4章
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その夜、騎士団本部の一室だけが、遅くまで灯りを落とさずにいた。
窓の外には、魔法省の塔の影が黒々と浮かび上がっている。
薄いカーテン越しに差し込む街灯の光と、机の上のランプの光が混じり合って、部屋の中はどこか半端な明るさだった。
長机の上には、古びた魔術書や封印に関する文献が積み重なっている。
背表紙がひび割れた古書、表紙が剥がれかけた写本、マグル世界の「オカルト」本にすら目を通した痕跡があった。
その紙の山の中に、シリウスの両腕が埋もれていた。
「……わっかんねぇ」
紙束をぱたんと閉じて、シリウスは髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
セシール家特有の封印について書かれた資料は、ほとんどない。
あるのは、せいぜい名前が一行載っている程度の記述か、「伝説的な封印術」として曖昧な噂を引用しているだけの文章だ。
「セシールの封印は、血筋が続く限り永遠」
何度も見たその文言が、もはや呪いのように目の前をちらつく。
血が続く限り、ヴォルデモートは完全には死なない。
血が途絶えれば、封印は消える——つまり、アランと子どもたちを殺せば終わる。
そんな理屈、認められるはずがない。
「シリウス、こっちのも見たか?」
反対側の机で、リーマスが眼鏡の位置を直しながら声をかけた。
彼の前にも、同じように本と羊皮紙が積み上がっている。
「古い呪術系の論文なんだけどさ。封印と“器”を分離する理論がちょっとだけ出てきた」
シリウスは椅子を引いて、リーマスの方へ身を乗り出した。
「分離?」
「ああ」
リーマスは、指先で一枚の羊皮紙を軽く叩いた。
「封印の“核”を宿している魂を、別の器に移す。
あるいは、“魂そのもの”から封印の機能だけを切り離して、独立した媒体に移植する……っていう、理屈の上での話だけどね」
「理屈の上での話、か」
シリウスは苦笑しながらも、そこに食いつく。
「それ、アランに当てはめるとどうなんだ?
封印を担ってるセシールの血は、アランと子どもたちに流れてる。
だったら、その封印の機能だけを、どっか別のもんに移せるってことか?」
「……可能性として、全くのゼロだとは言い切れない」
リーマスは慎重に言葉を選ぶようにして続けた。
「ここに書いてあるのは、もっと小規模な封印だよ。
呪物や呪われた指輪の封印を、新しい器に移す、とか。
魂と一体化した封印を、術師が介入して“はがす”……みたいな考え方自体は、いくつかの系統に存在してる」
シリウスの胸が、どくんと高鳴る。
「じゃあ——」
「でも、セシール家の封印は、もっと桁違いだ」
リーマスはため息を混ぜて首を振った。
「ヴォルデモートのホークラックスを守るために最適化された、血統単位の封印。
それを“術者が勝手に剥がす”っていうのは、反動が怖すぎる。
下手をすれば、封印だけが壊れて、そのままヴォルデモートが復活する」
シリウスは奥歯を噛みしめた。
そうだ。
アランを守るための行為が、そのまま“世界を危険に晒す行為”になりかねない。
彼女を助けたい。
子どもたちを守りたい。
その一心で動いた結果、ヴォルデモートを解き放つなんてことになったら——
ジェームズの言う「正義」が、ますます自分たちを叩き潰しに来る。
「……こういうのは、どうなんだろう」
リーマスが、少しだけ迷ったように口を開いた。
「術師を呼ぶんだ。
僕らよりずっと、封印と魂の扱いに長けた連中——たとえば、東欧や北方の呪術系の家系とか。
“魂と封印の力を分離する”ことに特化した術者なら、何かしらの手段を知ってるかもしれない」
シリウスは顔を上げた。
「術師……」
頭の中に、昔噂で聞いたような名前や、ぼんやりしたイメージがよぎる。
死霊術師に近い存在、古い呪術を受け継ぐ一族、魔法省にも騎士団にも属さない、灰色の魔法使いたち。
「アラン自身の魂と、セシール家の封印の力を、一度切り離す。
“器”としてのアランから、封印だけを引き剥がして、別の器に移す。
……そんなことが、もし出来るなら」
リーマスの声は、あくまで仮定の話をしている調子だった。
それでも、その眼差しは真剣だ。
「血筋が続いても、封印としての機能は“別の何か”が担うことになる。
ヴォルデモートを縛り付ける鎖の役目を、アランじゃない何かに押し付けるって形になる」
シリウスは、ゆっくりと言葉をなぞった。
「…… アランが生きたまま、封印から解放される」
口に出してみると、その響きが胸の奥をじんと熱くする。
「ステラも、アルタイルもだ。
あいつらは“血が続いているせいで、ヴォルデモートが死なない”っていう、理不尽な枷から外れる」
「うまくいけば、の話だ」
リーマスは現実の釘を打つことを忘れない。
「封印を移した先が暴走するかもしれないし、
アランの魂の方に反動が返ってくる可能性もある。
セシール家の封印は、血と魂と呪術が全部絡み合って出来てる。
どこか一つでもバランスを崩せば、取り返しがつかなくなる」
「それでも」
シリウスは、机の端に置かれていたカップを乱暴に押しのけた。
冷めきったコーヒーが少しだけこぼれるが、構わず言葉を続ける。
「それでも、やれる可能性があるなら、探る価値はあるだろ」
声が、自然と荒くなる。
「アランを殺せばいい、なんて簡単な話にして終わらせるのは、楽だ。
世界のためって言えば、もっともらしく聞こえる。
でも、“他にやりようはないのか”って問いを諦めるには、まだ早すぎる」
リーマスは、シリウスをじっと見つめていた。
その瞳には、責める色はない。
ただ、長年友人として見てきた“シリウス・ブラック”という男そのものが、にじんでいる。
「君のそういうところは、昔から変わらないね」
苦笑を混ぜながら言う。
「無茶苦茶で、感情優先で、
でも、だからこそ、誰も見ない可能性を見ようとする」
シリウスは肩をすくめた。
「なんかわかんねぇんだよ、正直」
彼は正直に言った。
「魂と封印の分離がどうのとか、術式の安定だとか、
リーマスが言ってることの半分も分かってねぇかもしれない。
俺にできるのは、たぶん本をひっくり返して、名前と場所と噂を掘り起こすくらいだ」
視線を落とし、握りしめた拳を見つめる。
「でも——出来るなら、やろう」
言葉は、ゆっくりと、しかし確かな熱を持っていた。
「アランを犠牲にしない方法が、ほんのわずかでも存在するなら。
世界中の術師を片っ端から当たってでも、その可能性に手を伸ばす」
リーマスは小さく頷いた。
「……僕も協力するよ」
その声は静かだが、迷いはなかった。
「術師のツテなら、多少はあたれる。
グレイゾーンの連中も多いけど、君と僕なら何とか話はつけられるだろう。
ジェームズには、まだ全部は言えないかもしれないけど……」
「いい」
シリウスが遮る。
「どうせあいつは、“危険すぎる”って言う。
封印が暴走するリスクとか、ヴォルデモートが一時的にでも解き放たれるリスクを、絶対許さねぇ」
それは分かっている。
ジェームズ・ポッターは騎士団のリーダーだ。
彼にとっては、アランは“世界を守るために殺さなければならないかもしれない一人”であり、それ以上でも以下でもない。
「だから、先にこっちで詰める」
シリウスは言った。
