3章
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その夜、屋敷はやけに静かだった。
いつもと同じように、執務室から書斎へと戻ってきたはずなのに、空気の温度が違って感じられる。
暖炉には火が落とされ、残り火だけが赤く燻っている。そのわずかな光が、壁一面の本棚と、黒い革張りのソファの縁を鈍く照らしていた。
レギュラス・ブラックは扉を閉めると、そのまま迷いなく棚の方へ向かった。
書物ではなく——酒が並ぶ一角。
整然と並べていたボトルのうち、無意識に手が伸びたのは、度数の高いジンだった。
「……」
コルクを乱暴に抜くと、グラスも使わず、そのまま瓶の口を唇に当てる。
透明な液体が喉へと流れ込んだ瞬間、焼けつくような熱が広がった。
食道をなぞり、胸のあたりでじりじりと火をつける。
それでも、もう一口、もう一口と、喉へ押し込んでしまう。
やがて、適当なところで瓶を棚に戻すと、その勢いのまま革張りのソファになだれ込んだ。
背もたれに身を預け、片腕を額に乗せる。
天井を見上げても、何も変わらない。
だが、視界を閉ざしてしまうと、さっきの廊下の光景だけが何度も再生された。
——シリウスの顔。
「……苛々する」
吐き捨てるような声が、静かな部屋に落ちた。
アランの名を聞いて、真っ先に浮かんだあの表情。
本気で何も知らされていなかったのだと分かった瞬間の、愕然とした目。
怒りと、驚きと、どうしようもない焦りが混じった、あの反応。
あれは——どう見ても、アランを思っている男の顔だった。
「分かりやすすぎるんですよ、あなたは」
片手で目元を覆いながら、低く呟く。
愛だの、守りたいだの、あの男の口から出てくる言葉は、どれも真っ直ぐで、腹立たしいほど濁りがない。
そのくせ、自分の属する組織が何をしていたかさえ知らずにいられた鈍さも持ち合わせている。
どこまでも「綺麗な場所」に立ったまま、愛を名乗ることができる男。
——利用してやる。
レギュラスは、そう決めていた。
彼の怒りも、罪悪感も、ジェームズへの信頼も。
すべて、アランに向けられた想いの延長線上にある。
ならば、その感情を騎士団の中に叩き込んで、少しでも亀裂を広げさせればいい。
次にアランの命を狙うとき、奴らがためらう一瞬を作れるのなら、それだけでも価値がある。
頭では、そう判断していた。
だが、目の前であの反応を見せられれば、感情がそれに従ってくれるとは限らない。
あの男が、妻の名を聞いて、あれほど露骨に色を変えた。
自分が投げた「思い人」という言葉に反応し、怒りとも羞恥ともつかない視線を向けてきた。
——気持ちがいいはずがない。
喉の奥に残るジンの熱が、胃のあたりでじくじくと燃え続けている。
それは酒のせいだけではなく、胸の中で燻る苛立ちにも似ていた。
「なんで、あんな男が」
誰もいない書斎で、ぽつりとこぼれる。
「……同じ感情を、妻に向けているんですかね」
誰に問いかけるでもない言葉が、天井にぶつかって消える。
シリウスの自由さ。
枷のない笑い方、迷いのない言葉。
自分とは正反対の、陽の色をした存在。
アランは、きっとそれを眩しそうに見つめていたのだろう。
レギュラスには、想像がついてしまう。
湖畔の風、夜の城、ふとした瞬間に見せる銀の笑い顔。
言葉を持たないアランが、彼の言葉にどれほど救われたか。
(自分がいなければ)
そう思ってしまう。
自分があの地下牢から彼女を連れ出さなければ。
ヴォルデモートと危険な取引をしてまで、「セシールの血」と「ホークラックスの封印」を繋ぎとめる橋渡しをしなければ。
アランの前に現れた「選択肢」の中に、シリウス・ブラックという男が、もっと自然に、違う形で立っていた可能性もあるのだと。
その未来を、レギュラスは認めたくなかった。
だからこそ、腹立たしくて仕方がない。
自分は、あれほど危険な取引をして、闇の帝王の元から彼女を救い出した。
地下の劣悪な環境から引き上げ、鎖を外し、地上の光の中に連れ戻した。
ホークラックスを封印させられ続けてきたその身を、せめて屋敷という枠の中では、何不自由ない生活を送れるようにしたつもりだった。
魔法省の中枢に立ち、世間の反感も批判も一身に集めながら、
その裏で、何度彼女の命を狙う刃から防いだか分からない。
「……なのに」
喉の奥で笑いがこみ上げる。
乾いた、笑う価値もない笑い。
肝心な時に何も知らされず、
圧倒的な殺意から守り抜いてくれることさえない——シリウス・ブラックという男に。
アランが、一瞬でも揺らされたことがある。
その事実ひとつで、レギュラス・ブラックの誇りは、ぐちゃぐちゃにかき回されている。
自分は、どれだけ血をかぶっても構わないと思ってきた。
世論に嫌われようが、アランに憎まれようが、騎士団に敵視されようが、構わなかった。
アランと子供たちさえ守れればいい。そのための悪魔役なら、引き受ける覚悟はできている。
だが——
それでも、最後に記憶に残る “光” が、あの男だとしたら。
そんな未来を想像してしまう自分が、心底みじめだった。
ジンの残りを再び手に取り、瓶の口を乱暴に傾ける。
液体が喉を刺すように流れ込み、涙腺の奥まで熱が届く。
「……あんな男」
呟きは震えてはいない。
淡々とした口調のまま、毒だけが濃くなっていく。
あんな男が、アランの中で“選択肢”だったことが許せない。
アランは、容赦なく自分の人生を変えてしまった女だ。
セシールという一族の血と呪いを抱え、声を失った、どうしようもなく厄介な女。
けれど同時に、レギュラス・ブラックという男の「生」を、取り返しのつかない形で縛り付けてしまった、たった一人の妻でもある。
その妻の中に、自分とは別の「もしも」の未来を封じ込めている男がいる。
嫉妬と言ってしまうには、あまりにも底が深かった。
書斎の扉が、控えめに二度、ノックされた。
こんな時間に誰が——と、レギュラスはうっすら開いたまぶたをゆっくり持ち上げる。
ジンの熱がまだ胃の底に残っていて、頭の芯がわずかにじんじんと重い。
「どうぞ」
かすれた声でそう返すと、静かに扉が開いた。
暖炉の残り火と、ランプの柔らかな光のあいだ。
影のように、アランが立っていた。
長い黒髪が肩に落ち、その輪郭を淡く縁取っている。
寝間着に上掛けだけを羽織った姿は、どこか頼りなく、それでもこの屋敷の中心そのもののように見えた。
アランは杖を持っていなかった。
まっさらな両手で、そっと扉を閉める。
そして、レギュラスの方へと歩み寄った。
「……アラン」
彼はソファに沈み込んだまま、上体だけを少し起こす。
頭が重い。酔いが回りすぎているのは自覚していた。
アランはソファの前まで来ると、軽く頭を下げ——
そのまま、そっとレギュラスの手を取った。
ひやりとした指先が、彼の掌に触れる。
次の瞬間、その指が、するすると柔らかく動き出した。
——文字を書く。
杖ではなく、指で。
自分の手のひらという、ごく小さな世界の中に。
《遅いから 心配しました》
なぞるような筆致が、肌の上に意味を刻んでいく。
一画ごとの微かな震えも、指の温度も、全てが直接伝わってくる。
それは、アランが「自分にだけ」見せる言葉の伝え方だった。
声を持たない彼女が、
大仰な宙の文字ではなく、ただ二人だけの秘密のように、
掌の上に言葉を落としてくる時——それは、ほとんど囁きに等しい。
レギュラスの胸の奥で、何かがきゅっと縮む。
「……すみません。眠りかけてました」
ソファから身を起こしながら、苦笑するように言う。
実際には、眠りかけていたというより、半分意識を手放していたのだろう。
ジンの瓶は、テーブルの脇に置かれたまま、中身が少し減っていた。
アランは、もう一度彼の手のひらを撫でた。
《寝室に 行きましょう》
《こんなところで寝ると 体が 痛くなります》
丁寧な文字。
まるで書のように美しい曲線。
(……本当に、あなたは)
酔いの霞の向こうから、慣れ親しんだやさしさがにじみ寄ってくる。
それすらも、今夜のレギュラスには、どこか焦げ付くように痛かった。
「起こしに来てくれたんですか」
問いかけながら、彼はアランの手首をそっとつかんだ。
逃げない程度の力で、しかし有無を言わせない強さで引き寄せる。
そのまま自分の隣に、すとんと沈み込ませた。
ソファのクッションが沈み、アランの身体が小さく揺れる。
