4章
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その夜、屋敷の談話室は、妙に明るかった。
暖炉にはいつも通り火が入れられ、炎は穏やかに揺れている。
しかし、レギュラスの神経を落ち着かせるはずのその揺らめきは、今日は逆に苛立ちを増幅させるだけだった。
原因は、暖炉の前のテーブルに陣取っている男だった。
シリウス・ブラック。
片肘をつき、羊皮紙を広げ、何本もの羽根ペンを好き勝手に散らかしている。
インク壺の蓋は半ば開きっぱなし、横には飲みかけのマグカップ。
真剣な顔で封印の構造図らしきものを睨んでいるその姿だけ切り取れば、確かにアランのために動いていると言えなくもない。
だからこそ、追い出すこともできない。
それが、レギュラスにとって一番腹立たしいところだった。
ソファにはアランが座っていた。
薄いショールを羽織り、膝の上には読みかけの本。
だが視線はほとんどページを追ってはいない。
暖炉の火と、書類の山に埋もれたシリウスと、それからレギュラスの様子を、静かに行き来している。
本来なら、この時間は違う形をしていたはずだ。
仕事を終えたレギュラスが屋敷に戻り、父として最低限の顔を子どもたちに見せたあと——
夜更け前のこのひとときだけは、アランと二人きりで談話室か寝室で肩を並べて過ごす。
何をするでもなく、紅茶を飲みながら書類を片付けたり、アランが杖で綴る文字を追ったり。
たまに、何気なく指先を絡めるだけの時間。
それが、ここ最近は目に見えて減っていた。
原因はやはり、テーブルに根を張ったように居座る兄だった。
シリウスの存在が、この空間の温度を大きく変えている。
別に、見せつけるような真似をしたいわけではない。
だが、だからといって自分の家で、自分の妻との時間を遠慮して我慢するつもりもなかった。
けれど、事実として——
シリウスがそこにいるだけで、できる行動も、口にする言葉も狭められていく。
それが、たまらなくストレスだった。
「……レギュラス」
アランが小さく首をかしげた。
彼の視線がいつもより尖っていることに気づいたのだろう。
杖を取り、空中にさらさらと文字を書く。
《お疲れさまです》
《喉は もう 平気ですか》
レギュラスは、微かに笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、だいぶ楽になりました。気遣いに感謝します、アラン」
その声を聞きつけたのか、シリウスが顔を上げた。
「おう、お前、顔色戻ってきたじゃねぇか」
言いながら、勝手にレギュラスのマグにポットから紅茶を注ぐ。
「ほら、飲め。薬臭いポーションばっかじゃ気が滅入るだろ」
ありがた迷惑という言葉の見本のような動きだったが、
アランが嬉しそうに目を細めるのが見えたので、レギュラスは反論を飲み込んだ。
「……どうも」
短く礼を言ってカップを受け取る。
ソファに腰を下ろすと、アランの肩がほんの少しだけ寄ってきた。
翡翠色の瞳が横から覗き込むように彼を見上げる。
その仕草に、いつもの癖で、レギュラスの手が自然と伸びた。
指先が、アランの頬に触れる寸前で止まる。
細く整えられた眉尻、睫毛の影、頬のわずかな温度。
その先にある柔らかな唇に、軽く触れて、ただ今日も生きていてくれてありがとうと伝えるはずだった。
しかし、視界の端でシリウスが大きく伸びをした。
「っと……くそ、腰いてぇ。座りっぱなしは性に合わねぇな」
椅子が軋む音。
羊皮紙を掴んで立ち上がる気配。
瞬間、レギュラスの手は、頬に触れる前に空中で固まった。
指先にかすかな震えが走る。
アランが、不思議そうにその手を見る。
視線で問いかけるように、杖をまた持ち直した。
《どうか しましたか》
レギュラスは、ほんの一瞬だけ目を閉じ、それから仕草を変えた。
頬に向かっていた手を、そのままアランの肩に回す。
少しだけ強く、守るように引き寄せた。
「いえ。少し、寒いかと思いまして」
言い訳にもならない言葉だった。
暖炉の火は十分に部屋を温めている。
アランは、それでも小さく頷いて彼の胸元に身を預ける。
ソファの端で、二人の影がひとつに重なる。
その背後で、シリウスが羊皮紙をひらひらさせながら歩き回っていた。
「なぁ、レギュラス。ここの記述なんだけどよ」
レギュラスは振り向かない。
肩越しにちらりと視線だけ投げた。
「何です?」
「アランの封印と、セシール家の血筋との結びつきの強さについて——」
そこから先は、半ば聞き流しになった。
アランの髪が、レギュラスの顎に触れている。
ショール越しに伝わる、身体の細かな温度。
このまま指先で頬をなぞり、額に口づけるだけで、彼女の緊張は少し解けるはずだった。
けれど、暖炉の炎の向こうには、兄の銀髪が揺れている。
その視線が、ここに向く可能性がある限り——
レギュラスの手は、決定的な軌道に乗ることができない。
「聞いてるか?」
シリウスの声が飛んできた。
「聞いていますよ」
短く返すと、アランが彼の胸元で笑った気配がした。
声を持たない笑いは、喉ではなく肩と背中の揺れで伝わる。
そのささやかな変化ひとつひとつが、レギュラスの苛立ちを、別の痛みに変えていく。
目の前にいる。
触れてもいいはずの妻がいる。
自分の屋敷で、自分の談話室で、自分が選んだ時間のはずなのに——
兄の存在ひとつで、当たり前の仕草がすべて「配慮」と「遠慮」に変換されていく。
レギュラスは、カップの縁に指をかけ、静かに紅茶を一口含んだ。
味は悪くない。
シリウスが適当に淹れたものにしては、むしろ香りも悪くない。
だから余計に腹が立つ。
「おい、レギュラス」
また呼ばれる。
「この魂の分離ってやつ、本当にやろうと思えばできるのか?
お前の目から見て、どうだ」
「……可能性については、検討する価値があるでしょうね」
事務的に答える。
アランの体温だけが、腕の中で揺れていた。
癖になっている親密さに、自らブレーキをかけ続ける夜が増えた。
それは、仕事の疲労とも、喉の痛みとも違う種類の消耗を、じわじわと積み重ねていく。
暖炉の炎がぱちぱちと音を立てる。
窓の外はすでに真っ暗だ。
レギュラスは、アランの肩を抱く腕に、静かに力を込めた。
そのわずかな強さに、アランがこちらを見上げる。
翡翠色の瞳が、何も言わずに問いかけてきた。
レギュラスはほんの少しだけ視線を落とし、囁くように言う。
「……後で、二人きりになれる時間を作りましょう」
アランは頷いた。
声はない。
けれど、その微笑みだけで、彼女もまた同じ窮屈さを感じているのだと分かった。
暖炉の火がまたひとつ弾ける。
シリウスの笑い声と、羽根ペンの走る音と、その間に押し込められた沈黙。
今夜の談話室は、ひどく窮屈で、ひどく狭かった。
その夜の本部は、外気よりわずかに暖かいだけだった。
古い屋敷の一室。
かつて誰かが使っていたであろう客間は、今や騎士団の一時的な詰所になっている。
壁には色あせた肖像画が掛けられ、誰のものかも分からない先祖らしき人物が、時折不機嫌そうにこちらを見てはため息をついた。
丸いテーブルの上には、空きかけのバタービールの瓶が三本。
その横に、雑に積まれた作戦書と、使い込まれた地図。
地図の端には「関所」「魔法省」「ブラック家屋敷」と乱暴な字で書き込まれたメモが広がっている。
シリウスは背もたれにだらしなく寄りかかり、椅子を前後に揺らしていた。
足元で椅子の脚が軋み、そのたびに床板が悲鳴を上げる。
向かいには、リーマスが静かに腰掛けている。
手元のマグを両手で包み込むように持ち、時折中身を一口啜る。
隣ではジェームズが腕を組んでおり、その視線は地図でも酒瓶でもなく、シリウスの横顔に注がれていた。
リーマスが、ようやく口を開いた。
「……大丈夫なのかい?」
声は柔らかく、だが真剣だった。
シリウスは椅子の揺れを止めないまま、片目だけ開けてリーマスを見やる。
「何がだよ、ムーニー」
「全部だよ」
リーマスは曖昧な言い方で返した。
はぐらかす余地を残しつつも、逃さないようにする言い方だった。
「最近の君の行動も、行き先も、それから——あの屋敷のことも」
ジェームズが、そこで口を挟む。
「ブラック家の屋敷に、だよ」
彼の声には、静かな苛立ちが混じっていた。
誰に対する苛立ちなのか——シリウスにも、リーマスにも、自分自身にも向かっているような、複雑な色だった。
「……また行っていたんだね、シリウス」
リーマスが、確認するように問う。
シリウスは肩をすくめた。
「ああ。行ってた」
それだけで終わらせるつもりはないというように、少しだけ前のめりになる。
「一応、目指すものは一緒だからな」
「目指すもの?」
ジェームズが言葉を繰り返す。
「ヴォルデモートを倒すこと——それに付随する、ホークラックスをどうにかすること。
そういう意味では、確かに目指すところは共有しているんだろうね」