「見通しが立たないまま“希望的観測”だけ持っていったって、あいつは頷かねぇ。
でも、“こういう術式で、こういうリスクがあって、それでもアランは生き残る可能性がある”ってとこまで持っていけたら——
あいつの正義にも、食い込める余地が出てくる」
リーマスは、すこしだけ目を伏せた。
「……君は、本当にアランを生かしたいんだね」
シリウスは、即答した。
「ああ」
その一言に、迷いはなかった。
「世界のために死ねなんて、簡単に言ってほしくねぇんだよ。
あいつは、もう十分すぎるほど奪われてきた。
声も、家族も、人生も、散々だ」
掌の上に浮かぶ、かつての記憶がよぎる。
レギュラスの執務室で、静かに書類を抱えていた、小さな背中。
初めて声の代わりに文字を書いて見せてくれたときの、照れたような笑み。
「だから、今度くらいは、俺が勝手に“返したい”って思ってる」
リーマスは、ふっと息を吐いた。
「……分かった」
眼鏡の位置を直し、羊皮紙を新しく一枚引き寄せる。
「じゃあ、やろうか。
“アランを犠牲にせずに、セシールの封印を外すための可能性”——
僕らで拾えるだけ、拾ってみよう」
シリウスは口元を上げた。
「おう」
その笑みは決して明るくはない。
けれど、絶望だけでもなかった。
リーマスがペン先を走らせる。
術師候補の名前、地域、専門分野、噂話。
それらを一つひとつ書き出していく。
シリウスも、自分の方の本の山に向き直る。
ページをめくりながら、封印と魂に関する記述の断片を片っ端から拾い上げる。
何が正解か、誰にも分からない。
成功の保証はなく、失敗した時の代償はあまりに大きい。
それでも——
「なんかわかんねぇけどさ」
ページの上で指を止めながら、シリウスはぽつりと言った。
「俺たちは、やれるところまでやるしかねぇだろ」
その言葉に、リーマスが苦笑混じりの「そうだね」と返す。
ランプの光が、夜更けの部屋を淡く照らし続けていた。
世界のどこかで、まだヴォルデモートの影は息を潜めている。
騎士団の会議室では、おそらく今も「必要な犠牲」の話が続いているだろう。
その片隅で——
シリウスとリーマスは、人一人の命を救うための、細い細い可能性の糸を、
不器用に、しかし必死に手繰り寄せ始めていた。
静かな寝室に、燃え残りの暖炉がぱち、ぱち、と小さく火の音を立てていた。
厚いカーテンは半ばまで閉ざされ、昼の光は柔らかく漏れ込んでいるだけだ。
枕元には淡い光を灯したランプがひとつ置かれていて、その光が、寝台に横たわるレギュラスの横顔をぼんやりと照らしていた。
シーツ越しにも分かるほど、身体は重い。
頭痛と悪寒が入れ替わり立ち替わり襲ってきて、さっきからまともに思考がまとまらない。
それでも、枕元に座るアランの気配だけははっきり感じられた。
冷えた布が額にそっと当てられる。
指先が、ごく慎重に前髪を避け、位置を整える。
「……アラン」
かすれた声で名を呼ぶと、翡翠の瞳がこちらを覗き込んだ。
声は出さないが、「起きていましたか」と問いかけるような眼差し。
アランは杖を取り出し、宙に小さく文字を描いた。
《熱は まだありますが 少し 下がってきました》
《すこし 眠れましたか》
レギュラスは、枕に頭を預けたまま微かに笑った。
「あなたがずっとそばにいるので、安心して寝ても大丈夫だと、ようやく思えてきました」
アランの睫毛が、わずかに揺れる。
その指先が、今度は直接レギュラスの手のひらに触れた。
《大袈裟です》
《すこし 目を 閉じていて ください》
文字を描き終えたアランは、布を替えるために一度額から離した手を、そっと頬に滑らせた。
ひんやりした指先が、熱を持った皮膚に触れる。
レギュラスは、その手の感触を追うように、ゆっくりと視線を上げた。
彼女の顔が近い。
ランプの明かりに照らされた黒髪が、カーテンの影と溶け合ってやわらかく揺れている。
この距離なら、少し首を持ち上げれば——その唇に触れられる。
熱のせいか、胸の奥がじんと熱くなる。
悪寒で震える身体とは別の場所に、静かな欲求が生まれるのを自覚した。
……少しくらい、わがままを言ってもいいだろうか。
アランが、熱を確かめるようにさらに顔を近づけた瞬間だった。
レギュラスは、彼女の手首をそっと掴んだ。
「アラン」
呼びかける声に、アランが目を見開く。
唇が、ごくわずかに開きかけた。
ほんの数センチ。
彼女の息が肌にかかる距離まで、レギュラスは顔を傾ける。
そのまま目を閉じかけ——
「お待ちくださいっ!」
廊下から、慌てたような声が聞こえた。
続けざまに、遠慮のない足音が近づいてくる。
硬い靴底が廊下を打つ音。制止の声を押しのけるように、その足音は止まらない。
レギュラスの眉間に皺が寄った。
「誰です……?」
問いと同時に、寝室の扉が乱暴に開け放たれた。
重厚な扉が、蝶番の悲鳴も構わず押し開かれる。
冷たい廊下の空気が、室内に一気に流れ込んできた。
「アラン!」
名を呼ぶ、よく通る声。
銀の髪を無造作にかき上げた男が、廊下に控える使用人の抗議を完全に無視して部屋へずかずかと踏み込んでくる。
シリウス・ブラック。
アランは、はっとしてレギュラスの上から身体を起こした。
さっきまで近づいていた顔が、慌ただしく距離を取る。
今にも唇が触れそうだった距離。
受け入れる気でいたその瞬間を、不躾なまでの乱入に遮られて、レギュラスは心の底から舌打ちしたくなった。
苛立ちが、熱に油を注ぐ。
頭痛なのか、耳鳴りなのか、もう区別がつかないほど、鼓動が早まっていく。
「シリウス様、こちらは——」
廊下で制止していた使用人が、なおも入り口で困惑している。
シリウスは手を振ってそれを振り払い、寝台のそばまで一気に歩み寄った。
灰色の瞳が、真っ直ぐアランを捉えている。
「お前の封印の力を、それだけを剥がせるかもしれねぇんだ!」
力強い声が、寝室に響き渡った。
静かな部屋にはあまりに大きく、あまりに荒々しい声。
レギュラスは思わずこめかみを押さえた。
うるさい……
頭が痛いのか、耳が痛いのか、もはや判断がつかない。
熱を帯びた脳が、シリウスの一言一句を、必要以上に暴力的に拾い上げてくる。
アランは茫然としたように目を見開いていた。
「封印を剥がせる」という言葉が、耳の奥で何度も反芻されているのが、その翡翠色の瞳の揺れで分かる。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐き出した。
「……ノックくらい、してもらえませんか、シリウス」
掠れた声で、しかしいつもの丁寧な物言いは崩さずに言う。
本当は、続けて「そもそも訪れるな」とまで言ってやりたい。
だが、頭がふらふらしすぎて、その先の文章がうまく組み立てられない。
シリウスは、ようやくレギュラスの方に視線を向けた。
「……なんだ、お前、寝込んでんのか」
少しだけ驚いたような顔。
だが、その驚きもすぐに押し流される。
今の彼にとっては、レギュラスの体調など、二の次なのだろう。
「悪いな、今はアランに用が——」
「シリウス」
アランが杖を振る。
空中に淡く光る文字が浮かんだ。
《レギュラスが 風邪です》
《移ると いけません 部屋を 変えましょう》
そう書いて、アランは寝台から立ち上がろうとした。
レギュラスの視線から逃れるように、シリウスの方へ一歩を踏み出す。
レギュラスの胸の奥に、別種の痛みが走った。
ここで、二人で部屋を出る——?
