4章
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次に目を覚ましたとき、世界はひどく静かだった。
静かすぎて、胸の奥がざわついた。
いつものように、喉を鳴らして息を整えようとして——レギュラスはそこで気づく。
「……っ」
声が、喉の奥で潰れていた。
少しでも息と一緒に音を出そうとすると、鋭い痛みが走る。
喉そのものが悲鳴をあげているような感覚だった。
乾いた布を無理やり擦り合わせたような、ざらざらとした痛み。
軽く咳払いをしようとして、それすらも断念する。
空気がこみ上げかけた瞬間に、喉が強く抗議してきて、涙が滲みそうになった。
……これは、また面倒な
心の中でだけ、自嘲気味に呟く。
頭痛と悪寒は、いくぶん引いている。
全身のだるさも、先ほどまでの鉛のような重さではない。
身体そのものは回復に向かっているのだと理解できる。
にもかかわらず——肝心な喉だけが、酷く壊れていた。
寝室の空気は暖かい。
カーテンの隙間から、柔らかな昼の光が差し込んでいる。
暖炉には新しい薪がくべられ、静かに炎を揺らしていた。
枕元に目を向ければ、アランがいた。
椅子に腰掛け、膝の上に本を開いたまま、うつむき加減に文字を追っている。
だが、その意識は本の内容よりも、ベッドの上の男に向いているのだと、レギュラスには分かった。
ページをめくる指が、一定のリズムで止まるたびに、
アランはそっと顔を上げて、レギュラスの呼吸や表情を確かめている。
それに応えようと、レギュラスは喉を震わせかけ——すぐに痛みで断念した。
アランに話しかけることもできない。
それが、こんなにも堪えるとは。
彼は枕元の自分の杖に手を伸ばした。
指先でなぞるようにそれを掴み、空中に軽く振る。
杖先から、淡い光が滲む。
空中に、ゆっくりと文字が描かれていく。
《アラン》
《喉が 痛くて 声が 出ません》
ふわりと浮かんだ文字に、アランはぱちりと瞬きをした。
一瞬きょとんとしたあと、口元にふわりと笑みを浮かべる。
杖を取り出し、アランも宙に文字を書く。
《私と 同じですね》
その一文に、レギュラスは思わず息を止めた。
アランは、生まれてからずっと声を持たなかったわけではない。
かつて地下で、その声を奪われた。
以来、ずっと「話せない」という状態を受け入れ続けてきたのだ。
今、レギュラスの喉が一時的に壊れていることを、彼女は自分と同列に並べた。
軽い冗談のつもりなのかもしれない。
けれど、その瞳には、どこか寄り添うような柔らかさが宿っていた。
レギュラスは、わずかに目を伏せる。
体のだるさは、確かにだいぶ取れている。
だが、声が出せないという不自由さは、思っていた以上に堪えた。
法務部で命令を飛ばすことも、
部下の報告に即座に返答することもできない。
娘の問いかけに、皮肉まじりの返事を返すこともできない。
そして何より——
アランの名を呼べない。
ただそれだけのことが、異様な心細さとなって胸に広がる。
そのとき、視界の端で、何かがもそりと動いた。
ベッドの反対側。
寝台の横に置かれたテーブルと、そのそばのソファ。
そこに、まだシリウス・ブラックが居座っている。
喉が健在であれば、即座に口にしていただろう言葉。
今は、痛みのせいで内心にしか放てない。
シリウスは、まったく悪びれる様子もなく、皿を前にしていた。
「わりぃな、軽く食わせてもらってる」
パンを千切りながら、気の抜けた調子で言う。
皿の横にはカップが置かれ、湯気がゆらゆらと立っている。
さらに腹立たしいことに——
そのテーブルの上には、羊皮紙が散乱していた。
封印に関する資料、術師の名前が列挙されたメモ、東方の呪術について書かれた走り書き。
それらが、無造作に広げられ、紙が丸まらないように皿で押さえられている。
「……」
レギュラスは、目を細めた。
寝室——それも、自分の寝ているベッドのすぐ脇で、
平然と食事をしながら書類を広げている男。
出て行った身分でこの屋敷を土足で踏みにじるどころか、
今や半ば「出先の仕事場」として使っているような有様だった。
「食わねぇとやってらんねぇからな」
シリウスは勝手に言い訳を付け足す。
「封印とか魂とか、聞くだけで腹減る話なんだわ」
喉が潰れていなければ、「食欲の方向性が間違っているのでは」と皮肉の一つも返せた。
だが、今はそれすら叶わない。
苛立ちと不快感が、熱でまだ敏感な神経をじくじくと刺激してくる。
ベッドの横でパンを食べる音が、小さく、やけに耳についた。
レギュラスは、深く息を吸ってから、杖を持ち上げた。
宙に、落ち着いた筆致で文字を描き出す。
《どこまで 話は 進んだんです?》
光の文字がふわりと浮かぶ。
シリウスは皿にパンを置き、ちらとそれを見た。
「リーマスに依頼してる」
羊皮紙の一枚を指で弾きながら、シリウスは答えた。
「東洋の術師を呼ぶんだ。
魂と封印を別々に扱える可能性があるって話でな。
セシールの封印を、“ アランの血”から引き剥がせるかもしれねぇ」
リーマスの字で書かれた短い説明や、何人かの術師の名前が並んだ羊皮紙が、視界の端で揺れる。
「こいつは魂そのものの操作に長けてるらしい。
こっちは器の移し替え専門。
で、こいつは……なんか霊だかなんだかと直接交渉するタイプだとよ」
指で一人ずつ名前を追いながら、シリウスは簡単に説明していく。
レギュラスは、その説明を聞きながらも、内心では冷ややかに舌を巻いていた。
彼は、そういった存在をあまり信用していなかった。
その昔——
アランが初めて身ごもったときのことを、ふと思い出す。
ヴァルブルガが、狂ったように術師を呼び集めた。
マグル界から、魔法界から、よく分からない「占い師」や「呪術師」まで。
男児が産まれるように、と祈祷させ続けていた。
黒い蝋燭を何本も灯し、奇妙な香草を焚き、
腹の上に意味の分からない石を並べ、見たこともない言葉で呟き続ける。
その異様な光景を横目で見ながら、レギュラスは心のどこかで冷めていた。
祈祷を重ね、術師たちに金を積み、
それでも結果は変わらなかった。
男児を望んでいた家族にとっては失望だったかもしれないが、
レギュラスにとっては大切な第一子だ。
術師たちが何をしようと、何を祈ろうと——
生まれてくるべき命は、生まれるべき形で生まれる。
そのときに刻まれた感覚が、今も骨の底に残っている。
術師などという曖昧の極みのような存在。
頼りすぎれば足をすくわれる。
信用しすぎれば、見えないところで何をされるか分かったものではない。
その本能的な警戒は、今もそう簡単には消えない。
だが——
アランの封印を、生きたまま剥がせる可能性があるとしたら。
その一点だけが、レギュラスの中にわずかな揺らぎを生んでいた。
アランも、ステラも、アルタイルも。
セシール家の血筋を理由に「鍵」にされることなく、生きていける道。
それを提示されて、「危険だから」という理由だけで切り捨てることが、本当に正しいのか。
シリウスが、パンを千切りながら続ける。
「お前が信用してねぇのは分かる。
俺だって、どいつもこいつも怪しい連中だと思ってる」
茶化すような口調の奥には、わずかな本音が滲んでいた。
「でもよ、何もしねぇで“仕方ねぇ”ってアランを殺すよりは、
怪しい橋でも渡る価値があると思ってる。
俺は、な」
レギュラスは黙ってその言葉を受け止めた。
喉が痛くなければ、きっと何か返していただろう。
「簡単に言う」とか、「その橋が落ちたとき、誰が責任を取るのか」とか。
だが、今は——声が出ない。
かわりに、杖が動いた。
《東洋の 術師》
《危険は どこまで 想定して いますか》
光の文字が揺れる。
シリウスはそれを見て、一瞬だけ真顔になった。
「……最悪、封印だけが壊れる」
短く、はっきりと言う。
「アランの魂じゃなくて、封印そのものが崩壊する。
そのとき、ヴォルデモートがどうなるかは分からねぇ」
レギュラスは目を閉じた。
そうだ。
それが一番の懸念だ。
「でも、それを避けるために何重にも術式を組むのが、向こうの仕事だ」
シリウスが続ける。
「リーマスは、その辺を一番に確認してる。
封印に触れる前に、“ アランの魂に何が起きるか”“ヴォルデモートの鎖にどう影響するか”——
そこを最低限コントロールできる術者じゃなきゃ、呼ばねぇよ」
羊皮紙の上に広がった文字列が、レギュラスの視界の端で揺れた。
喉の痛みと、微熱と、苛立ちと。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った頭の中で、彼は静かに思考を巡らせる。
術師は信用していない。
だが、シリウスとリーマスがそこまで動いているのもまた事実だ。
アランを救いたい——その一点においては、この男も、自分と同じ場所に立っている。
声に出せないために、思考だけが妙に饒舌になる。
ベッドの脇で紙を皿で押さえ、乱雑にパンを食べながら、それでも必死に手を動かし続ける男。
その姿は、レギュラスから見ても「行儀が悪い」の一言に尽きた。
だが同時に——
その行儀の悪さの裏側に、「諦めきれない男のしつこさ」が見えてしまうのも、また事実だった。
アランのために。
アランと、その家族のために。