「だったら問題ねぇだろ」
シリウスは軽く笑う。
「レギュラスも、俺も、やろうとしてることは同じだ。
あいつのやり方が気に食わねぇのは前からだが、今はアランを生かす方法を一緒に探してるだけだ」
軽く、というには無理のある笑顔だった。
目の奥の疲労が隠しきれていない。
ジェームズは腕を組んだまま、その表情をじっと見つめ続ける。
「……確かに、そうなんだろうとは思うよ」
低く言った。
「けど、だからって、あのレギュラス・ブラックが、だ」
名前を口にするだけで、喉の奥にざらついた感覚が残る。
「真っ向から対立してきた君を、そう簡単に受け入れると思うかい?」
「受け入れたわけじゃねぇよ」
シリウスは、あっさりと言い切った。
「俺が勝手に上がり込んで、勝手に居座って、勝手にアランの封印の書類漁ってるだけだ」
「それを許している時点で、僕には十分すぎるほど異常なんだが」
ジェームズの声は乾いていた。
「思想の対局側にいる組織の一員だよ、シリウス。
法務部長官で、元デスイーターで、マグル孤児院の件も含めて、僕らと徹底的にやり合ってきた相手だ」
椅子の背もたれが、きしりと鳴る。
シリウスはわざとらしく天井を仰いだ。
「あいつは俺を信用してねぇよ。そこは安心しろ」
「安心できる要素はどこにもないね」
リーマスが苦笑する。
シリウスは笑い返さなかった。
沈黙が少し続いたあと、リーマスが再び口を開く。
「僕らは……心配してるんだよ、シリウス」
「何をだよ」
「君が、アランのためって理由で、いつの間にか自分を削りすぎていないかってことを」
リーマスの視線には、冗談の影が一切なかった。
「ブラック家に出入りすること自体が、レギュラスの監視下に自分を置くってことだ。
彼がどんな男か、君が一番知ってるはずだろう?」
シリウスの指先が、テーブルの縁をとんとん、と叩く。
「……分かってる」
短く答える。
「だからなおさら、目を離したくねぇんだ」
その言葉の意味を、ジェームズは痛いほどよく理解していた。
アラン・ブラック。
ホークラックスを封印する器として生かされ、
セシール家の血を持つがゆえに、ヴォルデモートの真の死を阻んでしまっている女。
そして——
自分たち騎士団が二度にわたって、その命を奪おうと試みた女。
ジェームズは、指先で地図の端をぎゅっと押さえた。
「あの屋敷に、君が長くいること自体が、僕には危うく見えるんだ」
言葉を選びながら続ける。
「君はアランを愛している。
それは、今さらどうこう言うつもりはないよ。
でも、その想いが暴走しそうになったとき——」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
シリウスの視線が、ちらりとジェームズに向く。
「僕の想像ではね」
ジェームズは、あえて正面から言葉を置いた。
「その瞬間を、レギュラス・ブラックは見逃さない」
シリウスの顎が、わずかに引き締まる。
「……どういう意味だ、それは」
「君が、アランへの想いを爆発させるようなことがあれば」
ジェームズの声には、責める響きではなく、冷静な分析だけがあった。
「それをきっかけに、レギュラスは君をどこまでも追い詰めるだろうと思う。
騎士団との対立を、個人的な感情ごと、きれいに整理してしまえる」
「おい、待て。俺をそんな簡単な駒みたいに——」
「レギュラス・ブラックにとって君は、兄という感情だけじゃなく、敵陣営の駒でもあるんだ」
ジェームズは、視線を逸らさずに続ける。
「君のアランへの想いを利用すれば、騎士団に不協和音を生ませることもできる。
君を失脚させることも、僕らの決定に揺さぶりをかけることもできる。
彼はそういう計算を、当たり前にやってくる男だよ」
その光景が、ジェームズの頭にはありありと思い浮かんでいた。
——屋敷に通い続けるシリウス。
—— アランの枕元で、彼女の手を握りしめる姿。
——その背後で、静かに見ているレギュラス。
そのうちどこかのタイミングで、感情は必ず溢れる。
アランを殺すという話が再燃したときかもしれない。
セシール家の封印をどうするかという議論の場かもしれない。
その瞬間、やり場のない怒りと愛情を抱えて、シリウスは叫ぶだろう。
騎士団を責め、ジェームズを責め、リーマスを責めるかもしれない。
そのすべてを、レギュラス・ブラックは冷静に見ている。
自分の望む形へ、少しずつ誘導していく。
シリウスは、そんなジェームズの想像の中の光景を知らないまま、舌打ちした。
「……俺をそんな簡単に操れると思ってるなら、アイツも大した勘違いだ」
「操る、なんて安っぽいやり方はしないさ」
ジェームズの声には、薄い皮肉が混じる。
「彼は状況を整えるだけでいい。
君が勝手に動いてくれるような状況に」
リーマスが、そこでジェームズの腕にそっと目をやった。
「ジェームズ」
「分かってる」
短く答え、ジェームズはバタービールを一口飲んだ。
喉を通るぬるい液体の味は、あまりしなかった。
「僕は……君を責めたいわけじゃない、シリウス」
言葉のトーンが、わずかに柔らかくなる。
「ただ、相手がレギュラス・ブラックである以上、共闘しているから大丈夫という話にはならないと思っている」
リーマスも小さく頷いた。
「彼が、アランのために動く君を見て、何を思うか。
そこを、君もちゃんと考えておいた方がいいと思うんだ」
シリウスは、空になった瓶を指先で転がした。
瓶の口がテーブルをカツンと鳴らす。
「……あいつが何を考えてようが、知ったこっちゃねぇよ」
それは半分以上、本当の気持ちだった。
「俺がやってんのは、アランを生かすための方法を探すことだけだ。
レギュラスがそれを利用しようとするなら、してみりゃいい。
その前に俺が、アランを連れて逃がしてやる」
ジェームズは、深く息を吸った。
「それが一番……レギュラスが警戒している未来だと思うよ」
「だろうな」
シリウスは笑った。
短く、無茶な冗談でも口にしたかのような笑い方だった。
「だからこそ、あいつは俺を屋敷から追い出さねぇ。
見える位置に置いといて、手足を縛ってるつもりなんだろ」
そう言われると、ジェームズの頭の中でレギュラスの横顔が浮かんだ。
いつも通り、冷静で、感情の色をほとんど表に出さない顔だ。
「……気を抜くなよ、シリウス」
ジェームズは、ようやく本音を言葉にした。
「相手はレギュラス・ブラックだ。
僕らがあの法律は狂っている。あの関所は異常だと言っている間に、世論を自分の側に引き寄せる男だ。
君一人くらい、どうとでも料理できると思っているだろう」
シリウスの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「お前、本当に心配性だな、ジェームズ」
「君が無茶をするせいで、こんなに心配しなきゃいけないんだ」
珍しく、ジェームズは食い気味に返した。
「僕にとって君は、ただの騎士団の一員じゃない。だから、君が何かに巻き込まれて傷つくのは、見たくないんだ」
その言葉は、シリウスの胸に真っ直ぐ刺さった。
リーマスが、小さく笑った。
「ほら、だから言っただろ。全部だって」
「全部?」
シリウスが眉をひそめる。
「君の行動だけじゃなくて、心も、だよ」
リーマスは真面目な顔に戻った。
「アランのことも、騎士団のことも、レギュラスのことも。
君は全部を抱えて、全部に責任を持とうとする。
そういうところを、僕らは一番心配してる」
シリウスは、言い返す言葉を探した。
けれど、口を開いても、気の利いた冗談も、乱暴な否定も出てこなかった。
ジェームズの頭の中では、どうしてもある構図が浮かんでしまう。
—— アランを守ろうとして暴走するシリウス。
——それを見抜き、追い詰めるレギュラス。
——その板挟みになって、騎士団とブラック家が最悪の形でぶつかり合う未来。
その一番最悪な線だけは、何としても避けたい。
「お願いだから」
ジェームズは静かに言った。
「自分のことを置き去りにして、突っ走らないでくれ、シリウス」
リーマスも、言葉は重ねず、ただ深く頷いた。
シリウスは、しばらく黙って二人の顔を見比べていた。
やがて、諦めたように肩を落とす。
「……分かったよ」
短く、それだけを言う。
「気は抜かねぇ。
レギュラスに、好き勝手されるつもりもねぇ。
それでも俺は、あの屋敷に行くけどな」
「だろうね」
ジェームズは苦笑した。
「君のそういうところも、全部ひっくるめて心配なんだ」
部屋の隅で、古ぼけた肖像画が小さく鼻を鳴らした。
まるで「愚かな若者たちだ」と呟いたかのような表情だった。
ジェームズは立ち上がり、地図を畳む。
「……君が無茶をするなら」
肩越しに振り返りながら言う。
「僕も、リーマスも、一緒に無茶に付き合う覚悟くらいはある。
その代わり、レギュラス・ブラックにだけは、後ろから撃たれるなよ」
「言われなくても」
シリウスは、ようやくニヤリと笑った。
