3章
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翌朝、頭痛はきっちり約束通りにやって来た。
目を開ける前から分かっていた。
こめかみの奥を鈍い槌で叩かれているような痛みと、口の中に残る乾いた苦味が、その予告だった。
レギュラスは枕に顔を半分埋めたまま、ゆっくりと片手を額に当てた。
(……最低だ)
酒に弱いわけではない。
むしろ、人並み以上には扱い慣れているはずだった。
仕事の席で飲むときには、節度も加減も知っている。
にもかかわらず——昨夜は、見事にその歯止めが外れていた。
脳裏に、ぼんやりとした断片が浮かんでは消える。
ジンの瓶。
黒い革張りのソファ。
静かな書斎の扉。
そして——アランがやって来たこと。
指で、掌に文字を書いてくれたこと。
寝室に行きましょう、と。
身体が痛くなります、と。
そこまでは、まだいい。
問題は、その後だ。
「……っ」
レギュラスは、思わず額を押さえる手に力を込めた。
シリウス・ブラックと——したのか。
どんなキスをしたのか。
その問いを、確かに自分は口にしていた。
酔いのせいだと片づけるには、あまりにもみっともない。
プライドという言葉があった場所を、昨夜の自分がズタズタに引き裂いていった気がする。
アランは……否定した。
そこだけは、はっきり覚えていた。
一度もありません、と。
震えながらも、綺麗な字で掌に書いてくれたこと。
キスのことを問われたときには沈黙し、
「なぜ急に、そんなことを」と問い返してきたこと。
——否定してくれて、良かった。
今になってようやく、その結論に辿り着く。
昨夜は、ただ苛立ちと嫉妬で頭がいっぱいだったが、今は少しだけ冷静に考えられる。
あの場で、もしアランが別の答えを選んでいたら。
たとえば、
『一度だけ、そういうことがありました。すみません』
そう書いたとしたら。
あるいは、シリウスとのキスの内容を、淡々と並べ立てたとしたら。
レギュラス・ブラックという男は、その瞬間に壊れていたのかもしれない。
自分には、セラ・レヴィントンとの関係がある。
それを棚に上げていることなど、分かり切っている。
アランが体調を崩し、屋敷の中が重苦しい空気で満たされていた頃。
現実から逃げるように、マグル界の境界の向こう側で出会った、金髪の混血の魔女。
欲に任せて、都合のいい時だけ呼び出し、都合のいい時だけ抱いた女。
その関係を「間違いだった」と切り捨てることは簡単だ。
だが、その間違いが、確かにアランの心を刺した。
市場で偶然に顔を合わせるほどには長く、
騎士団に利用されるほどには、互いの存在が世の中に露呈している。
セラとのことを終わらせるつもりだった。
アランが気づく前に。
すべてを清算し、境界を閉じ、許可証も小切手も渡し、それで終わりにするはずだった。
——なのに、だらだらと続けた。
「逃げ場」として。
「欲のはけ口」として。
「仕事の負担を忘れるための時間」として。
結果として、アランの心を裂いた。
ステラにも、アルタイルにも、屋敷全体にも、余計な影を落とした。
そんな自分が、アランとシリウスの間に、自分とセラの間にあったようなものが重ねられていたとしたら——と想像する。
アランが、自分に向けていた笑みを、
病室で、枕元で、同じようにシリウスに向けていたとしたら。
レギュラスは、思わず目を閉じた。
心が折れるという表現では足りない。
ブラック家の当主である前に、一人の男として、自分という存在が根本から崩れ落ちていく想像しか浮かばなかった。
俗に言う「どっちもどっち」というやつだ。
自分にも非がある。
裏切りの形をとったのは、自分の方が先だ。
だから、もし同じ痛みが降ってきても、アランを「一方的に」責め立てることはできない。
それを理解してしまえるだけに、余計に苦しかった。
そして、その苦しみを想像できてしまった今——昨夜の己の問いは、倍以上の重さでのしかかってくる。
レギュラスが、片腕で目元を覆ったその時だった。
寝室の扉が、そっとノックもなく開いた。
軋む音ひとつ立てまいとするような、慎重な動きだった。
薄い光の差し込む隙間から、アランの姿が現れる。
長い黒髪を後ろで少しだけまとめ、
淡い色のローブに、紐で留めたエプロンを重ねている。
両手にはトレイ——その上には小さな瓶が一本と、空のグラスが一つ。
彼女は静かに近づき、ベッドの脇のサイドテーブルにトレイを置いた。
翡翠色の瞳が、レギュラスの顔を覗き込む。
——目が覚めましたか?
——体調はどうですか?