アランの腕を取って、シリウスと共に別室へ。
自分を置いて、封印だの術者だのという話を、二人だけで進める光景が頭に浮かぶ。
熱で過敏になった神経が、それだけでざわりと逆立った。
「……ここでどうぞ」
レギュラスは、枕から頭を少し上げて言った。
「出て行った身分で、この屋敷を土足で上がるのは、もう充分でしょう。
これ以上、アランと二人でどこかへ移動するのは、ご遠慮願いたいですね」
声は静かだったが、そこに含まれた棘は隠しようもない。
シリウスが、わずかに目を細める。
「別に、テメェの寝顔見に来たわけじゃ——」
「知っていますよ」
レギュラスは遮った。
喉がひりつく。
それでも、言わずにはいられなかった。
「あなたが何をしに来たのかくらい、声の調子だけで察しがつきます。
封印を剥がせるかもしれない、というその話——」
そこで一度言葉を切り、息を整える。
「アランを連れ出して話す必要はありません。
ここで聞きます。僕の妻のことですから」
アランの肩がぴくりと震えた。
シリウスは、しばしレギュラスを睨むように見つめ、それからふっと鼻を鳴らした。
「……病人の前で大声出したのは悪かったよ」
珍しく、ほんのわずかにトーンが落ちる。
「でも時間がねぇ。
術師のツテをあたっててな、アランの封印と魂を一度切り離せるかもしれねぇって話が出たんだ。
お前の許可がいるとかいらねぇとか、その辺のくだらねぇ段取りをすっ飛ばしてでも、まず本人に——」
「くだらなくはありませんよ」
レギュラスは即座に返した。
熱でぼやける視界の中でも、シリウスの輪郭だけははっきりと見える。
アランの名を呼び、封印の話をするたびに、この男は無自覚なほど一直線だ。
「アランは、セシール家の最後の継承者であり、ブラック家の妻であり、子どもたちの母です。
その魂をどうこうする話を、『くだらねぇ段取り』で片づけられては困ります」
言葉の端々に、熱と嫉妬と警戒が混じる。
アランは慌てて杖を振った。
《二人とも 落ち着いて》
《レギュラスは まだ 熱が高いです》
文字が宙に浮かぶ。
だが、両者の視線は、その文字ではなく互いの顔に向けられていた。
レギュラスの頭は、がんがんと脈打っている。
それでも、アランとシリウスがこの部屋を出て行くという未来だけは、どうしても飲み込めなかった。
アランが、自分の知らないところで「希望」を与えられること。
その希望の源が、シリウス・ブラックであること。
それは、熱よりもたちの悪い悪寒だった。
「……いいでしょう、話は聞きます」
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
「ただし、ここで。
アランも、僕もいるこの場所で、です」
アランは逡巡するように二人の顔を見比べた。
シリウスの背後では、まだ使用人が不安げに扉の影から様子を窺っている。
シリウスは、肩をすくめて一歩だけ近づいた。
「ならそうしようじゃねぇか」
乱暴な物言いの奥で、彼なりの譲歩の色がちらりと見え隠れする。
レギュラスは、枕元に座り直したアランの手を、そっと探した。
指先が触れ合う。
その温もりに、ささくれていた心が、少しだけ現実に繋ぎ止められる。
——封印を剥がす話。
——アランが犠牲にならずに済むかもしれないと言われた希望。
その全てが、この狭い寝室に持ち込まれようとしている。
頭痛も悪寒も、完全には引かない。
それでも、レギュラスは目を閉じずに、シリウスの次の言葉を待った。
アランの手を、決して離さないようにしながら。
シリウスの声は、寝室の空気にはあまりに荒々しかった。
「……東の方の術師だ。魂と封印を切り離すなんて、無茶な話を真面目に研究してる連中がいるらしい。
リーマスが文献を当たって、何人かツテも——」
そこまで聞いたところで、レギュラスの胸の奥から、嫌なざわめきがせり上がってきた。
「……っ、けほっ……ごほ、ごほっ……!」
喉を焼くような咳が、不意打ちのように襲ってくる。
腹筋に力が入り、熱を持った胸の内側がぎしぎしと痛む。
話を遮る気はなかった。
むしろ、シリウスの持ってきた「希望」の話は、最後まで聞いておくべきだと頭では分かっている。
けれど、身体がそれを許さない。
「レギュラス」
アランが椅子から身を乗り出した。
慌てて彼の背中に手をまわし、上体を支えるように軽く抱き起こす。
温かい掌が、背中をゆっくりとさすった。
そのたびに、ひっかかっていた咳が少しずつ流れ落ちていく感覚がある。
「っ……は……」
乾いた喉に、空気が荒く出入りする。
胸が上下するたびに、枕がわずかにきしんだ。
シリウスは言葉を切り、眉をしかめてその様子を見ていた。
「……大丈夫かよ」
声には、苛立ちとも心配ともつかない色が混ざっている。
レギュラスは返事をしようとして、また肺の奥がびくりと痙攣するのを感じた。
「……っ、ごほ、……ごほっ……!」
咳が、止まらない。
肺の奥に溜まっていた熱と痰が、無理やり押し出されるたびに、喉の粘膜がざりざりと削られていくようだ。
涙腺までじんわりと熱を帯びる。
アランは、レギュラスの背中をさすりながら、杖を取り出した。
片手で彼を支え、もう片方で空中に文字を描く。
《咳止めの ポーションを 追加で もらいましょう》
描かれた文字は、すぐに霧のように消える。
アランはレギュラスの耳のそばで、そっと唇を動かした。
声にはならない。
けれど、その口の動きは、「すぐ戻ります」と言っているようだった。
レギュラスは、荒い息の合間に、小さく頷いた。
「……すみません、アラン」
掠れた声で謝ると、アランは首を振り、微笑む。
今度はシリウスの方を振り返り、杖を動かして短く書いた。
《少し 席を 外します》
《レギュラスを 頼みますね》
その文字に、シリウスは一瞬だけ目を細めた。
何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言わないまま閉じる。
「ポーションを取りに行くのか」
代わりに、それだけを確認するように呟いた。
アランは小さく頷き、レギュラスの背をもう一度だけ撫でてから、そっと上体を枕に戻した。
掛け布団を肩元まで引き上げ、熱の残る額に一瞬だけ指を触れさせる。
——すぐ。
声にならない約束だけを残し、アランは寝室の扉へ向かった。
使用人が慌てて扉を開ける。
アランのローブの裾が、光の筋の中をすっと通り過ぎた。
次の瞬間、扉は静かに閉じられる。
ぱたん、と金具の収まる音が、やけに大きく響いた。
寝室には、レギュラスとシリウス、二人だけが残される。
しばしの静寂。
レギュラスは、喉の奥に残った熱をやり過ごすように、浅く息を繰り返した。
その沈黙を破ったのは、シリウスだった。
「……みっともねぇな、お前」
投げ捨てるような口調。
しかし、その奥にわずかな戸惑いと苛立ちが混ざっているのを、レギュラスは聞き逃さなかった。
熱のおかげで、余計なところばかり感覚が鋭くなっている。
……好きで、こうなっているわけではありません。
そう言い返すほどの気力はない。
喉が痛い。
言葉をひとつ発するたびに、咳がその後を追いかけて来そうだ。
レギュラスは、枕に頭を沈めたまま、軽く目を閉じた。
返事をしないこと自体が、ある種の答えになるのを知っていながら。
それでも、今は「言葉を返さない」という選択をするしかなかった。
シリウスは、しばらく黙ってレギュラスの横顔を見下ろしていた。
熱でうっすら赤くなった頬。
いつもより少しだけ乱れた前髪。
額に貼られた冷たい布。
「昔から、無茶ばっかしやがってよ」
ぼそりと、吐き出すように言った。
「自分の身体が限界超えてることに気づかねぇふりして、
立ってりゃなんとかなると思ってんだろ」
レギュラスは、薄く目を開けた。
視界の中に、シリウスのシルエットがぼんやりと浮かぶ。
逆光になっているせいで、表情はよく見えない。
「……講釈は、あとにしてもらえますか」
ようやく絞り出した言葉は、いつもより幾分か刺々しさを含んでいた。
シリウスは鼻で笑った。
「余計な言葉を返したくねぇって顔してるわりに、ちゃんと刺してくんじゃねぇか」
レギュラスは答えない。
咳を誘発しないように、呼吸のリズムを意識して整えていく。
寝室の空気は、さっきよりも少しだけ重くなった気がした。
アランがいるだけで中和されていた何かが、彼女の不在とともに露わになっている。
シリウスは、ベッドの脇の椅子を足先で押し出し、乱暴に腰を下ろした。
「……どんなに偉そうに立っていようが、
寝込んじまえば、人間なんざこんなもんだな」
それは、嘲りとも、諦めともつかない響きだった。
レギュラスは目を閉じたまま、枕元で布がわずかに擦れる音を聞いていた。
喉は焼けるように痛い。
胸は重い。
頭は熱に浮かされ、考えようとするたびに鈍い痛みが走る。
それでも——
アランが戻ってくるまで、余計な言葉を吐いてまた咳を誘うつもりはなかった。
みっともないのは、百も承知だ。
だが、今この瞬間に限っては、「黙っている」という選択が、唯一の自尊心の守り方に思えた。
シリウスの視線が、どこか刺すように突き刺さる。
それを正面から受け止めるには、今はあまりにも体力が足りない。
レギュラスは、自分の喉の奥でまだくすぶっている咳を、必死に飲み込みながら——
