3章
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その夜、ホグワーツの塔に吹きつける風は、やけに冷たかった。
窓ガラスを震わせるその微かな振動の向こうで、別の「揺れ」が、ステラの内側を強く引き絞る。
――今の、何。
胸の奥で、何かが掴まれたようにきゅっと痛んだ。
呼吸を一つおくと、遅れて背骨の奥からじんわりと熱が這い上がってくる。
それは決して、心当たりのない感覚ではなかった。
セシール家の封印。
その血筋にだけ受け継がれていく、厄介な呪いにも似た力。
誰かが、どこかで――封じ込められたものに触れたとき。あるいは、その血が薄れようとしたとき。
その揺らぎは、同じ血を持つ者たちの魔力に、否応なく波紋を広げる。
暖炉の前の談話室。
静まり返った深夜の空間で、ステラは開いていた本からゆっくりと目を上げた。
向かいのソファで、アルタイルが顔を伏せている。
いつもなら、つまらない授業の話か、クィディッチの試合の話でうるさいほど喋る弟が、その夜に限って一言も発していなかった。
「……アルタイル」
名を呼ぶと、弟がびくりと肩を震わせて顔を上げる。
赤茶の髪が前に落ち、翡翠のような瞳が潤んでいた。
「姉さん……」
掠れた声。
彼はぐっと唇を噛み締めてから、吐き出すように言った。
「母さんに――きっと何か、あったんです」
言葉より先に、その表情が物語っていた。
幼い頃、熱を出した母の寝台のそばで泣きそうになっていた少年の顔と、何も変わらない。
ステラは、少しだけ目を細めた。
さっき自分の内側を震わせた揺れと、アルタイルの言葉がぴたりと重なる。
血が薄れようとした瞬間――セシールの封印の力を持つ血脈に、合図のように走る揺らぎ。
あの母は、やはり。
「母さん、絶対に無茶をしました」
アルタイルは拳を握りしめている。
「ここからでも分かるくらい、魔力が大きく揺れました。こんなの、初めてです」
暖炉の火がぱちりと音を立てて弾け、赤い火の粉が石造りの囲いの中で消える。
夜のホグワーツは静かだ。
古い時計の針の進む音と、遠くの塔で風が唸る音だけが、かすかに響いている。
その静けさの中に、二人だけが取り残されているようだった。
(力も覚悟もないくせに)
ステラは心の中で、小さく吐き捨てる。
母はいつだってそうだ。
武器も持たず、覚悟も研ぎ澄まさず、ただ誰かを守りたいという脆い願いだけを頼りに、自分の身を危険に晒していく。
闇の帝王の元に囚われたあの日も。
マグルの施設からメイラを奪い返したあの日も。
今回だってきっと、そうなのだ。
力も戦う術も、父ほどの冷徹な判断も持たないのに。
同じ盤上に立って、命を賭けようとしている。
(……本当に、愚かだわ)
そう思う。
心底、ため息をつきたくなる。
けれど、そのため息は喉の奥で凍りついて、それ以上外に出てこなかった。
揺れたのは、自分の魔力だけではない。
胸の中のどこか、凍てついているはずの部分が、微かに軋む音を立てた。
――まだ。
まだ、自分のどこかには。
あの声のない母を失いたくないと、幼い頃のまま願っている少女が、確かに息を潜めているのだ。
「……落ち着きなさい、アルタイル」
ステラは本を閉じ、静かに立ち上がった。
赤い絨毯が足裏で沈む。
暖炉の火のオレンジが、弟の顔を縁取るように照らしていた。
「落ち着いてなんて、いられません」
アルタイルは首を振る。
「母さん、きっと一人です。メイラさんが一緒かもしれないけど、戦えません。父さんは……きっと、気づけていない。母さんの中の、あの揺れを」
それには、ステラも同意せざるを得なかった。
レギュラス・ブラックは、強大だ。
魔力も、頭脳も、地位も、権限も。
けれど彼は「セシール」の血を持たない。
封印そのものを作った一族の、あの歪な呪いと共鳴する感覚は、彼には分からないのだ。
封印の揺れは、血を継いだ者―― アランと、ステラと、アルタイルにしか届かない。
母の血が、どこかで薄れかけた。
あるいは、封じていたものが、強く暴れた。
どちらにせよ、その危機を察知できるのは、自分たちだけだった。
「……行きますよ、アルタイル」
ステラはぽつりと言った。
弟が、驚いたように目を見開く。
「行く……って、どこにですか」
「母さんのいる場所」
迷いのない口調だった。
内側では、幾重にも葛藤が渦巻いているというのに、声だけは冷たく安定している。
「でも、ホグワーツの外で姿くらましなんて……」
アルタイルは震える声で続ける。
「未成年の魔法は、匂いで全部追跡されます。父さんにだって、すぐ届きますよ。校則どころか、法にも触れます」
「知っているわ」
ステラは淡々と答える。
未成年の魔法使用は、魔法省に即座に記録される。
姿くらましなんて論外だ。
父レギュラスにだって、すぐに通知が届くに違いない。
だけど。
「ここで座って祈っているだけで、母さんが戻ってくる保証はある?」
鋭く問いかけると、アルタイルは言葉を失った。
翡翠の瞳が揺れ、唇が小さく震える。
ステラは、弟の目を真っ直ぐに見る。
「私は、母が愚かな選択をしたと思っているわ」
冷たく言い切る。
「力も覚悟もないまま、危険なところに出て行く。セシールの血の重さを、どこまで理解しているのかも怪しい。……それでも」
そこで、言葉がほんの少しだけ柔らかくなった。
「それでも、さっきのあの揺れを、何もせずにやり過ごせるほど、私の中の何かは死んでいなかったみたい」
アルタイルが、かすかに息を呑む。
「だから行くの。……嫌なら、あなたはここに残ればいい」
突き放すように言いながら、それが本気でないことをステラは自覚していた。
弟はきっと、ついてくる。
そうでなければ、この子はこの子で、一生自分を赦さないだろう。
案の定、アルタイルは迷う時間もなく首を振った。
「行きます。僕も」
その声は、震えてはいたが、芯が通っていた。
「母さんを、一人で行かせません。今度こそ」
ステラは小さく鼻で笑う。
「……まったく。父さんに似て、変に真っ直ぐなんだから」
談話室の入り口のアーチを抜けると、石の階段が螺旋状に下へと伸びている。
夜のホグワーツは、ひときわ大きな影の城に変わる。
壁に並ぶ松明の炎がゆらゆらと揺れ、長い廊下に不規則な影を落としていた。
寮の塔を抜け、人気のない廊下を選びながら二人は歩く。
絵画の中の婦人が寝息を立て、鎧が静かにうつむいたまま動かない。
全てが眠りについた城の中で、ステラの足音だけが静かに響いていた。
塔を降り、中庭に出る。
夜の空気は冷たいが、先ほど感じた魔力の揺れは、まだ微かに体の中に残っていた。
かすかな引き潮のように、どこか一点へと導こうとしている。
「感じますか、姉さん」
アルタイルが囁く。
「……ええ」
自分たちの魔力の奥に、細い糸のようなものが伸びている。
その先にあるのは――母の魔力。
セシール家の封印と、世界のどこかで共鳴している母の血。
城の外、さらに先。
関所の向こう。
魔法省に近い、あの重い魔力の集積地帯の方向。
「ここから飛ぶわよ」
城壁の陰まで歩き、二人は立ち止まった。
夜空には、薄い雲が流れている。
星はほとんど見えないが、遠くの森の輪郭は黒く沈んで見えた。
ステラは、深く息を吸う。
(未成年魔法検知の警告。魔法省への記録。父に届く報せ)
頭の中に、警鐘がいくつも鳴り響く。
それでも足は止まらない。
――どうせ、自分たちは、もう安全な盤の外だ。
母が狙われていると知った瞬間から。
セシールの血が、ヴォルデモートの死と結びつけられた瞬間から。
自分も、アルタイルも、もう誰かの「駒」でしかない。
ならばせめて、その進む方向くらい、自分で選びたかった。
「手を」
差し出したステラの手を、アルタイルがしっかりと握る。
その掌は少し汗ばんでいて、けれど温かかった。
「母さんのところまで、案内してあげる」
ステラは、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「セシールの封印が、呼んでいる方向へ。……二度と、間に合わなかったなんてことにならないように」
瞼を閉じる。
意識を細く絞り、母の魔力の残り香へと集中させる。
胸の奥で、あの揺らぎが再び強まった。
引き寄せるように。
「ここだ」と告げるように。
「――行くわ」
次の瞬間、二人の姿は、ホグワーツの城壁の影からふっと掻き消えた。
空気が、ぱん、と弾けるような音を立てる。
未成年には許されない姿くらまし。
法も、校則も、父の教えも背いて。
ステラとアルタイルは、ただ一つ――声を持たない母の魔力の揺れだけを頼りに、闇の中へ飛び込んでいった。
騎士団本部の地下は、地上の喧噪から切り離された、別世界のように静まり返っていた。
厚い石壁が魔力を吸い込み、松明の灯だけが揺らめきながら、冷えた空気を青白く照らしている。
その中央に、一つの寝台が置かれていた。
簡素な金属のフレームに、魔法で固定された革の帯。抵抗した痕跡はほとんどない。ただ静かに横たえられた女性の体だけが、その空間にあまりにも場違いなほどの美しさで存在していた。
アラン・ブラック。
騎士団の誰もが、その名を知っていた。
法務部長レギュラス・ブラックの妻。
