1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
屋敷の朝は、いつだって厳粛で冷たかった。
厚いカーテンの隙間から射すわずかな光さえ、冷えた空気に遮られているように感じられる。
ヴァルブルガ・ブラックは、長年の癖で朝の紅茶を飲みながら姿勢を正していた。
その表情には一分の緩みもない。
背筋を伸ばしたまま、指先でカップの縁を静かに叩く。
その音が、屋敷の静けさの中に小さく響く。
彼女の思考は、息子の名前で満たされていた。
レギュラス――。
生まれた時から完璧な子だった。
手を煩わせることもなく、常に家の名に恥じぬ態度で育ってきた。
反抗という言葉を知らない。
誇り高く、冷静で、正しく、純血の魔法使いとして理想的な跡取りだった。
――その息子が、である。
まるで何かの呪いにかかったように、あの女を屋敷へ連れ込んだのだ。
ヴァルブルガは信じられなかった。
息子が“感情”に動かされるなど、ありえない。
それがたとえ、闇の帝王の命であったとしても。
紅茶のカップを置く音がわずかに強くなった。
「セシール家の娘ですと……?」
かすれた声でそう呟くと、唇の端が歪む。
セシール家――。
かつて“封印の血”と呼ばれ、魔法界の歴史の深層で名を残した一族。
だがその血はとっくに絶えたはずだ。
滅びたはずの家の名を、今さら引き合いに出すなんて。
笑わせてくれる。
途絶えた血の娘を連れ帰り、
その女と血を混ぜ、この家の地位を“より確固たるものにする”などと息子は言う。
馬鹿げているにもほどがある。
あの女――。
地下に閉じ込められていた女だというではないか。
長年闇の中に沈み、血も誇りも泥のように穢された娘。
そんなものを、このブラック家の敷居に上げるだなんて。
思い出すだけで、頭痛がしてくる。
ヴァルブルガは眉間に皺を寄せ、額を指で押さえた。
紅茶の香りも、もう安らぎにはならなかった。
廊下の向こうから、足音が響く。
扉が静かに開き、レギュラスが入ってくる。
その後ろに、あの女が控えていた。
白い肌、翡翠のような瞳――。
見目だけなら確かに美しい。だが、そんなものに価値はない。
見た目など、人は容易く変わる。
大切なのは、血と格式、そして知性と誇りだ。
それがなければ、どれほど美しくとも、ただの飾りにすぎない。
「レギュラス、あの娘は――」
苛立ちを含んだ声でそう言いかけた時、息子が静かに遮った。
「声は出せません。好きで話さないわけではないのです。」
一瞬、時間が止まったように感じた。
まるで息子に言葉を封じられたかのようだった。
ヴァルブルガの唇が震える。
「口もきけないなんて……。」
その言葉は吐き捨てるように漏れた。
「まぁ、雑音のような下品な言葉を並べ立てられるよりはましかもしれませんけれどね。」
冷たい笑いが、部屋の空気をさらに凍らせる。
しかし、レギュラスの表情は微動だにしなかった。
その沈黙が、かえって彼女の神経を逆撫でした。
彼は変わってしまった――。
ヴァルブルガはそう思った。
あの従順で理知的だった息子が、まるで別人のように。
家の名よりも、誇りよりも、女を選ぶなんて。
息子はまるで、彼女の召使いのように振る舞っていた。
食事のたびに世話を焼き、服を選び、歩くときは必ず隣に立つ。
アランが咳をすれば、真っ先に駆け寄る。
そんな姿を見るたび、ヴァルブルガの胸に焦燥と怒りが入り混じる。
「なぜ……」
声に出さず、唇だけが動いた。
どんな時でも、ブラックの名に恥じぬように育ててきた。
誇り高く、他者を導く存在として。
従うことも、弱さも、感情も、全て不要だと教えてきた。
それなのに――
彼は、あの女にひざまずいている。
紅茶の表面に、映り込んだ自分の顔が揺らぐ。
かつて完璧だったはずの家が、いま少しずつ崩れ始めている気がした。
すべては、あの“穢れた女”のせい。
ヴァルブルガは深く息を吸い、吐き出した。
けれど、胸の奥で渦巻く不安は消えなかった。
それは息子の未来への不安ではなく――
母としての“敗北”を予感しているせいだった。
昼下がりの書斎には、柔らかな光が満ちていた。
厚いカーテンの隙間から差し込む陽が、静かにページを照らし、古いインクの匂いが空気に混じる。
アランは机の前に座り、膝の上で杖を握っていた。
その細い指先は、まだ魔法使いの手つきというよりも、何かをそっと慈しむ少女のような繊細さを残している。
レギュラスの書斎――。
その部屋は、アランにとって世界そのものだった。
高くそびえる書棚には、何百冊という本が整然と並び、黒い革の装丁や金の文字が、まるで知識という宝石を守るように光っている。
アランはそのひとつひとつを大切に撫で、読み、学んだ。
魔法学校にはほんの少ししか通えなかった。
入学したのは幼い頃。だが、学ぶよりも早く“封印の血”として目をつけられ、やがて戦いの渦に巻き込まれていった。
友人と笑い合うことも、誰かと恋を語ることも、日常の中で魔法を試すことすら叶わなかった。
だから彼女にとっての「学び」も「青春」も、全てはここから始まった。
――レギュラス・ブラックが教えてくれること。
それが、アランの人生の全てだった。
魔法理論の本を開き、指先で文字をなぞる。
呪文の発音を声に出すことはできない。
けれどアランは、唇を形作り、息を吐く音で代わりに呪文を紡ぐ。
杖先にわずかな光が宿った瞬間、彼女の翡翠の瞳がぱっと輝いた。
「……っ」
声にならない歓喜が唇の奥で震える。
レギュラスに見せたい。
この瞬間を、誰よりも先に彼に見てほしい。
彼女は小さな火花をもう一度生み出してみせた。
杖の先に灯る光が、彼女の頬をやさしく照らす。
それはまるで、地下牢の暗闇を抜け出した証のようにも思えた。
「すごいですね、アラン。」
いつの間にか背後にいたレギュラスの声が、静かに響く。
その穏やかな音に、アランの心が満たされていく。
レギュラスは彼女の隣に膝をつき、光の揺らめきを覗き込んだ。
「とても綺麗ですよ。」
彼の声は、褒めるというよりも、まるで祝福するようだった。
その響きが心の奥まで届いて、胸の内が熱くなる。
アランにとって「好き」という感情は、彼が教えてくれたものだった。
人に心を開くこと。
誰かを想い、触れたいと思うこと。
その全てを教えてくれたのは、この男ただ一人。
ページをめくる音が部屋に響くたびに、アランの中の“知らなかった世界”が一つずつ開かれていく。
本の中に描かれた魔法使いたちの冒険も、友情も、恋も――すべては遠い世界の話ではなく、今ようやく自分の中で芽生えはじめた感情だった。
時々、ふと、思い出す。
父の大きな背中。兄の手。
幼い頃、封印の術を習った時に褒めてくれたあの笑顔。
その記憶は遠く霞み、もう触れることのできない幻のようだった。
けれど――。
杖を持つこの手に、再び温もりが宿っている。
ページをめくるたび、レギュラスの声が優しく重なるたび、
“かつて失ったはずのもの”が少しずつ戻ってくる気がした。
彼は時に、厳しくも優しい教師のようで。
時に、失った父や兄のようでもあり。
そして何より、アランが“生きていたい”と心から思える唯一の存在だった。
レギュラスの指が本を閉じる音がする。
アランが顔を上げると、彼の灰色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。
その眼差しに、彼女は言葉の代わりに微笑んだ。
――ありがとう、レギュラス。
その想いは声にならない。
けれど確かに、彼の胸の奥に届いていた。
書斎の窓の外では、風がページを揺らすように木々の葉を鳴らしていた。
静かな午後の中で、二人だけの世界が、ひっそりと息づいていた。
夜の帳がゆっくりと降り、部屋は静まり返っていた。
レギュラスの寝室には、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。
机の上には医務魔女が調合していった瓶が並び、琥珀色の液体がランプの光を受けて鈍く揺れた。
「アラン、これを飲んでください。」
声はできる限り優しく、けれどその奥には隠しきれない焦りが混じっていた。
彼女は素直に頷き、細い指で瓶を受け取る。
口を開き、少しだけ眉をしかめながら薬を喉に流し込んだ。
苦味が舌に残ったのか、アランの表情がわずかに歪む。
レギュラスはその様子を見つめながら、無意識に拳を握っていた。
排卵を促す魔法薬――医務魔女の説明によれば、体の循環を強め、魔力の流れを整えるという。
それが本当に効くのか、自分には判断できない。
ただ、これが唯一の「進捗」を示せる手段なのだ。
――目に見える成果を。
闇の帝王には誓った。
「セシールの血を継ぐ者を、ブラック家の名の下に残す」と。
それが彼女をこの屋敷に連れ帰る許しの条件であり、同時にレギュラス自身の生存の証明でもあった。
それだけではない。
父には、「闇の帝王の信頼を得ることで、ブラック家の名を確固たるものにする」と説明した。
母には、「この家の未来を守るためだ」と。
納得させるための言葉を、何度も何度も繰り返した。
だが、言葉だけでは何も動かない。
現実に“結果”を見せなければならない。
その重圧が、彼の胸を日ごとに締め付けていた。
アランは薬を飲み終えると、しばらくして身体を震わせるように伏せた。
レギュラスは慌てて駆け寄る。
「アラン、大丈夫ですか?」
返事はない。
ただ、肩が小刻みに震えている。額に手を当てると、ひどく熱い。
「これは……普通なんです?」
焦りを抑えきれず、医務魔女を呼んだ。
診察の結果、医務魔女は落ち着いた声で言った。