距離が近い。寝室よりも、談話室よりも。
呼吸の気配が、はっきりとわかるほどに。
アランはわずかに目を見開き、それからおとなしく腰を落ち着けた。
杖はない。
その代わり、まだ繋いだままの手のひらに指先が戻ってくる。
《どうか しましたか》
短い問い。
レギュラスは、その動きを感じた瞬間、胸の奥にまた別の熱が灯るのを自覚した。
——シリウスにも、同じようにしたのだろうか。
不意に浮かんだ疑問が、思考の水面に落ちた石のように波紋を広げる。
この、掌にだけ落とされる言葉。
誰にも見られない、誰にも読まれない、二人だけのやりとり。
それを、あの男にも。
自分で自分に吐き捨てたくなる。
だが、一度浮かんでしまった想像は、簡単には消えてくれない。
ジンで麻痺させていたはずの感情が、形を取り戻していく。
苛立ちと、嫉妬と、どうしようもない恐怖が、じわりと胸を浸していく。
「アラン」
呼びかける声が、少しだけ掠れた。
彼女が、じっと翡翠の瞳でこちらを見る。
その眼差しは、責めも疑いもなく、ただ静かな心配をたたえていた。
だからこそ、余計に、口を閉ざしていられなかった。
「正直に教えてください」
言い終わる前に、自分の言葉の行き先に気づきながらも、止められなかった。
「……シリウスと、したんです?」
空気が、一瞬で凍りつく。
アランの瞳が、驚きに揺れた。
次の瞬間、その翡翠の光が深く沈む。
沈黙が落ちる。
レギュラスの耳には、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
何を聞いているのか——と、自分でも思う。
法務部長官の口から出るにはあまりにも低俗で、夫の口から出るにはあまりにも惨めな問い。
それでも、飲み込めなかった。
アランは、しばらくの間、視線を落としていた。
それから、静かに首を振る。
否定の動き。
小さく、それでもはっきりと。
レギュラスは、笑った。
「いいんですよ、別に隠さなくても」
口元だけが笑っていた。
声には、乾いたひびが入っている。
「屋敷に来ていたことは、察していましたから」
実際、見たわけではない。
ふたりで寄り添う現場を、この目で確かめたわけではない。
けれど、空気が物語っていた。
アランの表情が、子供たちの落ち着きのなさが、
「誰かがいた」音の消えた残り香が。
妙に嘘をつき通そうとされる方が、よほど腹立たしい。
それならいっそ——
『一度だけそういうことがありました。すみません』
そう素直に認めて頭を下げられた方が、まだ気持ちがいいのかもしれないとすら思う。
何を考えているのか、自分でも分からない。
アランの指が、再び手のひらをなぞった。
《一度も ありません》
ゆっくりと、確かめるように。
震えを帯びながらも、字そのものは乱れない。
信じがたい。
だが、そう書く以上、そうなのだろう。
それを証明する術など、どこにもない。
アランの言葉を信じるしかない。
胸の奥で繰り返すように呟く。
それでも、心のざわつきは収まらなかった。
「じゃあ、なんです」
自分でも止められないと分かる口調で、レギュラスは続ける。
「キスの一つや二つくらいは——あったんでしょう」
ないわけがない、と心の中で吐き捨てる。
むしろ、そこで止まっている方が不自然だとすら思う。
あの男の性格を知っている。
アランの危うさも知っている。
「……」
アランは答えなかった。
ただ、指先が小さく震え、
それでも何かを書こうとして——途中で止まる。
代わりに、掌の上に浮かんだのはたった一文だけだった。
《なぜ 急に そんなことを 聞くのですか》
質問を、質問で返してくる。
その時点で、返答の半分は語られているようなものだった。
雄弁な沈黙。
否定ではなく、理由の方を問うその文字は、ほとんど肯定にも等しい。
レギュラスは、ゆっくりとアランの方へ身体を向けた。
「どんなキスをしたんです?」
声は低く、ひどく静かだった。
アランの肩が、びくりと震える。
逃れようとする気配はない。だが、その翡翠の瞳には、はっきりと戸惑いと恐れが浮かんでいた。
レギュラスは、そっと手を伸ばした。
親指の腹で、アランの唇に触れる。
やわらかな感触。
わずかに乾いた、その口もと。
「触れるだけのものでした?」
問いかけながら、親指でそっと輪郭をなぞる。
「それとも——」
唇がわずかに開いた瞬間を逃さず、
親指をそのまま押し分けるようにして、唇のあいだから忍び込ませた。
アランの身体がびくりと跳ねる。
喉の奥で、小さく息が詰まる音がした。
湿った温度が、指先を包む。
こんなふうに、と心の中で呟く。
「こんなふうに、深く。舌でも入れました?」
みっともない、と分かっていた。
嫉妬に火をつけ、自分でその火に油を注いでいる。
それでも、止まらなかった。
押さえつけていた感情が、一気に溢れ出している。
シリウスに向けられたかもしれない想像の重なりを、
ひとつひとつ、自分の手で塗りつぶしていくような衝動。
アランは、震えるまつげをきつく閉じていた。
唇から指をそっと抜くと、その翡翠の瞳が、罪悪感とも愛情ともつかない色で揺れる。
《……ごめんなさい》
指が、彼の掌にそう書いた。
何に対しての謝罪なのか。
シリウスとのキスか、揺らいだ心か、それとも——今目の前で崩れている自分のプライドに対してなのか。
レギュラスには、もう判別がつかなかった。
ただひとつ分かるのは、
今の自分が、法務部長官でも、冷静な策士でも、誇り高きブラック家の当主でもないということ。
ただ、妻に対してみっともなく嫉妬し、
兄の影に怯え、
それをどうしようもなくぶつけずにはいられない、狭量な男にすぎないということだけだった。
「…… アラン」
掠れた声で名を呼びながら、彼は彼女の肩を抱き寄せた。
止められない。
みっともないことぐらい、重々承知のうえで。
それでも、今は、どうしても。
彼女が「ここにいる」ことだけを、確かめたかった。
騎士団本部の一室は、夜の冷えをそのまま閉じ込めたように冷たかった。
窓の外では魔法省近くの街灯がちらちらと瞬き、薄汚れたカーテンの隙間から、その光が細い筋になって差し込んでいる。
長机の上には、作戦のメモや地図が乱雑に放り出されたままだった。
ついさっきまで、人が何人もここで声を荒げていたはずなのに、今は静まり返っている。
部屋の真ん中に、シリウスとジェームズが向かい合って立っていた。
沈黙だけが、そのあいだにぶら下がっている。
先に口を開いたのは、シリウスだった。
「……なぁ、ジェームズ」
いつものふざけた調子は欠片もない。
かといって怒鳴るでもない。
ぎりぎりで自制を保っている声だった。
ジェームズは腕を組み、シリウスから視線をそらさなかった。
その目の奥には、疲れと苛立ちが沈んでいる。
「なんだよ」
短く返す。
それだけで、お互いもう何の話をしようとしているのか分かっていた。
——妻が、ジェームズ・ポッターに二度殺されかけました。
魔法省の廊下で、レギュラスにそう告げられた瞬間から、
シリウスの頭の中ではずっと同じ言葉が響いている。
「アラン・ブラックは」
ジェームズが先に続けた。
感情を削ぎ落とした声だ。
「ホークラックスを封印してる。
セシール家の血筋が途絶えない限り、ヴォルデモートは完全には死なない」
その言葉は、何度も議論に出てきた文句の繰り返しだった。
だが今夜ほど、胸に刺さることはなかった。
「封印の器を残したまま、あいつだけ倒す方法は——今のところ見つかってない」
シリウスは、拳を握った。
爪が掌に食い込むほど強く。
「……分かってるよ」
絞り出すように言う。
「頭では分かってる。
アランを殺せば封印は壊れて、ヴォルデモートにとどめが刺せるかもしれない。
セシールの血を絶てば、ホークラックスは剥き出しになる。
理屈は、聞き飽きるほど聞いた」
ジェームズの眉がわずかに動く。
しかし何も言わない。
「けど——」
シリウスは一歩前に出た。
「頼む、ジェームズ」
その声には、懇願と怒りがないまぜになっている。
「アランを……子どもたちを殺さないでくれ」
空気が強張った。
ジェームズは目を閉じ、長く息を吐く。
「シリウス」
名前を呼ぶ声にも、疲弊が滲んでいた。
「僕だって、好きで言ってるわけじゃない。
アランを殺したいわけでも、ステラやアルタイルを殺したいわけでもない」
