4章
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法務部の扉を閉めた時点で、レギュラスの中ではすでに一日が終わっていた。
関所周辺のデモの報告書。
マグル人権団体からの抗議文。
狼人間食殺許可法に関する、これまた過激な意見書の束。
それらをひとつひとつ「決定」に落とし込んでいく作業は、喉の痛みよりもよほど消耗した。
病み上がりの身体に、決裁印を押す音だけがやけに響いている気がした。
今日は、さすがに静かな場所で夕食をとりたい。
そう思いながら、転移の呪文で屋敷の玄関ホールに姿を現した。
冷えた石床の感触が足裏に伝わる。
見慣れた天井、見慣れた階段、見慣れた廊下。
この屋敷の空気を吸い込んだ瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
だが——
談話室の扉を開けた瞬間、そのわずかな安堵は音を立てて崩れ去った。
「……」
数日前に「一旦帰る」と言い残して出ていったはずの男が、そこにいた。
シリウス・ブラック。
テーブル一面に羊皮紙を広げ、開きっぱなしの本を何冊も積み上げ、
その合間に、食べ終えた皿や飲みかけの紅茶とコーヒーのカップ、破いた包み紙まで散乱させている。
もともと重厚で落ち着いたはずの談話室が、
今は一人の男の「思いつき」と「食欲」と「集中力の欠如」によって、見事なまでの混沌を体現していた。
目障りで、耳障りで、存在そのものがうるさい——そう表現してもまだ足りない。
「よぉ、早えな」
シリウスが顔を上げた。
手に持っていた羊皮紙をひらひらとさせながら、いつもの調子で笑う。
その軽さが、仕事帰りの神経には致命的だった。
喉の具合を言い訳に、何か言ってやりたいその衝動をぎりぎりで飲み込む。
レギュラスが黙って立っていると、隣のソファからアランが立ち上がった。
レギュラスの姿に気づいた翡翠色の瞳が、ぱっと柔らかく細められる。
彼女は杖を取り出し、空中にさらさらと文字を描いた。
《おかえりなさい》
その一文だけで、胸の奥のささくれ立った部分が少し和らいでいくのを感じる。
アランは続けて、テーブルの惨状に視線を落とし、申し訳なさそうに杖を動かした。
《すみません 散らかっていますね》
「いえ」
レギュラスはかすれた声で首を振った。
「あなたが謝ることではありません。
メイラに片付けをお願いしましょう。——今日は、二階で食事をとります」
本来なら一階のこの談話室で夕食をとるのが、家族の日常だった。
だが、今目の前に広がっているのは、「食卓」というより「被害現場」に近い。
こんな散乱しまくった場所で食事をする気には到底なれなかった。
「すまねぇな、ほら、ここでいいぞ」
シリウスが、悪びれもせず腕を伸ばした。
テーブルの上の羊皮紙と本と包み紙と皿を、
がさっと乱暴にかき集めて横へ押しやる。
空いたスペースは、わずか一人分。
その部分だけぽっかりと木目が見える状態になり、シリウスはどこか誇らしげに顎をしゃくった。
「ほら、ここ。
これでテーブルってことでいいだろ?」
……何が“ほら”なのだろうか。
レギュラスは、内心で深く息を吸った。
「結構です」
掠れた声に、いつもより冷たい温度が混じる。
「ここで食べる気は、完全になくなりましたから」
シリウスが、露骨に眉をひそめた。
「こまけぇやつだな、本当に」
「そうでしょうか」
レギュラスは視線をテーブルの上に滑らせた。
羊皮紙には、術師候補の名前や、封印の構造に関するメモが乱雑に書き殴られている。
インク壺は蓋が半ば開きかけのまま置かれ、紙コップの縁にはコーヒーの染み。
皿の上には、かじりかけのパンの欠片まで残っていた。
「僕には、これは食事をする場所には見えません」
喉が痛むせいで、いつもより言葉は少なかった。
しかし、その一言だけで、充分に意味は伝わる。
アランが、気まずそうに二人の顔を見比べた。
杖を動かし、空中にそっと文字を書く。
《レギュラス 上で 食べましょう》
《シリウス ここで 続けて ください》
そのバランス感覚は、いかにもアランらしいものだった。
レギュラスの神経をこれ以上逆撫でしたくはない。
けれど、シリウスの「必死の作業」をここで邪魔したくもない。
シリウスは、それをちらりと見て、肩をすくめる。
「ほらな。
アランだってここでいいって言ってくれてんだぞ」
「あなたはここで続けなさいと言っているだけですよ」
レギュラスは即答した。
喉が掠れていても、皮肉の切れ味は鈍らない。
「……勝手に僕の談話室を研究室と食堂とごみ溜めにするのは、ほどほどにしてください」
「ごみ溜めは言いすぎだろ」
シリウスが抗議する。
「ちゃんと、アランの封印をどうにかするための紙なんだからよ」
「それと食べかけのパンと包み紙に、どんな関連性があるのか説明していただけるなら、考えます」
シリウスは一瞬口を開きかけ——言葉が見つからず口を閉じた。
アランの視線が、そっとレギュラスの横顔をなぞる。
少しだけ眉間に皺が寄っている。
仕事の疲れと、目の前の散らかり具合と、シリウスという存在と。
その全てが、彼の神経を削っているのが手に取るように分かった。
アランは、杖を動かした。
《メイラを 呼びます》
《ここは 片付けてもらいましょう》
レギュラスは、ひとつ息を吐いて頷く。
「お願いします。
メイラには後で感謝しておかなければなりませんね」
皮肉の中に、ほんの少しだけ柔らかさが混じったのを、アランは見逃さなかった。
彼女は軽く礼をして部屋を出ていく。
シリウスはその背中を目で追いながら、わざとらしく大きなため息をついた。
「お前さ」
「何ですか」
即座に返したレギュラスの声は、低く冷たい。
「……もう少し、力抜いてもいいんじゃねぇの」
シリウスは、散らかったテーブルを顎で指す。
「世界も、関所も、法も、全部お前が背負い込む必要はねぇだろ。
せめて、このテーブルくらい散らかっても死なねぇって思えよ」
レギュラスは、ゆっくりと彼を見た。
「……散らかったテーブルで死にはしないでしょうが、気分は悪くなります」
「気分の問題かよ」
「ええ。
気分の悪さは、判断を鈍らせますからね」
それは、半分は本気で、半分はただの言い返しだった。
だが、シリウスはその言葉を聞いて、ふっと目を細めた。