「ごく自然の反応です。数日で熱は下がります。」
その言葉に、胸を撫で下ろす。
けれど安堵のすぐあとに、重苦しい不安が押し寄せた。
ベッドに横たわるアランの顔は、痛々しいほど青白い。
まるで、あの地下牢で見た彼女に重なって見えた。
鎖につながれ、光を知らず、力なく横たわっていたあの時の姿が脳裏に焼きついて離れない。
――また、自分は彼女を苦しめているのではないか。
そんな思いが心を締めつける。
愛しているのに、救いたいのに。
彼女の身体に薬を流し込み、命の代償のようにして回復を祈っている。
それが「愛」だと信じていいのか。
椅子をベッドのそばに寄せ、レギュラスはアランの額に濡れた布を乗せた。
「アラン、数日でよくなるそうです。……耐えましょう。」
その声は、彼自身をも励ますように震えていた。
アランは、うっすらと瞼を開く。
焦点の合わない翡翠の瞳が、かすかに光を宿す。
力なく、けれど確かに、彼の言葉に応えるように頷いた。
その小さな動きが、レギュラスの心を突き刺す。
彼女はどんな時も従順で、優しくて、決して拒絶しない。
その優しさをいいことに、自分はまた、彼女を試練に晒しているのではないか――。
唇を噛み、彼は手を伸ばした。
細い指を包み込む。
「大丈夫です。あなたは、もうあの地下には戻らない。」
まるで呪文のように、何度も何度も言い聞かせる。
夜が更けるほどに、部屋の中は静かさを増していく。
ランプの光が揺れ、影が壁をさまよう。
その中で、彼はただ黙ってアランの手を握り続けた。
焦りも、責務も、策略も――
この瞬間だけは、すべてどうでもよかった。
彼の世界の中心は、今このベッドに眠る彼女ただひとりだった。
執務室には静寂が満ちていた。
分厚いカーテンの隙間から薄明かりが差し込み、机の上の羊皮紙に斜めの影を落とす。
魔法法務部の執務官として、レギュラス・ブラックは今日もひとつの事件記録に目を通していた。
インクの匂いと古びた紙のざらつきが、彼の呼吸のたびに空気を震わせる。
報告書の見出しには、黒々とした文字でこう書かれていた。
「マグルによる魔法一族襲撃事件」
その一文を読んだ瞬間、レギュラスの胸に冷たい針が刺さった。
ページをめくるたび、脳裏にあの日の映像がよみがえる。
血と煙、叫び声、そして――セシール家の滅び。
今回の事件も酷く残虐だった。
被害者は、旧家に住む中流貴族の魔法一家。
マグルによる計画的な襲撃で、夜明け前に屋敷へ押し入り、銃と刃物で一家全員を殺害した。
防衛の魔法を張る間もなく、血飛沫が壁を染め、家は炎に包まれた。
記録には「銃痕多数」「切創深度約三インチ」と冷たく記されている。
――血を流させることを、彼らは恐れない。
レギュラスは指先をこめかみに当てた。
マグルたちの手段は、あまりに原始的で、あまりに野蛮だ。
魔法使いなら、息を止めるだけの呪文も、瞬時に命を絶つ呪いも知っている。
けれど、誰も“血の飛ぶ殺し”はしない。
それはどこか、尊厳を奪う行為だからだ。
しかしマグルは、それをためらわない。
古い記録を調べた時も、セシール家の屋敷に残された惨状は同じだった。
壁には銃弾の跡が無数に走り、床一面に血がこびりついていた。
その日、封印の血を継ぐ者たちのほとんどが死んだ。
ただひとり――アラン・セシールを除いて。
レギュラスの胸が微かに軋む。
彼女を想うと、血と鉄の匂いが鼻を掠めるような錯覚に襲われた。
この事件も、あの夜の再現のようだった。
「……有罪。」
その言葉を低く呟き、レギュラスは羽ペンを取った。
書類の端に自分の名を記す――Regulus Arcturus Black。
魔法法務大臣ではない。
だが、ブラック家の名は重い。
彼の署名があれば、有罪の判決はほぼ確定する。
それほどまでに、この世界には“血”が支配していた。
法ではなく、血統が正義を決める。
サインを終えると、レギュラスは深く息を吐いた。
罪を裁くたび、心は少しずつ削れていく。
けれど、これが仕事だ。
彼の使命であり、表向きの“正義”でもあった。
審判が終わり、法廷の扉が開かれる。
石畳の廊下を人々が散り散りに歩いていく。
その中に、一つの影が立っていた。
「……シリウス。」
兄がこちらを見ていた。
長身で、乱れた黒髪を無造作に後ろへ払う仕草――かつて少年だった頃と何も変わらない。
だが、その瞳の奥には、鋭い怒りと軽蔑が燃えていた。
「テメェは……ものを多角的に見ることができねぇんだろうな。」
低く吐き出される言葉。
周囲のざわめきが一瞬遠のいたように感じた。
レギュラスは口を閉ざす。
言い返すつもりはなかった。
兄の言うことなど、わかりきっている。
マグルであろうが魔法族であろうが、命の価値に差などない――
それがシリウス・ブラックの信念だ。
けれど、理想だけで世界は回らない。
レギュラスは、ほんの僅かに頭を下げた。
「どうも」
礼だけを残し、歩き出す。
背中に、兄の視線が突き刺さるのを感じた。
それでも振り返らない。
彼の信念と、自分の選んだ道――
そのあいだには、もう越えられないほどの深い溝が横たわっていた。
廊下の窓から射し込む光が、彼のローブの裾を照らす。
白い光が床に伸びる影を裂くように走った。
血を流さぬ正義を掲げながら、
心の奥では、血で汚れた世界を捨てきれないまま。
レギュラスはただ静かに歩き続けた。
夜明け前の光がまだ差し込まぬ寝室。
アランはベッドの上で小さく身体を丸めていた。
下腹部を締め付けるような痛みが波のように押し寄せ、息を吸うことさえ苦しい。
胸の奥がずしりと重く、喉の奥にこみ上げる吐き気を何度も飲み込んだ。
冷たい汗が背中を伝い、指先まで震える。
まるで、自分の身体が別の誰かのものになったような――そんな不快さに囚われていた。
「……っ」
喉の奥で声にならない息が漏れる。
横になったまま、アランはシーツを握りしめた。
そのとき、不意に下半身にぬるりとした湿り気を感じる。
不安が一瞬で全身を駆け抜けた。
ゆっくりと震える手でシーツをめくる。
――そこには、赤黒く染みた跡が広がっていた。
一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
けれど、次第に記憶の底に沈んでいた遠い日の記憶がよみがえる。
それは、まだ少女だった頃のこと。
あの暗い地下で、初めて血が流れた日のことだった。
誰も教えてくれないまま、ただ冷たい石の床でその痛みと汚れに耐えていた。
母に教えられることもなく、誰かに手当てを受けることもなく、
それが「成長」だということさえ、正確には知らなかった。
――一度だけ、訪れたきりだった。
あの時の赤は、まるで封印の代償のように自分の中で止まってしまった。
そして今、再び流れ始めた。
失われた時間を取り戻すように、
途絶えていた血が静かに、けれど確かに、自分の中で動き出していた。
けれど、身体はその変化に追いつけなかった。
痛みと熱と、理解を超えた感覚。
心がまだ幼いままなのに、身体だけが女に戻ろうとしている。
その乖離が、恐ろしかった。
助けを呼びたい――そう思った。
けれど声は出ない。
唇を動かしても、空気がこぼれるだけだ。
そして目に映ったのは、
レギュラスの整えた寝室――完璧に整頓され、静寂を宿す空間。
白いシーツ、淡いカーテン、香の残る空気。
その美しい世界に、血の色が滲んでいる。
汚してしまった。
彼の世界を。
自分のせいで。
叱られるかもしれない。
軽蔑されるかもしれない。
居場所を失ってしまう――その恐怖で、身体が震えた。
それでも、どうしていいか分からない。
冷たい汗を拭う余裕もなく、アランはよろめきながらベッドを離れた。
ドレスの裾には、赤が滲んでいた。
足を進めるたびに血が滲み、絨毯を汚すのではと怖くなる。
それでも歩いた。
助けてくれるのは、あの人しかいないと信じて。
けれど、出会ってしまったのは――ヴァルブルガだった。
廊下の奥、肖像画の並ぶ壁の下で、
黒いドレスをまとった彼女が立っていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、冷ややかな瞳でアランを見下ろしている。
その視線に、アランの足が止まった。
この人は、自分を拒む人だと知っている。
それでも、縋らずにはいられなかった。
震える手を胸の前で握りしめ、一歩、また一歩と近づく。
「……」
声は出ない。
ただ、助けを乞うように顔を上げた。
ヴァルブルガの眉が、わずかに動いた。
「……うろうろと屋敷を徘徊するのはおやめなさい。」
その声は冷たく鋭く、氷のように突き刺さる。
レギュラスの言葉が脳裏をよぎる――“部屋から出てはいけません”。
約束を破ったのだ。
肖像画の中の先祖たちも、無言でアランを見下ろしている。
誰も味方はいない。
屋敷全体が、彼女を異物として拒んでいた。
アランはその場に膝をついた。
言葉を持たない彼女にできるのは、それしかなかった。
許しを乞うように、額を床に近づける。
しばらくの沈黙。
その沈黙が、痛いほど長く感じられた。
「……部屋にお戻り。」
ヴァルブルガの声が冷ややかに落ちる。
アランは顔を上げない。
ただ、どうか、という思いだけで、
立ち去ろうとしたヴァルブルガの手を取った。
その瞬間、手は乱暴に振り払われた。
「……っ」
叱責の言葉はなくても、“触れるな”という拒絶の意志は痛いほど伝わる。
胸がぎゅっと軋んだ。
けれど、ヴァルブルガの目がふとアランのドレスに向けられる。
赤い染み。
その瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。