「俺が撃たれるとしたら、真正面からだ」
その言葉に、ジェームズとリーマスは顔を見合わせる。
どちらも、笑うしかなかった。
その夜、寝室には、場違いな存在感を放つ「塊」がひとつあった。
レギュラスとアランのベッドから少し離れた、窓際のテーブルとソファの一角。
そこに、シリウス・ブラックが大の字になって眠り込んでいる。
「ちょっと休憩だ」と言って横になったのは、つい先ほどだったはずだ。
ブランデーを垂らした紅茶を数杯。
普段あまり酒を飲まないのだろう、すぐに頬が赤くなり、そのままソファに沈み込むように寝息を立て始めた。
その寝息が、ものの数分で、豪快なイビキに変わった。
「……迷惑な人ですね、本当に」
ベッドの端に腰掛けたレギュラスは、わずかに眉をひそめる。
アランは特に嫌な顔もせず、静かに杖を取った。
そっと立ち上がり、シリウスの方へ歩いていく。
寝姿はだらしないが、靴は脱いでいるし、ローブも半分だけ脱ぎかけて止まっている。
長い手足がソファから少しはみ出し、床に届きそうになっていた。
アランは慎重にその足元を避けながら、棚の上から薄手のブランケットを取る。
眠り込んでいるシリウスの上に、ふわりと掛けた。
かけられた本人はまったく気づく様子もない。
イビキは相変わらず部屋の空気を震わせている。
レギュラスは、その音が余計に神経を逆撫でしているのを自覚していた。
杖を持ち直し、軽く振る。
無言の呪文が放たれ、寝室全体に柔らかな膜のようなものが広がる。
次の瞬間、シリウスの豪快なイビキは、ぴたりと消えた。
「ようやく静かになりました」
アランが、ほっとしたように息をつく。
杖を動かし、空中に文字を浮かべた。
《私たちも 寝ましょう レギュラス》
レギュラスはベッドに視線を戻す。
整えられたシーツと、アランのために少しだけ高くしてある枕。
ここ数週間、病み上がりや騒がしい日々のせいで、二人でゆっくり横になる時間はほとんどなかった。
「そうですね」
声は穏やかだが、その奥に微かに熱が混じる。
レギュラスはアランの手を取った。
細い指先は、少し冷たい。
何度も握り慣れた感触なのに、今日はやけに新鮮に感じられた。
ベッドに並んで入る——のではなく、レギュラスは、そのままアランをそっと押し倒すようにして、上から覆い被さった。
翡翠の瞳が、驚きに揺れる。
声はない。
けれど、その揺れだけで、アランの戸惑いと、かすかな緊張がはっきり伝わってきた。
レギュラスはその瞳を真っ直ぐに見つめ、迷いなく唇を重ねる。
軽い触れ合いではなかった。
ただ確かめるだけの挨拶のような口づけではなく、長く、深く、互いの呼吸をゆっくりと絡め取っていくような熱を宿したものだった。
アランの指が、レギュラスの腕をぎゅっと掴む。
引きとめるというより、問いかけるような強さ。
——シリウスが起きたら。
言葉にすることもできない抗議が、その手の感触ににじむ。
レギュラスは、肩越しにソファの方へ一瞥を投げた。
ブランケットに半分顔を埋めたシリウスは、まったく動く気配がない。
酒と疲労が混ざり合った、深い眠りだ。
イビキの音さえ消し去ってある。
「起きませんよ」
掠れた声で囁き、レギュラスはアランの額に短く口づけた。
それでもアランの指先は、しばらく彼の腕を掴んだままだった。
戸惑いと、羞恥と、わずかな恐れ。
それらをすべて抱えたまま、それでもレギュラスだけを見つめている瞳。
レギュラスは、その視線ごと抱き締めるように、アランを引き寄せた。
夫婦として、こうして重なり合える時間は、いつからこんなに貴重なものになってしまったのだろう。
酔い潰れて、そのまま風邪をこじらせた数日。
寝室で天井を見つめながら、アランの手を引くこともままならなかった日々。
ようやく回復してみれば、今度はシリウスが屋敷に入り浸り、談話室にも寝室の前にも絶えず気配がある。
夫婦だけの時間は、目に見えて削られていった。
埋め合わせたい、とレギュラスは思った。
ただ欠けた分を継ぎ足すのではなく、足りなかったものを一気に取り戻すように、今この瞬間に全てを注ぎ込みたい。
アランの髪が、シーツの上に広がる。
指の間を滑るその感触が、なぜかいつもより強く胸に残る。
同じ空間の欠片の中に、シリウス・ブラックが眠っている。
それは、本来なら徹底的に避けたい状況だった。
だがレギュラスの中では、別の感情がゆっくりと膨らんでいく。
——喉から手が出るほど欲しがったであろう女を、自分は今、この腕の中に抱いている。
しかも、その男が同じ部屋の片隅で眠っている状態で。
倒錯した優越感が、静かに満ちていく。
声に出すことも、表情に浮かべることもない。
けれど確かに、胸の内側で熱を帯びて広がっていく。
シリウスがアランに向けたあの真っ直ぐな視線。
屋敷に通い、枕元に座り続けた年月。
あの男は決して手に入れることのなかった「場所」に今、自分はいる。
それを意識した瞬間、抑え込んできた何かの蓋が外れた。
アランの肩に添えた手に、自然と力がこもる。
触れるたびに、長く重なった年月が手のひらに伝わる。
ただ奪うのではなく、ただ所有するのでもなく——
この女をここまで守り、傷つけ、同時に支えてきたのは、自分だけだという実感が、熱とともに全身を駆け巡った。
アランは、抵抗するように掴んでいた指の力を、いつしか少しずつ緩めていく。
呼吸は乱れ、翡翠の瞳は揺れている。
けれど、その視線の行き先はレギュラスだけだった。
シリウスの気配は、もうまるで存在しないかのように遠のいていた。
音も、視界も、意識の端からも切り離される。
この夜この瞬間、寝室という狭い世界の中で、レギュラスは静かに確信していた。
——どれほど外側の世界が揺らごうとも。
——どれほど騎士団がアランを「鍵」として狙おうとも。
——どれほどシリウス・ブラックが彼女を想い続けようとも。
妻として、母として、このベッドの上で自分を見上げているのは、紛れもなくアラン・ブラックという一人の女だ。
その事実だけが、レギュラスの歪んだ誇りを、甘く、危うい形で満たしていく。
やがて、寝室には二つの呼吸だけが残った。
ソファの上で眠る男の気配は、消音の呪文の向こう側に押しやられたまま、遠い影となって沈んでいる。
その夜、久しぶりに、レギュラスとアランは夫婦として互いの存在を確かめ合った。
レギュラスの胸の奥では、満たされぬ渇きと、満たされてしまった優越感とが、絡み合いながら静かに燃え続けていた。
アランは、窓の外の空がまだ薄い藍色を抱いているうちに目を覚ました。
寝室には、薄く朝の冷気が入り込んでいる。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋全体を柔らかい灰色に染めていた。
隣では、レギュラスが穏やかな寝息を立てている。
寝返りを打った拍子だろうか、寝間着の襟元が少しだけ乱れ、鎖骨のあたりが覗いていた。
視線をそっとずらす。
ソファには、ブランケットを蹴飛ばしかけたシリウスが、まだ深く眠っていた。
片腕を頭の下に差し入れ、もう片方の腕は床に落ちそうになっている。口は半開きで、かすかな寝息が漏れている。
アランは、心臓が小さく跳ねるのを感じた。
昨夜のことが、皮膚の内側に残っている。
レギュラスの重み、熱、唇。
ほんの少し動くだけで、それらの感覚がまざまざと蘇りそうで、彼女はそっと呼吸を整えた。
——シリウスに、痕跡は見せたくない。
そう思った。
彼への申し訳なさと、女としての恥ずかしさと、そしてごく当たり前の常識として。
同じ空間で眠った男の目に、夫婦の痕跡を晒すことだけは避けたかった。
アランはそっとベッドから身を起こした。
きしむ音ひとつ立てないように気を配りながら、裸足を冷たい床に下ろす。
まずはレギュラスからだった。
杖を手に取り、小さく一振りする。
乱れていた寝間着の襟元が、すっと元の位置に戻る。
腰のあたりでずれていた布地も正され、普段通りのきちんとした姿に整う。
布の皺も、指先でさっとなぞるような動きに合わせて消えていった。
次に、自分自身に目を向ける。
ナイトローブの裾をそっと摘み、たくし上がったままの部分がないか確かめる。
腰紐がほどけかけていないか、胸元が不自然に乱れていないか、一つひとつ確認していく。
袖口を正し、肩のあたりの皺を伸ばし、淡い布地の乱れを整える。
最後に、髪。
鏡を覗き込む代わりに、指先でそっと自分の髪を撫でた。
ところどころ寝癖のように跳ねている部分に、静かに杖を滑らせる。
魔法の気配が淡く走り、長い黒髪はいつものように柔らかく肩に落ちる形へと戻っていった。
ベッドへ視線を戻す。
シーツには、昨夜の動きを物語るような皺がまだ残っている。
あまりに完璧に整えてしまえばかえって不自然だ。
アランは、シーツの上に手を這わせながら、角度と深さを選ぶようにして皺を整える。
全てを消してしまうのではなく、ただ「眠っていただけ」に見える程度に。