閉じたまぶたの裏側で、アランの戻ってくる気配だけを、静かに待っていた。
シリウスが寝室に踏み込んだとき、いちばん最初に目に入ったのは——レギュラスではなかった。
アランだった。
薄暗い室内。
半ば閉ざされたカーテンの隙間から、淡い昼の光が一筋だけ差し込んでいる。
暖炉には小さな火が残り、空気はふんわりと温かい。
その真ん中で、アランがベッドに身を寄せていた。
細い手が、レギュラスの額に冷たい布を乗せ、ずれないようにそっと押さえている。
もう片方の手は、熱のこもった頬のあたりを指先で撫でるように触れていた。
その距離、その仕草、その表情——
すべてが、「ここが彼女の居場所だ」と語っている気がした。
胸の内側が、きゅっと軋んだ。
自分の名を呼ぶ声よりも、
「アラン」という名を呼ぶ自身の声よりも、先に。
——そこにいるのは、「妻を看病する夫」と「夫を看病する妻」だった。
しかも、ただの形式ばった夫婦じゃない。
甲斐甲斐しく、という言葉が、これほど似合う光景があるだろうかと思うほど。
アランは本当に、隅々まで気を配っていた。
額の布の温度を確かめ、
シーツの皺を指先で伸ばし、
レギュラスが少しでも寝返りを打ちやすいようにと、枕の角度を微妙に調整している。
レギュラスが目を開けるたびに、
翡翠色の瞳が「ここにいます」とでも言うように、静かに微笑んで応じる。
その一つひとつが、シリウスの胸を刺した。
心のどこかで、ずっと分かっていたことを、改めて突きつけられる。
これは、レギュラス・ブラックの寝室だ。
このベッドは、レギュラスとアランのものだ。
アランがタオルを替え、ポーションを運び、額に手を当てるのは——当然、レギュラスのためだ。
自分がどれだけアランを想っていようと、
この光景の中に「自分の席」なんて、最初から存在しない。
「アラン!」
勢いよく彼女の名を呼んだ自分の声が、妙に空回りして聞こえたのは、そのせいだ。
アランが、はっと顔を上げる。
レギュラスのすぐそば、ほとんどその胸元に頬が触れそうなほどの距離から、がばりと身体を起こした。
ほんの数秒前まで、何をしようとしていたのかは、見れば分かる。
レギュラスの方も、僅かに顔を上げかけていた。
その視線の先にあったのは、紛れもなくアランの唇だ。
悪寒とも熱とも違う種類の寒気が、背骨をなぞっていく。
勝手に、自分で好きになった。
勝手に、愛した。
そのこと自体は、とうの昔に認めている。
自分は、アランがレギュラスと結婚した「後」に出会ったことも、
先に妻として迎えた男がいるのだという動かしようのない事実も、理解している。
それでも——
彼女の中にも、どこかで……
シリウスは、心の奥底にひそんでいた小さな「自惚れ」を、苦々しく噛みしめた。
アランの中にも、自分と共に生きていく、という選択肢が。
ほんの一瞬でも、迷いの中で紛れ込んだ瞬間が、きっとあったのではないか。
レギュラスのいない夜。
湖畔で二人きりで笑い合った時間。
手を取って逃げた石段。
静かな談話室で、彼女が見せた、誰にも見せない顔。
あの一つひとつの瞬間の中で——
シリウスは勝手に、「もし」と「いつか」を夢見てきた。
もし、あのとき手を引いて走り出していたら。
いつか、彼女がすべてを捨てて、自分の方を選ぶときが来たら。
そんな馬鹿げた幻想が、アランを想い続ける自分を支える核になっていた。
現実には、そうならないことも知っている。
アランがどれほど「妻」としてレギュラスの隣に立とうとしているかも、何度も見てきた。
それでも、「絶対にありえない」と切り捨ててしまえば、
自分の中で何かが音を立てて折れてしまう気がして。
だから、ずっと、心のどこかでこう思っていたのだ。
——彼女の世界の片隅に、ほんの少しだけでも、自分の居場所があるのだと。
だが、今目の前にある光景は、その自惚れを鮮やかに打ち砕いてくる。
アランにとってのレギュラスの大きさが、嫌でも分かってしまうからだ。
額に触れる手つき。
体調を気遣う目の動き。
「今は休んでください」と、杖で綺麗に描いた文字。
その全部が、シリウスには眩しすぎる。
レギュラスがアランを救い出したことは、知っている。
ヴォルデモートのもとから、危険な取引をして連れ出したことも。
どれほど汚い手を使ってでも、妻を守ろうとしてきた男だということも。
そんなものは、頭では理解していたつもりだった。
だが、「寝込んでいる夫の枕元に寄り添う妻」という、あまりにも日常で、あまりにもささやかな光景の前では——
その理解は、まるで意味をなさなくなる。
アランが、当たり前のようにレギュラスの世話を焼いている。
当たり前のように、濡れタオルを替え、ポーションを差し出し、「ここにいます」とそれだけを伝えている。
そこに入り込む余地はない。
自分が勝手に夢見ていた、“もしも”や“いつか”の場所は、
最初から、レギュラスのために用意されていたのだと、今さら突きつけられる。
「お前の封印の力をそれだけ剥がせるかもしれねぇんだ!」
勢いよく放った言葉が、わずかに震えていたことに、シリウス自身は気づいていなかった。
アランを救いたい。
アランを犠牲にしない道を探したい。
その想いは、本物だ。
自分の中で、その願いが偽りだと思ったことは、一度もない。
でも——今、ベッドの上で弱々しく息をしている男の存在が、
同時にシリウスの胸をきりきりと締め付けてくる。
自分は、どこまでいっても“外側”なのだと。
アランが甲斐甲斐しく気遣うのは、レギュラスだ。
彼女が一番に名を呼ぶのは、たぶん最後まで、レギュラスだ。
自分は——
そこから溢れた光の一部を、遠くから羨みながら眺めているだけの存在。
勝手に好きになって、
勝手に愛して、
勝手に「お前を幸せにしたい」なんて口にして。
そのくせ、彼女の世界の中心にいる男のことを、いつまでも憎みきれずにいる。
「……みっともねぇなお前」
アランが部屋を出て、レギュラスと二人きりになったとき。
喉の奥から出てきた言葉は、どちらに向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
熱にうなされて咳き込むレギュラスに向けてか。
アランに執着しながら、その甲斐甲斐しさに嫉妬している自分自身に向けてか。
たぶん、その両方だ。
レギュラスは返事をせず、目を閉じたまま咳をこらえている。
その横顔を見つめながら、シリウスは奥歯を噛みしめた。
それでも……自分は、彼女を生かしたいって思ってる。
アランを。
そして、アランが愛してやまない、このみっともない男も。
それが、さらに胸を刺してくる。
勝手に愛し、勝手に憎み、それでも結局、彼らの生存を願っている自分。
そんな矛盾だらけの感情が、シリウス・ブラックという男の核になってしまっているのだと、痛感せざるを得なかった。
やがて——廊下の向こうから、アランの足音が近づいてくる。
ポーションの瓶を持って戻ってくる、その気配だけで。
この部屋の重心が、再びレギュラスとアランの方へと引き寄せられていくのを、シリウスはひしひしと感じた。
自分は、その外側に立っている。
それでも、部屋の外には出ない。
扉の前からも引き下がらない。
胸を刺す痛みを押し隠しながら、
シリウスは静かに息を吐いた。
——勝手に愛した男の、勝手な矜持だけを頼りに。
窓の外には、魔法省の塔の影が黒々と浮かび上がっている。
薄いカーテン越しに差し込む街灯の光と、机の上のランプの光が混じり合って、部屋の中はどこか半端な明るさだった。
長机の上には、古びた魔術書や封印に関する文献が積み重なっている。
背表紙がひび割れた古書、表紙が剥がれかけた写本、マグル世界の「オカルト」本にすら目を通した痕跡があった。
その紙の山の中に、シリウスの両腕が埋もれていた。
「……わっかんねぇ」
紙束をぱたんと閉じて、シリウスは髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
セシール家特有の封印について書かれた資料は、ほとんどない。
あるのは、せいぜい名前が一行載っている程度の記述か、「伝説的な封印術」として曖昧な噂を引用しているだけの文章だ。
「セシールの封印は、血筋が続く限り永遠」
何度も見たその文言が、もはや呪いのように目の前をちらつく。
血が続く限り、ヴォルデモートは完全には死なない。
血が途絶えれば、封印は消える——つまり、アランと子どもたちを殺せば終わる。
そんな理屈、認められるはずがない。
「シリウス、こっちのも見たか?」
反対側の机で、リーマスが眼鏡の位置を直しながら声をかけた。
彼の前にも、同じように本と羊皮紙が積み上がっている。
「古い呪術系の論文なんだけどさ。封印と“器”を分離する理論がちょっとだけ出てきた」
シリウスは椅子を引いて、リーマスの方へ身を乗り出した。
「分離?」
「ああ」
リーマスは、指先で一枚の羊皮紙を軽く叩いた。
「封印の“核”を宿している魂を、別の器に移す。
あるいは、“魂そのもの”から封印の機能だけを切り離して、独立した媒体に移植する……っていう、理屈の上での話だけどね」
「理屈の上での話、か」
シリウスは苦笑しながらも、そこに食いつく。
「それ、アランに当てはめるとどうなんだ?