ため息が落ちる。
「……医務魔女を呼ぶわ。」
その声には、ほんの少しだけ人間らしい温度があった。
「汚れた血を振り撒かないでちょうだい。」
刺すような言葉。けれど、その冷たさの中に、確かに“助ける”という行動があった。
アランは、涙を流すこともできずに、ただ小さく頷いた。
冷たい床に滲む血の色が、
いつかの過去と、今の痛みをひとつに結んで見せた。
それでも――
あの地下の孤独な夜とは違う。
今度は、誰かが医務魔女を呼んでくれる。
それだけで、かすかな救いの光が胸の奥に差した気がした。
玄関をくぐった瞬間、重たい空気が屋敷の中に漂っているのが分かった。
レギュラスはローブを脱ぎながら、すでに覚悟を決めていた。
この屋敷では、静寂そのものが叱責の前触れだった。
廊下の奥には、医務魔女が控えていた。
その傍らには、腕を組み不機嫌そうに立つ母――ヴァルブルガの姿があった。
彼女の眉間には深い皺が刻まれ、冷ややかな視線がレギュラスを真っ直ぐに射抜く。
「……またあなたの連れてきた娘が騒ぎを起こしたそうね。」
声は低く、それでいて棘があった。
「すみません、母さん。」
レギュラスは穏やかな声で頭を下げた。
形式的な謝罪だと分かっている。
けれど、今の彼にはその一言以外にかけるべき言葉はなかった。
心の中では――むしろ、ほっとしていた。
アランが倒れたわけではない。命に関わるような事態でもない。
ただ、その“事象”が彼女の身体に起こったという事実が、すべてを意味していた。
「……それで、診断は?」
視線を医務魔女に向ける。
年老いた魔女は深く頭を下げてから、淡々と報告を始めた。
「心配なさらずとも大丈夫です。身体が自然に回復へ向かっています。
この期間を過ぎれば、妊娠も可能になるでしょう。」
その一言を聞いた瞬間、
レギュラスの胸の奥に光が差し込んだ気がした。
――やっとだ。
心臓が跳ねた。
思わず息を詰め、無意識のうちに手が拳を握っていた。
長く閉ざされていた扉がようやく開かれた。
セシール家の血――あの封印の力を継ぐことができる。
ブラック家の未来を確固たるものにできる。
そして何より、闇の帝王に“結果”を差し出せる。
あの冷酷な瞳の奥に、わずかでも興味や期待の色を浮かべさせられる。
それができれば、すべてが変わる。
地位も、家の安寧も、アランを守る力も――すべて。
胸の中で、抑えきれない歓喜が湧き上がる。
昼間に抱えていた法務部での重圧も、兄シリウスの視線も、
一瞬で遠くへ霞んでいった。
医務魔女と母への短い礼を告げると、レギュラスはすぐに寝室へ向かった。
重たい扉を開けると、微かな薬草の香りが漂う。
ベッドの上でアランが身を起こし、驚いたようにこちらを見た。
薄いナイトドレスの裾が揺れ、光の下で透けるように白い肌が覗く。
「いいんです、寝ていてください。」
レギュラスは柔らかく微笑んだ。
「医務魔女から聞いています。もう大丈夫ですよ。」
アランは安堵したように肩を下ろし、
枕元の杖を取って空中に文字を描いた。
――ごめんなさい。
その筆跡は、細く震えていた。
おそらく、ヴァルブルガと対面したときのことを謝っているのだろう。
きっと怖かったはずだ。
あの鋭い瞳に射抜かれ、何も言えぬまま立ち尽くしたに違いない。
「いいんです。」
レギュラスは彼女の手から杖をそっと取り上げた。
「何か言われたかもしれませんが、気にすることはありません。
約束したでしょう。僕の言葉だけを信じてください。」
その言葉に、アランは静かに頷いた。
細い首がわずかに揺れ、涙の粒が光を受けて輝く。
レギュラスはその頬に触れた。
手のひらに感じる温度が確かで、柔らかく、
まるで“生”そのものを抱いているようだった。
そして、そっと抱き寄せた。
彼女の身体は軽い。
腕の中で呼吸を感じながら、
レギュラスは目を閉じた。
胸の奥で、いくつもの想いが溶け合う。
愛と欲、救済と打算。
それらがひとつの熱になって、心臓の鼓動を強くした。
「……もう少しです。」
耳元で、囁くように呟く。
この手で彼女を守り抜き、この血を未来へ繋ぐ。
その先に待つのが救いなのか破滅なのか、まだ分からない。
それでも――今はただ、この腕の中にいる彼女だけを信じたかった。
アランの髪に顔を埋める。
ほのかな香りと、静かな鼓動。
それが彼にとって、この世のどんな勲章よりも尊い報酬だった。
レギュラスは、夜の静けさの中でシーツを取り替えながら、ひどく複雑な気持ちを抱えていた。
蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れ、ベッドの上の淡い染みを柔らかく照らしている。
白い布の上に広がる赤は、どこか生々しく、それでいて痛々しいほどに人間らしい色だった。
ホグワーツ時代、貴族の令嬢たちと過ごした時間の中で、
女という生き物の月の巡りを知る機会はいくらでもあった。
その時はただ、教養の一部として軽く受け流していたにすぎない。
貴族の娘たちは皆、母親や侍女に世話をされ、何ひとつ困ることなどなかったからだ。
けれど――今、目の前にいるアランは違う。
何も知らず、何も教えられず、ただひとりで恐れに震えている。
当たり前の生理現象でさえ、彼女にとっては恐怖そのものだった。
レギュラスの胸の奥で、静かに何かが軋む。
彼女が最初に血を流した夜のことを、医務魔女から聞いていた。
あの地下の石の上で、痛みに耐えながら、誰の助けもなく震えていたと。
その事実を思い出すたび、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「……アラン。」
名を呼ぶと、彼女は小さく肩を震わせてこちらを見上げた。
瞳は翡翠のように澄んでいるのに、どこか怯えた色を宿していた。
彼女の細い手が、血のついたドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
まるで自分の存在そのものが罪であるかのように。
レギュラスはその手を取った。
「いいんです。別におかしいことじゃありません。」
言葉はできるだけ柔らかく、静かに。
彼女の不安を鎮めるように、指先でそっと背を撫でた。
アランの唇がかすかに震えた。
噛み締めるようにして、何かを堪えている。
涙こそこぼさないが、その沈黙が悲鳴のように感じられた。
レギュラスは彼女を抱き寄せた。
軽すぎる身体。
腕の中にすっぽりと収まるほど細い肩。
その背中を包み込むと、まるで消えてしまいそうで――怖くなる。
「不安にならなくていいんです。怒ってなんかいません。誰も責めません。」
囁くように言葉を紡ぎながら、彼は自分自身にも言い聞かせていた。
これは恥ではない。
これは彼女が“人間”として戻ってきた証なのだと。
けれど、抱きしめたアランの体からは、微かに血と薬草の匂いが混じり合った香りがした。
それがあまりに生々しく、彼の胸を締めつけた。
どうしてこの女は、こんなにも儚く、痛ましく、美しいのだろう。
レギュラスは、彼女の髪に顔を埋め、息を整えた。
「本当なら、医務魔女に一から十まで教えてもらうべきだった……」
小さく呟いた言葉は、自嘲のように消えていった。
何度も同じことを繰り返している。
新しいシーツに取り替えても、数日経てばまた染みが残る。
そのたびに彼女は申し訳なさそうに俯き、唇を噛みしめた。
痛みに耐えるように、静かに涙をこぼさぬまま。
それを見るたびに、胸が痛くなる。
守ると誓ったのに、彼女はまだ痛みに怯えている。
彼がどんなに抱きしめても、その恐怖は完全には消えない。
それでも――抱きしめるしかなかった。
言葉を持たない彼女に伝えられるのは、体温だけだ。
それがほんの一瞬でも彼女を安心させるのなら、何度でも。
レギュラスは、彼女の額に唇を落とした。
「大丈夫です。僕がいます。」
その言葉に、アランはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で微かに震える呼吸。
その鼓動が、彼女の恐怖をほんの少しでも和らげてくれることを願いながら、
レギュラスはしばらくのあいだ、動くことができなかった。
――ただ、静かに。
彼女を腕の中に閉じ込めるようにして。
暖かなランプの光が、ゆるやかに食卓の銀器を照らしていた。
夜ごと続く食事の時間――かつてのアランには、わずかな口当たりすら苦痛でしかなかったこのひとときが、今では静かに息づく日常の一部になりつつある。
皿の上の肉が、以前よりも少し厚く切られている。それをアランが一つひとつ口に運ぶたび、レギュラスは密かに胸を撫でおろした。
フォークの音がかすかに響く。
以前なら、ひと口食べるたびに眉を寄せ、喉の奥で何かを押し込むようにしていた。
それが今では、ゆっくりながらも最後まで食べきろうとする意思が見える。
彼女の体はまだ細いが、頬の線にはわずかな血色が戻り、肩のあたりにやっと女性らしい柔らかさが戻り始めていた。
――すべてが、頃合いなのだ。
そう思うたび、レギュラスは自分の心の中で静かに呟く。
アランの身体の回復も、医務魔女の診断も、そしてあの夜からの月日の積み重ねも。
けれど、それでも踏み込めないものが胸の奥にあった。
あの夜の記憶――。
彼女の体に触れた瞬間、まるで凍りつくように強張ったアランの反応が、今も焼きついている。
拒絶の意思ではない。だが、恐怖が確かにあった。
それは肉体の記憶、理屈ではなく本能が刻んだ怯え。
彼女の内面はまだ追いついていない。
あの地下で奪われ続けた尊厳と、長い孤独に蝕まれた心は、
容易く癒えるものではないのだと知っている。