「……じゃあ、こういうのはどうだ」
腕を伸ばし、テーブルの端に残った空のカップを取る。
中身を飲み干し、羊皮紙の束を少しだけ揃え直しながら、言葉を継いだ。
「俺はここで散らかしながら、アランを生かす方法を探す。
お前は二階で、ちょっとくらい肩の力抜いて飯食ってこい」
レギュラスは、返す言葉を一瞬だけ失った。
シリウスの声には、いつもの軽さと一緒に、微妙な真剣さが混じっている。
それが、余計に腹立たしい。
「……僕に命令しないでください」
最後にそうだけ告げて、レギュラスは踵を返した。
階段へ向かう途中、廊下の角でアランとメイラがこちらへ向かってくるのが見えた。
メイラはエプロン姿で、少し緊張した面持ちだ。
アランが杖で文字を書く。
《上で 一緒に 食べましょう》
翡翠色の瞳が、問いかけるように微笑んだ。
談話室の方から、紙がめくられる音と、椅子がきしむ音が聞こえる。
あの散らかったテーブルで、シリウスがまた何かを書き殴っているのだろう。
レギュラスは一拍おいてから、静かに頷いた。
「ええ。
今日は二階で食べましょう」
少なくとも今夜だけは——
散乱した羊皮紙と、食べ残しと、うるさい男の気配から少し離れた場所で、
アランと静かな食卓を囲むことを、自分に許してもいいだろうと思いながら。
シリウスが屋敷に居座ると、空気の密度が目に見えて変わる。
書斎で仕事の続きをしようにも、廊下の向こうから聞こえてくる足音やら、ドアの開閉音やら、妙に陽気な声やらが、いちいち耳に引っかかった。
寝室に戻ってアランと少しだけ休もうとしても、階下からシリウスの笑い声が響く。
どうして、彼はこうも遠慮というものを知らないのだろうか。
胸の奥で細く息を吐き、レギュラスは寝室の椅子に腰を下ろした。
アランはベッドサイドに座り、静かに彼を見つめている。
さきほどまで、レギュラスの喉に効きそうな温かいハーブティーを用意してくれていたところだった。
廊下の方で、何かが軋む音がした。
次の瞬間、寝室の扉がノックもなく開く——かと思いきや、今度はさすがにアランが事前に止めていたらしく、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。
「なぁ、アランー!」
シリウスの声だ。
レギュラスは眉をひそめながら、扉の方へ視線を向ける。
アランは小さく立ち上がり、杖を手に取って扉へ歩み寄った。
隙間をほんの少しだけ開け、外の気配を確かめる。
「ちょっとだけ、シャワー借りていいか?」
軽い調子の声が、扉の隙間からすべり込んでくる。
レギュラスのこめかみが、ぴくりと動いた。
この屋敷の浴室は、単なる水場ではない。
家族の生活の一部であり、最も無防備になる場所の一つだ。
そこに「平気な顔で入ろうとする」神経が、どうにも理解できなかった。
アランは、わずかに振り返る。
レギュラスの表情を読もうとしているのが分かった。
レギュラスは、扉の向こうのシリウスの気配を感じながら、喉の奥でもう一度ため息を飲み込んだ。
裸のまま廊下をうろつかれる光景が、頭をよぎる。
シリウスのことだ、タオル一枚で平然と歩きかねない。
その発想だけで、心底うんざりした。
アランが、静かに杖を動かす。
扉の内側にだけ見えるように、淡い光で文字が浮かび上がる。
《シリウスが シャワーを 使いたいと》
《レギュラスの バスローブで よろしいですか》
バスローブ——自分の。
喉より先に、胸の奥がずしりと重くなる。
レギュラスは、しばし黙ったままアランの字面を見つめた。
言い訳の余地が、どこにも見当たらない。
気持ちが悪い、と言いたかった。
自分の浴室、自分のバスローブ、自分の妻のいるこの階で。
兄が当然の顔で「シャワー」と口にし、その上、着るものとして真っ先に挙がるのが自分のものだという事実。
……心底、嫌だった。
だが——
だからと言って、それなら裸で歩き回ってくださいと言うわけにもいかない。
シリウスの裸を廊下で見る未来を思い浮かべた瞬間、レギュラスは静かに諦めた。
喉が痛むのも構わず、短く息を吸う。
「……仕方が、ありませんね」
掠れた声で、アランに向かって頷く。
アランは、その一瞬の逡巡と妥協をちゃんと受け取ったように見えた。
小さく会釈するように頷き、扉の方へ向き直る。
扉の隙間から、シリウスの顔がのぞいた。
「で、いいか?」
「……アランの判断に従います」
それだけ告げると、レギュラスは視線を窓の方へ逸らした。
アランは扉を少し開き、杖を動かして簡潔な文字を描く。
《レギュラスの バスローブを お使いください》
「悪いな! 助かる!」
シリウスは、あまりにもあっさりと礼を言った。
礼を言うくらいなら、そもそも遠慮してほしい――レギュラスの本音だった。
兄はその足で、廊下の向こうの浴室へと消えていく。
足音も、鼻歌混じりで妙に明るい。
扉が閉じられ、寝室に再び静寂が戻った。
だが、レギュラスの内側はまるで静かではなかった。
胸の中に渦巻く言葉が、そのまま喉を抜けて口からこぼれた。
「……ここは、もはやあなたの家ではありません」
アランが、少し驚いたように目を瞬く。
レギュラスは、視線を扉の方へ向けたまま続けた。
「帰るべき場所に、帰ってください」
声は低く、掠れていたが、はっきりしていた。
この屋敷はブラック家のものだ。
かつてシリウスにとっても「家」だった時代があったかもしれない。
だが、今、この屋敷の主はレギュラスであり、アランと子供たちが暮らす場所だ。
第二の棲家のように扱われるのは、我慢がならなかった。
当たり前のようにアランの隣に居着き、
当たり前のようにこの家の湯を使い、
当たり前のように、この家の生活の匂いの中に混ざろうとする姿が、どうしようもなく嫌だった。
やがて、浴室側の扉が開く音がした。
タオルで髪を乱暴に拭きながら、シリウスが戻ってくる。
すっかり借り慣れたようにレギュラスのバスローブを羽織り、腰の帯も結び方が雑だ。
「悪ぃ悪ぃ」
彼は笑いながら言った。
「これ片付けてから帰るからよ」
その言い方は、「今日はここまで面倒かけるが、そこまで怒るな」と軽く宥めるようでもあり、
「片付けるんだから良いだろう」と、自分を正当化しているようでもあった。
レギュラスの胸の内で、何かがきしむ。