レギュラスの枕の位置を僅かに直し、自分の側の布団も肩まできちんとかけ直す。
改めて部屋全体を見渡した。
ベッドの上。
ソファで眠るシリウス。
テーブルの上には、昨夜飲まれたブランデー入りの紅茶のカップが二つ、乾きかけた香りを残している。
アランは、シリウスの方へ歩み寄った。
ブランケットが半分ほど床に落ちかけている。
彼女はそれを拾い上げ、肩から胸にかかるよう丁寧に掛け直した。
シリウスの顔は、眠っているときだけ、少年のように無防備だ。
長い睫毛の影、少し開いた口元。その姿に、かすかな胸の痛みがよぎる。
ここで長く見つめすぎてはいけないと、アランは自分に言い聞かせる。
彼の肩にそっと手を置き、軽く揺らした。
「……ん」
シリウスが眉をひそめ、ぼんやりと目を開ける。
焦点の定まらない灰色の瞳が、まずアランを捉えた。
「…… アラン?」
喉の奥でかすれた声が漏れる。
アランは、杖を握り直し、空中に文字を描いた。
《おはよう ございます》
《シリウス》
《朝まで 眠っていました》
彼は一瞬、きょとんとした顔をしてから、状況を思い出したように頭を掻いた。
「……悪い。朝まで寝ちまった」
アランは、首を横に振って微笑み、続けて文字を綴る。
《疲れていたのでしょう》
《いつも ありがとう》
杖先から生まれた光の文字が、彼の目の前で静かに浮かんでは消える。
シリウスは、少しだけ視線を伏せた。
謝罪と照れと、それから割り切れない何かが入り混じった表情が、ほんの一瞬、顔に影を落とす。
「……礼を言われるほど、大したことしてねぇよ」
そうぼやきながらも、その声色にはどこか救われたような響きがあった。
アランは、ふとベッドの方へ視線を移した。
レギュラスは、まだ眠ったままだ。
乱れのない寝間着。
整ったシーツ。
普段通りの、静かな寝顔。
シリウスも、その方向にちらりと目をやる。
「……起こすか」
軽く息を吐き、テーブルの上に転がっていた丸めた羊皮紙をひょいと掴んだ。
指先でそれを軽く握り、狙いを定める。
アランは、少しだけ目を見開く。
止めようと手を伸ばしかけたが、その動きはわずかに遅かった。
「起きやがれ」
短い言葉とともに、丸めた羊皮紙が放物線を描き、レギュラスの胸元にぽすりと命中する。
布越しの鈍い感触に、レギュラスの眉がぴくりと動いた。
次の瞬間、睫毛が震え、灰色の瞳がゆっくりと開く。
寝起きの視界の中で、最初に飛び込んできたのは、ソファのそばで伸びをしているシリウスの姿だった。
「……最悪の目覚め方ですね」
低く不機嫌な声が漏れる。
上体を起こし、胸元に落ちた羊皮紙を指先でつまみ上げる。
それがただのメモ用紙であると確認すると、レギュラスはひとつ大きく息を吐いた。
「ノックもしない男が、今度は投擲で起こすとは……」
ぼやきながらも、視線はすぐにアランを探す。
ベッドの端に立つ彼女は、すでに身なりを整え終えていた。
翡翠の瞳が、安堵と少しの気遣いを滲ませてこちらを見つめている。
レギュラスは、その視線を受け止めるように、わずかに顔を緩めた。
シリウスの存在も、投げつけられた羊皮紙も、
その一瞬だけは、背景へと押しやられていく。
朝の食卓には、珍しく柔らかな空気が流れていた。
大きな窓から差し込む朝の光が、白いクロスの上をすべっていく。
銀の食器と磨かれたカトラリーが、きちんと並べられている。
湯気を立てる紅茶のポット、焼き上がったパンの香り、ハーブの混じったスープの匂い——いつも通りのブラック家の朝の風景だった。
ただ、レギュラスの胸の内だけが、いつもとは違っていた。
昨夜、ようやく取り戻した時間があった。
アランと二人、邪魔の入らない場所で、夫婦として互いの存在を確かめ合ったひととき。
その余熱が、まだ身体のどこかに残っている。
満たされたものが、あまりに幸福だったせいだろう。
今朝のレギュラスは、自分でも驚くほど心の表面がなだらかだった。
普段なら、食卓にシリウス・ブラックの姿を認めただけで、胃のあたりがきりきりと軋み出す。
ところが今日は——視界の端に兄の銀髪が映っても、胸の底にいつものような鋭い苛立ちが立ち上がってこない。
気づけば、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
テーブルの反対側で、シリウスがトーストを齧りながら、口いっぱいにものを詰めたまま喋っている。
「……ふあ、レギュラス。おめえ今日はよく喋るな」
レギュラスはナイフとフォークを持つ手を止めず、紅茶を一口含んでから視線だけを上げた。
その目は相変わらず冷ややかだが、いつもよりほんの少しだけ角が丸い。
「あなたが質問をしてくるからです」
淡々と返す。
今朝は、珍しくいくつか問われた。
関所近辺のマグルの動き、法務部内の風向き、東洋の術師についての資料の所在。
いつもなら、必要最低限もぎりぎりまで削って答えるところを、今日は素直に簡潔な情報を返していた。
シリウスは、ぽかんとした表情でレギュラスを見つめる。
「いや、答えねぇときはいつも答えねぇだろ、お前」
議論になるときなど、兄の投げる問いを、意図的に無視することが何度もあった。
そう言われれば確かにその通りで、レギュラスはパンの端を切りながら静かに息を吐く。
「機嫌がいいので」
さらりと言ってしまってから、自分でもその言葉の軽さにわずかに驚いた。
シリウスが、あからさまに眉をひそめる。
「……何それ。気味が悪ぃな」
真正面から「気味が悪い」などと言われる筋合いはない。
しかし、今日はそれさえも火種にはならなかった。
レギュラスは肩をすくめる代わりに、ナイフの先で皿の端を軽く叩く。
何か皮肉の一つも口にしてやろうと思えば出来たが、不思議とその必要性を感じない。
テーブルの端では、アランが静かにナプキンを畳んでいる。
すでに食事を終えたのか、紅茶のカップを両手で包み、二人の会話のやり取りを静かに見ていた。
翡翠の瞳に、どこか安堵したような光が揺れている。
その光を認めただけで、レギュラスの中の苛立ちの芽は、柔らかく踏み潰されていく。
かつてなら、兄が家の食卓に腰を落ち着けているという事実だけで、「侵入者」のように感じていた。
家族の場所を侵されているような感覚が、喉元を締めつけていた。
だが今朝は違う。
昨夜、誰の目にも触れぬところで、アランは確かに自分だけを見ていた。
声を持たない妻が、震える指先で縋ってきたのは、他でもない自分の肩と胸元だった。
その記憶が、静かな自信となって胸の奥に沈んでいる。
シリウスがカップを空け、遠慮のない音でテーブルに戻した。
「……で?」
不満げな顔でじっとにらんでくる。
「お前、本当に機嫌いいのかよ。なんか裏で首でも飛ばす算段つけたときの顔してねぇか?」
「そんな時まで、機嫌がよく見えるようなら問題ですね」
レギュラスは、淡く笑いさえした。
シリウスの言う「裏で首を飛ばす算段をつけた顔」がどういう表情なのか、自分では見たことがない。
兄の視線には、まだ警戒と猜疑が混じっている。
それでも、今朝のレギュラスの内側には、棘がそれほど尖っていなかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。
アランが少し首をかしげて、杖を手に取った。
《パン 足りませんか》
空中に浮かぶ文字は、レギュラスの皿の端をふわりと示す。
彼は首を横に振った。
「いえ、十分です。ありがとうございます」
短く礼を言うと、アランは嬉しそうに目を細めた。
そのささやかなやり取りを、シリウスはじっと観察している。
何か言いたげに口を開きかけて——結局、バターナイフを握り直して黙り込んだ。
いつもなら、その視線さえ苛立ちの燃料になったはずだ。
「気に障りますか?」
向けられている視線の意味を分かった上で、レギュラスはあえて問いかける。
シリウスは鼻を鳴らした。
「いや……“機嫌がいいレギュラスってのが、一番気味悪いだけだ」
「それは光栄ですね」
返しながら、紅茶をもう一口。
舌に残る苦みが、妙に心地よい。
シリウスの顔は、相変わらず「納得ならねぇ」と書いてある。
だが、その表情さえ今朝のレギュラスには、決定的な刺激にはならなかった。
昨夜、アランが自分から手を伸ばしてきたこと。
シャワーのあと、扉の前で待っていてくれたこと。
風邪で声を失った自分の傍らに座り、静かに手のひらに文字を書き続けてくれたこと。
ひとつひとつの光景が、心の中で柔らかく積み重なっている。
それらが、兄の軽口や不躾な視線を、すべて鈍いものへと変えてしまっていた。
テーブルの下で、アランの足先が、そっとレギュラスの足に触れる。
偶然かもしれない。
けれど、レギュラスはその感触を、確かに意識した。
——遠慮なく苛立っていた日々より、今の方がいい。
そんな結論だけは、静かに胸の奥で固まりつつあった。