「じゃあ、なんでだよ」
シリウスの声が低く唸る。
「なんで俺だけ知らされなかった。
地下に呼び出した時も、メイラの親父の骨を餌にした時も——
なんで、俺だけ外に出された?」
ジェームズの喉がひくりと動いた。
「シリウス、君は」
ゆっくり視線を上げる。
「アランを愛してるからだ」
部屋の空気が止まった。
シリウスは、ほんの一瞬だけ目を見開く。
自分の心の底に沈めていた言葉を、他人の口からあっさり出されることが、妙に腹立たしかった。
「だったら尚更だろ」
唇が震える。
「愛してる女が、知らないところで殺されかけてて、黙っていられるかよ。
自分の手の届かない場所で、勝手に“必要な犠牲”って計算されてて——
それで、はいそうですかって頷けると思うか?」
「守れるのか?」
ジェームズが切り返した。
声は静かだが、内側に鋭さを孕んでいる。
「君に、アランを守れるのか。
ヴォルデモートからも、その配下からも、封印からも、騎士団からも。
全部、君一人で引き受けられるのか?」
シリウスは詰まった。
ジェームズは続ける。
「俺たちがやろうとしてるのは、“世界を守る”ことだ。
ホークラックスを全部叩き壊して、あいつをこの世から消すことだ」
シリウスは乾いた笑いを漏らした。
「世界のために、アランを差し出すのかよ」
「世界のためにアラン“だけ”で済むなら、安いもんだ」
ジェームズの声が少し荒くなる。
「実際は違う。
放っておけば、もっと死ぬ。
マグルも、魔法族も。
子どもだって、あの孤児院みたいに一晩で消える」
孤児院——。
レギュラスの話が、シリウスの頭をよぎる。
翡翠の瞳の少女。
その瞳と同じ色を持つ、ステラの顔。
「だからアランを殺すのか?」
声が震えた。
「お前の正義のためなら、あいつは死んでいい。
ステラとアルタイルも、“封印の副産物”だから消えても仕方ない。
そう言ってるのと、何が違う?」
ジェームズは目を逸らさない。
「……仕方ない、とは言ってない」
「言ってるも同然だろ!」
初めて、シリウスの声が爆ぜた。
「お前たちは、もう何度もあいつを殺す算段を立ててきた。
魔法省の地下に呼び出した時も、骨を餌にした時も。
“ヴォルデモート討伐の鍵”だなんて綺麗な言葉で包んで、
喉元まで刃を突きつけたんだ!」
ジェームズの表情が苦く歪む。
「……君に、あの場に立たせるわけにはいかなかった」
それは本音だった。
「君はアランを、レギュラスの妻として出会ってる。
法務部の執務室で座ってた、声を失ったあの女の顔を、直に見てる。
屋敷にも足を運んで、病床に座る彼女の隣に何度もいた。
そんな君に、あの女の喉元に杖を向けさせるつもりはなかった」
「優しさのつもりか、それ」
シリウスは笑った。
ひどく冷たい笑いだった。
「俺の手を綺麗なままに保って、何の意味がある。
アランが殺されたら——誰が殺そうと、その血は俺の手にもつくんだよ。
その重さを一緒に抱える機会すら奪っといて、
それを“守った”なんて言い方するな」
ジェームズは言い返せなかった。
本当は分かっているのだ。
シリウスを外したのは、アランへの想いを知っていたから。
けれどそれは同時に——シリウスの「覚悟」を信じ切れていない選択でもあった。
ジェームズは騎士団のリーダーだ。
常に「全体」に責任を負っている。
個人的な感情は、決断の前には削ぎ落とさなければならない。
「……分かるよ」
シリウスがぽつりと言った。
「お前が何を見て、何を計算して、誰を守ろうとしてるのか。
全部じゃねぇけど、分かる。
アラン一人だけ見てるわけじゃない。
世界の流れとか、未来とか、そういうデカいもんを見てるんだろ」
その口調には、皮肉だけじゃなく、確かな理解も含まれていた。
ジェームズは唇を噛む。
「じゃあ——」
「それでも許せねぇって話だよ」
シリウスが遮る。
「理解はできる。
だが許せねぇ。
俺の中の“正しさ”は、それをよしとしない」
彼は髪をかきむしり、俯いた。
あの日の光景が、ありありと浮かぶ。
黙って紅茶を運び、灰色の長官の背中を支えていた、翡翠色の瞳。
ブラック家の妻として、セシール家最後の生き残りとして、
もうとっくに自分の人生を誰かに捧げ終えていた女。
「もう誰かのもので、声もなくしてて、
それでも、笑おうとしてた」
シリウスの声が低く震える。
「あいつは、俺を救ったんじゃない。
勝手に俺が、救われちまっただけだ。
屋敷で見た笑顔とか、
病室で“ありがとう”って文字を書いてくれた指先とか。
そういうの全部、俺が勝手に抱えて、
“愛してる”なんて大袈裟な言葉まで付け足しただけだ」
ジェームズは黙って聞いている。
「だから、俺は——」
シリウスは顔を上げた。
灰色の瞳の奥で、火のような光がくすぶっている。
「世界を守るためだって言われても、
アランを差し出すことに頷けねぇ」
静かな告白。
「お前の正義も、騎士団の理想も、分からないわけじゃない。
でも俺の正しさは、それを“はいそうですか”とは受け取れない」
ジェームズは目を細めた。
「……じゃあ、どうする」
声が掠れている。
「アランを生かしたまま、ヴォルデモートを殺す方法があるのか?
封印の仕組みを書き換えるリスクを、誰が負う?
レギュラス・ブラックですら、まだ手をこまねいてる問題を、
僕たちがどうやって——」
「知らねぇよ!」
シリウスの叫びが、狭い部屋を震わせた。
「知らねぇから、こうしてぶつかってんだろうが!」
解決策なんて持っていない。
ただ「嫌だ」と言っているだけなのかもしれない。
それでも、黙って飲み込むことだけはできなかった。
「ただ一つ言えるのはな」
シリウスは肩で息をしながら続けた。
「“保留”で良かったってことだ」
ジェームズの肩がぴくりと動く。
「地下で、お前があいつを殺さなかったことだけは——
俺は感謝してる」
ジェームズは自嘲気味に笑った。
「保留なんて、格好のいいもんじゃない」
「知ってるよ」
「決断から逃げたんだ。
刃を振り下ろす勇気も、引き返す覚悟も持てなくて、
その場で立ち尽くした結果の“保留”だ」
あの時の手の震えを思い出す。
ステラの視線。
アルタイルの小さな手。
寝台の上で、声も上げられず、ただ涙を流していたアラン。
「……でもな」
ジェームズは続けた。
「君があそこにいたら、
僕は“保留”すら選べなかったかもしれない」
シリウスの呼吸が止まる。
「君が、アランの前に立って“やめろ”って叫んでたら。
僕は、逆にあの女を殺す決断をしたかもしれない。
騎士団の正義で、君の甘さを押し潰すために」
その告白は、ジェームズ自身にも苦痛だった。
「だから外した。
君を守るためでもあって、
僕が一線を越えないためでもあった」
シリウスはしばらく黙っていた。
本当は、どちらも分かっている。
ジェームズが、単純な冷酷さだけでアラン殺害計画を立てたわけじゃないこと。
シリウスが、ただの恋に酔った馬鹿ではないこと。
互いの立場も、恐怖も、願いも。
長い時間を共にしてきたからこそ分かってしまう。
だからこそ、余計に許せない。
「……なぁ、ジェームズ」
長い沈黙のあと、シリウスがぽつりと口を開いた。
「俺は、もう騎士団を降りろとは言わない。
お前がいなきゃ、この組織は散り散りになる」
ジェームズは黙って聞いている。
「でも——次にアランを殺す話が出た時、
今度こそ俺を外すないでくれ」
その声は震えていない。
「その場に立つ。
お前の決断も、騎士団の正義も、全部この目で見て、耳で聞く。
そのうえで、俺は俺の選択をする」
「それは——」
ジェームズが言いかけるのを、シリウスが遮った。
「お前を許すためじゃない。
俺が、俺を許すためだ」
互いの視線がぶつかる。
長くぶら下がっていた沈黙が、少しだけ形を変えた。
ジェームズは、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
短い返事。
「次にあいつの名が議題に上がったときは、お前も呼ぶ。
俺の正義がどれだけ醜いか、全部見せてやる」
シリウスの口元が、かすかに引きつる。
「その代わり」
ジェームズが続ける。
「お前も、自分の愛がどれだけ残酷になり得るか、ちゃんと見てろ」
アランを守りたいという願いが、
世界を脅かす引き金になるかもしれないことを。
