3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔法省の廊下には、夜の気配が静かに沈んでいた。
昼の喧噪を忘れた石床は冷たく、高い天井から吊られたランプの灯りだけが、頼りなく床を照らしている。
レギュラス・ブラックは、その薄い光の帯の中を、いつものように迷いのない足取りで歩いていた。
掌には、つい先ほどまで目を通していた書類の手触りが、まだかすかに残っている。
狼人人権関連の条文、マグル側との調整案、関所での小競り合いの報告——どれも、彼の頭の中ではすでに整理と判断が済んでいる案件ばかりだった。
そこへ、角を曲がった先から、一人の男が早足で近づいてくる。
「レギュラス」
冷静な報告の声音。バーテミウスだった。
彼は立ち止まりざま、片手に持っていた封書を軽く掲げてみせる。
「ボグワーツからですよ。緊急の知らせです」
レギュラスの足が、わずかに止まる。
封蝋には、見慣れた校章——四つの動物が並ぶ紋章。
仕事絡みの文書ではない。
これは、父親としての自分に宛てられた書簡だと、直感が告げる。
「……内容を」
短く促すと、バーテミウスは封を切り、さらりと目を走らせた。
その灰色の瞳が、一瞬だけ驚きとも興味ともつかない色を帯びる。
「あなたの子供たち二人が、姿くらましをしたようです」
廊下の空気が、すっと冷えるような気がした。
「……姿くらまし?」
レギュラスは低く反芻する。
眉間に、深い皺が刻まれた。
未成年の学生魔法使いが、学校の外で魔法を使うこと——それ自体がすでに慎重を要する問題だ。
ましてや、姿くらまし。
成人後に資格を取得してからでなければ許可されない高度な魔法だ。
国際機密保持法にも接続する領域であり、法務部長官としては見逃せない行為。
そして何より——父親としても。
「……何事です。二人ともですか?」
抑えた声に、かすかな焦りが滲む。
バーテミウスは、感情を乱すことなく淡々と答えた。
「ええ。ここに、はっきりと」
彼は書簡をひらりと返し、レギュラスの目の前で文面を示す。
「ステラ・ブラック、アルタイル・ブラック——両名の寮から姿が消え、感知網に引っかかったとのことです。校則違反および、未成年による違法な移動魔法行使の疑い」
紙に記された二人の名を目で追ううちに、レギュラスの胸に、鈍い痛みが広がっていく。
優等生だった。
ステラも、アルタイルも。
自分と同じ寮に入り、主席の座を当然のように維持し、
ホグワーツでの彼らの名前は、いつも「模範」「才媛」「神童」といった言葉とともに語られてきた。
教師たちから届く報告書は、常に高評価で埋め尽くされていた。
問題行動など、ほとんど耳にしたことがない。
少なくとも、学校側に明るみに出るようなものは。
——その二人が。
しかも、二人揃って。
無断の姿くらまし。
これは単なる「悪ふざけ」ではない。
何か、よほどの理由がある。
あの子たちは、無意味なルール違反をするような性質ではない。
(まさか——)
胸裏で、一つの可能性が静かに形を取る。
アラン。
ここ数日、アランにまつわる状況は、あまりにも動きが多かった。
騎士団の動向。
闇の帝王の勢力のざわつき。
レギュラスはそのどれもを把握し、管理しているつもりだった。
だが——子供たちの胸の内までは、読み切れてはいなかったのかもしれない。
「姿くらましをした先は、どこです?」
声には、もはや法務部長官としての冷静さより、父親としての切迫感が勝っていた。
バーテミウスはそれを咎めることなく、いつもの調子で答える。
「ボグワーツ側では、感知網の外まで跳んでいるようですね。記録では——かなりの長距離ですよ」
そこで、彼はほんの少しだけ口元をゆるめた。
「さすがはあなたの子供たちだ。やることが違う」
皮肉とも賞賛とも取れるその言葉に、レギュラスは応じなかった。
長距離の姿くらまし。
感知網を越えるほどの距離。
高度な魔力制御と、強い意志がなければ不可能な移動。
(そうまでして、行きたい場所——)
考えられる場所は、限られている。
魔法省。
そして、その地下。
あるいは——
「……執務室へ戻ります」
レギュラスは短く告げると、歩調を早めた。
バーテミウスも無言でついてくる。
廊下を進むにつれ、胸の内側で、ざわつく何かが激しさを増していく。
怒りか、恐怖か、それとも別の感情か。
子供たちが自分の許可もなく危険な魔法を使ったことへの怒り。
そして、その理由が「アラン」に関係しているのではないかという恐怖。
執務室の扉を押し開けると、静かな空気が二人を迎えた。
重厚な本棚と、書類の積まれた机。
その中央には、魔力感知用の魔法具が、淡い光をたたえながら鎮座している。
レギュラスは迷いなくその前に立つと、杖を抜いた。
「——ステラ・ブラック、アルタイル・ブラック」
低く名を呼ぶ。
杖先から、細い光の糸が二筋、ふわりと立ち上る。
それは彼らが生まれたときから結ばれている、魔力の痕跡。
父である彼にしか、完全には読み解けない特別な「線」だ。
光の糸は、一瞬だけホグワーツを示す方角で明滅し、
次いで、滑るように別の方角へと伸びていった。
レギュラスの喉が、ごくりと鳴る。
魔法省地下ではない。
感知した魔力は——
「……屋敷だ」
呟きは、ほとんど息に混じった。
ステラとアルタイルの魔力は、すでにブラック家の屋敷に戻っている。
だがそれはつまり——その途中で何があったのか、決して平穏な外出ではなかったということを意味していた。
ボグワーツ側が「緊急」の文字を添えて書簡を送ってくるほどの事態。
騎士団の動き。
母の封印を狙う勢力。
そして、姿くらまし。
(間違いない。あの子たちは—— アランのために動いた)
誇らしさと、どうしようもない恐怖が同時に胸を締めつける。
誰よりも聡く、誰よりも優秀な子供たち。
だからこそ、もっとも無茶な選択を、平然とやってのける。
アランを守るためなら、法も、掟も、危険もきっと厭わない。
「レギュラス」
背後から、バーテミウスの声がする。
「どうされます?」
レギュラスは振り返らずに答えた。
「——すみませんが、あとは頼みます」
その言葉は、いつもと同じ口調だった。
だが、そこに込められた切迫感を、バーテミウスは敏感に察する。
「分かりました。ここは私が」
彼はそれ以上何も問わなかった。
書類の山と、未処理の案件と、法務部長官不在の責任——それらの重みを理解したうえで、淡々と引き受ける。
レギュラスは机の脇にかかっていたローブをつかみ、肩に羽織った。
動作はいつもと変わらぬ滑らかさを保っているのに、指先だけが、ほんのわずかに震えている。
「屋敷に向かいます」
短くそう告げると、彼は灯りの落ちた暖炉の前に立った。
ひと振りで炎を呼び起こし、緑の火が勢いよく燃え上がる。
胸の奥で、ひとつだけ願う。
どうか、間に合え。
アランにも。
ステラにも。
アルタイルにも。
誰一人欠けることなく、今の形のままで——と。
その祈りを、表情には一片も浮かべないまま、レギュラス・ブラックは炎の中へ身を投じた。
瞬きほどの時間ののち、その姿は法務部長官の執務室から、跡形もなく消えた。
屋敷の暖炉から吐き出されるようにして、レギュラスはリビングの床に姿を現した。
緑の炎が一瞬だけ高く揺らぎ、次の瞬間には、いつもの静かな居間の光景が戻る。
最初に目に飛び込んできたのは、寝台の上で上体を起こしているアランだった。
枕元には、翡翠色の瞳をした彼女の姿——そして、そのすぐ傍らに、ステラとアルタイルが寄り添うように座っている。
「……」
胸の奥に貼りついていた冷たい不安が、そこでようやくほどけた。
子供たちは予想通り無事だった。大きな外傷も、魔力の乱れもない。
ステラも。アルタイルも。
(……そうだ。あの子たちは)
自分のブラック家の血を、濃く、あまりにも濃く継いでいる。
そのおかげで、魔力はその辺の子供たちなど軽く凌駕し、どうかすれば半端な成人魔法使いよりも高い。
長距離の姿くらましでさえ、やってのけてしまうだろうと、頭のどこかでは理解していた。
怪我をする可能性は、極めて低い。
実際、彼らはそういう風に育ってきた。
どんな危険な魔法実技の試験でも、平然と笑って戻ってくる子供たちだった。
だから——本当に怖かったのは、子供たちの身ではない。
レギュラスの視線は、自然とアランへと吸い寄せられる。
少し青ざめた頬。汗の跡。
いつもよりわずかに荒い呼吸。
だが、確かにそこに「生きて」いる。
アランの翡翠の瞳が、レギュラスを捉えた。
立ち上がろうと、細い体が寝台から起き上がりかけ——
「……!」
レギュラスは抑えきれなかった。
距離を一気に詰め、その動きを制するように、アランの体を強く抱きしめる。