こちらがしっかりめのトーンで「ここはお前の家ではない」と釘を刺しても、
シリウスは軽々しく受け止めて返してくる。
その噛み合わない温度差が、何より腹立たしい。
アランが、二人の間の空気を感じ取り、そっと杖を取り出した。
《シリウス》
《本当に ありがとう》
《でも 今日は レギュラスを 休ませたいのです》
文字が空中にふわりと浮かぶ。
シリウスはそれを読み、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑う。
「……分かった」
その一言には、いつもの軽薄さより、少しだけ重さがあった。
「じゃあ、本当に片付けだけやったら帰るよ」
そう言って、彼は寝室の扉のノブに手をかける。
出ていく直前、ちらりとレギュラスを振り返った。
「ここが俺の家じゃねぇってのは、もうよく分かってる」
冗談めかして言ったその裏に、ほんの僅かに滲む寂しさを、レギュラスは見なかったふりをした。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
静けさが戻ると同時に、屋敷が本来の呼吸を取り戻していくように思えた。
アランはベッドサイドに戻り、そっとレギュラスの手に触れた。
杖を持たない方の手を取り、その掌に指でなぞる。
《お疲れさまです》
《ここは レギュラスの家です》
《私たちの家です》
レギュラスは、その文字を読み終えると、喉の奥で小さく笑った。
「ええ」
掠れた声で、短く答える。
「僕と……あなたと、子供たちの家です」
そう確認することができた分だけ、
シリウス・ブラックの「軽さ」によって荒れた心は、少しだけ落ち着きを取り戻していった。
ホグワーツ特急の汽笛が遠ざかっていく頃には、ブラック家の屋敷の空はすっかり夕暮れに染まっていた。
玄関の重い扉が開き、冷えた外気と共にステラとアルタイルが姿を現す。
玄関ホールの空気は、いつも通りの静けさを湛えているはずだった。
けれど、ステラは廊下に一歩足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。
壁に立てかけられた、見覚えのある古い箒。
廊下の隅にぽんと置かれた、家のものではない黒いブーツ。
階上から響いてくる、にぎやかな笑い声。
この屋敷には似つかわしくない音色だった。
「……お帰りなさいませ、ステラお嬢様、アルタイル様」
メイラが慌てて駆け寄ってきて、荷物に手を伸ばす。
ステラはコートを預けながら、耳を澄ませた。
聞き間違えでなければ、あれは——
「シリウスの声だ」
アルタイルが先に気づき、少し嬉しそうに笑う。
「また来てるんですね」
「また?」
ステラが視線だけ弟に向ける。
アルタイルは悪びれもせず、階段の方を顎で指した。
「ここ数日、ほとんど毎日いますよ。
お父様が寝込んでたから、シリウスがいろいろ手伝ってて」
短い説明だけで十分だった。
ステラは、廊下に残されたブーツと箒をもう一度見やる。
この屋敷に染みついた、兄の匂いのような気配。
ホグワーツに上がる前、まだ子供だった頃——
父が不在の時間帯を狙ったように、よくやってきた男。
母の寝室で、黙って笑い合う光景を、扉の隙間から盗み見ていた頃の記憶が、皮膚の下からじわりと蘇る。
あれは「父のいない時間の光」だった。
それが今、父のいるこの時間に、堂々と屋敷に居座っている。
恐ろしいことだと、ステラは静かに思った。
母を奪いかねなかった男が、家族の暮らす空間に入り込んでいる——
その事実だけで、足元の床がわずかに揺れるような感覚がした。
夕食前、談話室に入ると、レギュラスがソファに腰掛けていた。
書類を閉じる手の動きが、普段より少し重い。
ステラはまっすぐ父の元へ歩み寄る。
「お父様」
呼びかける声は、いつものように冷静で、感情をほとんど滲ませない。
レギュラスが顔を上げる。
まだ本調子ではない喉のせいか、返事は短い咳払いに紛れた。
ステラは、その灰色の瞳を正面から見据える。
「不愉快ではないのですか」
レギュラスの視線がわずかに細くなる。
「……何がです?」
「シリウス・ブラックのことです」
ステラは廊下の外の気配に耳を傾けた。
食堂の方から、シリウスのはしゃいだ声と、アルタイルの笑い声が微かに聞こえる。
「この数日、屋敷に入り浸っていると聞きました。
母のために動いていることは理解しています。
けれど——不愉快ではないのですか」
沈黙が一瞬、部屋に落ちる。
レギュラスは、軽く息を吐いた。
「不愉快ですよ」
穏やかな声音のまま、ためらいなく言い切った。
「見ているだけで」
それだけで十分だった。
ステラは、ほんの少しだけ瞳を伏せる。
父も同じだ、と分かった。
この屋敷に、あの男が当たり前の顔で出入りし、
アランの隣に居座ることに、耐えている。
その事実が、かすかな安堵を呼び込む。
自分だけが取り残された幼い娘ではない。
父もまた、同じ居心地の悪さと戦っている。
「……そうですか」
それ以上は言わず、ステラはわずかに頷いた。
その夜の食卓は、いつもより騒がしかった。
長いテーブルの端に、レギュラスとアランが並び座る。
その向かいにシリウス。
少し離れた位置に、ステラとアルタイルが向かい合う形で座っている。
銀の燭台に灯された炎が、皿の縁やカトラリーをきらりと照らす。
スープの香りと、焼いた肉の匂い、バターを落とした温野菜の湯気。
その中に、シリウスの笑い声が混じると、どうしても落ち着かない調和の崩れが生まれた。
「しかしよ」
パンをちぎりながら、シリウスがステラの方に身を乗り出す。
「相変わらず、お前は美人な顔だな!」
唐突に放たれた言葉に、テーブルの空気が一瞬とまった。
「アランにそっくりだ」
ぱっと視線がアランに集まる。
アランは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく微笑んでスープに視線を戻した。
ステラはフォークを持つ手を止めない。
表情も変えない。
ただ、皿の上の肉を静かに切り分けていた。
返事はしない。
シリウスの言葉を跳ね返すように、ナイフの刃先が肉の表面を滑る。
「モテるんじゃねーのか?」
さらに追撃が飛んでくる。
「ホグワーツでもさ、言い寄ってくるやつ、山ほどいるだろ?