だからこそ、焦ってはならない。
抱きたいという欲ではなく、
彼女が心から望んでくれる瞬間まで待たねばならない――そう自分に言い聞かせる。
「アラン、ゆっくりでいいですよ。」
穏やかにそう言うと、アランはわずかに笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも純粋で、痛いほどだった。
ふと、アランがナイフを手に取り、器用に肉を切り分けはじめる。
その仕草が不思議に丁寧で、慎重だ。
切り終えた小さな一片を、レギュラスの皿の上にそっと置く。
――以前、自分がしてやったことだ。
一瞬、胸が熱くなった。
真似をしているのだ。
かつて、何も食べられずにいた彼女に自分がしてやったことを。
今は彼女が、自分に返してくれている。
「嬉しいですけど……」
レギュラスは微笑みながら言葉を続けた。
「しっかり食べてくださいね。あなたの分が減ってしまいます。」
アランは首を振って、ふわりと微笑んだ。
その表情は、ひどく幼い。
まるで褒められた子供のように、無垢な安堵が浮かんでいる。
レギュラスはその微笑みを見つめながら、心の奥に痛みを覚えた。
こんなにも清らかな笑顔を見せてくれる彼女を、
もう二度と怯えさせてはいけない――そう思った。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、アランの横顔に影を落とす。
その光の下で、彼女の頬は柔らかく輝いて見えた。
もう昔のように骨ばっていない。
血の通った“生”が戻ってきている。
レギュラスはフォークを置き、しばし見入った。
この小さな命の灯が、またいつか消えぬように。
そのために自分ができることは――
ただそばにいて、恐怖を癒やし続けることだけだと思った。
そして心の中でそっと呟く。
――焦るな。
彼女の微笑みが、何よりの証なのだから。
書斎の窓辺に、夕陽の赤が細く差し込んでいた。
机の上には開きかけの本が幾重にも重なり、羊皮紙の束と羽根ペンが乱雑に置かれている。
アランはその中央で静かに頁をめくっていた。
彼女の指先は、まるで文字を撫でるように丁寧だった。
魔法史、魔法薬学、古代ルーン語、さらにはマグル学まで――。
どれも厚く、難解な文献ばかりだ。
それでもアランは、言葉の一つひとつを飲み込むように読んでいく。
目を細め、理解した箇所に小さく頷きながら、まるで長い時間失われていた世界を取り戻すように。
時折、杖を取り上げて試すこともある。
ページに書かれた呪文を小さく指先でなぞり、息を合わせて魔力を流す。
火花が弾けることもあれば、何も起きないこともあった。
けれど失敗しても、彼女は焦らない。
そのたびに口元がかすかに緩む。
まるでそれさえも「生きて学ぶ」という証のように思っているかのようだった。
――この集中力は、ホグワーツの教授たちが見たら驚くだろう。
レギュラスは書斎の扉に寄りかかりながら、彼女の背を静かに見つめていた。
柔らかな栗色の髪がランプの光に透け、首筋に淡く光の筋を落としている。
机の上には、いくつもの学術書が積み上げられていた。
『ルーンの起源と構文』『現代魔法薬の理論と生成過程』『マグル社会と魔法世界の歴史的乖離』――どれも重厚な学術書で、通常なら学生が自発的に読むようなものではない。
彼女はまるで飢えを癒すように、それらの知識を吸収していく。
閉ざされていた年月を埋め合わせるように。
一度読み始めると、夜更けまで蝋燭の明かりの下で頁を繰る。
瞳の中に光が宿り、まるで失われた“生”を取り戻していくようだった。
「ホグワーツにいたら、秀才な魔女になっていたかもしれませんね。」
レギュラスの声に、アランは顔を上げた。
その表情には疲れも見えず、むしろ楽しげな光がある。
杖を持ち上げると、空中にいくつかの文字を描いた。
――興味深い本がたくさんあるのだと。
レギュラスは微笑んだ。
「それはよかったです。」
彼女の手元にある杖をそっと取って、サイドテーブルの上に置く。
そして開きっぱなしの本も静かに閉じ、彼女の指から離してやった。
「そろそろ横になりましょう。」
そう言って腕を伸ばし、アランの体を抱き寄せる。
軽い。
それでも以前よりも温かい。
彼女の体には、命のぬくもりが確かに戻ってきていた。
ベッドの上で横たわると、アランはまだ本を見たがっていた。
未練がましくページの方へ目を向けるその仕草が可愛らしくて、レギュラスは微笑を浮かべる。
「続きは明日にしましょう。」
その囁きに、アランは小さく頷いた。
静かな夜。
彼女の息が枕に触れる音を聴きながら、レギュラスはふと想像した。
もし――ホグワーツで出会っていたなら。
図書館で肩を並べて本を読み、
共に箒にまたがり、風を切って飛んだだろうか。
談話室の暖炉の前で、夜更けまで語り合っただろうか。
そんな当たり前の青春の情景を、彼女と過ごせていたなら。
そのどれもが、どれほどに輝かしい記憶になっていたことだろう。
若き日の自分は、何もかもを受け入れるふりをして、
心の空白を埋めようとするように多くの女生徒と関わった。
けれど本当は、誰の瞳にも映らなかった。
満たされない何かをずっと抱えたままだったのだ。
今なら分かる。
あの頃、もしアランがいたなら――
自分はきっと、誰にも目を向けなかっただろう。
彼女の翡翠の瞳ひとつで、世界のすべてを見失うほどに。
レギュラスは静かに彼女の髪を撫で、額に唇を寄せた。
灯りがゆらりと揺れる。
その光の中で、アランの横顔は夢のように美しく、
そして何より、現実の奇跡のように穏やかだった。
闇の帝王の呼び出しは、夜半の冷気を帯びた風のように訪れた。
闇の印が腕に焼けるような痛みを走らせ、レギュラスは黒い外套を翻して屋敷を後にする。
辿り着いたのは、古びた石造りの礼拝堂跡。崩れた天井から冷たい月光が注ぎ、そこに集う黒衣の影たちは一様に沈黙を保っていた。
中央に立つのは、ヴォルデモート。
蛇のような声が、夜の空気を切り裂く。
「……なぜだ。なぜ純血の魔法使いが、アズカバンなどという汚れた牢獄に閉じ込められねばならん?」
その声は静かだったが、底に潜む怒りが全員の胸を締めつけた。
誰も息を吸うことすら恐れ、ただその言葉を待つ。
一人のデスイーターが恐る恐る声を上げた。
「お言葉の通りでございます、我が君。純血の誇りが、マグルごときの法律で裁かれるなど……許されぬことです。」
ヴォルデモートの唇が、にやりと歪む。
「そうか……お前もそう思うか。皆も同じ意見のようだな?」
誰もが同調の気配を漂わせる。
その満足げな笑みに、ぞっとするような静寂が走った。
「よかろう。」
声が冷たく響く。
「ベラトリックス。アズカバンを襲撃し、我が配下を取り戻してこい。どんな手を使っても構わん。」
その瞬間、ベラトリックスの唇に狂気じみた笑みが走る。
蛇のように舌を這わせるような声で答えた。
「この命に代えても、我が君の誇りを汚す者を許しませんわ。」
ヴォルデモートの視線が、次にレギュラスに向けられる。
「レギュラス、お前はその襲撃によって発生する罪を――不問にせよ。」
あまりにも無謀な命令だった。
魔法法務部の職にありながら、国家の監獄であるアズカバン襲撃を「無罪」とするなど、常軌を逸している。
けれど、ここで“できません”という言葉は許されない。
心臓が凍る。喉の奥が乾ききって声が出なかった。
それでも――跪き、頭を垂れる。
「かしこまりました。我が君。」
その声は震えていたが、誰もそれを指摘しなかった。
数日後、報せは雷鳴のように走った。
アズカバン襲撃――夜明け前の一瞬を突いた、血の嵐だった。
数名の看守が命を落とし、複数のデスイーターが奪還された。
当然、魔法省は激震に包まれた。
レギュラスは、その渦の中心で静かに書類を束ねていた。
表面上は冷静を装いながらも、内側では脈が早鐘のように打っている。
――罪を、不問に。
あの言葉が、呪詛のように脳裏で響く。
報告書には「死者」「脱獄」「魔法省の威信失墜」と並び、
重罪として即刻逮捕・死刑に値する行為と明記されていた。
レギュラスは、羽根ペンを静かに走らせた。
「襲撃の記録、及び証拠魔力、破損。」
「犯行時刻不明、天候不良による観測障害。」
「証人全員、記憶混乱。ディメンターの影響によるものと思われる。」
――すべてを、闇に葬るための言葉だった。
さらに、彼は上層部に働きかけた。
ブラック家の名を背景に、いくつかの有力な純血家系に“恩義”を匂わせながら根回しを進める。
「今回の件を公にすれば、純血貴族社会に不信が生まれる。
闇の帝王の配下が捕らえられた事実を掘り返せば、魔法省に報復が来る可能性もある――それを避けるのが最善だ」
恐怖は最も有効な交渉材料だった。
最終的に、アズカバン襲撃事件は「監獄結界の一時的障害による混乱」として処理された。
脱獄者の名も伏せられ、報告書は機密扱いとして封印される。
書類に署名を終えたとき、指先に汗が滲んでいた。
深く息を吸い込み、羽根ペンを置く。
――これでいい。
ヴォルデモートの機嫌を損ねることもなく、
ベラトリックスの狂気を解き放ち、そして“闇”を維持した。
全てを帳消しにするために、自分の信念の欠片すらも削り取った。
その夜、屋敷に戻ったレギュラスは長椅子に腰を下ろし、天井を見上げた。
蝋燭の火が微かに揺れている。
心の奥に残るのは、達成感ではなく、深い疲労と静かな罪悪感だけだった。
――彼女を守るために、また一つ、汚れてしまった。
胸の奥が痛む。
それでも、あの闇の帝王の笑みを思えば、背筋が冷えるほど安堵もした。
危うい綱の上でしか生きられない世界の中で、