そう問いかけているのが、言葉にしなくても分かる視線だった。
レギュラスは、枕から顔を少しだけ上げた。
「……ええ。頭が、割れるようですが」
自嘲混じりの返事に、アランの瞳がほんの少し細められた。
怒っている様子はない。
呆れているのか、心配しているのか、その両方の色が混じっている。
彼女は杖を取り出すと、宙に小さく文字を描いた。
《酔い覚ましです》
《飲みますか》
瓶を指先で示す。
深い琥珀色の液体が、ガラスの中でゆらゆらと揺れた。
レギュラスは、少しだけ笑った。
「あまり効いた試しがない薬ですが」
そう言いながら、起き上がろうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。
思わず顔をしかめる。
アランが慌てて手を差し伸べる。
肩と背中にそっと手を添え、彼を支えながら上体を起こした。
その所作は、もう何度も繰り返されてきたものだ。
闇祓いとして傷を負って帰ってきた夜。
法務部での激務のあと、ベッドに倒れ込んだ日。
何度、同じように起こしてもらったか分からない。
それでも、今はその優しさが、どこか痛かった。
「……すみません、昨日は」
レギュラスは、視線を落としたまま言った。
「見苦しいところを、ずいぶん見せてしまったようですね」
アランは一瞬だけ瞬きをしてから、ふわりと微笑んだ。
咎めるでもなく、責めるでもなく。
ただ、「分かっています」とでも言うように。
昨夜の自分が、どれほどみっともなかったか。
シリウスの名をどれだけ乱暴に口にし、どれだけ幼稚な問いを繰り返したか。
アランは、全て見ていたはずだ。
それでも、彼女は何一つ責めない。
レギュラスは、その事実が、かえって胸の奥を締め付けるのを感じた。
シリウス・ブラックとセックスをしたのか——
あの問いを、はっきりと覚えている。
アランが、首を振って否定したことも。
「一度もありません」と書かれた文字も。
その記憶は、頭痛の隙間からもはっきりと浮かんでくる。
……良かった
今さらながら、そう思う。
セラとのことを棚に上げている自覚はある。
自分がしたことの方が、よほど悪質だとも分かっている。
それでも、もし本当に、アランとシリウスの間に、自分とセラの間にあったものと同じものが存在していたとしたら——
それは、もうレギュラス・ブラックという男の許容量を超えていた。
自分がアランの心を刺したように、
同じ痛みが戻ってくるとしても。
そこに「シリウス」という名前が刻まれていることが、耐えがたかった。
アランは、グラスに酔い覚ましのポーションを注ぎながら、ちらりと視線を上げた。
《効き目は 弱いですが》
杖先で、テーブルの上に小さくそう書く。
《飲まないよりは ましですよ》
レギュラスは、苦笑した。
「……あなたに持ってきてもらったというだけで、効き目は倍増している気がしますよ」
半分冗談のつもりだった。
だが、言った瞬間、自分でも顔が熱くなるのを感じた。
アランは、目を丸くし、それから小さく笑った。
声のない笑い。
それでも、その笑みは確かに「救い」のように胸に入ってくる。
グラスを受け取る。
琥珀色の液体は、相変わらず薬草と金属のような妙な匂いがした。
ひと息で飲み干すと、喉の奥に苦味がまとわりつく。
頭痛が一瞬だけ強くなり、それから、じわじわと遠のいていく気がした。
たいして効いた試しのない薬だ。
理屈で考えれば、気休め程度の効果しかないのだろう。
それでも今は、その「気休め」が、ことさらに特別に思えた。
アランが、眠たげな目を細めてこちらを見ている。
——大丈夫ですか。
——少しは楽になりましたか。
そう問いかけている目だ。
レギュラスは、小さく頷いた。
「ええ。だいぶ、ましになりました」
実際には、頭痛の半分も引いてはいない。
だが、胸の中に渦巻いていた昨夜のざらつきが、少しだけ和らいだのは事実だった。
アランが、安堵したようにほんの少し肩を緩める。
その何気ない仕草を見ていると、ふと、胸の奥に新しい痛みが生まれた。
——自分はいつか、この人に、ちゃんとすべてを話さなければならない。
セラ・レヴィントンとのことも。
孤児院のことも。
自分が背負ってきた血も、罪も、逃げ続けた弱さも。
そして、その時。
もしアランが、自分の知らない誰か——たとえば、シリウス・ブラックに向ける感情を告げたとしても、
自分は、彼女を「一方的に」責める資格を持たない。
それが、今朝ようやく突きつけられた結論だった。