どれほどみっともなく見えようと、彼はここに居座り続けている。
その事実が、レギュラスの胸の内側を、別の意味でじくじくと刺した。
喉は潰れ、声は出ない。
だが、杖は動く。
レギュラスは、静かに宙に文字を書いた。
《リーマスルーピンの 判断なら》
《一応は 信じましょう》
シリウスが、ぱちりと瞬いた。
次の瞬間、口の端が、やや意外そうに、やや嬉しそうに、ほんの少しだけ上がる。
「……へぇ。
お前の口からそれが出るとはな」
レギュラスは目を閉じた。
喉が痛くて反論できないことを、初めて少しだけ「便利だ」と思った。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
寝室の中に、奇妙な沈黙と、紙の擦れる音と、皿の小さな触れ合う音が混ざり合う。
アランが戻ってくるまでの短い時間——
レギュラスは、潰れた喉の奥で、ひっそりと息を吐きながら、
術師という曖昧な希望と、シリウスという不愉快な同士との距離を、測りかねたまま目を閉じ続けていた。
熱が少し引いたぶん、逆に身体の不快感がくっきりと浮かび上がってきた。
肌に張りつく寝間着。
首筋から背中にかけてべたつく汗。
シーツに触れるたび、乾ききらない汗が、ぬるりとした感触を残す。
……気持ちが悪い
悪寒で震えていたときは、こんなことを気にする余裕もなかった。
だが今は、熱の中心が喉に移ったせいか、その他の感覚が一斉に目を覚ましている。
じんわりと滲む汗が、首筋を伝って枕へ吸い込まれていく感覚が、どうにも耐えがたい。
アランは、いつものように椅子に座り、レギュラスの様子を見守っていた。
膝の上には、すでに読み終えたらしい本が閉じられて乗っている。
しかし、その視線は本ではなく、ベッドの上の男に注がれている。
レギュラスは、少しだけ身じろぎした。
それだけで、寝間着が肌に貼り付く。
背中の布が、ぺたりと気持ち悪い音を立てた。
その微かな動きに、アランの翡翠の瞳がすぐ反応する。
椅子から身を乗り出し、「どうしましたか」と問いかけるような目でレギュラスを見つめた。
彼は枕元に置いていた杖を手に取ると、ゆっくりと宙に動かした。
《シャワーを 浴びてきますか?》
と、アランの方から先に書いたのは、ほとんど同時だった。
レギュラスは一瞬目を瞬き——それから小さく頷いた。
やはり、彼女には見えている。
汗の不快感も、寝間着の張りつきも、そのわずかな仕草から感じ取っている。
アランは、ふっと微笑んだ。
杖をもう一度動かし、今度はゆっくりとした筆致で書く。
《少し お湯を 出しておきますね》
《立ちくらみが あるなら 呼んでください》
レギュラスは、上体を起こそうと布団から腕を抜きかけ——ふと、ある考えが頭をよぎった。
視線が、わずかに寝室の隅へ流れる。
そこには、まだシリウス・ブラックがいた。
羊皮紙と皿を散乱させたまま、椅子にふんぞり返っている。
読みかけの資料を片手に、もう片方の手にはカップを持って。
自分が浴室にいるあいだ——この部屋には、シリウスとアラン、二人だけが残るのか。
胸の奥で、ざらりとした違和感が広がった。
理屈ではない。
シリウスが何をするわけでもないことは、頭では分かっている。
アランが、自分のいない隙を狙って誰かとどうこうする女ではないことも、誰より知っている。
それでも——
この寝室に、彼女とあの男を二人きりにしておくという状況そのものが、どうしようもなく「嫌」だった。
レギュラスは、再び杖を持ち上げる。
《アラン》
《手を 貸してもらえますか》
文字が浮かび上がる。
アランは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐにふわりと表情を緩めた。
「もちろんです」と言いたげに頷き、椅子から立ち上がる。
その様子を見て、シリウスが露骨に顔をしかめた。
「自分で入りやがれ、てめぇはよ」
心底呆れたような声。
パンくずが乗った皿を指先で弾きながら、ぼそりと吐き捨てる。
レギュラスは、聞こえないふりをした。
無視する。
今この瞬間、彼にとって重要なのは、身体のだるさでも、喉の痛みでも、封印の話でもない。
——この部屋に、アランとシリウスを二人きりで残さないこと。
ただ、それだけだった。
ベッドから足を下ろすと、軽い眩暈がした。
ふらりと視界が揺れ、床が遠くなる。
すかさずアランの手が伸びてきて、彼の腕を取る。
細い指が、しかし驚くほど確かな力で、よろめく身体を支えた。
レギュラスは、アランの肩に軽く手を置いた。
そのまま、ゆっくりと立ち上がる。
足元はまだ覚束ない。
それでも、彼は一歩踏み出すたび、ほんの少しだけ姿勢を正そうとした。
今に限っては、彼女の肩に甘えることを、自分で選んでいる。
そうやって、自分の隣を「当然の位置」として確保するために。
アランは、彼の歩調に合わせて歩いた。
小さな足音が、ベッド脇の絨毯の上を静かに進んでいく。
すれ違いざま、シリウスの灰色の瞳が、二人をじっと見ていた。
何か言いたげに口が動きかけ——しかし、言葉にはならない。
代わりに、彼は視線を羊皮紙へと落とし、乱暴に一枚をめくった。
レギュラスは、敢えてそちらを見なかった。
浴室へ続く扉の前に立つと、アランが先にノブに手をかける。
きぃ、と静かな音を立てて扉が開き、湯気まじりの温かい空気が、うっすらと流れ出てくる。
どうやらすでに、彼女は湯を出しておいてくれたらしい。
浴室の奥から、かすかな水音が聞こえる。
アランは、もう片方の手で杖を取り出し、短く文字を書く。
《中で 服を 脱ぐのは 大丈夫ですか》
《必要なら また 呼んでください》
レギュラスは、軽く頷いた。
今さら、着替えまで世話を焼かせるわけにはいかない。
彼の誇りが、それだけは許さなかった。
扉の縁に手をかける前に、ふと振り返る。
ベッドとテーブルとソファのある寝室。
そこには、シリウスが一人だけ残っている——ように見える。
だが実際には、この部屋の主は、自分だ。
そして今、アランはその主と共に浴室へ向かっている。
レギュラスは、内心で小さく息を吐いた。
この部屋に二人を置き去りにしていくのではなく、
自分とアランが一緒にその場を離れる形を選べた。
たったそれだけのことが、妙な満足感をもたらす。
扉を半ばまで閉めかけたところで、後ろからシリウスの声が飛んできた。
「転ぶなよー、“法務部長官”」
軽口とも、いじりともつかない声。
レギュラスは振り返らず、そのまま扉を静かに閉じた。
浴室の中は、白い蒸気に包まれていた。
壁に反射する水音が、頭の中のざわつきを少しずつ洗い流していく。
熱で重かった身体が、湯気の中でじわりとほぐれていくのを感じながら——
レギュラスは、さきほどまでの自分の行動が、いかに子どもじみた所有欲から出たものかを自覚して、ひとり苦笑した。
それでも。
この屋敷の主であり、アランの夫である男として、
あの寝室に「アランとシリウスを二人だけ残す」という選択肢を、どうしても飲み込めなかったこと。
それだけは、熱のせいにはできないのだと思った。
レギュラスが浴室の扉の向こうへ消えていったあと、アランは寝室に戻らなかった。
扉の外、短い廊下に立ち止まり、その場で静かに息を整える。
壁には小さなランプがひとつ灯っていて、柔らかな光が石壁を淡く照らしていた。
さっきまでレギュラスの枕元で過ごしていたぬくもりが、まだ自分の掌の内側に残っている気がする。
彼が何かを言葉にしたわけではない。
けれど、ベッドから立ち上がった時の、あのささやかな拘り方。
「アラン、手を貸してもらえますか」と杖で書いた字の奥にひそむ焦り。
そして、シリウスに向けるあからさまな不機嫌。
どれもが、同じ答えを指し示していた。
——自分が浴室にいる間、自分をシリウスと同じ空間に残しておきたくない。
嫉妬、と呼べば、たぶん彼は否定するのだろう。
理屈を並べて、「不用意な二人きりは避けるべきだ」とか、「状況的に不適切だ」とか、いくらでも理由を付けるはずだ。
けれどアランは知っている。
あの時、彼が自分の肩に預けた心許なさを。
熱に浮かされた弱さとは別種の、「譲りたくない」という感情を。
だから——寝室には戻らなかった。
シリウスと二人きりにならないように、という配慮もある。
けれどそれ以上に、「レギュラスが嫌だと感じることを、あえて選ぶ必要はない」と、自然に思えた。
廊下の片隅に設えられた小さな椅子に腰掛ける。
浴室の扉の下の隙間から、ほんのりと白い湯気が漏れ出しているのが見えた。
中からは、水の音が聞こえる。
シャワーが壁に当たって流れ落ちる、高く細い音。
時折、足元で水が跳ねる鈍い音も混ざる。
その一つひとつを聞き分けるように、アランは耳を澄ませた。
レギュラスが、熱の残る身体を湯で流している光景が、自然と脳裏に浮かぶ。
首筋に当たる温かい水。
肩を撫でていく滴。
汗と熱と疲労を、少しずつ洗い流していく感覚。
喉は、まだ痛むだろう。
声を出せるようになっているかどうかも、分からない。
それでも——少しでも気持ちよく眠りにつけるように。
そのささやかな回復の時間を、邪魔したくなかった。
どれくらい時間が経った頃だろうか。
浴室の中から、シャワーの音が止む気配がした。