腕の中で、彼女の身体が小さく震えた。
その震えが、恐怖なのか安堵なのか、判別がつかない。
だが、柔らかな体温と、胸元に触れる髪の感触が、遅れて彼の神経に流れ込んでくる。
(……よかった)
心の奥から、言葉にならない吐息が湧き上がりかける。
——間に合った。
——まだ、この腕の中にいる。
長距離の姿くらましをそつなくこなす子供たちを、本当はそこまで心配する必要などなかったのだろう。
法務官として冷静に判断するなら、そう言えた。
だが、妻に関してだけは、論理も経験も、何の役にも立たない。
ただ、「失うかもしれなかった」という事実だけが、全身をひりつかせる。
「アラン……」
名前を呼んだ瞬間、胸の中で何かが臨界点を越えた。
子供たちの前であることも忘れ、溢れ出た感情のままに、アランの顔を引き寄せる。
その唇に、勢いのまま口づけた。
アランの瞳が驚きに大きく見開かれ、
次いで、きゅっと苦しげに閉じられる。
その反応が、かえってレギュラスの胸を締め付けた。
——生きていてくれて、ありがとう。
喉まで出かかっているその言葉だけは、どうしても声にできない。
背後で、小さくため息の混じる音がした。
「……お父様」
淡々とした娘の呼びかけに、レギュラスはようやく我に返る。
ゆっくりとアランから体を離し、振り返った。
ステラが腕を組み、半ば呆れたような視線を向けていた。
その後ろで、アルタイルが気まずそうに視線を泳がせている。
「お父様。ここで熱烈な再会をされるのは結構ですが——」
ステラは、わずかに目を細めた。
「セラ・レヴィントンの魔力が、直前までこの部屋に残っていましたけれど」
その名が放たれた瞬間、時間が一拍、ずれたように感じた。
「……セラ」
思いがけない名前。
レギュラスはほんの一瞬、動きを止める。
胸の奥の、触れられたくない場所に、
鋭い指先を押し込まれたような感覚。
自分の娘の口からその名を聞かされることは、
父親として、最も痛い部分を容赦なく突かれているようなものだった。
ステラの翡翠の瞳が、静かにこちらを見ていた。
責め立てる色ではない。だが、すべてを見抜いている者の目だった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
アランの肩に置いていた手を名残惜しく離し、その横顔へと視線を移した。
「……セラに会いましたか?」
静かな声音で尋ねる。
アランは一瞬だけ迷うように瞬きをし、それから小さく首を振った。
杖を持つ指先が、かすかに震えながら動き出す。
空中に浮かぶ見えない板の上に、透明なインクで綴るように、文字が形を取っていく。
《今日ではなく、数日前。市場で偶然に》
滑らかで、ためらいのない筆致。
その整った文字は、彼女の強さと、長年の沈黙の重さをそのまま映している。
「数日前……市場で」
レギュラスは、その言葉を繰り返す。
アランは静かに頷いた。
ステラが、わずかに唇を引き結ぶ。
その横顔には、冷静な思考の気配が宿っていた。
「では、その時に接触されていたわけですね」
娘の声には、動揺よりも先に分析があった。
「お母様の魔力の層の上に、セラ・レヴィントンの魔力が薄く重なっていました。
それが、ついさきほどまでこの部屋に残っていましたから」
彼女はまるで授業中に論理を組み立てるときのように、淡々と続ける。
「時間差で発動するタイプの魔法でしょう。
接触した時点で仕込まれ、今日になって発動した——そう考えるのが自然です」
その知性、その観察眼。その冷静さ。
どこまでも、自分によく似ている。
(……さすがだ)
誇りと、胸の痛みが、同時に込み上げてくる。
こんなにもよく似た娘が、自分の最も見せたくない過去の名を、当然のように扱っている。
「つまり——」
レギュラスは、ゆっくりと娘を見る。
「そのセラの呪文が発動して、アランは“おびき寄せられた”ということですか」
そう問うと、ステラはこくりと頷いた。
「はい、お父様。
お母様が自ら望んで出向かれたというよりも、
誘導魔法に近いものが働いていたと考えるべきです」
その言葉を聞きながら、レギュラスはもう一度アラン へと視線を戻した。
アランは、静かにこちらを見上げていた。
その翡翠の瞳には、後悔と、不安と、かすかな怒り——そして何より、疲れが滲んでいた。
すぐに責めるべきではない。
責任を問うのは簡単だ。この家の主として、夫として、法務部長官として。
だが、彼女はもう何年も、十分すぎるほど多くのものを背負わされてきた。
頭の片隅で、金の髪を揺らして笑う女の姿がよぎる。
その面影を、レギュラスは静かに押し殺した。
——あの女が、アランに手を伸ばした。
それだけは、決して許せない。
「事情は、あとで整理しましょう」
短くそう告げると、レギュラスは再びアランの傍らに腰を下ろした。
すぐそばで、アルタイルが不安げに母の手を握りしめている。
「お父様」
ステラがもう一度、彼を呼ぶ。
翡翠の瞳が、今度は少しだけ柔らかく揺れた。
「……お母様は、もう大丈夫です。
騎士団も、今日は“保留”ということになりましたから」
その声の端に、かすかな皮肉が混じる。
それを聞きながら、レギュラスは胸の奥底で、別の種類の怒りがゆっくりと燃え上がっていくのを感じていた。
騎士団。セラ。封印。
そして、自分の家族。
——すべての帳尻を、自分がつけなければならない。
アランの指が、彼の袖をそっとつまんだ。
その感触に、レギュラスはほんの一瞬だけ表情を緩める。
「心配はいりません」
彼は、妻と子供たちの方を見渡しながら、静かに言った。
「僕が、やりましょう」
その声音には、魔法省法務部長官としての冷静さと、
ひとりの夫として、父として、どうしようもなく狭量な執着が、等しく滲んでいた。
アランを抱きしめていた腕を、ようやく名残惜しくほどいたときだった。
「お父様」
背中に、よく通る少女の声が刺さる。
ステラの声だ。
レギュラスは振り向かずに、アランの肩越しに気配だけを確認した。
視線を向けなくても分かる。
きっとあの翡翠の瞳は、冷たく細められている。
「お話がございます」
硬質な響き。
用件を柔らかく包むこともなく、必要な言葉だけを選び取る口調。
「……ええ。すぐに行きます」
レギュラスはそう答えた。
娘が何を自分に問おうとしているのか。
何を責め、何を断ち切ろうとしているのか。
ステラのあの鋭い視線の中に、その「冒頭部分」は既に見えている気がした。
彼はアランの肩にそっと腕を回し、支えるようにして寝室へ向かう。
薄く灯りの落とされた寝室は、いつもより静かに感じられた。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、ベッドの白いリネンに淡く影を落としている。
レギュラスはアランをベッドの縁に座らせ、ゆっくりと上体を横たえさせた。
指先に伝わる細い腰の感触が、まだどこか頼りない。
「ステラと話してきます」
彼はアランの枕元に片膝をつき、その翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「起きて、待っていてくださいね」
本来であれば、「寝ていて構わない」と言うべきなのかもしれない。
心身ともに消耗している妻に、安静を命じるのが常識だ。
だが——今だけは、そう言いたくなかった。
ステラとの話が終わったあと、アランとも話をしたい。
セラと何を話したのか、どんな魔法を仕掛けられたのか、細部を問いただすつもりはなかった。
ただ、何でもいい。
他愛もないことでも、子供たちの幼い頃の話でも、ホグワーツの思い出でも——
とにかく、アランと「言葉を交わしていたい」と思った。
アランは少しだけ瞬きをし、それから細い指で杖を持ち上げる。
空中に描かれた文字が、淡い光のように浮かんだ。
《待っています》
たった五文字の、その端正な筆致に、レギュラスの胸が少しだけ温かくなる。
「すぐ戻ります」
囁くように告げてから、彼は寝室を出た。
ステラの部屋の前に立つと、扉の向こうから魔力の気配が静かに伝わってきた。
冷たい水面のように整った魔力——乱れも、揺らぎもない。
ノックを二度。
間を置いて、内側から「どうぞ、お父様」という声が返る。
扉を開けると、整然とした空間が現れた。
机の上には開かれた教科書と、几帳面に並べられた羽根ペン。
壁にはホグワーツの寮旗が一枚、皺ひとつなく掲げられている。
余計な装飾や小物はほとんどない。
ステラらしい、無駄を削ぎ落とした部屋だった。
その中心で、ステラが椅子から半ば立ち上がる格好で振り返った。
冷たい翡翠の瞳が、レギュラスを真っ直ぐに射抜く。
「お父様」
呼びかけは丁寧なのに、その眼差しは容赦がない。