プライドは、確かにズタズタになった。
だが、その破片の隙間から、どうしようもなく人間じみた現実が顔を出している。
レギュラスは、グラスをテーブルに戻し、そっとアランの手を取った。
「ありがとうございます、アラン」
それだけを言う。
アランは、一瞬だけ驚いたように瞬き、
それから、いつもの静かな微笑みで頷いた。
酔い覚ましのポーションが、どれほど役に立ったかは分からない。
けれど、この薬を「アランから受け取った」という事実だけは、確かに彼の心を支えていた。
頭痛とともに残された昨夜の記憶は、痛々しいままだ。
それでも——今朝、この寝室に差し込む光の中で。
レギュラスは、自分がまだ「ここでやり直せる」と信じたい衝動を、
ほんの少しだけ、許してやることにした。
頭痛だけだと思っていた。
ジンの残滓が、まだ脳の奥に張りついているのだと。
こめかみを刺すような痛みと、目の裏側の重さを、レギュラスはいつもの二日酔いと同じものだと判断していた。
けれど、ひとつ深く息を吸った瞬間、肺の奥にひやりとした違和感が走る。
「……寒い」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
寝室はいつも通り暖かい。
カーテン越しに差し込む朝の光は柔らかく、暖炉にはほどよい火が残されている。
にもかかわらず、背筋の内側だけがじわじわと冷えていく感覚があった。
布団を引き寄せようと腕を動かすたび、関節がずきりと痛む。
喉の奥には薄い痛みと、微かな火照りがあった。
レギュラスは、ようやく悟った。
「風邪まで、いただきましたか」
冗談めかして呟いてみても、笑う余裕はあまりなかった。
山積みになっているはずの仕事の山が、頭の中に浮かぶ。
法務部長官の机の上で、今この瞬間も増え続けているであろう書類。
レギュラスの決裁を待つ案件。
狼人間の食殺許可法に関する報告書、新たな関所の設置案、騎士団との協議の日程調整——
考えれば考えるほど、ため息しか出てこない。
なぜ、こうも重なるんでしょうね。
昨夜の酒。
シリウスの件でこじらせた感情。
そして、今朝訪れた風邪の予兆。
「最悪のタイミング」という言葉は、こういう時のためにあるのだろう。
そんなふうに自嘲していると、不意に布団の端が少しだけ持ち上がった。
レギュラスは視線だけを向ける。
アランが、そこにいた。
静かに椅子を近づけ、ベッドの脇に腰を下ろす。
手には、先ほどの酔い覚ましの瓶とは別の、小さなフラスコを持っていた。
中には淡い緑色の液体が揺れている。
《熱と 悪寒の ポーションです》
杖を軽く振ると、空中にうっすらと文字が浮かんだ。
いつものように整った、読みやすい筆致だった。
レギュラスは、少しだけ身体を起こそうとして、あっさり失敗した。
頭痛と、背中を走る悪寒が足を引っ張る。
アランは慌てることなく、いつものように彼の肩と背中に手を添え、ゆっくりと支え起こした。
ふわりと布団の中に冷気が入り込む。
その瞬間、レギュラスの身体がびくりと震えた。
「……寒いですね」
漏れた声に、アランは小さく頷き、杖を軽く振る。
暖炉の火がひときわ強くなり、室内の温度がじわりと上がっていく。
グラスに緑色のポーションを注ぎながら、アランはちらりと彼を見た。
翡翠色の瞳が、「飲めますか」と問いかけている。
「ええ、いただきます」
グラスを受け取り、少しだけ口をつける。
薬草と柑橘のような、微妙な香り。
舌に残る甘苦さは、決しておいしくはないが、嫌いでもない。
喉を通り過ぎるとともに、胃のあたりにほんのりと温もりが広がった。
しばらくして、アランは彼の背を支えたまま、空いた方の手をそっとレギュラスの掌に滑り込ませる。
指先が、ゆっくりと動き始めた。
《今は ゆっくり 休んでくださいね》
文字が、一画ずつ、丁寧に描かれていく。
そのたびに、微かな温もりと、皮膚をくすぐるような感触が走る。
レギュラスは、目を閉じた。
仕事のことが、頭を離れない。
関所の報告書も、新しい対抗薬の試験結果も、山ほどある決裁書類も、今この瞬間も机の上で彼を待っている。
騎士団との溝も、埋まる気配はない。
ジェームズ・ポッターが「保留」としたあの決断。
ステラが地下室から持ち帰ってきた、あの冷たい視線。
シリウスの、情けないほど真っ直ぐな顔。
考え始めれば、いくらでも不安材料は出てくる。
だが——
アランの指が掌の上をすべっていくたびに、そのざわつきが少しずつ遠ざかっていくのを感じた。