かつて闇の帝王に囚われ、セシール家の封印を施された女。
――そして今、この世界から消し去らなければならない「鍵」。
彼女は、ほとんど身動きひとつしなかった。
両手首と足首は魔法の帯で軽く押さえられているだけだというのに、逃げようとする素振りさえ見せない。
白い肌に、黒髪。
枕に流れ落ちる髪の線が、まるで繊細な墨絵のように布地を染めている。
何より目を引くのは、その瞳だった。
深い翡翠の色を宿した目が、天井ではなく、まっすぐにこの場にいる者たちを見ている。
声を持たぬゆえ、泣き叫ぶことも、罵ることも、命乞いをすることもない。
ただ、見ている。
――こちらの「正義」を、測るかのように。
「……本当にやるのか、ジェームズ」
長い沈黙を破ったのは、リーマスだった。
壁際に身を寄せ、腕を組んだまま視線を逸らせないでいる。
灯の光が彼の頬を斜めに切り、眉間に刻まれた皺の影を深く落としていた。
ジェームズは、寝台から少し離れた場所に立っていた。
拳を握り締めた手が、わずかに震えている。
それを自覚しているのか、彼は指先に力を込めて、震えを押し殺した。
「揺れるな」
低い声で、ジェームズは言った。
自分自身に言い聞かせるような響きだった。
「ヴォルデモートを倒すためだ。……それ以外の理由はない」
そう口にした瞬間、アランの翡翠色の瞳が、ぴくりと揺れた気がした。
言葉が分かったのか、それともただの錯覚か。
誰にも確かめようがない。彼女は相変わらず、ただ黙って見つめているだけだった。
「問題は……やり方だ」
壁際の別の騎士が、押し殺した声で続けた。
「ただ殺せばいいという話ではない。封印は彼女の血と、魂の在り方に結びついている。
殺し方一つで、封印がどう揺らぐかが変わると、学者たちは言っていたはずだ」
その言葉に、場の空気がさらに重く沈む。
「一撃で終わらせた方が、彼女にとっては楽だ」
若い騎士が、震えた声で言った。
「その一瞬で、封印ごと爆ぜたらどうする」
別の者が鋭く返す。
「封じられていたホークラックスが一気に解放されれば、闇の帝王はさらに強く再生するかもしれない。
俺たちは、そのリスクを背負えるのか?」
「じゃあ、どうする」
「ゆっくりと弱らせるのか? そんな真似は……」
言葉が喉でつかえ、皆の視線が自然と寝台の上へと引き寄せられる。
細い喉。
白い鎖骨。
繊細な手首。
そこに刃を立てることを想像しただけで、胃の底が冷たくなる。
魔法の光を浴びて柔らかく輝く肌は、あまりにも人形めいていて、傷ひとつつけてはいけないもののようにさえ見えた。
(これが、本当に――殺すべき「敵」なのか)
誰もが、心のどこかで同じ問いを呟いていた。
「揺れるなと言っただろう」
ジェームズが、低く吐き捨てるように言った。
だがその声の奥にも、迷いはあった。
彼は視線を逸らさないように、意識してアランの瞳を見据える。
翡翠の瞳は、静かにジェームズを映し返していた。
怒りも嘲りも、憎しみすら浮かんでいない。
ただ、受け止めているような眼差し。
(こんな目をするのか。
自分の夫が犯した罪を知りながら、それでも隣に立ち続けた女が)
彼女の過去を、ジェームズは知っている。
マグルの孤児院惨殺事件。
その罪を、別の男に被せたレギュラス・ブラックの決定。
その陰で、娘を救われた父親の、命がけの取引。
その娘――メイラを、アランが守り続けてきたことも。
彼女は、多くのものの上に立っている。
愛も、罪も、贖いも、選択も。
誰かに与えられた役割ではなく、自ら選び取った結果として、今ここにいる。
「……本当に、彼女を殺すことで、世界はよくなるのか」
誰ともなく漏れた一言に、部屋の空気がわずかに波打った。
ジェームズは目を閉じる。
まぶたの裏には、妻リリーの顔が浮かぶ。両親と自由に会えなくなった彼女の、寂しそうな笑顔。
息子ハリーの、小さな背中。
魔法界とマグル界の間に引かれた、冷たい線。
その線を濃く塗りつぶしたのは、レギュラス・ブラックだ。
そして、そのレギュラスの足元に突き立っている一本の楔が、この女―― アラン・ブラック。
「……俺たちは、もうきれいな手じゃない」
ジェームズは、ゆっくりと目を開く。
「マグルの孤児院で起きた惨劇を、俺たちは非難した。
レギュラスが、私怨で人を治験に回したことも、糾弾しようとした。
それなのに、今度は俺たちが――彼の妻と子どもを殺そうとしている」
沈黙。
リーマスが、苦しげに目を閉じる。
「分かってる。分かっているんだ。これは正義だけじゃない。復讐と、怒りと、やり場のない憎しみが混ざっている。
それでも――」
彼は、寝台に近づいた。
アランの近くに立つと、その細い身体がどれほど華奢で、傷つきやすいものかが一層はっきりと分かる。
彼女の手首には、うっすらと古い傷痕があった。鋭利な刃によるものではなく、長年鎖に擦れ続けたような痕。
闇の帝王のもとに囚われていた年月の証だろう。
(あの地獄のような地下牢の中で、生き延びた女だ)
(それでも、また別の正義の名のもとに、殺されようとしている)
ジェームズは、アランの目の高さまで身をかがめた。
翡翠の瞳が、間近で彼を見返す。
「……君を殺すことが、ヴォルデモートを倒すための、最短の道だ」
掠れた声で告げる。
「君の血が、封印を強めている。セシールの血が、生きている限り、あのホークラックスは破壊できない。
だから、君を殺さなければならない。君だけじゃない。子どもたちも、いずれは」
そこまで口にしたとき、喉の奥が焼けるように痛んだ。
自分がどれほど残酷なことを言っているか、分かっているからだ。
アランは、瞬きを一度、二度としただけで、表情を変えない。
まぶたの縁に、わずかな潤みが宿ったように見えたのは、光の加減か、錯覚か。
「……こんな話をされて、君は俺たちを憎まないのか」
答えは、当然返ってこない。
代わりに、アランはゆっくりと視線を逸らした。
ジェームズの顔ではなく、天井でもない。
遠く、石壁の向こう――この場にはいない誰かを見るような目だった。
レギュラスか。
ステラか。
アルタイルか。
あるいは、あのマグルの少女か。
その誰に向けられたものなのか、ジェームズには分からない。
ただ、その一瞬だけ、翡翠の瞳の奥に、はっきりとした「恐れ」が浮かんだのを見た気がした。
――自分が死ぬことへの恐怖ではない。
残された者たちへの恐怖。
「ジェームズ」
リーマスの声が飛ぶ。
「……決めるなら、今だ。長く引き延ばせば延ばすほど、俺たちの足は動かなくなる」
ジェームズは立ち上がる。
手の中には、いつの間にか杖が握られていた。
木の感触が掌に食い込み、冷たい汗がじわりと滲む。
殺し方一つで変わるものがあるなら、慎重に――。
学者の報告が頭の中で反芻される。
即死の呪文は、封印に強烈な負荷をかける可能性がある。
逆に、ゆっくりと生命力を削ぎ落とす方法なら、封印の糸は静かにほどけていくかもしれない。
つまり、彼らが今選ぼうとしているのは、
「彼女の苦しみ」と、「世界の危険」の、どちらにどこまで目をつむるかという、最低の天秤だった。
「……俺には、刃を向けることはできない」
ジェームズは、低く言った。
「誰かが喉を切り裂くのを見続けるくらいなら、僕が呪文でやる。
それが少しでも速くて、少しでも痛みが少ないやり方なら――その責任は、僕が負う」
騎士たちがざわめく。
リーマスは目を閉じ、深く息を吐いた。
「ジェームズ、それは……」
「分かってる」
ジェームズは、遮るように言う。
「どんな殺し方を選んだところで、僕たちは地獄行きだ。
きれいな正義なんて、とうの昔に、踏み外してる」
杖先が、ゆっくりと上がる。
アランの胸元に向けられたわけではない。
彼女の心臓でもなく、額でもなく――ほんのわずか頭上に。
「ヴォルデモートを倒すためだ」
再び、その言葉を口にする。
「君が封じたものを、解き放ち、破壊するためだ。
……この世界を、もっとマシな場所にするために。
君の子どもたちが、本当なら、普通に笑って生きられたはずの世界のために」
その瞬間、アランの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
翡翠の奥で、何かが震え、沈む。
憎しみでも、諦めでもない、もっと複雑な感情の色。
彼女は静かに目を閉じた。
それは、拒絶でも、服従でもなく。
ただ、受け入れたように見えた。
ジェームズの喉が、ごくりと動く。
心臓が耳元で鳴っている。
杖先から、まだ光は放たれない。
今この一瞬だけ、世界は不自然なほどに静まり返っている。
(本当に――これが、正しいのか)
脳裏を、数えきれない問いが駆け抜ける。
レギュラスの顔。
シリウスの顔。
リリーの涙。
ハリーの笑顔。
マグルの孤児院で無惨に倒れていた子どもたち。
アズカバンで死んだ男。
そして今、寝台の上で黙って目を閉じる女。
「……すまない、アラン・ブラック」
かすれた謝罪の言葉が、地下室の冷気に溶けて消えた。
そして――。
光が放たれようとした、その刹那。
別の魔力の波が、地下室の空気を震わせた。
鋭く、切り裂くような若い魔力。
翡翠に似た、けれどもっと冷たく研ぎ澄まされた、あの娘の気配が、遠くから一気に近づいてくる。