シリウスは目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……ああ」
その夜、二人は和解しなかった。
許せないものは、そのまま許せないままだった。
理解できてしまうがゆえに、余計に苦しかった。
それでも——互いの「痛み」を抱えたまま、同じ戦場に立つことだけは、やめられなかった。
レギュラスの吐く息が、近すぎる距離で頬を撫でた。
かすかに熱を帯びたその吐息には、いつもの紅茶でも、仕事帰りのインクの匂いでもなく、強いアルコールの香りが混じっている。
鼻先をかすめるその匂いに、アランはようやく、部屋の隅に視線を向けた。
低いテーブルの上。
書類の山の横に、無造作に一本の瓶が置かれている。
ラベルの上を、暖炉の残り火が赤く照らした。
栓は開け放たれ、中身は目に見えて減っている。透明な液体が、ガラス越しにゆらりと揺れた。
——ジン。
喉を焼くようなその感覚を、アランは知らない。
けれど、レギュラスの吐息にまとわりつく鋭い香りが、それが相当強い酒であることを教えてくれていた。
(……酔っている)
そう理解した瞬間、胸の奥がざらりとざわついた。
さっきからの問いかけ。
“シリウスとしたのか”
“どんなキスをしたのか”
いつもの彼なら、決して口にしない種類の言葉。
その一つ一つが、酔いと嫉妬と恐怖の混ざった色を帯びて、アランの胸の内をひっかいていく。
「こんなふうに、深く。舌でも入れました?」
そう低く問われた時、レギュラスの親指はすでに彼女の唇のあいだから忍び込んでいた。
ひやりとした指先が、そこだけ異物のように、口内の柔らかさを乱す。
アランは、目を閉じた。
レギュラスの感情が分からないわけではなかった。
彼がどれほど自分を「手放したくない」と思っているか、何度もその腕の力で知らされてきた。
シリウスの名が、どれほど彼の誇りを傷つけるかも分かっている。
だからこそ——このままではいけない、と本能が告げていた。
(もう……やめましょう)
声は出せない。
文字を書くための杖も持っていない。
代わりに、今、彼女の口の中にあるのは、レギュラスの指。
どこか滑稽なほど、状況は単純だった。
アランは、そっとその指に歯を立てた。
強く噛んだわけではない。
壊してしまうほどの力など、込めていない。
それでも、十分に「痛み」として伝わるくらいには。
カチリ、とごく小さな音が、指先と歯のあいだに生まれた。
レギュラスの肩が、びくりと揺れる。
その灰色の瞳が、驚いたようにアランを見つめた。
アランは、その視線から逃げなかった。
ただ、静かに見返す。
——もうこの話は、終わりにしましょう。
そう告げるように。
じん、と口の中に、指先の体温と、ほんのわずかな苦みが残る。
アルコールの匂いが、さらに濃く舌の奥に絡みついた気がした。
レギュラスは、数秒のあいだ固まっていた。
やがて、アランの口からそっと指を引き抜くと、自分でも驚いたように、かすかな笑いを漏らした。
「……痛いですよ、アラン」
言葉とは裏腹に、その声にはどこか力が抜けている。
先ほどまでの、追い詰めるような嫉妬の鋭さが、少しだけ和らいでいた。
アランは、彼の手を離さないまま、すっと立ち上がった。
床に触れていた素足に、石の冷たさが伝わる。
室内の温度と対照的に、足裏だけが現実に引き戻されるようだった。
彼女は、握ったままのレギュラスの片手を、軽く引く。
——立って。
言葉にすればきっとそうなるであろう動きを、腕の引き方に載せる。
レギュラスは、一瞬だけ抵抗するように動かず、やがて観念したようにゆっくりと立ち上がった。
ソファの革が、彼の重みを失ってわずかにきしんだ。
もう片方の手で、自分の額を押さえながら、彼は短く息を吐く。
「明日、頭が痛くなりそうです」
苦笑の混じった声だった。
アランは、小さく瞬きをする。
——でしょうね、と心の中で呟く。
本当なら、それも文字にして掌に書いてやれたかもしれない。
けれど今は、杖もペンも持っていない。
そして何より、これ以上、言葉を重ねるべきではない気がしていた。
酔いでほどけたところに、言葉は刃にもなる。
レギュラスのプライドは、今まさに剥き出しの状態にある。
だから、選ばなかった。
言葉ではなく、行動だけを。
アランはそっと、レギュラスの指を握り直した。
その手は、先ほど噛んだせいか、ほんの少しだけ強張っている気がした。
彼女は、歩き出した。
書斎の扉へ向かう。
レギュラスの手を引き、振り返りもせずに。
廊下に出ると、夜の屋敷特有の静けさが、二人を包み込んだ。
時折、遠くで時計の針が進む音だけが聞こえる。
赤々と灯されていたはずの燭台も、今は控えめな光だけを残している。
レギュラスの足取りは、ほんの少しふらついていた。
アランはそれに合わせて歩幅を調整する。
彼の歩くリズムを、身体で覚えきっている。
階段を上がりながら、レギュラスがぽつりと呟いた。
「……僕は酔うと、ろくでもないことを言いますね」
アランは首を横に振った。
——いいえ。
そう伝えたい衝動が胸をよぎる。
本当は、「あなたが酔ってこんなふうに崩れるのは、それだけ私を失うことが怖いからでしょう」と書きたかった。
「シリウスのことを聞くのは、ただ嫉妬深いからじゃなく、私の心が自分から離れていった時間を想像してしまうのが怖いからでしょう」と。
けれど、それを文字にすれば、今日はきっと引き金になる。
この夜には、余計な真実も、慰めも、必要ない。
だからアランはただ、手を握る力をほんの少しだけ強くした。
——ここにいます。
——いなくなってなんかいません。
言葉にしない代わりに、その想いを指の圧に託す。
寝室の扉の前まで来ると、アランは片手を離してノブを回した。
ゆっくりと扉を押し開けると、柔らかな灯りと、整えられたベッドがそこにあった。
レギュラスは、しばらくその光景を眺めていた。
まるで、自分がここに戻ってきていいのかどうかを確認するかのように。
アランは振り返り、その灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、もう一度だけ彼の手を引いた。
——帰ってきて。
その一歩を、促す。
レギュラスは観念したように小さく息を吐き、寝室に足を踏み入れた。
アランは扉を静かに閉める。
ベッドの縁まで彼を誘導し、その肩に軽く手を添えて腰を下ろさせる。
彼のローブの襟を少し整え、ネクタイを緩め、上着を丁寧に外していく。
その一つ一つの所作に、余計な意味を持たせないように、しかしどこか祈るような気持ちで。
レギュラスが、ぼんやりとした目で彼女を見上げていた。
「…… アラン」
名を呼ぶ声は、先ほどまでの嫉妬に滲んだ響きではなく、
ただ疲れと安堵を混ぜ込んだ、素の声だった。
アランは微笑む代わりに、彼の額にそっと手を当てた。
熱はない。ただ、酒のせいか、いつもより少し火照っている。
そのまま彼の肩を軽く押し、ベッドに横たわらせる。
枕に頭が沈み込む感触に、レギュラスの身体から、少しだけ力が抜けた。
アランは、枕元にしゃがみ込む。
それから、自分の指をまた彼の手のひらに滑り込ませた。
《おやすみなさい》
短く、そう書く。
続けて、一瞬迷ってから、もう一行だけ。
《ここにいます》
指先が文字を描くたび、レギュラスの指が微かに震えた。
彼は目を閉じ、掌を握り込み、
アランの指先をまるごと包み込む。
「……明日の朝には、頭痛で後悔しているでしょうね」
小さく冗談めかした声。
アランは、首を横に振った。
——明日の朝、また文句を言うのなら、そのぶんだけ私の手を握っていてください。
そんな言葉を胸の内で紡いでから、静かに立ち上がる。
灯りを少しだけ落とし、部屋の明るさをやわらげる。
暗闇の中、レギュラスの吐息が次第に穏やかになっていくのを、耳で確かめる。
——もうこれ以上、何かを話さない方がいい。
アランは、そう判断した自分を責めなかった。
今夜だけは、言葉よりも沈黙の方が、彼を守ると分かっているから。
レギュラスの手から、自分の指をそっと抜き取る。
それでも完全には離れず、ベッドの縁に腰掛け、静かにその寝顔を見つめる。
アルコールの匂いの向こう側にある、
どうしようもなく不器用で、どうしようもなく自分を手放せない男の、弱さと必死さを胸に抱きながら。
アランは、そっとまぶたを伏せた。