封印を担ってるセシールの血は、アランと子どもたちに流れてる。
だったら、その封印の機能だけを、どっか別のもんに移せるってことか?」
「……可能性として、全くのゼロだとは言い切れない」
リーマスは慎重に言葉を選ぶようにして続けた。
「ここに書いてあるのは、もっと小規模な封印だよ。
呪物や呪われた指輪の封印を、新しい器に移す、とか。
魂と一体化した封印を、術師が介入して“はがす”……みたいな考え方自体は、いくつかの系統に存在してる」
シリウスの胸が、どくんと高鳴る。
「じゃあ——」
「でも、セシール家の封印は、もっと桁違いだ」
リーマスはため息を混ぜて首を振った。
「ヴォルデモートのホークラックスを守るために最適化された、血統単位の封印。
それを“術者が勝手に剥がす”っていうのは、反動が怖すぎる。
下手をすれば、封印だけが壊れて、そのままヴォルデモートが復活する」
シリウスは奥歯を噛みしめた。
そうだ。
アランを守るための行為が、そのまま“世界を危険に晒す行為”になりかねない。
彼女を助けたい。
子どもたちを守りたい。
その一心で動いた結果、ヴォルデモートを解き放つなんてことになったら——
ジェームズの言う「正義」が、ますます自分たちを叩き潰しに来る。
「……こういうのは、どうなんだろう」
リーマスが、少しだけ迷ったように口を開いた。
「術師を呼ぶんだ。
僕らよりずっと、封印と魂の扱いに長けた連中——たとえば、東欧や北方の呪術系の家系とか。
“魂と封印の力を分離する”ことに特化した術者なら、何かしらの手段を知ってるかもしれない」
シリウスは顔を上げた。
「術師……」
頭の中に、昔噂で聞いたような名前や、ぼんやりしたイメージがよぎる。
死霊術師に近い存在、古い呪術を受け継ぐ一族、魔法省にも騎士団にも属さない、灰色の魔法使いたち。
「アラン自身の魂と、セシール家の封印の力を、一度切り離す。
“器”としてのアランから、封印だけを引き剥がして、別の器に移す。
……そんなことが、もし出来るなら」
リーマスの声は、あくまで仮定の話をしている調子だった。
それでも、その眼差しは真剣だ。
「血筋が続いても、封印としての機能は“別の何か”が担うことになる。
ヴォルデモートを縛り付ける鎖の役目を、アランじゃない何かに押し付けるって形になる」
シリウスは、ゆっくりと言葉をなぞった。
「…… アランが生きたまま、封印から解放される」
口に出してみると、その響きが胸の奥をじんと熱くする。
「ステラも、アルタイルもだ。
あいつらは“血が続いているせいで、ヴォルデモートが死なない”っていう、理不尽な枷から外れる」
「うまくいけば、の話だ」
リーマスは現実の釘を打つことを忘れない。
「封印を移した先が暴走するかもしれないし、
アランの魂の方に反動が返ってくる可能性もある。
セシール家の封印は、血と魂と呪術が全部絡み合って出来てる。
どこか一つでもバランスを崩せば、取り返しがつかなくなる」
「それでも」
シリウスは、机の端に置かれていたカップを乱暴に押しのけた。
冷めきったコーヒーが少しだけこぼれるが、構わず言葉を続ける。
「それでも、やれる可能性があるなら、探る価値はあるだろ」
声が、自然と荒くなる。
「アランを殺せばいい、なんて簡単な話にして終わらせるのは、楽だ。
世界のためって言えば、もっともらしく聞こえる。
でも、“他にやりようはないのか”って問いを諦めるには、まだ早すぎる」
リーマスは、シリウスをじっと見つめていた。
その瞳には、責める色はない。
ただ、長年友人として見てきた“シリウス・ブラック”という男そのものが、にじんでいる。
「君のそういうところは、昔から変わらないね」
苦笑を混ぜながら言う。
「無茶苦茶で、感情優先で、
でも、だからこそ、誰も見ない可能性を見ようとする」
シリウスは肩をすくめた。
「なんかわかんねぇんだよ、正直」
彼は正直に言った。
「魂と封印の分離がどうのとか、術式の安定だとか、
リーマスが言ってることの半分も分かってねぇかもしれない。
俺にできるのは、たぶん本をひっくり返して、名前と場所と噂を掘り起こすくらいだ」
視線を落とし、握りしめた拳を見つめる。
「でも——出来るなら、やろう」
言葉は、ゆっくりと、しかし確かな熱を持っていた。
「アランを犠牲にしない方法が、ほんのわずかでも存在するなら。
世界中の術師を片っ端から当たってでも、その可能性に手を伸ばす」
リーマスは小さく頷いた。
「……僕も協力するよ」
その声は静かだが、迷いはなかった。
「術師のツテなら、多少はあたれる。
グレイゾーンの連中も多いけど、君と僕なら何とか話はつけられるだろう。
ジェームズには、まだ全部は言えないかもしれないけど……」
「いい」
シリウスが遮る。
「どうせあいつは、“危険すぎる”って言う。
封印が暴走するリスクとか、ヴォルデモートが一時的にでも解き放たれるリスクを、絶対許さねぇ」
それは分かっている。
ジェームズ・ポッターは騎士団のリーダーだ。
彼にとっては、アランは“世界を守るために殺さなければならないかもしれない一人”であり、それ以上でも以下でもない。
「だから、先にこっちで詰める」
シリウスは言った。
「見通しが立たないまま“希望的観測”だけ持っていったって、あいつは頷かねぇ。
でも、“こういう術式で、こういうリスクがあって、それでもアランは生き残る可能性がある”ってとこまで持っていけたら——
あいつの正義にも、食い込める余地が出てくる」
リーマスは、すこしだけ目を伏せた。
「……君は、本当にアランを生かしたいんだね」
シリウスは、即答した。
「ああ」
その一言に、迷いはなかった。
「世界のために死ねなんて、簡単に言ってほしくねぇんだよ。
あいつは、もう十分すぎるほど奪われてきた。
声も、家族も、人生も、散々だ」
掌の上に浮かぶ、かつての記憶がよぎる。
レギュラスの執務室で、静かに書類を抱えていた、小さな背中。
初めて声の代わりに文字を書いて見せてくれたときの、照れたような笑み。
「だから、今度くらいは、俺が勝手に“返したい”って思ってる」
リーマスは、ふっと息を吐いた。
「……分かった」
眼鏡の位置を直し、羊皮紙を新しく一枚引き寄せる。
「じゃあ、やろうか。
“アランを犠牲にせずに、セシールの封印を外すための可能性”——