ステラ・ブラックの魔力の揺れを、騎士団の誰かが最初に察知し、顔色を変えた。
「……ジェームズ! 来ます、あれは――」
緊張が、再び空気を張り詰めさせる。
まるで、世界が「待った」をかけたかのように。
ジェームズは、握り締めた杖をわずかに下ろした。
アランの閉じたまぶたの縁から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。
それは声なき悲鳴の代わりに、この場の誰の胸にも突き刺さった。
最初に気配を捉えたのは、結界を見張っていた若い騎士だった。
魔力の波が、地下の石室の空気を一瞬で塗り替える。
「……来る」
誰かが低く呟いた刹那、空間がきしむように歪んだ。
本来なら姿くらましなど決して許されない、厳重な騎士団本部の結界。その内側に、二つの影が、ほとんど音もなく落ちてくるように現れた。
黒髪の少女と、同じ瞳の少年。
ステラ・ブラックと、アルタイル・ブラック。
石床にブーツの音が鳴る。
ステラは瞬きひとつせず、淡々と室内を見渡した。
壁に沿って杖を構える騎士たち。
中央の寝台に拘束されたアラン。
そのすぐそばで杖を下ろしかけているジェームズ。
アルタイルの方は、ほんの一瞬、口を開けたまま固まった。
寝台の上で横たわる母の姿が目に飛び込んできた瞬間、少年の顔から血の気が引く。
「……母さん」
声は震えていたが、その手に握られた杖は驚くほど確かな軌道で、母を縛る拘束の呪文に向けられていた。
魔力が一気に立ち上る。
ステラと一度だけ杖を交えたことのある騎士は、その密度の違いに息を呑む。
(……ステラより、重い)
少年の体に宿る魔力は、まだ成長途中だというのに、既に一人前の魔法使いを凌ぐほどに膨れ上がっている。
黒い髪が揺れ、緑の瞳が燃えるように光った瞬間、室内にいた数人が本能的に身構えた。
「母さん、今……解きます」
アルタイルが叫ぶ。
少年特有の高さが残る声なのに、そこにはもう、幼さだけではない決意が混じっていた。
しかし、その肩を静かに制したのは、隣に立つステラだった。
彼女は弟の袖を指先で軽く掴み、わざと視線を合わせずに、騎士たちの方をまっすぐに見据える。
「……シリウス・ブラックは、ここにはいないのかしら」
その一言が、石室の空気を鋭く切り裂いた。
声は驚くほど冷たかった。
母を殺そうとしている場に踏み込んだ娘のものとは思えない。
激情の色は一片もない。ただ、凍りついた湖面のような静けさだけがある。
ジェームズは、ステラと真正面から視線を交わした瞬間、背筋にぞくりとした寒気を覚えた。
その眼差しに、彼は既視感を覚える。
――レギュラス。
慎重に言葉を選びながらも、決して相手に主導権を渡さないあの男の視線と、酷似している。
血のつながりというものが、これほどまでに残酷に顔を出すのかと、ジェームズは内心で舌打ちしたくなった。
ステラは、アランへ一瞥だけ渡した。
寝台の上、細い身体が革の帯で固定されている。
その姿を見ても、彼女の表情はほとんど動かない。
ただ、ほんの刹那だけ、翡翠と同じ色の瞳の奥で何かがきらりと揺れた。
「……母を殺すと言うのなら」
ステラが静かに口を開く。
一語、一語を噛み砕きながら、騎士たちに突き付けるような声音だった。
「シリウス・ブラックにこそ、させるべきですわ」
「姉さん!」
アルタイルの叫びが、反射的に被さる。
制止の手が、ステラの腕を掴むが、彼女は振り払おうともしない。ただ淡く弟を見下ろした。
ジェームズも、リーマスも、同時に息を呑んだ。
ステラの言葉が意味するところを、一瞬で理解したからだ。
「……ステラ・ブラック」
リーマスが慎重に声をかける。
「これは、お前たちが口を出すべき話じゃ――」
「いいえ、関係ありますわ」
ステラは遮った。
声の調子は変わらないのに、言葉だけが鋭くなる。
「シリウス・ブラックは母を愛したのでしょう?
よく屋敷に来ていたことを、覚えています」
幼い日、廊下の影から見ていた光景が、彼女の胸に蘇る。
笑い声、銀の髪、灰色の瞳。
母の隣で、太陽のように笑う男の姿。
「正義のために、愛した者を殺せるのか。
騎士団の掲げる正義を――ぜひ、見せていただきたいわ」
静かな挑発だった。
叫びではない。泣き声でもない。
ただ事実だけを並べて、逃げ場を塞ぐような問い。
「姉さん、やめてください!」
アルタイルが必死に叫ぶ。
「そんな言い方……母さんが、聞きたくない」
アランの肩が、わずかに震えた。
拘束されたまま、彼女は娘の横顔を見ようとするが、寝台の角度ではうまく見えない。
それでも、ステラの声だけははっきりと届いてくる。
その冷たさの底に、かすかに滲んだ震えも――母には分かる。
ジェームズの胸の奥で、何かが軋むように痛んだ。
彼女たちはまだ子どもだ。
ボグワーツのローブの裾を翻し、杖を握りしめて立っているだけの、あまりにも若い魔法使い。
だが、その瞳に宿るものは、もはや子どものそれではない。
世界の歪みと、親の罪と、自分に課せられた運命を、既に知ってしまった目だった。
「……ここに、シリウスはいない」
ジェームズは低く告げた。
その言葉が、自分自身の敗北宣言のように聞こえた。
ステラの視線が、微かに細くなる。
その様子を見て、リーマスは奥歯を噛み締めた。
(だから、こいつはこんなことを言う……
こちらが、シリウスを外したことも、見透かしている)
「でしょうね」
ステラは、ふっと笑った。
笑みと言っても、唇がわずかに持ち上がっただけの、血の通わない曲線だ。
「母を殺すのなら、シリウス・ブラックにさせるべきだと申し上げたのです。
そうすれば、あなた方の正義が本物かどうか、誰の目にもはっきりしますもの」
「ステラ」
アルタイルが再び名を呼ぶ。
今度は、怒りではなく、哀願に近い声色だった。
「……母さんを、これ以上傷つけないでください」
少年の瞳が潤む。
母を寝台から解放しようとする魔力の高まりが、その感情の揺れとともに震える。
魔力の波動はステラ以上に荒々しく、だが真っ直ぐだった。
目の前の大人たちが何をしようとしているかを理解していて、それでもなお、母を守ろうとする一心だけで燃えている。
ジェームズは、思わず視線をアランへと向けた。
彼女の瞳は、いつの間にか涙に濡れている。
それでも声を出すことはできない。
叫びたい言葉は胸の奥で空回りし、代わりに、手首の指先がわずかに痙攣している。
――あの子たちを、巻き込まないで。
そんな声が、聞こえた気がした。
実際には何も言っていないのに、ジェームズの耳にははっきりと届いた。
「……ステラ・ブラック」
リーマスが一歩、前に出た。
「ここから先は、君たちが背負うべきものじゃない。
俺たちは――」
「もう十分、背負わされてますわ」
ステラの返事は、即答だった。
「母の血筋に、セシール家の封印の力が宿っていること。
そのせいで、母も、私も、弟も、闇の帝王のために死ねと言われていること。
全部、理解しています」
誰も言葉を継げなかった。
ステラの瞳が、ほんの一瞬だけジェームズを射抜く。
「正義の名のもとに、母の命を狙うなら――
せめて、その刃を握るのが誰であるかくらい、正面から見せていただきたいものです」
静かな声が、地下室の石壁にゆっくりと反響する。
彼女の言う「誰」とは、明らかに一人の男を指していた。
シリウス。
愛した女を、自らの手で殺せるのか。
騎士団の掲げる正義と、自分の心を、どちらに傾けるのか。
――その選択を迫る役目を、自分の父でもジェームズでもなく、
「娘」にさせようとしているこの状況そのものが、どれほど歪んでいるか。
ジェームズは、初めて、胸の奥底から湧き上がる嫌悪の矛先を、レギュラスではなく自分たちに向けたくなった。
「……ジェームズ」
リーマスが低く名を呼ぶ。
その目は、「どうする」と問うていた。
ステラの杖先はまだ下りたままだ。
アルタイルの魔力は、今にも拘束の呪文を破ろうとしている。
アランは、声の代わりに涙で訴えている。
この場で、なおも「アランの処刑」を強行するという選択は――
もはや、正義とは呼べない。
ジェームズは、握りしめていた杖からゆっくりと力を抜いた。
腕が重い。
肩にのしかかっていた「世界」の重さが、急に自分の肉体の重さとして返ってきたようだった。
「……今日は、ここまでだ」
掠れた声で、ようやく絞り出す。
「撤収する。アラン・ブラックへの処分は――保留だ」
騎士たちがざわめいた。
中には、悔しげに唇を噛む者もいたが、誰も声を上げなかった。
ステラは、その様子を冷静に見つめていた。
まるで、「当然の結果ね」とでも言いたげに。
アルタイルは、張り詰めていた息を一気に吐き出すと、寝台に駆け寄った。
「母さん!」
震える手が、拘束の帯に触れる。
まだ解けない。
それでも、母の手を握ることだけはできた。
アランは、息子の手を強く握り返す。
その指先の温もりに、彼女の肩の震えが少しだけ収まっていく。
ステラは、一歩だけ近づき、寝台の傍らに立った。
母と弟、そして遠巻きに立つ騎士たちを、等しく冷たい瞳で見渡す。
「……母を殺すなら」
最後にもう一度、彼女は告げた。
「その時は、必ずシリウス・ブラックを呼んでください。