代わりに、布が擦れるかすかな音や、足元で水が移動する音が廊下まで届いてくる。
アランは椅子から立ち上がった。
扉の前まで歩み寄り、拳を軽く握る。
そして——コン、コン、と控えめに扉を叩いた。
爪先が木を叩く、小さな音。
返事を待つかわりに、アランは杖を取り出し、扉の板にそっと向けて動かした。
扉の表面にだけ見えるように、淡い光の線が走る。
《ここで 待っています》
声は届かない。
けれど、ノックと文字の気配で、「外にいる」ことは充分に伝わるだろう。
扉の向こうで、わずかに動きが止まった。
しばしの静寂。
やがて、扉の金具がかすかに鳴る音がした。
ノブが回され、ゆっくりと扉が開く。
白い湯気がふわりと廊下に流れ出し、その中からレギュラスが姿を現した。
濡れた髪を後ろに撫でつけ、清潔な着替えに身を包んでいる。
さっきまでの寝汗の不快さは消え、頬の赤みも、熱のせいというより血行の色に近づいていた。
「……っ」
喉が、わずかに鳴る。
言葉を紡ごうとした瞬間、その喉が痛みを訴える。
酷使した筋がまだ癒えていないことを、身体が思い知らせてくる。
それでも、レギュラスはゆっくりと息を吸った。
そして——かすれた声を、無理やり絞り出す。
「……待っていて、くれたんです?」
声はひどく掠れていた。
ところどころ、音になりきらない息が混ざる。
それでも、その一言には、はっきりとした喜びと驚きが宿っていた。
アランは、翡翠の瞳を大きく見開いたあと、こくりと頷いた。
彼の喉が痛むことは分かっている。
だから、声を出させるような返事はしない。
かわりに、杖を持っていない手をそっと伸ばし、彼の袖口を指先でつまむ。
「おかえりなさい」と言う代わりの、ささやかな仕草。
レギュラスの表情が、ふっと緩んだ。
あからさまなほど、分かりやすい笑顔だった。
普段、法務部で見せる冷静な面影とはまるで違う。
喜びを隠しきれずに綻んでしまった少年のような笑み。
その顔を見た瞬間、アランの胸に、じん、と温かいものが広がった。
……正解、だった
自分の選んだ行動が、彼の望んだものであったこと。
彼の不安を少しでも軽くできたのだと、あの笑顔が教えてくれる。
言葉で褒められたわけでも、感謝されたわけでもない。
それでも、「待っていてくれたんです?」の一言と、その笑みだけで十分だった。
アランは、杖を取り出し、空中に短く文字を描く。
《はい》
《レギュラスが 嫌がることは したく ありませんから》
本当はもっと長く書きたかった。
——シリウスと二人きりに、なりたくありませんでした。
——あなたが嫌がる顔を、見たくありませんでした。
けれど、それを全部書いてしまうのは、どこか生々しすぎる気がして。
アランは途中で文字を切った。
それでも、レギュラスはその短い文章を見て、きちんと意味を受け取ったようだった。
「……そう、ですか」
喉を労わるように、ゆっくりとした言い方で呟く。
声はまだ擦れているが、さっきよりは明らかに音が出ている。
「……温めた、おかげでしょうか。
少し……声が、出るように、なりました」
言葉を紡ぐたびに、小さく眉間に皺が寄る。
痛みはまだ残っているのだろう。
それでも、「あなたのおかげで」と言うことだけは、どうしても伝えたかったに違いない。
アランは、目を細めて微笑んだ。
唇は静かに閉じられている。
けれど、その瞳の中には、「よかった」と「無理はしないでください」の両方が、柔らかく揺れていた。
杖先がもう一度だけ動く。
《よかった》
《でも 話しすぎないで くださいね》
レギュラスは、それを読んで小さく笑った。
「……ええ。
しばらくは、あなたと同じように、静かにしていましょう」
軽い冗談のつもりだったのかもしれない。
アランは一瞬驚いたように目を瞬き、そのあと、くすりと声のない笑いをこぼす。
廊下に、二人分の息づかいだけが静かに重なった。
浴室から流れてきた湯気のぬくもりと、
レギュラスの肩から伝わる、まだ少し高い体温。
そのすべてを確かめるように、アランは彼の隣を歩き出した。
——彼が嫌がることを、あえて選ばないこと。
——彼が喜ぶ場所に、自分の立つ位置を合わせていくこと。
それが、アラン・ブラックという女の、ささやかな誓いであり、
今この瞬間、彼女が選び続けている「答え」だった。
病み上がりの身体に、魔法省の空気はやけに冷たく感じられた。
石畳の床に、革靴の音が規則正しく響く。
法務部の階層へと続く廊下は、いつも通り淡い光に満ちているのに、レギュラスにはどこか白々しく見えた。
喉の痛みは、ようやく鋭い刃物のようなものから、鈍い鈍痛へと落ち着きつつある。
声も、まだ掠れてはいるが、どうにか会話には耐えうる程度には戻ってきていた。
そう思いながらも、足を戻す気はなかった。
山積みになっているはずの決裁書類。
あの男——ジェームズ・ポッターの判断一つで揺れかねない現場。
アランの寝顔を残して出てきた以上、無駄足では済ませたくない。
隣では、バーテミウスがいつもの調子で歩調を合わせている。
「体調はどうです、レギュラス」
「仕事に復帰できる程度には、回復しましたよ」
声は掠れているが、言葉そのものはいつもと変わらない調子を保った。
それだけでも、レギュラスの中ではささやかな勝利だった。
バーテミウスは小さく頷き、手に持った書類の束を揺らす。
「しばらくの間に、騎士団側からの抗議と“意見具申”がいくつか。
まとめたものを、あとでお渡しします」
「ええ、あとで構いません。今は——」
そのときだ。
廊下の先、曲がり角の影に、人の気配があった。
マントの裾が揺れるのが、視界の端でちらりと見える。
誰なのかを判断する前に、胸の奥がざわりとした。
嫌な予感というのは、得てして的確だ。
角を曲がった先に立っていたのは、紛れもなく、その予感の正体だった。
「……やはり、あなたですか」
口にする前に、思わず舌打ちしたくなる顔だった。
ジェームズ・ポッター。
騎士団の中心に立ち、二度、アランの喉元に刃を向けた男。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
病み上がりの身体の奥で、何かがぴしりと強張る。
よりによって、復帰初日に見る顔がこれとは。
喉の奥で、乾いた笑いが生まれかけて、痛みにかき消えた。
バーテミウスが、空気を察してわずかに後ろへ下がる。
「では、僕は先に執務室に」と短く告げて、音もなく二人から距離を取った。
廊下には、レギュラスとジェームズ、二人きり。
最悪の目覚めに最悪の顔を見る朝のような、そんな心地だった。
先に口を開いたのは、ジェームズの方だった。
「……久しぶりだね、レギュラス」
騎士団の会合の場で響いていたのと同じ、よく通る声。
その声に、レギュラスはかすかに眉をひそめた。
「ええ。
妻を二度殺しかけた男に、挨拶する機会はそう頻繁にはありませんから」
掠れた声で静かに告げる。
乾いた皮肉。
それでいて、感情は過剰に乗せない。
ただ事実を述べるような口調が、かえって棘を際立たせた。
ジェームズの表情が、一瞬だけ強張る。
その瞳の奥に、後悔とも、自責ともつかない影が揺れた。
「……あの時のことは、忘れていないよ」
ジェームズは俯かずに、それでも少しだけ声を落として答えた。
「僕たちがしたことが、君たちの側から見てどう見えるかも、理解しているつもりだ」
「理解、ですか」
レギュラスは、わずかに首を傾げた。
「僕から見れば、理解などしていただかなくて結構ですよ。
あれは“騎士団の正義”に基づいた決定だったのでしょう。ならば、理解ではなく、貫けばいい」
ジェームズは眉を寄せた。
「貫けばいい結果になるような話じゃない」
短く、吐き出すように言う。
「ヴォルデモートを殺せる唯一の鍵が、アラン・ブラックだ。
セシール家の封印が続く限り、奴は完全には死なない。
でも——その封印を断ち切れば、今度はアランと、君たち家族の命が――」
そこで言葉を切る。
続きの言葉を飲み込んだのか、喉がわずかに動いた。
レギュラスは、その様子を冷ややかに見つめていた。
「今さら、その説明は不要ですね。
あなたが僕の妻をどう“評価”しているかくらい、十分に承知しています」
喉の奥が、またじくりと痛んだ。
それでも、レギュラスは目を逸らさない。
ジェームズは、少しだけ視線を上げた。
「シリウスから話を聞いたよ」
その名を出した瞬間、廊下の空気がわずかに揺れた気がした。
「君が、あいつに言ったんだろう?
“妻がジェームズ・ポッターに二度殺されかけた”って」
レギュラスは、薄く笑った。
「事実を告げただけです。
嘘を教えた覚えはありませんよ、ジェームズ・ポッター」
ジェームズは、息を吸い込む。
何かを飲み込むように、胸の奥でその息を一度止めてから、ゆっくりと吐き出した。
「シリウスは、僕を責めたよ」
それは、告白にも似た口調だった。
「どうして彼女を守らなかったのか。
どうして、愛している相手を“作戦から外す”ことで、あいつを守ろうとしたのか。
どうして僕たちが、アランを傷つける立場に立とうとしたのか」
レギュラスは、喉の奥で笑いが込み上げるのを感じた。
あの男らしい反応ですね。
口に出す代わりに、別の言葉を選ぶ。
「それで、あなたは何と答えたんです?