幼い頃、ベッドに飛び込んできていたときと、まったく同じ瞳の色なのに——そこに宿る感情は、随分と変わってしまった。
レギュラスは部屋の中ほどまで歩み、扉を静かに閉めた。
「姿くらましの件——」
彼が口を開くと、ステラの顎がわずかに強張る。
怒られることを怖れている、というよりは、
「どこまでを許され、どこからを責められるのか」を冷静に測っている顔だった。
「本来であれば、あなたを咎めるべきなんでしょうね」
レギュラスは淡々と言葉を選ぶ。
「未成年での長距離の姿くらまし、校則違反、そして法への抵触。
法務部長官として見逃すわけにはいかない行為です」
ステラは何も言わない。
ただ、視線だけが「分かっています」と告げている。
「……ですが」
レギュラスは息を浅く吐いた。
「またも、あなたの手柄です」
ステラの眉が、ほんの僅かに揺れた。
それは驚きというより、「予想していなかった言葉」を聞いたときの反応だった。
「責めるつもりはありません。
法に触れた部分も含めて、こちらで対処します。
ボグワーツ側への説明も、魔法省の記録処理も——心配しなくていい」
それが、彼なりの「守る」という宣言だった。
ステラは一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……でしたら、お父様」
その声には、火傷するような冷たさがあった。
「セラ・レヴィントンを野放しにしておくのは、危険ですわ」
最初から核心にしか迫らない言い方。
前置きも遠回しもなく、切っ先だけを突きつけてくる。
どこか、苦笑したくなるほどに。
「そうかもしれませんね」
レギュラスは静かに答えた。
否定の余地はない。
彼女の言うことは、最もだった。
セラは、危険だ。
アランにとっても、子供たちにとっても、そして、この家の均衡にとっても。
だが——
「中途半端な情けは不要ではありません?」
ステラは、まっすぐに言い切った。
「お父様がセラ・レヴィントンに感じておられる“負い目”や“恩義”があるのだとしても。
それを、お母様や私たちに払わせる理由にはなりません」
レギュラスの胸の奥で、何かがぴしりと音を立てる。
図星を刺されたときの、あの不快な痛みだ。
「あなたの言うとおりですね」
認めるほかなかった。
まさか、娘から諭されるような日が来るとは夢にも思わなかった。
法務部で、どれほど多くの大人たちを論破し、ねじ伏せてきたか。
そんな自負など、ステラの一言の前では滑稽に思える。
言い返す言葉が、ひとつも浮かばない。
かつて、燃えるような欲のはけ口として、逃避先として、セラを選んだのは他ならぬ自分だ。
アランの体が弱っていたあの頃、現実から目をそらしたい夜にだけ訪ねていったのは事実だった。
都合のいいときだけ求め、都合が悪くなれば距離を置く。
それでもなお、レギュラスはどこかで「彼女に救われた自分」がいることも否定できないでいた。
だからこそ、完全に切り捨てることはできても、
せめてもの情けを残していくことくらいは許されるのではないか——
そんな甘い考えが、心のどこかにしがみついていた。
(そこまで、見抜かれているのか)
ステラに。
それが、父としてあまりにも不甲斐なく感じられた。
ステラは、一歩だけ近づいた。
翡翠の瞳が、わずかに怒りを帯びる。
「お父様が最大限譲歩なさるのは——」
その声は低く、鋭かった。
「これから先も、お母様のために屋敷に置くことを許可された“マグルの女”のことだけにしてください」
「……メイラのことですか」
問うまでもない。
だが、口に出さずにはいられなかった。
ステラははっきりと頷く。
「ええ。
あの子をここに置くことは、私も完全には納得していませんが——
お母様の望みであり、お父様が決定されたことですから。
それが“家としての選択”であるなら、飲み込みます」
そこには、娘なりの「筋」があった。
「ですが」
翡翠の光が鋭く揺れる。
「自分の血の半分を占める父が、混血の女にはまり、情けをかけ続ける姿など——見たくありません」
言葉は容赦なく、冷酷だった。
だが、その奥に潜む感情は、単なる嫌悪だけではない。
メイラのことも、ステラは最大限に敵視している。
それは、ただの差別ではなく——母の愛を奪われたという幼い頃からの実感の積み重ねなのだ。
メイラは、アランのために許した譲歩だった。
彼女をこの家に置くことを認めたのは、レギュラスの立場からすれば異例の判断であり、正常な純血主義者ならまず採らない選択だ。
だが、ステラにとっては違う。
それは「母の腕の中を、さらに狭くする存在」として映っている。
純血であることを誇りとしてきた娘が、それを嫌悪するのは、ある意味では当然なのだろう。
「……ステラ」
レギュラスは、しばし言葉を探した。
父として、何を返すべきなのか。
法務官としてではなく、夫としてでもなく、「父」として。
「セラ・レヴィントンの件は——」
彼はゆっくりと告げる。
「あなたの言うとおり、中途半端な情けは捨てるべきでしょう。
アランに危害を加えようとした時点で、線は越えられた」
ステラの表情が、わずかに緩んだように見えた。
それが安堵なのか、満足なのか、判断はつかない。
「メイラに関しては……」
そこまで言いかけて、レギュラスは言葉を切った。
ステラの中で、どれほど深くこの問題が根を張っているか。
今この場で、簡単に理解を求めるような真似はできない。
それは、彼女の幼少期の孤独と、渇望と、諦めに直結している。
「いつか、話をしましょう」
それが、今の彼に言える精一杯だった。
ステラは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らし、その翡翠の瞳を伏せる。
レギュラスは、その横顔をしばらく見つめていた。
アランと同じ瞳の色。
自分と同じ論理の鋭さ。
そして、自分には持ち得なかった「父への要求」を、はっきりと言葉にできる強さ。
「……ありがとう、ステラ」
思わず口をついて出た言葉に、彼女は不思議そうに瞬きをした。
「お父様?」
「あなたが言ってくれなければ、僕はきっと——」
セラへの情けを、だらだらと引き延ばしただろう。
アランにも、子供たちにも、これ以上ない不誠実な形で。
そこまで言いかけて、彼は首を振った。
「いいえ。こちらの話です」
ステラはそれ以上問わなかった。
それもまた、彼女の賢さだった。
レギュラスは、扉の前まで歩み、振り返る。
「もう遅い。今日は休みなさい」
「お父様こそ」
ステラはわずかに口元を引き結んだ。
「……お母様を、お願いします」
その一言に、レギュラスの胸は静かに熱くなった。
「ええ。もちろんです」
扉を閉め、廊下に出る。
寝室の方角に自然と足が向かう。
アランのもとへ戻りながら、彼は心の中で一つだけ決意を新たにしていた。
セラとの因縁に、きちんと終止符を打つこと。
メイラを、この家に置くと決めた責任を、最後まで自分が負うこと。
そして——娘の前で、これ以上みっともない父でいないこと。
(アランに、全部を話してもいい頃なのかもしれない)
そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
だがそれは、寝室の扉に手をかけたところで、そっと胸の奥に押し戻される。
今はただ——
あの翡翠の瞳が、無事であることを確かめたい。
セラの名を出されたあとでもなお、自分を待っていると書いてくれた、その事実に救われていたかった。
レギュラス・ブラックは、静かに扉を開き、再びアランのいる寝室へと戻っていった。
魔法省の廊下は、夜に近い時間になると別の建物のように静まり返る。
日中は行き交うローブの色と声であふれていた石畳も、今はランプの光を淡く映すだけだ。
レギュラス・ブラックは、その無人の廊下を、ひとり音もなく進んでいた。
靴音をほとんど立てない歩き方は、昔から変わらない癖だ。
余計な気配を撒き散らしたくない——職務上身についた習性でもあり、性格そのものでもある。
そのとき、前方の角を勢いよく曲がってくる影があった。
銀色の髪。
乱れたローブ。
歩くというより、廊下を蹴飛ばすような足取り。
「……」
すれ違う寸前、レギュラスは迷いなく口を開いた。
「シリウス」
名を呼ばれた男が、ぴたりと足を止める。
こちらを振り向いた灰色の瞳が、一瞬だけ驚きに揺れ、それからいつもの粗雑な笑みに戻った。
「おいおい……お前に呼び止められる日が来るとはな」
シリウスは片方の口角を上げて笑ってみせる。
「てっきり、俺のことなんざ一生無視するつもりかと思ってたぜ。
それとも何だ、ついに弟から説教でもしてもらえるのか、堕落した兄貴はよ」
挑発混じりの軽口。