自分が守るべき光は――ただひとり、アランだけなのだ。
厚いカーテンの隙間から射すわずかな光さえ、冷えた空気に遮られているように感じられる。
ヴァルブルガ・ブラックは、長年の癖で朝の紅茶を飲みながら姿勢を正していた。
その表情には一分の緩みもない。
背筋を伸ばしたまま、指先でカップの縁を静かに叩く。
その音が、屋敷の静けさの中に小さく響く。
彼女の思考は、息子の名前で満たされていた。
レギュラス――。
生まれた時から完璧な子だった。
手を煩わせることもなく、常に家の名に恥じぬ態度で育ってきた。
反抗という言葉を知らない。
誇り高く、冷静で、正しく、純血の魔法使いとして理想的な跡取りだった。
――その息子が、である。
まるで何かの呪いにかかったように、あの女を屋敷へ連れ込んだのだ。
ヴァルブルガは信じられなかった。
息子が“感情”に動かされるなど、ありえない。
それがたとえ、闇の帝王の命であったとしても。
紅茶のカップを置く音がわずかに強くなった。
「セシール家の娘ですと……?」
かすれた声でそう呟くと、唇の端が歪む。
セシール家――。
かつて“封印の血”と呼ばれ、魔法界の歴史の深層で名を残した一族。
だがその血はとっくに絶えたはずだ。
滅びたはずの家の名を、今さら引き合いに出すなんて。
笑わせてくれる。
途絶えた血の娘を連れ帰り、
その女と血を混ぜ、この家の地位を“より確固たるものにする”などと息子は言う。
馬鹿げているにもほどがある。
あの女――。
地下に閉じ込められていた女だというではないか。
長年闇の中に沈み、血も誇りも泥のように穢された娘。
そんなものを、このブラック家の敷居に上げるだなんて。
思い出すだけで、頭痛がしてくる。
ヴァルブルガは眉間に皺を寄せ、額を指で押さえた。
紅茶の香りも、もう安らぎにはならなかった。
廊下の向こうから、足音が響く。
扉が静かに開き、レギュラスが入ってくる。
その後ろに、あの女が控えていた。
白い肌、翡翠のような瞳――。
見目だけなら確かに美しい。だが、そんなものに価値はない。
見た目など、人は容易く変わる。
大切なのは、血と格式、そして知性と誇りだ。
それがなければ、どれほど美しくとも、ただの飾りにすぎない。
「レギュラス、あの娘は――」
苛立ちを含んだ声でそう言いかけた時、息子が静かに遮った。
「声は出せません。好きで話さないわけではないのです。」
一瞬、時間が止まったように感じた。
まるで息子に言葉を封じられたかのようだった。
ヴァルブルガの唇が震える。
「口もきけないなんて……。」
その言葉は吐き捨てるように漏れた。
「まぁ、雑音のような下品な言葉を並べ立てられるよりはましかもしれませんけれどね。」
冷たい笑いが、部屋の空気をさらに凍らせる。
しかし、レギュラスの表情は微動だにしなかった。
その沈黙が、かえって彼女の神経を逆撫でした。
彼は変わってしまった――。
ヴァルブルガはそう思った。
あの従順で理知的だった息子が、まるで別人のように。
家の名よりも、誇りよりも、女を選ぶなんて。
息子はまるで、彼女の召使いのように振る舞っていた。
食事のたびに世話を焼き、服を選び、歩くときは必ず隣に立つ。
アランが咳をすれば、真っ先に駆け寄る。
そんな姿を見るたび、ヴァルブルガの胸に焦燥と怒りが入り混じる。
「なぜ……」
声に出さず、唇だけが動いた。
どんな時でも、ブラックの名に恥じぬように育ててきた。
誇り高く、他者を導く存在として。
従うことも、弱さも、感情も、全て不要だと教えてきた。
それなのに――
彼は、あの女にひざまずいている。
紅茶の表面に、映り込んだ自分の顔が揺らぐ。
かつて完璧だったはずの家が、いま少しずつ崩れ始めている気がした。
すべては、あの“穢れた女”のせい。
ヴァルブルガは深く息を吸い、吐き出した。
けれど、胸の奥で渦巻く不安は消えなかった。
それは息子の未来への不安ではなく――
母としての“敗北”を予感しているせいだった。
昼下がりの書斎には、柔らかな光が満ちていた。
厚いカーテンの隙間から差し込む陽が、静かにページを照らし、古いインクの匂いが空気に混じる。
アランは机の前に座り、膝の上で杖を握っていた。
その細い指先は、まだ魔法使いの手つきというよりも、何かをそっと慈しむ少女のような繊細さを残している。
レギュラスの書斎――。
その部屋は、アランにとって世界そのものだった。
高くそびえる書棚には、何百冊という本が整然と並び、黒い革の装丁や金の文字が、まるで知識という宝石を守るように光っている。
アランはそのひとつひとつを大切に撫で、読み、学んだ。
魔法学校にはほんの少ししか通えなかった。
入学したのは幼い頃。だが、学ぶよりも早く“封印の血”として目をつけられ、やがて戦いの渦に巻き込まれていった。
友人と笑い合うことも、誰かと恋を語ることも、日常の中で魔法を試すことすら叶わなかった。
だから彼女にとっての「学び」も「青春」も、全てはここから始まった。
――レギュラス・ブラックが教えてくれること。
それが、アランの人生の全てだった。
魔法理論の本を開き、指先で文字をなぞる。
呪文の発音を声に出すことはできない。
けれどアランは、唇を形作り、息を吐く音で代わりに呪文を紡ぐ。
杖先にわずかな光が宿った瞬間、彼女の翡翠の瞳がぱっと輝いた。
「……っ」
声にならない歓喜が唇の奥で震える。
レギュラスに見せたい。
この瞬間を、誰よりも先に彼に見てほしい。
彼女は小さな火花をもう一度生み出してみせた。
杖の先に灯る光が、彼女の頬をやさしく照らす。
それはまるで、地下牢の暗闇を抜け出した証のようにも思えた。
「すごいですね、アラン。」
いつの間にか背後にいたレギュラスの声が、静かに響く。
その穏やかな音に、アランの心が満たされていく。
レギュラスは彼女の隣に膝をつき、光の揺らめきを覗き込んだ。
「とても綺麗ですよ。」
彼の声は、褒めるというよりも、まるで祝福するようだった。
その響きが心の奥まで届いて、胸の内が熱くなる。
アランにとって「好き」という感情は、彼が教えてくれたものだった。
人に心を開くこと。
誰かを想い、触れたいと思うこと。
その全てを教えてくれたのは、この男ただ一人。
ページをめくる音が部屋に響くたびに、アランの中の“知らなかった世界”が一つずつ開かれていく。
本の中に描かれた魔法使いたちの冒険も、友情も、恋も――すべては遠い世界の話ではなく、今ようやく自分の中で芽生えはじめた感情だった。
時々、ふと、思い出す。
父の大きな背中。兄の手。
幼い頃、封印の術を習った時に褒めてくれたあの笑顔。
その記憶は遠く霞み、もう触れることのできない幻のようだった。
けれど――。
杖を持つこの手に、再び温もりが宿っている。
ページをめくるたび、レギュラスの声が優しく重なるたび、
“かつて失ったはずのもの”が少しずつ戻ってくる気がした。
彼は時に、厳しくも優しい教師のようで。
時に、失った父や兄のようでもあり。
そして何より、アランが“生きていたい”と心から思える唯一の存在だった。
レギュラスの指が本を閉じる音がする。
アランが顔を上げると、彼の灰色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。
その眼差しに、彼女は言葉の代わりに微笑んだ。
――ありがとう、レギュラス。
その想いは声にならない。
けれど確かに、彼の胸の奥に届いていた。
書斎の窓の外では、風がページを揺らすように木々の葉を鳴らしていた。
静かな午後の中で、二人だけの世界が、ひっそりと息づいていた。
夜の帳がゆっくりと降り、部屋は静まり返っていた。
レギュラスの寝室には、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。
机の上には医務魔女が調合していった瓶が並び、琥珀色の液体がランプの光を受けて鈍く揺れた。
「アラン、これを飲んでください。」
声はできる限り優しく、けれどその奥には隠しきれない焦りが混じっていた。
彼女は素直に頷き、細い指で瓶を受け取る。
口を開き、少しだけ眉をしかめながら薬を喉に流し込んだ。
苦味が舌に残ったのか、アランの表情がわずかに歪む。
レギュラスはその様子を見つめながら、無意識に拳を握っていた。
排卵を促す魔法薬――医務魔女の説明によれば、体の循環を強め、魔力の流れを整えるという。
それが本当に効くのか、自分には判断できない。
ただ、これが唯一の「進捗」を示せる手段なのだ。
――目に見える成果を。
闇の帝王には誓った。
「セシールの血を継ぐ者を、ブラック家の名の下に残す」と。
それが彼女をこの屋敷に連れ帰る許しの条件であり、同時にレギュラス自身の生存の証明でもあった。
それだけではない。
父には、「闇の帝王の信頼を得ることで、ブラック家の名を確固たるものにする」と説明した。
母には、「この家の未来を守るためだ」と。
納得させるための言葉を、何度も何度も繰り返した。
だが、言葉だけでは何も動かない。
現実に“結果”を見せなければならない。
その重圧が、彼の胸を日ごとに締め付けていた。
アランは薬を飲み終えると、しばらくして身体を震わせるように伏せた。
レギュラスは慌てて駆け寄る。
「アラン、大丈夫ですか?」
返事はない。
ただ、肩が小刻みに震えている。額に手を当てると、ひどく熱い。
「これは……普通なんです?」
焦りを抑えきれず、医務魔女を呼んだ。
診察の結果、医務魔女は落ち着いた声で言った。
「ごく自然の反応です。数日で熱は下がります。」
その言葉に、胸を撫で下ろす。