愛した女を自分の手で殺せるなら――その正義、私は黙って見届けてあげますわ」
その言葉は、もはや挑発ではなかった。
呪いに似た宣告だった。
ジェームズの胸に、焼きつくように刻まれる。
いつかこの言葉が、現実の選択として彼らの前に再び立ちはだかる日が来る。
そう告げられた気がして、彼は静かに目を閉じた。
「保留にする。」
ジェームズ・ポッターがそう告げた瞬間、地下室の空気が、ふっと弛んだ。
張りつめていた弦が、限界まで引き絞られたあと、かろうじて切れずに残った——そんな感覚だった。
騎士団の面々が、互いに視線を交わしながら、ゆっくりと杖を下ろしていく。
決して納得してはいない。だが、今ここで魔法を交わすことはしない——その程度の「理性」が辛うじて働いているのが、ステラには見えた。
彼らの背に揺れる外套の影を、ステラは静かに見つめていた。
(……保留、ですって)
胸の奥に、冷たい笑いがひとすじ走る。
言葉に出せば、尖った氷のような音になってしまいそうで、唇は固く閉ざしたままにしておく。
あれほどの覚悟を持って母を拘束し、ここまで連れてきておきながら。
その場の空気と、自分たちの迷い一つで「やっぱり今日はやめておこう」と引き返す。
それを「保留」と言い換える。まるで高尚な判断であるかのような顔をして。
なんて都合のいい正義だろう、とステラは思った。
石壁にかかった松明が、ぱちり、と火の粉を散らす。
ゆらめく炎が、床に長く伸びる影を揺らした。
寝台に横たわるアランの影、そのそばに膝をついて母の手を握るアルタイルの影、そして、ステラ自身の細くまっすぐな影——それらが、影絵のように混じり合い、また離れていく。
シリウス・ブラックに、この作戦を知らせなかった……
先ほど交わされた会話、わずかな反応の差。
誰の名を出した時に、誰が眉を動かし、誰が目を伏せたか。
ステラはひとつひとつを冷静に拾い上げ、頭の中で繋ぎ合わせていく。
シリウスは、知らされていない。
知らされないように、意図して外された。
——母を殺す計画から。
その事実が、何よりもステラの癪に障った。
愛しているというのなら
胸の中でゆっくりと、言葉を並べる。
母を、あれほど長い年月、影のように追い続けてきた男だ。
父がいない隙を、器用に縫うようにして屋敷を訪れ、病床の母の枕元に座り、声をかける男。
——幼い頃は、ただ嬉しかった。
ふと、過去の光景がよみがえる。
まだ椅子によじ登らなければテーブルの縁に手が届かなかった頃。
母の寝室の扉の隙間から、こっそり覗き込んで見た光景。
枕元に腰かける銀の髪の男。
柔らかく笑う灰色の瞳。
声を持たない母の肩に、そっと手を置き、何か冗談でも言ったのだろう、母の翡翠色の瞳が楽しそうに細められる。
父のいない時間にだけ現れる、別の「光」。
あの頃のステラは、その光がただ眩しくて、素直に心を引かれていた。
シリウスが屋敷に来る日は、少し特別な日だった。
母が、いつもより少し生き生きとして見えたから。
自分にも優しく微笑みかけてくれたから。
アルタイルと三人で笑う声が、静かな屋敷に広がるのが好きだった。
——だが、いつからだろう。
その光が、怖くなったのは。
母の愛が、常に分散されていることに気づいた日。
甘えたいとき、その腕の中にはメイラがいる。
話しかけたいとき、母はアルタイルと何かをしている。
手を伸ばしたとき、その手は既に別の誰かの手を握っている。
その「誰か」の中に、シリウスも含まれていた。
父は、母の全てだった。
そして母の世界の中には、自分の知らない父の顔がいくつも存在していた。
その一部を知っている女——セラ・レヴィントン——の影も、幼心にうっすら感じ取っていた。
そこに加えて、シリウス・ブラックがいる。
父のいない隙を好んで選び、
母だけを見て、会いに来る男。
(……怖かったのだ)
ステラは心の中で、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
あの男が、母をこの屋敷から連れ出してしまいそうで。
ぎりぎりの均衡で成り立っているこの家族を、一瞬で壊してしまいそうで。
母を愛するということが、どういう惨劇を呼び込むか。
ステラは、幼いながらも直感していたのかもしれない。
だから、シリウスが母に向ける眼差しを、いつからか恐ろしいものとして見るようになった。
自分から母を奪いかねない「刃」のように。
(それなのに——)
今、目の前で繰り広げられているのはどうだろう。
母を、「封印の器」として殺そうとする計画。
ヴォルデモートを倒すための「必要な犠牲」として処分しようとする話。
その場に、シリウスはいない。
愛していると言いながら、
愛する女を手にかける苦しみからは、誰よりも丁寧に遠ざけられている。
(ずるい人)
静かに、胸の中で呟く。
愛していると言いながら、いつも安全な位置に立っている。
自分の正義と、自分の愛を、どこまでも綺麗なまま守ろうとする。
ジェームズも、リーマスも、彼を「守って」いる。
この汚れ仕事から遠ざけている。
それが友情なのだと言われれば、きっと美しい話として語られるのだろう。
だが、ステラにとっては違う。
——彼は、自分に罪を与えておいて、綺麗な場所に立ったままだ。
母の元へ通い続け、
幼い自分の目の前で、母に向ける優しさを見せつけておきながら。
今、母を殺す計画の中心からは外されている。
この家が、ずっと不安定だった理由。
自分が幼い頃から、土台の揺れる家屋に住まわされていたような心地がしていた理由。
父の過去の女。
マグルの使用人。
そして、父の兄シリウス。
母の側には、いつも多すぎるほどの「他者」がいた。
その誰もが、ステラの知らない母を知っていた。
その誰もが、ステラの知らない母への愛を、勝手に抱いていた。
(なら、シリウス・ブラックは——)
心の中で、ひとつの結論にたどり着く。
自分に与えてきた罪を、自覚すべきだ。
母を揺らし、この家を揺らし、自分の幼少期の孤独を深めた責任を。
母を愛するということが、どれほど残酷な結果を生みかねないか。
その「終点」に、自ら立たされるべきだ。
——愛する人を手にかける苦しみを、抱いてみろ。
ステラの視線が、ゆっくりとジェームズを射抜く。
彼は既に撤収の指示を飛ばし、数人の騎士が出口へ向かい始めている。
その背に、ステラの冷たい視線が貼り付く。
「保留」——その言葉は、ここにいる者たちの良心を慰めるための飾りだ。
今この場で血を流さなかったという事実だけをもって、自分たちの正義を保とうとしている。
甘い。
ステラは、心の中で冷笑する。
母の喉元に刃を突きつけた時点で、彼らはもう同じ場所に立っているのだ。
マグルの孤児を一夜で殺した者たちと、
法務部の名のもとに治験に回された男たちと。
どこが違うというのだろう。
ただひとつ違うのは——
父レギュラスは、少なくとも自分の決定に責任を負う。
批判も憎悪も、真正面から浴びる覚悟で立っている。
愛する者を守るためなら、どんな汚名も背負うつもりでいる。
シリウス・ブラックは違う。
愛している、と言いながら。
その愛がもたらすはずだった最悪の結末からは、最後の瞬間まで遠ざけられている。
(それが筋だとは思えない)
ステラにとって、筋の通った世界とは、いつも残酷だった。
母を愛するなら、そのために血をかぶるべきだ。
父のように。
全ての手を汚し、そのうえでなお、母を抱きしめる覚悟を持つべきだ。
だからこそ、ステラは思う。
シリウス・ブラックも、その場所まで降りてこなければならない。
きれいなまま、遠くから嘆いているだけでは許されない。
自分が与えてきた揺らぎと、罪と、痛みの分だけの代償を負うべきだ。
寝台の上のアランが、微かにステラを見上げていることに気づく。
まだ涙の跡が乾ききらない翡翠色の瞳。
そこに映る自分は、どんな娘に見えるのだろうかと、一瞬だけ考える。
(……それでも、さっき私は、あなたを守ったわ)
母のためではない、と言えば嘘になる。
あの場に立ったとき、ステラの体は確かに震えていた。
恐怖か、怒りか、その両方か。
ただひとつ明確だったのは、「このまま黙って殺されるのは、見ていられない」という感情だった。
母を守ったのは、娘としての最後の矜持だった。
だが同時に、ステラは「借り」を作ったとも思っている。
——この借りは、返させる。
騎士団に。
そして、シリウス・ブラックに。
「姉さん……行きましょう」
アルタイルが、小さな声で呼びかける。
彼の手はまだ母の手を握ったままだが、その瞳は出口の方を不安げに見ていた。
これ以上ここに留まれば、何が起こるか分からない——少年なりの勘が働いているのだろう。
ステラは、静かに頷いた。
アランの方に一度だけ視線を向ける。
「……母さん」
声には出さない。
その代わり、ほんの一瞬だけ、さきほどよりも柔らかい光を瞳の底に灯した。
それは、アランだけが気づけるくらいの、ほんの微かな変化だった。
踵を返しながら、ステラは心の中で、もう一度だけ名を呼ぶ。
(シリウス・ブラック)
あなたが、どこまでも優しい場所に立ち続けられるのは、今日で終わりにすべきだ。
愛を名乗る以上、その終着点に立つ覚悟を——いつか必ず、迫ってやる。