お前、こう見えて愛想ねぇしなぁ」
ステラはやはり口を開かない。
恋愛話など、最も聞きたくない類の話題だった。
誰かに「選ばれる」ことと「選ぶ」ことを軽々しく語り合う遊戯のような話は、
この家では一度も楽しげな結果をもたらしたことがない。
隣のアルタイルが、パンをかじりながら肩をすくめた。
「姉さんはクールですから」
弟の声には、どこか誇らしげな響きがある。
「言い寄ってくる男たちには目もくれませんよ」
ステラはちらりとアルタイルを横目で見る。
「アルタイル」
レギュラスが注意するように名を呼ぶが、アルタイルは笑って首を振った。
「だって本当じゃないですか、父さん」
そのやりとりに、シリウスは大きく頷いた。
「そうか、それもそうだな!」
笑い声がテーブルを震わせる。
「そのへんのじゃがいもみたいな男に靡くよりは、ずっといい!」
例えは粗雑だが、悪気はないのだろう。
むしろ最大限に褒めているつもりでいるのが、余計に鬱陶しい。
ステラの耳に、シリウスの笑い声が刺さる。
楽観と無防備を詰め込んだような明るさ。
打てば響くような軽さ。
何度拒絶の気配を返しても、当たり前のように笑って近づいてくる。
うるさい。
そう心の内で形容しても、顔には出さない。
ステラはひたすら食事を続ける。
ナイフとフォークの音だけが、静かに皿の上で鳴り続けた。
幼い頃——
まだ椅子に座る時に脚が宙に浮いていた頃。
シリウスが屋敷に来ると、ステラは無邪気に彼を迎えに走った。
母が笑うから。
母の翡翠の瞳が、楽しそうに細められるから。
だから、その光を共有したくて、そばにいたかった。
今は違う。
あの男がこの屋敷にいること自体が、脅威に感じられる。
母を奪う可能性があった男。
父のいない時間にだけ現れていたはずの影が、今、父のいる食卓に当然のように座っている。
その違和感と恐ろしさが、ステラの喉を無意識に締め付ける。
「ステラ」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
レギュラスが、向かい側から静かに娘を見ていた。
「食欲は、ありますか」
問いはあくまで穏やかだ。
だが、その灰色の瞳の奥には、騒がしい男に対する疲労と、
娘の心を探るような、細い気遣いが混じっていた。
「……あります、お父様」
ステラは淡々と答える。
その声を聞いたレギュラスが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
シリウスは、そんな父娘のやりとりを横目で見て、またパンをちぎった。
「なぁステラ」
まだ話すのか、とステラは内心で呆れる。
「何ですか」と言いかけて、言葉を飲む。
代わりに冷たい視線だけを向ける。
「お前が誰かと結婚するならさ」
またくだらない冗談でも言い出すのだろうと予想がつき、
ステラはナイフを持つ手にわずかに力を込めた。
「ちゃんと、そいつがお前を守るかどうかだけは、俺にも見せろよ」
思ったより、まっすぐな言葉だった。
「……勝手なことを言う」
低く、短く呟いたのは、レギュラスだった。
シリウスは肩をすくめる。
「勝手なのは分かってる。
でもな、昔から、お前のことは見てきたんだ。
アルタイルより先に、椅子から落ちそうになってたちっこい頃からな」
ステラの喉の奥で、何かがぴくりと動く。
幼い頃の記憶を、軽々しく口にしてほしくなかった。
母の寝室の扉の隙間から覗いていた自分。
ベッドサイドに座る銀の髪の男と、声を持たない母の笑み。
あの時間を「知っている」と言われるのは、酷く不快だった。
「……うるさいですね」
ステラは、ようやく言葉を口にした。
鋭さを抑え、ぎりぎり礼儀を保った声音で。
「食事の時くらい、静かにしていてください、シリウス・ブラック」
初めて名前で呼んだのかもしれない。
シリウスは一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「おう。悪ぃ」
意外なほど素直な返事だった。
それでも、次の瞬間にはまた冗談の一つでも飛ばしてくるに違いないと、テーブルの全員が予感していた。
怯まない。
砕けても砕けても、懲りずに同じ力でぶつかってくる。
ステラには、その性質が理解できない。
理解したくもない。
ただ一つだけ分かるのは——
この男が、この家の均衡を揺さぶる存在であり続けているということだった。
関所周辺のデモの報告書。
マグル人権団体からの抗議文。
狼人間食殺許可法に関する、これまた過激な意見書の束。
それらをひとつひとつ「決定」に落とし込んでいく作業は、喉の痛みよりもよほど消耗した。
病み上がりの身体に、決裁印を押す音だけがやけに響いている気がした。
今日は、さすがに静かな場所で夕食をとりたい。
そう思いながら、転移の呪文で屋敷の玄関ホールに姿を現した。
冷えた石床の感触が足裏に伝わる。
見慣れた天井、見慣れた階段、見慣れた廊下。
この屋敷の空気を吸い込んだ瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
だが——
談話室の扉を開けた瞬間、そのわずかな安堵は音を立てて崩れ去った。
「……」
数日前に「一旦帰る」と言い残して出ていったはずの男が、そこにいた。
シリウス・ブラック。
テーブル一面に羊皮紙を広げ、開きっぱなしの本を何冊も積み上げ、
その合間に、食べ終えた皿や飲みかけの紅茶とコーヒーのカップ、破いた包み紙まで散乱させている。
もともと重厚で落ち着いたはずの談話室が、
今は一人の男の「思いつき」と「食欲」と「集中力の欠如」によって、見事なまでの混沌を体現していた。
目障りで、耳障りで、存在そのものがうるさい——そう表現してもまだ足りない。
「よぉ、早えな」