食卓に、いつも通りの食器の音が続いている。
シリウスの笑い声も、ぶっきらぼうな物言いも、その全てが今朝は少し遠くに聞こえた。
暖炉にはいつも通り火が入れられ、炎は穏やかに揺れている。
しかし、レギュラスの神経を落ち着かせるはずのその揺らめきは、今日は逆に苛立ちを増幅させるだけだった。
原因は、暖炉の前のテーブルに陣取っている男だった。
シリウス・ブラック。
片肘をつき、羊皮紙を広げ、何本もの羽根ペンを好き勝手に散らかしている。
インク壺の蓋は半ば開きっぱなし、横には飲みかけのマグカップ。
真剣な顔で封印の構造図らしきものを睨んでいるその姿だけ切り取れば、確かにアランのために動いていると言えなくもない。
だからこそ、追い出すこともできない。
それが、レギュラスにとって一番腹立たしいところだった。
ソファにはアランが座っていた。
薄いショールを羽織り、膝の上には読みかけの本。
だが視線はほとんどページを追ってはいない。
暖炉の火と、書類の山に埋もれたシリウスと、それからレギュラスの様子を、静かに行き来している。
本来なら、この時間は違う形をしていたはずだ。
仕事を終えたレギュラスが屋敷に戻り、父として最低限の顔を子どもたちに見せたあと——
夜更け前のこのひとときだけは、アランと二人きりで談話室か寝室で肩を並べて過ごす。
何をするでもなく、紅茶を飲みながら書類を片付けたり、アランが杖で綴る文字を追ったり。
たまに、何気なく指先を絡めるだけの時間。
それが、ここ最近は目に見えて減っていた。
原因はやはり、テーブルに根を張ったように居座る兄だった。
シリウスの存在が、この空間の温度を大きく変えている。
別に、見せつけるような真似をしたいわけではない。
だが、だからといって自分の家で、自分の妻との時間を遠慮して我慢するつもりもなかった。
けれど、事実として——
シリウスがそこにいるだけで、できる行動も、口にする言葉も狭められていく。
それが、たまらなくストレスだった。
「……レギュラス」
アランが小さく首をかしげた。
彼の視線がいつもより尖っていることに気づいたのだろう。
杖を取り、空中にさらさらと文字を書く。
《お疲れさまです》
《喉は もう 平気ですか》
レギュラスは、微かに笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、だいぶ楽になりました。気遣いに感謝します、アラン」
その声を聞きつけたのか、シリウスが顔を上げた。
「おう、お前、顔色戻ってきたじゃねぇか」
言いながら、勝手にレギュラスのマグにポットから紅茶を注ぐ。
「ほら、飲め。薬臭いポーションばっかじゃ気が滅入るだろ」
ありがた迷惑という言葉の見本のような動きだったが、
アランが嬉しそうに目を細めるのが見えたので、レギュラスは反論を飲み込んだ。
「……どうも」
短く礼を言ってカップを受け取る。
ソファに腰を下ろすと、アランの肩がほんの少しだけ寄ってきた。
翡翠色の瞳が横から覗き込むように彼を見上げる。
その仕草に、いつもの癖で、レギュラスの手が自然と伸びた。
指先が、アランの頬に触れる寸前で止まる。
細く整えられた眉尻、睫毛の影、頬のわずかな温度。
その先にある柔らかな唇に、軽く触れて、ただ今日も生きていてくれてありがとうと伝えるはずだった。
しかし、視界の端でシリウスが大きく伸びをした。
「っと……くそ、腰いてぇ。座りっぱなしは性に合わねぇな」
椅子が軋む音。
羊皮紙を掴んで立ち上がる気配。
瞬間、レギュラスの手は、頬に触れる前に空中で固まった。
指先にかすかな震えが走る。
アランが、不思議そうにその手を見る。
視線で問いかけるように、杖をまた持ち直した。
《どうか しましたか》
レギュラスは、ほんの一瞬だけ目を閉じ、それから仕草を変えた。
頬に向かっていた手を、そのままアランの肩に回す。
少しだけ強く、守るように引き寄せた。
「いえ。少し、寒いかと思いまして」
言い訳にもならない言葉だった。
暖炉の火は十分に部屋を温めている。
アランは、それでも小さく頷いて彼の胸元に身を預ける。
ソファの端で、二人の影がひとつに重なる。
その背後で、シリウスが羊皮紙をひらひらさせながら歩き回っていた。
「なぁ、レギュラス。ここの記述なんだけどよ」
レギュラスは振り向かない。
肩越しにちらりと視線だけ投げた。
「何です?」
「アランの封印と、セシール家の血筋との結びつきの強さについて——」
そこから先は、半ば聞き流しになった。
アランの髪が、レギュラスの顎に触れている。
ショール越しに伝わる、身体の細かな温度。
このまま指先で頬をなぞり、額に口づけるだけで、彼女の緊張は少し解けるはずだった。
けれど、暖炉の炎の向こうには、兄の銀髪が揺れている。
その視線が、ここに向く可能性がある限り——
レギュラスの手は、決定的な軌道に乗ることができない。
「聞いてるか?」
シリウスの声が飛んできた。
「聞いていますよ」
短く返すと、アランが彼の胸元で笑った気配がした。
声を持たない笑いは、喉ではなく肩と背中の揺れで伝わる。
そのささやかな変化ひとつひとつが、レギュラスの苛立ちを、別の痛みに変えていく。
目の前にいる。
触れてもいいはずの妻がいる。
自分の屋敷で、自分の談話室で、自分が選んだ時間のはずなのに——
兄の存在ひとつで、当たり前の仕草がすべて「配慮」と「遠慮」に変換されていく。
レギュラスは、カップの縁に指をかけ、静かに紅茶を一口含んだ。
味は悪くない。
シリウスが適当に淹れたものにしては、むしろ香りも悪くない。
だから余計に腹が立つ。
「おい、レギュラス」
また呼ばれる。
「この魂の分離ってやつ、本当にやろうと思えばできるのか?
お前の目から見て、どうだ」
「……可能性については、検討する価値があるでしょうね」
事務的に答える。
アランの体温だけが、腕の中で揺れていた。
癖になっている親密さに、自らブレーキをかけ続ける夜が増えた。
それは、仕事の疲労とも、喉の痛みとも違う種類の消耗を、じわじわと積み重ねていく。
暖炉の炎がぱちぱちと音を立てる。
窓の外はすでに真っ暗だ。
レギュラスは、アランの肩を抱く腕に、静かに力を込めた。
そのわずかな強さに、アランがこちらを見上げる。
翡翠色の瞳が、何も言わずに問いかけてきた。
レギュラスはほんの少しだけ視線を落とし、囁くように言う。
「……後で、二人きりになれる時間を作りましょう」
アランは頷いた。
声はない。
けれど、その微笑みだけで、彼女もまた同じ窮屈さを感じているのだと分かった。
暖炉の火がまたひとつ弾ける。
シリウスの笑い声と、羽根ペンの走る音と、その間に押し込められた沈黙。
今夜の談話室は、ひどく窮屈で、ひどく狭かった。
その夜の本部は、外気よりわずかに暖かいだけだった。
古い屋敷の一室。
かつて誰かが使っていたであろう客間は、今や騎士団の一時的な詰所になっている。
壁には色あせた肖像画が掛けられ、誰のものかも分からない先祖らしき人物が、時折不機嫌そうにこちらを見てはため息をついた。
丸いテーブルの上には、空きかけのバタービールの瓶が三本。
その横に、雑に積まれた作戦書と、使い込まれた地図。
地図の端には「関所」「魔法省」「ブラック家屋敷」と乱暴な字で書き込まれたメモが広がっている。
シリウスは背もたれにだらしなく寄りかかり、椅子を前後に揺らしていた。
足元で椅子の脚が軋み、そのたびに床板が悲鳴を上げる。
向かいには、リーマスが静かに腰掛けている。
手元のマグを両手で包み込むように持ち、時折中身を一口啜る。
隣ではジェームズが腕を組んでおり、その視線は地図でも酒瓶でもなく、シリウスの横顔に注がれていた。
リーマスが、ようやく口を開いた。
「……大丈夫なのかい?」
声は柔らかく、だが真剣だった。
シリウスは椅子の揺れを止めないまま、片目だけ開けてリーマスを見やる。
「何がだよ、ムーニー」
「全部だよ」
リーマスは曖昧な言い方で返した。
はぐらかす余地を残しつつも、逃さないようにする言い方だった。
「最近の君の行動も、行き先も、それから——あの屋敷のことも」
ジェームズが、そこで口を挟む。
「ブラック家の屋敷に、だよ」
彼の声には、静かな苛立ちが混じっていた。
誰に対する苛立ちなのか——シリウスにも、リーマスにも、自分自身にも向かっているような、複雑な色だった。
「……また行っていたんだね、シリウス」
リーマスが、確認するように問う。
シリウスは肩をすくめた。
「ああ。行ってた」
それだけで終わらせるつもりはないというように、少しだけ前のめりになる。
「一応、目指すものは一緒だからな」
「目指すもの?」
ジェームズが言葉を繰り返す。
「ヴォルデモートを倒すこと——それに付随する、ホークラックスをどうにかすること。
そういう意味では、確かに目指すところは共有しているんだろうね」
「だったら問題ねぇだろ」