彼が眠りに落ちるまで、その隣にいることを、今夜の自分の唯一の答えとして選びながら。
いつもと同じように、執務室から書斎へと戻ってきたはずなのに、空気の温度が違って感じられる。
暖炉には火が落とされ、残り火だけが赤く燻っている。そのわずかな光が、壁一面の本棚と、黒い革張りのソファの縁を鈍く照らしていた。
レギュラス・ブラックは扉を閉めると、そのまま迷いなく棚の方へ向かった。
書物ではなく——酒が並ぶ一角。
整然と並べていたボトルのうち、無意識に手が伸びたのは、度数の高いジンだった。
「……」
コルクを乱暴に抜くと、グラスも使わず、そのまま瓶の口を唇に当てる。
透明な液体が喉へと流れ込んだ瞬間、焼けつくような熱が広がった。
食道をなぞり、胸のあたりでじりじりと火をつける。
それでも、もう一口、もう一口と、喉へ押し込んでしまう。
やがて、適当なところで瓶を棚に戻すと、その勢いのまま革張りのソファになだれ込んだ。
背もたれに身を預け、片腕を額に乗せる。
天井を見上げても、何も変わらない。
だが、視界を閉ざしてしまうと、さっきの廊下の光景だけが何度も再生された。
——シリウスの顔。
「……苛々する」
吐き捨てるような声が、静かな部屋に落ちた。
アランの名を聞いて、真っ先に浮かんだあの表情。
本気で何も知らされていなかったのだと分かった瞬間の、愕然とした目。
怒りと、驚きと、どうしようもない焦りが混じった、あの反応。
あれは——どう見ても、アランを思っている男の顔だった。
「分かりやすすぎるんですよ、あなたは」
片手で目元を覆いながら、低く呟く。
愛だの、守りたいだの、あの男の口から出てくる言葉は、どれも真っ直ぐで、腹立たしいほど濁りがない。
そのくせ、自分の属する組織が何をしていたかさえ知らずにいられた鈍さも持ち合わせている。
どこまでも「綺麗な場所」に立ったまま、愛を名乗ることができる男。
——利用してやる。
レギュラスは、そう決めていた。
彼の怒りも、罪悪感も、ジェームズへの信頼も。
すべて、アランに向けられた想いの延長線上にある。
ならば、その感情を騎士団の中に叩き込んで、少しでも亀裂を広げさせればいい。
次にアランの命を狙うとき、奴らがためらう一瞬を作れるのなら、それだけでも価値がある。
頭では、そう判断していた。
だが、目の前であの反応を見せられれば、感情がそれに従ってくれるとは限らない。
あの男が、妻の名を聞いて、あれほど露骨に色を変えた。
自分が投げた「思い人」という言葉に反応し、怒りとも羞恥ともつかない視線を向けてきた。
——気持ちがいいはずがない。
喉の奥に残るジンの熱が、胃のあたりでじくじくと燃え続けている。
それは酒のせいだけではなく、胸の中で燻る苛立ちにも似ていた。
「なんで、あんな男が」
誰もいない書斎で、ぽつりとこぼれる。
「……同じ感情を、妻に向けているんですかね」
誰に問いかけるでもない言葉が、天井にぶつかって消える。
シリウスの自由さ。
枷のない笑い方、迷いのない言葉。
自分とは正反対の、陽の色をした存在。
アランは、きっとそれを眩しそうに見つめていたのだろう。
レギュラスには、想像がついてしまう。
湖畔の風、夜の城、ふとした瞬間に見せる銀の笑い顔。
言葉を持たないアランが、彼の言葉にどれほど救われたか。
(自分がいなければ)
そう思ってしまう。
自分があの地下牢から彼女を連れ出さなければ。
ヴォルデモートと危険な取引をしてまで、「セシールの血」と「ホークラックスの封印」を繋ぎとめる橋渡しをしなければ。
アランの前に現れた「選択肢」の中に、シリウス・ブラックという男が、もっと自然に、違う形で立っていた可能性もあるのだと。
その未来を、レギュラスは認めたくなかった。
だからこそ、腹立たしくて仕方がない。
自分は、あれほど危険な取引をして、闇の帝王の元から彼女を救い出した。
地下の劣悪な環境から引き上げ、鎖を外し、地上の光の中に連れ戻した。
ホークラックスを封印させられ続けてきたその身を、せめて屋敷という枠の中では、何不自由ない生活を送れるようにしたつもりだった。
魔法省の中枢に立ち、世間の反感も批判も一身に集めながら、
その裏で、何度彼女の命を狙う刃から防いだか分からない。
「……なのに」
喉の奥で笑いがこみ上げる。
乾いた、笑う価値もない笑い。
肝心な時に何も知らされず、
圧倒的な殺意から守り抜いてくれることさえない——シリウス・ブラックという男に。
アランが、一瞬でも揺らされたことがある。
その事実ひとつで、レギュラス・ブラックの誇りは、ぐちゃぐちゃにかき回されている。
自分は、どれだけ血をかぶっても構わないと思ってきた。
世論に嫌われようが、アランに憎まれようが、騎士団に敵視されようが、構わなかった。
アランと子供たちさえ守れればいい。そのための悪魔役なら、引き受ける覚悟はできている。
だが——
それでも、最後に記憶に残る “光” が、あの男だとしたら。
そんな未来を想像してしまう自分が、心底みじめだった。
ジンの残りを再び手に取り、瓶の口を乱暴に傾ける。
液体が喉を刺すように流れ込み、涙腺の奥まで熱が届く。
「……あんな男」
呟きは震えてはいない。
淡々とした口調のまま、毒だけが濃くなっていく。
あんな男が、アランの中で“選択肢”だったことが許せない。
アランは、容赦なく自分の人生を変えてしまった女だ。
セシールという一族の血と呪いを抱え、声を失った、どうしようもなく厄介な女。
けれど同時に、レギュラス・ブラックという男の「生」を、取り返しのつかない形で縛り付けてしまった、たった一人の妻でもある。
その妻の中に、自分とは別の「もしも」の未来を封じ込めている男がいる。
嫉妬と言ってしまうには、あまりにも底が深かった。
書斎の扉が、控えめに二度、ノックされた。
こんな時間に誰が——と、レギュラスはうっすら開いたまぶたをゆっくり持ち上げる。
ジンの熱がまだ胃の底に残っていて、頭の芯がわずかにじんじんと重い。
「どうぞ」
かすれた声でそう返すと、静かに扉が開いた。
暖炉の残り火と、ランプの柔らかな光のあいだ。
影のように、アランが立っていた。
長い黒髪が肩に落ち、その輪郭を淡く縁取っている。
寝間着に上掛けだけを羽織った姿は、どこか頼りなく、それでもこの屋敷の中心そのもののように見えた。
アランは杖を持っていなかった。
まっさらな両手で、そっと扉を閉める。
そして、レギュラスの方へと歩み寄った。
「……アラン」
彼はソファに沈み込んだまま、上体だけを少し起こす。
頭が重い。酔いが回りすぎているのは自覚していた。
アランはソファの前まで来ると、軽く頭を下げ——
そのまま、そっとレギュラスの手を取った。
ひやりとした指先が、彼の掌に触れる。
次の瞬間、その指が、するすると柔らかく動き出した。
——文字を書く。
杖ではなく、指で。
自分の手のひらという、ごく小さな世界の中に。
《遅いから 心配しました》
なぞるような筆致が、肌の上に意味を刻んでいく。
一画ごとの微かな震えも、指の温度も、全てが直接伝わってくる。
それは、アランが「自分にだけ」見せる言葉の伝え方だった。
声を持たない彼女が、
大仰な宙の文字ではなく、ただ二人だけの秘密のように、
掌の上に言葉を落としてくる時——それは、ほとんど囁きに等しい。
レギュラスの胸の奥で、何かがきゅっと縮む。
「……すみません。眠りかけてました」
ソファから身を起こしながら、苦笑するように言う。
実際には、眠りかけていたというより、半分意識を手放していたのだろう。
ジンの瓶は、テーブルの脇に置かれたまま、中身が少し減っていた。
アランは、もう一度彼の手のひらを撫でた。
《寝室に 行きましょう》
《こんなところで寝ると 体が 痛くなります》
丁寧な文字。
まるで書のように美しい曲線。
(……本当に、あなたは)
酔いの霞の向こうから、慣れ親しんだやさしさがにじみ寄ってくる。
それすらも、今夜のレギュラスには、どこか焦げ付くように痛かった。
「起こしに来てくれたんですか」
問いかけながら、彼はアランの手首をそっとつかんだ。
逃げない程度の力で、しかし有無を言わせない強さで引き寄せる。
そのまま自分の隣に、すとんと沈み込ませた。
ソファのクッションが沈み、アランの身体が小さく揺れる。
距離が近い。寝室よりも、談話室よりも。