僕らで拾えるだけ、拾ってみよう」
シリウスは口元を上げた。
「おう」
その笑みは決して明るくはない。
けれど、絶望だけでもなかった。
リーマスがペン先を走らせる。
術師候補の名前、地域、専門分野、噂話。
それらを一つひとつ書き出していく。
シリウスも、自分の方の本の山に向き直る。
ページをめくりながら、封印と魂に関する記述の断片を片っ端から拾い上げる。
何が正解か、誰にも分からない。
成功の保証はなく、失敗した時の代償はあまりに大きい。
それでも——
「なんかわかんねぇけどさ」
ページの上で指を止めながら、シリウスはぽつりと言った。
「俺たちは、やれるところまでやるしかねぇだろ」
その言葉に、リーマスが苦笑混じりの「そうだね」と返す。
ランプの光が、夜更けの部屋を淡く照らし続けていた。
世界のどこかで、まだヴォルデモートの影は息を潜めている。
騎士団の会議室では、おそらく今も「必要な犠牲」の話が続いているだろう。
その片隅で——
シリウスとリーマスは、人一人の命を救うための、細い細い可能性の糸を、
不器用に、しかし必死に手繰り寄せ始めていた。
静かな寝室に、燃え残りの暖炉がぱち、ぱち、と小さく火の音を立てていた。
厚いカーテンは半ばまで閉ざされ、昼の光は柔らかく漏れ込んでいるだけだ。
枕元には淡い光を灯したランプがひとつ置かれていて、その光が、寝台に横たわるレギュラスの横顔をぼんやりと照らしていた。
シーツ越しにも分かるほど、身体は重い。
頭痛と悪寒が入れ替わり立ち替わり襲ってきて、さっきからまともに思考がまとまらない。
それでも、枕元に座るアランの気配だけははっきり感じられた。
冷えた布が額にそっと当てられる。
指先が、ごく慎重に前髪を避け、位置を整える。
「……アラン」
かすれた声で名を呼ぶと、翡翠の瞳がこちらを覗き込んだ。
声は出さないが、「起きていましたか」と問いかけるような眼差し。
アランは杖を取り出し、宙に小さく文字を描いた。
《熱は まだありますが 少し 下がってきました》
《すこし 眠れましたか》
レギュラスは、枕に頭を預けたまま微かに笑った。
「あなたがずっとそばにいるので、安心して寝ても大丈夫だと、ようやく思えてきました」
アランの睫毛が、わずかに揺れる。
その指先が、今度は直接レギュラスの手のひらに触れた。
《大袈裟です》
《すこし 目を 閉じていて ください》
文字を描き終えたアランは、布を替えるために一度額から離した手を、そっと頬に滑らせた。
ひんやりした指先が、熱を持った皮膚に触れる。
レギュラスは、その手の感触を追うように、ゆっくりと視線を上げた。
彼女の顔が近い。
ランプの明かりに照らされた黒髪が、カーテンの影と溶け合ってやわらかく揺れている。
この距離なら、少し首を持ち上げれば——その唇に触れられる。
熱のせいか、胸の奥がじんと熱くなる。
悪寒で震える身体とは別の場所に、静かな欲求が生まれるのを自覚した。
……少しくらい、わがままを言ってもいいだろうか。
アランが、熱を確かめるようにさらに顔を近づけた瞬間だった。
レギュラスは、彼女の手首をそっと掴んだ。
「アラン」
呼びかける声に、アランが目を見開く。
唇が、ごくわずかに開きかけた。
ほんの数センチ。
彼女の息が肌にかかる距離まで、レギュラスは顔を傾ける。
そのまま目を閉じかけ——
「お待ちくださいっ!」
廊下から、慌てたような声が聞こえた。
続けざまに、遠慮のない足音が近づいてくる。
硬い靴底が廊下を打つ音。制止の声を押しのけるように、その足音は止まらない。
レギュラスの眉間に皺が寄った。
「誰です……?」
問いと同時に、寝室の扉が乱暴に開け放たれた。
重厚な扉が、蝶番の悲鳴も構わず押し開かれる。
冷たい廊下の空気が、室内に一気に流れ込んできた。
「アラン!」
名を呼ぶ、よく通る声。
銀の髪を無造作にかき上げた男が、廊下に控える使用人の抗議を完全に無視して部屋へずかずかと踏み込んでくる。
シリウス・ブラック。
アランは、はっとしてレギュラスの上から身体を起こした。
さっきまで近づいていた顔が、慌ただしく距離を取る。
今にも唇が触れそうだった距離。
受け入れる気でいたその瞬間を、不躾なまでの乱入に遮られて、レギュラスは心の底から舌打ちしたくなった。
苛立ちが、熱に油を注ぐ。
頭痛なのか、耳鳴りなのか、もう区別がつかないほど、鼓動が早まっていく。
「シリウス様、こちらは——」
廊下で制止していた使用人が、なおも入り口で困惑している。
シリウスは手を振ってそれを振り払い、寝台のそばまで一気に歩み寄った。
灰色の瞳が、真っ直ぐアランを捉えている。
「お前の封印の力を、それだけを剥がせるかもしれねぇんだ!」
力強い声が、寝室に響き渡った。
静かな部屋にはあまりに大きく、あまりに荒々しい声。
レギュラスは思わずこめかみを押さえた。
うるさい……
頭が痛いのか、耳が痛いのか、もはや判断がつかない。
熱を帯びた脳が、シリウスの一言一句を、必要以上に暴力的に拾い上げてくる。
アランは茫然としたように目を見開いていた。
「封印を剥がせる」という言葉が、耳の奥で何度も反芻されているのが、その翡翠色の瞳の揺れで分かる。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐き出した。
「……ノックくらい、してもらえませんか、シリウス」
掠れた声で、しかしいつもの丁寧な物言いは崩さずに言う。
本当は、続けて「そもそも訪れるな」とまで言ってやりたい。
だが、頭がふらふらしすぎて、その先の文章がうまく組み立てられない。
シリウスは、ようやくレギュラスの方に視線を向けた。
「……なんだ、お前、寝込んでんのか」
少しだけ驚いたような顔。
だが、その驚きもすぐに押し流される。
今の彼にとっては、レギュラスの体調など、二の次なのだろう。
「悪いな、今はアランに用が——」
「シリウス」
アランが杖を振る。
空中に淡く光る文字が浮かんだ。
《レギュラスが 風邪です》
《移ると いけません 部屋を 変えましょう》
そう書いて、アランは寝台から立ち上がろうとした。
レギュラスの視線から逃れるように、シリウスの方へ一歩を踏み出す。
レギュラスの胸の奥に、別種の痛みが走った。
ここで、二人で部屋を出る——?