“世界のためだ”とでも?」
ジェームズは、即答しなかった。
長い沈黙が落ちる。
廊下を通る風が、一瞬だけ二人のマントの裾を揺らした。
「僕は——騎士団のリーダーだ」
やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「あの場で、“シリウスの恋人”としてアランの命だけを守るっていう選択は、できなかった。
ヴォルデモートを倒すために、鍵をどう扱うかを決める責任があった」
目の奥に、苦い影が滲んでいく。
「でも、だからって、君の言う通り、“貫けばいい”と胸を張れるほど、強くもない」
レギュラスは、彼の言葉を黙って聞いていた。
病み上がりのせいか、頭の中がいつもより少し鈍い。
その鈍さの中で、ジェームズの言葉が静かに沈んでいく。
「シリウスは、君を利用していると言っていたよ」
不意に、ジェームズの口からそんな言葉が零れた。
レギュラスは片眉を上げる。
「僕が?」
「……あいつは分かってる。
君が、シリウスのアランへの気持ちを煽ることで、騎士団の中に不協和音を生ませようとしているって」
ジェームズの声には、責める色だけでなく、どこか疲労が滲んでいた。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし——それからまた、まっすぐにジェームズを見た。
「あなた方が、僕の妻を“鍵”と呼び続ける限り。
僕は、使えるものはなんでも使いますよ」
掠れた声で、静かに言う。
「シリウス・ブラックの感情でも。
あなたの良心でも。
騎士団の亀裂でも」
ジェームズの瞳が、痛むように細められた。
「君は、本当に……」
そこまで言いかけて、ジェームズは言葉を切った。
「冷酷だ」と言いかけたのかもしれない。
だが、口に出せなかった。
——本当に冷酷なのはどちらか。
妻を封印の器として殺そうとした男と。
その妻を守るためなら、どんな手段でも使う男と。
明確な線は、とうに曖昧になっている。
レギュラスは、喉の奥の痛みを意識しながらも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが“世界”を背負った結果、僕の妻の喉元に杖を向けたのなら。
僕は、“妻と子供たち”を背負って、あなた方の喉元に刃を向けるだけです」
掠れた声だったが、そこには揺らぎがなかった。
ジェームズは、しばらく何も言わなかった。
ひとつ息を吐き、廊下の石畳に視線を落とす。
やがて、ゆっくりと顔を上げたとき、その瞳には先ほどまでよりも多くの影と、それでも消えない決意が混じっていた。
「……東の術師の話を聞いた」
思いがけない言葉が落ちる。
レギュラスの目が、わずかに細められた。
「シリウスとリーマスが動いている。
封印だけを、アランから剥がす方法がないかって」
ジェームズの声には、諦めと希望の中間のような色があった。
「僕は——それを完全には信じきれない。
術師なんて、曖昧で危うい存在だ。
君だって、そう思っているだろう?」
ヴァルブルガが狂ったように呼び集めた術師たちの姿が、一瞬だけ頭をよぎる。
レギュラスは何も言わなかったが、その沈黙が、ある種の肯定となって伝わる。
ジェームズは続けた。
「それでも、何もしないで“仕方なかった”と君の妻を殺すよりは——
馬鹿げてても、危うくても、橋を探す価値はあると思っている」
彼はレギュラスを真っ直ぐに見た。
「君のやり方は、僕には認めがたいところも多い。
でも、君がアランと子供たちを守ろうとしていることだけは、本物だと分かってる」
短い沈黙が落ちた。
「僕も……彼女を殺すリーダーでいるより、
彼女を救う可能性を最後まで探したリーダーでいたい」
その言葉に、レギュラスは瞼を閉じた。
喉が、またじん、と痛んだ。
それでも、今度はそこにわずかな熱も混じっている。
疲労か、苛立ちか、それとも——ほんの僅かな、安堵に似たものか。
「次に会うときは、できれば——
妻が“保留”ではなく、“生存”として扱われる報告を持ってきてください。騎士団のリーダーとして」
ジェームズは真剣な顔で頷いた。
「約束はできない。でも、目指す方向は、同じだと思っている」
「……そうであると、いいですね」
レギュラスは踵を返した。
喉はまだ痛い。
身体も万全ではない。
それでも、背筋だけはまっすぐ伸ばして歩き出す。
廊下の向こうに、法務部の扉が見える。
ジェームズ・ポッターとすれ違った直後とは思えないほど、足取りは落ち着いていた。
——病み上がりに最初に見る顔が彼だったことに、舌打ちしたくなるのは変わらない。
けれど同時に、その男が「アランを救う可能性を探す」と口にした事実もまた、
レギュラスの中で、熱の痕のように微かに残り続けていた。
法務部長官室の扉を開けた瞬間、レギュラスは、いつも以上に重たい空気が室内に澱んでいるのを感じた。
原因は、一目瞭然だった。
大きな執務机の上――
いつもは几帳面に整えられている羊皮紙の山が、今日はまるで雪崩を起こしたあとの雪山のように積み上がっている。
差し込み口のついた棚は、どの段にも書類の束が詰め込まれ、「至急」「要返答」「苦情」「抗議」の札が、うるさいほどに目に飛び込んできた。
「……これは、壮観ですね」
先に入っていたバーテミウスが、小さく笑う。
「可哀想なほど埋もれていますよ、レギュラス」
「誰のせいでこうなっているのか、少しは自覚してほしいですね」
レギュラスは、掠れの残る声で淡々と返した。
病み上がりの喉は、まだ完全には癒えていない。
それでも、声は出る。
出る以上は、仕事をしないという選択肢はなかった。
マントを椅子の背に掛け、レギュラスは机の前に腰を下ろした。
目の前にそびえる書類の山に、さすがの彼も一瞬だけ眉をひそめる。
それから、深く息を吐き、最も上にある一束に手を伸ばした。
「上から順に処理していくしかありませんね」
「下からでも、真ん中からでも、結局全部あなたに返ってきますからね」
バーテミウスの軽口には、わずかな本気と労りが混じっている。
レギュラスは、肩で笑う代わりに紙束を一枚めくった。
最初の一枚には、マグル側の法律事務所の名前と長々しい抗議文が記されていた。
関所近辺で発生したデモに対し、魔法省警務部が強制排除に踏み切った件――
その対応は、「過剰であり、非人道的だ」とする主張だった。
「……関所を設けた近辺のマグルが起こしたデモ、あの時の分です」
バーテミウスが、脇から静かに補足する。
「警務部を派遣して強制的に抑え込んだ件に関して、マグル側のデモ参加者や、その家族、支援団体から非難の声が上がっています。
要約したものが、その下に」
レギュラスは、一枚目をめくる。
次の羊皮紙には、バーテミウスの端正な字で簡潔な要約が書かれていた。
――魔法界による一方的な暴力行為。
――平和的な抗議活動の弾圧。
――治安維持の名を借りた恐怖政治。
「表現力だけは豊かですね」
レギュラスは、淡々と呟いた。
心のどこかで、喉に残る痛みがちくりと疼いた。
体調が万全なら、読み飛ばすだけで済ませられた文字が、今日は妙に頭の奥に残る。
マグルが魔力無効化薬を作り出した事実。
それに対抗するために、関所を設け、自由な行き来に制限をかけたこと。
最初は騎士団を配置したが、デモを抑えきれず、結局権限を法務部に一任させた経緯。
その結果として行われた「強制排除」の判断が、今この抗議の山となって、自分の机の上に帰ってきている。
バーテミウスが、別の束を持って机の端に置いた。
「こちらは、魔法界側からの意見書です。
『関所の警備を緩めれば、いつまた無効化薬の事件が起きるか分からない』という趣旨のものが大半ですね」
レギュラスは視線をそちらに流した。
魔法族の商人、境界付近に住む家族、狼憑きのコミュニティ、魔法薬の研究者――
様々な立場から、「関所を維持すべき」「もっと強化すべき」という意見が並んでいる。
机の左側にはマグル側の抗議。
右側には魔法界側の要請。
どちらも、自分勝手な主張に見える一方で、どちらも理屈としては理解できる。
レギュラスは、ゆっくりと書類をめくりながら思う。
マグルのデモで掲げられていたプラカードの文言が、報告書の中に記載されている。
――「子供たちを返せ」
――「壁はいらない」
――「魔法省は出ていけ」
「……子供たちを返せ、ね」
小さく繰り返した言葉は、掠れた喉の奥で震えた。
誰かの子供を、強制的に引き離したのは事実だ。
魔力を持つ子供たちを、そのまま放置しておけるほど、世界は安全ではない。
だが、マグルの親たちにはそんな事情は関係ない。
彼らにとって「奪われた」のは、「魔力」ではなく「子供」なのだ。
軽く息を吐き、レギュラスはペンを取った。
抗議文の余白に、短くメモを書く。
「回答:法務部名義にて。関所維持の正当性を説明。警務部対応についての監査を付記」
「押し通しますか?」
バーテミウスの問いは、分かっていて投げかけるものだ。
レギュラスがどう答えるか、彼はほとんど確信している。
レギュラスは、一枚の羊皮紙の端を指先で整えながら、静かに言った。
「押し通します」
決裁印を押す音が、小さく部屋に響く。
「全ての意見を汲み取ることなんて出来ませんからね」
声は低く、掠れていたが、その分だけ芯がはっきりと感じられた。
「マグル側からの視点も、魔法族側からの視点も、それぞれに“正義”だと主張するでしょう。
けれど、僕は法務部長官として、どちらか一つの正義に肩入れするわけにはいきません」
次の書類を手に取りながら、淡々と続ける。
「魔力を持つ者が狙われる危険性を、僕たちは実際に見てきた。
無効化薬の事件を、ただの“誤解”で済ませるわけにはいかない。
関所を緩めれば、次の犠牲が出る可能性がある。
僕が守るべきは、まず魔法界全体の安全です」
バーテミウスは、黙って聞いていた。
レギュラスの横顔には、疲労の色が滲んでいる。
病み上がりのせいだけではない。
決断の重さと、背負ってきたものの積み重ねが刻んだ陰だ。
「もちろん、マグル側への説明は尽くすべきです。