《仕事は あとで 取り戻せます》
《体を 壊したら 取り戻せません》
ひとつひとつ、短い文が手のひらに刻まれていく。
そのどれもが、過剰な慰めではない。
理屈としても真っ当で、現実的な言葉だ。
レギュラスは、薄く笑った。
「そう言って、僕を甘やかすのが上手いですね、あなたは」
アランは、少しだけ首をかしげた。
腕を動かし、また文字を書く。
《甘やかし では ありません》
《お願い です》
レギュラスの胸の奥で、何かがふっとほどけた。
昨夜まで、心の内側はささくれ立っていた。
レギュラス自身が誰よりも自覚している。
騎士団に対する苛立ち。
世界に向けられる期待と敵意。
ブラック家として背負っているもの。
そして、アラン、ステラ、アルタイル——愛してやまないものたちを守るために、どこまで自分を削るかという焦燥。
そのささくれだった表面に、アランの指先が、ゆっくりと絹を滑らせていくように触れていく。
乱暴に押さえつけない。
慰めすぎもしない。
ただ、「ここにいる」という事実を、掌から静かに伝え続ける。
レギュラスは、いつのまにか、深い呼吸をしていた。
鼻から取り込んだ空気が、少しひんやりして、肺の奥で温まっていく。
それが、ゆっくりと全身に巡り、悪寒と熱の境界線を、ほんの少しだけ曖昧にしてくれる。
「……こうしていると」
かすれた声で、ぽつりと漏らす。
「何もしなくても、世界は勝手に回っている気がしてきますね」
アランが、少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、静かに微笑む。
《少しのあいだ 世界には 待ってもらいましょう》
《あなたは ここで 寝ていていいです》
その言葉が、あまりにも単純で、あまりにも難しいことだと、レギュラスは知っていた。
法務部長官として、
ブラック家の当主として、
ヴォルデモートと騎士団の間で綱渡りを続ける男として——
本来、「寝ていていい」と許される時間など、どこにもない。
だが、今この瞬間だけは。
アランがそう書いてくれた掌の中だけは、例外として受け取ってもいいような気がした。
「……わがままを、聞いてもらいましょうか」
レギュラスは、掌をゆっくりと握り込む。
アランの指を包み込むように。
「今日は、あなたが見ている世界の時間で、過ごさせてください」
アランは、きょとんとした顔をした。
レギュラスは、苦笑する。
「僕の世界は、いつも騒がしすぎるのでね。
あなたの静かな世界の中に、少しだけ混ぜてほしいんです」
アランは、ゆっくりと頷いた。
それから、レギュラスの手をそっと布団の上に戻し、掛け布団を肩まで引き上げる。
温もりが、身体の上から重ねられていく。
冷えていた背中が、少しずつ自分の体温を取り戻していく。
アランは椅子から立ち上がらなかった。
そのまま、ベッドの脇に座り続けている。
杖を取り出し、宙に小さく文字を書く。
《しばらく ここに います》
《仕事のことは 考えないで》
《眠ってください》
レギュラスは、目を閉じた。
仕事のことを考えるなと言われて、完全に忘れられるほど器用ではない。
だが、「考えてはいけない」と自分に命じるのではなく、「考えなくていい」と言われることが、こんなにも楽になるとは思わなかった。
アランの気配が、すぐそばにある。
椅子のきしむ小さな音。
布を指でなぞる、ごくかすかな気配。
時折、彼女がこちらの額に手を当てて熱を確かめる、冷たいけれどやさしい掌の感触。
そのひとつひとつが、ささくれだっていた心を、なだらかな丘のように撫でならしていく。
……こうして、何もしないでいる時間が
こんなにも、自分を「人間」に戻してくれるのかと。
レギュラスは、ぼんやりとした意識の中で、ふと思った。
法務部長官でもなく、ブラック家の当主でもなく。
ただ、アラン・ブラックの夫であり、
ステラとアルタイルの父であるというだけの自分。
その自分が、布団の中にいる。
アランと同じ空間を、ただ共有している。
それだけのことが、罪悪感ではなく安堵として胸に広がっていくのを感じながら——
レギュラスは、静かにまぶたを閉じた。
頭痛も、悪寒も、完全には消えていない。
それでも、その上にそっと重ねられたアランの気配が、柔らかな毛布のように心を温めていく。
仕事は、確かに待っている。
世界も、止まってはくれない。
それでも——今だけは。