だが、レギュラスの表情はほとんど動かない。
涼しげな灰色の瞳で、シリウスをまっすぐ見据えている。
「説教をする立場だとは思っていません」
静かな声で言う。
「ただ——事実を一つ、お伝えしようと思いまして」
その声音に含まれたわずかな硬さに、シリウスが眉をひそめる。
兄として長年見てきた経験から、レギュラスが「これ」をわざわざ口にするとき、そこに感情が混ざっていることを察していた。
「……なんだよ」
レギュラスは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから淡々と告げた。
「妻が、ジェームズ・ポッターに二度——殺されかけました」
廊下の空気が、きしりと軋んだ気がした。
「……は?」
シリウスの目が大きく見開かれる。
息が半分喉に詰まったような声音で、言葉が溢れる。
「今の、もう一回言え」
「ジェームズ・ポッターに二度、アランの命を狙われました」
レギュラスは繰り返す。
言葉の端ひとつ乱さず、報告書を読み上げるような口調で。
シリウスは一歩、彼に近づいた。
軽口も、皮肉も消えている。
「ふざけんなよ……俺は何も聞いてねぇぞ」
その反応に、レギュラスの胸の奥で、冷たい笑いがひとすじだけ走る。
(やはり、本当に知らなかったのですね)
ちょこまかと屋敷に顔を出しては、妻と接触し、
何の責任も取らないまま、訳の分からない余韻だけを残していく迷惑な男。
アランが、シリウスと過ごした時間をどれほど大切にしていたか。
その瞳に灯る光で、レギュラスは嫌というほど理解してしまった。
彼がアランに対してどんな感情を抱いているのか——本当は知りたくもなかった。
だが、屋敷の空気が、彼女の表情が、声にならない笑い声の名残が、
嫌でも答えを突きつけてくる。
“真っ直ぐな好意”を隠そうともしないその男が、とにかく癪に障って仕方がない。
それでも、彼は一度もそれを口にしてこなかった。
今日、この瞬間までは。
「どういうことだ。説明しやがれ」
シリウスが低く唸るように言う。
灰色の瞳には、怒りと困惑がないまぜになった光が宿っていた。
レギュラスは、わざとゆっくりと瞬きをした。
「そうですね。……説明は、僕よりも適任の方がいるでしょう」
わずかに口元をゆがめる。
それは、笑いとも嘲りともつかない表情だった。
「ジェームズ・ポッターに、お聞きになってはいかがですか」
静かな声が、廊下に落ちる。
「なぜ、あなたの“思い人”を狙ったのか。その理由を」
「——っ」
シリウスの手が、ローブの裾をギリ、と掴んだ。
思い人、という言葉の選び方に、感情がざわめくのが自分でも分かった。
「お前……」
かっとなる怒りと、同時に抑え込まれた羞恥が混ざり合う。
アランへの想いを、こんな形で口にされるとは思ってもみなかった。
「今、何て言いやがった?」
「聞こえませんでしたか」
レギュラスは微かに首を傾げる。
「あなたが妻に向けている感情は——隠そうとしていないように見えますが」
その目は、氷のように冷たかった。
怒鳴りつけるでも、罵倒するでもない。
ただ、事実を述べるという形で、最も痛いところを刺してくる。
シリウスがアランと一緒にいるところを、レギュラスは一度も目撃していない。
だが、屋敷の空気が変わっていた。
妻の表情の柔らかさ、子供たちの視線の揺らぎ、
留守の間にだけ満ちる、微妙な「温度」の違い。
レギュラスは薄く目を伏せた。
「あなたが屋敷に来た日は、アランがよく眠れる日だった。
ステラとアルタイルの笑い声も、少し増えました」
その事実を、嫉妬という形で処理しなかった自分を、彼はよく知っている。
ただ静かに観測し、封じ込め、別のフォルダにしまい込んできただけだ。
——だが今は、あえて取り出す。
「愛だとか、おっしゃっていましたね」
レギュラスの声が、ひときわ静かになる。
「以前、アランに。
『もし俺がお前を幸せにしたいって言ったら、苦しめるか?』——そう尋ねたそうですね」
シリウスの顔色が、あからさまに変わった。
「あいつ……話したのか?」
「いいえ。話しません。あの人は、そんな愚かなことはしませんよ」
レギュラスは即座に否定する。
「ただ、あなたが何を口にしたかは、だいたい想像がつくだけです」
自分の屋敷で、自分の妻に。
自分の留守中に。
シリウスがアランに向けてきた“優しさ”と“光”が、どれほどこの家を揺らしたか。
ステラの幼少期の不安定さを、どれほど増幅させたか。
考えたくなくても、答えは見えてしまう。
だからこそ、今、この言葉を投げる。
「愛だなどと口にするのであれば——」
彼は淡々と続けた。
「その女が、あなたの属する組織から二度も殺されかけたことくらい、気づいていて然るべきでしょう」
廊下のどこかで、ランプの火がぱちりと爆ぜた。
「……っざけんなよ」
シリウスの声が、かすれた。
「本当に、ジェームズが——」
「ええ。魔法省の地下で一度。
そして、骨を餌に呼び出すという手の込んだ方法で、一度」
レギュラスは感情を乗せない。
事実だけを、冷静に並べる。
「どちらの場にも、あなたの姿はありませんでした。
そして、どちらの計画についても、あなたは何も知らなかった」
そこで初めて、レギュラスはほんの少しだけ目を細めた。
「……とても、便利ですね」
「は?」
「あなたは“愛している”と言いながら、
愛する女を手にかける苦しみからは、誰よりも丁寧に遠ざけられている」
ジェームズも、リーマスも、騎士団も。
誰も彼もが、シリウスをこの汚れ仕事から外している。
それは友情と呼ばれるのかもしれない。
だが、ステラの目からすれば、それは究極に「ずるい」構図だった。
そして今、レギュラスは、その認識を兄へとそのまま突きつけている。
「妻は、あなたたちの“正義”のために二度殺されかけました」
静かな声が続く。
「僕は、それを知っています。
ステラも、アルタイルも、アラン自身も」
灰色の瞳が一瞬だけ揺れた。
「そして、あなたは——何も知らずに、綺麗な場所から“愛している”と言い続けていた」
それは責め立てる叱責ではなく、事実の提示だった。
だが、事実ほど残酷な刃はない。
シリウスの喉が、ごくりと動く。
「……ジェームズに、聞けってことかよ」
かろうじて絞り出した声には、怒りだけではなく、何か別の感情も混ざっていた。
友情への疑念か、自分自身への嫌悪か、それとも——
レギュラスは、それを見逃さなかった。
「ええ。そうしてくださると助かります」
あくまで丁寧な口調で言う。
「なぜ、あなたの大切な女を狙ったのか。
騎士団として、どんな議論がなされ、どんな結論が出たのか」
兄の“愛”など、腹立たしいものに過ぎない。
アランに向けられる視線は、見るたびに胸の奥を焼く。
だが今は、その感情さえ利用するしかなかった。
これ以上、騎士団がアランに刃を向けないように。
“内部”からの不協和音を引き起こすために。
そう思いながら、レギュラスは一歩退いた。
「あなたが動けば、ジェームズたちも少しは考えを改めるかもしれません」
静かに言葉を添える。
「少なくとも——次に妻を殺そうとしたとき、
彼らは、もう少しだけ迷うでしょう」
それは、祈りではなく、計算だった。
シリウスの怒りと、罪悪感と、愛情を利用して、騎士団の中に亀裂を入れる。
兄弟としての情も、嫉妬も、全て込みで。
それでもレギュラスは、選んでしまう。
シリウスの表情から、ついに言葉が消える。
ぎり、と奥歯を噛みしめる音だけが、静かな廊下に落ちた。
「……ジェームズのところに行ってくる」
低い声でそれだけ告げると、シリウスは踵を返した。
歩き出す足取りは、先ほどよりもずっと重く、速い。
その背中を、レギュラスは冷静な目で見送った。
「シリウス」
呼び止めるように、名をもう一度だけ呼ぶ。
振り返った兄の灰色の瞳に、自分とよく似た色が宿っていることに、ふと気づいた。
「——妻を愛していると言うのなら」
レギュラスは、はっきりと言葉を紡いだ。
「その愛が呼び込んだ罪と、揺らぎと、責任を——あなた自身で確かめてきてください」
それは、弟としてではなく、夫として、父としての要求だった。
シリウスは何も言わなかった。
ただ、強く一度だけ頷くと、そのまま歩き去っていった。
彼の背中が角の向こうに消えるまで見届けてから、レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
胸のどこかが、ひどく痛んでいた。
兄の愛を利用してまで、妻と子供たちを守ろうとしている自分が、心底嫌になる。
それでも——
(僕がやるしかない)
そう思う。
ジェームズたちが「保留」と呼んだあの日から、世界の重心は少しずつずれ始めている。