そう固く誓いながら、ステラ・ブラックは、騎士団の地下室をあとにした。
窓ガラスを震わせるその微かな振動の向こうで、別の「揺れ」が、ステラの内側を強く引き絞る。
――今の、何。
胸の奥で、何かが掴まれたようにきゅっと痛んだ。
呼吸を一つおくと、遅れて背骨の奥からじんわりと熱が這い上がってくる。
それは決して、心当たりのない感覚ではなかった。
セシール家の封印。
その血筋にだけ受け継がれていく、厄介な呪いにも似た力。
誰かが、どこかで――封じ込められたものに触れたとき。あるいは、その血が薄れようとしたとき。
その揺らぎは、同じ血を持つ者たちの魔力に、否応なく波紋を広げる。
暖炉の前の談話室。
静まり返った深夜の空間で、ステラは開いていた本からゆっくりと目を上げた。
向かいのソファで、アルタイルが顔を伏せている。
いつもなら、つまらない授業の話か、クィディッチの試合の話でうるさいほど喋る弟が、その夜に限って一言も発していなかった。
「……アルタイル」
名を呼ぶと、弟がびくりと肩を震わせて顔を上げる。
赤茶の髪が前に落ち、翡翠のような瞳が潤んでいた。
「姉さん……」
掠れた声。
彼はぐっと唇を噛み締めてから、吐き出すように言った。
「母さんに――きっと何か、あったんです」
言葉より先に、その表情が物語っていた。
幼い頃、熱を出した母の寝台のそばで泣きそうになっていた少年の顔と、何も変わらない。
ステラは、少しだけ目を細めた。
さっき自分の内側を震わせた揺れと、アルタイルの言葉がぴたりと重なる。
血が薄れようとした瞬間――セシールの封印の力を持つ血脈に、合図のように走る揺らぎ。
あの母は、やはり。
「母さん、絶対に無茶をしました」
アルタイルは拳を握りしめている。
「ここからでも分かるくらい、魔力が大きく揺れました。こんなの、初めてです」
暖炉の火がぱちりと音を立てて弾け、赤い火の粉が石造りの囲いの中で消える。
夜のホグワーツは静かだ。
古い時計の針の進む音と、遠くの塔で風が唸る音だけが、かすかに響いている。
その静けさの中に、二人だけが取り残されているようだった。
(力も覚悟もないくせに)
ステラは心の中で、小さく吐き捨てる。
母はいつだってそうだ。
武器も持たず、覚悟も研ぎ澄まさず、ただ誰かを守りたいという脆い願いだけを頼りに、自分の身を危険に晒していく。
闇の帝王の元に囚われたあの日も。
マグルの施設からメイラを奪い返したあの日も。
今回だってきっと、そうなのだ。
力も戦う術も、父ほどの冷徹な判断も持たないのに。
同じ盤上に立って、命を賭けようとしている。
(……本当に、愚かだわ)
そう思う。
心底、ため息をつきたくなる。
けれど、そのため息は喉の奥で凍りついて、それ以上外に出てこなかった。
揺れたのは、自分の魔力だけではない。
胸の中のどこか、凍てついているはずの部分が、微かに軋む音を立てた。
――まだ。
まだ、自分のどこかには。
あの声のない母を失いたくないと、幼い頃のまま願っている少女が、確かに息を潜めているのだ。
「……落ち着きなさい、アルタイル」
ステラは本を閉じ、静かに立ち上がった。
赤い絨毯が足裏で沈む。
暖炉の火のオレンジが、弟の顔を縁取るように照らしていた。
「落ち着いてなんて、いられません」
アルタイルは首を振る。
「母さん、きっと一人です。メイラさんが一緒かもしれないけど、戦えません。父さんは……きっと、気づけていない。母さんの中の、あの揺れを」
それには、ステラも同意せざるを得なかった。
レギュラス・ブラックは、強大だ。
魔力も、頭脳も、地位も、権限も。
けれど彼は「セシール」の血を持たない。
封印そのものを作った一族の、あの歪な呪いと共鳴する感覚は、彼には分からないのだ。
封印の揺れは、血を継いだ者―― アランと、ステラと、アルタイルにしか届かない。
母の血が、どこかで薄れかけた。
あるいは、封じていたものが、強く暴れた。
どちらにせよ、その危機を察知できるのは、自分たちだけだった。
「……行きますよ、アルタイル」
ステラはぽつりと言った。
弟が、驚いたように目を見開く。
「行く……って、どこにですか」
「母さんのいる場所」
迷いのない口調だった。
内側では、幾重にも葛藤が渦巻いているというのに、声だけは冷たく安定している。
「でも、ホグワーツの外で姿くらましなんて……」
アルタイルは震える声で続ける。
「未成年の魔法は、匂いで全部追跡されます。父さんにだって、すぐ届きますよ。校則どころか、法にも触れます」
「知っているわ」
ステラは淡々と答える。
未成年の魔法使用は、魔法省に即座に記録される。
姿くらましなんて論外だ。
父レギュラスにだって、すぐに通知が届くに違いない。
だけど。
「ここで座って祈っているだけで、母さんが戻ってくる保証はある?」
鋭く問いかけると、アルタイルは言葉を失った。
翡翠の瞳が揺れ、唇が小さく震える。
ステラは、弟の目を真っ直ぐに見る。
「私は、母が愚かな選択をしたと思っているわ」
冷たく言い切る。
「力も覚悟もないまま、危険なところに出て行く。セシールの血の重さを、どこまで理解しているのかも怪しい。……それでも」
そこで、言葉がほんの少しだけ柔らかくなった。
「それでも、さっきのあの揺れを、何もせずにやり過ごせるほど、私の中の何かは死んでいなかったみたい」
アルタイルが、かすかに息を呑む。
「だから行くの。……嫌なら、あなたはここに残ればいい」
突き放すように言いながら、それが本気でないことをステラは自覚していた。
弟はきっと、ついてくる。
そうでなければ、この子はこの子で、一生自分を赦さないだろう。
案の定、アルタイルは迷う時間もなく首を振った。
「行きます。僕も」
その声は、震えてはいたが、芯が通っていた。
「母さんを、一人で行かせません。今度こそ」
ステラは小さく鼻で笑う。
「……まったく。父さんに似て、変に真っ直ぐなんだから」
談話室の入り口のアーチを抜けると、石の階段が螺旋状に下へと伸びている。
夜のホグワーツは、ひときわ大きな影の城に変わる。
壁に並ぶ松明の炎がゆらゆらと揺れ、長い廊下に不規則な影を落としていた。
寮の塔を抜け、人気のない廊下を選びながら二人は歩く。
絵画の中の婦人が寝息を立て、鎧が静かにうつむいたまま動かない。
全てが眠りについた城の中で、ステラの足音だけが静かに響いていた。
塔を降り、中庭に出る。
夜の空気は冷たいが、先ほど感じた魔力の揺れは、まだ微かに体の中に残っていた。
かすかな引き潮のように、どこか一点へと導こうとしている。
「感じますか、姉さん」
アルタイルが囁く。
「……ええ」
自分たちの魔力の奥に、細い糸のようなものが伸びている。
その先にあるのは――母の魔力。
セシール家の封印と、世界のどこかで共鳴している母の血。
城の外、さらに先。
関所の向こう。
魔法省に近い、あの重い魔力の集積地帯の方向。
「ここから飛ぶわよ」
城壁の陰まで歩き、二人は立ち止まった。
夜空には、薄い雲が流れている。
星はほとんど見えないが、遠くの森の輪郭は黒く沈んで見えた。
ステラは、深く息を吸う。
(未成年魔法検知の警告。魔法省への記録。父に届く報せ)
頭の中に、警鐘がいくつも鳴り響く。
それでも足は止まらない。
――どうせ、自分たちは、もう安全な盤の外だ。
母が狙われていると知った瞬間から。
セシールの血が、ヴォルデモートの死と結びつけられた瞬間から。
自分も、アルタイルも、もう誰かの「駒」でしかない。
ならばせめて、その進む方向くらい、自分で選びたかった。
「手を」
差し出したステラの手を、アルタイルがしっかりと握る。
その掌は少し汗ばんでいて、けれど温かかった。
「母さんのところまで、案内してあげる」
ステラは、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「セシールの封印が、呼んでいる方向へ。……二度と、間に合わなかったなんてことにならないように」
瞼を閉じる。
意識を細く絞り、母の魔力の残り香へと集中させる。
胸の奥で、あの揺らぎが再び強まった。
引き寄せるように。
「ここだ」と告げるように。
「――行くわ」
次の瞬間、二人の姿は、ホグワーツの城壁の影からふっと掻き消えた。
空気が、ぱん、と弾けるような音を立てる。
未成年には許されない姿くらまし。
法も、校則も、父の教えも背いて。
ステラとアルタイルは、ただ一つ――声を持たない母の魔力の揺れだけを頼りに、闇の中へ飛び込んでいった。
騎士団本部の地下は、地上の喧噪から切り離された、別世界のように静まり返っていた。
厚い石壁が魔力を吸い込み、松明の灯だけが揺らめきながら、冷えた空気を青白く照らしている。
その中央に、一つの寝台が置かれていた。
簡素な金属のフレームに、魔法で固定された革の帯。抵抗した痕跡はほとんどない。ただ静かに横たえられた女性の体だけが、その空間にあまりにも場違いなほどの美しさで存在していた。
アラン・ブラック。
騎士団の誰もが、その名を知っていた。
法務部長レギュラス・ブラックの妻。
かつて闇の帝王に囚われ、セシール家の封印を施された女。