シリウスは軽く笑う。
「レギュラスも、俺も、やろうとしてることは同じだ。
あいつのやり方が気に食わねぇのは前からだが、今はアランを生かす方法を一緒に探してるだけだ」
軽く、というには無理のある笑顔だった。
目の奥の疲労が隠しきれていない。
ジェームズは腕を組んだまま、その表情をじっと見つめ続ける。
「……確かに、そうなんだろうとは思うよ」
低く言った。
「けど、だからって、あのレギュラス・ブラックが、だ」
名前を口にするだけで、喉の奥にざらついた感覚が残る。
「真っ向から対立してきた君を、そう簡単に受け入れると思うかい?」
「受け入れたわけじゃねぇよ」
シリウスは、あっさりと言い切った。
「俺が勝手に上がり込んで、勝手に居座って、勝手にアランの封印の書類漁ってるだけだ」
「それを許している時点で、僕には十分すぎるほど異常なんだが」
ジェームズの声は乾いていた。
「思想の対局側にいる組織の一員だよ、シリウス。
法務部長官で、元デスイーターで、マグル孤児院の件も含めて、僕らと徹底的にやり合ってきた相手だ」
椅子の背もたれが、きしりと鳴る。
シリウスはわざとらしく天井を仰いだ。
「あいつは俺を信用してねぇよ。そこは安心しろ」
「安心できる要素はどこにもないね」
リーマスが苦笑する。
シリウスは笑い返さなかった。
沈黙が少し続いたあと、リーマスが再び口を開く。
「僕らは……心配してるんだよ、シリウス」
「何をだよ」
「君が、アランのためって理由で、いつの間にか自分を削りすぎていないかってことを」
リーマスの視線には、冗談の影が一切なかった。
「ブラック家に出入りすること自体が、レギュラスの監視下に自分を置くってことだ。
彼がどんな男か、君が一番知ってるはずだろう?」
シリウスの指先が、テーブルの縁をとんとん、と叩く。
「……分かってる」
短く答える。
「だからなおさら、目を離したくねぇんだ」
その言葉の意味を、ジェームズは痛いほどよく理解していた。
アラン・ブラック。
ホークラックスを封印する器として生かされ、
セシール家の血を持つがゆえに、ヴォルデモートの真の死を阻んでしまっている女。
そして——
自分たち騎士団が二度にわたって、その命を奪おうと試みた女。
ジェームズは、指先で地図の端をぎゅっと押さえた。
「あの屋敷に、君が長くいること自体が、僕には危うく見えるんだ」
言葉を選びながら続ける。
「君はアランを愛している。
それは、今さらどうこう言うつもりはないよ。
でも、その想いが暴走しそうになったとき——」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
シリウスの視線が、ちらりとジェームズに向く。
「僕の想像ではね」
ジェームズは、あえて正面から言葉を置いた。
「その瞬間を、レギュラス・ブラックは見逃さない」
シリウスの顎が、わずかに引き締まる。
「……どういう意味だ、それは」
「君が、アランへの想いを爆発させるようなことがあれば」
ジェームズの声には、責める響きではなく、冷静な分析だけがあった。
「それをきっかけに、レギュラスは君をどこまでも追い詰めるだろうと思う。
騎士団との対立を、個人的な感情ごと、きれいに整理してしまえる」
「おい、待て。俺をそんな簡単な駒みたいに——」
「レギュラス・ブラックにとって君は、兄という感情だけじゃなく、敵陣営の駒でもあるんだ」
ジェームズは、視線を逸らさずに続ける。
「君のアランへの想いを利用すれば、騎士団に不協和音を生ませることもできる。
君を失脚させることも、僕らの決定に揺さぶりをかけることもできる。
彼はそういう計算を、当たり前にやってくる男だよ」
その光景が、ジェームズの頭にはありありと思い浮かんでいた。
——屋敷に通い続けるシリウス。
—— アランの枕元で、彼女の手を握りしめる姿。
——その背後で、静かに見ているレギュラス。
そのうちどこかのタイミングで、感情は必ず溢れる。
アランを殺すという話が再燃したときかもしれない。
セシール家の封印をどうするかという議論の場かもしれない。
その瞬間、やり場のない怒りと愛情を抱えて、シリウスは叫ぶだろう。
騎士団を責め、ジェームズを責め、リーマスを責めるかもしれない。
そのすべてを、レギュラス・ブラックは冷静に見ている。
自分の望む形へ、少しずつ誘導していく。
シリウスは、そんなジェームズの想像の中の光景を知らないまま、舌打ちした。
「……俺をそんな簡単に操れると思ってるなら、アイツも大した勘違いだ」
「操る、なんて安っぽいやり方はしないさ」
ジェームズの声には、薄い皮肉が混じる。
「彼は状況を整えるだけでいい。
君が勝手に動いてくれるような状況に」
リーマスが、そこでジェームズの腕にそっと目をやった。
「ジェームズ」
「分かってる」
短く答え、ジェームズはバタービールを一口飲んだ。
喉を通るぬるい液体の味は、あまりしなかった。
「僕は……君を責めたいわけじゃない、シリウス」
言葉のトーンが、わずかに柔らかくなる。
「ただ、相手がレギュラス・ブラックである以上、共闘しているから大丈夫という話にはならないと思っている」
リーマスも小さく頷いた。
「彼が、アランのために動く君を見て、何を思うか。
そこを、君もちゃんと考えておいた方がいいと思うんだ」
シリウスは、空になった瓶を指先で転がした。
瓶の口がテーブルをカツンと鳴らす。
「……あいつが何を考えてようが、知ったこっちゃねぇよ」
それは半分以上、本当の気持ちだった。
「俺がやってんのは、アランを生かすための方法を探すことだけだ。
レギュラスがそれを利用しようとするなら、してみりゃいい。
その前に俺が、アランを連れて逃がしてやる」
ジェームズは、深く息を吸った。
「それが一番……レギュラスが警戒している未来だと思うよ」
「だろうな」
シリウスは笑った。
短く、無茶な冗談でも口にしたかのような笑い方だった。
「だからこそ、あいつは俺を屋敷から追い出さねぇ。
見える位置に置いといて、手足を縛ってるつもりなんだろ」
そう言われると、ジェームズの頭の中でレギュラスの横顔が浮かんだ。
いつも通り、冷静で、感情の色をほとんど表に出さない顔だ。
「……気を抜くなよ、シリウス」
ジェームズは、ようやく本音を言葉にした。
「相手はレギュラス・ブラックだ。
僕らがあの法律は狂っている。あの関所は異常だと言っている間に、世論を自分の側に引き寄せる男だ。
君一人くらい、どうとでも料理できると思っているだろう」
シリウスの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「お前、本当に心配性だな、ジェームズ」
「君が無茶をするせいで、こんなに心配しなきゃいけないんだ」
珍しく、ジェームズは食い気味に返した。
「僕にとって君は、ただの騎士団の一員じゃない。だから、君が何かに巻き込まれて傷つくのは、見たくないんだ」
その言葉は、シリウスの胸に真っ直ぐ刺さった。
リーマスが、小さく笑った。
「ほら、だから言っただろ。全部だって」
「全部?」
シリウスが眉をひそめる。
「君の行動だけじゃなくて、心も、だよ」
リーマスは真面目な顔に戻った。
「アランのことも、騎士団のことも、レギュラスのことも。
君は全部を抱えて、全部に責任を持とうとする。
そういうところを、僕らは一番心配してる」
シリウスは、言い返す言葉を探した。
けれど、口を開いても、気の利いた冗談も、乱暴な否定も出てこなかった。
ジェームズの頭の中では、どうしてもある構図が浮かんでしまう。
—— アランを守ろうとして暴走するシリウス。
——それを見抜き、追い詰めるレギュラス。
——その板挟みになって、騎士団とブラック家が最悪の形でぶつかり合う未来。
その一番最悪な線だけは、何としても避けたい。
「お願いだから」
ジェームズは静かに言った。
「自分のことを置き去りにして、突っ走らないでくれ、シリウス」
リーマスも、言葉は重ねず、ただ深く頷いた。
シリウスは、しばらく黙って二人の顔を見比べていた。
やがて、諦めたように肩を落とす。
「……分かったよ」
短く、それだけを言う。
「気は抜かねぇ。
レギュラスに、好き勝手されるつもりもねぇ。
それでも俺は、あの屋敷に行くけどな」
「だろうね」
ジェームズは苦笑した。
「君のそういうところも、全部ひっくるめて心配なんだ」
部屋の隅で、古ぼけた肖像画が小さく鼻を鳴らした。
まるで「愚かな若者たちだ」と呟いたかのような表情だった。
ジェームズは立ち上がり、地図を畳む。
「……君が無茶をするなら」
肩越しに振り返りながら言う。
「僕も、リーマスも、一緒に無茶に付き合う覚悟くらいはある。
その代わり、レギュラス・ブラックにだけは、後ろから撃たれるなよ」
「言われなくても」
シリウスは、ようやくニヤリと笑った。
「俺が撃たれるとしたら、真正面からだ」