アランの書いた「今はゆっくり休んでくださいね」という文字が、掌の中でじんわりと温もりを保ちながら、彼を眠りへと誘っていた。
目を開ける前から分かっていた。
こめかみの奥を鈍い槌で叩かれているような痛みと、口の中に残る乾いた苦味が、その予告だった。
レギュラスは枕に顔を半分埋めたまま、ゆっくりと片手を額に当てた。
(……最低だ)
酒に弱いわけではない。
むしろ、人並み以上には扱い慣れているはずだった。
仕事の席で飲むときには、節度も加減も知っている。
にもかかわらず——昨夜は、見事にその歯止めが外れていた。
脳裏に、ぼんやりとした断片が浮かんでは消える。
ジンの瓶。
黒い革張りのソファ。
静かな書斎の扉。
そして——アランがやって来たこと。
指で、掌に文字を書いてくれたこと。
寝室に行きましょう、と。
身体が痛くなります、と。
そこまでは、まだいい。
問題は、その後だ。
「……っ」
レギュラスは、思わず額を押さえる手に力を込めた。
シリウス・ブラックと——したのか。
どんなキスをしたのか。
その問いを、確かに自分は口にしていた。
酔いのせいだと片づけるには、あまりにもみっともない。
プライドという言葉があった場所を、昨夜の自分がズタズタに引き裂いていった気がする。
アランは……否定した。
そこだけは、はっきり覚えていた。
一度もありません、と。
震えながらも、綺麗な字で掌に書いてくれたこと。
キスのことを問われたときには沈黙し、
「なぜ急に、そんなことを」と問い返してきたこと。
——否定してくれて、良かった。
今になってようやく、その結論に辿り着く。
昨夜は、ただ苛立ちと嫉妬で頭がいっぱいだったが、今は少しだけ冷静に考えられる。
あの場で、もしアランが別の答えを選んでいたら。
たとえば、
『一度だけ、そういうことがありました。すみません』
そう書いたとしたら。
あるいは、シリウスとのキスの内容を、淡々と並べ立てたとしたら。
レギュラス・ブラックという男は、その瞬間に壊れていたのかもしれない。
自分には、セラ・レヴィントンとの関係がある。
それを棚に上げていることなど、分かり切っている。
アランが体調を崩し、屋敷の中が重苦しい空気で満たされていた頃。
現実から逃げるように、マグル界の境界の向こう側で出会った、金髪の混血の魔女。
欲に任せて、都合のいい時だけ呼び出し、都合のいい時だけ抱いた女。
その関係を「間違いだった」と切り捨てることは簡単だ。
だが、その間違いが、確かにアランの心を刺した。
市場で偶然に顔を合わせるほどには長く、
騎士団に利用されるほどには、互いの存在が世の中に露呈している。
セラとのことを終わらせるつもりだった。
アランが気づく前に。
すべてを清算し、境界を閉じ、許可証も小切手も渡し、それで終わりにするはずだった。
——なのに、だらだらと続けた。
「逃げ場」として。
「欲のはけ口」として。
「仕事の負担を忘れるための時間」として。
結果として、アランの心を裂いた。
ステラにも、アルタイルにも、屋敷全体にも、余計な影を落とした。
そんな自分が、アランとシリウスの間に、自分とセラの間にあったようなものが重ねられていたとしたら——と想像する。
アランが、自分に向けていた笑みを、
病室で、枕元で、同じようにシリウスに向けていたとしたら。
レギュラスは、思わず目を閉じた。
心が折れるという表現では足りない。
ブラック家の当主である前に、一人の男として、自分という存在が根本から崩れ落ちていく想像しか浮かばなかった。
俗に言う「どっちもどっち」というやつだ。
自分にも非がある。
裏切りの形をとったのは、自分の方が先だ。
だから、もし同じ痛みが降ってきても、アランを「一方的に」責め立てることはできない。
それを理解してしまえるだけに、余計に苦しかった。
そして、その苦しみを想像できてしまった今——昨夜の己の問いは、倍以上の重さでのしかかってくる。
レギュラスが、片腕で目元を覆ったその時だった。
寝室の扉が、そっとノックもなく開いた。
軋む音ひとつ立てまいとするような、慎重な動きだった。
薄い光の差し込む隙間から、アランの姿が現れる。
長い黒髪を後ろで少しだけまとめ、
淡い色のローブに、紐で留めたエプロンを重ねている。
両手にはトレイ——その上には小さな瓶が一本と、空のグラスが一つ。
彼女は静かに近づき、ベッドの脇のサイドテーブルにトレイを置いた。
翡翠色の瞳が、レギュラスの顔を覗き込む。
——目が覚めましたか?
——体調はどうですか?