呼吸の気配が、はっきりとわかるほどに。
アランはわずかに目を見開き、それからおとなしく腰を落ち着けた。
杖はない。
その代わり、まだ繋いだままの手のひらに指先が戻ってくる。
《どうか しましたか》
短い問い。
レギュラスは、その動きを感じた瞬間、胸の奥にまた別の熱が灯るのを自覚した。
——シリウスにも、同じようにしたのだろうか。
不意に浮かんだ疑問が、思考の水面に落ちた石のように波紋を広げる。
この、掌にだけ落とされる言葉。
誰にも見られない、誰にも読まれない、二人だけのやりとり。
それを、あの男にも。
自分で自分に吐き捨てたくなる。
だが、一度浮かんでしまった想像は、簡単には消えてくれない。
ジンで麻痺させていたはずの感情が、形を取り戻していく。
苛立ちと、嫉妬と、どうしようもない恐怖が、じわりと胸を浸していく。
「アラン」
呼びかける声が、少しだけ掠れた。
彼女が、じっと翡翠の瞳でこちらを見る。
その眼差しは、責めも疑いもなく、ただ静かな心配をたたえていた。
だからこそ、余計に、口を閉ざしていられなかった。
「正直に教えてください」
言い終わる前に、自分の言葉の行き先に気づきながらも、止められなかった。
「……シリウスと、したんです?」
空気が、一瞬で凍りつく。
アランの瞳が、驚きに揺れた。
次の瞬間、その翡翠の光が深く沈む。
沈黙が落ちる。
レギュラスの耳には、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
何を聞いているのか——と、自分でも思う。
法務部長官の口から出るにはあまりにも低俗で、夫の口から出るにはあまりにも惨めな問い。
それでも、飲み込めなかった。
アランは、しばらくの間、視線を落としていた。
それから、静かに首を振る。
否定の動き。
小さく、それでもはっきりと。
レギュラスは、笑った。
「いいんですよ、別に隠さなくても」
口元だけが笑っていた。
声には、乾いたひびが入っている。
「屋敷に来ていたことは、察していましたから」
実際、見たわけではない。
ふたりで寄り添う現場を、この目で確かめたわけではない。
けれど、空気が物語っていた。
アランの表情が、子供たちの落ち着きのなさが、
「誰かがいた」音の消えた残り香が。
妙に嘘をつき通そうとされる方が、よほど腹立たしい。
それならいっそ——
『一度だけそういうことがありました。すみません』
そう素直に認めて頭を下げられた方が、まだ気持ちがいいのかもしれないとすら思う。
何を考えているのか、自分でも分からない。
アランの指が、再び手のひらをなぞった。
《一度も ありません》
ゆっくりと、確かめるように。
震えを帯びながらも、字そのものは乱れない。
信じがたい。
だが、そう書く以上、そうなのだろう。
それを証明する術など、どこにもない。
アランの言葉を信じるしかない。
胸の奥で繰り返すように呟く。
それでも、心のざわつきは収まらなかった。
「じゃあ、なんです」
自分でも止められないと分かる口調で、レギュラスは続ける。
「キスの一つや二つくらいは——あったんでしょう」
ないわけがない、と心の中で吐き捨てる。
むしろ、そこで止まっている方が不自然だとすら思う。
あの男の性格を知っている。
アランの危うさも知っている。
「……」
アランは答えなかった。
ただ、指先が小さく震え、
それでも何かを書こうとして——途中で止まる。
代わりに、掌の上に浮かんだのはたった一文だけだった。
《なぜ 急に そんなことを 聞くのですか》
質問を、質問で返してくる。
その時点で、返答の半分は語られているようなものだった。
雄弁な沈黙。
否定ではなく、理由の方を問うその文字は、ほとんど肯定にも等しい。
レギュラスは、ゆっくりとアランの方へ身体を向けた。
「どんなキスをしたんです?」
声は低く、ひどく静かだった。
アランの肩が、びくりと震える。
逃れようとする気配はない。だが、その翡翠の瞳には、はっきりと戸惑いと恐れが浮かんでいた。
レギュラスは、そっと手を伸ばした。
親指の腹で、アランの唇に触れる。
やわらかな感触。
わずかに乾いた、その口もと。
「触れるだけのものでした?」
問いかけながら、親指でそっと輪郭をなぞる。
「それとも——」
唇がわずかに開いた瞬間を逃さず、
親指をそのまま押し分けるようにして、唇のあいだから忍び込ませた。
アランの身体がびくりと跳ねる。
喉の奥で、小さく息が詰まる音がした。
湿った温度が、指先を包む。
こんなふうに、と心の中で呟く。
「こんなふうに、深く。舌でも入れました?」
みっともない、と分かっていた。
嫉妬に火をつけ、自分でその火に油を注いでいる。
それでも、止まらなかった。
押さえつけていた感情が、一気に溢れ出している。
シリウスに向けられたかもしれない想像の重なりを、
ひとつひとつ、自分の手で塗りつぶしていくような衝動。
アランは、震えるまつげをきつく閉じていた。
唇から指をそっと抜くと、その翡翠の瞳が、罪悪感とも愛情ともつかない色で揺れる。
《……ごめんなさい》
指が、彼の掌にそう書いた。
何に対しての謝罪なのか。
シリウスとのキスか、揺らいだ心か、それとも——今目の前で崩れている自分のプライドに対してなのか。
レギュラスには、もう判別がつかなかった。
ただひとつ分かるのは、
今の自分が、法務部長官でも、冷静な策士でも、誇り高きブラック家の当主でもないということ。
ただ、妻に対してみっともなく嫉妬し、
兄の影に怯え、
それをどうしようもなくぶつけずにはいられない、狭量な男にすぎないということだけだった。
「…… アラン」
掠れた声で名を呼びながら、彼は彼女の肩を抱き寄せた。
止められない。
みっともないことぐらい、重々承知のうえで。
それでも、今は、どうしても。
彼女が「ここにいる」ことだけを、確かめたかった。
騎士団本部の一室は、夜の冷えをそのまま閉じ込めたように冷たかった。
窓の外では魔法省近くの街灯がちらちらと瞬き、薄汚れたカーテンの隙間から、その光が細い筋になって差し込んでいる。
長机の上には、作戦のメモや地図が乱雑に放り出されたままだった。
ついさっきまで、人が何人もここで声を荒げていたはずなのに、今は静まり返っている。
部屋の真ん中に、シリウスとジェームズが向かい合って立っていた。
沈黙だけが、そのあいだにぶら下がっている。
先に口を開いたのは、シリウスだった。
「……なぁ、ジェームズ」
いつものふざけた調子は欠片もない。
かといって怒鳴るでもない。
ぎりぎりで自制を保っている声だった。
ジェームズは腕を組み、シリウスから視線をそらさなかった。
その目の奥には、疲れと苛立ちが沈んでいる。
「なんだよ」
短く返す。
それだけで、お互いもう何の話をしようとしているのか分かっていた。
——妻が、ジェームズ・ポッターに二度殺されかけました。
魔法省の廊下で、レギュラスにそう告げられた瞬間から、
シリウスの頭の中ではずっと同じ言葉が響いている。
「アラン・ブラックは」
ジェームズが先に続けた。
感情を削ぎ落とした声だ。
「ホークラックスを封印してる。
セシール家の血筋が途絶えない限り、ヴォルデモートは完全には死なない」
その言葉は、何度も議論に出てきた文句の繰り返しだった。
だが今夜ほど、胸に刺さることはなかった。
「封印の器を残したまま、あいつだけ倒す方法は——今のところ見つかってない」
シリウスは、拳を握った。
爪が掌に食い込むほど強く。
「……分かってるよ」
絞り出すように言う。
「頭では分かってる。
アランを殺せば封印は壊れて、ヴォルデモートにとどめが刺せるかもしれない。
セシールの血を絶てば、ホークラックスは剥き出しになる。
理屈は、聞き飽きるほど聞いた」
ジェームズの眉がわずかに動く。
しかし何も言わない。
「けど——」
シリウスは一歩前に出た。
「頼む、ジェームズ」
その声には、懇願と怒りがないまぜになっている。
「アランを……子どもたちを殺さないでくれ」
空気が強張った。
ジェームズは目を閉じ、長く息を吐く。
「シリウス」
名前を呼ぶ声にも、疲弊が滲んでいた。
「僕だって、好きで言ってるわけじゃない。
アランを殺したいわけでも、ステラやアルタイルを殺したいわけでもない」
「じゃあ、なんでだよ」
シリウスの声が低く唸る。