その言葉に、ジェームズとリーマスは顔を見合わせる。
どちらも、笑うしかなかった。
その夜、寝室には、場違いな存在感を放つ「塊」がひとつあった。
レギュラスとアランのベッドから少し離れた、窓際のテーブルとソファの一角。
そこに、シリウス・ブラックが大の字になって眠り込んでいる。
「ちょっと休憩だ」と言って横になったのは、つい先ほどだったはずだ。
ブランデーを垂らした紅茶を数杯。
普段あまり酒を飲まないのだろう、すぐに頬が赤くなり、そのままソファに沈み込むように寝息を立て始めた。
その寝息が、ものの数分で、豪快なイビキに変わった。
「……迷惑な人ですね、本当に」
ベッドの端に腰掛けたレギュラスは、わずかに眉をひそめる。
アランは特に嫌な顔もせず、静かに杖を取った。
そっと立ち上がり、シリウスの方へ歩いていく。
寝姿はだらしないが、靴は脱いでいるし、ローブも半分だけ脱ぎかけて止まっている。
長い手足がソファから少しはみ出し、床に届きそうになっていた。
アランは慎重にその足元を避けながら、棚の上から薄手のブランケットを取る。
眠り込んでいるシリウスの上に、ふわりと掛けた。
かけられた本人はまったく気づく様子もない。
イビキは相変わらず部屋の空気を震わせている。
レギュラスは、その音が余計に神経を逆撫でしているのを自覚していた。
杖を持ち直し、軽く振る。
無言の呪文が放たれ、寝室全体に柔らかな膜のようなものが広がる。
次の瞬間、シリウスの豪快なイビキは、ぴたりと消えた。
「ようやく静かになりました」
アランが、ほっとしたように息をつく。
杖を動かし、空中に文字を浮かべた。
《私たちも 寝ましょう レギュラス》
レギュラスはベッドに視線を戻す。
整えられたシーツと、アランのために少しだけ高くしてある枕。
ここ数週間、病み上がりや騒がしい日々のせいで、二人でゆっくり横になる時間はほとんどなかった。
「そうですね」
声は穏やかだが、その奥に微かに熱が混じる。
レギュラスはアランの手を取った。
細い指先は、少し冷たい。
何度も握り慣れた感触なのに、今日はやけに新鮮に感じられた。
ベッドに並んで入る——のではなく、レギュラスは、そのままアランをそっと押し倒すようにして、上から覆い被さった。
翡翠の瞳が、驚きに揺れる。
声はない。
けれど、その揺れだけで、アランの戸惑いと、かすかな緊張がはっきり伝わってきた。
レギュラスはその瞳を真っ直ぐに見つめ、迷いなく唇を重ねる。
軽い触れ合いではなかった。
ただ確かめるだけの挨拶のような口づけではなく、長く、深く、互いの呼吸をゆっくりと絡め取っていくような熱を宿したものだった。
アランの指が、レギュラスの腕をぎゅっと掴む。
引きとめるというより、問いかけるような強さ。
——シリウスが起きたら。
言葉にすることもできない抗議が、その手の感触ににじむ。
レギュラスは、肩越しにソファの方へ一瞥を投げた。
ブランケットに半分顔を埋めたシリウスは、まったく動く気配がない。
酒と疲労が混ざり合った、深い眠りだ。
イビキの音さえ消し去ってある。
「起きませんよ」
掠れた声で囁き、レギュラスはアランの額に短く口づけた。
それでもアランの指先は、しばらく彼の腕を掴んだままだった。
戸惑いと、羞恥と、わずかな恐れ。
それらをすべて抱えたまま、それでもレギュラスだけを見つめている瞳。
レギュラスは、その視線ごと抱き締めるように、アランを引き寄せた。
夫婦として、こうして重なり合える時間は、いつからこんなに貴重なものになってしまったのだろう。
酔い潰れて、そのまま風邪をこじらせた数日。
寝室で天井を見つめながら、アランの手を引くこともままならなかった日々。
ようやく回復してみれば、今度はシリウスが屋敷に入り浸り、談話室にも寝室の前にも絶えず気配がある。
夫婦だけの時間は、目に見えて削られていった。
埋め合わせたい、とレギュラスは思った。
ただ欠けた分を継ぎ足すのではなく、足りなかったものを一気に取り戻すように、今この瞬間に全てを注ぎ込みたい。
アランの髪が、シーツの上に広がる。
指の間を滑るその感触が、なぜかいつもより強く胸に残る。
同じ空間の欠片の中に、シリウス・ブラックが眠っている。
それは、本来なら徹底的に避けたい状況だった。
だがレギュラスの中では、別の感情がゆっくりと膨らんでいく。
——喉から手が出るほど欲しがったであろう女を、自分は今、この腕の中に抱いている。
しかも、その男が同じ部屋の片隅で眠っている状態で。
倒錯した優越感が、静かに満ちていく。
声に出すことも、表情に浮かべることもない。
けれど確かに、胸の内側で熱を帯びて広がっていく。
シリウスがアランに向けたあの真っ直ぐな視線。
屋敷に通い、枕元に座り続けた年月。
あの男は決して手に入れることのなかった「場所」に今、自分はいる。
それを意識した瞬間、抑え込んできた何かの蓋が外れた。
アランの肩に添えた手に、自然と力がこもる。
触れるたびに、長く重なった年月が手のひらに伝わる。
ただ奪うのではなく、ただ所有するのでもなく——
この女をここまで守り、傷つけ、同時に支えてきたのは、自分だけだという実感が、熱とともに全身を駆け巡った。
アランは、抵抗するように掴んでいた指の力を、いつしか少しずつ緩めていく。
呼吸は乱れ、翡翠の瞳は揺れている。
けれど、その視線の行き先はレギュラスだけだった。
シリウスの気配は、もうまるで存在しないかのように遠のいていた。
音も、視界も、意識の端からも切り離される。
この夜この瞬間、寝室という狭い世界の中で、レギュラスは静かに確信していた。
——どれほど外側の世界が揺らごうとも。
——どれほど騎士団がアランを「鍵」として狙おうとも。
——どれほどシリウス・ブラックが彼女を想い続けようとも。
妻として、母として、このベッドの上で自分を見上げているのは、紛れもなくアラン・ブラックという一人の女だ。
その事実だけが、レギュラスの歪んだ誇りを、甘く、危うい形で満たしていく。
やがて、寝室には二つの呼吸だけが残った。
ソファの上で眠る男の気配は、消音の呪文の向こう側に押しやられたまま、遠い影となって沈んでいる。
その夜、久しぶりに、レギュラスとアランは夫婦として互いの存在を確かめ合った。
レギュラスの胸の奥では、満たされぬ渇きと、満たされてしまった優越感とが、絡み合いながら静かに燃え続けていた。
アランは、窓の外の空がまだ薄い藍色を抱いているうちに目を覚ました。
寝室には、薄く朝の冷気が入り込んでいる。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋全体を柔らかい灰色に染めていた。
隣では、レギュラスが穏やかな寝息を立てている。
寝返りを打った拍子だろうか、寝間着の襟元が少しだけ乱れ、鎖骨のあたりが覗いていた。
視線をそっとずらす。
ソファには、ブランケットを蹴飛ばしかけたシリウスが、まだ深く眠っていた。
片腕を頭の下に差し入れ、もう片方の腕は床に落ちそうになっている。口は半開きで、かすかな寝息が漏れている。
アランは、心臓が小さく跳ねるのを感じた。
昨夜のことが、皮膚の内側に残っている。
レギュラスの重み、熱、唇。
ほんの少し動くだけで、それらの感覚がまざまざと蘇りそうで、彼女はそっと呼吸を整えた。
——シリウスに、痕跡は見せたくない。
そう思った。
彼への申し訳なさと、女としての恥ずかしさと、そしてごく当たり前の常識として。
同じ空間で眠った男の目に、夫婦の痕跡を晒すことだけは避けたかった。
アランはそっとベッドから身を起こした。
きしむ音ひとつ立てないように気を配りながら、裸足を冷たい床に下ろす。
まずはレギュラスからだった。
杖を手に取り、小さく一振りする。
乱れていた寝間着の襟元が、すっと元の位置に戻る。
腰のあたりでずれていた布地も正され、普段通りのきちんとした姿に整う。
布の皺も、指先でさっとなぞるような動きに合わせて消えていった。
次に、自分自身に目を向ける。
ナイトローブの裾をそっと摘み、たくし上がったままの部分がないか確かめる。
腰紐がほどけかけていないか、胸元が不自然に乱れていないか、一つひとつ確認していく。
袖口を正し、肩のあたりの皺を伸ばし、淡い布地の乱れを整える。
最後に、髪。
鏡を覗き込む代わりに、指先でそっと自分の髪を撫でた。
ところどころ寝癖のように跳ねている部分に、静かに杖を滑らせる。
魔法の気配が淡く走り、長い黒髪はいつものように柔らかく肩に落ちる形へと戻っていった。
ベッドへ視線を戻す。
シーツには、昨夜の動きを物語るような皺がまだ残っている。
あまりに完璧に整えてしまえばかえって不自然だ。
アランは、シーツの上に手を這わせながら、角度と深さを選ぶようにして皺を整える。
全てを消してしまうのではなく、ただ「眠っていただけ」に見える程度に。