けれど安堵のすぐあとに、重苦しい不安が押し寄せた。
ベッドに横たわるアランの顔は、痛々しいほど青白い。
まるで、あの地下牢で見た彼女に重なって見えた。
鎖につながれ、光を知らず、力なく横たわっていたあの時の姿が脳裏に焼きついて離れない。
――また、自分は彼女を苦しめているのではないか。
そんな思いが心を締めつける。
愛しているのに、救いたいのに。
彼女の身体に薬を流し込み、命の代償のようにして回復を祈っている。
それが「愛」だと信じていいのか。
椅子をベッドのそばに寄せ、レギュラスはアランの額に濡れた布を乗せた。
「アラン、数日でよくなるそうです。……耐えましょう。」
その声は、彼自身をも励ますように震えていた。
アランは、うっすらと瞼を開く。
焦点の合わない翡翠の瞳が、かすかに光を宿す。
力なく、けれど確かに、彼の言葉に応えるように頷いた。
その小さな動きが、レギュラスの心を突き刺す。
彼女はどんな時も従順で、優しくて、決して拒絶しない。
その優しさをいいことに、自分はまた、彼女を試練に晒しているのではないか――。
唇を噛み、彼は手を伸ばした。
細い指を包み込む。
「大丈夫です。あなたは、もうあの地下には戻らない。」
まるで呪文のように、何度も何度も言い聞かせる。
夜が更けるほどに、部屋の中は静かさを増していく。
ランプの光が揺れ、影が壁をさまよう。
その中で、彼はただ黙ってアランの手を握り続けた。
焦りも、責務も、策略も――
この瞬間だけは、すべてどうでもよかった。
彼の世界の中心は、今このベッドに眠る彼女ただひとりだった。
執務室には静寂が満ちていた。
分厚いカーテンの隙間から薄明かりが差し込み、机の上の羊皮紙に斜めの影を落とす。
魔法法務部の執務官として、レギュラス・ブラックは今日もひとつの事件記録に目を通していた。
インクの匂いと古びた紙のざらつきが、彼の呼吸のたびに空気を震わせる。
報告書の見出しには、黒々とした文字でこう書かれていた。
「マグルによる魔法一族襲撃事件」
その一文を読んだ瞬間、レギュラスの胸に冷たい針が刺さった。
ページをめくるたび、脳裏にあの日の映像がよみがえる。
血と煙、叫び声、そして――セシール家の滅び。
今回の事件も酷く残虐だった。
被害者は、旧家に住む中流貴族の魔法一家。
マグルによる計画的な襲撃で、夜明け前に屋敷へ押し入り、銃と刃物で一家全員を殺害した。
防衛の魔法を張る間もなく、血飛沫が壁を染め、家は炎に包まれた。
記録には「銃痕多数」「切創深度約三インチ」と冷たく記されている。
――血を流させることを、彼らは恐れない。
レギュラスは指先をこめかみに当てた。
マグルたちの手段は、あまりに原始的で、あまりに野蛮だ。
魔法使いなら、息を止めるだけの呪文も、瞬時に命を絶つ呪いも知っている。
けれど、誰も“血の飛ぶ殺し”はしない。
それはどこか、尊厳を奪う行為だからだ。
しかしマグルは、それをためらわない。
古い記録を調べた時も、セシール家の屋敷に残された惨状は同じだった。
壁には銃弾の跡が無数に走り、床一面に血がこびりついていた。
その日、封印の血を継ぐ者たちのほとんどが死んだ。
ただひとり――アラン・セシールを除いて。
レギュラスの胸が微かに軋む。
彼女を想うと、血と鉄の匂いが鼻を掠めるような錯覚に襲われた。
この事件も、あの夜の再現のようだった。
「……有罪。」
その言葉を低く呟き、レギュラスは羽ペンを取った。
書類の端に自分の名を記す――Regulus Arcturus Black。
魔法法務大臣ではない。
だが、ブラック家の名は重い。
彼の署名があれば、有罪の判決はほぼ確定する。
それほどまでに、この世界には“血”が支配していた。
法ではなく、血統が正義を決める。
サインを終えると、レギュラスは深く息を吐いた。
罪を裁くたび、心は少しずつ削れていく。
けれど、これが仕事だ。
彼の使命であり、表向きの“正義”でもあった。
審判が終わり、法廷の扉が開かれる。
石畳の廊下を人々が散り散りに歩いていく。
その中に、一つの影が立っていた。
「……シリウス。」
兄がこちらを見ていた。
長身で、乱れた黒髪を無造作に後ろへ払う仕草――かつて少年だった頃と何も変わらない。
だが、その瞳の奥には、鋭い怒りと軽蔑が燃えていた。
「テメェは……ものを多角的に見ることができねぇんだろうな。」
低く吐き出される言葉。
周囲のざわめきが一瞬遠のいたように感じた。
レギュラスは口を閉ざす。
言い返すつもりはなかった。
兄の言うことなど、わかりきっている。
マグルであろうが魔法族であろうが、命の価値に差などない――
それがシリウス・ブラックの信念だ。
けれど、理想だけで世界は回らない。
レギュラスは、ほんの僅かに頭を下げた。
「どうも」
礼だけを残し、歩き出す。
背中に、兄の視線が突き刺さるのを感じた。
それでも振り返らない。
彼の信念と、自分の選んだ道――
そのあいだには、もう越えられないほどの深い溝が横たわっていた。
廊下の窓から射し込む光が、彼のローブの裾を照らす。
白い光が床に伸びる影を裂くように走った。
血を流さぬ正義を掲げながら、
心の奥では、血で汚れた世界を捨てきれないまま。
レギュラスはただ静かに歩き続けた。
夜明け前の光がまだ差し込まぬ寝室。
アランはベッドの上で小さく身体を丸めていた。
下腹部を締め付けるような痛みが波のように押し寄せ、息を吸うことさえ苦しい。
胸の奥がずしりと重く、喉の奥にこみ上げる吐き気を何度も飲み込んだ。
冷たい汗が背中を伝い、指先まで震える。
まるで、自分の身体が別の誰かのものになったような――そんな不快さに囚われていた。
「……っ」
喉の奥で声にならない息が漏れる。
横になったまま、アランはシーツを握りしめた。
そのとき、不意に下半身にぬるりとした湿り気を感じる。
不安が一瞬で全身を駆け抜けた。
ゆっくりと震える手でシーツをめくる。
――そこには、赤黒く染みた跡が広がっていた。
一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
けれど、次第に記憶の底に沈んでいた遠い日の記憶がよみがえる。
それは、まだ少女だった頃のこと。
あの暗い地下で、初めて血が流れた日のことだった。
誰も教えてくれないまま、ただ冷たい石の床でその痛みと汚れに耐えていた。
母に教えられることもなく、誰かに手当てを受けることもなく、
それが「成長」だということさえ、正確には知らなかった。
――一度だけ、訪れたきりだった。
あの時の赤は、まるで封印の代償のように自分の中で止まってしまった。
そして今、再び流れ始めた。
失われた時間を取り戻すように、
途絶えていた血が静かに、けれど確かに、自分の中で動き出していた。
けれど、身体はその変化に追いつけなかった。
痛みと熱と、理解を超えた感覚。
心がまだ幼いままなのに、身体だけが女に戻ろうとしている。
その乖離が、恐ろしかった。
助けを呼びたい――そう思った。
けれど声は出ない。
唇を動かしても、空気がこぼれるだけだ。
そして目に映ったのは、
レギュラスの整えた寝室――完璧に整頓され、静寂を宿す空間。
白いシーツ、淡いカーテン、香の残る空気。
その美しい世界に、血の色が滲んでいる。
汚してしまった。
彼の世界を。
自分のせいで。
叱られるかもしれない。
軽蔑されるかもしれない。
居場所を失ってしまう――その恐怖で、身体が震えた。
それでも、どうしていいか分からない。
冷たい汗を拭う余裕もなく、アランはよろめきながらベッドを離れた。
ドレスの裾には、赤が滲んでいた。
足を進めるたびに血が滲み、絨毯を汚すのではと怖くなる。
それでも歩いた。
助けてくれるのは、あの人しかいないと信じて。
けれど、出会ってしまったのは――ヴァルブルガだった。
廊下の奥、肖像画の並ぶ壁の下で、
黒いドレスをまとった彼女が立っていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、冷ややかな瞳でアランを見下ろしている。
その視線に、アランの足が止まった。
この人は、自分を拒む人だと知っている。
それでも、縋らずにはいられなかった。
震える手を胸の前で握りしめ、一歩、また一歩と近づく。
「……」
声は出ない。
ただ、助けを乞うように顔を上げた。
ヴァルブルガの眉が、わずかに動いた。
「……うろうろと屋敷を徘徊するのはおやめなさい。」
その声は冷たく鋭く、氷のように突き刺さる。
レギュラスの言葉が脳裏をよぎる――“部屋から出てはいけません”。
約束を破ったのだ。
肖像画の中の先祖たちも、無言でアランを見下ろしている。
誰も味方はいない。
屋敷全体が、彼女を異物として拒んでいた。
アランはその場に膝をついた。
言葉を持たない彼女にできるのは、それしかなかった。
許しを乞うように、額を床に近づける。
しばらくの沈黙。
その沈黙が、痛いほど長く感じられた。
「……部屋にお戻り。」
ヴァルブルガの声が冷ややかに落ちる。
アランは顔を上げない。
ただ、どうか、という思いだけで、
立ち去ろうとしたヴァルブルガの手を取った。
その瞬間、手は乱暴に振り払われた。
「……っ」
叱責の言葉はなくても、“触れるな”という拒絶の意志は痛いほど伝わる。
胸がぎゅっと軋んだ。
けれど、ヴァルブルガの目がふとアランのドレスに向けられる。
赤い染み。
その瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。
ため息が落ちる。
「……医務魔女を呼ぶわ。」
その声には、ほんの少しだけ人間らしい温度があった。