「なんで俺だけ知らされなかった。
地下に呼び出した時も、メイラの親父の骨を餌にした時も——
なんで、俺だけ外に出された?」
ジェームズの喉がひくりと動いた。
「シリウス、君は」
ゆっくり視線を上げる。
「アランを愛してるからだ」
部屋の空気が止まった。
シリウスは、ほんの一瞬だけ目を見開く。
自分の心の底に沈めていた言葉を、他人の口からあっさり出されることが、妙に腹立たしかった。
「だったら尚更だろ」
唇が震える。
「愛してる女が、知らないところで殺されかけてて、黙っていられるかよ。
自分の手の届かない場所で、勝手に“必要な犠牲”って計算されてて——
それで、はいそうですかって頷けると思うか?」
「守れるのか?」
ジェームズが切り返した。
声は静かだが、内側に鋭さを孕んでいる。
「君に、アランを守れるのか。
ヴォルデモートからも、その配下からも、封印からも、騎士団からも。
全部、君一人で引き受けられるのか?」
シリウスは詰まった。
ジェームズは続ける。
「俺たちがやろうとしてるのは、“世界を守る”ことだ。
ホークラックスを全部叩き壊して、あいつをこの世から消すことだ」
シリウスは乾いた笑いを漏らした。
「世界のために、アランを差し出すのかよ」
「世界のためにアラン“だけ”で済むなら、安いもんだ」
ジェームズの声が少し荒くなる。
「実際は違う。
放っておけば、もっと死ぬ。
マグルも、魔法族も。
子どもだって、あの孤児院みたいに一晩で消える」
孤児院——。
レギュラスの話が、シリウスの頭をよぎる。
翡翠の瞳の少女。
その瞳と同じ色を持つ、ステラの顔。
「だからアランを殺すのか?」
声が震えた。
「お前の正義のためなら、あいつは死んでいい。
ステラとアルタイルも、“封印の副産物”だから消えても仕方ない。
そう言ってるのと、何が違う?」
ジェームズは目を逸らさない。
「……仕方ない、とは言ってない」
「言ってるも同然だろ!」
初めて、シリウスの声が爆ぜた。
「お前たちは、もう何度もあいつを殺す算段を立ててきた。
魔法省の地下に呼び出した時も、骨を餌にした時も。
“ヴォルデモート討伐の鍵”だなんて綺麗な言葉で包んで、
喉元まで刃を突きつけたんだ!」
ジェームズの表情が苦く歪む。
「……君に、あの場に立たせるわけにはいかなかった」
それは本音だった。
「君はアランを、レギュラスの妻として出会ってる。
法務部の執務室で座ってた、声を失ったあの女の顔を、直に見てる。
屋敷にも足を運んで、病床に座る彼女の隣に何度もいた。
そんな君に、あの女の喉元に杖を向けさせるつもりはなかった」
「優しさのつもりか、それ」
シリウスは笑った。
ひどく冷たい笑いだった。
「俺の手を綺麗なままに保って、何の意味がある。
アランが殺されたら——誰が殺そうと、その血は俺の手にもつくんだよ。
その重さを一緒に抱える機会すら奪っといて、
それを“守った”なんて言い方するな」
ジェームズは言い返せなかった。
本当は分かっているのだ。
シリウスを外したのは、アランへの想いを知っていたから。
けれどそれは同時に——シリウスの「覚悟」を信じ切れていない選択でもあった。
ジェームズは騎士団のリーダーだ。
常に「全体」に責任を負っている。
個人的な感情は、決断の前には削ぎ落とさなければならない。
「……分かるよ」
シリウスがぽつりと言った。
「お前が何を見て、何を計算して、誰を守ろうとしてるのか。
全部じゃねぇけど、分かる。
アラン一人だけ見てるわけじゃない。
世界の流れとか、未来とか、そういうデカいもんを見てるんだろ」
その口調には、皮肉だけじゃなく、確かな理解も含まれていた。
ジェームズは唇を噛む。
「じゃあ——」
「それでも許せねぇって話だよ」
シリウスが遮る。
「理解はできる。
だが許せねぇ。
俺の中の“正しさ”は、それをよしとしない」
彼は髪をかきむしり、俯いた。
あの日の光景が、ありありと浮かぶ。
黙って紅茶を運び、灰色の長官の背中を支えていた、翡翠色の瞳。
ブラック家の妻として、セシール家最後の生き残りとして、
もうとっくに自分の人生を誰かに捧げ終えていた女。
「もう誰かのもので、声もなくしてて、
それでも、笑おうとしてた」
シリウスの声が低く震える。
「あいつは、俺を救ったんじゃない。
勝手に俺が、救われちまっただけだ。
屋敷で見た笑顔とか、
病室で“ありがとう”って文字を書いてくれた指先とか。
そういうの全部、俺が勝手に抱えて、
“愛してる”なんて大袈裟な言葉まで付け足しただけだ」
ジェームズは黙って聞いている。
「だから、俺は——」
シリウスは顔を上げた。
灰色の瞳の奥で、火のような光がくすぶっている。
「世界を守るためだって言われても、
アランを差し出すことに頷けねぇ」
静かな告白。
「お前の正義も、騎士団の理想も、分からないわけじゃない。
でも俺の正しさは、それを“はいそうですか”とは受け取れない」
ジェームズは目を細めた。
「……じゃあ、どうする」
声が掠れている。
「アランを生かしたまま、ヴォルデモートを殺す方法があるのか?
封印の仕組みを書き換えるリスクを、誰が負う?
レギュラス・ブラックですら、まだ手をこまねいてる問題を、
僕たちがどうやって——」
「知らねぇよ!」
シリウスの叫びが、狭い部屋を震わせた。
「知らねぇから、こうしてぶつかってんだろうが!」
解決策なんて持っていない。
ただ「嫌だ」と言っているだけなのかもしれない。
それでも、黙って飲み込むことだけはできなかった。
「ただ一つ言えるのはな」
シリウスは肩で息をしながら続けた。
「“保留”で良かったってことだ」
ジェームズの肩がぴくりと動く。
「地下で、お前があいつを殺さなかったことだけは——
俺は感謝してる」
ジェームズは自嘲気味に笑った。
「保留なんて、格好のいいもんじゃない」
「知ってるよ」
「決断から逃げたんだ。
刃を振り下ろす勇気も、引き返す覚悟も持てなくて、
その場で立ち尽くした結果の“保留”だ」
あの時の手の震えを思い出す。
ステラの視線。
アルタイルの小さな手。
寝台の上で、声も上げられず、ただ涙を流していたアラン。
「……でもな」
ジェームズは続けた。
「君があそこにいたら、
僕は“保留”すら選べなかったかもしれない」
シリウスの呼吸が止まる。
「君が、アランの前に立って“やめろ”って叫んでたら。
僕は、逆にあの女を殺す決断をしたかもしれない。
騎士団の正義で、君の甘さを押し潰すために」
その告白は、ジェームズ自身にも苦痛だった。
「だから外した。
君を守るためでもあって、
僕が一線を越えないためでもあった」
シリウスはしばらく黙っていた。
本当は、どちらも分かっている。
ジェームズが、単純な冷酷さだけでアラン殺害計画を立てたわけじゃないこと。
シリウスが、ただの恋に酔った馬鹿ではないこと。
互いの立場も、恐怖も、願いも。
長い時間を共にしてきたからこそ分かってしまう。
だからこそ、余計に許せない。
「……なぁ、ジェームズ」
長い沈黙のあと、シリウスがぽつりと口を開いた。
「俺は、もう騎士団を降りろとは言わない。
お前がいなきゃ、この組織は散り散りになる」
ジェームズは黙って聞いている。
「でも——次にアランを殺す話が出た時、
今度こそ俺を外すないでくれ」
その声は震えていない。
「その場に立つ。
お前の決断も、騎士団の正義も、全部この目で見て、耳で聞く。
そのうえで、俺は俺の選択をする」
「それは——」
ジェームズが言いかけるのを、シリウスが遮った。
「お前を許すためじゃない。
俺が、俺を許すためだ」
互いの視線がぶつかる。
長くぶら下がっていた沈黙が、少しだけ形を変えた。
ジェームズは、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
短い返事。
「次にあいつの名が議題に上がったときは、お前も呼ぶ。
俺の正義がどれだけ醜いか、全部見せてやる」
シリウスの口元が、かすかに引きつる。
「その代わり」
ジェームズが続ける。
「お前も、自分の愛がどれだけ残酷になり得るか、ちゃんと見てろ」
アランを守りたいという願いが、
世界を脅かす引き金になるかもしれないことを。
シリウスは目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……ああ」