そう問いかけているのが、言葉にしなくても分かる視線だった。
レギュラスは、枕から顔を少しだけ上げた。
「……ええ。頭が、割れるようですが」
自嘲混じりの返事に、アランの瞳がほんの少し細められた。
怒っている様子はない。
呆れているのか、心配しているのか、その両方の色が混じっている。
彼女は杖を取り出すと、宙に小さく文字を描いた。
《酔い覚ましです》
《飲みますか》
瓶を指先で示す。
深い琥珀色の液体が、ガラスの中でゆらゆらと揺れた。
レギュラスは、少しだけ笑った。
「あまり効いた試しがない薬ですが」
そう言いながら、起き上がろうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。
思わず顔をしかめる。
アランが慌てて手を差し伸べる。
肩と背中にそっと手を添え、彼を支えながら上体を起こした。
その所作は、もう何度も繰り返されてきたものだ。
闇祓いとして傷を負って帰ってきた夜。
法務部での激務のあと、ベッドに倒れ込んだ日。
何度、同じように起こしてもらったか分からない。
それでも、今はその優しさが、どこか痛かった。
「……すみません、昨日は」
レギュラスは、視線を落としたまま言った。
「見苦しいところを、ずいぶん見せてしまったようですね」
アランは一瞬だけ瞬きをしてから、ふわりと微笑んだ。
咎めるでもなく、責めるでもなく。
ただ、「分かっています」とでも言うように。
昨夜の自分が、どれほどみっともなかったか。
シリウスの名をどれだけ乱暴に口にし、どれだけ幼稚な問いを繰り返したか。
アランは、全て見ていたはずだ。
それでも、彼女は何一つ責めない。
レギュラスは、その事実が、かえって胸の奥を締め付けるのを感じた。
シリウス・ブラックとセックスをしたのか——
あの問いを、はっきりと覚えている。
アランが、首を振って否定したことも。
「一度もありません」と書かれた文字も。
その記憶は、頭痛の隙間からもはっきりと浮かんでくる。
……良かった
今さらながら、そう思う。
セラとのことを棚に上げている自覚はある。
自分がしたことの方が、よほど悪質だとも分かっている。
それでも、もし本当に、アランとシリウスの間に、自分とセラの間にあったものと同じものが存在していたとしたら——
それは、もうレギュラス・ブラックという男の許容量を超えていた。
自分がアランの心を刺したように、
同じ痛みが戻ってくるとしても。
そこに「シリウス」という名前が刻まれていることが、耐えがたかった。
アランは、グラスに酔い覚ましのポーションを注ぎながら、ちらりと視線を上げた。
《効き目は 弱いですが》
杖先で、テーブルの上に小さくそう書く。
《飲まないよりは ましですよ》
レギュラスは、苦笑した。
「……あなたに持ってきてもらったというだけで、効き目は倍増している気がしますよ」
半分冗談のつもりだった。
だが、言った瞬間、自分でも顔が熱くなるのを感じた。
アランは、目を丸くし、それから小さく笑った。
声のない笑い。
それでも、その笑みは確かに「救い」のように胸に入ってくる。
グラスを受け取る。
琥珀色の液体は、相変わらず薬草と金属のような妙な匂いがした。
ひと息で飲み干すと、喉の奥に苦味がまとわりつく。
頭痛が一瞬だけ強くなり、それから、じわじわと遠のいていく気がした。
たいして効いた試しのない薬だ。
理屈で考えれば、気休め程度の効果しかないのだろう。
それでも今は、その「気休め」が、ことさらに特別に思えた。
アランが、眠たげな目を細めてこちらを見ている。
——大丈夫ですか。
——少しは楽になりましたか。
そう問いかけている目だ。
レギュラスは、小さく頷いた。
「ええ。だいぶ、ましになりました」
実際には、頭痛の半分も引いてはいない。
だが、胸の中に渦巻いていた昨夜のざらつきが、少しだけ和らいだのは事実だった。
アランが、安堵したようにほんの少し肩を緩める。
その何気ない仕草を見ていると、ふと、胸の奥に新しい痛みが生まれた。
——自分はいつか、この人に、ちゃんとすべてを話さなければならない。
セラ・レヴィントンとのことも。
孤児院のことも。
自分が背負ってきた血も、罪も、逃げ続けた弱さも。
そして、その時。
もしアランが、自分の知らない誰か——たとえば、シリウス・ブラックに向ける感情を告げたとしても、
自分は、彼女を「一方的に」責める資格を持たない。
それが、今朝ようやく突きつけられた結論だった。
