。
アランが悪いわけでもない。
彼女はただ、余計な火種を増やさないようにしているだけだ。
分かっているのに、痛い。
「…… アラン」
シリウスは、彼女の名を呼んだ。
屋敷の中でその名を口にするのは、いつも少しだけ怖い。
他の誰かに触れられたくないものに触れてしまう感覚がある。
アランの視線が、シリウスに向く。
昔のように懐くステラのいない今は、屋敷の空気がいっそう静かだ。
その静けさの中で、彼女の瞳だけが、柔らかい光を持っている。
シリウスは、言葉を選んだ。
レギュラスに対してではない。
アランに対して、余計な負担を背負わせない言葉を。
「何かあったら、俺か――」
一瞬だけ、隣の男を見た。
心底気に食わない。
こいつに頼れと言うのは癪だ。
だが、アランを守るために必要なら、それくらいは飲み込める。
「……こいつに、遠慮なく言えよ」
レギュラスが視線を寄越す。
冷たい瞳だ。
けれどそこに、嘲りも驚きもない。
ただ、当たり前のように受け取る顔をしている。
それがまた腹立たしいのに、同時に、少しだけ救われる。
こいつは、アランを守る。
その一点に関してだけは、疑いようがない。
アランは杖を持ち上げた。
空に文字が浮かぶ。
《ありがとう》
《シリウス》
その文字が、胸を刺した。
優しさはいつだって残酷だ。
拒絶されるよりも、こうして礼を言われる方が、ずっと痛い。
シリウスは笑おうとして、上手くいかなかった。
口角だけが少し上がり、目の奥が熱くなる。
「……じゃあな」
それだけ言って、踵を返す。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
玄関へ向かう途中、屋敷の重さが背中に乗ってくる。
この場所は自分の居場所ではない。
入れてもらっているだけだ。
扉の前で、ほんの少しだけ立ち止まる。
振り返れば、アランがそこにいるはずなのに。
翡翠の瞳が、優しい文字をくれるはずなのに。
見ない方がいい。
今日は、見ない方がいい。
シリウスは扉を開け、冷たい外気に身を晒した。
背後で扉が閉まる音がする。
その音が、区切りのようで。
その区切りを、作ったのは自分ではないのに。
自分が作ってしまったような気がして、シリウスは一度だけ、拳を強く握りしめた。
扉が閉まる音は、屋敷の中にいる者だけが聞ける種類の音だった。
外の冷気を吐き出すように、玄関が重々しく沈黙へ戻る。
その一拍あと、遠くで靴音が完全に消えたのが分かった。
シリウス・ブラックが帰った。
――ようやく。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩むはずだった。
けれど緩んだのは、怒りではなく、別の種類の緊張だった。
寝室へ向かう廊下は暗く、暖炉の火が壁に赤い揺れを投げている。
屋敷は静かだ。いつものように静かなのに、今夜はその静けさがやけに耳に刺さる。
レギュラスは、扉を押し開けた。
室内は、淡い燭台の光で満たされていた。
天蓋付きのベッド、整えられた寝具、窓辺のカーテンが揺れている。
そこにいるアランが、振り返る。
彼女は杖を持っていなかった。
わざわざ文字を浮かべる準備をする必要がないほど、二人の距離が近い夜だった。
レギュラスは扉を閉め、鍵をかける。
その動作に、無意識の強さが混ざる。
今夜だけは、外の気配を切り離したかった。
アランが、少しだけ肩を落とす。
シリウスの名を呼んだ直後の、あの柔らかい空気がまだ残っているのが見えて、腹の底がじくりと痛んだ。
レギュラスは、ベッドの端に腰を下ろすのではなく、室内を一度だけ歩いてから、ようやくアランの近くへ寄った。
怒りを鎮めるための間。
口を開いた瞬間に、余計な言葉が溢れてしまわないように。
「不満ですか」
声は低い。丁寧だ。
丁寧すぎるほどに。
アランの瞳が揺れる。
そのまま、彼女は首を横に振った。
否定。
迷いのない、否定。
その仕草に、レギュラスの胸の奥が反射的に逆撫でされた。
うそをつけ、と言ってしまいたくなる。
だが、うそつけと言ってしまったら、きっと次に欲しくなるのは、もっと残酷な答えだ。
「……そうですか」
答えながら、レギュラスの指先がアランの手首に触れた。
確かめるように。ここにいることを、触れて固定したいように。
アランは逃げない。
そのことが、逆に焦らしかった。
逃げないのに。
傷ついた顔もしないのに。
それなのに、シリウスが帰ったあとに残るものは、確かにアランの中にあると感じてしまう。