――そして今、この世界から消し去らなければならない「鍵」。
彼女は、ほとんど身動きひとつしなかった。
両手首と足首は魔法の帯で軽く押さえられているだけだというのに、逃げようとする素振りさえ見せない。
白い肌に、黒髪。
枕に流れ落ちる髪の線が、まるで繊細な墨絵のように布地を染めている。
何より目を引くのは、その瞳だった。
深い翡翠の色を宿した目が、天井ではなく、まっすぐにこの場にいる者たちを見ている。
声を持たぬゆえ、泣き叫ぶことも、罵ることも、命乞いをすることもない。
ただ、見ている。
――こちらの「正義」を、測るかのように。
「……本当にやるのか、ジェームズ」
長い沈黙を破ったのは、リーマスだった。
壁際に身を寄せ、腕を組んだまま視線を逸らせないでいる。
灯の光が彼の頬を斜めに切り、眉間に刻まれた皺の影を深く落としていた。
ジェームズは、寝台から少し離れた場所に立っていた。
拳を握り締めた手が、わずかに震えている。
それを自覚しているのか、彼は指先に力を込めて、震えを押し殺した。
「揺れるな」
低い声で、ジェームズは言った。
自分自身に言い聞かせるような響きだった。
「ヴォルデモートを倒すためだ。……それ以外の理由はない」
そう口にした瞬間、アランの翡翠色の瞳が、ぴくりと揺れた気がした。
言葉が分かったのか、それともただの錯覚か。
誰にも確かめようがない。彼女は相変わらず、ただ黙って見つめているだけだった。
「問題は……やり方だ」
壁際の別の騎士が、押し殺した声で続けた。
「ただ殺せばいいという話ではない。封印は彼女の血と、魂の在り方に結びついている。
殺し方一つで、封印がどう揺らぐかが変わると、学者たちは言っていたはずだ」
その言葉に、場の空気がさらに重く沈む。
「一撃で終わらせた方が、彼女にとっては楽だ」
若い騎士が、震えた声で言った。
「その一瞬で、封印ごと爆ぜたらどうする」
別の者が鋭く返す。
「封じられていたホークラックスが一気に解放されれば、闇の帝王はさらに強く再生するかもしれない。
俺たちは、そのリスクを背負えるのか?」
「じゃあ、どうする」
「ゆっくりと弱らせるのか? そんな真似は……」
言葉が喉でつかえ、皆の視線が自然と寝台の上へと引き寄せられる。
細い喉。
白い鎖骨。
繊細な手首。
そこに刃を立てることを想像しただけで、胃の底が冷たくなる。
魔法の光を浴びて柔らかく輝く肌は、あまりにも人形めいていて、傷ひとつつけてはいけないもののようにさえ見えた。
(これが、本当に――殺すべき「敵」なのか)
誰もが、心のどこかで同じ問いを呟いていた。
「揺れるなと言っただろう」
ジェームズが、低く吐き捨てるように言った。
だがその声の奥にも、迷いはあった。
彼は視線を逸らさないように、意識してアランの瞳を見据える。
翡翠の瞳は、静かにジェームズを映し返していた。
怒りも嘲りも、憎しみすら浮かんでいない。
ただ、受け止めているような眼差し。
(こんな目をするのか。
自分の夫が犯した罪を知りながら、それでも隣に立ち続けた女が)
彼女の過去を、ジェームズは知っている。
マグルの孤児院惨殺事件。
その罪を、別の男に被せたレギュラス・ブラックの決定。
その陰で、娘を救われた父親の、命がけの取引。
その娘――メイラを、アランが守り続けてきたことも。
彼女は、多くのものの上に立っている。
愛も、罪も、贖いも、選択も。
誰かに与えられた役割ではなく、自ら選び取った結果として、今ここにいる。
「……本当に、彼女を殺すことで、世界はよくなるのか」
誰ともなく漏れた一言に、部屋の空気がわずかに波打った。
ジェームズは目を閉じる。
まぶたの裏には、妻リリーの顔が浮かぶ。両親と自由に会えなくなった彼女の、寂しそうな笑顔。
息子ハリーの、小さな背中。
魔法界とマグル界の間に引かれた、冷たい線。
その線を濃く塗りつぶしたのは、レギュラス・ブラックだ。
そして、そのレギュラスの足元に突き立っている一本の楔が、この女―― アラン・ブラック。
「……俺たちは、もうきれいな手じゃない」
ジェームズは、ゆっくりと目を開く。
「マグルの孤児院で起きた惨劇を、俺たちは非難した。
レギュラスが、私怨で人を治験に回したことも、糾弾しようとした。
それなのに、今度は俺たちが――彼の妻と子どもを殺そうとしている」
沈黙。
リーマスが、苦しげに目を閉じる。
「分かってる。分かっているんだ。これは正義だけじゃない。復讐と、怒りと、やり場のない憎しみが混ざっている。
それでも――」
彼は、寝台に近づいた。
アランの近くに立つと、その細い身体がどれほど華奢で、傷つきやすいものかが一層はっきりと分かる。
彼女の手首には、うっすらと古い傷痕があった。鋭利な刃によるものではなく、長年鎖に擦れ続けたような痕。
闇の帝王のもとに囚われていた年月の証だろう。
(あの地獄のような地下牢の中で、生き延びた女だ)
(それでも、また別の正義の名のもとに、殺されようとしている)
ジェームズは、アランの目の高さまで身をかがめた。
翡翠の瞳が、間近で彼を見返す。
「……君を殺すことが、ヴォルデモートを倒すための、最短の道だ」
掠れた声で告げる。
「君の血が、封印を強めている。セシールの血が、生きている限り、あのホークラックスは破壊できない。
だから、君を殺さなければならない。君だけじゃない。子どもたちも、いずれは」
そこまで口にしたとき、喉の奥が焼けるように痛んだ。
自分がどれほど残酷なことを言っているか、分かっているからだ。
アランは、瞬きを一度、二度としただけで、表情を変えない。
まぶたの縁に、わずかな潤みが宿ったように見えたのは、光の加減か、錯覚か。
「……こんな話をされて、君は俺たちを憎まないのか」
答えは、当然返ってこない。
代わりに、アランはゆっくりと視線を逸らした。
ジェームズの顔ではなく、天井でもない。
遠く、石壁の向こう――この場にはいない誰かを見るような目だった。
レギュラスか。
ステラか。
アルタイルか。
あるいは、あのマグルの少女か。
その誰に向けられたものなのか、ジェームズには分からない。
ただ、その一瞬だけ、翡翠の瞳の奥に、はっきりとした「恐れ」が浮かんだのを見た気がした。
――自分が死ぬことへの恐怖ではない。
残された者たちへの恐怖。
「ジェームズ」
リーマスの声が飛ぶ。
「……決めるなら、今だ。長く引き延ばせば延ばすほど、俺たちの足は動かなくなる」
ジェームズは立ち上がる。
手の中には、いつの間にか杖が握られていた。
木の感触が掌に食い込み、冷たい汗がじわりと滲む。
殺し方一つで変わるものがあるなら、慎重に――。
学者の報告が頭の中で反芻される。
即死の呪文は、封印に強烈な負荷をかける可能性がある。
逆に、ゆっくりと生命力を削ぎ落とす方法なら、封印の糸は静かにほどけていくかもしれない。
つまり、彼らが今選ぼうとしているのは、
「彼女の苦しみ」と、「世界の危険」の、どちらにどこまで目をつむるかという、最低の天秤だった。
「……俺には、刃を向けることはできない」
ジェームズは、低く言った。
「誰かが喉を切り裂くのを見続けるくらいなら、僕が呪文でやる。
それが少しでも速くて、少しでも痛みが少ないやり方なら――その責任は、僕が負う」
騎士たちがざわめく。
リーマスは目を閉じ、深く息を吐いた。
「ジェームズ、それは……」
「分かってる」
ジェームズは、遮るように言う。
「どんな殺し方を選んだところで、僕たちは地獄行きだ。
きれいな正義なんて、とうの昔に、踏み外してる」
杖先が、ゆっくりと上がる。
アランの胸元に向けられたわけではない。
彼女の心臓でもなく、額でもなく――ほんのわずか頭上に。
「ヴォルデモートを倒すためだ」
再び、その言葉を口にする。
「君が封じたものを、解き放ち、破壊するためだ。
……この世界を、もっとマシな場所にするために。
君の子どもたちが、本当なら、普通に笑って生きられたはずの世界のために」
その瞬間、アランの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
翡翠の奥で、何かが震え、沈む。
憎しみでも、諦めでもない、もっと複雑な感情の色。
彼女は静かに目を閉じた。
それは、拒絶でも、服従でもなく。
ただ、受け入れたように見えた。
ジェームズの喉が、ごくりと動く。
心臓が耳元で鳴っている。
杖先から、まだ光は放たれない。
今この一瞬だけ、世界は不自然なほどに静まり返っている。
(本当に――これが、正しいのか)
脳裏を、数えきれない問いが駆け抜ける。
レギュラスの顔。
シリウスの顔。
リリーの涙。
ハリーの笑顔。
マグルの孤児院で無惨に倒れていた子どもたち。
アズカバンで死んだ男。
そして今、寝台の上で黙って目を閉じる女。
「……すまない、アラン・ブラック」
かすれた謝罪の言葉が、地下室の冷気に溶けて消えた。
そして――。
光が放たれようとした、その刹那。
別の魔力の波が、地下室の空気を震わせた。
鋭く、切り裂くような若い魔力。
翡翠に似た、けれどもっと冷たく研ぎ澄まされた、あの娘の気配が、遠くから一気に近づいてくる。
ステラ・ブラックの魔力の揺れを、騎士団の誰かが最初に察知し、顔色を変えた。