そのずれの中で、誰が罪を引き受け、誰が血をかぶるのか。
レギュラス・ブラックは、自分の立つ場所を、もう決めてしまっていた。
昼の喧噪を忘れた石床は冷たく、高い天井から吊られたランプの灯りだけが、頼りなく床を照らしている。
レギュラス・ブラックは、その薄い光の帯の中を、いつものように迷いのない足取りで歩いていた。
掌には、つい先ほどまで目を通していた書類の手触りが、まだかすかに残っている。
狼人人権関連の条文、マグル側との調整案、関所での小競り合いの報告——どれも、彼の頭の中ではすでに整理と判断が済んでいる案件ばかりだった。
そこへ、角を曲がった先から、一人の男が早足で近づいてくる。
「レギュラス」
冷静な報告の声音。バーテミウスだった。
彼は立ち止まりざま、片手に持っていた封書を軽く掲げてみせる。
「ボグワーツからですよ。緊急の知らせです」
レギュラスの足が、わずかに止まる。
封蝋には、見慣れた校章——四つの動物が並ぶ紋章。
仕事絡みの文書ではない。
これは、父親としての自分に宛てられた書簡だと、直感が告げる。
「……内容を」
短く促すと、バーテミウスは封を切り、さらりと目を走らせた。
その灰色の瞳が、一瞬だけ驚きとも興味ともつかない色を帯びる。
「あなたの子供たち二人が、姿くらましをしたようです」
廊下の空気が、すっと冷えるような気がした。
「……姿くらまし?」
レギュラスは低く反芻する。
眉間に、深い皺が刻まれた。
未成年の学生魔法使いが、学校の外で魔法を使うこと——それ自体がすでに慎重を要する問題だ。
ましてや、姿くらまし。
成人後に資格を取得してからでなければ許可されない高度な魔法だ。
国際機密保持法にも接続する領域であり、法務部長官としては見逃せない行為。
そして何より——父親としても。
「……何事です。二人ともですか?」
抑えた声に、かすかな焦りが滲む。
バーテミウスは、感情を乱すことなく淡々と答えた。
「ええ。ここに、はっきりと」
彼は書簡をひらりと返し、レギュラスの目の前で文面を示す。
「ステラ・ブラック、アルタイル・ブラック——両名の寮から姿が消え、感知網に引っかかったとのことです。校則違反および、未成年による違法な移動魔法行使の疑い」
紙に記された二人の名を目で追ううちに、レギュラスの胸に、鈍い痛みが広がっていく。
優等生だった。
ステラも、アルタイルも。
自分と同じ寮に入り、主席の座を当然のように維持し、
ホグワーツでの彼らの名前は、いつも「模範」「才媛」「神童」といった言葉とともに語られてきた。
教師たちから届く報告書は、常に高評価で埋め尽くされていた。
問題行動など、ほとんど耳にしたことがない。
少なくとも、学校側に明るみに出るようなものは。
——その二人が。
しかも、二人揃って。
無断の姿くらまし。
これは単なる「悪ふざけ」ではない。
何か、よほどの理由がある。
あの子たちは、無意味なルール違反をするような性質ではない。
(まさか——)
胸裏で、一つの可能性が静かに形を取る。
アラン。
ここ数日、アランにまつわる状況は、あまりにも動きが多かった。
騎士団の動向。
闇の帝王の勢力のざわつき。
レギュラスはそのどれもを把握し、管理しているつもりだった。
だが——子供たちの胸の内までは、読み切れてはいなかったのかもしれない。
「姿くらましをした先は、どこです?」
声には、もはや法務部長官としての冷静さより、父親としての切迫感が勝っていた。
バーテミウスはそれを咎めることなく、いつもの調子で答える。
「ボグワーツ側では、感知網の外まで跳んでいるようですね。記録では——かなりの長距離ですよ」
そこで、彼はほんの少しだけ口元をゆるめた。
「さすがはあなたの子供たちだ。やることが違う」
皮肉とも賞賛とも取れるその言葉に、レギュラスは応じなかった。
長距離の姿くらまし。
感知網を越えるほどの距離。
高度な魔力制御と、強い意志がなければ不可能な移動。
(そうまでして、行きたい場所——)
考えられる場所は、限られている。
魔法省。
そして、その地下。
あるいは——
「……執務室へ戻ります」
レギュラスは短く告げると、歩調を早めた。
バーテミウスも無言でついてくる。
廊下を進むにつれ、胸の内側で、ざわつく何かが激しさを増していく。
怒りか、恐怖か、それとも別の感情か。
子供たちが自分の許可もなく危険な魔法を使ったことへの怒り。
そして、その理由が「アラン」に関係しているのではないかという恐怖。
執務室の扉を押し開けると、静かな空気が二人を迎えた。
重厚な本棚と、書類の積まれた机。
その中央には、魔力感知用の魔法具が、淡い光をたたえながら鎮座している。
レギュラスは迷いなくその前に立つと、杖を抜いた。
「——ステラ・ブラック、アルタイル・ブラック」
低く名を呼ぶ。
杖先から、細い光の糸が二筋、ふわりと立ち上る。
それは彼らが生まれたときから結ばれている、魔力の痕跡。
父である彼にしか、完全には読み解けない特別な「線」だ。
光の糸は、一瞬だけホグワーツを示す方角で明滅し、
次いで、滑るように別の方角へと伸びていった。
レギュラスの喉が、ごくりと鳴る。
魔法省地下ではない。
感知した魔力は——
「……屋敷だ」
呟きは、ほとんど息に混じった。
ステラとアルタイルの魔力は、すでにブラック家の屋敷に戻っている。
だがそれはつまり——その途中で何があったのか、決して平穏な外出ではなかったということを意味していた。
ボグワーツ側が「緊急」の文字を添えて書簡を送ってくるほどの事態。
騎士団の動き。
母の封印を狙う勢力。
そして、姿くらまし。
(間違いない。あの子たちは—— アランのために動いた)
誇らしさと、どうしようもない恐怖が同時に胸を締めつける。
誰よりも聡く、誰よりも優秀な子供たち。
だからこそ、もっとも無茶な選択を、平然とやってのける。
アランを守るためなら、法も、掟も、危険もきっと厭わない。
「レギュラス」
背後から、バーテミウスの声がする。
「どうされます?」
レギュラスは振り返らずに答えた。
「——すみませんが、あとは頼みます」
その言葉は、いつもと同じ口調だった。
だが、そこに込められた切迫感を、バーテミウスは敏感に察する。
「分かりました。ここは私が」
彼はそれ以上何も問わなかった。
書類の山と、未処理の案件と、法務部長官不在の責任——それらの重みを理解したうえで、淡々と引き受ける。
レギュラスは机の脇にかかっていたローブをつかみ、肩に羽織った。
動作はいつもと変わらぬ滑らかさを保っているのに、指先だけが、ほんのわずかに震えている。
「屋敷に向かいます」
短くそう告げると、彼は灯りの落ちた暖炉の前に立った。
ひと振りで炎を呼び起こし、緑の火が勢いよく燃え上がる。
胸の奥で、ひとつだけ願う。
どうか、間に合え。
アランにも。
ステラにも。
アルタイルにも。
誰一人欠けることなく、今の形のままで——と。
その祈りを、表情には一片も浮かべないまま、レギュラス・ブラックは炎の中へ身を投じた。
瞬きほどの時間ののち、その姿は法務部長官の執務室から、跡形もなく消えた。
屋敷の暖炉から吐き出されるようにして、レギュラスはリビングの床に姿を現した。
緑の炎が一瞬だけ高く揺らぎ、次の瞬間には、いつもの静かな居間の光景が戻る。
最初に目に飛び込んできたのは、寝台の上で上体を起こしているアランだった。
枕元には、翡翠色の瞳をした彼女の姿——そして、そのすぐ傍らに、ステラとアルタイルが寄り添うように座っている。
「……」
胸の奥に貼りついていた冷たい不安が、そこでようやくほどけた。
子供たちは予想通り無事だった。大きな外傷も、魔力の乱れもない。
ステラも。アルタイルも。
(……そうだ。あの子たちは)
自分のブラック家の血を、濃く、あまりにも濃く継いでいる。
そのおかげで、魔力はその辺の子供たちなど軽く凌駕し、どうかすれば半端な成人魔法使いよりも高い。
長距離の姿くらましでさえ、やってのけてしまうだろうと、頭のどこかでは理解していた。
怪我をする可能性は、極めて低い。
実際、彼らはそういう風に育ってきた。
どんな危険な魔法実技の試験でも、平然と笑って戻ってくる子供たちだった。
だから——本当に怖かったのは、子供たちの身ではない。
レギュラスの視線は、自然とアランへと吸い寄せられる。
少し青ざめた頬。汗の跡。
いつもよりわずかに荒い呼吸。
だが、確かにそこに「生きて」いる。
アランの翡翠の瞳が、レギュラスを捉えた。
立ち上がろうと、細い体が寝台から起き上がりかけ——
「……!」
レギュラスは抑えきれなかった。
距離を一気に詰め、その動きを制するように、アランの体を強く抱きしめる。
腕の中で、彼女の身体が小さく震えた。