プライドは、確かにズタズタになった。
だが、その破片の隙間から、どうしようもなく人間じみた現実が顔を出している。
レギュラスは、グラスをテーブルに戻し、そっとアランの手を取った。
「ありがとうございます、アラン」
それだけを言う。
アランは、一瞬だけ驚いたように瞬き、
それから、いつもの静かな微笑みで頷いた。
酔い覚ましのポーションが、どれほど役に立ったかは分からない。
けれど、この薬を「アランから受け取った」という事実だけは、確かに彼の心を支えていた。
頭痛とともに残された昨夜の記憶は、痛々しいままだ。
それでも——今朝、この寝室に差し込む光の中で。
レギュラスは、自分がまだ「ここでやり直せる」と信じたい衝動を、
ほんの少しだけ、許してやることにした。
頭痛だけだと思っていた。
ジンの残滓が、まだ脳の奥に張りついているのだと。
こめかみを刺すような痛みと、目の裏側の重さを、レギュラスはいつもの二日酔いと同じものだと判断していた。
けれど、ひとつ深く息を吸った瞬間、肺の奥にひやりとした違和感が走る。
「……寒い」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
寝室はいつも通り暖かい。
カーテン越しに差し込む朝の光は柔らかく、暖炉にはほどよい火が残されている。
にもかかわらず、背筋の内側だけがじわじわと冷えていく感覚があった。
布団を引き寄せようと腕を動かすたび、関節がずきりと痛む。
喉の奥には薄い痛みと、微かな火照りがあった。
レギュラスは、ようやく悟った。
「風邪まで、いただきましたか」
冗談めかして呟いてみても、笑う余裕はあまりなかった。
山積みになっているはずの仕事の山が、頭の中に浮かぶ。
法務部長官の机の上で、今この瞬間も増え続けているであろう書類。
レギュラスの決裁を待つ案件。
狼人間の食殺許可法に関する報告書、新たな関所の設置案、騎士団との協議の日程調整——
考えれば考えるほど、ため息しか出てこない。
なぜ、こうも重なるんでしょうね。
昨夜の酒。
シリウスの件でこじらせた感情。
そして、今朝訪れた風邪の予兆。
「最悪のタイミング」という言葉は、こういう時のためにあるのだろう。
そんなふうに自嘲していると、不意に布団の端が少しだけ持ち上がった。
レギュラスは視線だけを向ける。
アランが、そこにいた。
静かに椅子を近づけ、ベッドの脇に腰を下ろす。
手には、先ほどの酔い覚ましの瓶とは別の、小さなフラスコを持っていた。
中には淡い緑色の液体が揺れている。
《熱と 悪寒の ポーションです》
杖を軽く振ると、空中にうっすらと文字が浮かんだ。
いつものように整った、読みやすい筆致だった。
レギュラスは、少しだけ身体を起こそうとして、あっさり失敗した。
頭痛と、背中を走る悪寒が足を引っ張る。
アランは慌てることなく、いつものように彼の肩と背中に手を添え、ゆっくりと支え起こした。
ふわりと布団の中に冷気が入り込む。
その瞬間、レギュラスの身体がびくりと震えた。
「……寒いですね」
漏れた声に、アランは小さく頷き、杖を軽く振る。
暖炉の火がひときわ強くなり、室内の温度がじわりと上がっていく。
グラスに緑色のポーションを注ぎながら、アランはちらりと彼を見た。
翡翠色の瞳が、「飲めますか」と問いかけている。
「ええ、いただきます」
グラスを受け取り、少しだけ口をつける。
薬草と柑橘のような、微妙な香り。
舌に残る甘苦さは、決しておいしくはないが、嫌いでもない。
喉を通り過ぎるとともに、胃のあたりにほんのりと温もりが広がった。
しばらくして、アランは彼の背を支えたまま、空いた方の手をそっとレギュラスの掌に滑り込ませる。
指先が、ゆっくりと動き始めた。
《今は ゆっくり 休んでくださいね》
文字が、一画ずつ、丁寧に描かれていく。
そのたびに、微かな温もりと、皮膚をくすぐるような感触が走る。
レギュラスは、目を閉じた。
仕事のことが、頭を離れない。
関所の報告書も、新しい対抗薬の試験結果も、山ほどある決裁書類も、今この瞬間も机の上で彼を待っている。
騎士団との溝も、埋まる気配はない。
ジェームズ・ポッターが「保留」としたあの決断。
ステラが地下室から持ち帰ってきた、あの冷たい視線。
シリウスの、情けないほど真っ直ぐな顔。
考え始めれば、いくらでも不安材料は出てくる。
だが——
アランの指が掌の上をすべっていくたびに、そのざわつきが少しずつ遠ざかっていくのを感じた。
《仕事は あとで 取り戻せます》