その夜、二人は和解しなかった。
許せないものは、そのまま許せないままだった。
理解できてしまうがゆえに、余計に苦しかった。
それでも——互いの「痛み」を抱えたまま、同じ戦場に立つことだけは、やめられなかった。
レギュラスの吐く息が、近すぎる距離で頬を撫でた。
かすかに熱を帯びたその吐息には、いつもの紅茶でも、仕事帰りのインクの匂いでもなく、強いアルコールの香りが混じっている。
鼻先をかすめるその匂いに、アランはようやく、部屋の隅に視線を向けた。
低いテーブルの上。
書類の山の横に、無造作に一本の瓶が置かれている。
ラベルの上を、暖炉の残り火が赤く照らした。
栓は開け放たれ、中身は目に見えて減っている。透明な液体が、ガラス越しにゆらりと揺れた。
——ジン。
喉を焼くようなその感覚を、アランは知らない。
けれど、レギュラスの吐息にまとわりつく鋭い香りが、それが相当強い酒であることを教えてくれていた。
(……酔っている)
そう理解した瞬間、胸の奥がざらりとざわついた。
さっきからの問いかけ。
“シリウスとしたのか”
“どんなキスをしたのか”
いつもの彼なら、決して口にしない種類の言葉。
その一つ一つが、酔いと嫉妬と恐怖の混ざった色を帯びて、アランの胸の内をひっかいていく。
「こんなふうに、深く。舌でも入れました?」
そう低く問われた時、レギュラスの親指はすでに彼女の唇のあいだから忍び込んでいた。
ひやりとした指先が、そこだけ異物のように、口内の柔らかさを乱す。
アランは、目を閉じた。
レギュラスの感情が分からないわけではなかった。
彼がどれほど自分を「手放したくない」と思っているか、何度もその腕の力で知らされてきた。
シリウスの名が、どれほど彼の誇りを傷つけるかも分かっている。
だからこそ——このままではいけない、と本能が告げていた。
(もう……やめましょう)
声は出せない。
文字を書くための杖も持っていない。
代わりに、今、彼女の口の中にあるのは、レギュラスの指。
どこか滑稽なほど、状況は単純だった。
アランは、そっとその指に歯を立てた。
強く噛んだわけではない。
壊してしまうほどの力など、込めていない。
それでも、十分に「痛み」として伝わるくらいには。
カチリ、とごく小さな音が、指先と歯のあいだに生まれた。
レギュラスの肩が、びくりと揺れる。
その灰色の瞳が、驚いたようにアランを見つめた。
アランは、その視線から逃げなかった。
ただ、静かに見返す。
——もうこの話は、終わりにしましょう。
そう告げるように。
じん、と口の中に、指先の体温と、ほんのわずかな苦みが残る。
アルコールの匂いが、さらに濃く舌の奥に絡みついた気がした。
レギュラスは、数秒のあいだ固まっていた。
やがて、アランの口からそっと指を引き抜くと、自分でも驚いたように、かすかな笑いを漏らした。
「……痛いですよ、アラン」
言葉とは裏腹に、その声にはどこか力が抜けている。
先ほどまでの、追い詰めるような嫉妬の鋭さが、少しだけ和らいでいた。
アランは、彼の手を離さないまま、すっと立ち上がった。
床に触れていた素足に、石の冷たさが伝わる。
室内の温度と対照的に、足裏だけが現実に引き戻されるようだった。
彼女は、握ったままのレギュラスの片手を、軽く引く。
——立って。
言葉にすればきっとそうなるであろう動きを、腕の引き方に載せる。
レギュラスは、一瞬だけ抵抗するように動かず、やがて観念したようにゆっくりと立ち上がった。
ソファの革が、彼の重みを失ってわずかにきしんだ。
もう片方の手で、自分の額を押さえながら、彼は短く息を吐く。
「明日、頭が痛くなりそうです」
苦笑の混じった声だった。
アランは、小さく瞬きをする。
——でしょうね、と心の中で呟く。
本当なら、それも文字にして掌に書いてやれたかもしれない。
けれど今は、杖もペンも持っていない。
そして何より、これ以上、言葉を重ねるべきではない気がしていた。
酔いでほどけたところに、言葉は刃にもなる。
レギュラスのプライドは、今まさに剥き出しの状態にある。
だから、選ばなかった。
言葉ではなく、行動だけを。
アランはそっと、レギュラスの指を握り直した。
その手は、先ほど噛んだせいか、ほんの少しだけ強張っている気がした。
彼女は、歩き出した。
書斎の扉へ向かう。
レギュラスの手を引き、振り返りもせずに。
廊下に出ると、夜の屋敷特有の静けさが、二人を包み込んだ。
時折、遠くで時計の針が進む音だけが聞こえる。
赤々と灯されていたはずの燭台も、今は控えめな光だけを残している。
レギュラスの足取りは、ほんの少しふらついていた。
アランはそれに合わせて歩幅を調整する。
彼の歩くリズムを、身体で覚えきっている。
階段を上がりながら、レギュラスがぽつりと呟いた。
「……僕は酔うと、ろくでもないことを言いますね」
アランは首を横に振った。
——いいえ。
そう伝えたい衝動が胸をよぎる。
本当は、「あなたが酔ってこんなふうに崩れるのは、それだけ私を失うことが怖いからでしょう」と書きたかった。
「シリウスのことを聞くのは、ただ嫉妬深いからじゃなく、私の心が自分から離れていった時間を想像してしまうのが怖いからでしょう」と。
けれど、それを文字にすれば、今日はきっと引き金になる。
この夜には、余計な真実も、慰めも、必要ない。
だからアランはただ、手を握る力をほんの少しだけ強くした。
——ここにいます。
——いなくなってなんかいません。
言葉にしない代わりに、その想いを指の圧に託す。
寝室の扉の前まで来ると、アランは片手を離してノブを回した。
ゆっくりと扉を押し開けると、柔らかな灯りと、整えられたベッドがそこにあった。
レギュラスは、しばらくその光景を眺めていた。
まるで、自分がここに戻ってきていいのかどうかを確認するかのように。
アランは振り返り、その灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、もう一度だけ彼の手を引いた。
——帰ってきて。
その一歩を、促す。
レギュラスは観念したように小さく息を吐き、寝室に足を踏み入れた。
アランは扉を静かに閉める。
ベッドの縁まで彼を誘導し、その肩に軽く手を添えて腰を下ろさせる。
彼のローブの襟を少し整え、ネクタイを緩め、上着を丁寧に外していく。
その一つ一つの所作に、余計な意味を持たせないように、しかしどこか祈るような気持ちで。
レギュラスが、ぼんやりとした目で彼女を見上げていた。
「…… アラン」
名を呼ぶ声は、先ほどまでの嫉妬に滲んだ響きではなく、
ただ疲れと安堵を混ぜ込んだ、素の声だった。
アランは微笑む代わりに、彼の額にそっと手を当てた。
熱はない。ただ、酒のせいか、いつもより少し火照っている。
そのまま彼の肩を軽く押し、ベッドに横たわらせる。
枕に頭が沈み込む感触に、レギュラスの身体から、少しだけ力が抜けた。
アランは、枕元にしゃがみ込む。
それから、自分の指をまた彼の手のひらに滑り込ませた。
《おやすみなさい》
短く、そう書く。
続けて、一瞬迷ってから、もう一行だけ。
《ここにいます》
指先が文字を描くたび、レギュラスの指が微かに震えた。
彼は目を閉じ、掌を握り込み、
アランの指先をまるごと包み込む。
「……明日の朝には、頭痛で後悔しているでしょうね」
小さく冗談めかした声。
アランは、首を横に振った。
——明日の朝、また文句を言うのなら、そのぶんだけ私の手を握っていてください。
そんな言葉を胸の内で紡いでから、静かに立ち上がる。
灯りを少しだけ落とし、部屋の明るさをやわらげる。
暗闇の中、レギュラスの吐息が次第に穏やかになっていくのを、耳で確かめる。
——もうこれ以上、何かを話さない方がいい。
アランは、そう判断した自分を責めなかった。
今夜だけは、言葉よりも沈黙の方が、彼を守ると分かっているから。
レギュラスの手から、自分の指をそっと抜き取る。
それでも完全には離れず、ベッドの縁に腰掛け、静かにその寝顔を見つめる。
アルコールの匂いの向こう側にある、
どうしようもなく不器用で、どうしようもなく自分を手放せない男の、弱さと必死さを胸に抱きながら。
アランは、そっとまぶたを伏せた。
彼が眠りに落ちるまで、その隣にいることを、今夜の自分の唯一の答えとして選びながら。