その震えが、恐怖なのか安堵なのか、判別がつかない。
だが、柔らかな体温と、胸元に触れる髪の感触が、遅れて彼の神経に流れ込んでくる。
(……よかった)
心の奥から、言葉にならない吐息が湧き上がりかける。
——間に合った。
——まだ、この腕の中にいる。
長距離の姿くらましをそつなくこなす子供たちを、本当はそこまで心配する必要などなかったのだろう。
法務官として冷静に判断するなら、そう言えた。
だが、妻に関してだけは、論理も経験も、何の役にも立たない。
ただ、「失うかもしれなかった」という事実だけが、全身をひりつかせる。
「アラン……」
名前を呼んだ瞬間、胸の中で何かが臨界点を越えた。
子供たちの前であることも忘れ、溢れ出た感情のままに、アランの顔を引き寄せる。
その唇に、勢いのまま口づけた。
アランの瞳が驚きに大きく見開かれ、
次いで、きゅっと苦しげに閉じられる。
その反応が、かえってレギュラスの胸を締め付けた。
——生きていてくれて、ありがとう。
喉まで出かかっているその言葉だけは、どうしても声にできない。
背後で、小さくため息の混じる音がした。
「……お父様」
淡々とした娘の呼びかけに、レギュラスはようやく我に返る。
ゆっくりとアランから体を離し、振り返った。
ステラが腕を組み、半ば呆れたような視線を向けていた。
その後ろで、アルタイルが気まずそうに視線を泳がせている。
「お父様。ここで熱烈な再会をされるのは結構ですが——」
ステラは、わずかに目を細めた。
「セラ・レヴィントンの魔力が、直前までこの部屋に残っていましたけれど」
その名が放たれた瞬間、時間が一拍、ずれたように感じた。
「……セラ」
思いがけない名前。
レギュラスはほんの一瞬、動きを止める。
胸の奥の、触れられたくない場所に、
鋭い指先を押し込まれたような感覚。
自分の娘の口からその名を聞かされることは、
父親として、最も痛い部分を容赦なく突かれているようなものだった。
ステラの翡翠の瞳が、静かにこちらを見ていた。
責め立てる色ではない。だが、すべてを見抜いている者の目だった。
レギュラスは、ゆっくりと息を吐く。
アランの肩に置いていた手を名残惜しく離し、その横顔へと視線を移した。
「……セラに会いましたか?」
静かな声音で尋ねる。
アランは一瞬だけ迷うように瞬きをし、それから小さく首を振った。
杖を持つ指先が、かすかに震えながら動き出す。
空中に浮かぶ見えない板の上に、透明なインクで綴るように、文字が形を取っていく。
《今日ではなく、数日前。市場で偶然に》
滑らかで、ためらいのない筆致。
その整った文字は、彼女の強さと、長年の沈黙の重さをそのまま映している。
「数日前……市場で」
レギュラスは、その言葉を繰り返す。
アランは静かに頷いた。
ステラが、わずかに唇を引き結ぶ。
その横顔には、冷静な思考の気配が宿っていた。
「では、その時に接触されていたわけですね」
娘の声には、動揺よりも先に分析があった。
「お母様の魔力の層の上に、セラ・レヴィントンの魔力が薄く重なっていました。
それが、ついさきほどまでこの部屋に残っていましたから」
彼女はまるで授業中に論理を組み立てるときのように、淡々と続ける。
「時間差で発動するタイプの魔法でしょう。
接触した時点で仕込まれ、今日になって発動した——そう考えるのが自然です」
その知性、その観察眼。その冷静さ。
どこまでも、自分によく似ている。
(……さすがだ)
誇りと、胸の痛みが、同時に込み上げてくる。
こんなにもよく似た娘が、自分の最も見せたくない過去の名を、当然のように扱っている。
「つまり——」
レギュラスは、ゆっくりと娘を見る。
「そのセラの呪文が発動して、アランは“おびき寄せられた”ということですか」
そう問うと、ステラはこくりと頷いた。
「はい、お父様。
お母様が自ら望んで出向かれたというよりも、
誘導魔法に近いものが働いていたと考えるべきです」
その言葉を聞きながら、レギュラスはもう一度アラン へと視線を戻した。
アランは、静かにこちらを見上げていた。
その翡翠の瞳には、後悔と、不安と、かすかな怒り——そして何より、疲れが滲んでいた。
すぐに責めるべきではない。
責任を問うのは簡単だ。この家の主として、夫として、法務部長官として。
だが、彼女はもう何年も、十分すぎるほど多くのものを背負わされてきた。
頭の片隅で、金の髪を揺らして笑う女の姿がよぎる。
その面影を、レギュラスは静かに押し殺した。
——あの女が、アランに手を伸ばした。
それだけは、決して許せない。
「事情は、あとで整理しましょう」
短くそう告げると、レギュラスは再びアランの傍らに腰を下ろした。
すぐそばで、アルタイルが不安げに母の手を握りしめている。
「お父様」
ステラがもう一度、彼を呼ぶ。
翡翠の瞳が、今度は少しだけ柔らかく揺れた。
「……お母様は、もう大丈夫です。
騎士団も、今日は“保留”ということになりましたから」
その声の端に、かすかな皮肉が混じる。
それを聞きながら、レギュラスは胸の奥底で、別の種類の怒りがゆっくりと燃え上がっていくのを感じていた。
騎士団。セラ。封印。
そして、自分の家族。
——すべての帳尻を、自分がつけなければならない。
アランの指が、彼の袖をそっとつまんだ。
その感触に、レギュラスはほんの一瞬だけ表情を緩める。
「心配はいりません」
彼は、妻と子供たちの方を見渡しながら、静かに言った。
「僕が、やりましょう」
その声音には、魔法省法務部長官としての冷静さと、
ひとりの夫として、父として、どうしようもなく狭量な執着が、等しく滲んでいた。
アランを抱きしめていた腕を、ようやく名残惜しくほどいたときだった。
「お父様」
背中に、よく通る少女の声が刺さる。
ステラの声だ。
レギュラスは振り向かずに、アランの肩越しに気配だけを確認した。
視線を向けなくても分かる。
きっとあの翡翠の瞳は、冷たく細められている。
「お話がございます」
硬質な響き。
用件を柔らかく包むこともなく、必要な言葉だけを選び取る口調。
「……ええ。すぐに行きます」
レギュラスはそう答えた。
娘が何を自分に問おうとしているのか。
何を責め、何を断ち切ろうとしているのか。
ステラのあの鋭い視線の中に、その「冒頭部分」は既に見えている気がした。
彼はアランの肩にそっと腕を回し、支えるようにして寝室へ向かう。
薄く灯りの落とされた寝室は、いつもより静かに感じられた。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、ベッドの白いリネンに淡く影を落としている。
レギュラスはアランをベッドの縁に座らせ、ゆっくりと上体を横たえさせた。
指先に伝わる細い腰の感触が、まだどこか頼りない。
「ステラと話してきます」
彼はアランの枕元に片膝をつき、その翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「起きて、待っていてくださいね」
本来であれば、「寝ていて構わない」と言うべきなのかもしれない。
心身ともに消耗している妻に、安静を命じるのが常識だ。
だが——今だけは、そう言いたくなかった。
ステラとの話が終わったあと、アランとも話をしたい。
セラと何を話したのか、どんな魔法を仕掛けられたのか、細部を問いただすつもりはなかった。
ただ、何でもいい。
他愛もないことでも、子供たちの幼い頃の話でも、ホグワーツの思い出でも——
とにかく、アランと「言葉を交わしていたい」と思った。
アランは少しだけ瞬きをし、それから細い指で杖を持ち上げる。
空中に描かれた文字が、淡い光のように浮かんだ。
《待っています》
たった五文字の、その端正な筆致に、レギュラスの胸が少しだけ温かくなる。
「すぐ戻ります」
囁くように告げてから、彼は寝室を出た。
ステラの部屋の前に立つと、扉の向こうから魔力の気配が静かに伝わってきた。
冷たい水面のように整った魔力——乱れも、揺らぎもない。
ノックを二度。
間を置いて、内側から「どうぞ、お父様」という声が返る。
扉を開けると、整然とした空間が現れた。
机の上には開かれた教科書と、几帳面に並べられた羽根ペン。
壁にはホグワーツの寮旗が一枚、皺ひとつなく掲げられている。
余計な装飾や小物はほとんどない。
ステラらしい、無駄を削ぎ落とした部屋だった。
その中心で、ステラが椅子から半ば立ち上がる格好で振り返った。
冷たい翡翠の瞳が、レギュラスを真っ直ぐに射抜く。
「お父様」
呼びかけは丁寧なのに、その眼差しは容赦がない。
幼い頃、ベッドに飛び込んできていたときと、まったく同じ瞳の色なのに——そこに宿る感情は、随分と変わってしまった。