警務部の対応に過剰があったなら、是正もする。
けれど――関所そのものは譲れない」
レギュラスは、抗議文の束を一度整え、机の左端に揃えて置いた。
「『全員が納得する答え』など存在しません。
それでも進めなければならない以上、押し通すしかない」
その言葉は、抗議書類に向けてだけではなく、自分自身に向けたものでもあった。
妻の喉に向けられた「正義」。
孤児院で流された血に伴う「正義」。
狼人間とマグルをめぐる「正義」。
どの場面でも、誰かは必ず傷つき、誰かは必ず納得しない。
バーテミウスが、別の書類束を差し出した。
「こちらは、マグル側の人権団体からの面会要請です。
“直接話し合いたい”と」
レギュラスは目を通し、短く考える。
喉がまだ完全ではないことを、わずかに自覚する。
長時間の議論に耐えられるかどうかは怪しい。
だが――
「面会には応じましょう」
ペン先を走らせながら、レギュラスは言った。
「ただし、議題は“関所の運用と安全対策”に限定するよう伝えてください。
『関所の撤廃』を条件に挙げるのであれば、最初から交渉の余地はないと」
「承りました」
バーテミウスが、静かに頷いてメモを取る。
レギュラスは、ふとペン先を止めた。
窓の外に広がる魔法省の中庭が、遠くに見える。
そこを行き交う魔法使いたちの姿が、豆粒のように小さかった。
掠れた喉の奥で、彼は静かに思う。
アランのように、全ての痛みに目を向けることは、自分にはできない。
シリウスのように、一人の感情のために全てを引っくり返すこともできない。
自分は――この机の上の書類と印章と、法という枠組みを使って、
どこかに境界線を引き続けるしかないのだ。
「レギュラス」
バーテミウスが、少し柔らかい声で呼んだ。
「喉が本調子に戻るまでは、あまり長く話し続けないように。
面会日程も、一日に詰め込みすぎないよう調整しておきます」
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「気遣いには感謝しますが、仕事量は減りませんよ、バーテミウス」
「減りませんね」
あっさりと肯定するその口調に、思わず肩から力が抜ける。
「ですから、可哀想なほど埋もれているレギュラスを、横から引っ張り出す役目くらいは果たしますよ」
「頼もしい限りですね」
淡く笑みを浮かべ、レギュラスはまた一枚、書類をめくった。
決裁印の音が、一定のリズムで部屋に刻まれていく。
積み上がった山は容易には低くならない。
それでも、ひとつひとつ決定を下していくその手だけが――
魔法界とマグル界の境界線を、今日もかろうじて維持していた。
静かすぎて、胸の奥がざわついた。
いつものように、喉を鳴らして息を整えようとして——レギュラスはそこで気づく。
「……っ」
声が、喉の奥で潰れていた。
少しでも息と一緒に音を出そうとすると、鋭い痛みが走る。
喉そのものが悲鳴をあげているような感覚だった。
乾いた布を無理やり擦り合わせたような、ざらざらとした痛み。
軽く咳払いをしようとして、それすらも断念する。
空気がこみ上げかけた瞬間に、喉が強く抗議してきて、涙が滲みそうになった。
……これは、また面倒な
心の中でだけ、自嘲気味に呟く。
頭痛と悪寒は、いくぶん引いている。
全身のだるさも、先ほどまでの鉛のような重さではない。
身体そのものは回復に向かっているのだと理解できる。
にもかかわらず——肝心な喉だけが、酷く壊れていた。
寝室の空気は暖かい。
カーテンの隙間から、柔らかな昼の光が差し込んでいる。
暖炉には新しい薪がくべられ、静かに炎を揺らしていた。
枕元に目を向ければ、アランがいた。
椅子に腰掛け、膝の上に本を開いたまま、うつむき加減に文字を追っている。
だが、その意識は本の内容よりも、ベッドの上の男に向いているのだと、レギュラスには分かった。
ページをめくる指が、一定のリズムで止まるたびに、
アランはそっと顔を上げて、レギュラスの呼吸や表情を確かめている。
それに応えようと、レギュラスは喉を震わせかけ——すぐに痛みで断念した。
アランに話しかけることもできない。
それが、こんなにも堪えるとは。
彼は枕元の自分の杖に手を伸ばした。
指先でなぞるようにそれを掴み、空中に軽く振る。
杖先から、淡い光が滲む。
空中に、ゆっくりと文字が描かれていく。
《アラン》
《喉が 痛くて 声が 出ません》
ふわりと浮かんだ文字に、アランはぱちりと瞬きをした。
一瞬きょとんとしたあと、口元にふわりと笑みを浮かべる。
杖を取り出し、アランも宙に文字を書く。
《私と 同じですね》
その一文に、レギュラスは思わず息を止めた。
アランは、生まれてからずっと声を持たなかったわけではない。
かつて地下で、その声を奪われた。
以来、ずっと「話せない」という状態を受け入れ続けてきたのだ。
今、レギュラスの喉が一時的に壊れていることを、彼女は自分と同列に並べた。
軽い冗談のつもりなのかもしれない。
けれど、その瞳には、どこか寄り添うような柔らかさが宿っていた。
レギュラスは、わずかに目を伏せる。
体のだるさは、確かにだいぶ取れている。
だが、声が出せないという不自由さは、思っていた以上に堪えた。
法務部で命令を飛ばすことも、
部下の報告に即座に返答することもできない。
娘の問いかけに、皮肉まじりの返事を返すこともできない。
そして何より——
アランの名を呼べない。
ただそれだけのことが、異様な心細さとなって胸に広がる。
そのとき、視界の端で、何かがもそりと動いた。
ベッドの反対側。
寝台の横に置かれたテーブルと、そのそばのソファ。
そこに、まだシリウス・ブラックが居座っている。
喉が健在であれば、即座に口にしていただろう言葉。
今は、痛みのせいで内心にしか放てない。
シリウスは、まったく悪びれる様子もなく、皿を前にしていた。
「わりぃな、軽く食わせてもらってる」
パンを千切りながら、気の抜けた調子で言う。
皿の横にはカップが置かれ、湯気がゆらゆらと立っている。
さらに腹立たしいことに——
そのテーブルの上には、羊皮紙が散乱していた。
封印に関する資料、術師の名前が列挙されたメモ、東方の呪術について書かれた走り書き。
それらが、無造作に広げられ、紙が丸まらないように皿で押さえられている。
「……」
レギュラスは、目を細めた。
寝室——それも、自分の寝ているベッドのすぐ脇で、
平然と食事をしながら書類を広げている男。
出て行った身分でこの屋敷を土足で踏みにじるどころか、
今や半ば「出先の仕事場」として使っているような有様だった。
「食わねぇとやってらんねぇからな」
シリウスは勝手に言い訳を付け足す。
「封印とか魂とか、聞くだけで腹減る話なんだわ」
喉が潰れていなければ、「食欲の方向性が間違っているのでは」と皮肉の一つも返せた。
だが、今はそれすら叶わない。
苛立ちと不快感が、熱でまだ敏感な神経をじくじくと刺激してくる。
ベッドの横でパンを食べる音が、小さく、やけに耳についた。
レギュラスは、深く息を吸ってから、杖を持ち上げた。
宙に、落ち着いた筆致で文字を描き出す。
《どこまで 話は 進んだんです?》
光の文字がふわりと浮かぶ。
シリウスは皿にパンを置き、ちらとそれを見た。
「リーマスに依頼してる」
羊皮紙の一枚を指で弾きながら、シリウスは答えた。
「東洋の術師を呼ぶんだ。
魂と封印を別々に扱える可能性があるって話でな。
セシールの封印を、“ アランの血”から引き剥がせるかもしれねぇ」
リーマスの字で書かれた短い説明や、何人かの術師の名前が並んだ羊皮紙が、視界の端で揺れる。
「こいつは魂そのものの操作に長けてるらしい。
こっちは器の移し替え専門。
で、こいつは……なんか霊だかなんだかと直接交渉するタイプだとよ」
指で一人ずつ名前を追いながら、シリウスは簡単に説明していく。
レギュラスは、その説明を聞きながらも、内心では冷ややかに舌を巻いていた。
彼は、そういった存在をあまり信用していなかった。
その昔——
アランが初めて身ごもったときのことを、ふと思い出す。
ヴァルブルガが、狂ったように術師を呼び集めた。
マグル界から、魔法界から、よく分からない「占い師」や「呪術師」まで。
男児が産まれるように、と祈祷させ続けていた。
黒い蝋燭を何本も灯し、奇妙な香草を焚き、
腹の上に意味の分からない石を並べ、見たこともない言葉で呟き続ける。
その異様な光景を横目で見ながら、レギュラスは心のどこかで冷めていた。
祈祷を重ね、術師たちに金を積み、
それでも結果は変わらなかった。
男児を望んでいた家族にとっては失望だったかもしれないが、
レギュラスにとっては大切な第一子だ。
術師たちが何をしようと、何を祈ろうと——
生まれてくるべき命は、生まれるべき形で生まれる。
そのときに刻まれた感覚が、今も骨の底に残っている。
術師などという曖昧の極みのような存在。
頼りすぎれば足をすくわれる。
信用しすぎれば、見えないところで何をされるか分かったものではない。
その本能的な警戒は、今もそう簡単には消えない。
だが——
アランの封印を、生きたまま剥がせる可能性があるとしたら。
その一点だけが、レギュラスの中にわずかな揺らぎを生んでいた。
アランも、ステラも、アルタイルも。
セシール家の血筋を理由に「鍵」にされることなく、生きていける道。
それを提示されて、「危険だから」という理由だけで切り捨てることが、本当に正しいのか。
シリウスが、パンを千切りながら続ける。
「お前が信用してねぇのは分かる。
俺だって、どいつもこいつも怪しい連中だと思ってる」
茶化すような口調の奥には、わずかな本音が滲んでいた。
「でもよ、何もしねぇで“仕方ねぇ”ってアランを殺すよりは、
怪しい橋でも渡る価値があると思ってる。
俺は、な」
レギュラスは黙ってその言葉を受け止めた。
喉が痛くなければ、きっと何か返していただろう。
「簡単に言う」とか、「その橋が落ちたとき、誰が責任を取るのか」とか。
だが、今は——声が出ない。
かわりに、杖が動いた。
《東洋の 術師》