レギュラスは、息を吐いた。
アルコールの匂いはもうない。
だが今夜の喉の乾きは、酒では癒せない種類のものだった。
「……あなたは」
言葉が途切れる。
続きが喉で詰まる。
シリウスが負傷したと聞いた夜。
アランが黙って見舞いに行ったこと。
それを自分が察しながら問い詰めることを選ばなかったこと。
あのとき、決めたはずだった。
踏み込まない、と。
今ここで踏み込めば、夫婦の間に残る最後の静けさまで壊してしまう気がしたから。
それなのに。
今日、屋敷からシリウスを返した瞬間。
アランが引き留めなかった瞬間。
その正しさの中に、レギュラスは別の痛みを見つけてしまった。
引き留めないでくれて、安心したはずなのに。
それでも胸が痛む。
アランが最初から最後まで自分の妻としてそこに立っていた事実が、救いであるはずなのに。
その救いが、なぜか苦い。
レギュラスは、アランの頬に指先を添えた。
触れれば、彼女はいつも少しだけ目を細める。
それが嬉しい。嬉しいからこそ、意地悪が混ざる。
「……本当に、何も思わないんですか」
アランの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
彼女は答えの代わりに、レギュラスの手首にそっと指を置いた。
なだめるような触れ方だった。
それがまた、腹立たしい。
なだめるということは、こちらが荒れているのを分かっているということだ。
分かっていて、拒まないということだ。
拒まないのに、答えはくれない。
レギュラスは口角を上げようとして、上手くいかず、代わりに薄く笑った。
「……うそをつかないでください」
思わず漏れた声は、強くはない。
けれど、柔らかくもない。
アランが、ほんの少し眉を下げる。
それでも首は横に振ったままだ。
レギュラスの胸が、ざらつく。
肯定してほしいわけではない。
けれど否定されるたびに、別の形で確かめたくなる。
言葉で否定されるなら、身体で、表情で、視線で、嘘が混ざっていないか暴きたくなる。
あの日のことが、喉元まで上がってくる。
シリウスが負傷したと聞いて。
アランが、黙って。
自分の知らない場所へ行った。
どんな会話をした。
どんな目で見つめ合った。
どんな距離で立った。
触れたのか。触れていないのか。
触れていないと言われても、触れていないことを証明する術などない。
確かめたい。暴いてやりたい。
けれど知ってしまえば、たぶん立っていられない。
嫉妬は、こんなにも見苦しいのかと、今更気づく。
自分は冷静な男だと信じてきたのに。
法と秩序の名のもとに、どれだけ冷たい決断でも下してきたのに。
アランのことになると、すべてが崩れる。
レギュラスは、アランの顎を軽く持ち上げた。
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見上げる。
その瞳の静けさに、胸の奥が熱くなる。
「……あなたは僕の妻です」
言葉は誓いのようで、確認のようで、脅しのようにも響く。
自分でも何を言っているのか分からないのに、止まらない。
アランの指先が、レギュラスの手の甲をなぞった。
ゆっくりと、文字を描く。
――杖ではない。
この方法は、ふたりだけの会話だ。
《わかっています》
そのたった一言が、胸に深く刺さった。
わかっている。
わかっているから、引き留めなかった。
わかっているから、余計な火種を増やさないようにした。
わかっているから、夫の前で夫を選ぶ。
その正しさが、レギュラスには苦しい。
正しさの中で、アランがどれだけのものを飲み込んでいるのかが見えてしまうからだ。
そして、その飲み込んだものの中に、シリウスという男の影が混じっている気がしてしまうからだ。
レギュラスは、アランの額に自分の額をそっと寄せた。
近すぎる距離。逃げ道を塞ぐ距離。
「……止めたいのに」
吐息が落ちる。
それ以上の言葉は、形にならない。
止めたい。
知りたくない。
けれど確かめたい。
矛盾が胸を満たして、息が少しだけ苦しくなる。
アランの手が、レギュラスの頬に触れた。
指先が、熱を測るようにそっと滑る。
それは慰めでも赦しでもなく、ただ、ここにいることの確認だった。
レギュラスは目を閉じた。
結局、意地悪な言い方しかできない。
自分が弱くて見苦しいことを、彼女に見せてしまう。
それでも、アランは逃げない。
その事実だけが、今夜のレギュラスをぎりぎり立たせていた。