「……ジェームズ! 来ます、あれは――」
緊張が、再び空気を張り詰めさせる。
まるで、世界が「待った」をかけたかのように。
ジェームズは、握り締めた杖をわずかに下ろした。
アランの閉じたまぶたの縁から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。
それは声なき悲鳴の代わりに、この場の誰の胸にも突き刺さった。
最初に気配を捉えたのは、結界を見張っていた若い騎士だった。
魔力の波が、地下の石室の空気を一瞬で塗り替える。
「……来る」
誰かが低く呟いた刹那、空間がきしむように歪んだ。
本来なら姿くらましなど決して許されない、厳重な騎士団本部の結界。その内側に、二つの影が、ほとんど音もなく落ちてくるように現れた。
黒髪の少女と、同じ瞳の少年。
ステラ・ブラックと、アルタイル・ブラック。
石床にブーツの音が鳴る。
ステラは瞬きひとつせず、淡々と室内を見渡した。
壁に沿って杖を構える騎士たち。
中央の寝台に拘束されたアラン。
そのすぐそばで杖を下ろしかけているジェームズ。
アルタイルの方は、ほんの一瞬、口を開けたまま固まった。
寝台の上で横たわる母の姿が目に飛び込んできた瞬間、少年の顔から血の気が引く。
「……母さん」
声は震えていたが、その手に握られた杖は驚くほど確かな軌道で、母を縛る拘束の呪文に向けられていた。
魔力が一気に立ち上る。
ステラと一度だけ杖を交えたことのある騎士は、その密度の違いに息を呑む。
(……ステラより、重い)
少年の体に宿る魔力は、まだ成長途中だというのに、既に一人前の魔法使いを凌ぐほどに膨れ上がっている。
黒い髪が揺れ、緑の瞳が燃えるように光った瞬間、室内にいた数人が本能的に身構えた。
「母さん、今……解きます」
アルタイルが叫ぶ。
少年特有の高さが残る声なのに、そこにはもう、幼さだけではない決意が混じっていた。
しかし、その肩を静かに制したのは、隣に立つステラだった。
彼女は弟の袖を指先で軽く掴み、わざと視線を合わせずに、騎士たちの方をまっすぐに見据える。
「……シリウス・ブラックは、ここにはいないのかしら」
その一言が、石室の空気を鋭く切り裂いた。
声は驚くほど冷たかった。
母を殺そうとしている場に踏み込んだ娘のものとは思えない。
激情の色は一片もない。ただ、凍りついた湖面のような静けさだけがある。
ジェームズは、ステラと真正面から視線を交わした瞬間、背筋にぞくりとした寒気を覚えた。
その眼差しに、彼は既視感を覚える。
――レギュラス。
慎重に言葉を選びながらも、決して相手に主導権を渡さないあの男の視線と、酷似している。
血のつながりというものが、これほどまでに残酷に顔を出すのかと、ジェームズは内心で舌打ちしたくなった。
ステラは、アランへ一瞥だけ渡した。
寝台の上、細い身体が革の帯で固定されている。
その姿を見ても、彼女の表情はほとんど動かない。
ただ、ほんの刹那だけ、翡翠と同じ色の瞳の奥で何かがきらりと揺れた。
「……母を殺すと言うのなら」
ステラが静かに口を開く。
一語、一語を噛み砕きながら、騎士たちに突き付けるような声音だった。
「シリウス・ブラックにこそ、させるべきですわ」
「姉さん!」
アルタイルの叫びが、反射的に被さる。
制止の手が、ステラの腕を掴むが、彼女は振り払おうともしない。ただ淡く弟を見下ろした。
ジェームズも、リーマスも、同時に息を呑んだ。
ステラの言葉が意味するところを、一瞬で理解したからだ。
「……ステラ・ブラック」
リーマスが慎重に声をかける。
「これは、お前たちが口を出すべき話じゃ――」
「いいえ、関係ありますわ」
ステラは遮った。
声の調子は変わらないのに、言葉だけが鋭くなる。
「シリウス・ブラックは母を愛したのでしょう?
よく屋敷に来ていたことを、覚えています」
幼い日、廊下の影から見ていた光景が、彼女の胸に蘇る。
笑い声、銀の髪、灰色の瞳。
母の隣で、太陽のように笑う男の姿。
「正義のために、愛した者を殺せるのか。
騎士団の掲げる正義を――ぜひ、見せていただきたいわ」
静かな挑発だった。
叫びではない。泣き声でもない。
ただ事実だけを並べて、逃げ場を塞ぐような問い。
「姉さん、やめてください!」
アルタイルが必死に叫ぶ。
「そんな言い方……母さんが、聞きたくない」
アランの肩が、わずかに震えた。
拘束されたまま、彼女は娘の横顔を見ようとするが、寝台の角度ではうまく見えない。
それでも、ステラの声だけははっきりと届いてくる。
その冷たさの底に、かすかに滲んだ震えも――母には分かる。
ジェームズの胸の奥で、何かが軋むように痛んだ。
彼女たちはまだ子どもだ。
ボグワーツのローブの裾を翻し、杖を握りしめて立っているだけの、あまりにも若い魔法使い。
だが、その瞳に宿るものは、もはや子どものそれではない。
世界の歪みと、親の罪と、自分に課せられた運命を、既に知ってしまった目だった。
「……ここに、シリウスはいない」
ジェームズは低く告げた。
その言葉が、自分自身の敗北宣言のように聞こえた。
ステラの視線が、微かに細くなる。
その様子を見て、リーマスは奥歯を噛み締めた。
(だから、こいつはこんなことを言う……
こちらが、シリウスを外したことも、見透かしている)
「でしょうね」
ステラは、ふっと笑った。
笑みと言っても、唇がわずかに持ち上がっただけの、血の通わない曲線だ。
「母を殺すのなら、シリウス・ブラックにさせるべきだと申し上げたのです。
そうすれば、あなた方の正義が本物かどうか、誰の目にもはっきりしますもの」
「ステラ」
アルタイルが再び名を呼ぶ。
今度は、怒りではなく、哀願に近い声色だった。
「……母さんを、これ以上傷つけないでください」
少年の瞳が潤む。
母を寝台から解放しようとする魔力の高まりが、その感情の揺れとともに震える。
魔力の波動はステラ以上に荒々しく、だが真っ直ぐだった。
目の前の大人たちが何をしようとしているかを理解していて、それでもなお、母を守ろうとする一心だけで燃えている。
ジェームズは、思わず視線をアランへと向けた。
彼女の瞳は、いつの間にか涙に濡れている。
それでも声を出すことはできない。
叫びたい言葉は胸の奥で空回りし、代わりに、手首の指先がわずかに痙攣している。
――あの子たちを、巻き込まないで。
そんな声が、聞こえた気がした。
実際には何も言っていないのに、ジェームズの耳にははっきりと届いた。
「……ステラ・ブラック」
リーマスが一歩、前に出た。
「ここから先は、君たちが背負うべきものじゃない。
俺たちは――」
「もう十分、背負わされてますわ」
ステラの返事は、即答だった。
「母の血筋に、セシール家の封印の力が宿っていること。
そのせいで、母も、私も、弟も、闇の帝王のために死ねと言われていること。
全部、理解しています」
誰も言葉を継げなかった。
ステラの瞳が、ほんの一瞬だけジェームズを射抜く。
「正義の名のもとに、母の命を狙うなら――
せめて、その刃を握るのが誰であるかくらい、正面から見せていただきたいものです」
静かな声が、地下室の石壁にゆっくりと反響する。
彼女の言う「誰」とは、明らかに一人の男を指していた。
シリウス。
愛した女を、自らの手で殺せるのか。
騎士団の掲げる正義と、自分の心を、どちらに傾けるのか。
――その選択を迫る役目を、自分の父でもジェームズでもなく、
「娘」にさせようとしているこの状況そのものが、どれほど歪んでいるか。
ジェームズは、初めて、胸の奥底から湧き上がる嫌悪の矛先を、レギュラスではなく自分たちに向けたくなった。
「……ジェームズ」
リーマスが低く名を呼ぶ。
その目は、「どうする」と問うていた。
ステラの杖先はまだ下りたままだ。
アルタイルの魔力は、今にも拘束の呪文を破ろうとしている。
アランは、声の代わりに涙で訴えている。
この場で、なおも「アランの処刑」を強行するという選択は――
もはや、正義とは呼べない。
ジェームズは、握りしめていた杖からゆっくりと力を抜いた。
腕が重い。
肩にのしかかっていた「世界」の重さが、急に自分の肉体の重さとして返ってきたようだった。
「……今日は、ここまでだ」
掠れた声で、ようやく絞り出す。
「撤収する。アラン・ブラックへの処分は――保留だ」
騎士たちがざわめいた。
中には、悔しげに唇を噛む者もいたが、誰も声を上げなかった。
ステラは、その様子を冷静に見つめていた。
まるで、「当然の結果ね」とでも言いたげに。
アルタイルは、張り詰めていた息を一気に吐き出すと、寝台に駆け寄った。
「母さん!」
震える手が、拘束の帯に触れる。
まだ解けない。
それでも、母の手を握ることだけはできた。
アランは、息子の手を強く握り返す。
その指先の温もりに、彼女の肩の震えが少しだけ収まっていく。
ステラは、一歩だけ近づき、寝台の傍らに立った。
母と弟、そして遠巻きに立つ騎士たちを、等しく冷たい瞳で見渡す。
「……母を殺すなら」
最後にもう一度、彼女は告げた。
「その時は、必ずシリウス・ブラックを呼んでください。
愛した女を自分の手で殺せるなら――その正義、私は黙って見届けてあげますわ」