アランの腕を取って、シリウスと共に別室へ。
自分を置いて、封印だの術者だのという話を、二人だけで進める光景が頭に浮かぶ。
熱で過敏になった神経が、それだけでざわりと逆立った。
「……ここでどうぞ」
レギュラスは、枕から頭を少し上げて言った。
「出て行った身分で、この屋敷を土足で上がるのは、もう充分でしょう。
これ以上、アランと二人でどこかへ移動するのは、ご遠慮願いたいですね」
声は静かだったが、そこに含まれた棘は隠しようもない。
シリウスが、わずかに目を細める。
「別に、テメェの寝顔見に来たわけじゃ——」
「知っていますよ」
レギュラスは遮った。
喉がひりつく。
それでも、言わずにはいられなかった。
「あなたが何をしに来たのかくらい、声の調子だけで察しがつきます。
封印を剥がせるかもしれない、というその話——」
そこで一度言葉を切り、息を整える。
「アランを連れ出して話す必要はありません。
ここで聞きます。僕の妻のことですから」
アランの肩がぴくりと震えた。
シリウスは、しばしレギュラスを睨むように見つめ、それからふっと鼻を鳴らした。
「……病人の前で大声出したのは悪かったよ」
珍しく、ほんのわずかにトーンが落ちる。
「でも時間がねぇ。
術師のツテをあたっててな、アランの封印と魂を一度切り離せるかもしれねぇって話が出たんだ。
お前の許可がいるとかいらねぇとか、その辺のくだらねぇ段取りをすっ飛ばしてでも、まず本人に——」
「くだらなくはありませんよ」
レギュラスは即座に返した。
熱でぼやける視界の中でも、シリウスの輪郭だけははっきりと見える。
アランの名を呼び、封印の話をするたびに、この男は無自覚なほど一直線だ。
「アランは、セシール家の最後の継承者であり、ブラック家の妻であり、子どもたちの母です。
その魂をどうこうする話を、『くだらねぇ段取り』で片づけられては困ります」
言葉の端々に、熱と嫉妬と警戒が混じる。
アランは慌てて杖を振った。
《二人とも 落ち着いて》
《レギュラスは まだ 熱が高いです》
文字が宙に浮かぶ。
だが、両者の視線は、その文字ではなく互いの顔に向けられていた。
レギュラスの頭は、がんがんと脈打っている。
それでも、アランとシリウスがこの部屋を出て行くという未来だけは、どうしても飲み込めなかった。
アランが、自分の知らないところで「希望」を与えられること。
その希望の源が、シリウス・ブラックであること。
それは、熱よりもたちの悪い悪寒だった。
「……いいでしょう、話は聞きます」
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
「ただし、ここで。
アランも、僕もいるこの場所で、です」
アランは逡巡するように二人の顔を見比べた。
シリウスの背後では、まだ使用人が不安げに扉の影から様子を窺っている。
シリウスは、肩をすくめて一歩だけ近づいた。
「ならそうしようじゃねぇか」
乱暴な物言いの奥で、彼なりの譲歩の色がちらりと見え隠れする。
レギュラスは、枕元に座り直したアランの手を、そっと探した。
指先が触れ合う。
その温もりに、ささくれていた心が、少しだけ現実に繋ぎ止められる。
——封印を剥がす話。
——アランが犠牲にならずに済むかもしれないと言われた希望。
その全てが、この狭い寝室に持ち込まれようとしている。
頭痛も悪寒も、完全には引かない。
それでも、レギュラスは目を閉じずに、シリウスの次の言葉を待った。
アランの手を、決して離さないようにしながら。
シリウスの声は、寝室の空気にはあまりに荒々しかった。
「……東の方の術師だ。魂と封印を切り離すなんて、無茶な話を真面目に研究してる連中がいるらしい。
リーマスが文献を当たって、何人かツテも——」
そこまで聞いたところで、レギュラスの胸の奥から、嫌なざわめきがせり上がってきた。
「……っ、けほっ……ごほ、ごほっ……!」
喉を焼くような咳が、不意打ちのように襲ってくる。
腹筋に力が入り、熱を持った胸の内側がぎしぎしと痛む。
話を遮る気はなかった。
むしろ、シリウスの持ってきた「希望」の話は、最後まで聞いておくべきだと頭では分かっている。
けれど、身体がそれを許さない。
「レギュラス」
アランが椅子から身を乗り出した。
慌てて彼の背中に手をまわし、上体を支えるように軽く抱き起こす。
温かい掌が、背中をゆっくりとさすった。
そのたびに、ひっかかっていた咳が少しずつ流れ落ちていく感覚がある。
「っ……は……」
乾いた喉に、空気が荒く出入りする。
胸が上下するたびに、枕がわずかにきしんだ。
シリウスは言葉を切り、眉をしかめてその様子を見ていた。
「……大丈夫かよ」
声には、苛立ちとも心配ともつかない色が混ざっている。
レギュラスは返事をしようとして、また肺の奥がびくりと痙攣するのを感じた。
「……っ、ごほ、……ごほっ……!」
咳が、止まらない。
肺の奥に溜まっていた熱と痰が、無理やり押し出されるたびに、喉の粘膜がざりざりと削られていくようだ。
涙腺までじんわりと熱を帯びる。
アランは、レギュラスの背中をさすりながら、杖を取り出した。
片手で彼を支え、もう片方で空中に文字を描く。
《咳止めの ポーションを 追加で もらいましょう》
描かれた文字は、すぐに霧のように消える。
アランはレギュラスの耳のそばで、そっと唇を動かした。
声にはならない。
けれど、その口の動きは、「すぐ戻ります」と言っているようだった。
レギュラスは、荒い息の合間に、小さく頷いた。
「……すみません、アラン」
掠れた声で謝ると、アランは首を振り、微笑む。
今度はシリウスの方を振り返り、杖を動かして短く書いた。
《少し 席を 外します》
《レギュラスを 頼みますね》
その文字に、シリウスは一瞬だけ目を細めた。
何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言わないまま閉じる。
「ポーションを取りに行くのか」
代わりに、それだけを確認するように呟いた。
アランは小さく頷き、レギュラスの背をもう一度だけ撫でてから、そっと上体を枕に戻した。
掛け布団を肩元まで引き上げ、熱の残る額に一瞬だけ指を触れさせる。
——すぐ。
声にならない約束だけを残し、アランは寝室の扉へ向かった。
使用人が慌てて扉を開ける。
アランのローブの裾が、光の筋の中をすっと通り過ぎた。
次の瞬間、扉は静かに閉じられる。
ぱたん、と金具の収まる音が、やけに大きく響いた。
寝室には、レギュラスとシリウス、二人だけが残される。
しばしの静寂。
レギュラスは、喉の奥に残った熱をやり過ごすように、浅く息を繰り返した。
その沈黙を破ったのは、シリウスだった。
「……みっともねぇな、お前」
投げ捨てるような口調。
しかし、その奥にわずかな戸惑いと苛立ちが混ざっているのを、レギュラスは聞き逃さなかった。
熱のおかげで、余計なところばかり感覚が鋭くなっている。
……好きで、こうなっているわけではありません。
そう言い返すほどの気力はない。
喉が痛い。
言葉をひとつ発するたびに、咳がその後を追いかけて来そうだ。
レギュラスは、枕に頭を沈めたまま、軽く目を閉じた。
返事をしないこと自体が、ある種の答えになるのを知っていながら。
それでも、今は「言葉を返さない」という選択をするしかなかった。
シリウスは、しばらく黙ってレギュラスの横顔を見下ろしていた。
熱でうっすら赤くなった頬。
いつもより少しだけ乱れた前髪。
額に貼られた冷たい布。
「昔から、無茶ばっかしやがってよ」
ぼそりと、吐き出すように言った。
「自分の身体が限界超えてることに気づかねぇふりして、
立ってりゃなんとかなると思ってんだろ」
レギュラスは、薄く目を開けた。
視界の中に、シリウスのシルエットがぼんやりと浮かぶ。
逆光になっているせいで、表情はよく見えない。
「……講釈は、あとにしてもらえますか」
ようやく絞り出した言葉は、いつもより幾分か刺々しさを含んでいた。
シリウスは鼻で笑った。
「余計な言葉を返したくねぇって顔してるわりに、ちゃんと刺してくんじゃねぇか」
レギュラスは答えない。
咳を誘発しないように、呼吸のリズムを意識して整えていく。
寝室の空気は、さっきよりも少しだけ重くなった気がした。