「汚れた血を振り撒かないでちょうだい。」
刺すような言葉。けれど、その冷たさの中に、確かに“助ける”という行動があった。
アランは、涙を流すこともできずに、ただ小さく頷いた。
冷たい床に滲む血の色が、
いつかの過去と、今の痛みをひとつに結んで見せた。
それでも――
あの地下の孤独な夜とは違う。
今度は、誰かが医務魔女を呼んでくれる。
それだけで、かすかな救いの光が胸の奥に差した気がした。
玄関をくぐった瞬間、重たい空気が屋敷の中に漂っているのが分かった。
レギュラスはローブを脱ぎながら、すでに覚悟を決めていた。
この屋敷では、静寂そのものが叱責の前触れだった。
廊下の奥には、医務魔女が控えていた。
その傍らには、腕を組み不機嫌そうに立つ母――ヴァルブルガの姿があった。
彼女の眉間には深い皺が刻まれ、冷ややかな視線がレギュラスを真っ直ぐに射抜く。
「……またあなたの連れてきた娘が騒ぎを起こしたそうね。」
声は低く、それでいて棘があった。
「すみません、母さん。」
レギュラスは穏やかな声で頭を下げた。
形式的な謝罪だと分かっている。
けれど、今の彼にはその一言以外にかけるべき言葉はなかった。
心の中では――むしろ、ほっとしていた。
アランが倒れたわけではない。命に関わるような事態でもない。
ただ、その“事象”が彼女の身体に起こったという事実が、すべてを意味していた。
「……それで、診断は?」
視線を医務魔女に向ける。
年老いた魔女は深く頭を下げてから、淡々と報告を始めた。
「心配なさらずとも大丈夫です。身体が自然に回復へ向かっています。
この期間を過ぎれば、妊娠も可能になるでしょう。」
その一言を聞いた瞬間、
レギュラスの胸の奥に光が差し込んだ気がした。
――やっとだ。
心臓が跳ねた。
思わず息を詰め、無意識のうちに手が拳を握っていた。
長く閉ざされていた扉がようやく開かれた。
セシール家の血――あの封印の力を継ぐことができる。
ブラック家の未来を確固たるものにできる。
そして何より、闇の帝王に“結果”を差し出せる。
あの冷酷な瞳の奥に、わずかでも興味や期待の色を浮かべさせられる。
それができれば、すべてが変わる。
地位も、家の安寧も、アランを守る力も――すべて。
胸の中で、抑えきれない歓喜が湧き上がる。
昼間に抱えていた法務部での重圧も、兄シリウスの視線も、
一瞬で遠くへ霞んでいった。
医務魔女と母への短い礼を告げると、レギュラスはすぐに寝室へ向かった。
重たい扉を開けると、微かな薬草の香りが漂う。
ベッドの上でアランが身を起こし、驚いたようにこちらを見た。
薄いナイトドレスの裾が揺れ、光の下で透けるように白い肌が覗く。
「いいんです、寝ていてください。」
レギュラスは柔らかく微笑んだ。
「医務魔女から聞いています。もう大丈夫ですよ。」
アランは安堵したように肩を下ろし、
枕元の杖を取って空中に文字を描いた。
――ごめんなさい。
その筆跡は、細く震えていた。
おそらく、ヴァルブルガと対面したときのことを謝っているのだろう。
きっと怖かったはずだ。
あの鋭い瞳に射抜かれ、何も言えぬまま立ち尽くしたに違いない。
「いいんです。」
レギュラスは彼女の手から杖をそっと取り上げた。
「何か言われたかもしれませんが、気にすることはありません。
約束したでしょう。僕の言葉だけを信じてください。」
その言葉に、アランは静かに頷いた。
細い首がわずかに揺れ、涙の粒が光を受けて輝く。
レギュラスはその頬に触れた。
手のひらに感じる温度が確かで、柔らかく、
まるで“生”そのものを抱いているようだった。
そして、そっと抱き寄せた。
彼女の身体は軽い。
腕の中で呼吸を感じながら、
レギュラスは目を閉じた。
胸の奥で、いくつもの想いが溶け合う。
愛と欲、救済と打算。
それらがひとつの熱になって、心臓の鼓動を強くした。
「……もう少しです。」
耳元で、囁くように呟く。
この手で彼女を守り抜き、この血を未来へ繋ぐ。
その先に待つのが救いなのか破滅なのか、まだ分からない。
それでも――今はただ、この腕の中にいる彼女だけを信じたかった。
アランの髪に顔を埋める。
ほのかな香りと、静かな鼓動。
それが彼にとって、この世のどんな勲章よりも尊い報酬だった。
レギュラスは、夜の静けさの中でシーツを取り替えながら、ひどく複雑な気持ちを抱えていた。
蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れ、ベッドの上の淡い染みを柔らかく照らしている。
白い布の上に広がる赤は、どこか生々しく、それでいて痛々しいほどに人間らしい色だった。
ホグワーツ時代、貴族の令嬢たちと過ごした時間の中で、
女という生き物の月の巡りを知る機会はいくらでもあった。
その時はただ、教養の一部として軽く受け流していたにすぎない。
貴族の娘たちは皆、母親や侍女に世話をされ、何ひとつ困ることなどなかったからだ。
けれど――今、目の前にいるアランは違う。
何も知らず、何も教えられず、ただひとりで恐れに震えている。
当たり前の生理現象でさえ、彼女にとっては恐怖そのものだった。
レギュラスの胸の奥で、静かに何かが軋む。
彼女が最初に血を流した夜のことを、医務魔女から聞いていた。
あの地下の石の上で、痛みに耐えながら、誰の助けもなく震えていたと。
その事実を思い出すたび、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「……アラン。」
名を呼ぶと、彼女は小さく肩を震わせてこちらを見上げた。
瞳は翡翠のように澄んでいるのに、どこか怯えた色を宿していた。
彼女の細い手が、血のついたドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
まるで自分の存在そのものが罪であるかのように。
レギュラスはその手を取った。
「いいんです。別におかしいことじゃありません。」
言葉はできるだけ柔らかく、静かに。
彼女の不安を鎮めるように、指先でそっと背を撫でた。
アランの唇がかすかに震えた。
噛み締めるようにして、何かを堪えている。
涙こそこぼさないが、その沈黙が悲鳴のように感じられた。
レギュラスは彼女を抱き寄せた。
軽すぎる身体。
腕の中にすっぽりと収まるほど細い肩。
その背中を包み込むと、まるで消えてしまいそうで――怖くなる。
「不安にならなくていいんです。怒ってなんかいません。誰も責めません。」
囁くように言葉を紡ぎながら、彼は自分自身にも言い聞かせていた。
これは恥ではない。
これは彼女が“人間”として戻ってきた証なのだと。
けれど、抱きしめたアランの体からは、微かに血と薬草の匂いが混じり合った香りがした。
それがあまりに生々しく、彼の胸を締めつけた。
どうしてこの女は、こんなにも儚く、痛ましく、美しいのだろう。
レギュラスは、彼女の髪に顔を埋め、息を整えた。
「本当なら、医務魔女に一から十まで教えてもらうべきだった……」
小さく呟いた言葉は、自嘲のように消えていった。
何度も同じことを繰り返している。
新しいシーツに取り替えても、数日経てばまた染みが残る。
そのたびに彼女は申し訳なさそうに俯き、唇を噛みしめた。
痛みに耐えるように、静かに涙をこぼさぬまま。
それを見るたびに、胸が痛くなる。
守ると誓ったのに、彼女はまだ痛みに怯えている。
彼がどんなに抱きしめても、その恐怖は完全には消えない。
それでも――抱きしめるしかなかった。
言葉を持たない彼女に伝えられるのは、体温だけだ。
それがほんの一瞬でも彼女を安心させるのなら、何度でも。
レギュラスは、彼女の額に唇を落とした。
「大丈夫です。僕がいます。」
その言葉に、アランはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で微かに震える呼吸。
その鼓動が、彼女の恐怖をほんの少しでも和らげてくれることを願いながら、
レギュラスはしばらくのあいだ、動くことができなかった。
――ただ、静かに。
彼女を腕の中に閉じ込めるようにして。
暖かなランプの光が、ゆるやかに食卓の銀器を照らしていた。
夜ごと続く食事の時間――かつてのアランには、わずかな口当たりすら苦痛でしかなかったこのひとときが、今では静かに息づく日常の一部になりつつある。
皿の上の肉が、以前よりも少し厚く切られている。それをアランが一つひとつ口に運ぶたび、レギュラスは密かに胸を撫でおろした。
フォークの音がかすかに響く。
以前なら、ひと口食べるたびに眉を寄せ、喉の奥で何かを押し込むようにしていた。
それが今では、ゆっくりながらも最後まで食べきろうとする意思が見える。
彼女の体はまだ細いが、頬の線にはわずかな血色が戻り、肩のあたりにやっと女性らしい柔らかさが戻り始めていた。
――すべてが、頃合いなのだ。
そう思うたび、レギュラスは自分の心の中で静かに呟く。
アランの身体の回復も、医務魔女の診断も、そしてあの夜からの月日の積み重ねも。
けれど、それでも踏み込めないものが胸の奥にあった。
あの夜の記憶――。
彼女の体に触れた瞬間、まるで凍りつくように強張ったアランの反応が、今も焼きついている。
拒絶の意思ではない。だが、恐怖が確かにあった。
それは肉体の記憶、理屈ではなく本能が刻んだ怯え。
彼女の内面はまだ追いついていない。
あの地下で奪われ続けた尊厳と、長い孤独に蝕まれた心は、
容易く癒えるものではないのだと知っている。
だからこそ、焦ってはならない。
抱きたいという欲ではなく、