レギュラスは部屋の中ほどまで歩み、扉を静かに閉めた。
「姿くらましの件——」
彼が口を開くと、ステラの顎がわずかに強張る。
怒られることを怖れている、というよりは、
「どこまでを許され、どこからを責められるのか」を冷静に測っている顔だった。
「本来であれば、あなたを咎めるべきなんでしょうね」
レギュラスは淡々と言葉を選ぶ。
「未成年での長距離の姿くらまし、校則違反、そして法への抵触。
法務部長官として見逃すわけにはいかない行為です」
ステラは何も言わない。
ただ、視線だけが「分かっています」と告げている。
「……ですが」
レギュラスは息を浅く吐いた。
「またも、あなたの手柄です」
ステラの眉が、ほんの僅かに揺れた。
それは驚きというより、「予想していなかった言葉」を聞いたときの反応だった。
「責めるつもりはありません。
法に触れた部分も含めて、こちらで対処します。
ボグワーツ側への説明も、魔法省の記録処理も——心配しなくていい」
それが、彼なりの「守る」という宣言だった。
ステラは一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……でしたら、お父様」
その声には、火傷するような冷たさがあった。
「セラ・レヴィントンを野放しにしておくのは、危険ですわ」
最初から核心にしか迫らない言い方。
前置きも遠回しもなく、切っ先だけを突きつけてくる。
どこか、苦笑したくなるほどに。
「そうかもしれませんね」
レギュラスは静かに答えた。
否定の余地はない。
彼女の言うことは、最もだった。
セラは、危険だ。
アランにとっても、子供たちにとっても、そして、この家の均衡にとっても。
だが——
「中途半端な情けは不要ではありません?」
ステラは、まっすぐに言い切った。
「お父様がセラ・レヴィントンに感じておられる“負い目”や“恩義”があるのだとしても。
それを、お母様や私たちに払わせる理由にはなりません」
レギュラスの胸の奥で、何かがぴしりと音を立てる。
図星を刺されたときの、あの不快な痛みだ。
「あなたの言うとおりですね」
認めるほかなかった。
まさか、娘から諭されるような日が来るとは夢にも思わなかった。
法務部で、どれほど多くの大人たちを論破し、ねじ伏せてきたか。
そんな自負など、ステラの一言の前では滑稽に思える。
言い返す言葉が、ひとつも浮かばない。
かつて、燃えるような欲のはけ口として、逃避先として、セラを選んだのは他ならぬ自分だ。
アランの体が弱っていたあの頃、現実から目をそらしたい夜にだけ訪ねていったのは事実だった。
都合のいいときだけ求め、都合が悪くなれば距離を置く。
それでもなお、レギュラスはどこかで「彼女に救われた自分」がいることも否定できないでいた。
だからこそ、完全に切り捨てることはできても、
せめてもの情けを残していくことくらいは許されるのではないか——
そんな甘い考えが、心のどこかにしがみついていた。
(そこまで、見抜かれているのか)
ステラに。
それが、父としてあまりにも不甲斐なく感じられた。
ステラは、一歩だけ近づいた。
翡翠の瞳が、わずかに怒りを帯びる。
「お父様が最大限譲歩なさるのは——」
その声は低く、鋭かった。
「これから先も、お母様のために屋敷に置くことを許可された“マグルの女”のことだけにしてください」
「……メイラのことですか」
問うまでもない。
だが、口に出さずにはいられなかった。
ステラははっきりと頷く。
「ええ。
あの子をここに置くことは、私も完全には納得していませんが——
お母様の望みであり、お父様が決定されたことですから。
それが“家としての選択”であるなら、飲み込みます」
そこには、娘なりの「筋」があった。
「ですが」
翡翠の光が鋭く揺れる。
「自分の血の半分を占める父が、混血の女にはまり、情けをかけ続ける姿など——見たくありません」
言葉は容赦なく、冷酷だった。
だが、その奥に潜む感情は、単なる嫌悪だけではない。
メイラのことも、ステラは最大限に敵視している。
それは、ただの差別ではなく——母の愛を奪われたという幼い頃からの実感の積み重ねなのだ。
メイラは、アランのために許した譲歩だった。
彼女をこの家に置くことを認めたのは、レギュラスの立場からすれば異例の判断であり、正常な純血主義者ならまず採らない選択だ。
だが、ステラにとっては違う。
それは「母の腕の中を、さらに狭くする存在」として映っている。
純血であることを誇りとしてきた娘が、それを嫌悪するのは、ある意味では当然なのだろう。
「……ステラ」
レギュラスは、しばし言葉を探した。
父として、何を返すべきなのか。
法務官としてではなく、夫としてでもなく、「父」として。
「セラ・レヴィントンの件は——」
彼はゆっくりと告げる。
「あなたの言うとおり、中途半端な情けは捨てるべきでしょう。
アランに危害を加えようとした時点で、線は越えられた」
ステラの表情が、わずかに緩んだように見えた。
それが安堵なのか、満足なのか、判断はつかない。
「メイラに関しては……」
そこまで言いかけて、レギュラスは言葉を切った。
ステラの中で、どれほど深くこの問題が根を張っているか。
今この場で、簡単に理解を求めるような真似はできない。
それは、彼女の幼少期の孤独と、渇望と、諦めに直結している。
「いつか、話をしましょう」
それが、今の彼に言える精一杯だった。
ステラは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らし、その翡翠の瞳を伏せる。
レギュラスは、その横顔をしばらく見つめていた。
アランと同じ瞳の色。
自分と同じ論理の鋭さ。
そして、自分には持ち得なかった「父への要求」を、はっきりと言葉にできる強さ。
「……ありがとう、ステラ」
思わず口をついて出た言葉に、彼女は不思議そうに瞬きをした。
「お父様?」
「あなたが言ってくれなければ、僕はきっと——」
セラへの情けを、だらだらと引き延ばしただろう。
アランにも、子供たちにも、これ以上ない不誠実な形で。
そこまで言いかけて、彼は首を振った。
「いいえ。こちらの話です」
ステラはそれ以上問わなかった。
それもまた、彼女の賢さだった。
レギュラスは、扉の前まで歩み、振り返る。
「もう遅い。今日は休みなさい」
「お父様こそ」
ステラはわずかに口元を引き結んだ。
「……お母様を、お願いします」
その一言に、レギュラスの胸は静かに熱くなった。
「ええ。もちろんです」
扉を閉め、廊下に出る。
寝室の方角に自然と足が向かう。
アランのもとへ戻りながら、彼は心の中で一つだけ決意を新たにしていた。
セラとの因縁に、きちんと終止符を打つこと。
メイラを、この家に置くと決めた責任を、最後まで自分が負うこと。
そして——娘の前で、これ以上みっともない父でいないこと。
(アランに、全部を話してもいい頃なのかもしれない)
そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
だがそれは、寝室の扉に手をかけたところで、そっと胸の奥に押し戻される。
今はただ——
あの翡翠の瞳が、無事であることを確かめたい。
セラの名を出されたあとでもなお、自分を待っていると書いてくれた、その事実に救われていたかった。
レギュラス・ブラックは、静かに扉を開き、再びアランのいる寝室へと戻っていった。
魔法省の廊下は、夜に近い時間になると別の建物のように静まり返る。
日中は行き交うローブの色と声であふれていた石畳も、今はランプの光を淡く映すだけだ。
レギュラス・ブラックは、その無人の廊下を、ひとり音もなく進んでいた。
靴音をほとんど立てない歩き方は、昔から変わらない癖だ。
余計な気配を撒き散らしたくない——職務上身についた習性でもあり、性格そのものでもある。
そのとき、前方の角を勢いよく曲がってくる影があった。
銀色の髪。
乱れたローブ。
歩くというより、廊下を蹴飛ばすような足取り。
「……」
すれ違う寸前、レギュラスは迷いなく口を開いた。
「シリウス」
名を呼ばれた男が、ぴたりと足を止める。
こちらを振り向いた灰色の瞳が、一瞬だけ驚きに揺れ、それからいつもの粗雑な笑みに戻った。
「おいおい……お前に呼び止められる日が来るとはな」
シリウスは片方の口角を上げて笑ってみせる。
「てっきり、俺のことなんざ一生無視するつもりかと思ってたぜ。
それとも何だ、ついに弟から説教でもしてもらえるのか、堕落した兄貴はよ」
挑発混じりの軽口。
だが、レギュラスの表情はほとんど動かない。
涼しげな灰色の瞳で、シリウスをまっすぐ見据えている。