アランがいるだけで中和されていた何かが、彼女の不在とともに露わになっている。
シリウスは、ベッドの脇の椅子を足先で押し出し、乱暴に腰を下ろした。
「……どんなに偉そうに立っていようが、
寝込んじまえば、人間なんざこんなもんだな」
それは、嘲りとも、諦めともつかない響きだった。
レギュラスは目を閉じたまま、枕元で布がわずかに擦れる音を聞いていた。
喉は焼けるように痛い。
胸は重い。
頭は熱に浮かされ、考えようとするたびに鈍い痛みが走る。
それでも——
アランが戻ってくるまで、余計な言葉を吐いてまた咳を誘うつもりはなかった。
みっともないのは、百も承知だ。
だが、今この瞬間に限っては、「黙っている」という選択が、唯一の自尊心の守り方に思えた。
シリウスの視線が、どこか刺すように突き刺さる。
それを正面から受け止めるには、今はあまりにも体力が足りない。
レギュラスは、自分の喉の奥でまだくすぶっている咳を、必死に飲み込みながら——
閉じたまぶたの裏側で、アランの戻ってくる気配だけを、静かに待っていた。
シリウスが寝室に踏み込んだとき、いちばん最初に目に入ったのは——レギュラスではなかった。
アランだった。
薄暗い室内。
半ば閉ざされたカーテンの隙間から、淡い昼の光が一筋だけ差し込んでいる。
暖炉には小さな火が残り、空気はふんわりと温かい。
その真ん中で、アランがベッドに身を寄せていた。
細い手が、レギュラスの額に冷たい布を乗せ、ずれないようにそっと押さえている。
もう片方の手は、熱のこもった頬のあたりを指先で撫でるように触れていた。
その距離、その仕草、その表情——
すべてが、「ここが彼女の居場所だ」と語っている気がした。
胸の内側が、きゅっと軋んだ。
自分の名を呼ぶ声よりも、
「アラン」という名を呼ぶ自身の声よりも、先に。
——そこにいるのは、「妻を看病する夫」と「夫を看病する妻」だった。
しかも、ただの形式ばった夫婦じゃない。
甲斐甲斐しく、という言葉が、これほど似合う光景があるだろうかと思うほど。
アランは本当に、隅々まで気を配っていた。
額の布の温度を確かめ、
シーツの皺を指先で伸ばし、
レギュラスが少しでも寝返りを打ちやすいようにと、枕の角度を微妙に調整している。
レギュラスが目を開けるたびに、
翡翠色の瞳が「ここにいます」とでも言うように、静かに微笑んで応じる。
その一つひとつが、シリウスの胸を刺した。
心のどこかで、ずっと分かっていたことを、改めて突きつけられる。
これは、レギュラス・ブラックの寝室だ。
このベッドは、レギュラスとアランのものだ。
アランがタオルを替え、ポーションを運び、額に手を当てるのは——当然、レギュラスのためだ。
自分がどれだけアランを想っていようと、
この光景の中に「自分の席」なんて、最初から存在しない。
「アラン!」
勢いよく彼女の名を呼んだ自分の声が、妙に空回りして聞こえたのは、そのせいだ。
アランが、はっと顔を上げる。
レギュラスのすぐそば、ほとんどその胸元に頬が触れそうなほどの距離から、がばりと身体を起こした。
ほんの数秒前まで、何をしようとしていたのかは、見れば分かる。
レギュラスの方も、僅かに顔を上げかけていた。
その視線の先にあったのは、紛れもなくアランの唇だ。
悪寒とも熱とも違う種類の寒気が、背骨をなぞっていく。
勝手に、自分で好きになった。
勝手に、愛した。
そのこと自体は、とうの昔に認めている。
自分は、アランがレギュラスと結婚した「後」に出会ったことも、
先に妻として迎えた男がいるのだという動かしようのない事実も、理解している。
それでも——
彼女の中にも、どこかで……
シリウスは、心の奥底にひそんでいた小さな「自惚れ」を、苦々しく噛みしめた。
アランの中にも、自分と共に生きていく、という選択肢が。
ほんの一瞬でも、迷いの中で紛れ込んだ瞬間が、きっとあったのではないか。
レギュラスのいない夜。
湖畔で二人きりで笑い合った時間。
手を取って逃げた石段。
静かな談話室で、彼女が見せた、誰にも見せない顔。
あの一つひとつの瞬間の中で——
シリウスは勝手に、「もし」と「いつか」を夢見てきた。
もし、あのとき手を引いて走り出していたら。
いつか、彼女がすべてを捨てて、自分の方を選ぶときが来たら。
そんな馬鹿げた幻想が、アランを想い続ける自分を支える核になっていた。
現実には、そうならないことも知っている。
アランがどれほど「妻」としてレギュラスの隣に立とうとしているかも、何度も見てきた。
それでも、「絶対にありえない」と切り捨ててしまえば、
自分の中で何かが音を立てて折れてしまう気がして。
だから、ずっと、心のどこかでこう思っていたのだ。
——彼女の世界の片隅に、ほんの少しだけでも、自分の居場所があるのだと。
だが、今目の前にある光景は、その自惚れを鮮やかに打ち砕いてくる。
アランにとってのレギュラスの大きさが、嫌でも分かってしまうからだ。
額に触れる手つき。
体調を気遣う目の動き。
「今は休んでください」と、杖で綺麗に描いた文字。
その全部が、シリウスには眩しすぎる。
レギュラスがアランを救い出したことは、知っている。
ヴォルデモートのもとから、危険な取引をして連れ出したことも。
どれほど汚い手を使ってでも、妻を守ろうとしてきた男だということも。
そんなものは、頭では理解していたつもりだった。
だが、「寝込んでいる夫の枕元に寄り添う妻」という、あまりにも日常で、あまりにもささやかな光景の前では——
その理解は、まるで意味をなさなくなる。
アランが、当たり前のようにレギュラスの世話を焼いている。
当たり前のように、濡れタオルを替え、ポーションを差し出し、「ここにいます」とそれだけを伝えている。
そこに入り込む余地はない。
自分が勝手に夢見ていた、“もしも”や“いつか”の場所は、
最初から、レギュラスのために用意されていたのだと、今さら突きつけられる。
「お前の封印の力をそれだけ剥がせるかもしれねぇんだ!」
勢いよく放った言葉が、わずかに震えていたことに、シリウス自身は気づいていなかった。
アランを救いたい。
アランを犠牲にしない道を探したい。
その想いは、本物だ。
自分の中で、その願いが偽りだと思ったことは、一度もない。
でも——今、ベッドの上で弱々しく息をしている男の存在が、
同時にシリウスの胸をきりきりと締め付けてくる。
自分は、どこまでいっても“外側”なのだと。
アランが甲斐甲斐しく気遣うのは、レギュラスだ。
彼女が一番に名を呼ぶのは、たぶん最後まで、レギュラスだ。
自分は——
そこから溢れた光の一部を、遠くから羨みながら眺めているだけの存在。
勝手に好きになって、
勝手に愛して、
勝手に「お前を幸せにしたい」なんて口にして。
そのくせ、彼女の世界の中心にいる男のことを、いつまでも憎みきれずにいる。
「……みっともねぇなお前」
アランが部屋を出て、レギュラスと二人きりになったとき。
喉の奥から出てきた言葉は、どちらに向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
熱にうなされて咳き込むレギュラスに向けてか。
アランに執着しながら、その甲斐甲斐しさに嫉妬している自分自身に向けてか。
たぶん、その両方だ。
レギュラスは返事をせず、目を閉じたまま咳をこらえている。
その横顔を見つめながら、シリウスは奥歯を噛みしめた。
それでも……自分は、彼女を生かしたいって思ってる。
アランを。
そして、アランが愛してやまない、このみっともない男も。
それが、さらに胸を刺してくる。
勝手に愛し、勝手に憎み、それでも結局、彼らの生存を願っている自分。
そんな矛盾だらけの感情が、シリウス・ブラックという男の核になってしまっているのだと、痛感せざるを得なかった。
やがて——廊下の向こうから、アランの足音が近づいてくる。
ポーションの瓶を持って戻ってくる、その気配だけで。
この部屋の重心が、再びレギュラスとアランの方へと引き寄せられていくのを、シリウスはひしひしと感じた。
自分は、その外側に立っている。
それでも、部屋の外には出ない。
扉の前からも引き下がらない。
胸を刺す痛みを押し隠しながら、
シリウスは静かに息を吐いた。
——勝手に愛した男の、勝手な矜持だけを頼りに。