シリウスが顔を上げた。
手に持っていた羊皮紙をひらひらとさせながら、いつもの調子で笑う。
その軽さが、仕事帰りの神経には致命的だった。
喉の具合を言い訳に、何か言ってやりたいその衝動をぎりぎりで飲み込む。
レギュラスが黙って立っていると、隣のソファからアランが立ち上がった。
レギュラスの姿に気づいた翡翠色の瞳が、ぱっと柔らかく細められる。
彼女は杖を取り出し、空中にさらさらと文字を描いた。
《おかえりなさい》
その一文だけで、胸の奥のささくれ立った部分が少し和らいでいくのを感じる。
アランは続けて、テーブルの惨状に視線を落とし、申し訳なさそうに杖を動かした。
《すみません 散らかっていますね》
「いえ」
レギュラスはかすれた声で首を振った。
「あなたが謝ることではありません。
メイラに片付けをお願いしましょう。——今日は、二階で食事をとります」
本来なら一階のこの談話室で夕食をとるのが、家族の日常だった。
だが、今目の前に広がっているのは、「食卓」というより「被害現場」に近い。
こんな散乱しまくった場所で食事をする気には到底なれなかった。
「すまねぇな、ほら、ここでいいぞ」
シリウスが、悪びれもせず腕を伸ばした。
テーブルの上の羊皮紙と本と包み紙と皿を、
がさっと乱暴にかき集めて横へ押しやる。
空いたスペースは、わずか一人分。
その部分だけぽっかりと木目が見える状態になり、シリウスはどこか誇らしげに顎をしゃくった。
「ほら、ここ。
これでテーブルってことでいいだろ?」
……何が“ほら”なのだろうか。
レギュラスは、内心で深く息を吸った。
「結構です」
掠れた声に、いつもより冷たい温度が混じる。
「ここで食べる気は、完全になくなりましたから」
シリウスが、露骨に眉をひそめた。
「こまけぇやつだな、本当に」
「そうでしょうか」
レギュラスは視線をテーブルの上に滑らせた。
羊皮紙には、術師候補の名前や、封印の構造に関するメモが乱雑に書き殴られている。
インク壺は蓋が半ば開きかけのまま置かれ、紙コップの縁にはコーヒーの染み。
皿の上には、かじりかけのパンの欠片まで残っていた。
「僕には、これは食事をする場所には見えません」
喉が痛むせいで、いつもより言葉は少なかった。
しかし、その一言だけで、充分に意味は伝わる。
アランが、気まずそうに二人の顔を見比べた。
杖を動かし、空中にそっと文字を書く。
《レギュラス 上で 食べましょう》
《シリウス ここで 続けて ください》
そのバランス感覚は、いかにもアランらしいものだった。
レギュラスの神経をこれ以上逆撫でしたくはない。
けれど、シリウスの「必死の作業」をここで邪魔したくもない。
シリウスは、それをちらりと見て、肩をすくめる。
「ほらな。
アランだってここでいいって言ってくれてんだぞ」
「あなたはここで続けなさいと言っているだけですよ」
レギュラスは即答した。
喉が掠れていても、皮肉の切れ味は鈍らない。
「……勝手に僕の談話室を研究室と食堂とごみ溜めにするのは、ほどほどにしてください」
「ごみ溜めは言いすぎだろ」
シリウスが抗議する。
「ちゃんと、アランの封印をどうにかするための紙なんだからよ」
「それと食べかけのパンと包み紙に、どんな関連性があるのか説明していただけるなら、考えます」
シリウスは一瞬口を開きかけ——言葉が見つからず口を閉じた。
アランの視線が、そっとレギュラスの横顔をなぞる。
少しだけ眉間に皺が寄っている。
仕事の疲れと、目の前の散らかり具合と、シリウスという存在と。
その全てが、彼の神経を削っているのが手に取るように分かった。
アランは、杖を動かした。
《メイラを 呼びます》
《ここは 片付けてもらいましょう》
レギュラスは、ひとつ息を吐いて頷く。
「お願いします。
メイラには後で感謝しておかなければなりませんね」
皮肉の中に、ほんの少しだけ柔らかさが混じったのを、アランは見逃さなかった。
彼女は軽く礼をして部屋を出ていく。
シリウスはその背中を目で追いながら、わざとらしく大きなため息をついた。
「お前さ」
「何ですか」
即座に返したレギュラスの声は、低く冷たい。
「……もう少し、力抜いてもいいんじゃねぇの」
シリウスは、散らかったテーブルを顎で指す。
「世界も、関所も、法も、全部お前が背負い込む必要はねぇだろ。
せめて、このテーブルくらい散らかっても死なねぇって思えよ」
レギュラスは、ゆっくりと彼を見た。
「……散らかったテーブルで死にはしないでしょうが、気分は悪くなります」
「気分の問題かよ」
「ええ。
気分の悪さは、判断を鈍らせますからね」
それは、半分は本気で、半分はただの言い返しだった。
だが、シリウスはその言葉を聞いて、ふっと目を細めた。
「……じゃあ、こういうのはどうだ」
腕を伸ばし、テーブルの端に残った空のカップを取る。
中身を飲み干し、羊皮紙の束を少しだけ揃え直しながら、言葉を継いだ。
「俺はここで散らかしながら、アランを生かす方法を探す。
お前は二階で、ちょっとくらい肩の力抜いて飯食ってこい」
レギュラスは、返す言葉を一瞬だけ失った。
シリウスの声には、いつもの軽さと一緒に、微妙な真剣さが混じっている。
それが、余計に腹立たしい。
「……僕に命令しないでください」
最後にそうだけ告げて、レギュラスは踵を返した。
階段へ向かう途中、廊下の角でアランとメイラがこちらへ向かってくるのが見えた。
メイラはエプロン姿で、少し緊張した面持ちだ。
アランが杖で文字を書く。
《上で 一緒に 食べましょう》
翡翠色の瞳が、問いかけるように微笑んだ。
談話室の方から、紙がめくられる音と、椅子がきしむ音が聞こえる。
あの散らかったテーブルで、シリウスがまた何かを書き殴っているのだろう。