レギュラスの枕の位置を僅かに直し、自分の側の布団も肩まできちんとかけ直す。
改めて部屋全体を見渡した。
ベッドの上。
ソファで眠るシリウス。
テーブルの上には、昨夜飲まれたブランデー入りの紅茶のカップが二つ、乾きかけた香りを残している。
アランは、シリウスの方へ歩み寄った。
ブランケットが半分ほど床に落ちかけている。
彼女はそれを拾い上げ、肩から胸にかかるよう丁寧に掛け直した。
シリウスの顔は、眠っているときだけ、少年のように無防備だ。
長い睫毛の影、少し開いた口元。その姿に、かすかな胸の痛みがよぎる。
ここで長く見つめすぎてはいけないと、アランは自分に言い聞かせる。
彼の肩にそっと手を置き、軽く揺らした。
「……ん」
シリウスが眉をひそめ、ぼんやりと目を開ける。
焦点の定まらない灰色の瞳が、まずアランを捉えた。
「…… アラン?」
喉の奥でかすれた声が漏れる。
アランは、杖を握り直し、空中に文字を描いた。
《おはよう ございます》
《シリウス》
《朝まで 眠っていました》
彼は一瞬、きょとんとした顔をしてから、状況を思い出したように頭を掻いた。
「……悪い。朝まで寝ちまった」
アランは、首を横に振って微笑み、続けて文字を綴る。
《疲れていたのでしょう》
《いつも ありがとう》
杖先から生まれた光の文字が、彼の目の前で静かに浮かんでは消える。
シリウスは、少しだけ視線を伏せた。
謝罪と照れと、それから割り切れない何かが入り混じった表情が、ほんの一瞬、顔に影を落とす。
「……礼を言われるほど、大したことしてねぇよ」
そうぼやきながらも、その声色にはどこか救われたような響きがあった。
アランは、ふとベッドの方へ視線を移した。
レギュラスは、まだ眠ったままだ。
乱れのない寝間着。
整ったシーツ。
普段通りの、静かな寝顔。
シリウスも、その方向にちらりと目をやる。
「……起こすか」
軽く息を吐き、テーブルの上に転がっていた丸めた羊皮紙をひょいと掴んだ。
指先でそれを軽く握り、狙いを定める。
アランは、少しだけ目を見開く。
止めようと手を伸ばしかけたが、その動きはわずかに遅かった。
「起きやがれ」
短い言葉とともに、丸めた羊皮紙が放物線を描き、レギュラスの胸元にぽすりと命中する。
布越しの鈍い感触に、レギュラスの眉がぴくりと動いた。
次の瞬間、睫毛が震え、灰色の瞳がゆっくりと開く。
寝起きの視界の中で、最初に飛び込んできたのは、ソファのそばで伸びをしているシリウスの姿だった。
「……最悪の目覚め方ですね」
低く不機嫌な声が漏れる。
上体を起こし、胸元に落ちた羊皮紙を指先でつまみ上げる。
それがただのメモ用紙であると確認すると、レギュラスはひとつ大きく息を吐いた。
「ノックもしない男が、今度は投擲で起こすとは……」
ぼやきながらも、視線はすぐにアランを探す。
ベッドの端に立つ彼女は、すでに身なりを整え終えていた。
翡翠の瞳が、安堵と少しの気遣いを滲ませてこちらを見つめている。
レギュラスは、その視線を受け止めるように、わずかに顔を緩めた。
シリウスの存在も、投げつけられた羊皮紙も、
その一瞬だけは、背景へと押しやられていく。
朝の食卓には、珍しく柔らかな空気が流れていた。
大きな窓から差し込む朝の光が、白いクロスの上をすべっていく。
銀の食器と磨かれたカトラリーが、きちんと並べられている。
湯気を立てる紅茶のポット、焼き上がったパンの香り、ハーブの混じったスープの匂い——いつも通りのブラック家の朝の風景だった。
ただ、レギュラスの胸の内だけが、いつもとは違っていた。
昨夜、ようやく取り戻した時間があった。
アランと二人、邪魔の入らない場所で、夫婦として互いの存在を確かめ合ったひととき。
その余熱が、まだ身体のどこかに残っている。
満たされたものが、あまりに幸福だったせいだろう。
今朝のレギュラスは、自分でも驚くほど心の表面がなだらかだった。
普段なら、食卓にシリウス・ブラックの姿を認めただけで、胃のあたりがきりきりと軋み出す。
ところが今日は——視界の端に兄の銀髪が映っても、胸の底にいつものような鋭い苛立ちが立ち上がってこない。
気づけば、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
テーブルの反対側で、シリウスがトーストを齧りながら、口いっぱいにものを詰めたまま喋っている。
「……ふあ、レギュラス。おめえ今日はよく喋るな」
レギュラスはナイフとフォークを持つ手を止めず、紅茶を一口含んでから視線だけを上げた。
その目は相変わらず冷ややかだが、いつもよりほんの少しだけ角が丸い。
「あなたが質問をしてくるからです」
淡々と返す。
今朝は、珍しくいくつか問われた。
関所近辺のマグルの動き、法務部内の風向き、東洋の術師についての資料の所在。
いつもなら、必要最低限もぎりぎりまで削って答えるところを、今日は素直に簡潔な情報を返していた。
シリウスは、ぽかんとした表情でレギュラスを見つめる。
「いや、答えねぇときはいつも答えねぇだろ、お前」
議論になるときなど、兄の投げる問いを、意図的に無視することが何度もあった。
そう言われれば確かにその通りで、レギュラスはパンの端を切りながら静かに息を吐く。
「機嫌がいいので」
さらりと言ってしまってから、自分でもその言葉の軽さにわずかに驚いた。
シリウスが、あからさまに眉をひそめる。
「……何それ。気味が悪ぃな」
真正面から「気味が悪い」などと言われる筋合いはない。
しかし、今日はそれさえも火種にはならなかった。
レギュラスは肩をすくめる代わりに、ナイフの先で皿の端を軽く叩く。
何か皮肉の一つも口にしてやろうと思えば出来たが、不思議とその必要性を感じない。
テーブルの端では、アランが静かにナプキンを畳んでいる。
すでに食事を終えたのか、紅茶のカップを両手で包み、二人の会話のやり取りを静かに見ていた。
翡翠の瞳に、どこか安堵したような光が揺れている。
その光を認めただけで、レギュラスの中の苛立ちの芽は、柔らかく踏み潰されていく。
かつてなら、兄が家の食卓に腰を落ち着けているという事実だけで、「侵入者」のように感じていた。
家族の場所を侵されているような感覚が、喉元を締めつけていた。
だが今朝は違う。
昨夜、誰の目にも触れぬところで、アランは確かに自分だけを見ていた。
声を持たない妻が、震える指先で縋ってきたのは、他でもない自分の肩と胸元だった。
その記憶が、静かな自信となって胸の奥に沈んでいる。
シリウスがカップを空け、遠慮のない音でテーブルに戻した。
「……で?」
不満げな顔でじっとにらんでくる。
「お前、本当に機嫌いいのかよ。なんか裏で首でも飛ばす算段つけたときの顔してねぇか?」
「そんな時まで、機嫌がよく見えるようなら問題ですね」
レギュラスは、淡く笑いさえした。
シリウスの言う「裏で首を飛ばす算段をつけた顔」がどういう表情なのか、自分では見たことがない。
兄の視線には、まだ警戒と猜疑が混じっている。
それでも、今朝のレギュラスの内側には、棘がそれほど尖っていなかった。
「…… アラン」
名前を呼ぶ。
アランが少し首をかしげて、杖を手に取った。
《パン 足りませんか》
空中に浮かぶ文字は、レギュラスの皿の端をふわりと示す。
彼は首を横に振った。
「いえ、十分です。ありがとうございます」
短く礼を言うと、アランは嬉しそうに目を細めた。
そのささやかなやり取りを、シリウスはじっと観察している。
何か言いたげに口を開きかけて——結局、バターナイフを握り直して黙り込んだ。
いつもなら、その視線さえ苛立ちの燃料になったはずだ。
「気に障りますか?」
向けられている視線の意味を分かった上で、レギュラスはあえて問いかける。
シリウスは鼻を鳴らした。
「いや……“機嫌がいいレギュラスってのが、一番気味悪いだけだ」
「それは光栄ですね」
返しながら、紅茶をもう一口。
舌に残る苦みが、妙に心地よい。
シリウスの顔は、相変わらず「納得ならねぇ」と書いてある。
だが、その表情さえ今朝のレギュラスには、決定的な刺激にはならなかった。
昨夜、アランが自分から手を伸ばしてきたこと。
シャワーのあと、扉の前で待っていてくれたこと。
風邪で声を失った自分の傍らに座り、静かに手のひらに文字を書き続けてくれたこと。
ひとつひとつの光景が、心の中で柔らかく積み重なっている。
それらが、兄の軽口や不躾な視線を、すべて鈍いものへと変えてしまっていた。
テーブルの下で、アランの足先が、そっとレギュラスの足に触れる。
偶然かもしれない。
けれど、レギュラスはその感触を、確かに意識した。
——遠慮なく苛立っていた日々より、今の方がいい。
そんな結論だけは、静かに胸の奥で固まりつつあった。
食卓に、いつも通りの食器の音が続いている。
シリウスの笑い声も、ぶっきらぼうな物言いも、その全てが今朝は少し遠くに聞こえた。