その言葉は、もはや挑発ではなかった。
呪いに似た宣告だった。
ジェームズの胸に、焼きつくように刻まれる。
いつかこの言葉が、現実の選択として彼らの前に再び立ちはだかる日が来る。
そう告げられた気がして、彼は静かに目を閉じた。
「保留にする。」
ジェームズ・ポッターがそう告げた瞬間、地下室の空気が、ふっと弛んだ。
張りつめていた弦が、限界まで引き絞られたあと、かろうじて切れずに残った——そんな感覚だった。
騎士団の面々が、互いに視線を交わしながら、ゆっくりと杖を下ろしていく。
決して納得してはいない。だが、今ここで魔法を交わすことはしない——その程度の「理性」が辛うじて働いているのが、ステラには見えた。
彼らの背に揺れる外套の影を、ステラは静かに見つめていた。
(……保留、ですって)
胸の奥に、冷たい笑いがひとすじ走る。
言葉に出せば、尖った氷のような音になってしまいそうで、唇は固く閉ざしたままにしておく。
あれほどの覚悟を持って母を拘束し、ここまで連れてきておきながら。
その場の空気と、自分たちの迷い一つで「やっぱり今日はやめておこう」と引き返す。
それを「保留」と言い換える。まるで高尚な判断であるかのような顔をして。
なんて都合のいい正義だろう、とステラは思った。
石壁にかかった松明が、ぱちり、と火の粉を散らす。
ゆらめく炎が、床に長く伸びる影を揺らした。
寝台に横たわるアランの影、そのそばに膝をついて母の手を握るアルタイルの影、そして、ステラ自身の細くまっすぐな影——それらが、影絵のように混じり合い、また離れていく。
シリウス・ブラックに、この作戦を知らせなかった……
先ほど交わされた会話、わずかな反応の差。
誰の名を出した時に、誰が眉を動かし、誰が目を伏せたか。
ステラはひとつひとつを冷静に拾い上げ、頭の中で繋ぎ合わせていく。
シリウスは、知らされていない。
知らされないように、意図して外された。
——母を殺す計画から。
その事実が、何よりもステラの癪に障った。
愛しているというのなら
胸の中でゆっくりと、言葉を並べる。
母を、あれほど長い年月、影のように追い続けてきた男だ。
父がいない隙を、器用に縫うようにして屋敷を訪れ、病床の母の枕元に座り、声をかける男。
——幼い頃は、ただ嬉しかった。
ふと、過去の光景がよみがえる。
まだ椅子によじ登らなければテーブルの縁に手が届かなかった頃。
母の寝室の扉の隙間から、こっそり覗き込んで見た光景。
枕元に腰かける銀の髪の男。
柔らかく笑う灰色の瞳。
声を持たない母の肩に、そっと手を置き、何か冗談でも言ったのだろう、母の翡翠色の瞳が楽しそうに細められる。
父のいない時間にだけ現れる、別の「光」。
あの頃のステラは、その光がただ眩しくて、素直に心を引かれていた。
シリウスが屋敷に来る日は、少し特別な日だった。
母が、いつもより少し生き生きとして見えたから。
自分にも優しく微笑みかけてくれたから。
アルタイルと三人で笑う声が、静かな屋敷に広がるのが好きだった。
——だが、いつからだろう。
その光が、怖くなったのは。
母の愛が、常に分散されていることに気づいた日。
甘えたいとき、その腕の中にはメイラがいる。
話しかけたいとき、母はアルタイルと何かをしている。
手を伸ばしたとき、その手は既に別の誰かの手を握っている。
その「誰か」の中に、シリウスも含まれていた。
父は、母の全てだった。
そして母の世界の中には、自分の知らない父の顔がいくつも存在していた。
その一部を知っている女——セラ・レヴィントン——の影も、幼心にうっすら感じ取っていた。
そこに加えて、シリウス・ブラックがいる。
父のいない隙を好んで選び、
母だけを見て、会いに来る男。
(……怖かったのだ)
ステラは心の中で、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
あの男が、母をこの屋敷から連れ出してしまいそうで。
ぎりぎりの均衡で成り立っているこの家族を、一瞬で壊してしまいそうで。
母を愛するということが、どういう惨劇を呼び込むか。
ステラは、幼いながらも直感していたのかもしれない。
だから、シリウスが母に向ける眼差しを、いつからか恐ろしいものとして見るようになった。
自分から母を奪いかねない「刃」のように。
(それなのに——)
今、目の前で繰り広げられているのはどうだろう。
母を、「封印の器」として殺そうとする計画。
ヴォルデモートを倒すための「必要な犠牲」として処分しようとする話。
その場に、シリウスはいない。
愛していると言いながら、
愛する女を手にかける苦しみからは、誰よりも丁寧に遠ざけられている。
(ずるい人)
静かに、胸の中で呟く。
愛していると言いながら、いつも安全な位置に立っている。
自分の正義と、自分の愛を、どこまでも綺麗なまま守ろうとする。
ジェームズも、リーマスも、彼を「守って」いる。
この汚れ仕事から遠ざけている。
それが友情なのだと言われれば、きっと美しい話として語られるのだろう。
だが、ステラにとっては違う。
——彼は、自分に罪を与えておいて、綺麗な場所に立ったままだ。
母の元へ通い続け、
幼い自分の目の前で、母に向ける優しさを見せつけておきながら。
今、母を殺す計画の中心からは外されている。
この家が、ずっと不安定だった理由。
自分が幼い頃から、土台の揺れる家屋に住まわされていたような心地がしていた理由。
父の過去の女。
マグルの使用人。
そして、父の兄シリウス。
母の側には、いつも多すぎるほどの「他者」がいた。
その誰もが、ステラの知らない母を知っていた。
その誰もが、ステラの知らない母への愛を、勝手に抱いていた。
(なら、シリウス・ブラックは——)
心の中で、ひとつの結論にたどり着く。
自分に与えてきた罪を、自覚すべきだ。
母を揺らし、この家を揺らし、自分の幼少期の孤独を深めた責任を。
母を愛するということが、どれほど残酷な結果を生みかねないか。
その「終点」に、自ら立たされるべきだ。
——愛する人を手にかける苦しみを、抱いてみろ。
ステラの視線が、ゆっくりとジェームズを射抜く。
彼は既に撤収の指示を飛ばし、数人の騎士が出口へ向かい始めている。
その背に、ステラの冷たい視線が貼り付く。
「保留」——その言葉は、ここにいる者たちの良心を慰めるための飾りだ。
今この場で血を流さなかったという事実だけをもって、自分たちの正義を保とうとしている。
甘い。
ステラは、心の中で冷笑する。
母の喉元に刃を突きつけた時点で、彼らはもう同じ場所に立っているのだ。
マグルの孤児を一夜で殺した者たちと、
法務部の名のもとに治験に回された男たちと。
どこが違うというのだろう。
ただひとつ違うのは——
父レギュラスは、少なくとも自分の決定に責任を負う。
批判も憎悪も、真正面から浴びる覚悟で立っている。
愛する者を守るためなら、どんな汚名も背負うつもりでいる。
シリウス・ブラックは違う。
愛している、と言いながら。
その愛がもたらすはずだった最悪の結末からは、最後の瞬間まで遠ざけられている。
(それが筋だとは思えない)
ステラにとって、筋の通った世界とは、いつも残酷だった。
母を愛するなら、そのために血をかぶるべきだ。
父のように。
全ての手を汚し、そのうえでなお、母を抱きしめる覚悟を持つべきだ。
だからこそ、ステラは思う。
シリウス・ブラックも、その場所まで降りてこなければならない。
きれいなまま、遠くから嘆いているだけでは許されない。
自分が与えてきた揺らぎと、罪と、痛みの分だけの代償を負うべきだ。
寝台の上のアランが、微かにステラを見上げていることに気づく。
まだ涙の跡が乾ききらない翡翠色の瞳。
そこに映る自分は、どんな娘に見えるのだろうかと、一瞬だけ考える。
(……それでも、さっき私は、あなたを守ったわ)
母のためではない、と言えば嘘になる。
あの場に立ったとき、ステラの体は確かに震えていた。
恐怖か、怒りか、その両方か。
ただひとつ明確だったのは、「このまま黙って殺されるのは、見ていられない」という感情だった。
母を守ったのは、娘としての最後の矜持だった。
だが同時に、ステラは「借り」を作ったとも思っている。
——この借りは、返させる。
騎士団に。
そして、シリウス・ブラックに。
「姉さん……行きましょう」
アルタイルが、小さな声で呼びかける。
彼の手はまだ母の手を握ったままだが、その瞳は出口の方を不安げに見ていた。
これ以上ここに留まれば、何が起こるか分からない——少年なりの勘が働いているのだろう。
ステラは、静かに頷いた。
アランの方に一度だけ視線を向ける。
「……母さん」
声には出さない。
その代わり、ほんの一瞬だけ、さきほどよりも柔らかい光を瞳の底に灯した。
それは、アランだけが気づけるくらいの、ほんの微かな変化だった。
踵を返しながら、ステラは心の中で、もう一度だけ名を呼ぶ。
(シリウス・ブラック)
あなたが、どこまでも優しい場所に立ち続けられるのは、今日で終わりにすべきだ。
愛を名乗る以上、その終着点に立つ覚悟を——いつか必ず、迫ってやる。
そう固く誓いながら、ステラ・ブラックは、騎士団の地下室をあとにした。