レギュラスは一拍おいてから、静かに頷いた。
「ええ。
今日は二階で食べましょう」
少なくとも今夜だけは——
散乱した羊皮紙と、食べ残しと、うるさい男の気配から少し離れた場所で、
アランと静かな食卓を囲むことを、自分に許してもいいだろうと思いながら。
シリウスが屋敷に居座ると、空気の密度が目に見えて変わる。
書斎で仕事の続きをしようにも、廊下の向こうから聞こえてくる足音やら、ドアの開閉音やら、妙に陽気な声やらが、いちいち耳に引っかかった。
寝室に戻ってアランと少しだけ休もうとしても、階下からシリウスの笑い声が響く。
どうして、彼はこうも遠慮というものを知らないのだろうか。
胸の奥で細く息を吐き、レギュラスは寝室の椅子に腰を下ろした。
アランはベッドサイドに座り、静かに彼を見つめている。
さきほどまで、レギュラスの喉に効きそうな温かいハーブティーを用意してくれていたところだった。
廊下の方で、何かが軋む音がした。
次の瞬間、寝室の扉がノックもなく開く——かと思いきや、今度はさすがにアランが事前に止めていたらしく、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。
「なぁ、アランー!」
シリウスの声だ。
レギュラスは眉をひそめながら、扉の方へ視線を向ける。
アランは小さく立ち上がり、杖を手に取って扉へ歩み寄った。
隙間をほんの少しだけ開け、外の気配を確かめる。
「ちょっとだけ、シャワー借りていいか?」
軽い調子の声が、扉の隙間からすべり込んでくる。
レギュラスのこめかみが、ぴくりと動いた。
この屋敷の浴室は、単なる水場ではない。
家族の生活の一部であり、最も無防備になる場所の一つだ。
そこに「平気な顔で入ろうとする」神経が、どうにも理解できなかった。
アランは、わずかに振り返る。
レギュラスの表情を読もうとしているのが分かった。
レギュラスは、扉の向こうのシリウスの気配を感じながら、喉の奥でもう一度ため息を飲み込んだ。
裸のまま廊下をうろつかれる光景が、頭をよぎる。
シリウスのことだ、タオル一枚で平然と歩きかねない。
その発想だけで、心底うんざりした。
アランが、静かに杖を動かす。
扉の内側にだけ見えるように、淡い光で文字が浮かび上がる。
《シリウスが シャワーを 使いたいと》
《レギュラスの バスローブで よろしいですか》
バスローブ——自分の。
喉より先に、胸の奥がずしりと重くなる。
レギュラスは、しばし黙ったままアランの字面を見つめた。
言い訳の余地が、どこにも見当たらない。
気持ちが悪い、と言いたかった。
自分の浴室、自分のバスローブ、自分の妻のいるこの階で。
兄が当然の顔で「シャワー」と口にし、その上、着るものとして真っ先に挙がるのが自分のものだという事実。
……心底、嫌だった。
だが——
だからと言って、それなら裸で歩き回ってくださいと言うわけにもいかない。
シリウスの裸を廊下で見る未来を思い浮かべた瞬間、レギュラスは静かに諦めた。
喉が痛むのも構わず、短く息を吸う。
「……仕方が、ありませんね」
掠れた声で、アランに向かって頷く。
アランは、その一瞬の逡巡と妥協をちゃんと受け取ったように見えた。
小さく会釈するように頷き、扉の方へ向き直る。
扉の隙間から、シリウスの顔がのぞいた。
「で、いいか?」
「……アランの判断に従います」
それだけ告げると、レギュラスは視線を窓の方へ逸らした。
アランは扉を少し開き、杖を動かして簡潔な文字を描く。
《レギュラスの バスローブを お使いください》
「悪いな! 助かる!」
シリウスは、あまりにもあっさりと礼を言った。
礼を言うくらいなら、そもそも遠慮してほしい――レギュラスの本音だった。
兄はその足で、廊下の向こうの浴室へと消えていく。
足音も、鼻歌混じりで妙に明るい。
扉が閉じられ、寝室に再び静寂が戻った。
だが、レギュラスの内側はまるで静かではなかった。
胸の中に渦巻く言葉が、そのまま喉を抜けて口からこぼれた。
「……ここは、もはやあなたの家ではありません」
アランが、少し驚いたように目を瞬く。
レギュラスは、視線を扉の方へ向けたまま続けた。
「帰るべき場所に、帰ってください」
声は低く、掠れていたが、はっきりしていた。
この屋敷はブラック家のものだ。
かつてシリウスにとっても「家」だった時代があったかもしれない。
だが、今、この屋敷の主はレギュラスであり、アランと子供たちが暮らす場所だ。
第二の棲家のように扱われるのは、我慢がならなかった。
当たり前のようにアランの隣に居着き、
当たり前のようにこの家の湯を使い、
当たり前のように、この家の生活の匂いの中に混ざろうとする姿が、どうしようもなく嫌だった。
やがて、浴室側の扉が開く音がした。
タオルで髪を乱暴に拭きながら、シリウスが戻ってくる。
すっかり借り慣れたようにレギュラスのバスローブを羽織り、腰の帯も結び方が雑だ。
「悪ぃ悪ぃ」
彼は笑いながら言った。
「これ片付けてから帰るからよ」
その言い方は、「今日はここまで面倒かけるが、そこまで怒るな」と軽く宥めるようでもあり、
「片付けるんだから良いだろう」と、自分を正当化しているようでもあった。
レギュラスの胸の内で、何かがきしむ。
こちらがしっかりめのトーンで「ここはお前の家ではない」と釘を刺しても、
シリウスは軽々しく受け止めて返してくる。
その噛み合わない温度差が、何より腹立たしい。
アランが、二人の間の空気を感じ取り、そっと杖を取り出した。
《シリウス》
《本当に ありがとう》
《でも 今日は レギュラスを 休ませたいのです》
文字が空中にふわりと浮かぶ。
シリウスはそれを読み、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑う。