《危険は どこまで 想定して いますか》
光の文字が揺れる。
シリウスはそれを見て、一瞬だけ真顔になった。
「……最悪、封印だけが壊れる」
短く、はっきりと言う。
「アランの魂じゃなくて、封印そのものが崩壊する。
そのとき、ヴォルデモートがどうなるかは分からねぇ」
レギュラスは目を閉じた。
そうだ。
それが一番の懸念だ。
「でも、それを避けるために何重にも術式を組むのが、向こうの仕事だ」
シリウスが続ける。
「リーマスは、その辺を一番に確認してる。
封印に触れる前に、“ アランの魂に何が起きるか”“ヴォルデモートの鎖にどう影響するか”——
そこを最低限コントロールできる術者じゃなきゃ、呼ばねぇよ」
羊皮紙の上に広がった文字列が、レギュラスの視界の端で揺れた。
喉の痛みと、微熱と、苛立ちと。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った頭の中で、彼は静かに思考を巡らせる。
術師は信用していない。
だが、シリウスとリーマスがそこまで動いているのもまた事実だ。
アランを救いたい——その一点においては、この男も、自分と同じ場所に立っている。
声に出せないために、思考だけが妙に饒舌になる。
ベッドの脇で紙を皿で押さえ、乱雑にパンを食べながら、それでも必死に手を動かし続ける男。
その姿は、レギュラスから見ても「行儀が悪い」の一言に尽きた。
だが同時に——
その行儀の悪さの裏側に、「諦めきれない男のしつこさ」が見えてしまうのも、また事実だった。
アランのために。
アランと、その家族のために。
どれほどみっともなく見えようと、彼はここに居座り続けている。
その事実が、レギュラスの胸の内側を、別の意味でじくじくと刺した。
喉は潰れ、声は出ない。
だが、杖は動く。
レギュラスは、静かに宙に文字を書いた。
《リーマスルーピンの 判断なら》
《一応は 信じましょう》
シリウスが、ぱちりと瞬いた。
次の瞬間、口の端が、やや意外そうに、やや嬉しそうに、ほんの少しだけ上がる。
「……へぇ。
お前の口からそれが出るとはな」
レギュラスは目を閉じた。
喉が痛くて反論できないことを、初めて少しだけ「便利だ」と思った。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
寝室の中に、奇妙な沈黙と、紙の擦れる音と、皿の小さな触れ合う音が混ざり合う。
アランが戻ってくるまでの短い時間——
レギュラスは、潰れた喉の奥で、ひっそりと息を吐きながら、
術師という曖昧な希望と、シリウスという不愉快な同士との距離を、測りかねたまま目を閉じ続けていた。
熱が少し引いたぶん、逆に身体の不快感がくっきりと浮かび上がってきた。
肌に張りつく寝間着。
首筋から背中にかけてべたつく汗。
シーツに触れるたび、乾ききらない汗が、ぬるりとした感触を残す。
……気持ちが悪い
悪寒で震えていたときは、こんなことを気にする余裕もなかった。
だが今は、熱の中心が喉に移ったせいか、その他の感覚が一斉に目を覚ましている。
じんわりと滲む汗が、首筋を伝って枕へ吸い込まれていく感覚が、どうにも耐えがたい。
アランは、いつものように椅子に座り、レギュラスの様子を見守っていた。
膝の上には、すでに読み終えたらしい本が閉じられて乗っている。
しかし、その視線は本ではなく、ベッドの上の男に注がれている。
レギュラスは、少しだけ身じろぎした。
それだけで、寝間着が肌に貼り付く。
背中の布が、ぺたりと気持ち悪い音を立てた。
その微かな動きに、アランの翡翠の瞳がすぐ反応する。
椅子から身を乗り出し、「どうしましたか」と問いかけるような目でレギュラスを見つめた。
彼は枕元に置いていた杖を手に取ると、ゆっくりと宙に動かした。
《シャワーを 浴びてきますか?》
と、アランの方から先に書いたのは、ほとんど同時だった。
レギュラスは一瞬目を瞬き——それから小さく頷いた。
やはり、彼女には見えている。
汗の不快感も、寝間着の張りつきも、そのわずかな仕草から感じ取っている。
アランは、ふっと微笑んだ。
杖をもう一度動かし、今度はゆっくりとした筆致で書く。
《少し お湯を 出しておきますね》
《立ちくらみが あるなら 呼んでください》
レギュラスは、上体を起こそうと布団から腕を抜きかけ——ふと、ある考えが頭をよぎった。
視線が、わずかに寝室の隅へ流れる。
そこには、まだシリウス・ブラックがいた。
羊皮紙と皿を散乱させたまま、椅子にふんぞり返っている。
読みかけの資料を片手に、もう片方の手にはカップを持って。
自分が浴室にいるあいだ——この部屋には、シリウスとアラン、二人だけが残るのか。
胸の奥で、ざらりとした違和感が広がった。
理屈ではない。
シリウスが何をするわけでもないことは、頭では分かっている。
アランが、自分のいない隙を狙って誰かとどうこうする女ではないことも、誰より知っている。
それでも——
この寝室に、彼女とあの男を二人きりにしておくという状況そのものが、どうしようもなく「嫌」だった。
レギュラスは、再び杖を持ち上げる。
《アラン》
《手を 貸してもらえますか》
文字が浮かび上がる。
アランは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐにふわりと表情を緩めた。
「もちろんです」と言いたげに頷き、椅子から立ち上がる。
その様子を見て、シリウスが露骨に顔をしかめた。
「自分で入りやがれ、てめぇはよ」
心底呆れたような声。
パンくずが乗った皿を指先で弾きながら、ぼそりと吐き捨てる。
レギュラスは、聞こえないふりをした。
無視する。
今この瞬間、彼にとって重要なのは、身体のだるさでも、喉の痛みでも、封印の話でもない。
——この部屋に、アランとシリウスを二人きりで残さないこと。
ただ、それだけだった。
ベッドから足を下ろすと、軽い眩暈がした。
ふらりと視界が揺れ、床が遠くなる。
すかさずアランの手が伸びてきて、彼の腕を取る。
細い指が、しかし驚くほど確かな力で、よろめく身体を支えた。
レギュラスは、アランの肩に軽く手を置いた。
そのまま、ゆっくりと立ち上がる。
足元はまだ覚束ない。
それでも、彼は一歩踏み出すたび、ほんの少しだけ姿勢を正そうとした。
今に限っては、彼女の肩に甘えることを、自分で選んでいる。
そうやって、自分の隣を「当然の位置」として確保するために。
アランは、彼の歩調に合わせて歩いた。
小さな足音が、ベッド脇の絨毯の上を静かに進んでいく。
すれ違いざま、シリウスの灰色の瞳が、二人をじっと見ていた。
何か言いたげに口が動きかけ——しかし、言葉にはならない。
代わりに、彼は視線を羊皮紙へと落とし、乱暴に一枚をめくった。
レギュラスは、敢えてそちらを見なかった。
浴室へ続く扉の前に立つと、アランが先にノブに手をかける。
きぃ、と静かな音を立てて扉が開き、湯気まじりの温かい空気が、うっすらと流れ出てくる。
どうやらすでに、彼女は湯を出しておいてくれたらしい。
浴室の奥から、かすかな水音が聞こえる。
アランは、もう片方の手で杖を取り出し、短く文字を書く。
《中で 服を 脱ぐのは 大丈夫ですか》
《必要なら また 呼んでください》
レギュラスは、軽く頷いた。
今さら、着替えまで世話を焼かせるわけにはいかない。
彼の誇りが、それだけは許さなかった。
扉の縁に手をかける前に、ふと振り返る。
ベッドとテーブルとソファのある寝室。
そこには、シリウスが一人だけ残っている——ように見える。
だが実際には、この部屋の主は、自分だ。
そして今、アランはその主と共に浴室へ向かっている。
レギュラスは、内心で小さく息を吐いた。
この部屋に二人を置き去りにしていくのではなく、
自分とアランが一緒にその場を離れる形を選べた。
たったそれだけのことが、妙な満足感をもたらす。
扉を半ばまで閉めかけたところで、後ろからシリウスの声が飛んできた。
「転ぶなよー、“法務部長官”」
軽口とも、いじりともつかない声。
レギュラスは振り返らず、そのまま扉を静かに閉じた。
浴室の中は、白い蒸気に包まれていた。
壁に反射する水音が、頭の中のざわつきを少しずつ洗い流していく。
熱で重かった身体が、湯気の中でじわりとほぐれていくのを感じながら——
レギュラスは、さきほどまでの自分の行動が、いかに子どもじみた所有欲から出たものかを自覚して、ひとり苦笑した。
それでも。
この屋敷の主であり、アランの夫である男として、
あの寝室に「アランとシリウスを二人だけ残す」という選択肢を、どうしても飲み込めなかったこと。
それだけは、熱のせいにはできないのだと思った。
レギュラスが浴室の扉の向こうへ消えていったあと、アランは寝室に戻らなかった。
扉の外、短い廊下に立ち止まり、その場で静かに息を整える。
壁には小さなランプがひとつ灯っていて、柔らかな光が石壁を淡く照らしていた。
さっきまでレギュラスの枕元で過ごしていたぬくもりが、まだ自分の掌の内側に残っている気がする。
彼が何かを言葉にしたわけではない。
けれど、ベッドから立ち上がった時の、あのささやかな拘り方。
「アラン、手を貸してもらえますか」と杖で書いた字の奥にひそむ焦り。
そして、シリウスに向けるあからさまな不機嫌。
どれもが、同じ答えを指し示していた。
——自分が浴室にいる間、自分をシリウスと同じ空間に残しておきたくない。
嫉妬、と呼べば、たぶん彼は否定するのだろう。
理屈を並べて、「不用意な二人きりは避けるべきだ」とか、「状況的に不適切だ」とか、いくらでも理由を付けるはずだ。
けれどアランは知っている。
あの時、彼が自分の肩に預けた心許なさを。
熱に浮かされた弱さとは別種の、「譲りたくない」という感情を。
だから——寝室には戻らなかった。
シリウスと二人きりにならないように、という配慮もある。
けれどそれ以上に、「レギュラスが嫌だと感じることを、あえて選ぶ必要はない」と、自然に思えた。
廊下の片隅に設えられた小さな椅子に腰掛ける。