「説教をする立場だとは思っていません」
静かな声で言う。
「ただ——事実を一つ、お伝えしようと思いまして」
その声音に含まれたわずかな硬さに、シリウスが眉をひそめる。
兄として長年見てきた経験から、レギュラスが「これ」をわざわざ口にするとき、そこに感情が混ざっていることを察していた。
「……なんだよ」
レギュラスは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから淡々と告げた。
「妻が、ジェームズ・ポッターに二度——殺されかけました」
廊下の空気が、きしりと軋んだ気がした。
「……は?」
シリウスの目が大きく見開かれる。
息が半分喉に詰まったような声音で、言葉が溢れる。
「今の、もう一回言え」
「ジェームズ・ポッターに二度、アランの命を狙われました」
レギュラスは繰り返す。
言葉の端ひとつ乱さず、報告書を読み上げるような口調で。
シリウスは一歩、彼に近づいた。
軽口も、皮肉も消えている。
「ふざけんなよ……俺は何も聞いてねぇぞ」
その反応に、レギュラスの胸の奥で、冷たい笑いがひとすじだけ走る。
(やはり、本当に知らなかったのですね)
ちょこまかと屋敷に顔を出しては、妻と接触し、
何の責任も取らないまま、訳の分からない余韻だけを残していく迷惑な男。
アランが、シリウスと過ごした時間をどれほど大切にしていたか。
その瞳に灯る光で、レギュラスは嫌というほど理解してしまった。
彼がアランに対してどんな感情を抱いているのか——本当は知りたくもなかった。
だが、屋敷の空気が、彼女の表情が、声にならない笑い声の名残が、
嫌でも答えを突きつけてくる。
“真っ直ぐな好意”を隠そうともしないその男が、とにかく癪に障って仕方がない。
それでも、彼は一度もそれを口にしてこなかった。
今日、この瞬間までは。
「どういうことだ。説明しやがれ」
シリウスが低く唸るように言う。
灰色の瞳には、怒りと困惑がないまぜになった光が宿っていた。
レギュラスは、わざとゆっくりと瞬きをした。
「そうですね。……説明は、僕よりも適任の方がいるでしょう」
わずかに口元をゆがめる。
それは、笑いとも嘲りともつかない表情だった。
「ジェームズ・ポッターに、お聞きになってはいかがですか」
静かな声が、廊下に落ちる。
「なぜ、あなたの“思い人”を狙ったのか。その理由を」
「——っ」
シリウスの手が、ローブの裾をギリ、と掴んだ。
思い人、という言葉の選び方に、感情がざわめくのが自分でも分かった。
「お前……」
かっとなる怒りと、同時に抑え込まれた羞恥が混ざり合う。
アランへの想いを、こんな形で口にされるとは思ってもみなかった。
「今、何て言いやがった?」
「聞こえませんでしたか」
レギュラスは微かに首を傾げる。
「あなたが妻に向けている感情は——隠そうとしていないように見えますが」
その目は、氷のように冷たかった。
怒鳴りつけるでも、罵倒するでもない。
ただ、事実を述べるという形で、最も痛いところを刺してくる。
シリウスがアランと一緒にいるところを、レギュラスは一度も目撃していない。
だが、屋敷の空気が変わっていた。
妻の表情の柔らかさ、子供たちの視線の揺らぎ、
留守の間にだけ満ちる、微妙な「温度」の違い。
レギュラスは薄く目を伏せた。
「あなたが屋敷に来た日は、アランがよく眠れる日だった。
ステラとアルタイルの笑い声も、少し増えました」
その事実を、嫉妬という形で処理しなかった自分を、彼はよく知っている。
ただ静かに観測し、封じ込め、別のフォルダにしまい込んできただけだ。
——だが今は、あえて取り出す。
「愛だとか、おっしゃっていましたね」
レギュラスの声が、ひときわ静かになる。
「以前、アランに。
『もし俺がお前を幸せにしたいって言ったら、苦しめるか?』——そう尋ねたそうですね」
シリウスの顔色が、あからさまに変わった。
「あいつ……話したのか?」
「いいえ。話しません。あの人は、そんな愚かなことはしませんよ」
レギュラスは即座に否定する。
「ただ、あなたが何を口にしたかは、だいたい想像がつくだけです」
自分の屋敷で、自分の妻に。
自分の留守中に。
シリウスがアランに向けてきた“優しさ”と“光”が、どれほどこの家を揺らしたか。
ステラの幼少期の不安定さを、どれほど増幅させたか。
考えたくなくても、答えは見えてしまう。
だからこそ、今、この言葉を投げる。
「愛だなどと口にするのであれば——」
彼は淡々と続けた。
「その女が、あなたの属する組織から二度も殺されかけたことくらい、気づいていて然るべきでしょう」
廊下のどこかで、ランプの火がぱちりと爆ぜた。
「……っざけんなよ」
シリウスの声が、かすれた。
「本当に、ジェームズが——」
「ええ。魔法省の地下で一度。
そして、骨を餌に呼び出すという手の込んだ方法で、一度」
レギュラスは感情を乗せない。
事実だけを、冷静に並べる。
「どちらの場にも、あなたの姿はありませんでした。
そして、どちらの計画についても、あなたは何も知らなかった」
そこで初めて、レギュラスはほんの少しだけ目を細めた。
「……とても、便利ですね」
「は?」
「あなたは“愛している”と言いながら、
愛する女を手にかける苦しみからは、誰よりも丁寧に遠ざけられている」
ジェームズも、リーマスも、騎士団も。
誰も彼もが、シリウスをこの汚れ仕事から外している。
それは友情と呼ばれるのかもしれない。
だが、ステラの目からすれば、それは究極に「ずるい」構図だった。
そして今、レギュラスは、その認識を兄へとそのまま突きつけている。
「妻は、あなたたちの“正義”のために二度殺されかけました」
静かな声が続く。
「僕は、それを知っています。
ステラも、アルタイルも、アラン自身も」
灰色の瞳が一瞬だけ揺れた。
「そして、あなたは——何も知らずに、綺麗な場所から“愛している”と言い続けていた」
それは責め立てる叱責ではなく、事実の提示だった。
だが、事実ほど残酷な刃はない。
シリウスの喉が、ごくりと動く。
「……ジェームズに、聞けってことかよ」
かろうじて絞り出した声には、怒りだけではなく、何か別の感情も混ざっていた。
友情への疑念か、自分自身への嫌悪か、それとも——
レギュラスは、それを見逃さなかった。
「ええ。そうしてくださると助かります」
あくまで丁寧な口調で言う。
「なぜ、あなたの大切な女を狙ったのか。
騎士団として、どんな議論がなされ、どんな結論が出たのか」
兄の“愛”など、腹立たしいものに過ぎない。
アランに向けられる視線は、見るたびに胸の奥を焼く。
だが今は、その感情さえ利用するしかなかった。
これ以上、騎士団がアランに刃を向けないように。
“内部”からの不協和音を引き起こすために。
そう思いながら、レギュラスは一歩退いた。
「あなたが動けば、ジェームズたちも少しは考えを改めるかもしれません」
静かに言葉を添える。
「少なくとも——次に妻を殺そうとしたとき、
彼らは、もう少しだけ迷うでしょう」
それは、祈りではなく、計算だった。
シリウスの怒りと、罪悪感と、愛情を利用して、騎士団の中に亀裂を入れる。
兄弟としての情も、嫉妬も、全て込みで。
それでもレギュラスは、選んでしまう。
シリウスの表情から、ついに言葉が消える。
ぎり、と奥歯を噛みしめる音だけが、静かな廊下に落ちた。
「……ジェームズのところに行ってくる」
低い声でそれだけ告げると、シリウスは踵を返した。
歩き出す足取りは、先ほどよりもずっと重く、速い。
その背中を、レギュラスは冷静な目で見送った。
「シリウス」
呼び止めるように、名をもう一度だけ呼ぶ。
振り返った兄の灰色の瞳に、自分とよく似た色が宿っていることに、ふと気づいた。
「——妻を愛していると言うのなら」
レギュラスは、はっきりと言葉を紡いだ。
「その愛が呼び込んだ罪と、揺らぎと、責任を——あなた自身で確かめてきてください」
それは、弟としてではなく、夫として、父としての要求だった。
シリウスは何も言わなかった。
ただ、強く一度だけ頷くと、そのまま歩き去っていった。
彼の背中が角の向こうに消えるまで見届けてから、レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
胸のどこかが、ひどく痛んでいた。
兄の愛を利用してまで、妻と子供たちを守ろうとしている自分が、心底嫌になる。
それでも——
(僕がやるしかない)
そう思う。
ジェームズたちが「保留」と呼んだあの日から、世界の重心は少しずつずれ始めている。
そのずれの中で、誰が罪を引き受け、誰が血をかぶるのか。
レギュラス・ブラックは、自分の立つ場所を、もう決めてしまっていた。