「……分かった」
その一言には、いつもの軽薄さより、少しだけ重さがあった。
「じゃあ、本当に片付けだけやったら帰るよ」
そう言って、彼は寝室の扉のノブに手をかける。
出ていく直前、ちらりとレギュラスを振り返った。
「ここが俺の家じゃねぇってのは、もうよく分かってる」
冗談めかして言ったその裏に、ほんの僅かに滲む寂しさを、レギュラスは見なかったふりをした。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
静けさが戻ると同時に、屋敷が本来の呼吸を取り戻していくように思えた。
アランはベッドサイドに戻り、そっとレギュラスの手に触れた。
杖を持たない方の手を取り、その掌に指でなぞる。
《お疲れさまです》
《ここは レギュラスの家です》
《私たちの家です》
レギュラスは、その文字を読み終えると、喉の奥で小さく笑った。
「ええ」
掠れた声で、短く答える。
「僕と……あなたと、子供たちの家です」
そう確認することができた分だけ、
シリウス・ブラックの「軽さ」によって荒れた心は、少しだけ落ち着きを取り戻していった。
ホグワーツ特急の汽笛が遠ざかっていく頃には、ブラック家の屋敷の空はすっかり夕暮れに染まっていた。
玄関の重い扉が開き、冷えた外気と共にステラとアルタイルが姿を現す。
玄関ホールの空気は、いつも通りの静けさを湛えているはずだった。
けれど、ステラは廊下に一歩足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。
壁に立てかけられた、見覚えのある古い箒。
廊下の隅にぽんと置かれた、家のものではない黒いブーツ。
階上から響いてくる、にぎやかな笑い声。
この屋敷には似つかわしくない音色だった。
「……お帰りなさいませ、ステラお嬢様、アルタイル様」
メイラが慌てて駆け寄ってきて、荷物に手を伸ばす。
ステラはコートを預けながら、耳を澄ませた。
聞き間違えでなければ、あれは——
「シリウスの声だ」
アルタイルが先に気づき、少し嬉しそうに笑う。
「また来てるんですね」
「また?」
ステラが視線だけ弟に向ける。
アルタイルは悪びれもせず、階段の方を顎で指した。
「ここ数日、ほとんど毎日いますよ。
お父様が寝込んでたから、シリウスがいろいろ手伝ってて」
短い説明だけで十分だった。
ステラは、廊下に残されたブーツと箒をもう一度見やる。
この屋敷に染みついた、兄の匂いのような気配。
ホグワーツに上がる前、まだ子供だった頃——
父が不在の時間帯を狙ったように、よくやってきた男。
母の寝室で、黙って笑い合う光景を、扉の隙間から盗み見ていた頃の記憶が、皮膚の下からじわりと蘇る。
あれは「父のいない時間の光」だった。
それが今、父のいるこの時間に、堂々と屋敷に居座っている。
恐ろしいことだと、ステラは静かに思った。
母を奪いかねなかった男が、家族の暮らす空間に入り込んでいる——
その事実だけで、足元の床がわずかに揺れるような感覚がした。
夕食前、談話室に入ると、レギュラスがソファに腰掛けていた。
書類を閉じる手の動きが、普段より少し重い。
ステラはまっすぐ父の元へ歩み寄る。
「お父様」
呼びかける声は、いつものように冷静で、感情をほとんど滲ませない。
レギュラスが顔を上げる。
まだ本調子ではない喉のせいか、返事は短い咳払いに紛れた。
ステラは、その灰色の瞳を正面から見据える。
「不愉快ではないのですか」
レギュラスの視線がわずかに細くなる。
「……何がです?」
「シリウス・ブラックのことです」
ステラは廊下の外の気配に耳を傾けた。
食堂の方から、シリウスのはしゃいだ声と、アルタイルの笑い声が微かに聞こえる。
「この数日、屋敷に入り浸っていると聞きました。
母のために動いていることは理解しています。
けれど——不愉快ではないのですか」
沈黙が一瞬、部屋に落ちる。
レギュラスは、軽く息を吐いた。
「不愉快ですよ」
穏やかな声音のまま、ためらいなく言い切った。
「見ているだけで」
それだけで十分だった。
ステラは、ほんの少しだけ瞳を伏せる。
父も同じだ、と分かった。
この屋敷に、あの男が当たり前の顔で出入りし、
アランの隣に居座ることに、耐えている。
その事実が、かすかな安堵を呼び込む。
自分だけが取り残された幼い娘ではない。
父もまた、同じ居心地の悪さと戦っている。
「……そうですか」
それ以上は言わず、ステラはわずかに頷いた。
その夜の食卓は、いつもより騒がしかった。
長いテーブルの端に、レギュラスとアランが並び座る。
その向かいにシリウス。
少し離れた位置に、ステラとアルタイルが向かい合う形で座っている。
銀の燭台に灯された炎が、皿の縁やカトラリーをきらりと照らす。
スープの香りと、焼いた肉の匂い、バターを落とした温野菜の湯気。
その中に、シリウスの笑い声が混じると、どうしても落ち着かない調和の崩れが生まれた。
「しかしよ」
パンをちぎりながら、シリウスがステラの方に身を乗り出す。
「相変わらず、お前は美人な顔だな!」
唐突に放たれた言葉に、テーブルの空気が一瞬とまった。
「アランにそっくりだ」
ぱっと視線がアランに集まる。
アランは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく微笑んでスープに視線を戻した。
ステラはフォークを持つ手を止めない。
表情も変えない。
ただ、皿の上の肉を静かに切り分けていた。
返事はしない。
シリウスの言葉を跳ね返すように、ナイフの刃先が肉の表面を滑る。
「モテるんじゃねーのか?」
さらに追撃が飛んでくる。
「ホグワーツでもさ、言い寄ってくるやつ、山ほどいるだろ?