彼女が心から望んでくれる瞬間まで待たねばならない――そう自分に言い聞かせる。
「アラン、ゆっくりでいいですよ。」
穏やかにそう言うと、アランはわずかに笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも純粋で、痛いほどだった。
ふと、アランがナイフを手に取り、器用に肉を切り分けはじめる。
その仕草が不思議に丁寧で、慎重だ。
切り終えた小さな一片を、レギュラスの皿の上にそっと置く。
――以前、自分がしてやったことだ。
一瞬、胸が熱くなった。
真似をしているのだ。
かつて、何も食べられずにいた彼女に自分がしてやったことを。
今は彼女が、自分に返してくれている。
「嬉しいですけど……」
レギュラスは微笑みながら言葉を続けた。
「しっかり食べてくださいね。あなたの分が減ってしまいます。」
アランは首を振って、ふわりと微笑んだ。
その表情は、ひどく幼い。
まるで褒められた子供のように、無垢な安堵が浮かんでいる。
レギュラスはその微笑みを見つめながら、心の奥に痛みを覚えた。
こんなにも清らかな笑顔を見せてくれる彼女を、
もう二度と怯えさせてはいけない――そう思った。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、アランの横顔に影を落とす。
その光の下で、彼女の頬は柔らかく輝いて見えた。
もう昔のように骨ばっていない。
血の通った“生”が戻ってきている。
レギュラスはフォークを置き、しばし見入った。
この小さな命の灯が、またいつか消えぬように。
そのために自分ができることは――
ただそばにいて、恐怖を癒やし続けることだけだと思った。
そして心の中でそっと呟く。
――焦るな。
彼女の微笑みが、何よりの証なのだから。
書斎の窓辺に、夕陽の赤が細く差し込んでいた。
机の上には開きかけの本が幾重にも重なり、羊皮紙の束と羽根ペンが乱雑に置かれている。
アランはその中央で静かに頁をめくっていた。
彼女の指先は、まるで文字を撫でるように丁寧だった。
魔法史、魔法薬学、古代ルーン語、さらにはマグル学まで――。
どれも厚く、難解な文献ばかりだ。
それでもアランは、言葉の一つひとつを飲み込むように読んでいく。
目を細め、理解した箇所に小さく頷きながら、まるで長い時間失われていた世界を取り戻すように。
時折、杖を取り上げて試すこともある。
ページに書かれた呪文を小さく指先でなぞり、息を合わせて魔力を流す。
火花が弾けることもあれば、何も起きないこともあった。
けれど失敗しても、彼女は焦らない。
そのたびに口元がかすかに緩む。
まるでそれさえも「生きて学ぶ」という証のように思っているかのようだった。
――この集中力は、ホグワーツの教授たちが見たら驚くだろう。
レギュラスは書斎の扉に寄りかかりながら、彼女の背を静かに見つめていた。
柔らかな栗色の髪がランプの光に透け、首筋に淡く光の筋を落としている。
机の上には、いくつもの学術書が積み上げられていた。
『ルーンの起源と構文』『現代魔法薬の理論と生成過程』『マグル社会と魔法世界の歴史的乖離』――どれも重厚な学術書で、通常なら学生が自発的に読むようなものではない。
彼女はまるで飢えを癒すように、それらの知識を吸収していく。
閉ざされていた年月を埋め合わせるように。
一度読み始めると、夜更けまで蝋燭の明かりの下で頁を繰る。
瞳の中に光が宿り、まるで失われた“生”を取り戻していくようだった。
「ホグワーツにいたら、秀才な魔女になっていたかもしれませんね。」
レギュラスの声に、アランは顔を上げた。
その表情には疲れも見えず、むしろ楽しげな光がある。
杖を持ち上げると、空中にいくつかの文字を描いた。
――興味深い本がたくさんあるのだと。
レギュラスは微笑んだ。
「それはよかったです。」
彼女の手元にある杖をそっと取って、サイドテーブルの上に置く。
そして開きっぱなしの本も静かに閉じ、彼女の指から離してやった。
「そろそろ横になりましょう。」
そう言って腕を伸ばし、アランの体を抱き寄せる。
軽い。
それでも以前よりも温かい。
彼女の体には、命のぬくもりが確かに戻ってきていた。
ベッドの上で横たわると、アランはまだ本を見たがっていた。
未練がましくページの方へ目を向けるその仕草が可愛らしくて、レギュラスは微笑を浮かべる。
「続きは明日にしましょう。」
その囁きに、アランは小さく頷いた。
静かな夜。
彼女の息が枕に触れる音を聴きながら、レギュラスはふと想像した。
もし――ホグワーツで出会っていたなら。
図書館で肩を並べて本を読み、
共に箒にまたがり、風を切って飛んだだろうか。
談話室の暖炉の前で、夜更けまで語り合っただろうか。
そんな当たり前の青春の情景を、彼女と過ごせていたなら。
そのどれもが、どれほどに輝かしい記憶になっていたことだろう。
若き日の自分は、何もかもを受け入れるふりをして、
心の空白を埋めようとするように多くの女生徒と関わった。
けれど本当は、誰の瞳にも映らなかった。
満たされない何かをずっと抱えたままだったのだ。
今なら分かる。
あの頃、もしアランがいたなら――
自分はきっと、誰にも目を向けなかっただろう。
彼女の翡翠の瞳ひとつで、世界のすべてを見失うほどに。
レギュラスは静かに彼女の髪を撫で、額に唇を寄せた。
灯りがゆらりと揺れる。
その光の中で、アランの横顔は夢のように美しく、
そして何より、現実の奇跡のように穏やかだった。
闇の帝王の呼び出しは、夜半の冷気を帯びた風のように訪れた。
闇の印が腕に焼けるような痛みを走らせ、レギュラスは黒い外套を翻して屋敷を後にする。
辿り着いたのは、古びた石造りの礼拝堂跡。崩れた天井から冷たい月光が注ぎ、そこに集う黒衣の影たちは一様に沈黙を保っていた。
中央に立つのは、ヴォルデモート。
蛇のような声が、夜の空気を切り裂く。
「……なぜだ。なぜ純血の魔法使いが、アズカバンなどという汚れた牢獄に閉じ込められねばならん?」
その声は静かだったが、底に潜む怒りが全員の胸を締めつけた。
誰も息を吸うことすら恐れ、ただその言葉を待つ。
一人のデスイーターが恐る恐る声を上げた。
「お言葉の通りでございます、我が君。純血の誇りが、マグルごときの法律で裁かれるなど……許されぬことです。」
ヴォルデモートの唇が、にやりと歪む。
「そうか……お前もそう思うか。皆も同じ意見のようだな?」
誰もが同調の気配を漂わせる。
その満足げな笑みに、ぞっとするような静寂が走った。
「よかろう。」
声が冷たく響く。
「ベラトリックス。アズカバンを襲撃し、我が配下を取り戻してこい。どんな手を使っても構わん。」
その瞬間、ベラトリックスの唇に狂気じみた笑みが走る。
蛇のように舌を這わせるような声で答えた。
「この命に代えても、我が君の誇りを汚す者を許しませんわ。」
ヴォルデモートの視線が、次にレギュラスに向けられる。
「レギュラス、お前はその襲撃によって発生する罪を――不問にせよ。」
あまりにも無謀な命令だった。
魔法法務部の職にありながら、国家の監獄であるアズカバン襲撃を「無罪」とするなど、常軌を逸している。
けれど、ここで“できません”という言葉は許されない。
心臓が凍る。喉の奥が乾ききって声が出なかった。
それでも――跪き、頭を垂れる。
「かしこまりました。我が君。」
その声は震えていたが、誰もそれを指摘しなかった。
数日後、報せは雷鳴のように走った。
アズカバン襲撃――夜明け前の一瞬を突いた、血の嵐だった。
数名の看守が命を落とし、複数のデスイーターが奪還された。
当然、魔法省は激震に包まれた。
レギュラスは、その渦の中心で静かに書類を束ねていた。
表面上は冷静を装いながらも、内側では脈が早鐘のように打っている。
――罪を、不問に。
あの言葉が、呪詛のように脳裏で響く。
報告書には「死者」「脱獄」「魔法省の威信失墜」と並び、
重罪として即刻逮捕・死刑に値する行為と明記されていた。
レギュラスは、羽根ペンを静かに走らせた。
「襲撃の記録、及び証拠魔力、破損。」
「犯行時刻不明、天候不良による観測障害。」
「証人全員、記憶混乱。ディメンターの影響によるものと思われる。」
――すべてを、闇に葬るための言葉だった。
さらに、彼は上層部に働きかけた。
ブラック家の名を背景に、いくつかの有力な純血家系に“恩義”を匂わせながら根回しを進める。
「今回の件を公にすれば、純血貴族社会に不信が生まれる。
闇の帝王の配下が捕らえられた事実を掘り返せば、魔法省に報復が来る可能性もある――それを避けるのが最善だ」
恐怖は最も有効な交渉材料だった。
最終的に、アズカバン襲撃事件は「監獄結界の一時的障害による混乱」として処理された。
脱獄者の名も伏せられ、報告書は機密扱いとして封印される。
書類に署名を終えたとき、指先に汗が滲んでいた。
深く息を吸い込み、羽根ペンを置く。
――これでいい。
ヴォルデモートの機嫌を損ねることもなく、
ベラトリックスの狂気を解き放ち、そして“闇”を維持した。
全てを帳消しにするために、自分の信念の欠片すらも削り取った。
その夜、屋敷に戻ったレギュラスは長椅子に腰を下ろし、天井を見上げた。
蝋燭の火が微かに揺れている。
心の奥に残るのは、達成感ではなく、深い疲労と静かな罪悪感だけだった。
――彼女を守るために、また一つ、汚れてしまった。
胸の奥が痛む。
それでも、あの闇の帝王の笑みを思えば、背筋が冷えるほど安堵もした。
危うい綱の上でしか生きられない世界の中で、
自分が守るべき光は――ただひとり、アランだけなのだ。
6/6ページ