浴室の扉の下の隙間から、ほんのりと白い湯気が漏れ出しているのが見えた。
中からは、水の音が聞こえる。
シャワーが壁に当たって流れ落ちる、高く細い音。
時折、足元で水が跳ねる鈍い音も混ざる。
その一つひとつを聞き分けるように、アランは耳を澄ませた。
レギュラスが、熱の残る身体を湯で流している光景が、自然と脳裏に浮かぶ。
首筋に当たる温かい水。
肩を撫でていく滴。
汗と熱と疲労を、少しずつ洗い流していく感覚。
喉は、まだ痛むだろう。
声を出せるようになっているかどうかも、分からない。
それでも——少しでも気持ちよく眠りにつけるように。
そのささやかな回復の時間を、邪魔したくなかった。
どれくらい時間が経った頃だろうか。
浴室の中から、シャワーの音が止む気配がした。
代わりに、布が擦れるかすかな音や、足元で水が移動する音が廊下まで届いてくる。
アランは椅子から立ち上がった。
扉の前まで歩み寄り、拳を軽く握る。
そして——コン、コン、と控えめに扉を叩いた。
爪先が木を叩く、小さな音。
返事を待つかわりに、アランは杖を取り出し、扉の板にそっと向けて動かした。
扉の表面にだけ見えるように、淡い光の線が走る。
《ここで 待っています》
声は届かない。
けれど、ノックと文字の気配で、「外にいる」ことは充分に伝わるだろう。
扉の向こうで、わずかに動きが止まった。
しばしの静寂。
やがて、扉の金具がかすかに鳴る音がした。
ノブが回され、ゆっくりと扉が開く。
白い湯気がふわりと廊下に流れ出し、その中からレギュラスが姿を現した。
濡れた髪を後ろに撫でつけ、清潔な着替えに身を包んでいる。
さっきまでの寝汗の不快さは消え、頬の赤みも、熱のせいというより血行の色に近づいていた。
「……っ」
喉が、わずかに鳴る。
言葉を紡ごうとした瞬間、その喉が痛みを訴える。
酷使した筋がまだ癒えていないことを、身体が思い知らせてくる。
それでも、レギュラスはゆっくりと息を吸った。
そして——かすれた声を、無理やり絞り出す。
「……待っていて、くれたんです?」
声はひどく掠れていた。
ところどころ、音になりきらない息が混ざる。
それでも、その一言には、はっきりとした喜びと驚きが宿っていた。
アランは、翡翠の瞳を大きく見開いたあと、こくりと頷いた。
彼の喉が痛むことは分かっている。
だから、声を出させるような返事はしない。
かわりに、杖を持っていない手をそっと伸ばし、彼の袖口を指先でつまむ。
「おかえりなさい」と言う代わりの、ささやかな仕草。
レギュラスの表情が、ふっと緩んだ。
あからさまなほど、分かりやすい笑顔だった。
普段、法務部で見せる冷静な面影とはまるで違う。
喜びを隠しきれずに綻んでしまった少年のような笑み。
その顔を見た瞬間、アランの胸に、じん、と温かいものが広がった。
……正解、だった
自分の選んだ行動が、彼の望んだものであったこと。
彼の不安を少しでも軽くできたのだと、あの笑顔が教えてくれる。
言葉で褒められたわけでも、感謝されたわけでもない。
それでも、「待っていてくれたんです?」の一言と、その笑みだけで十分だった。
アランは、杖を取り出し、空中に短く文字を描く。
《はい》
《レギュラスが 嫌がることは したく ありませんから》
本当はもっと長く書きたかった。
——シリウスと二人きりに、なりたくありませんでした。
——あなたが嫌がる顔を、見たくありませんでした。
けれど、それを全部書いてしまうのは、どこか生々しすぎる気がして。
アランは途中で文字を切った。
それでも、レギュラスはその短い文章を見て、きちんと意味を受け取ったようだった。
「……そう、ですか」
喉を労わるように、ゆっくりとした言い方で呟く。
声はまだ擦れているが、さっきよりは明らかに音が出ている。
「……温めた、おかげでしょうか。
少し……声が、出るように、なりました」
言葉を紡ぐたびに、小さく眉間に皺が寄る。
痛みはまだ残っているのだろう。
それでも、「あなたのおかげで」と言うことだけは、どうしても伝えたかったに違いない。
アランは、目を細めて微笑んだ。
唇は静かに閉じられている。
けれど、その瞳の中には、「よかった」と「無理はしないでください」の両方が、柔らかく揺れていた。
杖先がもう一度だけ動く。
《よかった》
《でも 話しすぎないで くださいね》
レギュラスは、それを読んで小さく笑った。
「……ええ。
しばらくは、あなたと同じように、静かにしていましょう」
軽い冗談のつもりだったのかもしれない。
アランは一瞬驚いたように目を瞬き、そのあと、くすりと声のない笑いをこぼす。
廊下に、二人分の息づかいだけが静かに重なった。
浴室から流れてきた湯気のぬくもりと、
レギュラスの肩から伝わる、まだ少し高い体温。
そのすべてを確かめるように、アランは彼の隣を歩き出した。
——彼が嫌がることを、あえて選ばないこと。
——彼が喜ぶ場所に、自分の立つ位置を合わせていくこと。
それが、アラン・ブラックという女の、ささやかな誓いであり、
今この瞬間、彼女が選び続けている「答え」だった。
病み上がりの身体に、魔法省の空気はやけに冷たく感じられた。
石畳の床に、革靴の音が規則正しく響く。
法務部の階層へと続く廊下は、いつも通り淡い光に満ちているのに、レギュラスにはどこか白々しく見えた。
喉の痛みは、ようやく鋭い刃物のようなものから、鈍い鈍痛へと落ち着きつつある。
声も、まだ掠れてはいるが、どうにか会話には耐えうる程度には戻ってきていた。
そう思いながらも、足を戻す気はなかった。
山積みになっているはずの決裁書類。
あの男——ジェームズ・ポッターの判断一つで揺れかねない現場。
アランの寝顔を残して出てきた以上、無駄足では済ませたくない。
隣では、バーテミウスがいつもの調子で歩調を合わせている。
「体調はどうです、レギュラス」
「仕事に復帰できる程度には、回復しましたよ」
声は掠れているが、言葉そのものはいつもと変わらない調子を保った。
それだけでも、レギュラスの中ではささやかな勝利だった。
バーテミウスは小さく頷き、手に持った書類の束を揺らす。
「しばらくの間に、騎士団側からの抗議と“意見具申”がいくつか。
まとめたものを、あとでお渡しします」
「ええ、あとで構いません。今は——」
そのときだ。
廊下の先、曲がり角の影に、人の気配があった。
マントの裾が揺れるのが、視界の端でちらりと見える。
誰なのかを判断する前に、胸の奥がざわりとした。
嫌な予感というのは、得てして的確だ。
角を曲がった先に立っていたのは、紛れもなく、その予感の正体だった。
「……やはり、あなたですか」
口にする前に、思わず舌打ちしたくなる顔だった。
ジェームズ・ポッター。
騎士団の中心に立ち、二度、アランの喉元に刃を向けた男。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
病み上がりの身体の奥で、何かがぴしりと強張る。
よりによって、復帰初日に見る顔がこれとは。
喉の奥で、乾いた笑いが生まれかけて、痛みにかき消えた。
バーテミウスが、空気を察してわずかに後ろへ下がる。
「では、僕は先に執務室に」と短く告げて、音もなく二人から距離を取った。
廊下には、レギュラスとジェームズ、二人きり。
最悪の目覚めに最悪の顔を見る朝のような、そんな心地だった。
先に口を開いたのは、ジェームズの方だった。
「……久しぶりだね、レギュラス」
騎士団の会合の場で響いていたのと同じ、よく通る声。
その声に、レギュラスはかすかに眉をひそめた。
「ええ。
妻を二度殺しかけた男に、挨拶する機会はそう頻繁にはありませんから」
掠れた声で静かに告げる。
乾いた皮肉。
それでいて、感情は過剰に乗せない。
ただ事実を述べるような口調が、かえって棘を際立たせた。
ジェームズの表情が、一瞬だけ強張る。
その瞳の奥に、後悔とも、自責ともつかない影が揺れた。
「……あの時のことは、忘れていないよ」
ジェームズは俯かずに、それでも少しだけ声を落として答えた。
「僕たちがしたことが、君たちの側から見てどう見えるかも、理解しているつもりだ」
「理解、ですか」
レギュラスは、わずかに首を傾げた。
「僕から見れば、理解などしていただかなくて結構ですよ。
あれは“騎士団の正義”に基づいた決定だったのでしょう。ならば、理解ではなく、貫けばいい」
ジェームズは眉を寄せた。
「貫けばいい結果になるような話じゃない」
短く、吐き出すように言う。
「ヴォルデモートを殺せる唯一の鍵が、アラン・ブラックだ。
セシール家の封印が続く限り、奴は完全には死なない。
でも——その封印を断ち切れば、今度はアランと、君たち家族の命が――」
そこで言葉を切る。
続きの言葉を飲み込んだのか、喉がわずかに動いた。
レギュラスは、その様子を冷ややかに見つめていた。
「今さら、その説明は不要ですね。
あなたが僕の妻をどう“評価”しているかくらい、十分に承知しています」
喉の奥が、またじくりと痛んだ。
それでも、レギュラスは目を逸らさない。
ジェームズは、少しだけ視線を上げた。
「シリウスから話を聞いたよ」
その名を出した瞬間、廊下の空気がわずかに揺れた気がした。
「君が、あいつに言ったんだろう?
“妻がジェームズ・ポッターに二度殺されかけた”って」
レギュラスは、薄く笑った。
「事実を告げただけです。
嘘を教えた覚えはありませんよ、ジェームズ・ポッター」
ジェームズは、息を吸い込む。
何かを飲み込むように、胸の奥でその息を一度止めてから、ゆっくりと吐き出した。
「シリウスは、僕を責めたよ」
それは、告白にも似た口調だった。
「どうして彼女を守らなかったのか。
どうして、愛している相手を“作戦から外す”ことで、あいつを守ろうとしたのか。
どうして僕たちが、アランを傷つける立場に立とうとしたのか」
レギュラスは、喉の奥で笑いが込み上げるのを感じた。
あの男らしい反応ですね。
口に出す代わりに、別の言葉を選ぶ。
「それで、あなたは何と答えたんです?