《体を 壊したら 取り戻せません》
ひとつひとつ、短い文が手のひらに刻まれていく。
そのどれもが、過剰な慰めではない。
理屈としても真っ当で、現実的な言葉だ。
レギュラスは、薄く笑った。
「そう言って、僕を甘やかすのが上手いですね、あなたは」
アランは、少しだけ首をかしげた。
腕を動かし、また文字を書く。
《甘やかし では ありません》
《お願い です》
レギュラスの胸の奥で、何かがふっとほどけた。
昨夜まで、心の内側はささくれ立っていた。
レギュラス自身が誰よりも自覚している。
騎士団に対する苛立ち。
世界に向けられる期待と敵意。
ブラック家として背負っているもの。
そして、アラン、ステラ、アルタイル——愛してやまないものたちを守るために、どこまで自分を削るかという焦燥。
そのささくれだった表面に、アランの指先が、ゆっくりと絹を滑らせていくように触れていく。
乱暴に押さえつけない。
慰めすぎもしない。
ただ、「ここにいる」という事実を、掌から静かに伝え続ける。
レギュラスは、いつのまにか、深い呼吸をしていた。
鼻から取り込んだ空気が、少しひんやりして、肺の奥で温まっていく。
それが、ゆっくりと全身に巡り、悪寒と熱の境界線を、ほんの少しだけ曖昧にしてくれる。
「……こうしていると」
かすれた声で、ぽつりと漏らす。
「何もしなくても、世界は勝手に回っている気がしてきますね」
アランが、少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、静かに微笑む。
《少しのあいだ 世界には 待ってもらいましょう》
《あなたは ここで 寝ていていいです》
その言葉が、あまりにも単純で、あまりにも難しいことだと、レギュラスは知っていた。
法務部長官として、
ブラック家の当主として、
ヴォルデモートと騎士団の間で綱渡りを続ける男として——
本来、「寝ていていい」と許される時間など、どこにもない。
だが、今この瞬間だけは。
アランがそう書いてくれた掌の中だけは、例外として受け取ってもいいような気がした。
「……わがままを、聞いてもらいましょうか」
レギュラスは、掌をゆっくりと握り込む。
アランの指を包み込むように。
「今日は、あなたが見ている世界の時間で、過ごさせてください」
アランは、きょとんとした顔をした。
レギュラスは、苦笑する。
「僕の世界は、いつも騒がしすぎるのでね。
あなたの静かな世界の中に、少しだけ混ぜてほしいんです」
アランは、ゆっくりと頷いた。
それから、レギュラスの手をそっと布団の上に戻し、掛け布団を肩まで引き上げる。
温もりが、身体の上から重ねられていく。
冷えていた背中が、少しずつ自分の体温を取り戻していく。
アランは椅子から立ち上がらなかった。
そのまま、ベッドの脇に座り続けている。
杖を取り出し、宙に小さく文字を書く。
《しばらく ここに います》
《仕事のことは 考えないで》
《眠ってください》
レギュラスは、目を閉じた。
仕事のことを考えるなと言われて、完全に忘れられるほど器用ではない。
だが、「考えてはいけない」と自分に命じるのではなく、「考えなくていい」と言われることが、こんなにも楽になるとは思わなかった。
アランの気配が、すぐそばにある。
椅子のきしむ小さな音。
布を指でなぞる、ごくかすかな気配。
時折、彼女がこちらの額に手を当てて熱を確かめる、冷たいけれどやさしい掌の感触。
そのひとつひとつが、ささくれだっていた心を、なだらかな丘のように撫でならしていく。
……こうして、何もしないでいる時間が
こんなにも、自分を「人間」に戻してくれるのかと。
レギュラスは、ぼんやりとした意識の中で、ふと思った。
法務部長官でもなく、ブラック家の当主でもなく。
ただ、アラン・ブラックの夫であり、
ステラとアルタイルの父であるというだけの自分。
その自分が、布団の中にいる。
アランと同じ空間を、ただ共有している。
それだけのことが、罪悪感ではなく安堵として胸に広がっていくのを感じながら——
レギュラスは、静かにまぶたを閉じた。
頭痛も、悪寒も、完全には消えていない。
それでも、その上にそっと重ねられたアランの気配が、柔らかな毛布のように心を温めていく。
仕事は、確かに待っている。
世界も、止まってはくれない。
それでも——今だけは。
アランの書いた「今はゆっくり休んでくださいね」という文字が、掌の中でじんわりと温もりを保ちながら、彼を眠りへと誘っていた。