お前、こう見えて愛想ねぇしなぁ」
ステラはやはり口を開かない。
恋愛話など、最も聞きたくない類の話題だった。
誰かに「選ばれる」ことと「選ぶ」ことを軽々しく語り合う遊戯のような話は、
この家では一度も楽しげな結果をもたらしたことがない。
隣のアルタイルが、パンをかじりながら肩をすくめた。
「姉さんはクールですから」
弟の声には、どこか誇らしげな響きがある。
「言い寄ってくる男たちには目もくれませんよ」
ステラはちらりとアルタイルを横目で見る。
「アルタイル」
レギュラスが注意するように名を呼ぶが、アルタイルは笑って首を振った。
「だって本当じゃないですか、父さん」
そのやりとりに、シリウスは大きく頷いた。
「そうか、それもそうだな!」
笑い声がテーブルを震わせる。
「そのへんのじゃがいもみたいな男に靡くよりは、ずっといい!」
例えは粗雑だが、悪気はないのだろう。
むしろ最大限に褒めているつもりでいるのが、余計に鬱陶しい。
ステラの耳に、シリウスの笑い声が刺さる。
楽観と無防備を詰め込んだような明るさ。
打てば響くような軽さ。
何度拒絶の気配を返しても、当たり前のように笑って近づいてくる。
うるさい。
そう心の内で形容しても、顔には出さない。
ステラはひたすら食事を続ける。
ナイフとフォークの音だけが、静かに皿の上で鳴り続けた。
幼い頃——
まだ椅子に座る時に脚が宙に浮いていた頃。
シリウスが屋敷に来ると、ステラは無邪気に彼を迎えに走った。
母が笑うから。
母の翡翠の瞳が、楽しそうに細められるから。
だから、その光を共有したくて、そばにいたかった。
今は違う。
あの男がこの屋敷にいること自体が、脅威に感じられる。
母を奪う可能性があった男。
父のいない時間にだけ現れていたはずの影が、今、父のいる食卓に当然のように座っている。
その違和感と恐ろしさが、ステラの喉を無意識に締め付ける。
「ステラ」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
レギュラスが、向かい側から静かに娘を見ていた。
「食欲は、ありますか」
問いはあくまで穏やかだ。
だが、その灰色の瞳の奥には、騒がしい男に対する疲労と、
娘の心を探るような、細い気遣いが混じっていた。
「……あります、お父様」
ステラは淡々と答える。
その声を聞いたレギュラスが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
シリウスは、そんな父娘のやりとりを横目で見て、またパンをちぎった。
「なぁステラ」
まだ話すのか、とステラは内心で呆れる。
「何ですか」と言いかけて、言葉を飲む。
代わりに冷たい視線だけを向ける。
「お前が誰かと結婚するならさ」
またくだらない冗談でも言い出すのだろうと予想がつき、
ステラはナイフを持つ手にわずかに力を込めた。
「ちゃんと、そいつがお前を守るかどうかだけは、俺にも見せろよ」
思ったより、まっすぐな言葉だった。
「……勝手なことを言う」
低く、短く呟いたのは、レギュラスだった。
シリウスは肩をすくめる。
「勝手なのは分かってる。
でもな、昔から、お前のことは見てきたんだ。
アルタイルより先に、椅子から落ちそうになってたちっこい頃からな」
ステラの喉の奥で、何かがぴくりと動く。
幼い頃の記憶を、軽々しく口にしてほしくなかった。
母の寝室の扉の隙間から覗いていた自分。
ベッドサイドに座る銀の髪の男と、声を持たない母の笑み。
あの時間を「知っている」と言われるのは、酷く不快だった。
「……うるさいですね」
ステラは、ようやく言葉を口にした。
鋭さを抑え、ぎりぎり礼儀を保った声音で。
「食事の時くらい、静かにしていてください、シリウス・ブラック」
初めて名前で呼んだのかもしれない。
シリウスは一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「おう。悪ぃ」
意外なほど素直な返事だった。
それでも、次の瞬間にはまた冗談の一つでも飛ばしてくるに違いないと、テーブルの全員が予感していた。
怯まない。
砕けても砕けても、懲りずに同じ力でぶつかってくる。
ステラには、その性質が理解できない。
理解したくもない。
ただ一つだけ分かるのは——
この男が、この家の均衡を揺さぶる存在であり続けているということだった。
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