“世界のためだ”とでも?」
ジェームズは、即答しなかった。
長い沈黙が落ちる。
廊下を通る風が、一瞬だけ二人のマントの裾を揺らした。
「僕は——騎士団のリーダーだ」
やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「あの場で、“シリウスの恋人”としてアランの命だけを守るっていう選択は、できなかった。
ヴォルデモートを倒すために、鍵をどう扱うかを決める責任があった」
目の奥に、苦い影が滲んでいく。
「でも、だからって、君の言う通り、“貫けばいい”と胸を張れるほど、強くもない」
レギュラスは、彼の言葉を黙って聞いていた。
病み上がりのせいか、頭の中がいつもより少し鈍い。
その鈍さの中で、ジェームズの言葉が静かに沈んでいく。
「シリウスは、君を利用していると言っていたよ」
不意に、ジェームズの口からそんな言葉が零れた。
レギュラスは片眉を上げる。
「僕が?」
「……あいつは分かってる。
君が、シリウスのアランへの気持ちを煽ることで、騎士団の中に不協和音を生ませようとしているって」
ジェームズの声には、責める色だけでなく、どこか疲労が滲んでいた。
レギュラスは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし——それからまた、まっすぐにジェームズを見た。
「あなた方が、僕の妻を“鍵”と呼び続ける限り。
僕は、使えるものはなんでも使いますよ」
掠れた声で、静かに言う。
「シリウス・ブラックの感情でも。
あなたの良心でも。
騎士団の亀裂でも」
ジェームズの瞳が、痛むように細められた。
「君は、本当に……」
そこまで言いかけて、ジェームズは言葉を切った。
「冷酷だ」と言いかけたのかもしれない。
だが、口に出せなかった。
——本当に冷酷なのはどちらか。
妻を封印の器として殺そうとした男と。
その妻を守るためなら、どんな手段でも使う男と。
明確な線は、とうに曖昧になっている。
レギュラスは、喉の奥の痛みを意識しながらも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが“世界”を背負った結果、僕の妻の喉元に杖を向けたのなら。
僕は、“妻と子供たち”を背負って、あなた方の喉元に刃を向けるだけです」
掠れた声だったが、そこには揺らぎがなかった。
ジェームズは、しばらく何も言わなかった。
ひとつ息を吐き、廊下の石畳に視線を落とす。
やがて、ゆっくりと顔を上げたとき、その瞳には先ほどまでよりも多くの影と、それでも消えない決意が混じっていた。
「……東の術師の話を聞いた」
思いがけない言葉が落ちる。
レギュラスの目が、わずかに細められた。
「シリウスとリーマスが動いている。
封印だけを、アランから剥がす方法がないかって」
ジェームズの声には、諦めと希望の中間のような色があった。
「僕は——それを完全には信じきれない。
術師なんて、曖昧で危うい存在だ。
君だって、そう思っているだろう?」
ヴァルブルガが狂ったように呼び集めた術師たちの姿が、一瞬だけ頭をよぎる。
レギュラスは何も言わなかったが、その沈黙が、ある種の肯定となって伝わる。
ジェームズは続けた。
「それでも、何もしないで“仕方なかった”と君の妻を殺すよりは——
馬鹿げてても、危うくても、橋を探す価値はあると思っている」
彼はレギュラスを真っ直ぐに見た。
「君のやり方は、僕には認めがたいところも多い。
でも、君がアランと子供たちを守ろうとしていることだけは、本物だと分かってる」
短い沈黙が落ちた。
「僕も……彼女を殺すリーダーでいるより、
彼女を救う可能性を最後まで探したリーダーでいたい」
その言葉に、レギュラスは瞼を閉じた。
喉が、またじん、と痛んだ。
それでも、今度はそこにわずかな熱も混じっている。
疲労か、苛立ちか、それとも——ほんの僅かな、安堵に似たものか。
「次に会うときは、できれば——
妻が“保留”ではなく、“生存”として扱われる報告を持ってきてください。騎士団のリーダーとして」
ジェームズは真剣な顔で頷いた。
「約束はできない。でも、目指す方向は、同じだと思っている」
「……そうであると、いいですね」
レギュラスは踵を返した。
喉はまだ痛い。
身体も万全ではない。
それでも、背筋だけはまっすぐ伸ばして歩き出す。
廊下の向こうに、法務部の扉が見える。
ジェームズ・ポッターとすれ違った直後とは思えないほど、足取りは落ち着いていた。
——病み上がりに最初に見る顔が彼だったことに、舌打ちしたくなるのは変わらない。
けれど同時に、その男が「アランを救う可能性を探す」と口にした事実もまた、
レギュラスの中で、熱の痕のように微かに残り続けていた。
法務部長官室の扉を開けた瞬間、レギュラスは、いつも以上に重たい空気が室内に澱んでいるのを感じた。
原因は、一目瞭然だった。
大きな執務机の上――
いつもは几帳面に整えられている羊皮紙の山が、今日はまるで雪崩を起こしたあとの雪山のように積み上がっている。
差し込み口のついた棚は、どの段にも書類の束が詰め込まれ、「至急」「要返答」「苦情」「抗議」の札が、うるさいほどに目に飛び込んできた。
「……これは、壮観ですね」
先に入っていたバーテミウスが、小さく笑う。
「可哀想なほど埋もれていますよ、レギュラス」
「誰のせいでこうなっているのか、少しは自覚してほしいですね」
レギュラスは、掠れの残る声で淡々と返した。
病み上がりの喉は、まだ完全には癒えていない。
それでも、声は出る。
出る以上は、仕事をしないという選択肢はなかった。
マントを椅子の背に掛け、レギュラスは机の前に腰を下ろした。
目の前にそびえる書類の山に、さすがの彼も一瞬だけ眉をひそめる。
それから、深く息を吐き、最も上にある一束に手を伸ばした。
「上から順に処理していくしかありませんね」
「下からでも、真ん中からでも、結局全部あなたに返ってきますからね」
バーテミウスの軽口には、わずかな本気と労りが混じっている。
レギュラスは、肩で笑う代わりに紙束を一枚めくった。
最初の一枚には、マグル側の法律事務所の名前と長々しい抗議文が記されていた。
関所近辺で発生したデモに対し、魔法省警務部が強制排除に踏み切った件――
その対応は、「過剰であり、非人道的だ」とする主張だった。
「……関所を設けた近辺のマグルが起こしたデモ、あの時の分です」
バーテミウスが、脇から静かに補足する。
「警務部を派遣して強制的に抑え込んだ件に関して、マグル側のデモ参加者や、その家族、支援団体から非難の声が上がっています。
要約したものが、その下に」
レギュラスは、一枚目をめくる。
次の羊皮紙には、バーテミウスの端正な字で簡潔な要約が書かれていた。
――魔法界による一方的な暴力行為。
――平和的な抗議活動の弾圧。
――治安維持の名を借りた恐怖政治。
「表現力だけは豊かですね」
レギュラスは、淡々と呟いた。
心のどこかで、喉に残る痛みがちくりと疼いた。
体調が万全なら、読み飛ばすだけで済ませられた文字が、今日は妙に頭の奥に残る。
マグルが魔力無効化薬を作り出した事実。
それに対抗するために、関所を設け、自由な行き来に制限をかけたこと。
最初は騎士団を配置したが、デモを抑えきれず、結局権限を法務部に一任させた経緯。
その結果として行われた「強制排除」の判断が、今この抗議の山となって、自分の机の上に帰ってきている。
バーテミウスが、別の束を持って机の端に置いた。
「こちらは、魔法界側からの意見書です。
『関所の警備を緩めれば、いつまた無効化薬の事件が起きるか分からない』という趣旨のものが大半ですね」
レギュラスは視線をそちらに流した。
魔法族の商人、境界付近に住む家族、狼憑きのコミュニティ、魔法薬の研究者――
様々な立場から、「関所を維持すべき」「もっと強化すべき」という意見が並んでいる。
机の左側にはマグル側の抗議。
右側には魔法界側の要請。
どちらも、自分勝手な主張に見える一方で、どちらも理屈としては理解できる。
レギュラスは、ゆっくりと書類をめくりながら思う。
マグルのデモで掲げられていたプラカードの文言が、報告書の中に記載されている。
――「子供たちを返せ」
――「壁はいらない」
――「魔法省は出ていけ」
「……子供たちを返せ、ね」
小さく繰り返した言葉は、掠れた喉の奥で震えた。
誰かの子供を、強制的に引き離したのは事実だ。
魔力を持つ子供たちを、そのまま放置しておけるほど、世界は安全ではない。
だが、マグルの親たちにはそんな事情は関係ない。
彼らにとって「奪われた」のは、「魔力」ではなく「子供」なのだ。
軽く息を吐き、レギュラスはペンを取った。
抗議文の余白に、短くメモを書く。
「回答:法務部名義にて。関所維持の正当性を説明。警務部対応についての監査を付記」
「押し通しますか?」
バーテミウスの問いは、分かっていて投げかけるものだ。
レギュラスがどう答えるか、彼はほとんど確信している。
レギュラスは、一枚の羊皮紙の端を指先で整えながら、静かに言った。
「押し通します」
決裁印を押す音が、小さく部屋に響く。
「全ての意見を汲み取ることなんて出来ませんからね」
声は低く、掠れていたが、その分だけ芯がはっきりと感じられた。
「マグル側からの視点も、魔法族側からの視点も、それぞれに“正義”だと主張するでしょう。
けれど、僕は法務部長官として、どちらか一つの正義に肩入れするわけにはいきません」
次の書類を手に取りながら、淡々と続ける。
「魔力を持つ者が狙われる危険性を、僕たちは実際に見てきた。
無効化薬の事件を、ただの“誤解”で済ませるわけにはいかない。
関所を緩めれば、次の犠牲が出る可能性がある。
僕が守るべきは、まず魔法界全体の安全です」
バーテミウスは、黙って聞いていた。
レギュラスの横顔には、疲労の色が滲んでいる。
病み上がりのせいだけではない。
決断の重さと、背負ってきたものの積み重ねが刻んだ陰だ。
「もちろん、マグル側への説明は尽くすべきです。
警務部の対応に過剰があったなら、是正もする。
けれど――関所そのものは譲れない」
レギュラスは、抗議文の束を一度整え、机の左端に揃えて置いた。
「『全員が納得する答え』など存在しません。
それでも進めなければならない以上、押し通すしかない」
その言葉は、抗議書類に向けてだけではなく、自分自身に向けたものでもあった。
妻の喉に向けられた「正義」。
孤児院で流された血に伴う「正義」。
狼人間とマグルをめぐる「正義」。
どの場面でも、誰かは必ず傷つき、誰かは必ず納得しない。
バーテミウスが、別の書類束を差し出した。
「こちらは、マグル側の人権団体からの面会要請です。
“直接話し合いたい”と」
レギュラスは目を通し、短く考える。
喉がまだ完全ではないことを、わずかに自覚する。
長時間の議論に耐えられるかどうかは怪しい。
だが――
「面会には応じましょう」
ペン先を走らせながら、レギュラスは言った。
「ただし、議題は“関所の運用と安全対策”に限定するよう伝えてください。
『関所の撤廃』を条件に挙げるのであれば、最初から交渉の余地はないと」
「承りました」
バーテミウスが、静かに頷いてメモを取る。
レギュラスは、ふとペン先を止めた。
窓の外に広がる魔法省の中庭が、遠くに見える。
そこを行き交う魔法使いたちの姿が、豆粒のように小さかった。
掠れた喉の奥で、彼は静かに思う。
アランのように、全ての痛みに目を向けることは、自分にはできない。
シリウスのように、一人の感情のために全てを引っくり返すこともできない。
自分は――この机の上の書類と印章と、法という枠組みを使って、
どこかに境界線を引き続けるしかないのだ。
「レギュラス」
バーテミウスが、少し柔らかい声で呼んだ。
「喉が本調子に戻るまでは、あまり長く話し続けないように。
面会日程も、一日に詰め込みすぎないよう調整しておきます」
レギュラスは、ほんの少しだけ目を細めた。
「気遣いには感謝しますが、仕事量は減りませんよ、バーテミウス」
「減りませんね」
あっさりと肯定するその口調に、思わず肩から力が抜ける。
「ですから、可哀想なほど埋もれているレギュラスを、横から引っ張り出す役目くらいは果たしますよ」
「頼もしい限りですね」
淡く笑みを浮かべ、レギュラスはまた一枚、書類をめくった。
決裁印の音が、一定のリズムで部屋に刻まれていく。
積み上がった山は容易には低くならない。
それでも、ひとつひとつ決定を下していくその手だけが――
魔法界とマグル界の境界線を、今日もかろうじて維持していた。
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